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(小話943)「清税孤貧(せいぜいこひん)と無間地獄(むげんじごく)」の話・・・
           (一)
昔、中国は大唐の時代に伝わる話。ある雲水、真剣な修行を何年も続けたが、残念ながら悟りの眼はいまだ開かなかった。もちろん、諦めはしないが悶々たる毎日であった。その頃、唐の国で高僧中の高僧、曹山(そうさん)禅師が近くの寺に来られた。この僧、好機到来と、はやる気持を押さえ、その寺の行事に参加し、参禅の許可をもらった。そして、こう切り出した。「わたくし清税(せいぜい)は、身寄りもなく貧乏でごぜいます。なんとか禅師のお恵みを頂けないものでしょうか」。すると曹山禅師は、ただ「清税よ」と名を呼んだ。「はい」と清税は応えた。そこで曹山は「お前さんは、美味しい青原白家の酒を三杯も飲んでおきながら、唇も濡れていないと言うのかね、よく言えたものだ」と、たしなめた。
(参考)
曹山(そうさん)禅師・・・曹洞宗の開祖というべき洞山禅師のあとをついだのが、曹山禅師で曹洞宗の由来は、2代目の曹山禅師と開祖である洞山禅師の名前をあわせたものという。曹洞宗は1227年、道元によって日本にもたらされ、地方の武士・農民に教勢を伸ばした。臨済と並ぶ禅宗の二大宗派となった。
           (二)
寺の道場に修行のため籍を置いた女性が、事情で中退し、ある時、寺に尋ねてき来た。そして、和尚に、物憂げに話し出した。去年の六月、交通事故を起こしたと言う。自損事故で、それも九死に一生を得たのだ。仕事帰りの走行中に、ある下り坂でブレーキを踏んだが、全くきかず一気に坂を疾駆していき、遂に急力ーブを回り切れず、車が横転し崖にころげ落ちた。しかし運よく、途中でドアが開き、無意識にシートベルトの留め金をはずすと車外に放り出されたのだ。桔果的に、これで死を免(まぬが)れた。「本当に、なんとも良かったねえ、全く奇跡だね」と和尚は素直に喜び感動した。だが、不思議なことに、この女性少しも喜ばぬなかった。「確かに、病院のお医者さんにも、また事故調査の警察の人にも全くの奇跡で、生きていることが信じられない事故でしたよ、と言われたのですが、どうして私は死ななかったのでしょう」と言った。和尚は思った「この女性は、こんな大事件から甦(よみがえ)ったのに何の感謝の心もないのか?」と。さらに女性は「仕事も家庭のことも、何もかもにこのころ不調で、そんな私が何故、生き残ったのでしょうね」と呟(つぶや)いた。そこで和尚は諭(さと)して言った「考え違いはおやめなさい。「生かされている」ことに感謝、有り難さを忘れれば、それこそ、この世は無間地獄に化しますよ」と。
(参考)
@無間地獄・・・大悪を犯した者が、死後絶えることのない極限の苦しみを受ける地獄。仏教でいわれている八大地獄の八番目。


(小話942)「無頼と放浪の詩人フランソア・ヴィヨン。その数奇な短い生涯(2/2)」の話・・・
        (一)
フランソア・ヴィヨンの生きていた十五世紀は、 ファルス(笑劇)、独白劇などの喜劇、聖史劇などの宗教劇など、中世演劇の黄金時代であった。その15世紀の犯罪詩人と言われたフランソア・ヴィヨンの数々の詩(バラード)は、詩人の破天荒な人生を映し出して、荒々しい妖気を放ち、闇を突き抜けた閃光のようでもあった。
(1)「いにしえの貴女を詠うバラード(昔日の美女たちのバラード)」
教えて下さい、どこにいるのです、どんな国に行ってしまったのです、
美しいローマの遊び女フロラは、
美女アルキピアデスは、そして美しさは彼女に、
まさるともおとらない、アレキサンダー大王の愛人タイスは、
川面や池の面に、
呼びかければこだまを返す、
人間の美しさを越えた水の精エコーは、
それにしても、去年の雪は、今いずこ?
(参考)
@遊女フロラ・・・ローマの、美と知性を兼ね備えた高級遊女。その名は、神話のなかの庭園の女神の名に由来。
Aアルキビアデス・・・美男の誉れ高い前5世紀のギリシャの将軍アルキビアデスは、中世フランスではしばしば女性と間違えられた。
Bタイス・・・ギリシャの遊女タイス(前4世紀)と、エジプトのもと遊女でキリスト教に改宗、清らかな後半生を送り、聖女に列せられた聖女タイスとする説がある。
Cエコー・・・ギリシャ神話のなかの妖精(ニンフ)のこと。

どこにいるのですか、賢明で学識の誉れ高いエロイーズ、
彼女のため、あの大学者のピエール・アベラールが、
男性の象徴を切りとられ、サン・ドニの僧院に入ることになった、あの美女は?
彼女への愛のため、彼は恨みを買い、こんな不運に見舞われたのだ。
同じく、どこにいる、
若き日の、パリ大学総長ビュリダンを袋詰めにして、
窓からセーヌ川に投げ込めといった王妃は?
それにしても、去年の雪は、今いずこ?
(参考)
@エロイーズ・・・ ピエール・アベラール(ピエール・エバイヤール)の教えを受けた才女にして美女。後に、エバイヤールと結婚。アベラールの名で知られる詩人、哲学者。教え子エロイーズとの恋、往復書簡で有名。エロイーズの伯父の差し金で、睡眠中に去勢された。(小話562)「愛の悲劇。哲学者アベラールと美しい娘エロイーズ」の話・・・を参照。
A総長ビュリダン・・・1347年、パリ大学総長。哲学者。若年の放蕩時代のエピソードによる。「王妃」:諸説あり。ビュリダンは小舟を用意していて助かった。当時の学生の間では有名な話。

船人を惑わすあのセイレンとみまがうほどの歌声を持つ、
百合のごとく白き、ブランシュ王妃、
大足のベルト、ビエトリス、アリス、
メーヌ地方を統治したアランジュルジス、
あの勇敢なロレーヌの娘、
イギリス軍のため、ルアンで火刑にあったジャンヌ・ダルク、
みんなどこにいる、聖母マリアさま、どこにいるんです?
それにしても、去年の雪は、今いずこ?

詩会の選者よ、あの美女たちが今いったい
どこにいるのかとたずねてはなりません、
ただ、このルフラン(畳句=同じ句や曲節を繰り返すこと)に立ち返るばかりです、
それにしても、去年の雪は、今いずこ?
(参考)
@ブランシュ王妃・・・聖王ルイ9世の母とされている。
A大足ベルト・・・ヴァリアント「平べったい足のベルト」とともに、多くの文学的作品に登場するフォークロア的人物。シャルルマーニュの母親。ベアトリス、アリス はフィリップ・ド・ヴィニュールの武勲詩「ガラン・ロエラン」にこの二人の名を見る。アランビュルジスはアンジューとメーヌの2州を領した女伯エランブール。この詩節では、「武勲詩」系か、武勲にたけた美女が中心となっている。
Bロレーヌの娘・・・ロレーヌ地方ドンレミ・ラ・ピュセル村生れのジャンヌ・ダルクのこと。
C「遺言の書」より

(2)「疇昔(ちゅうせき)の美姫の賦」= 日本で有名になったのが、鈴木信太郎・訳の「疇昔(ちゅうせき)の美姫の賦」で、「さはれさはれ去年(こぞ)の雪いまはいづこ」と繰り返される。

語れ いま何処(いづこ) いかなる国に在りや、
羅馬(ローマ)の遊女 美しきフロラ、
アルキピアダ、また タイス
同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、

河の面(おも) 池の辺(ほとり)に
呼ばへば応(こた)ふる 木魂(こだま)エコオ、
その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。

いま何処(いづこ)、才抜群(ざえばつくん)のエロイース、
この人ゆゑに宮(きゅう)せられて エバイヤアルは
聖(サン)ドニの僧房 深く籠(こも)りたり、
かかる苦悩も 維(これ) 恋愛の因果也。

同じく、いま何処(いづこ)に在りや、ビュリダンを
嚢(ふくろ)に封じ セエヌ河に
投ぜよと 命じたまひし 女王。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。

人魚(シレエヌ)の声 玲瓏(れいろう)と歌ひたる
百合のごとく眞白(ましろ)き太后(たいこう)ブランシュ、
大いなる御足(みあし)のベルト姫、また ビエトリス、アリス、 メエヌの州を領(りやう)じたるアランビュルジス、

ルウアンに英吉利人(イギリスびと)が火焙(ひあぶり)の刑に処したる
ロオレエヌの健(たけ)き乙女のジャンヌ。
この君たちは いま何処(いづこ)、聖母マリアよ。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。

わが君よ、この美しき姫たちの
いまは何処(いづこ)に在(いま)すやと 言問(ことと)ふなかれ、
曲なしや ただ徒(いたづ)らに畳句(ルフラン)を繰返すのみ、 さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。

        (二)
(1)「老女の繰言」

たまたま俺は聞いたのだった、
兜屋(かぶとや)のばあさんが愚痴をこぼすのを、
女盛りの昔がなつかしいなんて、
ばあさんはこんな風にいうんだ、
年を取っちゃおしまいさ、
どうしてこうなるのさ、
もう誰もかまっちゃくれない、
くたばるのを待つだけの身さ、
(参考)
@兜屋(かぶとや)・・・「兜屋の美女」という訳もあり、「兜屋」の売り子等で、娼婦まがいの女のこと。

