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(小話883)「神通力を失った一角仙人(いっかく・せんにん )」の話・・・
       (一)
今は昔、天竺(天竺=インド)に一角仙人という仙人がいた。額(ひたい)に角(つの)が一本生えていたので一角仙人と呼ばれていた。一角仙人は、深山にこもって長い年月を過ごしていた。雲に乗って空を飛び、禽獣(きんじゅう)を従えていた。ある時、大雨が降って道がきわめて悪い時に、この仙人が山中を歩いていた。ところが、山が険しくて、不意に滑ってころんでしまった。年をとってこのようにころんでしまったことにひどく腹を立て「世の中に雨が降るから、道が悪くなってころんだりするのだ。苔(こけ)の衣も濡れてしまって心地(ここち)悪い。雨が降るのは竜王のせいだ」と、たちまち竜王たちを捕らえて水瓶に閉じ込めてしまった。狭い水瓶の中に大きな竜王たちを閉じ込めたので、動くこともできなくてひどくつらかったが、仙人の強大な神通力のため、竜王たちにはどうにもできなかった。こうして、雨が降らなくなって十二年が過ぎた。
(参考)
@苔(こけ)の衣・・・僧や隠者が着ている衣服のことで、山に千年も住んでいる仙人の着ている衣だから「苔」という感じである。
       (二)
世の中は旱魃(かんばつ)になり、天竺中が嘆き悲しんだ。十六の大国の王がさまざまな祈祷(きとう)をして雨が降るように願ったが、どうにもならなかった。どうしてこのようなことになってしまったのか、誰にもわからなかった。そうしたところ、ある占師(うらないし)が次のように占(うらな)った「ここから東北の方角に深山あり。その山に一人の仙人あり。この仙人が竜王たちを閉じ込めたため、雨が降らないのである。尊い聖人たちに祈らせても、その仙人の霊験にはかなわないであろう」。これを聞いて、天竺諸国の人々は対策を立てようとしたが、どうにも名案は浮かばなかった。その時、一人の大臣が言った「尊い聖人であっても、色を好まず、美しい声に惑わされない者はおるまい。昔、鬱頭藍(うつらん)という仙人がいたが、色にふけってたちまち神通力を失ってしまったという。試みに、容色(顔かたち)も声も美しい女人を召し集め、その山の中につかわして、仙人の居所とおぼしき所で歌をうたわせれば、たとえ聖人でも心を解きたまうに違いない」。
(参考)
@十六の大国・・・むかし天竺は東・西・南・北・中の五つに分れ、国にして十六国あった。
A鬱頭藍(うつらん)という仙人・・・釈迦、出家後に道を問うた鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)仙人のこと。王大夫人の手に触れて神通を失ったという。
       (三)
そこで、容色も声も美しい五百人の女を選んで、妙(たえ)なる衣服を着せ、香(こう)を浴びせ、奇麗に飾った五百台の車に乗せて山中につかわした。女人たちは山の中で十人、ニ十人づつに別れ、洞窟の周辺や木の下、峰の間など、仙人のいそうな場所を見つけては良い声で歌をうたった。すると、ある洞窟のかたわらに苔(こけ)の衣を着た一人の聖人がいた。痩(や)せ細って身に肉が無く、骨と皮ばかりで魂(たましい)はどこかに行ってしまったようだった。額(ひたい)に角が一つ生えており、恐ろしいこと限り無かった。その聖人が、杖にすがり、手には水瓶を持ち、相好(そうごう=表情)がくずれるほどの笑みを精一杯にたたえて、よろめきつつ現われ出て言った「誰がこんなにすばらしい歌をうたっていなさるのか。私はこの山に住んで千年になるが、今までこんなことは一度も無かった。天人(てんにん)がお下(くだ)りになったのか。魔物がやって来たのか」「私たちは天人でも魔物でもありません。天竺に行く途中、この山は美しくて、花が咲き乱れ、水が流れ、そこに尊い聖人がいらっしゃると聞いて、歌をうたって聞かせてさしあげようと思ってやって来たのです」と一人の女が答えて、また歌い始めたので、仙人は目を輝かせて、心も動き、魂も迷ってしまった。
       (四)
仙人が「私の言うことを聞いてくださるか」と言うのを聞いて、女は「なんなりと承りましょう」と言った。すると、仙人は「そなたのその美しい肌に、さわらせてくだされ」と、せまって来た。女は仙人を恐ろしく思ったが、国王がそのためにわざわざつかわされたので、ついに仙人に従った。人間らしい欲を持てば仙人の神通力は失われる。そのとたん、竜王たちが水瓶を踏み破って空に昇り、昇るやいなや一天にわかにかき曇って、雷が鳴り、大雨が降り始めた。女は帰りたくても帰るすべがなく、仙人を怖がりながら日を過ごすうちに、仙人はこの女に心を許すようになった。五日目に雨が止んで空も晴れたので、女は「そろそろ帰りとうございます」と仙人に言った。仙人はつらそうだったが、それを許した。「岩の上を歩いたので、足が腫(は)れてしまいました。道もよくわかりません」「それなら私が道案内しよう」と言って、仙人が先に立って都(みやこ)に向かった。途中、屏風(びょうぶ)のように切り立った崖の下に大きな滝があり、竜にでも乗らなければとても渡れないような場所があった。女が「目がくらんで、とても渡れそうにありません。聖人はいつも行き来しているでしょうから、私を背負って渡してくださいませんか」と言うので、仙人は断わることもできず、背負ってその場所を越えた。そこを通過しても、女は「もう少し」と言って、結局、王城まで仙人に背負われてやって来た。
       (五)
天竺中の男女が「一角仙人が若く美しい女を背負ってやって来た」と言って、見物に集まった。一角仙人は、額(ひたい)に角(つの)が生え、頭は雪をいただいたような白髪で、すねは細くて針のようだった。その仙人が錫杖(しゃくじょう)を女の尻にあてがい、ずり落ちるとゆすり上げる様子がなんともおかしくて、人々は笑い嘲(あざけ)った。国王は王宮で仙人に会い「おかしく馬鹿馬鹿しいやつ」と思ったが、尊い聖人なので丁重(ていちょう)に扱い「いや、御苦労でした。では早く山へお帰り下さい」とおっしゃった。仙人は空を飛んで帰ろうとしたが飛ぶことができなくなっており、這(は)うようにして山に帰って行った。こんな馬鹿な仙人がいたと語り伝えられているという。
(参考)
@今昔物語集 巻五・第四「一角仙人女人を負はれて山より王城に来る物語」より。
「一角仙人」の挿絵はこちらへ
Aインドの古代神話「一角仙人」・・・一角仙人は、インドの波羅奈(ばらな)国の山中で、仙人の精を飲んだ鹿から生まれた。頭に一本の角があり、魔の足をしていた。仙人は大いに学問を学んで禅定を修め、修行に励んで神通力を得た。あるとき、山上に大雨が降って足を滑らし、転倒して怪我(けが)をした。たいへん怒った仙人は、神通力で雨を止めてしまったので、穀物はできず、人民は窮乏し、国王は困ってしまった。この時、一人の女性が山中に入った。仙人は、その美女に惑わされて神通力を失い、再び雨が降りだした。その後、仙人はその女性と山を出て王城に入り、大臣になったが、再び山中に帰って神通力を得た、という。
B太平記巻第三十七「一角仙人」は以下の通り。
        (一)
昔、天竺(インド)の波羅奈国(はらないこく)に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみ(交尾)けるを見て、婬欲(いんよく)の心ありければ、不覚して漏精(ろせい=精液をもらす)したりける。そのかゝれる草の葉を牝鹿(めじか)食(しょくし)て子を生す。形は人にして額(ひたひ)に一の角(つの)ありければ、見る人、これを一角仙人とぞ申ける。修行、功積(こうつも)って、神通、殊(こと)にあらたなり。ある時、山路に降(くだつ)て、松のしづく苔(こけ)の露、石岩(せきがん)滑(なめらか)なりけるに、この仙人、谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人、腹を立て、竜王があればこそ雨をも降らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如(しかず)、この竜王共を捕へて禁楼(きんろう)せんにはと思て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕へて、岩の中にぞ押篭(おしこめ)ける。これより国土に雨を降すべき竜神(りゆうじん)なければ、春三月より夏の末に至るまで天下、大(おおい)に旱魃(かんばつ)して、山田のさなへさながらに、取らでそのまま枯(かれ)にけり。
        (二)
君(国王)、はるかに民の愁(うれへ)を聞召(きこしめ)して「いかにしてか、この一角仙人の通力を失(うしなう)て、竜神(りゆうじん)を岩の中より可出す」と問(とひ)給ふに、ある智臣(ちしん)申けるは「彼(かの)仙人、たとひ霞(かすみ)を喰(くら)ひ、気を飲(のみ)て、長生不老の道を得たり共、十二の観(くわん)に於(おい)て未足(いまだたらざる)所あればこそ、道にすべりて瞋(いか)る心は有(あり)つらめ。心いまだ枯木死灰(こぼくしくわい)の如(ごとく)ならずは、色に耽(ふけ)り香(か)に染(そ)む愛念などか無(なか)らんや。然(しか)らば三千の宮女の中に、容色(ようしよく)、ことに勝(すぐ)れたらんを、一人、彼の草庵の中へつかひて、草の枕を並べ苔の筵(むしろ)を共にして、夜もすがら蘿洞(らとう)の夢に契(ちぎり)を結ばれば、などか彼(かの)通力を失はで候べき」とぞ申ける。諸臣、皆この儀に同じければ、すなはち三千(さんぜん)第一の后(きさき)、扇陀女(せんだによ)と申けるに、五百人の美人を副(そへ)て、一角仙人の草庵の内へぞおくりける。后はさしもいみじき玉(たま)の台(うてな)を出て、見るに悲(かなし)げなる草庵に立入(たちいり)給へば、苔(こけ)もるしづく、袖の露、かはく間(ま)もなき御涙(おんなみだ)なれ共(ども)、勅(ちよく)なれば辞(じ)するに言(こと)ばなくして、十符(とふ)のすがごもしき忍(しの)び、小鹿(をしか)の角(つの)のつかの間に、千年(ちとせ)を兼(かね)て契(ちぎり)給ふ。仙人も岩木(いはき)にあらざれば、あやなく后に思(おもひ)しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは疑わず。それ仙道は露盤(ろはん)の気を嘗(なめ)ても、婬欲(いんよく)に染(そみ)ぬれば、仙の法、皆(みな)尽(つき)て其験(そのしるし)なし。さればこの仙人も一度(いちど)后に落されけるより、鯢桓(げいくわん)の審(しん)も破(やぶ)れて通力もなく、金骨(きんこつ=尊い風采)返て本(生身)の肉身(人間)と成(なり)しかば、仙人たちまちに病衰(びやうすい)して、やがて空(むなし)く成(なり)にけり(亡くなった)。その後、后(きさき)は宮中へ立帰り、竜神(りゆうじん)は天に飛(とび)去て、風雨時に随(したがひ)しかば、農民東作(のうみんとうさく)を事とせり。その一角仙人は、仏の因位(いんい)なり。その婬女(いんぢよ)は、耶輙陀羅女(やしゆだらによ)これなり。
C能の「一角仙人」・・・天竺(インド)の波羅奈(ばらな)国に、鹿から生まれた一角仙人という仙人がいた。ある時、一角仙人が龍神たちと争い、神通力で龍神をすべて岩屋の中に封じ込めてしまった。龍神のいない波羅奈国では、雨がまったく降らなくなった。波羅奈国の帝(みかど)は困り果て、旋陀(せんだ)夫人という美人を一角仙人のもとに遣(つか)わした。仙人の家に着いた一行は、持参した酒を仙人に勧めた。仙人は一旦は断るが、なおも勧められると、とうとう酒を飲み始め、夫人が舞い踊るのにつられて自分も舞い始めた。一角仙人は、酔いつぶれてしまった。そのうちに、岩屋が砕け散り、剣を振りかざした龍神たちが現われた。一角仙人は剣をとって立ち向かったものの、酒で神通力を失っていたので、龍神に打ち負かされてしまった。一角仙人を倒した龍神たちは、大雨を降らせて龍宮へ帰って行った。
「一角仙人の能面」の絵はこちらへ
Dインドの古代神話「一角仙人」の話に基づいた説話が「今昔物語集」や「太平記」に見られ、能楽「一角仙人」となり、これが脚色されて、歌舞伎十八番「鳴神」と展開した。


(小話882)「山岡鉄舟と博徒の清水次郎長(しみず・じろちょう)(5/10)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。子分三千人で東海一の親分といわれた清水次郎長は、山岡鉄舟に心酔していて、よく山岡家に出入りしていた。ある時、次郎長がこんな事を言いだした「先生。撃剣(げきけん=剣術)なんてたいして役に立たないもんですねえ」「どうして役に立たぬな」「わっしの経験ですがね。刀をもって相手に向かった時にはよく怪我をしたものですが、刀を抜かずに「この野郎」と睨(にら)み付けると、たいていの奴は逃げちまいますよ」「そういうこともあろうな。それでは、お前はそこにある長い刀でどこからでも俺に斬りかかってこい。俺はこの短い木太刀で相手をしよう。もし、俺にかすり傷ひとつでも負わせたら、お前が勝ったことにしてやる」。そこで、負けん気の強い次郎長は、端然と座っている鉄舟をしばらくの間、睨(にら)み付けていたが「これはいけねえ。どうしてもお前さんにはかかれねえ。このすくんでしまう気持ちはどうした訳だろうね。先生には分かっているだろうから教えておくんなさい」「それはお前が素手で、この野郎と相手をすくませるのと同じことだ」「それではわっしが素手で、この野郎と睨み付けるとなぜ相手がすくむんだね」と次郎長は尋ねた。鉄舟は言葉をついだ「それはお前の目から光りが出るからだ」「撃剣を稽古すれば、よけいに出るようになりますか」「なるとも。目から光りが出るようにならなけりゃ偉くはなれねえ」そう言って鉄舟は「眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず」と大書して与えた。次郎長は、これを表装していつも床の間に掛けていたという。
(参考)
@清水次郎・・・長幕末から明治初期の侠客(きょうかく)。駿河の人。本名、山本長五郎。米商から博徒となり、東海一の親分となった。また、富士山麓(さんろく)の開墾などの社会事業も行った。
A山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
      (ニ)
時は明治元年(1868)9月18日、北の箱館を目指す幕臣たちを乗せた徳川幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」は、明治新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受けた。砲撃の間に、乗り組んでいた者の大半は、海に飛び込み、近くの島などに泳ぎ着いた。しかし官軍は、艦に残っていた副艦長ら七人を斬殺した。そして、彼ら七人の死体は投棄されたまま海中に浮遊し、誰も手をつける者はいなかった。それは「賊軍に加担する者は断罪に処す」という新政府の厳重な布告が出ていたからであった。だが次郎長は「死ねば仏(ほとけ)だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と言って、七人の死体を向島の松の木の根もとに手厚く葬った。この時、山岡鉄舟は駿府藩幹事役であった。そこで鉄舟は、死体を処分したことを糾問(きゅうもん)するために、清水へ出かけた。しかし、次郎長の言い分はこうであった「敵も味方も死んだ後は同じ仏(ほとけ)です。(略)死骸で海を塞(ふさ)がれては第一、港の者が困るのです。港のためと仏のためと両方思って致したことがもしも悪いという仰せなら、どのような御咎めでも受けます」。その言葉に感激した鉄舟は、次郎長を賞し、以後、二人の交際は生涯続いた。
(参考)
@次郎長の言い分・・・これは二人についての最も有名なエピソードだが、この時、次郎長を糾問したのは別人だという説もあるし、嵐に遭遇した「咸臨丸」が清水へたどりついた時から、鉄舟がひそかに乗員の潜伏を援助し、遺体の収容を次郎長に頼んだ、という説も伝えられている。
Aその言葉に感激した鉄舟・・・次郎長に最も影響を与えた人物は山岡鉄舟で、たしかに「剣禅一如」の鉄舟は、明治の次郎長の生き方に大きく関わった。しかし、影響を与えたのは鉄舟の側からではなく、むしろ次郎長の方からだと言う説もある。


