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(小話921)「(ジャータカ物語)猿の王とワニ」の話・・・
       (一)
昔、ペナレス(バラナシ=初説法の地)でブラフマダッタ王が国を治めていたとき、釈迦(しゃか)は猿の母体に生まれ、成長にして大きくになり、力強くなった。そして、独(ひと)りで川岸に住んでいた。その川の中央には、マンゴーやパンの木など、多様な種類の果実の木がいっぱい生えた一つの島があった。大きな猿は、川のこちらの岸から飛び上がり、小島のこちら側にある川の中間の岩を踏み台とし、その後、そこから飛び上がり、その小島に着地した。そこでさまざまな種類の果物を食べ、夕方には全く同じ方法で戻り、自分の住所に住み、翌日もまた全く同様にした。ガンジス川にはワニの夫婦が住んでいた。ある時、ワニの妻は、大きな猿がこちらからあちらへと行くのを見て、猿の心臓の肉を食べたくなった。丁度その時、ワニの妻は妊娠していたので、特に猿の心臓の肉を求めたのだった。そこでワニの夫は「今日の夕方、小島から彼がまさに帰ってくるのを捕らえよう」と言って、頭部だけ出た岩の上に行って横になった。猿は一日中、歩き回り、夕方に小島に立って岩を見て「今この岩は、ふだんよりも高いように思えるが、いったいどういう原因だろうか」と思った。そこで彼は、こう考えた「今日、この川では水が減ってもいないし増えてもいない。それなのに、この岩は大きいと思われる。おそらくは私を捕らえる目的でワニが横たわっているのだろう」と。
(参考)
@川岸に住んでいた・・・ある日、猿の王がガンジス川の岸辺で水を飲んでいる時、ワニが近づいてきてこう誘った。向こう岸には、マンゴーやパンの木や、甘くて美味しい果物がいっぱいあるから渡ってみないかと。猿の王はワニに誘われてその背中に乗ったが、ワニが水に沈んで猿の心臓を求めた時、猿の王は、心臓はイチジクの木にかけてあると言って、難を逃れた。そして、陸地に着くと猿の王は、イチジクの木にすわって「友よ、愚かなワニよ。これら生き物の心臓ってやつが木の先端にあると考えたとは、あなたは愚かだ。私はあなたをだました。あなたはさまざまな果物を持っているのがよい。あなたの身体は大きいが、しかし知恵はない」と言った、という説もある。
       (ニ)
大きな猿は、そこに立って、岩に向かって話しかけた「おい、岩よ」と、三回まで「岩よ」と言った。再び猿は岩に「おい岩よ、どうして今日は私に返事をしないのか」と言った。これを聞いてワニは「きっと別の日には岩は猿に返事をしたのだ。今こいつに返事をしよう」と考えて「おい、猿よ、何だ」と言った。「お前は誰か」。「私はワニだ」。「お前はどういう理由でそこに横になっているのか」。「お前の心臓の肉がほしい」。そこで猿は「私には他に行く道はない。私はこのワニをだまさねばならない」と考えた。大きな猿は言った「友よ、ワニよ。私はお前に自己を捧げよう。お前は口を開けて、お前の近くに来た時に私を捕らえよ」。実は、ワニの目は口が開くとき閉じるものであった。ワニはそのことを考慮せずに、口を開いた。そしてワニの目は閉じられた。ワニが口を開けて目を閉じて横になっている間に猿は、小島から飛び上がって、ワニの頭を踏んで、そこから飛び上がり、まるで電光のようにすばやく、反対の岸に降り立った。ワニは猿の行為を見て「この猿の王はとても不思議なことをした」と思い「おい、猿の王よ、この世界で4つの法を備えた人は敵に打ち勝つものだ。それらすべてがあなたには具わっているようだ」と言って、次のように言った「猿の王よ、あなたのように、「言葉の正直さ」、「智慧の考察」、「不断の勇気(堅固な心)」、「自己犠牲(自己を布施)」という4つの徳を持つ者は敵を征服する」と。
(参考)
@「仲間を助けた猿王の話」
ある国の王さまは、川に流れるマンゴを拾って食すると美味しかった。そこで王さまは、兵士を連れて、川上の木に生(な)ったマンゴを取りに行った。だが、そこには多くの猿たちがマンゴを守っていて、取ることが出来なかった。そこで王さまは、邪魔する猿たちを退治するため兵士に攻撃を命じた。攻撃を受けては大変と、猿王(釈尊の前身)は一族の猿を安全な向こう岸に逃がすため両岸の木の枝を手と足で掴み両岸をつなぐ橋となった。王さまは猿を排除してマンゴを取りに来たのだが、猿王の危険極まりない行為に感動して、直ちに兵士に攻撃を中止させた。と同時に万がいち猿王が落ちても大丈夫なように兵士に救助幕をはらして猿王を逆に守ったという。
A「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話920)「怪物の口」の話・・・
        (一)
臨湍寺(りんたんじ)の僧、智通(ちつう)は常に法華経(ほけきょう)をたずさえていた。彼は人跡(じんせき)稀(ま)れなる寒林に小院をかまえて、一心に経文読誦(きょうもん・どくじゅ)を怠らなかった。ある年、夜半にその院をめぐって、彼の名を呼ぶ者があった。「智通(ちつう)、智通」。内ではなんの返事もしないと、外では夜のあけるまで呼びつづけていた。こういうことが三晩もやまないばかりか、その声が院内までひびき渡るので、智通(ちつう)も堪えられなくなって答えた「どうも騒々しいな。用があるなら遠慮なしにはいってくれ」。やがてはいって来た物がある。身のたけ六尺(約181センチ)ばかりで、黒い衣(きもの)をきて、青い面(かお)をしていた。かれは大きい目をみはって、大きい息をついている。要するに、一種の怪物である。しかもかれは僧にむかってまず尋常に合掌した。
        (二)
「おまえは寒いか」と、智通(ちつう)は訊いた。「寒ければ、この火にあたれ」。怪物は無言で火にあたっていた。智通はそのままにして、法華経を読みつづけていると、夜も五更(午前4時)に至る頃、怪物は火に酔ったとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、炉(ろ)に倚(よ)りかかって高いびきで寝入ってしまった。智通(ちつう)はそれを観て、香をすくう匙(さじ)をとって、炉の火と灰を怪物の口へ浚(さら)い込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるような音がきこえて、それぎり鎮(しず)まった。夜があけてから、智通(ちつう)が表へ出てみると、かれがゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちていた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登ってゆくと、数里(六丁一里)の奥に大きな青桐の木があった。梢(こずえ)はすでに枯れかかって、その根のくぼみに新しく欠けたらしい所があるので、試みにかの木の皮をあててみると、あたかも貼り付けたように合った。又その根の半分枯れたところに洞(うつろ)があって、深さ六、七寸、それが怪物の口であろう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに残っていた。智通(ちつう)はその木を焚(や)いてしまった。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話919)「「イソップ寓話」で有名な、古代ギリシャの寓話の語り手アイソポス(イソップ)。その不格好な姿に比して、語りに長け、常に賢明な知性を発揮した数奇な生涯(2/2)」の話・・・
       (一)
  その当時、サモスに次のような事件が突発した。祭りの儀式が執り行われていたとき、突如、ワシが舞い降りてきて、公印をかっさらい、奴隷のふところの中に落とした。サモス人たちは大騒ぎし、この前兆について言うにいわれぬ憂悶にとりつかれ、クサントスに懇願し始めた。自分たちのためにこの前兆の判断を解き明かしてくれるように、と。けれどもクサントスはすっかり困りはて、しばしの猶予を請うた。そして帰宅して、アイソポスの助言を得た。次の日、民会の真ん中に立ってクサントスは、アイソポスとの打ち合わせどおり、参会者に向かって「それがしは、前兆解きの法も、鳥占いの法も学んだこともないが、ここなるわしの奴僕(どぼく=男の召し使い)は、数々の経験を積んでおる。こやつがあなたがたのために問題を解いてくれよう」と演説した。そこで参会者は、すぐにアイソポスを呼ぶよう要請した。アイソポスが壇上にあがると、人々は笑った。あまりにも容貌がみにくいので、こんな男の口から立派な答えが出てくるはずはないと思った。アイソポスは「みなさん、壷の形にではなく、壷の中に入っているものに関心を持たねばなりません」と呼びかけた。すると人々は、今度の事件をどう考えるかとアイソポスに問いただした。そこで彼はまず「たまたま、主人と奴隷の間に名誉をかけた論争が起こったとします。奴隷はまずいことを言えばぶたれるでしょう。主人よりも立派なことを言えば、やはりぶたれるでしょう。あなたがたが、わたしに自由を賜るなら、わたしは今ただちに怖れることなく問われていることを、あなたがたに述べよう」と言った。サモス島の人々はクサントスにアイソポスを奴隷の身分から開放するよう要求した。クサントスは渋ったが、サモス島の評議員たちが口をきき、ここに晴れてアイソポスは自由の身となった。アイソポスは自由を手に入れたので、真ん中に立って言った「サモス人諸君、ワシは、ご存じのとおり、鳥類の王である。他方、これが統帥権(とうすいけん)の指輪をさらって、奴隷のふところに落としたということ、これが前兆とするは明らかに、サモス島の人々がいま隷属の危険におびやかされていることで、印章をさらったワシは、強大な権力を持つどこかの国王を意味しているのです」。サモス人たちはこれを聞いて、意気消沈してしまった。その後まもなく、小アジアに強大な勢力を誇っていたリディアの国から、使者がやってきた。そしてサモス島の人に「貢祖(こうそ)を出せ、さもなければ開戦の用意あり」と告げた。当時のリディアの王はクロイソスであった。そこでみなして、クロイソス王に臣従して貢祖を納めることにし、その前にアイソポスにも問うてみることを評議した。すると、アイソポスは言った「あなたがたの執政官たちが、王に貢祖を納めることを受け入れるとの動議をすでに提案されたのであるから、あえて進言するような真似はやめて、あなたがたにひとつの喩(たと)えを述べたい、しかるのちに貢祖を納入なさるがよかろう。運命が人生に2つの道を示して見せた。ひとつは自由の道で、これの初めは難路であるが、終わりは平坦である。もうひとつは奴隷の道にして、これの初めは安楽で歩きやすいが、終わりは苦しみにみちている」。
(参考)
@奴隷の身分から開放・・・当時「開放奴隷」という制度があり、実績や貢献度次第で奴隷も自由の身になることができた。
Aクロイソス・・・リディア王国クロイソスはリディア王国周辺地域を次々と攻めて力を拡大するとともに内政も充実させ、パトロクス川の砂金による利益、関税や朝貢による経済の繁栄や通貨制度の整備により知られた王。小話(614)「リディア国の最後の王クロイソスと二人の息子」の話・・・を参照。
「イソップ伝」の挿絵(ワシが落とした指輪)はこちらへ
       (二)
  これを聞いてサモス人たちは拍手喝采した「われわれは自由人であるから、すすんで奴隷となることはしない」。そして使節を和平条約を持たぬまま送り返した。クロイソス王はこれを知って、サモス人たちと戦端を開こうとした。しかしくだんの使節が復命して言うには、彼らのところにアイソポスがいて、知恵をつけているかぎりは、サモス人たちを手下にすることはできますまい。そしてさらに「できるとしたら、おお、王よ、使節たちをつかわして、彼らにアイソポスの引き渡し要求をすることです、きやつの代わりにほかの恩恵の授与と、賦課した貢祖の中止とを彼らに約束して。そうすれば、そのときこそ、すぐにでもそれをせしめることができるでしょう」。そこで、クロイソス王は、使節を派遣し、アイソポスの引き渡しを要求した。サモス人たちはこれを引き渡したらいいと考えた。アイソポスはこのことを知って、言った「サモス人諸君、わたしも、王の足許にゆけるなら、大いにありがたいと思う。しかしあなたがたにひとつ寓話を語りたい。生き物が同じ言葉をしゃべっていた時代、オオカミたちとヒツジたちとが交戦した。しかしイヌたちが家畜(ヒツジ)たちと共闘し、オオカミたちを退散させた。オオカミたちは使節を派遣して、ヒツジたちにこう言った、平和に生きたいなら、そして戦争の心配をしたくないなら、イヌたちをこちらに引き渡すことだ、と。そこでヒツジたちは愚かにもそれに従って、イヌたちを引き渡すと、オオカミたちはイヌたちを食いちぎり、ヒツジたちを簡単に破滅させたのである」。
       (三)
  サモス人たちはこの寓話の意味を理解し、懸命になってアイソポスを自分たちのもとにとどめようとした。しかし彼は受け入れず、使節と一緒に船出し、クロイソス王のもとに参内(さんだい)した。こうして一行がリディアに到着すると、王はアイソポスを眺めて、立腹して言った「見よ、あんな島を従わせようとするわしの邪魔をしたのが、こんなやつとはなぁ」。するとアイソポスが「大王様、陛下のもとに参上いたしましたは、力によらず、まして必然によってでもありませぬ、自己選択で参ったのでございます。そこで我慢してわたしの話を少し聞いてくださいませ。ある男がイナゴを狩り集めて殺しておりましたが、セミまで捕まえました。そこでこれを殺そうとしましたら、そのセミが言うのです。「あなたさま、むやみにわたしを亡き者にしないでください。なぜなら、わたしは麦穂を害することもなく、他のどんなことでもあなたに不正することはありません、わたしの中にある膜(まく)を動かせて、快い声を発し、道行く人たちを楽しませるのみ。ですから、声以外にわたしから得られるものは何もないのです」。男もこれを聞いて、立ち去るようにと放してやったのです。されば、わたしも、おお、王様、陛下の御足におすがりします、わたしをことさらに殺さないでくださいませ。わたしはどなたかに不正することさえできず、あわれな身体で、高貴な喩(たと)えを語るのみでございます」。王は驚嘆し言った「アイソポスよ、そなたに命を与えるはわしではない、運命じゃ。して何が望みか、求めよ、されば得ん」。すると彼は「陛下にお願いいたします、王様、サモス人たちを解放してくださりませ」。すると王が「解放しよう」と言ったので、アイソポスは地面に身を投げ出し、その恩恵に感謝し、その後、みずからの手に成る寓話集(これは今に至るも伝承されている)を集成して王のもとに残した。そして、アイソポスはクロイソス王からサモス人に宛てた書簡(アイソポスのおかげで彼らに解放が与えられたという内容の)と、数多くの贈り物とを受けとり、出航してサモスに立ち帰った。こうして彼は、サモス人らに王の書簡を読みあげ、サモスの民衆から自分に与えられた自由を、自由によって再びお返ししたことを証明してみせたのであった。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(イナゴを狩りの喩えを話すアイソポス)はこちらへ
       (四)
  その後、アイソポスはサモス島を離れ、人の住む地を遍歴し、いたるところで哲学者たちと対話した。さらにはバビロンに至り、自分の知恵を披露(ひろう)し、バビロンのリュケロス王から高位にとりたてられた。というのは、その当時、各国の王たちは互いに平和を守り、娯楽のためにお互いに理知的な問題を書き送り合っていた。これを解いた側は、約定により、送った側から貢物(みつぎもの)を受けとり、そうでない場合は、同じだけの貢物を提供するを常としていた。そういうわけで、アイソポスは、リュケロス王に送られてくる問題を見抜いて解き、この王の評判を高くした。ところで、アイソポスは子供ができなかったので、生まれのいい階層に属する一人、呼び名をエンノスというのを養子にして、嫡子(ちゃくし=跡取り)としてリュケロス王のもとに連れて行き、目通りさせた。しかし、時を経ずして、このエンノスが統治者の側室と姦通したので、アイソポスはこれを知って、家から追い出そうとした。ところがをエンノスは、リュケロス王に謀反(むほん)をたくらむ者たちに宛てたアイソポスの書簡を捏造(ねつぞう)し、これにアイソポスの印章を押して、王に手交した。王はその書簡を信じ、いかなる糾問もなしに即断で反逆者としてアイソポスを処刑するよう家臣のヘルミッポスに命じた。しかしヘルミッポスは、アイソポスの友であって、この時にこそ友たるの実(じつ)をしめした。すなわち、ひとつの墳墓の中に、誰も知らぬ間に、この人物をかくまい、ひそかに食事を運んだのであった。一方、エンノスは、リュケロス王の言いつけで、アイソポスの宰相としての全権を引き継いだ。
       (五)
  しばらくして、エジプトの国王ネクテナボは、アイソポスが刑死したと聴き、ただちにリュケロス王に書簡を送った。その内容は「空中に楼閣を建てる建築師と、どんな問題にも答えられる者を送れ」というものだった。王は国中の賢者を集めて協議したが、みな首をひねるばかりで、有効な解答を出すことができなかった。この時、王の家臣ヘルミッポスは、リュケロス王の前に進み出て、アイソポスが生きていることを告げた。すると王はことのほかよろこび、アイソポスを連れて来るように命じた。王は彼を見るや、手厚い世話を受けるよう言いつけた。そして、アイソポスの無罪も認めた。さらにアイソポスを陥(おとしい)れたエンノスも、アイソポスによって死をまぬがれた。アイソポスはエンノスを引き取り、彼を何ら憎悪することなく、再び息子として心を注ぎ、次のような教訓を与えた「わが子よ、万事につけて神威を敬え、王を尊べ。そして、お前の敵たちに対しては、怖るべきものとして振る舞え、お前を侮ることのないように。しかし友たちに対しては、柔和で雅量ある者となれ、そうすれば、お前にとってより好意をしめす者となろう。さらにまた、敵たちに対しては、病気・貧乏になるよう祈れ、そうすれば、お前を苦しめることはできまいから。しかし友たちに対しては、万事において栄えるよう望め。お前の妻とはいつもきちんと交われ、ほかの男の挑発をうけることを妻が求めないように。なぜなら、女どもの部類は尻軽であって、あまりちやほやされないと、よからぬことを考えるからだ。言葉は鋭い言葉で聞き手を魅了し、舌は自制的な者の持ち主たれ。栄える者たちには妬(ねた)みをいだかず、喜びを共にせよ。なぜなら、妬めばおまえ自身を損なうことになるから。おまえの家僕たちに意を用いよ、おまえを主人として怖れるばかりか、恩人として慎むように。よりまさったことをいつも学ぶことを恥じるな。女を信じて秘密を打ち明けるようなことは決してするな。お前を尻にしこうと、いつも武装しているからだ。日々のパンは余分に求めよ、そして明日のためにたくわえておけ。命(いのち)が尽きて敵たちに残してやることの方が、生きて友だちがいないよりはましだからである。出会う者たちに愛想くせよ、犬ころでさえ、尻尾を振ることはパンをもたらすと知っている。善人でありつづけて変節するな。中傷する者はお前の家から追い出せ、お前の言ったことしたことを、そそくさと他人に注進るであろうからだ。お前に苦痛を与えないことは為し、結果したことのために苦しむことをするな。いかなる時も邪(じゃ)なことをたくらまず、悪しき習(なら)わしを真似るな」。こういったことをアイソポスはエンノスに訓戒した。しかし、彼はこれらの言葉とみずからの良心に、あたかも矢に撃(う)たれるように魂を撃たれ、みずから首をくくって、往生を遂げた。
       (六)
アイソポスの一行がエジプトに到着すると、早速、難問に対する解答を示した。それぞれ4羽のワシが袋に子供を入れて空中に舞い上がると、子供たちが空から「モルタルと、石と、材木を持ってこい」と叫んだ。これにはエジプトの王ネクテナボも「アイソポスよ、わしの負けだ。しかし、わしがそなたに質問し、そなたはわしに答えてもらいたい。ここにわしの牝馬たちがおるが、こやつら、バビロンにいる牡馬たちがいななくや、たちまち孕(はら)みよる。これについてそなたに知恵があるなら、披露(ひろう)してもらいたい」。するとアイソポスは「明日、陛下にお答えいたします」。そこからアイソポスは退出すると、童僕たちに猫を捕まえて、その猫を公然と鞭打ちながら連れまわるよう言いつけた。ところでエジプト人たちはこの生き物を敬(うやま)っていたので、この災難をネクテナボ王に言上した。王はアイソポスを呼んで「アイソポスよ、われわれのところでは猫を神として敬っているというのに、何のためにこんなことをしでかしたのか」。するとアイソポスは「リュケロス王に不正をはたらいたんです、おお、王よ、夕べ、この猫がリュケロス王の持っておられます雄鶏---高貴で喧嘩っ早く、なおその上に時刻をも彼に告げてくれる---を殺したのです」。すると王が「嘘をついて恥ずかしくないのか、アイソポスよ。一晩のうちにエジプトからバビロンまでゆくような猫がどうしていようか?」。するとアイソポスは微笑して言った「いったいどうして、おお、王よ、バビロンのいる牡馬がいなないたからといって、当地の牝馬が孕むことがありましょうや」。王はこれを聞いて、彼の賢明さを祝福した。この後、アイソポスは、エジプト王とその側近の学者が出す数々の難問にみごと答えた。「あなたにひとつ質問をして、それにあなたがどう答えるか、あなたから聴くようわたしはわたしの神から遣(つか)わされた」。するとアイソポスは「あなたは虚言している。なぜなら、神が人間から学ぶ必要は何もないからです。だから、あなたはあなた自身のみならず、あなたの神をも誹謗しているのです」と答えた。今度は別の者が云った「大なる神殿あり、そのなかに柱あり、12の都市を有す、その各々は30の梁に覆われている。そしてこれを二人の乙女がめぐっている」。するとアイソポスが言った「その問題は、われらのところでは子供たちでも解けるでしょう。すなわち、神殿とはこの世界、柱とは1年、諸都市とは月々、梁とは月の日数、して昼と夜とが二人の乙女で、この乙女たちは、お互い交互に交替しあっているのです」。さらに「われらに述べてくれ、アイソポスよ、われらが見たことも聞いたこともないものとは何かという問題を」。すると彼は「これについては明日あなたがたにお答えしましょう」。こういってアイソポスは退出すると、証文をこしらえた、そこには、エジプト王ネクテナボは合意にもとづいてバビロン王リュケロスに1000タラントンの負債を負えりとしたためられていたが、翌日、ネクテナボ王のもとに立ち戻ると、この証文を手渡した。しかし王の友たちは、証文を開封するよりも早く、全員が言った「それは見たこともあるし、聞いたこともある、また知ってもいる」。そこでアイソポスは言った「感謝いたします。返済期限は過ぎておりますゆえに」。ネクテナボ王は、負債の同意を読みあげて言った「わしはリュケロス王に何の負債もないのに、そなたらはみな証言するのか?」。そこで彼らは説を変えて言った「われらは見たことも、聞いたこともありません」。するとアイソポスが言った「事情かくのごときでありますれば、出された問題も解けました」。これに対してネクテナボ王も「かかる知恵袋をおのが王国内に持っておるリュケロス王は浄福なるかな」と言った。こうして、協定どおりの貢物をアイソポスに引き渡し、平和裡に送り返した。アイソポスは、バビロンに帰着すると、エジプトで起こったことをすべてリュケロス王に語り、貢物を引き渡した。リュケロス王は、アイソポスの黄金像を建立するよう言いつけた。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(空中に舞い上がるワシと子供たち)はこちらへ
「イソップ伝」の挿絵(アイソポスの黄金像)はこちらへ
         (七)
  しかし日を経ずして、アイソポスはヘッラス(ギリシャ)の旅に出た。こうして、ヘッラスの諸都市を遍歴し、自分の知恵を披露しつつ、デルポイにも赴(おもむ)いた。しかしデルポイ人たちは、対話には喜んで耳を傾けたが、彼に対して敬意を少しも示さなかった。そこでアイソポスは彼らにしっぺ返しをして言った「デルポイ人諸君、あなたがたを海に漂う材木に譬(たと)えることをわたしは思いついた。すなわち、それは遠く隔たったところから波間に漂っているところを見ると、何かたいそう価値あるもののようにわたしたちは思うのだが、近くに寄ってみると、まったく安物だとわかる。実際わたしも、あなたがたの都市から遠く離れていた時は、あなたがたを語るに価するもののごとく驚嘆していたものだが、今、現にあなたがたのところに来てみると、いわば全人類の中で最も無用人間だということを実際に見た。わたしはとんだ誤解をしていたもんだ」。これを聞いてデルポイ人たちは、もしかするとアイソポスがほかの諸都市に行っても自分たちのことを悪く言うのではないかと怖れ、罠にかけてこの人物を亡き者にするたくらみを相談した。そして、黄金の杯を、自分たちのところにあるアポロンの神殿から引っ張りだしてきて、こっそりとアイソポスの敷物の下に隠した。こうして、アイソポスは、連中にたくらまれていること知らぬまま、出発してポーキスに向かって進んでいた。するとデルポイ人たちが襲いかかり、彼を逮捕し、神殿荒らしだと判断した。彼は、否認したが、連中は力ずくで敷物を広げて、黄金の杯を発見した。ここにいたってアイソポスは、連中の策謀に気づき、彼らに放免を懇願した。しかし連中は、放免しないばかりか、神殿荒らしとして牢獄に放りこみ、死刑の有罪判決を下した。
(参考)
「神殿荒らしにされたアイソポス」の挿絵はこちらへ
       (八)
  アイソポスは、この邪悪なる運命から助かるすべもなく、獄舎に座ってひとり嘆き悲しんでいた。すると彼の知己の一人が、この受難の理由を尋ねた。するとアイソポスは言った「自分の夫を埋葬したばかりの女が、毎日、墓標のところに通って嘆き悲しんでいた。墓から遠からぬところで耕していた一人の男が、その寡婦と情交したくなった。そこで、ウシたちを後に残し、自分も墓のそばにやってきて、座って、その女と一緒に嘆き悲しみだした。すると女が、一体どうしてあんたまでそんなに泣き悲しむと聴いたので、「わしも」と言う「べっぴんの女房を埋めてきたところや。こうやって泣いていると、苦痛が軽くなるのや」。すると彼女「あたしと同じことが身の上に起こったのね」。すると男は「するって〜と、同じ受難に見舞われたのやから、お互いお知り合いにならんて法があるもんか。わしはあんたをあいつみたいに愛するから、あんたもわしを、あんたの亭主みたいにもう一度」。こういうことをいって女を口説き、そのとおり同衾(どうきん)した。しかしその間に、盗人がやってきて、ウシたちを解いて逃げ去った。男がもどってきて、ウシたちが見つからなかったので、激しく胸を打って泣きわめきだした。そこに女もやってきて、嘆いているのを見つけて、言った「また泣いてるの?」。すると男は「今こそ」と言った「真実わしは泣いているのだ」。実際わたしも多くの危難をまぬがれてきたけれど、今こそ本当に嘆き悲しんでいるのだ、この災悪からの解放される途がどこにも見つけられないので」。
       (九)
  その後、デルポイ人たちもやってきて、 強制的に崖の上に引っ張って行った。アイソポスは連中に向かって言った「生き物たちが同じ言葉をしゃべっていたとき、ネズミがカエルと友達になり、これを食事に呼んだ。そして金持ちの蔵に案内して、そこには有り余るほどの食料があったので「召し上がれ、親愛なカエル君」と言った。かくして食事の後、カエルもネズミを自分の住所に呼んだ。「さあ、君が泳ぎ疲れないよう」とカエルが言った「細紐で君の脚をぼくの脚に結びつけよう」。そうやって、池へと引っ張っていった。しかし、こいつが深みへ潜ったので、ネズミは溺れ、死に際(ぎわ)に言った「ぼくは君に殺される。けれど、もっと大きなものが復讐してくれるだろう」。こうして、ネズミの屍体が池の中に漂っていたので、ワシが舞い降りてきて、それをかっさらった。それと共に、いっしょに結(ゆ)わえつけられていたカエルまでも。そういうわけで、ワシは両方をご馳走にした。だからわたしも、力ずくであんたがたから処刑されても、報復してくれるものを持つことになろう。なぜなら、バビロンや全ヘッラス(ギリシャ)が、あなたがたにわたしの死の代償を求めるだろうから」。しかしデルポイ人たちはアイソポスを見逃すどころの話ではなかった。そこでアイソポスはアポロンの神殿に逃げこんだ。しかし連中は怒りに狂ってそこからも引きずり出し、再び崖の上に引っ張っていった。彼は引きずりゆかれながら言った「わたしの話を聞け、デルポイ人たちよ。野ウサギがワシに追われて、フンコロガシの隠れ家に逃げこんで、これに助けてくれるよう懇願した。そこでフンコロガシは、嘆願者を亡き者にすることのないよう、ワシに嘆願し、自分の小ささを蔑(ないがし)ろにするこのないよう、偉大なゼウスにかけて、彼に誓わせようとした。ところがワシは、怒ってフンコロガシを翼ではたいて、野ウサギを奪って喰ってしまった。そこでフンコロガシは心に傷ついて、ワシの跡をつけて行き、その巣を偵察し、卵を壊してしまった。ワシはといえば、自分の卵の壊滅に怒鳴り散らし、こんなことをしたやつを捜し出そうとした。しかしふたたび時節が来たので、ワシはもっと高い場所に産卵した。しかしフンコロガシが同じことをして、またもや卵を壊滅させた。ワシはもどって来るや、結末を見て嘆いた、ワシの種族をもっと少なくしようとての、神々の憤怒だと言って。そしてまた時節が開始すると、ワシは我慢できず、もはや卵は巣に置かず、大神ゼウスの膝の上にのぼって、嘆願して言った「すでに二度は、なくしましたが、三度目は卵をあなたに預けます、わたしのためにこれを助けてくださるように」。そしてゼウスの膝の上にこれを置いた。一方、フンコロガシはこれを知って、わが身を多量の糞だらけにし、ゼウスのところに登って、ぐるぐる回りながら、ゼウスの顔めがけて糞を振りまわした。そこでゼウスは、立ちあがったが、ふところにワシの卵を入れていることを忘れていたので、それを落として粉々(こなごな)にしてしまった。フンコロガシから、こんなことをしたのは、ワシに仕返しをするためだということ、じっさい、ワシはフンコロガシに不正をはたらいたのみならず、大神ゼウスにかけての誓約を無視したから、ゼウス本人に不敬でもあったことを聞き知って、ゼウスはやってきたワシに向かって、フンコロガシを苦しめているのはお前だ、お前が苦しむのは義(ただ)しい、と言った。とはいえ、ワシの種族が消滅することを望まず、フンコロガシにワシと和解をするよう忠告した。けれども聞き入れなかったので、ゼウスは、ワシたちの産卵の時期を、フンコロガシが現われない別の時期に変更したのである。だからあなたがたも、おお、デルポイ人諸君、わたしが庇護を求めて逃げこんだこの神を、たとえ神殿は小さかろうと、辱(はずかし)めてはならない。不敬を働いた者は見逃されることはないであろうから」。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(崖の上のアイソポス)はこちらへ
       (十)
  しかしデルポイ人たちは、やはりアイソポスを死刑の崖に引っ張っていった。そこで彼は、再び言った「野蛮で人殺しの諸君、聞くがよい。ひとりの百姓が田舎で年老いて、いまだかつて街に行ったことがなかったので、その見物を親類の者たちに依頼した。そこで彼らは驢馬(ろば)にくびきをつけ、荷車の上に彼を乗せて、一人でゆくよう言いつけた。しかし道中、暴風雨の天候に見舞われ、真っ暗になって、驢馬たちが道に迷って、とある崖の方へと老人を連れて行った。彼はいよいよ崖から落ちそうになって「おお、ゼウスさま、あなたにどんな不正をしましたでしょうか、こういうふうに破滅するとは、それも、高価な馬たちによってでないのはもちろん、血筋よろしき半ロバたちによってでもなくな、最も卑小なロバどものせいで」。だから、わたしも同様に絶えがたいのだ、誉れある人たちとか、世に知られた人たちとかによってではなく、最悪の、無用な奴僕どものせいで破滅するのが」。さらに、いよいよ崖から突き落とされそうになって、次のような寓話を述べた「ある男が、自分の娘に恋して、女房は野良(のら=野原)に追いやって、娘をひとりきりに引き離して強姦した。すると娘が、「お父さん」と言った「神法に悖(もと=道理にそむく)ることをなさったのよ。むしろ、多くの男たちに辱められた方がよかったのに、生みの親のあんたによりは」。これをわたしもあなたがたに向かって言おう、おお、デルポイ人諸君。あなた方の手にかかってこの地で非道に死ぬよりは、むしろ、辛酸をなめつつ、シケリア全土を巡りめぐることを選ぶのだった。とにかく、おまえたちの祖国に呪いをかけ、そうして、神々を証人にお呼びしよう。神々はわたしが不正に破滅させられるのに耳を傾け、わたしの復讐をしてくださるでろう」。こうして、デルポイ人たちは崖下に彼を突き落として処刑した。しかし程経ずして、デルポイ人たちは疫病がかかり、アイソポスの死を贖(あがな)うべしという神託を受けた。彼らは自分たちでも自覚していたこともあって、不正に殺害されたアイソポスのために、標柱まで建立した。しかしその後、ヘッラスの指導者たちや相当な知者に属する人たちが、アイソポスに対する仕打ちを聞いて、デルポイに現れ、討論をして、アイソポスの宿命の復讐者となったのである。(おわり)
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(崖下に突き落されたアイソポス)はこちらへ
「アイソポス」(ベラスケス)の絵はこちらへ
「アイソポス(イソップ)の胸像」の絵はこちらへ
「アイソポス(イソップ)とキツネ」の絵はこちらへ


