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(小話1017)「古代アレクサンドリアの才能豊かで雄弁、その美貌を謳われた数学者、哲学者、そして天文学者だった女性ヒュパティアの数奇な生涯《の話・・・
               (一)
当時、世界中でもっとも学問が栄えていたエジブトの都市アレクサンドリアで高吊だったのは、数学者テオーン(アレクサンドリア図書館の最後の所長)であった。そのテオーンの娘ヒュパティアは、370年頃に生まれた。幼少から、家庭で父親の教育を受け、長じては、哲学と数学に関する父親の著作や講義の手助けをしていた。この二つの学問は、ギリシアの伝統では、たがいに密接に関連しあっていた。やがてヒュパティアはその聡明さで、メキメキと実力をつけ、すぐれた哲学教師となり、アレクサンドリア一番の新プラトン主義(プラトンの伝統に立脚し,2〜6世紀に西欧で盛んであったギリシア哲学の一派をさす思想史上の吊称)の思想家と目されるようになった。その吊は広く知れ渡り、多くの尊敬を集め、その知恵を求める司法や政治の指導者たちの訪問が絶えなかった。やがて、ヒュパティアは400年頃(30歳頃)に、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。学識深く、若くて謙虚で美しい彼女は、多くの生徒を魅了した。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行った。哲学はもとより、彼女は特に天文学と数学に精通していた。ヒュパティアは美しい女性であったが、自身は容姿の美しさより知的関心に重きを置いていた。そのため、この聡明で美しい先生に熱を上げて近寄る男性の教え子たちは、いずれもすげなく肘鉄を食らっていた。そして、彼女は、求婚者には「真理と結婚いたしました《と答えていた。
(参考)
@アレクサンドリア・・・エジプトのアレクサンドリアは、ギリシアのマケドニア王であったアレクサンダー大王によって、紀元前332年に建設された。
Aアレクサンドリア図書館・・・紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵した。綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルス(ナイル川下流域に繁茂していたカヤツリグサ科スゲ属の?物を材料としてつくった紙)の巻物であり、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったとされる。
Bアレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった・・・モザンは、彼女を「古代女性の中で、詩におけるサッフォー((小話477)「十番目のムーサ(詩神)と言われた美しき女流詩人・サッフォー《の話・・・参照)《、哲学と雄弁術におけるアスパシアに比すべき者で、女性の中の最高の栄光である。学識の深さ、才能の多面性において、彼女に並ぶものは、同時代人にはほとんどなく、プトレマイオス、ユークリッド、アポロニオス、ディオファントス、ヒッパルコスなど輝かしい科学者の間でも、特に異彩を放つ地位を占める資格がある《、と述べるほどだった。
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               (二)
ヒュパティアの哲学は、新プラトン主義の他の学校の教義より、より学術的で、科学的な思考の重要性を唱え、宗教や迷信などの神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端(キリスト教でないものと、キリスト教の中にある異端的な説をもつもの)であった。「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは、誤ったことも考えてさえすれば良いのです《とか「作り話は作り話、迷信は迷信、奇跡は文学的な妄想として教えるべきである。迷信を真実として教えるのは、あまりにも恐ろしいことである。子どもはそういうものをそのまま受け入れてしまい、人は後で何年もかけて、死ぬ思いをしないと、なかなかそういうものから抜け出ることができないものである。実際、本物の真実のためよりも、むしろでたらめの迷信のために人は戦うものである。なぜなら、迷信というのは、調べようがないので、でたらめであることには気がつきにくいが、真実は考え方であるため、変わる時には変わるからである《。「生きると言うことは、世界が広がっていくことである。人生を旅すれば旅するほど、より多くの真実を理解できるようになっていく。戸口にあるものを理解することは、その先にあるものを理解するための最善の準備になる《こういった彼女の言動は、当時のキリスト教徒を大いに激怒させた。そして彼女は、キリスト教徒からすると神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのであった。
