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(小話862)「イソップ寓話集20/20(その31)」の話・・・
      (一)「メンドリと金の卵」
ある農家の夫婦が、金の卵を産むニワトリを持っていた。二人は、ニワトリの腹の中には、大きな金塊があるに違いないと思い腹を裂いてみた。しかし、腹の中には金塊などなかった。こうして、いっぺんに、金持ちになろうと望んだ夫婦は、毎日保証された利益をふいにしてしまった。
      (ニ)「木々と斧(おの)」
ある人が森に入って、木々に、斧の柄をくれないかと頼んだ。木々たちは、彼の願いを承知して、若いトリネコの木を与えた。男は新しい柄を斧に取り付けるが早いか、高い立派な木々に斧を打ち下ろしていった。もう後の祭りであったが、古いカシの木は、仲間の木々が切り倒されるのを嘆き悲しんで、隣のスギにこう言った。「我々は、最初のボタンの掛け違いで、全てを失ってしまった。もし、トリネコを手放してなかったら、我々は未だ安泰であったろうし、末永く立っていられたろうに」
      (三)「女将(おかみ)とメンドリ」
ある女将が、毎日卵を一つ産むメンドリを持っていた。彼女は、一度に二つの卵を手に入れるにはどうすればよいかと、あれこれ考えた。そして、メンドリに二倍の大麦を与えることにした。それ以来、メンドリは太り、羽毛もつやつやした。しかし、メンドリは一度に二つの卵を産むことはなかった。


(小話861)オペラ(歌劇)「セヴィリアの理髪師(原題は「無益な用心」)」の話・・・
       (一)
時は18世紀。スペインはセヴィリアの街角の広場。夜明け近く医師のバルトロ家に住む町一番の美しい令嬢ロジーナ(貴族の孤児で後見人は、叔父で医師バルトロ)に一目惚れしたアルマヴィーバ伯爵は、学生姿に変装し、お抱えの楽師達を連れて忍び足で現われた。そして従者に屋敷の様子を尋ねてから、伯爵はロジーナの部屋の窓辺で「空はほほえみ、暁は昇り始める、君は今だ夢路をたどるか、愛しい人よ、目覚めてくれ、この愛をあわれみたまえ」とセレナード(恋人の窓下で歌い奏でられる音楽)を歌うが、何の反応も無かった。伯爵にたんまり御礼を貰って大喜びの楽師達が退場すると、「俺は町の何でも屋、腕の立つ床屋、はさみ、かみそり、くしを自由に扱うように、どんな頼み事も解決する。方々(ほうぼう)から声が掛かり、俺の人生はすばらしい!」と上機嫌な鼻歌と共に、伯爵とは旧知の仲の理髪師(18世紀当時は「何でも屋」)のフィガロがやって来た。伯爵はフィガロを呼びとめ、プラドで一目惚れしたこの家の令嬢を追ってきたことを打ち明け、フィガロがバルトロ家に出入りしている事を聞いてロジーナとの仲を取り持ってくれる様に依頼した。その時バルトロ家の窓が開いてロジーナが一瞬、姿を見せ一枚の紙切れを下に落とした。ロジーナの後見人でありながら年甲斐も無く彼女との結婚を考えている医師バルトロは、彼女が落とした紙片の内容が知りたくて外に出て来たが、伯爵が先に拾い上げてしまった。その手紙には後見人(叔父の医師バルトロ)の監視が厳しくて外出も思うに任せないので、貴方の名前と身分を知らせて欲しいと書いてあった。間もなく医師バルトロは「ロジーナを見張るように」と召使いに命じて外出した。医師バルトロが外出するのを見届けると伯爵は、理髪師フィガロのギターを借りて「私の名前が知りたければ名乗ります、私の名前はあなたに恋している貧しい学生リンドロです」と歌った。ロジーナが、一瞬、窓を開けて何かを答えようとしたが、召使いが窓を閉めて彼女を部屋の中へ連れ戻してしまった。伯爵は「ロジーナに会いたいがどうすればよいか」とフィガロに尋ねると、フィガロは「金を見れば知恵がわく、この不思議な力を持つ金属のことを考えると、俺の心は、火山のように燃え始める、わいてきたぞ」と言って謝礼を要求し「伯爵様、今日は連隊がこの町に着き、民宿することになっているので、兵士に変装して、酔った振りをして宿泊を要求しなさい、酔った振りをすればバルトロの警戒心が薄れます」と策を授けた。伯爵は理髪師フィガロに充分な礼金を渡した。既に夜も明け始め、理髪師フィガロは医師バルトロの家に入った。
       (ニ)
医師バルトロ家の一室で、ロジーナが学生リンドロへの手紙を書きながら「今の歌声は、リンドロとおっしゃた、私は心が高鳴ります。リンドロ様は私のもの、あの焼きもちやきの後見人はきっと拒むけど、勝ってみせるは、策を持っても」と彼への切ない恋心を歌っていると、そこへ理髪師フィガロが様子を探りに現われた。だが、医師バルトロが戻って来たので慌てて物陰に身を隠した。フィガロの来訪を知ったバルトロはロジーナを執拗に詰問するが、彼女はのらりくらりと逃げて答えをはぐらかした。間もなくロジーナの音楽教師のバジリオが、アルマヴィーバ伯爵がロジーナ目当てにこの街に来ているようだと言う情報を知らせに訪れ、伯爵を中傷誹謗する悪い噂を撒き散らして彼をこの街から追い出そうと「中傷とは、デリケートなそよ風のように、初めは心地よくつぶやく、脳味噌に入って膨張し、口から外へ出て、次第に力をまして、一人歩きし、そして嵐のように吹き荒れ、大砲や、地震のように、大地をゆるがし、中傷されたやつは、はずかしめられ、踏みつぶされる」と歌った。
(参考)
@中傷とは・・・「中傷とはそよ風です。最初はとてもデリケートな微風で、感じるか感じないかくらいで、そよそよと、軽やかに穏やかに、そよぎ始めるのです。そっと、そっと、低く低く、小さな声でこそこそ言いながら、虫の羽音のようにそっと伝わっていくのです。人様の耳から耳へと、そして手際よく入り込んで、頭と脳みそを混乱させて ぶくぶくにふくれさせるのです。人づてに伝わっていくうちに、騒ぎはだんだん大きくなり、あちらこちらに飛び火して、ついには雷鳴のごとく、嵐のごとくなり、ヒューヒュー、ゴロゴロと鳴り、恐ろしさに震え上がらせるのです。そして最後にはあふれて飛び散り、広がって倍増し、大爆発するのです。まるで大砲の一撃のごとく、地震と大嵐とあらゆる喧騒が大気を轟かせるのです。中傷されたかわいそうな男は、打ちひしがれ、踏みつけられて、世間の鞭に打たれて悲運のうちにお陀仏となるのです」
       (三)
アルマヴィーバ伯爵がロジーナをねらっていると聞いた医師バルトロは、自分とロジーナがすぐに結婚するのが最善の策だと考えて音楽教師バジリオと二人で策を練るために別の部屋に移った。その一部始終を立ち聞きしていた理髪師フィガロは、ロジーナに手紙を書くように勧めると、彼女は既に用意していた手紙を渡した。フィガロは彼女の抜け目のなさに驚きながらリンドロ宛ての恋文を預かって帰って行った。入れ違いに医師バルトロが部屋に入ってきて、再びロジーナに理髪師フィガロが来ていた理由や彼女の指にインクが付いている事、便箋が一枚減っている理由などを詰問したが、彼女は言葉巧みに逃げた。そこで医師バルトロは、これからはもっと監視を強めると脅した。その時、ドアを強く叩く者がいたので女中のベルタが開けると酔っ払いの振りをした、士官姿のアルマヴィーバ伯爵が入って来て、宿泊提供命令証を示してこの家に宿泊しようとした。すると、医師バルトロは机の中から宿泊免除証を探し出して伯爵を追い出しにかかった。伯爵はそれを破り捨て、姿を見せたロジーナにそっと恋文を渡そうとした。それを見てバルトロは、すっかり怒り出し、杖を持って伯爵に迫った。そこで伯爵も、剣を抜いて対抗し大騒ぎになった。騒ぎにロジーナの音楽教師バジリオやフィガロが駆けつけ、更に警備の巡視兵までやって来て伯爵を逮捕しようとしたが、伯爵は巡視兵の隊長にそっと身分を明かしたので、兵士達はびっくりして直立不動の姿勢をとった。様子の分からない一同は呆気にとられ、茫然としていた。
       (四)
居間で医師バルトロが、あの酔っ払い士官は、アロマヴィーバ伯爵の手下に違いないと呟いていると、今度は音楽教師バジリオの弟子アロンゾに変装してアルマヴィーバ伯爵がやって来た。そして彼は「先生は急病なので代理で稽古(けいこ)に来ました」と言って、令嬢ロジーナが学生リンドロに宛てた恋文を見せ「伯爵から手に入れた」と渡したので、医師バルトロはアロンゾと名乗る男を信用してロジーナを呼んだ。ロジーナは、音楽教師の弟子アロンゾが変装した学生リンドロであるのに驚いたが、すぐに喜んでレッスンを始めた。退屈した医師バルトロが居眠りをしている間に、ロジーナと伯爵が愛の言葉を交わしていた。そこへ理髪師フィガロが、医師バルトロの髭を剃りに来て別室で準備をするからと、わざと食器を壊したり、隙を見てバルトロの鍵束からバルコニーの鍵を抜き取った。その時、病気の筈の音楽教師バジリオが現われたので一同は驚くが、偽の弟子アロンゾ(伯爵)は素早く豪華な財布を渡して彼を買収し、音楽教師バジリオは病人にさせられたまま渋々と帰って行った。理髪師フィガロは再びバルトロの髭をそり始め、その間に令嬢ロジーナと伯爵は音楽のレッスンに見せかけ、駆け落ちの約束をした「ロジーナ、真夜中にあなたを連れにここへ来ます」「真夜中きっかりね、あなたと一緒に逃げるのね、待ち遠しいわ」。老獪なバルトロは、二人のレッスン怪しみ、二人の後ろに近づき、二人の会話の端々から医師バルトロはアロンゾが実は伯爵の変装ではないかと疑って大騒ぎになった。そして、音楽教師のバジリオも伯爵とグルだと思った医師バルトロは、召使にバジリオを呼びにやった。
       (五)
医師バルトロは、音楽教師バジリオの代理人アロンゾの正体に気付いて音楽教師バジリオを厳しく詰問した。すると音楽教師バジリオは、貰った豪華な財布に伯爵の紋章があったことから「偽の音楽教師は伯爵に違いない」と告げた。バルトロはあわてて「今夜中に結婚式を挙げてしまおう」とバジリオに公証人を呼びに行かせた。そしてロジーナに「お前の恋人、学生リンドロは不実者で、実は、お前を伯爵のものにするため芝居をしているのだ」と言って偽音楽教師(伯爵)から貰った手紙を見せた。だまされたと思ったロジーナは、怒りと悲しみのあまり「夜中に駆け落ちする手はずになっていた、バルコニーの鍵を持っていった」と話し、医師バルトロとの結婚を承諾してしまった。その夜、外は嵐になった。それが静まると理髪師フィガロとアルマヴィーバ伯爵が忍び込んで来た。ロジーナは「あなた方は、私をだまして伯爵に売りつけるひどい人達です。一緒に逃げることなんか出来ません」と二人をなじった。学生リンドロは「実は、私がその伯爵なのです。伯爵の身分の私を愛する人でなく、私自身を愛してくれる人かどうか知りたかったのです」と打ち明けた。ロジーナは驚きと歓喜に身を震わせ言った「ああ何という驚き、あなたご自身なの、どうしよう、うれしくて気が変になりそう、あなた、あなたの妻だなんて、何という幸せ、あなた」。「なんとすばらしい瞬間、俺は恋に勝利した」。二人にフィガロは、急いで言った「さあ早く逃げましょう、急がないと私の計略は水の泡になってしまう、門のところにランプの明かりとニ人の人影がみえる、早く梯子(はしご)の方に」。三人は逃げようとしたが、梯子が取り外されていて外には出られなかった。ランプを持ったニ人の人影は、結婚証明書の書類をもった公証人と音楽教師バジリオであった。アルマヴィーバ伯爵は音楽教師バジリオに高価な指輪を与え、理髪師フィガロと音楽教師バジリオを証人として伯爵とロジーナは結婚の署名をした。そこへ兵隊を連れた医師バルトロが入って来たので、アルマヴィーバ伯爵は身分を明かした。伯爵は「持参金は入らない」と言い、医師バルトロは自分がいない間に、二人が結婚の署名をしてしまったのを知り「ロジーナの財産が手に入るなら」と渋々、二人の結婚を承諾した。「間抜けだった、結婚させるために梯子をはずしたようなものだ」と医師バルトロは、梯子をはずしたことがニ人を結婚させるはめになった事を嘆くと、理髪師フィガロに「無益な用心(これが原題)だったねと冷やかされてしまった。そして「愛と誠実が幸福を」と全員が恋人たちを祝福し、全てが円満に解決した。
(参考)
@ 「セヴィリアの理髪師」はロッシーニの代表作で、日常生活に題材をとった喜劇的なオペラの代名詞的作品。原作はフランスの劇作家ボーマルシェの三部作(すべてにアルマヴィーバ伯爵とフィガロが登場する)の一つ。ボーマルシェの三部作(1)「セヴィリアの理髪師=「セヴィリアの理髪師、または無益の用心」」(2)「フィガロの結婚=「狂おしき一日、またはフィガロの結婚」」(3)「罪ある母=「もう一人のタルチュフ、または罪ある母」」(第三作の「罪ある母」は駄作だったので忘れられてしまった)。(小話863)オペラ(歌劇)「フィガロの結婚(原題は「狂おしき一日」)」の話・・・を参照。


(小話860)「チューリップの由来について」の話・・・
        (一)「井戸とチューリップ」
トルコの民話より。ある村にファルハドと言う青年がいた。彼は村長の娘シリンと恋をしていた。村の井戸が枯れたときファルハドは水を得るために穴を掘った。毎日毎日、井戸を掘ることだけに必死になり、ようやく水を得る事が出来た。だが、その時にはシリンは亡き人となっていた。恋人の死を悲しんだファルハドは崖から飛び降りて命を絶った。その砕けた体から出た血からやがて真っ赤な花が咲いた。それがチューリップであるという。
        (ニ)「花の精霊」
オランダの民話より。ある美しい少女に3人の若い騎士が求婚をした。一人は黄金の王冠を捧げ、もう一人は剣を捧げ、最後の一人は財宝を捧げた。しかし、3人の内、誰とも選べぬ少女は悩んだ末、花の精霊に姿を変えた。王冠の花、剣の葉、財宝の球根をもつ精霊である。その花は、少女の名からチューリップと名付けられたという。
        (三)「チューリップ畑」
イングランドの民話より。昔、一人の老婦人が庭付きの小さな家に住んでいた。老婦人は庭に美しいチューリップをたくさん植えて、チューリップ畑にした。近くに住んでいる妖精(ピクシー)達はそのチューリップ畑がとても気に入った。そこで、妖精達は毎日自分達の赤ん坊を連れて行き、チューリップのベッドに寝かせて子守歌を歌った。そして、赤ん坊が眠ると近くの野原で夜明けまで踊り明かした。朝の光がさし始めると妖精達は、チューリップ畑に戻って赤ん坊にキスしたり抱きしめたりした。妖精達に愛されたチューリップは他の花よりも長く咲き続け、妖精達に息を吹きかけられてバラの花のような香りを漂わせた。やがて、老婦人が亡くなり、息子が相続した。息子はチューリップを全部抜いて、パセリ畑にした。怒った妖精達はパセリを全部枯らし、その畑に何を植えても育たないようにした。しかし、妖精達はお月様のお祝いのある満月の夜以外の日には、毎晩、老婦人の墓参りをして哀悼の歌を歌った。妖精達以外に老婦人の墓参りをする者はいなかったが、彼女の墓には雑草は全く生えず、毎年、春になると色とりどりの綺麗な花が咲き出した。花は老婦人の身体が土にかえるまで咲き続けたという。


(小話859)「中国最後の王室、清朝一族の王女である川島芳子。激動の中国を駆け抜けた「男装の麗人」の数奇な生涯」の話・・・
          (一)
「男装の麗人」と称された川島芳子は「孤独の王女」であり、時には「東洋のジャンヌ・ダルク」と持ち上げられ、時には「女スパイ」とか「東洋のマタ・ハリ」と貶(けな)され、時代の荒波に翻弄された女性であった。川島芳子は、本名を「愛新覚羅(あいしんかくら)顕*(王ヘンに子=けんし)」と言い、1907年5月24日に北京で生まれた。彼女は、清王朝(愛新覚羅王朝)八大世襲家の筆頭の名門皇族、粛親王(しゅくしんのう)の娘だった。粛親王には、5人の妻の他、21人の王子と17人の王女がいたが、彼女は第14番目の王女であった。粛親王の財産は莫大なもので、朝鮮半島にも匹敵するほどの広大な領地を所有し、北京にも広い宮殿を持っていた。愛新覚羅(あいしんかくら)顕*(王ヘンに子=けんし。又は別名、金壁輝)は、この宮殿で王女様として、何不自由なく暮らすはずだった。ところが、1911年の辛亥(しんがい)革命によって、清王朝が滅亡すると、情勢ががらりと変わった。蒋介石の率いる国民政府は、清王朝の財産をことごとく没収した上、歴代皇帝の墳墓まであばき財宝をあまねく略奪し尽くした。恐怖を感じた粛親王(しゅくしんのう)は、川島浪速(かわしまなにわ)らの手引きによって日本の勢力下にあった旅順へ逃れた。そこで、日本の支援のもとに清朝の再興を図ることにしたのであった。
(参考)
