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(小話982)「(ジャータカ物語)王の愛妾(あいしょう)と法施太子」の話・・・
        (一)
昔、菩薩(ぼさつ)は王の太子(たいし=将来、帝位を継ぐ皇子や王子)となり、法施(ほっせ)という名であった。内に心は清らかであり、外に容貌も美しかった。常に前車のわだちの禍(あやまち)を見て、自己の心をいましめていた。聖人を尊び、親に孝行をなし、衆生を慈(いつく)しみ、救いを行った。そして朝廷に出仕しては、大臣とはかって政治をなし、出処進退つねに礼にかない、威儀を失ったことがなかった。しかるに王の愛妾(あいしょう)は心が婬乱で、太子を自分の思いどおりにせんとした。太子は争って、免れることができたが、その時、大臣は愛妾に力をかしたので、その首をたたいて「去れ」と言った。ところがそれで彼の冠が落ちた。大臣は禿頭(はげあたま)であったために、それを見て女官たちが笑った。そのために大臣は深く恥じて、怨みをいだいた。そこで愛妾は王に向って、泣いて言った「私は賎しい出身でありますが、かりにも王の妻であります。しかるに太子は不遜にして、私を欲しようとします」。王は言った「太子は貞潔を守っている。仏(ほとけ)を念う以外に念うものはない。仏の教え以外には言わない。仏の道以外には行なわたい。八方の人が彼の徳を讃嘆しています。諸国にも太子よりすぐれた人はありません。どうして太子に非があろうや」。しかし愛妾の讒言(ざんげん)はこと細かであり、しかもたびたびであったので、ついに王の心も乱れた。そこで「骨肉が互いに傷つけ合うことを乱賊という。これは私のなし得ないことです。故に命じて、太子を辺国の王としよう。国都を去ること八千里である」と考えて太子に言った「汝は、国境の外の国を平定して、天に則(のつと)って仁(いつく)しみのある政治を行ないなさい。民(たみ)の命を傷つけてはならない。かりにも欲深で、庶民を困らせてはならない。そして老人を尊ぶことは、親に仕えるが如く、民を愛することは、子を愛するが如くになせ。つつしんで戒めを守り、正しい道を守るためには死をも辞さないようにしなさい。世間にはよこしまな人や、いつわる人が多い。私の印を押した命令を、汝は信ずべきである」。太子は首をたれ、号泣(ごうきゅう)して言った「どうして尊い教えにそむきましょう」。太子は辺国に行き、国土を治めた。五戒を守り、十善を行ない、国民を慈しみをもって教化した。そして位におること一年であった。遠方の人民も太子の徳を慕って集まってきて、帰化する者が雲の如くであった。人民もふえ、戸数は万余になった。その状況をもって王に上聞し、王の徳の潤おいが、遠くまでも照して、かくなったのですと報告した。
(参考)
@菩薩(ぼさつ)・・・最高の悟りを開いて、仏になろうと修行に励む人。
A五戒・・・不殺生(ふせつしよう)・不偸盗(ふちゆうとう)・不邪淫(ふじやいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゆ)の五つ。
B十善・・・十悪(殺生・偸盗(ちゆうとう)・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語(きご)・貪欲・瞋恚(しんい)・邪見)を犯さないこと。
        (二)