(小話881)「二河白道(にがびゃくどう)」の話・・・
         (一)
人を、この世の荒野を横断する旅人に喩(たと)えた話。果てしない荒野を一人の旅人が、東から西に向かって歩み続けていた。あたりには人影もなく、身をよせる場所もなかった。旅人は、突如、背後に異様なざわめきを感じて振り返ると、遥(はる)か後方から刀を振りかざした盗賊の群れが追いかけて来るのが見えた。さらに、後ろの左右からは、獰猛な野獣や凶悪な毒蛇が、この旅人を餌食にしようと先を争って襲いかかろうとしていた。旅人は、恐怖に震えながら必死に西へ向かって走った。すると、行く手に、一つの白い道をはさんだ二つの河が現われた。この白い道の南(上手)は、焼き尽くす憎悪に満ちた火の川が打ち寄せ、北(下手)は貪欲と渇望に狂う情熱の水の川が打ち寄せていた。旅人の、ただ一つの逃げ道は、この白く細い道を渡って西の向こう側にゆくことであった。しかし、その水と火の河の真ん中にある白い道は、幅わずか四、五寸(十五センチ前後)で、波浪は細い道を湿し、火炎は細い道を焼き、水と火の交わりは一時も休むことがなかった。死の恐怖が、旅人の全身をかけめぐった。
(参考)
@果てしない荒野・・・孤独な人生。(小話101)「恐ろしい古井戸」の話・・・を参照。
A一人の旅人・・・私たちの一人ひとり。
B東・・・裟婆の世。
C西・・・極楽浄土。
D白い道・・・浄土往生を願う清浄の信心。
E盗賊の群れ(又、獰猛な野獣や凶悪な毒蛇)・・・私たちが見るもの、聞くもの、触れるものによって、苦しみ悩み、惑わされている様子。
F波浪は細い道を湿し、火炎は細い道を焼き・・・その心が常に欲望の心と憎悪の心に汚染されている様子。
         (二)
しかし旅人は「今、後戻りすれば私は死ぬだろう。だからといって、ここに止まっていても猛獣や盗賊に襲われて死ぬだろう。又、白い道を進んでいっても死ぬだろう。どちらにしても死ぬしかないのなら、私はこの白い道を尋ねて、前に向かっていこう。危険があっても、既に道があるのだから、なんとしても必ず渡ろう」と心を決めた。すると、その時、東の岸から突然に「あなたは、心を決めてこの道をすすんでいきなさい。必ず死の難はないでしょう。もし、ここにとどまっていれば死ぬしかないでしょう」と、白道を進めと勧める声(釈尊)が聞こえてきた。また、西の岸に人(阿弥陀如来)が現われて「汝、一心正念(心を一つに決め、念を整えて)して、直ぐにその道を進んできなさい。私がよく汝を護りましょう。ですから、水の河・火の河に堕(お)ちることを畏(おそ)れることはありません」と呼んでいた。旅人は「往け」と勧める声と、彼方から「来たれ」と呼ぶ、その声を信じ、両手を合わせて脇目もふらずに進んだ。旅人が白い道を進んで行って少したつと、東岸にたどりついた群賊等が「もどって来なさい。その道は険悪で、とうてい対岸までたどりつきません。必ず死ぬでしょう。私たちの誰一人として悪心など持っていません」と叫んだ。旅人はその声を聞いても、全く振り返らなかった。一心に道を念じて白道を進んで行くと、無事に西岸へ到り着いた。
(参考)
@一心正念・・・一心とは、他力の信心(他の人びとと共にわかちあう思い)のこと、正念とは、称名念仏(「南無阿弥陀仏」のように仏の名号(みょうごう)を唱える行)のこと。
A中国の善導大師の「観無量寿経疏」の中の「散善義」にある「二河白道」の喩(たと)え。
「二河白道絵図」の絵はこちらへ


(小話880)「女性では古今最大の人気肖像画家の一人で、フランス革命を生きた美貌の女流画家エリザベト・ヴィジェ=ルブラン」の話・・・
        (一)
18世紀末から19世紀初頭にかけてのフランス革命期において、多くの女性が破滅的な最期を迎えた。啓蒙思想(革新的思想)が流行し、フランス革命が起こったとはいえ、女性に自由はなかった。そんな中で、絵筆一本でフランス革命を生き抜いたのが美貌の女流画家エリザベト・ヴィジェ=ルブランであった。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは1755年4月16日に肖像画家である父親ヴィジェと美容師である母親の娘としてパリに生まれた。6歳で寄宿舎に入れられ、11歳までそこにいた。その間、幼い彼女は自分のノートだけでなく、友人のノートにまで、顔の正面や横顔を描いた。彼女が7歳、8歳のころ、ランプの光りを頼りに、ひげを生やした男性の絵を描いた。その絵を見て父親は叫んだ「お前は間違いなく絵描きになれるよ!」。こうして、父親から最初の絵画教育を受けたが、幼い頃から既に非凡なる画才を示し、父親に勧められて、画家としては平凡だったブルアールや高名な画家ジョゼフ・ヴェルネやアッベ・アルノールなどの画家に弟子入りした。彼女は非常な努力家で、やがて優美さを追求した華麗な技法を会得した。彼女は10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていた。父親はルブランが15歳の時に亡くなったが、彼女が描く肖像画で、母親と弟は生活していた。後に母親は、金持ちの宝石商と再婚した。若く美しい女流肖像画家ルブランのもとには、貴婦人が続々と訪問し、その評判は、瞬(またた)く間にフランスの上流社会にも広まっていった。ルブランはわずか19歳にして個展を開いたが、その時の作品もオルレアン公夫人、ブリオンヌ伯夫人など、そうそうたる貴族の夫人ばかりであった。その頃、ルブランのアトリエが無許可営業のため差し押さえられたために、1774年(19歳)10月25日に彼女は聖ルカ組合の会員になった。
(参考)
@フランス革命を生き抜いた・・・エリザベト・ヴィジェ=ルブランは、正式にはフランス革命(1789年)、第一共和政(1792年) 、ナポレオンの帝政時代(1804年)、王政復古(1814年ルイ18世)、七月王政(1830年ルイ・フィリップ王)の時代を生きた。
A聖ルカ組合・・・画家は、職人や商人と同じように自分の組合に所属した。彼らを守護する聖人は幼子(おさなご)を抱く聖母マリアを描いたことがあるとされているルカ福音書・使徒行伝の著者のルカだった。組合員は、画家、家屋塗装・装飾職人、ガラス彫刻家、ガラス職人、製陶職人、刺繍職人、彫刻家、本屋、出版人、画商などで、組合は会員の利益を奨励するとともに仕事の質を管理した。組合に所属する芸術家のみが作品を販売することが許されていた。
        (二)
1776年(21歳)に彼女は、画家で美術商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。ところが、夫のピエール・ルブランは妻ルブランの収入を当てにして遊ぶことしかしなかった。だが、多くの貴族の肖像画を描き、画家として成功したルブランの名声は、高まるばかりであった。だから彼女には、道楽亭主を養っても余りある収入が、次々にはいってきた。しかも、彼女の美貌は上流階級の男たちの目を引き、カロンヌという時の大蔵大臣とさえ浮き名を流した。女流画家ルブランの知名度は日に日に高まり、ついに、王妃マリー・アントワネットから、肖像画の注文がきた。彼女はマリー・アントワネット王妃の肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれ、数年間、王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く描いた。1779年(24歳)にマリー・アントワネットの肖像画(「薔薇を持つサテンドレスのマリー・アントワネット」)を描いた。その時のアントワネット王妃は結婚後9年目で、地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあり、前王(ルイ15世)死去後5年で24才の王妃はすべてを手中にしたように思われた。アントワネット王妃はルブランの描いた絵をいたく気に入り、同じ年齢であったルブランを自分のお抱え画家とした。そしてルブランは、宮中にあって、耐えず孤独感を味わっていたアントワネット王妃のよき理解者となった。ルブランは、アントワネット王妃の肖像画を20枚以上も描き上げた。この頃がルブランの一番の爛熟期であった。彼女はもともと上流階級の織りなす社交界を好み、アントワネット王妃の庇護の下、そこで知り合った人々の肖像画を描いて、名声と共に巨万の富を得ていった。
(参考)
@アントワネット王妃の肖像画を20枚以上・・・実際には40枚近いマリー・アントワネットの肖像画が描かれた。マリー・アントワネットがルブランの絵を好んだのは、当時の肖像画家がリアルに、忠実に、アントワネット王妃の欠点さえも絵に描き出してしまうのに比べ、ルブランは、そういうところを消し去ったような理想的な姿を描き出したからだといわれている。
「薔薇を持つサテンドレスのマリー・アントワネット(1779年)」(ヴィジェ=ルブラン)の絵はこちらへ
        (三)
1780年(25歳)、彼女はただ一人の女の子、ジュリー・ジャンヌ=ルイーズを生んだ(1784年に、二人目の子を流産した)。翌年にルブランは、夫と共にフランドル(現ベルー)とオランダへ旅に出た。そして彼女は、フランドルの大家、ヴァン・ダイクやルーベンスなどの作品に刺激を受けて、新しい技法を試みた。旅先で、ルブランは後のオランダ王ヴィレム1世を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた。1783年(28歳)3月31日、ルブランはフランスの王立絵画彫刻家アカデミーの会員に「歴史画家」として迎えられた(当時、女性がプロの画家になるということは大変なことだった)。女流画家アデライド・ラビーユ=ギアールも同じ日に入会が認められた。ルブランの入会は、夫が美術商であることを理由に、アカデミーを管理する男性達に反対されたが、結局、彼らの主張はルイ16世の命令により覆(くつがえ)された。王妃マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫のルイ16世に相当な圧力をかけたからであった。1785年(30歳)、ルブランは王室の公式委員会から依頼をうけて「マリー・アントワネットとその子供たち」を描いた。
(参考)
@アデライド・ラビーユ=ギアール・・・フランスの肖像画家。パリに生まれ、細密画・パステル画・油彩をマスターし、1783年にヴィジェ=ルブランと共に女流画家として初めてアカデミー会員となる。フランス革命時には、革命を擁護する立場を取った。ルブランと同日、同時に、フランス史上初めて女流画家としてアカデミー会員になった女性。
「マリー・アントワネットとその子供たち(1788年)」(ヴィジェ=ルブラン)の絵はこちらへ(空っぽのゆりかごは、生後、僅かにして亡くなったソフィー・エレーヌ・ベアトリス王女を描く予定だった)
「サクランボ色のリボンをつけた自画像(セルフ・ポートレート=1782年)」(ヴィジェ=ルブラン)の絵はこちらへ
「麦藁帽子をかぶった自画像(セルフ・ポートレート=1783年)」(ヴィジェ=ルブラン)の絵はこちらへ
        (四)
1789年(34歳)7月フランス革命が勃発し、王族が逮捕されるなど王政が危機に瀕すると共に亡命者が相次いだ。ルブランも10月のヴェルサイユ行進の後、一人娘ジュリーを連れてフランスから亡命した。そして、数年間をイタリア、オーストリア、ロシア(6年間)で生活し、肖像画家として働いた。そこでは貴族の顧客を扱ったそれまでの経験が役に立った。ローマでは彼女の作品が批評家から大絶賛され、ローマのアカデミア・ディ・サン・ルカの会員に選ばれた。ロシアでは貴族から歓迎され、女帝エカテリーナ2世の皇族一員を多く描いた。ロシア滞在中にルブランは、サンクペテルブルグ美術アカデミーの会員になった。一方で、パリでは革命によって、ルブランの親族である夫や兄弟たちは投獄される憂き目にあっていた。彼女は引き続き12年間の亡命生活をした。その間にフランスでは、1793年(38歳)、第一共和政になり、国王裁判でルイ16世は死刑判決(「わずか1票差で国王は処刑された」)を受けて斬首刑になった。同年10月、ルブランの友人にしてよき理解者であった王妃マリー・アントワネットも、革命裁判の判決で断頭台の露と消えた。
(参考)
@フランス革命・・・1789年にフランスで、ブルボン王朝の圧制下にあった市民が、啓蒙思想の影響、アメリカ合衆国の独立に刺激されて起こしたブルジョア革命。バスティーユ襲撃に始まり、人権宣言の公布、立憲君主制の成立を経て、1792年に第一共和制を樹立し、翌年ルイ16世を処刑。ジャコバン派による恐怖政治、テルミドール反動後の総裁政府の時代を経て、ナポレオンの政権掌握により終結。
Aヴェルサイユ行進・・・ランス革命の際の1789年10月5日、パリの広場に集まった約7000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス国王ルイ16世をパリに連行した事件のこと。
B女帝エカテリーナ2世・・・(小話590)「ロシアの女帝で大帝とも言われたエカテリーナ2世の数奇で波乱の生涯」の話・・・を参照。
        (五)
1802年(47歳)にルブランはナポレオン帝政時代のフランスに帰国した。そして、ナポレオン・ボナパルトの妹(カロリーヌ・ミュラ)の等身大の肖像画を描いたが、皇帝ナポレオンとの折り合いは悪かった。ルブランはフランスに戻ったものの、ヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、高名な詩人、バイロン卿を含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いた。この頃、彼女はパリに近いイヴリーヌ県のルヴシエンヌに家を購入し、そこを拠点にしてパリで活躍した。「私はパリと田舎を行ったり来たりする生活をするようになりました。ルヴシエンヌの家に対する愛着はなくなりませんでした。1年のうち、8ヶ月はそこで過ごし、この環境での私の生活は快適でした。絵を書き、庭仕事をし、ひとりで散歩しました」。1807年(52歳)にルブランはスイスに赴き、ジュネーヴの名誉会員になった。1813年(58歳)に長い間、疎遠であった夫ルブランが、この世を去った。1814年(59歳)ナポレオン戦争(フランスとイギリスとその連合軍=オーストリア、ロシア、プロイセン)に敗れた皇帝ナポレオン1世が退位し、ルイ16世の弟ルイ18世が即位してフランスは王政復古した。その頃には高名な肖像画家となっていたルブランは、ルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地とした。1819年(64歳)に彼女の娘ジュリーが、病気により39歳の若さで亡くなった。1824年(69歳)にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位し、反動政治を推し進めた。1830年(75歳)に七月革命が勃発してシャルル10世は失脚した。そして七月王政(立憲君主制の王政でルイ・フィリップ王)の時代になった。ルブランは1835年(80歳)と1837年(82歳)に回想録を出版した。それはロイヤル(王立)・アカデミーが支配した時代の終わりにおける芸術家の育成について、興味深い視点を提供した。その後もルブランは、旺盛な創作活動を続けた。そして彼女は、1842年(87歳)3月30日に没するまでパリに留まった。ルブランの遺骸はルヴシエンヌへ引取られ、住み慣れた家の近くの墓地に埋葬された。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの墓碑銘は「ここで、ついに、私は休みます・・・」であった。享年87歳。
(参考)
@バイロン卿・・・イギリスの詩人。ロマン派を代表し、社会の偽善に対する反抗精神を基盤に近代的自我意識を強烈に表現した。英国を去りヨーロッパ各地を遍歴したのち、ギリシャ独立戦争に参加、戦病死した。代表作「チャイルド=ハロルドの遍歴」「マンフレッド」「ドン=ジュアン」など。
Aエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは生涯に660の肖像画と200の風景画を残した。個人コレクションンに加え、彼女の作品はロンドンのナショナルギャラリーのような欧米の主要な美術館に収められいる。
「カロリーヌ・ミュラとその娘」(ヴィジェ=ルブラン)の絵はこちらへ
いろいろなエリザベト・ヴィジェ=ルブランの「セルフ・ポートレート(自画像)」(ヴィジェ=ルブラン)の絵等はこちらへ
いろいろな「マリー・アントワネット」(ヴィジェ=ルブラン)の絵等はこちらへ
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの絵画の詳細はこちらへ


(小話879)「山岡鉄舟と辻斬りの武士(4/10)」の話・・・
      (一)
    幕末の剣客であり、禅を修行し「剣禅一如」の人といわれた山岡鉄舟の話。鉄舟ところに出入りしていた剣客の中に、松岡萬(まつおか・つもる)という辻斬りの好きな男がいた。旧幕臣の松岡は、剣術が得意で、その上、血の気の多い男であったが、鉄舟と共に幕臣攘夷派(幕府として外敵を追い払って国内に入れないこと)のため奔走していた。ある晩、二人が一緒に歩いていた時、鉄舟は小用のため立ち止まった。松岡は構わずそのまま歩いて行った。鉄舟は用が終わって、松岡がどこに行ったかと探してみたら、一町ばかり先で松岡が一人の武士に切りかかっていた。「まったく困った奴だ」と鉄舟が飛んでいくと、相手は大柄な武士で、松岡の刀の切っ先が武士の鼻とすれすれになっていた。だが、その武士はふところ手したままヌッと突っ立ってビクともしない。さすがの腕に覚えのある松岡も、武士のたじろぎもしない様子に呑(の)まれてタジタジになっていた。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A松岡萬(つもる)松岡萬は、将軍、徳川慶喜護衛の精鋭隊隊長格。慶喜が謹慎のため駿府に来てから隊の名は「新番組(旧精鋭隊)」となるが、その隊長格で、駿府藩の幹部の一人であった。
      (ニ)
「いや、これは手ごわい奴にぶつかったわい」と鉄舟は思い「ご無礼するなっ!」と叫びながら松岡の襟をつかんで後ろに引き倒した。松岡は尻餅をついたまま、まだ刀を武士に向けて構えていた。ところが、山岡鉄舟が「どうもご無礼しました」と詫びたとたん、その武士は「ありがとう御座る」と言うなり、ふところ手したままやはり尻餅をついてしまった。相手は腰を抜かして動けなかったのであった。そして後に山岡鉄舟は「この武士のまねができれば、辻斬りを退散させることができる」言ったという。


