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(小話220)「天狗(てんぐ)伝説」の話・・・
関ヶ原の戦いの翌年のこと。総社領(今の群馬)の領主は、利根川から水を取って、水不足と戦乱で荒れ果てた領地を豊かな土地にしようと考えて、用水をつくることにした。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流に水の取り入れ口をつくることになった。そこで、三年間、年貢(ねんぐ)を取り立てないことにして領民の協力を得て、大工事である用水工事に取りかかった。工事は最初のうちは順調に進んだが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、最後のところで、大きな岩が立ちはだかって、工事は行き詰まってしまった。思いあまった領主は、領内の総社神社にこもって願(がん)をかけた。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏(やまぶし)が現れて、困り果てている人々に言った。「薪(まき)になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」人々は半信半疑であったが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れた。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿が消えていた。そして、誰とはなくこの山伏を天狗(てんぐ)の生まれ変わりではないかと語り合うようになった。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになった。
(小話219)ある「琵琶(びわ)の兄弟名人」の話・・・
昔、中国に、琵琶の名人といわれた仲のいい二人の兄弟がいた。ある年に兄弟は共に病気で危篤となった。まず弟の方が先に死んだ。兄は側近に「何故、弟の消息を聞かないのだろう。これはもう死んだのだ!」そう言ったあと悲しむことなく、すぐに輿(こし)に乗って弟の喪に駆けつけた。しかし泣くことはなかった。弟はいつも琴を好んでいた。兄は弟の棺(ひつぎ)の前に座し、弟の琵琶を取って弾じた。だが、かっては彼の手でも、美しい調べを奏(かな)でだが、今は、どのようにしても絃は鳴らなかった。兄は琵琶から離れた。そして、「弟よ!、弟よ! 人も琵琶もともに亡(ほろ)んでしまったよ」そして兄は力のかぎり慟哭した。その後、一ヶ月あまりで兄も死んでしまったという。
(小話218)「ミルクと賛美歌」の話・・・
明治の中頃、ドイツに留学していた新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、毎日夕方、近くの公園を散歩していた。ある日のこと、いつものようにベンチに腰を下ろしていると、カトリックの尼僧が四十人ほどの孤児を連れて通りかかった。孤児たちは、公園で母親と楽しそうに遊ぶ子供たちを、うらやましそうに見つめながら歩いていた。そんな孤児たちを見て彼は心が痛んだ。ちょうどその日は、彼の母の命日だった。そこで、彼は母の霊前(れいぜん)にお供えをする代わりに、身寄りのない子どもたちに贈り物をすることを思い立った。そこで、牛乳売りのおばあさんに言った「あの子たちにミルクを一杯ずつ飲ませてあげてください。代金は私が支払いますが、あの尼僧さんには言わないで下さい」子供たちは大喜びであった。みんながミルクを飲み終わると、尼僧は「ご馳走してくださった方がどなたかわかりませんので、お礼に賛美歌を歌いましょう」と言って、四十人の子供たちは賛美歌を歌った。彼は、お母さんの命日にふさわしいことができたと思った。子供たちが帰ったあと、支払いをしようとすると、牛乳売りのおばあさんは半額しか受け取らなかった。その訳をたずねると、「今日、あなたが孤児たちにご馳走してくださったことを、私も大変うれしく思いました。私も日頃そうしてあげたいと願っていましたが、商売上できなかったので、せめて今日の支払いは実費だけにしてくだされば結構です」と答えた。
(小話217)「樗(ちょ)の樹(き)」の話・・・
ある友人が儒者の荘子に言った「私の田舎の屋敷には大樹があるが、これがあの役立たずの樗(ちょ)で、幹は曲がりくねり、こぶだらけで墨縄を当てることも出来ない。小枝もねじ曲がっているので定規(じょうぎ)も役に立たない。切り倒して道端に捨て置いても大工さえ見向きもしない。君の言うことも樗と同じで誰も相手にしないんだよ。」すると荘子が答えた「君の所にそんな大樹があるなら、それが何の役にも立たないからと言って嘆くことはないではないか。そもそも、ちっぽけで自分勝手な人間が、自分達の役に立つか否かで、物の価値を判断することが大間違いなのだ。天地自然にある万物は、人間などというちっぽけなものとは全く無関係に存在していることがわからないのか。それほどの大樹なら「無何有の郷」(むかゆうのきょう=わずらわしい世間を超越した理想郷)の広莫の野に植えて、全ての規範から解き放たれた悠々とした気持ちで、その木のかたわらを逍遥(散歩)したり、その木蔭で涼しいそよ風に吹かれながら昼寝などして憩(いこ)えばいい。こんなすばらしい樹がありながら、何の役にも立たない樹などと言って嘆くものじゃないよ」
