小話集の書庫にようこそ
(小話241)から(小話260)はこちらへ
(小話281)から(小話300)はこちらへ
(小話280)「地獄と極楽」の話・・・
白隠さんが原の松蔭寺に住んでいたときに、お寺にある藩の立派な侍大将がやって来て「地獄、極楽というものは本当にありますか」と聞いた。白隠さんは「あなたは武士じゃろう。武士なら武士らしくすればよい。地獄じゃ、極楽じゃと迷っているようでは本当の武士ではない、偽(にせ)者じゃ」と罵倒(ばとう)した。侍大将は思わずカッとなって「失礼でござろう。人が仏法を丁重に問うているのにそれに答えず、わめくという法があるか」すると白隠さんさらに「怒ったか、面白い、この腰ぬけ侍め」完全に頭にきた侍大将は遂に刀を抜いて本堂に逃げる白隠さんを追いかけた。柱のかげに追いつめて、まさに切りかかろうとした時、白隠さんは突然、大声で一喝した「それ、それが地獄というものじゃ」ハッと気がついた侍大将は、その場に手をついて言った「ありがとうございます」たった今まで鬼のようだった侍大将の顔はおだやかで柔和な顔に変わっていた。すりと白隠さんは、間髪(かんぱつ)を入れず「それ、それが極楽じゃ」と大笑した。
(小話279)「琴を弾く老人と二人の美人」の話・・・
  (一)
ある男は成人になっても、仕官しようとはせずに道教の修業に励んでいた。琴が上手で「南風」という曲を得意としていた。ある時、船で南への旅行中、舟を岸に着けていたとき、書物を背負い琴を携えていた一人の老人に出会った。男は挨拶をして老人に尋ねた「おじいさんは琴を弾くのですね。「南風」はできますか?」老人は「いつも弾いている曲です」と答えたので、演奏してくれるように頼んだ。老人が弾くその曲は絶妙であったので、男は頼みこんで、その技法を全て伝授してもらった。老人に、どこに住んでいるのか聞いたが、笑って答えなかった。その後、北に帰るために、船に乗って川を下っていたが、ある岸にとどまって「南風」を弾いていると、竹カゴを下げた女性が現れて「わたしの奥様は琴が好きで、この近くに住んでいます。知らせに行きたいので待っていてください」と言った。男が承知すると、彼女はすぐに戻って来て「奥様は、あなたを招待したいとおっしゃっています」と言った。男はしばらく船の中で行くかどうするか考えたが行くことにした。
  (二)
しばらくすると、下僕たちが漕ぐ装飾された舟が現れたので、男は、これに乗った。一里ほど川を上ると、とても華やかな大きな建物に入った。二人の美しい女性が段上にいて、男がその前で礼拝すると、ひとりの美人が言った「あなたをお迎えしたことを変に思わないでください。あなたが「南風」を弾くことを知りました。わたしたちも、この曲を弾くのが好きなのですが、長いこと練習していなかったのでほとんど忘れてしまいました。わたしたちに、この曲を教えて下さい」男は承諾し、二人に琴を用意させて琴を弾いた。二人の美人は左右ですすり泣き、誰に教わったのかと尋ねた。男が老人の事を言い、その姿格好を話すと二人の美人は涙を流して言った「それは舜です。この曲をわたしたちに伝えるために、上帝があなたを遣わしたのです。舜の二人の妃であるわたしたちに伝えるために。舜は九天の役人で、別れてから千年経ちました。伝授されてから長い年月が過ぎてしまったために、わたしたちはこの曲を忘れてしまったのです」驚いた男は、数杯のお茶を飲み、早々に別れを告げた。美人は「あなたにはとても感謝しています。でも、絶対にこのことを他の人には言わないでください」と言った。男は門を出てまた装飾された舟に乗り、琴を弾いていた場所まで送られた。翌日男が、屋敷の場所を訪ねたが、そこには何もなく、あたり一帯はススキの原であった。
(参考)
九天・・・天の最も高い所を九天という。
(小話278)「須弥山(しゃみせん)の世界」の話・・・
増長天(増長天王)という神様は、東方の持国天王、西方の広目天王、北方の多聞天王とともに、私たち(人間)の住むこの須弥山世界を守っている、四天王のおひとかたで帝釈天に仕え、須弥山(しゃみせん)の中ほどにあって、南方を守護している。その姿は、赤い体をして怒りの形相を示し、甲冑(かっちゅう)を身につけて手には矛(ほこ)などを持つて立っている。須弥山世界とは古代インドの世界観で、須弥山という大きな山を中心に、ありとあらゆる生き物・生命あるものが生きているところで、この山の頂上には梵天と帝釈天に守護された仏様がおられ、九界の菩薩・縁覚・声聞・天上・人間・修羅・畜生、とだんだん裾野に達し、餓鬼・地獄と地下の世界に至る。その中で、人間たちは裾野にある大きな海の中の南閻浮(なんえんぶ)という島に住み、日本人はその中の南閻浮堤陽谷(なんえんぶだいのようこく)といわれるところに住んでいる。人間は、この山の頂上を極めて仏となろうとするのも自由ならば、転(ころ)げて地獄の深遠に落ちていくのも自由であるという。
(参考)
(1)増長天は五穀豊穣。
(2)持国天は国を支える。
(3)広目天は千里眼を持ってすべてを一切聞きもらさぬ。
(4)多門天は悪霊や夜叉を従え、邪悪を退治する。
(小話277)ある「水と宇宙」の話・・・
ある寺の和尚さんと小学生の会話。
「君の身体の約80パーセントは水分だよね。その水分は、昨日はどこにあった?」
「昨日いっぱい飲んだ牛乳かな」
「じゃその牛乳は三日前どこに?」
「牛のおっぱいの中」
「さらに一週間前は?」
「牛が食べた草の水分かも」
「その草の水分はどこから?」
「雨でしょう」
「雨はどこから?」
「雲でしょう」
「雲は?」
「海や川の水が蒸発してかな」
「そうしてたどっていくと、水はどこにも消えてないし、新しく生れてもいない。この地球ができた時からあるんだよ。それだけでも50億年だ。その地球の水だって、この宇宙のどこかにあった水だろう。つまり、君の身体の水分は宇宙と同じ時代を過ごしてきた。君の身体は宇宙と同い年なんだよ。すごいと思わない?」
(小話276)「かぶら婆とお地蔵さま」の話・・・
    (一)