(小話878)「イソップ寓話集20/20(その33)」の話・・・
     (一)「オオカミと仔ヒツジ」
ある日のこと、オオカミは、群れとはぐれて迷子になった仔ヒツジと出会った。オオカミは、仔ヒツジを食ってやろうと思ったが、牙を剥(む)いて襲いかかるばかりが能じゃない。何か上手い理由をでっち上げて手に入れてやろうと考えた。そこで、オオカミはこんなことを言った。「昨年お前は、俺様にひどい悪口を言ったな!」仔ヒツジは、声を震わせて答えた。「誓って真実を申しますが、私はその頃、まだ生まれていませんでした。」するとオオカミが言った。「お前は、俺様の牧草を食べただろう!」「いえいえ、私はまだ、草を食べたことがありません」するとまたしてもオオカミが言った。「お前は、俺様の井戸の水を飲んだな!」仔ヒツジは悲鳴を上げて答えた。「いえ。まだ、水も飲んだことがありません。だって、お母さんのお乳以外は、まだ何も口にしたことがないのですから」「ええい! もうたくさんだ! お前がなんと言おうとも、俺様が、夜飯(よるめし)を抜いたままでいるとでも思っているのか?」オオカミはそう言うと、仔ヒツジに襲いかかった。
(暴君は、いかなる時にも、自分に都合のよい理由を見つけるものである)
     (二)「コウモリと二匹のイタチ」
コウモリが、地面に落っこちてイタチに捕まった。コウモリは、命ばかりはお助けを……と懇願した。しかしこのイタチは生まれてこの方ずうっと、鳥と戦ってきたと言うのだ。そこでコウモリは、自分は鳥ではない、ネズミだと言い張った。それを聞いてイタチは、コウモリを逃がしてやった。それからまもなく、コウモリは、また、地面に落っこち、そしてまたしても、イタチに捕まってしまった。コウモリは今度も、命ばかりはお助けを……と懇願した。しかし今度のイタチは、ネズミを大変憎んでいると言う。そこでコウモリは、自分はネズミではなくコウモリだと言った。こうして、コウモリは、二度までも窮地を脱した。
(賢い人は、その場その場でうまく立ち回る)
     (三)「ロバとキリギリス」
ロバは、キリギリスの歌声を聞いて魅了され、自分もあんな風に美しい声で歌ってみたいものだと考えた。そこでロバは、キリギリスたちに、どんなものを食べるとそんなに素敵な声が出るのかと尋ねてみた。キリギリスたちは答えた。「水滴だよ」 それで、ロバは、水しか摂(と)らないことに決めた。ロバは、空腹ですぐに死んでしまった。


(小話877)「(ジャータカ物語)牝鹿(めじか)の身代わりとなった金色の鹿王(その1/2)」の話・・・
      (一)
昔むかし、インドのペナレス(又は、バラナシ=初説法の地)でブラフマダッタ王が国を治めていたときのこと。王様は、とても鹿狩りがすきで、毎日のように家来をひきつれて野山へ狩りにでかけ、夕食にその肉を食べるのを楽しみにしていた。鹿の群れの中には、体の大きな金色の鹿王(釈迦の前生)がいた。ブラフマダッタ王は、それを見るたびに「殺すのはおしい。よいか、あの金色の鹿王だけは殺すな」と、家来たちに命じていた。鹿狩りには必ず近くの村人がかりだされた。そのため、仕事が手につかず、困った村人は考えたすえに広い囲いをつくりそこに鹿の群れを追いこんだ。「王さま、これからは囲いの中の鹿をとって召しあがってください」。以来、王さまかその家来が、毎日一頭ずつ囲いの鹿を弓で射て、もち帰るようになった。一方、鹿たちは、囲いの中では逃げもかくれもできなかった。金色の鹿王もなんとかみんなを励まし守ろうとしたが、鹿たちは毎日の狩りにおびえ、つかれ、病で死ぬものが後(あと)をたたなかった。見かねた鹿王は言った「これからは、順番を決めて、一頭ずつ人間の前に進みでることにしよう。それしか全員が追い回される苦しみからのがれる方法はない」。さっそく、順番を決めるクジ引きが行なわれた。もちろん鹿王も加わった。それからは、順番に当たった鹿が、覚悟を決めて、みずから人間の前に進みでるようになった。人間たちはそんな鹿たちの苦しみはつゆ知らず「こりゃ、楽でいいや」といって、毎日、鹿を殺しつづけた。鹿の群れは、表むきは平和で静かになった。しかし、その裏で鹿たちは死の順番におびえながら暮らしていた。あるものは泣き叫び、あるものはじっと耐え、あるものはやけっぱちになって自分の順番を待った。それは人間に追いまくられていた時とは、またちがった耐えがたい苦しみだった。鹿の群れを暗い影がおおい、みんなイライラして仲間同士の順番をめぐる喧嘩がたえなかった。
      (ニ)
ある日、金色の鹿王は仲間同士がいい争っているところに出会った「どうしたんだ?」と鹿王がたずねると、牝鹿(めじか)をかこんだ鹿たちは言ったた「王さま、聞いてください。今日が順番に当たっているというのに、こいつ行こうとしないんです。きまりを守らないんです」。「どうしてだね?」と鹿王はやさしく牝鹿にたずねた。すると、牝鹿は目に涙をいっぱいためて訴えた「わたしのお腹には赤ちゃんがいます。生まれたら必ず順番をはたしますから、どうかそれまで待ってください。お願いです」。他の鹿は口々に「じゃ、だれが代わりにいくというんだ」「みんな一日だって長く生きていたいんだぞ」と言って牝鹿を押し出した。「待ちなさい」と鹿王は静かに言った。「王さま、いくら王さまだって例外はなしですよ」。「わかっておる。だからわたしが身代わりにいこう」。鹿王はお城に向かった。歩きながら、鹿王の胸は深い悲しみに沈んだ「ああ、わたしは無力だった・・・。順番を決めたところで死の恐れは形を変えただけなのだ。わたしは結局、仲間をだれひとり救えなかった」。城の家来や料理人たちは、いつものように鹿がやってきたので、それっ!といっせいに矢を放った。鹿王はたくさんの矢をうけて息たえた。しかし、倒れた鹿を見て、家来たちはまっさおになった。それはブラフマダッタ王がけっして殺してはいけないと命じていた金色の鹿だったからである。話を聞いてブラフマダッタ王がかけつけた「鹿王よ、なぜ王であるお前がここにきた」。その時、一頭のお腹の大きな牝鹿があとを追うようにヨロヨロとやって来た。それを見て、王さまはすべてを理解した「そうか、そうだったのか。おまえがあの牝鹿の身代わりになったのだな。おお、金色の鹿王よ、人間の中にもおまえほど忍耐強く、慈悲深い者はいない」と王は心に強い衝撃をうけた「わしはおまえたちになんという苦痛を与えていたのだろう。もう狩りはせぬ。囲いもとろう。約束する」。こうして、鹿たちはようやく解放された。その後、牝鹿はかわいい子どもを生んだ。母鹿はいつも仔鹿(こじか)に言った「あなたは鹿王のおかげで生まれたのよ。鹿王のやさしい心をけっして忘れてはいけません。本当のやさしさだけが世の苦しみを救うことができるのですからね」。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話876)「山岡鉄舟と剣聖、浅利又七郎(3/10)」の話・・・
      (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。山岡鉄舟は、九歳で真陰流(しんかげりゅう)を学び、十歳から北辰(ほくしん)一刀流を学んだ。そして、狂気のように真(ま)っ正直に捨て身の稽古をしたので、若くして北辰一刀流の中目録免許を伝授された。その上、山岡鉄舟は「講武所」の剣術師範にもなった。その講武所で、鉄舟は「向かうところ敵なし」で「鬼鉄」と呼ばれて皆から恐れられた。しかし、二十年間、修行しても剣道に納得することができず「剣道明眼の人を四方に求むるも、更にその人にあう能(あた)わず」と嘆いていた。山岡鉄舟は文久三年(1863年)、二十八歳の時、ついに「明眼(みょうげん)の人」に出会うことができた。小浜藩士で、一刀流の剣聖、浅利又七郎義明(あさり・またしちろう・よしあき)であった。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A明眼(みょうげん)・・・仏語。物事の真実を明らかに見通せる心の眼。
      (二)
鉄舟は早速、浅利又七郎に弟子入りした。だが、浅利に何度、挑戦しても勝てなかった。浅利の技量と心境は鉄舟をはるかに越えていた。最初に竹刀(しない)で立ち合った時は、半日ちかくも激しく打ち合い、浅利が勝ちはしたが、ほとんど互角の勝負であった。ところが木剣での立ち合いでは、力の差がはっきりと表われた。毎日がこんな状態で、鉄舟は手も足も出なかった。鉄舟は坐禅をしていても、思い出すたびに浅利又七郎の姿が山のように立ちはだかり圧迫してくるのを、どうすることもできなかった。こうして「剣禅一如」の修行を重ねる一方、山岡鉄舟は激動の幕末を、幕臣攘夷派(幕府として外敵を追い払って国内に入れないこと)として活動した。そして、有名な「江戸城開城」に勝海舟と共に尽力し、明治維新後は、静岡藩権大参事、茨城県参事などをを歴任の後、三十七歳の時に、明治天皇の侍従になった。やがて、四十歳すぎに鉄舟は、天竜寺の滴水(てきすい)和尚に「両刃(りょうば)」(両刃、鋒(ほこさき)を交えて避くることをもちいず。好手かえって火裏の蓮(はす)に同じ。宛然(えんぜん)として自ずから衝天(しょうてん)の気あり)の公案(こうあん=禅宗で、修行者が悟りを開くため、研究課題)を与えられ、三年間この語を究明した。そして、ある晩、寂然(じゃくねん)とした天地無物の境に入った。ほんの一瞬のことと感じたのに、気が付いてみるとすでに夜は明けかけていた。鉄舟はためしに剣を構えて試合をする形をしてみると、浅利の幻影がのし掛かってこなかった。
(参考)
@天竜寺の滴水(てきすい)和尚・・・滴水和尚は、若い修行時代、掃除のあと、桶の残り水を庭に捨てた。これを看たお師匠さんは、大きな声で叱りつけた。「コリャ。残り水といえども、無駄に捨ててはならぬ。草むらに捨てれば、虫や草の根は、よろこぶだろう。もったいないことをするな!」。深くかえりみるところがあったこの少年僧は、一滴の水も粗末にしない、自戒の意味で「滴水」と名を改めた。
A火裏の蓮(はす)・・・火の中にあっても、絶対に枯れない蓮の花のことで、普通、泥沼に蓮の花が咲いているが、この蓮の花はぼんぼん燃え盛る火の中にあっても燃えない。絶体絶命のピンチに出会っても泰然としていることを「火裏の蓮」と言う。
      (三)
鉄舟は、さっそく門人を呼んで立ち会ってみると、あまりの気迫のすさまじさに門人は鉄舟の前に立つこともできなかった。門人は「参りました」といいい「これまでの先生と違います。驚きました」と言った。鉄舟もそれを実感できた。そこで師の浅利又七郎に頼んで、剣を構えあったのだが、浅利はたちまち一礼をして「余、及ぶところにあらず」と兜(かぶと)を脱いだ。それが明治13年3月30日のこと、鉄舟、四十五歳の時であった。こうして鉄舟は、力及(ちからおよ)ばぬ剣客・浅利又七郎の影に17年悩まされ続け、ついに乗り越えた。浅利又七郎は鉄舟に一刀流の免許皆伝をさずけ、元祖、伊藤一刀斎いらいの無想剣の真髄をつたえて伝統を継ぐことを許した。浅利又七郎はそれ以後ふたたび剣を手にしなかったという。又、この年、鉄舟は禅の道に大悟(たいご=完全な悟り)して、適水和尚の印可を受け、「剣禅一如」を成就し、無刀流を開いた。
(参考)
@浅利又七郎(あさりまたしちろう)・・・幕末の剣客。水戸街道松戸の人。小野一刀流を学び、突きの名手。浅利又七郎義明は千葉周作の師匠であった浅利義信の養子で、実父は中西派一刀流4代、中西子正。周作が浅利義信と対立し後継者の座を去った後養子になり後を継いだ。


