●尾張国外山から笠松町長池へ
むかしむかし、室町の治世、尾張国外山というところに福證院という草庵がありました。
先の戦、南北に分かれた天子さまの争いで亡くなった祖先の弔いに建った草庵では、庵主自ら、朝にも夕にも作物を育て、開墾に精を出す日暮らしをしておりました。
木曽の古流は気まぐれに耕地や屋敷を流し、民には堤を築くほどの力もなく、庵主は近隣の者たちと、より実りの多い土地を求め、今の笠松町長池という在所に移ることとしました。
ありがたくも石山の本願寺の御坊さまより、阿弥陀様の絵像をいただくこともでき、長池では聖俗ともに安定した暮らしが続くはずでした。
雲行きが変わってきたのは、織田の殿様が長島の願証寺様を攻めてからのこと。なんでも、本願寺の顕如さまから門徒衆へ、織田の殿様に決起するよう、檄文が飛んでるそうな。
どっちを取るかって?
そりゃぁ、穢土の主の織田さまより、仏土の主の本願寺さま。
顕如さまの命に従わねば。
遠く石山まで遠征し合戦に加わりましたが、住持の専正は木津の戦いで戦死します。
坊舎は岩越清九郎重房様の弟君の清三郎さまが坊号法斎坊と名乗ってお守りをすることとなりましたが、一町歩の寺地は文禄の洪水で流失。
洪水の年に法斎坊さまもお亡くなりになり、一時、お寺は捨て置かれてることになりました。
●天領笠松の発展とともに
時が過ぎ、徳川殿の御代になりました。戦乱も終わりを告げ、平和な毎日が戻ってきました。
新時代の国づくりが、至るところで行われています。
一つは、荒れ果てた耕地の復興。
新政権の財政の礎になります。
もう一つは、戦乱で焼けた寺社の復興。
戦国の世に命を落とした人達の霊を鎮め、民衆の心を一つにまとめるためです。
京のみやこに新しく出来た烏丸六条の本願寺、法然さまの知恩院も、徳川殿の威光を京の民に知らせるように威容を誇っていると言われています。
さて、木曽川の流道が東に移り、現在の川筋になった天正の大洪水のあと、新しく開墾された在所がここ笠松です。
幕府の天領となり、幕府の堤方役所が設けられ、笠松にも社寺が興っていきます。
元三ツ屋村の盛泉寺(1615年)、元長池村の法傳寺(1616年)と福證寺(1618年)、宮町の天王宮は、川筋が変わって流亡した土地から移ってきました。
下新町の瑞應寺(1664年)、八幡町の蓮国寺(1697年)、そして八幡宮は、堤方役所とその歴代郡代の繋がりを深めていきました。
笠松に移った当初の福證寺を支えたのは、尾張国外山時代から縁が続く尾張の農家、長池の農家。そして福證寺の本家筋に当たる岩越本家。
特に岩越本家は、織田豊臣徳川の三代に仕えた旗本の津田氏から、美濃十一ケ村の代官を任されることとなります。
津田家の美濃陣屋は長池福證寺旧地のほど近くに設けられ、寺を支える大きな後ろ盾となりました。
福證寺は、美濃国の政治の中心地、また木曽川の水運によって商工業の発展する町笠松の成長とともに、江戸時代の四百年を過ごすことになります。
●明治維新と濃尾震災
明治の御維新では、苗木藩、富山藩などではひどい廃仏毀釈が行われ、三河大浜では死者の出るような騒動も起きました。
笠松で大きな混乱がなかったのは、民衆と寺院が深く結びついていたため。
福證寺では維新の4年前に、賑々しく宗祖六百回忌法要を勤めており、よもやお寺を取り潰すという世論に至るはずもありませんでした。
そんな平和な町「笠松」、そして福證寺を襲ったのは、明治24年の濃尾震災でした。
旧笠松村では、建物の被害率が99%、人口4700人のうち200人が亡くなったといいます。
福證寺も全建物を全焼し、後妻で入寺したばかりの坊守が死亡。とても悲しい現実にさらされます。
明治27年に庫裏が再建されるも、同年のうちに住職の義城師が亡くなり、福證寺の行く末は、三人目の妻として迎えられた「さと」と、義城師の七人の子どものうち、一人寺に残された9歳の「さふ」、そして9歳の娘と仮祝言を結んだ一宮柚木颪の専精寺長男智導師に託されることになりました。
今の時代には想像もつかないことですが、7人子どもがあっても2、3人しか成人できない時代です。
当時の平均寿命は40代前半。貧しく、明日の暮らしも見えない当時の民衆にとって、生きるということは、目の前の現実に必死に抵抗する以外なかったことでしょう。
脆くも失われていく命を前に、お寺で、お内仏で、手を合わせる生活が自然と身についていったものと偲ばれます。
●福證寺本堂の再建と木佛本尊(伝聖徳太子作)のお迎え
庫裏御堂にて、明治35年、蓮如上人400回忌法要が勤められました。「さふ」は17歳。智導師は33歳。2年後には長男も誕生し、いよいよ本堂再建に向けて動き始めます。
明治42年10月、本堂再建の「檀家総集会」開催。
明治43年1月、6千円にて本堂再建工事契約。
順調に進んでいく工事と裏腹に、門徒衆の経済は思うとおりにはいきません。
大正元年に本堂は一応の落慶を見ますが、門徒未納分約2千円について銀行から借り入れ、さらに門徒総代と住職が借財を頼んで回った様子が伺えます。
借財の整理がようやく済んだ大正6年。
第一次世界大戦による大正バブルと呼ばれた工業生産の拡大期を迎え、内陣荘厳、仏具、本堂浜縁など、中途になっていた工事を再開することができました。
濃尾震災で失われていた木佛本尊も、前住職義城師の実家である関ヶ原町野寺の真念寺から秘仏をお迎えできることになり、いよいよお披露目となる宗祖650回御遠忌の準備が整います。
大正7年の法要は、本堂落慶と秘仏入仏によって、とても賑やかなお勤めになったことでしょう。
濃尾震災から27年。
笠松の街も、福證寺も、ようやく震災の不幸を乗り越え、新生活を手にすることができたのです。
福證寺は往古天台宗にて永享年間(一四三〇年頃)可円比丘により尾州中島郡祖父江庄に創設せられ、享禄元年(一五二八年)長池村に四世専順留錫し一宇を建立する。
天文四年(一五三五年)本願寺證如上人の化導により真宗改宗。
文禄四年(一五九五年)の木曽川洪水による堂舎流出のため、元和四年(一六一八年)西門間庄笠松村の現地に移る。
万治二年(一六五九年)建立の本堂は明治二四年(一八九一年)十月二八日濃尾震災により悉く皆焼尽せり。山内一草をもとどめず。明治二七年(一八九四年)庫裏先ず仮御堂として再建せられ、大正元年(一九二二年)十七世智導代、門徒懇念を結集し本堂再建を果たし、入佛落慶する。