昔、カブラを作るのが上手なお婆さんいた。村のみんなに「かぶら婆」と呼ばれていた。ある年のこと、長雨つづきでカブラがほとんどできなかった。たが、かぶら婆の畑だけには、何とか一つだけできた。かぶら婆は、いつもの年と同じように、村のお地蔵さまにたった一つのカブラをお供えした「お地蔵さま、今年も何とか一つでもお供えする事が出来ましただ。ありがどごぜました。来年は、みんなの畑さ、いっぱいできますように」そして、かぶら婆が顔を上げるとお地蔵さまの後ろに小さな女の子がいるのが目にはいった「あんれ、こんなとこでなにしてるんだ?」そしたら女の子は、小さな声で言った「腹へってもう動けねえだ。ばあちゃん、そのカブラを食わしてくれろ」「ああ、今お地蔵さまさ聞いてやるからな」そう言ってかぶら婆は、お地蔵さまに手を合わせた。そしたらお地蔵さまが、にっこり笑ったように見えた「ほんれ、お地蔵さまは子供の守り神さまだからのう。いいっていったよ。ほれ、食って元気出せ」たった一つのカブラをもらった女の子は、おいしそうにあっという間に食べた。食べおわった女の子に、話を聞いてみると、両親共、病気になって死んでしまったという。泣いていたら、木の実をくわえたカラスが飛んで行くのを見つけて追いかけてきたら、ここについたという。かぶら婆は女の子が気の毒になって、一緒に暮らすことにした。女の子は、かぶら婆の手伝いをして一生懸命良く働いた。冬にはわら仕事、春には畑を耕して、夏には草取りと焼き畑とかぶら婆に習っては、小さな体をせっせとうごかして良く働いた。女の子が良く働くお陰で次の年も、その次の年もかぶら婆の畑は豊作だった。
    (二)
ところがある年のこと、かぶら婆は腰を悪くして寝込んでしまった「かぶら婆、今まで働きづめだったから、ゆっくり休んでけれ。おれ、畑を荒さない様に一生懸命やっからのう」そう言って、女の子はかぶら婆の世話も畑の仕事も、小さな体で一人、精だして働いた。だけど、かぶら婆の畑だけは出来が悪くてやっと一つしか出来なかった。たった一つのカブラの刈り入れの日、女の子はかぶら婆が毎年するようにお地蔵さまにカブラをお供えした「お地蔵さま、たった一つだけどカブラが出来ました。今年は一人でやったもんで、うまく出来なくってもうしわけねぇだ。ただ、かぶら婆の腰を治してやってもらえねえだか。かぶら婆が元気になって、いつまでも一緒に暮らしたいで」女の子は、顔を上げてみてびっくりした。なんと、お地蔵さまにお供えしたカブラが真っ赤に染まっていたのである。女の子はあわてて家に帰ってかぶら婆に、赤カブを食べさせた。すると何と驚いた事に、婆の顔からしわがなくなって、頭から白髪がなくなって、曲がってた腰はシャーんとなって、まるで娘のようになってしまった「まんずたまげたぁ。どうしたことだね」「お地蔵さまが、おれの願いきてくれたんだぁ。バンザイ。婆とずっと一緒に暮らせる」女の子も、かぶら婆も手を取り合って喜んだ。それからは毎年、かぶら婆の畑で採れるカブラは、赤カブになって、かぶら婆は、みんながら「赤かぶ姫」って呼ばれて、女の子といつまでも元気に仲良く暮らしたという。
小話275)「兄弟と釣り道具」の話・・・
昭和のはじめの頃の話。ある村でのこと、お爺(じい)さんが二人の兄弟に釣りの道具作った。お爺さんは釣針を探して来て、それから細い竹を切って二本の釣竿(つりざお)を作った。「針と竿が出来た。今度は糸の番だ」とお爺さんは言って、栗の木に住む栗虫から白い糸を取りだした。お爺さんは栗虫から取れた糸を酢に浸(つ)けて、長く伸ばし、日に当てて丈夫な糸にした。「さあ、釣りの道具が揃(そろ)ったよ」と言って兄弟に渡した。二人の子供はお爺さんが作った釣竿を手に、大喜びで小川へ出掛けて行った。小川の岸に着くと、兄弟は鰍(かじか)のいそうな川岸の上(かみ)と下(しも)に、それぞれ陣取った。半日ばかりして、二人の子供は釣りをすまして家へ帰ってきた。お爺さんが「釣れたか」と聞くと、兄弟は首を横に振った。賢い魚は一匹も二人の釣針に掛(かか)らなかった。兄弟はお爺さんに釣りの話をした。兄はゆっくり構えて釣っていたものだから釣針にさした餌(えさ)はみな鰍に食(たべ)られてしまった。弟は弟で、魚の釣れるのが待遠しくて、魚が餌に食いつくまで待っていることができなかった。つい癇癪をおこして、水の中をかきまわしてしまった。お爺さんは子供の釣りの話を聞いて、人の好さそうな声で笑った。そして二人の兄弟に言った「一人はあんまり気が長過ぎたし、また、一人はあんまり気が短過ぎた。釣りは、道具がいくらよくてもお魚は釣れないよ」
(参考)
鰍・・・姿はみにくいが味は抜群。
(小話274)「最後の瞽女(ごぜ)・小林ハル」の話・・・
    (一)
1900年(明治33年)、新潟県三条市の農家で、小林ハルは4人兄弟の末娘として生まれた。生後まもなく白内障にかかり、両目の視力を失ったことが、ハルの行く末を決定づけた。「外聞が悪い」と祖父は幼いハルをいつも奥の寝室に置き、母は厳しく裁縫を仕込んだ。全盲の娘がひととおりの縫い物ができるまで、泣こうが、わめこうが容赦しなかった。そんな娘を不憫(ふびん)に思った父親は、人目を盗んでハルを抱いたりしてくれたが、彼女が2歳の時、病気でこの世を去った。母は口癖のようにハルにこう言った。「ハル、おらが死んだら、お前は一人で生きていかんならねえ。辛(つら)いことがあっても辛いと言うな。腹減っても、ひもじいと泣いちゃならねぇ」そんな5歳の時、村にやってきた瞽女(ごぜ)の親方に祖父はハルを弟子にするよう依頼した。こうして20年の年季奉公が決定した。以来、母親の躾(しつけ)はいっそう厳しくなり、縫い物ができないと食事も与えず、身の始末や洗濯まで、みっちり仕込んだ。そして7歳の時から血のにじむような三味線の稽古が始まった。三味線を弾くハルの細い指を親方が押さえ込み、糸道を辿(たど)らせた。幼いハルの手はいつも血にまみれた。そして「寒声(かんごえ)」と呼ばれる真冬の稽古は、毎日早朝や夜、川の土手に薄着姿で立ち、叫ぶように唄って声をつぶした。そんな修行に明け暮れるハルが、初めて親方に連れられて旅に出たのが9歳の時であった。小さな体に自分の分と、親方の分の荷物を背負って旅立つ娘に母親は言い聞かせた「一生、人のやっかいにならねばならないから、何かうまいもんがあっても自分は食べないで、まず人に食べてもらえ」。母親はいつまでも身をよじって泣きながら、ハルを見送った。瞽女としての旅は楽ではない。足のマメが痛かろうが辛かろうが、ひたすら山を谷を歩いて行く。瞽女の世界は、「掟」が厳しく、唄もうたえない新入りは風邪を引いても休めない、三度のご飯にもありつけず、やっと見つけた宿にも泊めてもらえないことが幾度もあった。