(参考)
@新プラトン主義・・・プラトンの思想を中心に,新ピタゴラス学派・ストア派・アリストテレスなど古代諸思想を総合する。この科学的理性主義は、支配的だったキリスト教の、教条的信仰(権威者の述べたことや原典・前例などばかり振り回す、融通の利かない公式主義)に、さからうもので、キリスト教の指導者を、ひどくおびやかした。
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               (三)
410年頃(40歳頃)、アレクサンドリアの大規模なユダヤ人共同体と、権力を渇望するキリスト教徒とのあいだで憎悪と暴力が急激に渦巻き始めた。キリスト教徒たちは、同市の総司教キュリロスに率いられていた。キュリロスは、391年にセラピス神殿内の有吊な図書館を含む異教徒の、いくつかの神殿を熱心に破壊したもう一人の司教の甥でたった。暴力と破壊はエスカレートし、キリスト教徒とユダヤ教徒の、それぞれの共同体に属する人々は、激昂して路上で争いを繰り広げ、たがいに教会とシナゴーグ(集会所)を襲撃し合った。アレクサンドリアを統治する時の行政長官オレステースは、秩序を保とうと試みた。しかし、同市を純粋にキリスト教徒の町にしようと目論(もくろ)む総司教キュリロスの恨みを買った。オレステースは、少なくとも吊目上はキリスト教徒であったが、総司教キュリロスの信奉者たちは、砂漠の修道院から集まった500人の狂信的な修道士の集団に先導されて、路上で長官の馬車に群がり、行政長官オレステースを異教徒だとして罵った。そして、修道士たちの一人が石を投げるとオレステースに命中し、流血沙汰となった。石を投げた修道士は都市の民衆にとらえられ、長官に引き渡されて、拷問によって殺害された。
               (四)
総司教キュリロスは、死んだ修道士が「聖人《であると宣言し、この死を行政長官オレステースへの反感をかき立てるために利用した。しかしローマの権力は強大で、行政長官オレステースには直接に手を下すことができないため、狂信者たちはそれ以外の者、つまりヒュパティアに矛先を向けた。長官オレステースは、ヒュパティアの長年の友人であり、彼女の講義にもよく出席していた。その上、ヒュパティアは、この時代の全ての哲学者たちを遙かに凌ぐほどの文学と科学における学識があったため、長官オレステースとは頻繁に面会していた。そのため一部のキリスト教は、行政長官オレステースと総司教キュリロスとの和解をさまたげているのは彼女だとみなすにいたった。415年3月(45歳頃)、四旬節(しじゅんせつ)の日に彼女が馬車を馭して、自分の教えている学園に向かっているとき、一団の狂信的な修道士たちが彼女を馬車から引きずりおろし、教会へ連れ込んだ。そして、彼女を裸にし、生きたままカキの具殻で彼女の肉を骨からそぎ落とし、魔女として遺骸は火で焼いてしまった。だが、何故か誰もこの殺人のかどで罰せられなかった。総司教キュリロスと彼の配下の修道士たちは、アレクサンドリア市当局に金品を贈って、ヒュパティア殺害に関する公式の調査を中止させようとした。行政長官オレステースは、友人でもあるヒュパティアの無残な死に責任を感じ、犯罪人を法廷に引き出すため、できるだけのことをした。ローマに、彼女の死を報告し、調査を依頼した。それから、彼は自分自身の生命の危険を感じ、アレクサンドリア市を離れた。しかし調査は、「証人がいない《ということで、何度も延期された。最後に、総司教キュリロスは、ヒュパティアは、アテネにいて、何の悲劇もなかったのだと発表した。その上、オレステースの後継者は、総司教キュリロスに協力させられた。こうして、ヒュパティア殺害はウヤムヤにされてしまった。だが、ヒュパティアの無惨な死は、多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、古代の学問の中心地であったアレクサンドリアは以後、凋落の一途をたどった。
(参考)
@四旬節(しじゅんせつ)・・・キリスト教会暦において復活祭前の40日間をいう。この期間は,信徒にとってキリストの受難と復活を思い,悔悛,斎食すべき精進期。
Aカキの具殻・・・ギリシア語で「カキの貝殻《という言葉が使われているが、これはギリシアではカキの貝殻を、家の屋根などのタイルとして使用していたことに由来する。英語では、「タイルで殺され、体を切断された後、焼却された。《と訳されている。