大王、および后(きさき)はこれを聞いて喜び、太子を讃嘆した。しかし愛妾のみは怨みをいだき、大臣と計ってよこしまな企てをなし、太子を除かんとした。王が寝ているのをうかがって、外に出て、蝋(ろう)をもって印をつくり、いつわって書をつくった。「汝は慢心して、上をないがしろにする罪がある。しかしまのあたりに誅(すちゅう=罪あるものを討つこと)るに忍びないから、この書が到着したら、ただちに汝の眼球をくり抜いて、使いに与えて国に送せよ」と言ってやった。使いが太子の所へ来た。しかし群臣は皆、言った「これは妖乱の使いであります。大王から来たのではありません」。太子は言った「これには大王の印がある。これを信ずべきである。自分の身を愛して、親に違(たが)うのは大逆である」。太子は群臣と相楽しむこと三日、さらにあまねく国中をめぐって、窮している者を恵み、貧乏の人を救った。そして慈愛の心をもって、人民の中から、目をくり抜いてくれる人を募った。草刈童子が太子の眼をくり抜いた。そして使者に与えて、これを箱に入れ、走って本国に帰らせた。大臣はこれを受けとって、愛妾に与えた。愛妾はそれを壁にかけて、罵って言った「私の愛欲にしたがわなかったので、眼をくり抜いてやった。よい気持である」。その時、大王は蛇蜂(へびばち)が太子の目をさしたという夢を見た。夢からさめて、驚きの声を挙げて言った「私の子に、何か異変があったのではなかろうか」。愛妾が言った「大王が太子を心配するために、このような夢を見たのです。決して異変はないのでしょう」。
        (三)
太子は眼を失って、他国に流浪し、琴を弾じて食を求め、命をつないでいた。そして多くの国をへて、太子の妃(きさき)の父王の国に行き着いた。この王に妙なる琴があったので、呼んで弾かせた。その音は過去の聖王の徳を讃嘆した。がしかし親のない孤児の哀しい音を出した。その時、太子の妃(きさき)は琴の音を理解して、悲しんで言った「私の君は窮しているのです」。父王は言った「どういう意味ですか」。そこで妃は詳しく事情を語った。そして親に別れを告げて言った「これが私の運命であります。女性がその姓を二つ持つことは、貞淑ではありません。どうか私が、孝の道に徹した君子に従うのを、お許し下さい」と。両親は妃(きさき)の心を察して悲しんだ。妃は太子をひきいて、本国に帰ってきた。その時、大王は琴を弾ずるのが上手な人があることを聞いた。召しよせて、その琴を聞いたが、太子は容貌がやつれ、焦燥して、ただその声以外には、昔をしのばせるものがなかった。王は太子の声を聞いて「汝は、私の子の法施(ほっせ)ではたいであろうか?」と聞いた。太子はそれを聞いて、地に倒れて泣いた。太子の妃(きさき)が、かくなった事情を詳しく述べた。
        (四)
大王も大王の后(きさき)も宮人も、、国をあげて大人も子供も、声を挙げて泣かないものはいなかった。王は言った「ああ女人は冷酷である。あたかも毒を混じた飯の如くである。仏の教えが女人を遠ざけるのは、理由のあることである」と。そこで愛妾と大臣とを捕えて、とげのある鞭で打ちすえ、その傷の中に熱した膠(にかわ)を流しこむ刑に処した。そしてそれが乾けば、それをはぎ取ってまたくり返し、ついに穴を掘って、生きながら埋めてしまった。このように説き終って、釈迦(しゃか)はもろもろの修行僧に告げられた。太子がこのような苦を受けたのは、太子が前世に商人となり、白珠を売っていた。その時、この愛妾は貴(とうと)い姓(せい)の女人であった。車に乗って道をゆき、その時この大臣は御者であった。その貴い姓の女人は、この宝玉を売る童子を呼んで「珠を見せて下さい」と言った。しかし珠を持ってこさせて、取りあげ、買うことをしなかった。そしてみだらな目で童子をじろじろ見て、からかった。そこで童子は怒って「私の珠を返さないで、しかもみだらた目でじろじろ見る。私は汝の目をくり抜いてやりたい」と言った。それに対してその女と御者とは、言いかえして「とげの鞭と熱した膠(にかわ)で肉をさき、汝を生き埋めにしてやりたい」と言った。このように、行なった善と悪とに応じて、その報いとして、禍いと福とが随(したが)うことは、影が形に随う如くである。悪業が熟して、罪がそれに随うのは、ひびきが声に応ずる如くである。それ故に悪をなして、しか、もその禍いが生じないようにと欲するのは、種をまいて、それが生じないのを望むようなものである。菩薩は清浄な戒律を受けているのであるから、たとい自己の目をくり抜くようたことになろうとも、邪婬を犯すというような破戒をなさないのである。その時の法施太子は、私自身であった。大臣とは調達である。愛妾は彼の妻であった。菩薩が六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じ、持戒を実行することは、このようであった。