わたしゃもう老いさらばえた、
あんなに美人だったわたしなのに、
どんな男でも、司祭でさえも、
わたしを一目見ただけで、
わたしに熱を上げたものさ、
後悔するとわかっていても、
わたしのためにすべてを捨てた、
ところが今じゃ目もくれない、

沢山の男たちを振ったものさ、
今となっては後悔するけど、
ある時一人の男に惚れた、
とびきりの美男だったのさ、
最初はつれなさを装ったけど、
とうとう首っ丈になっちゃった、
あいつは乱暴なところもあったけど、
わたしをありのままに愛してくれた、

わたしを泥の中にひきずったり、
足蹴にしたこともある、
それでもわたしは好きだったのさ、
キスしてくれといわれたりすれば、
あらゆる恨みも吹き飛んだのさ、
大食らいのろくでなしだけど、
抱かれたわたしの腹も膨(ふく)れた、
今じゃ恥しか残ってないけど、

あいつは死んじまった、30年も前に、
取り残されたわたしは老いぼれるだけ、
涙ながらに思いにふける、
あの頃のこと、今の惨めさ、
裸の自分にぎょっとする、
もう何も残っちゃいない、
哀れに干(ひ)からびて醜いわたし、
そんな自分に腹がたつのさ、

わたしの眉毛は形がよかった、
髪はブロンド 睫毛(まつげ)は長く、
両目は大きく見開いて、
利口そうに見えたものさ、
鼻はぽっちゃりと可愛らしく、
小さな耳はデリケートそのもの、
瓜実顔の頬にはエクボが微笑み、
唇は朱色に輝いていた、

肩には繊細な肩甲骨がのぞき、
腕は長く、指は細く、
おっぱいはこじんまりとして、
お尻はでっかく引き締まっていた、
セックスの相手には最高よ、
腰は幅があって、へその下には柔らかい毛、
ふくよかな股の奥の林には
、 可愛らしい庭があった、

皴(しわ)のよった額、灰色になった髪、
睫毛は抜け散り、目はうつろ、
あんなにも輝いて、
男たちをとりこにした目なのに、
鼻はかがんで、耳(みみ)垂れ下がり、
コケの葉っぱをみるよう、
顔色は青く寒々と見え、
顎は突き出て、唇はからから

美しさなんてこんなもの、
腕はちじみ、手は曲がる、
肩は瘤のように盛り上がり、
おっぱいときては、形もなし、
お尻は乾燥芋(かんそういも)、乳首は梅干、
太股の奥の花びらはどう、
もう太股なんていえない代物(しろもの)、
がりがりに干からびてサラミのよう、

繰言のうちに老いさらばえるは、
このばあさんに限らない、
誰しも、年老いて阿呆になる、
焚(た)き火の傍にしゃがみこんで、
綿くずのように思い出を投げ込んでは、
やがて燃え上がり、灰となるように、
美しいものはいつかは消える、
このばあさんには限らない、
(参考)
「遺言の書」より

(2)「死のロンド(輪舞曲)」

死よ、俺は汝を無慈悲と呼ぶ、
愛する女を俺から奪った汝、
それでもまだ満足せぬのか、
俺が悲しみに打ちのめされるまで、

女が死んでからの俺は抜け殻(がら)も同然、
あいつがお前に何をしたのだ、
死よ、俺は汝を無慈悲と呼ぶ、
愛する女を俺から奪った汝、

女と俺とは心も一つ、
あいつの心が死んだいま、
俺の心も生気を失い、
青銅のようになるだろう、

死よ、俺は汝を無慈悲と呼ぶ、
愛する女を俺から奪った汝、
それでもまだ満足せぬのか、
俺が悲しみに打ちのめされるまで、
(参考)
「遺言の書」より

(3)「慈悲のバラード」

シャルトル派やセレスチン派の司祭さん
  乞食坊主や 歩き巫女(みこ)
ペテン師やぐうたらども
可愛い尻を振り振り歩くお嬢さん
また 男めかけたちよ
靴ずれで足が痛くとも
弱音をあげない色男たちよ
今の俺には大事なんだ たとえあんたらの慈悲であっても

大道芸人の女たちよ
おっぱいを見せれば客が集まる
喧嘩っ早いあんちゃんたちよ
猿回しの猿どもよ
六人ずつ並んで歩いては
口笛を吹く道化やのろま
ありとあらゆるろくでなしどもよ
今の俺には大事なんだ たとえあんたらの慈悲であっても

だがあの犬畜生だけは別だ
俺にろくなものを食わせなかった奴
朝飯にも 夕飯にも
今の俺なら許さないぞ
俺様の屁(へ)でも食らえ
とはいいながら どうしたことだ
屁をひるにも腰がたたぬ
今の俺には大事なんだ たとえあんたらの慈悲であっても

奴のあばら骨を叩き割ってやる
でっかいハンマーを振りかざして
それとも鉄の玉でぶち割ってやろうか
だが今の俺には大事なんだ たとえあいつらの慈悲であっても
(参考)
「遺言の書」より

        (三)
(1)「逆説のバラード」

腹がへっているときぼどやる気が出る時はない、
敵に仕えることほど真の奉公はない、
干し草ほど美味しい食べものはない、
眠っている男ほど強力な見張りはいない、
残酷さほど寛大なものはない、
臆病者ほど安心できるものはいない、
否定するものほど忠誠心に満ちたものはいない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

悪所でもある蒸風呂屋ほど出産に適したところはない、
追放された人間ほど良き評判を得るものはいない、
げんこつをくらった時こそ大いに笑える、
借金の覚えがないと言い張るものには立派な評判がたつ、
おもねるものの中にこそ真実の愛がある、
不運との出会いほど幸せな出会いはない、
嘘の話しほど真実の陳述はない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

心配しながら生きることほど安らぐことはない、
「こん畜生」と敵意に満ちた言葉を吐くことほど相手を敬うやり方はない、
贋金(にせがね)をつくることほど自慢できることはない、
体中むくんでいる男ほど健康なやつはいない、
臆病な態度ほど大胆にして毅然たる態度はない、
怒り狂った男ほど良識のあるものはいない、
つっけんどんな女ほど優しい女はいない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

本当のことを言ってほしいかな?
病気の時ほど女と遊びたくなる時はない、
作り話ほど真実を告げるものはない、
騎士ぜんと勇敢に振る舞おうとする男ほど腰抜けなものはいない、
甘い音楽ほど不愉快な音はない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。
(参考)
「雑詩篇」より

(2)「軽口のバラード」

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、
法衣を見れば、修道僧の位(くらい)がわかる、
従者を見れば、主人がわかる、
頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、
誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、
道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、
樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

馬と騾馬(らば)の違いもわかる、
馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、
ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、
どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、
起きているか眠っているかもわかる、
ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、
ローマ法王の権威もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、
血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、
すべてに終末をもたらす死もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。
(参考)
「雑詩篇」より

(3)「書簡のバラード」

親愛なる友よ、諸君の慈悲を我に給え、
少しなりとも、我のために、
我は今木陰ならぬ土牢のうちにあり、
追放の身となってかかる憂き目、
これも運命と神のおぼしめしながら、
愛らしい娘たちや若々しい小僧たち、
踊り子たちや芸人たち、
投槍よりもすばやく走る者どもたち、
鈴のような喉が自慢の歌い手たち、
我に手を差し伸べよ、この哀れなヴィヨンに、

楽しそうに歌う歌姫たち、
颯爽と笑っている色男たちよ、
贋金を持たずに歩きまわる輩ども、
洒落男に間抜け野郎、
のんびりしては手遅れになる、
心優しい詩人たちよ、
死んじまっては気付け薬も役に立たぬ、
稲妻もつむじ風も入ってこない、
厚い壁の中に閉じ込められた我、
我に手を差し伸べよ、この哀れなヴィヨンに、

惨めな俺を見に来てくれ、
脱税犯の貴族たちよ、
皇帝や王侯には何の借りもなく、
神にのみ服属するものたちよ、
日曜も火曜も断食したおかげで、
俺の歯は熊手の歯より長くなった、
まずい乾パンを食った後は、
胃袋に水をたらしこむざま、
土の上に這いつくばり、テーブルも何も持たない我、
我に手を差し伸べよ、この哀れなヴィヨンに、

名も高き王侯たちよ、
我のために赦免状を交付せしめ、
もっこに載せて引き上げてくれ、
豚どもでさえそのようにして助け合う、
一匹が泣けばみな手を伸べようと集まるものだ、
我に手を差し伸べよ、この哀れなヴィヨンに、
(参考)
@ヴィヨンは監獄の土牢の中から、仲間たちにあてて、救いを求める書簡体のバラードを贈った。
A(参考)
「雑詩篇」より

        (四)
(1)「愛する女へのバラード」

  あの女の美しさが俺を苦しめるのだ、
気難しくも優美な偽善者、
気性ときては鉄よりも硬く、
俺を悩ますためにあるようなもの、
あいつの魅力が俺を殺す、
気位の高さが破滅を呼ぶ、
容赦のない目が射すくめる、
哀れな男を救ってくれ、

いっそ誰かに助けてもらおう、
プライドも自尊心もない、
だがどこに助けを求める、
そんなものなどどこにもいない、
帯に長けりゃ襷(たすき)に短い、
もはや死ぬしかないものか、
それとも慈悲にすがろうか、
哀れな男を救ってくれ、

お前もやがては萎(しお)れる日が来る、
花のかんばせも干(ひ)からびる、
その時には笑ってやろう、
だが待てよ、愚かなことだ、
お前が年とりゃ、俺も爺、
水は流れるうちに飲み干そう、
だからお前も気取っていないで、
哀れな男を救ってくれ、

