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(小話260)「ある馬車競走」の話・・・
斉(せい)の家老はよく、斉の王族の子弟たちと大金をかけて馬車競走をしていた。家老の友人で兵法を極めた孫子が馬車のスピードを調べてみると、互いにそれほどの大差はなく、上中下の三ランクに分かれることがわかった。そこで孫子は家老にアドバイスした「今日はひたすら大金をかけてください。殿を勝たせてさしあげます」家老は信頼して、王とその子弟たちとの勝負に千金をかけた。レースは、三回対戦し、勝つ数をきそうものだった。試合開始の直前、孫子は家老に言った「三回あるレースのうち、第一回は殿の最低の馬車を、相手の最高の馬車にぶつけてください。第二回は、殿の最高の馬車を、相手の二番目の馬車にぶつけてください。第三回は、殿の中堅の馬車を、相手の最低の馬車にぶつけてください」こうして、三回のレースが終わった結果、家老は一回負けただけで二回勝つことができて、王の千金をせしめた。これを機に、家老は孫子を王に推薦した。王は彼に兵法についてたずね、斉の軍師とした。
(小話259)「大地主の川上善兵衛」の話・・・
    (一)
新潟県は上越市の大地主、川上家に、長男として生まれた善兵衛は、幼いころから厳格な教育を受け、明治の時代を敏感に感じながら成長した。また、川上家は代々、庄屋(しょうや)や村長などを務める家で、明治維新の際には勤皇方の志士に援助を与えていた。その影響を受けて善兵衛は勝海舟とも交流を持つようになった。善兵衛は幼いころから、冷害や洪水による農家の苦しみを見てきて、次第に産業を盛んにすることを痛感した。そこで、雪が降る上越の気候に合い、田んぼをつぶさずに、荒れた土地や山の斜面を利用できる作物を探して、ぶどうを使ったワインづくりを思い立ったのである。ぶどうは荒れ果てた土地でも栽培でき、ワインを飲料にすれば主食である米の節約に役立つことなどを考えて、善兵衛は十九歳になると独学で研究を始めた。各地でぶどう栽培、醸造技術などを学んで、二十三歳という若さで、莫大(ばくだい)な私財を投じ自宅の庭園を壊して開墾(かいこん)を始めた。そして、農民たちに「あなたたちの水田や田畑を取りあげるのではない。おれのうちの山で新しくぶどうづくりや果樹づくりをやっていく。この仕事には金はかかるが、あなたたちのためにもなることだし、地主も小作人もない。一緒になって協力してくれ。新しい産業が生まれれば、新しい村づくりにもなるのだから」と熱っぽく語った。こうして、自家葡萄園を持った本格的なワインづくりを始めたのだった。
    (二)
一方、善兵衛は三十三歳で高士村の村長になり、当時、難しかった学校の統合や建設、通学路の整備、稲作の試験田の設置などにも取り掛かった。また、善兵衛は、村長の報酬(ほうしゅう)はすべて村内の事業に費やした。家庭が貧しいために上級学校へ行けない子どもにはこっそり学費を出してやったり、伝染病棟の建築や各種事業へ多額の寄付をした。ある日、高士小学校を訪れた善兵衛に、校長が「あなたは日ごろ、地主様、旦那様、園主様、村長様、農会長様と呼ばれておられますが、ご自分で肥(こ)やしを運んで田畑にまいたことがありますか」と問うと、善兵衛は「ありますよ」と答えたので、校長が「それでは学校の畑にも肥やしをやってくれませんか」と頼んだ。善兵衛はすぐ承諾して、校長と二人で糞尿(ふんにょう)を肥桶(こえおけ)に入れて畑に運び作物に施(ほどこ)した」これは当時の児童が、肥料を扱うのを嫌う傾向が出てきているのを戒(いまし)めるため、校長とともに実演したもので、村長であり農会長でもある葡萄園の大旦那様でさえ率先(そっせん)して何でもやるのだということを教えたのであった。
(小話258)ある「アメとムチ」の話・・・
