武道のあり方
武道には「ニセの武道」と「真の武道」があります。
人と争うため、人を殺すため、あるいは自己の名誉や利益を追求するために行われているのは「ニセの武道」です。
自己を修め、自己を確立するため、そして社会の悪を除き、乱を治め、福利に貢献するために行うのが「真の武道」です。
武道というのは、いざというときに役立つだけの強さと勇気を身につける技術であると同時に、そうした強さと勇気と行動力を正しく使用でき、社会の幸福と発展のために役立つ人間を養う人づくりの道です。
単に勝つことを目的として、修練された強者のみを育てるなら、これほど有害で無益なものはありません。立派な体格や容貌をしているからといって人格を備えた立派な人とはいえないように、単に強いとか技が優れているからというだけで、真の武道を会得したとはいえません。 −『少林寺拳法副読本』39頁〜42頁より
【開祖の言葉】
これは悪口として聞くなよ。スポーツマンの、あるいは武道家の落ち込む一番の盲点なのだ。拍手かっさい、やいのやいの言うてるのをね、自分が偉くなったような気がするんだよ。世間はそう甘くないよ。勝ってる間はわいわい言うが、負けた途端に英雄ではなくなってしまう。選手の寿命なんてのは、勝ったとたんに追われる立場になるだけで、しかも他で通用するかいうたら、通用せん。 1966年8月 第一次指講 (「あらはん」1982年10月号掲載)
特に勝負に生きると、自分以外を認めちゃいけないのです。先輩も敵です。もちろん、後輩も敵ですね。自分の座を取られりゃせんかと、後輩も敵にする。先輩を引きずり降ろさなんだら、自分も出られない。友達は一人もできない。
だからスポーツ選手は、チームワークを大切にする野球の世界だって、バレーの世界だって、全部が敵の世界なのです。自分以外はみな、敵なのです。ある有名なバレーボール・チームを見てごらんなさい。同じチームの中で、自分が有利になりたいというので試合前、仲間に睡眠薬入りジュースを飲ませたりするような選手が育つのです。 1969年10月 第三次指講(「あらはん」1982年2月号掲載)
−『少林寺拳法副読本』188頁〜189頁より抜粋
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