@「東洋のジャンヌ・ダルク」・・・フランスの「ジャンヌ・ダルク」が国民的英雄のイメージがあるのに対して、パリの踊子「マタ・ハリ」は、国を売った裏切り者の意味で使われることが多い。
A「ジャンヌ・ダルク」・・・フランスの愛国者。ドンレミ村の農家の娘。救国の神託を受けたと信じ、シャルル7世に上申していれられ、イギリス軍を破ってオルレアンの包囲を解いた。だがイギリス軍に捕らえられ、ルーアンで異端として火刑に処せられたが、後(のち)にローマ教皇庁により聖女に列せられた。
B「マタ・ハリ」・・・オランダ人のダンサーで、悪女、裏切り者、男を堕落させた女スパイとして知られる。第1次大戦前後にドイツのスパイとなったパリの踊子で、フランス軍に逮捕され、銃殺された。享年41歳。
C八大世襲家・・・(1)礼親王家 (2)睿親王家 (3)予親王家 (4)粛親王家---清末に善耆の第14番目の王女、愛新覚羅(あいしんかくら)顕*(王ヘンに子=けんし)=日本名は川島芳子)。(5)承沢親王家(後に荘親王家)。(6)鄭親王家。 (7)克勤郡王家。 (8)順承郡王家。これらの愛新覚羅一族の八家は、清王朝建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。
D川島浪速(かわしまなにわ)・・・浪速は外国語学校を中退して、中国大陸に渡り、各地を放浪後、満州に入った。彼は早くから、蒙古と満州こそは中国・朝鮮、ひいては日本の生命線であると考え、ロシアの侵略を防ぐためには、この地に独立国を作らなければならないと考えるようになった。日清戦争(1894年)では、浪速は日本軍に通訳として雇われた。1900年、義和団の事件が起こると、彼等が占領する紫禁城に単身のりこんだ浪速は、紫禁城の無血開城に成功した。このことによって浪速の知名度は高まり、日本軍と清王朝の両方から信頼されるようになった。
          (ニ)
この頃の日本は、富国強兵策のもと、急速に世界に頭角をあらわしていた。日清、日露の二つの戦争で勝利し領土を拡大した日本は、さらなる大陸への進出を企てていた。粛親王(しゅくしんのう)は、この目覚ましい日本の力を利用して、王朝復活をもくろんでいたのであった。一方、日本の方も、満州に傀儡(かいらい)政権を打ち立て大陸進出への野望を抱いていた。ここに、両者の利害関係が一致したことになった。粛親王(しゅくしんのう)は、通訳であり日本軍の窓口的存在であった川島浪速(かわしまなにわ)に、自分の14番目の王女を養女として与えることにした。そうすることで、より緊密な関係を築こうとしたのであった。まだ6歳だった愛新覚羅(あいしんかくら)顕*(王ヘンに子=けんし)は、辛亥革命後の1913年に来日した。こうして、子供がいない浪速夫妻の養子となった彼女は、川島芳子(かわしまよしこ)と日本名を名乗った。芳子は、好奇心が強いうえ、大変頭の切れる才気に富んだ子供で、少し太めの眉に大きな切れ長の一重瞼の瞳が、彼女の意志の強さをあらわしていた。そうした男勝りで芯の強い性格は、もともと持っていた本来の性分だったが、成長するにつれて、ますます露(あらわ)になっていった。
           (三)
美しく気品高い芳子は、東京赤羽の川島邸から、良家の子弟が多い豊島師範付属小学校に通うことになった。赤羽の川島邸は、広大な屋敷で、庭には2百本以上の桜が植えられていた。芳子は、小学校を卒業すると、跡見高等女学校に進んだものの、まもなく浪速の生まれ故郷の信州へと引っ越すこちになり、信州の松本高等女学校に転校することとなった。これは、浪速(なにわ)が支援していた満蒙独立運動がうまくいかなくなったためで、巨額の資金が回収出来ず、赤羽の邸宅を借金の肩代わりに取られてしまったためであった。信州での芳子は、お姫さまのような姿で馬に乗って通学し注目を浴びた。毎日、颯爽(さっそう)と愛馬を駆って学校にあらわれた。彼女には、自分の体には清王朝の誇り高い王女の血が流れているという強い自負を持っていて、社会の授業中、教師が中国の悪口を少しでも口にしようものなら、教室をぷいと飛び出し、それっきり帰って来なかった。ところが、1922年(15歳)、旅順にいた芳子の実父、粛親王(しゅくしんのう)が死去した。彼女は、葬儀のために長期休学することとなった。だが、何ら手続きもせずに、あわただしく出発したのが災いし、半年後に帰ってきたが「校内の秩序を乱す」との理由で復学は認められなかった。それ以後、 芳子は学校には通わず、家庭で浪速(なにわ)の監督のもと、独自の教育方針で育てられることになった。こうして芳子は、自分に流れる愛親覚羅の血と、浪速の話から満蒙を独立させ、清王朝を再興するのが愛親覚羅家の一族の責務と考えるようになっていった。
(参考)
@豊島師範付属小学校・・・ある日、浪速の秘書、小林の妻の八重が芳子に「あなたのお国は中国かしら?、日本かしら?」と尋ねたら、芳子はちょっと考えてから「お母さんのお腹の中!」と機転をきかせて答えたという。
A満蒙独立運動・・・蒙古と満州を独立させることだが、これは同時に清王朝滅亡後の粛親王の夢でもあった(満蒙独立国構想)。
         (四)
1924年、17歳になった時、芳子は、突然、拳銃による自殺未遂事件を起こして、それまでの髪を切って、男のように短くしてしまった。養父であった川島浪速に関係を迫られたためだとか、愛国党の志士、岩田愛之助と養父、浪速の板ばさみだとか言われた。しかし、この時、彼女の心に強烈な変化が生じた。彼女自身、その理由については、ただ「永遠に女を清算した」とだけ宣言するのみであった。そして、断髪し男装に踏み切ったその日、「これからは、お姉ちゃんじゃなくお兄ちゃんと呼ぶのだよ」と道行く子供にも言った。髪を切って男装した芳子は、浪速(なにわ)とともに、亡き粛親王(しゅくしんのう)の財産管理のために、再び、大連におもむくことになった。この時、芳子は「鳥打帽に背広服」のいでたちで、浪速の秘書代わりとなって傍(かたわら)に仕えていた。一方、浪速の方も、芳子の力を常に必要とした。それからの彼女は、ますます、本来の個性のままに自由奔放に振る舞って、男言葉を用いて、背広姿で、まるで男のように振る舞った。
         (五)
1927年(20歳)、大連に長期滞在して、断髪した髪ものびたころに美貌の王女、芳子に縁談が舞い込んで来た。蒙古の幼なじみの王族カンジュルジャップとの結婚であった。芳子とカンジュルジャップとの結婚式は、旅順のヤマトホテルで盛大に挙行された。だが、所詮(しょせん)、芳子は家庭に収まるタイプではなかった。彼女の夫は、いい男であったが、小姑(こじゅうと)の意地の悪い面当(つらあ)てや蒙古の封建的なしきたりの板ばさみに合ってうんざりし、僅か2年ほどで離婚した。この頃、中国の政情は激動期に入っていた。1928年頃の中国は、南京に拠点を持つ蒋介石の国民党と、毛沢東の率いる共産党、華北の軍閥の首領とも言える張作霖(ちょうさくりん)の3つの勢力が競い合っていた。その上、これらを外国の勢力が後押しする形を取っていた。つまり、国民党を欧米が、生まれたばかりの共産党をソビエト政権が、張作霖を日本がというようにであった。日本にとって、張作霖を援助することは、満州、華北の地盤固めに役立った。その頃の日本は、増大する人口のはけ口を満州に求めていた。しかも満州には、豊かな資源と食料供給地としての可能性があった。だが、張作霖は次第に反日的な態度を取るようになり、1928年には、ついに国民党との戦いにも打ち負けて、満州に逃れて来る情勢になった。戦火を満州に飛び火させたくない関東軍(関東州を守っていた日本軍)は、満州に入って来る直前に張作霖を列車ごと爆殺した。
         (六)
1930年(23歳)10月、芳子の運命を変えることになる出来事が起こった。芳子は、関東軍の陸軍中佐、田中隆吉と出会い、田中を通じて関東軍参謀の板垣征四郎と知り合ったことであった。これが芳子と関東軍との深い関係になる始まりだった。芳子はふたたび男装に戻り、田中を上司として、関東軍の女諜報員として活動することになった。関東軍情報部としては、清朝の王女でありながら、日本語、中国語を使い分け、英語もしゃべれる芳子は利用価値の高い存在であった。一方、芳子の方も、清王朝(愛新覚羅王朝)再興のたためになることなら何でも協力するつもりであった。こうして、水を得た魚のような彼女の活躍が始まった。1931年9月満州事変が勃発し、日本は中国東北部への侵略を開始した。そして、11月に清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が関東軍の手引きで天津から満洲に連れ出された。芳子は残された溥儀の皇后、婉容(えんよう)を天津から連れ出すことを軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。1932年(25歳)1月、関東軍板垣参謀から陸軍中佐、田中隆吉に指令が届いた。それは、上海で事件を起こして世界の注目をそらし、そのすきに満州独立を実現せよというものだった。こうして上海で、布教中の日本人僧侶が中国人暴徒に襲われ、1人が死亡、2人が重傷を負うという事件が起きた。これは、芳子が関東軍から渡された資金を使って反日中国人を扇動し、僧侶を襲わせたのであった。この事件は、第一次上海事変と呼ばれ、くすぶっていた日中間の緊張を一気に高めることになった。1932年3月に、中国大陸北部で満州国の建国宣言がなされた。日本の傀儡(かいらい)政権が樹立され、満州国の初代皇帝(1934年に満洲国皇帝(康徳帝)に即位)は、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)が担ぎ上げられることになった。翌年(26歳)、関東軍の支援のもとに安国軍(定国軍ともいう)が創設され、芳子が総司令に就任し、熱河(ねっか)作戦に従軍した。彼女は、軍隊を指揮し熱河省に進軍したのであった。もと満州人の王女が先導するのであるから、否が応にも、満州人の血が騒ぎ立てたというのは言うまでもない。乗馬用のブーツを履きカーキ色の将校姿に身を固めた芳子が、馬に乗ってサーベルを片手に軍隊を率いる様子が日本や満州国の新聞で大きくとりあげられ、芳子は「東洋のジャンヌ・ダルク」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。
(参考)
@日本や満州国の新聞・・・関東軍の後押しのもと日本の新聞は、軍服を着て馬を疾駆させる彼女の写真を競って掲載し「東洋のジャンヌ・ダルク」ともてはやした。しかし総司令官といっても芳子に作戦能力や兵士への統率力、指揮能力などなく、単なる名目上の司令官に過ぎなかった。これらの新聞記事をはじめとするマスコミの過熱ぶりを芳子自身は「僕が働いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われているので、全く面はゆい次第だ」と話していた。又、1933年、芳子をモデルにした村松梢風の小説「男装の麗人」が発表され、芳子は日本軍に協力する清朝王女として世間の注目を浴びるようになった。
         (七)
この頃の芳子の生活は、かなり派手で乱れていた。昼過ぎに起きてきて、午後の3時頃が朝食、夜の10時頃に彼女の昼食となるが、取り巻きは京劇の俳優や若いお嬢さんばかりで、その中心に男装し軍服姿の芳子が得意気に笑みを浮かべて座っていた。だが、世間から注目され一見、華やかな存在であった芳子ではあったが、内心に深い孤独を抱えていた。芳子は満洲国が清朝の復辟(ふくへき=王朝を再興し、皇帝が再び即位すること)ではなく日本の傀儡(かいらい)国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍(関東軍)の満洲国での振る舞いや日中紛争などを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視されるようになった。一時は、芳子を処分(暗殺)しようとさえ考えた軍部だが、それには忍びず、国外退去ということで芳子を日本に帰国させた。すでに芳子の名は日本中に轟いていた。たちまち多くの好奇の目と権謀術策が芳子をとりまいた。行く先々で「僕は世界を救いたい」とか「僕がしていることは平和工作なんだよ」と言って大言壮語する芳子の言動は、刑事が狙うところとなった。そのため芳子は、当時から大物右翼で軍にも睨みの利いた笹川良一の庇護の下に入り「いっちゃん」「お兄ちゃん」と呼び合う仲の交際を結んでいた。1935年(28歳)に満州国皇帝、溥儀が来日した時、溥儀の特使が川島浪速邸を訪れ、浪速(なにわ)と共に芳子も特使を迎えた。1937年(30歳)3月23日、芳子は松本高等女学校の同窓会に招かれて講演を行い、その夜チャイナドレスを着た芳子は、松本市の公会堂で演説をした「今夜お出かけの皆様は多分に私への興味にひかされておいでのようですが、この好意の万分の一を支那にいる日本人が我等の同胞に示してくだすったならば、我々はどんなに感謝するだろうか------戦争のあるたびに私は身を挺(てい)してこれが鎮撫(ちんぶ)に狂奔しました。討つ人も討たるる人も心せよ、討つも討たるも同じ同胞。この切なる気持ちがあればこそ、私は戦うための司令官(熱河作戦の司令官のこと)に非ずして、戦わざらしめんが為の軍司令として微力を傾倒し続けたのでした------日本の兵隊は護国の英雄として護国神社にまつられています。しかし私の部下は只あの広野の草に埋もれて誰も見向いてくれませぬ」と。この年(1937年)、満州だけに飽き足らず、日本軍部は、ついに中国大陸に侵略を開始した。北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)で数発の銃声をきかっけに日中戦争が始まったのであった。
(参考)
@芳子の名は日本中に轟いていた・・・当時、芳子はラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露し、それがきっかけでレコードの依頼がくるなど、非常に人気があった。1933年に川島芳子作詞、杉山長谷夫作曲、東海林太郎唄の「キャラバンの鈴」というレコードを出していた。又、同年には、小説「男装の麗人」を連載していた「婦人公論」本誌に、芳子の独占手記として「僕は祖國を愛す」を掲載し、1940年には自伝「動乱の蔭に」を出版した。
         (八)
関東軍の後ろ盾を失くしたため、芳子の活躍する機会は二度と回って来なかった。一方、1937年に始まった日中戦争は、日本軍の思惑に反して、中国軍の抵抗は頑強で、しかも、犬猿の仲と思われた共産党と国民党が仲の悪さを一時棚上げし、連携して日本軍に立ち向かって来た。ここに至り、日本軍は苦戦に落ち入っていった。ついに、軍部が恐れていた泥沼の長期戦となった。やがて、しびれを切らした日本軍は狂暴化し、中国各地で殺戮、略奪の限りを尽くすようになり、近衛内閣は軍部を制御出来なくなった総辞職し、代わって陸軍大将だった東条英機が首相になった。こうして、日本は壊滅への道をまっしぐらに進んでいった。1941年12月8日、日本はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争(第ニ次世界大戦に参戦)が勃発した。そして、1945年、日本は敗れ太平洋戦争は終わった。満洲国の崩壊に伴い、溥儀(ふぎ)は満洲国皇帝(康徳帝)を退位し、その後、ソ連軍の捕虜になった。日本の敗戦時に中国にいた川島芳子は、1945年(38歳)11月漢奸(かんかん=敵に通じる者。売国奴)として北京で国民党政府(蒋介石主席)に捕えられた 。そして芳子は、日本軍の手先となり、同胞を裏切ったという罪で、裁判にかけられた。彼女は、2年以上の獄中生活で、数多くの尋問(じんもん)を受けた。しかし、負けん気の強い彼女は獄中での生活をこう述べていた「周囲3畳足らずの空間がオレの部屋だ。いつも、時間が来れば働かなくとも水や食事をもらえる。賄(まかない)つきのありがたい身分だ。お陰で精神的に悟(さと)りさえ開けて来たよ」(芳子の手紙より)。裁判では、芳子をひと目、見ようと人々が殺到した。芳子は愛親覚羅の一族とはいえ、今は日本人だ、それが証明されれば釈放されるに違いない、そう考えて、日本の川島浪速に「戸籍謄本を送れ」と手紙を書いた。しかし、戸籍謄本に、芳子の名前は記入されていなかった(養父川島浪速が芳子の帰化手続きを行っていなかった)。1947年(40歳)10月22日、わずか3回の審議で芳子は、中国人としての国家反逆の罪による死刑判決を受けた。芳子は王女の誇りからか、上海事変など彼女の活動はすべて関東軍と陸軍中佐、田中隆吉の指示によるものだったのだが、自分の周囲の人達に不利になるような弁明、発言は一切しなかった。1948年(41歳)3月25日、芳子は北京で銃殺刑に処せられた。彼女は貴婦人のように、まゆ一つ動かさず死んでいった。享年41歳。芳子が銃殺された遺骸のポケットには、女学生の頃から口ずさんでいた詩を書いた紙切れがあった。「家あれども帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しきを得ず、冤(えん)あれども誰にか訴えん」。そして、芳子は獄中から秘書、小方八郎に遺言を伝えていた「(前略)僕がほんとうに死んだら、君とおやじと僕の骨をひろって、福ちゃん(可愛がっていた猿の名前)と掘り出して埋めてくれな。僕は人間とは一所(いっしょ=一つの場所)に死度(しにた)くない、猿と一所でけっこうだ、猿は正直だ、犬も正直だ、ポチはどこへ行ったかね、今頃は寒い事だろうね、猿も犬も没収する国家は珍しいね、ずい分ひどい所だ(後略)」というものだった。
