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(小話903)「山岡鉄舟と「放蕩(ほうとう)」(番外3/3)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。鉄舟の妻、英子(ふさこ)の述懐からも、「剣禅一如」を求めた鉄舟でさえ、色情を越えるのには苦労したという。英子と結婚した後(のち)24〜25歳ごろから、鉄舟は、盛んに飲む買うことが激しくなった。「親族一同が、鉄舟を離縁せよと何度となく私(英子)にすすめてきました。私は弁護してきました。しかし鉄舟は気にしなかったので親族から絶縁を言い渡された。私は心配のあまり一年、患(わずら)った。三児を抱いて静岡の留守宅を護っていました。そうして8〜9年もたった頃「放蕩を止めなければ、三児を刺して私も自害します」と泣いて訴えたところ「もう心配させぬ」と。ようやくきっぱり放蕩が止まった」。鉄舟、時に33歳。
(参考)
@山岡鉄舟(山岡鉄太郎)・・・山岡鉄舟は20歳のとき、千葉周作に剣を山岡静山に槍を学ぶ。山岡静山、急死のため望まれて、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家の養子となり妹の英子16歳と結婚。山岡静山の妹の英子(ふさこ)も、鉄舟の風格に惚れ込んで「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それは英子にとって問題ではなかった。鉄舟の方も「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因であったという。
      (二)
「人は、生死脱得(しょうじだっとく)ということを問題にするが、おれは維新のさい弾雨の間をくぐって来たのでさほどに難しいとは思わなかった。しかし、色情という奴は変なもので、おれは二十一の時から言語に絶した苦心をなめたが、四十九歳の春(明治17年)、庭前の草花を見ている時、忽然(こつぜん=たちまち)、機を忘れる事しばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することができた。色情脱得の方がよほど難しかった」と鉄舟は述懐した。
(参考)
@生死脱得(しょうじだっとく)・・・禅家に「生死脱得(しょうじだっとく)」と云う言葉がある。生死は「いきる」「しぬ」ではなく「苦しみ」と訳すのが良く、「苦しみから脱出」と成るが、何からの脱出なのか、「自己(自我)という殻」である。「自己という肉体」、「自己という精神」からの脱出である。


(小話902)「イングランド南西部の小妖精、ピクシー(2/2)」の話・・・
         (一)「ピクシーの仕返し」
民話より。デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックのある屋敷の二人の女中の話によると、ピクシーたちは彼女たちにとても親切で、毎晩、彼らのために綺麗な水を入れたバケツを炉の側に置いておくと、いつもバケツの中にお礼の銀貨を一枚入れてくれるのだということだった。ところがある日のこと二人がうっかり水の用意を忘れると、ピクシーはさっそく少女たちの部屋まで上がってきて、声高に二人の怠惰をなじった。少女のうち一人はすぐに下りていってバケツに水を汲んだが、もう一人は面倒がって動かなかった。そこでピクシーたちはもう一人の少女に与える罰の相談をした。それから七年間その少女の片足は動かなくなってしまったが、罰の期間が終了すると彼女の足はすっかり治り、まもなく町一番の踊り上手になった。
(参考)
@綺麗な水・・・夜寝る前に桶に汲んだ水や、一杯のミルクなどを用意しておくと、夜中にピクシーたちがやって来て、それらを飲んだり水浴びをしたりする。そして、彼らはその対価として銀貨を置いて去っていくという。
「ピクシー」(不明)の絵はこちらへ
         (二)「ピクシーの踊り」
民話より。森を歩いて道に迷った男が何やら物影で音がするので、覗(のぞ)いて見ると、そこには子供達が楽しそうに踊り歌っていた。その子供達は一様に鼻と耳が尖(とが)り、幼い子から青年の一歩手前位の少年もいた。あまりに子供達が楽しそうに踊っていたので男は身を乗り出し、その物影から出て来てしまった。すると子供達は一瞬、ビックリとしたが、すぐに男を自分たちの所へと招き入れ、一緒に踊ろうと迫ってきた。男は最初は戸惑っていたが、次第に自分も楽しくなり子供達と一緒になって踊り歌った。そして男はどの位、時間が過ぎているのかも忘れ踊り、とうとう疲れて寝てしまった。翌朝、男が目覚めると、そこに子供達は誰一人いなく、そして男が目覚めた場所は森の入り口だった。
         (三)「ピクシーの感謝」
民話より。デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックの近くに住むある老婦人は、庭の中に素晴らしいチューリップの花壇を作っていた。老婦人はチューリップをこよなく愛し、誰にも摘み取らせないようにしていたので、近くに住むピクシーたちの夜の集会所になっていた。ところが、とうとうこの老婦人がなくなると、チューリップは引き抜かれ花壇はパセリ畑に変えられてしまった。怒ったピクシーたちは魔力でパセリを全て枯れさせ、庭に何を植えても育たないようにしてしまった。一方、ピクシーたちは老婦人のお墓を大切にし、毎年春になると色とりどりの花で飾った。
(参考)
@「ピクシーの感謝」・・・(小話860)「チューリップの由来について」の話・・・を参照。
         (四)「ピクシーの親切」
民話より。むかし、貧乏な若い娘が、麦打ちを仕事にしている男と結婚したが、やがてこの男が救いようのない飲んだくれだとわかった。くる日もくる日も、男はひどく酔っ払って、仕事などできるものではなかった。とうとう女房は、男の服を着て、亭主の代わりに麦打ちに行った。ある朝、女房が納屋に入っていくと、前の晩、自分が打ち終えた倍の麦ができあがっていた。そういうことが何日か続いた。ありがたいことだが、いったい誰が手伝ってくれているのか、その正体を見たいと思い、女房は夜見張っていようと決心し、夜になると、部屋の隅に身をひそめていた。あたりが暗くなってほどなくすると、小さな裸のピクシーが、そっと納屋に入って来て、小さな竿を振るって麦を打ち始めた。ピクシーは働きに働いた。そして、働きながらこう歌っていた。「小さなピクシー、色白、ほっそり、身につけようにも、ボロもない」。女房がピクシーに服を作ってやろうと決心したのも、しごく当然だった。ピクシーのために小さな上下の服を作り、次の夜、それを納屋に吊しておいた。その洋服を見ると、ピクシーは飛び上がって喜び、さっそく身につけた。それからこう歌いながら踊りまわった。「すてきなピクシー、かっこいいピクシー、ピクシーごきげん、ピクシー今もう、消えなきゃならん」。そうやってピクシーは、躍りながら納屋を出て行き、もう二度とそこで麦打ちはしなかったという。仲間に見せにいったのか、ほうびをもらって労働から自由になったのか、それは誰にもわからないことだった。
(参考)
「ピクシー」(不明)の絵はこちらへ


(小話902)「イングランド南西部の小妖精、ピクシー(1/2)」の話・・・
         (一)「小妖精、ピクシーの生態(1/2)」
イングランド南西部(主にサマーセット、デヴォン、コーンウォール)の多くの土地で出会える小妖精だが、場所によって呼び方(ピクシー=ピグシー、ピスキー、ピグシー、パグシーなど)が微妙に違う。コーンウォール(イングランドの南西端にある州)などでは、「小さい人々」とも呼ばれ、先史時代に棲(す)んでいた人々の精霊だと信じられており、キリスト教徒でなかったために、天国へも行けず、地獄へも堕ちずに中間のあたりをさ迷(まよ)っているのだと言い伝えられている。一方、デヴォン(イングランド南西部の地域)の百姓たちは、ピクシーを洗礼を受けないうちに、死んでしまった子供の魂だと信じている。ピクシーは旅人を迷わせるのが得意で、旅人が道に迷って、同じ場所をぐるぐると歩き回ることをピクシー・レッド(妖精に引き回されるの意)」といい、ピクシー・レッドから逃れるには、外套を裏返しに着るとよいと言われている。ピクシーは、悪戯(いたずら)とダンスが大好きで、コオロギ、バッタ、カエルの音楽に合わせて踊り、その舞踏会は常に夜行われ、朝になるとその場所には、周(まわ)りより踏みつけられて草の色が濃くなった「フェアリー(妖精)の輪」が残るのだという。ピクシーは群れを成して生活し、その住処は普通、岩の中であるとされ、月の輝く夜に野原、または岩の中で彼らの王は会議を開き一族に指示を与える。彼らは大変、義理堅く、よくしてくれた人には必ずお礼をし、その人が死んでからは墓守まですると言われている。
(参考)
「イングランド南西部」の絵はこちらへ
         (二)「小妖精、ピクシーの生態(2/2)」
ピクシーは細長い妖精のような耳と、比較的大きい翼が彼らの後部からはみ出ている非常に小さくて、非常に美しい人間似の生物で、赤い髪、青白い顔、反った鼻、尖(とが)った耳、緑色の服を着、先の尖ったナイトキャップを被っている。ピクシー翼はしばしば半透明で、彼らは飛んで(地面からの数フィート=1フイートは約30センチ)より高く達することができない)、地面にめったに触れないように翼を使用するという。ピクシーの外観も地方で異なっていて、コーンウォールのピクシーは小男の老人で、緑のぼろを着ていて、新しい衣服を贈られると大変喜んで、仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという(又は、衣服という報酬をもらったのでもう働かなくていいのだと思い、姿を消すのだとも言われている)。又、デヴォン(イングランド南西部の地域)のピクシーは、小さく色白で、ほっそりとしていて洋服は身に着けない。だが、新しい衣服を贈られると大変、喜んで仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという。又、サマーセット(イングランド南西部のブリストル海峡に面する州)のピクシーは赤毛で鼻が反(そ)り返り、眼はやぶにらみで口は大きく、緑の服を着ていると言う。こうしたイングランド南西部の各地に出没するピクシーだが、その性質は、いずれも似通っている。鉱山に住みついたピクシーは、鉱夫を豊かな鉱脈のある所まで案内することがあるが、反対に一番、悪い鉱石のところへ連れていって、がっかりする様子を楽しむこともあるし、子供を盗んだり、旅人を迷子(まいご)にさせたり、馬を盗んで、乗り回わしたりするなど彼らは実に陽気で悪戯好きなのである。
(参考)
@大きい翼・・・背中の大きい翼(羽)はティンカー・ベルの影響とも言われている。ティンカー・ベルは、イギリス、スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲「ケンシントン公園のピーター・パン」、小説「ピーター・パンとウェンディ」などに登場する妖精である。彼女の妖精の粉を浴び、信じる心を持てば空を飛べる事が出来る。
「ピクシー」の像の写真はこちらへ


(小話901)「山岡鉄舟と「ぼろ鉄」(番外2/3)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。山岡鉄舟は、若い頃から「ぼろ鉄」とあだ名を受けていた。そして宮中に奉職(明治天皇の侍従)になり、子爵になっても財は蓄えなかった。いちばん貧乏をしていた時には、着物から家財道具、畳まで売ってしまい、八畳の間に畳三枚だけが残っていた。そのうちの一枚が鉄舟の書斎となり、あとの二枚で寝たり食べたり客を通したりした。畳替えもできないので、鉄舟がいつも座るところは丸くくぼみ、やがて床板に届いてしまった。夜具もまったく無く、売りたくても売れないボロ蚊帳にくるまり、夫婦で抱き合って寒さをしのいでいたという。「何も食わぬ日が月に七日ぐらいあるのは、まあいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうち半分くらいあることもあった。なあに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。これはおれの実験だ。一心(いっしん)に押して行けば、生きていけるものだ。お前らもやってみるがよい。死にはせんよ」と後(のち)に鉄舟は語った。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
      (二)
こうした極貧(ごくひん)の生活で、鉄舟夫婦は死ななかったが、最初に生まれた子供は母乳が出ずに死んでしまった。この初めての子供が生まれた時、敷くにも掛けるにも一枚の布団もなくて、鉄舟は自分の着ているものを奥さんに掛けてやり、自分はフンドシ一つで看護した。奥さんが「それではあんまりひどいから」と着物を着せようとすると「なに、裸の寒稽古をやっているのだ」と押しとどめたという。こんなに貧乏していても、一分銀三粒を刀に結びつけて決して使わなかった。幕末の動乱期、どこで死ぬかも知れぬので、武士のたしなみとして自分の死体を始末(しまつ)するだけの金の用意を忘れなかったのであった。