愛の王子、偉大な恋人、
俺はあんたにはなれないが、
神の名にかけてお願いする、
哀れな男を救ってくれ、
(参考)
「遺言の書」より

(2)「遺言」

---36節---
貧乏のことを嘆いていると、
心はいくたびもわたしに言う、
「人間よ、そんなに悲しむものじゃない、
ジャック・クールほどの物持ちでなくても、
こんなにつらいと、かこつのじゃない、
ぶかぶかのひどい服着て貧乏でも、
生きているほうがずっといい、昔は領主で、
今、豪華な墓の下で腐っているよりは」
(参考)
@ジャック・クール・・・フランス中世の貴族。国王会計方として、フランスを代表する資本家として名を馳せたが、シャルル7世の愛妾アニェス・ソレルの殺人罪や公金横領罪などの罪に問われ有罪となり、その全てを失った。最初の資本家としてその名が知られる。

---38節--- 考えても見ろよ、たしかにこのわたしは、
恒星や他の星ぼしを、
冠に戴いた天使の子ではない、
親父は死んで(神よその魂を救いたまえ)、
肉体はといえば、墓石の下にある、
お袋がいつか死ぬのも、わかっている、
そのことはこの憐れな女も知っている、
その息子だっていつまでも生きてはいまい、
---39節---
わたしにはわかる、貧乏人も金持ちも、
利巧も馬鹿も、僧侶も俗人も、
貴人も賤しい輩も、お大尽もケチも、
チビもデカも、器量の良いのも悪いのも、
ぜいたくな襟飾りをつけた奥方も、
アトウール(頭飾り)を被るひとも、プールレ(詰め頭巾)のひとも、
どんな身分であろうとも、
死神はあまさず攫(さら)っていくと、

---40節---
たとえ死ぬのがあのパリスでもヘレーネーでも、
誰だって死ぬ、苦しんで死ぬのだ、
息が切れ、呼吸も止まるほどに、
胆嚢(たんのう)が心臓の上でつぶれて飛散し、
あぶら汗、神のみぞ知るひどい汗、
その苦しみを和らげてくれる人などいない、
実の子供だって兄弟姉妹だって、
身代わりになろうと言うものなどいないのだから、

---41節---
死はひとを、震え上がらせ真っ青にし、
鼻をまげ、血の管をひっぱり、
咽喉(のど)を腫(は)らせ、肉をたるませ、
関節をきしませ腱もゆるむ、
美しい女体よ、こんなにも柔らかで、
なめらかで、ふわふわと、なんともすばらしい、
そのおまえまでいずれこの責苦を忍ぶのか、
そうだ、それとも生きながら天へと昇るのか、

(3)「四行詩」
我が名はヴィヨン、名は実の重さを測ると申す。
パリはポントワーズの生まれだが、
天秤(てんびん)に紐で吊るされたら、
首が臀(しり)の重さを測るだろう。
(おれの名はフランソワ、フランス人だ、この事はほんとに重いんだ。
ポントワーズの隣町のパリの生まれさ。
2メートルたらずの縄につりさげられて、
おれの首、尻の重さをたっぷり知ることになるんだよな)
(参考)
@フランソア・ヴィヨンの作品には、いたるところに韜晦(とうかい=人の目をくらますこと)・皮肉・嘲笑・哄笑が炸裂しており、又、無頼に満ちた青春への苦い自嘲や悔恨、死を前にしての厳粛な諦念や祈願が歌われている。
「ヴィヨン」の石彫の絵はこちらへ
「ヴィヨンの墓碑銘」(不明)の絵はこちらへ
フランソア・ヴィヨンの詩はこちらに多く有ります。http://urawa.cool.ne.jp/dickinson/poems.html



(小話941)「無頼と放浪の詩人フランソア・ヴィヨン。その数奇な短い生涯(1/2)」の話・・・
        (一)
詩集「遺言の書」で後世に名を残した十五世紀の詩人フランソア・ヴィヨンは、フランスの祖国解放を行い、奇跡の少女と言われた聖女ジャンヌ・ダルクがルーアンで火炙(ひあぶ)りにされた1431年に、パリで生まれた。この頃のフランスは、まだ中世の世界を脱しておらず、国土も完全には統一されていなかった。こんなフランスにあって、フランソア・ヴィヨンは無頼と放浪の短い人生を送った。フランソア・ヴィヨンの本名はフランソワ・ド・モンコルヴィエといい、父親はヴィヨンが幼い頃に死んだ。又、ヴィヨンを女手一人で育てた母親も、彼が少年の頃に亡くなった。そして12歳の頃、彼は聖職者である叔父のギヨーム・ド・ヴィヨンの世話で、当時の最高学府のパリ大学に入った。ヴィヨンの名は、この叔父からとった。フランソア・ヴィヨンは、1449年、18歳でパリ大学の学士号をとり、1452年、21歳で修士号をとった。順調にいけば大学教授の道を歩めたはずなのに、ヴィヨンには、堅苦しい生活が似合わなかった。当時パリ大学に集まっていた学生たちの中には、無頼漢が多く含まれていたが、ヴィヨンもそうした無頼漢や売春婦と交わるようになった。
(参考)
@「遺言の書」・・・詩集「遺言の書」は、186節の八行詩と20篇の独立の詩からなっている。
Aジャンヌ・ダルク・・・「オルレアンの乙女」とも呼ばれ、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会の聖女。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。
        (二)
1455年(24歳)、フランソア・ヴィヨンは、ある不名誉な出来事を起こした。この年の6月、ヴィヨンは傷害致死事件の犯人となった。男女の友人たちとサン・ジャック通りを歩いていた際、通りがかった別のグループと争論になり、相手側の一人だったシェルモアという不良の司祭を刺したり殴ったりして、ついにシェルモアは死んだ。ヴィヨンは逃げたが捕らえられて、パリ追放の刑を受けた。この刑は、1456年のシャルル7世の恩赦によって取り消されたので、ヴィヨンはパリへ帰った。だが、フランソア・ヴィヨンはこの事件以来、まともな職業に付くことができなくなり、生涯、放浪の生活を送るようになった。1456年(25歳)、フランソア・ヴィヨンは二度目のトラブルを起こした。最初のトラブルは女が原因だったが、二度目も女が原因だった。その女の名はカトリーヌ・ヴォーセルといった。だがこのトラブルでは、ヴィヨンは殴られっぱなしで、いいところがなかった。そのため、ヴィヨンは恥を恐れて、パリから逐電(ちくでん)せざるを得なくなり、アンジェーで司祭をしている叔父のつてを頼って身を潜めることになった。パリを離れるに先立ち、フランソア・ヴィヨンは一冊の小詩集を作った。「形見の歌」(又は「形見分け」)として知られる作品で、この詩集の中で、ヴィヨンはひどい目に会った女に呪いの言葉を浴びせかけ、自分は不名誉を避けるために去るのだといっていた。詩集は四十の八行詩からなっていた。パリを去るにあたり、フランソア・ヴィヨンはこれまで世話になった友人、知人たちに形見を贈ろうというという名目で、いちいち友人たちの名を上げては、それらに贈るべきもののリストを示した。1456年(25歳)以降のフランソア・ヴィヨンは、窃盗団の一員となって、各地を放浪する一方で、王侯貴族との交わりを深めた。1456年(25歳)のクリスマスの夜に、パリ大学の一翼を担うコレージュ・ド・ナバール学寮に盗賊が押し入り、金貨500枚を盗む事件がおきた。翌年、ギー・タバリという者の通告によって、この事件はパリ大学の学生窃盗団によるものと判明した。更にその一年後(1458年=27歳)、タバリは窃盗団の首領がフランソア・ヴィヨンだったと申し立てた。この密告により、ヴィヨンは再度、追放刑を受けた。
(参考)
@「形見の歌」(又は「形見分け」)・・・「形見の歌」はこちらへ
        (三)
1457年(26歳)フランソア・ヴィヨンは、オルレアン公シャルルの館ブロア城に滞在した。1461年(30歳)、聖職(大学教授)の資格者でありながら、窃盗団の仲間に身を投じた理由で、一夏をマン・シェル・ロアールのオルレアン司教チボー・ドオシニイの牢獄で過し,獄中でその友達仲間に宛てて「書簡のバラード」を創作した。10月2日、新国王ルイ11世がマン・シュル・ロワールを通過した際、フランソア・ヴィヨンは戴冠記念恩赦に浴して釈放された。そこで彼は、新しい保護者を求めて、ブルボン太公ジャン二世に才気横溢した「懇願の詩」を奉って、その居城ムウランに赴いた。間もなく、ヴィヨンはパリの近郊に移り住んで、1461年(30歳)の後半年、彼の最重要作品である「遺言の書」(「遺言詩集」)を創作した。その後も、パリ近郊に隠れたまま「心と身体の論争の歌」を書いた。「運命のバラード」と題された詩も、これと前後に創作した。1462年には、ある窃盗の嫌疑でサンブノアの修道院に監禁された。またこの年、シャトレの監獄にもぶち込まれた。コレージュ・ド・ナバールの事件を蒸し返されたようであった。ここはすぐに釈放(ナバール学寮の分け前120 エキュを三年間に年賦償還という附帯条件で)されたが、ヴィヨンはまたもや路上で喧嘩騒ぎ起こした。この時、ヴィヨンは逮捕されて、一時は絞首刑の判決を受けた。この時に、吊るされることを覚悟したヴィヨンの作ったバラード「ヴィヨン墓碑銘(絞首罪人の歌)」は、彼の最高傑作となった。翌1463年(32歳)の1月、判決に対して控訴を提起し、前の宣告が無効とされた。しかし「前記のヴィヨンの悪行に対して」、以後10年間パリの市街から追放すると宣告された。この時、ヴィヨンは、刑執行の猶予を嘆願して「最高裁判所に嘆願の賦」を「上告のバラード」と殆ど同時に創作した。ヴィヨンはパリを出立後、杳(よう)として行方が知れず、1463年(32歳)1月以降あまり長くは生きていなかったと言われている。1468年に、ヴィヨンの養い親であった叔父のギヨーム・ド・ヴィヨンが死去した。
(参考)
@ヴィヨンの時代、生きながらにして遺言を残すことが一つの流行現象になったらしいことについては、学者たちが解明しつつある。遺言は遺贈であるから、自らが人びとに贈り物をすることを意味するが、慈悲を願うことは、そのまさに逆の事柄である。ヴィヨンは、遺言の書を結ぶにあたって、贈与と懇願とをひとつながりのものとして考え、敢えて挿入したのかもしれない。
Aヴィヨン墓碑銘(絞首罪人の歌)・・・「絞首罪人の歌(吊るされ人のバラード)」