    (二)
1年の300日を旅から旅へ、ハルの10代は瞬(またた)く間に過ぎて行った。少女から娘へと成長したハル19歳の時、不幸な事件が起きた。彼女の歌声と三味線は多くの人々の心を打ち、若くて芸達者となったハルに嫉妬した姉弟子が、ある日ささいな事で逆上(ぎゃくじょう)して、ハルを突き飛ばし、ツエを振り下ろして、体中を力まかせに突いた。治療をした医師はハルに「子供の産めない体になった」ことを伝えた。そて以後、悲しみも喜びも、女性としての情念も、旅の空にただ棄てていくしかなかった。26歳になり年季奉公が明けたハルは、晴れて独立した。そんな時、思いがけない話が舞い込んだ。母親と死別した2歳の女の子を養子にもらって欲しいと言うのだ。ハルは喜んでその子を引き取った。「母ちゃん」そう呼ばれる時の何とも言えない、初めて味わう母としての幸せ。その時ハルの記憶が蘇った。これが実の母かと思うほど厳しかった母、しかし自分の死後、全盲の娘が一人で生きて行けるようにと、心を鬼にした母の本当の気持ちが理解できた瞬間だった。「おらの生みの親は、目の見えない子供を持って、どんげな苦しみしたやらとようやく分かった。自分は母に愛されていたんだ」。ハルが養母となって2年後、風邪をこじらせた養女は4歳の幼い命を閉じた。「本当に涙がこぼれるような事があっても涙を隠してきた。泣いてしまったら、唄になんねぇから」30代、40代のハルは人に求められるままに唄い、どんな者でも拒(こば)まず弟子として引き取った。目が見えない者が生きるには、人に与えつくせという祖父と母の教えを信じるハルは、苦労を自分から買ってしまうのだった。「良い人と歩けば祭り、悪い人と一緒は修行。難儀(なんぎ)な時やるのが、本当の仕事」終戦後、高度経済成長の時代を迎えた日本には、農村の隅々まで車が普及して、多くの瞽女(ごぜ)が廃業する中でハルだけは細々と続けていた。60歳の時、新潟の「出湯(でゆ)温泉」に定住し、湯治(とうじ)客相手に細々と「門付け」を続けていが、昭和48年のある朝、ハルは近所の神社にお参りをし一曲奉納した。そしてこう言って手を合わせた「瞽女は今日で、さよならです」
    (三)
こうしてハルが向かった先は、黒川村の老人ホームだった。人に迷惑をかけず、居住(いず)まいをいつも正し、ひっそりと生きるハル。しかし、「出湯温泉」時代の「門付(かどづ)け」をするハルの姿がテレビで放映されてからは一躍有名になり三味線、民謡や瞽女唄の先生として忙しい生活を迎えることになった。そして昭和53年、ハルは瞽女唄伝承者として、国の重要無形文化財「人間国宝」に選ばれた。「生きてみなきゃわかんねぇ。ほんに思いがけないことばかり」これをきっかけに、ハルは再び三味線を取ることになった。求められれば精力的に唄いに行き、人々に喜ばれた。ハルの新しい瞽女生活が始まったのだ。そんな昭和57年、ハルは周囲の勧めで、家を出て以来戻ることもなかった、自分の実家に里帰りをし、母の墓前に初めて立った。「おらの中に母さんは二人いる。死んだ本当の母と、おらの中に生きている母と」全盲の闇の中から放たれる光、ハルの人生は決して一人のものではなく、亡き父母や祖父と一緒に巡ってきた旅だったのかも知れない。又、ハルは、こうも述懐(じゅっかい)している。「生きてる限り、全部修行だと思ってきましたが今度生まれてくるときは、たとえ虫になってもいい、目だけは、明るい目をもらいたいんだ…」と。そして「最後の越後瞽女(えちごごぜ)」とも「鉄の女」「鋼(はがね)の女」とも言われた小林ハルは、2005年4月25日、老衰のため、特別養護老人ホームで亡くなった。享年105歳だった。
(参考)
@瞽女・・・室町時代、目の不自由な鼓打ちの女性を瞽女と読んだところからはじまり、江戸時代に瞽女集団として組織された。座頭(盲目の男性)のように全国的な組織を作らず、それぞれの地方で「瞽女仲間」と呼ばれる組織を作っていた。瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性の旅芸人であり、三味線に合わせて民謡、端唄、流行り唄などを歌い、お米やお金など貰って暮らしを立てていた女性集団で、その唄を「瞽女唄」と呼んだ(「越後瞽女」・「高田瞽女」・「飯田瞽女」等)。
Aはなれ瞽女・・・戦後まだ日本各地に残っていた旅芝居や大道芸。その中で、ひときわ異彩を放つのが三味線音楽を披露して村々を廻っていた「瞽女」たち。その多くは盲目の女達であり、彼女たちは3〜4人(盲目の女のため一人では危険)で、一組となり、山や谷を越えて村人に民謡や流行歌、そして、他の土地の情報を運んでいった。「瞽女」の掟は厳しく男と交わったものは仲間と共に暮らしてはいけなくて追放された。
B門付け・・・目の不自由な人達が、生きて行く為に、三味線を持って、民家の玄関、軒先で唄をうたい、その謝礼にわずかばかりのお米、あるいはお金をもらうこと。
(小話273)「運命の三女神」の話・・・
ギリシア神話より。運命の三女神(クロト・ラケシス・アトロポス)は、ゼウスとテミスの娘で、総じて女神モイラと呼ばれている。クロトは紡ぎ女(紡ぐ者)といわれ、人間の生命の糸を紡ぎだす女神で、ラケシスは分け前を測(はか)る女(割り当てる者)で、生命の糸の長さをはかりで測る女神である。アトロポスは免(まぬが)れ難い女(不可避の者)で、ラケシスが測った長さに生命の糸を切断する女神である。こうしてクロトが人間の生命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを決め、アトロポスが糸を切るのである。彼女らは子供が生まれて三日目の夜に子供の寝ている側へ行き、その子の運命を決める。これをモイラマと言いい、モイラマの夜は赤ん坊の生まれた家では奇麗に掃除をし、犬は鎖につなぎ、玄関の戸を少し開けておいて、ロウソクに灯(あか)りを点(とも)し、ケーキ・蜂蜜・パン・ぶどう酒などを食卓に乗せ、三人分のサジ、三人分の絹のハンカチなどを用意して、女神たちを歓待する準備をする。むろん赤ん坊はお風呂に入れてきれいにし、清潔なおむつをしてベッドに寝かせられる。三人が赤ん坊に与えるのは宿命に相当するもので、その運命が実現するかどうかは本人次第である。しかし三人の女神はその後も各人に働きかけて、その実現の手助けをする。従って幸福な運命を与えられた者にとっては、彼女等は守護神的な役割も果たす。しかし不幸な運命を与えられた者には、不幸になるように働きかける。彼女らの姉妹にネメシスとテュケがいる。ネメシスは復讐(義憤)の女神で、掟を破る者があるとその分の不幸を与えてバランスをとり、テュケ(幸運の女神)は非合理的な偶然や思いがけない幸運・また突然の不幸などを与える。ジプシーの間では、運命の三女神はウルメと呼ばれ、盲目の女たちであるとされている。