(小話918)「「イソップ寓話」で有名な、古代ギリシャの寓話の語り手アイソポス(イソップ)。その不格好な姿に比して、語りに長け、常に賢明な知性を発揮した数奇な生涯(1/2)」の話・・・
       (一)
アイソポス(イソップ)は紀元前六世紀ごろに生きた、プリュギア地方(小アジア西部の内陸部)の呼び名を持つアモリオンの出身のギリシャ人であって、最初の身分は奴隷で、後(のち)に自由人(開放奴隷)になった。アイソポスは、当初は運命によって奴隷となった人で、その身は奴隷身分であったが、彼は堅固であって、魂は自由であった。奴隷のため、その身体は多くの地方、さまざまな身分に住みかわったけれども、魂はその本来の位置を逸(そ)れることはなかった。とはいえ、彼は奴隷以外の何ものでもなかったばかりか、彼より後の時代のいかなる人間よりも不格好であった。というのも、黒人にして、途方もないまでに、はなはだ不細工、頭でこぼこ、やぶにらみ、たらこ唇、太鼓腹、扁平足でせむし、鼻はぺちゃんこ、どこをどうとっても、その姿は醜怪さそのものであった。けれども、彼のなかで何にもまして最悪だったのは、どもりで、音声のしるしなく、言語不明瞭だったこと。一事が万事、アイソポスには奴隷身分が用意されていたとさえ思えた。というのも、身体がこれほど奇態な男に、奴隷たるの網の目からのがれられたとしたら、それこそが驚くべきことであったろうから。とにかく、この男の身体はこのとおりであった。しかし、生まれつき抜け目なく、その知恵と洞察力、話術は特にすぐれていた。
(参考)
@アイソポス(イソップ)・・・アイソポスは実在の人物であるらしいが、アイソポスが自分で原稿を書いたわけではない。というのは紀元前六世紀の古代ギリシャではまだ、文字が定着しておらず、書物という情報編集形式がなかった。したがってアイソポスは「寓話作家」とされているが、文筆活動によってではなく「話術」、「語り」によって作家だった。アイソポスの伝記を書いたのは一三世紀の修道僧プラヌデスで、この人は、ビザンチン帝国の僧侶で文学研究家で、古典作品や古典の資料研究にすぐれていた。この人が「イソップ伝」と「イソップ物語」の編纂を行なった。ラ・フォンテーヌはこのプラヌデスの「イソップ伝」について「わたしの知るところでは、プラヌデスがわたしたちに残している伝記を信じがたいと考えない人はほとんどいない。この著者はその主人公に、その寓話にふさわしいような性格とできごとをあたえようとしたのだ、と人々は思いこんでいる」。だがラ・フォンテーヌは、仮にプラヌデスの伝記が作り話だとしても、それをそのまま受け入れてどこが悪いのか、どのような不都合が生じるのか、といっている。又、アランも「古い典籍に属する作品の場合、その真偽がどうであったかよりも、伝えられている話を真実であると受け取ったほうがいい」と言い「問題はそれが真であるかどうかを知ることではなくして、むしろいかにそれが真であるかを知ることである」ともいっている。
A奴隷身分・・・当時は、都市国家(ポリス)の間で始終戦争が行われ、戦勝国は敗戦国の国民を奴隷として調達していた。一国の王妃や王女でさえも他国の奴隷となる可能性があった。
「アイソポス(イソップ)(シュタインヘーヴェル版の表紙)」の絵はこちらへこの絵は、後世に作られたイソップの伝記の、「大きな頭、大きな顔、長い顎、鋭い 目、短い首、曲がった背中、大きな腹、そして大きな足」というような記述から描かれたもの
       (二)
アイソポス(イソップ)の主人は、いつも黙ってばかりで、町向きの仕事のできないこの男を、畑仕事に使った。だが、アイソポスは口がきけないながらも知性の片鱗(へんりん)を示していた。ある時、主人は、一人の百姓から最上のイチジクの実を献上された。そこで主人は家僕に言った「アガトポス、これを受けとって、わしのために取っておけ。そして、入浴して、昼飯を食った後で、これをわしに供せ」。ところがアガトポスがイチジクを取り、腹が減ったので、そのなかの一つ二つを食ってから、自分の奴隷仲間の一人に言った「このイチジクを腹いっぱい食えたらいいなぁ」。すると相手が「二人でこのイチジクを食う、そしてご主人が求めたら、旦那に言いやいい、アイソポスがイチジクをかっ食らっちまいやした、とな。そうすりゃ、アイソポスときたらどもりだから弁解できねぇでお仕置きされるさ」。こうしてイチジクの傍に座りこんで、イチジクをむしゃむしゃ食いつくしてしまった。彼らの主人は、入浴し昼食をしたためた後でアガトポスにイチジクを求めた。するとアガトポスが言った「ご主人さま、アイソポスめが好機をねらって、蔵に入りこんでイチジクを食っちまいましただ」。そこで主人は激怒してアイソポスを呼ぶと言った「わしに言ってみろ、このろくでなしめ、これほどまでにわしを馬鹿にしおって、蔵に入りこんで、わしのために用意されていたイチジクを食っちまうとはな」。アイソポスは聞いて、しかし舌が重いのでしゃべることができず、主人の膝に身を投げ出し、しばし待ってくれるよう頼んだ。そうして、壺をとり、ぬるま湯を混ぜ、盥(たらい)を前に置いて飲み、指を自分の口の中に突っこんで、吐き出したのは、飲んだばかりの水だけであった。そして、眼の前のアガトポスとその仲間にも同じようにするよう要求した。主人はアイソポスの知力に驚嘆し、ほかの者たちにも同じようにするよう命じた。そこで奴隷たちは、ぬるま湯を飲んで屈みこんだとたん、イチジクを吐きもどした。このとき主人が言ったった「何でしゃべることのできない者を誣告(ぶこく=いつわって告げること)したのか?」。そして連中が裸にされて殴られるよう命じた。かくして彼らは、はっきり知ったのであった――他人に罠をしかける者は、自分で自分にそうしていることに気づかない――。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(イチジクを吐きもどす奴隷たち)はこちらへ
       (三)
次の日、彼の主人は都市へ出かけていった。一方、アイソポスは、野良で畑堀りをしているとき、イシスの女神官が、人通りの多い道を外れて、野良にやって来た。そこで女神官は、相手が聞くことはできてもしゃべれないと気づいて、彼に身振りをまじえて、町に通じる道を示すよう頼んだ。そこでアイソポスは、女神官を蔭深き木立の下に案内し、彼女の前に食べ物を用意し、井戸のところに駈けていって、水を汲み上げ、飲むように勧めた。そして手をとって女神官を町に真っ直ぐ通じる道へ案内した。女神官は、天に両手をさしのべて「イシス女神よ、あの農夫――悪しき運にみまわれたれど、敬虔なる者に憐れみをたまえ、せめては彼にしゃべることを恵みたまえ」と彼のために祈ったうえで、立ち去っていった。アイソポスの方は、もどってきたが、炎熱のせいでげんなりして、眠りに落ちた。すると、夢の中で「運命(女神)」がそばに立って、彼のために最善の言葉と弁舌の機敏さと、多彩な寓話による独創的な話の発明の才を授けた。アイソポスは眼がさめて言った「おやおや、なんて快い眠りやったことか。いや、それだけやない、美しい夢を見たもんや。しかも、そら、支障なくものが言えるぞ。ウシ、ロバ、二叉鋤(ふたまたすき)。神々にかけて、こんないいことがわしに起こった理由がわかったぞ。客人を敬虔にふるまったので、お返しにこんないい目にあったにちがいない。なるほど、美しく為す者は、美しき希望を受けられるというものだ」。アイソポスはすっかり嬉しくなって、再び二叉鋤をとって畑起こしを始めた。そこへゼーナスという家僕たちの家令(監督)がやって来て、作業を少ししくじった家僕たちの一人を棍棒でぶちのめした。そこでアイソポスは同情して大声で言った「やい、ちっとも不正してない者を、何でそないにいじめ、一日中わけもなく鞭ばかりくらわすんや。このことを旦那に洗いざらい報告したる」。すると家令のゼーナスは、アイソポスがしゃべったのを聞いてびっくりして言った「アイソポスはしゃべり始めたとたん、わしに刃向かいおった。やつより先にとっちめてやろう、ご主人がやってきたら、訴え出て、わしを家令の職から退けるつもりなんやから」。急いでゼーナスは、ロバに乗って町へと出かけた。そして主人のところに着くと言った「くそったれのアイソポスめが、べらべらしゃべり始めたんでがす。ご主人さま、しゃべり始めたとたん、人間の自然についてあることないこと言い立てるんでがす。あっしに対してひどい暴行をくわえ、旦那や神々に対しても大いに罵(ののし)ってやがるのでがす」。主人は激怒してゼーナスに言った「行け、今からはお前にくれてやる、売るなり、与えるなり、殺すなり、やつをお前の好きにするがいい」。こうしてアイソポスは、ロバを買いに来た交易商人に売られることになった。交易商人は「こんなやつを買えなんて、からかう気かね。この土瓶(どびん)はどこから手に入れなすった? 葦(あし)か人間か。声を持ってなかったら、革袋みたいなものじゃないか」などと言ったが、アイソポスは「私を買いなさい。旦那の奴隷倉庫には、泣きわめいて身勝手な童僕(どうぼく=召し使いの少年)がいるんじゃありやせんか。私を利用しておどすことができるでしょうよ」と言った。商人は笑って彼を買い「ありがたいことだ。たいしたのものは手に入らなかった。だから、たいして金もかからなかった」といいながらアイソポスを連れて行った。
(参考)
@イシスの女神官・・・イシスはエジプトの女神。オシリスの妻。オシリスをよみがえらせ、死者の守護神、復活神として崇拝される。ギリシャ・ローマでは秘義を有する宇宙神としてまつられる。
「イソップ伝」の挿絵(運命(女神)の夢をみるアイソポス)はこちらへ
       (四)
こうして町へと道を進んで、奴隷倉庫の中に入っていった。すると、母親の世話になっている二人の童僕が、アイソポスを眼にしたとたん、悲鳴をあげて身を隠した。そこでアイソポスが交易商人に言った「あっしが約束したことはもう証明されやした」。アイソポスが奴隷仲間に挨拶すると、連中は異口同音に言った「あんな醜い奴僕(どぼく=男の召し使い)を買いなさるとは、ご主人はどうなってるんや。どうやら、屋敷の魔よけ代わりにあれを買いなさったらしい」。ある日、交易商人が入ってきて、旅支度をするよう奴隷たちに差配した。翌日、アシア(フリギア)への旅行をするというのだ。そこで彼らは、 ただちに調度類を分けあった。そして彼らは、二人一組になって、身のまわり品を分担した。アイソポスは、パン類のぎっしり詰まった籠(二人で運ぶような)を眼にすると、これを自分一人にかつがせてくれと申し出た。一同は笑って、こんなとんでもないろくでなし以上の愚か者はいないと言った。アイソポスは籠を肩にのせて、あっちへふらふら、こっちへふらふら。これを見て交易商人は、驚嘆して言った「アイソポスめ、労苦に熱心だから、わしの払った代価はすでに元をとったようなものだ。家畜一頭分の荷を持ってくれるのやから」。こうして、昼食の刻限になって一行が休息したとき、アイソポスはパン配りを言いつけられ、大勢で喰(く)ったので、籠の一つは半分になった。さらにまた夕方になって宿泊するときも、再びパン配りをし、次の日には完全に空(から)になった籠を肩にのせて、皆の先頭を進んだ。奴隷仲間たちは思い知った。この黒い肌をしたやつが、いかに誰よりも賢明な行動をしたかを。こうして旅をつづけて、交易商人はエペソスにつくと、奴隷たちをいい値で売り払った。だが、文法学者と竪琴弾き(歌手)とアイソポスの三人が売れ残った。すると交易商人の馴染みの一人が「この奴隷たちを売ってしまいたかったら、サモスに渡るといい。そこには哲学者クサントスが住んでおり、アシア(フリギア)やヘッラス(ギリシャ)から集まった、多数の連中が彼のもとで学問している。だから、奴隷たちを大きな儲けで売り払えるだろう」。そこで交易商人はサモス島に上陸し、文法学者は竪琴弾きといっしょに新調した衣裳を着せ、二人とも陳列台の上に立たせた。アイソポスの方は、全体が出来そこないで、包み隠すところとか飾るところとかなかったので、山羊皮の粗服でくるみこんで、二人の真ん中に立たせた。だから見物人たちは、こう言ってお互いに言いあった「この胸くその悪いのがくっついているのか? こいつのおかげで他のものまでが台無しだっちゅのに」。しかしアイソポスは、多くの者たちに馬鹿にされようと、一向平気で、その連中を見つめて立っていた。
(参考)
@文法学者と竪琴弾き(歌手)とアイソポスの三人・・・アイソポスは同じ奴隷である文法学者と竪琴弾き(歌手)と一緒にサモスの市(いち)で売りに出された。文法学者や竪琴弾きがどうして奴隷なのか、といいうと、当時、都市国家の間で始終戦争が行われ、戦勝国は敗戦国の国民を奴隷として調達した。兵士や、兵士になり得る男性は危険だから、戦争のときにはたいてい殺されてしまい、主として女性が奴隷として連れられてきた。そこで人畜無害な文法学者や歌手などは、女性並みに扱われた。彼らが初代の奴隷である可能性もあるが、二代目、三代目の奴隷ということもあり得る。
「イソップ伝」の挿絵(パン類の籠を背負うアイソポス)はこちらへ
         (五)
サモス島には、クサントスという哲学者がいた。クサントスは、学生たちといっしょに市場にやってきた。そうして、二人の奴隷は器量よしなのに、真ん中のがむさいのを観て、交易商人の思いつきに驚嘆し、学生たちに向かって言った「あの交易商人が、美形の奴隷たちを外側に、真ん中にむさいのを立たせたのは、売らんがためではなく、美しさの点で醜いものを並置することで、あれらの徳を際(きわ)だたせて示さんがためだよ」。クサントスは、奴隷を買うつもりであたが、二人の奴隷(竪琴弾き1000デーナリオン。文法学者3000デーナリオン)は高くて手がでず、帰ろうとした。そこで学生たちが言った「お師匠、奴隷は先生の気に入ったのではありませぬか?」。「しかり」と彼は言った「しかし、高価な小僧っ子を買うべからず、廉価な奴隷に奴隷奉公さるべしという戒律がある」。すると学生の一人が言った「高価なものを買うべからずとのご高説ならば、この醜いのを購入なさいませ。やつなら、同じだけの奉公を提供するでしょうし、わたしたちも共同で値段を払いましょう」。「君たちが値段を払って、わしが奴僕を購入するというのは滑稽だよ、それに、女房はべっぴんだから、みっともない奴隷に奴隷奉公されるのは我慢なるまい」。すると学生たちが言った「お師匠、先生の主(おも)たる教えは、女のいいなりになるなということです」。クサントスは言った「では、その前に、あたら金を無駄にしないために、何を知っているか試してみなくちゃ」。クサントスはアイソポス言った「わしに買ってもらいたいか?」。するとアイソポスは答えた「そんなことをあっしに相談する必要があるんでがすかい? 買うも買わないも、旦那の善(い)いようにするがいい。誰も何も力ずくに訴えはしまへん。それは旦那の思いのまま。望むなら、財布の口を開けて銀子を払いなされ。さもなきゃ、馬鹿にするのはよしとくれ」。さらにクサントスが言った「おまえを買い取ったら、逃げだそうとするだろうな」。アイソポスが笑って答えた「そうしたいなら、旦那に相談なんかしないやい」。するとクサントスが言った「言うことは美しいが、おまえは醜男だ」。するとアイソポスがやり返した「酒屋に行って酒を買う者に、しばしば起こること。酒壺は見た目に不細工だが、しかし味はよい」。クサントスは、アイソポスの言葉の抜かりなさを称讃した。そこで奴隷商人に近づいて言った「いくらでこいつを売るのか?」。「あんさんにとって価値ある奴隷らをそっちのけにして、むさいのを選びなさったもんで。ほかのやつらを買うとくれ、こいつはおまけにしときまっせ」。するとクサントスは言った「いいや、ぜったいこいつだ」。「60デーナリオンでこいつを買い取っておくんなさい、けれど、15デーナリオンを消費しちまいやした、あっしのためにそれだけ色をつけておくんなさい」。そこでクサントスはアイソポスを買い取った。すると、収税吏たちが取引のあるのを知って、売り手が誰で買い手が誰か調べるため、傍(そば)に寄ってきた。しかし両人ともあまりにけちくさい値段だったので、名乗りをあげるのを恥ずかがっていると、アイソポスが真ん中に立って大声で言った「買われたるは、あっし。買ったるはこちらの方、売ったるはあちらの方。両人とも黙っていたら、むろんあっしは自由人」。そこでクサントスが「わしだ、75デーナリオンで奴隷を買い取ったのは」と言った。すると、収税吏たちは笑いだして、クサントスには税を免除して立ち去った。
(参考)
@サモス島・・・サモス島は、地中海のトルコ領よりの島で、ギリシャ文化圏の中で当時もっとも先進的な地域の一つだった。この島の対岸にミレトス、エペソスなど、この時代に大いに発展した都市(ポリス)があった。
       (六)
アイソポスはクサントスについていった。ところが太陽が中天にある炎熱の時、道は焼けついた中、クサントスは歩きながら、外衣をまくって、小便をした。これをアイソポスが見て、言った「おいらをすぐに売ってくれ、さもなきゃ、逃げ失せまっせ」。「どうしたんだ?」「こんな御仁に奴隷奉公することはできまへん。旦那は、主人だから、旦那が道草食っても、怖いものなしなのに、自然の欲求に休息を与えるどころか、歩きながら小便しなすった。この分では、おいらのような奴隷が急ぎの奉公に遣(つか)わされた日にゃ、走りながら排泄しなきゃなんねぇ」。クサントスが言った「そんなことでうろたえていたのか? 三つの悪を避けたいとおもって、歩きながら小便したのだ」。「それは何々で?」。「立ち止まったら、わしの頭を太陽が照らしつけるであろ。 また、小便している間、わしの両脚を地面が焼くであろ、さらに小便の刺激臭がわしの鼻をつくであろ。されば、これら三つの厄介事を避けようと、歩きながら小便したわけよ」。アイソポスが言った「歩いておくんなさい、旦那はおいらを説き伏せやした」。屋敷の近くに到着すると、クサントスが言った「アイソポス、わしの女房はべっぴんで、醜い奴隷に奴隷奉公されることを好まんから、門の前で待っておれ」。だが奥さんは、イソップの顔を見て「こんな怪物を自分のところに連れてきたのは、あたしを追い出すためにちがいない。主人はずっと前から私をいやになっているのだわ」と言った。彼女は我慢がならないので、離婚するなどといい出した。そこでアイソポスは足を中央に踏み出して、声を張りあげた「哲学者クサントスは恐妻家なり。奥方、そなたの夫がそなたのために買ってくることを望んだは、若く、おめめの美しい、巻き毛の、色白の奴隷――その勤(つと)めは、風呂の中まで仕え、裸のそなたを見つめ、寝室の中にまで味つけし、そなたの両の脚をこすり、そなたといちゃつき、この哲学者を辱(はずかし)めること。いやさ、おお、エウリピデースよ、汝の偽りなき口は黄金にあたいする、汝がこう言ったとき、――海原の浪(なみ)に数多(あまた)の怒りあり、恐ろしきは河と熱き火の息吹、恐ろしきは貧窮、恐ろしきは他に無量あれど、女ほど諸々の災悪を凌駕するものなし。――されば、そなたは、哲学者の妻だから、美しい若者たちに奉仕されることを拒み、あなたの夫に侮辱をなすりつける真似をけっしてしてはなりませぬ」。彼女はこれを聞くと、何も反論できなくて言った「こんな粗悪品をどこから買ってきましたの? けれども、このむさ苦しいのは口数が多いようにわたしには見えます。この者とは仲直りしましょう」。
(参考)
@エウリピデース・・・古代ギリシャの三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデース)の一人。神話・伝説の世界を現実の人間的レベルで描こうとした。「メデイア」「エレクトラ」「トロイアの女」「バッコスの信女」「ヒッポリュトス」など。
「イソップ伝」の挿絵(歩きながら小便をするクサントス)はこちらへ
       (七)
  クサントスが価値ある人材を買った、と気づくような出来事が起こった。次の日、クサントスはアイソポスについてくるように言いつけ、野菜を買うため、とある菜園家のところに出かけていった。野菜の束をもらって、クサントスが菜園家に小銭を支払おうとすると、菜園家が「まあまあ、旦那、問題をひとつあんたに解いてもらいたい」。「どんな?」。「一体全体どうしてなんでがすか、野に生えている野菜のほうが、栽培している野菜よりも生命力が旺盛なのはなぜでしょうか?」。ところがクサントスは答えに窮(きゅう)して「それは神の摂理(せつり)によるものだ」などと答えた。そこでアイソポスは主人の袖をひいて、こう言った「こんな問題は私が答えるまでもない、うちの奴隷を残しておくから、やつに聞いてくれ、といいなさい」。主人が立ち去るとアイソポスは野菜の栽培業者に、次のような説明をした「大地と植物の関係は母と子供のような関係にある。母は実の子を可愛がるが、継子(ままこ)には冷たい。栽培されている野菜は継子のようなもので、実母、実子の関係にはかなわないのだ」。栽培業者はこれを聞いておおいに感心し、納得した。そしてアイソポスに畠にあるもので、好きなものを何でも持ってゆくようにと言った。数後、クサントスは今度は風呂に行き、何人かの友だちと出会ったので、アイソポスに向かって、屋敷へ先に帰り、レンズ豆を鍋に入れて煮るよう言った。一行が連れ立って、屋敷に到着すると、クサントスは「わしらに湯上がりの飲み物をくれ、アイソポス」と言った。そこでアイソポスは、風呂の流しから汲んで手渡した。クサントスは悪臭にとりつかれて言った「ぺっぺっ、何だこれは」。するとアイソポスは「湯から上がったやつでさ、言いつけどおり」と答えた。クサントスは友だちがいる手前、怒りを抑えて「わしに盥(たらい)を持て」と言うと、アイソポスは空の盥を置いて突っ立っていた。そこでクサントスが「洗わんのか?」と言うとアイソポスは言った「あんたがおいらに命じたのを、おいらが聞いただけのこと。「盥に水を入れ、わしの脚を洗え、そうしてサンダルを置け」とか、それに付随することは言わなんだ」。そこでクサントスは友たちに言った「わしが買ったのは自分の奴僕ではなかったのか。いやむしろお師匠だったらしい」。次に友だちが寝椅子につくと、クサントスは言った「アイソポス、豆は煮えたか? くれ、食ってみよう」。そこでアイソポスは匙(さじ)で豆の粒をすくって、相手に差し出した。これをとってクサントスは、潰してみて言った「美しく煮えている、運んでこい、食べよう。豆はどこだ?」。「それはあんさんが取りなすった」と彼は答えた。クサントスが言った「おまえが煮たのは粒ひとつか?」。「へい、だって、豆をと言うただけで、豆、豆をとは言わなんだ。前者は単数だが、後者は複数だもんね」。クサントスは言った「知者の諸君、こやつはわしをすぐにも狂気におちいらせる気だ」。さらにクサントスは、友だちに無礼者と思われないように「若豚一頭の分の脚四本を買ってきて、茹(ゆ)でて給仕せい」と言った。そこでアイソポスはそれを手に入れて、煮だした。ところがクサントスは、アイソポスが何かの用で出ていった隙に、鍋の中から脚を一本取って隠した。やがてアイソポスが入ってきて、鍋を覗きこんで、脚が三本だったので、自分に罠が仕掛けられと気づき、家畜小屋に降りていった。そして、刃物(はもの)を執ると、食料用の若豚の脚をぶった切り、鍋の中に放りこんで、いっしょに煮た。他方、クサントスは、アイソポスが残りの脚をどうしても見つけられなくて逃亡するのではないかと心配になり、それを再び鍋の中に放りこんでおいた。こうして脚は五本になった。少したってクサントスは言った「アイソポス、若豚の脚を煮たら、くれ、食べよう」。そこでアイソポスが脚を皿に空(あ)けると、五本あった。そこでクサントスが「何だ、これは?」と問いただした。アイソポスは蒼白になって言った「二頭の若豚は、脚を何本持っておりやすので?」。クサントスが「八本」と答えた。そこでアイソポスは言った「ここに五本、そして下に三本脚の若豚が餌を食っている」。クサントスはひどく不機嫌になって、友だちに言った「ついさっき言ったように、じきにわしを気狂いにさせるのは、こいつだってことを」。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(野菜のクサントスとアイソポス)はこちらへ
「イソップ伝」の挿絵(五本の若豚の脚とアイソポス)はこちらへ
       (八)
  次の日、アイソポスはクサントスと一緒に講義に出席した。このとき学生の一人が、盛大な晩餐のこしらえをして、クサントスならびに残りの学生たちを招いた。このとき、クサントスは食事中に、たくさんの余(あま=残り)し物を取ってアイソポスに手渡して言った「帰って、好意を寄せてくれるものに渡してくれ」。アイソポスは自分に言った「今こそ、おいらがおいらの奥方に仕返しをする好機だ、おいらが買われてきたとき馬鹿にしおったことのお返しを」。家に着くと、手提げ籠を奥方の前に置いて、言った「これはみんなご主人が寄越されたもんでがすが、おなたにではなく、好意を寄せているものに」。そして雌犬を呼んで「おいで、リュカイナや、お食べ、これをおまえにやるようにとのご主人の指示なんやから」と言いつつ、雌犬にみんな投げ与えた。こうして雌犬が食べ終わると、アイソポスは再び主人のところに引き返した。クサントスの細君は、悲嘆にくれて言った「あたしよりも雌犬を立てた、あの人にどうして好意を寄せられるでしょう? あの人とは一緒にいられません」。そうして、寝室に入って、嘆き悲しんだ。その頃、酒宴は最高潮に達し、相互に問題が出し合われた。「人間界における大きな混乱はいかにして生起するか?」と一人が言うと、後ろに立っていたアイソポスが言った「屍体(したい)たちが生き返って自分のものを返せというとき」。すると学生たちが笑って「利口者だ。この新入り奴隷は不愉快でもない。もちろん万事クサントスが即興でやつに教えている、ただし、万事を美しく言うことはべつにしてだが」。他の一人が言った「羊は供犠(きょうぎ=犠牲を神に捧げること)に引っ張ってゆかれるとき鳴き声をあげないが、若豚が大声で泣きわめくのは何ゆえか?」。アイソポスが再び立ったまま言った「羊は乳を搾(しぼ)られたり毛を刈られたりするのに慣れているので、引っ張ってゆかれてもついてゆき、ひっくり返されたり刃物を見ても、何の疑うところがない。これに反し若豚の方は、有用な乳も持たず、毛も持たず、自分の血を空(から)にしようと人がするのは、肉に用があるからと知っているので、鳴き喚くのだ、ほかにどうしようもなくて」。学生たちは驚嘆し、彼を称讃した。そして、晩餐はお開きになった。クサントスは家に帰ると、寝室にいる自分の細君のところに入ってゆき、彼女に優しくした。ところが彼女は彼に背を向けて言った「あたしにさわらないで。あたしの持参金をあたしに返してちょうだい、もうあんたとはいっしょにいられません。出てゆきますから、雌犬に優しくすりゃいい、余し物を送り届けたでしょ」。クサントスは言った「誰かアイソポスを呼んでくれ」。そして彼がやってくると、クサントスは聞いた「誰に余し物をやったのか?」。するとアイソポスは言った「好意を寄せてくれるものに」。クサントスが「彼女は何も受け取っていないぞ」と言うと、アイソポスは言った「だからあんたは言うべきだったんでがす、「わしの細君にこれを送り届けてくれ」と、「好意を寄せてくれるものに」じゃなくてね」。クサントスは細君に言った「見たろ、奥や、責任はわしにあるのじゃなくて、運んだやつにあるってことを。とにかく我慢するんだ、そうしたら、口実を見つけて、やつを鞭打ってやるから」。しかし彼女は「今からはもうあんたといっしょに暮らせません」と、自分の両親のもとに身を寄せた。細君がいなくなってクサントスがすっかり意気消沈しているので、アイソポスは近づいて彼に言った「心痛しなさんな、おお、おいらのご主人さま。おいらが明日、彼女が自分ひとりであんたのもとに戻ってくるようにしますから」。翌日、アイソポスは市場に出かけて行き、鳥やガチョウや別の幾品(いくしな)かを買いこみ、これを運んで帰る途中、自分の女主人がいる場所に通りがかった。そして、彼女の両親の家僕たちのひとりを見つけると、これに言った「ほんに、兄弟、このお屋敷には、ガチョウとか他に何か婚礼用の品がおませんか?」。相手が「いったい何でそんなもんが要るんや?」と聞くと、すかさずアイソポスが「哲学者のクサントスが、明日、女と連れ合いになる予定でんねん」と言った。家僕は一目散に駆けあがり、このことをクサントスの細君に報告した。彼女は聞くやいなや、大急ぎでクサントスのもとに帰ってきて、彼を罵(ののし)って言った「おお、クサントス、あたしが生きているかぎり、他の女とくっつくことはできないわよ」。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(雌犬に余り物をやるアイソポス)はこちらへ
「イソップ伝」の挿絵(婚礼用の品を持ったアイソポス)はこちらへ
       (九)
  数日後、今度はクサントスが学生たちを食事に呼ぼうとして、アイソポスに、一番よいものを買ってこい、ほかのものはなにも買うな、と言いつけた。「ご主人さまに教えてやろう」とアイソポスは心中ひそかに考えた「自分のほしいものは、奴隷まかせにしないで、はっきり名指しで言いつけるものだということを」。そこで彼は豚の舌だけしか買わず、いろいろなソースでそれに味つけをした。皿には、どれもこれも豚の舌ばかり。客たちは、はじめは、けっこうなごちそうだとほめたが、しまいにはうんざりしてしまった。「ちゃんと言いつけたじゃあないか」とクサントスは言った「一番よいものを買ってこいと」「でも、舌よりよいものがあるでしょうか?」とアイソポスはやり返した「舌こそは市民生活のきずな、知識の鍵、真理と理性の道具です。舌の力で町も建設され、治められます。教育も、説得も、議会を支配するのも、また、神々をたたえるという、あらゆる義務のなかで第一の勤(つと)めをはたすことができるのも舌のおかげです」「よし、それなら」と、アイソポスにひと泡ふかせようとしたクサントスは言った「あしたはいちばん悪いものを買ってこい。このお客さまたちがあしたもおいでになるから、目先を変えたいのだ」。翌日もアイソポスはまったく同じものしか出さず、舌は世界じゅうでいちぱん悪いものです、と言うのだった「舌こそはあらゆるいさかいの産みの親、訴訟の育ての親、分裂と戦争のみなもとです。舌は真理の道具だとしても、同時にまちがいの道具にもなりますし、もっと悪いことに、他人をおとしめる道具にもなります。舌の力で町を破滅にみちびくこともあるし、悪いことを信じこませたりもします。舌は神々をたたえもするが、その反面、神々の力にたいしてののしりのことばも吐くのです」。これを聞いて学生の一人はクサントスに「お師匠、こんなやつに構っていたら、たちまちあなたを気狂いにするでしょう」と言った。
「イソップ伝」の挿絵(豚の舌ばかり出すアイソポス)はこちらへ
       (十)
ある日、又、酒宴がとりもたれた。クサントスは友人たちといっしょに寝椅子について、酒宴も最高潮に達したとき、いろいろな設問が出された。するとクサントスが興奮しだしたので、アイソポスは、喧嘩になると察して、言った「ご主人様、深酒には三つの段階があります。第1は陶然とした快楽の、第2は前後不覚の酩酊の、第3は気ちがい沙汰の酒乱の。ところで旦那がたも、すでに飲み過ごして愉しまれたのですから、続きは取りやめられませ」。するとクサントスは酩酊していたので言った「黙れ、忠告は冥府(めいふ)の館に住まいする連中にするがいい」。するとアイソポスが「むろん、旦那は冥府の館にでも引きずり降ろされなさるでしょうよ」。その時、学生の一人が、クサントスが酔っぱらって悪態ついているのを見て言った「お師匠、人間には何でも可能でしょうか?」。クサントスが言った「誰だ、人間の議論を始めたやつは?人間は何でもするし、どんなことでも可能だというのに」。そこで学生は言った「人間は海を飲み干すことの可能でしょうや?」。するとクサントスは「然り」と言った「わし自身も海を飲み干すことができるぞ」。さらに学生が「しかし、もし飲み干せなければ、何と?」と言うと、クサントスは、酒にすっかり参っていたので、言った「わしの全財産を賭けて約定を取り交わそう」。こうして、そういう条件で指輪を差し出して、約定を実効あるものとした。翌朝になって、クサントスは起床し、顔を洗おうとして、洗っているときに指輪が見あたらないので、それをアイソポスに聞いてみると、彼は言った「知りまへん、わかっていることは、あんたはあんたの財産とは無縁の者だってことだけ」。「何を言っているのか?」。アイソポスが言った「昨日の酒宴の際に、あんたの全財産を賭けて、海を飲み干すって約定を交わして、指輪を差し出しなすっただよ」。クサントスは言った「いったい、どうしてわしが海を飲み干すことができようか? どうかおまえにお願いだ、おまえがもっている何らかの才覚であれ経験であれ可能なら、わしを助けてくれ、何らかの口実をもうけて、わしが勝つなり、あるいは、約定を解消するなりできるように」。アイソポスは言った「勝つことはできませんが、解消することならやってみやしょう」。
       (十一)
  約束の日がくると、サモスの人々は哲学者が恥じ入って降参する様子を見に海岸に集まってきた。クサントスは勝ち誇っている相手と、集まっている人々に向かって、童僕から海水を満たした水呑(みずのみ)を手に取るとこう言った「サモスの諸君、いかほどの河川が海に流れこんでいるかは、あなたがたもよくよくご存じのとおりである。ところでわしが飲むと約束したのは、海だけであって、そこに流入する河川までは飲むと約束していない。されば、ここなる弟子をして、行って先に河川をみなとめさせていただきたい。しかるのちにすぐにわしが海だけ飲み干すとしよう」。サモス人たちは彼をほめたたえて驚嘆し、拍手喝采した。学生は、このときクサントスの足許に平伏し、相手の勝ちを認め、契約を解消するよう懇願した。民衆がせがむので、クサントスはそのとおりした。彼らが屋敷に帰り着くと、アイソポスがクサントスに近寄って言った「旦那の頼みで全財産を守ったんやから、おいらは自由を得てもええんとちゃいまっか?」。するとクサントスが彼を罵ってこう言って追い払った「まさか、わしがそんなことをする気になるとでも? とんでもない。あれしきのこと、わしでも考えつかないとでも?」。これにはアイソポスも悲しくなった、自由を得られなかったことにではなく、感謝されなかったことに。そして言った「おいらを引き留めとくがええだ。おいらがあんたに逆(さか)らってやる」。
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(海水を飲むクサントス)はこちらへ
       (十二)
  数日後、クサントスは、アイソポスを従えて、陵墓(りょうぼ=王の墓)のところへ行き、あちこちの棺に刻まれた碑銘(ひめい)を読みあげて、ひとり興(きょう)じていた。このときアイソポスが、とある棺に、ΑΒΔΟΕΘΧといった字母(じぼ )が刻みこまれていのを見て、クサントスに示してこれがわかるかと尋ねた、相手は千思万考したが、その説明を見いだせず、すっかり行き詰まっていることを認めた。するとアイソポスが「この碑文によって、おお、ご主人さま、財宝の在処(ありか)を旦那に示したら、おいらに何をくれまっか?」。そこで相手が「財宝を。おまえの自由と黄金の半分を取るがいい」。「もしおいらが、この文字を使って大金を発見させてあげたら」とアイソポスは言った「なにをご褒美にくれますか?」。クサントスは、自由と、その金の半分を与えると約束した。「ここには」とアイソポスは続けた「この柱から四歩離れたところに財宝がある、と書いてあります」そのとおり、地面を少し掘ると大金が見つかった。哲学者は約束の実行を迫られた。が、あいかわらず尻ごみをしていた「この文字の読み方をわたしに教えるまでは、神かけて、おまえを解放することなぞできない。それはわたしにとって、いま発見した宝よりも、もっと貴重な宝になるだろうから」「ここに彫ってあるのは」とアイソポスは続けた「Α離れて、Β歩、Δ四、Ο掘れ、Ε汝は見つけん、Θ財宝を、Χ黄金の、つまり、四歩うしろに下がって掘れば、宝が見つかるであろう、という言葉の頭文字なのです」「お前がこんな知恵者である以上」とクサントスはやりかえした「お前を手放すことは間違いだ。だから、わたしがお前を解放するなんて望みは捨てろ」「そんならおいらは」とアイソポスも言いかえした「ディオニュシオス王にあなたを訴えますよ。というのは、この金はディオニュシオス王のものだからです。この文字は、そういう意味をあらわす別の言葉の頭文字にもなっているのですから、つまり、Α返すべし、Β王に、Δディオニュシオスに、Ο(見つけた)ものを、Ε見つけた、Θ財宝を、Χ黄金の」。おじけづいた哲学者は、アイソポスに、金のわけまえをやるからいっさい口外するな、と言った。するとアイソポスは、わけまえをもらっても感謝する筋合いは全然ない、なぜならこの文字は三通りの意味をこめられるように選ばれていて「Α拾い上げ、Β歩み行き、Δ分かち合え、Ο(見つけた)ものを、Ε汝らの見つけた、Θ財宝を、Χ黄金の。つまり、帰るときには、見つけた金をお前たちのあいだでわけあえ」という意味にもなるからだ、と断言した。帰宅するやいなやクサントスは、今日のできごとを世間にふれ歩かないように、アイソポスを監禁して、足に鎖をつけろと命令した。「はてさて!」とアイソポスは叫んだ「哲学者ってものは、こんなふうに約束をはたすものなのですかね。まあ、好きなようになさい。いやおうなしにおいらを解放しなければならなくなりますよ」。アイソポスの予言は的中した。(つづく)
(参考)
「イソップ伝」の挿絵(謎解きをするアイソポス)はこちらへ


