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(小話180)「姥捨(うばすて)山伝説=難題型」の話・・・
昔、ある国に隣国から使者がやってきた。「このたびは、こういう問題を持ってきた。解けなければ、お前の国を攻め滅ぼすぞ!」隣国は強い国で、攻めてこられては、ひとたまりもない。困りはてたお殿様は、この難題を解けるもの者はいないかと城下におふれを出した。この難題というのは、「玉に入口と出口があり中はくねくねとなった穴、これに細い糸を通せ」というのである。親思いの息子は、このおふれを見て、国の掟を破り、姥捨山から連れ帰って、床下の穴蔵にかくまっていた大事な母親に聞いた「おっかぁ、お殿様はお隣の国の難題に困っている。いい知恵はないものか」母親は言った「アリに糸をつけ、出口のところに蜜や砂糖など甘いものをおくと、アリは甘いものに誘われて糸を通す」隣国は攻撃する口実をつくるため、次々と難題を言って来た「灰で縄をなってみせろ」母親は息子に言った「藁(わら)でかたく縄をなって、板の上で焼いてごらん。縄のかたちに灰がのこるから、くずさないようにそっともっていけばいい」次の難題は「たたかなくても鳴る太鼓のつくりかた」母親は今度も息子に言った「山で蜂(はち)の巣をとってくるんだよ。太鼓の皮をはがして、中に蜂をいれて、また皮をはればいい。蜂は中であばれて皮にあたるから、ひとりでにぽんぽん鳴るだろうさね」こうして、代々伝わってきた知恵を用いて見事に解いたので、ついに隣国も「この国には利口者が多くいる。おいそれと攻め入ることは出来ない」と、それからは隣国も無理難題を言ってこなくなったという。
(参考)
(小話148) 「若い王と三つの難題」の話・・・
(小話179)「姥捨(うばすて)山伝説=親捨てモッコ型」の話・・・
昔は年取って、何も出来なくなると、「モッコ」に入れて山へ棄てに行く時代があった。あるところにお婆さんがいた。息子とその孫がお婆さんを「モッコ」に入れて、山へ棄てに行った。そしたらお婆さんが「モッコ」の中から、草を丸めては道に投げすてた。それを見て、息子が「かかさん、かかさん。何してるんな」とたずねた。そしたら「これはな、お前たちが帰るとき、道に迷わんように、目印にをおいとくんじゃ」と言ったけれども、息子は、そのまま山の奥に行ってお婆さんを大木の下にすてた。そしたら小さな孫が「お父っつぁん、お父っつぁん、この「モッコ」は持って帰ろうよ」「どうしてそんなことを言うんだ。もうこれはいらんじゃねえか」と言うと、孫が「そうはいっても、またお父っつぁんが年とったら棄てに来なきゃなんねえ」と言った。これを聞いて息子は「ああ、こりゃ俺がわるかった。年寄りを棄てるとまた自分も棄てられるんだ」と思って、お婆さんをまた「モッコ」に入れてつれて帰り、大事にしたということである。
(参考1)
「モッコ」とは、ワラ縄で網状に編んで4つの隅に吊り紐をつけて運搬に使う物。 (参考2)
(小話49)有名な「姥捨山(うぱすてやま)」の話・・・
(小話178)「人生は一息」の話・・・
お釈迦さまの弟子の一人が、ある日、お釈迦さまに人生の長さはどれだけですか?と問いかけた。しかし答えはなかった。さらに弟子は問いかけた。「人生の長さは60年、50年、20年、10年、5年、1年と、さらに1日ですか」と。お釈迦さまは黙想したまま答えられなかった。弟子は更に問いかけようと、一息ついた、その時にお釈迦さまは「人生はその一息」と答えられたという。
(小話177)「英知の王といわれたソロモン王」の話・・・
遠い昔、イスラエルの第二代のダビデ王に王子が生まれ、ソロモンと名づけられた。すべての人、すべての子供を愛している神様が、中でも特にソロモンを愛したという。そして、そのソロモンがイスラエル王国の第三代の王となったとき、神様は愛するソロモンにこう言った。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」ソロモンは答えて言った「民を正しく裁(さば)き、善と悪を判断することができるように、このしもべに聞き分ける心をお与えください」神様はソロモンのこの願いを大いに喜び「望みどおり知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたが求めなかった富と栄光も与えよう。わたしに従って生きるなら、長寿も与える」と約束した。