小話集の書庫にようこそ
(小話161)から(小話180)はこちらへ
(小話201)から(小話220)はこちらへ
(小話200)「能楽「隅田川」」の話・・・
神隠しで、突然いなくなった子供を探し求めて、京から一人の女が江戸にきて、隅田川の渡し舟に乗った。川の中ほどまで来ると、向こう岸に人が多く集まって、念仏を唱えているのが見えた。船頭が女にことの事情を話した。「一年前の今日、人買いに連れられた子供が行き倒れて、置き去りにされ、村人の介護もむなしく亡くなってしまった。その一周忌だと言う。子供は今際(いまわ)の際に残した自分の素性は京北白河の吉田の倅・・・」と。舟は岸に着いたが女は降りなかった。よく見ると泣いているではないか。なんと優しい心根かと船頭は思ったが、そうではなかった。女は子供の素性をもう一度、船頭にたしかめた。そして、女が母で、去年亡くなった子供が女の神隠しにあった子供だわかった。女は船頭に弔(とむら)いの道具を借りると、我が子が葬られている柳の下の小さな丘に行き、村人と一緒に念仏を唱えた。
(小話199)「古い羊の皮」の話・・・
童話より。ある男には、年老いた父親がいたのだが、ある日、男は召使に言った。「いつも咳(せき)をして痰(たん)ばかり吐いているこの汚らしい年寄りは、我らの悩みの種だ。古い羊の皮にくるんでいって、遠くへ 棄ててしまおう」棄てられた年老いた父親は、他に着るものも、暖まるものも何も無かったので、すぐに凍えて死んでしまった。羊の皮を持って帰ると、男の子供、つまり、死んだ父親の孫にあたる小さな男の子が、その古い羊の皮を手に取って、大切に壁にかけた。父親が不審に思って、その羊の皮をどうするつもりかと子供に尋ねると、子供は答えた。「お父さんが年老いた時のために、大切に取っておくのです」
(小話198)「巡査大明神」の話・・・
           (一)
日清戦争後の明治の頃の話。二十五歳の増田敬太郎は、佐賀県の高串(たかくし)地区に新任の駐在巡査として赴任(ふにん)した。当時の日本は伝染病であるコレラが各地で流行していたが、この年は恐ろしいほどの広がりを見せた年で、佐賀県の高串(たかくし)地区も例外ではなく、コレラが猛威(もうい)を振るっていた。増田巡査はすぐに区長たちとコレラ対策を立てた。高串地区の人々は、病気に対する恐怖を抱いていたもののコレラという伝染病の知識はあまり持っていなかった。そのため増田巡査は患者の家の消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止した。また、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導して回った。しかし、手遅れの患者が薬を飲んで死んだのをみて「毒薬を飲ませている」というわさが広まった。このうわさによって、治ると思われる患者まで「この薬は毒薬だから飲まない」と言い出した。増田巡査は村中を回り、根気強く人々の誤解を解いていった。また、病気が感染することを恐れて村人がコレラで亡くなった人の遺体を運ぶことを拒(こば)むようになっても、増田巡査はたった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬した。
           (二)
しかし、患者への看病や予防活動に不眠不休で取り組む増田巡査の疲れも極限に達していた。コレラは増田巡査の体にも容赦(ようしゃ)なく襲(おそ)いかかり、高串に赴任して三日目の午後、とうとう倒れてしまった。「このようになっては、回復の見込みはないと覚悟しています。しかし、高串のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。また、村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」 死の間際(まぎわ)にこう遺言し、増田巡査はついに帰らぬ人となった。増田巡査の遺体は翌日、高串沖で村人により火葬(かそう)にされた。増田巡査が警察官になって七日目、高串に来てわずか四日目のできごとであった。その後、増田巡査の言葉どおりコレラが収まり、村にはまた穏やかな平和な日々が戻ってきた。増田巡査の献身的な行為に心を打たれた村人は、巡査の遺骨を分けてもらい、秋葉神社の境内に埋葬して石碑を建立した。これが後に増田神社となった。