(参考)
@デーバダッタ(提婆達多、又は調達)・・・釈迦の弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な阿難の兄とする。五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦を殺そうとした。
A六波羅蜜・・・菩薩が涅槃(ねはん)の世界に入るために修める六つの行。すなわち布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじよう)・智慧(般若(はんにや))の各波羅蜜。六度。
B持戒・・・戒律を堅固に守ること。持戒の意味で、仏から与えられた戒(いまし)めによって悪業の心を退治して、心の迷いを去り、身心を清浄にすること。
C「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。

(小話981)「イソップ寓話集20/20(その50)」の話・・・
       (一)「カラスとマーキュリー神」
罠に掛かったカラスが、アポロン神に、祭壇に乳香をお供えするので、どうか逃がしてくれるようにとお祈りした。こうしてカラスはこの危機から救われたのだが、お供えをするという約束の方は忘れてしまった。それからすぐ、またもや、カラスは罠に掛かってしまった。カラスは今度は、アポロン神を差し置いて、マーキュリー神にお祈りした。すると、マーキュリー神はすぐさま現れそしてこう言った。「これ、卑しい者よ。お前は、以前の主人を裏切って縁を切った。そんな者を、わしが、どうして信ぜられようか」。
(参考)
@アポロン神・・・ギリシャ神話のオリュンポス十二神の一。音楽・詩歌・術・予言・医術・家畜の神。フォイボス(光り輝く者、の意)とも呼ばれる。
Aマーキュリー神・・・ローマ神話の商人の神。ギリシャ神話のヘルメスと同一視される。
       (二)「兄と妹」
その男には、息子と娘の二人の子供がいた。息子の方は見目麗(みめうるわ)しかったが、娘の方はこの上なく醜かった。ある日のこと、二人がままごと遊びをしていると、母親の椅子の上にあった鏡を見つけ、それを二人して覗いてみた。男の子は自分が美しいので喜んだが、女の子は、兄の自慢が我慢ならず、また、兄が自分の姿をとやかく言うのも我慢ならなかった。(実際、腹を立てるなという方が無理なのですが・・)。彼女は父親の所へ駆けて行くと、兄にひどい仕打ちを受けたと言い募り、男のくせに、美しさを自慢するなんて女の子のようだと口を極めて責め立てた。父親は二人を抱き寄せると、同じ愛情でもって二人にキスをしてこう言った。 「お父さんはお前たち二人に、毎日、鏡を覗いてもらいたいね。息子よ。お前は、悪い行いで、その美しさが損なわれないようにしなさい。娘よ、お前は自分の美徳でもって、外面を補うようにしなさい」。
       (三)「敵同士」
互いに死を決するほどの敵と思っている二人の男が、同じ船に乗り合わせた。出来うる限り離れていようと、一人は船尾に、一人は船首にそれぞれ陣取った。すると、激しい嵐が吹き荒れて、船には沈没の危機が迫った。船尾の男が、船員に、船尾と船首のどちらが先に沈むかと尋ねた。船乗りの答えは、船首が先だろうとのことだった。すると男はこう言った。「そうか、それなら死も苦痛ではない。私よりも先に敵が死ぬのを見られるのだから」。

(小話980)「唐櫃(とうひつ)の熊」の話・・・
      (一)