(小話900)「イソップ寓話集20/20(その36)」の話・・・
     (一)「オオカミとサギ」
喉に骨が刺さったオオカミが、多大な報酬を約束してサギを雇った。というのも、口の中へ頭を突っ込んでもらって、彼女に骨を抜いて貰おうと考えたからだった。サギが、骨を抜き出し、約束の金を要求するとオオカミは、牙を光らせて叫んだ。「何を言ってやがる! お前は、もう俺様から、十分すぎる報酬を受け取ったはずだぞ。俺様の口から無事に出られたのだからな!」
(悪者へ施す時には、報酬など期待してはならぬ。もしなんの危害も受けずにすんだなら、それでよしとすべきである)
     (二)「笛を吹く漁師」
笛の上手な漁師が、笛と網(あみ)を持って海へ出掛けた。彼は、突き出た岩に立ち、数曲、笛を奏でた。と言うのも、魚たちが笛の音に引き寄せられて、足下の網に、自ら踊り入るのではないかと考えたからだった。結局、長いこと待ったが無駄であった。そこで、男は笛を置き、網を投じた。すると、一網でたくさんの魚が捕れた。男は、網の中で跳ね回る魚たちを見て言った。「なんとお前たちは、ひねくれ者なんだ!俺が笛を吹いていた時には踊らなかったくせに、吹くのをやめた今、こんなに陽気に踊りやがる」
     (三)「ヘラクレスとウシ追い」
あるウシ追いが、ウシに車をひかせて、田舎道を進んで行った。すると、車輪が溝に深くはまり込んでしまった。頭の弱いウシ追いは、牛車の脇に立ち、ただ呆然と見ているだけで、何もしようとはしなかった。そして、突然、大声でお祈りを始めた。「ヘラクレス様、どうか、ここに来てお助け下さい」すると、ヘラクレスが現れて、次ぎのように語ったそうだ。「お前の肩で、車輪を支え、ウシたちを追い立てなさい。それからこれが肝心なのだが、自分で何もしないで、助けを求めてはならない。今後そのような祈りは一切無駄であることを肝に銘じなさい」
(自助の努力こそが、最大の助け)
(参考)
@ヘラクレス・・・ギリシャ神話中最大の英雄。大神ゼウスとアルクメネとの子。一二の難業(レルネー湖のヒュドラ退治、黄金の林檎(りんご)の獲得、冥界の番犬ケルベロスの捕獲など)をはじめ数多く武勇伝をもつ。妻の嫉妬からオイテ山上で自らを火葬にふし、のち神となった。


(小話899)「山岡鉄舟と春風館道場(番外1/3)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。「剣禅一如」の人、山岡鉄舟の開いた「春風館道場」の入門者に対する心構えは次のようであった。(1)無刀流剣術者、勝負を争わず、心を澄まし胆(きも)を練り、自然の勝を得るを要とす。(2)事理(じり)の二つを修行するにあり。事は技なり理は心なり。事理一致の場に至る。是を妙処となす。(3)無刀とな何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依(よ)らずして心を以(もっ)て打つ。是を無刀と謂(い)う。其(そ)の修行は刻苦工夫すれば、たとえば水を飲んで冷暖自知するが如く、他の手を借(かり)らず、自ずから発明すべし。
      (二)
ある時、「春風館道場」で懐中時計が紛失した。学頭(統轄者)の中田誠実が調べた結果、某が盗んだことが判明した。中田は全員を待たせて、山岡鉄舟のところに行き「不都合だから某を破門願いたい」と、鉄舟に訴えた。鉄舟は「それは待て、泥棒をするなということを、皆にいわなかったのは俺の手落ちだ。これからは、春風館道場では、嘘(うそ)と泥棒(どろぼう)はしないという規則にしよう」と鉄舟は先ず己(おのれ)の不徳を詫びた。続けて「悪いことをしたといってすぐに破門するのでは、稽古する必要が無いじゃないか。破門するのは殺すのと同じ事だ。悪いのを直すのが稽古なんだ。おれも目が行き届かないから、君を学頭にしているんだから、俺に代わって良く気をつけて貰いたい」。中田は、冷や汗をかきながら鉄舟の前をひきさがった。憤って出て行った中田が、しょげて帰ってきたのをみな変に思った。中田は紛失した時計にはふれないで「師匠の意見で道場に規則ができたんだ。うそとどろぼうはしない。これが新しい規則だ」。こうして二条が春風館道場の規則となった。