(小話216-1)「キツネの恩返し」の話・・・
        (一)
ある男が、ある時、たくさんの子供達が一匹のキツネを捕まえて、棒などでいじめている所に出会った。男はひどい苛め方なので、かわいそうになり、お金をだして、キツネをたすけてやった。だが、逃がしてやる積もりでいたが、途中で何となくお金が惜しくなった。それで、また引き返して行って、キツネを返し、お金を取り戻した。だが子供達が、またさっきと同じようにいじめ始めた。それを見ると男はやはり、かわいそうに思い、再び買い取ることにして、二度と捕まるなよといって逃がしてやった。キツネは、この男のために一命を助けられたので、命の恩人と思い、後日その男の家へお礼にいった。そして「お礼のしるしに、なにか差し上げたく思います。私の倉には、何でもあります。お望みんのものは何でも差し上げますから、私と一緒に来て下さい」と言った。男は大変喜びで、キツネと一緒に出掛けた。間もなく大きな倉の前に来た。「これが私の倉です。どうぞ、中へ入って好きな物をとってください」とキツネはいった。
        (二)
男は倉の中に入った。すると、すぐに倉の戸が締まり、外で「盗人だ!盗人だ!」と大声で叫ぶ声が聞こえた。そして、たくさんの人が火を持って、あちこちから集まって来た。男は余りの恐ろしさに、生きた心地もなく、てっきりキツネに騙されて他人の倉に入り、キツネの身代わりにされたのだと、ふるえながら隠れていた。すると、しばらくして外の騒ぎも収まり、ガラガラと倉の戸が開いたかと思うと、さっきのキツネが来た「あなたは、そんなところでふるえて、何をしているのです。さっさと何でも好きな物を、持てるだけ持っていらっしゃい。」とキツネがいうので、ホッとして倉から好きな品を持って出てきた。 帰りながら、男がキツネに、さっきの出来事を語り「恐ろしさに、生きた心地もしなかった」と言うと、キツネも「あなたが、そういわれるなら、本当に怖かったのでしょう。実は、私も、先日、あなたに助けてもらった時は、やれやれと思ったが、そのあとであなたがまた、私を子供達に返された時は、生きた心地がしませんでした。あなたの、さっきの気持ちと同じです。まあ、再び助けて下さったから、お礼はします」と言った。
(小話216)「胡蝶(こちょう)になった夢」の話・・・
むかし、荘子(そうし)は夢のなかで蝶になった。ひらひらと飛ぶ蝶だった。自由自在に快適であったせいか、自分が荘子であることを知らなかった。そこで突然、目が覚めた。まぎれもなく、荘子だった。さて、いったいこの自分は、蝶になった夢を見た人間なのか、それとも、人間になった夢を見ている蝶なのか、一瞬わからなくなってしまったという。
(小話215)有名な「白隠さんと赤ん坊」の話・・・
江戸時代のこと。名僧と言われた白隠さんが沼津のお寺に住んでいたころ、ある檀家の娘が妊娠するという事件が起きた。娘は父親から、だれの子かと厳しく問いつめられ、答えに困った挙句に、日ごろから父親が白隠さんを崇拝していることを思い出して「白隠さんの子どもです」と答えた。これを聞いて、大変立腹した父親は、やがて月満ちて生まれた赤ちゃんを抱いて白隠さんを訪れ「人の娘に子どもを生ませるとは、お前さんはとんでもないな生臭(なまぐさ)坊主だ。さあ、この子を引き取れ」と、白隠さんに子どもを押し付けて帰ってしまった。白隠さんは、その後、人々に散々(さんざん)に罵(ののし)られながら、貰い乳に歩いたりして赤ん坊を育てた。ある雪の寒い日、いつものように赤ん坊を抱いて托鉢に歩く白隠さんの後ろ姿を見た娘は、ついに耐えきれなくなり、ワッと泣き出して、父親に本当のことを打ち明けた。びっくりした父は、白隠さんのところへ行き、平謝りに謝りまった。白隠さんは、「ああ、そうか。この子にも父があったか。よかった、よかった」と言って子どもを返して、娘や父親を一言も非難しなかったという。
(小話214-1)ある「大正時代の女性医師」の話・・・
            (一)
福島県は須賀川市の女性の話。時は大正時代。服部(はっとり)ケサは、一時、東京で学んでいたが、もともと体の弱かった父、母、姉が次々と病気になったため、彼女は、故郷に戻って一生懸命看病した。看病しながら「医者になりたい」と思うようになった。彼女は思いきって父に打ち明けた。「それもよかろう。けれどケサ、もっとも重い患者の友となるのでなければ医者としての値打ちはない。人にまねのできない医者になれ。私もできたら医者になりたかったのだよ」と言って父は彼女を励ました。そこで彼女は、すぐに医学校に入った。二十五歳のとき赤痢(せきり)にかかって生死の境をさ迷った「ああ、せっかく志を立てたのに、このまま死んでしまうのか」。彼女は家族や医学校の先生、友だちの看病で奇跡的に助かった。クリスチャンである彼女は、人の優しさや神の愛を強く心に感じて「人、その友のために生命を捨てる。これより大きな愛はなし」という言葉を心のなかに刻み付けた。彼女は、医者の資格を持ちながらも当初は、東京の慈善病院に看護婦として勤めたいたが、この病院で多くのハンセン病患者と出会ってハンセン病の人のために一生をささげる決心をした。生涯の友となるクリスチャンの看護婦の三上千代子(みなかみちよこ)ともめぐり会った。二人は生きる希望をなくした患者に「神が、あなたを守っています。そして、私もあなたの友だちなのです」といって、患者の手を握って励ました。