唐の寧王(ねいおう)が、ちょ県の界(さかい)へ猟(かり)に出て、林のなかで獲物(えもの)をさがしていると、草の奥に一つの櫃(ひつ)を発見した。蓋(ふた)の錠が厳重に卸(おろ)してあるのを、家来に命じてこじ明けさせると、櫃の内から一人の少女が出た。その子細(しさい)をたずねると、彼女は答えた。「わたくしは姓を莫(ばく)と申しまして、父はむかし仕官の身でござりました。昨夜、劫盗(ごうとう)に逢いましたが、そのうちの二人は僧で、わたくしを拐引(かどわか)してここへ運んで参ったのでござります」。愁(うれ)いを含んで訴える姿は、又なく美しく見えたので、王は悦(よろこ)んで自分の馬へ一緒に乗せて帰った。そのときあたかも一頭の熊を獲たので、少女の身代りにその熊を櫃に入れて、もとの如くに錠をおろして置いた。
      (二)
その頃、帝(みかど)は美女を求めていたので、王はかの少女を献上し、且つその子細を申し立てると、帝はそれを宮中に納(い)れて才人(さいじん)の列に加えた。それから三日の後に、京兆の役人が奏上した。ちょ県の食店へ二人の僧が来て、一昼夜、万銭で部屋を借り切りにした。何か法事をおこなうのだといっていたが、ただ一つの櫃を舁(か=かつぎあげる)き込んだだけであった。その夜ふけに、ばたばたいう音がきこえて、翌あさの日の出る頃まで戸を明けないので、店の主人が怪しんで、戸をあけて窺(うかが)うと、内から一頭の熊が飛び出して、人を突き倒して走り去った。二人の僧は熊に啖(く)われたと見えて、骸骨をあらわして死んでいた。帝はその奏聞(そうもん)を得て大いに笑った。すぐに寧王のもとへその事を知らせてやって、君はかの悪僧らをうまく処置してくれたと褒めた。少女は新しい唄を歌うのが上手で、莫才人囀(ばくさいじんてん)と言いはやされた。
(参考)
@岡本綺堂の「中国怪奇小説集」より。

(小話979)「イソップ寓話集20/20(その49)」の話・・・
       (一)「キツネとお面」
キツネが役者の家へ入り込んで、役者の持ち物を片っ端から引っかき回していると、人間の顔を見事に模造したお面があった。キツネはそのお面を手に取るとこう言った。「なんて素晴らしい顔なんだろう。でも、これには何の価値もない。だって脳味噌が入ってないのだからね」
       (二)「医者になった靴職人」
仕事がうまくゆかずに、暮らしが立ち行かなくなった靴職人が、貧乏に窮して、知らない町で医者を始めた。そして、あらゆる毒に有効な解毒剤だと称して、薬を売った。長広舌と巧みな宣伝のために彼は有名になった。
ある時、この靴職人が重い病気に罹(かか)り、これを不審に思った町の長(おさ)が、彼の腕を試してみようと、彼に杯を持って来るようにと言いつけ、彼の作った解毒剤に毒を混ぜるふりをした。そして、褒美(ほうび)をやるから、それを飲み干すようにと命じた。靴職人は、死ぬのを恐れて、自分は本当は薬の知識など持ち合わせておらず、蒙昧(もうまい)な民衆の評判で有名になったに過ぎないことを白状した。すると町の長は、会議を召集して、市民にこんなことを言った。「君たちは、なんと馬鹿な過ちを犯していたことか!足に履く靴さえも注文しなかった男に、命を委(ゆだ)ねたのだからな」
       (三)「スズメバチと山ウズラと農夫」
喉の渇(かわ)いたスズメバチと山ウズラが、農夫のところへやって来て、お礼をするから水をもらいたいと懇願した。山ウズラたちは、葡萄の木の周りを掘り返して、葡萄を見事に実らせると言い、ハチたちは、見張をして、泥棒たちを針で追い払うと言った。しかし農夫は、それらを遮(さえぎ)ってこう言った。「俺は二頭の牡(お)ウシを持っている。しかし、奴らは、約束などせずに、仕事をやってくれる。お前たちに水をやるならば、牛たちに水をやるがよいに決まっている」

(小話978)「(ジャータカ物語)猿の肝と亀」の話・・・
        (一)