(小話875)「風の神の四兄弟、ボレアス(北風)、ノトス(南風)、エウロス(東風)、ゼフュロス(ゼピュロス=西風)」 の話・・・
      (一)北風ボレアス
ギリシャ神話より。北風の神ボレアスは、天に輝く星の神アストライオスと暁の女神エオスの夫婦から生まれた四人の風神の一人で、四兄弟たちの中では一番の暴れ者であった。力が強い上に気性も荒く、終始(しゅうし)怒ってばかりいて、何かの拍子に暴れだしたら手がつけられなかった。風神ボレアスは、トラキアはハイモス山の洞窟に住み、冬を運んでくる冷たい北風の神で、ボレアスの名は「北風」あるいは「むさぼりつくす者」を意味した。風神ボレアスは、ほら貝を持ち突風にうねる外套を纏(まと)い、もじゃもじゃ頭に顎鬚(あごひげ)を生やした、翼のある老人であった。ボレアスは他の兄弟ゼフュロス(西風)、エウロス(東風)、ノトス(南風)と一緒に大神ゼウスの戦車を牽(ひ)く役目を担っており、神馬のように頸木(くびき=馬の頸の後ろにかける横木)に繋(つな)がれ、御者を務める虹の女神イリスの導きに従って、非常に速い速度で天を駆け抜けるという。四人の風神は、その足の速さから馬と関わりを持つことが多く、北風の神ボレアスも例外ではなく、エリニュス(三人の復讐の女神)の一人と交わって、軍神アレスの戦車を牽く四頭の神馬を生ませたとか、トロイア王エリクトニオスの飼う雌馬たちと交わって、海上をも駆ける十二頭の神馬を生ませたという。そして、牝馬(めすうま)の臀部を北風に向けて立たせれば、牡馬(おすうま)なしに仔馬(こうま)を種付けできるのではないかとも言われていた。又、生まれたこれらの仔馬は、作物を踏みにじることなく穀物畑を走り抜けることができたという。
(参考)
「四大風神」(不明)の絵はこちらへ
      (一のニ)
ある時、北風の神ボレアスは、アテナイ(アテネ)王エレクテウスと王妃プラクシテアの娘で、美しい王女オレイテュイアに惚れ込んだ。そこで乱暴者の北風ボレアスではあったが、最初はおとなしく彼女の歓心を得ようとして説得を試み、父親のエレクテウス王には、自分の妻にくれるようにと熱心に頼み込んだ。だが、王女オレイテュイアには、色よい返事はもらえず、エレクテウス王には拒絶された。エレクテウス王には、かって自分の姉妹ニ人がトラキア王テレウスに破滅させられたという苦(にが)い記憶があった。そのためエレクテウス王は、特にトラキアの男を嫌っていた。そこで北風の神ボレアスは、生来の荒々しい気性を取り戻し、イリソス河の河辺で踊っていた美しい王女オレイテュイアを強引に誘拐した。ボレアスは北風で王女オレイテュイアを雲の上に吹き上げて、自分の住むトラキアまで連れ去った。そして、彼女との間に父譲りの翼を背に生やした双子の兄弟ゼテスとカライスに、二人の娘キオネとクレオパトラの、合わせて四人の子をもうけた。この時より以降、アテナイの人々は、北風の神ボレアスを姻戚による親類と見なすようになった。アテナイがペルシア王クセルクセスにより脅かされたとき、人々は北風の神ボレアスに祈りを捧げた。北風の神ボレアスは、暴風で400隻のペルシアの船を沈めたと伝えられている。そして、戦いに勝利したアテナイの人々は故郷に帰還すると、オレイテュイア略奪の現場となったイリソス河に風神ボレアスの神殿を建造した。
(参考)
@エレクテウス王・・・エレクテウス王の姉妹のプロクネがトラキア王テレウスの妃となったが、好色で野蛮なテレウス王はその妹ピロメラにも邪恋を抱き、「姉のプロクネが会いたがっている」という誘いに乗ってトラキアへやってきた彼女を、森の中に引っ張り込んで犯した挙げ句、非道を口外せぬよう舌を切り落として小屋に監禁した。だが、自分の悲運を布に織り込んで姉に届けるというピロメラの機転によって、プロクネはすべてを知り、烈火の怒りに燃えて妹を救出すると「我が子を殺してその肉を夫に食わせる」という世にも悲惨な方法でテレウス王に復讐した。(小話499)「テレウス王と美しい姉妹・プロクネとピロメラの恐ろしい復讐」の話・・・を参照。
「ボレアスによるアテナイ王女オレイテュイア」(ルーベンス)の絵はこちらへ
「オレイテュイアを誘拐するボレアス」(イザーク・ブリオ)の挿絵はこちらへ
      (ニ)南風ノトス
南風の神ノトスは、時に暖かく吹き、時には疫病をもたらした。彼は穏やかだが、晩夏と秋には嵐をもたらし、農作物の破壊者として恐れられていた。
      (三)東風エウロス
東風の神エウロスは、不吉な風を吹き、東からの温暖と雨を運んでくる神であった。彼は穏やかだが、いつも不機嫌で気まぐれで、特に船乗りたちを悩ませた。
      (四)西風ゼフュロス(ゼピュロス)
西風の神ゼフュロス(ゼピュロス)は、四兄弟の中では、最も温和で美男の上、一番親切と言われ、トラキアの洞窟に住み、雪を解かし、穀物を育てる豊穣の風(微風)として知られていた。西風の神ゼフュロスの妻は、女神クロリス(フローラ)で、彼は美しい女神クロリスを誘拐して妻にし、彼女に花の女神の地位を与えた。そして、妻クロリスとの間に、果実の神カルポスをもうけた。ある時、西風の神ゼフュロスは、スパルタの王子ヒアキントスに恋したが、太陽神アポロンも同様であった。二人の神々は少年への愛を競(きそ)ったが、ヒアキントスは太陽神アポロンを選び、西風の神ゼピュロスは嫉妬に狂わんばかりとなった。そして、円盤投げをしているアポロン神とヒアキントスを見付けた西風の神ゼピュロスは、一陣の突風を彼らに吹き付け、落下した円盤を少年の頭に打ち付けた。ヒアキントスが死ぬと、太陽神アポロンはヒアキントスの血からヒヤシンスの花を造った。又、西風の神ゼフュロスは、愛の神エロスのために、高い山の頂上に立つ美しいプシュケをエロス神の住む洞窟に送り届けた。そのほかにも彼は、オケアノス川の近くの牧草地で、牝(めす)の仔馬の姿をしていた怪鳥パーピィ(ハルピュイア)を妊娠させ、太陽神アポロンの神馬であるクサントスとバリオスを生ませた。
(参考)
@女神クロリス(フローラ)・・・ローマ神話には、花の女神フローラにつかえていた美しい妖精アネモネが、風の神ゼフュロスに愛され、嫉妬したフローラによって花に変えられてしまった。春風の中で美しく花開くため、この花は風の花と呼ばれているという話もある。
Aヒアキントス・・・(小話372)「太陽神・アポロンと美少年・ヒアキントス」の話・・・を参照。
Bエロス神の住む洞窟・・・(小話377)「愛の神エロスと遍歴する美しきプシュケ」の話・・・を参照。
「ゼフュロス(ゼピュロス)とクロリス(フローラ)」(ノエル=ニコラ・コワペル)の絵はこちらへ
「フローラ(クロリス)とゼフュロス」(ブーグロー)の絵はこちらへ
「西風の神と花の女神」(テェエポロ)の絵はこちらへ
「オペラ座のフローラ」(ロスラン)の絵はこちらへ
「春」(ボッティチェッリ)の絵はこちらへ風の神ゼフィロス(右端の青い人物)がフローラ(クロリス)をつかまえようとし、彼らから春(PRIMAVERAプリマヴェーラ)が誕生する。そしてほぼ中央には愛、生命の源の女神、ヴィーナスがいる
「ビーナスの誕生」(ボッティチェッリ)の絵はこちらへ風に乗り、花を蒔きながら美の女神ヴィーナスの誕生を祝福する西風の神ゼフロスとその妻、花の女神フローラ(クロリス)


(小話874)「山岡鉄舟と槍の達人、山岡静山(2/10)」 の話・・・
       (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。山岡鉄舟は、二十歳の時、江戸、玄武館の千葉周作のもとで剣を修業する一方で、当時、槍(やり)の達人といわれた山岡静山に槍を学んだ。その山岡静山は、鉄舟が入門してまもなく二十七歳の若さで急逝した。後に鉄舟は、静山について次のような一文をしたためた「そもそも静山先生が槍(やり)の術に絶妙であるのは、日本随一であり、何人も称賛するところである。そして更に内面的には深く「忠孝仁義」という人の道に心血を注いでおられることは、天下にこの人を凌(しの)ぐ者が何人あろうか。まさしく静山先生の技は、無我の真の発動であるに相違ない。これこそ私が最も敬服するところである。私、鉄太郎は剣法を修行し、先生は槍(やり)の達人である。従って、私は先生の技に対して師事したのではない。敬服したのは、先生の心境が明鏡止水の如くに一点の曇りも無く、徳の厚きこと山の如くであるからである。それ故、私は技が異なるにもかかわらず、しばしばその門に出入りして先生の教えを受けたのである」と。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
A千葉周作・・・江戸後期の剣客。幕末の三大剣客の一人で、北辰一刀流の祖。神田お玉ケ池に道場を構えていた。位は桃井(鏡心明智流)、技は千葉、力は斎藤(神道無念流)という評があるように、心形刀伊庭道場ととあわせて江戸四大道場と呼ばれた。
B山岡静山・・・「槍の静山」(通称は紀一郎)と呼ばれ、当時日本で1、2を争うと言われた槍の名手で、しかも後に書で有名になる実弟の高橋泥舟さえも「兄にはどうにもかなわなかった」と言っているほど、書も素晴らしかった。しかも「人となり剛直、おもねらず、質朴を重んじ気節をたっとび、人倫に篤(あつ)く」と言われる人格者。彼の人柄を慕って多くの門人が集まっていたという。
       (二)
また、師の山岡静山は鉄舟のことを、常に人にこう語っていた「世間には青年が数多くいるものの、技芸に長(ちょう)ずれば真の勇気がなく、気概があれば技芸が拙(つたな)く、とかく困り者が多い中で、ただ小野鉄太郎(山岡鉄舟)だけはまことに「鬼鉄」のあだ名に恥じず、心根の寛厚な(度量が大きく手厚い)ことは、まるで菩薩の再来かと思われるほどの者であるから、彼の行く末は必ずや天下に名声をとどろかすものとなるであろう。頼もしいものだ」と。山岡鉄舟が静山の弟子だった期間は長くみても半年以下という短さであったが、それでも静山が鉄舟に与えた影響は強烈だった。二人には「この弟子にしてこの師あり。この師にしてこの弟子あり」の師弟関係にあり、師の山岡静山が二十七歳で急逝した後に鉄舟は、静山の弟、高橋泥舟の懇請により、師、静山の跡を継いで、禄高(ろくだか)がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹、英子(ふさこ)と結婚して小禄の山岡家を継いだのだった。
(参考)
@静山の妹と結婚・・・山岡静山の妹、英子(ふさこ)も、鉄舟の風格に惚れ込んで「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それは英子にとって問題ではなかった。鉄舟の方も「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因であったという。
A「鬼鉄」のあだ名・・・安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府「講武所」の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。
       (三)
鉄舟は急逝した山岡静山の死を悼んで景慕(けいぼ=仰ぎしたうこと)の情に堪えず、毎晩、人知れず墓参した。寺の和尚は大柄の鉄舟を怪物だと勘違いし、山岡静山の弟、高橋泥舟に伝えた。そこである日、泥舟が窺(うかが)っていると、雲行きがあやしくなり、ついにはものすごい雷雨となった。その時、一人の大男が風雨をついて走ってきて、静山の墓前でうやうやしく礼拝して羽織を脱いで墓にかけ、墓に向かってあたかも生きている人にものを言うかのように「先生、鉄太郎がおそばにおりますから、どうぞご安心遊ばせ!」と言いつつ、雷雨が過ぎるまでそのまま守護していた。これは静山が雷が苦手だったからであった。物陰からこの様子を見ていた泥舟は、亡兄に対する鉄舟の至誠心を目の当たりにして、感涙にむせんだという。
(参考)
@高橋泥舟・・・江戸末期の幕臣。槍術家で講武所師範役。鳥羽・伏見の戦い後、第15代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に恭順説を説き、上野寛永寺で慶喜を護衛した。山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末の三舟と称された。山岡静山の弟であるが母方の家を継ぎ高橋家の養子となった泥舟は、槍の達人として知られ、幕府講武所の槍術教授をもつとめた。泥舟は徳川慶喜の信任篤く、維新後は世に出ることを拒み、世に出る事の出来ない徳川慶喜とともに、野にあることを自身の戒めとした。
A雷が苦手だった・・・(小話681)「中国の二十四孝の物語(12/12)(その1)」の話・・・を参照。


(小話873)「「ビュリダンのロバ(驢馬)」と「見えない川」」の話・・・
      (一)
一頭のペコペコに腹を空かせたロバ(驢馬)がいた。幸いにも乾し草の山を発見したが、不幸なことに彼は同時に、二つの乾し草の山を見つけてしまった。左右の二つの乾し草は、何から何までまったく同じであった。それで、ロバ(驢馬)は迷いはじめた。どちらの山を食うべきか? ちょっと馬鹿げた迷いだが、ロバ(驢馬)は迷いに迷った。右の山から食べようと思って、右に向かって二、三歩あゆむと、左のほうがおいしそうに見えた。それで左に行くと、今度は右のほうがおいしそうに見えた。そのあげく、翌朝、そのロバ(驢馬)は、二つの乾し草の山の中間で飢え死にしていた。
(参考)
@十四世紀のフランスの哲学者ジャン・ビュリダンが述べたと伝えられたものだが、実際はビュリダンが、これを本当に言っていたのかどうかは確認できていないし、彼の著作のどこにも出てこないと報告されているが、古来、「ビュリダンのろば」と呼ばれて有名。
      (二)
インドを旅行した大学教授の話。「インド北部にアラーハーバード(イラーハーバード)という都市がある。ここはガンジス川とヤムナー川が合流する場所で、ヒンドゥー教の聖地となっている。インドでは、この合流点にもう一本の見えない川が流れ込んでいると言われる。その名はサラスワティー川。ヒンドゥーの古典では最も聖なる川とされ、篤い信仰の対象となってきた。しかし現在のアラーハーバードで、その流れを見ることはできない。5年程前、私はここの合流点を遊覧する小舟に乗った。同乗者のほとんどはヒンドゥーの巡礼者だったが、一人、神経質そうな西洋人が含まれていた。船頭が拙(つたな)い英語でサラスワティー川の説明を始めると、この西洋人は冷たいまなざしで言った「サラスワティー川なんて、どこにも見えないじゃないか! 見えないものを存在すると言うなんてインチキだ」。すると船頭は穏やかに言った「君には風が見えるのかい?」。もちろん風は見えない。しかし、髪をなびかせ、ほおを撫(な)でる「この風」は確かに存在する。船頭は続けた「サラスワティー川は、私たちの心の中に流れています。私はその存在を全身で感じます」。風景は目で見るだけでなく、心や体で観(み)るものなのだということを、私はこの船頭に教わった」
(参考)
@アラーハーバード(イラーハーバード)・・・ガンガー(ガンジス川)とヤムナー川の2つの大河(伝説上では地下を流れているとされるサラスワティー川も加えて3つ)が合流するヒンドゥー教聖地。
Aサラスワティー・・・インド地方の神様で、川の神であり、富と幸運の女神。手にはシタールのような弦楽器を持っている。サラスワティーには手が4本あり、2本で弦楽器を持ち、あとの2本で、経典などを持っている(日本では弁財天)。


(小話872)「高慢で淫蕩な美しいメッサリナ皇后(ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスの妻)。その謀略と男あさり、そして大胆な恋に生きた短い生涯」の話・・・
       (一)
古代ローマで妖艶な悪妻として名高いウァレリア・メッサリナは、父マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・バルバトゥスと母ドミティア・レピダの間に、一人娘として生まれた。家系としては父方、母方ともに由緒のある家系で、特に母ドミティア・レピダはアウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝)の姪であった。メッサリナは、西暦38年(15歳)にクラウディウス(第3代皇帝カリグラの叔父)と結婚した。クラウディウスは、高貴な生まれで、見た目は堂々とした風貌だったが、幼少に難病に冒(おか)されていて、話すときに「よだれ」と「どもり」がひどく、動作もぎこちなかった。母親からは「人の姿をした怪物」呼ばわたという。クラウディウスは、部下からも元老院議員からも、市民からも、家族からも、馬鹿にされて尊敬を受けなかった。そんな彼だったが歴史の研究と著作に打ち込み、エトルリアやカルタゴ史など数十冊以上も書いた歴史学者でもあった。こうして、世間の目から遠ざけられていたクラウディウスの3人目の妻ななったのは、若くて美しいメッサリナだった。その時メッサリナは、まだ15歳だったのに対し、夫となったクラウディウスは50歳。若い妻と クラウディウスとの歳の差は、 ゆうに30歳を超えていた。西暦41年(18歳)、ローマ帝国の第3代の皇帝カリグラ(カリグラは綽名で「小さな軍靴(カリグラ)」の意)が妻と娘と共に暗殺された。皇帝カリグラ殺害の報を聞いたクラウディウス(皇帝カリグラの叔父)はカーテンの陰で震えていたのだが、親衛隊によって発見され、ユリウス・クラウディウス家(古代ローマ帝国最初の世襲王朝)の一員というただそれだけの理由で皇帝に据えられた。こうして、クラウディウスはローマ帝国の第4代の皇帝になり、若くて美しいメッサリナは皇后になった。
(参考)
@クラウディウスの3人目の妻・・・最初の妻、ブラウティア・ウルグラニラは、不倫を繰り返したあげく、殺人を犯したため、離婚。2人目の妻、アエリア・パエティナとも離婚。4人目の妻は絶世の美女アグリッピナ(小アグリッピナ)であった。(小話***)「古代ローマの稀代の悪女。第4代ローマ皇帝の皇后となり、暴君ネロ皇帝の母親にして、息子(ネロ皇帝)に殺された美貌のアグリッピナ(小アグリッピナ)の生涯」の話・・・を参照。
Aクラウディウスはローマ帝国の第4代の皇帝・・・クラウディウスは、頭の弱いふりをしていただけで、元老院では立派に皇帝としての演説をした。又、皇帝として実にまじめで、始めて国勢調査を行い、郵便制度を確立し、クラウデイウス港を整備するなど大きな功績を残した。ただ歩くときに右足をひきづり、全体に弱々しく、緊張が高まるとドモリ、背もたかくなく服装にも関心がなかった。そんな風であったからクラウディウス皇帝は、女性に人気がなく、又、ローマ人は派手を好み、また当時は健全なる精神は健全なる肉体に宿ると考えられていたので、ローマ市民は皇帝に満足しなかったという。
「ローマ皇帝クラウディウス」(アルマ・タデマ)の絵はこちらへカーテンの陰で怯えるクラウディウス
「メッサリナ」(不明)の絵はこちらへ
       (二)
ローマ帝国の第4代の皇帝クラウディウスと皇后メッサリナの間には、2人の子供が生まれた。一人は女の子で、オクタウィア(オクタヴィア)、もう一人が息子ブリタニクスであった。メッサリナはクラウディウス帝の息子ブリタニクスを初めて生んだ妻でもあり、「次期皇帝の母」となった自信が、彼女を暴走させた。彼女は、夫のクラウディウスが皇帝となって以来、いつか暗殺されるのではないかと常にビクビクしているのを利用して、過去に敵対していた人物に対しぬれぎぬを着せたり、競争相手を策謀で陥れるなど、次々と処刑して行った。その中には第3代皇帝カリグラの妹ユリア・リウィラも含まれていた。又、皇后メッサリナは、宮中の美人にことごとく嫉妬したので、若い未亡人で絶世の美女といわれたアグリッピナ(クラウディウス帝の姪)も、皇后メッサリナの魔手を何とか逃れていた。ある時、皇后メッサリナが、将来、我が子ブリタニクスの競争相手になるとみて、アグリッピナの幼いネロ(後の皇帝ネロ)の寝室に刺客を差向けたが失敗したという事件もあった。一方で皇后メッサリナの淫乱はとどまることなく、毎夜、会食で酒を飲みつつ、浮気相手を物色し、貴族の男から俳優や元老院の議員まで愛人にした。やがて淫蕩は度を越して、夜になると皇帝の夫を寝かしつけ、金髪の鬘(かつら)をつけて着飾り、街の娼館へ出かけては、リュキスカ(又はスキッラ)と名乗り娼婦として客を取るようになった。そして夜な夜な何人もの男を相手にしては、明け方に宮殿へ戻るという生活をした。ある時には夜明けまでに、25人もの男を相手にしても、まだ物足りなかった。淫蕩な皇后メッサリナは、疲れてはいたが、満たされてはいなかった。こうした陰謀と不倫と淫蕩に忙しい皇后メッサリナに対し、夫のクラウディウス帝は何も気付かない「見て見ぬ振り」をしていた。
(参考)
@2人の子供・・・オクタウィアは後に第5代皇帝ネロと結婚し皇后となった後で、ネロの愛人ポッパエアの陰謀によって殺される。又、ブリタニクスは、後にネロの皇帝を脅かす存在としてネロに毒殺される。
Aいつか暗殺されるのではないか・・・ある訴訟事件に巻き込まれた男が別室に皇帝クラウデイウスを呼びこみ「私は陛下がある男に殺される夢をみました」とささやいた。それから数日後、その男は、いかにも皇帝クラウデイウスの殺害者をつきとめたかのように、皇帝クラウデイウスに誓願書を手渡そうとしていた相手方の訴訟当事者を指で指し示した。するとたちまちその者は皇帝の命令により現行犯で逮捕され、すぐに処刑場へ拉致されていってしまったという。
B次々と処刑して行った・・・皇后メッサリナに逆らう者はことごとく殺され、又、カリグラ帝暗殺に荷担した者たち、ローマ元老院議員35人、騎士階級の市民300人も殺されたという。
「メッサリナとブリタニクス」の彫像はこちらへ
「メッサリーナ(メッサリナ)」(モロー)の絵はこちらへメッサリーナが街の娼館で若い船頭を引き寄せているところ
       (三)
しかし、そんな皇后メッサリナもついに致命的な失策を犯した。西暦48年(25歳)、彼女は大胆にも、クラウディウス帝の留守中に凛々(りり)しい美青年で、愛人の一人である貴族のガイウス・シリウスと正式に結婚式を上げた。彼女は、大半の元老院議員が自分の味方に廻ると確信していたが、しかし、これは重婚罪であり、また帝位簒奪(ていい・さんだつ)の謀反を企てたとされ、すぐに捕えられた。皇后メッサリナの愛人、ガイウス・シリウスは皇帝の前に引き出されて処刑された。皇后メッサリナはクラウディウス帝から自殺する猶予を与えられたが、自分で死ぬ事ができず、又、夫の皇帝に釈明をする機会を与えられないまま処刑された。享年25歳。これは皇帝の側近ナルキッススが、もし皇后メッサリナがクラウディウス帝の前で命乞いをすれば、気の弱い皇帝はメッサリナに対する情に負けて罪を赦(ゆる)してしまいかねないと危惧して、面会もさせずにすばやく行動をした結果であった。皇后メッサリナが死んだという報告を受けた時、夫の皇帝クラウディウスは夕食の最中だった。そして報告の後に彼は、もっとワインが欲しいとだけ答えたという。
(参考)
@皇帝クラウディウス・・・後にクラウディウス帝は、4人目の妻アグリッピナ(皇帝ネロの母)と再婚し、西暦54年10月13日、クラウディウス(63歳)は好物のキノコを食べた後、突然具合が悪くなり急死してした。一般的には皇后アグリッピナ(39歳)が毒キノコ中毒にみせかけて毒を盛ったとされている。
A皇帝の側近ナルキッスス・・・開放奴隷で、もともとはクラウディウスの奴隷で、主人には非常に忠実な奴隷であった。皇后メッサリナと結託して、自分の政敵をクラウディウス帝に促して処刑させた。後にナルキッススは、独断で皇后メッサリナを重婚罪で処刑するように命令した。以後もクラウディウス帝に重用されたが、クラウディウス帝の死から二週間も経たない内にクラウディウス帝の4人目の妻アグリッピナの命令によって処刑された。
「メッサリナの死」(ビクタ・Biennoury)の絵はこちらへ
「メッサリナヴァレリア」の彫像はこちらへ