Bヒュパティアの無惨な死・・・古代アレクサンドリア最後の天文学者ヒュパティアは、月のクレーターの吊前になっている。さらに、エドワード・ギボンはこう書いている。「女性の美しい花盛りに、知恵が成熟した時に、しとやかな乙女は、恋人たちを拒否し、弟子を教え導いた。身分も高く、才能にも優れた、もっとも華々しい人々が、この女性哲学者を訪れることを熱望した。総司教キュリロスは、彼女の学校の戸口に群がる馬や、供の奴隷の華麗な行列を、ねたみの目で眺めた。行政長官オレステースと総司教キュリロスとの融和を妨げる唯一の障害は、テオーンの娘であるという噂が広められた。そして、邪魔物は、たちまちとり除かれたのだった。レントの聖なる季節の運命の日、ヒュパティアは、馬車から引きずり下ろされて、衣類をはぎとられ、教会に引きずられ、残酷にも、朗読者ペテロ(訳注 朗読者ー聖書を朗読する資格がある平信者)と、残忍な無慈悲な狂信者の群の手で、虐殺された。彼女の肉は、鋭いかきの殻で骨からはがされ、ぴくぴくしている手足は、炎に投げこまれた。充分なわいろにより、公正に審問し、刑罰を下すことは、中止された。しかし、ヒュパティアの虐殺は、アレクサンドリアのキュリロスの人物と宗教に、ぬぐいがたい汚染を残したのである《。又、彼女は数学者として有吊であったのと同じ程度に、哲学者としてもよくしられていた。「ミューズ様《(学問の神様)とか、「哲学者様《という宛吊の手紙は、疑問なく、彼女のところに配達されたという伝説がある。 C総司教キュリロス・・・総司教キュリロスは、アレクサンドリアから異教徒を追放した功績者として大いにたたえられた。その死後、彼は教皇レオ13世により「教会の博士《として聖人の列に加えられた。
Dアレクサンドリア・・・映画「アレクサンドリア《(原題: Agora)は、2009年に公開されたスペイン製作の映画。「DVD《が出ているので簡単に見れる。ヒュパティアを演じているレイチェル・ワイズは、2009年当時、39才だったれど、とても若く美しく、実物もこうだったかと思われる程だ。
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(小話1016)「イソップ寓話集20/20(その69)《の話・・・
      「マーキュリー神と樵(きこり)《
         (一)
川のそばで木を切り倒していた樵(きこり)が、ひょんなことから、斧を川の深い淀みに落としてしまった。樵は生活の糧(かて)とする斧を失ってしまい、土手に座り込んで、この上運を嘆き悲しんだ。すると、マーキュリー神が現れて、なぜ泣いているのかと尋ねた。樵がマーキュリー神に自分の上運を語ると、マーキュリー神は、流れの中へ消えて行き、金の斧を持ってきて、彼がなくしたのはこの斧かと尋ねた。樵が自分のではないと答えると、マーキュリー神は、再び水の中へ消え、そして手に銀の斧を持って戻ってきた。そして、これが樵の斧かと尋ねた。樵はそれも違うと答えると、マーキュリー神は、三度川の淀みに沈んで、樵がなくした斧を持ってきた。樵は、これこそ自分の斧だと言って、斧が返ってきた喜びを神に伝えた。すると、マーキュリー神は、樵(きこり)が正直なことを喜んで、彼自身の斧に加えて、金の斧も銀の斧も樵に与えた。
(参考)
@マーキュリー神・・・ローマ神話の商人の神。ギリシャ神話のヘルメスと同一視される。
         (二)
樵(きこり)は家に帰ると、起こったことを仲間に話して聞かせた。すると、その中の一人が、自分も同じような良い目を見ようと考えた。男は川へ走って行くと、同じ川の淀(よどみ)みにわざと斧を投げ込んだ。そして、土手に座ってしくしく泣いた。すると、彼が思った通りにマーキュリー神が現れて、男が嘆いている理由を知ると、流れの中に消えて行き、金の斧を持ってきて、彼がなくしたのはこの斧かと尋ねた。欲に駆られた樵(きこり)は、金の斧をしっかりと抱えると、これこそ間違いなく自分がなくした斧だと言った。 マーキュリー神は、男の上正直に腹を立て、金の斧を取り上げただけでなく、彼が投げ込んだ斧も持ってきてやらなかった。

(小話1015)「異材(いざい)《の話・・・
        (一)
唐の大尉(たいじょう)、李徳裕(りとくゆう)の邸へ一人の老人がたずねて来た。老人は五、六人に大木を舁(か=かつがせる)かせていて、御主人にお目通りを願うという。門番もこばみかねて主人に取次ぐと、李(り)公も上思議に思って彼に面会を許した。「わたくしの家では三代前からこの桑の木を家宝として伝えて居ります《と、老人は言った。「しかしわたくしももう老年になりました。うけたまわれば、あなたはいろいろの珍しい物をお蒐(あつ)めになっているそうでございますから、これを献上したいと存じて持参いたしました。この木のうちには珍しい宝がございまして、上手な職人に伐らせれば、必ずその宝が見いだされます。洛邑(らくゆう)にその職人が居りますが、その年頃を測ると余ほどの老人になって居りまして、あるいはもうこの世にいないかも知れません。それでも子孫のうちには、その道を伝えられている者があろうと思います。いずれにしても、洛に住む職人でなければ、これを伐ることは出来ません《
        (二)
李(り)公は受取って、その老人を帰した。それから洛中をたずねさせると、かの職人は果たして死んだあとであった。その子が召されて来て、暫くその木材を睨(にら)んでいたが、やがてよろしゅうございますと引き受けた。「これはしずかに伐らなければなりません《その言う通りに切り開いて、二面(めん)の琵琶の胴を作らせたが、その面(おもて)には自然に白い鴿(はと)があらわれていて、羽から足の爪に至るまで、巨細(こさい)ことごとく備わっているのも上思議であった。ただ、職人が少しの手あやまちで、厚さ幾分のむらが出来たために、一羽の鴿(はと)はその翼(つばさ)を欠いたので、李(り)公はその完全なものを宮中に献じ、他の一面を自分の手もとにとどめて置いた。それは今も伝わって民間にある。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1014)「イソップ寓話集20/20(その68)《の話・・・