おれたちの死後も生き続ける人々よ、兄弟たちよ、
おれたちに、つらくあたらないでくれよ、
もしこの哀れなおれたちに憐れみの情をもってくれるなら、
神は、すぐきみたちにお慈悲を与えてくださるだろう。
ごらんの通り、おれたち、五人、六人と、ここにぶら下げられている、
  美食をむさぼったこの身体も、
とっくに、ぼろぼろになって、腐っている、
おれたちの骨はといえば、灰に、塵になるってわけさ。
おれたちのこの苦痛、だれもあざ笑わないでくれ、
神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。

  きみたちを兄弟と呼んだからといって
恨まないでくれ、たとえ、人間の法の裁きで
殺されとしても...いずれにしろ、わかってるだろう、
人間ってものは、皆がみなかしこく振舞うものではないってことを。
おれたちは、とっくに死んでいるんだ、
       だから、聖母マリアの息子さんにとりなしてくれよ、
恩寵が涸れることなく、
地獄の雷火からおれたちをまもっていただくように。
おれたちは死んでいるのだ、しつこく悩ませないでくれ、
神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。

  雨がおれたちを洗い濯ぐ、丸洗いする、
太陽は乾かし、焼き焦す。
かささぎや烏がおれたちの目をえぐり、
ひげや眉毛をむしり取る。
おれたちには気の休まるときがない、
            風が変れば、あっちへぶーら、こっちへぶーら、
鳥の嘴のおかげで指貫より孔だらけになった身体は、
風の気の向くままに運ばれる。
だから、おれたちの仲間にだけはなるなよ、
神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。
 
すべてを支配しておられるキリスト様、
おまもりください、地獄がおれたちを取り込まないように、
地獄とは、関わり無きようにしたいのです。
人々よ、嘲笑してる場合じゃないぞ、
神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。
「ヴィヨン像」の絵はこちらへ
「ヴィヨン、吊るされ人のバラード」(不明)の絵はこちらへ
(つづく)
(小話943)「無頼と放浪の詩人フランソア・ヴィヨン。その数奇な短い生涯(2/2)」の話・・・へ

(小話940)「母親と三人の子供」の話・・・
      (一)
民話より。あるところに、三人の子供を持つ未亡人がいた。子供の名前は、長男がシンで、次男がソーンで、長女はサラピーであった。夫の残してくれた財産がかなりあったので、何の心配もなく、暮らすことが出来た。何もすることがないので、母親は、賭博場に出かけて、賭け事ばかりしていた。子供たちは、母親もいないので、悪戯(いたずら)ばかりして、物を壊したり、近所の人の樹からマンゴの実を盗んだりして、楽しく暮らしていた。子供たちが、家にはないマンゴの実を食べているのを見ても、母親は、知らん顔であった。そればかりか、自分で、自分の欲しいものを手に入れることは、大切なことだと言った。近所の人から、子供たちの悪戯の様子や、人の物を盗むことを言われると、母親は、まさかうちの子に限ってと、子供たちの弁護をした。子供たちは、成長にしたがって調子に乗って、悪戯も盗みもどんどんとひどくなって行き、とうとう、捕まってしまった。すると、母親は、すぐに警察に言って、保釈金を払って、家に連れて帰り、子供たちに、お説教をした「捕まるようなことをしては駄目だよ。頭を使って、捕まらないようにしない」と。
      (二)
子供たちは、今度は、じっくりと計画を立て、絶対に捕まらないようにと相談した。計画は、お金持ちの家に、まず、長女のサラピーが、お手伝いさんとして入り込んで、家の様子とか、貴重品のある場所を探(さぐ)り、チャンスが来たら、二人に知らせるというものであった。そして、家のものが、みんな外出したある日、三人は、実行に移した。家中の金目のものを持ち出したその時に、家の主人たちが戻ってきて見つかってしまった。家の主人は、拳銃を撃(う)ってきたので、撃ち合いになった。そのうちに、騒ぎを聞いた警官も駆けつけ、銃撃戦の末、次男のソーンと長女のサラピーは、殺され、長男のシンも重傷を負った。母親は、泣きながら、息もたえだえのシンに向かって、どうしてこんなことをしてくれたのかと言った。シンは「いまさらそんなことを言っても、もう遅すぎるよお母さん。小さな時から、お母さんは、してもいいことと悪いことを少しも教えてくれなかったのだから。」と言って、息をひきとった。
(参考)
@いまさらそんなことを言っても・・・(小話910)「盲愛(もうあい)」の話・・・を参照。

(小話939)「刺青(いれずみ)」の話・・・
        (一)
都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習(なら)いとして大抵は髪を切っている。そうして、膚(はだ)には種々の刺青(ほりもの)をしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、蛇(へび)をたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾(ようひ)をとって人を撃つ者もあるので、京兆(けいちょう=京師の地方長官)をつとめる薛公(せつこう)が上(かみ)に申し立てて彼らを処分することとなり、里長(さとおさ)に命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとく市(いち)に於(お)いて杖殺(じょうさつ)させた。その中に大寧坊(たいねいぼう)に住む張幹(ちょうかん)なる者は、左の腕に「生不怕京兆尹(いきてけいちょうのいんをおそれず)」右の腕に「死不怕閻羅王(ししてえんらおうをおそれず)」と彫(ほ)っていた。また、王力奴(おうりきど)なるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。
(参考) @京兆尹・・・京兆尹(けいちょうのいん)は古代中国の官職名。 A閻羅王・・・閻魔(えんま)のことで仏教・ヒンドー教などで地獄の主。
        (二)
彼らも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者どもは、みな争ってそれを焼き消してしまった。また、元和の末年に李夷簡(りいかん)という人が蜀(しょく)の役人を勤めていたとき、蜀の町に住む趙高(ちょうこう)という男は喧嘩を商売のようにしている暴(あば)れ者で、それがために幾たびか獄屋に入れられたが、彼は背中一面に毘沙門天(びしゃもんてん)の像を彫っているので、獄吏もその尊像を憚(はばか)って杖をあてることが出来ない。それを幸いにして、彼はますますあばれ歩くのである。「不埒至極の奴だ。毘沙門でもなんでも容赦するな」。李(り)は彼を引っくくらせて役所の前にひき据え、新たに作った筋金(すじがね)入りの杖で、その背中を三十回余も続けうちに撃ち据えさせた。それでも彼は死なないで無事に赦(ゆる)し還(かえ)された。これでさすがに懲りるかと思いのほか、それから十日ほどの後、趙(ちょう)は肌ぬぎになって役所へ怒鳴り込んで来た。「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進(ごきしん)をねがいます」。李(り)が素直にその寄進に応じたかどうかは、伝わっていない。
(参考)
@毘沙門天(びしゃもんてん)・・・須弥山中腹の北側に住し、夜叉(やしや)を率いて北方を守護する神。日本では福や財をもたらす神としても信仰され、七福神の一人とされる。仏法を守護し、福徳を授ける。
A岡本綺堂の「捜神記」より。