(小話898)「駅舎(えきしゃ)の一夜」の話・・・
         (一)
孟不疑(もうふぎ)という挙人(きょじん=進士(しんし)の試験に応ずる資格のある者)があった。昭義(しょうぎ)の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、*青(しせい)の張(ちょう)という役人が数十人の供(とも)を連れて、おなじ旅舎(りょしゃ)へ乗り込んで来た。相手が高官とみて、孟(もう)は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲(きょごう)を憤りながら、自分は西の部屋へ退(しりぞ)いた。張(ちょう)は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅(しょうべい)を持って来いと怒鳴(どな)った。どうも横暴な奴だと、孟(もう)はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟(もう)はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤(ばん)にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。それは猪(しし)のようなものであるらしく、燈火(あかり)の下へ来てその影は消えた。張(ちょう)は勿論、ほかの者もそれに気が注(つ)かなかったらしいが、孟(ちょう)は俄(にわ)かに恐怖をおぼえた。
     (二)
「あれは何だろう」孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟(もう)はどうしても眠ることが出来なかったが、張(ちょう)は酔って高鼾(たかいびき)で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張(ちょう)の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更(さんこう=午後11時〜午前1時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯(ただ)ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣(きもの)を着た男が張(ちょう)と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲(なぐ)り合う拳(こぶし)の音が杵(きね)のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。
     (三)
五更(ごこう=午前3時〜5時)に至って、張(ちょう)はまた起きた。僕(しもべ)を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟(もう)に挨拶した。「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚(はなは)だ失礼をいたしました」それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。昨夜は甚だお恥かしいところを御覧(ごらん)に入れました。どうぞ幾重にも御内分にねがいます」相手があやまるように頼むので、孟(もう)はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。別れるときに、張は靴の中から金一*(きんいってい)を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。
     (四)
何がなんだか判らないが、孟(もう)は張(ちょう)に別れて早々にここを出発した。まだ明け切らない路(みち)を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。その仔細(しさい)を聞きただすと、*青(しせい)の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗(すこぶ)る奇怪なものであった。孟がひと足さきに出たあとで、張(ちょう)の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。あかつきはまだ暗い。途中で気がついてみると、馬上の主人はいつか行くえ不明になって、馬ばかり残っているのである。さあ大騒ぎになって、再び駅舎へ引っ返して詮議すると、西の部屋に白骨が見いだされた。肉もない、血も流れていない。ただそのそばに残っていた靴の一足によって、それが張(ちょう)の遺骨であることを知り得たに過ぎなかった。こうしてみると、それが普通の賊の仕業(しわざ)でないことは判り切っていた。駅の役人も役目の表として賊を捕えるなどと騒ぎ立てているものの、孟(もう)にむかって窃(ひそ)かにこんなことを洩らした。「この駅の宿舎には昔から凶(わる)いことがしばしばあるのですが、その妖怪の正体は今にわかりません」
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話897)「戦乱の宿命に生きた絶世の美女、細川ガラシャ。その数奇な短い悲運の生涯」の話・・・
        (一)
戦乱の世で「容貌の美麗比類なく、精神活発、鋭敏、果敢、高尚で才知は卓越していた」(「日本西教史」より)と言われた細川ガラシャ(本名、細川珠(玉=たま)、又は玉子(たまこ))は、1563年(永禄6年)に、父、明智光秀と母、煕子(ひろこ)との間の三女として美濃に生まれた。目鼻立ちがくっきりとしていて、玉の様に美しい赤ん坊であったので、父、光秀は珠のように素晴らしい女性に育つと考え、珠(たま)と名付けた。珠は、幼少の頃から母の苦労と父の汗を見て育った。清貧の中で両親の夫婦愛を見つめ、そして親の訓育をじかに受けて成長した。既に7才の頃の珠(たま)について、容貌の美しきことたぐいなく、楊貴妃桜(ようきひざくら=八重咲きの桜で淡紅色に染まる里桜)を見るようなあでやかな美貌、と記録に残っており、利発さと共に、その美しさは7才にして早くも人の目を集めた。1578年(天正6年=15歳)、珠(たま)は15歳の秋、父の主君、織田信長に勧められて、父、光秀(近江の坂本城主)の盟友であった隣国、山城国勝竜寺城主、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の嫡男、忠興(ただおき=15歳)と結婚した。美貌をうたわれた珠(たま)の花嫁行列は、坂本から京に入るや、沿道の見物衆を分けて、京の西郊、勝竜寺城(京都府長岡京市)入った。この頃、すでに二人の姉は、摂津伊丹城主の嫡男と近江高島城主に、それぞれ嫁いでいた。忠興(ただおき)は珠(たま)の美貌に心奪われ、とても仲のよい夫婦で、1579年(天正7年=16歳)には長女(於長(おちょう)、のち前野長重の妻となるが出家=安昌院)が、1580年(天正8年=17歳)には長男、忠隆(ただたか=後の長岡休無)が二人の間に生まれた。1582年(天正10年=19歳)、父、光秀による「本能寺の変」で織田信長が死亡した。このとき、光秀は以前からの盟友である細川藤孝・忠興父子に加勢を求めたが、すでに丹後宮津城へ「本能寺の変」が伝えられた際に細川家では秀吉の力が強い事を見越し、細川藤孝(幽斎)と忠興は剃髪して信長の死を悼み、光秀に味方しなかった。「本能寺の変」から12日後に、光秀は羽柴秀吉らの急襲にあい「山崎の合戦」で敗死した。このため、珠(たま)は「逆臣の娘」となった。「本能寺の変」が起こった際、細川家の舅(しゅうと)である藤孝は忠興(ただおき)に珠の自害を迫った。家臣たちも同様だったが、忠興は珠を愛していたがために身を張って父たちに抵抗した。そして、表向き珠(たま)を離縁し、丹後半島の山奥の味土野(みどの)に匿(かくま)うという事で父たちを説得した。忠興は妻の珠を生まれたばかりの子供から引き離して、まず明智領の味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後の国、味土野に屋敷を作って、1584年(天正12年=21歳)まで隔離、幽閉した。この間の1583年(天正11年=20歳)、忠興と珠の次男、興秋(おきあき)が出生した。隔離、幽閉された間の珠を支えたのは、父、光秀が珠の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)らの侍女達だった。一方、「本能寺の変」で、逆臣の汚名を着た珠の上の姉と母、熈子は明智秀満(あけち・ひでみつ=明智光秀の重臣)が守る坂本城の落城の中で死に、次の姉も近江の高島城で殺された。
(参考)
@明智光秀・・・織田信長の筆頭重臣で、当時随一の鉄砲の名人と言われ、優秀な鉄砲隊をもって昇進し、近江の坂本城主となった。主君、織田信長には、苛烈といわれる気性があり、ある時、斉藤利三(光秀の重臣)の件を巡って信長は自分の命令を聞けと迫り、光秀が信長の意見に逆らった時に、光秀の髪をつかみ床を引きずり回し、廊下の柱に何度も打ち付け、刀で切ろうとした。この時、光秀は「たとえ一国を失っても利三を手放すことはしない」と抵抗し利三を手放さなかった。光秀が織田信長に対する謀反(本能寺の変)を計画し、それを秀満(光秀の重臣)と利三だけに打ち明けた。秀満は賛成したが、利三はその無謀さから反対したが、主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなった。
A煕子(ひろこ)・・・1545年、元来は大変綺麗で又、賢い女性であった煕子(ひろこ)は明智光秀と婚約するが、その後、疱瘡(ほうそう)にかかり、体中にあばたが残ってしまった。父・範煕(のりひろ)は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。その後、夫、光秀の本拠の落城、浪人生活、朝倉家・足利家・織田家仕官という多難な日々の中で、煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたという。光秀が重病となった時に、必死に看病したものの、自身がその看病疲れが元で病死したという。しかし、坂本城落城のときに死亡したという説もある。
B織田信長・・・戦国時代の武将。1560年、今川義元を桶狭間(おけはざま)で破って頭角を現わし、以後、諸群雄を攻め従え、1573年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。そして、安土城を築いて全国統一に乗り出した。信長は、家柄・門閥主義の人材登用を無視し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)などの有能な人材を思い切って登用していた。その一方で、信長は旧室町幕府の家臣であった細川藤孝や明智光秀を登用した。1582年、天下統一を目前に明智光秀の急襲を受け、本能寺で自刃。
C「本能寺の変」・・・1582年(天正10年)、明智光秀は羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の6月2日(西暦6月21日)早朝、桂川を渡り、京へ入る段階になって光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君、信長討伐の意を告げた。かくして光秀は信長が宿泊していた京都の本能寺を二手に分けて急襲し、信長を包囲、僅かな兵のみに守られていた信長を自害させた。また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。しかし、光秀の軍団に属し、縁戚関係をもつほど親交のあった細川藤孝(戦国の世を生き抜いた藤孝は、明智光秀に天下人の器量があるとは考えていなかった)・忠興父子の協力が得られず、「山崎の合戦」で秀吉軍に敗れ、光秀は居城の坂本城に戻る道すがらに土兵によって命を落とし、光秀の「三日天下」は終わった。
        (二)
丹後(京都の北部)の国、味土野(みどの)に屋敷に隔離、幽閉された中、美貌と才知に長(た)け、誇り高く、烈しい性格であった珠(たま)も、優しかった父母の死を嘆いていた。貧しかった越前の頃、髪を売って夫を助けた母。そして三人の娘を育て、嫁がせた母は、父の敗北に殉ずるように坂本城落城の火の中で自刃してしまった。明智一族は滅亡し、一人残されることになった珠(たま)は、父の光秀のことを偲(しの)んだ。珠の知っている父は、人から誹謗されるような人ではなく、神仏を尊崇し、部下をいたわり、それに誰よりも家族を愛した人であった。その父が主君である信長を討つには、それだけの理由があるはずであった。その理由を誰よりも知っていたのは父、光秀の盟友である舅(しゅうと)の藤孝(ふじたか)であり、夫の忠興(ただおき)であった。にもかかわらず、舅と夫は父を裏切り、秀吉軍について父を追い詰めて敗死させた。珠はそんな舅と夫を怨み、二人の幼子(おさなご)を思って苦しんだ。そんな中、親しい侍女、清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)によって、珠の心は少しずつ和らいでいった。「どうしてそなたはそんな穏やかな顔をしていられるのです」という珠(たま)に「天にまします主が見守ってくださっていますから」と侍女は答えた。清原は京にいた頃、安土のセミナリオ(神学校)に出入りし、切支丹の教えに触れていたのであった。清原いとは戦乱の中で、山中に捨てられた孤児たちを探しだし、救済する仕事をしていた。珠は心の安定をキリスト教の教えに求めて、キリストへの信仰に興味を持った。この味土野には、15戸ばかりの平家の落人(おちゅうど)と言われる人たちが、世間から離れてひっそりと暮らしいた。ある時、珠(たま)の住まいの庭に、部落の幼い子供がよちよちと歩いて珠に抱かれた。部落の人たちは、身分の高い珠(たま)が部落の幼子を抱き上げるのを見た。それ以後、部落の子供たちが多く珠の所に遊びに来る様になり、珠も子供達の為におやつを用意して可愛がったという。
        (三)
1584年(天正12年=21歳)、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取りなしもあって、忠興(ただおき)は妻の珠(たま)を細川家の大坂屋敷に戻した。味土野(みどの)の幽閉を解かれた珠は、子どものいる大阪、玉造の細川屋敷に入った。しかし、二年余の隔離で、子どもたちが母の顔を忘れていたことが珠を悲しませた。ある日、忠興からクリスチャン大名として当時、名高かった高山右近の屋敷へ行った時に右近が話したキリスト教の話しを珠は聞いた。忠興と右近は当時「利休七哲」に共に名を連ねる茶の湯の友達として大変親しくしていた。忠興が何気なく話した、高山右近の信仰の話しを、キリスト教に関心を持っていた珠が喜んで聞く様子に、忠興はただ珠を喜ばせよう、という一心で、この右近の信仰の話しを伝えた。「婦人(ガラシャ)は信長を討った明智光秀の娘であり、彼女は霊魂の不滅を否定する日本人のある宗派に属していた。それゆえ、この婦人は深く憂愁に開ざされ、ほとんど現世を顧みようとはしなかった。奥方の態度は夫を心配させることが多く、二人はしばしば言い争っていた。越中殿(忠興)は高山右近殿と親密な間柄であった。越中殿は右近殿から天主と宗教とに関した種々の話を聞き、この問題について奥方に語った。それは全く初めて耳にする話であったが、奥方は非常な理解力と聴明とをそなえた人であったから、聞いた事柄をしばしば深く考え、問題をもっと根本的に知ろうと熱望するようになった。けれども奥方はこの気持ちを少しも夫にもらさずに、憧れを満たすのに好機の来るのを待っていた」(ブレネスティノ書簡(平戸発 1587年)より)。忠興は決して信仰には入らなかったが、妻の珠には礼拝する部屋を作ってやり、彼女の信仰心については、自由にさせていた。それは夫、忠興が嫉妬心のために珠を屋敷から外出を許さなかった言い訳でもあった。そのため、珠は教会へ行こうにも屋敷から一歩も外に出られなかった。1586年(天正14年=23歳)忠興と珠の三男、忠利(ただとし)が丹後で生れた。
(参考)
@キリシタン大名、高山右近・・・キリシタン大名。茶人。洗礼名ジュスト。高槻城主・明石城主。荒木村重・織田信長・豊臣秀吉・前田利家に次々に従ったが、1614年江戸幕府の禁教令で追放され、マニラで没。
A忠興が嫉妬心のために・・・忠興は気性の荒い勇猛果敢な武士で、珠夫人は沈着冷静で物に動じない人と言われていた。
(1)ある時、夫人が屋根の雀の巣を子どもたちの為に取って欲しいという事で、下男が取りに上がり、誤って屋根から滑り落ちた下男を忠興は見とがめて、不届き者、と言って一刀両断に切り捨て、夫人の袖で血をぬぐった。夫人は忠興の行為に抗議する意味で、それを着替えず何時までも着ていた所、忠興は「蛇の様に執念深いおなごじゃ」と評した。それに対して夫人は「鬼の女房には蛇が似合い」と平然として答えたという。
(2)ある朝、庭師に何気なく夫人が朝の挨拶の言葉をかけ、庭師がそれに答えた所、忠興はなれなれしいと怒り、庭師のクビを切って落とし、その生首を夫人の食膳の上に載せた。が、彼女は顔色一つ変えなかったという。
        (四)
1587年(天正15年=24歳)1月、羽柴秀吉は豊臣秀吉と名乗り、九州征伐を始め、これに秀吉の信頼篤い忠興(ただおき)も参戦した。忠興が九州征伐のため大坂を発ったのを見て、珠(たま)はかねてから興味のあった教会へ行こうと心に決めた。しかし、忠興の命(めい)で厳重な監視下に置かれ外出することは困難であったので、珠は、侍女の清原と相談して病気と偽り部屋に引きこもった。その後、彼岸(ひがん)でお宮参りをするという口実で侍女たちに混じって屋敷を抜け出し、教会へ辿(たど)りついた。珠は初めて見る美しい聖堂、そして宣教師の説教に深い感動を受けた。細川邸に戻った後、珠は宣教師と手紙を通じて、信仰や自ら抱いた疑問などを質問することにした。この年7月、豊臣秀吉はキリシタン追放令(@日本は神国により切支丹の宗門を禁ず。A神父、修道士は海外に追放する。等)を発し、司祭たちは大阪を立ち退くことなった。珠(たま)はその知らせを聞くと、もし秀吉が大坂に帰還後キリシタンを迫害するならば、自分はその婦人たちと共に殉教する準備があることを宣教師に伝え、改めて自身の洗礼を願い出た。「奥方は、宣教師が(大坂を)出発する前にどうか洗礼を授(さず)けてくれるようにと願ってきた。そこで宣教師のオルガンティノは奥方を吉利支丹として残しておこうという決意を固めた。けれども奥方が屋敷から出ることはできなかった。それ故われわれは秘かにかのキリシタン婦人の一人(清原マリア)に洗礼の要文を託し、洗礼を授ける方法を詳しく教えた。--------- 奥方は受洗によって非常に励まされ、信仰のために死のうとまでの熱意に満たされて、決心を固めたのである。奥方はきわめて丁重に礼をのべ、自分の信仰の忠実に関しては十分に安心してくださるようにとわれわれに伝えてよこし、われわれが出発する直前、奥方はさらに多額の銀を施物として贈ってくれ、旅行に最も必要なものを与えてくれた」(ブレネスティノ書簡(平戸発 1587年)より)。「宣教師たちは清原マリアに洗礼の式を教え、奥方にはもし司祭から受けられない場合は、誰からでも受けられ、それは正当なものであるということを申し伝えた。こうして奥方は清原マリアから洗礼を受けることができ、それによって非常に満足した。奥方は信心に満ちあふれて洗礼を受け、清原マリアの手によってガラシア(恩寵、恵み、恩恵)の霊名を受けたのである」(フロイス書簡(有馬発1588年)より)。
        (五)
洗礼を受けてからのガラシャ(珠)は、憂欝であったのが明るく元気に、頑(かたく)な烈しい性格は一変して優しい穏やかな性格になり、一家一門の人々も驚くほどだった。またガラシャと親しいキリシタン婦人たちは、忠興(ただおき)が戦場から帰られて奥方のこういう著しい変化を御覧になったならば、おそらく御自身もキリシタンに帰依なされるであろうと噂した。しかし、九州から凱旋した忠興は、これを許そうとはしなかった。そればかりか、切支丹の侍女たちを極刑に処し、珠(たま)にも棄教を迫った。忠興は、秀吉の切支丹禁令を気にしてのことで、すでにこの頃、宣教師や切支丹大名、高山右近の国外追放や長崎における切支丹処刑が行われていた。しかし、珠は棄教することには抵抗した。1588年(天正16年=25歳) ガラシャ(珠)は、宣教師に手紙を送り忠興との離婚を訴えた。しかし、カトリックは元来離婚を禁じていたし、宣教師の「困難に出会ってこそ、人の徳は最も良く磨かれ美しい光を放つ」との言葉に救われ、又、ガラシャの希望する隠遁生活にも反対し「一つの十字架から逃れる者は、いつも他の大きな十字架を見出す」と説得した。このころガラシャは、信仰生活にはいっており、屋敷内に孤児達を引き取り、世話をしたり、周囲の人たちへの伝道を行っていた。ガラシャの感化によって、侍女達の殆ど、又、家臣たち、更に忠興の弟、子供達などが次々と受洗していった。この年、忠興とガラシャ(珠)との間に娘、多羅(たら)が出生した。1591(天正19年=28歳) 秀吉の嫡男、鶴松(2歳)が病気で亡くなった。秀吉は、関白職を養子、秀次に譲った。1592年(文録1年=29歳) 秀吉は、諸大名に二度目の朝鮮征伐の出陣を命じ、忠興も、朝鮮征伐のため出陣した。1593年(文録2年=30歳) 秀吉の息子、秀頼が出生した。そして日本と明が和解し、忠興が朝鮮より帰国した。1595年(文録4年=32歳)謀反の嫌疑により関白秀次は秀吉の命令で切腹させられた。前野長重も秀次に連座して切腹し、長重に嫁いでいたガラシャの娘、於長(おちょう)は忠興に預けられた。又、忠興は、秀次から借金をしていたため秀吉から疑われ、謹慎を命じられた。そこで忠興は、徳川家康から黄金100枚を借りて借金を返済し、秀吉に於長(おちょう)の助命を嘆願して許され、於長は出家(安昌院)した。
        (六)
1598年(慶長3年=35歳)、豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。秀吉が死んで、切支丹弾圧の嵐もおさまった。この秀吉の死を喜んだのはガラシャ(珠)や切支丹ばかりではなく、ガラシャの美しさが女好きの秀吉の目に触れることを恐れていた忠興もその一人であった。1599年(慶長4年=36歳)1月に豊臣秀頼(6歳)は伏見城から大坂城へ移った。3月に前田利家が亡くなると、秀頼を擁する石田三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正など(福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明)の7将が激しく対立した。その時、仲裁に乗り出した家康により三成と7将の和談が成立した。この頃、忠興は、ガラシャのために大坂玉造邸内に聖堂を建てた。やがて石田三成と徳川家康の対立は激化し、細川家では三男の忠利を人質として江戸に送った。そして、徳川家康から豊後6万石を加増された。1600年(慶長5年=37歳)、徳川家康が三成派の上杉討伐(「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」)に兵を起こした。これは関ヶ原の戦いの前哨戦で、その家康に従って行く前に忠興は、三成がガラシャを人質に取ることを恐れて「大阪城に入るな(人質にならず自害せよ)」と言い残した。一方、石田三成は大阪城下に屋敷を構える家康方の大名から人質を取る事を企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向けた。そしてガラシャに人質になるよう強要したが、ガラシャはこれを敢然と拒否した。三成方の兵五百に囲まれ、このことがあることを覚悟していたガラシャは白無垢に着替え、奥の一室にこもった。そしてガラシャは、キリスト教では自殺が許されないため、老臣の小笠原小斎に命じて薙刀(なぎがた)で胸を突かせた。小笠原少斎らは屋敷に火を放って切腹した。「散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ」(細川ガラシャ、辞世の歌)。享年37歳。小笠原少斎に胸を突かせた壮絶な死は、かえって石田三成方に衝撃を与え、以後、人質作戦は中止された。こうしたガラシャの犠牲によって、忠興はじめ徳川軍は後顧の憂いなく戦いを進め、関ヶ原の戦いに大勝をおさめることができた。
(参考)
@秀吉が伏見城で亡くなった・・・自分の死後、幼い跡継ぎの秀頼の行く末を案じた秀吉(「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言など)は、秀頼を盛り立て豊臣政権を守っていくための制度として五大老(立法機関)と五奉行(実務を司る機関)を定めた。五大老---徳川家康(東軍の総大将)、前田利家(跡を継いだ長男、利長は東軍に味方)、毛利輝元(名目上の西軍の総大将)、上杉景勝(西軍に味方)、宇喜多秀家(西軍の主力)。五奉行---石田三成 (実質上の西軍の総大将)、増田長盛(西軍に参加するも傍観)、長束正家(西軍に参加)、前田玄以(東軍に味方)、浅野長政(東軍に参加)。
A薙刀(なぎがた)で胸を突かせた・・・侍女たちは共にガラシャ夫人と死ぬ、と皆が申し出たが、ガラシャ(珠)は、それはしてはいけない、自分だけで十分だと言って、侍女たちをまず逃がした。又、長年、信仰を共にして来た清原マリアに二人の子供を託し、逃れさせた。そして、霜と糸という侍女が最後まで残り、この侍女に自分の最後の模様と辞世の句、遺書を忠興や近親の者たちに届ける事を依頼した。それが現在、「霜女覚え」として、ガラシャ夫人の最後を伝える事となった。
B散りぬべき、時知りてこそ、・・・辞世の句「散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ」は同時代の武将が似たような辞世を詠んでいいるので、本歌があるのかもしれないという。細川ガラシャ夫人の御和歌---(1)「味土野幽閉中、心の悩みを詠んだと伝わる歌」身をかくす、里は吉野の、奥ながら、花なき峰に、呼子鳥(よぶこどり=カッコウ、又はヒヨドリ)啼く。(2)「村に疫病が流行ったときに詠んだと伝わる歌」いかでかは、御裳濯(みもすそ)川の、流れくむ、人にたらん、疫療の神。(3)「亡くなる前に、忠興に宛てた和歌」さきだつは、同じ限りの、命にも、まさりてをしき、契りとぞ知れ。
C享年37歳・・・細川家においては、ガラシャの死はお家安泰の礎石として称えられ、熊本にある細川家の菩提寺、泰勝寺では、領主並みに篤くまつられた。又、ガラシャの一周忌をキリスト教形式で行い、その後のキリシタン弾圧でもガラシャの墓石は細川家で手厚く保護された。
D細川家屋敷・・・忠興(ただおき)と珠(たま)の間には3男2女が生まれたが、忠興の後は三男の忠利が継いだ。長男、細川忠隆の正室の千世は前田利家の娘であった。忠興の妻ガラシャ(珠)が大坂屋敷で自害した際に千世は脱出して生き延びた。忠興はこれを咎め千世を離縁して前田利長の前田家と縁を切るよう忠隆に命じた。しかし忠隆は千世を庇(かば)い離縁を承知しなかったため、忠興は忠隆を追放し廃嫡とした。そのため後に忠隆は千世と長男を連れて京都で隠居した。次男の細川興秋は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に味方したため、戦後に父の命を受けて自害した。
Eガラシャの話は海を渡り遠くヨーロッパまで広がり、ガラシャを題材とした戯曲「気丈な貴婦人ガラーシャ」(グラーシャ)が作られ、神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日である1698年7月26日に初演され、ヨーロッパ中でロングランの大ヒットとなった。実にガラシャの死から98年後のことである。
「細川ガラシャ(細川珠)」の絵はこちらへ
「細川ガラシャ(細川珠)」の像の絵はこちらへ