(小話197)ある「お爺さんと息子と孫」の話・・・
昔のこと。大変年を取ったお爺さんがいた。お爺さんは、目はかすみ、耳は遠くなり、手が震え、食事の時にも満足にスプーンを持つこともできずに、スープをテーブルクロスにこぼしたり、口からこぼしたりするほどであった。お爺さんの息子とその妻は、これにうんざりして、とうとう、年老いたお爺さんを部屋の隅っこに座らせて、粗末なお皿に、こぼしたりしないように少しの食べ物しか与えないようにした。お爺さんは、目に涙をいっぱいためて、テーブルを眺めていた。ある時、お爺さんの震える手は、皿を持っていることが出来ずに、皿は床に落ちて割れてしまった。若い妻はお爺さんを叱りつけたが、お爺さんは何も言わずに、溜息をつくばかりであった。それから、息子夫婦はお爺さんに、木の皿を買い与え、お爺さんはそれで食べなければならなくなった。ある日のこと、こんな風に皆が座っていると、4歳になる小さな子供が、床の上に木片を集めはじめた「そこでなにをしているの?」と父親が尋ねると、子供は「僕はこれで小さなお鉢を作っているんだよ。僕が大きくなったら、お父さんとお母さんに、これで食べさせてあげる」夫婦は、互いに顔を見合わせていたが、ついに泣き出してしまった。そして、年老いたお爺さんをテーブルにつれて来ると、それからは、いつでも皆と一緒に食べるようになり、お爺さんが少しくらいこぼしても、息子夫婦は何も言わなくなった。
(小話195〜196)「第1回大会のマラソンの話」の話・・・
ギリシャでの第1回大会のマラソンの話。レースには、5ヶ国25名の選手が参加した。参加の動機は、足に自信のある者、好奇心につられた者などさまざまで、誰も専門の訓練はしていなかった。又、当時の五輪は女性は禁止で、男子であれば、誰もが参加することができた。この頃のコースは、40kmで、そんな中、最初にゴールのテープを切ったのは、地元ギリシャのルイスという青年だった。貧しい農民だったルイスは週に2度、地元の水を載せたロバを引いて12キロ離れたアテネに運んでいた。過酷な労働で強靭な足腰がつくられた。彼はその頃、名家の娘と恋に落ちていた。だが、家柄の違う2人の恋は、猛烈な反対にあっていた。そこで、彼はマラソンに優勝して結婚を認めてもらおうと思ったのである。レース前日、ルイスは断食を行い、神に祈りを捧げた。そして、走っている最中には途中、恋人から半分に切ったオレンジを、結婚を許していなかったその父からは一杯のワインを受け取った。結婚を確信したルイスは、ゴールを目指してひた走ったという。スタートから2時間58分20秒。ルイスは先頭でゴールに飛び込んだのだった。開催国のギリシャでは、彼に大きな賛辞が送られ、一生涯、無料散髪券、靴磨き券、料理1年分の申し出などが続出したという。だが、ルイスは馬を1頭貰っただけで、あとは全て断ったという。彼にとっては、結婚という最大のプレゼントを勝ち取れただけで満足であったのである。
(小話194)有名な「バビロン(バベル)の塔」の話・・・
バベルとは、ノアの息子の一人ハムの子孫が建てた都市で、その頃は、 世界中はみな同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、メソポタミア地方に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは、「レンガを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにレンガを、そして、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼ら(バベルの人々)は、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名(名を上げる)になろう。そして、全世界に散らされることのないようにしよう」と言った。 神は降りて来て、人の子らが建てた、塔のあるこのバベルの町を見て、 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」 こうして神は彼らを、その地から全世界に散らされた。そのため、バベルの塔の建設はできなくなってしまった。そして、ノアたち一家族から出た人々は、この時から、多くの言葉をもつ人々に別れていった。