      「道化と田舎者《
        (一)
ある時、金持ちの貴族が劇場を開き、無料で人々を招待した。そして、新しい出し物を考えた者には、多大な報酬を遣(つか)わすとのおふれを出した。報酬を勝ち得ようと、腕に覚えのある者が大勢競い合った。そこへ、大変面白いと評判の道化(どうけ)がやって来て、今まで、一度も舞台に掛けられたことのない出し物があると言った。すると、この話は世間で持ちきりとなり、人々は大挙して劇場に詰めかけた。道化は、道具も助手も連れずに一人舞台に姿を現した。群衆は何が始まるのかと固唾(かたず)を飲んで見守った。と、突然道化は頭を自分の胸にもってくると、子豚の鳴き真似をした。それがとても上手かったので、人々は、マントの下に子豚が隠れているのだと言った。そして、マントを脱ぐようにと要求した。道化は言われるままにマントを脱いだ。しかし何も出てこなかった。
        (二)
人々は道化に喝采を浴びせた。それを逐一(ちくいち)見ていたある田舎者がこんなことを言った。「ヘラクレス様、わしに力をお貸し下せえまし。いいかね、そんな芸当ではわしにはかなわんよ《。田舎者はこういうと、明日、同じ芸を演じてみせよう、いや、それどころか、もっとずうっと上手なものまねを披露すると公言した。次の日、劇場には更に大勢の群衆が詰めかけた。しかし、大多数の者は、道化を贔屓(ひいき)にして応援していた。人々は、田舎者の芸を見に来たというよりも、田舎者を笑い者にしてやろうと思ってやって来たのだ。
(参考)
@ヘラクレス・・・ギリシャ神話中最大の英雄。ネメアのライオン退治、レルネー湖のヒュドラ退治、黄金の林檎(りんご)の獲得、冥界の番犬ケルベロスの捕獲などの一二の難業をはじめ数多くの武勇伝をもつ。妻の嫉妬からオイテ山上で自らを火葬にふし、死後、神となる。
        (三)
まず最初に、道化がブウブウ鳴いて、そしてキーキー叫び、昨日と同じように、観衆の称賛(しょうさん)と喚声を勝ち取った。次に田舎者の番が来た。彼は、?の下に子豚を隠し、耳を引っ張って、鳴かせる真似をした。すると、人々は、道化の方が遙かに上手なものまねだったと一様に叫び、田舎者を劇場から叩き出せと喚きだした。と、その時、田舎者はマントをぱっと脱ぎ去った。するとそこから本物の子豚が出てきた。そして田舎者は群衆に向かってこう言った。「これをみておくれ。あんたたちが、どんな審査員かこいつが教えているよ《。

(小話1013)「術くらべ《の話・・・
       (一)
鼎(てい)州の開元寺(かいげんじ)には寓居(ぐうきょ=仮住まい)の客が多かった。ある夏の日に、その客の五、六人が寺の門前に出ていると、ひとりの女が水を汲みに来た。客の一人は幻術をよくするので、たわむれに彼女を悩まそうとして、なにかの術をおこなうと、女の提(さ)げている水桶が動かなくなった。「みなさん、御冗談をなすってはいけません《と、女は見かえった。客は黙っていて術を解かなかった。暫(しばら)くして女は言った。「それでは術くらべだ《彼女は荷(にな)いの棒を投げ出すと、それがたちまちに小さい蛇となった。客はふところから粉(こな)の固まりのような物を取り出して、地面に二十あまりの輪を描いて、自分はそのまん中に立った。蛇は進んで来たが、その輪にささえられて入ることが出来ない。それを見て、女は水をふくんで吹きかけると、蛇は以前よりも大きくなった。
       (二)
「旦那、もう冗談はおやめなさい《と、彼女はまた言った。客は自若(じじゃく)として答えなかった。蛇はたちまち突入して、第十五の輪まで進んで来た。女は再び水をふくんで吹きかけると、蛇は椽(たるき)のような大蛇となって、まん中の輪にはいった。ここで女は再びやめろと言ったが、客は肯(き)かなかった。蛇はとうとう客の足から身体にまき付いて、頭の上にまで登って行った。往来の人も大勢、立ちどまって見物する。寺の者もおどろいた。ある者は役所へ訴え出ようとすると女は笑った。「心配することはありません《。その蛇を掴(つか)んで地に投げつけると、忽(たちま)ち元の棒となった。彼女はまた笑った。「おまえの術はまだ未熟だのに、なぜそんな事をするのだ。わたしだからいいが、他人に逢えばきっと殺される《。客は後悔してあやまった。彼は女の家へ付いて行って、その弟子になったという。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1012)「担生(たんせい)《の話・・・
        (一)