(小話917)「偉大な王ソロモンの美しい王女と貧しい若者」の話・・・
       (一)
民話より。偉大な王ソロモンに一人の娘があった、彼女は、イスラエルの国じゅう探しても、比類するものがいないほど美しかった。ソロモンは、娘にはどういう夫が定められているのか、知りたいと思って、星座を見た。そうすると、星の位置から、娘の夫は国じゅうで一番貧乏な男だということが分かった。さっそく王は、海の孤島に高い塔を建てて、その周囲を石垣で囲み、その中に食料と飲料水をたくさん用意させた。それから王女を塔の中に押しこめ、イスラエルの長老の中から七十人を選んで王女に付けた。塔には、外から誰も入りこめないように、扉は一つもなかった。こうしておいて、ソロモンは言った「さあ、神がどうなさるか、見てみよう」。ある夜、見すぼらしい身なりの若者が道に迷い、おなかを空かして、寝る場所を探していた。すると、野原に牛の死骸がころがっていた。若者は、少しでもからだを暖めようと、牛の肋骨(ろっこつ)の間に這いこんで、そこで眠った。そこに禿鷹(はげたか)が飛んできて、人間もろとも、牛の死骸をあの塔の屋根の上に運んだ、ちょうど王女の部屋の真上だった。禿鷹は屋根の上にとまって、肉をむしった。あくる朝、王女は、毎日そうしているように、屋根の上に出た。そして若者を見た。王女はたずねた「あなたは誰ですか。どうしてここに連れてこられたのですか」。若者は答えた「私はユダヤの国のアッコの者です。鳥にさらわれて、ここに来ました」。そこで、王女は彼を自分の部屋に連れていき、からだを洗い、香油を塗って、着物を着せた。すると、ユダヤの国に二人といないような美男子になった。王女はこの若者が好きになった、それは美男子だったばかりでなく、種々の才能に恵まれ、聖書にも通じていたからである。
(参考)
@王ソロモン・・・イスラエル王国三代目の王。ダビデの子。在位は紀元前10世紀頃。知恵にすぐれた王として知られ、王国の未曾有の繁栄を築き、エルサレム神殿の建設などを行なったが、他方国民の不満を招き、死後、南北に王国は分裂。(小話747)「イスラエルの偉大なる王ソロモン。その比類なき栄華と大いなる知恵」の話・・・を参照。
A王女を塔の中に押しこめ・・・類似の話である(小話457)「英雄・ペルセウスの冒険(メドゥーサ退治と美女アンドロメダとの結婚)」の話・・・を参照。
       (二)
ある日、王女は若者にたずねた「あなたは私を祝福する気持はありませんか」。若者は答えた「ああ、私がそんなことをしていいのでしょうか」そう言って、彼は立ちあがり、自分の肉を切って、その血で結婚の誓いの言葉を書いた。それから王女を祝福して、言った「主よ、いま私たちのために証人となってください。天使ミハエルとガブリエルよ、私たちの証人となってください」。それから若者は、世間の誰もがするように、乙女のからだに入った、そして彼女はその子を身ごもった。ソロモンに遣(つか)わされた護衛の者たちは、王女のからだの異常に気づくと、王女に言った。「おめでたのようにお見受けしますが。」「そのとおりです」と王女は答えた。「どなたのお子でしょうか」と重ねて聞くと、王女は「あなたたちの知ったことではありません」と答えた。侍臣(じしん)たちは顔を曇らせた。王の怒りが恐ろしかったからである。そこで王に使いを出して、お出でを乞うた。ソロモン王は船に乗って、島に来、侍臣たちから事情を聞いた。それから、王女を呼んで、どうしてこうなったのか、と聞いた。「一人の若者を神は私のところにお寄こしになりました。その人は美しくて、心はやさしく、教養があって、聖書にも通じています」。それから、王は若者を呼んだ。若者は王女のために書いた結婚の誓いを見せた。王は、父のこと、母のこと、一族のこと、生まれた町のことをたずねた。若者の話から、かつて星で占った若者に違いないことを知った。ソロモン王は大いに喜んで、神を称(たた)えた。
(参考)
@(小話58)「起こることは必ず起こる」の話・・・
昔、ある王様にたいへん賢い、美しい娘がいた。王様はある日夢をみて、娘の未来の夫が娘にふさわしくない悪い男だということを予感した。そこで王様は、なんとか娘をこの悪い男に出会わせないようにいろいろ考えた。そこで娘をある離れ島に連れて行き、そこにあるお城に監禁し、まわりには高いへいをめぐらして、番兵をたくさん配置した。そして王様はかぎを持ってそのまま帰った。王様が夢をみた相手の男は、そのころ、どこかの荒れ地を一人さまよっていた。彼は夜寒かったのでライオンの死体の毛皮をとって、その中にもぐり込んで寝ていた。すると大きた鳥がきて、ライオンの毛皮ごと男を持ち上げ、姫が閉じ込められているお城の庭にそれを落とした。彼はそこで姫に出会い、二人は恋に落ちた。恋はあらゆるものにうち勝つし、どんなに遠い離れ島に連れて行って堅固なお城に監禁してもむだであった。