            (二)
ある年、イギリスのコンウィール・リーという女性が日本の草津にハンセン病の病院を建てた。けれど、山奥ということもあり、医者や看護婦を募っても誰も来てくれなかった。そこで最初、千代子が草津に行ったが、看護婦の知識だけで多くの患者を治療することは無理だったので、医者の資格を持つケサに助けを頼んだ。こうして、彼女は草津の病院の医者になった。彼女は、毎日百人以上の患者を診た。往診かばんやお産用具を持ってどこへでも治療に駆け付けた。彼女の仕事はひましに多くなり、休む暇(ひま)もなかった。もともと心臓の弱かった彼女は、ついに倒れてしまった。だが休もうとはしなかった。彼女には、どうしてもハンセン病患者の憩(いこ)いの村をつくりたいという大きな夢があった。大正十三年彼女は千代子とスズランの咲く土地に病院を建てて「スズラン病院」の看板をかけた。しかし三週間後、突然、心臓発作を起こして、彼女は神様のもとに召されてしまった。大正十三年十一月、服部ケサは、四十歳の若さであった。
(小話214)有名な「父母恩重経」の話・・・
    (一)
お釈迦さまが、多くの人々に向かって、このように説かれた。「汝等大衆(なんじらだいしゅう)、よく聞くがよい。父に慈恩(じおん)あり、母に悲恩(ひおん)あり。すなわち、山より高き父の恩、海より深き母の恩を知ることこそが道の始めである。人がこの世に生れたのは、因縁(いんねん)があってのこと。母の我が子を思ふことは、この世に並ぶものがない。始めて命(いのち)を受けてからは、ただ胎児(こ)のために祈ってやまない。母は月満ちて時期が来ればもろもろの苦悩を受け、苦悩やむ時なきが故に生命(いのち)も絶えんとする。父も心身おののきて、母を気づかい、子を憂(うれ)い、親族は集まって、ただただ安産を願うのみである。やがて生れれば、父母の喜びはかぎりなくて、子の泣く声を耳にして、母も初めて、この世に生まれ出たごとくになる。子を守(み)る母のまめやかさ。母のふところを寝床とし、母の膝を遊び場とする。母の乳を食物とし、母の情けをいのちとする。飢えて食を求めるが、母でなければ食わない。渇く時、飲みものを求めるが、母でなければ飲まない。寒さに苦しむときは、母は自分の着たもの脱いで子に与える。母は、自分が飢(うえ)えていても、噛んで含めたものを子に食わせ、子の不浄を嫌うこともなく、母でなければ養われず、母でなければ、育てられない。幼な子の乳を飲むことは百八十斛(こく)を越す。まことに父母の恵みこそは無限のものである。
(参考)
百八十斛(こく)・・・180リットルの180倍
    (二)
母が仕事にいそがしくて野辺で草かり、耕していても、幼な子が家で泣き叫んで、自分を慕うと思ふと心は立ちさわぎ、乳は流れてとどまらない。いつかしか仕事も打ち捨てて家路に急ぐ。母の姿を見て、喜び踊る幼な子を見ると、母は駆けよって、憐(あわ)れとばかりに幼な子を抱きしめて、早速、乳ふくませて顔を見つめると、母も喜び乳児も笑らう。二つの心は相和(あいなご)む。恩愛は誠に有難きものである。子が2才になって歩くようになると父は、火傷(やけど)の心配をし、母は刃物の怪我を心配する。子が3才にり、乳を離れて食べるようになると、父は毒の心配をし、母は病気になれば必死で薬を探す。父母は宴席に呼ばれて美味しいものを出されても、自分では食べずに、持ち帰って子に与える。一度でも、父母が何も持ち帰らないと、子は泣き叫んで父母を責め立てる。
    (三)
幼な子が成長して、友達ができると、父は子に服を買い与え、母は子に着物を与え、自分たちは着古したものを身にまとう。やがて子は成人して妻を娶(めと)れば、とたんに父母をないがしろにする。そして、子は部屋にこもって妻と二人だけで語り楽しむ。父母が年老いると頼れるのはただ子のみ、頼みは、ただ嫁のみなのに、若夫婦は朝から晩まで一度も父母の元に訪れない。やがて、連れ合いに先立たれた一人暮らしの父か母が、孤独と寂しさに子を呼び寄せれば、子は目をいからせて怒りののしる。嫁や孫までまねをしてののしる。嫁も不孝、孫もまた不順であり、夫婦和合して五逆罪をつくる。また、事ありて呼び寄せれば、ようやく来て、床に臥している父や母に向かって、何んで呼び寄せたのだと怒声を吐く「老いぼれて生きているより早く死ね!」こんな言葉を聞いて、父や母は怨みが胸に満ち、涙を流し、悲しみ叫ぶ「おまえが幼少にときは、私たちでなければ養われず、私たちでなければ育てられなかったのに。今のおまえがあるのは、いったい誰のおかげというのか。ああ、私は、おまえなど生まなければよかった」と。もし子にして、父母にこのように嘆かせれば、子は、その言葉と共に地獄に落ちて、餓鬼、畜生の仲間になり、いかに如来、金剛天、五通仙でも救い護(まも)ることはできないのである」。お釈迦さまは更に説かれた「汝等大衆、よく聞くがよい。父母に十種の恩徳がある。
