ホームページの表紙はこちら

小話集の書庫の目次はこちら

小話集の書庫にようこそ

(小話983)から(小話990)はこちらへ

(小話1002)から(小話1017)はこちらへ


(小話1001)「霊鏡(れいきょう)」の話・・・
          (一)
唐の貞元年中、漁師十余人が数艘(すうそう)の船に小網を載せて漁に出た。蘇州(そしゅう)の太湖が松江(しょうこう)に入るところである。網をおろしたがちっとも獲物(えもの)はなかった。やがて網にかかったのは一つの鏡で、しかもさのみに大きい物でもないので、漁師はいまいましがって水に投げ込んだ。それから場所をかえて再び網をおろすと、又もやかの鏡がかかったので、漁師らもさすがに不思議に思って、それを取り上げてよく視(み)ると、鏡はわずかに七、八寸であるが、それに照らすと人の筋骨(きんこつ)から臓腑(ぞうふ)まではっきりと映ったので、最初に見た者はおどろいて気絶した。
          (二)
ほかの者も怪(あや)しんで鏡にむかうと、皆その通りであるので、驚いて倒れる者もあり、嘔吐(はきけ)を催す者もあった。最後の一人は恐れて我が姿を照らさず、その鏡を取って再び水中に投げ込んでしまった。彼は倒れている人びとを介抱して我が家へ帰ったが、あれは確かに妖怪であろうと言い合った。あくる日もつづいて漁に出ると、きょうは網に入る魚が平日の幾倍であった。漁師のうちで平生から持病のある者もみな全快した。故老(ころう=老人)の話によると、その鏡は河や湖水のうちに在って、数百年に一度あらわれるもので、これまでにも見た者がある。しかもそれが何の精(せい)であるかを知らないという。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集」より。

(小話1000)「イソップ寓話集20/20(その62)」の話・・・
        (一)「真理と旅人」
男が砂漠を旅していると、ひどく落胆した様子で独り佇(たたず)んでいる女に出合った。「あなたは、どなたなのですか?」旅人が訊ねた。「私は、真理です」彼女が答えた。「どうして、こんな人里離れた荒れ地にいらっしゃるのですか?」旅人が訊ねると、彼女は次のように答えた。「以前は殆どみられなかった偽(いつわ)りが、今では、あらゆる人々の間に蔓延(まんえん)しているからです」
        (二)「人殺し」
殺人を犯した男が、殺した男の親類たちに追われていた。男がナイル川までやって来ると、丘の上にライオンがいるのに気づいて、男は恐怖に震えて木に登った。ところが、木の枝の先にヘビがいるのを見つけ、またもや仰天すると、今度は川へ飛び込んだ。しかし、そこにはワニが大口を開けていた。このように、地、空、水は皆、殺人者を庇護(ひご)するのを拒んだのであった。
        (三)「御神木」
古い伝説によると、神々は、ご自分の庇護する木を特別に選んだそうです。ジュピター神は樫の木、女神ヴィーナスはギンバイカ、アポロ神は月桂樹、キュベレ神は松の木、そしてヘラクレス神はポプラの木。……という具合に。すると女神ミネルヴァは、皆がなぜ実のならぬ木を好むのか不思議に思い、選んだ理由をお尋ねになりました。すると、ジュピター神はこのようにお答えになりました。「それはだな、実を得んがために、庇護していると思われるのを潔(いさぎよ)しとしないためなのだ」すると女神ミネルヴァはこう仰ったそうです。「誰が何と言おうと、私には、実のなるオリーブの方が好ましいですわ」すると、ジュピター大神はこうお答えになったそうです。「我が娘よ。お前が聡明だと言われるのは真のことであるな。どんなに立派なことであっても、それが実を結ばぬことならば、その栄光は虚栄と言うほかあるまいな」
(参考)
@ジュピター神(ギリシャでは大神ゼウス)。女神ヴィーナス(ギリシャでは美と愛の女神アフロディーテ)。アポロ神(ギリシャでは太陽神アポロン)。キュベレ神(ギリシャでは大地の女レイア)。女神ミネルヴァ(ギリシャでは戦いの女神アテナ)