「運命の三女神」(サルヴィアーティ)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(BLAKE, William)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(タペストリー)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(ストラドヴィック)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(ルンド)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(グリーン)=木版画)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(アガッシュ)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(カステル・コッホ(赤い城)の客間)の絵はこちらへ
「三人の魔女(運命の女神)」(フュースリ)の絵はこちらへ
「運命の三女神」(アトロポス)の絵はこちらへ
「運命の三女神=マリード・メディシスの運命の糸を紡ぐモイラたち」(ルーベンス)

(1) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(2) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(3) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(4) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(5) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(6) 「運命の三女神」の絵はこちらへ***(7) 「運命の三女神」の絵はこちらへ

(小話272)「呉起(ごき)の生涯(兵法書「呉子」の作者)」の話・・・
        (一)
呉起は、若い頃に仕官を求めて全国を遍歴したが、全て失敗し、家産を失ってしまった。そのことを郷里の人たちに嘲笑された呉起は、それらの人、三十人余りを殺し、衛(えい)を出奔した。このとき、母親に「私はどこかの国の大臣、宰相にならなければ、衛には帰りません」と誓った。衛を出奔した呉起は、孔子の晩年の弟子である曽子(そうし)に学ぶが、母親が死んだ時に帰国しなかったため、薄情だとして、曽子から破門された。その後、魯(ろ)に仕えた。齊(せい)が魯を攻めた時に、魯の君主は呉起を将軍にしようとしたが、呉起の妻が齊の出身であったため躊躇した。そのため呉起は妻を殺して、齊に味方しないことを明らかにした。魯の君主は呉起を将軍に任命し、呉起は齊軍を打ち破った。その後、呉起が郷里で三十人余りを殺したこと、曽子に破門されたこと、将軍になりたいがために妻を殺したこと、齊に勝ったのは小国の魯にとっては禍である、などと誹謗されて、将軍を解任されてしまった。
        (二)
  当時、最も勢いがあったのは、魏(ぎ)で、魏王の文侯(ぶんこう)は広く人材を集めて、富国強兵に務めていた。呉起は、魏の文侯が、人材を求めていると聞いて、魏へと向かった。そして呉起は文侯に面会した。文侯が「私は戦争を好まない」というと、呉起は言った「私は、外に現れた事象によって真実を推測し、過去によって未来を洞察します。あなたは、なぜ心にもないことを言うのですか。戦争が嫌だとおっしゃるあなたが、今、職人達に何を造らせているのですか。獣の皮をはいで衣を造り、朱や漆を塗り重ね、絵の具で彩り、猛獣の絵を描いているではありませんか。また、長いのは二丈四尺、短いものでも一丈二尺もある戟(げき)を造り、大きさが家ほどもある実用一点張りの車を造っています。このような物を、あなたはどこでどう使うつもりなのです?もちろん、戦争のためでしょう。ならば、これらを実際に使いこなす人材が必要です。闘志だけでは殺されてしまいます。昔、諸侯の一人であった承桑氏(しょうそうし)は文徳だけを重んじ、国は滅びました。有扈氏(ゆうこし)は、軍勢だけを頼みにしたため、君主は地位を失いました。名君はこうした教訓を学びとり、内に対しては文徳、外に対しては武備を整えるのです。敵が攻めてきたのに、進んで戦おうとしないのは正義とは言えません。敵のために殺された人民のしかばね屍に涙をそそぐだけでは、仁とはいえません」この言葉に感じ入った文侯は、呉起を大将に登用し、西河(せいが)の守を任せた。魏の文侯に登用された呉起は、以来、主な会戦七十六回のうち、六十四戦は完勝し、あとは全て引き分けと、無敗を誇った。
        (三)
  文侯の死後、呉起はその子の武侯(ぶこう)に仕えた。魏で新たに宰相の位をおくことになり、田文(でんぶん)が宰相になった。このとき、呉起は自分こそが宰相にと思っていたため、非常に不満であった。あるとき、呉起は田文に議論を吹きかけた「あなたと功労を比べてみたいが、よろしいか」「よろしい」「三軍(上、中、下軍)に将軍として臨(のぞ)み、部下を掌握して彼らが喜んで国のために死ねるようにし、敵国がわが魏に対して計謀をめぐらさないようにさせる点では、あなたと私はどちらが上だろうか」「あなたにおよばない」「百官を指揮し、万民を統治し、国庫を充実させるという点では、どちらが上だろうか」「あなたにおよばない」「西河を守って、秦(しん)軍が魏を攻めようとせず、韓(かん)・趙(ちょう)をともに服従させるという点では、どちらが上だろうか」「あなたにおよばない」「この三点で、あなたは私より劣っているのに、位が上なのはどうしてだろうか」「主君がまだ年少で国中が不安を抱き、大臣は馴染まず、人民も信を置いていない。このような時期に宰相の地位を、あなたに託すべきか、私に託すべきか」ここで、呉起はしばらく黙り込んでから答えた「あなたに託すべきだろう」すると田文は「これが、私があなたより上位にいる理由なのだ」と言った。