(小話938)「ヘラクレスの後裔(ヘラクレイダイ=2/2)。英雄ヘラクレスの息子ヒュロスの死とその末裔、クレオダイオスとアリストマコスとその息子(テメノス、クレスポンテスとアリストデモス)とアイピュトス」の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。ミュケナイ王エウリュステウスとの激しい戦いの後、勝利を得たヘラクレスの子孫たちは、恩人のデモポン王に永久の感謝を誓った。そして、彼らは兄ヒュロスと父の友イオラオスに率いられて、アテナイを立ち去った。今度は、いたるところに同盟者を得て、父の遺産であるペロポネソス半島にはいった。まる一年間、彼らは町から町へと戦いをつづけて、ついにアルゴス以外のすべてを征服した。この期間に、ペロポネソス半島の全土に恐ろしい疫病が流行をきわめて、果てしがなかった。ヘラクレスの子孫たちは、結局、神託によって次のことを知った。つまり、この災いの責は彼ら自身にあった。なぜなら、彼らは帰還する権利のないうちに、それをしたからというのであった。そこで一行はすでに征服したペロポネソスを捨てて、再びアッティカの地におもむき、マラトンの野に住んだ。ヒュロスは、すでに、臨終の父の意思に従って、かつてヘラクレス自身も求婚したことのある、美しいイオレと結婚していたが、伝来の父の遺産であるペロポネソス半島を獲得する方法をたえず考えていた。そして再び、デルポイの神託にうかがいをたてると、その答えはこうであった。「三度目の果実の収穫を待て。そうすれば、帰国はかなえられるであろう」ヒュロスはこの神託を、果実の収穫は一年に一回だから、三年後という意味に解釈し、辛抱づよく三年めの夏を待ったのち、軍勢を率いて、またペロポネソス半島に侵入した。ミュケナイでは、エウリュステウス王の死後、タンタロスの孫で、ペプロスの息子アトレウスが王になっていた。アトレウス王はヘラクレス一族の来襲のさい、テゲアや近隣の町の住民と同盟を結んで、敵を迎えた。コリントスの地峡で両軍は対時(たいじ)した。しかし、ヒュロスはギリシャの国を戦火の巷(ちまた)にしたくはなかったので、この時も又、一騎打によって争いをおさめようと試みた。そして、我と思わん敵の一人に決闘をいどみ、神託を信じて次のような条件を出した。すなわち、もしヒュロスが相手に勝った場合には、ヘラクレスの子孫が、ミュケナイの国を無血で占領する。これに反して、ヒュロスが負けた場合には、ヘラクレスの子孫は五十年間はペロポネソス半島に足を踏み入れない、というのであった。この挑戦(ちようせん)が敵軍に知れ渡ると、大胆な戦士、テゲアの王エケモスが立ちあがって、挑戦に応じた。二人は勇猛果敢に戦ったが、ついにヒュロスは組み伏せられた。瀕死(ひんし)のヒュロスの顔には、頼りにならぬ神託へのはげしい不満がみなぎった。ヒュロスが一騎打ちに敗れて討ち死にしたので、約束に従って、ヘラクレスの子孫はコリントス地峡にもどり、再びマラトンの付近に住んだ。
(参考)
@ヘラクレス・・・(小話925〜927)「ギリシャ随一の英雄ヘラクレス。その数奇な誕生から偉大な十二の難行(冒険)と死んで神になったその生涯」の話・・・を参照。
        (二)
五十年が過ぎたが、その間、ヘラクレスの子供たちは、約束を破ってまで、父祖の地を奪うことは考えなかった。一方、ヒュロスと、その妻イオレの息子クレオダイオスはもう五十歳を越えていた。約束の期限も過ぎ、その束縛がなくなったので、クレオダイオスはヘラクレスの孫たちとともに、ペロポネソス半島に出征した。トロイア戦争が終わってもう三十年たった時のことであった。しかし、父と同様に成功せず、全軍もろとも戦場の露と消えた。さらに二十年の後、ヒュロスの孫、へラクレスの曽孫(そうそん)であるクレオダイオスの息子アリストマコスが、二度めの侵入を試みた。ミュケナイ王オレステス(四代国王アガメムノンの子)の息子ティサメノスがペロポネソス半島を支配していた当時のことであった。アリストマコスもあいまいな神託に迷わされた。「神々は隘路(あいろ)の小道によって、おまえに勝利をあたえるであろう」というのであった。彼はコリントス地峡を越えて侵入したが、撃破されて、父や祖父と同じくその命を失った。ふたたび三十年が経過した。トロイアの町は灰燼(かいじん)に帰して、すでに八十年もたっていた。そのころ、クレオダイオスの孫で、アリストマコスの三人の息子テメノスとクレスポンテスとアリストデモスが最後の遠征を企てた。神託があいまいで頼りにならないにもかかわらず、三人は神々への信仰を失っていなかったので、デルポイにおもむいて、巫女(みこ)に神託をうかがった。しかし神託は、祖先にあたえられたものと一言一句も違わなかったので、長男のテメノスが言った「父(アリストマコス)も祖父(クレオダイオス)も曽祖父(ヒュロス)も、その神託に従いました。そして、みんな死んでしまったのです」。神々もあわれに思って、巫女の口を通して、神託の真の意味を解きあかした。「ああした不幸な出来事は」と巫女は言った「おまえたちの先祖が神託を解くすべを知らなかったからで、みずからが招いたこと。というのは、あの神託の意味するところは、地の三度目の果実の収穫ではなくて、血統の三代目を待つべきであったのです。一代目はクレオダイオス、二代目はアリストマコス、勝利を予言された三代目は、とりもなおさず、お前たちである。勝利に導く隘路と言うのは、コリントス地峡のことではなくて、地峡の右にある海のこと。これであの神託の意味がわかったであろう。さあ、お前たちの志を神々の助けで果たすがよい」。いまや、テメノスは迷いの夢からさめた。そして兄弟たちと共に、急いで軍備を整え、ロクリスの地で船を建造した。ロクリスは、それにちなんでナウバクトス(造船所)と呼ばれるようになった。しかしこの出征も、ヘラクレスの子孫には楽なものではなく、悲しみと涙の代価を払わなければならなかった。軍勢が集められたとき、末弟のアリストデモスが雷に撃たれた。泣きの涙で弟を葬って、艦船がナウバクトスから出航しようとすると、一人の予言者があらわれ、神がかりの様子で神託を授けた。しかし一同は、この予言者が魔術を使う回し者で、軍勢に害を加えるために派遣されたものと考えた。それで、ヘラクレスの子のアンティオコスの子、ピュラスの息子ヒッポテスが予言者に槍を投げると、それが当たってその場で死んでしまった。それを見た神々は、ヘラクレスの子孫にたいして激怒した。艦船は暴風に襲われて沈没し、陸兵は飢えに悩まされ、かくて全軍は崩壊してしまった。
        (三)
長男のテメノスは、この不幸について神託にうかがいを立てた。「お前たちが災いに会ったのは」と、神託が告げた「あの予言者を殺したからだ。お前たちは、犯人を十年間国外に追放し、軍隊の指揮を三目(みつめ)の男に譲らねばならぬ」。神託の最初の部分はすぐに実施された。ヒッポテスは軍隊から除名され、追放された。しかし、第二の部分はヘラクレスの子孫を絶望に陥(おとしい)れた。なぜなら、どこで三目(みつめ)の男などに出会うことができようか?けれども、彼らは神々を信頼して、倦むことなくそれをさがした。そのときたまたま、アイトリアの王族で、ハイモンの息子オクシュロスに出会った。オクシュロスは、ヘラクレスの子孫がペロポネソスに侵入したころに、人を殺したので、余儀なく祖国のアイトリアからペロポネソス半島の小国エリスに逃れた。一年ののち、驢馬(ろば)に乗って故国に帰る途中に、ヘラクレスの子孫に出会ったのであった。オクシュロスは、若いころ、片方の目を矢で突き抜かれたので一眼であった。それで、驢馬(ろば)がその目を補わなければならず、オクシュロスと驢馬を合わせて三目(みつめ)であった。ヘラクレスの子孫は、あの奇妙な神託もかなえられたので、オクシュロスを軍勢の指揮者にした。こうして、神託の条件がそろったので、新しく募った軍勢と新造の艦船で敵を攻め、敵の大将を殺して、ペロポンネソス奪回に成功した。ヘラクレスの子孫は、ペロポネソス半島をすべて征服したのち、父の先祖ゼウスのために三つの祭壇を築き、都市を籤(くじ)によって分配することにした。一番めの名前を引いた者はアルゴスの地、二番めのそれはラケダイモン(スパルタ)の地、三番めはメッセネ(メッセニア)の地であった。籤は水を満たした水瓶(みずがめ)から引くことになり、おのおのが自分の名を記(しる)したものを、水瓶のなかに投げ入れることに決まった。長男のテメノスが名前を記した石を瓶のなかに入れた。次に亡くなっていた末弟のアリストデモスの代わりには、その双子(ふたご)の息子エウリュステネスとプロクレスが、名前を記した石を瓶のなかに入れた。しかし、メッセネの地を獲得したい狡猾な次男のクレスポンテスは、水瓶に土のかたまりを投げ入れた。土のかたまりは溶けてしまった。まず、アルゴスの地の籤が引かれた。すると、長男テメノスの石が出て来た。つぎのラケダイモンの地の籤には、末弟のアリストデモスの息子たちの石があらわれた。三番めの籤はさがしても見当たらないので、次男のクレスポンテスがメッセネの地を手に入れた。彼らが従者たちと神々のために、祭壇に犠牲をささげていると、不思議なことが起こった。祭壇に、それぞれ異なった動物があらわれたのである。籤によってアルゴスの地を得たものの祭壇には「ひきがえる」が、ラケダイモンの地をあたえられたものには「竜」が、メッセネの地を獲得したものの祭壇に「狐」が。このふしぎな前兆が気にかかったので、ヘラクレスの一族は土地の予言者にたずねた。予言者はそれを次のように解いた。「ひきがえる」をもらった者は、国内にじっとしているのがよい。ひきがえるは、移動しているときには隠れ場がないからだ、祭壇に「竜」がいた者は、強い侵入者となるのだから、思いきって国外に打って出るがよい。祭壇に「狐」がいた者は、国内に閉じこもることも、威力をふるうこともよくない。狐の武器は策略なのだから」これらの動物は、のちにアルゴス人、スパルタ人(ラケダイモンの地)、そしてメッセネ人(メッセネの地)の楯(たて)の紋章になった。ヘラクレスの子孫は、片目のオクシュロスのことも忘れず、指揮をとってくれた報酬として、エリス王国をあたえた。ペロポネソス半島のなかで、ヘラクレスの子孫に征服されなかったのは、奥地で山の多いアルカディアのみであった。彼らがこの半島に築いた三つの王国のうちで比較的長くつづいたのは、スパルタ(ラケダイモンの地)だけであった。
        (四)
こうした中でアルゴスの地では、テメノス王がヘラクレスの曽孫(そうそん)デイポンテスに、子供たちのうちで一番かわいがっていた娘のヒュルネトを妻にあたえ、どんなことでも彼の助言を求めていたので、人々はデイポンテス夫妻に王権をあたえるのだろうと考えていた。テメノス王の息子たちはそれを怒って、謀叛をおこし、父親を殺した。アルゴス人は長子を王として認めた。しかし、アルゴス人は自由と平等を何にもまして好んだので、王の権力を大幅に制限した。そのために、王とその子孫に残されたものは、たんに王号だけであった。メッセネの地の王クレスポンテスの運命も、兄テメノスのそれに劣らなかった。クレスポンテスは、アルカディア王キュプセロスの娘メロペと結婚し、メロペは王とのあいだに多くの子供をもうけたが、アイピュトスがその末子であった。王は自分と子供たちのために壮麗な王城を建てたが、王自身は庶民の味方で、その統治においてもできるかぎり庶民を保護した。富者たちはそれを怒って、末子のアイピュトスを除いて、王と息子たちをみんな殺してしまった。アイピュトスはさいわい母メロペに助けられて、アルカディアの母の父キュプセロス王のもとに送られ、そこでひそかに育てられた。メッセネでは、クレスポンテス王の死後、同じヘラクレスの子孫のポリュポンテスが王位を奪い、殺されたクレスポンテス王の未亡人メロペとむりやりに結婚した。そのとき、前王の王位継承者アイピュトスがまだ生きていることがわかったので、新しい支配者ポリュポンテスは、継承者の首に莫大な賞金をかけた。しかし、その賞金を得た者はいなかった。というのは、継承者が生存しているというのは、たんなる噂に過ぎず、したがって、どこをさがしたらよいか、わからなかったからであった。一方、その間に成長して若者となったアイピュトスは、ひそかにアルカディアの祖父の館(やかた)を出ると、だれにも感づかれずに、メッセネの地に到着した。彼は自分の首に賞金のかかっていることを聞いていたので、決心を固め、異邦人として、母にさえ知らさずに、ポリュボンテス王の宮廷におもむき、王の前に進み出ると、王妃メロペ(アイピュトスの母親)に言った「おお、君主よ、わたしは喜んであの賞金をいただくことにしましょう。クレスポンテスの息子として、あなたの王座を脅かす男の首にかけられた賞金を。あの男のことは、自分のことと同様に、よく知っていますから、あなたに引き渡します」。母親はこの言葉を聞くと、色を失った。そして大急ぎで、腹心の老家臣を呼びにやった。この老人は、かつて幼いアイピュトスを協力して助けたが、いまは新王を恐れて、宮廷から遠く離れて住んでいたのであった。王妃メロペは、この老臣をひそかにアルカディアにつかわした。それは息子に警告をあたえ、できれば呼び寄せ、その暴政によってポリュポンテス王を憎んでいた市民を率いて、息子が父の王位をふたたぴ獲得するためであった。
        (五)
老臣がアルカディアに着いたとき、キュプセロス王とその宮廷は上を下への大騒ぎをしていた。というのは、王の孫アイピュトスの姿が急に見えなくなり、ようとしてその行方(ゆくえ)がわからなかったからであった。老臣は絶望し、急いでメッセネに帰って、王妃に事の次第を報告した。二人には、賞金を得るために王の前にあらわれたあの異国の男が、アルカディアでアイピュトスを殺し、その死体をメッセネに持って来たものと思った。二人の考えはすぐに決まった。その男は城に泊まっていたので、夜になると、王妃は斧を手に持ち、腹心の老人と一緒に、寝込みを襲うために、見知らぬ男の部屋に忍び込んだ。若者はおだやかに眠っていて、月の光がその顔を照らしていた。王妃メロペが斧を振りあげたとき、眠っている若者の顔をながめていた老人は、あっと叫んで、王妃の腕をつかんだ。「お待ちなさい」と、老人は叫んだ。「あなたが殺そうとしているのは、あなたの息子アイピュトスですぞ」。メロペは斧を持った手をおろすと、息子の寝床に身を投げだし、はげしくむせび泣いたので、アイピュトスが目をさました。長い抱擁ののち、アイピュトスは自分がやって来たのは、人殺しどもに仕返しをして、母を憎むべき結婚から救い出し、市民の協力を得て、父の王位につくためだ、と打ち明けた。それから、母と老臣との三人で、極悪無残のポリュボンテス王に復讐を加えるための方法を相談した。メロペは喪服を着て夫のところへ行き、残っていたただ一人の息子が死んだという悲しい知らせを、いま受け取りました。今後は、あなたと仲よく暮らし、今までの悲しみを忘れるっもりです、と言った。暴君は、仕掛けた罠にまんまとかかった。いちばん大きい心配の種が除かれたので、とても喜んで、これで自分の敵がすべてこの世から消えてしまったのだから、神々にお礼の供物をささげようと約束した。町の人々が心ならずも広場に集まって来たとき、アイピュトスは、犠牲をささげている王に襲いかかって、剣でその胸を刺した。そこヘ王妃メロペが家臣とともに駆けつけて来て、人々に、この異国の若者こそ、死んだと信じられていた正統な王位後継者だと教えた。アイピュトスは父や兄弟を殺した者どもを罰した。そして、温厚な性質によって富める人々をも味方に引き入れ、名声が大いにあがったので、その子孫は、ヘラクレスの子孫(ヘラクレイダイ)と言うかわりに、アイピュトスの子孫(アイピュティダイ)と名乗った。
(参考)
@ヘラクレスの子孫(ヘラクレイダイ)・・・(小話937)「ヘラクレスの後裔(ヘラクレイダイ=1/2)。英雄ヘラクレスの息子ヒュロスとエウリュステウス王の戦い」の話・・・を参照。