一つは子を十ヶ月の間、腹の中で育ててくれた恩。
二つは子を生むときの苦しみに耐えてくれた恩。
三つは子を生む時の苦しみ忘れて愛してくれた恩。
四つは子にお乳を飲ませてくれた恩。
五つは子のおしめを替え、乾いた布団に寝かせてくれた恩。
六つは子の排泄物を洗い清めてくれた恩。
七つは子にだけおいしいものを与えてくれた恩。
八つは子のためなら悪事をもいとわない親の恩。
九つは子が遠くにあっても気遣ってくれる恩。
十は年老いても生ある限り子を心配しつづける恩。
このように父母の恩、重きことは広大無辺である。
(参考)
五逆罪・・・主人、父、母、祖父、祖母の五人を殺(無視・怒号も同様)すこと。
(小話213-1)「無用の用」の話・・・
ある友人が儒者の荘子に言った「あなたの話は現実離れしていて実際の役には立ちませんね。世人はいっこうに顧みないじょないか」すると荘子が答えた「役に立たない無用という事がよくわかってこそ、はじめて有用について語ることができるのです。いったい大地はどこまでも広々として大きなものだが、人間が使って役立てているのは足で踏むその大きさだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法にあわせた土地を残して、周囲を黄泉(地獄)にとどくまで深く掘り下げたとしたら、人はそれでもなおその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか」「それじゃ役にたたないでしょう」そこで荘子は言った「してみると、役に立たない無用にみえるものが、実は役に立つ働きを持っているということが、今やはっきりしたことでしょう。わたしの話もそれですよ」
(小話213)ある「二本のクリスマスツリー」の話・・・
クリスマスの前日のこと。一人の商人が、街角でモミの木のクリスマスツリーを売っていた。夕方に、粗末な身なりの若い夫婦がツリーを買いに来た。そして、並べてある幾つかのクリスマスツリーの値段を聞いた。一本10ドルだった。若い夫婦はため息をつくと、あきらめて帰りかけたが、途中で何か相談していたかと思うと、また、戻って来た。そして、商人の後ろにある、商売にならない何本かの不ぞろいのモミに木を指さして、値段を聞いた。商人は、売れないモミの木だから一本1ドルでいいと答えた。若い夫婦は、不ぞろいなモミの木から、片側の枝ぶりの悪いモミの木を二本選んで買った。商人は、ほぼ売り切れた夕方遅くに家路についた。とある一軒のみすぼらしい家の前を通ると、中から賑やかな声が聞こえてきた。窓からのぞくと、夕方、モミの木を買いに来た、あの若い夫婦だった。部屋の中央にはすばらしい枝ぶりのクリスマスツリーが飾られていた。不思議に思った商人は、ドアを叩いて、若い夫婦に尋ねた。あの不ぞろいなモミの木はどうしたのかと。すると若い夫婦は笑いながら、商人をすばらしい枝ぶりのクリスマスツリーの前に連れて行った。見るとそれは商人が売った、あの不ぞろいな二本のモミの木が幹で結ばれ一本になっていたのである。
(小話212-1)「曽子(そうし)の親孝行」の話・・・
昔、中国に孔子の弟子で、曽子(そうし)という親孝行な男がいた。ある日、曽子が庭の掃除をしているとき、父親がとても大事にしていた瓜のつるを不注意で切ってしまった。父親は、たいへん怒って、思わず持っていた太い棒で息子の曽子をなぐりつけたので、曽子はとうとうその場で気を失ってしまった。それを見た父親は、非常に驚き、心配の余り真青になって自分の部屋にかけもどって、オロオロしていた。家の手伝いをしている人の介抱でやっと意識を取りもどした曽子は、まず、父親の様子をたずねて、たいへん心配していることを聞くと、自分の痛みを我慢して、わざと平気を装い、大声を出して元気に歌をうたい、父親を安心させた。曽子のこの親孝行ぶりをお手伝いの人も、孔子の弟子たちもほめたたえた。ところが、孔子は、そのことを聞いても、少しも喜ばず、かえって曽子の間違っていることをとがめたので、弟子たちがその理由をたずねた。すると孔子は「もし親が太い棒で打つときは、大きな傷をうけることになるので、逃げて、父親にそのようなことをさせないようにするのが、子としての正しい道である。又もし、細い棒であって、打たれても大した傷になる心配のないときは、親のなすがままに身をまかせることが真の孝行である」と。
(小話212)「十二支の話」の話・・・
     (一)