        (四)
田文の死後、公叔(こうしゅく)が魏の宰相となり、呉起を追い払おうとした。公叔は魏の公主を妻としていたが、公主としめしあわせて、公主が公叔を冷遇しているのを呉起に見せた。一方で、呉起が他国に行かないように公主を娶(めと)らせようと武侯に進言した。呉起を魏にとどまらせるためにと武侯は、公主を娶ることを進めるたが、呉起は公主が、宰相である夫を賤(いや)しめるのを知っていたため、これを辞退した。武侯は、自分の勧めに従わない呉起を信用しなくなった。呉起は、やがて自分が罪に陥(おとしい)れられるのでは、と考えて魏を出て、楚(そ)へと向かった。当時の楚王は、悼王(とうおう)で、悼王は呉起の能力を知っていたため、呉起が楚に到着すると、すぐに宰相に任命した。呉起は、楚の国政改革に乗り出した。法を明らかにし、不要な官職を廃止し、余った費用を軍の強化へと回した。また、公族達に対しても、疎遠なものは免官し、未開地を開墾させたり、特権を制限したりした。こうした結果、楚は軍事大国となり、呉起は南方の百越(ひゃくえつ)を平定し、北の陳(ちん)、蔡(さい)を併合し、韓・魏・趙を退け、西の秦(しん)を討った。呉起の力によって、楚は強大な国となった。
        (五)
呉起の後ろ盾であった悼王が死亡すると、その日に、それまで特権を奪われた公族や大臣達は、呉起を怨み、殺害しようと一斉に反乱を起こした。呉起は逃げて、悼王の屍(しかばね)の所にいき、上から覆(おお)い被(かぶ)さった。反乱軍といえども、君主の屍にまで手は出さないだろうと考えての行動だったのだが、反乱軍はかまわず呉起を弓で射抜き、悼王の屍にまで矢が突き刺った。こうして、呉起は死亡した。この時、呉起と一緒に悼王の屍を射た者は、後日、ことごとく誅殺された。
(小話271)有名な「朝三暮四(ちょうさんぼし) 」の話・・・
宋(そう)の国に、狙公(そこう)という人がいた。サルをかわいがり、たくさん飼っていた。彼にはサルの考えがわかったし、サルたちもまた主人の心がわかった。狙公は、家族の口数を減らしてまでも、たくさんのサルを大切にしていた。だが、突然、貧しくなってしまった。しかたなく、餌(えさ)の量を減らそうとしたが、サルたちと自分が不仲にならないように、まずサルに言った「おまえたちに橡(とち)の実を与えるのに、朝三つ、夕方四つにしたら、足(た)りるだろうか」サルたちは一斉に立ちあがって怒りだした。狙公はすぐさま「わかった。それでは、朝四つ、夕方三つにしたら、足りるだろうか」と言い直した。すると、サルたちは大喜びして平伏した。
(小話270)有名な「美貌と知性のポンパドゥール夫人」の話・・・
    (一)
ポンパドゥール夫人は、結婚前はジャンヌ・アントワネット・ポワソンといい、パリの商人の娘に産まれた。母親はパリでも有名な美人で、それを引き継いだジャンヌも評判の美少女だった。9歳の時、占い師に「いつの日か国王の寵姫(ちょうひめ)になる」と予言された。少女時代を全寮制の修道院で過ごしたジャンヌは、19歳になって母親の愛人トゥルネーム(莫大な財産をもつ元スウェーデン大使で徴税請負人)の甥ル・ノルマン・デティオールと結婚した。そして、パリにあるトゥルネーム家のジェーヴルの館に同居し、セナールの森にあるエティオールの館が新婚夫婦に与えられた。ジャンヌがルイ15世と出会ったのはセナールの森で、ルイ15世が狩りに頻繁に訪れ、「セナールの森の妖精」と噂に聞く美人に会いたいと思うようになっていた。一方ジャンヌも王の目に留まることを期待していた。そんな折に、王の愛妾シャトールー公妃の急死した。王は彼女を公認の愛妾にし、一児の母であった彼女を夫デティオールと離婚させ、ポンパドゥール侯爵領(ポンパドゥール侯爵も侯爵夫人もすでに亡くなっている)を与えて、以後ジャンヌはポンパドゥール侯爵夫人(後に公爵夫人)と呼ばれるようになった。
    (二)
彼女はその美貌と豊かな教養や知性でルイ15世を虜(とりこ)にした。だが、事実上の愛人であったのは、30歳前くらいまでで、ジャンヌは元々病弱で、また性に関しては淡白だった。ルイ15世は美男子だったが、その生い立ち(幼くして両親や兄弟を亡くした)から、憂鬱で気紛れという性格であった。そこで、彼女は自分の教養や知性を駆使するだけでは駄目と感じて、「鹿の苑(その)」と名づけた女の苑をヴェルサイユの一角に作った。王の好みの美しい若い女性を集めて、相手をさせた。王の相談相手(20年間、寵姫の座にいた)となったジャンヌは政治的にも発言権を持ち、その手腕を発揮した。彼女は36歳で病床につき、43歳でこの世を去った。ポンパドゥール夫人が死んだとき、彼女の敵の一人は、こんな墓碑銘を考え出したという「二十年は処女、十五年は娼婦、七年は女衒(ぜげん)であった女、ここに眠る」。
(参考)
@寵姫・・・国王の正式の愛人。日本で言えば側室。王妃や宮廷に正式に紹介され、身分は王妃に準じる。だから、寵姫になったら、お金も権力も欲しいがままで、それ目当てに廷臣などが群がり、さらに権力は拡大される。
A女衒・・・遊女の周旋、口入業者の事。人買いとも。女を勧誘して娼家に売り飛ばすのを職とする。
Bポンパドゥール夫人の功績は、文化・芸術での面で顕著である。当時のファッション・リーダーでもあった彼女はその名のついたポンパドゥール・スタイルを確立させたり、「百科全書」の刊行を支援したり、変わったところでは陸軍士官学校を設立した。又、セーヴル陶器は「国王の青」と「ポンパドゥールピンク」で有名だが、その保護者でもあった。建築や室内装飾、絵画、料理に至るまで、ロココ芸術の原点を作った女性とも言える。
(小話269)ある「有名な人物鑑識法」の話・・・