(小話916)「水の精」の話・・・
       (一)
民話より。ある村にある男が住んでいた。妻は六人の男の子を生んだ。どの子どもも六日目に死んだ。妻は七人目の男の子を生んだが、男はその子の命が心配でしかたがなかった。そのとき友達が、遠い森の中に偉(えら)い隠者がいると話した。男はそこへ出かけた。森の奥深くで人の姿を見かけたので、探し求めている人に違いないと思い、急いで追いかけた。彼はその人の前にひれ伏して、泣いて、訴えた。不幸が自分について回り、今はいちばん下の子の命を心配している、と話した。それを聞いて隠者は「若いときに女と結婚の約束をしたことはないか」と聞いた。男は「絶対にそんなことはしなかった」と答えた。でも、と隠者は言った「記憶の中を探して、すぎさった日のことを思いだしてごらん」
       (ニ)
男は若い頃の記憶をたどっているうちに、夏のある日のことを思いだした。その日、彼は川で水浴びをしていた。岸辺には葦(あし)が茂っていた。彼は冗談に指輪をぬきとり、葦の茎にかけて、笑いながら言った「モーゼとイスラエルの律法に従って約束をするよ」。指輪はいつのまにか消えて、もう見つからなかった。そのうちに男はそのことを忘れてしまった。この出来事を男は隠者に話した。隠者は言った「葦の中に水の精が隠れていたのだ。お前はその水の精と結婚の約束をかわした。いまお前の子どもたちに復讐しているのは、そいつだ」。そう言って彼は、離縁状を書いて、その同じ場所に行き、水の中に投げて、大きな声で三度、ラビの命令だ、この手紙を受けとりなさい、と言うように命じた。男は隠者から言われたとおりにした。離縁状を水の中に投げて、その文句を唱えると、水の中から手が出て、それをつかむのが見えた。それから家に戻ると、母も子も元気にしていた。彼は息子に割礼(かつれい)の儀式をうけさせ、そのあとでたのしく祝宴を張った。
(参考)
@モーゼ・・・旧約聖書の「出エジプト記」などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者。エジプトでのイスラエル人の窮状を見て、彼らを率いてエジプトを脱出。40年の荒野放浪ののち、約束の地カナンへ導いた。この間、シナイ山で十戒を授かり、ヤハウェ(神)とイスラエル人との「契約」を仲介した。
Aラビ・・・ユダヤ教の聖職者。律法に精通した霊的指導者の称。
B割礼の儀式・・・陰茎包皮または小陰核を切開したり、その一部を除去したりする習俗。古代より多くの民族の間で行われてきた。ユダヤ教では、神との契約のしるしとして生後八日目の男児に対して行う。


(小話915)「世界で一番古いシンデレラ物語。砂漠の国のシンデレラといわれた、美女ロドピス」の話・・・
          (一)
伝説より。その昔、ギリシャ人の国、ヘラスの地にロドピス(「薔薇色の頬の乙女」の意味)という名の金色の髪の少女がいた。かがやく金色の髪と、健康そうに生き生きとした薔薇色の頬をした少女は、両親にとっても自慢の娘であった。しかし、ある時、家族で旅行に出た時、海賊の一味が一家を襲い、少女一人だけが、そのまま拉致(らち)されてしまった。海賊に捕われてからも、金髪の少女は家族や町の人たちが助けに来てくれることを一心に信じていた。だが、いくら待っても助けの手は来る気配がなく、ロドピスを連れた海賊たちはサモスの島に着いた。少女ロドピスを連れた海賊たちが、サモス島に留まっていたとき、ある富豪が少女を気に入り、彼女を奴隷として買って屋敷に連れて帰った。金色の髪のロドピスを、海賊たちの手から救ったのはイアドモンという人物であった。イアドモンの屋敷に連れて行かれたロドピスは、イアドモンからは大切に扱われ、使用人であったが、それなりに恵まれた生活をした。また、イアドモンの屋敷には、イソップ物語で有名な奴隷のアイソポス(イソップ)も仕えていた。アイソポスは、運命の悪戯でイアドモンに仕える身となった金髪の少女ロドピスに、いろいろな面白い話を聞かせた。
(参考)
@世界で一番古いシンデレラ物語・・・世界で一番古いシンデレラ物語は紀元前100年頃にあった、ギリシャ人奴隷の女性ロドピスとエジプトのファラオ(君主)、アーモス王との恋物語だとされているが、一方、古代ギリシャのストラボンが、「地理書」に世界最古のシンデレラを載せている。それは「ロドピスの靴」(メンカウラー王のピラミッドはBC6頃のファラオ・アマシスが作った妃の墓だと伝えられていて、ナイル河で水浴びしていた奴隷女ロドピスの靴を片方盗んだ鷹が王子の手に靴を落とし、王子は靴を頼りに少女を探し出して妃にしたという)。
Aアイソポス(イソップ)・・・アイソポスがイアドモンの奴隷であったことの証拠は、すなわちデルポイ人が神託に基づきアイソポス殺害の補償金の受取人を求めて、幾度も触れを廻した時、出頭したのはこのイアドモンの孫で同名のイアドモンただ一人で、他には誰も現われず、このイアドモンが補償金を受けとったというわけで、アイソポスは確かにイアドモンの奴隷であったのであったという。
          (二)
やがて金髪の少女ロドピスは、類稀(たぐいまれ)なる美女に成長した。そこで彼女は、クサンテスというサモス人の男性に伴われて、当時栄えていたエジプトのギリシャ人の町ナウクラティスに行き、女奴隷として高値で売りに出された。彼女を買ったのはカラクソスという富豪であった。ロドピスにとって新しい主人となったカラクソスは、レスボス島の有名な女流詩人として知られているサッフォーという名の妹がいた。イアドモン同様、カラクソスもまた、美しく、音楽と詩作の才に富み、そしてたくさんの楽しい物語を知るロドピスをいたく気に入るようになった。ロドピスはカラクソスに大切に扱われ、何不自由のない生活を手にすることになった。カラクソスはロドピスを自分の娘のように着飾らせ、庭園付きの別荘を買い与えて何人もの侍女をつけ、大切に扱った。
(参考)
@エジプトのナウクラティスという街・・・ロドピスはクサンテスというサモス人に伴われてエジプトへ来ると、遊女となり、媚(こ)びを売って生業を立てていたが、ミュティレネ人のカラクソスに大金をもって身請けされた。カラクソスは当時の有名な女流詩人サッフォーの兄でった。こうして自由の身となったロドピスは、カラクソスに従って、レスボス島には行こうとせずエジプトに留まった。高名な遊女の多いナウクラティスにおいてもロドピスの名は鳴り響き、エジプトはもとよりギリシャにおいてもトップクラスの遊女として知られ、莫大な富を築き上げたのであった。ロドピスはこの莫大な富を誇示しようと思い、ギリシャに自分を記念するものを何か残したいと思い、ロドピスは自分の財産の十分の一を費やして、牛の丸焼きを作るための大きな鉄串をたくさん作り、デルポイ神殿に奉納した。この鉄串は今でも、本殿正面のキオス人奉納の祭壇の背に積み重ねてあるといういう説もある。
A彼女を買ったのはカラクソス・・・別の説では、イアドモンからロドピスを譲りうけたカラクソスは彼女をただ可愛がっただけではなく、完全な自由の身としたという話も残されていて、その物語ではサンダルのことには触れられてはおらず、自由の身となったロドピスは、自身の美貌と教養、そして詩歌に秀でた才を使って最終的には王宮へとのぼり、アマシス王の愛を得たとされているという。
Bサッフォーという名の妹・・・抒情詩人サッフォーは、自分の兄カラクソスの身請けした遊女を、ドーリカと呼び、兄カラクソスが、交易で葡萄酒をレスボスのナウクラティスに陸揚げした際に馴染みとなった恋人だというが、他の人たちは、ドローピスという名で呼んだ。(小話477)「十番目のムーサ(詩神)と言われた美しき女流詩人・サッフォー」の話・・・を参照。
          (三)
美貌のロドピスは、ある暑い午後、水浴びをするために庭園に出た。そして、水に入ろうとして靴を脱いだ時、一羽の鷲が、岸に揃えて脱いであるロドピスの靴の片方を爪にはさんで飛び去った。突然、現われた鷲に驚いたロドピスや侍女たちが騒ぎ、女性たちの声に気づいた衛兵たちがロドピスのところに来た時には、すでに鷲の姿はどこにもなく、残っていたのはロドピスの片方だけの靴であった。乙女の靴を爪に持った鷲は、ナイル河にそってどんどんと北上し、とうとうメンフィスの地に着いた。この時代、エジプトの都はメンフィスであり、時のファラオ(古代エジプトの君主の称号)アマシス王はこの街で起居していた。ヘラス人の街から都までロドピスの靴を運んできた鷲も爪が疲れたのか、靴を離してしまった。その時、その真下には野外で家臣と話している王がいた。靴はそのまま落下し、王の膝の上に乗った。突然に空から降ってきた美しい靴に、アマシス王も家臣もただただびっくりしてしまった。数日後、この靴の件について神殿に相談すると、神官は王に「鷲がこの靴を運んだのならば、これはホルスの神の思し召しだから、直ちに靴の主を探しだし、正式な王妃として迎えなければならない」と告げた。神官の助言を容れたアマシス王は直ちに、鷲が運んできた不思議な靴の主を探す触れを国中に出した。このお触れはカラクソスとロドピスの住む屋敷にも届き、「鷲が運んだ靴」と聞いた瞬間に、ロドピスはそれが、いつかの水浴びの際になくした靴の片方のことを語っていることを直感した。ナウクラティスはヘラス人の街とはいえ、完全にエジプトの治外法権の地ではなかった。悩んだ挙句にカラクソスは、アマシス王の膝の上に落ちたサンダルの持ち主について王に告げることにした。
(参考)
@ホルスの神・・・古代エジプトの天空神・太陽神。鷹または鷹頭人身をもって表される。オシリスとイシスの子で、父の仇(かたき)セトを討ちエジプト王になったという。
Aファラオ(古代エジプトの君主の称号)アマシス王・・・エジプトの美貌の遊女ロドピスが入浴中、鷲が降りて来て、彼女の靴の片方をつかんで飛び去った。鷲はメンピスまで飛び、プサンメティコス王の懐に靴を落とした。王は、「靴の持ち主である女を求めてエジプト全土を捜索せよ」と命令し、見つけ出すと妃にした。エジプト第26王朝のアマシス王の次がプサメティコス王。
          (四)
やがて、ナウクラティスの街に、王宮の庭に突然は舞い込んできた美しい靴を持った使者が到着した。そして、使者が持ってきた靴と、ロドピスが保管していたもう一方の靴を合わせると、それがひと組のものであることが判明した。このことは、ロドピスがカラクソスのもとを離れて、アマシス王の妃となることを意味していた。カラクソスはロドピスをアマシス王に渡す気にはなれなかったが、結局は、王の使者や、アマシス王本人に説得されて、泣く泣くロドピスを手放すことになった。こうしてロドピスは、晴れてアマシス王の王妃として迎えられることとなった。王宮でも彼女は王や人々に愛されていたが、王妃となったロドピスが世を去ったのは、夫アマシス王よりも先であった。アマシス王は不思議な出来事が縁で迎えた王妃の死を心から悼み、彼女のために小さなピラミッドを作った。そのピラミッドは、ギザの三大ピラミッドのすぐ近くに存在しているという。一方、愛娘同様に可愛がっていたロドピスを失ったカラクソスは、失意のままにナウクラティスを離れて、故郷であるレスボス島第一のポリス(都市)、ミュティレネに帰った。妹サッフォーは兄からナウクラティスで起きたことを聞いて、この出来事を語る詩を残していると伝えられている。
(参考)
@ギザの三大ピラミッド・・・ギザの三大ピラミッド(クフ王のピラミッド=ギザの大ピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッド)が建造された時代は「エジプト古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2185年前後=第3-第6王朝)」であり、この時代のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示すことから、当時のことは、別名で「ピラミッド時代」ともいわれる。
「ロドピス」(ウォッツ)の絵はこちらへ