(小話937)「ヘラクレスの後裔(ヘラクレイダイ=1/2)。英雄ヘラクレスの息子ヒュロスとエウリュステウス王の戦い」の話・・・
      (一)
ギリシャ神話より。ギリシャ随一の英雄ヘラクレスが自(みずか)らを火葬にして天上界に昇り、神となった後、彼の二番目の妻であるデイアネイラとの子供たち(ヘラクレイダイ)ヒュロス、クテシッポス、 グレノス、オネイテス、そして長女マカリア(「幸福な女」の意味)は、人質のようになって従兄弟(いとこ)のミュケナイ王エウリュステウスの元で捕らわれていた。だが彼らは、どうにか脱出して祖母アルクメネ(ヘラクレスの母)のいるトラキスまで逃げてきた。ヘラクレスが亡くなった後も年老いたエウリュステウス王はヘラクレスの息子達を怨み、そして恐れて、彼らが幼いうちに始末してしまおうと逃亡先のトラキス王ケユクスに引渡しを迫った「もしヘラクレスの息子たちを渡さなければ、わが軍隊がそちらへ向かうこととなろう」。この宣戦布告に迷惑はかけられないと、息子達はトラキスを出てアッティカ地方に向かった。その中でヘラクレスの長男ヒュロスは凛々しく成長し、軍を挙げるために別行動をとった。残った祖母アルクメネ以下の幼い兄弟たちは、ギリシャ国を通って、アテナイの北東にある村マラトンのゼウス神殿で救いを求めた。ちょうどそこにいたのが、叔父イオラオスであった。イオラオスはヘラクレスと双子のイピクレスの息子で、ヘラクレスの甥(おい)であり、彼が幼い兄弟たちの父親の代理をつとめた。こうしてイオラオスは、若いときは、ヘラクレスと艱難と冒険(「レルネーの怪獣ヒュドラ退治」等)を共にしたが、白髪の老人となった今は、友の寄るべなき子供たち(ヘラクレスの後裔=ヘラクレイダイ)を守って、世の荒波と戦うことになった。子供たちの目的は、父が奪い取ったペロポネソス半島を守ることであった。こうして、一行は絶えずエウリュステウス王に追われながら、英雄テセウスの息子デモポン王の支配するアテナイにおもむいた。アテナイではちょうど、デモポンが、不法にも王位を奪ったメネステウスを追い払ったときであっ。アテナイの町で、一行は集会場や、大神ゼウスの祭壇のそばの広場に陣どって、アテナイ民衆の保護をもとめた。しかし、ここにもエウリュステウス王の使者がやって来て「わしは一人で来たのではない。わしのうしろには軍勢がひかえていて、お前が保護している者どもを、この場所からすぐにも奪い去るだろうよ」。そこで、イオラオスは大声でアテナイの住民に訴えた「敬虔なる市民よ! 大神ゼウスの庇護をうけているものが力をもって連れ去られ、神々が卑(いや)しめられ、かつ全市民が汚名でおおわれるようなことを許してはなりませぬぞ」。この叫びに、アテナイの市民たちは四方八方から、どっと広場に押し寄せた。そして、その時はじめて、亡命者の群れが祭壇のまわりにすわっているのを見た。「あの尊敬すべき老人はだれか?あの立派な若者たちは誰なのか?」と人々は異口同音に叫んだ。それが英雄ヘラクレスの息子たちで、アテナイの保護を願っていることを聞くと、市民たちは同情と畏敬の念にとらえられた。そして使者に、祭壇から遠ざかって、その要求をおとなしくこの国の王に申し立てるように、と言った。
(参考)
@ギリシャ随一の英雄ヘラクレス・・・(小話925〜927)「ギリシャ随一の英雄ヘラクレス。その数奇な誕生から偉大な十二の難行(冒険)と死んで神になったその生涯」の話・・・を参照。
Aヘラクレイダイ・・・「ヘラクレスの後裔」の意味。歴史時代の多くの名家や、ヘレニズム時代の王家は、自らがヘラクレスの子孫であるとして、「ヘラクレイダイ」と称していた。神話中では、ヘラクレイダイは2番目の妻であるデイアネイラの子孫を指す。
B脱出して祖母アルクメネ・・・ヘラクレスの子供たちは祖母アルクメネと叔父イオラオスとともにトラキア王ケユクスのもとに避難していたという説もある。
Cテセウスの息子デモポン・・・アテナイ王テセウスが留守中アテナイの王位についたのは政敵メネステウスであったが、彼はアテナイ一帯の支配者としてトロイア(トロイ)戦争に赴き、帰国したが、先の王テセウスの息子デモポンがアテナイに戻ってきたので、メネステウスはメロス島の王になった。
Dアテナイ民衆の保護をもとめた。・・・嘆願者の受け入れには、時として戦争を覚悟しなければならず、受け入れる側の王は、難しい選択を迫られる。また、嘆願者を受け入れるアテナイは、民主的な開かれた社会であること、弱者を救済できる立場にあることを謳っている。
         (二)
まもなく、城の国王のもとに知らせがはいった。広場は亡命者たちに占領され、異国の軍勢が使者とやって来て、亡命者の引渡しを要求している、というのであった。不滅の英雄テセウスの息子デモポン王はみずからその場へ出向いて、使者のロからエウリュステウス王の要求を聞いた。使者は言った「わたしはアルゴスの人間で、連れて行こうとしている者も、わたしの主人に支配されるアルゴスのものです。テセウスの息子よ、あなたはまさか、亡命者たちのために、ギリシャの国でただ一人で、エウリュステウス王の軍勢と戦おうと決心するほど愚かではありますまいな」。デモポンは思慮のふかい、賢明な王であった。「双方の言い分を聞かぬうちは、事件を正しく見きわめ、紛争を仲裁することはできぬ」と、そして、王は言った「この若者たちの長(おさ)よ。お主(ぬし)の言い分を聞かせなさい」。イオラオスは祭壇の階段から立ちあがり、ていねいにお辞儀をして言った「王よ、わしは始めて自分が自由の町にいることを知りました。なぜなら、ここでは意見を述べさせて、それに耳を貸してくれるからです。ほかの町では、わしの言うことなど耳も貸さずに、この若者たちと一緒に追い出してしまった。エウリュステウス王は、この若者たちをアルゴスから放逐した。いったい、アルゴスの亡命者はギリシャ全土をも避けねばならぬのだろうか?いや、すくなくとも、アテナイはそうではない。この剛勇な町の人々は、英雄ヘラクレスの息子たちを国外に追放したりはせぬであろうし、王は、保護を求めている者を神々の祭壇から奪わせたりはしないであろう」。さらにイオラオスは言った「ヘラクレスの子供たちよ、安心しているがよい。わしらは自由の国にいるのだ。そして、わしらは親戚のもとに来たのだ。デモポン王よ、あなたが宿を貸すのは、何もよそ者ではないのです。あなたの父上テセウスと、追害されたこの子供たちの父ヘラクレスとは、戦友でした。それどころか、この子供たちの父親は、あなたの父上を冥界から救い出したのです」。王はイオラオスを立ちあがらせて、言った「三つの理由から、その願いを拒むわけにはゆかぬようだ。第一は大神ゼウスとこの神聖な祭壇、第二は親戚関係。最後は父がヘラクレスに負うている恩義だ。もしお主たちを祭壇から奪い去らせたら、この国はもはや自由と敬神と徳の国ではないであろう。伝令使よ、ミュケナイに帰って、その旨をおまえの主君に伝えるがよい。この亡命者たちを連れて行くことは、断じてならぬ」。「帰るとも」と、使者は威嚇(いかく)するように言った「だが、アルゴスの軍勢を引きつれて、またやって来るよ。一万人の楯持(たてもち)がエウリュステウス王の合図を待っている。王がその指揮をとるだろう。王の軍勢はもうこの国境に陣を張っているのだ」。「地獄に行くがよい」とデモポン王はさげすんで言った「わしはおまえも、おまえの国も恐れはせぬぞ」。
       (三)
ヘラクレスの息子たちは、みんな祭壇からとびあがって喜び、寛大なデモポン王に敬礼した。イオラオスは、ふたたび彼らにかわって、王と市民に感謝した。デモポン王は、敵の軍勢を迎え撃つために、すべての準備をととのえ、それから予言者を集めて、神々への奉献式をするように命じた。そして、イオラオスとヘラクレスの息子たちには、館(やかた)に住むように指示した。けれども、イオラオスは大神ゼウスの祭壇からは去らず、そこにとどまって、みんなで町の無事を祈りたいと言った。一方、デモポン王は城の高い塔にのぼって、押し寄せる敵の軍勢をながめ、それからアテナイの軍を集めて、戦いの配置をすませ、予言者たちと相談し、奉献式の準備ができた。ところが、王は困った顔で、急ぎ足にイオラオスたちのところにおもむいた「友よ、これはどうしたものであろう? 押し寄せる敵を迎え撃つわが軍の戦闘準備は終わったが、予言者の言うには、神託はこうなのだ。「子牛や雄牛を屠(ほふ)るのではない、貴族の娘を犠牲にささげるのだ。そのときはじめて、おまえたちは勝利を、アテナイの町は保護を期待できるであろう」と。だが、どうしてそんなことができようか。わしにもこの館に、娘たちがいる。だが、父親に向かって、その娘を犠牲に差し出せなどと、求めることができようか?よしんば、そんな要求をあえてしたとしても、上流の市民で、自分の娘を引き渡すものがあろうか?そんなことをすれば、町には内乱がおこるであろう」。王の不安に満ちたこの言葉を聞いて、ヘラクレスの息子たちは驚愕(きようがく)した。イオラオスは言った。「デモポン王よ、まあ聞いてください。わしたちみんなを救う方法を思いついたのです。ヘラクレスの息子たちのかわりに、このわしをエウリュステウス王に引き渡すのです。わしはあの偉大なヘラクレスといつも一緒だったから、エウリュステウス王はきっとわしを殺すことでしょう。だが、わしは老人です。この若者たちのために、喜んでこの命を捨てよう」。「お主(ぬし)の申し出はまことに立派だが」とデモポン王は悲しそうに答えた「それは助けにはならぬ。エウリュステウス王が、たかが老人ひとりの死で、満足すると思うのか?エウリュステウス王はヘラクレスの血統の若者たちを、根こそぎ滅ぼそうとしているのだ。また別の策があれば、話してくれるがよい。だが、いまの方法は役にはたたぬ」
       (四)