宋(そう)の国の子罕(しかん)という大臣が王に言った「褒章(ほうしょう)は民が喜ぶアメでございますから、わが君みずから民にお与えください。死刑や刑罰は民がいやがるムチでございますから、今後はわたくしが行うこととし、憎まれ役をお引き受けいたします」宋の王は喜び、「わかった」と言った。その後、禁令を布告したり、刑罰を科したり、大臣を処刑するたびに、宋の王は「子罕に問え」と言った。かくしてほかの大臣たちは子罕を恐れ、国民も子罕に服従し、子罕の権力は王をしのぐようになった。一年後、子罕は王を殺し、政権を奪った。
(小話257)「孟子とある王の会話」の話・・・
孟子が、ある王に言った「王様の臣下の男が、はるか南方の国に旅行することになりました。男は、自分の妻子を親友に託し、留守中、よく面倒をみてくれるように頼みました。ところが帰国してみると、妻子はほったらかしにされ、飢えてこごえておりました。さて、そんな無責任な友人は、どうしたらよいでしょう?」王は「罰してしまえ」と言った。で、孟子は続けて「もし、上役人が、部下の役人たちをちゃんと治めることができなかったら、どうしましょう」王は「そんなやつはクビにしてしまえ」と答えた。さらに孟子は最後に「では、国内がうまく治まらなかったら、どうしましょう?」 王は何も答えられなかった。
(小話256)「王子様の不思議な病気」の話・・・
民話より。昔むかし、ロシアの国の王子様が不思議な病気になった。お城で何不自由なく、のんびりと、気ままに暮らしていたのに、何故、病気になったかわからなかった。国じゅうのお医者さんが、いろいろな薬を飲ませたが、どうしてもよくならない。とうとう王様は「王子の病気をなおしたものには、この国を半分やろう」とおふれを出した。国じゅうの人が、いろいろ考えたが、一向によい知恵は浮かばなかった。そのとき、国一番の物知りが言った「王子様のご病気は、少しも不満のない、幸せな人が着ている毛皮のシャツをお着せれば、みるみるうちによくなりますぞ」王様は、さっそく家来に言いつけて「本当に幸せな人」を探させた。しかし、そんな人は国中をくまなく探しが、見つからなかった。そんなある日の夕方、家来の一人が一軒のきたない小屋のそばを通りかかると、中から若い男のひとりごとが聞こえてきた「ああ、今日も楽しく働いて、楽しく食べたぞ。後は楽しく寝るだけだ。本当においらは幸せだなあ」これを聞いた家来は、大喜びで中へ入っていった。さっそく訳を話して、毛皮のシャツを譲ってもらおうと頼みこんだ。ところが、この幸せだという人は、とびぬけて貧乏で、着るものは着たきりで、毛皮のシャツなど全く持っていなかった。高価な着物なんか欲しくない、楽しく働けることが一番の幸せだ、と考えている人だった。
(小話255)有名な「杞憂(きゆう)」の話・・・
     (一)
杞(き)の国に心配性の小心な男がいた。彼は天が落ちてきて、大地が崩壊し、自分も死んでしまうのではないかと心配して、夜も眠れず食事ものどを通らなかった。すると、その男の心配ぶりを見て一人の友人が訪ねてきて、彼を諭(さと)して言った「天は気の集まりにすぎない。およそ気の無いところはない。現に、君はこのとおり、体をかがめたり伸ばしたり、息を吸ったり吐いたりして、一日中、天のなかで行動しているじゃないか。それなのに、どうして天地が落ちてくるなんて心配しなければならないのだ」「天が本当に気の集まりだとしても、太陽や月が落ちてくる心配は無いのだろうか」「太陽も月も、みな気の集まりのなかで光り輝いているだけにすぎない。だから、万一落ちてきたとしても、それが当たって人間が怪我をすることはありえない」「それじゃ、大地が壊れたらどうしよう」「大地は、巨大な土のかたまりにすぎない。世界の果てまでふさがっていて、どこまでいっても土のかたまりだけなのだ。現に君は、歩いたり跳ねたり踏んだりして、一日中、大地のうえで行動しているじゃないか。それなのに、どうして大地が壊れるなんて心配する必要があるのかね」これを聞いて、心配性の小心な男は、すっかり安心して喜んだ。
     (二)