戦国時代に名君といわれた魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)は、ある時、重要な大臣を決めなければならないことがあったたが、その候補者が二人いて、決めかねていた。文侯は、最も信頼する家来の一人を呼んで、どちらを任命すべきかを尋ねた。ところが、彼は候補者の一人に世話になっていた。彼は遠慮して「私ごとき者がさような国家の大事にあえて発言するわけにはまいりませんから、御免こうむります」と言った。文侯は「そんなに遠慮に及ばん。これも国家のためである。一つ忌憚(きたん)なくいってもらいたい」と言った。彼は「それでは申し上げますが、その前に人を見る観察法を述べます(1)平生どういう人物と親しいか、だれと友達になっているかを観る(2)金があればどう使うかを観る(3)出世したとき、どんな人物を使うかを観る(4)人間は窮(きゅう)すると何でもしてしまうが、何をしないかを観る(5)貧乏しても節度をもっているかどうかを観る。この5つのことをお考えになられたなら、おのずから明瞭で、決して私にご相談になる必要はありません」と申し上げた。
(参考)
(1)「居ればすなわちその親しむ所を観る」
(2)「富めばすなわちその養う所を観る」
(3)「達すればすなわちその挙(あ)ぐる所を観る」
(4)「窮すればすなわちその為さざる所を観る」
(5)「貧すればその取らざる所を観る」
(小話268)有名な「アルキメデスと王冠」の話・・・
  はるか昔のこと、ある王様が純金の王冠を作らせた。金(きん)だけで出来ている王冠を喜んでいた王様だったが、ある時に「職人が金と銀を混ぜて作った」といううわさを耳にした。そこで王様は、高名な数学者アルキメデスに「王冠が100%純金かどうか調べるように、但し、王冠の形を崩したり、傷つけたりしないで調べること」と命令した。アルキメデスは困ってしまった。王冠の表面を削ることもせず、薬品をかけることもせずに、どうして調べたらよいのか?、何日も何日も一生懸命に考え続けた。ある日の夕方、アルキメデスは、疲れを取るために町の風呂屋に行った。そして、ゆっくりと湯船に体を沈めたときに、お湯があふれ出る様子を見て「はっ」とした。次の瞬間「わかったぞ」と叫んだと思うと、彼は喜びのあまり裸のままで町中を「わかったぞ(ユウリカ)、わかったぞ(ユウリカ)」と大声で叫んで駆け回った。アルキメデスは、王様の前で、王冠と同じ重さの純金の塊(かたまり)を用意させた。王冠が純金であれば、用意した同じ重さの純金と大きさ(体積)が同じのはずである。大きな入れ物にギリギリまで水をいっぱいに入れて、王冠と同じ重さの純金の塊を入れて、あふれ出る水の量を比べることにしたのである。すると王冠を入れたときのほうが水が多くあふれ出た。つまり王冠には銀が混じっていたので、純金の塊よりも体積が大きかったのである。こうして、王冠に銀をまぜ入れたことが分かってしまった職人は死刑になったという。
(参考)
1キロの王冠で、銀が30%混ぜられていた場合、水位の上昇はたったの0.4ミリメートル。だから、正しくは、王冠と純金の塊りを細い糸で吊るして、天秤のちょうど釣り合う位置にぶら下げる。中心からの距離は重さの比に反比例しているから、それをそのまま水につければ、もし両方とも同じ比重なら、水の中でも重さの比は同じなのでバランスは保たれるが、比重が異なれば一気にバランスが崩れる。
(小話267)「師曠(しこう)と扁鐘(へんしょう)という楽器」の話・・・
晋(しん)の時代に金属を溶かして「扁鐘(へんしょう)」という楽器を鋳造させた。王が、楽工(がくこう)たちに楽器を叩いて音を確かめさせたところ、全員が「正しく調律されております」と答えた。ただ一人、師曠(しこう)という名の盲目(もうもく)の楽師(がくし)だけは「音の高さが微妙にあっていません。もう一度、鋳(い)なおしてくださいますよう」と言った。王が「他の者はみな、音の高さはあっていると申しておるが」と言うと、師曠は「きっと後世、この音の高さがあっていないことを聞き分ける能力のある者があらわれることでしょう。私は、わが君のために、ひそかに恥じておるのでございます」。果たして、次の時代になって、楽人・師涓(しけん)が、この楽器の音の高さが微妙にずれていることを聴き分けた。師曠が楽器を直したがったのは、後世にその欠点を知る者があらわれることを恐れたからであった。
(小話266)有名な「愚公(ぐこう)山を動かす」の話・・・
     (一)
太行(たいこう)山と王屋(おうおく)山の二つの山は、もともと今の場所にはなく、はるか昔は遠くにあった。その昔、北山に愚公(ぐこう)という九十歳ちかい老人がいた。彼の家はその住まいが太行山に面し、王屋山で北側がふさがれているため、どこかに出かけるにも遠回りしなければならなかった。あるとき、愚公は家族を集めて相談した「みんなであの山を切り崩して平(たい)らにし、南をめざしてまっすぐに道路をつくり、川の南岸まで通させたいと思うのだが、どうだろう」家族はみな賛成した。愚公の妻はたずねた「あなたの力では小さな丘すら崩せませんよ。どうして、太行山と王屋山をほりくずせましょう。それに、山を崩した土はどこに捨てるのですか」家族のみんなは言った「渤海(ぼっかい)の底、隠土(いんど)の北あたりまで捨てに行けばいいよ」愚公は息子や孫たちを連れて作業をはじめたが、モッコをかつげる者はたった三人だった。彼らは岩石を打ち砕き、土地を切り開き、箕(み)やモッコで土や石をはるか離れた渤海のはずれにまで運んだ。愚公のとなりの家に未亡人が住んでいて、彼女には、やっと歯が抜け変わったばかりの七、八歳くらいの男の子がひとりいた。その子も手伝った。しかし作業は少しも進まず、土を運んでやっと一度家に戻るまでに、半年もかかった。
     (二)
河曲(かきょく)に住む利口な老人が、あざ笑って愚公に言った「あきれたね。君の老いさき短い力では、山の草一本だって満足には抜けまい。まして、あれだけ膨大(ぼうだい)な土と石をどうできるというのだ」愚公は答えた「君の頭の固さは、あの未亡人のところの幼い子どもにも劣る。わしが死んでも、子があとを継(つ)ぐ。子は孫を生み、孫はまた子を生む。子々孫々(ししそんそん)、果てることはない。山の土砂はたしかに膨大な量だが、無限ではない。いつかは平らにできないはずがない」老人は返す言葉も無かった。山の神は愚公の言葉を聞いて、本当に山が切り崩されてしまうのではないかと心配し、天帝に報告した。天帝は感心し、巨人の神の二人の息子に命じて、太行山と王屋山の二つの山を背負わせて、それぞれ遠くに運ばせた。こうして、冀州(きしゅう)の南から漢水(かんすい)の南側にかけては丘ひとつない大平原になったのである。
