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(小話240)有名な「蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い」の話・・・
中国は戦国時代でのこと。斉(せい)と魏(ぎ)の間で緊張が高まり、戦争が起きる寸前の状態になったとき。ある男が戦争の勃発を防ぐため、魏の王に会見して申し上げた。「その昔、蝸牛(カギュウ=かたつむり)の左の角(つの)の上に触氏という国が、右の角の上に蛮氏という国がありました。あるとき、両国の国境をめぐって激しい戦争が勃発し、戦死者は数万にのぼり、逃げる敵を追撃する掃討作戦も十五日に及んだとのことです」王が「何を馬鹿馬鹿しい絵空(えそら)ごとだ」と言うと、男は続けて「それでは現実の話をいたしましょう。王様、どうかよく考えてお答えください。われらの上下四方に広がる空間に、限りはあるでしょうか」「無限だ」「では、無限大の宇宙から私たちの生活圏を見おろした様子をご想像ください。はるかなる大宇宙から見たら、私たちの生活圏は小さな点ほどもないでしょう」魏の王は頭の中で、大宇宙からはるか眼下の地上を見下ろしながら答えた「そのとおり」「生活圏のなかの小さな一部が魏であり、その魏のなかの一区画が都であり、その都のなかの建物に王がおいでです。大宇宙のなかの王さまの存在と、蝸牛の角のうえの蛮氏と、いかほどの差がありましょうか」「大差ない」こうして魏王は戦争を中止したという。
(小話239)ある「一人の老人」の話・・・
江戸は天明(てんめい)の頃。伊達藩(今の岩手)にある江刺(えさし)街道は、峠を越えて内陸と海岸部に通じる重要な道路であった。街道とはいっても細く曲がりくねった崖の多い道に過ぎなかった。近くの村に一人の与市(よいち)という老人が住んでいた。その老人は毎日のように「ああ、今日も又、人が死んでしまったのか。せっかく運んで来た荷物と一緒に崖(がけ)から落ちて…」と嘆いていた。道中は岩や崖が多く、人や馬が深い谷底に無惨にもころげ落ちて死んだという噂(うわさ)が、老人の耳にも入きたのである。そんな日々が続いたあるとき、老人は決然と道路の開削(かいさく)に立ち上がった。これは、容易な決心ではなかった。老人は、老いた身でありながら、目的を貫くまではあきらめないと誓いをたて、一人で、つるはしを振り上げて道を広げ、岩をうがち、崖を切り崩す作業を続けていった。雨の日も風の日も休まず、一年、二年とこの大事業に渾身(こんしん)の力を傾けていった。このように毎日倦(う)まずたゆまず働き続ける老人に周囲の人たちの態度は冷たく、家族からは愛想をつかされた。だが、老人は周囲の白眼視(はくがんし)に耐えながらも曲がりくねって細い江刺街道の開削を進め、ついに12Kmに至って道の幅を広げることができた。このとき与市(よいち)老人はすでに六十二歳、道路の開削を決意してから六年の歳月が過ぎ去っていたのである。このおかげで何百人の命が助かったことか。老人は後年、伊達藩から篤行者(とっこうしゃ)として表彰された。
(小話238)有名な「ドリアン・グレイの肖像」の話・・・
    (一)
ドリアンの母は裕福な良家の娘であったが、美男で文無しの男と駆け落ちをした。しかし、男は結婚後すぐに、決闘で命を落とした。母は一年後に死に、ドリアンは裕福な祖父に育てられた。そして、生来の美貌と祖父の富を得たドリアン・グレイは、ロンドンに出てきて、姪のグラディスと暮らす画家のバジルに肖像画を書かせた。そこに描かれたドリアンは本当に美しく、若い生命力に満ち溢れて、まるで生きているようであった。ドリアンは、部屋に帰って自分の肖像画を見ながら「僕が年とって、醜悪な姿になっても、この絵はいつまでも若いままだ。もし、逆に僕がいつまでも若いままで、年老いるのが絵のほうであったなら、そのためなら僕は魂だってくれてやるぞ」とつぶやいた。ドリアンの友人となったヘンリー卿は、自分の快楽主義を無垢(むく)なドリアンに吹き込んだ。ヘンリー卿の言葉に強く影響されたドリアンは刹那的な快楽を追い求め、次第に悪事にも手を染めるようになった。
    (二)
数日後、ドリアンはロンドン下町の歓楽街を歩いていた。彼の耳にはヘンリー卿の今の生活を享楽しろよ、あらゆる機会をのがさずに楽しめという言葉が耳から離れなかった。ミュージックホールの歌手シビル・ヴェースを見た彼は、彼女を都会の美しい女性と思い恋に落ちた。彼女と結婚しようと思ったドリアンは、ヘンリー卿と画家バジルをさそって彼女の舞台をみせた。ヘンリー卿は言った「結婚の必要はない、誘惑して、楽しめ」と。ヘンリー卿の言葉通り、ジビルを誘惑して一夜を共にするとドリアンは、すぐにシビルに別れの手紙を書いた「君は僕の愛を殺した、僕は快楽のためにのみ生きることに決めた」そのときドリアンは、自分の肖像画の口元が残酷な表情でゆがんでいるのを見た。ドリアンの冷酷な仕打ちに、絶望したシビルは自殺してしまった。
    (三)