(小話999)「女侠(じょきょう)」の話・・・
        (一)
唐の貞元年中、博陵(はくりょう)の崔慎思(さいしんし)が進士(しんし)に挙げられて上京したが、京に然るべき第宅(ていたく)がないので、他人の別室を借りていた。家主は別の母屋(おもや)に住んでいたが、男らしい者は一人も見えず、三十ぐらいの容貌(きりょう)のよい女と唯(ただ)ふたりの女中がいるばかりであった。崔(さい)は自分の意を通じて、その女を妻にしたいと申し入れると、彼女は答えた。「わたくしは人に仕えることの出来る者ではありません。あなたとは不釣合いです。なまじいに結婚して後日(ごじつ)の恨みを残すような事があってはなりません」。それでは妾(めかけ)になってくれと言うと、女は承知した。しかも彼女は自分の姓を名乗らなかった。そうして二年あまりも一緒に暮らすうちに、ひとりの子を儲けた。それから数月の後、ある夜のことである。崔(さい)は戸を閉じ、帷(とばり)を垂れて寝(しん)に就くと、夜なかに女の姿が見えなくなった。
        (二)
崔(さい)はおどろいて、さては他に姦夫(かんぷ)があるのかと、憤怒(いきどおり)に堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首(あいくち)、左の手には一人の首をたずさえているのである。「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうお暇(いとま)をいたします」。彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」。男に別れて墻(かき)を越え、家を越えて立ち去ったので、崔(さい)も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」。彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。「乳をたんと飲ませました」。言い捨てて出たままで、彼女はかさねて帰らなかった。それから時を移しても、赤児(あかご)の啼(な)く声がちっとも聞えないので、崔(さい)は怪しんでうかがうと、赤児もまた殺されていた。その子を殺したのは、のちの思いの種を断つためであろう。昔の侠客もこれには及ばない。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集」より。

(小話998)「イソップ寓話集20/20(その61)」の話・・・
       (一)「サルとラクダ」
森の動物たちが大きな宴会を催した時、サルが立ち上がって踊った。その踊りは、とても素晴らしかったので、サルは中央に座ると、皆からヤンヤの喝采を浴びた。ラクダはサルが妬(ねた)ましく、自分も皆の称賛を勝ち得たいと思って、次は自分が踊って皆を楽しませようと申し出た。しかし、ラクダはひどく不格好に動き回ったので、皆は激怒して、ラクダを棍棒(こんぼう)で叩きのめした。
(猿真似ほど間抜けなものはない)
       (二)「ロバとウマ」
ロバがウマに、ほんの少しでよいから食物を分けてくれるようにとお願いした。するとウマがこう答えた。「分かりましたよ、今食べているものが残ったら、全てあなたにあげましょう、私の高貴な性質がそうせずにはいられないのです。夕方私が厩舎へ戻ったら、いらっしゃいな、そうしたら大麦のいっぱい詰まった袋をあげますよ」すると、ロバがこう言った。「ありがとうございます。でも、今、少しも分けてくれないのに、後でたくさん分けてもらえるとは思えないのですよ」
       (三)「農夫とリンゴの木」
農夫の庭には一本のリンゴの木があった。しかし、その木は、スズメやセミの憩(いこ)いの場となるだけで、実(み)を全くつけなかった。農夫は、この木を切り倒してしまおうと、斧を手に持つと、根元に豪快に振り下ろした。セミとスズメは、この木は自分たちの避難場所なので、切り倒さないで欲しいと懇願した。そして、もしこの木を切らずにいてくれたならば、自分たちは農夫のために歌を歌って、労働の慰めとなると言った。しかし、農夫は彼らの願いに耳を貸そうとはせずに、二度、三度と斧を打ち込んだ。すると、斧が木の洞に到達し、蜜のいっぱいつまったハチの巣が見つかった。農夫はハチ蜜を味わうと、斧を放り出した。そして御神木かなにかのように、かいがいしく世話をした。
(世の中には、利益のためにしか行動しない人がいる)