こうして、ソロモンは、その名「平和な」(ソロモン)という意味にふさわしく、民族を統一し、経済を発展させ、近隣諸国との和合をはかり、世に言う「ソロモンの栄華」の時代を築いた。エルサレムに最初の神殿を建てたのも彼である。だが、残念なことに、ソロモン王は晩年に神様から遠く離れてしまい、栄華と女性(ソロモン王は700人の王妃と300人の妾がいた。又、その晩年には異教徒の王妃や妾の影響を受け異教を崇拝するにいたった)によって富の奢りと己の知恵への驕(おご)りに陥り、さらには、民に対する、その過酷な賦役と重税によって国民を苦しめる政治をしたため、彼の死後には、王国は分裂してしまった。ソロモンはイスラエル統一王国の、最後の王になってしまったのである。
(小話176)ある「殺すなかれ」の話・・・
ある和尚さんは、明治時代に仏教研究のため、鎖国状態にあった中国の山奥のチベットに密入国してチベット仏教を学び、たくさんの経本を持ち帰った。彼がこの旅行に出発する際、友人や信者さんなどのお金の餞別をことわり、餞別をくれるならこれからは魚釣りや投げ網などの無用な殺生をしないという不殺生を守ることを餞別にしてほしい、と頼んで実行してもらったのだった。彼は、危険きわまりない未知の地、チベット旅行に無事成功して生きて帰れたのは、この友人たちの不殺生のお陰であると、後の「チベット旅行記」の中で書いている。不殺生戒を守っている慈悲の人に対しては、泥棒や追いはぎまでが慈悲の心で接してくれたようであるというのである。
(小話175)ある「美髯(びぜん)」の話・・・
昔、中国に一人の、白い立派な髯(ひげ)の老人がいた。その「美髯(びぜん)」の評判があまりにも高くなって皇帝の耳に入った。皇帝は老人のひげを見て礼賛した。そして「見事なひげじゃが、お前はその大切なひげを、寝る時には布団の中に入れておくのか、それとも外へ出しておくのか」と聞いた。老人はどちらか覚えていないと答えると、皇帝「けしからん、大事なひげのことなのに何たることだ」としかりつけ、よく考えて返事をするように命じた。ひげの老人はその夜、ひげを布団の中に入れて寝たが、何か不自然である。で、今度は出して寝たが、やっぱりおかしい。ひげを入れたり出したりするうちに夜が明けてしまった。これ以降、老人は髯(ひげ)がいつも気になって、心の休まることがなくなったという。
(小話174)有名な「降魔成道(ごうまじょうどう)」の話・・・
出家した釈迦は有名な仙人について修行したが、それに満足できず、つづいて断食の苦行を行った。六年間のはげしい苦行に、さすがの釈迦も、身も心も疲れ果ててしまった。ネーランジャラー川で水浴中、危うく溺死しそうになったこともあった。釈迦は考えた。「身体を苦しめるだけでは悟りの境地に達することはできない。真理は、精神の働きによってのみ発見できる」と苦行の無意味さをさとった釈迦は、苦行を中止し、心の輝きを求めて大きな樹の根元に端坐した。ちょうどそのとき、村の娘スジャーターがその前を通りかかった。修行者の姿を見て、「これはヤクシャ(樹神)にちがいない」と思った娘は、釈迦に牛乳で炊いたお粥をお供えした。そのお粥で、釈迦の全身には力がみなぎり、精神の輝きも次第に増してきた。そこで、菩提樹の根元で瞑想(めいそう)にはいった。いよいよ最後の夜、おそろしい悪魔の大軍が、釈迦を修行の座から追い出そうと、攻めてきた。美しい姿の魔女たちも、釈迦を誘惑した。これらは、六年間の修行のあいだ、たえず釈迦につきまとってきた悪魔(心の迷い)だった。しかし釈迦は、ありったけの勇気をもって、これらの悪魔をことごとく降伏させて、悟りを開いた。そのときは十二月八日で、明け方の星(暁の明星=金星)がひときわ美しく輝いたという。
(小話173)ある「天使と悪魔」の話・・・
心がすさんでいると自らそれが顔に現れるという。昔、イギリスでの話。一人の若い画家が「天使」の絵を描くために、かわいい赤ん坊をモデルにした。その絵は素晴らしい作品となり、おかげで青年は、プロの画家としての道が開かれた。彼はそのとき、念のためにモデルの名を「天使」の額の裏に記入しておいた。それから三十数年たって、今や画壇の巨匠となった彼は、ふと「悪魔」を描きたくなって、死刑囚の独房ヘモデルを探しに行った。刑務所の看守は彼を前科八犯、強盗、殺人罪で死刑の執行を待っている凶悪な男のところに連れて行った。まさしくその男は「悪魔」そのものであった。凶悪な男を写生し終わってから画家は、その男に名前を聞いた。無感動に名乗ったその名前こそ、三十数年前の若かりしころの画家が「天使」のモデルにした赤ん坊と同一であった。彼は驚いて、母親の名前も確かめると、その死刑囚は間違いなく、かつての「天使」の絵の、その人であった。