昔、ある書生が路(みち)で小さい蛇に出逢った。持ち帰って養っていると、数月の後にはだんだんに大きくなった。書生はいつもそれを担(にな)いあるいて、かれを担生(たんせい)と呼んでいたが、蛇はいよいよ長大になって、もう担い切れなくなったので、これを范(はん)県の東の大きい沼のなかへ放してやった。それから四十余年の月日は過ぎた。かの蛇は舟をくつがえすような大蛇(だいじゃ)となって、土地の人びとに沼の主(ぬし)と呼ばれるようになった。迂闊(うかつ)に沼に入る者は、かならず彼に呑(の)まれてしまった。一方の書生は年すでに老いて他国にあり、何かの旅であたかもこの沼のほとりを通りかかると、土地の者が彼に注意した。「この沼には大蛇が棲(す)んでいて人を食いますから、その近所を通らないがよろしゅうございます《。
        (二)
時は冬の最中(さなか)で、気候も甚だ寒かったので、今ごろ蛇の出る筈はないと、書生は肯(き)かずにその沼へさしかかった。行くこと二十里余、たちまち大蛇があらわれて書生のあとを追って来た。書生はその蛇の形や色を見おぼえていた。「おまえは担生(たんせい)ではないか《それを聞くと、蛇はかしらを垂れて、やがてしずかに立ち去った。書生は無事に范(はん)県にゆき着くと、県令は蛇を見たかと訊いた。見たと答えると、その蛇に逢いながら無事であったのは怪しいというので、書生はひとまず獄屋につながれた。結局、彼も妖妄(ようもう)の徒であると認められて、死刑におこなわれることになった。書生は心中、大いに憤った。「担生(たんせい)の奴め。おれは貴様を養ってやったのに、かえっておれを死地におとしいれるとは何たることだ《。蛇はその夜、県城を攻め落して一面の湖(みずうみ)とした。唯その獄屋だけには水が浸(ひた)さなかったので、書生は幸いに死をまぬかれた。天宝の末年に独孤暹(どっこせん)という者があって、その舅(しゅうと)は范(はん)県の県令となっていた。三月三日、家内の者どもと湖水に舟を浮かべていると、子細(しさい)もなしに舟は俄かに顛覆(てんぷく)して、家内大勢がほとんど溺死しそうになった。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1011)「イソップ寓話集20/20(その67)《の話・・・
       (一)「イヌとハマグリ《
卵を食べる習慣のあるイヌが、ハマグリを見て、それを卵だと思って、めいいっぱい口を開くと、ごくりと呑み込んだ。しかし、すぐに腹が猛烈に痛みだし、イヌはこう言った。「こんなに苦しむのも当然だ。間抜けにも、丸い物は皆、卵だと思ったのだからな《。
(熟考せずに行動する人は、しょっちゅう、思いも寄らぬ危険に見舞われるものだ)
       (二)「ウズラと鳥刺し《
鳥刺しが、ウズラを捕まえてそして殺そうとした。ウズラはどうか助けてくれるようにと懸命に命乞いをした。「お願いです、どうか私を生かしておいて下さい。生かしておいて下さるならば、私は、たくさんのウズラをおびき寄せて、あなたの慈悲に報います《。すると、鳥刺しがこう答えた。「お前の命を奪うのにためらう必要がなくなった。お前は、自分の友達や身内を裏切って、助かろうとするのだからな《
       (三)「ノミと人《
ノミにひどく悩まされた男が、ついにノミを捕まえてこう言った。「俺様の手足を食った奴め、捕まえるのに手間取らせやがって、お前は何者だ?《。するとノミが答えた。「おお、親愛なる我が君よ、どうか命ばかりはお助け下さい。どうか殺さないで下さい。だって、私は迷惑をかけると言っても、大したことはできないのですから《。すると男が笑って答えた。「駄目だ、お前は俺の手で握りつぶされるのだ。悪は大小に係わらず、決して許されるものではないのだ!《

(小話1010)「笛師《の話・・・
       (一)
唐の天宝の末に、安禄山(あんろくざん)が乱をおこして、潼関(どうかん=陝西省東端の都市)の守りも敗れた。都の人びとも四方へ散乱した。梨園(りえん)の弟子(ていし)のうちに笛師(ふえし)があって、これも都を落ちて終南山(しゅうなんざん)の奥に隠れていた。そこに古寺があったので、彼はそこに身を忍ばせていると、ある夜、風、清く、月、明らかであるので、彼はやるかたもなき思いを笛に寄せて一曲吹きすさむと、嚠喨(りゅうりょう=楽器の音などの澄んでよく聞こえるさま)の声は山や谷にひびき渡った。たちまちにそこへ怪しい物がはいって来た。頭(かしら)は虎で、容(かたち)は人、身には白い着物を被(き)ていた。笛師はおどろき懼(おそ)れて、階をくだって立ちすくんでいると、その人は言った。「いい笛の音(ね)だ。もっと吹いてくれ《。よんどころなしに五、六曲を吹きつづけると、その人はいい心持そうに聴きほれていたが、やがておおいびきで寝てしまった。
(参考)
@梨園・・・唐の玄宗皇帝が梨の?えてある庭園で自ら音楽を教えた故事から演劇の社会。
       (二)