この話を聞いた楚(そ)の学者が笑って言った「雲も風も雨も、四季の変化も、みな気の集まりが天のなかで作った現象である。また山も川も海も、金属も石も、火や木も、みな物質の集まりが地上で作った現象である。もし、これらがみな気の集まりであり、土くれの集まりであることがわかったならば、いつか崩壊しないはずがない。たしかに天地は、広大な宇宙の中のちっぽけな存在でしかないが、形のある物のなかでは最大の存在である。この天地の本質がとらえがたいのも当然だし、天地の未来が予測しがたいのも当然のことだ。かといって、天地が崩壊するのではないかと心配するのはあまりにも大きな話すぎるし、反対に、天地が決して崩壊しないと断言するのも正しくない。天地が崩壊する性質をもつなら、いつかは必ず崩壊するだろう。その崩壊の時期にぶつかったら、心配しないわけにはゆくまい」
     (三)
これらの議論を聞いて列子(れっし)は笑いながら言った「天地は崩壊すると主張する者も間違っているし、天地が崩壊しないと断言する者も間違っている。崩壊するかしないかは、人類にはわかるはずがない。崩壊すると主張するのも一つの見識、崩壊しないと主張するのも一つの見識である。だが、生きている者には死んだ者の世界はわからないし、死んだ者には今の生きた者の世界はわからない。未来の人間には過去のことはどうにもならないし、今の人間には未来のことなどわからない。天地が崩壊するかしないか、わたしはそんなことで思い悩みはしない」と。
(小話254)「馬を売る若者と伯楽(はくらく)」の話・・・
駿馬(しゅんめ)を売りたいという若者がいた。三日つづけて朝市に立ったが、誰も気づいてくれない。そこで「千里の馬は常にあれど、伯楽は常にあらず」(一日千里を駈ける駿馬はいつの時代にも誕生するが、その駿馬を見極める「伯楽」は、いつの時代もいるとは限らない)で高名な伯楽に会って頼んだ。「私めは駿馬を売りたいと思い、三日つづけて朝市に立ちましたが、誰も声をかけてくれません。そこでお願いですが、あなたに市場に来ていただき、いったん私の馬のまえを通り過ぎたあと、もどって私の馬を見てください。そして、立ち去るときも私の馬をふりかえってください。それで値段がはねあがったら、最初の値段との差額ぶんを謝礼としてさしあげます」伯楽はそこで言われたとおり、もどってきて馬を見、立ち去りつつ馬をふりかえった。その朝、彼の馬の値段は十倍にはね上がった。
(小話253)ある「醜い少女」の話・・・
     (一)
昔、ある村に一人の女の子がいた。父母のいない孤児で、家もなく、森の落ち葉の中にもぐり、橋の下に寝ていた。色は真っ黒で、髪はボウボウ、着物はボロボロ、身体は泥だらけで、村の子供たちは、あまりの醜さ、汚さに少女を「泥かぶら」と呼んで、石を投げたりしてからかった。少女の心は日一日とすさみ、粗野(そや)で凶暴な子になっていった。今日も今日とて、村の子供たちに嘲られ、くやしくて泣いていると、そこへ旅の老人が通りかかった。老人に少女が「きれいになりたい!」と泣きながら話すと、老人は、次の三つの事を守れば必ず、村一番の美人になれると言った。その三つとは「いつもニッコリ笑うこと」「自分の顔を恥じないこと」「人の身になって思うこと」である。少女の心は激しく揺れ動いた。しかし、美しくなりたい一心で、その教えを守ろうと努力を続けた。何度もくじけそうになり、弱気ななったが、気を取りなおして努力を続けていくうちに、いつしかその顔から憎しみが消えて心も穏やかになり、明るい子供になった行った。やがて「泥かぶら」と言われた少女は、村の人気者になり、村人たちの使い走り、赤ん坊のお守りが日課になった。
     (二)
そうしたある日、村の少女が、人買いに連れられていきそうになるところを目撃した。「泥かぶら」と言われた少女は、喜んで身代わりになり、人買いに連れられて村を出て行った。人買いは凶悪な心を持つ男だった。だが、少女は道々、楽しげに村のことや自分が世話した可愛い赤ちゃんのことなどを明るく話した。自分が売られてゆくことなど気にもしないで、喜んでいた。凶悪な人買いの心は次第に苦しくなり、とうとう少女の心に負けてしまった。彼は心が温かくなり、生きる喜びを吹きこまれたのである。彼は書き置きを残して、もう一度人生をやり直そうと立ち去って行った。「ありがとう。仏のように美しい子よ」その手紙を読んで、初めて老人の言葉を理解した少女の顔は、この上もない美しさに輝いた。