(小話997)「イソップ寓話集20/20(その60)」の話・・・
       (一)「ヒツジ飼いとヒツジ」
ヒツジ飼いが、ヒツジたちを森へと導いていると、とても大きな樫の木を見つけた。樫の木には、ドングリがたわわに実っていたので、ヒツジ飼いは枝の下にマントを広げると、木に登り枝を揺すった。すると、ドングリを食べていたヒツジたちは、いつの間にか、マントをボロボロに引き裂いてしまった。ヒツジ飼いは木から下りてきて、事の次第を知るとこう言った。「ああ、お前たちは、なんて恩知らずなんだ! 仕立屋には、自分の毛をくれてやるくせに、食わせてやっている私の服は台無しにする……」
       (二)「セミとフクロウ」
フクロウは、夜食べて昼間は寝ているという習性なのだが、セミの騒音に大変悩まされ、どうか鳴くのを止めてくれるようにと懇願した。しかしセミはその願いを拒絶し、それどころか、より一層、大声で鳴いた。フクロウは、願いが聞き入れられず、自分の言(げん)が小馬鹿にされたことを知ると、謀(はかり)をもって当たろうと、うるさいセミにこんなことを言った。「アポロンの竪琴のような、あなたの甘い歌声を聞いていると、私は、寝ることができません。そこで、近頃、女神パレスに頂いた、甘露を飲もうと思うのですが、もし、お嫌じゃなかったら、私の所に来て一緒に飲みませんか?」。喉の渇いていたセミは、フクロウのお世辞に気をよくして、勇んで飛んで行った。すると梟は、洞から身を乗り出すと、セミを捕まえて殺した。
(参考)
女神パレス・・・ローマ神話の牧畜の女神。
       (三)「イヌと皮」
飢えたイヌたちが、川に、ウシの皮が浸(ひた)っているのを見つけた。イヌたちは、そこへ行くことが出来なかったので、川の水を飲み干すことにした。しかし、イヌたちは、皮に到達する前に、水を飲み過ぎて破裂してしまった。
(出来ることをせよ)

(小話996)「海和尚、山和尚」の話・・・
          (一)
潘(はん)なにがしは漁業に老熟しているので、常にその獲物(えもの)が多かった。ある日、同業者と共に海浜へ出て網を入れると、その重いこと平常に倍し、数人の力をあわせて纔(わず)かに引き上げることが出来た。見ると、網のなかに一尾の魚もない。ただ六、七人の小さい人間が坐っていて、漁師らをみて合掌頂礼(がっしょうちょうらい)のさまをなした。かれらの全身は毛に蔽(おお)われてさながら猿のごとく、その頭の天辺だけは禿(は)げたようになって一本の毛も見えなかった。何か言うようでもあるが、その語音(ごいん)はもとより判らない。とにかくに異形(いぎょう)の物であるので、漁師らも網を開いて放してやると、かれらは海の上をゆくこと数十歩にして、やがて浪の底に沈んでしまった。土人(どしん=土地の人)の或る者の説によると、それは海和尚(かいおしょう)と呼ぶもので、その肉を乾して食らえば一年間は飢えないそうである。
          (二)
また、別に山和尚(さんおしょう)というものがある。李姓(りせい)のなにがしという男が中州に旅行している時、その土地に大水が出たので、近所の山へ登って避難することになったが、水はいよいよ漲(みなぎ)って来たので、その人はよんどころなく更に高い山頂に逃げのぼると、そこに小さい草の家が見いだされた。それは山に住む農民が耕地を見まわりの時に寝泊まりするところで、家の内には草を敷いてある。やがて日も暮れかかるので、彼はそのあき家にはいって一夜を明かすことにした。その夜半である。大水をわたって来る者があるらしいので、李(り)はそっと表をうかがうと、ひとりの真っ黒な、脚のみじかい和尚が水面を浮かんで近寄って来る。それが怪物らしいので、彼は大きい声をあげて人を呼ぶと、黒い和尚も一旦はやや退いたが、やがてまた進んで来るので、彼も今は途方にくれて、一方には人の救いを呼びつづけながら、一方にはそこにある竹杖をとって無暗に叩き立てているところへ、他の人びともあつまって来た。大勢の人かげを見て、怪物はどこへか立ち去ってしまって、夜のあけるまで再び襲って来なかった。水が引いてから土地の人の話を聞くと、それは山和尚というもので、人が孤独でいるのを襲って、その脳を食らうのであると。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集」より。