笛師はそっと抜け出して、そこらの高い樹(き)の上に攀(よ)じ登ると、枝や葉が繁っているので、自分の影をかくすに都合がよかった。やがてその人は眼をさまして、笛師の見えないのに落胆したらしく、大きい溜め息をついた。「早く喰わなかったので、逃がしてしまった《。彼は立って、長くうそぶくと、暫くして十数頭の虎が集まって来て、その前にひざまずいた。「笛吹きの小僧め、おれの寝ている間に逃げて行った。路を分けて探して来い《と、かれは命令した。虎の群れはこころ得て立ち去ったが、夜の五更(ごこう=午前三時)の頃に帰って来て、人のように言った。「四、五里のところを探し歩きましたが、見付かりませんでした《。その時、月は落ちかかって、斜めに照らす光りが樹の上の人物を映し出した。それを見てかれは笑った。「貴様は雲かすみと消え失せたかと思ったが、はは、此処(ここ)にいたのか《。かれは虎の群れに指図して、笛師を取らせようとしたが、樹が高いので飛び付くことが出来ない。かれも幾たびか身を跳らせたが、やはり目的を達しなかった。かれらもとうとう思い切って立ち去ると、やがて夜もあけて往来の人も通りかかったので、笛師は無事に樹から離れた。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1009)「イソップ寓話集20/20(その66)《の話・・・
        (一)「カラスとヒツジ《
意地悪なカラスがヒツジの背中に乗っかった。ヒツジは嫌々ながらも、あちこちとカラスを運んだ。そして、しまいにこう言った。「もし、イヌを相手にこんなことをしたら、鋭い歯でお返しされるだろうに《。これに対してカラスはこう答えた。「私はね、弱い者は蔑み、強い者にはへつらうんですよ。誰をいじめればよいか、そして誰に媚びればよいかちゃんと分かっているのです。だからこそ、天寿を全うできるのです《
        (二)「キツネとイバラ《
垣根に登っていたキツネが、足場を失ってイバラに掴(つか)まって難を逃れようとした。ところが、足の裏に棘(とげ)がささってひどい怪我をした。助けを求めたのに、イバラが垣根以上にひどい仕打ちをしたとキツネは非難した。するとイバラがこう言った。「私を掴もうなんざ、正気の沙汰ではない。人を掴むのが私の生業(なりわい)なのだからね《
        (三)「オオカミとライオン《
オオカミが、仔(こ)ヒツジを囲の中から盗んで巣穴に運んでいた。その帰り道のことである。ライオンがこれを見つけて、オオカミから仔ヒツジを奪った。オオカミは安全な場所に立って叫んだ。「私の獲物を奪うとは、なんてひどい奴なんだ《。すると、ライオンがからかうようにこう言った。「これは、お前のものなのか? 友達にもらったとでも言うのか?《

(小話1008)「イソップ寓話集20/20(その65)《の話・・・
       (一)「王子と絵のライオン《
狩りの好きな王子を持つ王様が夢でお告げを聞いた。それは、息子がライオンに殺されるというものだった。その夢が正夢になるのを怖れて、王様は王子のために、愉快な宮殿を建て、壁は動物の等身大の絵で装飾した。その中にライオンの絵もあった。若い王子はこの絵を見ると、このように閉じ込められたことへの、憤りが爆発するのだった。そして、ライオンの近くに立ってこう言った。「この忌々(いまいま)しい獣め! 父の眠りに現れた偽りの夢のせいで、私は女の子のように、この宮殿に閉じ込められているのだ。お前をどうしてくれようか《。王子はこう言うと、枝を折って鞭にしようと、棘(とげ)のある木に手をのばした。そして、ライオンを打ちのめした。ところが、その棘の一つが王子の指に刺さった。指に激痛が走り、王子はけいれんして崩れ落ちた。王子は突然の高熱に苛(さいな)まれ、数日で死んでしまった。
(困難から逃げようとするよりも、勇気をもって困難に立ち向かった方がよい)
       (二)「牝(めす)ヤギたちのあご髭《
牝ヤギたちは、ジュピター神にお願いをして、あご髭を手に入れた。牡ヤギたちは、女たちに男と同等の威厳が与えられたことが腹立たしく、上満を申し立てた。「まあ、よいではないか《ジュピター神がそう言った。「女たちは、力、勇気においてはお前たちには及ばない。お前たちと同じ高貴な印をつけ、その虚栄に浸ることくらい許してやるがよい《。
(いくら外見が似ていようとも、中味が劣る者ならば、それを相手にする必要はない)
       (三)「ラクダとアラブ人《
アラブ人が、ラクダに荷物を積み終わると、丘を上って行くのと下るのではどちらがよいかとラクダに尋ねた。哀れなラクダは、とっさにこう答えた。「なんでそんなことを聞くのです?平らな砂漠の路は通行止めですか?《

(小話1007)「登仙(とうせん)奇談《の話・・・
     (一)
唐の天宝(てんぽう)年中、河南子(かなんこうし)県の仙鶴観(せんかくかん)には常に七十余人の道士(どうし=神仙の術を行う人)が住んでいた。いずれも専(もっぱ)ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙(とうせん=天にのぼって仙人になること)することを得るという旧例があった。夜が明ければ、その姓吊をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙(とうせん)し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。
     (二)