(参考)
@芳子の活躍する機会・・・川島芳子が実際に間諜(スパイ)として活躍したのは1931年(24歳)から1933年(25歳)まで、それも巷間(こうかん)伝えられているような華々しい活躍ではなく、その多くは虚構であったという。そのためか日中両国から二重スパイの疑いをかけられたことすらあったという。
A家あれども帰り得ず・・・又は「家あれど帰り得ず/涙あれど語り得ず/法あれど正しきを得ず/冤(えん)あれど誰にか訴えん」(現代語訳「家があっても帰れない/涙が流れほど悲しいけれども、誰にも語れない/法律はあっても、正義はなされない/無実だけれども、誰に言ったらいいでしょうか?」。芳子が女学生の頃から口ずさんでいた詩・・・彼女が乙女の頃に作った詩。「長い睫(まつげ)が林なら、潤(うる)んだ瞳は泉です。泉からころころと、ころげる雫(しずく)が涙なら、涙の主は誰でせう」
B戸籍謄本・・・戸籍には、芳子の実兄の子(芳子には姪)が同じ川島の養女として記されていた。この子は芳子の実父、粛親王の長男の子で、廉子(れんこ)といい、芳子の後に養女になった。昔から、川島芳子は日本国籍がなかったため、死刑になったという説が一般的であったが、その判決文によれば、中国の国籍法では、たとえどの国の国籍を取得しようと、父親が中国籍である以上、本人は中国人とみなされる、ということであった。(漢奸裁判にかけられた李香蘭こと、山口淑子は日本人=父親は山口文雄=と認められ釈放されている)。 C遺言を伝えていた・・・芳子の遺体は後難を恐れてか誰も引き取らず、1週間後に静岡県清見寺の僧侶、古川大航によって荼毘(だび)に付され、1948年9月、古川は遺骨を持って帰国し、すぐに川島浪速のもとを訪れた。その浪速も芳子の後を追うように翌年6月に死去した。今、芳子は長野県松本市の正麟寺の墓で養父母と並んで眠っている。しかし、一方では、銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後、長く生存説がささやかれた。現在、中華人民共和国には芳子の娘と自称する女性がいるという。
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(小話858)「(ジャータカ物語)青鷺(あおさぎ)と魚と蟹(かに)」の話・・・
           (一)
昔々のこと。祇園精舎(ぎおんしょうじゃ=ジェータヴァナ)に住む、ある乞食(こつじき)修行者(托鉢僧)は、衣に関しての裁断や裁縫などの仕事が、とても巧みであった。彼はその巧みなわざで、まさに「裁縫師」として名が知られていた。この男は、ボロきれに手作業をほどこして非常に肌触りのよい、見た目も美しい快適な衣を作っていた。だが、その衣はもろく、すぐボロ切れになってしまった。衣の仕事を知らない他の乞食修行者たちは、その衣の外見の優秀さだけを見て「しっかりしている」と、傷のない布を裁縫師に与えて、代わり裁縫師の作った衣を取って行った。その衣が汚れた時に、お湯で洗うと、すぐにあちこちにボロの状態が現われて、衣を取り替えた彼ら(乞食修行者たち)は後悔した。このようにして、来る人、来る人を外見の美しい布によってだましていた乞食修行者は、やがて、あらゆるところで知れ渡ることになった。そして、この男が祇園精舎でしているようなことを、他の村でも、ある裁縫師が世間を欺いていた。この裁縫師と親しい乞食修行者たちは「尊者よ、ある裁縫師が祇園精舎で同様に世間を欺いているそうだ」と告げた。そこで彼は「さあ、私はかの裁縫師をだまそう」と考えた。立派な布の衣を作って真っ赤に染めて、それを着て祇園精舎へ行った。祇園精舎の裁縫師は彼を見て貪欲を起こし「友よ、私のところには傷のない布がある。それとあなたの衣を取り替えてほしい」「友よ、どうしてもというなら、取り替えましょう」。他の村の裁縫師は、赤い立派な布の衣を与えて傷のない布を取って、村に帰って行った。祇園精舎に住んでいる裁縫師は、その衣を着て二、三日した後、湯で洗っているうちにボロ布になるのを見て恥じた。こうして「村に住む裁縫師によって、祇園精舎に住む裁縫師がだまされたらしい」という事実が教団中に知れ渡ることとなった。ある日、乞食(こつじき)修行者たちがその話をしながら教えの場に着席した。釈迦(しゃか)が来て「乞食修行者たちよ、今ここで何の話のために共に座っているのか」とたずねた。彼らはその理由を述べた。世尊は「乞食修行者たちよ、祇園精舎に住む裁縫師は今だけ他人をだましているのではない。以前にもやはりだましたのだ。また、今だけ村に住む人によってこの祇園精舎の裁縫師がだまされたのではない。以前にもまただまされたのだ」と言って、次のように過去の話をした。
(参考)
@祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・・・須達(しゅだつ)長者が、中インドの舎衛城(しゃえじょう)の南にある祇陀(ぎだ)太子の林苑を買い取り、釈迦とその教団のために建てた僧坊。(小話376)「須達(すだつ)長者と祇園精舎」の話・・・を参照。
A乞食(こつじき)修行者・・・出家修行者が乞食(こつじき)によって食を得るというのは、仏教以前からあったインドの風習。
           (ニ)
過去に菩薩(釈迦)は、ある林野を住みかとして蓮池(はすいけ)の近くに立っているヴァラナの木において、木の神として生まれた。その時、あまり大きくないある池では、夏は水が少なかったが多くの魚が住んでいた。一羽の青鷺(あおさぎ)がその魚たちを見て「ある方法で、この魚たちをだまして食べよう」と、考えながら座っていた。魚たちは彼を見て「旦那様、あなたは何を考えながら座っているのですか」と質問した。「私はあなたがた(魚たち)のことを考えながら座っているのだ」「旦那様、私たちの何を考えているのですか」「この池では水は少なく、餌(えさ)も少なく。暑さは激しい。「今この魚たちはどうなるのだろう」と、あなたがたのことを考えながら座っていたのだ」「旦那様、さて、私たちはどうしましょう」「もしあなたがたが私の言葉を実行するならば、私はあなたがた一匹一匹をくちばしでとらえて、五色の蓮華(れんげ)で覆われた、ある大きな池に連れていって放ってやろう」「旦那様、あなたは私たち一匹一匹を食べようとしていますね」「私を信じないならば、私と一緒に池を見るために一匹の魚を派遣すればよい」。魚たちは青鷺(あおさぎ)を信じて「こいつは水でも陸でも大丈夫だ」と、一匹の片目の大きい魚を指名して「彼を連れて行け」と言った。青鷺はその魚をくわえて連れていき、池に放ち、池全体を見せて、さらに導き返してかの魚たちのいる池に放った。彼は他の魚たちにその池のすばらしさを賞賛した。彼らはこの魚の話を聞いて行きたくなって「よし、旦那様、私たちを連れて行ってください」と言った。青鷺は最初に、かの片目の大きい魚を捕らえて池の岸に導き、池を見せてから、池の岸に生えているヴァラナの木に止まり、魚を枝のまたに投げ入れてくちばしで死に至らしめ、肉を食べて、魚の骨を木の根のところに落とした。そして、さらに戻って「私はあの魚を解放した。他の魚も来い」と言って、この方法で一匹一匹を捕らえて、すべての魚を食べて、再び戻ってきたら、一匹の魚も見えなかった。
           (三)
しかし、ここに一匹の蟹(かに)が残っていた。青鷺は蟹をも食べたいと思って「おい、蟹よ。私はかの魚たちをすべて蓮(はす)に覆われた大きい池に連れて行って放ってやった。おいで、あなたも連れて行こう」と言った。「私をつかまえて行くというが、どうやってつかまえるのか」「嘴(くちばしで)で噛(か)んでつかまえるのだ」。蟹(かに)は考えた「こいつの「魚たちを導いて池に放つ」ということはありえないだろう。しかし、もし彼が私を本当に池に放つというのならば、それはよいことだ。もし放たなければ、こいつの首を切って命を奪ってしまおう」と。蟹(かに)は青鷺に言った「おい、青鷺よ。お前は私をしっかりくわえることはできないだろう。逆に私のほうが、つかむ力がしっかりしているのだ。もし私がはさみでお前の首をつかんでかまわないならば、私はお前の首をしっかりつかんで、お前と一緒に行こう」。青鷺は同意した。蟹(かに)は自分の両手のはさみで、まるで鍛冶屋の火箸のように、青鷺の首をしっかりつかんで「さあ行け」と言った。青鷺は蟹を導いて池を見せてから、ヴァラナの木の方向へと進んだ。蟹(かに)は言った「青鷺さん、この池はここから後ろのほうだ。あなたは別のほうへ連れていくんだね」「あなたは「この青鷺は私を持ち上げて回ってくれる、私の奴隷である」と思っているようだが、ヴァラナの木の根にあるこの魚の骨の山を見よ。私がこの魚たちをすべて食べたように、お前をも私は食べるだろう」。蟹(かに)は「この魚たちは自身の愚かさによってお前に食べられた。しかし私はお前に食べることを許さない。死ぬならば二人とも死ぬだろう。私はお前の首を切って地に捨てよう」と言って、鍛冶屋の火箸でするようにはさみによって彼の首を圧迫した。青鷺は口を開き、両目から涙を流して、死の恐怖で「主人よ、私はあなたを食べますまい。私を助けてください」と言った。「もしそうならば下(くだ)って私を池に放て」。青鷺は池に戻って蟹を池の端の泥の上に置いた。蟹(かに)は、はさみで、白蓮の茎を切るように、青鷺の首を切ってから水に入った。その不思議なことを見て、ヴァラナの木に住んでいる神は、賞賛をして、次の詩句を言った「欺瞞の智慧のある者は、欺瞞によって結局は幸福に一生を終えることはない。ずるがしこい青鷺が蟹から滅亡を得るに至るようなものである」と。語りおわると釈迦(世尊)は「乞食修行者たちよ、この男は今だけ村に住む裁縫師にだまされたのではなく、以前にもやはりだまされたのだ。その時の、その青鷺(あおさぎ)が祇園精舎に住む裁縫師であった。蟹(かに)が村に住む裁縫師、また木の神が私であった」と。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話857)「古塚(ふるづか=古い昔の墳墓)の怪異」の話・・・
        (一)
唐の判官(はんがん)を勤めていた李(りばく)という人は、高陵(こうりょう)に庄園(しょうえん)を持っていたが、その庄に寄留する一人の客が、こういうことを懺悔(ざんげ)した。「わたくしはこの庄に足を留めてから二、三年になりますが、実はひそかに盗賊を働いていたのでございます」。李(りばく)もおどろいた。「いや、飛んでもない男だ。今も相変らずそんな悪事を働いているのか?」。「もう唯(ただ)今は決して致しません。それだから正直に申し上げたのでございます。御承知の通り、大抵の盗賊は墓あらしをやります。わたくしもその墓荒しを思い立って、大勢の徒党を連れて、先ごろこの近所の古塚をあばきに出かけました。塚はこの庄から十里(六丁一里)ほどの西に在って、非常に高く、大きく築かれているのを見ると、よほど由緒のあるものに相違ありません。松林をはいって二百歩ほども進んでゆくと、その塚の前に出ました。生い茂った草のなかに大きい碑が倒れていましたが、その碑はもう磨滅(まめつ)していて、なんと彫ってあるのか判りませんでした。ともかくも五、六十丈ほども深く掘って行くと、一つの石門がありまして、その周囲(まわり)は鉄汁(てつじゅう)をもって厳重に鋳固(いがた)めてありました」。「それをどうして開いた?」。「人間の糞汁(ふんじゅう)を熱く沸かして、幾日も根(こん)よく沃(そそ)ぎかけていると、自然に鉄が溶けるのです。そうして、ようようのことで、その石門をあけると驚きました。内からは雨のように箭(や)を射出して来て、たちまち五、六人を射倒されたので、みな恐れて引っ返そうとしましたが、わたくしは肯(き)きませんでした。ほかに機関(からくり)があるわけではないから、あらん限りの箭(や)を射尽くさせてしまえば大丈夫だというので、こちらからも負けずに石を投げ込みました。内と外とで箭と石との戦いが暫く続いているうちに果たして敵の矢種(やだね)は尽きてしまいました。
        (ニ)
それから松明(たいまつ)をつけて進み入ると、行く手に又もや第二の門があって、それは訳なく明きましたが、門の内には木で作った人が何十人も控えていて、それが一度に剣をふるったから堪(た)まりません。さきに立っていた五、六人はここで又、斬り倒されました。こちらでも棒をもってむやみに叩き立てて、その剣をみな撃ち落した上で、あたりを見まわすと、四方の壁にも衛兵の像が描いてあって、南の壁の前に大きい漆(うるし)塗りの棺が鉄の鎖(くさり)にかかっていました。棺の下には金銀や宝玉のたぐいが山のように積んである。さあ見付けたぞとは言ったが、前に懲(こ)りているので、迂闊(うかつ)に近寄る者もなく、たがいに顔をみあわせていると、俄かに棺の両角から颯々(さっさつ)という風が吹き出して、沙(すな)を激しく吹きつけて来ました。あっと言ううちに、風も沙(すな)もますます激しくなって、眼口(めくち)を明けていられないどころか、地に積む沙(すな)が膝を埋めるほどに深くなって来たので、みな恐れて我れ勝(が)ちに逃げ出しましたが、逃げおくれた一人は又もや沙(すな)のなかへ生け埋めにされました。外へ逃げ出して見かえると、門は自然に閉じて、再びはいることは出来なくなっています。たといはいることが出来ても、とても二度と行く気にはなれないので、誰も彼も早々に引き揚げて来ました。その以来、わたくしどもは誓って墓荒しをしないことに決めました。あの時のことを考えると、今でも怖ろしくてなりません」
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話856)「家庭の竈(かまど)を守護する女神ヘスチア(ヘスティア)。その温和で優雅な永遠の処女神」の話・・・
         (一)
ギリシャ神話より。初期の偉大なるオリュンポス十二神の一人、女神ヘスチア(ヘスティア)は、竈(かまど=炉・火)を守護する女神であった。竈は家の中心であるために、女神ヘスチアは家庭生活の女神として崇(あが)められた。その上、女神ヘスチア(大神ゼウスの姉)は、神々の王ゼウスより全ての人間の家、神殿に祭られるという特権を与えら、竈は犠牲を捧げる場所とされた。それ故、全ての犠牲はまず最初に彼女に捧げられ、そして最後にも捧げられた。又、人々は家の守り神たる女神ヘスチアを厚く崇め、宴を始めるときには、他の神々に先(さき)んじてまず彼女に献酒(ヘスチアから始め---)し、宴、果てれば再び彼女に献酒(---ヘスチアで終わり)して敬意をはらった。女神ヘスチアは、常に大神(神々の三代目の王)ゼウスの館の竈の番をしており、一度も下界に降りたことがなかった。又、夫を持たぬ権威ある三処女(戦いの女神アテナ、狩猟の女神アルテミス)の一人でもあった。温和な女神ヘスチアは、パンテオン(すべての神に捧げられた神殿)神殿での神々の会議があってもただ見守るだけで、決して口をさし挟まなかった。その上、神々の勢力争いや恋愛沙汰にも一切関わらず、無限の慈愛を以って仲裁役に徹した、つつましく穏やかな女神で、全ての孤児や迷い子らの守り神でもあった。さらに、慈悲深い女神ヘスチアは嘆願者たちの保護者をも務め、救いを求める者が誰かの家に駆け込んで竈の前に座り込んだら、その家の主はどれほど厄介だと思っても彼らを保護しなければならなかった。もしも無情に追い出せば、ヘスチア女神と共に、嘆願者を守る大神ゼウスの怒りに触れ、ひどい破滅が降りかかった。そのため竈と祭壇・祭祀の女神ヘスチアを祀った町の公会堂も、せっぱ詰まった嘆願者たちの格好の駆け込み寺であった。