昔、ある年の暮れ、神様が動物たちにおふれを出した。「元日の朝、新年のあいさつに来るように。早く来た者から十二番までを十二支と決め、一年間だけ動物の大将にしてやろう」。怠け者のネコは、神様のおふれをよく聞かずに居眠りをしていたので「はて、何日だったっけ」とネズミにたずねた。「あいさつに行くのかね。新年の二日だよ」ネズミは、わざと間違った日を教えた。大晦日の夜に、ネズミが暗がりで覗くとウシがぶつぶつ言いながら旅支度をしていた「おいらはのろまだから。今夜のうちに出かけよう」。ネズミはしめたとばかり牛の背中に飛び乗った。ウシは神様の御殿に着くと元日の朝の来るのを待った。やがて、一番鶏が時を告げると門が静かに開いた。その途端、ネズミは牛の背中から飛び降りて「一番乗り、ネズミ!」と叫んだ。「おうおう、よく来た」神様はネズミを褒めた「まず初めの動物の大将は、ネズミみに命じよう。ウシは二年目」。そして、千里の道をひゅーっと駆けてきたトラが3番になった。続いて、ウサギ、タツ、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシが入ったところで、十二支が決まって門は閉められた。次の日、一日遅れてネコが駆けつけて来たが、もうあとのまつりで、だまされたことに気付いたネコは、この日からネズミを見ると追い掛け回し、かみつくようになった。困った神様は、ネズミを天井裏に隠して、ネコから守ってやることにしたという。
     (二)
こうしてネコは十二支の仲間に入れなかったが、やはり十二支の仲間に入れなかったイタチも、神様の所へ毎日行って「神様、わたしところへはおふれが来ませんでした。これは不公平です。もう一回やり直して下さい」。これには神様も困って「イタチや、それでは、一年に十二日だけ、お前の日にしてやるがどうじゃ。月の最初の日をお前さんの日にしてやろう」。「神様、わかりました。それではその日をイタチの日にして下さい」。そう言われて神様は困った。名前を付けたら、またそれが元で騒動になる。「どうだ、イタチの上に「つ」を付けて、つ・いたちでどうだ。それがお前の日だ。だがこれは誰にも内緒だぞ」。イタチは答えた「神様、つ・が気になりますが、でも無いよりはいいから我慢します」。それで月の初めの一日は、イタチの日でもあるという。
(小話211)「三国志・長坂の戦い」の話・・・
中国は「三国志」の話。多くの戦いの一つに「長坂の戦い」がある。当時最も力のあった「曹操」が、中国の南部の制圧に乗り出したきた。その頃、中国南部を支配地としていた「劉備」軍は、味方の軍が戦わずして「曹操」軍に降伏したため、江陵をめざして撤退することになった。そのとき、多くの民衆が「劉備」の人徳を慕って、続々と後を追い、その数はたちまち十万をこえ、その人々の家財道具を運ぶ荷車は、数千台に及んだ。このため、退却のスピードは極端に遅くなった。「曹操」の軍は刻々と追い迫(せま)ってきた。この状況を見て参謀が「劉備」に進言した。「もし、「曹操」の軍が追いついてきたら、一たまりもありません。われわれの軍隊だけで、江陵に退却してはいかがでしょうか」と。このとき、「劉備」は次のようにいって、参謀の進言を退(しるぞ)けた。「大事をなすには、必ず人をもって本となす。いま、人われに帰するに、われ何ぞ去るに忍びんや」(折角慕ってきてくれた人々を、見捨てることはできない)。この戦いは「劉備」軍の大敗で終ったが、「劉備」は、人を大切にし、その人徳は誰よりも高く、部下や多くの民衆からは慕われた。
(小話210)「川の神様と人身御供(ひとみごくう)」の話・・・
     (一)
「史記」にある話。魏の文侯(ぶんこう)のとき、ある男が地方の長官になった。男は着任すると、さっそく土地の住民に、何かつらいことはないか、たずねた。土地の老人は答えた「河伯という川の神様に、毎年、若い女子を人身御供(ひとみごくう)として捧げる儀式が、たいへんな負担になっており、私どもは悲しく、貧乏の原因にもなっております。でも、世間では、もし河伯に若い女子を捧げないと、河伯が怒って洪水がおき、みんな溺れ死んでしまう、と言われているのです」「その儀式の時がきたら、私に教えてくれ。私もその儀式に行き、女子を見送ろう」儀式の日が来た。長官は部下を連れて、川のほとりの儀式の場に行った。巫女(みこ)、三老(土地の三人の老人)、下役人、豪族、村の顔役たちが参列していた。美しく着飾った巫女は老女で、巫女の弟子はみな、豪華な絹の服をきて、巫女のうしろに立っていた。長官は、いけにえとして用意された娘を呼んで、その顔をのぞきこんで言った「美しくないな。巫女どのにお願いして、河伯に伝えていただきたい。もっと美しい女を用意するので、ちょっと待ってほしい」と。
      (二)
  長官は、部下に命じて、美しく着飾った老巫女の体を縛りあげて、川の中に投げ込ませた。巫女は沈んだまま、浮かんでこなかった。しばらくして、長官は言った「らちがあかない。今度は弟子たちにも応援に行ってもらおう」三人の巫女の弟子たちが川に投げ込まれた。さらに長官は言った「巫女は女性なので、河伯と交渉できないのだろう。今度は、三老にお願いしよう。川の中に入って、神様と交渉してきてくれ」三老が川に投げ込まれた。長官は筆を持って、しばらくの間、川岸に立っていた「三老も帰ってこない。では、今度は、役所の下役人と、豪族のうち一人に、川の中に入って、神様と交渉してもらうことにしよう」残った一同は、頭を地面に叩きつけて命乞いをした。長官は言った「河伯は、客をずっと留めて返してくれないことがわかった。おまえたちはみな辞職して、立ち去るがいい」土地の役人や人民はたいへん驚き恐れ、これ以後、河伯が妻をめとるなどという迷信を口にする者はなくなった。長官はすぐさま、民を動員して、用水路を何本もつくり、川の水を引いて民の田畑をうるおした。民はみな水利を得て、生活が豊かになった。長官の名声は天下に聞こえ、その恩恵は後世にまで及んだ。