(小話896)「イソップ寓話集20/20(その35)」の話・・・
        (一)「イナゴを捕まえる少年」
ある少年がイナゴを捕まえていた。そしてかなりの数が集まったのだが、少年は、イナゴと間違えてサソリに手を伸ばそうとした。するとサソリは、鋭い毒針を振り立てて少年に言った。「さあ、捕まえてごらん。君のイナゴを全部失う覚悟があるならね」。
(友だちを作るなら、ちゃんと見定めてからにせよ。見誤って悪い友だちを作ろうものなら、善い友だちを一瞬にして失うことになる)
        (二)「オンドリと宝石」
オンドリが餌を探していて、宝石を見つけた。すると、オンドリはこう叫んだ。「なんと詰まらぬものを見つけたことか! 俺にとっちゃ、世界中の宝石よりも、麦一粒の方がよっぽど価値がある」
        (三)「ライオンの御代」
野や森の動物たちは、王様にライオンを戴いていた。ライオンは残酷なことを嫌い、力で支配することもなかった。つまり、人間の王様のように、公正で心優しかったのだ。彼の御代に、鳥や獣たちの会議が開かれた。そこで彼は、王として次ぎのような宣言をした「共同体の決まりとして、オオカミと仔ヒツジ、ヒョウと仔ヤギ、トラとニワトリ、イヌとウサギは、争わず、親睦をもって、共に暮らすこと……」。ウサギが言った「弱者と強者が共に暮らせるこんな日を、私はどんなに待ちこがれたことか……」。ウサギはそう言うと死にものぐるいで逃げていった。
(地上の楽園などこの世にはない)


(小話895)「(ジャータカ物語)鹿王ナンディヤ」の話・・・
      (一)
昔、古代コーサラ国の初期の都サーケータに、たいへん鹿狩りの好きな王が国を治めていた。農村の人々にも畑仕事すら禁じて、辺り一帯をすべて鹿狩りに使っていた。家来も毎日、そのお供をしなければならなかった。これでは人々は作物一つ収穫できず、生活が不安になっていた。そこで人々は、寄り集まっては相談した。「牧場の牛のように、鹿を一つの囲いの中に集めてしまうのはどうだろう」。「それはなかなかいい考えだ」。「まずアンジャナ林の庭園を取り巻く門と壁を造り、その中に森の鹿を追い込もうじゃないか」「そうしたら門を閉めてしまい、王さまは好きな時、好きなだけ鹿を殺せばいい」「我々は自分の仕事ができるというものだ」。こうして、みんなは勢い込んでこの仕事に取りかかった。このころ、森にはナンディヤという優(すぐ)れた鹿の王(釈迦の前生)がいた。頭が良く、堂々としていて、たいへん親孝行であった。ある日、ナンディヤ鹿王と両親が住む藪(やぶ)の近くにも、村人達がやってきた。ナンディヤ鹿王は両親から村人を引き離すため、おとりになって自分から藪(やぶ)の外へ飛び出した。村人たちは、ナンディヤ鹿王を捕まえると、他の鹿と一緒に囲われた庭園の中に入れてしまった。ナンディアヤ鹿王にとって囲いを飛び越えることは、とてもたやすいことであった。しかし仲間達をおいて自分だけ逃げるわけにはいかないと、囲いの中に残っていた。それからというもの、王は毎日、鹿を一頭ずつ射(い)殺して遊んだ。鹿たちは、ただ震えながら自分の順番を待つしかなかった。みんな食欲をなくし、恐怖の中で毎日を過ごしていた。だが、ナンディヤ鹿王だけは、落ち着いて池の水を飲み、牧草を食べて堂々と暮らしていた。彼の順番はなかなか来なかった。そうやって月日が過ぎていった。
      (ニ)
囲われた庭園の外では、ナンディヤ鹿王の両親が、息子の身の上を心配しながら毎日を過ごしていた。「あの子は象ほどの怪力なのだから、どんなことをしたってわたしたちの所へ帰ってこられるはずなのに」と言う母の言葉に、父もうなずいて言った「あの子は強い足を持っている。園の柵(さく)など一飛びで越せそうなものだ。あの子の所へだれかに使いにいってもらおうではないか」。両親は早速、道で出会った、都へ上る一人の男に伝言を頼んだ。「わたしどもはご覧のように年老いております。愛する息子の顔が見たいし、また彼かそばにいてくれないと心細くてたまりません。あの子が、自分の強い足で柵を飛び越え、早くわたしどもの所へ帰ってきてくれることを願っていると、そう伝えてください」。男は快く承諾し、サーケータの都へ着くと、早速、鹿が囲われている庭園に出かけた。そして大きな声で言った「ナンディヤ、園の外でお前の両親はとてもお前を案じているよ。お前は象にも負けない力があるし、足も強い。どうして柵を飛び越えて会いにいってあげないのだ。あんなにお前の顔を見たがっているのに」「わたしは飛び越えたければ、いつでも柵を飛び越えられます。けれどもそれでは、飲食をさせてくださっている王さまにご恩が返せません。それに、ここにいる大勢の鹿たちとも長くいっしょに暮らしました。わたし一人逃げて帰るわけにいかないのです。わたしは王や仲間の鹿に、なすべきことをなしてから帰ります」とナンディヤは答えて、次のような詩を唱えた「青い草々、飲み水も、すべては王の、くださる物。どうして黙って、立ち去れよう。王の射る矢を、身をもって、わたしは笑って、受けましょう。それで許して、くれるなら、再び母に、会えるでしょう」。
      (三)
そしてとうとう、ナンディヤ鹿王の順番がやって来た。王や大勢の家来に見つめられながら、ナンディヤ鹿王は園の片すみにじっと立っていた。ほかの鹿のように死を恐れ、悲しい声を上げて逃げ回ったりはしなかった。ゆったりと立ち、彼はまるでなにかを教え諭(さと)しているような威厳に満ちていた。王はどうしても矢を放つことかできなかった。鹿の偉大な風格に圧倒されてしまったのだ。「王さま、どうなさいました。早く矢をお放ちなさい」と鹿王ナンディヤが凛(りん)とした声で言った。「鹿王よ、どうしてもわたしにはそれかできないのだ」「王さま、いつも正しい道を歩み、気高い心を持つものの力がお分かりになりましたか」と鹿王はおごそかに言った。王は心を強く打たれるものを覚え、弓矢を捨てた。「鹿王よ、わたしを許しておくれ。命(いのち)のないこんな一本の矢だって、お前の徳の高さを知っていて弓から離れようとしなかった。それなのに、心というものを持っているわたしが、お前の気高さを感じる力がなかったのだ。わたしは恥ずかしい。お前を殺すことなどわたしにはできない」と言って王はナンディヤ鹿王の命を助けた。また庭園の中で、ただ死を待っていた鹿たちもすべて助けると誓った。そればかりではなかった。心を洗われた王は、この森に住むすべての獣、空の鳥、池の魚を安全に守ってやろうと決めたのであった。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話894)「「剣禅一如」の人、山岡鉄舟の臨終(10/10)」の話・・・
       (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。明治十三年(1880年)、鉄舟は四十五歳のときに小野忠明七世の孫の小野業雄から一刀流の組太刀を伝承され、一刀正伝無刀流(無刀流)を興し、明治十五年(1882年) 四十六歳で官職(明治天皇の侍従)を辞し自邸の裏庭に「春風館道場」を建立した。「山岡死亡の際は、おれ(勝海舟)もちょっと見に行った。明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢、人も集まっている。その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。おれは座敷に立ちながら「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃(ねはん)の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。それでおれも言葉を返して「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A勝海舟・・・幕末・明治時代の政治家。通称、麟太郎。蘭学・兵学を学び、万延元年(1860年)幕府使節とともに、咸臨丸(かんりんまる)を指揮して渡米。幕府海軍育成に尽力。幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。維新後、海軍卿・枢密顧問官などを歴任。著「吹塵録」「海軍歴史」、自伝「氷川清話」など。
       (二)
少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ」(勝海舟著「山岡鉄舟の武士道」より)。山岡鉄舟、享年五十三歳。「山岡鉄舟も、大久保一翁も、共に熱性で、切迫の方だったから、可愛そうに早く死んだヨ。おれ(勝海舟)はただずるいから、こんなに長生きしとるのサ」(勝海舟「氷川清話」より)。
(参考)
@山岡鉄舟、享年五十三歳・・・勝海舟は「人を殺す術を学んで、人を殺したことのないのは、それが即ち山岡鉄舟だ」と評し、西郷隆盛は「命も名も金も要らんという人は始末に困る、だが、この始末に困るような男でなくては、大事はできない」と評した。