(小話265)有名な「邯鄲(かんたん)の夢」・・・
     (一)
昔、邯鄲の街道沿いの茶店に一人の老人(道士=道教の僧)が休んでいた。そこへ一人の若者がやって来た。近くの村の盧生(ろせい)である。粗末な身なりで、馬を引いて、田畑へ行く途中であった。盧生も、この茶店に入り、先客の老人と同じ席に腰を下ろした。そして、盧生は自分のボロ服を眺めながら、大きなため息をついて老人に言った「男として生まれながら、みじめな有り様です。これからの人生を思うと情けない限りです」「どうしたんだね。お前さんの体は、どこも悪いところもなさそうで、楽しそうだし」「何が楽しいものですか。毎日、ただ生きている、というだけです」「では、どうなれば楽しいのかな」盧生は、若者らしくこことばかりに言った「都に出て立身出世を果たし、将軍や大臣となり、豪華な食事をし、いつも美しい女たちに取り巻かれていたい。一族は繁栄し、一家ますます富んでこそ幸福といえるのではないですか。私も、一度は学問を志(こころざ)しました。そのうちに出世できるだろうと思っているうちに、もはや三十歳となり、今だに野良仕事にあくせくしている有り様です。これが情けなくなくて、なんでしょうか」言い終わったかと思うと、不意に眠くなってきた。この時、茶店の主人は、黍(きび)の飯を炊(た)き始めたところだった。老人は、袋の中から一つの枕を取り出して、盧生に言った「お前さん、この枕をしてごらん。望みをかなえて進ぜよう」盧生は、横になって、枕に頭を乗せた。
   (二)
数ヵ月たった。盧生に、名門の家から嫁をもらう話が来た。絶世の美人であり、実家は大金持ちであった。翌年、盧生は官僚の登用試験に合格した。その後は、順調に出世街道を進んだ。知事や長官を歴任し、盧生は、大いに業績をあげた。そのころ、北方の異国から襲撃があった。皇帝は、盧生を軍司令官に任命した。盧生は軍隊を率いて外敵を撃破し、領土を広げた。盧生は華々しく長安の都に凱旋した。軍功によって官位は上がり、大蔵大臣、検事総長となった。だが、官僚として清廉潔白であったが、あまりにも人望があったので、時の宰相に妬(ねた)まれるはめになった。ありもしない噂を立てられ、彼は田舎の長官に左遷されてしまった。しかし、それも三年だけで、再び中央に復帰した。そしてまもなく、宰相という、官僚としては最高の地位についた。宰相として務めること十年、皇帝を補佐して、名宰相になった。ところが同僚のそねみから「宰相は辺境の将軍たちと結託して、謀反を図っている」という噂が広がった。盧生の邸へ、警視総監が出向き「謀反の疑いによって汝を逮捕する。勅命なるぞ」たとえ無実であっても、高位、高官たるものは疑いを受けただけでも自決するのが、当時のしきたりであった。盧生は宰相である。身に覚えはないが、しきたりに従って自殺しなければならない。彼は、妻に向かって言った「山東(さんとん)の我が家には、良い田畑があって、寒さや飢えをしのぐのに十分であった。それなのに、何が不足で宮仕えなどする気になったのだろうか」刀を抜き、自害しようとしたが、妻が懸命に止めたので、果たせなかった。さいわいに盧生は流罪になった。数年たつと、無実が証明され、盧生は、宰相に返り咲いた。皇帝の信任も厚く、五人の息子はそれぞれ順調に出世した。盧生は、こうして、辺境に流されること二度、宰相になること二度。そして、中央や地方の高官を歴任した。政界に重きをなすこと五十余年、まさに栄耀栄華を極めたのである。やがて、寄る年波で、体も衰え、何度も辞職願いを出したが許されなかった。それほど皇帝の信任が厚かったのである。臨終の時が来た。盧生は皇帝に書を送った「私はもと山東の書生でありました。百姓仕事を楽しみにしておりましたが、たまたま官吏として登用され、過分のお取り立てにあずかりました。齢も八十を過ぎ、余命、幾(いく)ばくもございません。ご恩にお応えすることもできず、お別れを告げねばならなくなり、後ろ髪を引かれる思いが致します。ここに謹(つつし)んで、感謝の意を表す次第でございます」これに対して皇帝は、見舞いの勅使(ちょくし)を派遣した。その日の夕方に、盧生は死んだ。
     (三)
「ああ、おれは死んだか……」盧生は大きなあくびをして目を覚ました。名家の娘と結婚するところから、国家の元老として勅使を迎えて死ぬまでの五十年間の夢を見ていたのである。五十年といえば、気の遠くなるような長い歳月のはずだ。それなのに、どうであろうか。茶店の主人が炊いていた黍飯(きびめし)は、まだ、でき上がっていなかった。盧生は、がばっと身を起こして「ああ、夢だったのか……」とつぶやいた。老人は、笑いながら言った「人生の楽しみも、そんなもんだよ」盧生は頭を下げ「栄耀栄華、立身出世とはどんなことか、よく分かりました」と、礼を述べて茶店を出て行った。
(参考)
@邯鄲の夢・・・「廬生の夢」「邯鄲夢の枕」「黄梁一炊の夢」ともいう。 @黄粱(こうりよう)一炊の夢・・・黄粱(おおあわ、上等の粟)の粥(かゆ)を一炊(たき)きする時間にも満たないほどの夢。アワは普通、十五分か二十分もあれば炊けるという。
A唐代の伝奇小説「枕中記」より。
(小話264)有名な「杜子春の夢」の話・・・
     (一)
昔、唐の都・洛陽(らくよう)で春の夕暮れどきを、ぼんやりと空をながめていた若者がいた。彼の名は杜子春( とししゅん)。昔は大金持ちの息子だったが、今では、食べるものにも困るほどであった。「いっそ身を投げたほうが・・・」と考えていると、突然、一人の老人が現(あらわ)れ「何を考えているのか」と尋ねた。「私ですか。私は今夜、寝る所もないので、いっそ身を投げて死のうかと考へていたのです」杜子春は正直に答えた。「そうか、それは可哀そうだな」そういうと老人は杜子春に金の埋まっている場所を教えると、煙のように消えてしまった。一晩で大金持ちになった杜子春は、贅沢の限りを尽くした。貧しい時は声もかけなかった友達も、朝夕遊びにやって来た。それも一日ごとに数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人で、杜子春の家へ来ないものは、一人もいない位になつてしまった。杜子春はこのお客たちを相手に、毎日酒盛りを開いた。しかし、金も底を尽き、三年目の春、とうとう杜子春は一文無しになった。そうすると人間は薄情なもので、誰一人として杜子春に手を差し伸べてくれる者はいなかった。ぼんやりたたずんでいると、又あの老人が突然現れ、金のありかを教えて、消えてしまった。杜子春はまたまた大金持ちになり、贅沢に暮らし、三年も経つとお金はなくなってしまった。