(小話209)「ネパールのある言葉」の話・・・
ネパールの山岳地帯で、長い間、医療活動を続けていた日本の医師の話である。ある日、医師が村の回診に出かけたときのことである。ある村で結核患者を何人か発見し、そのうちの一人の重症患者を街の病院に運ぶことになった。ところが、その患者を運搬するのには何の交通機関もなかった。頼れるのは、人間の背中のみである。しかもそこは、何も持たずに歩いても、街まで5日もかかるという山村だったのである。そのとき、「よし、僕が背負って行きましょう」と名のって出た青年がいた。青年は、ゆきずりのネパール人の旅人である。青年の好意は涙が出るほどありがたかったが、医師はとまどった。医師のポケットには、青年の好意に報いるお金が一文(いちもん)も残っていなかったのである。「ありがたいのだけれど、一文の日当も出せないんですよ」すると、青年は憤然(ふんぜん)とした表情で、こう言った。「僕は日当がほしくて、病人をかつぐんじゃないんだ」「それじゃあ、何のためなの?」「サンガイ・ジゥネ・コラギ(みんなで生きるためだ)」医師は青年の言葉を聞いて感動した「ああ、私は、この言葉を生涯忘れないだろう。サンガイ・ジゥネ・コラギ(みんなで生きるため)なんと誠意のこもった、人間的な言葉だろう」と。
(小話208)ある「盲目(もうもく)の楽師(がくし)」の話・・・
晋(しん)の王が、盲目の楽師にたずねた「余はもう七十歳じゃ。学びたいと思うが、もうとっくに日は暮てしまったのでは、という気がする」盲目の楽師は「日が暮れたのなら、どうして灯火(ともしび)をおつけにならぬのですか。おつけください」と言った。王は、「これ、家臣のくせに主君をからかうという法があるか「日が暮れた」というのは、老いたことを喩(たと)えて言ったまでじゃ」とたしなめた。すると盲目の楽師は言った「家臣が、殿をからかうわけがございません。私はこう聞いております。「若いときに勉強を好むと、いろいろなものごとが、日の出のように明るく見えてくる。中年で勉強を好むと、昼間のように見えてくる。老年で勉強を好むと、夕闇のなかの灯火のように見えてくる」と。さて、暗い夕暮れの道を歩くとき、灯火の明るさがあるのと、ないのとでは、どちらがよいでしょうか」王は「うむ、なるほど、夕暮れにも灯火の明るさは必要じゃのう」と言った。
(小話207)ある「老易者の予言と禅師の一喝」の話・・・
         (一)
昔の中国でのこと。ある日、立派な風貌の老翁があらわれて、一人の少年を見て「何を勉強しておるのか」と尋ねた。少年は「父が他界したため家が貧しく、早く立身しなければならないので、母と相談をして医者になろうと勉強をしている」と答えた。すると老人は、少年を見て「いや、お前は立派な役人になって出世をする。役人の試験にも及第する。だからそんな勉強をやめて役人の試験の準備をしなさい」と言い、その上、お前の生涯を占ってやろうといって「お前は私の教え通りに勉強すれば、何年、何歳の時に予備試験を何番で合格し、本試験は何番ぐらいで合格する。そして役人として立派に出世し、何歳で寿命が尽きる。だが、たいへん気の毒であるが子供には恵まれない」と予言した。それを聞いて 少年は非常に感動して、従来やっていた勉強をやめて役人になるための予備試験の準備をして受験してみると、不思議にもその老翁の予言した通りの成績で合格した。そこで次の試験を受けてみたところ、予言どおりになった。そこで少年は「なるほど人間には運命というものがあって自分の一生は決まっている」と感じ「くだらぬことに煩悶したり、考えたり、野心をもったりすることは愚かだ。神様がちゃんと進むべき道を予定してくれておるので、下手にもがいてくだらんことを考えても何にもならん」と、若くして一種の諦め、あるいは悟りの心境に到達した。こうして青年には、どこか悟ったような落ち着いた一種の老成した風格ができあがった。
          (二)
あるとき、都のお寺に滞在して上級試験の勉強をしていたところ、そこに一人の禅師がいて、青年に向かい「お前さんは、見受けたところ若いのに似合わず人物ができとるようだが、どういう学問をしたのか、どういう修行をしたのか」と尋ねた。青年は「いや、私は特別にそういう勉強も修養もいたしませんが、ただ少年時代に、不思議な老易者が私を見て、お前はこうこうだと予言をしてくれました。それが実に恐ろしいほど的確に当たりますので、人間には運命というものがあって決まりきっている、くだらぬ事を考えても何にもならないということに気がついたのであす。あるいはそのせいでお目にとまったのかも知れません」と答えた。すると禅師は、呵々大笑して「何だそんなことか、それじゃ昔から偉人、聖人などが何のために学問修行をしたのか全く意義がないではないか。自分の運命は自分でつくっていくのであって、学問修行というものは、それによって人間が人間を作っていくことなのだ。そういうふうに人間をつくっていくのが大自然、道の妙理、極意なのだ。お前の理屈では偉人、聖人などの学問修行は何にもならぬことではないか。馬鹿な悟りを持ったものだ」と言い放った。驚いた青年は即座に反省して、それからは改めて古聖賢(釈尊、キリスト、孔孟、老荘等々)の学問を学んだところ、今まで何一つ予言から外れなかったのがことごとく外れるようになってきた。だが青年は、自分なりに進歩向上し、出世の道も歩んで、やがてできないといわれた子供もできて、多くの子孫に囲まれた幸福な生涯を終えたという。