(小話914)「イソップ寓話集20/20(その38)」の話・・・
       (一)「ワシとネコとイノシシ」
そびえ立つ樫の木のてっぺんに、ワシが巣をつくった。ネコが、その木の中間に、ほどよい穴を見つけて引っ越して来た。そして、イノシシが木の根元の穴に、子供と共に住まわった。ネコは、このたまたま知り合った者たちを、出し抜いてやろうと悪賢いことを考えた。まず彼女は、ワシの巣へと登って行ってこんな風に言った。「大変です。あなたと私の身に危険が迫っているのです。あなたもご存じのように、あのイノシシは、毎日地面を掘り返していますが、あれは、この樫の木を根っこから倒してしまおうと目論んでいるのです。そして、我々の家族が落っこちたら、捕まえて子供の餌食にしようとしているのです」ネコは、このように、ワシに恐怖を吹き込んで、彼女を恐慌状態に陥れると、今度は、イノシシの許へそおっと下りて行き、そしてこんなことを言った。「お子さんたちに、大変な危機が迫っています。ワシの奴は、あなたが、子供たちと穴から出ようとするところを狙っているのです、あなたたちが餌を探しに穴から出たら、すぐさま一匹さらってしまおうと目論んでいるのです」ネコはこのように、イノシシにも恐怖を吹き込むと、自分の穴に籠もって身を隠すふりをした。夜になると彼女は、そおっと出掛けて行き、自分と子供たちのために餌を捕った。しかし、昼間は、一日中、外を見張り続けて、恐怖に駆られているふりをした。一方、ワシはイノシシが木を倒すのではないかと恐れ、尚も枝に止まり、……イノシシはワシに怯え、決して巣穴から出て行こうとはしなかった。こうして、ワシとイノシシの家族は、飢えて死に、ネコとその子供たちの、豊かな栄養となった。
       (二)「シカとブドウの木」
シカが、猟師に執拗に追い立てられ、大きなブドウの葉陰に隠れた。猟師たちは、シカに気付くことなく足早にそこを通り過ぎて行った。シカは、危険が去ってほっとすると、ブドウの蔓を食べ始めた。すると、一人の猟師が、ブドウの葉がカサカサいうのに振り返り、シカを見つけると、見事、弓で射抜いた。シカは、今際(いまわ)の際にこう呻いた。「こんな目に遭うのも当然だ。助けてくれたブドウの木に、ひどい仕打ちをしてしまったのだから・・・・・」
       (三)「ヘビとワシ」
ヘビとワシが壮絶な死闘を繰り広げていた。ヘビが優位に立ち、ワシを絞め殺そうとした時、それを見つけた農夫が、走って来て、ワシに巻き付いているヘビを解いてやった。ヘビは、獲物をふいにされたことを根に持ち、農夫が愛用している角製の杯に、自分の毒を注ぎ込んだ。農夫は毒に気付かず、その杯から飲もうとした。と、その時、ワシの翼が農夫の手を打ちすえた。と、見る間にワシは、鈎爪で角杯をひっ掴むと空高く持ち去っていった。


(小話913)「終日、白いドレスを着て孤独な生活をし、無名のまま生涯を閉じた、アメリカの女性詩人エミリー・ディキンソン(エミリ・ディキンスン)」の話・・・
         (一)
19世紀アメリカに生き、生涯、ワシントンやボストンを数度、訪れた以外は故郷のアムハースト(ボストンから120キロほど西)を離れることなく、隠遁に等しい生活を送ったエミリー・ディキンソンはアメリカの詩人で、生前に発表した詩はわずか10篇(7篇とも)で、それも匿名で雑誌に発表された。無名のまま生涯を閉じたエミリー・エリザベス・ディキンソンは、1830年12月10日、マサチューセッツ州のアムハーストで、政治や教育の世界で勢力のあった有名な家庭に生まれた。祖父は、私財をなげうってアムハースト大学を創設した一人で、同大学はディキンソンの家の近くにあった。また、父、エドワード・ディキンソンは、祖父の意志を引き継いでアムハースト大学の理事長に就任した弁護士で、後(にち)には政治家を志(こころざ)し、1852年にはアメリカ合衆国下院議員に選出された。母エミリー・ノルクロス・ディキンソンは、物静かな人物で慢性病を患っていた。エミリーには兄と妹がいて、エミリーの1歳半上の兄はウィリアム・オースティン・ディキンソンで、2歳半下の妹は、ラヴィニア・ノルクロス・ディキンソンであった。
(参考)
@無名のまま・・・生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けて、いまやエミリー・ディキンソン(エミリ・ディキンスン)は、「アメリカを代表する詩人の一人」に数えられている。又は、「古今を通じて英語で詩を書いた最大の女流詩人」とも言われている。
「エミリー・ディキンソン」の写真はこちらへエミリ(左端 当時10才)と兄と妹
         (二)
エミリーは、人生の大半を、アムハーストの生家(現在は、エミリー・ディキンソン・ミュージアムとして保存)で過ごした。1840年(10歳)に、アムハースト中等学校の近くにあった、女子にも門戸の開かれた旧男子学校で教育を受けた。そこでは英語学と西洋古典学を専攻し、ラテン語を学び、アエネアスを数年掛けて読んだ。また、宗教、歴史、数学、地理、生物学も同時に学んだ。1847年(17歳)、エミリーは、サウスハドレーにあるマウントホリヨク女学校(現マウントホリヨク大学)に入学したが、この女学校は厳しい校風で、生徒たちに信仰告白(イエス=キリストに対する自己の信仰を明白に表現すること)をせまった。しかしエミリーには、どうしてもそれができなかった。エミリーが、春に二度目のホームシックに罹(かか)ったとき、兄のオースティンは彼女を実家に連れて帰った。エミリーは結局、女学校に在籍したのは1年に満たなかった。以後、彼女は自宅で病弱な母親の代わりに父親の世話をした。その後、エミリーが外出したのは、ボストン、ケンブリッジ、コネチカット州に住む親戚の元を訪れる旅ぐらいであった。このため長い間、通俗的には、エミリーは広場恐怖症(人に対して、他人には不可解な理由から、極度の不安を抱くという障害で、精神疾患の一種)的な隠遁者として描かれて来たが、最近では、もっと広い交際があったという学説が示されている。
(参考)
@アエネアス・・・ギリシャ・ローマの伝説でトロイ戦争時のトロイア方の英雄。ローマ建国の祖。アンキセスと女神アフロディーテ(ウェヌス)の子。トロイア陥落後、七年の放浪の後イタリアへ上陸しローマの祖市ラウィニウムを建設したという。アイネイアス。(小話810〜811)「トロイア陥落後のトロイア軍の英雄アイネイアス(アエネアス)とカルタゴの女王ディドとの恋。そして、その波乱に富んだ運命と新トロイア(ローマ)の建国」の話・・・
         (三)
1840年から50年の10年間に、マサチューセッツ西部を席巻(せっけん)した信仰復興のただ中に、エミリーは詩人という天職を見出した。彼女の詩の多くが、日常の小さな出来事の反映であったり、社会の大きい事件であったりした。その大半は、南北戦争中に作られた。南北戦争が、詩に緊張した感じを与えていると考えている人も多い。エミリーは、一時的にではあるが、自分の詩を出版しようと考えていていた。一方、当時繰り広げられた信仰復興運動の中、多くの人たちと共にエミリーの両親や兄妹は、次々に信仰告白を行ったが、エミリーは、家族でただ一人信仰告白を拒否して、世間から白眼視された。1855年(25歳)、エミリーは父、妹と共にフィラデルフィアを訪問し、滞在中、牧師チャールズ・ワズワースに出会って、恋心を抱いたという。この頃に、宛先不明の「貴方(マスター)」という、「マスター」宛の三通の手紙が書かれた。1856年(26歳)に、エミリーの親友スーザンは、エミリーの兄であるオースティン・ディキンソンと結婚した。この時、エミリーは、かつてないほど力を込めて作った自身の詩を批評するようスーザンに頼んだ。以後、オースティンは妻と共に、姉のエミリーが生涯の大半を過ごした家の隣で暮らした。
(参考)
@「マスター」宛の三通の手紙・・・「今夜私は歳を取りました。しかし満月や三日月と同様、愛は変わりません。もし私が貴方が呼吸しておられるのと同じ所で呼吸することが神のご意志であったなら、今夜、自分の居場所を見つけたら、もし私が貴方と一緒でないことや、悲しみと霜が私よりも近しいことを忘れなければ、もし私がどうしても押さえることができず、お妃の地位を望むなら.…」「貴方が、それについて何がおできになるか分かりませんが、ありがとう存じます。でも、私が貴方同様に頬(ほほ)に髭(ひげ)があり、そして貴方が雛菊の花びらを持って行かれてから、貴方は闘いの中でも、敗走の中でも、異国の地でも、私のことをお忘れにはなりますまい。カルロとあなたと私とで、牧場を一時間ほど歩き、そのときボポリンク鳥以外に、私たちのことを気に掛ける者とてありませんでしたが、そのボポリンク鳥の心遣いは銀の心遣いでしたね」「私は、死んだら貴方に会えるものとよく考えたものです。それで、私はいっそのことと早逝してみました。しかし、「団体様御一行」も天国に来ておりましたので、永遠の場所もそんなに閑雅なところでもないと分かりました。主なる貴方よ、私はこの世で望みうる限り、貴方をもっと見ていたいです。そして、少し形を変えたそのような私の願いは、天空に対する唯一の願いとなりましょう」。
         (四)
1860年(30歳)、この時期にエミリーの本格的な詩作が始まった。又、父の友人で、のちにマサチューセッツ最高裁判事となったオーティス・P・ロードを知り合い、後(のち)に彼もまた、エミリーの恋の相手とされた。1862年(32歳)、批評家トマス・ウェントワース・ヒギンソンに手紙を書き、自作の詩4篇を同封して、批評を依頼した。それ以来、ヒギンソンは彼女の唯一の「指導者」となった。しかし、文学批評家であるヒギンソンは、エミリーに詩人の才能を認めたが、彼がエミリーの詩を、当時人気のあったロマン主義的なスタイルに倣(なら)い、より華麗な文体に「改善」しようとすると、エミリーはすぐに出版計画への興味を失った(彼女の破格の詩風は、当時のロマン主義的なスタイルには合わず、また詩法や脚韻の規則も無視したところが多かったことなどから生前に彼女の詩が出版されることはなかった)。1863年(33歳)、この頃のエミリーは、終日、白いドレスを着て家にひきこもり、誰とも会わな隠遁(いんとん)の傾向が常習化して、家族が案じ始めた。 その上、この年より翌年にかけて彼女は眼を痛め、一時、失明をひどく恐れ、ボストンへ眼の治療に行った。1870年(40歳)、文学批評家ヒギンソンがアムハーストにエミリーを訪ねた時、すでに隠者のような暮らしを送っていた彼女との面会について、 ヒギンソンは「これほど神経がすりへる人と話したことはない」と数日後、手紙で妻に洩らした。1873年(43歳)、詩人・小説家で幼なじみでもあったヘレン・ハント・ジャクソンとの交友が始まった。そして、エミリーの詩に対するジャクスンの賞賛はエミリーの心を支えた。1874年(44歳)、愛する父、エドワード・ディキンソンが急死し、翌年には、母が脳卒中で全身麻痺となり、以後エミリーが母の世話をすることになった。1877年(47歳)12月、オーティス・P・ロードの妻が亡くなった。この後(のち)、19歳の年齢差(彼66歳、彼女47歳)にも関わらず、エミリーの晩年の恋人となったロードとエミリーは結婚について話し合った。しかし、エミリーは、詩人としての一意専心と孤立の生活が大切であると考えていて、結局、二人は結婚をしなかった。だが、エミリーは人生の最後まで彼から贈られた指輪をずっと嵌(は)めていた。1882年(52歳)、エミリーの母が死去した。1885年(54歳)11月、エミリーの腎臓炎の病状が悪化し、翌年の1886年5月15日に死去した。享年55才。死因はブライト病(腎臓疾患の一種)だという。 死後、家族は800以上の詩が記された手とじの本40冊を発見した。妹のラヴィニアはエミリーの言葉どおり、手紙類の大半を焼いたが、詩稿だけは焼却を思いとどまった。そして、1890年、ラヴィニアの知人メイベル・ルーミス・トッド夫人と文学批評家ヒギンソンの編集で最初の詩集「第一詩集」が出版され、非常に好評を得た。こうして現在、アメリカ文学の巨人の一人としての、また、もっとも愛される英語で書く女性詩人としての、エミリー・ディキンソンの地位が確立された。
(参考)
@恋心を抱いた・・・エミリーの恋愛は、いくつかの詩や手紙によって明らかにはされているものの、愛情が向けられている対象についての結論を導き出す証拠がほとんどない。それに関しては、「マスターレター」と呼ばれる宛先が「貴方(Master)」という「マスター」宛の一連の手紙(後に出版された)が注目されているが、エミリーがある恋人にその手紙を書いていることは明らかなのだが、住所が書かれていない上に、それらが送られたこともなかった。
「エミリー・ディキンソン」の写真はこちらへ若かりし日のエミリー・ディキンソン。1846年か1847年。長い間、彼女の肖像として残る唯一の写真であった
         (五)
19世紀のアメリカの女流詩人エミリー・ディキンソンの幾つかの詩。エミリーの詩は、他の詩人の作品とは異なっていた。(1)テーマは自然・愛・詩・永遠・神などが多い。(2)讃美歌の形を多く用いた(ただし彼女はあちこちで破調をもたらし、正確な韻もふんでいない)。(3)ダッシュ(―)の使用が多い。(4)タイトルがない、など。
(1)
百年の後は
その場所を知る人もない
そこでなされた苦悩も
今は平和のように静か

雑草が誇らしげに肩を並べ
ときおり道に迷った旅人が
もう遠い死者の
寂しげな墓碑の綴り字を探った

夏の野を過ぎる風だけが
この道を思い出す
本能が
記憶の落していった鍵を拾う

(2) 
             傷を負った鹿は一番高く跳ぶと
狩人が言うのを聞いたことがある
でもそれは死の狂喜にしかすぎない
やがて茂みは静かになる

砕かれた岩は、ほとばしる
踏まれた鋼は 跳ね返す
頬は肺病が苦痛を与える時
よりいっそう紅くなる

快活さは苦悩の鎖かたびらである
中で苦悩は注意深く守っている
誰かが血を嗅ぎつけて
「あなたは傷ついている」と叫ばないように

(3)
        大声を出して戦うのはとても勇ましい
でももっと勇ましいのは
胸の中に苦痛を収めて
突撃する騎兵隊の人だと私にはわかっている

誰が勝とうが、国々は見ていない
誰が倒れようが、誰も気づかない
その死にゆく瞳を、どの国も
愛国の情で見守ってなどいない

羽毛飾りを付けた天使たちが
彼らのためには行進するだろうことを私は信じている
隊列を組み、足並みさえそろえて
雪の制服をまとって

(4)
私は誰でもない あなたは誰?
あなたも誰でもないの?
それじゃ私たちはペアね ー 言っちゃだめ!
私たちは追放されちゃうでしょう、きっと

誰かであるなんて退屈なこと
蛙のように、称賛してくれる沼に向かって
日がな一日、自分の名前を言うなんて
なんて秘密がないんでしょう

(5)
泣くなんて 小さなこと
嘆くなんて つまらぬこと
でも この些細なことができずに
男も 女も 死ぬ

(6)
私は思う この世は はかなく
苦悩は 絶対で
多くの人が傷つく
だが それが 何だろう

私は思う やがて私たちは死に
どんなに 元気な 生命も
衰退しないわけにはいかない
だが それが 何だろう

私は思う 天に昇れば
とにかく 公平になり
ある新しい平等がもたらされるだろうと
でも それが 何だろう

(7)
水は のどの渇きが教えてくれる。
陸は 越えてきた海が
恍惚は 苦痛が
平和は 戦いの物語が
愛は 記念の肖像が
鳥は 雪が――
(8)
人並みの才能で口べたな人は
自分の気持ちを
語れない――
でも“無言”は力
天地を刷新する――

(9)
ひとつの心が砕けるのを止めることができたら、
私の人生は無駄ではないだろう。
ひとつの命の苦痛を和らげ、
ひとつの痛みを冷やすことができるなら、

あるいは、気を失いそうな一羽の駒鳥を
巣に戻してあげられるなら、
私の人生は無駄ではないだろう。

(10)
優しいものがなんと無情なことか
親切なものがなんと残忍なことか
神は風を手加減なさるという
仔羊との契約を破られたのだ

(11)
私の友は鳥のよう――
なぜってそれは飛ぶのだから
生きている、私の友
なぜっていつかは死んでしまう
針を持ってる、蜂のように
ああ、不思議な友達
あなたは私を困惑させる

(12)
私は神と話したことは一度もなく、
天国を訪ねたこともない。
けれども天国があるのを確信しています
まるでその地図をもらったかのように。

(13)
希望は、羽をもって魂に舞い降り、
ことばなき調べを歌うもの、
終わりなく、果てしなく。

(14)
これは便りをくれたことのない
世の人たちへの手紙です――
自然が語ったつまらない報せです――
優しく厳かでした

自然のことづては
見えない手にゆだねます――
自然を愛するのなら――大好きな――同郷のみなさん――
わたしを――優しく裁いてください

(15)
名声は蜂である
歌がある
針がある
あぁ、それに羽もある
(参考)
歌=人を酔いに導く。針=刺されると痛い。羽=飛んで消えてゆく。一度名声をもらって陶酔した人が、その酔いから覚めると中毒になってしまい、名声はどこかへ行ってしまう。

(16)
私が死ぬとき1匹のハエがうなるのを聞いた
部屋の中の静けさは
嵐が吹き荒れる間の
空の静けさに似ていた

周りの目は乾ききってしまい
息はつまっていった
王が部屋の中で目撃される時の
あの最後の襲撃を求めて

私は形見を遺言した
割り当てられるものはすべて
署名した その時
1匹のハエが飛び込んできて

憂鬱であいまいな どもったうなり声とともに
光と私との間に
そのとき窓がぼやけていき
そして見ようとしても見えなくなった
(参考)
ピューリタン(清教徒)の間では、臨終の際に神があらわれて救ってくれるというが、それを見に集まっている家族をエミリーが皮肉っているという。
エミリー・ディキンソンの詩はこちらに有ります。http://urawa.cool.ne.jp/dickinson/poems.html

(小話912)「張三と閻魔大王(えんまだいおう)」の話・・・
        (一)
民話より。昔、張三という役者がはやり病でポックリ死んだ。するとすぐ鬼が来て張三を閻魔殿へ連れて行った。前に座っているのは閻魔(えんま)大王である、張三は丁寧にお辞儀をしてから「閻魔大王さま、張三と申す役者でございます」と挨拶した。「おお、役者か。ちょうど退屈していたところだ、歌を二曲ほど聴かせろ、うまく歌えば悪いようにはせぬぞ」と閻魔大王は言った。張三はこれを聞いて地獄に落とされまいと、力一杯に歌った。張三が歌い終わると機嫌のよくなった閻魔大王は「見事、見事、よし、歌いぷりがいいからお前を生き返らせてやろう、どんな所に生まれ変わりたいか?」と聞いた。
        (二)
張三は歌で閻魔大王を喜ばせ、それで好きな所に生まれ変われるのかと大喜び、慌ててまたお辞儀をして「有り難うございます、私が生まれ変わりたい所と申しますと、まず屋敷は広々と山や川に囲まれ、父は政府の高官、私は生まれた時から神童と呼ばれ、若くして官吏の上級試験に合格し、西施(せいし)とどちらかというような美人の妻を娶(めと)り、仙人のように長生きできる所でございます」。広い土地もなければ、父が誰であるかも知らず、ましてや美人妻など考えたこともない閻魔大王は、これを聞いて羨(うらや)ましくなり「うーん、お前の言うことは本当にうまい話だ、そんないい所があるなら、わしが行きたい」
(参考)
@西施(せいし)・・・中国、春秋時代の越の美女。越王、勾践(こうせん)は呉王、夫差ふさ)の色好みを知って西施を献上した。呉王はその色香に迷って政治を怠り、越に滅ぼされた。(小話545)「絶世の美女、西施(せいし)と「佳人薄命」、「顰(ひそみ)に倣(なら)う」、「会稽(かいけい)の恥を雪(そそ)ぐ」」の話・・・を参照。
   