     (二)
「何を考えているのか」とまたまた現れた老人に杜子春は「もうお金は要りません私は、人間というものに愛想(あいそ)がつきたのです。あなたは高徳な仙人でしょう。どうか弟子にしてください」すると老人は杜子春を山奥に連れて行き「決して口を聞いてはならぬ」と言い残してどこかに行ってしまった。残った杜子春をヘビやトラが襲い、雷鳴が轟(とどろ)き、強風が吹き付け、最後は天の神将(しんしょう)の戟(ほこ)が杜子春の身体を刺し貫いた。身体を離れた魂は地獄の底の責め苦にも耐えて、一言も口を利(き)かないかった。何とかしゃべらせようと鬼どもが、父母を引き出し、打ち据えた。必死に目をつぶる杜子春の耳に「心配しないで、しゃべらなくていいから」と母の声が聞こえてきた。思わず「お母さん」と叫んだ途端(とたん)、あたりは都の風景に変わり、目の前には老人が立っていた「とても仙人にはなれまい」「はい。なれませんが、しかし私はなれなかったことが嬉しいのです。いくら仙人になりたくても、私には地獄で鞭(むち)打ちされて苦しんでいる父母を、黙って見ている訳には行きません。これからは正直な暮らしをするつもりです」「その言葉を忘れるな。おれは泰山(たいざん)の南の麓(ふもと)に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住むが好い」そう言って老人は杜子春の前から去っていった。
(参考)
@神将・・・仏教に帰依したインドの神々。
A正確な話は、「青空文庫」・芥川龍之介の短編「杜子春」を読んで下さい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html
(小話263)「ある小学生の友情」の話・・・
アメリカの大統領ウィルソンが小学生のときの話。ふだんからあまり勉強していなかった医者の息子が、ウィルソンのところへやって来て「笛と独楽(こま)をあげるから、試験のところを教えてくれないか」と頼みこんだ。ところがウィルソンは「君と僕とは友だちだよ。困っていれば、助け合うのが友だちなんだ。君が、そんなものをくれるといわなければ、喜んで教えてあげるよ」と言った。思ってもみなかったウィルソンの言葉に医者の息子は深く感謝した。やがて勉強が終わると、医者の息子は友情に報(むく)いようと「もし僕にできることがあったら、何でもするよ」と言った。ウィルソンは、病気で貧しい友だちのお母さんを、医者の息子のお父さんに診てもらうことを頼んだのであった。
(小話262)「下男(げなん)と主人の夢」の話・・・
      (一)
中国の商人で、ある男は、大いに財産をつくった。彼の家でこきつかわれている下男たちは、朝早くから夜遅くまで働きづめで、息つく暇もなかった。その中にひとり、年寄りの下男がいた。彼はもう老(お)いて体力もなかったが、主人は容赦なくこき使った。老いた下男は、昼は苦しさに呻(うめ)きながら働き、夜は疲れ果てて昏々(こんこん)と眠った。が、この老いた下男は、毎夜、夢の中で一国の主君となり、人民に君臨し、国家を統治し、宮殿では宴会を開き、何でもすることができた。これは比類ない楽しみだった。そして朝、目が覚めると、また主人にこきつかわれる身に戻るのだった。ある人がこの老いた下男を「大変だねえ」と慰(まぐさ)めると、彼は答えた。「人生の寿命の限界は百年。その百年のうち、昼と夜が、それぞれ半分づつだ。俺は昼は下男だ。苦しいことはとても苦しい。でも、夜は夢の中で王様になれる。その楽しみは、くらべものにならないんだ。何も不満はないさ」
      (二)
一方、金持ちの男は、昼間は世間との煩(わずら)わしい交渉やお金のことで頭が一杯で心身共に疲れ果て、夜は夜で、疲労困憊(ひろうこんぱい)してよく眠れなかった。彼は、毎夜、夢の中で他人の下男となり、あらゆる仕事でこきつかわれ、人に馬鹿にされ、棒でさんざんにぶたれた。こうして明け方までずっと、寝言(ねごと)でうめきどおしだった。 男は苦しみ悩んで、賢者として名高い友人に相談した。友人は答えた。「君は、地位は高いし、財産は有り余ってる。人よりずっと勝っている。毎晩、君が夢のなかで人の下男になるのは、人生の苦と楽がバランスを取ろうとしているからだ。それは「数(すう)の常(じょう)」なのさ。君は、寝てるときも覚めてるときも、どっちでも幸福でありたいと欲張るけど、それは高望みというものだよ」男は友人の言葉を聞き、下男の仕事を楽にし、自分の心配事も多少は減らした。彼の病気は少しはよくなった。
(参考)
数の常・・・大自然の摂理(せつり)のこと。
(小話261)「ライオンとトラと山イヌ」の話・・・
昔、インドの山奥にライオンとトラが仲良く暮らしていた。ライオンとトラは住みかこそ違っていたが、食事はいつも一緒に分けあって食べていた。ある日のこと、やせ細った山イヌがやって来て、自分も仲間に入れてくれと頼んだ。ライオンとトラは承知した。ライオンとトラのおかげでいろんな肉を腹一杯食べられるようになった山イヌは、最初のうちこそ感謝していたが、ふとこんな考えが頭をよぎった「こんな肉はもう食べあきた。こんどはライオンやトラの肉も食べてみたい」そこで山イヌは考えた「両方を喧嘩させて相打ちにさせ、倒れたところで、どちらの肉も戴(いただ)こう」山イヌはライオンに「トラがあなたの悪口を言っている」と伝え、トラには「ライオンがあなたの悪口を言っている」と伝えた。そして両方が喧嘩を始める日を今か今と待っていたが、いっこうに喧嘩がはじまる気配がなかった。ライオンとトラは互いに信じ合っていたので、そんな山イヌの嘘をとっくに見やぶっていたのである。ライオンとトラは、二枚舌を使うずる賢い山イヌを仲間から追い出した。こうして山イヌは、またひとりぽっちになりやせ細った体で、あちこちさ迷ったという。