(参考)
@竈は犠牲を捧げる場所・・・女神ヘスチアへの礼拝は灯りを捧げて行われ、期間中はどの竈(かまど)の火を消す事も許されなかった。
A先(さき)んじてまず彼女に献酒・・・最初と最後というのは、彼女が神々の二代目の王クロノスとレアの最初の子でありながら末っ子ともなったことを受けて、このように定められた。
B女神ヘスチア・・・ローマ神話ではウェスタが、竈(かまど)の女神で、その神像はなく、火が崇拝の対象であった。また国家の竈の神でもあり、神殿をもっていた。
「ヘスチア(ヘスティア)」(不明)の絵はこちらへ
「ヘスチア(ヘスティア)」(不明)の絵はこちらへ
         (ニ)
竈と祭壇・祭祀の女神ヘスチアは二代目の神々の王クロノスとレアの最初の子供であった。そして「自らの子によって王位を奪われる」という予言に怯えていた父のクロノス王が六人の我が子(ヘスチア・デメテル・ヘラ・ハデス・ポセイドン。そして、最後にゼウスのおむつでつつんだ石)を次々と呑み込んだ口から、最後に吐き出されたため末娘とも言われたが、実際は長女であった。彼女は、非常に穏やかな性格をしており、またその容姿も美しかったので、多くの男の神たちから注目を浴びた。中でも弟の海王ポセイドンと甥の太陽神アポロン(大神ゼウスとレトの子)が彼女に恋して熱心に求婚した。しかし、美しい女神ヘスチアには結婚の意志はなく、また自分をめぐって身内のニ人が争い合うことを憂(うれ)えて、双方を拒絶し、生涯を処女として暮らすことを誓った。この宣誓が神々の王ゼウスによって認められたため、ニ人の男の神も諦めざるを得なかった。又、美の愛の女神アフロディーテの恋の魔力は大神ゼウスさえも迷わせたが、女神アテナと女神アルテミスに加えて、女神ヘスチアの三人だけが、アフロディーテ女神の意のままにはならなかった。竈と祭壇・祭祀の女神ヘスチアは大神ゼウスの姉たる者の当然の権利として、オリュンポス十二神の地位にあったが、後(のち)に自らの意志でその座を酒神ディオニュソス(バッカス=大神ゼウスとセメレの子)に譲った。酒神ディオニュソスは、その誕生ゆえに神々の女王ヘラに嫌われたが、ギリシャで絶大なる数の信者を生み、オリュンポス十二神でさえ、彼の存在を無視できなくなった。そこで大神ゼウスは、酒神ディオニュソスをオリュンポスの神々に加えると言い出した。だが大神ゼウスの妻であるヘラ女神は、これに猛反対した。その時、オリュンポス十二神の一人である竈の女神ヘスチア(ヘラの姉)が、争いはもうたくさんと、偉大なるオリュンポス十二神の座を酒神ディオニュソスに譲ったのであった。
(参考)
@「自らの子によって王位を奪われる」という予言・・・(小話395)「ティタノマキア(ティタン神族とオリュンポス神族の10年戦争)」の話・・・を参照。
Aその座を酒神ディオニュソス・・・女神ヘスチアは、生まれてきたのが遅かったために、十二神に入れなかった甥(酒神ディオニュソス)を哀れんでのことであったという説もある。(小話502)「酒神・ディオニュソス(バッカス)の誕生」の話・・・を参照。
「結婚の寓意」(ティツィアーノ)の絵はこちらへ愛と美のアフロディーテ(ヴィーナス)と軍神マルス、右側に家庭の守護神であるヘスチア(ウェスタ)女神。
「ヘスチア(ヘスティア)」(不明)の像の絵はこちらへ
「ヘスチア(ヘスティア)」(不明)の絵はこちらへ


(小話855)「(ジャータカ物語)捨身飼虎(しゃしんしこ=飢えた虎に我が身を食わせる)。飢えた虎と三人の王子」の話・・・
           (一)
ある日、釈迦(しゃか)が弟子の阿難(あなん)尊者を連れて托鉢をしていた時のこと。その時、一人の老母が釈迦の前にひれ伏して「今、刑場で処刑されようとしている二人の息子の命をどうかお助け下さい」と懇願した。聞くところによると、二人の息子が飢えにせめられて盗みを重ねた結果、死刑を宣告されたと言うのだった。我が子の命を救おうとする熱意に心を打たれた釈迦は、王の所へ出向き二人の命乞いをして、二人は救われた。感激した母子三人は弟子となり釈迦の教えを聞いた結果、ともに修行を完成して阿羅漢(あらかん)と言う位に到達した。
(参考)
@阿難(あなん)尊者・・・釈迦の十大弟子の一人。師の説法を最も多く聞き、多聞第一とよばれた。記憶力にすぐれ、経典の第一結集(けつじゅう)の際に多くの経説を復唱したという。
A阿羅漢・・・小乗仏教(自己の悟りを偏重する仏教)の最高の悟りに達した聖者。もはや学ぶことがないという意味で、無学ともいう。
           (ニ)
このことを讃嘆した阿難尊者に対して釈迦は、次のように語った「これは過去世からの因縁である。昔、摩訶羅陀(まからだ)という王がいて、王には三人の子供がいた。この三人の王子は臣下の者たちから離れて大竹林の中に入り、そこで休息した。長男の王子(摩訶波那羅=まかはらな)は「私は今日、心が甚(はなはだ)しく恐れている。この林中において衰(おとろ)えそこなわれるであろうか」と言い、次男の王子(摩訶提婆=まかだいば)は「私は今日、自ら身命を惜しまない、ただ愛する者と離れていて愁(うれ)い悲しむのみである」と言い、末の王子(摩訶薩*=まかさった)は「私は今日、独(ひと)り恐れも悩みもない。この場所は閑静にして、安穏に楽を受けさせてくれる」と言い終わって三人がさらに竹林中を前進すると、そこに一匹の母虎が横たわっていた。出産してから七日ほど経(た)っていて、しかもニ頭の子供がいた。ニ頭の子虎は飢えのあまり命(いのち)が、絶えんとしていた。長男の王子が母虎を見て「飢えが迫れば必ず子を食(くら)うであろう」と言った。すると末の王子が尋ねた「この虎の常の食物は何か?」。長男の王子は答えた「ただ動物の血肉を食す」。さらに、末の王子が尋ねた「誰がよくこの虎に食を与えるのか」。この時、次男の王子が言った「この虎はあまりにも飢えていて、身体が弱り、余命、幾(いく)ばくもない。だから食を他に求めることはできない。誰かこの虎のために身命を惜しまない者はいないか」。長男の王子が言った「一切に捨て難いのは、自分の身である」。次男の王子も言った「我等は今、身を捨てることはできない。智慧が少なく、しかも恐ろしい」。王子達は大いに愁(うれ)い悲しみ、なかなかその場から離れなかったが、やがて立ち去ろうとした。その時、末の王子が「永(なが)い輪廻転生(りんねてんせい)の間に、私は無駄に命を捨てた事が限りなくある。それは貪欲(どんよく)のため、或は怒りのため、或は愚痴のためであって、尊い教えのためであった事は一度もない。尊い教えのために身を捧げる絶好の機会だ」と宣言し、兄達の制止を恐れて「兄さん達は臣下の者と共に帰城してください」と言った。そして末の王子は、母虎の所に来て身に着けた衣裳を脱ぎ、それを竹枝の上に置き、自ら身を放って餓えた母虎の前に臥(ふ)した。飢えた母虎は、末の王子の体に食いつき、二頭の子虎は命を救われた。
(参考)
@輪廻転生(りんねてんせい)・・・転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。
           (三)
末の王子の摩訶薩*(まかさった)が虎に食われた事を知った父王と王妃は、林へ行き末の王子の骸骨を見た。二人は、悲しみの余り気絶してしまった。その時、我が身を惜しまず虎を救った功徳によって、兜率天(とそつてん)と言う最高浄土世界に往生できた王子は、父母の前に姿を現わして言った「父王よ、私は我が身を捨てて、飢えた虎を救った功徳によって兜率天に生まれました。存在するものは必ず無(な)くなり、生あるものには決まって死が訪れます。これが生きとし生けるもののさだめなのです」。さらに釈迦は、阿難尊者に「その時の父王とは、今の私の父であり王妃とは、私を生んでくれた母である。長男の王子は弥勒。次男は仏弟子の世友(せゆう=ヴァスミトラ)。末の王子は私自身であった。虎の母は今の老母。二頭の子虎は今の二人の息子である。私は前世においても二人を救い、今また二人を救ったのである」と語った。
(参考)
@法隆寺の国宝・玉虫厨子「捨身飼虎」(しゃしんしこ)図では、昔インドの王子が馬で山野を駆けめぐっている時、飢えた虎が七匹の小虎を連れて、竹林をさまよっているのに出合った。王子は飢えた虎親子を憐れに思い、わが身を虎に与えるべく、竹でのどを刺した。血を見れば虎は襲いかかるはずなのに、飢えのひどさのために虎は襲う力さえなく、王子を食べようとしなかった。そこで王子は、崖に上って上衣を脱ぎ、崖から飛び隆り、地上に墜落した自分の肉を虎に食べさせたという。
A「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話854)「イギリスの長寿者、152歳まで生きたトーマス・パー」の話・・・
       (一)
イギリスのスコッチウィスキー「オールド・パー」のボトル(瓶)の裏ラベルや、外箱には立派な髭を蓄えた老人が描かれている。老人の名はトーマス・パーといい、彼は1483年2月、イングランドのサロップ地方の小さな農村ウィニングトンで、ジョン・バーの息子として生まれた。その小さな農村ウィニングトンはロンドンの西北西、リバプールの南シュルスベリーの近郊、アルバーバリー地区にあった。トーマス・パーの若い頃の事はあまり知られてなく、彼は17才の頃、家より5Km程離れたところにあるロートン城の近くに奉公に出た。そして、1518年(35歳)の時、父親の死に際して父にかわって、農耕と母の世話の為に家に戻った。1522年(39歳)彼は、自身の名義による最初の借地契約を地主との間で21年間という約束で行なった。彼の日課は、農業の合間に、近くにあるブリッデン丘陵とロングマウンテンの山歩きだった。1543年(60歳)、トーマス・パーは2度目の借地更新をした。当然ながら地主はすでに代替わりをしていた。その後20年間、トーマス・パーには平穏な日々が続いた。
(参考)
@オールド・パー・・・ウイスキーの「オールドパア」はトーマス・パアーの長寿にあやかってつけられた名前であるという。
Aトーマス・パー・・・教区ごとの住民登録が始まったのが1540年、それも文盲の多かった当時のことを、正式に公の書類上で年齢を証明するのは不可能だが、トーマス・パーの場合、別な書類で証明されている。というのはパー家は小作農であり、ある決った期間ごとに借地の契約更新をしていた。その契約書から出生を辿ることができる。だが、トーマス・パーに関する記録は、その祖父の記録と混ざり合っているようでパーが、昔のことは15世紀のことを含めて覚えていない、忘れたと述べていたことや、アランデル伯爵と面会したときには、目が見えず衰弱した状態であったことなど、パーは実際に非常な高齢で、おそらく100歳を越えていたと考えられる。
「トーマス・パー」スコッチウィスキー「オールド・パー」の外箱の絵はこちらへ
       (ニ)
トーマス・パーが80歳になった1563年から身の上が騒々しくなってきた。80歳になったトーマス・パーは、ジョン・テーラーの娘ジェーン・テーラーと結婚した。この時が初婚であって、子供ももうけた。だが、息子のジョンは生後10週間、娘ジョアンは生後3週間で他界してしまった。翌年1564年(81歳)、トーマス・パーは3度目の借地の更新を前回と同様21年間で地主の息子ジョンポーターから、続いて1585年(102歳)、トーマス・パーは4度目の借地更新を地主ジョンポーターの息子ヒューポーターから21年間行なった。そして、1588年(105歳)、揺るぎない信仰心と菜食主義トーマス・パーに、不名誉な話しではあるが、信じられないことが起こった。たぐい希(まれ)なる美人といわれた、キャサリン・ミルトンとの間に不義の子をもうけてしまい、その当時のこの地方の習慣に従いアルバーバリー教会の公衆の面前で、白衣をまとい懺悔(ざんげ)を強いられたのであった。
(参考)
@不義の子をもうけてしまい・・・トーマス・パアーは102歳で婦女暴行で捕らえられ、18年間の刑に服し、120歳で出獄して結婚、一人の子供をもうけたという説もある。
       (三)
1595年(112歳)、トーマス・パーは32年間、連れ添った妻ジェーンを亡くした。そして、その10年後、122歳の時、近くの村モントゴメリーシャーのジョン・ロイドの娘でアンソニー・アダの未亡人ジェーンと再婚した。翌年、1606年(123歳)5度目で最後の借地更新をした。この時の地主は、次の世代ヒューポーターの息子ジョンポーターで、この時の契約期間は彼が死ぬまでか、あるいは50年間かという取り決めになっていた。トーマス・パーは130歳になっても現役で、脱穀などの農作業をしている壮健ぶりに、噂が噂を呼び、その地方で有名になった。そして1635年(152歳)は、トーマス・パーの運命の年となった。第21代アランデル伯爵トーマス・ハワードがシャウスブリーの近くにある自分の領地を訪れた際、この驚くべき長寿のトーマス・パーの噂を耳にし、彼を自分の保護下に置こうと決めた。そしてトーマス・パーをロンドンに連れて行き、時の国王チャールズ1世に会わせようと思いたった。アランデル伯爵は、トーマス・パーの為に出来る限り安全に、又楽しい旅にと馬はもちろん、寝台車から道化師をも手配した。一行はウィニングトンを出て、アランデル伯爵の領地ウィムへ立ち寄りロンドンまで、3週間の旅を続けた。この旅は大変な旅になった。行く先々で152歳のトーマス・パーを一目見ようと、多くの群衆が集まって騒然となり、ほうほうのていで一行は、ロンドンに到着した。
       (四)
何とかロンドンに無事に着いたが、それからトーマス・パーの生活はガラリと変った。名士に相応した身なりを整え、髪も調髪、いくつかの鬘(かつら)さえ用意された。菜食主義だった食事も一変し、何もかもが贅沢になってしまった。その上、ロンドンに行ってから僅かの期間にトーマス・パーの名声はますます高まり、数多くの商品の宣伝に使われた。1635年(152歳)の9月、トーマス・パーは国王チャールズ1世に拝謁した。チャールズ1世が彼に対し、他者に比(くら)べ特筆する何かを成したことがあるかどうか尋ねたところ、トーマス・パーは、(女性問題に絡んで)教会から課された贖罪(しょくざい)を成したもっとも年老いた人間だと答えた。宮殿を下がってからも、ロンドン滞在中は、152歳の彼の長寿にあやかろうとする人々に囲まれ、あたかも見世物のようであったという。トーマス・パーは1635年11月14日、ロンドンのアランデル伯爵の館で長寿の幕を閉じた。死後、彼の体は内科医のウィリアム・ハーベイによって解剖された。そして、その原因は、暴飲暴食による食べ過ぎなどの、生活環境のあまりの急激な変化によるものと記された。チャールズ1世は彼の死を心から悼(いた)み、11月15日にウェストミンスター寺院のポエット・コーナー(詩人小路)の一隅に埋葬させた。そして碑文には、こう書かれた。「サロップ郡のトーマス・パー。1483年に生まれる。10代の王の時代を生きる。すなわち、エドワード4世王、エドワード5世王、リチャード3世王、ヘンリー7世王、ヘンリー8世王、エドワード6世王、メアリー女王、エリザベス女王、ジェイムズ王、そして、チャールズ王なり。享年152歳。1635年11月15日、ここに埋葬される」
(参考)
@数多くの商品の宣伝に使われた・・・トーマス・パーの肖像画は数多く描かれた。当時の記録によるとパーの名声は、彼を長寿と幸福の象徴に祭り上げたようで、幸運のメダルが作られ、それには「オールド・トーマス・パー152才」と彫られた。このメダルは旅行の安全を祈って贈られるセント・クリストファー(カトリックの聖者で、川や海辺を渡る旅人を手伝うのが仕事で、海や水の守り神)のメダルと同様に使われた。
A152歳の彼の長寿・・・資料によれば、トーマス・パーの子孫も長生きしている。息子113才、孫109才、曾孫ロバート・パー124才、同じくジョーン127才、同じくキャサリン・パー103才。
Bポエット・コーナー(詩人小路)・・・ポエット・コーナーには、シェークスピア、D・H・ローレンス、チョーサー、テニスン、ワーズワース、バイロンなどそうそうたる詩人、文人、哲学者が埋葬されている。 (小話164)「イギリスの長寿者」の話・・・を参照。