(小話995)「イソップ寓話集20/20(その59)」の話・・・
        (一)「蚊と牡(お)ウシ」
蚊が牡ウシの角(つの)にとまり、そこに長いこと居座っていたのだが、飛び去ろうと羽音を立てると、重いだろうからどいてやるよと言った。すると牡ウシがこう答えた。「君が来たのも分からなかったのだから、君が行ってしまっても、別段なんとも思わないがね」。
(人からはそれほどとは、思われてないのに、自分では大人物だと思っている者がいるものだ)
        (二)「水辺のシカ」
暑さに参ったシカが水を飲もうと泉へとやって来た。シカは、水に映る自分の影を見て、枝わかれした大きな角(つの)が誇らしかった。しかし、ほっそりとした貧弱な脚には腹が立った。このようにシカが、自分の姿を眺めていると、ライオンが水辺にやってきて、シカに飛びかかろうと身を屈めた。シカはすぐさま逃げ出した。広々とした草原を走っている時には、全力疾走ができたので、ライオンとの距離を容易に引き離すことができた。しかし、森に入ると、角が絡まってしまい、ライオンはすぐさまシカに追いつきシカを捕まえてしまった。今となっては、後の祭りなのだが、シカはこう言って自分を責めた。「なんてゆうことだ! 私はなんという勘違いをしていたのだろう! 自分を助けてくれる脚を軽蔑し、自分を破滅に追い込んだ角を尊んでいたとは……」
(価値のあるものが、過小評価されることがよくある)
        (三)「母イヌとその子」
出産間近の牝(めす)イヌが、ヒツジ飼いに、子供を産む場所を貸してくれるようにとお願いした。牝イヌは、その願いが叶えられると、今度は、そこで子供たちを育てたいと言った。ヒツジ飼いはその願いも叶えてやった。しかし、仔(こ)イヌたちが成長して、母イヌを守ることができるようになると、母イヌは、その場を占領してしまい、ヒツジ飼いが近づくのさえ許さなかった。

(小話994)「イソップ寓話集20/20(その58)」の話・・・
     (一)「フクロウと鳥たち」
物知りのフクロウは、ドングリが芽生えると、これが大きくなる前に、全部、地面から引き抜くようにと、鳥たちに忠告した。なぜなら、ドングリが成長すると、やがてヤドリギを寄生させ、そのヤドリギからは、災厄をもたらす薬、トリモチが抽出され、それで皆捕まえられてしまうと言うのだった。次にフクロウは、人間が播(ま)いた麻の種は、鳥たちに災いをもたらす予兆となる植物なので取り除くようにと忠告した。そして、最後に、射手(しゃしゅ)がやって来るのを見て、この人間は歩いているが、彼は、我々よりも速く飛ぶことのできる、羽を付けた矢を射ようとしているのだ、と予言した。ところが、鳥たちは、フクロウの予言を信用せず、それどころか、彼女のことを心身症の気狂いだと罵った。しかしその後、鳥たちは彼女の言葉が正しかったことを思い知った。鳥たちは、彼女の知識に驚嘆した。その後、彼女が現われると、鳥たちはあらゆることを知っている彼女の知恵にあやかろうと集まってくるのだが、彼女はもはや忠告を与えず、かつての鳥たちの愚鈍な行いを一人嘆くだけだった。
     (二)「カラスとキツネ」
餓死しそうな程、腹をすかせたカラスが、全くの季節外れだというのに、いくつか実をつけたイチジクの木にとまり、実が熟すだろうと期待して待っていた。キツネがそれを見てこう言った。「まったくあなたときたら、悲しいかな自分自身を欺いて、希望の虜(とりこ)になっていますが、そんな希望は偽りであって、決して実を結ぶことなどありませんよ」
     (三)「父親を埋葬するヒバリ」
古い伝説によると、ヒバリは、大地よりも先に創られた。それで、彼女の父親が死んだ時、埋葬する場所が見つからなかった。彼女は、亡骸を五日間、埋葬せずに横たえておいた。そして、六日目に、他に場所がなかったので、自分の頭に父親を埋葬した。こうして、ヒバリは冠毛(かんもう)を手に入れた、これは、父親の墳墓なのだと言われている。
(子の第一の務めは、親を敬うことである)