「昔、菩薩が兄弟の家に兄として生れた。貨物を売って利を得て、親を養っていた。ある時、兄弟で異国に行き、まず弟が珠玉(しゅぎょく=真珠と宝石)を国王にお見せした。王は弟の顔かたちが美しいのを見て、大変喜んで、彼に娘を与えた。そして珠玉を千万も注文した。今度は、兄が王の所へ行った。王はまた兄の容貌の堂々としているのを見て、大変喜んだ。そして、自分の娘をふりかえて、兄に与えた。こうした場合、女の情はみだらなものであった。しかし兄は心に考えた。「婿(むこ)の伯父は即ち父であり、小舅(こじゅうと)の妻は即ち子である。その間には親子の親しい関係がある。どうしてその間に嫁をめとる道理があろう。この王は君主の尊い位にありながら、しかもその行ないは、禽獣のそれである」と。そして、弟を連れて退散した。娘は高楼にのぼって、去ってゆく兄弟を見て言った。「私は妖怪に生れて、兄の肝(きも)を食べてやりたい」。それから幾度も生死をくり返した。そして兄は猿に生れ、娘は弟と共に亀に生れていた。亀の妻は、病気になった。そして猿の肝を食べたいと思った。雄(おす)の亀は出かけて、猿の肝を求めた。ちょうどその時、一匹の猿が川に下(お)りてきて、水を飲んでいた。
        (二)
亀が猿に問いかけた「汝はかつて楽(がく=音楽)を見たことがありますか?」。猿が答えて言った「まだです」。「私の家に妙たる楽があります。汝は見ようと思いませんか」。「そう思います」。そこで、亀が言った「私の背に乗りなさい。見せに連れて行きましょう」。猿は亀の背に乗った。そして水流の半ばに来た。その時、亀が言った「私の妻が汝の肝を食べたいと望んでいます。水中に何の楽(がく)があろうや」と。猿は心に恥じて考えた「一体、戒(いまし)めを守るのは善を行なうためである。しかし方便(ほうべん=てだて)によって難を救うことも大切である」と。こう考えて猿は亀に言った「汝はなぜそれを早く言わなかったのですか。私は自分の肝を樹の上にかけたままで、置いてきました」。亀は猿の言葉を信じて、元につれ帰った。猿は岸に上って言った「ああ危うく死を免れた。亀さんよ、どうして腹の中の肝を、樹の上にかけておく者があろうや」。仏陀は修行僧たちに言った「その時の兄は私であった。私は常に貞潔を守り、淫乱を犯さなかった。宿世の悪が残っていたので、猿の生存に生れた。弟および王女は亀の生を受けたのである。その時の雄(おす)はデーバダッタ(提婆達多、又は調達)であり、雌(めす)はデーバダッタの妻であった」と。
(参考)
@デーバダッタ(提婆達多、又は調達)・・・釈迦の弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な阿難の兄とする。五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦を殺そうとした。
A腹の中の肝を・・・(小話921)「(ジャータカ物語)猿の王とワニ」の話・・・を参照。南無妙法蓮華経の御題目のお力で私達は日々無事に過ごせているのだ。御題目を忘れ、ご信心から離れてしまっても大丈夫と思うのは慢心であって、肝が体から離れて存在しないように御題目を離れて私達は存在しえないのだということを教えている話。
B「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。

(小話977)「イソップ寓話集20/20(その48)」の話・・・
        (一)「ライオンと三頭の牡(お)ウシ」
三頭の牡ウシが、牧草地で仲良く暮らしていた。ライオンは、牡ウシたちを餌食にしようと待ちかまえていたが、三頭一緒では、如何なライオンでも二の足を踏んだ。そこで、ライオンは狡猾な言を労して、ついに三頭を引き離すことに成功した。ライオンは、牡ウシが、一頭ずつばらばらに草を食んでいるところを、苦もなく襲いかかった。そして、自分の好きな時に一頭一頭食味した。
(団結は力)
        (二)「鳥刺しとマムシ」
鳥刺しが、鳥もちと竿(さお)を持って、鳥を捕まえに出掛けた。彼は、ツグミが木にとまっているのを見つけると、竿を適当な長さに調節して、じいっと見つめた。こうして、彼は木の上を見ていたので、すぐ足下で寝ていたマムシに気づかずに踏みつけてしまった。マムシは向き直ると彼に噛みついた。彼は息絶えようとする時にこう言った。「ああ、なんてことだ! 獲物を捕ろうとして、自分が死に捕まるとは・・・」