時は過ぎ去り、人々は老いていく。しかしドリアンだけは三十歳過ぎても、ロンドンに出てきたときのままの美しさと妖しい魅力を保っていた。そんなある日、歓楽街の遊びから帰宅したドリアンは、ふと不安に襲われ、自分の肖像画を取り出して見た。その絵にはまぎれなく三十歳過ぎた自分の「老い」が現れていた。慌ててドリアンは肖像画を部屋の奥に隠した。だが、自分の肖像画が老いていくことに不安を感じたドリアンは、画家バジルの元を訪れた。そこで、ドリアンは美しく成人した画家の姪グラディスに出会った。グラディスに恋をしたドリアンは、画家が肖像画のことをグラディスに話すのを恐れて、口論の末に刺し殺してしまった。こうしてドリアンはグラディスと婚約をした。そのころ自殺したシビルの兄ジェイムスは、妹の仇(かたき)がドリアンであることをつきとめた。だが、復讐しようとドリアンの別荘の庭に忍び込んだところを、ドリアンに野ウサギと間違えられて射殺されてしまった。数々の放埓な生活や悪徳に染まる苦しみから逃れるために、ドリアンは呪われた肖像画を破り捨てようと決意した。そして自分の肖像画の心臓にナイフを突きたてた。するとナイフはドリアンの心臓に突き刺った。絶命したドリアンの顔は醜い老人の顔となり、醜かった肖像画の方は美しい青年の姿に戻っていた。
(参考)
「ドリアン・グレイの肖像」は、オスカー・ワイルドの唯一の長編小説。
「オスカー・ワイルド」の写真はこちらへ
「W Graham Robertson」(サージェント)の絵はこちらへ(ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』のモデルといわれる)
(小話237)「あの世での嫁と姑」の話・・・
ある村で、意地悪な嫁と、時を同じくして、嫁に嫌われていたしっかり者のお婆さん(姑)が亡くなった。嫁は、あの世で、臼(うす)の中に入れられてはひかれ、元の人間にされてはひかれ、大変に苦しんだ。一方、お婆さんはあの世で、沢山の御馳走を頂いて、安楽に暮らしていた。ある日、お婆さんは、このように苦しんでいる嫁を見て、可愛そうに思い「あれは、私の嫁ですから、どうか許して下さい」と神様にいった。「これは悪魔であるから、許すことはできない。しかし、今回はあなたに免じて許してやりましょう」と言って、嫁は許された。その後、二人は一緒に暮らしていたが、ある日、山に遊びに行こうということになった。山道で嫁は、水が飲みたくなり、ようやく泉を捜し出した。そして水を飲んだが、嫁は自分が水を飲み終わると、その中に足を突っ込み、洗い始めた。お婆さんが、「どうしてここで足を洗うのか」と言うと「もう、私は水を飲んだから、後の人はどうでもよい」と言った。お婆さんは、大変腹をたて、嫁を泉に突き倒した。それで、嫁は又、元の地獄に戻って、再び臼にひかれ、苦しんだという。
(小話236)ある「貧乏な男と亀」の話・・・
九州地方の民話。昔、貧乏な男が海岸に流木を拾いにいくと、砂浜に卵を産んだ亀を見つけた。親亀は、人がいて卵に近づくことができないでいた。男は亀の卵を掘り出して親亀に渡してやった。男が木を拾って家に帰ろうとしていると、親亀がきて、お礼がしたいといった。男が亀の甲羅に乗ると、やがて海の底の龍宮城に着いた。亀は、男に、乙姫様が何が欲しいと聞いたら、あなたの一人娘が欲しいと答えなさいと教えた。男は乙姫様の前に連れていかれ、御馳走になった。乙姫様が何か欲しいものはないかとたずねたので、男は乙姫様の一人娘が欲しいといい、娘をもらって帰った。娘は小箱をもっていた。男が娘をもらって家へ帰ってからは、不思議なことに食事の心配もなくなり大金持ちになった。そのうち子供が三人できた。妻は、水浴するところをのぞいてはならないと夫にいって奥座敷の真ん中で障子を締め切って水浴した。ある日、夫が指に唾をつけ、障子に穴を開けてのぞいてみると、たらいの中に大きな魚の姿になって水浴していた。妻は、もう一緒に暮らすことはできない、末の子は連れて行くが、二人の子は残していくといい、小箱を夫に与えた。この箱を開ける時は、二つの足を水に入れて開けるのですよといって龍宮城へ帰って行った。男は、そういわれた事も忘れて箱を開けると、白い煙がでて、もとの貧乏になってしまった。だが、男は子供たちと一緒に海で魚を取って幸せに暮らしたという。
(小話番外・小話235=差替版)「若くて美しい女性ベアトリーチェ・チェンチ。その苛酷な運命と父親殺し」の話・・・
          (一)
伝説より。1577年2月6日、ベアトリーチェはローマ貴族の中でも、莫大な富と権力を握る名家として知られるチェンチ一族の娘として生まれた。一族の長(おさ)、フランチェスコ・チェンチは、当時のイタリアの貴族らしく、悪逆非道の放蕩者で、家庭では暴君であった。フランチェスコ・チェンチと妻エルシリアの間には七人の子供があって、ニ人の娘のうち妹がベアトリーチェであった。ベアトリーチェの母エルシリアは84年に亡くなり、フランチェスコ・チェンチはルクレツィア・ペトローニという女性と再婚した。彼は最初の妻エルシリアと結婚していた時も、暴力と倒錯的な行為で裁判沙汰になっており、ルクレツィアと再婚した後(のち)も、その暴虐はいっそう激しくなっていくばかりであった。放蕩者のフランチェスコ・チェンチは、強姦、誘拐、殺人、借金、裁判沙汰などの極悪非道の限りを尽くして、やがてローマにいられなくなり、ベアトリーチェの姉が嫁いだ直後、後妻のルクレツィアとベアトリーチェを連れてナポリに近い山奥の村ペトレッラの城へ避難した。その時ベアトリーチェは十五歳であった。七歳で母親を亡くしたベアトリーチェは、その時まで修道院の寄宿学校で8年間の穏やかな生活を送っていた。しかし、父親の元へ戻されたとたん、そんな静かな生活は一変した。