C世界の長寿者に共通していること。
(1)生活そのものが身体を動かす運動である(高地に住む方が多く、普段から山坂を歩いている)
(2)ストレスのない環境にいる(農村部であり、都会のような忙しさがない)
(3)体に良い食事や、ミネラルの多い水を摂っている(自然の恵みに囲まれて、理に叶った食事をしている)
(4)家族と同居している(孫、ひ孫に囲まれて、自分の培ってきた生活の知恵を発揮できる)
「トーマス・パー」(ル−ベンス)の絵はこちらへ
「トーマス・パー」(不明)の絵はこちらへ
「トーマス・パー」(不明)の絵はこちらへ
「トーマス・パー」の19世紀のポスターの絵はこちらへ


(小話853)「(ジャータカ物語)雉(きじ)の火消し」の話・・・
        (一)
昔むかし、野火(のび)が林を焼いたことがあった。その時、林の中に住んでいた一羽の雉(きじ=釈迦の前生)が、その火事を見て、自ら力を出して、火事を消そうとした。雉(きじ)は、飛んでいって水中に入り、自分の羽毛を水につけ、水のしずくでもって、大火を消そうとした。しかし火勢は大きく、水は少なかった。たびたび行き来して、疲れおとろえたが、しかし雉(きじ)は少しもそれを苦にしなかった。その時、天上の帝釈天(たいしゃくてん)がやって来て、雉(きじ)に聞いた「汝は何をしているのですか?」。雉(きじ)は、答えて言った「私がこの林を救おうとするのは、衆生(しゅじょう=いきもの)を哀れむからです。この林は木陰(こかげ)が広く、生物を育てるのに適しています。私の多くの種族や親族、さらに多くの衆生が皆ここを依(よ)り処として生活しています。私には身体の力があります。この火事を見て、怠(おこた)り、なまけて、林を助けないでおれましょうか?」。 (参考)
@帝釈天・・・梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一で、東方を守る。利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。ヒンズー教のインドラ神が仏教に取り入れられたものという。
        (ニ)
帝釈天は言った「汝は消火のために努(つと)め励(はげ)んで、どれだけの時間をつくすつもりですか?」。雉(きじ)が答えた「死ぬまでと決心しています」。帝釈天が言った「汝の心はそうであるとしても、誰がそれを知っているでしょうか」。そこで雉(きじ)は誓いを立てて言った「私の心は至誠であります。この信念が、もし空(むな)しくないならば、火は必ず消えるでしょう」。このとき、浄居(じようご)天の天人たちは、この雉(菩薩=釈迦のこと)の広大な誓いを知って、即座にその火を消した。古(いにし)えより今に至るまで、この林のみが常にうっそうと茂っており、火のために焼かれない。菩薩はこのような宿世(しゅくせ=過去の世)の実践において、なし難いことをよくなして、身命も、国も財産も、妻子も、さらに象馬も、七種の珍宝、自身の頭や目、骨髄までも、惜しまないで、つとめ施(ほどこ)して倦(う)むことがなかった。この倦まないことが「精進(しょうじん= 一つのことに精神を集中して励むこと)」である。
(参考)
@「浄居(じようご)天」・・・浄居天というのは、欲界・色界・無色界の三界の天があり、その中の色界の天が十八天ある内の、上部に位する五那含(なごん)天のことである。浄居天は雲上の高所に在って、大地を遠く離れる故に、ここのところまでは地上の災いが及ばず、ふたたび迷いの世界に戻ることのない悟りを得た聖者の住むという。
A雉(きじ)が答えた・・・キジはこう答えた「貴方は神々の王として偉大なる力を持ちながら、この災難を黙って見ている。助ける気もないのに、他人の揚げ足をとらないで下さい。私はキジの王として(仲間の暮らす)森を守るために命がけで力を尽くすだけですよ」と言う説もある。
B「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。
C(小話733)「山火事と小鳥」の話・・・を参照。


(小話852)「古代ギリシャの七賢人(番外1/1)、予言者で哲学者クノッソス(クノソス)のエピメニデス」の話・・・
        (一)
古代ギリシャ七賢人の一人とも言われたエピメニデスは、神々に愛され、神のことについて霊感的な知恵を持つ予言者であった。彼はクレタ人で、クノッソスの生まれだが、髪を長く垂らしていたので、その姿はクレタ人のようではなかった。彼はある日、父親の言いつけで迷った羊を探しに出かけ、昼の暑さに洞窟の中で眠り、ついに57年(又は47年)間、眠りつづけた。そのあと、彼は起き上がって羊を探しに行ったが、自分ではほんの短時間、眠ったつもりだった。しかし羊は見つからないままで帰り道についてみると、何もかもが変わってしまっていた。そこでエピメニデスは、すっかり困惑して町へ着いた。彼が誰であるか知りたがっている人たちに出会ったが、彼が父の家へ入って行くと、今はもう老人になっている弟を見つけて、その弟から事の真相をすべて知らされたのだった。紀元前600年頃、アテナイ(アテネ)でキュロンとその一味が僣主(せんしゅ)の座を狙ったが、彼らは神殿で殺された。神聖な場所を夥(おびただ)しい流血で汚されたと感じた市民は、その汚れを祓(はら)うためにクレタ出身の予言者エピメニデスをアテナイに招いた。彼がアテナイを浄(きよ)め疫病を食い止めた方法は、黒い羊と白い羊を手に入れて、アレイオス・パゴスで放し、好きな方向へ走らせて、それぞれの羊が横になるところでその土地に関係のある神々に犠牲を捧げる、というものであった。この時のエピメニデスの提案で、アテナイとクノッソスは同盟を結んだ。又、エピメニデスはアテナイ(アテネ)やスパルタ、クレタについていくつかの予言をおこない、家や畑を浄めたり神殿を建てたりした最初の人でもあった。エピメニデスは、アテナイで改革に着手していた七賢人の一人ソロンを友人として扱い、ソロンの葬式についての規定を作るのに、協力した。すなわち、(1)葬列には高価な食物や、高い篭を用いることを禁止したり、また悲しみを現わすために自分の体をかきむしったり、激しく泣いたり、また他人の葬儀に号泣することも禁じた。(2)死者のために牛を犠牲にしたり、三枚以上の服を副葬すること、葬送の時以外は他家の墓に行くことを禁じた。彼自身はアテナイで、宗教上の儀式を整え、神殿神像を建立し、アテナイ(アテネ)に神聖な習慣を取り入れて、人々を正義に服し協和に向かうようにさせた。エピメニデスが故郷に帰るとき、アテナイ市民は彼に一タラントンのお金とクレタへの船を提供しようとしたが、彼はオリーブの枝を一本所望しただけだった。彼が亡くなったときには157歳、または299歳になっていたという。彼の遺体はスパルタに保存された。
(参考)
@七賢人・・・ギリシャの7賢人とは、タレス・ソロン・ペリアンドロス・クレオブゥロス・ケイロン・ビアス・ピッタコス。(その他、アナカルシス・ミュソン・ペレキュデス・エピメニデスも入るという)
A57年(又は47年)間、眠りつづけた・・・ディオゲネス・ラエルティオス(紀元前3世紀前半頃に活躍した哲学史家)の記述より。
B僣主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
        (ニ)
エピメニデスの詩には「我らは神の中に生き、動き、存在する」とか「クレテ(クレタ)人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけものの食いしんぼう」がある。このエピメニデスの詩は新約聖書の「使徒行伝」で「我々はそのうちに生き、動き、存在しているのだから」と「テトスへの手紙」で「クレテ(クレタ)人のうちのある予言者が「クレテ(クレタ)人は、いつもうそつきたちの悪いけもの、なまけ者のくいしんぼう」と引用された。特に「テトスへの手紙」の「クレテ(クレタ)人は、いつもうそつきたちの悪いけもの、なまけ者のくいしんぼう」は「エピメニデスのパラドックス(逆説、又は矛盾)」(クレタ人のパラドックス)として名高い。このパラドックズには一つの前提があり、それは正しい事を言う人とは「いつも正しい事しか言わない人」であり、嘘つきとは「いつも嘘しか言わない人」の事である。その前提で(1)「クレタ人は嘘つきである」が本当なら、クレタ人であるエピメニデスも嘘つきであるはずで、従って「クレタ人は嘘つきである」という発言も嘘でなければならない。しかし(2)「クレタ人は嘘つきである」が嘘なら、クレタ人であるエピメニデスも正直者である事になる。従って彼の「クレタ人は嘘つきである」という発言も本当でなければならない(エピメニデスは正直者でなくなる)。
(参考)
@エピメニデスの詩・・・47年間もクレタ島の「ゼウスのための神聖な洞窟」に眠っていて、その後、予言の資質を得て目覚めたと伝えられる。次の詩文は、ミノス(クレタ島の王)から大神ゼウス(ギリシア神話ではミノスの父である)に宛てられたもので、エピメニデスのパラドックス(逆説)のもととなった。「彼らはあなたの為に墓を飾った。おお聖なる高き方よ。クレタ人はいつも嘘(うそ)吐き。邪悪な野獣で、怠惰な大食漢。しかし、あなたは亡くなりません。あなたは生きられ、永遠に住まわれる。何故なら、我らはあなたの内に生き、そして動き、そして我らは存在しています」。
A「使徒行伝」・・・「使徒行伝」17章28節(我々はそのうちに生き、動き、存在しているのだから。あなた方の詩人たちのある者たちもこう言っている通りです。我々もその子孫なのだから)。
B「テトスへの手紙」・・・「テトスへの手紙」1章12〜14節(クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつきたちの悪いけもの、なまけ者のくいしんぼう」と言っているが、この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、 ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい)。
Cパラドックス・・・「逆説」、「ジレンマ」、「矛盾」、「意図に反した結果」、「理論と現実のギャップ」等のこと。
(1)床屋のパラドックス=ある村の床屋は自分で髭(ひげ)を剃らない村人全員の髭だけを剃ることになっている。それではこの床屋自身の髭は誰が剃るのか?。
(2)張り紙禁止のパラドックス=「この壁に張り紙をしてはならない」という張り紙は許されるのか?。
(3)ライオンのパラドックス=あるライオンが冒険家の目の前に現れ「自分がこれから何をするか言い当てたら、お前を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、冒険家が「あなたは私を食うでしょう」といった。正解なら冒険家を食えない。不正解なら冒険家を食うが、食えば正解になるので食えない。
D「エピメニデスのパラドックス(逆説)」。このパラドックスの解釈は色々存在するが、簡単にパラドックスを回避する方法として、
(1)「多くのクレタ人は多くの場合、嘘をつく」と数少ない正直者のクレタ人が言った。このように解釈すると、パラドックスは解消する。
(2)「全てのクレタ人は、常に嘘をつく」とクレタ人のエピメニデスが言った。このように解釈すると、実は「クレタ人の中には、たまには本当の事をいう人がいる」のに、エピメニデスは嘘をついて「全てのクレタ人は、常に嘘をつく」と発言した。とすれば矛盾は生じず、パラドックスは生じない。
Eエピメニデスのパラドックス(逆説)・・・この初代の「嘘つきのパラドックス」は、1908年にバートランド・ラッセルが型理論についての論文で、この「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタの預言者が言った」という一節を有名にしたのである。(小話699)「ゼノンのパラドックス(逆説)と嘘つきのパラドックス(逆説)」の話・・・を参照。
「賢者エピメニデス」の絵はこちらへ


(小話851)「仏(ほとけ)の顔も三度。釈迦族の滅亡」の話・・・
       (一)
仏教の開祖の釈尊(しゃくそん)は、古代インドの釈迦族の出身であった。そして、釈迦族は政治的には弱小部族で、釈迦族の国である釈迦国は、近隣の大国のコーサラ国に従属していた。だが、文化の程度は、釈迦国のほうがコーサラ国より高かった。コーサラ国のパセーナディ(波斯匿)王は、釈尊を尊崇し、深く仏教に帰依していた。そこで彼は、妃(きさき)を釈迦国から迎えたいと願った。そして、使者を釈迦国のカピラ城に派遣した。コーサラ国の使者は「誰か貴族の女をよこせ。もし不承知ならば力ずくでも」と告げた。釈迦国の人々は憤慨したが、コーサラ国はとても相手にできる国ではなかった。そこで、ある富豪が下女に産ませた美女を、その富豪の嫡出子(ちゃくしゅつし)と偽って、パセーナディ王のもとに嫁入りさせた。カースト差別の激しい古代のインドにあって、これはまったくの暴挙であった。何も知らぬコーサラ国のパセーナディ王は、下女を第一夫人に迎え、そして、やがて太子が生まれた。瑠璃(ヴィドーダバ)太子であった。太子が八歳になった時、弓術を学ぶため母の故郷の釈迦国に留学させられた。新しくできた講堂で瑠璃太子が修行をしているのを見て、釈迦族の人々は「下女の子をなぜここに入れたのか?」と言って、太子の帰国後、彼のいた場所の床を削り、その下の土を七尺も掘って清浄な土と入れ換えた。このことを聞いた瑠璃太子は身を震わせて怒り、お付きのバラモンに「もし自分が王位についたら「釈迦族に辱(はずかし)められたことを思い出せ」と一日に一回、必ず私に言い聞かせよ」と命じた。
(参考)
@釈尊(しゃくそん)・・・釈迦の尊称で、本名はゴータマ・シッダッタ(瞿曇 悉達多)。釈迦牟尼、世尊、仏陀、ブッダ、如来ともいう。 Aコーサラ国・・・古代インドに形成され相互に争っていた諸国(十六大国)の一つで、その中でも最も有力な国の一つであり、もう一つの強国マガダとガンジス川流域の覇権を争った。コーサラ国の勢力範囲には釈迦族が居住していた。そのためこの国は、釈尊に冠する仏教説話の主要な舞台である。
B下女の子・・・古代インド社会はカースト制度(4種の階層=バラモン(祭司)・クシャトリヤ(王侯・武士)・バイシャ(平民)・シュードラ(隷属民))のため、召使いの子は召使いであった。
      (ニ)
やがて、コーサラ国のパセーナディ王が亡くなり、瑠璃(ヴィドーダバ)太子が王位に就いた。そして瑠璃王が、最初にやったことは、釈迦国への復讐であった。それほどに彼は、かつてひどい差別を受けたのであった。瑠璃王は、軍を率いて釈迦国に進撃した。ところが、そのことを耳にした釈尊は、コーサラ国から釈迦国につづく街道に行き、一本の枯れたチークの木(又はニグローダ樹=ベンガル菩提樹)の下で坐禅をした。街道を進軍してきたコーサラ国王は、釈尊の姿を見て丁重に挨拶した「世尊よ、ほかに青々と繁った木もございますのに、なぜ枯れ木の下に坐っておられるのですか?」。「王よ、親族の陰は涼しいものです」と釈尊は答えた。親族の陰とは、チークの木が釈迦族のシンボル的な樹(チーク樹は釈迦族発祥に関係していて、親族の象徴的なもの)であったためである。その言葉でもって、釈尊は故郷の釈迦国への愛情を表明した。それを聞いて、コーサラ国王は釈尊が釈迦族出身であることと「遠征のとき沙門(しゃもん=僧となって仏法を修める人)に会ったなら兵を返せ」という古い言い伝えを思い出して、その場から軍を引き返した。しかし、瑠璃(ヴィドーダバ)王の怒りは、それでおさまるものではなかった。しばらくして、彼は再び釈迦国へ進軍した。そのときも、釈尊が街道の枯れ木の下で坐禅していた。それで、瑠璃(ヴィドーダバ)王は、再び進軍を中止した。三度目、コーサラ国王が進軍し、そして坐禅する釈尊と出会った。けれども、それまでであった。四度目、コーサラ国王が軍を進めたとき、もはや釈尊の姿はどこにもなかった。瑠璃(ヴィドーダバ)王の率いる軍は釈迦国に雪崩(なだれ)込み、釈迦国の男女を殲滅(せんめつ=皆殺し)してしまった。この時、釈尊の弟子の目連(もくれん)が神通力で釈迦国を救おうとしたが、「釈迦族の積んだ業(ぎょう)の報いは、自ら受けるより仕方がない」と釈尊は止めた。釈尊は三度目までは、かつての故郷である釈迦国、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力したが、四度目には因果応報の理(ことわり)にまかせた。この為、釈迦族は瑠璃(ヴィドーダバ)王の為に滅亡したが、瑠璃(ヴィドーダバ)王もまた帰国後、舟遊びの時に突風が起こって兵と共に水没したという。