(小話172)有名な「罪のない者だけが石を投げよ」の話・・・
ある日のこと。朝早く、イエスはエルサレム神殿の境内で人々に教えを説いていた。そこへ律法学者達が姦淫の現場で捕まえた女を連れて来て言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」当時のユダヤでは姦淫は犯罪であり、姦淫罪を犯した者は石打の刑に処せられることになっていた。律法学者達は姦淫を犯した女の処遇に困って、イエスのところに連れてきたのではなかった。イエスをわなにかけて訴える口実を得るために連れてきた。もし、イエスが「法に従って、その女を死刑にしなさい」と答えれば、愛と赦しを説いたイエスの教えに反し、民衆の心はイエスから離れる。もし、イエスが「赦しなさい」と言えば、それは当時の刑法であるモーセ律法に反することになり、イエスは律法を守らないと非難される。イエスは黙っていて答えなかった。律法学者達はイエスの沈黙を、答えに窮しているからだと思い、執拗にイエスに答えを迫った。やがてイエスは彼らに言った「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」イエスのこの言葉に、律法学者も群集もみな一様にいなくなってしまった。誰もいなくなった時、イエスは女に言った「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰(ばつ)しなかったのか」女は答えた「主よ、誰も」イエスは言われた「私もあなたを罰(ばつ)しない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
(参考)
この話は四つの罪を戒めているという。第一は姦淫の罪。第二は姦淫をした男の罪。第三は、傍観者たちの罪。第四は、イエスをわなにかけるために、この女を道具として用いた律法学者たちの罪。
(小話171)ある「愚かな金持ち」の話・・・
昔、ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」そして彼は思った「「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」」 しかし神は彼に言われた「愚か者よ。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか」と。
(小話170)有名な「イエスとサタンの対決」の話・・・
あるとき、イエスは一人で祈るために荒野にいた。祈りとは創造者(神)との対話で、イエスはこれから人々を救うにあたって創造者に祈っていた。祈りは食事もとらずに四十日間も続いた。人間の肉体を持つイエスも、さすがに空腹なった。するとそこへサタン(悪魔)があらわれ、「神の子なら、そこらに転がっている石をパンに変えて食べたらどうだ(神の子なら奇跡をおこなってみせろ)」と、イエスをそそのかした。イエスは答えた「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。すると、さらにサタンは「よし、それならば」と、山上に立つエルサレムでもひときわ高い神殿の屋根の端にイエスを立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じて、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支えるだろう」と言った。しかしイエスは「あなたの神である主(しゅ)を試してはならない」と、またもやサタンの誘惑を退けた。こうあっさり跳ね返されたサタンは、最後の誘惑をした。イエスを非常に高い山の上に連れていき、一瞬のうちに世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せて「わたしを礼拝するなら、これらをすべて与えよう」と言った。イエスは「引き下がれサタン、あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」と言って、サタンの最大の誘惑を退けたのである。どんな誘惑も通用しないのを見て、やむなくサタンは引き下がった。すると天使たちが来てイエスに仕え、そしてイエスは、人々を救うために世間に出て行ったのである。