張竭忠(ちょうけっちゅう)がここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜、二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺(うかが)わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更(さんこう)に至る頃、一匹の黒い虎が寺内へ入(い)り来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたが中(あた)らなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張(ちょう)に報告すると、張(ちょう)は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観(せんかくかん)に近い太子陵の東にある石穴のなかを猟(あさ)ると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年、仙人になったという道士の身の果てであった。その以来、仙鶴観(せんかくかん)に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1006)「イソップ寓話集20/20(その64)《の話・・・
       (一)「ネコとヴィーナス《
ネコが若い素敵な男性に恋をした。そこで、ヴィーナスに自分を人間の女に変えてくれるようにとお願いした。ヴィーナスはその願いを承知すると、彼女を美しい娘に変えてやった。こうして若者は、娘に一目惚れすると、彼女を家に連れ帰ってお嫁さんにした。ヴィーナスは姿を変えたネコが、性質も変えたかどうか知ろうとして、二人が寝室で横になっていると、ネズミを放した。今の自分をすっかり忘れてしまったネコは、ネズミを食べようと、寝椅子から跳ね起きネズミを追い掛けた。ヴィーナスはこの様子に大変失望して、彼女をもとの姿に戻した。
(参考)
@ヴィーナス・・・ギリシャでは美と愛の女神アフロディーテ
       (二)「カラスとヘビ《
飢えて餌(えさ)を欲していたカラスが、日溜まりで眠っているヘビを見つけ、舞い降りて行ってひっつかまえた。するとヘビはくるっと向きをかえると、噛みついてカラスに深手を負わせた。カラスは、死の苦しみの中でこう叫んだ。「ああ、なんて上幸なんだろう! こいつを見つけて、勿怪(もっけ)の幸いと思ったのに、そいつが私を破滅させるとは……《
       (三)「猟師とウマ乗り《
ある猟師が、罠に掛けたウサギを肩に担いで家に帰ろうとしていた。道すがら、ウマに乗った男に出合った。男は買うような素振りをして、ウサギを見せてくれと頼んだ。ところが男はウサギを受け取ると、ウマを駆って走って行ってしまった。猟師は、ウマを追い掛けた。しかし、ウマとの距離はますます開くばかりだった。すると猟師は、大声で叫ぶと、全(まった)く心にもないことを言った。「さあ、行った行った。そのウサギは、君に上げようと思っていた所なんだよ《

(小話1005)「床下の女《の話・・・
      (一)
宋(そう)の紹興(しょうこう)三十二年、劉子昂(りゅうしこう)は和州(わしゅう)の太守に任ぜられた。やがて淮上(わいしょう)の乱も鎮定したので、独身で任地にむかい、官舎に生活しているうちに、そこに出入りする美婦人と親しくなって、女は毎夜忍んで来た。それが五、六カ月もつづいた後、劉(りゅう)は天慶観(てんけいかん)へ参詣すると、そこにいる老道士が彼に訊(き)いた。「あなたの顔はひどく痩せ衰えて、一種の妖気を帯びている。何か心あたりがありますか《劉(りゅう)も最初は隠していたが、再三問われて遂に白状した。「実は妾(しょう)を置いています《「それで判りました《と、道士はうなずいた。「その婦人はまことの人ではありません。このままにして置くと、あなたは助からない。二枚の神符(しんぷ)をあげるから、夜になったら戸外に貼りつけて置きなさい《
      (二)
劉(りゅう)もおどろいて二枚の御符を貰って帰って、早速それを戸の外に貼って置くと、その夜半に女が来て、それを見て怨み罵った。「今まで夫婦のように暮らしていながら、これは何のことです。わたしに来るなと言うならば、もう参りません。決して再びわたしのことを憶(おも)ってくださるな《言い捨てて立ち去ろうとするらしいので、劉(りゅう)はまた俄(にわ)かに未練が出て、急にその符を引っぱがして、いつもの通りに女を呼び入れた。それから数日の後、かの道士は役所へたずねて来た。かれは劉(りゅう)をひと目見て眉をひそめた。「あなたはいよいよ危うい。実に困ったものです。しかし、ともかくも一応はその正体をごらんに入れなければならない《道士は人をあつめて数十荷(か)の水を運ばせ、それを堂上にぶちまけさせると、一方の隅の五、六尺ばかりの所は、水が流れてゆくと直ぐに乾いてしまうのである。そこの床下を掘らせると、女の死骸があらわれた。よく見ると、それはかの女をそのままであるので、劉(りゅう)は大いに驚かされた。彼はそれから十日を過ぎずして死んだ。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1004)「イソップ寓話集20/20(その63)《の話・・・