(参考)
@瑠璃王・・・コーサラ国の瑠璃(ヴィドーダバ)王が釈迦族を攻め滅ぼしたとき、王の母(釈迦族の富豪の下女)の父マハーナーマは釈迦族の一員であり、釈迦族の悲惨な姿を悲しみ、孫である瑠璃王のもとへやって来て、殺戮はやめるよう頼んだ。だが、瑠璃王は「自分を罵った釈迦族を許すわけにはいかない。だが、あなたの一族だけは許すから、早くここから出て行くがよい」と答えた。それに対してマハーナーマは「私が池に潜(もぐ)っている間、せめてその間だけでも釈迦族がここから逃げるのを許して欲しい」と言って、彼は水中に入り、そのままいつまで経っても水中から出て来なかった。不思議に思った王が水底を調べさせると、彼は頭髪を木の根に縛り付け、既に死んでいた。この事を知った瑠璃王は「マハーナーマは親族を愛していたからこそ、自分の身を犠牲にしたのだ。釈迦族を攻めたのは間違いだった」とはじめて悔恨(かいこん)の心が生じたという。
A瑠璃(ヴィドーダバ)王の率いる軍は釈迦国・・・釈尊は、釈迦国の人々に瑠璃王の軍隊と戦うことを禁じた。また弟子の目連(もくれん)が神通力を使うことも許さなかった。釈尊は「釈迦族の人々はむかし漁に行って魚をたくさん殺したことがあった。また村人を傷つけたこともあった、そのために今報いを受けたのだ。罪を犯した者は、たとえ一時的には助かっても、その報いを受ける日がいつかは必ずやって来る。だから悲しくとも私は耐えて業報の終わるのを祈っていたのだ」と語った。
B目連 (もくれん)・・・神通第一。舎利弗(智慧第一)とともに仏(釈尊)弟子となった。目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が「盂蘭盆会 」(うらぼんえ)の起源になった。(注)神通とは普通では見たり、聞いたり、感じたり出来ないことを感じ取る超人的な能力のこと。
Cこの故事をもって、「仏の顔も三度(「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」の略)の諺(ことわざ)が出来たという。人間の努力や忍耐に限度のあることを教えた言葉である。又、仏様のような温厚な人であっても、顔を逆(さか)なでするような無法なことを三度もされると、ついには腹を立てるという意味に使われている。類似語=地蔵の顔も三度。仏の顔も日に三度。兎も七日弄れば噛み付く。
「チーク樹」の絵はこちらへ


(小話850)「イソップ寓話集20/20(その30)」の話・・・
     (一)「ヒツジ飼とイヌ」
夕方、ヒツジ飼いは、囲いの中にヒツジを入れて、オオカミの害から守ろうとしていた。と、その時、イヌが、ヒツジの群に紛れ込もうとしているオオカミに気付いてこう言った。「ご主人様、オオカミを囲いの中に入れてしまったら、ヒツジたちは皆食われちまいますよ」。
     (ニ)「ランプ」
しこたまオイルをくらって、酔っぱらったランプは、めらめらと明るく燃えながら、自分は、太陽よりも明るいと自慢した。と、その時、一陣の風が巻き起こり、ランプは、パッと消えてしまった。するとランプの持ち主がこう言った。「もう自慢などするんじゃないよ。今後は、黙って、光っておいで。星だって、消えたりしないのだからね」
     (三)「牡ウシと雌のライオンとイノシシ狩りをする猟師」
牡ウシが、眠っているライオンの子を見つけて、角(つの)で突いて殺した。戻ってきた母親は、子供の痛ましい亡骸(なきがら)を見て、嘆き悲しんだ。すると、イノシシ狩りに来ていた猟師がそれを見て、少し離れた所からこう言った。「考えてみなさいな。どれほどの人々が、子供を失って悲しんだことか。皆、あなたに殺されたんだよ」


(小話849)「オイカリアーの美しい姉妹。そして、樹木になった姉のドリュオペ」の話・・・
           (一)
ギシシャ神話より。オイカリアーの王エウリュトスの王女ドリュオペは、オイカリアーの女たちの中で最も美しいと言われた。ドリュオペには、イオレという妹がいた。姉のドリュオペは、アンドライモンと結婚し、男の子供をもうけて幸せに暮らしていた。ある日、ドリュオペは、まだ生後一年に満たないかわいい赤ん坊を抱いて妹のイオレと共に、高地のギンバイカが一面におい茂っている間を、徐々に水際に傾いた流れの岸に歩いて行った。姉妹は妖精たちの祭壇に捧げる花輪を作るために花を集めるつもりだった。水辺の近くには、紫色の花をいっぱい咲かせた一本の美しい蓮(はす=ロートス)が生えていた。ドリュオペは、息子を喜ばせようと蓮の花を少し取って赤ん坊にやったので、イオレも同じく花を取ろうとした。ところが、姉が手折った花からは血の雫(しずく)が滴(た)れおち、枝は恐怖で震えていた。この蓮はローティスという名の美しいニンフ(妖精)が、生殖の神プリアポス(愛と美の女神アフロディーテと酒神ディオニュソスの子)から逃れて身を変じていたのだった。ドリュオペとイオレがその話しを村人から教わった時は、もう後の祭りであった。ドリュオペは大変な事をしてしまったと空恐ろしくなり、急いでその場を去ろうとしたが、既に足は根づいており動くことが出来なかった。次第にその身は樹皮に覆われていった。温かくやわらかだった母親の乳房が、冷たく硬くなっていくために赤ん坊は泣き叫んだ。イオレは姉の悲しい運命を見て、植物に身を変えてゆく姉をさえぎり止めようと、泣きながら樹の幹に抱きついた。そしてイオレは、何も出来ない自分を責めた。そんな時、ドリュオペの父と夫のアンドライモンがその場を通りかかった。アンドライモンが妻のドリュオペの行方を尋ねると、イオレは新しく出来た樹木を指し示した。彼らはまだ暖かい樹の幹に抱きつき、嘆いた。
(参考)
@蓮(ロートス)・・・食べると家や故郷のことを忘れ、夢見心地になるという果実。ロートス(あるいはロータス)自体は、神話上の植物だが、その姿に似ているとことから「ナツメの木」をいうこともあり、「蓮」「スイレン」という意味もある。
「ドリュオペ」(不明)の絵はこちらへ
           (ニ)
その時、ドリュオペの面影として残っているのはただ顔だけで、顔以外は樹皮になっていた。静寂が流れた。彼女は葉の上に涙を落した。そして彼女は、まだ話しが出来る間に最愛の人たちに話しかけた「私は無罪です。私はこういう運命を受けるべきはずがありません。私は誰も傷つけたことはありませんでした。もし、私の申す事が間違っているなら、私の葉を日照りで枯らして尽くしてもかまいません。幹を伐り倒して焼いてしまってかまいません。さぁ、坊やを取って乳母にやって下さい。坊やが物心がついて口がきけるようになったら、母さんはこの樹の皮の中に隠れているのだと教えてやって下さい。そして、私の日陰で遊ばせてやって下さい。でも、この川岸にはよく気をつけて下さい。どの草むらも皆、女神やニンフがその身を変えたものだという事を心がけて、花を摘ませないようによく注意して下さい。では、さようなら。愛(いと)しい夫よ、妹よ、お父様。もしあなた方がまだ少しでも私を可愛いく思ってくれるなら、斧で傷つけたり、また鳥の群に枝を噛んだり裂いたりさせないで下さい。私はとても屈めませんから、ここまでよじ登って接吻して下さい。私の唇に覚えがある限り、坊やに接吻出来るようにずっと差し上げていて下さい。私はこれ以上話すことができません、なぜならば、すでに、樹皮が私の首の上に進んで、やがて私の目を閉じます」。こうしてドリュオペの唇の動きが止むと同時に、彼女の生命は終わた。そして、ドリュオペはそのまま完全に樹木になってしまった。
(参考)
@ドリュオペはそのまま完全に樹木・・・・別のドリュオペの話(その1)木のニンフ(妖精)たちは、ドリュオプス王の娘ドリュオペを大変気に入り、仲間にして歌や踊りを教えた。踊っているドリュオペを見て太陽神アポロンは恋し、まず亀に身を変じた。ドリュオペはニンフたちと亀で遊び、ドリュオペは亀をふところに入れた。するとアポロン神は亀から蛇に身を変じた。ニンフは脅えドリュオペを見捨てて逃げ、アポロン神はドリュオペと交わった。そして、アポロン神の息子アムピッソスが生れた。アムピッソスはドリュオピスの地に太陽神アポロンの聖域を建てた。ある日、ドリュオペは神殿の側に行くと、木のニンフたちが親しみをこめて回りに集まり、ドリュオペを森に隠し、ドリュオペの代わりに一本のポプラの木を地から生えさせ、脇には泉を涌(わ)き起こさせた。こうしてドリュオペは、人間からニンフになった。息子のアムピッソスは母へ敬愛をこめてニンフを崇(あが)める寺院を作り、そこで徒競走(ときょうそう=かけっこ)を開催することにした。ドリュオペはニンフに拉致されたという理由で、女性は立ち寄るべきではないと言いふらした乙女たちは、ニンフの怒りを買い松の木に変えられたという。(その2)ドリュオプス王の娘の姉妹ドリュオペとイオレは、祭壇にお供えする花を摘むため野原に出向くと、川辺にレンゲソウの花が咲いていた。ドリュオペが、そのレンゲソウを摘んだところ折った茎から血が流れはじめた。このレンゲソウは、ローティスという美しいニンフ(妖精)が好色な男根の神(生殖の神)プリアポスから逃れるためにレンゲソウの姿に変えていたレンゲソウであった。ドリュオペは驚き、レンゲソウを捨てて、逃げようとしたが、いつの間にかドリュオペの足は草に変わり、根が張りだんだん草に変わっていった。ドリュオペは、妹のイオレに向かって「もうこれからは花は摘まないで、なぜなら、すべての花は女神が姿を変えたものだから」という言葉を残し、ドリュオペとしての生命を終え、レンゲソウになってしまった。
「ロートスに変身したドリュオペ」(不明)の絵はこちらへ
「ドリュオペとロートス(ナツメの一種)」(不明)の絵はこちらへ


(小話848-1)「夢占いと二人の弟子(仰山と香厳)と「撃竹大悟(げきちくたいご)」と桃花悟道(とうかごどう)」の話・・・
       (一)
昔、中国は唐の時代、い(さんずいに爲という字)山霊祐(いさんれいゆう)という偉い禅僧がいた。この、い山禅師がある日、横になって昼寝をしていると、弟子の仰山(ぎょうざん)和尚がやって来た。い山禅師は寝返りをうって壁の方を向いた。仰山は「私は弟子です。そのままにどうぞ」と言って部屋を出てゆこうとした。い山禅師はむっくりと起き上がりながら、「仰山(ぎょうざん)!」と呼びとめた。仰山が「ハイ」と返事して向き直ると、い山禅師は「わしはいま夢を見ていたんじゃが、どんな夢か当ててみよ」と言った。仰山が「ハイ」と返事して部屋を出てゆき、盥(たらい)に冷たい水をみたして持って来て、一本の手拭(てふ)きを添えて置き、一礼して立ち去った。い山禅師は洗面し、気持ちよさそうに自分の座についた。そこへ今度は、いま一人の弟子の香厳(きょうげん)和尚がやって来た。い山禅師は香厳に「いま、仰山と夢占いをしていたところじゃが、どうだ、お前もいっしょにやらんか」と言った。すると香厳は、これまた部屋を出ていったかと思うと、茶をたてて来て、い山禅師に差し出した。い山禅師はうまそうに茶を一服すすり「二人の神通力と智慧(ちえ)は、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)、神通第一の目連(もくれん)よりも優れていると」と、大いにほめた。
(参考)
@神通・・・神通とは、不思議な力、自由自在な通力という事で、以心伝心の事でもある。
A智慧第一の舎利弗、神通第一の目連・・・舎利弗 は智慧第一。「般若心経」では仏の説法の相手として登場する。目連 は神通第一。舎利弗とともに仏弟子となった。目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が「盂蘭盆会 」(うらぼんえ)の起源になった。神通とは普通では見たり、聞いたり、感じたり出来ないことを感じ取る超人的な能力のこと。(小話289-1)「釈迦の十大弟子 (じゅうだいでし)」の話・・・を参照。
B道元禅師の「正法眼蔵神通」より。
       (ニ)
中国は唐の末期に大いに禅風を興した香厳(きょうげん)禅師という名僧がいた。香厳は幼少の頃から聡明で多くの教典を読み、師匠も舌を巻くほどの博識であった。初め百丈禅師に師事したが、百丈が亡くなったので香厳は、い(さんずいに爲という字)山霊祐(いさんれいゆう)禅師の道風を慕い、その道場に参じた。い山禅師は香厳の並々ならぬ素質を認めて、親切に導いた。ある時、い山禅師は次のような公案(こうあん=禅宗で、修行者が悟りを開くために与えられる問題)を出して香厳に尋ねた「わたしはお前が経典から学んだことや、今まで積み重ねてきた思索や学問などは一切聞きたくない。お前が生まれる前の自分とは、どのようなものだったか?」と問うた。香厳は茫然として何も答えることが出来なかった。その後、熱心に修行をするが、ついに精根尽き果てた香厳は、い山禅師の前に出て「何とかご教示頂きたい」と哀願した。しかし、い山禅師は「もし、わたしがお前のために説いてやったとしても、それはわたしの言葉であってお前の見解には何の役に立たない」と言って彼の懇願に全く取り合わなかった。失望落胆した香厳は「画にかいた餅は飢えを満たしはしない」と言って、長年、勉強してきた書物やノートを全部焼き捨ててしまった。そして、南陽へ行き、慧忠(えちゅう)国師が修行した遺跡を尋ね、そこの寺に止まって何年か、毎日毎日、寺の庭掃除をして暮らしていた。そうしたある日、庭の掃除をしていた時、箒(ほうき)に飛ばされた小石が竹にあたって音を立てた。そのカチーンという音を聞いたとき、一撃のもとに生まれてから習いおぼえたすべてのことを忘れ、たちまち本分の事を悟り得た。香厳はすぐに庵にとって返して沐浴し、い山禅師の住む方角に向かって礼拝して言った「禅師の大悲の恩は父母に超えたり。あのとき私のために説いていたなら、なんで今日の喜びがあるだろう」。
「撃竹大悟(げきちくたいご)」(香厳禅師)
一撃所知を亡ず(一撃の音で、習い覚えたものを忘れた)
更に自ら修治せず(そっくりそのまま頂くだけ)
動容古路を揚ぐ(日常生活に真実実践)
悄然の機に堕さず(がっかりする必要なし)
処処蹤跡無し(どんな所も、尽十方界(じんじっぽうかい=全宇宙))
声色外の威儀(感覚を超えた生命の姿)
諸方達道の者(諸方の真実実践者は)
咸く上上の機と言う (皆、それが尽十方界、真実の在り方と言う)
こうして、香厳禅師は、知識や頭の良さが邪魔して、悟りが開けなかったことを自分が経験したので、修行者が理屈倒れにならないよう親切に指導した。ある日の説法で香厳禅師が言った「千尺の崖の上で木の枝を口にくわえ、手足をすべて放して口だけでぶら下がっている時、仏法の極意を尋ねる人があったならば、どのように答えたらよいか。口を開けばたちまち墜落して喪身失命(そうしんしつみょう=(身を喪い命を失う))し、答えなければ不親切である。さあ、どうする。口を開かなくても、仏法の極意を伝えることはできるはずだ」。
(参考)
@仏法の極意・・・追いこまれ、追いこまれて、絶体絶命の中で私たちは一変する。この、一変することが、禅では大事なのだと言われる。無門関・第5則。香巖上樹(きょうげんきにのぼる)より。
A小石が竹にあたって・・・(小話640)「香厳(きょうげん)禅師の悟り」の話・・・参考。
       (三)
中国は唐の時代の霊雲志勤(れいうんしごん)禅師は、三十年来、修行遍歴を重ねて来た。ある日、行脚の途中、山を越えて峠に出た時に眼前に広がる桃の花の美しさを見て目が覚めた。小さな自己を打ち破って自己本来の面目を知って大悟したという。
「桃花悟道(とうかごどう)」(霊雲禅師)
三十年来剣を尋ぬる客(三十年の間、剣の使い手を探し求めた)
幾回りか葉落ち又枝を抽ず(毎年、毎年、葉は落ちまた枝は伸びた)
一たび桃華を見し自従り後(一度、桃華(尽十方界真実)に覚めてから)
直に如今に至て更に疑わず(ずっと今まで、真実を疑うことがない)
(参考)
@山を越えて・・・別の話では、霊雲志勤禅師は、自分探しの旅に出てあちらこちらと探し求めるうちに、偶然、山深く分け入った里で悟ることができた。その里というのは以前から慣れ親しんだ自分の故郷であったという。


(小話848)「古代ギリシャの七賢人(その7)、リンドスの叙情的な詩人で僭主(せんしゅ)クレオブゥロス」の話・・・