(小話169-1)ある「共命鳥(ぐみょうちょう)という鳥」の話・・・
佛説阿弥陀経という経典の中の一羽の鳥の話。共命鳥(ぐみょうちょう)と言われる鳥は、胴体が一つで首から上は二つあるという鳥であった。当然、二つの頭があるので、心も二つあるということで、考えることも好みもそれぞれ異なっていて、いつも意見の相達でケンカがたえなかった。ある時、片方がつい我慢できなくなり、「こいつさえいなければ本当にいいのに」と考えて、相手を困らせるつもりで毒の実を食べた。たしかに片方の頭は生き絶え絶えとなり苦しみ出した。「いい気味だ」と思っていたら自分まで苦しくなり、気がついた時にはすでに手後れで、一つの胴体しかない共命鳥は死んでしまったという(別々に見える命もお互いに共有された命なのだ)。
(小話169)「荘子とガイコツ」の話・・・
中国の古典から。ある時、中国の有名な思想家、荘子が旅をしていたら、道ばたに人間のガイコツが転がっていた。荘子は、そのガイコツに向かって話しかけた「おまえさんは、どうしてこんな所に転がっているのだ。追い剥ぎにあって身ぐるみはがれて殺されてしまったのか。それとも自分が悪いことをして捕まって殺されたのか。それとも病気のために行き倒れになったのか。何にしてもこんなところで屍(しかばね)をさらして大変に気の毒なことだ」そして、すでに夕闇が迫っていたので、彼は、そのガイコツを枕にしてゴロリと横になって、野宿をした。すると真夜中のこと、そのガイコツだった人間が夢のなかに現れて荘子に話しかけてきた。「あんたは今日の夕方、わしのことを気の毒な人間だなどと言っていたが、それはとんでもない間違いだ。死んだ後で考えてみれば、生きている人間ほど気の毒なものはない。食うために一日中あくせくと働かされ、ぺこぺこと主人の機嫌をとらねばならず、夏は暑さに痛めつけられ冬は寒さにこごえ、本当に気の休まる時がないではないか。ところが、死ねばそのような苦しみは全くない。死んだ人間の楽しみは、どんな大金持ちであろうとも、どんなに偉い王様であろうとも、とても想像もつかないほどすばらしいものなのだ。わしが気の毒だなどとバカなことを言ってくれるな」といって反対にガイコツにお説教をされたということである。
(小話168)「ある和尚と追いはぎ」の話・・・
           (一)
江戸時代の話。ある夏、有名な和尚が寂しい街道筋を旅していたとき、街道筋の追いはぎにつかっまってしまった。もとより修行を積んだ和尚、動揺することなく、すなおに賊に身ぐるみを渡して、悠然として去って行ったが、また急ぎ足で賊のもとへ引き返してきた。これをみて、盗人は、「お坊さん、なんだえ、戻ってきても品物は返してやらねえよ」「いや盗人さん、申し訳ないことをした。私はこれこの通り、腹巻の中に小判を二枚、隠しもっておったのだ。どうかこれも一緒に取りあげておくれ、隠していた私が悪かった」「坊さん、いまさら罪なことをいってくるじゃねえか。俺は知らなかったことにしておく。お前さんの虎の子の金子だ、もっていきな」。すると和尚は、「いいや、できない。私はお前さんを欺いた、申し訳ない。取りあげておくれ」盗人は「うるさい坊主だな。取らないといったら取らねえよ」「弱ったな」と和尚は暫く考え込んでいた。そして、ひとり言のように「お前さんを欺いた罪は消えても、自分を欺いた罪は消えんのじゃて」と言った。
            (二)
盗人は、この和尚の話を聞いて正気になってきた。「和尚さん、それ本気で言ってなさるのかね」「うん、本気とも、本気とも。小判を受け取ってくれ]「受け取れねえ。俺はこうみえても根っからの泥棒じゃねえ。元は名のある侍よ。永い世渡りをしてきたが、和尚さんのような人に出会ったのは初めてだ。なんだって和尚さんは馬鹿正直なんだ」「なに、私は正直者じゃない。正直者になろうとして、骨折ってるところじゃて。裏から見られても、表から見られても、一点のくもりのない、真正直な人間になりたいのじやて」。盗人はそれを聞いて「坊さん、俺もなりたいんだ。その真正直という奴に」「なに、お前さんはお前さんで、それでいい」「お坊さん、実は、俺も、早くからこの追剥ぎから足を洗おうと思っていただけど、街道筋に人相書きも出廻っていて、ぬけるにもぬけないでいただ。和尚さんにお供をしていけば、また人相書きの廻らない所までも行けるというわけだ。どうか和尚さん、お供に連れていっておくんなさいよ」こうして、街道の追剥ぎだった賊は、和尚の弟子となり、修行者となって平穏な生涯を終えたという。
