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本 荘 も の し り
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               地名の由来   長 良 川   史    跡
               公    園    公共施設   人 口 統 計   

 地名の由来
 中世に平田荘の中心であったことによると伝えられ、また「本庄」と書かれたこともあったようです。
 江戸時代前期に本荘村となり、神社は本荘神社・阿賀多神社・八幡神社および神明神社、寺院には、浄土真宗の西福寺・快楽寺・医王寺があります。
 江戸時代後期に鳥屋村と改称されましたが、明治30年に再び本荘村となり、順次発展を遂げ、昭和6年に岐阜市に合併されました。
 当地は、中世より農耕地でした。およそ400年前徳川幕府により本荘村を通る中山道(久保見〜三ツ又〜本荘小学校〜森屋〜合渡)が設置されましたが、宿場がなかったため旅人は、通り過ぎるだけでした。

 長 良 川 

鏡島大橋北詰から上流を望む   鏡島大橋北詰から上流を望む
 岐阜市の中央を金華山沿いに流れる長良川は、源を郡上郡の大日岳(1709m)に発し、山の間や谷を縫い、幾筋もの川をあつめ、桑名あたりで揖斐川と合流し、伊勢湾(全長:152km)へそそいでいます。
 本荘地域では、普段ゆったりと流れていますが、時には怒り狂い氾濫したことが幾度となくありました。
今は、本堤防もでき護岸工事がなされています。天文4年2月14日に起きた洪水で、今の川筋になったといわれています。

○小熊野港と亀の渡し
 小熊野港と亀の渡しは、織田信長が岐阜から鏡島湊への京道をつくり、その両側に米屋・たばこ屋・古手屋・傘屋・鍛冶屋・織物屋・下駄屋および燈油屋を並べ、馬荷がにぎやかに往来するなど、商業が栄えるようにつくったと思われます。18世紀末には、144戸、547人が居住していたといわれています。
 亀の渡しの由来は、市橋の立政寺の開山智通が、洪水の長良川を亀に乗って渡ったということから名づけられたそうです。谷汲山参拝に多く利用され昭和13年ごろまで続けられました。鏡島弘法近くのお紅の渡しは、今も利用されています。
   ○ 小熊野港  ○ 亀の渡し  ○ 燈 篭  ○ 本荘水防倉庫

 史    跡
○旧中山道道標
 一里塚が、中山道をはさんで、北は鳥屋村古瀬和(久保見)に、南は、清村地内(松原)に並んでありました。当時、塚には松が植えられていましたが、台風や落雷などのため昭和初期までに消滅し、現在では少し南に復元されています。
 当時を偲ぶことができる場所として、多羅野八幡神社があります。この宮は、昔盗人が住んでいたことから盗宮ともよばれていたそうです。現在は、旧中山道道標がたっています。


 ○ 本荘神社 ○ 多羅野八幡神社 ○ 鳥屋八幡神社 ○ 森屋神明神社


 ○ 島田神明神社 ○ 豊竹稲荷神社 ○ 熊野神社 ○ 西福寺 

 ○ 快楽寺 ○ 医王寺


     参考資料:「うつりかわる本荘」 岐阜市本荘家庭教育学級編集発行

 公    園

 ○ 本荘公園   ○ 八ツ草公園   ○ 本荘西公園  


          資料提供:岐阜市役所公園整備室

 公 共 施 設
 ○ 本荘保育園  (岐阜市立本荘保育園ホームページへリンク)  

 ○ 岐阜市立本荘小学校 (岐阜市立本荘小学校ホームページへリンク) 

 ○ 岐阜市立本荘中学校 (岐阜市立本荘中学校ホームページへリンク) 

 ○ 県立岐南工業高等学校 (岐阜県立岐南高等学校
                       ホームページへリンク)  

 ○ 岐阜市科学館   (岐阜市科学館ホームページへリンク)           

 ○ 岐阜市民病院   (岐阜市民病院ホームページへリンク)

 ○ 本荘水源地

 ○ 岐阜市中消防団本荘分団

 ○ 本荘水防倉庫 

 人 口 統 計

        ―岐阜市統計書平成24年版より抜粋― 

 ○ 面積・世帯数・人口・人口密度    ○ 年齢別人口
    (国勢調査 3)                (人口 4)

 ○ 人口・世帯数の推移          ○ 町丁別世帯数・人口 
    (人口 6)                   (人口 7)

 ○ 地区別民営事業所数及び従業者数
    (事業所統計 4)
    農業人口と農業就業者及び経営耕地規模別農家数
    (農業 6)
 

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