           (一)
古代ギリシャ七賢人の一人である僭主クレオブゥロス(クレオブロス)は、エジプトで哲学を勉強して故郷に帰り、紀元前6世紀の前半には、ロードス島の南部の地リンドスを四十年の間、支配した。その頃、いくつかの植民地が地中海にあって、カミロス、イアリンス、リンドスの三つの都市が栄え、特にリンドスは強大な都市国家と恐るべき海軍力を有していた。穏健な僭主クレオブゥロスは、新しい寺院を建設したり、山岩を通して掘られた地下水道を建設した。彼は多数の勝利から、神殿の女神像の前に多くの貢物を捧げた。又、彼は、生来の逞しく美しい身体で、数回オリンピックの勝者として名を馳(は)せた。クレオブゥロスはアクロポリス(都市国家の中心部となる丘)にある、ダナオスによって造られたミネルバ(アテナ)の神殿を復旧したと言われる。特筆すべきは、クレオブゥロスが女性の教育に関して進歩的な考え持っていたことである。クレオブゥロスの娘クレオブゥリネーは、エレゲイオン調詩(ニ行からなる形式で、ニ行だけの短い詩もあれば、このニ行を繰り返す長いものもある)の謎かけ女流詩人として当時、有名であった。リンドスの僭主クレオブゥロスは、70歳で死んだ。
(参考)
@僣主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
A七賢人・・・ギリシアの7賢人とは、タレス・ソロン・ペリアンドロス・クレオブゥロス・ケイロン・ビアス・ピッタコス。(その他、アナカルシス・ミュソン・ペレキュデス・エピメニデスも入るという)
           (ニ)
賢者クレオブゥロス(クレオブロス)は、次のようなアフォリズム(格言)を後世に残している。
(1)適度は、最も良いです(節度が最善である)。
(2)何か良いものに心をけしかけてください。
(3)軽はずみであるか、失礼にならないでください。
(4)少女は、少年と同様に教育される必要があります。
(5)幸運に恵まれても、傲慢であってはならない。
(6)体操を練習してください。
(7)話すことでより、むしろ聞くことで好きにしてください。
(8)逆境に陥っても、卑屈になってはならない。
(9)不吉な言葉を控えてください。
(10)美徳を捜して、悪徳を避けてください。
(11)不正を避けてください。
(12)何も無理矢理のことをしないでください。
(13)喧嘩の後、和解の準備をしてください。
(14)繁栄では、横柄にしないでください。
(参考)
「賢者クレオブゥロス」の絵はこちらへ


(小話847-1)「(ジャータカ物語)帝釈天(たいしゃくてん)と三匹の獣(猿と狐と兎)」の話・・・
      (一)
遠い昔、インドの、とある山里に猿と狐(きつね)と兎(うさぎ)が棲(す)んでいた。三匹ともに親も兄弟もなく、それぞれ一人ぼっちで、そのため三匹は仲がよく、いつも助け合って生活していた。「僕たちは前世、人間として生まれながら、困っている人たちを助けることもせず、悪いことばかり重ねたために、死んで地獄に落とされて苦痛を受け、今また獣(けもの)として生きることになってしまった。何か世の中の役に立つことをしなければ、次の世にも人間には戻れない」。この猿の言葉に狐も兎も頷(うなず)いて「本当にそうだ。でも何をしたらいいのだろう」。この三匹の話を天上界の帝釈天(たいしゃくてん)が聞いていて「この者どもは獣の身ながら有難い心の持ち主ではないか。人の身に生まれても、あるいは殺人を犯したり、盗みをはたらいたり、親を殺し、兄弟を仇(かたき)のように憎しみ、あるいは笑みをたたえながら悪だくみをしたり、恋するように振舞いながら怒りの心を蔵していたりする。いわんや、このような獣においてまことの心が深いとは思い難い。しからば彼らの心を試してみよう」と思い、帝釈天は一人の老人に姿を変えて、菩提樹の根方に倒れ伏していた。丁度そこへ三匹が通りかかった。
(参考)
@帝釈天(たいしゃくてん)・・・梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一で、東方を守る。利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。
      (ニ)
「おじいさん、どうなされたのですか」「わしは年老(としお)い、妻も子も無いし貧しくて食べ物も無い。聞けば、汝たち三匹の獣には深い哀れみの心があるという。わしを養ってはくれまいか」と弱々しく言う帝釈天に三匹は驚いて「それはお気の毒に。人助けすることこそ僕たちの願いです。待っていてください」というと、森のうちへと駆け入った。猿は木に登って栗などの木の実を集め、里へ出ては瓜(うり)や茄子(なす)など野菜のを持ってきて老人に食べさせた。狐は狐で墓に祭ってあった供物(くもつ)の飯、魚貝類などを集めて来た。ところが兎のみは臆病で、老人のための食糧を持ってくることが出来ないでいた。そんな兎に猿と狐は「お前は何も出来ないではないか?。皆で誓ったことを忘れたのか!」と責めた。兎はただうなだれているばかりだった。「僕は駄目だ。僕には勇気が無い。里に出るのが怖い」。兎は何度も里へ行こうとしたがやはり駄目だった。「猿と狐の二匹の獣には深い慈悲の心がある。彼らは既に菩薩(ぼさつ)じゃ」と老人の呟(つぶや)きを聞いて兎は勇気を奮い起こして野山へ出たが、やはり怖くて何も取れずに引き返してきた。兎は考えた。「僕は情けない。生きている値打ちが無い。僕の体が人に捕まったり、他の獣に食われたりするくらいなら、この老人に食べさせてあげるほうが良いのではないか」。そして猿と狐に「もう一度行ってくる。今度は必ず食べ物を持ち帰るから、木を拾って火を焚(た)いて待っていてくれ」と言って外へ向かった。早速、猿が薪を拾い集め、狐は火を点(つ)けて兎の帰りを待った。暫(しばら)く経って兎は手ぶらで戻ってきた。「なんだ。食べ物を持ってくるといっていたくせに、お前が火に暖まりたいだけの作り話だったのか」と猿と狐がなじると、兎は老人に向かい「僕は非力なので食糧を求める力が無いのです。変わりに僕の体を食べてください」と言うや、皆が静止する暇もなく、炎(ほのう)の中に身を躍らせた。「お前、そこまでして……」と狐と猿は慟哭した。そのときに老人は帝釈天の姿に戻って兎の屍(しかばね)を炎の中から月に移し、この兎の尊い死を一切の衆生に見せようと、月のなかに閉じ込めたのであった。月の面に雲がかかったように見えるのは、兎の体が焼けた時の煙だという。
(参考)
@三匹の獣・・・ウサギ、サル、山イヌ、カワウソという説やウサギ、サル、キツネ、カワウソという説もある。仏典では、この後、ウサギが釈迦に生まれ変わる形もある。(小話72)有名な「月と兎」の話・・・を参考。
A菩薩(ぼさつ)・・・仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者。大乗仏教(自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとするもの)がおこると、将来、仏になる者の意で用いられるようになった。
B「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。
C江戸時代の禅僧の良寛が長歌。
「月の兎」
石の上、古(ふり)にしみ世に、有(あり)と云ふ。猿(まし)と兎(をさぎ)と狐(きつに)とが、友を結びて、朝(あした)には、野(ぬ)山に遊(あそび)、夕には、林に帰(かえり)、かくしつつ、年のへぬれば、久方の、天の帝(みかど)の、聴(きき)まして其(そ)が実(まこと)を、知(しら)むとて、翁(おきな)となりて、そが許(もと)に、よろぼひ行(いき)て、まうすらく、汝等(なむたち)たぐひを、異にして、同じ心に遊ぶてふ、信(まこ)と聞(きき)しが、如(ごと)あらば、翁(おきな)が飢(うえ)を、救へとて、杖を投(なげ)て、息(いこ)ひしに、やすきこととて、ややありて、猿はうしろの林より、草(このみ)を拾ひて来(きた)りたり。狐は前のかはらより、魚をくわひて与へたり。兎は、あたりに飛び、飛(とべ)ど、なにもものせで、ありければ、兎は心、異なりと、罵(ののし)りければ、はかなしや、兎計(はか)りて、まうすらく、猿は柴(しば)を、かりてこよ、狐は之を、焼てたべ、言ふが如(ごと)に、為(なし)ければ、燗(けぶり)の中に、身を投げて、しらぬ翁(おきな)に与けり。翁は是を、見(みる)よりも、心もしぬに、久方の、天を仰ぎて、うち泣て、土にたおりて、ややありて、胸打叩(たたき)、まうすらく、汝等みたりの、友だちは、いづれ劣ると。なけれども、兎は殊に、やさしとて、骸(むくろ)を抱(かかえ)て、ひさかたの、月の宮にぞ、葬(ほふり)ける。今の世までも、語継(かたりつぎ)、月の兎と、いふことは、是が由にてありけると、聞(きく)吾(われ)さへも、白たえの、衣の袖は、とほりてぬれぬ。
(現代訳)
ずっと昔のこと、猿と兎と狐が共に暮らそうと約束し、朝には一緒に野山をかけ回り、夕方には林に帰り仲よく暮らしてた。こうして年月が過ぎ、天帝がそのことを聞き、それが事実かどうか知りたいと、老人に姿を変えて現われ、よろめき倒れながら「お前たちは異類なのに仲よく過ごしているというが、それが本当ならば、私の空腹をどうか救ってくれ」と杖を投げ出し座りこんだ。猿は「それは、たやすいことです」と林の中から木の実を拾い帰ってくる。狐は川原から魚をくわえて老人に与える。兎は飛び回ってはみたものの、何も手に入れることができず帰ってきた。老人が「お前は気持ちが他の者と違って思いやりがない」と兎を叱ったので、かわいそうに、兎は心の中で考えた末「猿さんは柴(しば)を刈って来てください。狐さんはそれを燃やしてくださいな」と云う。二匹が言われた通りにしたところ、兎は炎の中に飛びこんで焼け焦げ、親しくもない老人に自分の肉を与えた。老人はその姿を見て心もしおれるばかりに天を仰いで涙を流し、地面に倒れ伏したと。しばらくして、胸をたたきながら「お前たち三匹の友だちは、誰が劣るというのではないが、兎は特に心がやさしい」と言った。天帝は兎のなきがらを抱き、月の世界の宮殿に葬ってやった。今現在も語りつがれ「月の兎」と呼ぶことは、こんないわれであったのだと。聞いた私までも、感動のため墨染めの衣(ころも)のそでが涙でしみ通ってぬれてしまった。


(小話847)「スコットランドの美しき女王メアリー・スチュワート。その恋多き波乱の短い生涯」の話・・・
           (一)
「生まれながら(わずか生後6日)の女王」「悲劇(悲運)の女王」「一つの島に二人の女王(メアリーとエリザベス)」「恋に生きた女王」などと言われたスコットランドの女王メアリー・スチュワートは、時代に翻弄された女王であった。時は1542年11月、ブリテン半島統一を口実に、前々からスコットランドを狙っていた隣国のイングランド国王ヘンリー8世は、国境線を侵犯した。迎え撃ったスコットランド王ジェームス5世は、味方の裏切りによってあっけなく大敗した。その時、臨月(りんげつ=産みづき)を迎えていた王妃マリー・ド・ギーズは1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子としてメアリー・スチュワートを生んだ。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、メアリーは、わずか生後6日でスコットランド女王(国王)になった。その頃、森と湖の国スコットランドでは、宗教対立が政治に深く結びつき「親フランス派=カトリック(旧教徒)」と「親イングランド派=プロテスタント(新教徒)」が勢力争いをしていた。最初に幼い女王の摂政となったアラン伯は親英派(プロテスタント=新教徒)であった。アラン伯を支援していたイングランド国王ヘンリー8世は、自分の息子エドワード(後の6世。メアリより5つ年上)と女王メアリーとの結婚話を持ち出してきた。7月、スコットランドとイングランド両国間にグリニッジ条約が締結され、幼いメアリーとエドワードの婚約が取り決められた。しかし、アラン伯は国内の親フランス派と妥協して、12月にグリニッジ条約の破棄を宣言して女王メアリーとエドワードの婚約を取り消し、つづいて起こった親イングランド派の蜂起を鎮(しず)めてしまった。この報を受けたヘンリー8世は激怒し、幼い女王を奪ってわが子エドワードの嫁にしようと、再びスコットランドに侵略して来た。今回は防ぐ者もなく、首都エジンバラは英国兵の手で破壊され尽くした。追いつめられたメアリーの母マリー皇太后は、娘を人目に付かない辺鄙(へんぴ)な修道院に隠し、5歳まで育てた後、自分がフランス(フランスとスコットランドとは、イングランドの敵同士ということで関係が深かった)の出身だったこともあって、密(ひそ)かにフランスへと落ち延びさせた。メアリーをフランスで待っていたのは、形式的に婚約を交わしていた1歳年下のフランソワ皇太子と、その両親であるフランス国王夫妻だった。フランス国王アンリー2世はメアリーを「小さな女王ちゃん」といい、王妃のカトリーヌ・ド・メディチもメアリーを気に入って可愛がった。16世紀なかばのフランス宮廷は、数多くあるヨーロッパの宮廷の中でも、最も洗練された華やかな宮廷であった。イタリアで始まったルネサンスがフランスでも花開き、中世の騎士道精神とルネサンスの華麗な古典文化が一つになり、絢爛(けんらん)たる宮廷文化が咲き誇っていた。この様な宮廷に登場した幼いメアリーは、その愛らしさ、物怖(ものお)じしない朗らかさで周囲を魅了しながら、未来のフランス王妃としての教育を受けて成長していった。フランス語、イタリヤ語、スペイン語はいうにおよばずラテン語、ギリシャ語などにも秀(ひい)でていた。文芸の才能と共に刺繍をすれば一流の作品となり、馬に乗れば男性顔負けの手綱さばきを見せた。義父となるフランス国王アンリー2世に「こんな完璧な子どもはかって見たことがない」と言わしめる成長ぶりで、15歳になる頃には「フランス宮廷の華(はな)」とうたわれるに至った。
(参考)
@刺繍をすれば一流・・・メアリーのフランス仕込みの刺繍や手製の作品は一流で、彼女がエリザベス女王に贈ったタペストリーは卓越した技術といわれている。大きな猫の前に小さなネズミが驚き怖れている図柄は、猫がエリザベス、哀れなネズミは自分であると訴えているという。
「ブリテン島(イングランドとスコットランド)の地図」の絵はこちらへ
「13歳のメアリー・スチュワート」の絵はこちらへ
           (ニ)