(小話193)「この世は弱肉強食」の話・・・
建長寺派元管長・菅原時保老師は書の名人であった。見事な書を多く残されている。ある時、亡くなるその年の絶筆ともいうべき墨跡が、ある和尚の手元にあった。それには「千古不易、弱肉強食、優勝劣敗、生者必滅、会者定離」と書かれていた。和尚は次のように説明した。「偉大な禅僧の最後に書かれたこの言葉が、なんとも、肌に寒けの粟が立つような言葉であったが、「生者必滅、会者定離」とは、生きるものは必ず滅す、お互いに巡りあったものはまたいつか離れねばならん、ということである。また、「弱肉強食、優勝劣敗」というこの言葉は、この世の法則(ルール)。これが人間に課せられた大きな宿命であり、こればかりは変えようとしても、何年経っても変えられないものだから、そこで千古不易と書かれた」と。
(小話192)ある「恐ろしい地獄」の話・・・
生きているあいだ、非道で悪行の限りをつくし、女をくいものにしていた一人の男が、死んでから、亡者となってあちこちとさ迷った末に一つの地獄の城門に入っていった。この地獄では、高い木の上で麗しく装った絶世の美人が、あでやかな眼差しを亡者に投げかけていた。亡者は胸をときめかせて夢中でその木を登り始める。すると木の葉がみるみる鋭い刀に変わって亡者の身体を切り裂いた。それでも亡者は欲望に駆られて懸命に頂上まで登りつめようとするが、美人は何時の間にか木の下に立って手招きをしているのである。亡者は急いで今度は降り始めまるが、瞬間、木の葉はカミソリのような鋭い刀になって一斉に上を向き、亡者の身体を八つ裂きに切り裂いた。こうして亡者はボロボロになりながらも下まで降りて行く。でも、気がつくと絶世の美人はまたもや木の上にいる。亡者は慌ててまた登り始めまる。この地獄は、これを果てしなく繰り返す無限地獄であった。
(小話191)ある「寺をもたなかった和尚」の話・・・
明治、大正の頃の話。北鎌倉の円覚寺に偉い和尚さんがいて、その弟子の中の特にすぐれた一人に向かって、「お前さんはな、一生寺をもつなよ! 寺をもつと檀家の者が寄ってたかって、お前さんを馬鹿者にしてしまうから」といい渡した。普通なら、和尚は寺の住職になることを念願しているが、すべてが必ずしもそうではない。お寺というところは和尚を馬鹿者にしてしまうことがある。法事に出席すると、先ずは和尚は床の間にすえられて、贅沢な精進料理を供されて「まあまあ、寒いですからちょっと一杯」と酒をすすめられる。「いや、私は酒を慎んでおりますので」というと、「まあまあ、そんな固いことをいわないで。そこはそれそれ、般若湯というではありませんか」などと、無理やり酒を飲まされて、酔わせて、帰りには土産に饅頭もたせ、小遣いまでもたせて車で送られて帰る。こんな日の連続では、いいかげん、和尚も馬鹿になる。これじゃ全くたまらない。いかに金城湯池といえども、酒池肉林につかれば人間、みな腑抜け、腰抜けになる。そうなっては人間もうおしまいだ。その点、このお弟子さんは偉かった。高弟でありながら一生寺をもたなかった。そして東奔西走し、師の命(めい)に従って、遠くロスアンゼルスまで行って坐禅の道場を開いたりした。晩年は東京において「両忘会」(生死を忘れる会)という坐禅の会を組織して、一般在家の修養に努力されたという。
(小話190)ある「唐糸くず」の話・・・
江戸時代の話。ある殿様が、江戸城に行こうと自分の居間から廊下に出た時、磨かれた廊下に何かが落ちていた。拾ってみると三十センチほどの唐糸であった。後に控えていた家来たちは、「廊下の掃除が行き届かぬぞ」と叱られるかとビクビクしていたが、殿様は怒った様子もなく、そのまま後を振り返って「大野はいるか」と呼んだ。呼ばれた大野という家臣は、殿様のお側付きの家来であった。「これをお前に預けるから、粗末にしないでしまっておいてくれ」そう言って唐糸のくずを家臣に渡して、江戸城に出かけて行った。それを見ていた他の家来たちは、「大役をいいつかったな」「お前にちょうどあった役だぞ。殿様もケチな方だな」と笑って口々に言い合った。大野という家臣は唐糸くずを大切に腰巾着に入れ、寝る時も枕の側に置いていた。それから二年ほど過ぎたある日のこと。城内の殿様のお側にいたとき、突然、「大野、これへまいれ」「はっ、何のご用でございますか」「二年ほど前、お前に唐糸くずを預けておいたと思うが」「はい、お預かりの品、ここにございます」と家臣は、すぐに腰巾着から唐糸くずを取り出して、殿様に差し出した。「うん」殿様は頷いて受け取ると、そに唐糸くずで脇差のさげおを繕った。「皆の者よく聞け。この唐糸は遠く唐(中国)を経て、多くの人の手を通し伝わった貴重なものだ。今、この糸で脇差のさげおを繕うことが出来たし、ワシは立派な心がけをもった侍を見つけることが出来た」と言って大野という家臣に、三百石の加増を褒美として与えたという。