(小話911)「(ジャータカ物語)樵(きこり)を助けた熊」の話・・・
       (一)
ある時、世尊(せそん=釈迦(しゃか)の敬称)は修行僧たちに告げた「今は昔のこと、ペナレス(初説法の地)に一人の貧乏な人があった。常に柴(しば)をとって薪(まき)とし、これを売って生活していた。この人がある時、斧と縄とを持って、森に入って行った。一本の樹から薪(たきぎ)を取ろうとした。ところがそこで虎に逢ったので、驚いて逃げ走り、一本の大樹に登ろうとした。しかし樹上には、熊(釈迦の前生)がいたので、怖ろしくなり、登ることができなかった。熊は人間が驚き怖れているのを見て、ゆっくりと下りてきて言った「汝は怖れる必要はない。ただ私の所へ来なさい」。樵(きこり)はこの言葉を聞いても、恐ろしくて近づくことができなかった。熊はこれを見て、あわれに思って、自ら近づいて、抱きかかえると樹の上の安全な所を選んで、坐(すわ)らせた。この時、樹下の虎は熊に言った「この樵は無恩の衆生(しゅじょう=生命のあるものすべて。特に、人間)である。後にきっと汝に仇(あだ)をなし、害するであろう。樹下に投げすてなさい。私が彼を喰(く)うであろう。私は喰わない間は、ここを去らない」と。
       (ニ)
世尊は修行僧たちに言った「世間の定法(じょうほう=公に決まっている規則)として、助けを求めて投降した者には、何人でも、救い守護するであろう。いわんや菩薩(ぼさつ=悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者)においてはなおさらである。投降した者があれば、これを守護しないはずはない。その時、熊は虎に答えて言った「この人は、私に助けを求めたのです。私はどこまでもその信頼に違(たが)うことはできません」。虎はこの言葉を聞いても、飢えていたために、去ることができなかった。熊は樵(きこり)に言った「私は汝を抱えて疲れたから、しばらく眠るであろう。少しの間、汝は自ら気をつけ、また私を護(まも)って下さい」。そして熊は、頭を樵(きこり)の膝の上にのせて考えた「私はしばらく眠ったら、樵のために十頌(じゅうじゆ=仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえる詩句)の法を説くであろう」このように考えて、熊は眠ってしまった。熊の眠ったのを見て、虎は樵に言った「汝はいつまで、樹上にとどまっていることができょう。熊を樹の下に投げよ。私は食べたら去るであろう。そうすれば汝は害されることをまぬかれて、家に帰ることができるであろう」。樵(きこり)はこの言葉を聞いて、悪念をおこした「この虎はよいことを言った。私はここに、いつまでいることができようか?」。このように考えて、ついに態を樹下に投げ落した。熊はそこで目をさまし、まだ地につかない前に、十頌(じゅうじゆ)の法を説いた。十頌(じゅうじゆ)を説き終った時、熊は地に着いた。虎は熊を得て、これを食べてしまった。そして食べると、立ち去った。樵(きこり)は、熊が十頌(じゅうじゆ)の法を説いたのを聞いて考えた「熊は立派な法を持っている。きっと私に説いてきかせようとしたのに、私が貪(むさぼ)りをおこして、迷いを生じてしまったのは、何としたことであろうか?」
       (三)
樵(きこり)は法を失ってしまったので、心に迷いを生じ、狂人になり、走りながら十頌(じゅうじゆ)を説いた。樵の親族たちは、彼が狂人にたってしまったのを見て、家につれて帰った。しかし彼は他のことは何も言わず、ただ十頌(じゆ)のみを言った。親族たちは、彼が狂ったのを見て、医者に見せたり呪術をよくする人を求め、種々の治療によって治そうとしたが、治すことができなかった。ペナレスから遠くない所に林があり、林の中に一人の仙人が住んでいた。彼は六神通(菩薩に備わる六種の超人的な能力)を得ていた。狂人の親族は、彼をひきいて仙人の所へ来た。そしてひざまずき、礼拝して言った「私の眷属は発狂し、心乱して、別のことを言わず、ただ十頌(じゅうじゆ)だけを説きます。しかし私たちには、その意味が分りません。どうしたら治るでしょうか?」。仙人は答えて言った「この人は、悪を作って全く恩を知らない。大菩薩(菩薩の尊称)を殺そうとして、樹の下に投げたのです。しかるに菩薩(ぼさつ)はまだ地におちない前に、十頌(じゅうじゆ)を説きおわって、ついに地に落ちて死んだのです。そして虎のために食われてしまった。その時、この樵(きこり)は発狂したのです」。これを聞いて、狂人の眷属および仙人の門人たちは、仙人に言った「十頌というのは何でありますか。どんな意味ですか?」。仙人は十頌(じゅうじゆ)の意味を順序を追って説明した。 (参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話910)「盲愛(もうあい)」の話・・・
         (一)
民話より。昔、ある家に一人っ子がいた。母親はこの息子に間違いも、悪い事も教えず甘やかして育てた。ある日、息子が市場から魚を一匹、盗んで来ると、母親は「息子や、誰も見ていなかったかい?」と聞き、息子が「いなかったよ!」と答えると、母親は「まぁ、お前はいい子だね、明日、魚屋が見ていない時にまた持って来ておくれ、お金を払わないで済むからね」と息子をおだてた。すると息子はそれから、今日は塩、明日は針と、いろいろな物を盗んで来た。人がそれを言って来ても、母親は取り合わなかった。
         (二)
こうしてこの息子は成長して、一人前の泥棒になった。ある時、人の金を盗もうとして見つかり、その人を殺し、たちまち捕えられて死刑を宣告された。その処刑の日、息子は母親に会うことを求め、許されると、母親の乳が吸いたいと言った。母親が襟を開くと、息子は母の乳首をくわえて噛(か)み切ってしまった。息子は母親から、甘やかせれて育ったことを恨んだのである。
   

(小話909)「戦国時代に「東国一の美女」と称された、駒姫。そのあまりにも哀(かな)しい僅か15歳の短い生涯」の話・・・
         (一)
その類(たぐ)いまれな美しさから、父母に溺愛されて育った駒姫は、山形城主・最上義光(もがみ・よしあき)の三女で、「東国一の美女」といわれた。父親の最上義光は1546年(天文15年)、山形城主、最上義守の長男として生まれた。二年後に妹、義姫が生まれ、義姫は16歳で、最上氏と対立していた米沢城主、伊達輝宗(だて・てるむね)に嫁いだ。そして、19歳で伊達政宗(だて・まさむね)を生んだ。最上氏は、足利一門の斯波兼頼(しば・かねより。奥州探題=軍事・民政を総管する長官。斯波家兼の子)を始祖とする、羽州探題の家柄であった。1581年(天正9年)の秋、最上家に三人目の女の子が生まれた。たまたまその日、14歳の伊達政宗と伯父の義光が千歳山(ちとせやま)阿古屋の松を題材に和歌の贈答をした。「恋しさは、秋ぞまされる、千とせ山、あこやの松に、木隠(こがく)れの月---政宗」「恋しくば、尋ね来よかし、千年山(ちとせやま)、あこやの松に、木隠るる月---義光」。義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任(あべの・さだとう)は、平安時代中期の武将)の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこれを採らず、出羽の名山「御駒山(おこまやま)」にちなんで「お駒」と名づけた(「奥羽永慶軍記」より)。駒姫が生まれる3年前、最上義光は伊達氏とは対立した。1578年(天正6年)、上山城主・上山満兼が伊達輝宗と連合して、最上義光を攻めた。義光は圧倒的不利な状況に陥った。兄の危険を察した「奥羽の鬼姫」と言われた義姫は、駕籠で陣中を突っ切り夫、輝宗のもとへ馳せ参じ「何故このように情けない兄弟喧嘩をなさるのか」と輝宗に訴えて撤兵させた(輝宗は妻の説得を受け撤退した)。兄・義光にとって、義姫は実に頼りになる妹であった。又、1588年(天正16年)夏、急速に勢力を伸ばす29歳となった米沢藩主、伊達政宗は、国境に近い中山で最上軍と相対した。この大崎合戦では、政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った。このときも、義光の妹であり、政宗の母である義姫が、輿(こし)に乗って両軍の間に入った。義姫は80日間もの間、そこに居座り、両家の和睦のため心血を注いだ。義姫の粘り強さに負けた義光・政宗は戦端を開くことなく、軍を引いた。
(参考)
@義光・政宗は戦端を開くことなく・・・最上義光は、諸大名の手前、和睦は屈辱であることこの上ないと感じたが、妹、義姫の頼みを断ることができなかったという。
         (二)
1590年(天正18年=10歳)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣した最上義光は、翌年、秀吉の奥州仕置き(領土支配)により、従四位下侍従、出羽守に叙され、大名として認められた。この頃の石高は約20万石。一方、1591年(天正19年=11歳)豊臣秀吉の奥羽仕置き(領土支配)によって伊達政宗が、米沢(山形県)から奥州岩出山(宮城県)に移された。このころ最上義光は徳川家康との接近を強めており、家康が奥州(岩手県)九戸政実(くのへ・まさざね)討伐に来た際には次男・家親を、諸大名にさきがけて徳川家の小姓として差し出していた。この討伐の総大将であった関白、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が山形城に立ち寄った。今を時めく権力者の訪問に、山形城では大いに歓待したが、その席上、秀次は「東国一の美女」と称される義光の三女・駒姫の美貌に目をつけた。そして、義光に「うわさどおりの美しさ、ぜひ余の側室に」差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。最上義光は当初、断ったが、秀次の度重なる所望とあっては断る事もできず、「まだ11歳の童女ゆえ、成人のあかつきには」と、その場をきりぬけた。4年の歳月はまたたく間に流れ、1595年(文禄4年)、15歳になると、駒姫は関白秀次の所望によって、山形を発って上洛(じょうらく=都へ上ること)の途についた。京都についた駒姫は、聚楽第(じゅらくだい)に入り「お伊万(いま)の前」という名を貰った。だが駒姫が京に着いたのは、既に太閤秀吉(豊臣秀吉)から関白秀次(豊臣秀次)へ謀反の詰問がなされたあとのことであり、秀次は関白を剥奪され、高野山に追放されていた。駒姫は嫁いで来たものの、秀次と顔を合わす間も無かった。形の上では側室であったが実質、側室としての立場も、その日々なかった。
(参考)
@小田原攻め・・・1590年(天正18年)、豊臣秀吉は「天下統一」の最終仕上げに当たる小田原(神奈川県)攻めを発し、大軍勢で小田原を封鎖し。こうして天下の堅城、小田原は落ち、後、北条氏も滅亡した。この時、奥羽の諸大名が小田原に参陣した。参陣とはいえ兵力を率いて攻撃に参加したわけではなく、大名自身が秀吉に謁見を請いに来たのだ。これは秀吉に臣従することになる。そのころの奥羽の半分を占めていた伊達政宗は悩んだ末に小田原に参陣し、出羽の名門、最上氏もほぼ同時期に秀吉のもとに参じた。これが奥羽仕置き(領土支配)の基準となった。小田原参陣をせず秀吉を無視した大名は、ことごとく領地を没収された。
A次男・家親・・・この時、家康は大名家の子息を家来にするのは初めてと喜び、義光の次男、太郎四郎が元服したときに自身の「家」の字を与え、家親と名乗らせた。血縁以外で家の字をもらったのは、家親以外には島津家久だけであった。
B関白、豊臣秀次・・・天下人の豊臣秀吉には、長らく子供に恵まれなかった。側室、淀殿(織田信長の妹お市の方の娘)にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にして、自分の後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、1591年(天正19年)12月にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第(じゅらくだい)を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなった。
         (三)
駒姫が上洛する2年前、朝鮮出兵さなかの1593年(文禄2年)、淀殿(茶々)がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する太閤秀吉の態度は大きく変った。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃止しようとした。そんな頃、秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙(ひんしゅく)を買うことがしばしばであった。秀次はその非をとがめられ、その上、太閤秀吉に対する謀反の疑いまでかけられて、官職を剥奪、高野山へ追放された。そして、1595年(文祿4年)、7月15日、28歳の秀次は、切腹を命じられて自決した。側近家臣ら10人も追い腹を切った。秀次を切腹させて首を取っても、太閤秀吉の気持ちはおさまらなかった。「秀次の室、子含め、家族は皆殺しにしろ」と、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子供全員の殺害を命じた。その中には駒姫(聚楽第では「お伊万(いま)の方」と呼ばれた)も入っていた。秀次の5人の子供(4男1女)と34人の妻妾(さいしょう)たちは、聚楽第から徳永寿昌(とくなが・ながまさ)邸に移送され、次いで小早川秀秋の丹波亀山城で幽閉された。たがて7月30日になって再び、徳永寿昌邸に入れられた。
         (四)
妻妾(さいしょう)たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらも秀吉は許さなかった。8月2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。「車は7台。1台目には三人の女性とその子供三人。1歳から3歳の幼児であった。駒姫は2台目の車に乗せられた「最上殿御子、おいま様、十五」。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳の四人であった。以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみの合計34人(39名とも)。一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」(岡崎(愛知県)上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録より)。まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼(おさな)い子供の姿に、見る人はみな泣いたという。市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられた。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。殺戮は正午ごろから開始された。最初は子供たちだった。「五十ばかりの髭男(ひげおとこ)が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した。抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」(小瀬甫庵「太閤記」より)。
(参考)
@小瀬甫庵「太閤記」・・・太閤記(たいこうき、甫庵太閤記)とは安土桃山時代の豊臣秀吉に関する伝記である。1626年(寛永3年)、儒学者の小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が著す。全20巻
         (五)
幼(おさ)な子が終わると、処刑は女性たちへと移った。「最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、32歳、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性であった。第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だった。「第十一番に、お伊万(いま)の前、出羽最上家の息女、十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸(ようや)く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、「鎌倉で尼にせよ」と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」(豊臣秀次と一族・家臣の菩提寺、京都三条「瑞泉寺縁起」より)。「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」(「出羽太平記」より)。駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、うしろに斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸(くび)を前にさし延べた。享年15歳。
  「罪なき身も世の曇りにさへられて、友(とも)に冥土(めいど)に赴 (おもむ)かば、五常の罪も滅びなんと思ひて」(伊満(いま)十五歳)=罪のない身でありながら、世間から疑いをかけられて、みんなとともに冥土に行きます。そのことによって、人が行うべき五つの道(仁・義・礼・智・信=思いやり・正しき道・礼儀・知識・信用)に背いた罪も、消えるだろうと思って歌を詠みます。
「罪を切る、弥陀(みだ=弥陀如来)の剣(つるぎ)に、かかる身の、なにか五つの、障(さわ)りあるべき」=罪を切り払って下さる慈悲深い阿弥陀様のおぼしめしによって、刃にかかる私ですから、極楽に行くのに妨げになるような罪などあるはずがありません。(京都三条瑞泉寺の駒姫辞世の和歌懐紙より)。
30余名の処刑は申の刻(午後4時ごろ)まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれ、築(きづ)かれた塚の上には「悪逆塚(又は畜生塚)」と彫りつけた石が載せられた。見物に来た人たちは、「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったという(小瀬甫庵「太閤記」より)。
(参考)
@30余名の処刑・・・秀次の多くの妻子が処刑されたが、中には助命された人がいた。「小督の局」と娘の「お菊(生後1ヶ月)」。「側室の2人」、秀次の正室・「若御前」(殺害された「一の台」は秀次の継室)。少なくても5人は助かっていた。駒姫も、多方面から助命の願いが出されたので「尼にするように」と助命されかけたが、間に合わず処刑されたという。
A太閤に助命を願い出た・・・父、義光は駒姫の助命嘆願の際に、八方手を尽くしたが、このとき手伝ってくれたのが徳川家康で、家康は、義光の訴えを聞き入れ、義光と共に秀吉に駒姫の助命嘆願をしたという。結局、駒姫は処刑されてしまったが、義光は家康に大いに恩義を感じ、後に関ヶ原の合戦の際に義光が家康軍についたことについて、駒姫事件のことが遠因になっているとさえ言われている。
「最上義光歴史館(山形県山形市)にある駒姫の人形」の絵はこちらへ
(後日談)
   駒姫の処刑の時、父親、最上義光は関白秀次の時代には、聚楽第(じゅらくだい)にしばしば出入りし、秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺したという理由でもって、閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向けた。義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(「奥羽永慶軍記」より)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのであった。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかった。その後、数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。不幸は、続けざまに義光を襲った。駒姫、死後の27日(ふたなのか)目にあたる8月16日、妻、大崎夫人が急死した。駒姫の母親で、独り黄泉路(よみじ)に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかという。最上義光の謹慎処分は間もなく解けたが、義光と最上家臣団は太閤秀吉への不信感と敵意を募らせた。1596年(文禄5年)に大地震が起きたとき、他の大名は、まず秀吉を見舞ったが、義光は先に家康の屋敷を見舞った。1600年(慶長5年)9月、関ヶ原合戦のとき、義光は家康方につき、上杉軍2万と対峙した。両軍は半月余り激突した。しかし「関ヶ原の戦い」がわずか一日で終わり、戦う必要がなくなった上杉軍は退却した。この功により、義光は念願の庄内地方を手に入れ、57万石の大大名となった。
(参考)
@57万石の大大名・・・最上義光は、奥州では伊達政宗と並ぶ英雄だが、政宗と較べてその名が低いのは、彼の死後に最上家が改易されたことが大きい。義光の死後、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の1622年(元和8年)に改易となった(最上騒動)。そして、新たに近江大森で1万石の所領を与えられて、最上家の存続だけは許された。


(小話908)「中世ヨーロッパの死に対する寓話と詩」の話・・・
       (一)「三人の生者と三人の死者」(「ポンヌ・ド・リュクサンブールの詩篇」等より)
ある日、三人の身なりの良い若者が馬に乗って狩りに向かった。一人は国の王子、一人は貴族の息子、一人は枢機卿の息子、それぞれが高い身分の家に生まれ、経済的にも恵まれた美貌の若者たちであった。そこへ突然、三人の死者があらわれ、若者たちの前に立ちふさがった。生きる骸骨の出現に恐れおののく若者たちに、死者は語った。「私は教皇だった」「私は枢機卿(すうききょう=教皇に次ぐ聖職位)だった」「私は枢機卿の秘書だった」。そして言った。「この世の喜びを楽しむお前たちも、いずれ私たちのようになるだろう。富も権力も名誉もなんの価値もない。死んだ時に大切なのは善行だけだ」と。
(参考)
@「三人の生者と三人の死者」・・・この物語は中世の頃にたいへん流行した説話で、生を謳歌する三人の若い生者は、狩りを楽しみに出かけるが、いつの間にか森は墓場となり、教皇、枢機卿、教会高位聖職者と名乗る三人の死者と出会った。「われらを憶(おぼ)えよ」「この世を謳歌するお前たちよ。いずれ我々のようになるだろう。富も権力も名誉に価値はない。死後に価値があるのは善行だけだ」。狩りから帰った若者達が、三つの棺の中を見せられた。悪臭を放つ腐った死体は、その三人の若者だった、という話もある。
「「三人の生者と三人の死者」の絵はこちらへ
       (二)「死の舞踏」(アンリ・カザリス著)
Zig(ジグ=三拍子の古典舞曲)、Zig(ジグ)、Zig(ジグ)、死の拍子、踵(かかと)で蹴って墓を打つ、暗闇のなかの死の舞踏。
どいつも、こいつも、あいつも、そいつも、ヴァイオリンの調べで、踊るのさ。
暗闇には冬の風、しなの木(菩提樹)からは呻き声、闇を横切る白骸(しろむくろ)、ガチ、ガチ、ギシ、ギシ、走り飛ぶ。
どいつも、こいつも、あいつも、そいつも、彷徨(さまよ)い、徘徊(うろつき)、走り飛ぶ、骨の割れる音が鳴り響く、苔(こけ)には、骸(むくろ)の恋人たち、甘い囁(ささや)きで、懐古する。
Zig(ジグ)、Zig(ジグ)、Zig(ジグ)、死の拍子、ヴァイオリンはギコ、ギコ、ギコ、暗闇の中の死の舞踏、死に装束がふっ飛べば、素っ裸の死の舞踏、骸(むくろ)の恋人、いっそう固く結びつく。
骸(むくろ)の女は、貴族の奥方、夫の胸に抱かれたつもりが、実はうだつの上がらぬ下品な大工、骸(むくろ)になれば、誰が誰やら、見分けがつかぬ。
どいつも、こいつも、あいつも、そいつも、サラバンド(ゆるやかな速度の三拍子の舞踊曲)にあわせ、死の舞踏、Zig(ジグ)、Zig(ジグ)、Zig(ジグ)、輪になり踊る、ほら、ご覧あれ、王も乞食も、手と手をとって、死の舞踏。
だが、闇もつかの間、ほら朝がきた。雄鶏の鳴き声とともに、押し合いへしあい、あっという間に、飛び消え去った。
美しき闇よ、悲哀多き、この世のため、 そして、死と平等へ、乾杯しよう。
(参考)
@「死の舞踏」・・・死の舞踏は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという14世紀のフランス詩が起源で、一連の絵画、壁画、版画などに描かれた。生前は王族、貴族、僧侶、農奴などの異なる身分に属し、それぞれの人生を生きていても、ある日訪れる死によって、身分や貧富の差なく、無に統合されてしまう、という死生観で、「死の舞踏」絵画などの背景には、1347年から1350年にかけてヨーロッパ全土を襲い、当時の三割の人口(地域によっては五割とも言われる)が命を落とした、ペスト(黒死病)の衝撃をあげる説が多い。
AZig(ジグ=三拍子の古典舞曲)、Zig(ジグ)、Zig(ジグ)・・・フランスの作曲家、サン=サーンスはアンリ・カザリス作「死の舞踏」の奇怪な詩により、墓場で踊る骸骨の不気味な光景を表現した作品、交響詩「死の舞踏」作品40を作曲した。
「「死の舞踏」の版画」(ハンス・ホルバイン)の絵はこちらへ
「女の三時代と死」(ハンス・バルドゥング)の絵はこちらへ
「女の人生の三段階と死」(ハンス・バルドゥング)の絵はこちらへ成年、老年が死に引かれていくところ
「女の人生の七段階」(ハンス・バルドゥング)の絵はこちらへ
「死の勝利」(ピーテル・ブリューゲル)の絵はこちらへ骸骨の姿で表現された死の象徴(運び手)たちは、画面内のあらゆる場面で身分を問わず全ての人々を蹂躙し、支配している。画面左下部では人間の王が骸骨によって生命と、その財産(金貨)が強奪され、画面下中央から右部分においては、集団化した骸骨が、人間の生と喜びを象徴する「晩餐」を破壊し強奪や姦淫を犯しながら進軍している。そこで剣を手にとり必死に抗う人間の姿が描かれるも、大軍の前には虚しい抵抗であることが窺い知れる。ここには、アンリ・カザリスの詩からも読みとれるように、死が平等であるということも描かれている。こうした、累々と続く死体の列の上を進む戦車上で死神が誇らしげに鎌を振りかざしている絵や、人々が集まる酒場に突然鎌を持った死神がやって来る絵などは「死の凱旋」、または「死の勝利」と呼ばれるが、広い意味では一連の「死の舞踏」に含まれるという。