(小話871)「山岡鉄舟とその母親(1/10)」 の話・・・
       (一)
江戸末期から明治の剣術家・政治家で「幕末の三舟(他は、勝海舟と高橋泥舟)」とよばれた山岡鉄舟(山岡鉄太郎)の話。ある時、山岡鉄舟は、次のように述懐(じゅっかい)した「私は年齢が八、九歳の頃、母が文字の書法を教えてくれた。たまたまその中に「忠孝」という文字があるのを見た。私はどういう意味かを不審に思い、母にそのいわれを尋ねた。母が言うには、「忠」と申す文字は、その使う場所によってさまざまな解釈もあるが、この場合は主君に仕(つか)える心の正しさをいう。「孝」と申す文字は、父母に仕えるという意味である。しかし「忠」と「孝」とはもともと根本を同じくするもので、人がこの世で生きる上で、必ずこの道理をわきまえなければ、人として生まれた甲斐(かい)がないばかりか、申し訳が立たぬものである」と。
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。通称は鉄太郎(鐵太郎)。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。
       (二)
さらに鉄舟は「けれども、私は幼年のこととて、それがさほど効能のあるものとは思えなかったが、母の膝によりながら、じっとその顔を眺めてみれば、母は何となく深い心を含んで言われたように見受けられたので、私は幼(おさ)な心に、母様よ、母様は常にその道を守られているのですか、また私はどうしたらその道を行ない尽くすことが出来るのでしょうかと、何気なく質問したところ、母は何やら心に感じたところがあったようで、はらはらと涙を流しながら言われるには「おー鉄よ、鉄よ、母も常にそのように心がけてはいるものの、至(いた)らない女であるがために、未(いま)だこれといった成果もなく、誠に残念に思っている。そなたは幸いに丈夫な身体に生まれついたのだから、必ず、必ずこの母の教えを忘れないでおくれ。「忠孝」の道は、その意味はなかなか奥深いものがあり、今日そなたに申し聞かせても容易に心に合点するというわけにはいかないでしょう。これからはこの心を持って修行に専念すれば、将来において自然に了解することもあるでしょう。必ず必ず、うち捨ててはなりませぬ」と、心を尽くして述べられた母の至情の教訓は、この出来事において私(鉄舟)の精神にしみ渡ったのである」と語った。こうして鉄舟は、十五歳の折りには、「修身二十則」を作って自らの日常の言動を戒(いまし)め錬磨した。
(参考)
@「修身二十則」・・・以下の通り。
(1)嘘を言うべからず。(2)君の御恩は忘れるべからず。(3)父母の御恩は忘れるべからず。(4)師の御恩は忘れるべからず。(5)人の御恩は忘れるべからず。(6)神仏ならびに長者を粗末にすべからず。(7)幼者を侮るべからず。(8)己に心よからずことは、他人に求めるべからず。(9)腹をたつるは、道にあらず。(10)何事も不幸を喜ぶべからず。(11)力の及ぶ限りは、善(よ)き方に尽くすべし。(12)他をかへりみずして、自分の好き事ばかりするべからず。(13)食する度に農業の艱難(かんなん)をおもうべし、草木土石にても、粗末にすべからず。(14)殊更(ことさら)に着物をかざり、あるいはうわべをつくろうものは、心に濁(にご)りあるもと心得べし。(15)礼儀をみだるべからず。(16)何時(いつ)何人に接するも、客人に接するよう心得べし。(17)己の知らざることは、何人にても習(なら)うべし。(18)名利のため学問技芸すべからず。(19)人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず。(20)己の善行を誇り人に知らしむべからず、すべて我が心に恥ぢざるに務(つと)むるべし。(嘉永三年庚戌正月 行年十五歳の春、謹記)