(参考)
@掘ったばかりで、泥だらけの大根、人参,牛蒡、蕪も水で洗うと、みな、綺麗な姿に生まれ変わっていく。
A真山美保の「泥かぶら」より。
(小話252)「観音さまの日」の話・・・
民話より。むかしむかし、ある村に、欲深い名主がいた。ある日、一人の男がやってきて「おら、食わせてもらえるだけでいいから、雇って下さい。ただ、先祖代々、観音さまを深く信仰しているから、観音さまの日だけは休ませて下さい」と言った。欲深い名主は、これは安い拾いものだと喜んで「うん、いいだろう」と、雇うことにした。ところが、次の日、雇った男が、働くかと思ったら、今日は何とか観音の日だから休み、次の日は何とか観音の日、次の次の日も何とか観音の日だから休むっと言って、ついには一ヶ月の間、一度も働らかなかった。観音さまは三十三あるから、欲深い名主はくやしくて泣くほど腹を立てたが、どうにもならなかった。雇われた男は一ヶ月の間、ただ食いをした後、欲深い名主の家から出て行った。
(参考)
観音菩薩は世間の人々の「救いを求める声」に応じてただちに救いの手を差しのべる菩薩で、三十三身に姿をかえるという。三十三観音(楊柳・竜頭・持経・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・一葉・青頸・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿摩提・葉衣・瑠璃・多羅・蛤蜊・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・灑水)
(小話251)「劉邦(りゅうほう)と韓信(かんしん)」の話・・・
農民の出身で漢王朝の初代皇帝(高祖)となった劉邦は、皇帝となったある日、名将の韓信に「わしは何人の軍隊の将軍になれるだろうか」とたずねた。韓信は「陛下の将器(しょうき)は、せいぜい十万の兵士の将軍になれる程度です」と答えた。劉邦が「それでは君はどうかね」とたずねると、韓信は「何十万人でも何百万人でも、多ければ多いほど良いのでございます」と答えた。劉邦は笑って「しかし君は以前、わしに負けて捕虜となったことがある。そして今はこうして、わしの部下となって甘んじておる。それはなぜかね」と言った。韓信は「陛下は、兵の将(しょう)たる器(うつわ)ではありません。しかし、将の将たる器でいらっしゃいます。そういうわけで、わたしは陛下の部下となってしまったのです。そのうえ、陛下の将器は天賦の才能です。皇帝の地位は人力で得られるものではありません」と答えた。
(小話250)「美しい娘と椿(つばき)の花」の話・・・
民話より。昔、夏泊半島の浦には、お玉という美しい娘がいた。娘は、都の神社の木を運ぶため毎年、訪(おとず)れる他国の船頭と恋仲になり、いつしか夫婦の約束をするまでになった。ある年、男が帰る日、お玉は「都の女の人は、椿の油を髪に塗り、いつも髪は、色も清く、椿の葉のように艶(つや)やかと聞きます。私のような漁師の娘でも椿の油を髪に塗ったら似合うでしょうか。こんど来られる時は、椿の実を持って来てくださいませんか。私も都の女の人ように髪に塗ってみたいのです」と恥ずかしそうに頼んだ。そして、二人は1年後の再会を約束して別れた。しかし、船頭は、年が明け、春になっても娘の元には帰ってこなかった。そして、その翌年も、又そのよく年も・・・。娘は、男が自分との約束を忘れてしまったのだと深く悲しみ、とうとう海に身を投げて自殺してしまった。娘を不憫(ふびん)に思った村人が、なきがらを埋めて塚に木を植えて弔(とむら)った。するとまもなく、船頭が現れて「事情があって、3年もの間、沖に出られなかった。あの娘は元気でいるか?」と尋ねてきた。村人から娘が自殺したことを知らされた男は、娘が眠る塚に座って、泣きながら嘆き悔(く)やんだ。そして「椿の油をいくら塗っても、もう、あの娘の黒髪は、二度と艶やかになることはない」と、娘と約束した椿の実を取り出し、塚のまわりに蒔(ま)いた。翌年、椿は見事に真紅の花びらをつけた。そして、数年たつと椿は塚のまわり一面、林のように広がったという。