(小話907)小説「フランケンシュタイン」(原題=「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース(プロメテウス)」の話・・・
           (一)
時は18世紀後半。探検家ロバート・ウォルトンが姉に宛てた手紙によれば、彼は幼い頃からの夢であった北極への航海を様々な苦難を経てついに実現させた。しかし、その途中で氷が八方から船にせまってきて、足止めを食らうという、非常に危険な災難に遭遇した。そのとき突然、途方に暮れていたウォルトンらは奇妙な光景を見た。それは、巨人のような背丈の者が、橇(そり)に乗って犬を操り、急速に進んでいくのであった。この出現は彼らになんともいえぬ驚異を呼び起こした。さらに、その翌朝、ウォルトンらの前に、不思議なヨーロッパ人が現われた。彼は夜のうちに大きな氷塊に乗って漂流して来たのだが、船の行く先が北極であることを確かめてようやく船に上がってきた。しかし、この男の手足はほとんど凍りついて、身体は疲労と苦しみのために憔悴しきっていた。乗組員達は彼に旅の目的について質問をしたのだが「私から逃げ去ったものを探しに」と答えるのみであった。だがやがて彼は、奇しくも痛ましい身の上話、宿命的なわざわいの記憶をウォルトンに語り始めるのであった。
(参考)
@フランケンシュタイン・・・イギリスの女性、メアリー・シェリーは19歳の時に、この奇怪な物語を執筆し、ゴシック(神秘的、幻想的)小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース」で後世に名を残した。「フランケンシュタイン」は人造人間の名前ではなく、それを作った科学者(ビクター・フランケンシュタイン)の姓である。映画や漫画に登場する人造人間が、フランケンシュタインと呼ばれることが多いが、正確には「フランケンシュタインの怪物」、あるいは「フランケンシュタインの創造物」である。
「メアリー・シェリー」(Richard Rothwell)の絵はこちらへ
Aプロメシュース(プロメテウス)・・・プロメテウスはギリシア神話に登場する神で、「先を見る男」(前もって知る者)の意味。粘土から人間を創ったとされ、又、天上の火を人間のために盗み与えたことで有名。
           (二)
彼の名はビクター・フランケンシュタインで、1770年にスイスのジュネーブに生れた。彼は両親の間にできた最初の子供だったので、両親はやさしさと愛情をもって育て、彼の幼年時代はとても幸福なものであった。ビクターが5歳のとき、休暇で両親と一緒にイタリアのミラノに行った。そしてある朝、母親が彼を呼んだ。「ビクター、あなたにすてきな方を紹介するわ」。母親といっしょに立っていたのは、彼と同じ年ころの美しい金髪の少女であった。「こちらはエリザベスよ」と母親は言った。彼女には身寄りがなかったので、一緒に暮すことになった。二人の子供は一緒に大きくなった。ビクターが7歳のとき、弟のアーネストが生れ、その後、少しして、一家はしばらくの間、ベルリーヴの別荘に住むことになった。エリザベス以外の、彼のただ一人の友人は、商人の息子のへンリー・チャーバルであった。ビクターには、少し変ったところがあり、彼は生と死の神秘や謎について深く考えていた。彼の心はそのことで一杯だったので、いかに生命を作るか、死んだ後の魂はどうなるのか、などといった本を読むことに、できるだけ時間を費やしていた。そしてやがて、幽霊や悪魔の研究について調べはじめた。1年ほどして、二番目の弟、ウィリアムが生れ、そのころにはビクターは、自分の研究にとりつかれていた。彼が15歳くらいのとき、ある晩、彼は強い衝撃を受けるものを見た。ジュラ山脈の上で雷雨が発生し、家や湖の上に激しく砕け散っていた。そして稲妻が、家の近くの木を打ち砕いた。ビクターには、吹き飛ばされた切り株の光景や電気の威力が忘れられなかった。
           (三)
ビクターは17歳の時、南ドイツのインゴルシュタットに留学し、そこで自然科学を学び始めた頃に、母親が病気で亡くなった。死に際(ぎわ)に、彼女は帰国した彼の手とエリザベスの手を合せた。そして「子供たちよ、あなた方がいつの日か結婚するのが私の夢でした。私の愛するエリザベス、幼いウィリアムやアーネストの母親になってやってちょうだい」と言った。彼女は安らかに死を迎えた。数週間が過ぎ、ビクターは、悲しみのうちに、父親、エリザベス、二人の弟、そして友人ヘンリー・チャーバルに別れを告げた。大学に着いて数日後、フランケンシュタインは、未知の力や生命創造の深い謎を探ることに時間を費やそうと決心した。まる2年もの間、実験に没頭していた。まずはじめに、彼は生命の医学を勉強した。墓地や埋葬室を訪ねて、死が身体に与える影響を観察した。いつも彼の心は、雷雨と電気の激しい力にもどっていった。それは、破壊するのと同様、創造することもできると、何ケ月もの実験の後、彼はその力を使って、死んだものに生命を吹きこむ方法を発見した。彼は、自分の得たこの力をどう使おうかと考え、そして人間を作ることにした。こうして、下宿の一番上の離れの部屋で、彼は仕事にとりかかった。彼は、屠殺場や医師の研究室や墓地など、死体がみつかるところならどこからでも、体の部分を集めた。最初の年はとてもすばらしい夏だった。やがて、冬が来て春が来た。ある11月の激しい雷雨が発生した陰気な晩に、彼は、死体を繋ぎ合わせて作り上げた物に、生命を吹きこむのに成功した。ビクターは、自分の作ったものを見下ろした。皮膚は黄色く、巨大で黒い髪の下の目は潤んでいた。顔の肉はしなびて、唇は一文字で黒ずんでいた。成功した今、フランケンシュタインが感じたのは、嫌悪以外のなにものでもなかった。ひと目見ただけで、我慢できないほど恐怖が募(つの)った。その怪物を見るのに耐えられなかった。彼は恐ろしくて部屋をとびだした。自分の寝室に入り、自分自身を落ち着かせようとした。突如、ベッドの足元には、巨大な化物(身長8フィート=約244cm)が、恐ろしい目で彼をじっと見すえて立っていた。化物は話そうとして口を開けた。ビクターは恐怖でベッドからとび起きて逃げ出し中庭に隠れ、自分が生命を与えた悪魔のような死体に出会いはしないかと、一晩中、恐れていた。あたりが明るくなってから、フランケンシュタインはインゴルシュタットの通りに逃げ出した。通りで彼は幼友達のへンリー・チャーバルと出会った。ビクターは再会を喜び、二人は、家族のことや友人のことを話した。フランケンシュタインは、友人を大学の方へ連れて行った。彼は、まだ下宿にあの化物がいるのではないかと内心おびえていた。だが、部屋はからっぽで、恐ろしい怪物はいなくなっていた。その年の冬は厳しく、ビクターの帰省は5月までのばさなければならなかった。彼がジュネーブを出てからもう3年近くになろうとしていた。
           (四)
彼が出発の準備をしていると、父親からの手紙が届いた。その中に書かれていた知らせを読んで、彼は深い悲しみに泣いた。「ある晩、彼の父親は、エリザベスとビクターの二人の弟といっしょに散歩に出かけた。小さなウィリアムはかけていって、木の中に隠れた。兄のアーネストが探しにいったときには、ウィリアムはもう見当らなかった。そして、明け方5時ごろ、彼らはウィリアムの死体をみつけた。彼は殺されていた。首のまわりには殺人者の指の跡がついていた」という。 ビクターは急いで家に馬車を走らせた。夕方に、ジュネーブに着いたが、ジュネーブの街の門は夜には閉められていたので、彼は近くの村で泊まった。彼は眠れなかったので、ウィリアムが殺された場所まで歩いていってみた。彼がそこに着く前に嵐が吹きはじめ、まもなく稲妻が山々や木々の上に光りだした。一瞬の閃光のなかにビクターは、大きな人影が彼をじっとみつめているのを見た。あの怪物だった。次の稲妻のときには、もうそれはそこにはいなかった。でも今やフランケンシュタインは、あの怪物が幼いウィリアムを殺したのだと確信した。彼は夜が明けてすぐ家に着き、弟のアーネストから、殺人罪で逮捕されたのがフランケンシュタイン家に長年いる、やさしい少女ジュスティーヌということを聞いた。ビクターは呆然とした。「いいかい、彼女は無実だ」とビクターはくり返した。彼の父親とエリザベスは、ほんとうに久しぶりに彼に会えて大喜びであった。彼女は今までよりもっと美しくなっていた。ひとたび裁判が始まると、ビクターは苦悩の日々を過した。彼が殺人者を打ち明けても、彼のいうことを誰が信じるのか? 彼は殺人現場を見たわけでもないし、殺人者を突き出すこともできない。何人かの目撃者が呼ばれた。少女ジュスティーヌに不利な証拠が二つあった。彼女は死体がみつかった場所の近くで目撃されていた。もう一つは、その後、ウィリアムの母親の写真が入ったロケットが、彼女の服からみつかった。少女ジュスティーヌは、殺人のあった夜はウィリアムを探していて、ジュネーブの街の門が閉まる時間になってしまい、家に帰れなくなった。夜明けまで彼女は納屋で休み、浅い眠りについた。「私は偶然、ウィリアムが死んだ場所の近くを歩いていたのです。それに、どうしてロケットを持っていたか、まったくわかりません」と彼女は申し立てた。人々も裁判官も、彼女の言葉を信じなかった。次の朝、法廷では、ジュスティーヌは有罪と決った。その翌日、彼女は処刑された。
           (五)
ビクターは、良心の呵責に苦しんだ。なぜなら、彼の邪悪な実験が弟のウィリアムの、そして少女ジュスティーヌの生命を奪う事態を引き起したから。彼は眠れなくなり、健康を害した。一時、ビクターは死のうという気になった。でもそういう時、エリザベスと父親と弟のことを考えた。いったいどうして、愛する人たちを、あの化物から守らないで放っておけるか? 忘れようとして、ビクターは休暇を近くのアルプスの谷間で過すことにした。8月の中頃で、彼は山々や岩や滝を楽しんだ。高く登れば登るほど、景色はすばらしく、お昼ごろには、彼は氷の大きな広がりを見下ろしていた。突然、彼は少し離れたところから、大きなものが凄い速さで彼の方に走ってくるのに気がついた。それは、彼がこの世に生み出したあの醜い化物であった。「この悪魔め!」と彼は叫んだ。「あんなことをしておいて、よくも出てこられたもんだ。地獄の苦しみでさえも、お前にはなまぬるすぎるだろう」。「落ち着いて。私の話を聞いてくれ。フランケンシュタイン。私はすべての人間から嫌われ、憎まれているんだ。あなたは私を作ったのに、私を殺したいと思っている。もしあなたが私の言うとおりにしてくれたら、あなたも、あなたの家族も無事、そっとしておくことを約束しよう」。ためらった後、ビクターは「よかろう、聞いてやる」と言った。
           (六)
二人は小屋に入った。化物は話を始めた。「ずいぶん前のあの晩、インゴルシュタットのあなたの部屋からとびだして、私は森の中に何日も隠れたんだ」「なぜ森を出たんだ?」「食べものを探しに。ある日、私は小屋をみつけた。ドアが開いていたので中へ入っていったら、中にいた老人が私を見ると悲鳴をあげ、小屋を飛び出して行ってしまった」「その後、私は小さな村へ歩いていった。少し離れたところに私は、使われていない小屋をみつけて、そこで夜を過した」。朝になって彼は、すぐ近くに農家があるのをみつけたが、前の日の村人たちの仕打ちを思い出して、姿を隠していた。農家には、老人とその息子(若者)と娘が住んでいた。怪物は、小屋のすき間から彼らをのぞいた。「フランケンシュタイン、私は初めて暖かさと優しさと愛を見たんだ。少女が楽器を取ってそれを奏でると、鳥たちが歌うよりもっと優しい音楽が聞えるんだ。私は涙で一杯になった。老人は目が見えなくて、二人の子供たちはとても貧しくみじめだった」。それからある日、両親がなくなった小さな少女がやってきた。そして彼女が彼らから言葉を学んだ。彼らが話しているのを聞いて、怪物はさらにたくさんの言葉を覚え、彼らがいないときに農家に忍びこんで、彼らの使っている本を見たりした。彼はすばやく学びとったが、その得た知識は彼を悲しませた。「フランケンシュタイン、それは私に教えてくれたんだよ、私が自分の出生のことを知らず、友人も親戚もお金もなく、何ひとつ自分の物はないということを。とてつもない力と少しの知能の他に、私が持っていたのは恐ろしい顔と醜い体なんだ。私は一体どこから来たんだ? 私には父親も母親もいない。私は子供であったこともないし、兄弟も姉妹もない。私は誰かに愛されたこともないんだ。私はずっと今の私のままだったが、そのときまで私は悪というものを知らなかった」。怪物はさらに続けた。「私がどうやって作られたかを考えると、たまらなく嫌になった。そのために私は幾度となく、あなたを呪った」「ある日、私の休んでいた場所の近くの、流れの早い川に少女が落ちたのを見た。私は水に飛びこんで彼女を岸に助けあげた。ところが一人の男が私に銃を向け、肩に撃ちこんだんだ。それからやつは少女を抱き上げると、連れていってしまった。傷は治るのに時間がかかり、その間もずっと、私は自分がどんなふうに扱われていたかを考えていたのだ。私は全人類に復讐してやると誓ったのだ」「でもなぜ罪もない弟のウィリアムを襲(おそ)ったんだ?」とビクターは叫んだ。「全然そんなつもりではなかったんだ。あの晩、私がジュネーブの街の外で休んでいると、子供がそばへ走ってきた。子供は私を見た瞬間に悲鳴をあげて目をおおったんだ。私は何もしないと言ったんだが、彼は私を人でなしとか人食い鬼とか言って恐ろしい言葉でののしるので、私は喉に手をかけて彼を静めようとしたんだ。すぐに彼は死んでしまった。私は彼の首からロケットを取った。それから私は、隠れるために納屋をみつけたんだが、わらの上に若い娘が寝ていた。それで私は彼女の服の中にロケットを入れた。それから迷ってここへきたんだ。これで私の話は終りだ」。「お前は話を始めるとき、お前の言うとおりにしろ言ったな。それは何なのだ?」とビクターは言った。「そうだ。私は一人ぽっちで惨めなんだ。私と同じように不格好で醜く、私と一緒に暮し、私を愛し、私の妻となってくれる女性を作ってくれ。あなたにはそれが出来る」「断る。私はもう邪悪なものは二度と作らないんだ」「フランケンシュタイン。私を愛してくれる、私から逃げない生きものを作ってくれ、そうしたらあなたと仲直りしよう。私を幸せにしてくれ。私の頼みを拒まないでくれ。 お願いだ!」。ビクターは彼の嘆きに長いこと黙っていたが、静かに言った。「わかった。相手を作ってやろう」「それなら行ってくれ、フランケンシュタイン、そして仕事を始めてほしい」そう言うと怪物は去って行った。
           (七)
ビクターは明け方には村に着き、そこから家族のもとへ帰った。怪物の怒りを恐れていたにも関わらず、どんなに頑張っても、ビクターはもう一つの創造に取りかかる気になれなかった。さらに彼の心は、今度のエリザベスとの結婚のことで一杯だった。「私はうれしいよ、ビクター」と彼の父親は言った。そして父親は彼に、健康を完全に取りもどすために長い休暇をとるように何度も勧めた、そこで、彼はイギリスに少なくとも6か月はいることにし、ジュネーブに帰ったらすぐにエリザベスと結婚するということに決めた。幼友達のへンリー・チャーバルが一緒に行くことになった。イギリスでビクターは、新しい創造のために必要な材料を集めた。彼はヘンリーと分かれて、一人でスコットランド海岸の沖合いの孤島に行き、仕事にとりかかった。この仕事は彼の気分を滅入らせ、彼は落ち着かなく、神経質になっていった。そして、あの怪物が現われるかもしれないとおびえた。もし作り上げた女性が、彼女の相手よりももっと凶暴になったら? もしその二人がお互いを気に入らなかったら? もし二人が子供を産んで、その子供も怪物だったら? こういった懸念が次々と彼の心に重くのしかかって来た。ある晩、彼が仕事をしていてふと目を上げたとき、恐ろしい笑みを浮かべた怪物が窓から彼を見ているのに気づいた。突然、フランケンシュタインは自分が何をしているか気がつき、かっとなって今まで作ってきたものをバラバラに引きちぎってしまった。窓の外で怪物がわめいた。「こんなに長く待たせた後で、お前は約束したものを壊してしまった。お前は私の創造者だ、フランケンシュタイン、しかし今では私がお前の主人なのだ。復讐してやる。覚えておくがいい、フランケンシュタイン、お前の婚礼の晩に会いにいくぞ!」。彼が行ってしまうと、ビクターの心は混乱した。「おまえの婚礼の晩に会いにいくぞ」という怪物の言葉が、いつまでも頭の中でうずまいていた。
           (八)
朝になると、漁師が彼に手紙の束を持ってきた。そのうちの一つは友人のヘンリー・チャーバルからで、ビクターに、彼といっしょに来るようにと勧めていた。ビクターはそうすることにした。彼は自分の実験室に行って、半分仕上がった生きものの残りの部分を大きなかごに入れ海の中へ沈めた。2日後に彼は、ヘンリーが滞在している町に着き、友人の宿へと向かった。だが遅過ぎた。怪物が先に来ていた。へンリーは首に怪物の指の跡をつけて、死んでいた。彼は悲嘆と絶望のすえ家に帰った。エリザベスは彼がやせて弱々しくなったのを見て、目に涙を浮かべた。ビクターは狂おしいほど彼女と結婚したいと思った。結婚式の準備が着々と行われている一方、彼は、弾をこめたピストルいつも手の届くところに置いた。二人は新婚旅行を、エリザベスの両親が住んでいた、湖のそばの別荘で過すことにした。結婚式の後、新婚の二人はジュネーブから湖へ出発し、その晩エビアンで過すことになった。宿にもどる前に、二人は岸辺を歩いていたが、怪物の言葉がビクターの心から離れなかった。「おまえの婚礼の晩に会いにいくぞ」。彼の心はすっかりかき乱され、エリザベスが部屋に戻ると、彼は怪物の居所を探すために外に出かけた。その時、エリザベスの恐ろしい悲鳴が聞えた。ビクターは自分の部屋に飛び込んだが、間に合わなかった。彼の花嫁は、怪物の指の跡を首につけ、息絶えてベッドに横たわっていた。開け放されていた窓からのぞいていたのは、恐ろしい殺人者であった。怪物は、エリザベスの死体を指さして笑った。フランケンシュタインは絶望と疲労のすえベッドの上に倒た。そして、今までに起ったことの恐怖全体が、彼の心の中で大きくふくれ上がった。ウィリアムの死、ジュスティーヌの処刑、ヘンリーの殺害、そして彼の妻の死。彼の父親と弟のアーネストが危険だという思いがビクターをおののき震えさせた。彼はただちにジュネーブに戻った。今まで起ったことの知らせは、ビクターの父親をひどく悲しませた。数日後、父親はビクターの腕の中で死んだ。絶望の中でビクターは、怪物を殺すまで追い続ける決意を固めた。
(参考)
「エリザベス」の絵はこちらへ 原書にある挿絵
           (九)
ジュネーブを発つ前に彼は、ウィリアム、エリザベス、そして父親が眠る墓地に、最後の訪問をした。彼が草の上にひざまずき、あの呪われた怪物をみつけだし殺せるよう力を貸してくださいと祈った。するとそれに答えるように、邪悪な大きな笑い声が聞えてきた。「私は満足さ、フランケンシュタイン、今やお前がみじめで不幸になったのだから」そう言うと、怪物は驚くべき速さで消えた。何ケ月もの間、ビクターは、ほんの小さな手がかりをたよりに怪物を追った。つねに怪物は、人のいるところを避け、ビクターが跡を見失うたびに戻ってきて、何か印(しるし)を残していった。怪物は、自分が与えている苦しみを楽しんでいた。ある夜、ビクターは暗闇の中で声を聞いた。「お前は今度は、北方の氷と厳しい寒さの方へ私を追ってこなければならんのだ。そこでお前はもっと苦しくみじめなときを堪え忍ぶのだ、お前が十分に苦しんだと私が満足するまでな、私の敵よ」。ビクターは追跡を続けた。そして寒さが我慢できないほど厳しくなったとき、彼は遠くに一つの点を見た。彼が敵に追いついたかのように見えたちょうどその時、風が吹き上げ、海が荒れ、氷にひびが入って割れた。彼は砕けた氷のかけらの上に残され、漂流していった。恐ろしい何時間かがたち、氷はやっと停止したが、ビクターはもうこれ以上進めなかった。彼の心は、ウィリアム、ジュスティーヌ、ヘンリー、エリザベス、そして父親のことで一杯で、彼は自分の一生のことを思い、いかに自分の才能を無駄に使ったかを考えた。彼は完全に消耗しきって、氷の上に横たわったまま目を閉じた。
           (十)
探検家ウォルトンの姉に宛てた手紙はまだ続いていた。ウォルトンの船は氷の山に取りまかれていて、今やいつ押しつぶされるか分からない状態にあった。乗組員はもう何人か死んでしまい、フランケンシュタインは日毎に衰弱していった。そんな時、五、六人の水夫が船室に入ってきて、これ以上の北極遠征を中止するようウォルトンに強く要請した。すると、フランケンシュタインが弱った身をもたげて彼らに言った。「目的をしっかりつかまえて、岩のようにしっかりしろ。氷はどうにでも変わる。戦って征服した英雄として帰りたまえ」と。そしてフランケンシュタインは死の淵に瀕(ひん)しながら「ウォルトン船長、私の最期も近いと思う。もし私が仕事を果たさずして倒れたら、どうかあなたが私の代りにあの怪物を仕とめて下さい。お願いです」。しかし、又、こうも言うのであった。「ウォルトン船長。平静のうちに幸福を求め、大きな望(のぞ)みは捨てなさい。しかし、何故、私はこんなことをいうのだろう? 私自身はこういう希望を失ったけれども、他の人は成功するかもしれないのに・・・」。その声はだんだん弱くなり、フランケンシュタインの息は途絶えた。その時、探検家ウォルトンの前に怪物が現われた。そして怪物は、自らの創造者であるフランケンシュタインを前に言った。「許してくれ、フランケンシュタイン。私はあなたの愛する者をすべて破壊してしまった。でも私自身、大変な苦痛を味わったのだ。あなたには、私がこう言うのが聞えないだろう。でも私は、あの人たちを殺したくはなかったのだ。今、すべてが終った。あとせねばならぬことを完成するには、他の人間の死が必要なんじゃなくて「私自身の死」が必要なんだ」こう言い残すと怪物は、船室の窓から船の近くに浮かんでいた氷塊に飛び降りて、遥かなる暗闇の中に消えて行った。
(参考) 「1931年映画「フランケンシュタイン(主演ボリス=カーロフ)」の絵はこちらへこの映画は、あまりに原作をないがしろにした改編だが、怪奇映画を一気にメジャーに持っていったという功績は大であるという。