(小話189)「達磨安心」の話・・・
達磨大師が中国の少林寺にたてこもり、毎日毎日、壁に向かって坐禅ばかりしているときのこと。ある寒い冬の夜、一人の和尚がたずねてきた。骨にしみいるほどの雪の夜であったが、大師は和尚に入室を許さなかった。和尚は夜を徹して雪中に立っておそるおそる達磨大師にたずねた。「私は一介の修行僧でございます。永年修行を致しておりますが、いまだ火に入って焼けず、水に入っておぽれざる底の真の安心を得ておりません。何とか私のために大安心を与えてください」と、涙ながらに懇願した。それでも達磨は、「いいから早く帰れ」といって一切とりあってくれない。和尚はついに思いあまって左の肘(ひじ)を断ち切って、それを達磨にさしだして自分の真剣さを訴えた。すると達磨は、おもむろに「お前さん、それではお前さんの不安心というその心をもってきて、見せてごらんなさい」といった。和尚は弱った。いくら苦悶してもわからない。いくら探しても見つからない。思いあまって、「心を求むるに得られません。心がありません。心がありません」と、泣きながら答えた。その様子を見ていた達磨大師はいった。「不安の心がどこにも無いということが本当にわかったら、それで全く安心じゃないか」と。これで悟りを得た、この和尚は、後の二祖慧可(えか)大師である。
(小話188)ある「大きな古時計」の話・・・
ある日、「大きな古時計」の曲を作ったアメリカの作曲家、ワークは、イギリスのホテルに泊まった。そのホテルのロビーには、止まったままの大きな古時計が置かれていた。疑問に思った、ワークはホテルの主人に聞いてみると、その古時計にまつわる話をしてくれた。「あの時計は、もともとそのホテルを経営していたジェンキンズ兄弟のもので、お兄さんの生まれた日に購入され、ホテルのロビーにずっと置かれて正確に時を刻んでいたそうです。しかし、弟さんがある日病気で亡くなってしまうと、それまで正確に時を刻んでいた時計が、急に遅れるようになったのです。そして、お兄さんも、弟さんの死から1年ほどたった頃、後を追うかのように亡くなったのです。すると、不思議なことに、時計はピックとも動かなくなったです。そして、さらに不思議なことに、翌日、その時計が指している11:05を見て、みんなはさらにビックリしたのです。それは、まさにお兄さんが亡くなったその時刻だったのです」
(小話187)ある「心を澄ますと琴の引き方」の話・・・
     (その一)
中国の唐の時代に、ある有名な禅僧がいた。その禅僧が若いころの話である。一生懸命に修行しても何ら得るところが無く、悟りの手がかりさえもつかめなかった。思いあまって、師匠に質問をした。「私は、一心(いっしん)に修行しているつもりですが、いっこうに何の手がかりも得られません。いったい、禅というものは何処から入ったらいいのでしょうか」すると師匠は、「あの谷川の音が聞こえるか」と逆に質問してきた。近くには川が流れていた。「はい、よく聞こえています」「では、そこから入りなさい」
     (その二)
ある日、お釈迦さまの弟子の一人があまり修行に一生懸命すぎて、つかれてしまって、かえって心も暗くなり悲しい思いになっていた。お釈迦様が彼に問いかけた「お前は家にありしとき、何の業(わざ)をなせりや」答えて日く「琴を弾いておりました」お釈迦さま日く「弦がゆるいときはどうか」「鳴りません」「弦を強くしめるとどうなろうか」「声がなくなってしまいます。緩急よろしきときは、どのような音でも気持よくならすことができます」お釈迦さまは「道を学ぷのもまたそうである。心がそれによくかなうように調(ととの)えられれば道を得ることが出来る。心が荒れていては身がつかれてしまう。身がつかれていては、心にも悩みを覚え、行も進まず、行いが退くときは罪が加わるものである。心も身も清浄で、調和がとれて平安であってこそ、正しい道を失わずに気持よく進んで行くことができるものだ」と言って諭(さと)したという。