輝くばかりの美しい少女に成長すると、父親のフランチェスコ・チェンチは、彼女を誰とも結婚させないために、自分の宮殿の一室に監禁してしまった。そして、彼は毎晩ルクレツィアとベアトリーチェの前であらゆる変態行為を見せつけるようになった。そして、父親のフランチェスコ・チェンチは、ベアトリーチェが十六歳になったある晩、暴力で無理やり自分の娘の純潔をうばったてしまった。それからの4年間ベアトリーチェは、父親に強姦される悪夢のような生活が続いた。ローマに住む兄ジャーコモと叔父に宛て、辛(つら)い生活から救い出してくれるように頼んだ手紙を父親に読まれ、ベアトリーチェは気を失うほど鞭(むち)で打たれた。これらが重なってベアトリーチェは、父親を深くうらんで復讐を思いたち、父親を殺す機会をうかがっうようになった。           (ニ)
こうしてベアトリーチェは、父フランチェスコ・チェンチに冷遇されていた長兄ジャーコモや夫の性的暴力に苦しんでいた義母ルクレツィア、そして、城の執事オリンピオと元使用人だったマルツィオを引き込んで、父親殺害の計画を練った。1598年のその晩、ベアトリーチェは父親に阿片(あへん)が入ったワインを飲ませ深い眠りにつくよう細工をした。そして、翌朝4時ごろに義母ルクレツィアとベアトリーチェはオリンピオとマルツィオをそっとフランチェスコの眠る部屋へ入れた。男二人は鉄槌と棒でフランチェスコ・チェンチをめった打ちにして殺害し、部屋から遺体を引きずりだすとバルコニーから下へ突き落とした。その間、ルクレツィアとベアトリーチェは血だらけになっていた寝具を捨てベッドを直し、召使が城へやってくる時を待った。やがて、城で働く老僕がやってくるのを見たベアトリーチェは父親がバルコニーから落ちていると叫んだ。バルコニーから落ちて死んだのに、早く葬式を済ませ遺体を埋めたがる不自然な行動をする遺族に対して、神父や周囲は疑惑を感じていた。殺害されたのではないかという噂が広まるにつれ、警察当局も不審を抱くようになった。ベアトリーチェたちは尋問を受けたが、家族も使用人もみな口裏を合わせ、バルコニーから落ちたと言い張った。しかし、尋問後に逃亡したオリンピオの行動がさらに不審を呼び、フランチェスコ・チェンチの遺骸は掘りおこされて検死にかけられた。そこで遺体の損傷は殴打であることが判明し、ついにベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャーコモ、マルツィオ、オリンピオなど事件に関係した全員(当時、家にいた若い弟ベルナルドも逮捕)が逮捕された。その時、すでに死亡していたオリンピオを除く全員が次々と拷問(拷問中、マルツィオは死亡)にかけられ、全てを白状していく中で、ベアトリーチェひとりは頑(がん)として無実を主張した。彼女は、数々の拷問をうけた。髪の毛で吊り下げられる残酷な拷問であったが、彼女は苦痛に顔色ひとつ変えず、頑として自白しなかった。これには裁判官も驚嘆した。だが、共謀加担で、まだ年若い弟ベルナルドにまで、拷問をして白状させようとしたので、ついに彼女は罪を自白した。家長殺害は極刑に値する重罪だった。牢屋の中でベアトリーチェは、断頭の刑に処せられるため、邪魔になる長い黒髪をまとめて頭にターバンを巻かれた。ローマ市民はベアトリーチェに深く同情し、死刑に反対したが、その前に立ちはだかったのはバチカンだった。時の教皇クレメンス8世は、チェンチ家の領地と財産の没収を企み、一族全員の死刑を言い渡した。
(参考)
@家長殺害・・・家長殺害は極刑に値する重罪とはいえ、殺人が堪えなかった当時、名門のチェンチ家は、一人の人間を殺しただけで一家断絶に近い厳罰を受けた。 A頭にターバン・・・「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」は、処刑の直前、牢屋にいたベアトリーチェを、チェンチ家とゆかりのあった枢機卿が「孤独な隠者」と言われた画家グイド・レーニ(1575-1642)に命じて描かせたと言われている。グイド・レーニの描いたこの肖像画によく似た絵がある。1665年頃に描かれたフェルメールの「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」(別名に「北方のモナ・リザ」とも言われている)」 (1661-63年頃)は、同じターバンに、同じポーズをしている。フェルメールはグイド・レーニを知っていたように思われる。
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像(小)」(グイド・レーニ)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像(拡大)」(グイド・レーニ)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像をスケッチしているレニ」(レイナルド・レオナルディ)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(不明)の絵はこちらへ
「ルクレツィア・ペトローニ」(不明)の絵はこちらへ
          (三)