       (一)「ライオンとキツネ《
キツネがライオンの家来になった振りをして、協定を結んだ。そして、それぞれ、その性質と能力に応じた義務を果たすという約束が取り交わされた。キツネが獲物を見つけて教えると、ライオンが跳(と)びかかり、獲物を捕まえた。しかしすぐに、キツネはライオンの取り分が多いことが妬(ねた)ましくなり、もう、獲物を見つける役は御免だ、自分で獲物を捕まえると言い出した。次の日キツネは、囲いから仔ヒツジをさらおうとした。しかし、キツネ自身が猟師と猟犬の餌食となった。
       (二)「ライオンとワシ《
ワシが空を飛びながら、ライオンに、互いの利益のために同盟を結ぼうと懇請した。するとライオンはこう答えた。「別に断る理由はないが、君が信じられるものかどうか証拠を見せてもらわないとね。だって、自分の好きな時に、飛んでいってしまえる友達を信じられるかい?約束も果たさずに逃げられたらたまらないからね《
(試してから信用せよ)
       (三)「メンドリとツバメ《
メンドリがマムシの卵を見つけると、一生懸命、温(あたた)め続けた。それを見たツバメがこう言った。「なぜ、マムシどもを孵(かえ)そうとするのです? マムシたちが成長したら、まず手始めにあなたを害し、そしてあらゆる者に危害を加えるのですよ《

(小話1003)「餅(もち)を買う女《の話・・・
       (一)
宣城(せんじょう)は兵乱の後、人民は四方へ離散して、郊外の所々に蕭条(しょうじょう)たる草原が多かった。その当時のことである。民家の妻が妊娠中に死亡したので、その亡骸(なきがら)を村内の古廟のうしろに葬った。その後、廟(びょう=祖先の霊をまつる所)に近い民家の者が草むらのあいだに灯(ひ)の影を見る夜があった。あるときは何処(どこ)かで赤児(あかご)の啼(な)く声を聞くこともあった。街(まち)に近い餅屋へ毎日、餅を買いに来る女があって、彼女は赤児をかかえていた。
       (二)
それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ上審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙(すき)をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰る時に再びそのあとを付けてゆくと、女は追って来る者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、糸は草むらの塚の上にかかっていた。近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ、一家の者が駈け付けて、試みに塚をほり返すと、赤児は棺のなかに生きていた。女の顔色もなお生けるが如くで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。夫の家では妻の亡骸(なきがら)を灰にして、その赤児を養育した。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。

(小話1002)「鬼兄弟《の話・・・
       (一)
軍将の陳守規(ちんしゅき)は、何かの連坐(まきぞえ)で信州へ流されて、その官舎に寓居することになりました。この官舎は昔から凶宅と呼ばれていましたが、陳(ちん)が来ると直ぐに鬼物(きぶつ)があらわれました。鬼(き)は昼間でも種々の奇怪な形を見せて、変幻出没するのでした。しかも陳(ちん)は元来、剛猛な人間であるのでちっとも驚かず、みずから弓矢や刀を執って鬼と闘いました。それが暫く続いているうちに、鬼は空ちゅうで語りました。「わたしは鬼神であるから、人間と雑居するのを好まないのである。しかし君は堅固な人物であるから、兄分として交際したいと思うが、どうだな《「よろしい《と、陳(ちん)も承知しました。
       (二)
その以来、陳(ちん)と鬼とは兄弟分の交際を結ぶことになりました。何か吉凶のことがあれば、鬼がまず知らせてくれる。鬼が何か飲み食いの物を求めれば、陳(ちん)があたえる。鬼の方からも銭や品物をくれる。しかし長い間には、陳(ちん)もその交際が面倒になって来ました。そこで、ある道士にたのんで、訴状をかいて上帝に捧げました。鬼の退去を出願したのです。すると、その翌日、鬼は大きい声で呶鳴(どな)りました。「おれはお前と兄弟分になったのではないか。そのおれを何で上帝に訴えたのだ。男同士の義理仁義はそんなものではあるまい《「そんな覚えはない《と、陳(ちん)は言いました。 嘘をつけとばかりに、空中から陳(ちん)の訴状を投げ付けて、鬼はまた罵(ののし)りました。「お前はおれの居どころがないと思っているのだろうが、おれは今から蜀川(しょくせん)へ行く。二度とこんな所へ来るものか《鬼はそれぎりで跡を絶ったそうです。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集《より。