(小話993)「鼠(ねずみ)の群れ」の話・・・
       (一)
洛陽(らくよう)に李氏(りし)の家があった。代々の家訓で、生き物を殺さないことになっているので、大きい家に一匹の猫をも飼わなかった。鼠(ねずみ)を殺すのを忌(い)むが故(ゆえ)である。唐の宝応(ほうおう)年中、李(り)の家で親友を大勢よびあつめて、広間で飯を食うことになった。一同が着席したときに、門外に不思議のことが起ったと、奉公人らが知らせて来た。
       (二)
「何百匹という鼠(ねずみ)の群れが門の外にあつまって、なにか嬉しそうに前足をあげて叩いて居ります」。「それは不思議だ。見て来よう」。主人も客も珍しがってどやどやと座敷を出て行った。その人びとが残らず出尽くしたときに、古い家が突然に頽(くず)れ落ちた。かれらは鼠(ねずみ)に救われたのである。家が頽れると共に、鼠(ねずみ)はみな散りぢりに立ち去った。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集」より。

(小話992)「イソップ寓話集20/20(その57)」の話・・・
       (一)「ジュピターとネプチューンとミネルヴァとモーモス」
遠い伝説によると、最初の人間を造ったのはジュピター神で、最初のウシを造ったのはネプチューン神で、最初の家を造ったのは女神ミネルヴァだったそうだ。神々が仕事を終えたとき、一番完璧な仕事をしたのは誰か? ということで言い争いになった。そこで神々は、酷評家のモーモス神に判定を委ねた。ところが、モーモス神は、彼らの仕事がとても妬ましく、皆のあら探しをはじめた。最初にネプチューンの仕事を非難して言うには、突くところがよく見えるように、牛の角は目の下につけるべきだった。次にジュピター神の仕事を非難して言うには、悪意ある者を警戒できるように、人間の心は外側につけるべきだった。そして最後に、女神ミネルヴァを罵倒して言うには、隣人が嫌な奴だと分かった時に、容易に移動できるように、家の土台には鉄の車輪をつけるべきだった。ジュピター神は、モーモスの露骨なあら探しに腹を立て、裁定者としての権能を剥奪すると、オリンポスの神殿から追い出した。
(参考)
@ジュピター・・・神々の王であり、空と雷の神でもある。ギリシャ神話のゼウスに相当する。
Aネプチューン・・・ギリシャ神話の海・泉の神ポセイドンと同一視される。
Bミネルヴァ・・・ギリシャ神話の女神アテナと同一視される。。知恵・学芸・工芸の神。ゼウスの額から生まれたとされ、武装した若い処女神の姿で表現される。しばしばフクロウを伴う。アテナイの守護神。
Cモーモス・・・夜の女神ニュクスの子の一人。皮肉のモーモス。
       (二)「二つの袋」
昔からの言い伝えによると、人は皆この世に生を受ける時、首に二つの袋をぶら下げて生まれてくるそうだ。前についている袋は、隣人の誤りがいっぱい詰まっており、後ろの大きな袋には、自身の誤りが詰まっている。それゆえ、人は、他人の誤りにはすぐに気づくが、自分自身の誤りにはなかなか気付かないのだ。
       (三)「ワシとキツネ」
ワシとキツネが友情を誓い合い、それぞれ近くに住むことにした。ワシは高い木の枝に巣を作り、キツネは藪(やぶ)の中で子どもを生んだ。しかし、この同盟が結ばれて、いくらもたたないうちに、ワシは自分の子どもたちにやる餌が必要になると、キツネが出掛けている隙に、キツネの子どもに襲いかかり、一匹捕まえて雛(ひな)と一緒に食べてしまった。キツネは帰ってきて、事の次第を悟ったが……、キツネは、子どもを失ったこと以上に、彼らに復讐できないことを悲しんだ。ところが、それからまもなく、ワシに天罰が下った。ワシは神殿の近くを舞っていたのだが、そこでは、村人たちがヤギを生贄(いけにえ)に捧げていた。と、ワシは、肉片と一緒に燃えさしをもひっつかんで巣へと運んで行った。一陣の風が吹くと、瞬く間に炎が燃え上がった。まだ飛ぶことも何も出来ないワシの雛たちは、巣の中で燻(いぶ)されて、木の根元へ、どさっと落っこちた。キツネは、ワシの見ている前で、雛たちをがつがつ食い尽くした。