(小話249)ある「王と「死の宿命」」の話・・・
ある日、斉(せい)の景公(けいこう)が、高い山にのぼった。北のほうを眺めると、都の町並みが眼下に見えた。彼ははらはらと涙を流して言った「緑(みどり)豊かな美しい我が国だ。私もいつか、このすばらしい世界を去って、死へと旅立つ日が来るだろう。もし昔から死という宿命さえなければ、私はこの美しい世界を去ってどこへ行こうとも思わぬのに」するとそばにいた大臣の晏子(あんし)が笑った。景公が、なぜ笑うのか、とたずねると、晏子は答えた「もし賢者や勇者が永遠の生命をもてるなら、わが斉は、開祖以来、わが君の御先祖たちが、いまだ君臨(くんりん)し続けているはずです。もしそうなら、わが君に出番が回ってくることも無かったでしょう。わが君はいまごろ、蓑(みの)笠を身につけて野良仕事の心配で、「死の宿命」などと悠長な感傷にひたるひまなど無かったはずです。代々のご先祖が、この世にいて、この世を去り、次々と交代で席を明け渡し、あなた様まで伝えてくれたからこそ、今のあなた様がおありなのですよ。もし、あなた様だけが「いつまでも死にたくない」と命を惜(お)しむなら、仁(じん)とは申せません。わたくしめは、不仁(ふじん)の主君に思わず笑ってしまったのでございます」景公は大いに恥じたという。
(小話248)「ある王と職人」の話・・・
ある国の王が、部屋の戸を開けて読書をしていた。庭の地面では、一人の職人が木を削(けず)って車輪を作っていた。彼は木槌(きづち)とノミを置くと、部屋にいた、王にたずねた。「おそれながらお尋ねします。王様が読んでおられるのは、何ですか」「聖人の言葉である」「聖人は、生きていますか」「とっくに亡くなった」「そういうことなら、王様がお読みなのは、古人の残りかす、ということですね」「余の読書について、車輪を作る職人ふぜいが議論するとは、ふとどきであるぞ。なにか説明があればよし、さもなくばそちを厳罰にする」「私めは、自分の経験から、そう思うのでございます。木を削って車輪を作るとき、少しゆるいとガタガタしてしまい、少しきついとピタリとはめ込めません。この、ゆるさときつさの微妙な手加減は、手や心では感じられますが、口では表現できませぬ。言葉で言えぬところに、コツがあるのです。私めは自分の息子にコツを口で伝えることができず、息子も私から教わることができません。こういうわけで、私めは今年で七十歳にもなるというのに、いまだに現役で、車輪を作らねばならぬのでございます。いにしえの聖人は、言葉では伝えられぬものといっしょに、とっくにお亡くなりです。ということで、王様がお読みになっているのは古人の残りかすにほかならぬ、と申しあげたのでございます」
(小話247)「宝暦治水と薩摩義士」の話・・・
  (一)
宝暦3年(1753)江戸幕府(将軍・家重)より薩摩藩(今は鹿児島県)へ「美濃(今の岐阜県)の国ヘ出向き治水工事をせよ」と言う幕命が下った。外様大名の大藩である薩摩藩の勢力を削ぐのと、木曽三川下流域の繰り返す甚大な洪水被害を防ぐための一石二鳥を狙った幕府の命令であった。薩摩では、美濃と何の縁もゆかりもない薩摩藩への幕命に、城内は騒然として、上を下への大騒ぎとなった「徳川を打ち倒す!」と意きりたつ藩士たちを制して、家老の平田靱負は「幕府と戦えば、この地は戦場となり罪のない子供、百姓までが命を落す。ならばこの治水工事を受けることによって美濃の民(たみ)百姓の命は救わられ、仁義の道にも添い、ひいては家安泰につながる」と藩士たちを説得し、藩主も決断した。こうして薩摩藩士一行は、遠い美濃まで総奉行・平田靱負以下947名で、宝暦4年1月、薩摩を旅立った。1ヶ月かけて美濃の国に着き、総奉行・平田靱負は揖斐川右岸の大牧に陣取って、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川の下流地域の堤防修復や堤防新築などにとりかかった。幕府方では江戸表から吉田久左衛門他37名、笠松郡代及び多良水行奉行所から29名加わって監督や指示をした。これに土地の人夫(農民)などを加えると、2000人にもなっていた。