残酷な神託にたいする悲嘆の声が、王城の上まで聞こえてきた。デモポン王は、亡命者たちを城に移すとすぐに、老年と苦悩とで腰の曲がったヘラクレスの母アルクメネと、ヘラクレスの二番目の妻デイアネイラが生んだ花のような娘マカリアとを、物見高い人々の目から隠した。アルクメネは老年で、それに物思いに沈んでいたので、外の出来事は何も知らなかった。しかし、孫娘マカリアは、城の下のほうから聞こえてくる悲嘆の声に、じっと耳をすました。兄弟の運命にたいする不安にとらえられて、マカリアはごった返している広場へ、急いでおりて行った。そして、しばらくは群集のなかに隠れて、アテナイの町とヘラクレスの子孫とが、窮地に追い込まれていること、不吉な神託によってあらゆる逃げ道がふさがれてしまっているらしいことを知った。そこで、しっかりした足取りでデモポン王の前に進み出て、言った「あなたがたは、戦いの勝利を保証し、その死によって、わたしのかわいそうな兄弟を暴君の怒りから守ってくれる犠牲を捜(さが)しておいでのようですが、ヘラクレスの娘があなたがたのところに滞在していることを、お考えにならなかったのですか?その犠牲にはわたしがなります。自分から進んでの犠牲ですから、神さまもいっそう喜んでくださることでしょう。さあ、わたしを犠牲にささげる場所に連れて行ってください。わたしの魂は喜んでこの世を去ることでしょう」。イオラオスと、まわりの人々はいつまでも黙っていた。ついにイオラオスが口を開いた「そなたの言葉は、まことに父をはずかしめぬものだ。けれども、わしは、一族の娘がみんな集まって、兄弟のためにだれが死ぬかを、籤(くじ)によって決めたほうがよいと思う」「籤なんかでなく」と、マカリアはきっぱり答えた「自分の意志で死にたいのです。ぐずぐずしていてはなりません。敵が攻めてきて、神託が無効になりますから」。こうして、気高いマカリアはアテナイの貴族の婦人たちに連れられて、みずからすすんで死についたのであった。
       (五)
デモポン王とアテナイの市民たちは驚嘆のまなざしで、ヘラクレスの子孫とイオラオスとは深い悲しみで、マカリアを見送った。しかし運命は、いつまでも感慨にふけっていることを許さなかった。マカリアの姿が見えなくなると、一人の使者がうれしい知らせをもって来た。使者は叫んだ「吉報があるのです。私は、ヘラクレスとデイアネイラの息子ヒュロスの古い家来です。御承知のように、主人のヒュロスは、亡命の途中、同盟者を募るためにあなたがたと別れたのですが、ちょうどよいときに、強力な軍勢を率いてやって来て、いまエウリュステウス王と対時(たいじ)しているところです」。喜びの感動が亡命者たちの群れをつつみ、それが市民たちにも伝わった。老イオラオスは、反対には耳も貸さず、武器を持ってこさせ、甲冑(かつちゆう)をしっかと身につけた。そして、屈強の若者たちとデモポン王と共に町を出て、ヒュロスの軍と合流した。同盟軍が戦列についたとき、その前面にはエウリュステウス王を先頭に、王の大軍が見渡すかぎりの列をなして陣を敷いていた。ヘラクレスの息子ヒュロスは、戦車から降りた。そして、エウリュステウス王に向かって呼びかけた「エウリュステウス王よ、無益の流血をはじめて、二つの大都市がわずかな人間のために戦うまえに、わたしの提案を聞いてくれ。どうだろう、われわれ二人が男らしく決闘して、この争いに決着をつけては。もしわたしがお主(ぬし)の手で倒れたら、わたしの兄弟姉妹たるヘラクレスの子供たちを連れて行くがよい。だが、もしお主が負けたら、父の位とペロポネソスの館(やかた)と主権とを、わたしと同族のすべてに保証をするのだ」。同盟軍は大声で賛意を表し、敵の軍勢も同意した。しかし、ヘラクレスに対してすでにその臆病さを示した卑怯なエウリュステウス王は今もなお、命を賭ける勇気がなく、先頭に立っているその戦列から離れなかった。それで、ヒュロスもふたたび同盟軍にもどった。その時、予言者たちが神に犠牲をささげため、鬨(とき)の声がどっと響きわたった。「市民よ」とデモポン王は一同に向かって叫んだ。「おまえたちは家のため、自分を生みはぐくんだ町のために戦うのだということを忘れてはならぬぞ」。一方、エウリュステウス王は、アルゴスとミュケナイをはずかしめることなく、この強大な国の名声をあげるように、と部下たちを励ましていた。戦闘のラッパが鳴り響いた。かくて入り乱れての乱戦となり、戦いはいつ果てるともみえなかった。しかし、ヒュロスの勇猛果敢な活躍もあってついに、敵の戦闘体形がくずれ、重装備の敵兵と戦車が逃げはじめた。老イオラオスも奮(ふる)いたった。そして、ヒュロスが戦車でそのそばを突き進んで行こうとしたとき、老イオラオスは、その戦車に乗せてくれと頼んだ。ヒュロスは、父の友だちであり兄弟の保護者たる老人に敬意を表して、戦車から降りた。老イオラオスは、かわって戦車にとび乗った。老人の手で四頭立ての戦車をあやつるのは、たやすいことではなかった。しかし、彼は決然と戦車を駆りたてた。エウリュステウス王の戦車が遠く砂塵(さじん)をけたてて逃げて行くのが見えた。老人は戦車から立ちあがると、大神ゼウスおよびオリュンポスの山に移された友ヘラクレスの不死の妻であり、青春の女神であるへベとに、ヘラクレスの敵に仇(あだ)を報ずるために、きょう一日だけ、ふたたび青年の力を与えてくれるようにと祈願した。すると、不思議なことが起こった。二つの星が天から降りてきて、馬の頚木(くびき)にとまったと思うと、戦車は濃い霧につつまれた。それはほんの瞬間のできごとで、星も霧もまた消えてしまった。しかし、戦車には若返ったイオラオスが立っていた。鳶色(とびいろ)の巻毛、まっすぐな首、たくましい腕、四頭立て戦車の手綱(たづな)をしっかと手に握りしめて。かくて、イオラオスは突進し、敵兵がのがれようとしていた谷の入ロまで来た。エウリュステウス王は追跡者が誰であるかを知らず、戦車の上から防(ふせ)いだ。しかし、イオラオスは神々から与えられた青年の力で打ち勝った。そして、エウリュステウス王を戦車から引きずりおろすと、自分の戦車にしっかりと縛りつけて、勝利の先駆(さきが)けとして同盟軍のところに連れて行った。戦いは勝利をおさめた。指揮者を失った敵軍は敗走し、エウリュステウス王のすべての息子と、数えきれぬ兵士とが殺され、アッティカの地には一人の敵も見られなかった。
       (六)
勝利者たちの軍勢はアテナイに帰り、ふたたび老人の姿となったイオラオスは、面目を失ったエウリュステウス王の手足を縛って、ヘラクレスの母の前に引いて行った。「とうとうやって来たのね」とアルクメネはエウリュステウス王に向かって言った「そなたがわたしの息子に長い歳月にわたって、重ね重ねの恥ずかしい仕事をさせたのだね。息子を危険な戦いで倒すために、毒蛇だのおそろしい獅子退治に出し、その上、冥府で破滅させるために、暗い黄泉(よみ)の国へ追いやったのだね。そして今度は、その母のわたしやヘラクレスの息子たちをギリシャの国から追い出し、守ってくれる神々の祭壇から奪って行こうと言うのだね。しかし、そなたを恐れない男たちと、自由の町にぶつかったのだ。今度は、そなたが死ぬ番。そして死ぬだけですむなら、しあわせだと思わなければなりますまいよ。なにしろ、そなたはなぶり殺しにされるだけの理由が充分にあるのだから」。エウリュステウス王は勇を鼓(こ)して言った「わしはもはや命乞いはしない。わしがヘラクレスに仇敵(きゆうてき)として立ち向かったのは、わしの心ではなかった。女神ヘラが、ヘラクレスと戦えと命じたのだ。わしのしたことは、すべてヘラ女神の命令に従ったにすぎぬ。心ならずも、いったん、ヘラクレスの敵となった以上は、その怒りから身の危険を防ぐためには、どんな手段でも取らざるを得なかったのだ。彼が死んだ後(のち)、その子供たちがわしに敵意を抱いていることを知った。もし、貴方が私の立場なら、恨みを抱いた獅子(しし)の忌まわしい仔獅子(こじし)を狩らずに生かしておくことはないだろう。さあ、思う存分にするがよい。わしは命をとられても、悲しみはしない」エウリュステウス王はそう言って、静かに自分の運命を待った。ヒュロスは捕えられたエウリュステウス王を弁護し、市民たちも、アテナイの町では征服された罪人に恩赦を与える習わしだったので、穏やかな処置をとるようにと頼んだ。けれども、アルクメネは聞きいれなかった。そして、ヘラクレスがこの残忍な王の家来であったときに、不死の息子がこの世で堪え忍ばねばならなかったさまざまの苦難を思い出していた。そして又、今もエウリュステウス王から勝利を奪うために、すすんで死んでいった可愛い孫娘マカリアの姿が目に浮かんだ。「いいえ、王は死ぬべきです」と、アルクメネは叫んだ。エウリュステウス王はアテナイ人たちの方を振りむいて言った「アテナイの皆さん、あなたがたは、このわしのために、親切にとりなしてくれた。だが、わしの死はあなたがたにどんな災いをももたらさないであろう。もしあなたがたが、わしを見苦しからぬように埋葬してもよいと考え、運命がわしを捕えたパレネの谷にある神殿のそばに埋めてくれるなら、わしは幸福をもたらすものとして、この国の国境を見張り、どんな軍勢もそれを侵(おか)させないようにしよう。というのは、よいかな、あなたがたが庇護を与えたこれらの若者や少年たちの子孫が、いつか軍勢を率いてこの国を襲い、あなたがたが彼らの先祖に示した恩を、仇(あだ)で報いる日がきっと来るからだ。そのときには、ヘラクレスの子孫の不倶戴天の仇(かたき)たるこのわしが、救いの神となるであろうよ」こう言って、エウリュステウス王は平然と死におもむいた。そして生きていたときよりも、立派に死んでいった。
(参考)
@エウリュステウス王の手足を縛って・・・エウリュステウス王は戦車に乗って逃げたが、ヒュロスに捕えられて殺された。ヒュロスはエウリュステウス王の首を斬ってアルクメネに渡し、アルクメネはその両目を機織りの針でえぐり出したという説もある。