     1599年9月11日、ベアトリーチェら三人が処刑される日のローマのサン・タンジエロ橋まえの広場には、大ぜいの見物人が黒山のように集まった。ベアトリーチェは絶世の美女であり、しかも彼女の犯行には、世間の同情をひくような点があったからであった。乱暴な父親に無理やりはずかしめられた彼女は、不幸な生活にたえきれなくなって、あのように怖ろしい親殺しの罪を犯してしまったのだ。刑場へ運ばれる前に一度、ベアトリーチェは絶望の発作とともに「ああ、神さま、どうしてわたしはこんなに不幸に死なねばならないのでしょうか!」と叫んだが、礼拝堂で膝まずいて深く祈ると、すっかり冷静さをとりもどし、あとは死ぬまで、一度も取り乱したりはしなかった。処刑はまず、義母のルクレツィアの首が落とされ、次いで兄ジャーコモ、そしてベアトリーチェの順に執行された。彼女は最期まで毅然とした態度で、自ら首を斧の下に差し出した。断頭台で、処刑されたとき、ベアトリーチェは、やっと二十二歳であった。若すぎるという理由で死刑を免れた弟のベルナルドは、残酷にも処刑台の上で兄姉が殺されていく様を見させられた。ベアトリーチェの父親殺害事件は後(のち)に「ベアトリーチェの美しき親殺し」という名でよばれた。
(参考)
@処刑された・・・ローマを一望できる丘の上に建つサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に、ベアトリーチェは眠っている。「ローマを見渡せる丘の上に自分の墓を作って欲しい」それは、名前も墓碑銘も刻まない事を条件に、裁判官が聞き入れたベアトリーチェの最期の願いだったという。
Aやっと二十二歳・・・スタンダールの小説「チェンチ一族」では、14歳で父を殺し、16歳で死刑(実際は、殺害時に20歳、死刑時に22歳)になったという内容である。
Bベアトリーチェ・チェンチ事件を扱った有名な小説「チェンチ一族」(スタンダール著=1837年作)はこちらへ
C「ベアトリーチェ・チェンチ事件の真相」はこちらへ
「ローマにて」(不明)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(ハリエット・ホズマー)(19世紀に作られた彫刻)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(ハリエット・ホズマー)(19世紀に作られた彫刻)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェの彫像」(ジェリードーナル)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(カメロン)(1870-?-1868)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(ビンチェンツォ)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(ドラロージュ)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」(不明)の絵はこちらへ
「ベアトリーチェ・チェンチ」のメダルの絵はこちらへ
(小話235)ある「美しき親殺し」の話・・・
    (一)
スタンダールの短篇(チェンチ一族)より。これは、1598年にイタリアの名門の貴族フランチェスコ・チェンチという男の家庭で起こった実話である。フランチェスコ・チェンチは、当時のイタリアの貴族らしく、悪逆非道の放蕩者で、家庭では暴君であった。彼には、子供が7人あって、2人の娘のうちの妹は、ベアトリーチェとよばれた。このベアトリーチェがようやく14歳になって、輝くばかりの美しい少女に成長すると、父親のフランチェスコは、彼女を誰とも結婚させないために、自分の宮殿の一室に監禁してしまった。そうしてある晩、暴力で無理やり自分の娘の純潔をうばったのである。このため、ベアトリーチェは父親を深くうらんで復讐を思いたち、機会をうかがった。父に冷遇されていた兄や夫の性的暴力に苦しんでいた義母とともに陰謀をめぐらして、ある夜、二人の家来に金をやる約束で、アヘンを飲まされて熟睡している父を殺させたのである。2人の家来が去ると、義母と娘は力をあわせて、死骸をシーツにくるんで、庭のニワトコの樹のうえ投げすてた。だが、この殺害はすぐと発覚し、殺害に関わった全員が逮捕された。彼女は捕えられて牢屋にぶちこまれ、数々の拷問をうけた。髪の毛で吊り下げられる残酷な拷問であったが、彼女は苦痛に顔色ひとつ変えず、頑として自白しなかった。これには裁判官も驚嘆したという。
    (二)
ベアトリーチェら3人の処刑の日、ローマのサン・タンジエロ橋まえの広場には、大ぜいの見物人が黒山のように集まった。ベアトリーチェは絶世の美女であり、しかも彼女の犯行には、世間の同情をひくような点があったからである。乱暴な父親に無理やりはずかしめられた彼女は、不幸な生活にたえきれなくなって、あのように怖ろしい親殺しの罪を犯してしまったのだ。刑場へ運ばれる前に一度、ベアトリーチェは絶望の発作とともに「ああ、神さま、どうしてわたしはこんなに不幸に死なねばならないのでしょうか」と叫んだが、礼拝堂で膝まずいて深く祈ると、すっかり冷静さをとりもどし、あとは死ぬまで、一度も取り乱したりはしなかった。断頭台で、処刑されたとき、ベアトリーチェはやっと16歳であったという。ベアトリーチェの父親殺害事件は後に「ベアトリーチェの美しき親殺し」という名でよばれた。