  (二)
しかし、幕府の役人たちは、薩摩藩士の待遇について厳しいお触れを出し、食事は「一汁一菜だけ・酒や魚は禁止」で病気になっても必要以上に手当はしなくてもよい、蓑、草鞋も安く売らないようにと冷酷なお触れをだした。薩摩藩士は刀を鋤(すき)にかえて、河川工事に取りかかったものの、工事現場での間違いも、失敗もあり、幕府方の役人や土地の人夫から、腹をえぐるような皮肉や罵倒もしばしば浴びせられた。こうした中、着工して1ヶ月半経った4月14日に永吉惣兵衛、音方貞淵の2人が腹を切って亡くなった。一人が切腹すると、初七日(しょなぬか)ごとにまた一人、また一人と切腹した。幕府の理不尽なやり直し工事や監督役人の非道な仕打ちに、悲憤慷慨(こうがい)した藩士たちが相次ぎ、切腹していったのである。だが、幕府の「お手伝い普請」に抗議しての切腹では、お家断絶の恐れもあるため、表向きは「腰の物でけがをした」と処理されたのである。又、病を得ても看病は許されず、薬は与えられずに病死する者なども相次いだ。こうした幕府の厳しい監督にもひるまず、薩摩藩士は千辛万苦に耐え、堅忍不抜の精神を以って、1年1ヶ月かかって宝暦5年3月28日に工事の総てを完成させた。
(参考)
割腹52名・病死33名・総費用約40万両(約300億円)
  (三)
宝暦5年5月25日。総奉行・平田靱負は、主君・島津重年に工事完成の書簡を出し、養老町大牧において「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞ わずらふ 美濃の大牧」という辞世の句を残して自害した。治水工事完成までに自害・病死した藩士達、並びに工事の全責任を取ったのである。享年52才であった。だが、この治水工事は、莫大な工事費、多くの藩士の犠牲を招いたため、工事に従事した藩士らは国元に戻っても評価されず、口外することもはばかられたほどで、功績が明らかになるのは明治三十年代になってからであった。又、艱難辛苦の末の薩摩藩の治水事業が初めて公やけになったのも、徳川幕府が倒れた明治になってからである。そして、明治政府は1887年に木曽川下流の改修工事を行い、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの協力で、1912年に木曽三川の三川分流工事が最終的に完成したのである。
(参考)
@幕府方で唯一自害したのは内藤十左衛門義厚で、築堤工事の検査のときに工事が充分でなかったことを指摘され、その責任が主人におよぶのを防ぐため自害した。
A油嶋に築かれた締め切り堤の上に工事完成を記念して、薩摩藩士が千本近くの「日向(ヒュウガ)松」の苗を植えたものが成長して、今ではこんもりとした松林となっており、「千本松原」と呼ばれている。
(小話246)「非風非幡(ひふうひはん)」の話・・・
六祖(禅宗第六代目)が、まだ本当の身分を隠していたとき、ある寺に行った。寺ではちょうど説法(仏の教えの講習会)の最中で、説法を告げる幡(はた)が風にパタパタとはためいていた。それを見ていた二人の僧が、「因果(いんが)」について論争をはじめた。「あれは幡が動いているのだ」「いや、風が動いているのだ」堂々巡りで決着が着かなかった。六祖が脇から言った「風が動いているのでも、幡が動いているのでもありません。おふたりの心が動いているのです」二人の僧は、恐れいって立ちすくんでしまった。
(参考)
二人の僧の風が動く、幡が動くは当たり前で、六祖の心が動くはなかなかのものである。だが無門禅師は言う。風が動くのでない、幡が動くのではない、心が動くのでもない。無門が六祖の「心が動く」をはつきりと否定したのは「心が動く」が言葉とか文字が意味をもつ世界の言葉であるからである。これに対して言葉とか文字が意味を失う世界は言葉では表現できないが、敢えていうならば無にして有である世界、有にして無である世界、無でもなく有でもない世界、有でもなく無でもない世界を無門関の世界と称すると言われている)