(小話206)「人命救助の木」の話・・・
明治時代のこと。冬の凍てつく3月の北海道で、前日からの激しい風と大波で、湾に避難していた大型の船舶は、いかり綱が切れ、強風にあおられて浅瀬に乗り上げてしまった。船には、漁師や乗組員ら合わせて180人あまりが乗っていた。この海難事故を見て、地元の警察や消防組合を始め町の人々が駆けつけて、全力で救助にあたった。激しい波で船体は傾き、寒さのなかで乗員の生命も危険な状態になったため、陸と船の間にロープを張り渡して籠(かご)をつるし、それを使って乗員を船から助け出すことになった。船からロープを結んだ木樽を岸に流したが、なかなか届かない。すると、そのとき一人の若者が海に飛び込み、ロープを拾い上げて、その拾い上げたロープにさらに太いロープを結び付け、船と裏山の崖(がけ)っぷちに生えていたシコロの大木との間に張ることに成功した。そのロープに竹籠(かご)をつり下げ、人を乗せて船に乗っていた人を次々と救助した。途中で幾人かは、波にたたかれて振り落とされたが、雪どけの冷たい海と激しい波のなかでのロープを使っての勇敢な救助活動で多くの人々が救助された。そして、遭難事故の後、崖(がけ)っぷちに生えていたシコロの大木は、その木肌に「人命救助の木」と書き入れられたという。
(小話205)ある「家老と少年」の話・・・
中国でのこと。ある時、東方の大国の家老が、参加者千人にものぼる盛大な宴会を開いた。家老は、魚や雁の肉のご馳走の山を見て、感嘆した「天の人間に対するめぐみは手厚い。五穀を増やし、魚鳥を生じ、人間の役に立たせてくれる」満座の客たちは大いに頷いたが、ただ一人だけ、家臣の息子で神童といわれていた数え十二歳の少年が進み出て、家老に向かって反論した「いまのお言葉は間違っております。天地のあらゆる生物は、われら人類と平等な生命体です。命に貴賤はありません。ただ、それぞれ小大智力の差があるために、互いに牽制し、食べあっているだけのことです。誰かのために生まれてきた生物など、この世におりません。天が人間のためにこうした生き物を作った、という考えは間違いです。人間は勝手に、自分が食えるものを食っているだけのこと。天がこれらを人間のために創造してくれたはずがありません。現に、蚊やブヨはヒトの皮膚を噛み,虎やオオカミは人の肉を食べます。だからといって、天が蚊やブヨのために人を生じたとか、天が虎やオオカミのために人の肉を作っているなどと言えましょうか?」と。
(小話204)「ナンシーという女の子」の話・・・
           (一)
   ニューヨークの小児科病棟に、ナンシーという女の子が入院してきた。彼女の身長と体重は、一歳児の標準体型しかなく、まるで体中が干物(ひもの)になったような痛々しい姿で、言葉も全然しやぺれなかった。入院から三か月を過ぎてもナンシーは、身体になんの障害もないのに、まったく成長しなかった。いろいろと調ぺていく中で、医師はナンシーの入院以来、彼女の両親が一度も面会に来ていないことを知った。そこで、医師はナンシーの両親に会うたためにナンシーの家を訪ねた。ナンシーの両親は二人とも若く、ハーバード大学大学院のビジネスコースに在籍中で、今手がけている論文の出来上がりが今後の人生を決めるということで、ナンシーの母親は次のように言った。「この論文がうまくいけば、世界中のどこへ行ってもエリートとして受け入れられます。だから論文が通ったあとで子どもをっくりたかったのです。しかし、ナンシーは間違つて生まれてきてしまったのです。初めのうちは、私たちもナンシーにミルクや食べ物をあげていましたが、今は面倒を見る暇がないので、もうちょっとあずかっていてください」この言葉を聞いた医師は、黙ってその家を立ち去った。
           (二)
病院に戻った医師は、ナンシーを病棟から出し、陽当たりがよく、人の行き交う廊下にペッドごと移動させた。そして彼女の頭上に大きなはり紙をした。「私はナンシーです。あなたがここを通るとき、もしあなたが急いでいるならば「ナンシー」と呼んで、ほほ笑みかけてください。もしあなたに少しの時間があるならば、立ち止まって「ナンシー」と呼ぴかけ、私を抱き上げ、あやしてください。もしあなたに十分なゆとりがあるならぱ、「ナンシー」と呼んで私を抱き上げ、ほおずりをして、あなたの胸と腕の温かさを私に伝えてください。そして、私と会話をしてください」すると、そこを通る医師や看護師は、みんな足を止めて、ほほ笑みながら「ナンシー」「ナンシー」と名前を呼ぴ、抱いたり、あやしたりした。一週間が過ぎたころ、ナンシーはほほ笑むようになった。そして三か月経ったころには、ナンシーの体重は正常な三歳児にほぽ近づき、言葉も急速に覚え始めたのでる。
(小話203)ある「社長と若い社員」の話・・・