(参考)
@同時代の画家グイド・レニが彼女の絵を描き残している。
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像(小)」(グイド・レーニ)の絵はこちらへ
(小話234)ある「思いやり」の話・・・
ある教授が、タイの重度障害児の施設を訪問したときの話である。「一つの部屋に入った。台所が近いためか、水で一面が濡れているコンクリート上に、2人の子どもが横たわってい。1人は足が全く動かないのだが、上半身は何とか、床から持ちあげることができた。しかしもう1人の子どもはごろりと仰向けのままであった。ところが上半身を起こしている子どもは、自分に与えられている食べものをスプーンで掬(すく)っては、仰向けの子どもの口へ、ゆっくりゆっくり、入れている。一口食べてはニッコリ微笑む子どもの顔は、美しく輝いていた。一方食べさせている子どものほうは口をへの字に結んで、真剣そのものである。スプーンをもった痩せこけた手はぶるぶる震え、うまく相手の口へもっていけないのだが、その子どものその行為に私たち訪問者全員が、深く感動したのであった。あとで聞いてわかったのだが、指導者が速く、正確に、沢山できるようになることを求めて、巧みに指導していけばいくほど、子どもたちから意欲や生彩(せいさい)が失われていくことに気づいたために、今では、その方針をやめ、遅くても、へたでも、ミスしても、仲間同士が懸命に尽(つ)くし合うことを大切にしている、ということであった」
(小話233)ある「大きなヒョウタンと秘薬」の話・・・
ある友人が儒者の荘子に言った「魏(ぎ)の王さまから大きなヒョウタンの種を頂戴したので、さっそく植えてみるとそれに大きな実がなった。それが五石もの容量があり、実際に水入れの容器に使おうとすると、重すぎて持ち上げることが出来ない。しかたなく二つに割ってみると、今度は浅くて平ぺったいのでいくらも入りゃしない。けっきょく何の役にも立たないから、打ち砕いてしまったよ。それで君のことを思いだしてね」すると荘子が答えた「そりゃ、残念だったね。でもそうなったのは君が大きなものを使うのが下手だからさ。むかし、こう言う話があった。ある国のある一族は代々、冬でもひび・あかぎれができない秘薬を家伝して、真綿(まわた)を洗うことを家業としていた。ある時、一人の客が来て薬の製法を買いたいと言った。さっそく親族集まって話し合った。真綿を洗って稼いでもカネにもならない。今これを売れば百金の大金が手に入る。売ってしまおうじゃないかと。客は秘薬の製法を得た。後日、客は呉の王さまに秘薬を献上して仕えた。越と戦いが始まると王はこの客を将軍とし、冬、越との戦いにその薬を使って水中戦を仕掛け、大勝利を得えることができた。こうして客は一地方の領主となったのである。すべてものは使い方次第ってことさ。今君は五石のヒョウタンを持っているのなら、それで大樽をこしらえて、大河や湖に浮かべて遊ぼうとは思わないのか。無用だからと打ち壊してしまうのは、実利に拘束されて心がふさがっているからだよ」
(小話232)ある「父親の弁当箱」の話・・・
明治時代の話。ある少年には、家は貧しいけれども、性格がよく頭もいい仲良しの友だちがいた。ある日、その友だちが学校に来るとき、父親の弁当箱を間違えて持ってきてしまった。父親は木を伐採(ばっさい)する仕事をしていた。友だちは、お昼になって机の上に弁当箱を置いてみて、はじめて間違いに気がついたのである。でも、いまさら取り替えに行くことは出来なかった。そのとき、ふと思った。「僕の弁当箱は、いつも少ししか入っていないけれど、きょうはお父さんの弁当箱だから、ご飯がたくさん入ってるだろう、おかずも、多く入ってるだろうな」弁当箱のふたを開けてみて、思わず声を出して驚いた「あんな力仕事をするお父さんが、ぼくの弁当よりもご飯の量が少ない!」おかずは、生(なま)味噌と梅干だけだった。いつもの自分の弁当には、干物の一切れでも余分に入っているのに。夕食のとき、父親にそのことを言おうと思っていたら、父親のほうから先に言った「弁当箱、間違えて持ってったろう」「お父さん、ごめんなさい」「謝らなくてもいいけれど、おまえ腹減ったろう」と、自分の茶碗のご飯を分けてくれた。翌日、その友だちは仲のいい少年に言った「おれ、夕べ眠れなかったよ。絶対に、この親に心配かけちゃいかんと誓ったんだ」
(小話231)「少女パレアナ」の話・・・
    (一)
パレアナは十一歳のときに両親を亡くし、孤児になってしまった。そして、気難しい叔母にひきとられた。叔母の家に引き取られたパレアナは、何もない屋根裏の部屋を与えられ、ガッカリするが、しかし、すぐに「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」と言う。このようにパレアナは、どんなことにも喜びのタネを見つけだし、感謝に結びつけていく。それを彼女は「喜びの遊び」と名づけていた。苦しいことでも、悲しいことでも、つらいことでも、なんでも喜びにしてしまう。この「喜びの遊び」は、神父であった父から教わったもので、人形が欲しかったパレアナに松葉杖が送られたとき、父は「松葉杖を使わずにすむことを喜びなさい」と教えた。そこから何でも喜ぶ遊びを始めたのだった。叔母は突然舞いこんだパレアナを嫌がり、何かにつけて意地わるをする。パレアナは時にくじけそうになりながらも、「喜びの遊び」をつづけた。苦しいこと、悲しいこと、つらいことを喜びに変えようと努力して「喜びの遊び」の仲間を一人ずつふやしていった。やがて意固地で誰とも話をしなかった老紳士から、ひねくれ者でねたみばかり言っている寝たきりの病人に至るまで、みんながパレアナと友達になり、大人から子供まで村中の人が「喜びの遊び」に夢中になった。「喜びの遊び」は村がら町へと広がっていった。パレアナの周りは喜びでいっぱいになった。