(小話167)ある「見ざる、言わざる、聞かざる」の話・・・
昔の話。ある時、釈尊のいとこであり侍者であった美しいアナン尊者が、釈尊に質問した。「婦人に対して、私はどのようにしたらよいのでしょうか」。アナン尊者は、その若さ、美しさゆえに、女性からの誘惑が多かった。釈尊は答えられた「アナンよ。見てはならぬ」「しかし、見てしまった時にはどうしたらよいのでしょう」「アナンよ。話をしてはならぬ」「しかし、向こうから話しかけてきた時には、どうしたらよいのでしょう」「そういう時には、慎んでおれ(聞いてはならぬ)」と。
(小話166)ある「4歳の子どもとお菓子」の話・・・
ある研究者が、4歳の子どもにお菓子をひとつ与え、「15分したら戻ってくるけど、それまで食べずに我慢して待っていたら、もう一つお菓子をあげる」と約束して、出かけた。すると、三分の一の子どもは彼がいなくなるとすぐに手を出して食べてしまった。辛抱して最後まで食べずに待っていた子どもは数人だった。その数人の子どもたちは、目をつぶってお菓子を見ないようにしたり、歌を歌ったり、机のうえに顔を伏せたりして、欲望と戦ったのであった。4歳の子どもにとって、目の前にあるお菓子を食べてしまわないことは至難のワザなのだ。研究者はさらに、すぐに手を出した子どもと最後までがまんした子どもを18歳になるまで追跡調査した。すると、大きな違いがでてきた。最後までがまんした子どもたちは、社会性にしても、人間関係にしても、ストレスや困難に対処する能力にしても、さらには学力にしても優れていた。反対に、すぐに手を出した子どもたちは精神的に問題の多いことが分かった。感情の起伏が大きく、小さなことにも心が動揺し、強情なのに優柔不断で、対人関係もうまくいかず人といざこざを起こしやすく、自分のことをダメな人間だと考える傾向が強かったというのである。
(小話165)ある「禅師と四人の男」の話・・・
最初の男「禅師さま、私は幸福者でございましょうか。不幸者でございいましようか」禅師「あなたは幸福な人だよ。生来めぐまれた人だよ」彼は答えた「ありがとうございます。これからも私は幸福者だと信じつつ真の幸福者になります」。二番目の男「禅師さま、私は幸福者でございましょうか。不幸者でございましょうか」禅師「あなたは不幸者だよ。次から次へと災讐あった。しかし、人間には必ず浮き沈みの時がある。不断に努力して幸福者になりなさい」彼は答えた「ありがとうございます」以後、彼は不断の努力を続けて人並み以上の生活を送れるようになったという。三番目の男「禅師さま、私は幸福者でございましょうか。不幸者でございましょうか」禅師「馬鹿者! 自分が幸福か不幸か他人に尋ねる者があるか」「はい。だが、時々、迷いの雲が生じて不幸者に思われますので」「いつでも幸福者だと思っておれ、不幸な時でも幸福者だと思え」「思えません」「思えなくても思いなさい。思えるようになるまで、私のところに座禅修行に通いなさい」といわれ、彼は一生涯、坐禅修行をして幸福者と思って生涯を果たしたという。最後の男は初めから、禅師がなんと答えるか分かっていたので、なんとも尋ねることをしなかった。彼は言った「禅師さま。今日はよいお天気でございます」禅師「さあ、お茶でも飲んでいきませんか」「はい、ありがとうございます」そして彼は、お茶を御馳走になり、静かな帰途についたという。
(小話164)ある「イギリスの長寿者」の話・・・
有名なロンドンのウェストミンスター寺院は、レンガを積み上げ積み上げして、一千年も前に造った寺院である。この寺院の壁の中に「英国に功労のあった人」「教会発展につくした人々」等が国会の承認を得て初めて埋葬されることになっている。例えば、ネルソン提督、ナイチンゲール、チャーチル首相と、有名な人々ばかり壁にその名が刻まれていた。その有名な人々の中にただ一人、平凡な職工さんの名が記されてあった。そこで、ある旅行者が「この職工さんは、どういう人ですか」とガイドさんに尋ねたところ、その可愛らしい英国のガイドさんは、「この職工さんは、特に功労者というわけではありません。また知識人でもありませんでした。けれど、百二十歳で再々婚いたしました。そして、男の子を設けて、立派に育てあげ、百五十歳まで長生きされました。そこで国会議員全員無条件で承認して、この名誉ある寺院に埋葬されたのです」と説明した。