(小話186)ある「魚の絵」の話・・・
ある町の中学校で、生徒たちが待ちうけている教室に、その中学を卒業した有名な絵画の先生が現れた。生徒たちは、どんな話をするのか、と先生の顔をみつめた。ところが、先生は、いきなり「みんな魚って知ってるよね」と声をかけた。生徒たちは「そりゃ、魚ぐらい知っているよ」と返事をした。すると先生は「今から、魚の絵を描いてもらいます」と言った。みんなは一枚の紙に魚の絵を描いた。先生は、みんなが描いた絵を生徒の方に向けて言った。「どれもこれも顔が左で尾が右で、全く同じ魚だね」みな全く図鑑に出ている写真とそっくりな、まるでタイ焼きみたいな魚の絵であった。先生は次の時間、みんなを校庭に集めて、そのまま、歩いて川や池に連れて行き、そして実際、何匹も魚を捕まえて、それをバケツの中に入れ、学校に持ち帰って水槽の中に入れた。みんなは魚をじかに見た。次の時間、先生は再び「みんな、もう一度魚の絵を描いて下さい」と言った。みんなは魚の絵を描いた。生きた魚をみたあとの今度の絵は前の絵とは全く違っていた。体がくねっていたり、うろこがギラギラしていたり、目玉だけが、自分の方に向いていたりして、まるでピチピチ跳ねているような魚の絵ばかりであった。
(小話185)「三つのなぞ」の話・・・
昔むかし、美しいお姫さまがいた。お姫さまの出す三つのなぞを解いた者は、お姫さまのおむこさんになれるということである。この話を聞くと、世界のすみずみから、王子たちや若者たちが、次々とやってきた。けれども、誰ひとりなぞを解いた者はなかった。そして、なぞの解けなかった者は孤島の牢に一生閉じこめられた。王子たちや若者たちで孤島の牢が一杯になるころ、ある一人の立派な王子が、お姫さまのところにやってきた。そして、王子はお姫さまにたずねた「お姫さま、どんな問題でじょうか?」お姫さまは言った「全世界をつつんでいて、しかもだれにも似ていないものは何ですか?」「それは太陽です。太陽は全世界をつつんでいて、しかも太陽に似ているものはありません」すると、周りにいた学者たちがさけんだ「あたった、あたった。そのとおりだ」「お姫さま、つぎの問題は何ですか?」と王子はたずねた。「自分の小さな子どもをやしなって、大きな子どもを呑みこむお母さんはだれですか?」「海です、海は河を呑みこんでいますから。それで、お姫さま、つぎの問題は!」「半分は黒、半分は白の葉をつけている木は何ですか?」王子は答えた「それは夜と昼をもった年です」これを聞くと、学者たちは「なぞを解いたぞ」と言い合った。そして王子はお姫さまをお妃にむかえて、二人はしあわせに暮らしたという。
(小話185)「二匹のネズミと二人の小人」の話・・・
二匹のネズミと二人の小人は迷路の中に住んでいた。そして、迷路の中を歩きまわってはチーズを見つけて食べていた。ある日、彼らは巨大なチーズを発見した。一生かかっても食べきれない程のチーズである。それからは、彼らは毎朝そのチーズの所へ直行するようになった。やがて二人の小人はチーズの傍に住み着いた。二匹のネズミの方は相変わらず毎朝やって来ては、チーズやその周辺を注意深く警戒し、チーズを食べる時はいつでも逃げ出せる用意をしていた。そして、ある日のこと、チーズが突然なくなってしまった。彼らは驚いてあたりを探したがチーズはどこにも無かった。二匹のネズミはチーズが無くなったことを納得すると、すぐに新しいチーズを求めて新たな迷路に出発した。そして、あちこちと未知の迷路を探検し、ついには新たなチーズの山を見つけることができた。一方、二人の小人はネズミのようには考えなかった。そのため、その場所を離れなかった。「なぜチーズは無くなったのか」「誰の責任なのか」「どうして我々はこんな目に遭うのか」などと二人は議論して尽きなかった。そして、またここにチーズが現れるかもしれない、新しい迷路は危険だし、ここが我々の居場所なのだ、などと言って動こうとはしかった。しかし、チーズが無いので彼らはどんどんやせ衰えていった。ついにたまりかねた一人の小人が、その場所に見切りをつけ新たな迷路に挑戦した。彼は不安にかられながらも一人で迷路を突き進み、新しいチーズのある場所にたどり着くことができた。ところがひとり残った小人は、相変わらずその場所を動こうとしなかった。そして、ついにはやせ衰えて死んでしまった。
(小話184)有名な「四門出遊」の話・・・