(小話893)「(ジャータカ物語)牝鹿(めじか)の身代わりとなった金色の鹿王(その2/2)」の話・・・
      (一)
昔むかし、インドのペナレス(バラナシ=初説法の地)でブラフマダッタ王が国を治めていたときのこと。大きな森に、それぞれ五百頭の群れを率(ひき)いた黄金色のニ頭の鹿王が住んでいた。その頃、王様は鹿狩りに熱心で、人民に職業を休ませ、多くの人々を召集して、日々狩りに出掛けていた。人々は「こう頻繁(ひんぱん)に仕事を休ませられては生活に支障をきたす。王様が狩に出なくても、鹿肉を召し上がることが出来るようにできないものか」と考えた。そこで彼等は、ニ頭の鹿王が率いる群れを、大きな物音や武器で威嚇して、王様の御苑の中に追い込み、囲いの入り口を閉じた。王様は囲いの中に、二匹の立派な黄金色の鹿がいるのに気が付き、その二匹の鹿王には、身の安全を保証してやることにした。それ以来、王様や料理人がやって来て、弓矢で鹿を射ては持ち帰る日々が続いた。そのため鹿たちは弓矢を見る度に死の恐怖に脅かされて、安心して暮らすことが出来なかった。そこでニ頭の鹿王は相談して「我々、鹿が殺されるのはもはや逃れられないが、せめて弓矢で射られる恐怖を避けるために、犠牲になる鹿の順番を決め、一日は私の群れから、次の一日は貴方の群れからというように、覚悟を決めた鹿が断頭台に行くようにすれば、傷を負う鹿が最小限にとどまるだろう」と決めた。
      (ニ)
ある日、片方の鹿王の群れの中の妊娠した牝鹿(めじか)に順番が廻って来て、彼女は鹿王に「私のお腹には子供がおりますので、その子を産んでから当番を受けますから、それまで猶予を頂けないでしょうか?」と懇願したが、自分の群れの鹿王は冷たく拒否した。そこで牝鹿は、もう一方の鹿王(釈迦の前生)のところに行き、このことを訴えた。こちらの鹿王は「よろしい、わたしがお前の順番を引き受けて上げよう」と言って、自分が身代わりになった。料理人がそれを見て王様に報告した。「鹿王よ、私は貴方の身の安全を保証してあげたのに、何故、断頭台に横たわっているのですか?」と聞いた。鹿王は事情を説明し「ある者が受けるべき死の苦しみを、私の意向で他の者に被(こうむ)らせるわけにはいきません。私が作った規則を私自身が破ってしまったら、鹿の群れの規律は完全に乱れてしまいます。そこで私自身が彼女の死を引き受けることにしたのです」と答えた。王様は、この鹿王の立派な態度に感銘を抱き「黄金色の鹿王よ、私は今まで人間の中でも、それほどの忍辱・慈悲・憐れみの徳を備えた者を見たことがありません。貴方のお陰で私の心は清まりました。お立ちなさい、貴方にも彼女にも安全の保証をあげましょう」と言うと「大王様、私たち二人だけは安全を保証されて、群れの統治ができるのでしょうか?」王は「では皆の命を保証します。森に帰してあげます」 と約束した。鹿王が「でも、鹿だけが殺されないで森に住むと、他の動物に申し訳ないと思います」と言うと、王は「自分のことより皆のことを思うあなたの性格が、誠に素晴らしい。今日から、私の国の全ての生き物の命を、大事に守ってあげましょう。今日から、殺生をやめます」と、約束した。その後、鹿たちが人々の穀類を食べても、人々は安全を保証された鹿を乱暴に追い払うことが出来なくなった。人々は宮廷に集まってこのことを訴えると、王様は「私は信仰心の故に黄金色の鹿王と約束したのであるから、たとえ私が領土を失っても、この約束は破らない」と答えた。これを知った黄金色の鹿王は鹿たちを集め「これからは人々の穀類を食べて迷惑をかけてはいけない」と諭(さと)し、そして人々には、鹿が入ると困る場所に葉を結びつけて目印にするように言った。それ以来、どの田にも目印として葉を結びつる風習ができ、そこに立ち入る鹿はいなくなった。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話892)「山岡鉄舟と若き明治天皇(9/10)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。明治五年(1872)鉄舟が三十七歳の時、西郷隆盛のたっての依頼により10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えた。そして明治天皇の教育に腐心し、それが成ると、10年後に約束通り官職を退(しりぞ)いた。「やはり明治天皇が偉大な天皇でいらしたという気持ちは強くありますね。私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様(明治天皇)を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。山岡は賊軍であ幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転(ころ)がしてしまう。わざと負けてあげて、「お強いですね」と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた」(寛仁親王・談)。
(参考)
@天皇様(明治天皇)・・・明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
A山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。鉄舟は、生涯ただの一度も人を斬ることなく、そればかりか、動物に対する殺生さえも戒めた人物で、「無刀流」の極意も「無刀とは、心の外に刀なきなり。敵と相対するとき、刀によらずして心をもって心を打つ。これを無刀という」といっているように、刀を使用することを禁じた剣法だった。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従(鉄舟が侍従に任ぜられた鉄舟37才、天皇20 才)になった。
B寛仁親王(ともひとしんのう)・・・日本の皇族で三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第1男子。髭をたくわえた容貌から「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれる。ェ仁親王は曾祖父・明治天皇との容貌の類似を指摘されるきっかけにもなった髭を蓄え、剛直で豪放磊落な性格である。一方で良く繊細な面を垣間見せることもあり、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、結局離脱する事は無かったものの、一時「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった。
      (ニ)
ある時、若き明治天皇が酒の席で、侍従の鉄舟に相撲をいどんだ。無論、鉄舟は断った。すると天皇は「それなら座り相撲じゃ」といきなり飛びかかった。が、剣禅一如で鍛えた鉄舟の体は微動だにしない。意地になった天皇は、拳をかためて鉄舟の目を突こうとした。さすがに鉄舟も体をよけたが、そのため天皇はもんどり打って倒れ、顔をすりむき血が滲(にじ)んだ。さあ大変と、周囲のものが騒ぎ立てて、鉄舟にお詫びしろとすすめた。だが鉄舟は頑として応じない。そして、こういった。「一身は、もとより陛下にお捧げしたものだから眼の一つや二つは惜しくはない。だが、陛下が酔狂で臣下の眼を砕かれたとあっては、後世「暴君」の汚名を冠せられることになるだろう。それでは侍従とはいえない。もし陛下が、拙者の処置がまちがえていると仰せなら、この場を借りて腹かき切ってお詫び申し上げるが、いかが」。天皇はそれを聞いて「私のほうが浅慮であった」と即座に謝ったと言う。鉄舟が、10年間の期限を切って侍従に就いたのは、金や名誉のためではない。ただひたすら名君になってもらいたかったからだ。だから彼は、その俸禄をほとんど困った人にあげて、自分は死ぬまで清貧を通した人でもあった。
(参考)
@酒の席・・・明治天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。酒は気心許した人と飲むのが一番で、明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物の一人に山岡鉄舟がいた。
A侍従に就いた・・・宮中である日の晩餐で「わが国もこれからは法律で治めるようにしなければならぬ」という趣旨の議論がなされた。片岡侍従が「国家を治める大本は、道徳にありと存じます」。すると天皇は、鉄舟の意見を求められた。鉄舟は「恐れながら、法律のみをもって、お治めになりますれば、人民は伊勢の皇大神宮を拝まぬようになりはせぬかと、存じます」と答えた。


(小話891)「雪のように白い、美しい娘キオネと二人の神(アポロン神とヘルメス神)」の話・・・
      (一)
ギリシャ神話より。北風の神ボレアスは、天に輝く星の神アストライオスと暁の女神エオスの息子で、兄弟に、ゼフュロス(ゼピュロス)、ノトス、などの風の神がいた。北風の神ボレアスは暴力的な荒々しさを持っていて、彼はある時、アテナイ王エレクテウスの美しい娘オレイテュイアに言い寄るが、拒絶されてしまった。激怒した北風の神ボレアスは、彼女がイリソス河畔の草原で踊っているのを見つけると、雲に包みトラキアまで連れ去ってしまった。そこで彼女との間に、カライスとゼテスという双子の息子とキオネとクレオパトラという娘を生んだ。
(参考)
@北風の神ボレアス・・・(小話875)「風の神の四兄弟、ボレアス(北風)、ノトス(南風)、エウロス(東風)、ゼフュロス(ゼピュロス=西風)」 の話・・・を参照。
      (二)
北風の神ボレアスの娘キオネの、その名は「雪のように白い」という意味で、14歳の適齢期になると、その美しさに、大神ゼウスの息子である太陽神アポロンと伝令、泥棒の神ヘルメスが彼女に求婚した。太陽神アポロンは、老婆に姿を変えて彼女に近づき、同じく伝令、泥棒の神ヘルメスは杖で彼女の唇に触れて眠らせて、二人は彼女と無理矢理、関係を結んだ。そして彼女は、アポロン神の息子であるピラムモン(高名な吟遊詩人でデルポイで開かれる多くの音楽大会で勝利を収めた)、ヘルメス神の息子であるアウトリュコス(嘘と盗みの名人)という双子の神の子を生んだ。彼女が生んだ双子は神の力を継ぎ、素晴らしい青年に成長した。キオネはそれに満足し、いつかしか誇らしげになった。そして、その慢心が彼女の命を落とすことになった。ある時、月と狩猟の処女神アルテミスと比べて、自分の方が美貌で素晴らしいと口にしてしまった。それに激怒した月と狩猟の女神アルテミスは、矢を放ちキオネの胸を貫いた。キオネの死を悲しんだ太陽神アポロンは、彼女を鷹に変えられたという。
(参考)
@北風の神ボレアス・・・雪のように白いキオネは「暁の明星」の神エオスポロスの息子ダイダリオンの娘で、キオネが月と狩猟の処女神の矢で殺されると、ダイダリオンは深い悲しみのためパルナッソス山の崖から身投げをしたが、太陽神アポロンによって鷹に変身させられたという説もある。
Aアウトリュコス(嘘と盗みの名人)・・・(小話639)「シシュポスの岩。又は、神を欺(あざむ)いた男、コリントス王シシュポス) 」の話・・・を参照。
「ダイアナ(アルテミス)とキオネ」(不明)の挿絵はこちらへ
ダイアナ(アルテミス)とキオネ」(不明)の挿絵はこちらへ


(小話890)「山岡鉄舟と江戸開城(8/10)」の話・・・
      (一)
山岡鉄舟は「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれ、かつ「無刀流」を開き、明治期の剣の最高峰であった。鉄舟は幕府の中堅旗本、小野高福の4男として生まれた。旗本の子として生まれた鉄舟は、まず神陰流を学んだ。そして父が飛騨郡代として赴いた際、同行し、そこで北辰一刀流の使い手、井上八郎と出会い、北辰一刀流を学ぶことになった。父の死によって江戸に戻った鉄舟は、北辰一刀流の玄武館にて本格的に剣術を学ぶことになった。そこでは「鬼鉄」とよばれて、修行を重ね、講武所の師範代を勤めるほどになった。それ以前、鉄舟は高橋泥舟の兄の山岡静山に槍をまなんでいたが、静山の急死後、その妹を娶(めと)り山岡家を継ぐことになった。鉄舟の義兄、高橋泥舟は幕府講武所教授になり、幕臣攘夷派(幕府として外敵を追い払って国内に入れないこと)が泥舟の元に集まって、浪士隊を結成し、上洛する第14代将軍、家茂(いえもち)の護衛として京へ送り込むことにした。文久三年(1863年)山岡鉄舟は親交の深い清川八郎(きよかわはちろう)と共にその取締役となった。ところが上洛すると清川八郎は、以後、浪士隊は尊王攘夷派(天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退)のために働くと発言した。その清川八郎が幕府の刺客に暗殺された後に、山岡鉄舟らの浪士隊は江戸に戻ったが、京に残った一隊は近藤勇らで、後に新選組を結成した。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A講武所・・・安政元年(1854年)江戸幕府が旗本や御家人に、剣術・槍術(そうじゅつ)・砲術などを講習させるために設けた武道場。
B清川八郎(きよかわ・はちろう)・・・幕末の志士。庄内藩の郷士の子。弱冠25歳を以って江戸神田三河町に『清河塾』を開いた。剣は、千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、後に北辰一刀流兵法免許を得る。はじめ尊王攘夷運動に参加したが、寺田屋事件に失望して、幕臣攘夷派になり浪士隊結成に参加。幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。享年34歳。
C高橋泥舟・・・江戸末期の幕臣。槍術家で講武所師範役。鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)に恭順説を説き、上野寛永寺で慶喜を護衛した。山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末の三舟と称された。勝海舟は後年、高橋泥舟を評して言った「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守(天皇より従五位下伊勢守を叙任)になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であった。
      (二)
慶応四年(明治元年=1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍が敗れて、2月に時の第15代将軍、慶喜(よしのぶ)は江戸に戻ると、上野大慈院に謹慎した。やがて、幕府の方針は、主戦論を退けて恭順にきまり、勝海舟が幕府軍の総大将、陸軍総裁に就任した。その頃、高橋泥舟は、慶喜警護と江戸市中警護を行う精鋭隊を結成した。将軍慶喜は、恭順の意と江戸城攻撃中止を東征大総督府参謀の西郷隆盛に申し入れる使者として高橋泥舟を選んだ。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで泥舟は、義弟の山岡鉄舟を推薦した。鉄舟は将軍慶喜に会い、直接命を受けると、それから陸軍総裁、勝海舟を訪れた。この時のことを山岡鉄舟は「国家百万の生霊に代わって生を捨つるは、素(もと)より余が欲するところなりと、心中晴天白日のごとく一天の曇りなき赤心を抱いて」と自ら記した。
(参考)
@恭順の意と江戸城攻撃中止・・・勝海舟は会談が失敗して官軍が江戸へ攻めてきたとき、江戸の町に火を放つよう、密かに火消しの新門辰五郎に命じていたという。又、勝海舟は薩長の官軍の後ろ盾には、イギリス(フランスは幕府を支援)いることを見抜いていた。将軍・慶喜が「薩長軍に勝てるか?」との問いに、勝はこう答えた「東征軍は撃退できます。わざと箱根を越させておいて、海軍を背後に回して東海道を切断する。そのうえで袋叩きにしちまえば、目先の勝利は請け合いです。但し、薩長軍は結局は英国の手先だから、英国の後押しがある限り何度でも攻めて来ます。それじゃどうでも最終的には、こっちの勝ちはありません。日本が内戦で破滅し、列強侵略を招くだけです。そんなことになるくらいなら、徳川家の降伏によって国を救う方が立派でしょう」。
      (三)
3月5日、勝海舟は山岡鉄舟を呼び寄せて面会した。時に鉄舟(鉄太郎)三十三歳、勝海舟四十六歳、これが初対面であった。「旗本、山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(海舟日記より)。海舟は「徳川家存亡の話」をしたのだが、使者としてもっとも有能な男を彼はそこに発見した。顔には誠実がみなぎり、頭もよくまわり、死ぬ覚悟もみてとれた。勝海舟は高く鉄舟を買った。失敗すると大変なことになるが、この男を使者として行かせ、もしうまくゆかないのなら、誰がいっても同じ事だと感じた。勝海舟に「何か策はあるのか?」と問われて鉄舟は「臨機応変は胸中にあり」と答えた。勝海舟は。旧知の仲である西郷隆盛への手紙を鉄舟に託し「口上での談判はおぬしに一任する。うまくやってくれ」と言って、案内役に薩摩藩の益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)をつけた。駿府(すんぷ=静岡市)にある官軍の東征大総督府参謀の西郷隆盛の元へ向かう為だが、沿道には官軍鉄砲隊の兵士たちが警備している中、鉄舟は「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎。大総督府へまかり通る!」と、大声で名乗りを上げつつ、堂々と通り抜け、この度胸に兵士たちは茫然として誰何(すいか)する者もなかった。こうして3月9日に山岡鉄舟は、西郷隆盛と会見した。このとき、西郷隆盛が降伏条件として示したのは、(1)「江戸城を明け渡すこと」(2)「城中の人数を向島に移すこと」(3)「軍艦を渡すこと」(4)「兵器を渡すこと」(5)「徳川慶喜を備前藩(岡山県)へあずけること」の五箇条であった。鉄舟は条件をもっともだと思った。しかし、鉄舟は慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しなかった。「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」といって、西郷の顔を睨んで目を離さなかった。やがて鉄舟の命を賭けた決意が西郷の心を動かし「将軍のこと、この西郷が一身をもってお引き受けいたす」(結局、徳川慶喜は国替えで駿府藩(静岡県)に移された)との確約を得た。これを受けて3月14日、勝海舟は高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛と会い、会談(有名な「江戸城明け渡し会談」)の末、江戸無血開城をなしとげ、江戸が火の海になるのを救った。
(参考)
@「臨機応変は胸中にあり」・・・後に勝海舟はこの時のことを思い出し「山岡は作戦計画はなさずして、作戦計画が出来ているのだからなぁ」と感心したという。
A旧知の仲である西郷隆盛・・・勝海舟は元治元年(1864年)年9月西郷隆盛に会い、もはやみずからの改革の力もない幕府を倒し、「公の政」共和政治を始めなくてはならない事を説き、薩長が手を結ぶべきだ教えた。幕臣である勝海舟から倒幕の話が出たので、西郷隆盛は驚嘆したという。
B益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)・・・幕末の薩摩藩士。勝海舟の使者山岡鉄舟に同行、駿府の官軍本営に赴き、西郷・勝会談の周旋に協力。
C朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎・・・後日、山岡鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八(西郷隆盛に従って国事に奔走)が出てきて言った「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別れるたという。
D西郷先生が私なら・・・後日、西郷隆盛が勝海舟に「あの人(山岡)は、何分にも腑(ふ)の脱けた人でござる」と評した。海舟が「それはどういう意味だ?」と問うと「命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらぬという人は始末に困る。だが、この始末に困るような男でなくては、大事はできない。なぜならば、こういう人はただ単に無欲というだけでなく、日々、道を行っているからだ。正しい道を歩き続けているからこその自信があって、何もいらぬといえるのである」と西郷が答えた。(「西郷南州遺訓」より)(小話146)「幕末の三人の男」の話・・・を参照。
E江戸無血開城・・・維新後、井上馨が勅使として山岡宅を訪れ、無血開城の立て役者である山岡鉄舟に勲章を贈ろうとした際に、鉄舟から「いやしくも臣民としてなすべき仕事をしたまでだ。そのためには相当の衣食費を賜っておる。何ぞ別に勲章を受くべき理由はあるまい」と拒絶され、勲章が欲しくて堪らない井上馨(第一次伊藤内閣の外務大臣)が困ったという。