        (三)「ウマとロバ」
自分の素敵な馬具を鼻にかけていたウマが、馬車道でロバに出合った。ロバは重荷を積んでいたので、よけるのがのろかった。するとウマがこう言った。「本当なら貴様を蹴っ飛ばしてやるところだがな」。ロバは黙したまま、神の公正な裁決が下されることをただただ祈った。それからすぐに、ウマは肺を患(わずら)い、農場へと送られた。そして、肥桶車を曳(ひ)かされることになった。ロバはその姿を見てこんな風に嘲った。「ああ、これはこれは、いつぞやの高慢チキ様ではありませんか。あのときの派手な衣装はどうなさいました? それにしても、侮蔑でもって遇されている程に身を落とすとは・・・」

(小話976)「片足のバッタと斧(おの)を研(と)いで針にする」の話・・・
        (一)
民話より。ある所に、一匹のバッタがいた。どうしたことか、このバッタには片足が無かった。バッタは毎日毎日、その自分の片足を探していた。ある日、バッタは「どうしても片足がない。どこにあるのですか?」と神様に聞いてみた。すると、神様は「お前の片足は、山を三つ越えた所の頂上にあるよ」と言った。早速バッタはその山を登り始めた。いく夜もいく夜も休まず登り続けた。そして遂に三つ目の山の頂上に着いた。だが、そこには、見渡す限りの原っぱだった。バッタは、神様に「神様のうそつき。足なんてどこにもないじゃないか!」と言った。すると神様は「バッタよ、お前は山を三つ越えてきた。こんなに登れた。もうお前の片足は必要ない。それだけの足でも、十分生きていける」と言われた。それからバッタは片足で、いつまでもいつまでも原っぱを飛びはねたと言う。
        (二)
日本七霊山(にほんななれいざん)の一つとして数えられる四国の石鎚山は、 今から1300年の昔、 役小角(えんのおづぬ)により開山された修験道の霊山で、この石鎚山の中腹には「成就社」という神社がある。かって役小角(えんのぎようじや)が、心身を清め山頂を目指していた時のこと、どうしても神意を感得することが出来ず、力尽きて下山しようとしたところ、ある神社の境内で一人の白髪の老人に出会った。見たところ樵(きこり)でもないその老人は、ひたすらに斧(おの)を研(と)いでいた。役小角(えんのおづぬ)は、不思議に思って訳を尋ねてみると「この斧を研いで針にする」とのことであった。この言葉に感銘した役小角は、再び行(ぎょう)を続け、めでたく西日本最高峰の石鎚山を開山することが出来た。実はこの時の老人が石鎚山の神であったといわれ、心願叶(しんがんかな)った役小角(えんのおづぬ)が、改めて山頂を見返し「わが願い成就せり」と拝したことから「成就社」と名付けられたという。
(参考)
@日本七霊山・・・日本古来の山岳信仰や信仰登山の盛んな7つの山。単に「七霊山」、あるいは「七霊峰」ともいう。一般的に、日本三霊山とされる、富士山(静岡県、山梨県)、立山(富山県)、白山(石川県、岐阜県)の3つの山に、大峰山(奈良県)、釈迦ヶ岳(奈良県)、大山(鳥取県、岡山県)、石鎚山(愛媛県)の4つの山を加えたものである。異説には、白山を除外して御嶽山(長野県、岐阜県)を加えるという説や、釈迦ヶ岳を除外して月山(山形県)を加えるという説もある。ただし、「日本七霊山」という表現は主に石鎚山を指すときに使われる表現であり、他の6つの山についてはあまり使われない。
A役小角(えんのぎようじや)・・・七、八世紀に大和の葛城山にこもって修行した呪術者。妖言を吐いたとの理由で伊豆に流されたと伝えられる。修験道の開祖と仰がれる。 (小話95)「詩人李白の少年時代」の話・・・を参照。

(小話975)「鬼無里伝説(きなさでんせつ=紅葉(もみじ)伝説)]の話・・・
           (一)