(小話163)「難民キャンプの子供」の話・・・
ある和尚さんが、三十年程前、内戦最中のカンポジアの難民キャンプを訪れた時のこと。傷病の子供たちの収容されている仮設テントに、和尚さんは自身で、ズダ袋や手提げ袋にも一杯のパンを持参して慰問した。到着すると、すぐ子供たちが群がり集まってきて、口々に食べ物を要求した。和尚さんたち一行は次々に出される手に、持っていたパンを配ったが、ひとしきり渡し終えると彼らはクモの子を散らすように居なくなってしまった。否、一人の子供が残っていた。パンを一つ持ち、もっと欲しいともう一方の手を差し出すこの子に和尚さんは「もう何もないのだよ」と言った。するとその意味がわかったのかこの子は、他の子供たちと違う方向に走っていった。その様子が不思議に思われて、和尚さんは気付くと後を追っていた。ずっと奥のテントに子供は入って行った。和尚さんもそっと後に続いた。途端に強い悪臭にたじろいだが、眼が慣れると、何人もの重い病の子供たちが満足な治療もされず、うめき声を上げているのが見えてきた。さっきの子はと見ると、ベッドの子供たち一人一人に先程の一袋のパンを千切っては食べさせている。飲み込めない子には水を飲ませながら。でもたった一個のパンでは十数人も居る子供たちにはほんの一かけら。しかも、そのほんの一かけらのパンを、彼らの口に運んでやって、彼自身は一口も自分の口の中に入れていなかったのである。以来、この和尚さんは、毎年難民の子供たちを数人だが日本にうけいれて、学校に入れ、育てあげて故国に返すということを三十年もつづけているという。
(小話162)ある「登校拒否の子供」の話・・・
ある病院の先生の話。「私には三人の子どもがいます。その一人が中学生の時に登校拒否をしました。多感な時期だけに苦しみも深かったと思います。苦悩の原因は、その人の外側だけでなく内側にもあり、かつそれらは互いに絡み合っているため、外的原因の除去だけでは完全な解決につながらない。長い不登校の後、私は子どもに言いました。「クラスにはもう一人の不登校の子がいるんだね。その子を一番支えることができるのは誰だと思う?同じ苦しみを経験した人ではないかな」驚いたことに、翌日から私の子どもは学校に行き出し、それ以後、登校を拒否することは一度もありませんでした。周りの状況は決して改善されたわけではないのに。誰かのために苦悩を引き受けると決断した瞬間、苦悩はそれまで感じていた苦悩ではなくなったのです。人は自分のためよりも他者のために生きる時の方がより強く生きられると思います」
(小話161)ある「農夫とウサギ」の話・・・
昔の中国でのこと。村一番の働き者の農夫がいた。彼の畑には一本の大きな木があり、その周りには幾つもの木のねっこがあった。ある日、汗水たらして畑を耕していると、そこへ、突然一匹(一羽)のウサギがとんで出て来た。このウサギは、多分、猟犬にでも追われていたのか、あわてふためき、めくらめっぽう走ってきて、その拍子に木のねっこに頭をぶつけて死んでしまった。農夫は、何なく一匹(一羽)のウサギを手に入れることができた。彼は思った「 しめた!しめた!ウサギが自分でやって来て転んで・・・死ぬとは・・・、これからも、この畑を汗水たらして耕す必要があるのだろうか?」この時から、働き者の彼は鍬を捨て、耕すことをやめて、一日中、木の下に座り込みウサギが引き続き木のねっこにぶつかって転ぶのを待つようになった。だが、日は一日一日と過ぎ去ったが、ウサギが再び現れることはなかった。そして、彼の田畑はまもなくすっかり荒れ果てしまった。
(参考)
「待ちぼうけ」(北原白秋作詞/山田耕筰作曲)
(1)「待ちぽうけ 待ちぽうけ ある日 せっせと野良かせぎ そこへ兎が とんで出て ころりころげた 木のねっこ」
(2)「待ちぽうけ 待ちぽうけ しめた これから寝て待とうか 待てぱ獲ものは 駆けて来る 兎ぷつかれ 木のねっこ」
(3)「待ちぼうけ 待ちぼうけ 咋日鍬とり 畑仕事 今日は頬づえ 日向ぽこ うまい伐り株 木のねっこ」
(4)「待ちぼうけ 待ちぼうけ 今日は今日はで 待ちぼうけ 明日は明日はで 森のそと 兎待ち待ち 木のねっこ」
(5)「待ちぽうけ 待ちぼうけ もとは涼しい キビ畑 いまは荒野の ホウキ草 寒い北風 木のねっこ」