(小話889)「王申(おうしん)の禍(わざわい)」の話・・・
       (一)
唐の貞元(ていげん)年間のことである。望苑(ぼうえん)駅の西に王申(おうしん)という百姓が住んでいた。彼は奇特(きどく)の男で、路(みち)ばたにたくさんの楡(にれ)の木を栽(う)えて、日蔭になるような林を作り、そこに幾棟の茅屋(かやや)を設けて、夏の日に往来する人びとを休ませて水をのませた。役人が通行すれば、別に茶をすすめた。こうしているうちに、ある日ひとりの若い女が来て水を求めた。女は碧(あお)い肌着に白い着物をきていた。「わたくしはここから十余里の南に住んでいた者ですが、夫に、死に別れて子供はなし、これから馬嵬(ばかい)駅にいる親類を頼って行こうと思っているのでございます」と、女は話した。その物言いもはきはきしていて、その挙止(とりなし)も愛らしかった。王申(おうしん)も気の毒に思って、水を与えるばかりでなく、内へ呼び入れて、飯をも食わせてやって、きょうはもう晩(おそ)いから泊まってゆけと勧めると、女はよろこんで泊めて貰うことになった。
       (二)
その明(あ)くる日、ゆうべのお礼に何かの御用を致しましょうというので、王(おう)の妻が試しに着物を縫わせると、針の運びの早いのは勿論、その手ぎわが実に人間わざとは思われないほどに精巧を極(きわ)めているので、王申も驚かされた。殊(こと)に王の妻は一層その女を愛するようになって、しまいには冗談のようにこんな事を言い出した。「聞けばお前さんは近しい親類もないということだが、いっそ私の家のお嫁さんになっておくれでないかね」。王(おう)の家には、ことし十三になる息子がある。十三の忰に嫁を迎えるのは珍しくない。両親も内々相当の娘をこころがけていたのであった。それを聞いて、女は笑って答えた。「仰しゃる通り、わたくしは頼りの少ない身の上でございますから、もしお嫁さんにして下されば、この上もない仕合わせでございます」。相談はすぐに決まって、王の夫婦も喜んだ。善は急げというので、その日のうちに新しい嫁入り衣裳を買い調えて、その女を息子の嫁にしてしまったのである。
       (三)
その日は暮れても暑かったが、この頃ここらには盗賊が徘徊するので、戸締りを厳重にして寝ると、夜なかになって王の妻は不思議の夢をみた。息子が散らし髪で母の枕元にあらわれて、泣いて訴えるのである。「わたしはもう食い殺されてしまいます」。妻はおどろいて眼をさまして、夫の王(おう)をよび起した。「今こんな忌(いや)な夢をみたから、息子の部屋へ行って様子をみて来ましょうか」。「よせ、よせ」と、王は寝ぼけ声で叱った。「新夫婦の寝床をのぞきに行く奴があるものか。おまえはいい嫁を貰ったので、嬉しまぎれにそんな途方もない夢をみたのだ」。叱られて、妻もそのままに眠ったが、やがて又もや同じ夢をみたので、もう我慢が出来なくなった。再び夫をよび起して、無理に息子の寝間へ連れて行って、外から試みに声をかけたが、内にはなんの返事もない。戸を叩いてもやはり黙っているので、王(おう)も不安を感じて来て、戸を明けようとすると堅くとざされている。思い切って、戸をこじ明けてはいってみると、部屋のうちには怖ろしい物の影が見えた。それはおそらく鬼とか夜叉(やしゃ)とかいうのであろう。からだは藍(あい)のような色をして、その眼は円く晃(ひか)っていた。その歯は鑿(のみ)のように見えた。その異形(いぎょう)の怪物はおどろく夫婦を衝(つ)き退(の)けて、風のように表のかたへ立ち去ってしまったので、かれらはいよいよおびやかされた。して、息子はと見ると、唯(ただ)わずかに頭の骨と髪の毛とを残しているのみで、その形はなかった。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話888)「古代ローマの稀代の悪女。第4代ローマ皇帝の皇后となり、暴君ネロ皇帝の母親にして、息子(ネロ皇帝)に殺された美貌のアグリッピナ(小アグリッピナ)の生涯」の話・・・
       (一)
古代ローマで残忍な悪女として名高いアグリッピナ(小アグリッピナ)は、アウグストゥス帝(ローマ帝国の初代皇帝)の曽孫であり、第4代ローマ皇帝カリグラの妹であった。西暦15年11月6日、父親のゲルマニクス(第2代皇帝ティベリウスの甥)が、ガリア地方に遠征中、同行した母親アグリッピナ(大アグリッピナ)が、ライン河ほとりのコロニア・アグリッピネンシスという町(現在のケルン)で彼女を生んだ。父のゲルマニクスは将来の皇帝とみなされていた人物であったが、西暦19年(4歳)に急死した。ゲルマニクスの妻アグリッピナ(大アグリッピナ)は時の皇帝ティベリウスを殺害の黒幕と信じて憎悪した。やがてティベリウス帝の側近の陰謀で、アグリッピナの母や兄たちが相次いで国家反逆罪で流刑、投獄され、その後、獄死した。西暦28年(13歳)、美しい娘となったアグリッピナは、最初の結婚をした。相手は帝位継承者の一人、アヘノバルブス(母親は大アントニア(初代皇帝アウグストゥスの姪)で、その一人息子)であった。第2代皇帝ティベリウスがこの結婚の段取りを決め、ローマで新夫婦は祝福された。西暦37年(22歳)アヘノバルブスとアグリッピナの間に息子が生まれた。名前はルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(後のローマ帝国第5代皇帝ネロ)であった。ネロの出産の前後に第2代皇帝ティベリウスが死去して、第3代皇帝にアグリッピナの兄のカリグラ(カリグラは綽名で「小さな軍靴」の意)が就いた。彼女は結婚していたが、実の兄、カリグラ帝とは近親姦の関係だった。しかし、夫のアヘノバルブスの死後、アグリッピナはカリグラ帝から疎(うと)まれるようになり、一時期、陰謀、姦通疑惑で流罪にさせられた。西暦41年(26歳)にカリグラ帝が暗殺され、クラウディウス(アグリッピナの父ゲルマニクスの弟)が第4代ローマ皇帝に就いた。アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のサルスティウスと2度目の結婚をした。夫には数年後に先立たれたが、2度目の結婚で彼女は夫の莫大な財産を手に入れた。西暦49年(34歳)、アグリッピナは、クラウディウス帝の3人目の妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、皇帝の信任篤い解放奴隷のパッラス(解放奴隷ナルキッススの同僚)の手助けによって新しい妃に推薦された。そして同年にアグリッピナは、クラウディウス帝(アグリッピナの叔父)と結婚し、皇帝の妃となった。当時、叔父と姪の結婚は、ローマの婚姻法では許されていなかった。そこで法律を改正しての結婚であった。
(参考)
@ティベリウス帝・・・ローマ帝国の第2代皇帝。イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝で、イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウス帝のことである。
A3人目の妻メッサリナ・・・(小話872)「高慢で淫蕩な美しいメッサリナ皇后(ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスの妻)。その謀略と男あさり、そして大胆な恋に生きた短い生涯」の話・・・を参照。
       (二)
西暦50年(35歳)、皇后となったアグリッピナは連れ子であるルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(改称してネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス)を第4代皇帝クラウディウスの娘オクタウィア(母親はメッサリナ)と婚約させ、皇帝の養子(皇太子)にした。ネロ12歳の時であった。赤ん坊のネロは「足から先に母親の胎内を出てきた(逆子=さかご)」で、赤ん坊が生まれたとき、高名な占星学者は「この子はやがて皇帝になって、母を殺すであろう」と未来を占った。野心家のアグリッピナは感きわまって「皇帝になってくれさえすれば、殺されたって構うものですか!」(博物学者プリニウス)と叫んだという。この不吉な予言は、やがて事実となった。又、ネロが3歳のときに、シチリア島の総督であった父親アヘノバルブスが同地で没した。父親アヘノバルブスは「わたしとアグリッピナのあいだに生まれる子供は、一個の怪物でしかあり得ないだろう」という言葉を残した。しかし、ネロは元々、皇帝ではなく詩を書いたりする芸術家になりたかったという。
       (三)
第4代皇帝クラウディウスは、暗愚で、虚弱で、酒飲みで、食いしんぼうで、腑抜けのような男だった。それでも彼には妙な才能があって、歴史学を愛好し、エトルリア語を自由にしゃべった。皇帝としては有能な政策家で、大きな功績を残したが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない男だった。そのためアグリッピナは、34歳で皇后になると、絶大な権力を掌中におさめた。彼女は進んで国政に干渉し、元老院の会議にも出席した。彼女の肖像をきざんだ貨幣が鋳造され、各地方では、彼女の似姿(にすがた)が神のように礼拝された。又、彼女の嫉妬深さや残酷ぶりも、夫のクラウディウス帝の三度目の妻メッサリナに劣らず非情なものであった。皇帝がある日、その美しさを讃(ほ)めたというので、皇后アグリッピナは、その貴婦人を翌日さっそく宮廷から追放した。また、皇帝争奪戦相手だった貴婦人が処刑されたとき、アグリッピナは、わざわざ斬り落された首を目の前に持ってこさせ、本人かどうか確かめたという。一方で、彼女は自分の一大野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な手を打った。当時、コルシカに島流しになっていた高名な哲学者セネカをローマに戻し、若いネロの側近として登用した。又、ブルルス(後の近衛軍団長官)をネロの側近として抜擢した。こうして「次期皇帝の母」としての絶大な権力を得たアグリッピナであったが、他方で自分の地位がいつ脅やかされるかと、たえず不安に苦しめられていた。夫のクラウディウス帝には、三度目の妻メッサリナの間に一男一女をもうけていた。娘のオクタウィア(オクタヴィア)と息子のブリタニクスで、皇帝クラウディウスから見れば、皇后アグリッピナの息子ネロは、赤の他人の子だった。ここに、彼女の将来に対する大きな不安があった。
(参考)
@セネカ・・・ローマのストア学派の哲学者。皇帝ネロに仕えたが、のちに謀反の疑いを受け、命令によって自殺した。常に道義を説き、実践哲学を主張。著「対話篇」「自然問題集」「道徳書簡」など。
       (四)
このころ皇帝クラウディウスは、アグリッピナと結婚しネロを養子(皇太子)としたことを、大いに悔やんでいた。そこで妻アグリッピナをしりぞけ、実の子であるブリタニクス(母親はメッサリナ)を後継者に指名する用意をした。これらを知った皇后アグリッピナは、夫の皇帝を毒殺することに決意した。西暦54年(39歳)、皇帝の誕生日を祝う宴会が宮中で催された。そしてクラウディウス帝は、大好物のキノコ料理を食べて死去した。こうしてネロは母親の期待通り、第5代ローマ皇帝の位に就いた。16歳のネロ皇帝は即位以後、5年間は、近衛軍団長官ブルルスや、哲学者セネカらの後見を得て、まれに見る善政を敷き、民衆の間にも声望が高かった。しかし、若いネロ皇帝は、やがて競争相手の義弟ブリタニクスに不信、疑惑の目を向けると共に、皇太后(こうたいごう=皇帝の母)となった母親アグリッピナの後見が堪えがたい重荷になってきた。しかし、ネロは勝気で気丈な母親に対しては、幼児の時から恐怖心をいだいていた。このころ若い皇帝ネロが、その母親を怒らせた事件があった。それは皇太后の寵臣パルラスの追放であった。皇太后の公然たる愛人パルラスがともすると横柄な態度に出るので、皇帝ネロは思い切って彼を公職から追放した。ところ、これが皇太后アグリッピナの逆鱗(げきりん)にふれたのであった。彼女は若い皇帝ネロを面罵し「お前には皇帝の資格なんてありゃしない。ブリタニクスこそ正統な帝位の継承者です」といって、息子を弾劾した。これに皇帝ネロはおびえて慄えあがった。
       (五)
追いつめられた皇帝ネロは恐怖心から、母親や義弟ブリタニクスを一挙に除いてしまおうと考えた。ブリタニクスには、昔から癲癇(かんしゃく)の持病があり、ときどき意識を失うことがあった。西暦55年(40歳)、17歳の皇帝ネロは宴会の席上で、毒物で動かなくなった16歳のブリタニクスについて「どうせ癲癇の発作だろう。あいつは子供のころから、いつもこうなんだ。大したことはあるまい」と言って手当てもせずに死ぬまで放置した。しかし、一両日のうちに、ブリタニクス毒殺の噂は街々にひろがった。ここにきて皇太后アグリッピナは、我が子である皇帝ネロの権力を怖れる番になった。「帝が臥輿(ふこし=人を乗せる乗り物)で母と一緒に運ばれる時はいつも母子相姦の淫欲に耽り、その証拠に服に染みをつけていた」(歴史家、スエトニウス)こうして、彼女は皇帝ネロを懐柔し、反撃の機会を狙った。だが、17歳の皇帝ネロは、母親の重圧をのがれるために、彼女をパラティヌス丘の宮殿から遠ざけてしまった。政治の舞台から退いた皇太后アグリッピナの家には、皇帝ネロの支配体制に不満をいだく不平分子たちの集会場となった。皇帝ネロに冷たくあしらわれていた亡きクラウディウス帝の娘オクタウィアも、この家の常連になった。
       (六)
皇帝として独立心が芽生えてきた21歳の皇帝ネロであったが、病的なほど臆病だった彼は、なかなか母親を殺害するまでの決心がつかなかった。だが、皇帝ネロの側近のなかには、かなり以前から強硬意見を主張する者もあった。一人は、皇帝ネロの学問上の師であった哲学者のセネカで、温厚な哲学者には、野心家のアグリッピナの振舞が嫌悪の的であった。もう一人は、当時、皇帝ネロが首ったけになっていた愛人(後に妻となる)のポッパエアであった。妖艶な美女ポッパエアには、是が非でも皇后の地位につきたいという野心があった。そのためには、皇太后アグリッピナの存在が何より邪魔だった。こうしたこともあって皇帝ネロは、ついに母親殺害に踏み切った。西暦59年(44歳)、皇帝ネロは母親アグリッピナと共に、ナポリに旅行して近郊のバイエアの別荘で母親をもてなした。そして帰る時、アグリッピナは皇帝ネロが用意した豪華船で帰ることになった。ところが、豪華船は途中で沈没した。皇帝ネロは皇太后アグリッピナを溺死させようとしたのだったが、アグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗した。アグリッピナは九死に一生を得たことを伝える使者を、皇帝ネロの元に派遣した。だが、皇帝ネロは使者が短剣を所持しているのを理由にして、皇太后アグリッピナが刺客を送り込んだと罪を着せた。皇帝暗殺の容疑をかけられた皇太后アグリッピナは、邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。殺されるときに、近衛兵たちに向かって、皇帝ネロの母親であるアグリッピナは「お腹を刺すがいい。皇帝はここから生まれたんだから!」と叫んだという。享年44歳。
(参考)
「アグリッピナとネロ」の絵はこちらへ
「アグリッピナ」の彫像の絵はこちらへ
「アグリッピナ」の彫像の絵はこちらへ
「アグリッピナ」の彫像の絵はこちらへ
「アグリッピナ」の彫像の絵はこちらへ
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(皇帝ネロの後日談)
          (一)
母親アグリッピナの支配から解き放された皇帝ネロは、次第に残虐、凶暴な性格を現わすようになっていった。皇帝ネロとその妻オクタウィア(オクタヴィア)の夫婦関係は良くなかった。そのため皇帝ネロは、若い頃からの遊び仲間であった親友のオト(のちのローマ皇帝)の妻ポッパエアと愛人関係にあった。西暦62年(24歳)、皇帝ネロは皇后オクタウィアに対し、不妊を理由に離婚を言い渡した。そして、さらに不倫、姦通(ポッパエアの陰謀による)の罪で皇后オクタウィアを処刑してしまった。その後、夫のオトと離婚したポッパエアと正式に結婚した。義弟(ブリタニクス)・実母(アグリッピナ)・妃(オクタウィア)の殺害を貫いた皇帝ネロの姿を見て、側近で皇帝の補佐をしていた哲学者セネカは身の危険を感じ引退した。その上、同年(西暦62年)に同じく皇帝の補佐をしていた近衛軍団長官ブルルスが没したことで、皇帝ネロの良き指導者の二人は姿を消した。以後、皇帝ネロは、悪臣の近衛軍団長官ティゲリヌスを重用するようになり、ローマの国政は大いに乱れて行った。
(参考)
@義弟(ブリタニクス)・実母(アグリッピナ)・妃(オクタウィア)の殺害・・・ネロは「暴君ネロ」と言われるように、後には、妻殺し(ポッパエア)を続け、師殺し(セネカ)、そして、妊娠していたポッパエアを蹴り殺して、子殺しも行った。
          (二)
こうした中、西暦64年(26歳)にローマで大火がおこり、市の大半が焼失した。皇帝ネロは陣頭指揮をとり、民家や道路なども含め、急ピッチで 再建がおこなわれた。しかし、この時かねてより計画していた「黄金宮殿」の建築を始めてしまった。火事からわずか2年ほどで、以前よりも美しいローマの街が甦(よみがえ)った。しかし、ローマ市民は皇帝ネロが「黄金宮殿」の建設を口実として、放火したと噂するようになった。この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時、増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁した。この時代の皇帝は、現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威は絶大なものであった。皇帝崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的(又、一神教のキリスト教は、多神教であり他の宗教に対しても寛容だったローマの敵)となっていた。皇帝ネロは皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の弾圧(「処刑はまるでスポーツのようだった。信者は野獣の皮をかぶせられ、猛犬にかみ殺された」(タキトゥス))を行った。キリスト教の始祖イエスの十二使徒の一人ペテロや、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロらは、この迫害で殉教した。西暦65年(27歳)、皇后ポッパエアは第2子(第1子は生後、数カ月のちに夭折)を懐妊中、ネロの放蕩に我慢ができず激しく口論した。そしてネロは、怒りのあまり彼女の腹部を蹴り上げて殺してしまった。皇帝ネロは悲嘆にくれ、皇后ポッパエアの死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷スポルス・サビナを去勢し、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な結婚式を挙げ、彼を女王と呼ばせた。こうして、皇帝ネロの性格破綻はますます顕著になっていった。同じ年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑した。かつての皇帝の補佐役、哲学者セネカも事件に関与したとして、皇帝ネロに自殺を強要されて、死に至った。この事件によってネロ帝の恐怖政治は一層エスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑された。皇帝ネロに代わる次期皇帝候補の人物も次々に殺して行った。西暦68年(30歳)、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こした。これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督が挙兵しローマに進軍した。そして、この年、ガルバは皇帝即位の宣言を行い、元老院はこれを認め、ネロを「国家の敵」とみなし、ネロ本人が不在のまま「死刑」を宣告した。元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、西暦68年6月8日、「世界は偉大なる芸術家を死して失う」と泣きながら自殺した。享年30歳。死後、ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったという。又、ギリシャを初めとする属州ではネロは人望があり、死後もネロを名乗る人物が後を絶たなかったという。
(参考)
@ガルバは皇帝即位・・・あるとき皇帝ネロは、ギリシャのデルポイ神殿で次のような神託を受けた「そなたの存在そのものが、そなたの神を汚(けが)すものです。立ち去れ、母親殺しめ。73という数字が、そなたの没落のときを告げよう」。皇帝ネロは、73という数字が自分が死ぬときの年齢だと思ったが(当時彼は29歳)、巫女の言葉に激怒し、神官の手足を切り落したあとで、彼らとともに巫女を生き埋めにしてしまった。その翌年、皇帝ネロは反対派を抑えることができずにローマから逃げ出し、自殺した。ネロの後継者には、ガルバが選ばれ、そのとき、ガルバは73歳であったという。
A死後、ネロの墓参り・・・皇帝ネロの悪評も、彼の専制政治を嫌った元老院や彼が迫害したキリスト教徒によって作られてきたところが多分にあるという。