(小話906)「小人」の話・・・
      (一)
唐の太和(たいわ)の末年である。松滋(しょうじ)県の南にひとりの士(し=教養・地位のある人)があって、親戚の別荘を借りて住んでいた。初めてそこへ着いた晩に、彼は士人( しじん )の常として、夜の二更(午後九時〜十一時)に及ぶ頃まで燈火(ともしび)のもとに書を読んでいると、たちまち一人の小さい人間が門から進み入って来た。人間といっても、彼は極めて小さく、身の丈(たけ)わずかに半寸に過ぎないのである。それでも葛(くず)の衣(きもの)を着て、杖を持って、悠然とはいり込んで来て、大きい蠅(はえ)の鳴くような声で言った。「きょう来たばかりで、ここには主人もなく、あなた一人でお寂しいであろうな」。こんな不思議な人間が眼の前にあらわれて来ても、その士(し)は頗(すこぶ)る胆力があるので、素知らぬ顔をして書物を読みつづけていると、かの人間は機嫌を損じた。「お前はなんだ。主人と客の礼儀をわきまえないのか」。士はやはり相手にならないので、かれは机の上に登って来て、士(し)の読んでいる書物を覗いたりして、しきりに何か悪口を言った。それでも士(し)は冷然と構えているので、かれも燥(じ)れてきたとみえて、だんだんに乱暴をはじめて、そこにある硯(すずり)を書物の上に引っくり返した。士(し)もさすがにうるさくなったので、太い筆をとってなぐり付けると、彼は地に墜(お)ちてふた声三声叫んだかと思うと、たちまちにその姿は消えた。
      (二)
暫(しばら)くして、さらに四、五人の女があらわれた。老いたのもあれば、若いのもあり、皆そのたけは一寸ぐらいであったが、柄にも似合わない大きい声をふり立てて、士(し)に迫って来た。「あなたが独りで勉強しているのを見て、殿さまが若殿をよこして、学問の奥義(おうぎ)を講釈させて上げようと思ったのです。それが判らないで、あなたは乱暴なことをして、若殿にお怪我をさせるとは何のことです。今にそのお咎(とが)めを蒙(こうむ)るから、覚えておいでなさい」言うかと思う間もなく、大勢(おおぜい)の小さい人間が蟻(あり)のように群集してきて、机に登り、床にのぼって、滅茶苦茶に彼をなぐった。士(し)もなんだか夢のような心持になって、かれらを追い攘(はら)うすべもなく、手足をなぐられるやら、噛まれるやら、さんざんの目に逢わされた。「さあ、早く行け。さもないと貴様の眼をつぶすぞ」と、四、五人は彼の面(かお)にのぼって来たので、士(し)はいよいよ閉口した。もうこうなれば、かれらの命令に従うのほかはないので、士(し)はかれらに導かれて門を出ると、堂の東に節使衙門(せつしがもん)のような小さい門がみえた。
      (三)
「この化け物め。なんで人間にむかって無礼を働くのだ」と、士(し)は勇気を回復して叫んだが、やはり多勢(たぜい)にはかなわない。又もやかれらに噛まれて撲(なぐ)られて、士(し)は再びぼんやりしているうちに、いつか其の小さい門の内へ追いこまれてしまった。見れば、正面に壮大な宮殿のようなものがあって、殿上には衣冠の人が坐っている。階下には侍衛らしい者が、数千人も控えている。いずれも一寸あまりの小さい人間ばかりである。衣冠の人は士(し)を叱った。「おれは貴様が独りでいるのを憐れんで、話し相手に子供を出してやると、飛んでもない怪我をさせた。重々(じゅうじゅう)不埒(ふらち)な奴だ。その罪を糺(ただ)して胴斬りにするから覚悟しろ」指図にしたがって、数十人が刃(やいば)をぬき連れてむかって来たので、士は大いに懼(おそ)れた。彼は低頭して自分の罪を謝すと、相手の顔色も少しくやわらいだ。「ほんとうに後悔したのならば、今度だけは特別をもって赦(ゆる)してやる。以後つつしめ」。士(し)もほっとして送りだされると、いつか元の門外に立っていた。時はすでに五更(ごこう=午前4時)で、部屋に戻ると、机の上には読書のともしびがまだ消え残っていた。
      (四)
あくる日、かの怪しい奴らの来たらしい跡をさがしてみると、東の古い階段の下に、粟粒(あわつぶ)ほどの小さい穴があって、その穴から守宮(やもり)が出這入りしているのを発見した。士(し)はすぐに幾人の人夫を雇って、その穴をほり返すと、深さ数丈のところにたくさんの守宮(やもり)が棲んでいて、その大きいものは色赤くして長さ一尺に達していた。それが恐らくかれらの王であるらしい。あたりの土(つち)は盛り上がって、さながら宮殿のように見えた。「こいつらの仕業だな」士(し)はことごとくかれらを焚(や)き殺した。その以来、別になんの怪しみもなかった。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話905)「戦国動乱の運命に翻弄(ほんろう)された戦国一の美貌の持ち主、お市の方。その波乱に満ちた数奇な短い生涯」の話・・・
         (一)
聡明でその上、絶世の美女と言われた、お市の方は、織田信長の妹で、時の天下人、豊臣秀吉の憧れの女性であった。お市の方(本名は「市」)は1546年、織田信長の妹(信長より13歳年下)として尾張国に生まれた。お市は背が高く、色白で、すっきりした細面に 切れ長の目、小さな口の上品な顔立ちで、年頃になると大変な美貌の持ち主となり「東国(近畿以東の諸国)一の美女」とまで称された。1567年(永禄10年=21歳)、お市の方は、当時、北近江(滋賀県)の領主で「江北(こうほく)の鷹」と呼ばれた22歳の若き英雄・浅井長政(あさいながまさ)と結婚した。これは、天下を狙う織田信長が美濃攻めや上洛の際に、背後の憂(うれ)いをなくすための政略結婚であった。一方、浅井家当主の座に就いていた長政としても、織田家との同盟を望んだ上での結婚であった。祝言はその夜、清水谷で行なわれた。幸菱(さいわいびし)文様に白い打掛を着せ終わったお市の付け人が、思わず「まあ、なんてお美しい・・・」と歓声をあげたほど、その夜のお市は輝きにみちていた。白一色に包まれながら、どの色で装(よそ)うよりもあでやかであり、おかしがたい気品にあふれていて、しかも可憐だった。お市が花嫁の座についたとき、浅井一族は、思わずその美しさに息をのんだ。花婿の長政も、もちろんその例外ではなかった。政略結婚とはいえ長政とお市の方の夫婦関係は、周りが羨むほど仲睦(なかむつ)まじかった。そして夫婦の間には、長男、万福丸をはじめ、長女、茶々(ちゃちゃ)、二女、お初(はつ)、三女、お江(ごう=小督)の他、二男、万寿丸が生まれた。
(参考)
@お市の方・・・「戦国一の美女」「戦国の英雄、信長の妹」「浅井長政、柴田勝家の妻」「豊臣秀吉の嫁の母」「徳川将軍家の血統」と言われるように、お市の方は二度の結婚と二度の落城経験など、まさに戦国時代の女性の代表であった。彼女が居なければ、豊臣秀頼もいないし、徳川3代将軍・徳川家光も存在しない。
A21歳・・・お市の方は、美貌の持ち主として有名で、浅井長政に嫁いだ時の21歳(だいたい戦国大名の娘は、12〜15歳の間に結婚した。わずか7歳で結婚した女性もいた)は、当時としては晩婚にすぎ、2度目の結婚であった可能性も強いという。
         (二)
お市の方の穏やかな生活は、わずか数年だった。やがて1570年(元亀元年=24歳)4月、織田信長は、浅井氏の了解なく、浅井氏の同盟者、越前(福井県)の朝倉義景を攻めないという誓約、それは織田氏と朝倉氏は歴史的な不仲だったが、浅井家は代々隣国の朝倉家と親交が篤く、居城の小谷城を建てるにあたっても朝倉の助力があった。浅井氏はお市との婚儀のとき、朝倉、浅井の深い関係について言及し、信長も、決して朝倉を攻めるようなことはしない。その場合はまず浅井に一報する、というものであった。この誓約を破り、織田信長は朝倉氏攻略を開始した。これを怒った浅井長政は生来が、一本気で負けん気が強い武将で、行軍中の織田信長を朝倉氏と謀(はか)って挟み撃ちにした。信長は決死の退却で命(いのち)からがら近江を脱出し、京都へ到着した(金ヶ崎の退き口=かねがさきの・のきくち。又は金ヶ崎崩れともいう)。この時、浅井長政は、敵方の織田信長の妹、お市の方を離縁しなかった。かつて六角義賢(ろっかくよしかた=南近江の守護大名)に反抗するために、その娘を離縁し送り返していたが、今回は別で長政の中では、お市は大切で重要な存在であった。
(参考)
@かつて六角義賢に反抗するために・・・浅井氏は六角氏との合戦に敗れ、初代当主浅井亮政の築いた領地を失い、六角氏に臣従(しんじゅう)していた。1563年(永禄6年)長政の美濃遠征中に、その留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。こうして浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議によって膠着状態が続いていた。浅井長政は、お市と結婚する前にすでに六角義賢の家臣、平井加賀守の娘と結婚していた。それは長政の父、久政が六角と休戦するための政略結婚であったが、長政はわずか三ヶ月でその妻と離婚し、離別後すぐに戦端を切り、翌年、六角義賢を破った。
         (三)
このとき、お市の方が浅井氏の裏切りを察し、兄の織田信長にいち早く知らせた。お市の方は、手紙では怪(あや)しまれるので、小豆(あずき)を袋に入れて、織田の陣営に、陣中見舞いと称して送った。その袋の上下は縄でくくられており、受け取った信長は、瞬時にして「小豆=織田軍、袋=朝倉・浅井軍であり、これは袋の中の小豆のように、織田軍が朝倉・浅井の軍に周りを包囲(挟み撃ち、袋の中のネズミ)される知らせである」ということを悟って、危機を脱出した。この時の、浅井長政の裏切りを織田信長が許すはずもなく、同年の「姉川の合戦」を経たあと、1573年(天正元年=27歳)、信長は破竹の勢いで進撃し、朝倉義景を倒すと、すぐに浅井長政の居城である小谷城を包囲した。しかし信長は一気に進撃せず、何度も降伏勧告をした。降伏した後は大和へ新領地を与えるという、裏切りを嫌う信長にとっては、破格の案も出された。しかし浅井長政は断り続け、最終勧告も決裂した。落城寸前になり、長政は自害して果てることを決意した。お市の方も夫の長政と共に死のうとしたが、長政はそれを思いとどまらせた。長政は信長に、お市の方と子供たちの助命を嘆願し、信長はお市の方とその娘達については、それに同意し、お市の方と茶々・お初・お江の三人は、信長によって保護されることになった。一方、息子の万福丸・万寿丸の二人に関しては、助命は許されなかった。そのため二人は、夜陰に乗じて逃亡を計ったが、万福丸は織田軍に発見され、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって処刑された。その時、まだ赤児だった次男の万寿丸は、出家させられた。また、自害して果てた久政、長政(29歳)の親子は、朝倉義景と共に、首を京中に引き回されて獄門にさらされた。
(参考)
@小豆を袋に入れて・・・この「袋の小豆(あずき)」の逸話は、実際にあったことではない、と言われている。その理由は(1)浅井家の裏切りは、浅井家の機密事項で、いくら長政の正室だからとはいえ、お市の方がはたして、それを知りえたのであろうか?(2)信長を助けることによって、夫の長政や自分の子供たちが危険にさらされることは分かっているはず。特に自分の子供たちのことを考えれば、信長に浅井家の裏切りを教えるとは考えにくい?など。
A自害して果てた久政、長政・・・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は浅井長政の長男、万福丸を処刑し、また長政の母である小野殿に対しては、一日に一本ずつ指を切り落とすという、極めて残酷な処置をした後、処刑したという。更に、秀吉が浅井家の旧領を自分の領地とし、小谷城を壊し長浜城を建てた。このような行動を秀吉が取ったのは、秀吉がお市の方に惚れていたため、お市の方を娶(めと)った長政、ひいてはその一族が憎かったからだと言われている。
         (四)
お市の方と、生き残った三人の娘は、清洲城にて二人の兄、信長と信包(のぶかね)の庇護を受け、9年余りを平穏に過ごした。このときの兄、信長のお市の方とその娘に対する待遇はたいへん厚く、お市の方や三姉妹のことを気にかけ、十分な贅沢をさせていた。又、織田信包(おだのぶかね)は「浅井家の血が絶えるのはしのびない」と言い、お市の方や三姉妹を手元で保護し、特に姪(めい)たちを大切に養育した。1582年(天正10年=36歳)、6月、本能寺の変で織田信長は没し、信長を討った明智光秀も羽柴秀吉が制すると、秀吉は織田家の後継者として、信長の孫で、わずか3歳の三法師(織田秀信)を立てた。お市の方は、信長の三男、織田信孝((おだのぶたか)の勧めを受けて、織田家随一の武将(武骨の性格でその秀でた武勇から「鬼柴田」「かかれ柴田」とも呼ばれた)とうたわれた信長の家来、柴田勝家(しばたかついえ)と再婚した。秀吉も、お市の方や娘たちの保護を買って出たが、お市の方は、万福丸を処刑し、万寿丸を出家させた憎い秀吉の誘いを断った。その上、お市の方はもともと、実力者になったとはいえ、素性も明らかでない成り上がり者の秀吉を非常に嫌っていた。そのため織田家に最も忠実な柴田勝家に保護を求めた。勝家にとっては、お市の方はあこがれの女性であった。お市の方との結婚を二つ返事で受け入れ、柴田勝家は、お市の方と三人の娘を連れて、越前国(福井県)の当時最大級の城、北の庄城に帰っていった。しかし、幸せはそう長くは続かなかった。翌年の1583年(天正11年=37歳)、織田勢力を二分する賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、勝家は敗残の身で北の庄城にたどり着いた。いち早くお市の方が迎えに出た。勝家はお市の方の顔を見ると一言「かかる醜態をお目にかけ面目ない」と頭を垂れた。お市の方は、一言「覚悟はできております」と言っただけで、後は言葉が続かなかった。織田家の再興の願いを勝家にかけて嫁いでは来たが、今はその夢が破れたという事と、今まで自分を優しく包んでくれていた勝家とならばいつ死んでも悔いはないと思うのであった。柴田勝家は配下に命じ籠城(ろうじょう)の準備をさせた。それは戦うというより、一族の死場所をつくったという感じであった。先ず将兵の妻子には、城内に残る軍資金を分け与え縁故を求め城を出て、それぞれに離散させた。
(参考)
@織田信包(おだのぶかね)・・・兄、信長と比して、信包はあまり目立たないが、しかし武将としては優れていて、決して凡庸な人物ではなかった。兄、信長の信頼も厚かったが、野望に乏しく清廉潔白だったため、信長の亡き後の天下争いには参加しなかった。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。
A秀吉を非常に嫌っていた・・・織田家は美男美女の家系として知られ、信長も美男であったが、その中でも特にお市の方は美貌の持ち主で、大変美しい女性であった。織田家と浅井家の同盟の為、お市の方は近江の浅井長政と結婚したが、夫、長政だけではなく天下人の豊臣秀吉もお市の方に好意を寄せていたと言われ、徳川家康も自分の子供がお市の方のような美しい女性になるようにとの願いを込め市姫と名づけた。また兄である信長もお市の方の聡明さと美しさを認め、大層大事にしていた。お市の方は信長、秀吉、家康と三人の天下人に愛された唯一の女性とも言える。
         (五)
羽柴秀吉の軍勢は次第に包囲を縮め、激しい合戦の末、本丸までは押し詰めていった。勝家は妻、お市の方に向かい「勝家の念願かない、そなたを迎えたが束の間の縁でござった。そなたは主君、信長公の妹御なれば、秀吉とて粗略(そりゃく)には致すまじ。早く城を出て、秀吉を頼られよ」。これに対しお市の方は「去年の秋、岐阜よりここに参り、今日の日まで厚きお情を蒙(こうむ)りましたが、宿世浅からぬ縁と存じます。さきに浅井の元に死すべき身、今またかかる欺(あざむ)きを見るは、我が身にまとう運命と存じますれば、この後、筑前(秀吉=羽柴筑前守秀吉)殿にすがればとて、良き月日に逢えるとも思われません。短き御縁とて百年の契の思い、身にしみて忘れ得ませぬ。なにとぞ死出の道にお連れ下さい。ただ三人の子女だけは助けて、果敢なき父や母の菩提を弔わせとう存じます」。二人の心持は、固く結ばれて離れなかった。勝家はお市の方と娘たちを城から逃がそうとしたが、お市の方は、三人の娘たちだけを城から逃がし、勝家(62歳)や家臣とともに城内で自刃した。享年37歳。辞世は「さらぬだに、打(うち)ぬる程も、夏の夜の、夢路をさそう、郭公(ほととぎす)かな」。お市の方の三人の娘は、その後、豊臣秀吉に庇護され、それぞれの人生を歩んだ。
(参考)
「お市の方」(持明院蔵)の絵はこちらへ
「柴田神社(北の庄城跡)にあるお市の方の銅像」の写真はこちらへ
「北の庄城の想像図」の絵はこちらへ
(後日談)
お市の方の三人の娘(浅井三姉妹=戦国一数奇な運命を辿った姉妹)は、数奇なそれぞれの人生を歩んだ。
(1)茶々(淀殿)・・・長女の茶々(淀殿)は、三姉妹の中では母、お市の方の面影を一番よく受け継いでいたので、天下人の豊臣秀吉の側室となって寵愛を受けた。茶々は、1589年(天正17年)に鶴松を生むが2歳で死亡。次いで1593年(文禄2年)に秀頼(ひでより)を産んだ。秀吉の死後は、秀頼の生母として豊臣政権を掌握した。1603年(慶長8年)、10歳になると秀頼は秀吉の遺言もあり2代将軍、徳川秀忠の娘、7歳の千姫(家康の孫、母は淀殿の妹・お江)と結婚した。豊臣方はやがて徳川家康と対立し、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で徳川方に敗れて、茶々(淀殿)は秀頼と共に大坂城で自害した(母・お市の方は生涯に二度、淀殿は三度もの落城を経験する波乱の生涯であった)。享年49歳。
(2)お初(常高院)・・・二女のお初(常高院)は、姉、茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、後に京極高次の正室として京極家(京極家は、室町時代に数ヶ国の守護をも兼ねた名門の大名家)に嫁いだ。夫・高次は1600年(慶長5年)、西軍(豊臣方)を裏切り(大津篭城戦)、東軍(徳川方)に味方した関ヶ原合戦の後、若狭国小浜城主となった。お初は夫・高次に先立たれた後、出家して常高院と名乗った。この頃から度々、姉の茶々(淀殿)を訪ねた。大坂冬の陣には、姉と妹の嫁いだ豊臣(姉、茶々=淀殿)・徳川(妹、お江=徳川二代将軍秀忠の正室)両家の関係を改善すべく豊臣方の使者として仲介に奔走した。1633年(寛永10年)、江戸において死去。享年64歳。
(3)お江(小督(おごう)、後に崇源院)・・・三女のお江(小督(おごう)、又はお江与。後に崇源院)の、最初の婚姻相手は織田信長の妹の子、佐治一成で、その後、離縁。2度目の婚姻相手は豊臣秀勝(関白、豊臣秀次の弟)で、のちに死別。三度目は江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室となった。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。@長男の家光は三代将軍に、A次男の忠長は駿河大納言となった。B長女、千姫は淀殿の長男、秀頼の夫人になり、C次女、珠姫は外様筆頭の加賀藩前田家の藩主、前田利常の正室、D三女、勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いだ。E四女、初姫は京極忠高の正室、F五女、和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となった。1626年(寛永3年)、江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
(参考)
「浅井三姉妹」の絵はこちらへ


(小話904)「イソップ寓話集20/20(その37)」の話・・・
       (一)「アリとキリギリス」
ある晴れた冬の日、アリたちは、夏の間に集めておいた穀物を干すのに大わらわだった。そこへ腹をすかせて、死にそうになったキリギリスが通りかかり、ほんの少しでよいから食べ物を分けてくれるようにと懇願した。アリたちは、彼に尋ねた。「なぜ、夏の間に食べ物を貯えておかなかったのですか?」。キリギリスは、答えた。「暇がなかったんだよ。日々歌っていたからね」。するとアリたちは、嘲笑って言った。「夏の間、歌って過ごしたお馬鹿さんなら、冬には、夕食抜きで踊っていなさい」。
       (二)「キツネとハリネズミ」
川を泳いで渡っていたキツネが、急流にさらわれ、深い谷底へと押し流されてしまった。キツネは傷ついてそこに横たわり、長いこと身動きできないでいた。すると、血の臭(にお)いを嗅ぎつけた、アブの大群がわんさか押し寄せ、キツネにとりついた。そこへ、ハリネズミが通りかかった。ハリネズミは、キツネの悲惨な姿を見ると、そのアブどもを追い払ってやろうか? と言った。するとキツネはこう答えた。「どうか、その者どもに害を加えないでくれ!」「ええ? どういうことなんだ?」ハリネズミが訝(いぶか)しげに聞き返した。「君はこいつらを取り除いてもらいたくないと言うのか?」「もちろんだとも」キツネはそう答えるとこう続けた。「だってね、このアブどもは、血をたらふく食らっているから、もうほとんど刺さない。けれども、君が、この満腹している奴らを追い払ったりしたら、腹を空かせた奴らがやって来て、残りの血まで全部吸われちまうよ」
       (三)「ラバ」
ラバは、仕事をさせられるわけでもなく、トウモロコシをわんさか与えられたので、浮かれて、大層得意になって、ギャロップしながら、一人こう言った。「僕の父さんは、とても優秀な競走馬だったにちがいない。僕は、その速さを父さんから受け継いだのだ」。次の日、ラバは長い距離を走らされて、くたくたになると、絶望的に叫んだ。「僕の考えは間違だった。僕の父さんはロバだったのだ」
(参考)
@ラバ・・・ラバは、雌のウマと雄のロバの交雑種。




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