(小話870)「(ジャータカ物語)金色の鹿王(ろくおう)と川に溺(おぼ)れた男」の話・・・
       (一)
ある時、仏陀(ぶつだ=釈迦)は修行僧たちに告げた。今は昔のことであるが、このペナレス(初説法の地)に偉大な国王がいた。国土は豊かであり、人民はみな楽しい生活をしていた。国王の夫人を月光と言った。そして彼女の夢は、すべて真実であった。この国の国内に一人の菩薩(仏陀)がいたが、鹿の王に生れていた。その色は金色で、美しく、端正であった。それを見る人は、飽くことがなかった。鹿王(ろくおう)は自分が美しいことを知っていたので、心は常に怖れをいだいており、つねに猟師をおそれて、深い山に身をかくしていた。その当時には鳥も獣(けもの)も、互いに言葉を理解することができた。ある時、一羽の烏(からす)がこの鹿王(ろくおう)のところへやってきた。そして、次のように言った「鹿王(ろくおう)よ、どうしてそのように恐れながら、草を食うのですか?」。金色の鹿王(ろくおう)は答えて言った「私は端正ですので、どんな猟師でも、もし私を見れば、恐らく殺害するでしょう。そのために草を食う時でも、心はつねに恐れているのです」。烏(からす)は言った「私は夜になると、ミミズクがおそろしいですから、私たちと鹿王(ろくおう)さまとは、お互いに守護することにしましょう。もし日中において、私が高い木の上から情況を観察し、事があったらすぐお知らせしましょう。もし夜になったら、王がまさに監視して、事があったら私に知らせて下さい」と。
(参考)
@金色の鹿王(ろくおう)・・・鹿の毛皮は九色に変化するので「九色鹿(ルルという名の鹿)」と呼ばれたという説もある。
       (ニ)
その国には、一つの大きな川が村のそばを流れていた。その時、前から互いに怨(うら)みをいだいていた二人の男が、川辺でぶつかった。そして一人の方が、怨みのある相手を縛り上げて、川の中に投げこんだ。その水流は急であったので、その人は流れにただよい、溺(おぼ)れながら言った「もし、私を救ってくれる人があったら、私はその人の下僕(しもべ)となるでしょう」。その時、鹿王(ろくおう)は五百の眷属(けんぞく=一族の者)と共に、川辺に来て、水を飲んでいた。助けを求める声をきいて、鹿王(ろくおう)は慈悲をおこし、水中に入って、その人を救おうとした。その時、老いた烏(からす)は鹿王(ろくおう)のところへ来て言った「この頭の黒い虫は、全く恩義の心がありませんから、救ってやってはいけません。もし今の災難から免(まぬが)れることができたら、必ず鹿王(ろくおう)さまを殺すでしょう」。しかし鹿王(ろくおう)は慈悲のために、烏(からす)の忠告を聞かないで、溺れている人のところへ泳いで行って、彼を背負って助け出した。そして、口でその縄を解き、彼が生き返るのをまって言った「子よ、大丈夫ですか。これが帰りの道です。気をつけて帰りなさい」。その時、その溺(おぼ)れた人は、ひざまずき、合掌をささげて、鹿王(ろくおう)に言った「私は王の力によって、再びこの命を得たのです。願わくは常におそばにはべって、下僕(しもべ)となり、王の恩に報いたいと思います」と。しかし、鹿王(ろくおう)は言った「汝は、下僕(しもべ)となる必要はありません。ただ、私を見たということを、他に言ってはなりません。聞く人は、恐らく私の皮を取ろうと思うからです。私は汝に、もう一つお願いします。汝が私の願いに従って、「私を見た」と、他に言わなければ、それが、私に恩を報じたことになります。私の身体は端正で、容色がそなわっていますから、聞いた人は恐らく私を殺して、皮を取ろうとするでしょう。それ故、私がここに住んでいることを、人に知らせてはなりません」。男は答えて言った「つつしんで王の願いにしたがい、私は、必ず人に知らせないでしょう」。そして男は立ち上って、鹿王(ろくおう)を右まわりに三回めぐり、礼をして立ち去った。
       (三)
その頃、国王の夫人である月光は五欲(色・声・香・味・触)の楽に酔いしれ、疲れはてて眠っていた。そして、真夜中をすぎて、一つの夢を見た。夢に鹿王(ろくおう)が現われ、身体は金色で、美しく立派で、師子座(師が教法を説く時に坐する座所)に坐して、もろもろの国王および諸人のために、奥深い教えを説いているのを見た。そこで彼女は、夢の中で考えた「私は夢を見ているのである。しかし、これは必ず本当にあることなのである」と。月光は、歓喜して夢からさめた。そして王に向って、夢に見たところを話した。王はそれを聞いて、その夢が真実であることを信じたが、しかし心に恐怖を覚えて「どうして鹿が師子座(師が教法を説く時に坐する座所)に坐して、衆のために法を説くことがあろうか?」と考えた。しかし、月光夫人は、王にお願いした「どうか私のために、金色の鹿を求めて下さい」。国王は群臣に命じて、国内の猟師を全部集めさせた。そして王は、猟師たちに尋ねた「私が聞いたところでは、国内に金色の鹿がいるという。汝らは見たことがあるであろうか。もし見た者があれば、捕えて柔らかい縄でつなげてつれてきて、私に見せてほしい」。猟師たちは、国王に答えた「私たちは多年、猟をしていますが、そういう鹿を見たということを、かって聞いたことがありません。国王は、鹿がどこにいるとお聞きになったのでしょうか。もし居所(いどころ)がわかれば、王のために捕えるでしょう」。王は家臣に命じて、告げさせた。「もし金色の鹿を見たことがある者は、私に報(しら)しめよ。私は賞として五百の集落(村落)を与えるであろう」。家臣は衆を集めて、王の恩賞を告げた。するとかの溺人(じゃくじん)は、王の重い恩賞を聞いて、考えた「私は貧困である。いま王の恩賞を受けた方がよいであろうか。あるいは恩を報じて、鹿の居所を黙っているべきであろうか」と。
       (四)
仏陀(ぶつだ=釈迦)は、ここで修行僧たちに告げた「世間一般の定(さだめ)として、すべて有情(心の動きを有するもの=衆生)は五欲(色・声・香・味・触)につながれているので、欲にかられると、どんな悪でもなさないことはない。その時に、その溺人(じゃくじん)も、心に五欲をむさぼり、かって怨みを抱いていた者に縛られ、川に投げ込まれたのを、助けられたことを思いつつも、次のように考えた「私はいま恩に背(そむ)き、かの鹿王(ろくおう)に怨みをもって報いるであろう。これから再びあのような苦しいことがある心配はないから、まさに怨みをもって、報いるであろう」。このように考えて、彼は王宮に来て、国王に申し上げた「山林の中に、多くの花や果実をそなえている所があります。そこに一匹の鹿王(ろくおう)がいます。身の皮は金色であり、千の鹿が取りまいています。非常に美しく、立派であります。私はその居所(いどころ)を知っていますから、王にそれを示すことができます」。国王はこの言葉を聞いて、大変に喜んだ。そして家臣を集めて、軍兵を率いた。溺人(じゃくじん)は、軍兵を先導して進み、鹿王(ろくおう)の所へ行った。その時、鹿王(ろくおう)の親友の烏(からす)は絶えず高所にあって、遥かに軍兵が来て、ようやく林中に近づくのを見た。そこで烏(からす)は木を下りて、鹿王(ろくおう)に報(しら)せた「先に溺れた人は、実に恩に背(そむ)いた者です。鹿王(ろくおう)は救うべきではなかったのです。しかし鹿王(ろくおう)は私の言葉を聞かなかったのです」さらに烏(からす)は続けた「さきの溺人はもろもろの軍兵をひきいてきて、鹿王(ろくおう)を生けどりにせんとするのです」。その時、鹿王(ろくおう)に従っていた千の鹿は軍兵の声をきいて、恐怖して、逃げ散った。鹿王(ろくおう)は考えた「いま私が逃げ走ったら、かの軍兵たちは、私を求めて、千の鹿を殺すであろう。むしろ私は死でもって、かの千の鹿を助けることにしよう」。このように考えて、鹿王(ろくおう)は、国王の所へ来た。かっての溺人(じゃくじん)は、近づいてくる鹿王(ろくおう)を見て、両手をあげて、王に示して言った「金色の鹿王(ろくおう)とは、あそこに来るものです」と。
       (五)
仏陀(ぶつだ=釈迦)は修行僧たちに告げた「衆生(しゅじょう=生命のあるものすべてで特に、人間をいう)がもし極端なる悪の業(ぎょう)を作るときには、来世を待たないで、今、まのあたりに、その報いを受けるものである。かの溺人(じゃくじん)は、恩を知らずして、悪業を作ったので、手で鹿を示しおわった時、両手は即坐に地上に堕(お)ちてしまった。王はそれを見て、あやしんで尋ねた「どうしてこのように急に、両手が堕(お)ちたのであるか」。溺人は、苦痛に悲しみ泣いて、王に向って答えた「屏(へい)に穴をあけて物を盗む人を、これを賊と名づけます。しかし恩義を受けながらも、報いない者は、これこそ大賊と言うのです」。王はこの言葉を聞いて、その人に尋ねて言った「それはどういう意味ですか?。私には理解できない」。溺人(じゃくじん)は、王のためにつぶさに前の事を説明した。国王はこれを聞いて、恩を知らない溺人のために、答えて言った「恩義無き溺人(じゃくじん)よ、どうして汝の身体は、大地が割れてそこに落ち込まないのだろう。どうして汝の舌は、破れて百分しないのであろう。どうして金剛神は刀杖(とうじょう)をとって、汝を殺害しないのであろう。すべての鬼神は、どうして汝を打たないのであろう。汝はきわめて恩に背(そむ)いたのに、どうしてその報いがそのように少ないのであろう」。王は、その鹿王(ろくおう)が大菩薩(菩薩の尊称)であり、大威徳のあるのを知って、諸臣に告げて言った「ぜひとも、この鹿王(ろくおう)に大供養を設けるべきである。みなは速(すみ)やかに帰って、道路を清掃し、あや絹の幡(はた)や蓋(かさ)をかけ、多くの名香をたきなさい。私は鹿王(ろくおう)と共に城に入るであろう」。諸臣は王の命令に従った。国王は金色の鹿王(ろくおう)を、王の前に行かせて、国王、大臣は鹿王(ろくおう)の後に従ってペナレスの王宮に入った。そして宮門の前に、師子座を美しくおごそかにして安置して、そこに鹿王(ろくおう)が坐るように願った。国王および月光夫人、後宮の女官、王子、人民は、それをとりかこんで坐った。その時、鹿王は妙法(法華経)を説いた。国王および夫人、一切の衆生は法を聞きおわると、鹿王(ろくおう)に願って五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を受けた。そして、一切の有情(うじょう=心の動きを有するもの。衆生のこと)が悟りに帰入することを願った。国王はこれを見て、心に大きな歓喜が生じた。そして、鹿王(ろくおう)に向って言った「王の遊戯する場所は、山林でも広野でも、すべて鹿王(ろくおう)に施しましょう。私は今より後は永久に、ことごとく殺生を断じ、また国民をして遊猟することを禁じます。願わくはもろもろの生き物が、それぞれの住所において、心に怖れがないことを念じます」と。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話869)「北斗七星の秘密」の話・・・
      (一)
唐の玄宗(げんそう)皇帝の代に、一行(いちぎょう)という高僧があって、深く皇帝の信任を得ていた。一行(いちぎょう)は幼いとき甚だ貧窮であって、隣家の王(おう)という老婆から常に救われていた。彼は立身の後もその恩を忘れず、なにか王婆(おうば)に酬(むく)いたいと思っていると、あるとき王婆(おうば)の息子が人殺しの罪に問われることになったので、母は一行(いちぎょう)のところへ駈け付けて、泣いて我が子の救いを求めたが、彼は一応ことわった。「わたしは決して昔の恩を忘れはしない。もし金や帛(きぬ)が欲しいというのならば、どんなことでも肯(き)いてあげる。しかし明君が世を治めている今の時代に、人殺しの罪を赦(ゆる)すなどということは出来るものでない。たとい私から哀訴したところで、上(かみ)でお取りあげにならないに決まっているから、こればかりは私の力にも及ばないと諦めてもらいたい」
      (二)
それを聞いて、王婆(おうば)は手を戟(ほこ)にして罵(ののし)った。「なにかの役にも立とうかと思えばこそ、久しくお前の世話をしてやったのだ。まさかの時にそんな挨拶を聞くくらいなら、お前なんぞに用はないのだ」。彼女は怒って立ち去ろうとするのを、一行(いちぎょう)は追いかけて、頻(しき)りによんどころない事情を説明して聞かせたが、王婆(おうば)は見返りもせずに出て行ってしまった。「どうも困ったな」。一行(いちぎょう)は思案の末に何事をか考え付いた。都の渾天寺(こんてんじ)は今や工事中で、役夫(えきふ)が数百人もあつまっている。その一室を空(から)明きにさせて、まん中に大瓶(おおかめ)を据えた。それから又、多年、召仕(めしつか)っている僕(しもべ)二人を呼んで、大きい布嚢(ぬのぶくろ)を授けてささやいた。「町の角に、住む人もない荒園(あれにわ)がある。おまえ達はそこへ忍び込んで、午(うま)の刻(こく)(午前十一時〜午後一時)から夕方まで待っていろ。そうすると七つの物がはいって来る。それを残らずこの嚢(ふくろ)に入れて来い。数は七つだぞ。一つ不足しても勘弁しないからそう思え」僕(しもべ)どもは指図通りにして待っていると、果たして酉(とり)の刻(午後五時〜七時)を過ぎる頃に、荒園(あれにわ)の草をふみわけて豕(いのこ=いのしし)の群れがはいってきたので、一々(いちいち)に嚢(ふくろ)をかぶせて捕えると、その数はあたかも七頭であった。持って帰ると、一行(いちぎょう)は大いに喜んで、その豕(いのこ)をかの瓶のなかに封じ込めて、木の蓋をして、上に大きい梵字(ぼんじ)を書いた。それが何のまじないであるかは、誰にもわからなかった。
      (三)
あくる朝になると、宮中から急使が来て、一行(いちぎょう)は皇帝の前に召出された。「不思議のことがある」と、玄宗は言った。「太史(たいし=史官)の奏上(そうじょう)によると、昨夜は北斗(ほくと)七星が光りを隠(かく)したということである。それは何の祥(しょう)であろう。師にその禍いを攘(はら)う術があるか」「北斗が見えぬとは容易ならぬことでござります」と、一行(いちぎょう)は言った。「御用心なさらねばなりませぬ。匹夫(ひっぷ)匹婦(ひっぷ)もその所を得ざれば、夏に霜を降らすこともあり、大いに旱(ひでり)することもござります。釈門(しゃくもん)の教えとしては、いっさいの善慈心をもって、いっさいの魔を降すのほかはござりませぬ」。彼は天下に大赦(たいしゃ)の令をくだすことを勧(すす)めて、皇帝もそれにしたがった。その晩に、太史(たいし)がまた奏上した。「北斗星が今夜は一つ現われました」。それから毎晩一つずつの星が殖えて、七日の後には七星が今までの通りに光り輝いた。大赦の令によって王婆(おうば)の息子が救われたのは言うまでもない。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話868)オペラ(歌劇)「魔笛(まてき)」の話・・・
     (一)
場所は古代エジプト。旅をしていた異国の王子タミーノは、ある国の岩山で大蛇(だいじゃ)に襲われ、失神してしまった。そこへ三人の武装した侍女(じじょ)が現われ、銀の投槍でもって大蛇を退治した。彼女たちは倒れている美しい若者に見惚れつつ、主人である夜の女王のもとへ報告に行った。その間に、不思議な笛の音と共に、夜の女王へ鳥を献上する鳥刺(とりさ)しのパパゲーノが全身、鳥の羽まみれの異様な風体(ふうてい)で現われた。気がついた王子が、ここは何処なのかと聞くとパパゲーノは、ここは夜の女王が支配する国で、自分は女王の為に鳥を城に届けていると答えた。そして、ここに倒れている大蛇は自分が倒したのだと嘘をついた。そこへ戻ってきた夜の女王の侍女たちは、嘘をついたパパゲーノに罰として、いつもの報酬であるワインとパンの代わりに水と石を与え、いちじくの代わりに口に錠(じょう)をかけてしまった。そして王子に、夜の女王の娘パミーナの肖像が入ったロケットを見せた。ロケットの肖像画を一目見て王子タミーノは「何と美しい絵姿」とパミーナに一目惚れしてしまった。侍女たちは、夜の女王の娘パミーナは魔法使いの悪者(ザラストロ)に誘拐されたと説明した。そこへ夜の女王が現われ、子を奪われた母親の苦しみを訴え、さらに娘を救い出してくれたら娘をやろう、と話して去って行った。侍女たちは、娘パミーナの救出に燃える王子タミーノには、「魔法の笛(魔笛)」を与え、口の錠前をはずしてもらった鳥刺しのパパゲーノには、「魔法の銀の鈴」を渡して王子の従者になることを命じた。そして、まんまるく太って愛らしい三人の童子(子供)の道案内で、ニ人はパミーナ救出の旅に出かけた。
(参考)
@鳥刺(とりさ)し・・・竹ざおの先に鳥もちを塗って、小鳥をとらえること。また、それを職業とする人。
     (ニ)
洞窟の神殿にあるエジプト風の部屋で、魔法使いザラストロの下僕(しもべ)であるムーア人(黒人)モノスタトスが、夜の女王の娘パミーナに言い寄っていた。そこへ鳥刺しのパパゲーノが迷い込んで来た。ムーア人のモノスタトスは、パパゲーノの鳥の羽に覆われた異様な風体に驚き、あわてて逃げて行った。パパゲーノはそこにいる彼女が夜の女王の娘パミーナであることを確かめ、王子が助けに来たこと、先に自分が偵察に来たことを話し、さらにパミーナの肖像画を見た王子は彼女に恋をしていることを話した。そして二人は、魔法使いの悪者ザラストロが来る前に神殿から逃げ出した。一方、暗い洞窟の神殿の正面では、三人の童子に導かれた王子が三つの扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(弁舌の巧みな人=僧侶の一人)が現われた。王子と弁者のニ人は長い問答を始めた。そこで王子は、ザラストロは悪人ではなく夜の女王のほうが悪人であると聞かされ、女王の娘パミーナも無事であることを知った。喜んだ王子タミーノが、「魔笛」を吹くと森の中から色々な動物が現われてその音色(ねいろ)に耳を傾けた。鳥刺しのパパゲーノと女王の娘パミーナの二人は、この「魔笛」の音を頼りに逃げて来た。その後を、モノスタトス達が追って来た。鳥刺しのパパゲーノが、「魔法の銀の鈴」を鳴らすと、追っ手たちは急に浮かれて踊りだしてしまい、二人を捕らえることも忘れてしまった。そこに、獅子が曳(ひ)く凱旋車に乗ったザラストロが現われた。実はザラストロは、魔法使いの悪者ではなく「イシスとオシリスの神」に仕える大司祭で、世界征服を企む夜の女王の邪悪な野望の犠牲とならないように、女王の娘パミーナを保護していたのであった。やげて、ムーア人のモノスタトスが王子タミーノを捕らえてやって来た。女王の娘パミーナと王子タミーノは初対面だったが互いに惹(ひ)かれて走り寄り、抱き合った。怒ったモノスタトスは、ニ人を引き離した。しかし、女王の娘パミーナに言い寄っていたことを知った大司祭ザラストロは、ムーア人のモノスタトスに、鞭打ち七十七回の罰を与えた。大司祭ザラストロは、王子タミーノと女王の娘パミーナには、愛が成就する前に試練を受けなければならないと言い渡した。こうして王子タミーノは、鳥刺しのパパゲーノと共に聖なる神殿で試練を受けることになった。
(参考)
@イシス・・・古代エジプトや古代ギリシア・ローマで崇拝された女神。オシリスの妹で妻。セトに殺された夫の遺体を蘇生させ、息子ホルスに仇討ちをさせたという。良妻賢母の典型とされ、豊饒の女神。
Aオシリス・・・古代エジプトの冥府の神。大地の神ゲブと天の神ヌートの子。女神イシスと結婚する。弟セトに殺されるが、イシスの秘術で復活し、冥府の神となる。
     (三)
ピラミッドが見える椰子(やし)の森で、大司祭ザラストロは、僧たちと話し合った。僧たちは、タミーノは王子であり過酷な試練には慣れていないから、我々の試練には耐えることが出来ないのではないか?と懸念を表わした。だが、ザラストロはタミーノは王子である前に人間であると言って懸念を吹き飛ばした。そして大司祭ザラストロは、僧たちから、王子タミーノと鳥刺しのパパゲーノを試練にかけることの同意を得た。弁者(僧侶の一人)に神殿を訪れた理由を聞かれて、王子タミーノは命を賭けて、夜の女王の娘パミーナを得るために来た事を話した。一方、鳥刺しのパパゲーノは、自分は命を賭けるなどとんでもない。食べ物と寝るところがあれば一生、独身で構わないと言った。しかし、弁者は「沈黙」の試練を乗り越えれば、お前は美しい娘パパゲーナを得ることが出来ると話した。それを聞いたパパゲーノも、ついついその気になった。こうして、王子タミーノと鳥刺しのパパゲーノは「魔笛」と「銀の鈴」を取り上げられ、「沈黙」の修行をすることになった。「沈黙」の修行をしている所に、夜の女王の三人の侍女がやってきて、王子タミーノが大司祭ザラストロの言うなりになっているのに驚き、翻意(ほんい)させようとするが王子は取り合わなかった。鳥刺しのパパゲーノは、侍女たちの話に釣られそうになるが、そこに雷鳴とともに僧侶が現われたので、彼女らは逃げ去った。一方、庭で眠っている夜の女王の娘パミーナのもとに、またしてもムーア人のモノスタトスがやってきて、パミーナを我が物にしようとした。そこに母親である夜の女王が現われたので、モノスタトスは素早く物かげに隠れた。夜の女王は娘に、パミーナの父が死んだ時にザラストロが太陽(全てを焼き尽くす七重の日輪)の世界を奪ったのだから、ザラストロを殺して復讐をせよと短剣を渡した。娘のパミーナが反論すると、夜の女王は「地獄の復讐が心にたぎる、ザラストロを殺すのよ、さもなければお前は私の娘ではない!」と言って去って行った。殺しなんてできないと悩む女王の娘パミーナに、再び隠れていたムーア人のモノスタトスが出てきてパミーナに迫ったが、今度は大司祭ザラストロが現われたのでモノスタトスは早々に逃げ出した。女王の娘パミーナは大司祭ザラストロに母の命令のことを話して、母である夜の女王を罰しないで欲しいと懇願した。大司祭ザラストロは「この聖なる殿堂には、復讐はない、あるのは愛と友情のみ」と言って、夜の女王を罰しないことを約束した。
     (四)
ニ人の僧侶が王子タミーノと鳥刺しのパパゲーノに、再度「沈黙」の修行を課した。王子は固く約束を守るが、鳥刺しのパパゲーノは黙っていられない。水くらいないものかと呟くパパゲーノの前に、一人の老婆が現われ、水の入った杯を手に近寄って来た。パパゲーノが老婆の歳を聞くと、彼女は「18歳と2分」(謎)と答えた。更に「お前の恋人の名は?」と聞くと、彼女は「パパゲーノ」と答えた。驚いたパパゲーノが彼女の名を聞こうとしたら突然、雷鳴が轟き老婆の姿は消えてしまった。腹を立てたパパゲーノは、もう決して口をきかないと叫んだ。そこへ三人の童子が現われて、二人に「魔笛」と「銀の鈴」を返した。王子が静かに「魔笛」を吹くと、女王の娘パミーナが現われた。彼女は王子タミーノを見つけて喜んで話しかけたが、彼は修行中なので口を利かなかった。そこで彼女は鳥刺しのパパゲーノに、どうして王子が口をきかないのかと聞いたが、パパゲーノも黙ったままであった。相手にしてもらえない女王の娘パミーナは、もう自分が愛想をつかされたと勘違いし、とても悲しんでその場を立ち去った。僧侶たちと共に大司祭ザラストロが現われ、王子に第一試練の合格を告げた。そして、王子タミーノに新たな第ニの試練を課すと言った。そこに女王の娘パミーナが現われて、新たな試練を受けに出発する王子タミーノと互いに別れを告げた。
     (五)
「沈黙」の修行に落第した鳥刺しのパパゲーノは、神殿に近寄れずうろついていると、僧侶がやってきて、お前の望みは何かと尋ねた。鳥刺しのパパゲーノが「恋人か、女房がいればなあ」というと先程の老婆がやってきて、私と一緒になると誓わないと地獄に落ちると脅(おど)かした。パパゲーノがとりあえず一緒になると約束すると、老婆は若い娘に変身した。「パパゲーナ」と、鳥刺しのパパゲーノは彼女に抱擁をしようとしたが、僧侶がパパゲーノには、まだ早いと彼女を連れ去ってしまった。一方、王子タミーノと別れた女王の娘パミーナは、悲しみの余り母からザラストロを殺すために貰った短刀を手にして、自殺しようとしていた。そこに三人の童子が現われてそれを止め、彼女を王子タミーノのもとに連れて行った。王子タミーノが試練に立ち向かっているところに女王の娘パミーナも合流した。そして二人は、共に試練を受けることが許された。二人は、ピラミッドの地下にある水の精霊が現われる「水」と火の鳥が現われる「火」の試練に望んだ。女王の娘パミーナは王子タミーノにその「魔笛」を吹いて下さいと言った。そして、その笛が彼女の父親が千年樹から魔法の力によって作られたものであることを話した。「魔笛」に導かれた二人は、見事に試練を克服し、無事に帰還して皆から祝福を受けた。その頃、小さな庭園では、若い娘パパゲーナを失った鳥刺しのパパゲーノが絶望して首を吊ろうとしていた。そこに再び童子たちが現われて、「魔法の銀の鈴」を使うように勧めた。パパゲーノが「銀の鈴」を振ると、不思議なことに若い娘パパゲーナがあらわれた。鳥刺しのパパゲーノと若い娘パパゲーナは喜んで子供を大勢、作るんだ、とおおはしゃぎした。そこにムーア人のモノスタトスに先導された、夜の女王と三人の侍女が神殿に攻め入って来た。だが、激しい雷鳴が轟き彼らは、永遠の夜の世界に堕(お)ちていった。後(あと)には太陽が輝き、大司祭ザラストロが王子タミーノと女王の娘パミーナを伴って現れ、試練に勝利した二人を祝福し、全員でイシスとオリシスの神を誉(ほ)め讃(たた)えた。
(参考)
@「魔笛」(「魔笛」の台本は、ゲーブラーの戯曲「エジプト王ターモス」やヴィーラントの童話劇集「ジンニスタン」から「ルル、またの名、魔笛」などをもとに作成)は、1年前に上演されたオペラ「賢者の石」をもとに、俳優、歌手、台本作家、劇場興行師でもあるシカネーダーが台本を書いた。そして「賢者の石」無くして「魔笛」は生まれなかったかもしれないと言われている。作曲は、モーツァルトが1791年3月から9月にかけて作った。一般的にオペラの台本は、結構、無茶なのが多く、特に「魔笛」は無理があるようだといわれている。
Aモーツアルトの三大オペラと云えば、「フィガロの結婚」、「魔笛」、「ドン・ジョバンニ」。