(小話991)「イソップ寓話集20/20(その56)」の話・・・
      (一)「人とサテュロ」
昔、人とサテュロが、互いの同盟の固めにと、共に祝杯を上げた。会談の日は、とても寒かったので、人は、手に息を吹きかけた。サテュロがなぜそんなことをするのかと尋ねると、人は、指がとても冷たいので暖めているのだと答えた。その後、食事をすることになり、用意されていた食べ物が温められた。人は、皿をすこし持ち上げると、息を吹きかけた。すると、サテュロがまた、なぜそんなことをするのかと尋ねた。人は、食べ物がとても熱いので、冷ましているのだと答えた。すると、サテュロがこう言った。「金輪際、君と友達でいるのは御免だ! 君は、同じ息で、熱のやら冷たいのやらを吐くのだからね」
(参考)
@サテュロ・・・ギリシャ神話のいたずら好きで好色な山野の精。酒神ディオニュソスの従者。ニンフと戯れ酒を好む。馬の耳・尾、しばしば馬の脚・蹄(ひづめ)をもつ半人半獣の姿で表された。
      (二)「二人の兵士と泥棒」
二人の兵士が一緒に旅をしていると、追い剥ぎに襲われた。一人は逃げ去り、もう一人はそこに留まって、剛腕を奮って身を守った。追い剥ぎが倒されると、臆病者の仲間が急いでやってきて剣を抜き、マントを放り投げるとこう言った。「さあ、私が相手だ、誰を相手にしているのか思い知らせてやるぞ」すると、追い剥ぎと闘った当の本人がこう答えた。「たとえ、言葉だけでも、今のように、助けてくれていたらもっと心強かっただろうに、だがもう、その剣は鞘(さや)に収め、その役立たずの舌もとっておくことだ。知らぬ者をだませるようにな」
      (三)「ワシとカラス」
ワシが高空から峨々(がが=険しくそびえ立つさま)たる岩の上へと舞い降りた。そして鉤爪(かぎづめ)で仔(こ)ヒツジを捕まえると、空へと運んでいった。カラスはそれを目のたりにして、妬ましく思い、ワシの飛ぶ力や強さと、張り合ってみたくなった。カラスは羽を大きくバタつかせながら飛び回ると、大きなヒツジに止まって、そいつを運び去ろうとした。しかし、彼の爪はヒツジの毛に絡まってしまい、いくらバタついても、抜け出すことができなくなってしまった。事の次第を見ていたヒツジ飼いは、走って行ってカラスを捕まえると、すぐさま、カラスの羽を刈り込んだ。ヒツジ飼いは、夜になって家に帰ると、そのカラスを子供たちに与えた。すると子供たちが言った。「お父さん、これは何ていう鳥ですか?」すると彼はこう答えた。「どう見てもカラスなんだが、自分では、ワシと思われたいようだ」