昭和の初め頃の話。ある会社が地方に出張所を出すことになった。社長は、その責任者として、20歳すぎたばかりの若い社員を派遣することにした。本人を呼んでその旨を伝え、資金も与えると、本人は、入社してわずか2年の経験しかない若い自分に与えられた大役にびっくりして、自分にはたしてつとまるかと、不安げな様子であった。しかし社長は、その若い社員にも十分できると思っていた。もちろん結果はやってみなければならないが、社長は自らのそれまでの経験から、その若い社員個人に対する信頼はもとより、もっと広い、人間そのものに対する深い信頼もっていた。だからその若い社員に対しても、戦国時代の武将が10代で大いに活躍していたことや、明治維新の志士(しし)たちも若い人たちが中心だったことを話して「大丈夫、君もきっとできる」と激励した。すると本人も感激し、引き受けることを決意した。その社員は地方へ行くと、直ちに活動を開始し、毎日のように手紙で社長に報告し、ついには立派な出張所を開設したという。この社長とは「松下電器」の創業者の松下幸之助である。
(小話202)「笛吹きの若者と生き返った娘」の話・・・
    (一)
昔、笛の好きな若者が母親と二人で住んでいた。その家の生活は大変貧しいものだった。若者がある日、母親にむかって「もう、私も15才になりました。お母さんばかり働かして御飯を食べているのは親不幸だから、町で笛を吹いて食べ物をもらい、お母さんに美味しいものをたくさん御馳走します」と言った。そして、夜になると、町に行って笛を吹き、少しだが物をもらいを始めた。町の人は、あまりに笛の音が美しく懐かしいので、やがて沢山の美味しいものを与えるようになった。こうして、若者は親孝行をしていた。その町には、お金持ちの家があった。その家には、女中が3人いて、毎晩、若者の笛の音に合わせて歌っていた。その家にはまた、一人娘がいた。娘は大変大事にされ、家の奥の間で勉強していたが、毎晩遠くの方で、笛の音が聞こえ、それに合わせて歌も聞こえるものだから、そこへ行きたくてたまらなかった。しかし、自分が行くと親達に叱られると思い、我慢していたが、心はいつも笛の音にひかれていた。そうしたある日、娘は熱をだし、病気になった「私は、こんなに金持ちの家に生まれても、あの女中達より楽しく遊ぶこともできない」と隣のおばさんに話して淋しがった。その娘は、毎日その笛を吹く人を見たいと、そして一緒に歌いたいと思いながら、とうとう幾日かの後に死んでしまった。その娘が死んだその日に、笛を吹く若者は、隣のおばさんからその事を聞かされ、とても嘆き悲しんだ。
     (二)
若者は、娘の葬式の次の日に「そんなに笛の音が聞きたいといって死んだのなら、死んでからも聞かせよう」と言って、真新しい墓の前に座って笛を吹いた。若者が一生懸命笛を吹いていると、その側に美しい女が現れて、とてもよい声で笛に合わせて歌った。そして、若者が笛を吹くのをやめると、その女の姿は消えていた。若者は、ここまで慕ってくれる人ならば姿を見てみたいと、墓を掘り返して娘の棺桶をのぞいて見ると、それはそれは美しい娘だった。それで、若者は涙を流しながら、その娘を見ていると、娘の口に涙が入り、今まで死んでいた娘が動きだした。驚いた若者は、娘を棺桶から引き出し、死んだ人が生き返ったと言って喜んだ。そして、娘と一緒に娘の家に行った。娘の家について、若者が、家の玄関に行き「ここの娘が生き返って帰ってきた」というと、そこの人達はびっくりして嘘だと言ったが、娘を玄関に入れると、そこの夫婦は泣いて喜んだ。娘は親に「私はこの人に助けられたのです。命の恩人の、この人と結婚したいのです」と言った。若者は「自分は貧しい家に生まれ、こんな金持ちの娘と結婚する事はできない」と断ったが、一途な娘の気持ち知って結婚することになり、母親も娘の家に引き取り、幸福に暮らしたという。(墓に水をかけるのは、涙のかわりで、そうするとまた生き返るのではないかと思ってするのだという)
(小話201)「能楽「丹後物狂(たんごものぐるい)」」の話・・・
丹後国白糸の浜の長者は、文殊観音堂に願掛けをしてもうけた子供・花松を成相寺で学問を修めるため修行をさせた。父親は久しぶりに帰宅した子供と対面し、学問の様子を尋ねたところが、付け人のもらした「簓八撥(ささらやつばち)の上手」という言葉を聞いて怒りだし、ついには勘当してしまった。父親の「勘当」という言葉に、花松は悲嘆のあまり、死のうとして近くの磯から身を投げた。身を投げたところ、折りよく筑紫の船頭に救いあげられて、筑紫の国に赴き新たに彦山の寺で再び、修業に専念した。何年か後、筑紫彦山で学問を修めた僧・花松は、入水直後に助けられた筑紫の男を伴って、父母と対面するために白糸の浜にやって来た。ところが両親は行方知れずになっていた。花松は涙を抑えて文殊観音堂で7日間の説法を行った。7日目の最後の説法の日に、松の枝に簓八撥を結わえた一人の狂人が現れて、失った我が子を求めて狂乱した。説法の庭で制止も聞かずに「我が子の弔い」と狂乱するのを聞きとがめた僧・花松は、狂人の身の上を聞き、自らも身の上も語った。そして狂人が花松の探し求めていた父親と判り、こうして、めでたく父子の名のりをあげることができた。 (参考)簓八撥(ささらやつばち)とは、田楽おどりの楽器で、腰につけて打つ鼓(つづみ)のこと。