(小話867)「誇り(山岡鉄舟とその弟子)と心(日本の旅行人とインド人)」の話・・・
        (一)
幕末の徳川幕府の家臣で、剣客であり、在家の立場で禅を修行した山岡鉄舟とその弟子の話。剣術の弟子の一人が仲間に、自分は毎朝、神社の鳥居(とりい)で立小便をしてくるが、いっこうに罰は当たらない。神仏なんてないに決まっている、と話していた。それを聞いた山岡鉄舟が「馬鹿者!」と弟子を叱った「いいか、立小便などということは、犬猫のすることじゃ。立派な武士が犬猫のすることをしておる。それが罰じゃ。おまえはもうすでに罰を受けておる。どうしてそれに気づかないのだ!?」
(参考)
@山岡鉄舟・・・江戸末期から明治の剣術家・政治家。旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。鉄舟は、生涯ただの一度も人を斬ることなく、そればかりか、動物に対する殺生さえも戒めた人物で、「無刀流」の極意も「無刀とは、心の外に刀なきなり。敵と相対するとき、刀によらずして心をもって心を打つ。これを無刀という」といっているように、刀を使用することを禁じた剣法だった。明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従(鉄舟が侍従に任ぜられた鉄舟37才、天皇20才)になった。
        (ニ)
ある人がインドを旅行していたときのこと。道がわからなくなって、行きずりのインド人に尋ねると「そこはわかりにくい所だ。俺が案内してやろう」と言って、親切に案内してくれた。わたしは途中で何度も「まだか? まだか?」と訊くのですが、彼は「もう少しだ」と答えるだけで、どんどん先に行った。結局、三十分位は歩いた。彼が案内してくれないと、わたしにはとても行き着ける場所ではなかった。わたしは、少しばかりのお金を出して、インド人にお礼をしようとした。「要らない。しまってくれ」と彼は言った。わたしがそのお金をポケットに戻すと、インド人は「ところで、俺はおまえに親切にしただろう?」と聞いた。それでわたしは、彼がお礼の増額を要求しているのかと思って、あわててお礼のお金を追加しようとしたら、彼はお金は要らない、そして「いいか、俺はおまえに親切にしただろう。そう思ってくれるか? では、この次、おまえは誰かに親切にしてやってくれ。それが、俺に対するお礼である」と言った。
(参考)
@彼はお金は要らない・・・(小話209)「ネパールのある言葉」の話・・・ を参照。


(小話866)「イソップ寓話集20/20(その32)」の話・・・
     (一)「オオカミどもと牧羊犬たち」
オオカミたちが、牧羊犬(ぼくようけん)たちにこんな風に話しかけた。「君たちは、我々とそっくりなのに、どうして、気心を通わそうとしないのだ? 兄弟のように仲良く暮らすべきじゃないのかね? 君たちと我々の違いは一つだけだ。我々は自由に生き、君たちは、人間にへりくだって仕えている。その見返りはと言えば、鞭で打たれて、首輪をはめられるという始末。それに、人間たちは、君たちにヒツジの番をさせているくせに、自分たちはヒツジの肉を食べ、君たちには骨を投げてやるのが関の山。どうだね我々の話に嘘はないだろう? そこで相談なんだが、どうだろう我々にヒツジを与えてくれないかい? そして、一緒に、げっぷが出るまで、食い尽くそうじゃないか」。イヌたちは、オオカミどもの話に涎(よだれ)を垂(た)らすと、オオカミの棲(す)む洞穴へと入って行った。そして、ばらばらに引き裂かれた。
     (ニ)「スズメバチとヘビ」
スズメバチが、ヘビの頭にとまって、死ぬほど刺した。ヘビは、激痛に苦しんだが、ハチを追い払う術(すべ)がなかった。そこへ材木を満載した荷車がやって来た。ヘビは自らその車輪に頭を突っ込んでこう言った。「どうせ死ぬなら、敵を道連れに…」。
     (三)「牡ウシと仔ウシ」
牡(お)ウシが、牛房に続く狭い通路を通り抜けようと、全身の力を振り絞って、身体を割り込ませようとしていた。そこへ仔(こ)ウシがやって来て、先に行って、通り方を教えて上げる。と、しゃしゃり出た。すると牡ウシが答えた。「それには及ばぬよ。そんなことは、お前さんの生まれる前から知っている」


(小話865)「最後まで人間を愛し、人間の元にいたが「鉄の時代」に天上界に去った正義の女神アストライア」 の話・・・
          (一)
ギリシャ神話より。神々の二代目の王クロノスが世界を支配していた時代は「黄金の時代」といわれ、地上は平和の輝きに満ちていた。人間は大地から生まれ、争いを知らず、神々と共に大地の上で暮らしていた。この種族(黄金の種族)は苦労や悲しみを知らず、楽しい日々を送っていた。食物は自然に大地に実(みの)り、年も取らず眠りながら死んでいく。そして精霊となり、地上で生きている人間を悪から守っていた。神々はこの「黄金の種族」を愛し、自ら地上に降(くだ)って親しく彼らの面倒を見た。大神ゼウス(神々の三代目の王)とティタン神族(巨神族)で正義の女神テミスとの間に生まれた女神アストライアも、その一人であった。この善意あふれる正義の女神アストライアは、清らかな処女神で、人の善悪をはかる天秤(てんびん)を用いて正邪を裁く存在でもあった。彼女は積極的に人間と交わり、彼らの間に座を占めて、一人一人と顔を合わせながら正義を教え聞かせた。人間たちもそんな正義の女神アストライアを「我らが女王」として、深く敬愛し、魂を導くその言葉に熱心に耳を傾けた。
(参考)
@人間たちは大地から生まれ・・・人間の誕生は(1)プロメテウスが人間を作り、人間に地を耕し作物を作ること、道具を使うこと、羊や牛を飼い慣らすこと、言葉で話すことなど沢山のことを教えた。(小話326)「プロメテウスとパンドラ(パンドラの箱)」の話・・・を参照。(2)オリュンポスの神々はまず最初に「黄金の種族」を作り上げた。(小話576)「大洪水(デウカリオンの洪水)を生き抜いた夫婦、デウカリオンとその妻ピュラ」の話・・・を参照。などがある。
「黄金時代」(ジャン・マテウス)の挿絵はこちらへ
          (ニ)
やがて「黄金の種族」は、大地が埋め隠して全滅してしまった。次が「銀(白銀)の時代」で、神々が人間をつくったが、この種族は大人に成長するのに100年もかかった。やっと成長しても、すぐに死んでしまった。そして互いに害しあうことを覚え、おまけに神々をおろそかにして敬神の念に欠け、義務を守ろうとする心が弱く、より貪欲になっていた。この頃、天上の政権は天上の神クロノスから神々の王ゼウス(神々の三代目の王)に移っており、大神ゼウスは、気温変化(四季)を作ったので、人間は洞窟という住み家を初めて所有した。彼らは黄金には及ばないという意味で「銀の種族」と呼ばれ、彼らの生きた時代は「銀の時代」と呼ばれた。「あの敬虔で、神を敬(うやま)った善良な愛すべき人々はどこへ行ってしまったのか?」と正義の女神アストライアは「銀の種族」の人々に失望した。醜い争いを続ける「銀の種族」の粗悪さに呆れた神々は、一人、又一人と彼らを見捨てて天上界に帰って行った。だが、アストライア女神は小高い丘へ引き籠(こ)もりはしたものの、人間を見捨てて地上を去ることはなかった。正義の女神アストライアは手に天秤を持っており、争いが起きるとその当事者らを天秤に乗せて正邪を量(はか)った。正しき人を乗せた皿は持ち上がり、邪なる人を乗せた皿は下がったといわれ、この天秤をもってアストライア女神の裁判はきわめて公正に行われた。やがて彼ら、「銀の種族」もまた、大神ゼウスの怒りをかって絶滅させられた。そして再度、新たに「青銅の時代」の人類が作り出された。
(参考)
「銀の時代」(ジャン・マテウス)の挿絵はこちらへ
          (三)
「青銅の時代」の「青銅の種族」と呼ばれた彼らは、「銀の種族」よりもさらに精神の荒廃した、残酷で好戦的な者たちであった。この種族は血の気が多く、軍神アレスを崇拝し、青銅を使って武器を作り、殺戮にふけった。罪もない牛を屠殺してその肉を貪(むさぼ)り食い、人々は殺し合い、親子兄弟さえ、その手にかけた。戦争と肉食、そして流血を恐れぬ人間たちの堕落に、多くの神々が人間たちを見捨てていく中で正義の女神アストライアは、かろうじて耐え、人間たちに一縷(いちる)の望みをかけて、正義を訴え続けた。そして最後に到来した「鉄の時代」になると、地上にはあらゆる悪行が蔓延(まんえん)した。鉄や金などの地下資源を手にするようになった人類は、文明や経済を発達させ、所有欲に駆られて土地の私有や海外遠征を始めた。正義の女神アストライアは、神々の中でただ一人、最後まで地上に留まって人々に正義を訴え続けたが、遂(つい)に、欲望のままに行われた殺戮によって血に染まった「鉄の時代」の地上を去って行った。こうして地上に残る最後の神であった正義の女神アストライアも天上界に去り、人間の元から神の恵みは失われた。やがて地上の、あまりにもひどい有り様を見た大神ゼウスは非常に怒った。そこで、大神ゼウスはオリュンポスの神々を集めて会議を開き、洪水で地上を水没させて人間を全滅させることを決定した。その結果、世界はパルナッソス山を除いて完全に水没してしまった。だが、この山の頂(いただき)にはプロメテウスの子孫のデウカリオンとその妻ピュラが避難していた。そして大洪水の後、神託に基づいてデウカリオンが作り出したのが、現在の人間であった。
(参考)
@「青銅の時代」・・・「青銅の時代」と「鉄の時代」の間には、神々が「英雄の時代(英雄の種族)」と呼ばれる人間たちを作った。彼らは前の種族より立派で正しく、半神(ヘーロス)と呼ばれる神々(こうごう)しい者達であった。しかしこの者達もやはり数々の戦の後(のち)に滅んでしまった。(ヘシオドス「仕事と日(仕事と日々)」より)
A軍神アレス・・・大神ゼウスとその妻ヘラの子。血なまぐさい殺害と戦いの神。
B正義の女神アストライアも天上界に去り・・・正義の女神アストライアは天に輝く星となり、それ故「乙女座」と呼ばれるようになった。また、善悪をはかるために所持している天秤が「てんびん座」になったとされている。小惑星アストラエアは、彼女に因んで名づけられた。春の夜空を彩る代表的な星座の乙女座。この女神が誰であるのかについては3つの説がある。まず1つ目は「農耕の女神デメテル」説。2つ目は、デメテルの娘の「豊饒の女神ペルセポネ」説。3つ目の説として「正義の女神アストライア」説で、「乙女座」の東隣にあるのが「天秤座」。
Cプロメテウス・・・ティタン神族(巨神族)の一人。天上の火を盗んで人間に与えた罰として、大神ゼウスの命でカフカス山に鎖でつながれ、毎日、鷲(わし)に肝を食われるが、後(のち)に英雄ヘラクレスに救われる。(小話326)「プロメテウスとパンドラ(パンドラの箱)」の話・・・を参照。
Dデウカリオンとその妻ピュラ・・・(小話576)「大洪水(デウカリオンの洪水)を生き抜いた夫婦、デウカリオンとその妻ピュラ」の話・・・を参照。
「青銅時代と鉄の時代」(不明)の挿絵はこちらへ
「大洪水」(フィレンス)の挿絵はこちらへ
「アストライア」(S・ローザ)の絵はこちらへ
「正義の女神(アストライア)の復帰」(S・ローザ)の絵はこちらへ
「正義(アストライア)」(シュブレイラス)の絵はこちらへ
「Justizia(正義の女神)」(ルカ・ジョルダーノ)の絵はこちらへ
「Lady Justice(正義の女神)」(Hans Gieng)の絵はこちらへ目隠しは見える事物に惑わされず、心の眼で罪科を天秤にかけ、剣で刑を執行する。法の正義を象徴する女神。


(小話864)「西土(せいど)の人。釈迦(しゃか)とある村長」 の話・・・
        (一)
ある村長「世尊(釈迦の敬称)よ、西土(せいど)から来たバラモン達は、水瓶を携え、百合の花環をつけ、沐浴(もくよく)して身を浄め、火を礼拝します。そのようにして彼等は死人の名を呼んで呼び起こし、生天(しょうてん=死後、天界に生まれ変ること)させようとします。世尊も、世間の人が死んだときこのように生天させて、どこか善(よ)いところへ導かれるような事をなさるのでしょうか?」 釈尊「村長よ、今それについてこちらから質問するから、これに思った通りに答えなさい。よろしいか。いまここに次のような人がいるとしょう。彼は殺人者で、盗人で、快楽に耽溺(たんでき)する者で、嘘をつき、卑猥な言葉を使い、意地悪でどうしょうもない乱暴者であったとしょう。いま、その人の死後、生天(しょうてん)できますようにと言って、多勢の人々がその人の為に祈願し、礼讃し、合掌したとして、さて、その人は死後、天界に生まれることができるであろうか?」
ある村長「そんなことは考えられません!」
釈尊「たとえば大きな岩を深い湖に沈めて、これを多勢の人々が集まり、岩よ浮上せよ、と言って合掌して祈願しながらその湖の周りを歩いたとしたら、その祈願によって岩が浮上してくるだろうか」
ある村長「そんなことはありません!」
(参考)
@バラモン達・・・古代インド社会で形成された4種の階層(バラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・武士)、バイシャ(平民)・シュードラ(隷属民))で、最高位の身分。僧侶で、学問・祭祀(さいし)をつかさどり、インド社会の指導的地位にあった。
        (ニ)
釈尊は、さらに次ぎのように説明した。
釈尊「ここに五つの戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を守り、つねに正しい考えをもち、慎(つつし)みある行いをする人がいたとしょう。いま、多勢の人々が集まり、この人が死後、地獄に堕落するようにと合掌して祈願したとして、この人は死後、六道(ろくどう)に彷徨(さまよ)い、苦界、地獄に生まれることになろうか」
ある村長「そんなことはありません!」
釈尊「たとえば油を入れた油壺をあやまって深い湖に落としてしまったとしょう。そしてその油壺が湖底で壊れて、油があふれ出て水面に浮かんだとしょう。そこで、その浮かんだ油を湖底に沈めようと思い、多勢の人々が集まり合掌し、沈むように祈願したとして、そのおかげで油は沈むだろうか」
ある村長「そんな道理はありません!」
釈尊「それと同じように、五戒を守り、つねに正しい考えをもち、慎みある行いをする人がいたとして、この人を死後、苦界、地獄に堕落させようと多勢で祈願してみたところで、その人はそれとは無関係に、道理にしたがってやはり天界に生まれることになろう」
(参考)
@六道(ろくどう)・・・衆生がその業(ごう)によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。
A道理にしたがって・・・釈迦は、バラモン教の司祭者達が行っていた呪術や祈願などがいかに不合理であり、迷信的信仰であるかを批判し「呪文を唱え、祈願をいくらしても、それがなんの効験(ききめ)をあらわすというのだろうか」と言う。もし地獄へ堕ちるような行為をした人間が、多くの僧侶に金銭を積んで祈祷をしてもらい、その呪術によって極楽に生まれることが叶うことになれば、人の善行は一体何の意味があるのだろうか。それは人倫の道を破壊し、否定する。悪行を積んだ者は、それによって地獄の苦を受ける。これが道理だと釈迦は教えている。 B相応部経典巻四「西土の人」より。