(小話887)「山岡鉄舟と百万枚の揮毫(きごう)(7/10)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。当時の有名な書家である長三州は、山岡鉄舟が一日に五百枚、千枚でも書いてしまうことを聞いて「そんなに書けるものではない」と信じていなかった。それを聞いた鉄舟は「長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけもない」(うまく書こうなどと思わず無心に書いた)と答えた。山岡鉄舟は一生、赤貧(せきひん)洗うが如くであったが、揮毫(きごう)することにより、社会公益事業、教育事業、災害救助、各寺院の復興をした。揮毫したときの謝礼を、これらに充てることにより寄付行為をしたのであった。鉄舟は、揮毫の謝礼を頂くと「ありがとう」といって快く受け、そのまま本箱の中にしまった。その後、困ったものが来て救助を頼まれると、自身で玄関に出ていきその実状を見て、例の本箱の中より、相応の恵みをした。鉄舟門下の千葉立造がこれを見て「先生は、ご揮毫のお礼をみんな人におやりになってしまうのですか?」と質問したところ「字を書いて礼を取る気持ちはないが、困っているものにやりたいと思っているから、頂ければそのまま有り難く頂戴しているのだ」と答えた。ある人が鉄舟に「海舟さんや泥舟さんは大いに自重されているが、先生のように無造作に揮毫されていると書の値打ちがなくなりなりますよ」と言うと鉄舟は「おれのような者にも頼む人がいるので、断るのも悪いから書いているのであって、書を売るのではないから値打ちがあろうがあるまいが関係ない」と気にかけなかった。鉄舟の書は、年齢に応じて変化してきたので「活(いき)きている」といわれていた。又、揮毫の一枚一枚に対し「衆生無辺誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど=生きとして生きる物をすべて救済するという誓願) 」と唱えながら書いたという。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A長三州・・・当時の書家「長三州」は、幕末維新時に長州の奇兵隊で活躍した志士であり、後に文部省学務局長や東宮侍書を努めた人物で、書家として著名である。鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。鉄舟の書は本物であった。
B揮毫(きごう)・・・毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。
C各寺院の復興をした・・・全生庵の創建、国泰寺、正受庵、久能寺、永光寺の復興そのほとんどが筆一本でできたといわれる。
D海舟さんや泥舟さん・・・幕末の三舟と言われた勝海舟、高橋泥舟のこと。勝海舟は理知の人、山岡鉄舟は情熱の人、高橋泥舟は士道の人とも言われた。
        (ニ)
ある時、山岡鉄舟のところに牛屋(牛肉屋)が、店の看板の揮毫(きごう)を依頼しにやって来た。すると門人達は立腹して「不届きの牛屋め、恐(おそ)れおおくも鉄舟大先生に対して、貴様のところの看板を書けとは何事だ。無礼極まる」とその軽率をとがめた。すると蔭からその声を聞きつけた鉄舟は、直ちに彼らを止めて「何かまわん、わしが書いた看板で商売の繁盛(はんじょう)ができたら、この上もない結構なことだ」と言って、直ちに書いてやり「拙者は書を商売にするものではない。書いてくれという者には、誰でも書いてやる。露店の看板でも、出産届けでも、手紙でも証文でも何でも書いてやる」と言ったという。又、ある日、鉄舟が柳原を散策していると、鉄舟自筆の書が骨董店に並んでいた。しかし一見して贋物だということがわかったが、よくよく見てみると筆意玄妙(ひついげんみょう)、はるかに自分に勝るところがあり、鉄舟は感心してこれを買い求め、我が居室に飾ったという。
(参考)
@鉄舟自筆の書が骨董店・・・大森曹玄老師は「鉄舟さんは、傑作も多いが駄作も多い」といったという。山岡鉄舟は45歳で大悟し、49歳で更に悟りを深めた。以後、亡くなるまでの8年間で百万枚を揮毫したという。鉄舟自身、国民全員に一枚づつ渡すつもりだったというからその気概は凄い。日本の人口が当時 3500万人だった。又、鉄舟は幼少の8、9歳のころから母に習字を学び、11歳より富田鉄斎に、習字と素読を。15歳で岩佐一亭に書法を学んだ。