(小話245)「孔子と顔回」の話・・・
孔子があるとき顔回(がんかい)に向かって言った「顔回や、君は家が貧しく地位も低い。どうかな、仕官をしてみては」「私は仕官など望んでおりません。なぜなら私には城下の外に田畑があり、それで粥(かゆ)ぐらいは食べられます。また城下にも僅かばかりの田畑があり、桑や麻を植えれば糸をつむぐくらいは出来ます。又、私には琴を弾じて自ら楽しむことで足りているのです。あなたから学んだ道は、「自ら足ることを知る」にあるではありませんか。だから私は仕官など願わないのです」孔子は顔回の言葉を聞いて、ハタと頷(うなず)いた「素晴らしいよ、君の信念は。私は聞いている。「足ることを知る者は、利益を求めて自らを苦しめず、道(みち)を体得して悠々自適するものは、失っても恐れず、修身理性するものは、地位が低くとも恥じることはない」と。私はこの言葉を教え続けてきたのだが、今、それを実際に体得(たいとく)した君を見るにおよんで私の得るものは大きい」
(小話244)「力持ちの女」の話・・・
   (一)
昔、尾張の国に一人の男がいた。男は役人で、その妻は、見た目は女らしく、夫によくかしずく申し分ない嫁であったが、力は男の何十倍もあった。あるとき妻は、夫のために丹精(たんせい)こめて布を織り、衣(ころも)をつくって夫に着せた。それは色柄といい仕立てといい、たいそうみごとな出来ばえだった。あるとき、男の上司である尾張の国守(こくしゅ)が、たまたまその男の着ている立派な衣服を見て、それが欲しくなった。そこで「そういうのは、汝ごとき下役人の着る衣服ではない。身分をわきまえよ」と、取り上げてしまった。帰ってきた夫に、妻が訊ねた「あなた、お召し物をどうされました?」「国守に取り上げられた」「まあ、なんということを。あなた、くやしくはございませんか?」「もちろん、たいへん悔しいさ」それならば、と、妻は、さっそく国守を役所へたずねて行った。そして言った「どうぞ、衣を返してください」「女のくせに厚かましい。かまわん、この女を追い出してしまえ」と、部下に命じて引きずりだそうとしたが、女の身体はびくともしない。そればかりか、女は親指と人指し指で国守の座席をひょいとつまみ、座ったままの国守を役所の外に運び出して、さらに哀願した「どうか夫の衣服を返してください」女のあまりの力の強さに恐れをなした国守は、青くなって衣を返した。
(参考)
国守・・・古代から中世にかけて、行政官として中央から派遣された官吏が国司で、国司の長官のことを国守という。
   (二)
妻は何事もなかったかのように家に帰り、取り戻した衣を洗いきよめて奥へ片付けた。しかし、これを知った夫の父母が嫁を恐れて、息子に「お前の嫁は大変なことをしてくれた。これからお前は何かにつけて国守にうとまれ、ロクなことはあるまい。まして国守にさえ、あんな乱暴するのだから、私たちに対してもどんなことをするか知れたものではない」と言い、嫁をとうとう実家に追い返してしまった。こうして出戻った女は、ある日、実家の里の船着き場で衣を洗っていた。そこへ通りかかった船の船頭が卑猥(ひわい)な言葉で女をからかった「おだまり。へんなことを言うとほっぺたをひっぱたくよ」と女が言うと、怒った船頭は船から飛び下りると、やにわに女を叩いた。女は、そんなことはおかまいなしに、荷を満載した船の先を半分ほど持ち上げて、船尾を水の中に沈めた。そして「あんたが失礼な口をきいた罰だ」と、今度はその船をずるずる陸へ引きずりあげた。船頭はぶるぶる震えながら土下座して「私が悪かった。勘弁(かんべん)してください」と平謝りに謝った。ちなみにその船は、百人が引いても動かない大きな船だったという。
(小話243)有名な「三方一両損」の話・・・