    (二)
ところがある日、パレアナは交通事故にあい、片足を切断してしまった。失意のどん底に沈んだパレアナは、喜びを見つけることができなくなり、病床で悩みぬいた。そんなとき、最後まで「喜びの遊び」の仲間に入らなかった気難しい叔母が、ついに仲間になった。そして、病床に横たわるパレアナに向かって「町中の人がこの遊びをして、前よりもおどろくほど幸せになっている。これもみな、人々に新しい遊びとそのやり方を教えた、たった一人の小さな女の子のおかげなのだよ」と言った。叔母さんが「喜びの遊び」の仲間の一人だとわかったとき、バレアナは病床で手をたたき「ああ、あたし、うれしいわ」と叫んだかと思うと、突然言った「あら、おばさん、やっぱり、あたし喜べることがあるわ。とにかく、前には足があったということよ。そうでなかったら、そんなことがとてもできなかったでしょうからね!」 (参考)
「少女パレアナ」はアメリカの女流作家エレナ・ポーターの小説。
(小話230)有名な「鬼子母神(きしもじん)」の話・・・
鬼子母神は初め訶梨帝母(かりていも)という夜叉(やしゃ)で、王舎城の夜叉神の娘であった。とても美しい女神で、嫁(か)しては500人の子ども産んだ。鬼子母神はこの愛する子供たちを育てるために、人間の子供をさらっては食べていた。人間たちは子供たちをさらわれることを恐れ悲しみ、お釈迦様に相談した。お釈迦様は、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の愛奴(あいぬ)を神通力によって隠してしまった。鬼子母神は嘆き、悲しみ、必死になって世界中を気も狂わんばかりに探し回ったが、どうしても見つからなかった。途方に暮れた鬼子母神は、ついにお釈迦様の元に行き、助けを求めた。お釈迦様は鬼子母神に「500人の子供の内、たった1人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供を、お前にさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがお前にも今わかるのではないか?」そして「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない」と教えられ、子供を鬼子母神の元に返してやった。鬼子母神は今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依(きえ)し、これ以降、鬼子母神は鬼ではなく仏教と子供(安産と子育て)の守り神となった。 (参考1)
夜叉・・・人肉を食う悪鬼のことで、仏教では人の悪心の象徴とされ、後に仏教の守護神に転じて、毘沙門天に仕える鬼神のこと。 (参考2)
各地にある鬼子母神の像には、しばしば吉祥果(きちじょうか)を持っているが、これは心を入れ変えた後の鬼子母神は子供を食う代りに、この吉祥果を食うようになったといわれている。
(小話229)ある「長者の嫁と猫」の話・・・
民話より。むかし、むかし、ある地方に村一番の長者が住んでいた。あるとき、その長者の嫁が一人で留守番をしている時、飼いネコの三毛ネコが寄ってきて「ご主人様、これからわたしが踊りを見せてあげますよ。よーく見ていて下さい。それでもこのことは誰にも話さないでください。もし誰かに話しをしたら、生かしておかないからね」といって、おもしろ、おかしく踊ってみせた。嫁はあまりの面白さに、黙っていることができずに、みんなの前で得意気に話してしまった。すると、突然、三毛ネコが飛んできて、嫁ののどもとを食い切ってどこかに逃げていってしまた。嫁はそれがもとで死んでしまい、村一番の長者の家も、その後、落ちぶれてしまったという。
(小話228)ある「狩人(かりゅうど)」の話・・・
ある日、一人の狩人が木と木の間に棚を作って昼のうちは寝ていた。夕方になって、あまりに退屈なので、棚の下を見ていると、ちょうど下は水たまりになっていて、そこに三匹のミミズが這っていた。何気なくそれを見ていると、そこへ三匹のカエルが出てきて、そのミミズを一匹づつ呑(の)んで楽しそうに遊び始めた。狩人は面白くなってこれに見惚れていると、今度は、三匹の青大将が出てきて、そのカエルをみんな呑んでしまった。三匹の青大将がそこで遊んでいると、次には大きな猪(いのしし)が出てきて、その青大将を食ってしまった。そして大きな猪は、その水たまりで遊んでいたので、狩人はさっそく鉄砲を向けて撃とうとしたが、待てよと考えなおした。ミミズから青大将までの一連の出来事を思い浮かべて、もしかして自分がこの猪を撃ったならば、きっと自分も何者かが待ち受けていて、自分の命をとるのではないかと思った。そこで、急に鉄砲を天に向けてズトンと放つと、不意に狩人の真後ろで、「いい考えだ」と大きな声がした。驚いて振り返ったが、そこには何の姿も見えなかった。狩人は頭の毛が総毛立つほど驚いて逃げていった。