(小話886)「イソップ寓話集20/20(その34)」の話・・・
      (一)「ライオンとネズミ」
ライオンが気持ちよく寝ていると、何者かに眠りを妨げられた。ネズミが顔を駆け抜けたのだ。ライオンは、いきりたってネズミを捕まえると殺そうとした。ネズミは、必死に哀願した。「命を助けて下されば、必ず恩返しを致します」。ライオンは、鼻で笑ってネズミを逃がしてやった。それから数日後、ライオンは、猟師の仕掛けた網にかかって動けなくなってしまった。ネズミは、ライオンのうなり声を聞きつけると、飛んで行き、歯でロープを、ガリガリとかじり、ライオンを逃がしてやった。ネズミは、得意になって言った。「この前、あなたは私を嘲笑しましたが、私にだって、あなたを、助けることができるのですよ。どうです。立派な恩返だったでしょう?」。
      (二)「炭屋と洗濯屋」
あるところに、働き者の炭屋が住んでいた。ある日のこと、炭屋は友人の洗濯屋にばったり出合った。そして洗濯屋に、自分の所へ来て、一緒に住まないか? そうすれば、家計は助かるし、一生楽しく暮らせるからと熱心に誘った。すると、洗濯屋はこう答えた。「私は、あなたと住むことなどできません。だって、私が洗濯して、白くしたそばから、あなたは、黒くしてしまうでしょうからね」。
(水と油は混ざらない)
      (三)「父親とその息子たち」
その男には、息子が大勢(おおぜ)いたのだが、兄弟喧嘩が絶えず、いつもいがみ合ってばかりいて、父親が止めても、喧嘩をやめないというありさまだった。この期に及んで、父親は、内輪もめが如何に愚かなことであるかを、教え諭さなければならぬと痛感した。ころ合いを見計らって、男は息子たちに、薪(まき)の束を持ってくるようにと言いつけた。息子たちが薪の束を持って来ると、男は、一人一人にその束を手渡し、そして、それを折るようにと命じた。息子たちは、懸命に力を振り絞ってみたが、薪の束はびくともしなかった。そこで、男は、束をほどくと、今度は、一本一本バラバラにして、息子たちに手渡した。すると息子たちは、たやすく薪を折った。そこで、彼は息子たちに、こんなことを語って聞かせた。「よいか、息子たちよ。もしお前たちが、心一つに団結し、互いに助け合うならば、この薪の束のように、どんな敵にもびくともしない。しかし、互いがバラバラだったなら、この棒きれのように、簡単にへし折られてしまうのだ」。


(小話885)「空から落ちた久米仙人」の話・・・
       (一)
      今は昔、大和国吉野郡に竜門寺という寺があった。寺には二名の者がこもり、仙人になる修行をしていた。その仙人の名を、一人は「あづみ」と言い、もう一人を「久米」と言った。その後、あづみは先に修行を成し遂げ、飛んで空に昇って行ってしまった。続いて久米も仙人となり、空へ昇り飛んでいると、吉野川のほとりに、若い女が衣を洗っていた。衣を洗おうと、女はふくらはぎまで裾(すそ)をめくりあげると、ふくらはぎのその白さを見て、久米は心けがれてその女の前に墜落した。その後、その女を妻として暮らした。久米の仙人修行の様子は菅原道真(すがわら・みちざね)によって竜門寺の扉に記されている。それは消えずに今もある。その久米の仙人は、ただの人になり下(さ)がり、馬を売ったときには証文に「以前は仙人だった、久米」と書いて渡した。
(参考)
@菅原道真(すがわら・みちざね)・・・ 平安前期の学者・政治家。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。901年、藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。没後学問の神天満天神としてまつられた。
A吉野川のほとり・・・現在、久米仙人が墜落したと伝えられる久米寺近くの芋洗(いもあらい)川には、芋洗地蔵がまつられている。
       (二)
  それから、久米の仙人は、その女と夫婦暮らしをしている頃、天皇が、その国の高市郡に都を造ることになり、大和国の人足を集めてとりかからせた。そのとき、久米も人夫として駆り出された。他の人夫たちは、久米を「仙人、仙人」と呼ぶ。役人の者たちが、それを聞き「お前たちはなぜその男を仙人と呼ぶのか」と尋ねた。人夫たちは「その久米は、先頃まで竜門寺にこもって仙人の修行をして、一度は仙人になったんですが、空を飛んでいる間に、吉野川のほとりで洗濯をしている女のふくらはぎが白いのを見下ろして、欲情して、女の前に落っこっちまいやして、それからその女と夫婦になったもんだから、それで、仙人と呼ぶようになったんでさ」
(参考)
@天皇・・・第45代天皇、聖武天皇のこと(在位 724-749)。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。
       (三)
  役人らは、それを聞き「では、ただ者ではないのだな。もとは、仙術の修行をして一度は仙人となった者だ。その徳は失われてはおるまい。それなら、このたくさんの材木を自分たちで運ぶよりは、仙術でもって飛ばさせればよかろう」と冗談半分に言っているのを、久米が聞き「私は仙術を忘れ、ずいぶん時が経ちます。今はただの人間に過ぎません。そのような霊験は施せないでしょう」と言った。それでも、心の中では、「私は仙術を会得したといえども、凡夫の愛欲のために、女性に心を穢(けが)してしまい、もはや仙人とはなれまいが、長い年月、身を修めた法だ、ご本尊もお見捨てにはなるまい」と思い、役人らに向かって「しかしながら、できるかどうかわかりませんが、試しに祈ってみましょう」と言った。役人は、これを聞き「なんてことを言う奴だ」と思いながら「まことに貴いことだ」と答えた。
       (四)
  その後、久米はとある静かな道場にこもり、心身を清め、断食を行い、七日七晩の間、休むことなく礼拝を続け、心をひたすらこめてこれを祈った。そうして、七日が過ぎた。役人らは、久米の姿が見えないのを、笑ったり、疑ったりしていた。そして、八日目の朝になると、にわかに空が掻(か)き曇り、闇夜の如くなった。雷は鳴り、雨が降り、何ひとつ見えなくなってしまった。それを不思議に思っていると、しばらくして雷は止み、空が晴れてきた。そのとき見れば、大きなものから小さなものまで多くの材木が、皆、南の山の斜面の材木置場から空を飛び、都を造るところへと行ったのだった。そのときに、多くの役人たちは、敬(うやま)い貴(とうと)んで久米を拝んだ。その後、このことは天皇にも伝えられた。天皇もこれを聞き、貴び敬い、免田三十町を久米に与えた。久米は喜び、その田(免田)によって、その郡にひとつの伽藍(がらん)を建てた。久米寺というのが、それである。その後、高野山の弘法大師(空海)が、その寺に丈六(じょうろく=4.85メートル)の薬師三尊を、銅で鋳造して奉った。大師は、その寺で大日経を見つけ、これぞまさしく「速やかに仏となるべき教えである」として、唐へ真言密教を習いに渡ったという。こうした経緯から、立派な寺である、と語り伝えられているという。
(参考)
@免田・・・税を納める必要のない田。
A丈六(じょうろく=4.85メートル)・・・仏陀の身長と伝えられ、仏像最大の大きさとされる。それ以上のものは「大仏」。
B立派な寺である・・・久米寺のことで、久米寺は真言密教発祥の地。
C「今昔物語集・巻十一(本朝仏法部)」第二十四話「久米仙人始造久米寺語」より。以下、原文。
「今昔、大和国、吉野の郡、竜門寺と云寺有り。寺に二の人籠り居て仙の法を行ひけり。其仙人の名をば、一人をあづみと云ふ、一人をば久米と云ふ。然るに、あづみは前に行ひ得て既に仙に成て、飛て空に昇にけり。後に久米も仙に成て、空に昇て飛て渡る間、吉野河の辺に、若き女衣を洗て立てり。衣を洗ふとて、女の脛まで衣を掻上たるに、脛の白かりけるを見て、久米心穢れて其女の前に落ぬ。其後、其女を妻として有り。其仙の行ひたる形于竜門寺に其形を扉に北野の御文に作て出し給へり。其れ不消して于今有り。其久米の仙、只人に成りにけるに、馬を売ける渡し文に「前の仙、久米」とぞ書て渡しける。然る間、久米の仙、其女と夫妻として有る間、天皇、其国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内に夫を催して其役とす。然るに、久米其夫に被催出ぬ。余の夫共、久米を、「仙人々々」と呼ぶ。行事官の輩有て、是を聞きて云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。夫共答て云く、「彼の久米は、先年竜門寺に籠て仙の法を行て、既に仙に成て、空に昇飛渡る間、吉野河の辺に、若い女、衣を洗ひ立てりけり。其女のかかげたる脛白かりけるを見下しけるに、(欲を生じ、女の)前に落て、即ち其女を妻として侍る也。然れば、其れに依りて、仙人とは呼ぶ也」。行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。本、仙の法を行て既に仙人に成にける者也。其行の徳定めて不失給。然れば、此の材木多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て空より飛めよかし」と戯れの言に云い合へるを、久米聞きて云く、「我れ仙の法を忘れて、年来に成ぬ。今は只人にて侍る身也。然計の霊験を不可施」と云て、心の内に思はく、「我れ仙の法を行ひたりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ、年来、行ひたる法也、本尊何か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。行事官、是を聞て、「嗚呼の事をも云ふ奴かな」と乍思、「極て貴かりなむ」と答ふ。其後、久米一の静なる道場に籠り居て、心身清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此事を祈る。而る間、七日既に過ぬ。行事官等、久米が不見る事を且は咲ひ、且は疑ふ。然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り、暗夜の如く也。雷鳴り雨降て、露物不見え。是を怪び思ふ間、暫計有て雷止り空晴れぬ。其時に見れば、大中小の若干の材木、併ら、南の山辺なる杣より空を飛て、都を被造る所に来にけり。其時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す。其後、此事を天皇に奏す。天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田三十町を以って久米に施し給ひつ。久米喜で、此の田を以て、其郡に一の伽藍を建たり。久米寺と云ふ、是也。其後、高野の大師、其寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。大師、其寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に可成き教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。然れば止事無き寺也となむ語り伝へたるとや」
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(小話884)「山岡鉄舟と伝説の落語家、三遊亭円朝(さんゆうてい・えんちょう)(6/10)」の話・・・
      (一)
  江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。落語の三遊亭円朝は、江戸から明治にかけて生きた落語家で、名人としてその名を歴史に残した。しかしそんな不世出の天才と言われる円朝も、初めから、すごい噺家(はなしか)だったわけではなかった。彼も自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に差し掛かかった。それで座禅を組むようになり、偶然、「剣禅一如」の剣客、山岡鉄舟と知り合う機会を得た。ある時、鉄舟が円朝に言った「あんたは噺家(はなしか)らしいが、わしは子供のとき母から桃太郎の話を聞いて実に面白かった。おまえ、ひとつ、今日は桃太郎を一席語ってくれんか?」。この申し出に円朝はためらった「なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃならないんだ!」と円朝は結局、鉄舟の言った桃太郎の話をしなかった。
(参考)
@三遊亭円朝・・・幕末から明治の落語家。江戸の人。人情噺(ばなし)を大道具・鳴り物入りで演じて人気を博したが、のち素噺(すばなし)に転向。近代落語の祖。代表作「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記」など。 A山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
B鉄舟が円朝に言った・・・円朝と山岡鉄舟との出会いは、円朝が38才のときで、鉄舟の義兄、高橋泥舟が円朝と親しかった。だが、高橋泥舟は何か円朝の噺に物足りなさを感じ、そこで義弟の山岡鉄舟に相談に乗ってやれ、と頼んだことがきっかけであったという。
      (ニ)
山岡鉄舟が帰っても、円朝の頭の中では「桃太郎」の噺(はなし)が引っかかっていた。「なぜ?俺に桃太郎なんだ?」と疑問を抱くつつ円朝は、自分で桃太郎を、手直して、高座でも演じるようになった。そして大衆には好評を博した。そこで鉄舟に会った折りに「山岡様、この前、できなかった桃太郎の噺をさせてください。是非、聞いてもらいたいんです」と言った。すると山岡は眼光(がんこう)鋭く、小柄な円朝をにらみ据えて、こう言った「もういいですよ。あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。ただね、円朝さん、舌で話してはいけませんよ」。またしても、円朝は、ショックを受けた。その証拠に彼は、その後、一言も声が出せなかった。円朝の心は揺れた。「時節を逃したってことか?それに舌で話すなって、いったいどんな意味なんだ。口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ、いったい?」と円朝と迷いに迷ってしまった。
      (三)
しかしそんなこととはお構いなしに、円朝の人気は、ますます高まっていった。だが円朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という鉄舟の言葉が、引っかかっていた。ついには頭の中が、真っ白になって鉄舟を訪ねて、頭を下げた「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。どうすれば舌を使わない噺(はなし)ができるようになるでしょうか?」。山岡は、即座に、ただ一言「無」と答えた。この「無を発する時点で、鉄舟自身は、円朝が、近々(きんきん)悟りを開いて、本当の名人になることを分かっていた。だから「無」という問いを最後に与えたのであった。それから二年の間、円朝は、無心になって、座禅を組み、己の舌を無くす修行に取り組んだ。すると答えは、向こうから、自然にやってきた。「舌で語るからいけない。心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」と、どこからか、そんな言葉が聞こえてきた。そしてその成果を、鉄舟に披露する時が来た。もちろん噺は「桃太郎」だが、鉄舟は噺など聞いていない。ただ心の眼で、じっと円朝の心を観ていた。そして「円朝さん、今日の噺はいいね。実にいい。真がある」と言った。後(のち)に山岡鉄舟は、天竜寺管長の由利滴水禅師(鉄舟に禅の指導をした)と相談し、三遊亭円朝に「噺家は舌をなくしてこそ名人」と言って「無舌居士」という法名を与えた。
(参考)
@ただ一言「無」・・・この「無」という公案は、禅の坊主が、弟子によく使う手であった。
A鉄舟を訪ねて・・・円朝と山岡鉄舟との親交は深く、円朝は、噺を創作すると高座にかける前に必ず鉄舟に聞いてもらい、助言を貰っていたといわれている。
B「無舌居士」・・・現在、この山岡鉄舟と三遊亭円朝は、上野の「全生庵」という寺で仲良く眠っている。そして円朝の墓銘には、生前の山岡鉄舟が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいるという。


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