昔、応天門の変で失脚した大納言、伴善男(ともの よしお)の子孫で伴笹丸という者が奥州会津に住んでいた。承平7年(937年)子供に恵まれなかった伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈った甲斐があり女児を得て、呉葉(くれは)と名付けた。才色兼備の呉葉は、豪農の息子に強引に結婚を迫られた。呉葉(くれは)は妖術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。偽の呉葉(くれは)と豪農の息子は、しばらくは睦まじく暮らしたが、ある日、偽の呉葉(くれは)は糸の雲に乗って消えた。その時、すでに呉葉(くれは)の家族も逃亡していた。一家は都に上って小店を開き、呉葉(くれは)は紅葉(もみじ)と名を改めて、琴の指南を始めた。ある日、紅葉(もみじ)の琴の音に足を止めた源経基(みまもとつねもと=清和源氏の祖)の御台所(奥方)は、紅葉(もみじ)を屋敷に召して腰元として召し抱えた。紅葉(もみじ)の美しさは、経基(つねもと)公の目にも止まり、やがて局(つぼね)となった。経基(つねもと)公の子を宿した紅葉(もみじ)は、公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所(奥方)を呪い殺そうと計ったが、比叡山の高僧に看破され、結局、経基(つねもと)は紅葉(もみじ)を信州戸隠に追放することにした。
           (二)
天暦10年(956年)秋、紅葉(もみじ)は水無瀬(みなせ=鬼無里の古名)の地に辿り着いた。やはり恋しいのは、経基(つねもと)公との都の暮らしであった。経基(つねもと)に因(ちな)んで生れた息子に、経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。だが、紅葉(もみじ)は、我が身を思うと京での栄華とは遥かに遠い。このため次第に紅葉(もみじ)の心は荒(すさ)み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山(荒倉山)に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになった。この噂は、戸隠の鬼女として京にまで伝わり、時の冷泉帝は、平(たいらの)維茂(これもち)を召して、信濃守に任じ、紅葉(もみじ)征伐を命じた。維茂(これもち)は紅葉(もみじ)の岩屋へ攻め寄せたが、紅葉(もみじ)は妖術を使い維茂(これもち)軍を道に迷わせた。維茂(これもち)は、妖術を破るには神仏の力にすがるほか無いと、別所温泉の北向き観音に17日間、籠もり、満願の日についに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の宝剣を授かった。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂(これもち)軍の前に流石(さすが)の紅葉(もみじ)も敗れ、維茂(これもち)が振る神剣の一撃に首を跳ねられた。案和2年(969年)10月25日、紅葉(もみじ)33歳と伝えられる。息子の経若丸(つねわかまる)は自害した。人々はこれより水無瀬(みなせ)の里を、鬼のいない里=鬼無里(きなさ)と言うようになった。これを題材に多くの古典芸術、即ち、神楽「紅葉狩」、能「紅葉狩」、歌舞伎「紅葉狩」等々が成立した。
(参考)
@一般には主人公の「紅葉(もみじ)」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里(きなさ)における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれている。
A「戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語」はこちらへ