(小話227)有名な「三顧(さんこ)の礼」の話・・・
劉備( りゅうび )は、三国(魏、呉、蜀)時代の1つの蜀(しょく)の君主となった人物だが、諸葛孔明 ( しょかつこうめい )を軍師として迎えるまでは、群雄割拠の中、一方の雄となるほどの国を持つまでに至っていなかった。義兄弟で部下でもある関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)、そして趙雲(ちょううん)などは武勇に秀(ひい)でてはいたが、他の部下を見回しても、戦略家として優れた家臣は見当たらなかった。そのため、劉備は、最初、軍師として徐庶(じょしょ)という人物を用いた。徐庶はそれに応えて曹操軍との戦いなどで活躍した。しかし、徐庶の母が曹操に捕らわれてしまったため劉備のもとを去る際に、自分以上の才がある者として推挙した人物が諸葛孔明で、世間では臥龍( がりゅう )とも伏龍( ふくりゅう )とも 呼ばれていると教えた。徐庶を高く評価していた劉備は、次の軍師として諸葛孔明を迎えようとした。さっそく劉備(47歳)は関羽と張飛を従えて、遠くにある孔明(27歳)の住む庵(いおり)を訪問した。1度目は留守だったので伝言を残し、2度の留守には手紙をしたためて残した。そして三度目の訪問では孔明は昼寝中で、礼を失しないよう起きるまで待って、劉備は、孔明をついには軍師とするにいたったのである。そして、孔明は、主君の劉備に天下奪取・漢王朝再興を果たす段階的な戦略として「天下三分の計」を進言したのだった。 (参考)
「天下三分の計」・・・魏の曹操と対抗し漢王朝を再興するには、呉の孫権と同盟し、劉璋の蜀の国を占領して、互いに勢力を拮抗(きっこう)させ、魏を滅ぼした後に呉を滅ぼして蜀が天下統一する戦略。だが、三国時代は、最初、蜀が滅亡し、魏の司馬炎が晋王朝を建てた後、呉が滅びて終結する。
(小話226)ある「若者と母親」の話・・・
今から20年前の話。大学を卒業した若者が、ある会社の面接試験を受けたときのことである。その席で社長が言った「君は今まで親の体を洗ってやったことがあるかね」「いいえ」と若者は正直に答えた。すると社長は「すまないが、明日もう一度ここへきてくれないか。しかし、ひとつ条件がある。それまでにぜひ親の体を洗ってきてほしいのだが、できるか」と聞いた。彼は「はい、なんでもないことです。やってきます」と答えて、家へ帰った。この若者の家は貧しく、父親はすでに亡くなっていて、母親が呉服の行商(ぎょうしょう)で働いて、子供を大学にまでやったのである。その日、彼が家へ帰ると、母は行商に出掛けていてまだ帰っていなかった。彼は、帰ってきたら、外へ行って足を汚しているに違いないから、足を洗ってやろうと決めて、たらいに水をくんで待っていた。そこへ母親が帰ってきたので「足を洗ってやろう」というと「自分で洗う」という母親に洗わなければならないわけを話した。そして母親の足元へたらいを持っていって彼は「さあ、ここへ足を入れて」というと、母親はいわれるままに足を入れた。彼は右手でその足を洗おうと思って、左手で母親の足を握った。だが握ると同時に彼は、両手で母親の足にすがりつくとつい泣きだしてしまった。握ってみて、母親の足がこんなに固い足になっていたのを初めて知ったのである。学生の時、毎月送ってくれる学資を「当たり前」のようにして使っていたけれど、あの金はお母さんがこんな固い足になって送ってくれていたのかということが、今初めてわかったのである。
(小話225)「舟のあやつりかた」の話・・・
孔子の弟子が、孔子にたずねた「わたくしは以前、川の難所と言われる場所を舟でわたりました。そのときの船頭の舟のあやつりかたは、まさに神わざでした。船頭が言うには「泳げる人ならば、すぐ舟があやつれるようになるよ。もし潜水できる人だったら、なおさらだよ」ということでした。どういう意味でしょうか」孔子は答えた「泳げる人が簡単に舟をあやつることができるのは、水を恐れないから、水の存在を忘れるからだ。潜水できる人ならばなおさら水を恐れないから、たとえ舟の難所と言われる場所でも陸地のように気軽に思えて、もっと簡単に舟をあやつることができるわけだ。潜水できる人なら、たとえどんなアクシデントが連続して起きようと、余裕しゃくしゃくで対処できるからだ」と。
(小話224)「林学者の本多静六」の話・・・
      (一)
明治三十七年、東京に、埼玉県の苦学生のための寄宿舎「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」が建設された。会の初代会頭は実業家の渋沢栄一、舎監の初代には、林(りん)学者の本多静六(ほんだせいろく)がなった。本多静六は宿舎建設のための多額の資金を同郷の大先輩である渋沢栄一に要請したとき、栄一は建設資金を出して、自分が埼玉学生誘掖会の会頭になることを約束し、次のように言った「会を設立しようとする者は、まず自分から模範を示して、資金を出さなければならない」これは静六にとって思いがけない一言で、以後、静六は人を頼りにすることをやめた。何とか埼玉学生誘掖会の設立にこぎ着けた静六だったが「次の育英事業は人を当てにしてはだめだ。自分一人の力でやろう」と、固く決心した。
      (二)