(小話936)「イソップ寓話集20/20(その41)」の話・・・
      (一)「子ヤギとオオカミ」
牧草地からの帰り道、群れからはぐれた子ヤギが、オオカミに狙われてしまった。子ヤギは逃げられないと観念すると、オオカミに向かってこう言った。「あなたに、食われる覚悟はできました。でも、死ぬ前に一つだけお願いがあります。私が踊れるように笛を吹いてくれませんか?」。オオカミは子ヤギの願いを叶えてやることにした。こうして、オオカミが笛を吹き、子ヤギが踊っていると、イヌどもがその騒ぎを聞きつけて走って来た。オオカミは逃げる時に、子ヤギをチラリと振り返ってこう言った。「こうなるのも当然だ。屠殺(とさつ)しかできないこの俺が、お前を喜ばせようと、笛吹きなどに転向せねばよいものを」。
      (二)「予言者」
ある予言者が、市場に座って道行く人の運勢を見ていた。そこへ、男が慌てて駆けてきて、家に泥棒が入り、家財道具一切合切盗まれた。と、予言者に知らせた。予言者は、重いため息を一つつくと急いで駆けていった。彼の駆けて行く後ろ姿を見て、ある人がこんなことを言った。「お前さんは、人の運命を予言出来ると言っとったのに、自分のことは予言できんとはどういうことなんだね?」。
      (三)「泥棒と番犬」
夜、泥棒が、ある家に忍び込んだ。泥棒は、番犬に吠え立てられたりしないようにと、肉を持参して投げ与えた。すると、イヌはこう言った。「こんなことで、私の口を封じられると思うのなら、それは大間違いですよ。この親切には何か裏があるのでしょう? あなたが得ようとする利益は、私の主人の不利益に繋(つな)がるのではないのですか?」。


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