江戸時代のこと。ある畳屋が、年の暮れの物入りにあてるため、三両を借りいれて帰る途中、落としてしまった。それを建具屋の男が拾った。小判と一緒にあった手紙によって、落とし主は、畳屋のものと分かり、建具屋は暮れの忙しい中を四日も探し回って、遂に畳屋を見つけ出したのだが、この男なかなか強情で「一度落としたものは所詮(しょせん)わが身につかぬもの、お前さんが拾ったのは、天からの授(さず)かり物だから拾い得にしろ」といって受け取らない。建具屋も強情さにかけては一歩もひけをとらない。受け取ってもらうまではおいそれとは帰らない。こうして「受け取れ」「受け取らぬ」で大喧嘩となった。家主が仲裁に入っても双方聞き入れない。そこで町奉行所へ「恐れながら」と訴えでた。奉行の大岡越前守はこれを聞き、奇特なことと感心した。そこで落とした三両は公儀の御金蔵に収められ、あらためて御上(おかみ)より両名に三両くださるから、ありがたく二両ずつ頂戴せよと申し渡した。二両ずつなら四両になるが、と両人は不審に思って「その一両はどこから出るのですか?」とたずねた。すると越前守は、奉行もその方たちの正直を喜んで一両出したから、建具屋は三両拾(ひろ)って二両貰(もら)うゆえ一両損、畳屋は三両落として二両もどったから一両の損、奉行も一両の損、これを「三方一両損(さんぽういちりょうそん)」といって申し渡したので、大岡奉行の裁きに一同感心したという。
(小話242)ある「少年とバラの花」の話・・・
一人の少年が八歳のときの経験したことである。ある朝、小学校の図画の時間で、クラスの全員がクレヨンでバラの花を写生していた。すると突然、少年から、先生がその絵を取り上げ、それを教壇の上からクラス中に示して叱りつけた。「見た通りに描けとあれほど言ったのに、何故見た通りに描かないのですか。先生の言った通りに出来ない子供は心のねじけた子供です」そして罰として、少年は教室の隅に立たされた。少年には何のことやらわからず、泣き出してしまった。一所懸命に見た通りに描いていたのに。この少年は、自分が「色盲(しきもう)」であることを知らなかったのである。しかし、教師は、少年の「色盲」に気がつかなかったとはいえ、世界は誰の目にも同じに見えているのだと思いこんで、生徒の心を深く傷つけてしまったのである。
(小話241)有名な「エジソンの疑問」の話・・・
    (一)
エジソンの子供のころの話。エジソンは病気で、入学が少々遅れ、満8才で小学校に入学した。学校では、先生はたった二人。エンゲル牧師と奥さんである。いたずら少年エジソンは、真面目なエンゲル牧師と初めから相性が悪かった。ある日、授業でエンゲル牧師は「1足す1は、2だよ。みんな分かったね」と自信に溢れた顔で生徒達を眺め回した。「イエス・サー」生徒達は答えた。ところが、「何故ですか」と質問をする少年が一人いた。エジソンである。「何故って、1足す1は、2に決まってるじゃないか。鉛筆1本と鉛筆1本を並べてごらん。2本あるだろ」エンゲル牧師は、我慢しながら説明する。ところが、エジソンは納得しない。「でも、ここにコップが一つあって、もう一つコップがあって、その中の水をもう一つ別のコップに一緒に入れたら、一つになるじゃないですか。1足す1は、1かもしれない」「うるさい、ばか者。昔から、1足す1は、2に決まってるんだ」好奇心の強いエジソンは、不思議で仕方がない。
    (二)
「でも、1枚のお皿を落っことしたら、100個位のかけらになってしまった。そのかけらを100個、糊でくっつけたら、1足す1足す・・・100回足しても、1枚のお皿になるじゃないの。何故、1足す1は、2なんですか」「お前みたいな馬鹿者は見たことがない。お前の頭は空っぽか」人は好いが気の短いエンゲル牧師はついに爆発した。分からないことを聞いただけなのに怒鳴られたエジソンの心は傷ついて、泣きながら家に帰った。こんな日が続いた結果、エジソンはわずか3ケ月にして学校をやめた。学校が嫌いなエジソンに対し、元教師の母親は自らエジソンの勉強の相手になった。母親も好奇心が強い。二人は百科事典を片手に質問をぶつけ合った。なかなか答えが見つからないこともあるが、好奇心の強い二人で考え、議論を交わすことは楽しかった。母親との対話を通じてエジソンの好奇心は磨きがかかり、自分の頭で考える習慣が身についた。