静六は、幼いころに父を亡くし、苦学して東京大学を卒業した。そして、日本最初の林学博士として活躍するその一方で貯金に励み、株や土地、山林への投資も積極的に行った。普段は質素な生活をしていたので、大学を退職するころには、静六は相当な資産家となっていたが、退職と同時にこの財産のほとんどを寄付してしまった「金は道楽でためたカスだから、残し過ぎると体や子孫に悪い影響を与える。他人に使う分にはいくら使っても害を与えない。かえって自分の体によい」。こうして静六は、昭和五年に約二七〇〇ヘクタールの山林を育英事業(奨学金設立)を奨める条件で埼玉県に寄付した。静六が寄付した県有林の一角には、記念碑が残されてる。昭和二十四年に除幕式が行われたが、そのとき、静六は「自分でやるべき仕事を、県でやってもらっているのだから、むしろ、僕が県や地元の方々に感謝している。だから、表彰を受ける筋合いではない。せっかくご招待いただいても、気恥ずかしくて出られない」といって、代理として子どもを差し向けたとのことである。
(参考)
寄宿舎は、平成十三年に閉鎖になったが、その間約一〇〇年にわたって、数千人もの優秀な人材を世に送り出した。
(小話223)ある「修行僧と托鉢」の話・・・
昔、祇園精舎の町でのこと。ある朝、働きに出る主人のために奥さんが、お昼弁当に餅(もち)を焼いていた。そこへ一人の修行僧が現われた。大変信心深い奥さんは、布施(ふせ)として餅の一つをこの修行僧に与えた。鉢の中に、その餅が入ると大変いい匂(にお)いがして、行き違った別の修行僧が「その餅、どこで貰ってきた?」「あの家だ」「そうか、オレも行こう」と言って、その家の前に立って釈尊の教えを唱えた。奥さんは、二つ目の餅をこの修行僧の鉢に入れた。これをかぎつけた別の修行僧もまた、この家の門前に立った。三つ目の餅、四つ目の餅と、とうとう主人のお昼弁当が、すっかりなくなってしまった。主人は怒って、祇園精舎にいる釈尊(しゃくそん)のところへ訴えて出た。「オレの弁当を全部もって行きやがった。そんな修行僧があるか」釈尊は、弟子に調べさせた。まさに、その通りであった。それからというもの、餅を焼く家の前で托鉢(たくはつ)をしてはならない、という規則が決められたと言われている。
(小話222)ある「カメとキツネの駆けっこ」の話・・・
   (一)
むかし、あるところに一匹のカメが住んでいた。ある日、カメは畑に種をまいていた。すると、そこへ一ぴきのキツネがやってきて「神様がおまえに力を貸してくださるように」と言って、そのままどこかへ行ってしまった。やがて夏の刈り入れの時がやってきた。すると、また、あのキツネが現われて「神様がおまえに力を貸してくださるように」と言って、またどこかへ行ってしまった。カメはいっしょうけんめい働き、取り入れも終わりになってきた。すると、またまたあのキツネが、こんどは大きな袋をかついでやってきた「おれの分け前をもらいにきたぜ」とキツネはカメに言った。「なにを言う、分け前なんて、とんでもない」とカメは怒った。「ひどいことを言うな、おれは神様がおまえに力を貸してくださるように、と二度も言っておまえの仕事を手伝ってやったじゃないか、だから穀物がよく実ったんだよ」「そりゃあ、おまえはそう言ったよ。だけどおれが頼んだわけじゃない。だから、おまえに分け前をやる必要はない」
   (二)
すると、キツネがこんなことを言いだした。「じゃあ、おれとおまえで、向こうの木からあそこの納屋まで駈けっこしよう。そして勝った者が穀物全部をもらうことにするんだ」「よし、それなら、まあいいだろう」とカメは、うっかり承知してしまった。でも、キツネの方が早いにきまっている。そこで、カメは知恵をしぼったあげく、うりふたつの弟に頼むことにした「おまえ、納屋にかくれていてくれないか。そしてキツネのやつが納屋まできたら、オレに代わっておまえがひょいと出てくれ」弟は承知して、先まわりをし納屋にかくれた。いよいよ、駈けっこがはじまった。キッネは、ものすごい勢いで駈けだした。カメの方は、ほんのちょつと走っただけで、すぐに藪の中にかくれた。キッネは無我夢中で息せき切って納屋に走りついた。ところが、そこにはもう先にカメがいるではないか。そして、カメの弟は言った「よう、キツネくん、おそいねえ、ぼくはとっくにきているんだぜ」と。でもキッネには、それが弟だとはわからない「ちくしょうめ、おまえはなんて足が早いんだ」とくやしいやら、恥ずかしいやらでキツネはしょんぼり帰っていった。
(小話221)「暴君と新しい王」の話・・・
中国は「春秋時代」のこと。ある強い国があった。その国の王が暴君であったため、反逆者によって暗殺された。そしてその反逆者が王位についた。新しい王は、自分への反逆者がでることを極度に恐れて、すべての重臣たちに、王に心から従うよう誓約書を書かせようとした。しかし、中にはこれを拒否する重臣もいた。そこで新しい王は、反対者を全員捕らえこれを殺そうと考えた。このとき、一人の忠臣が、こう言って王を諌(いさ)めた「大勢の怒りをかうようなことをしたり、自分だけの安全をはかろうとしても、それは不可能です。そのような方法で国を治めていくことはできません」と。新しい王は、自(みずか)ら深く考えて反対派の弾圧を取り止め、「徳」をもって国を治めることにしたという。
(参考)
衆怒(しゅうど)は犯(おか)しがたく専欲(せんよく)はなりがたし(左伝より)・・・大勢の怒りをかうようなことをしたり、自分だけの安全をはかろうとしても、それは不可能である。