(小話863)オペラ(歌劇)「フィガロの結婚(原題「狂おしき一日」)」の話・・・
          (一)
時は、貴族社会が終末を迎えようとしていた18世紀半ばのヨーロッパ。場所は、スペインはセヴィリアのアルマヴィーバ伯爵の館でのこと。アルマヴィーバ伯爵邸の一室で、伯爵の従者フィガロ(前作「セビリアの理髪師」で伯爵の信頼を得て、今は伯爵の従者)とその婚約者で伯爵夫人の美しい侍女スザンナは、結婚を今夜に控えて部屋の寸法を測っていた。「わたし、この部屋はいやだわ」「何故? ここは二人のご主人に近くて便利じゃないか」「もし伯爵があなたを使いに出して、その間に近くのこの部屋に押しかけてきたらどうするの?」「何? それはどういうことだ」。そこでスザンナは、伯爵が私達にこの部屋をくれたのは、実は私に下心があるからで、その上、廃止した筈の初夜権(結婚を前に領主が花嫁と一夜を過ごす権利)を復活しようとしているとフィガロに話した。フィガロは例(たと)え御主人でも、そんな勝手なことを許してたまるかと息巻いた。そこへ女中頭のマルチェリーナが医師バルトロと現われた。女中頭のマルチェリーナは、年甲斐も無く20歳も年下のフィガロに惚れていて、借金の証文(フィガロはマルチェリーナに金を借りていて、返せないときは結婚するという証文を入れていた)を盾にフィガロとの結婚を目論(もくろ)んでいた。それを知った医師バルトロは「ああ、復讐だ。復讐は賢者の楽しみ、恥辱や侮辱を晴らさないのは意気地がないからだ。今度のは難しいが、計略、知略、読みと判断、法律の全てを調べ、言葉をこじつけ、必ず成し遂げるぞ!」と歌った。彼は昔、ロジーナを伯爵に奪われた事を忘れず、復讐の機会を狙っていたのだ。
(参考)
@わたし、この部屋はいやだわ・・・「奥様がお前をリンリンとお呼びになると二歩で行ける、次にドンドン、三歩も跳ねりゃ伯爵様の前だ」「そうね、お前は遠くへお使いに行ったとき、伯爵様がリンリンとお呼びになる、伯爵様を戸口に、私は三歩で伯爵様の前」「何に?」「その先が聞きたいのね」「早く云え!」「私がそういうことをすると疑ってるのね」「疑いと不安で寒気がするよ」「伯爵様は私に気があるから、寝室に近い部屋を下さったの」
          (ニ)
三人が去った後、独(ひと)りになったスザンナのところへ伯爵の小姓ケルビーノが現われた。そして、スザンナに庭師の娘である恋人バルバリーナとの逢引を伯爵に見つかりクビになったので、伯爵夫人に何とか取り成して貰えないか訴えた。15歳の小姓ケルビーノは伯爵夫人に憧れ「僕には、自分がどうなったのか分からない、燃えたかと思うとすぐ冷めてしまう。女を見ると赤くなり、胸がときめく。恋と聞いただけだ胸が高鳴り、寝ても覚めても恋を語る」と多感な心を歌いながらスザンナにも言い寄った。その時、主人の伯爵が入って来たので、スザンナは慌(あわ)てて、ケルビーノを椅子の後ろに隠した。伯爵がスザンナを口説いていると、今度は音楽教師のバジリオがやって来た。そこで伯爵も、椅子の後ろへ隠れようとした。慌てたスザンナは、今度はケルビーノを椅子の上に座らせて、彼を部屋着で覆った。しかし音楽教師バジリオが「小姓ケルビーノが伯爵夫人の部屋に忍んで行くのを見た、二人は怪しいのでは」と話したので、怒った伯爵は椅子の後ろから出て来た。そして、椅子の覆い布を取ったのでケルビーノは見つかってしまった。そこへフィガロが村人達と共に現われ、封建的な初夜権の廃止を決めた伯爵を褒(ほ)め称えたので、好色な伯爵も下心を隠して「もちろん初夜権は行使しない!」と言って平静さを装った。スザンナの取り成しで、辛うじてクビを免(まぬが)れた小姓のケルビーノは、罰として軍隊行きを命じられた。フィガロは「もう飛べなぞ蝶々君、昼も夜もうろついて女を悩ませていたが、羽根飾りのついた帽子、このカールも終わりだ、鉄砲を担ぎ、剣をつけ、山超え谷超え行進し、銃声、銃弾の響きは音楽だ、ケルビーノ進め勝利へ!」と彼をからかいながらも軍隊行きを励ました。
(参考)
@ケルビーノ・・・ケルビーノとは旧約聖書に登場する天使ケルビムのことで、ケルビムは炎の剣を手にエデンの園の東の門を守っている。エゼキエル書によれば「四つの顔と四つの翼」を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これが、いつしかキューピットと呼ばれる丸々とした赤ん坊の姿で描かれるようになった。モーツァルトのケルビーノはこの無邪気な赤ん坊、恋の天使キューピットのイメージである。
          (三)
居間では伯爵夫人ロジーナが、夫の愛情が冷めていくのを悲しみ「愛の神様、安らぎをお与え下さい。この苦しみから、この嘆きから。どうかあの方を私にお返し下さい。それとも死をお与え下さい」と独り物思いに耽っていた。そこへ侍女スザンナが入ってきて「伯爵が誘惑する」と訴えた。しばらくしてフィガロもやって来て、伯爵は初夜権を行使する腹である事を話した。スザンナとフィガロから、伯爵のスザンナに対する下心の事実を聞いた夫人は、フィガロの立てた計画に乗って伯爵を懲(こ)らしめることにした。まず、伯爵夫人がフィガロと逢い引きを約束しているという嘘の密告をし、次に小姓ケルビーノをスザンナに似せて女装させ、伯爵と偽スザンナを庭で密会させ、そこへ伯爵夫人が登場して現場をおさえるというものであった。フィガロが去ると、軍服姿の小姓ケルビーノが入って来た。彼は、女と見れば誰でもかまわず口説いて回っていた。伯爵夫人にも恋心を抱くケルビーノは「恋とはどんなものか知っているあなた方、私は恋をしているのでしょうか? 私の感じを申します。あこがれの気持ちは、時には喜びとなり、時には苦しみとなります。火と燃えてもすぐ冷めます。昼も夜も、ため息をつき、胸が高鳴り、安らぎません」と自作の恋の歌を歌った。スザンナは早速、計略通りケルビーノの女装に取りかかり「ご覧下さい、可愛いこと、女の子が夢中になるのも分かるわ」と伯爵夫人に言った。そこへ、伯爵夫人に逢い引きを申し込むフィガロの手紙を見つけたといって、伯爵がやって来た。伯爵夫人と侍女スザンナは、素早く小姓ケルビーノを隣の衣裳部屋へ隠し、スザンナも隣りの部屋へ消えた。うろたえる夫人の様子から伯爵は、小姓ケルビーノは衣裳部屋に隠れていると疑い、夫人を連れて鍵を取りに行った。その隙に小姓ケルビーノは窓から飛び降りて逃げた。伯爵と夫人が戻って来て衣裳部屋を開けると、中から侍女のスザンナが出て来たので、二人はびっくりした。強気になった伯爵夫人は小姓ケルビーノのことで、あらぬ疑いをかけた伯爵を責めたので、彼は夫人に謝った。又、手紙を書いたのはフィガロだとニ人の女は明かしたが、やって来たフィガロは知らないの一点ばりだった。やがて庭師が「二階の窓から男が飛び出して、植木鉢を壊していった」と報告したので、伯爵は小姓ケルビーノが逃げたと推察したが、フィガロが飛び降りたのは自分で、手紙のことが怖くなって部屋から逃げたのだと弁明した。こうして結局、三人の伯爵を陥れる最初の計画は失敗した。
          (四)
やがて関係者(女中頭マルチェリーナ、フィガロ、医師バルトロ、クルツィオ(判事)、伯爵)一同揃った所で、女中頭マルチェリーナが手にしているフィガロの借金の証文についての裁判が始まった。伯爵の言いなりのクルツィオ(判事。伯爵領の裁判をとり仕切る)は、謝金返済が出来ない場合は、マルチェリーナと結婚するという約束を守るようにとフィガロに命令した。これでフィガロとスザンナとの結婚は無し、とほくそえむ伯爵だったが、それも束の間で、腕の痣(あざ)からフィガロは、盗賊に盗まれたマルチェリーナの赤ん坊だったことが判明した。しかも父親は、医師バルトロであった。つまり、昔、フィガロは医師バルトロ家の女中をしていたマルチェリーナに、医師バルトロが生ませた子であった。「親子か? それでは結婚は成立しない」と判事が判決を取り消した。親子とわかった女中頭マルチェリーナは大喜びでフィガロを抱きしめた。そこにスザンナが走りこんで来た。「奥様からお金を借りたので、フィガロの借金を返します」と言ってそこを見ると、フィガロがマルチェリーナと抱き合っていた。早くも心変わりしたのかとカッとなったスザンナは「結婚する気なの、この浮気者、もう知らない」と怒って出て行こうとした。「違うんだ、実は訳があるんだ」とフィガロはスザンナを引き止めて、女中頭マルチェリーナが実の母で医師バルトロが実父であることを説明した。
          (五)
スザンナは伯爵夫人に、フィガロとその両親のことを報告した。あとは伯爵を懲(こ)らしめるだけであり、これはフィガロにも内緒の計画であった。そして二人で、伯爵を深夜の庭園におびき出すための手紙を書き、スザンナは結婚式の席上で、伯爵に密会の手紙を手渡すことになった。伯爵夫人は呟(つぶや)いた「思えば大胆な計画だわ、闇にまぎれて、私がスザンナの服を着て、あの子が私のを着て行く。愛してくれたのは最初だけ、裏切って馬鹿にして、ひどい人 ---- どこに行ったのあの頃の喜び、誓った言葉。涙と悲しみの日となった今も、あの頃の楽しい思い出が消えないのは何故?。悩みながらも愛し続けている貞淑な私に免じて、あの人の心が変わってくれればよいのに」。やがて、屋敷の広間には、結婚式のために全員が勢ぞろいした。大勢の村娘が伯爵夫人に、感謝を捧げて花束を贈った。その中に一人だけ遠慮がちの娘がいた。娘は変装した小姓のケルビーノだった。「おまえは連隊に行ったはずだが!」と怒る伯爵に、庭師の娘バルバリーナが「伯爵さまは、私にキスをする度(たび)に欲しいものをやろうといってましたね、どうか花婿にケルビーノを下さい」と伯爵夫人の目の前で言った。うろたえた伯爵は仕方なく望みをかなえることにした。こうして、フィガロとスザンナ、医師バルトロと女中頭マルチェリーナの二組の結婚式が始まった。結婚式で結婚のしるしに花嫁の頭に花冠をのせるのは伯爵だが、スザンナの時に彼女は、先ほど伯爵夫人の部屋で書いた手紙をそっと渡した。伯爵が手紙の封にしたピンで指を刺したのを見て、フィガロは誰かが伯爵に恋文を渡したのを知った。
          (六)
小姓ケルビーノの恋人バルバリーナが、深夜の庭で松明(たいまつ)を持って「スザンナに渡すようにと、伯爵から託(たく)された手紙の封にしたピンをなくした(ピンを返すことが逢引を了解)」と言って探していた。そこで彼女から、伯爵が密会する相手はスザンナだと知ったフィガロは、裏切った婚約者に目にもの見せてやろうと証人に父である医師バルトロと音楽教師バジリオを連れて庭の物陰に隠れた。まず最初に、スザンナの衣装を着けた伯爵夫人が現われた。そこに、こっそりと伯爵が現われた。さっそく伯爵は、スザンナに扮(ふん)した自分の妻を口説き始め、夫人の手を取って指環を与えたが、突然フィガロが現われるたので二人は逃げ出した。再びフィガロが隠れると、次に伯爵夫人の衣装を着けたスザンナが現われた。彼女はフィガロが隠れているのを知り、わざと伯爵を待ち焦がれている気持ちを歌った。フィガロは声から伯爵夫人の衣装を着けた女が、実はスザンナであることを見抜いた。そこでフィガロは出て行って、わざとスザンナに向かって、なおも伯爵夫人に恋している様に「私の妻は奥様のご主人と浮気をしていますが、実は私も奥様をお慕いしております」などと口説いた。変装を見破られたとは知らないスザンナは「この裏切り者」とフィガロを殴ろうとした。フィガロは笑いながらスザンナを抱擁して、その声でわかったと打ち明けると、ようやく彼女も気づき、喜んで二人は抱き合った。そこに、スザンナに変装した夫人に逃げられた伯爵がやって来たので、フィガロは再び、夫人に変装したスザンナに向かって大げさに口説き始めた。それに気づいた伯爵はカンカンになり、一同を呼び集めて不実な者を罰しようとしたが、その時、東屋(あずまや)からスザンナの衣裳をつけた伯爵夫人が出て来て、証拠の指輪を見せた。ようやく事態を理解した伯爵は、夫人の前に跪(ひざまず)いて許しを求めた。夫人はは優しさゆえではなく、従順さゆえに伯爵を許した。そして全員で「今日の一日は、騙(だま)しや、浮気や、ふざけ、いろいろあったが。愛は実を結んだ、さあ皆さん祝いの席で楽しくやりましょう」と喜び合って終わった。
(参考)
@「フィガロの結婚」は「セヴィリアの理髪師」の後日談で、「フィガロの結婚」のほうは演出によっては旧支配体制と新興市民階級との対立として表現していた。封建貴族に仕える従者フィガロの結婚式をめぐる事件を通じ、貴族を痛烈に批判していた「フィガロの結婚」は、度々上演禁止にあったという。
A「フィガロの結婚=「狂おしき一日、または「フィガロの結婚」」。「フィガロの結婚」は革命の導火線になったと言われている。モーツァルト作曲のオペラとして有名。原作はフランスの劇作家ボーマルシェの三部作(すべてにアルマヴィーバ伯爵と理髪師フィガロが登場する)の一つ。
(1)「セヴィリアの理髪師=「セヴィリアの理髪師、または無益の用心」」(小話861)オペラ(歌劇)「セヴィリアの理髪師(原題は「無益な用心」)」の話・・・を参照。
(2)「罪ある母=「もう一人のタルチュフ、または罪ある母」」
  「フィガロの結婚」から20年以上経ち、アルマヴィーバ伯爵夫妻はパリに住んでいた。伯爵は伯爵夫人と生まれて間もない長男を残して 、3年にわたってメキシコに出征した。その間に伯爵夫人ロジーナと伯爵のお小姓ケルビーノは恋仲となり、レオンという子供が生まれた。やがてケルビーノは、このことに耐えられず自殺。アルマヴィーバ伯爵は次男レオンが自分の子ではないと疑い、自分が他の女性に産ませた孤児のフロレスティーヌを養女に迎え入れた。遊び好きの長男は賭け事のトラブルがもとで死んでしまったため、レオンが家を継ぐことになった。そして、レオンはフロレスティーヌと恋仲になったが、伯爵は2人の関係を認めなかった。伯爵の元秘書ベジャースはフロレスティーヌと結婚し伯爵家の財産を我が物にしようとたくらんだが、フィガロがそのたくらみを阻止した。アルマヴィーバ伯爵はベジャースが悪党だったことに気づいて、追放した。晴れてレオンとフロレスティーヌの相思相愛のカップルが誕生し、伯爵の財産も二人に相続されることになった。またアルマヴィーバ伯爵と伯爵夫人もお互い傷を持つ身と仲直りし、すべてはハッピーエンドとなった。(第三作の「罪ある母」は駄作だったので忘れられてしまったという)
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