シッダッタ太子(後のお釈迦さま)は七歳の時から文武の道を学んだ。春祭りに、父王に従って田園に出、農夫のたがやすさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、「あわれ、生きものは互いに殺しあう」とつぶやいた。生まれて間もなく母に死に別れ、今また生きもの殺しあう有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。それは、日とともに次第に大きくなり、太子をますます暗い思いに沈ませた。父王はこの有様を見て大いに憂い、太子の心を引き立てようと、太子十九歳のとき、ヤショーダラーを迎えて妃に定めた。そしてさらに、父王は夏・冬・雨季の三つの宮殿をつくり、美しい侍女たちをあつめ、毎日毎日、歌や踊りや御馳走で、太子の心を浮き立たせようとした。しかし何をしても太子の心は晴れず駄目であった。ある日、太子は、お共をつれてピクニックに出かけた。はじめ東門から出たとき、しわだらけの老人に出会い、次に南門から出たときは、道ばたで苦しむ病人を見、西門から出たときは悲しみにつつまれた葬列に逢って、その場から引きかえした。最後に北門から出たとき、質素だが気高く堂々とした求道者に出あった。「これこそ本当の幸福を知っている人ではないか」と思い、このとき以来、太子は出家を夢みるようになった。二十九歳の年、一子が生まれたが、太子はついに出家の決心をした。太子は御者を伴い、白馬にまたがって、住みなれた宮殿を出て行っ た。そして、この俗世界とのつながりを断ち切って出家の身となったのである。
(小話183)「子羊はオオカミの餌」の話・・・
童話より。子羊が川のほとりでオオカミに出合った。オオカミが言った「お前はけしからん奴だ。わしが飲もうとする水を濁してしまったではないか」「オオカミさん、それはとんでも無い言いがかりです。私は川下にいるのにどうして水を濁すことが出来ましょう」「半年前に、お前の母親が水を濁したことがあるのだ」「半年前には、私はまだ生まれていませんでした。それは私の責任ではありません」「お前は草を食って野や山を荒らしておるではないか」「羊が草を食うのは仕方のないこと。オオカミさんは草を食べないのだから良いではありませんか」「へ理屈ばかり言う奴だ。とにかく、俺はお前を今日の晩飯にすると決めたのだ」こうして、子羊が何を言おうと、ついにはオオカミに食べられてしまった。
(小話182)ある「夫を亡くした女性」の話・・・
ある年配の女性が長年連れ添った夫を亡くした。それまで順調だった家庭に訪れた悲劇によって、その女性は生きる希望を失くしてしまった。幸か不幸か子供もなかったので、その女性は「死にたい」と本気で考えた。しかし、ある禅師に出会い、次のように諭された「あなたは今まで、ご主人という大きな傘の下にかばってもらって、世間の雨も嵐も受けずに暮らしてこられたのでしょう。そうした傘をさしてもらって、一生何も心配せずに過ごす人のことを、世間では幸福だと言うのかもしれません。しかし、私はそうは思いません。なぜなら、それではあなたが、本当に自分の人生を生きたということにはならないからです。自分に与えられた境涯の中で、一人立ちできてこそ、初めて人生を生きたと言えるのではないでしょうか」これを聞いて、やっとその年配の女性は、生きる意味を見いだしたという。
(小話181)ある「涙について」の話・・・
イギリスにある偉大な化学者がいた。彼は研究のかたわら、大学で講義をしていたが、ある日のこと、化学を学んでいる学生たちの前に、一本の試験管をもって現れた。そして、学生たちに次のように質問した。「実は、この試験管の中には人間の涙が入っているんだが、諸君、人間の涙には何が含まれているだろうか」学生たちは、涙と聞いて多少驚きながらも、化学専攻の学生のこと、難なく答えた。「先生、それは大部分が水で、あとは塩分が少し入っています」「よろしい。確かにその答えで間違いではないが、だが人間の涙というのは、ただそれだけのものだろうか。科学的にいくら分析しても、分析しきれないものが、人間の涙には含まれているのではないだろうか」と、言って、さらに続けた「たとえば、母親が流す涙、それは、科学的には単なる水と塩分に過ぎない。しかしその奥には、愛情という、目には見えないが、尊いものが含まれている、科学では解明できないものである」と。