1558年(15歳)4月、メアリーはフランス皇太子フランソワと結婚した。同年11月17日にジェームズ5世の従妹に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、メアリーの義父、フランス国王アンリー2世は「庶子であるエリザベスよりも、ヘンリ7世の嫡流(メアリーの父方の祖母マーガレットはへンリ7世の娘)であるメアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議した。これには女王となったばかりのエリザベス1世も激怒した。それから一年半後、フランス国王アンリー2世は騎馬試合中の事故で急死した。メアリーの夫フランソワは1559年(16歳)7月に国王フランソワ2世になり、彼女はフランス王妃となった。だが、病弱だった彼は1年半後に16歳で病死してしまった。二人の間には子供がなかったので、夫が亡くなった以上メアリーがフランスに滞在することは、フランス王家側としては好ましくなかった。その上、メアリーの母のマリー・ド・ギーズが亡くなり、故郷のスコットランドに帰国せざるをえなくなった。1561年(18歳)8月、エジンバラの外港リースに2隻のガレー船が到着し、メアリーはスコットランド女王として13年ぶりに故国の地に降り立った。フランスとの関係が深いメアリーは、熱心なカトリック教徒(旧教徒)であったが、一方、当時のスコットランドは既にプロテスタント(新教徒)の勢力が優勢であった。これに政治抗争が加わり、長くスコットランドを離れていたカトリック(旧教徒)のメアリー女王に対する風当たりは厳しかった。しかしメアリーの若さと美しさ、穏やかな人柄は人々の心をつかみ「女王の宗教は歓迎しないが、女王は大歓迎」と受け入れられ、メアリー自身もカトリックでありながらもプロテスタントの権利を保証し、さらにプロテスタントの有力貴族マリ伯ジェームズ・スチュアート(メアリーの異母兄)を任用するという度量の広さを示した。フランスの宮廷で最高の教育をうけ、若く美しく、陽気で馬術にもたけたメアリー女王は暇を見つけては王国の各地を巡回した。馬上で颯爽(さっそう)と軍勢を率いる彼女の勇姿は人々を魅了してやまず、日頃は反目ばかりの貴族たちも女王の「何か人を魅(み)する魔力」の前に結束した。そんな折、一つの事件が起こった。メアリーのスコットランド帰国に従った家来の一人で、得意の詩作で女王を讃美して、その寵愛を得ていたシャトラールという男が、大胆にも女王の寝室に忍び込んで捕えられた。当然、彼は不敬罪に問われ、死刑を宣告されたものの、少しの後悔の色もなく、断頭台の上からメアリーの宮殿に向って「さらば女王よ! 最も愛すべき女王よ! 最も残酷なる女王よ ! 」と叫んで首を刎(はね)ねられた。こうした中でメアリー女王は、自分と同じスチュアート家の血筋をひき、家柄も申し分ないダーンリー卿という20才の見栄ばえはいいが節操のない傲慢なイングランド貴族に心を引かれた。そして周囲が止めるのも聞かず、出会って5ヶ月目、1565年(22歳)7月に再婚をした。この再婚にイングランドのエリザベス1世は、メアリーと同じくイングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れた。この結婚は後々、軽率な判断だったと非難されるものであった。1565年(22歳)8月1日、マリ伯(メアリーの異母兄)がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリー女王に反乱を起こした。だが、イングランドからの援軍は現われず、ボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンが率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。翌年、マリ伯は反乱についてメアリー女王に謝罪し、許されてスコットランド帰国して、以前、同様メアリー女王に重用されることになった。その頃メアリーは、夫のダーンリー卿の横暴な振る舞いと王位を求める野心にすっかり愛想を尽かしてしまった。傷心の彼女を慰めたのが、イタリア人の有能な秘書官リッチオだった。しかし、メアリー女王に寵愛される秘書官リッチオに、ダーンリー卿が嫉妬し、またリッチオの影響力が増すことを恐れた貴族たちも加担して謀反が起こり、ついに1566年(23歳)3月、メアリーの目前でリッチオは惨殺された。
(参考)
@リッチオ殺害事件・・・1566年3月9日、ホリールード宮殿でメアリーとリッチオが食事をとっているとき、武器を手にした数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きた。メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日、無事に息子ジェームズを出産した。
Aエリザベス1世がイングランド女王・・・イングランドのエリザベスはメアリーより9才年長であったが、2才8ケ月で母アン・ブリン(王妃アン・ブリンが男の子を産めなかったので、あてのはずれたヘンリー8世は次の女と結婚するために姦通という濡れ衣を無理矢理着せて彼女を処刑。3年足らずの妻の座でしかなかったアン・ブリンは人々から「1000日の王妃」と言われた)が父ヘンリー8世によって処刑され、そのため身分を庶子に落とされる状況の中で成長していった。異母弟エドワード6世と異母姉メアリー1世の時代に、彼女は数度にわたって国王への謀反を疑われ、ロンドン塔に幽閉された。エリザベスは1558年11月に異母姉のメアリー1世が亡くなって(弟のエドワード6世はその前に亡くなった)エリザベス1世としてイングランド国王に即位した。
「フランソワ2世と王妃メアリー」の絵はこちらへ
「即位式の エリザベス1世」の絵はこちらへ
「フランスを離れるメアリー」の絵はこちらへ
「メアリー・スチュアート」(クローエ)の絵はこちらへ
「女王メアリーとダーンリー卿」の絵はこちらへ
           (三)
この謀反によってリッチオは殺害され、メアリーは暗殺こそは免れたものの謀反人たちの捕虜として捕らえられた。このクーデターに成功した直後、マリ伯(メアリーの異母兄)はエジンバラに帰還し、早速議会によって次の3つの議案を決議させた。それは、(1)ダーンリー卿に「婚姻による王冠」を与えること。(2)スコットランドにプロテスタント(新教徒)を制定すること。(3)メアリーをスターリング城に幽閉した後に終身刑、もしくは死刑に処することであった。しかし、メアリーは冷静に行動をして猜疑心の強く、小心者のダーンリー卿を懐柔し脱出に成功した。この時ダーンリー卿の子を身ごもって6ヶ月を迎えていたが脱出後は、休息もせずに兵士を募り、優秀な軍人ボスウェル伯の協力の上、エジンバラへ取って返して勝利した。謀反人の大半はイングランドなどに逃げたが、クーデター後にエジンバラに入ったマリ伯だけは、クーデターの後であったために、この件で咎められることを免れた。勝利したメアリーは、それから3ヶ月後の6月19日にダーンリー卿との息子を産んだ。彼は後にスコットランド王ジェームズ6世となり、さらにイングランド王ジェームズ1世となった。夫のダーンリー卿に愛想が尽きたメアリーは、先のクーデター鎮圧の際に活躍したボスウェル伯と恋仲になったが、こうした状況で、1567年(24歳)2月10日、エジンバラ郊外のカーク・オ・フィールドの屋敷が大爆発し、ダーンリー卿は死体で発見された(カーク・オ・フィールドの惨劇)。当然、メアリーに疑いの目が向けられた。知らせを受けたイングランドのエリザベス1世は、あれほど怒っていたにもかかわらず、メアリーにあてて「すぐに自分が疑われないよう犯人を検挙して、身の潔白を証明しなさい」という忠告の手紙を送った。しかしメアリーは、この爆発がダーンリー卿というよりもむしろ自分を狙ったものだと思っていたためか、犯人を積極的に探しだす捜査をしなかった。その上、メアリーは、それからたったの3ヶ月後、犯人とみなされていたボスウェル伯と再々婚をした。この祝福されざる結婚に国内外の非難が集中し、国内では二人の結婚に反対する反乱が起きた。この時、ボスウェル伯の子供を身ごもっていたメアリーは彼とあちこち逃げ回ったあげく、6月15日にカーバリー・ヒルで再々婚反対派の反乱軍に降伏した。「売春婦を焼き殺せ!」「 夫殺しを焼き殺せ!」という民衆の罵声を浴びつつメアリー女王はエジンバラに連行され、ついでロッホリーヴンの城に幽閉の身となった。ボスウェル伯は途中でメアリーを見捨てて逃亡したが、彼はその後デンマークで逮捕され、10年後に発狂死した。幽閉の身となったメアリーに不幸が襲った。反乱軍はボスウェル伯との離婚を要求したが、私生児を生むことを避けるために離婚に応じなかったメアリーは、そのお腹の子供を流産してしまった。1567年(24歳)7月、メアリーは退位し、1才の息子がジェームズ6世としてスコットランド王位に就いた。プロテスタント(新教徒)のマリ伯(メアリーの異母兄)が摂政となった。1568年(25歳)5月、メアリーは幽閉されていたロッホリーヴン城を、監視役の長男の手引で脱走した。メアリー脱走の報はたちまちスコットランド全土に広まり、「非運の女王を助けろ!」と6000人の兵が集まったが、烏合(うごう)の衆はマリ伯のスコットランド軍に敗れた。メアリーは、母の祖国フランスに渡ることもできたのに、あえてイングランドのエリザベス1世のもとへと逃げこんだ。メアリーには、独身のエリザベス1世が、いずれメアリーか、ジェームズのどちらかを跡継ぎに指名せざるを得ないだろうという思惑があった。この逃亡はエリザベス1世側にしてみたら大変にやっかいな問題で、メアリーはイングランドの王位継承権を持っていて、まだそれを放棄していないため、それだけでもエリザベス1世を脅かす存在であた。王族の親族である以上、逮捕してスコットランドに送り返せば、彼女との絆が強いフランスがそれに乗じて干渉してくるのも目に見えていた。さらに、メアリーが熱心なカトリック(旧教徒)信者であったことで、プロテスタント(新教徒)よりのエリザベス1世にとっては、根強いカトリック勢力の拠り所となりうる人物を放っておくわけにもいかなかった。そこで、エリザベスは結局メアリーを節度ある、かなり自由な軟禁状態においた。メアリーに対する待遇は、とても一国の女王が他国の女王を遇する処遇ではなかった。常に監視された鉄格子のついた暗い部屋で、わずか数人の侍女がいて、監視つきで町の教会でのミサに出るだけであった。そんな軟禁されているメアリーに、エリザベス1世は一度も訪れたことがなかった。
(参考)
@独身のエリザベス1世・・・イングランドの女王エリザベス1世とメアリー女王とは、エリザベス1世の父ヘンリー8世とメアリーの祖母が兄妹という間柄だった。この二人は、宿命的なライバルだった。エリザベス1世は、ロンドンに滞在していたスコットランド大使に、三千着もあった衣装を毎日、取り替え見せびらかしたあげく「メアリーと自分とどちらが美しいか?(大使はエリザベス1世がイングランド第一の美人で、メアリー女王がスコットランド第一の美人であると答えて切り抜けた)」「「二人のうちどちらが背が高いか?(これは明らかにメアリーの方であったが、しかしエリザベスは「では、あの人は高すぎるわけね」と言ったという)」。さらに「メアリーと自分のどちらが髪がきれいか」「どちらが演奏が上手か」と問いかけるほど、強いライバル意識を持っていた。しかし、メアリーの方にはそういう競(きそ)い合う感情は薄かった。二人の女王は、生涯、一度も会った事がないのに表面的には友好を保ち、互いを「お姉様」「親愛なる妹」と呼んで文通を重ねていた(実際は「おばさま」と「姪」)。
「ジェームズ(ジェイムズ)王子と女王メアリー」の絵はこちらへ
           (四)
メアリーはエリザベス1世によって19年間(25歳から44歳)幽閉されて、北部や中部の城を、なかば囚人、なかば客人として転々とした。始めのうち楽観的なメアリーは、エリザベス1世の口約束を信じて、自分の女王としての権利の回復に助力してくれるものと信じていた。しかし、エリザベス1世はメアリーの夫(ダーンリー卿)殺しの疑惑を盾に持ち出し、メアリーの身の証(あかし)をたてる約束を破り、裁判であいまいな形で決着がついても、メアリーを確固たる理由もないまま監禁し続けた。その間メアリーは、運動不足で醜く太り、リューマチで足はびっこをひき、三十代にしてすっかり白髪となった。やがてメアリーは、エリザベスを激しく憎み「イングランドの正統な王位継承権は私にある」と何度も逃亡計画を企てた。イングランドではエリザベス1世の在位中、何度か大きな反乱が起きたが、その度(たび)にメアリーは「反エリザベス勢力の象徴」に担ぎ出された。それでもエリザベス1世は、メアリーを厳しい処罰にすることもなかった。またスコットランドのメアリーの息子ジェームズ6世は、摂政を務めたプロテスタント勢力のマリ伯(メアリーの異母兄)の影響から、母メアリーの処遇には静観していた。1586年(43歳)、カトリック(旧教徒)の貴族のアンソニー・バビントンがエリザベス1世暗殺計画を手紙で報告し、メアリーがこれに同意する手紙を送り返した。ところが計画が発覚しバビントン一味は逮捕され、メアリーの手紙も押収された。彼女はついに逮捕され、「イングランド女王を暗殺あるいは危機に陥れるべく、多くの暗殺を計画構想した罪」によって裁判で死刑を宣告された。この「バビントン事件」は、イングランド政府による陰謀説が濃厚であった。エリザベス1世は議会からの、再三の死刑執行書への署名の要請に対して「他国の女王を反逆の罪名で裁く」という不当性ゆえに抵抗し、署名を渋り続けたが、1587年2月1日ついに死刑宣告書に署名をした。1587年(44歳)2月7日、メアリーは、フォザリンゲー城の大広間で断頭台にかけられた。当日、3時間かけて深紅のドレスを身にまとい、丹念な化粧をしたメアリーは、女王としての誇りと気高い態度で断頭台へ自ら進んだ。享年44歳。1603年、エリザベス1世が亡くなった後にイングランド国王についたのは、メアリーの息子、ジェームズで、子供のいないエリザベス1世の遺言によってスコットランド王ジェームズ6世は、イングランド国王ジェームズ1世ともなった。かつてメアリーを見殺しにしたジェームズも、イングランド国王に就任後の1612年、母の遺体をピータバラ寺院からウェストミンスター寺院に移した。
(参考)
@享年44歳・・・メアリーは死の数年前に「わが終わりにわが始まりあり」との謎の言葉を、手のこんだ刺繍細工の中に縫いこんでいた。この予言はやがて実現され、メアリー・スチュアートの血筋は現代のイギリス王家に引き継がれた。
Aエリザベス1世の遺言・・・この日からスコットランド・イングランド両王国は同一人の国王を戴く同君連合(どうくんれんごう)となり、それ以後、現在に至る400年、王朝は幾度か変われども、二つの国の国王は常にジェイムズ1世の子孫がつとめた。現在のイギリス王家は処女王エリザベス1世の血ではなく、断頭台にたおれたメアリ・スチュアートの血を受け継いで今日に至っている。そして、現在ロンドンのウエストミンスター寺院の地下墓地にメアリー・スチュアートとエリザベス1世は眠っている。
「メアリーの刺繍」の絵はこちらへエリザベス1世を猫、自分をねずみに擬した刺繍
「囚われの女王メアリー」の絵はこちらへ
「処刑場へ向かう女王メアリー」の絵はこちらへ
「処刑場に立つ女王メアリー」の絵はこちらへ
いろいろな「女王メアリー・スチュワート」の絵はこちらへ


(小話846)「(ジャータカ物語)両眼を布施した尸毘王(しびおう)」の話・・・
        (一)
遠い昔、閻浮提(えんぶだい)に尸毘王(しびおう=釈迦の前生の姿)という立派な王さまがいた。尸毘王はたいへん慈悲深く、民衆を愛する心は、母が我が子を愛する如くであった。都のいろいろな所に布施所をつくり毎日のように人々に布施(ふせ)をしていた。ある日、尸毘王は自分の布施について「人並みの布施でわたしが与えなかったものは何もない。だが、これだけでは本当の布施にならない。自分の身を犠牲にして行う布施こそ功徳ある尊い布施なのだ」と考えた。そこで「誰かが自分の心臓・肉・血・眼球などをほしいと言ったら、よろこんで布施しよう」と心にきめて布施所へでかけた。
(参考)
@閻浮提(えんぶだい)・・・仏教の世界観で須弥山(しゅみせん)の南方にあるとされる島で、人間の住む世界。
        (ニ)
尸毘王の決意を知った神々の王である帝釈天(たいしゃくてん)は、尸毘王の決意が本当かどうかを試そうと、盲目のバラモンに姿を変えて尸毘王の前に現われた。そして、尸毘王の両眼のうち一つを布施してほしいと願いでた。尸毘王は自分の決意を実行に移す時が来た事をよろこび、王宮に帰って医者を呼び、自分の眼球を取出し老人に移植するように命じた。尸毘王は残りの眼でその様子を見て「自分の布施は素晴らしい布施だった」と内心からあふれ出る喜びで一杯になり、残りの眼球をも布施してしまった。こうして両眼を布施して盲目となった尸毘王は、王国を大臣にまかせ、出家して僧侶となった。その後、尸毘王は自分の布施が充分であったかを考えた。帝釈天は尸毘王の眼を元通りにしようと姿を現わし「尸毘王よ、あなたが眼を布施した結果として、あなたに眼が生じるように」と言うと、たちまち尸毘王には第一、第二の眼が生じた。それは生まれたままのものでもなく、神々のものでもない、「最高の尊い真実の眼」と呼ばれるものであった。
(参考)
@帝釈天・・・梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一で、東方を守る。利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。
Aバラモン・・・インドで、最高位の身分。僧侶で、学問・祭祀(さいし)をつかさどり、インド社会の指導的地位にあった。
B「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話845)「イソップ寓話集20/20(その29)」の話・・・
      (一)「塩商人とロバ」
ある行商人が、塩の買い付けをするために、ロバを後ろから追って海岸へと向かった。商(あきな)いも無事終わり、商人は宿へ帰ろうと、とある小川にさしかかった。と、その時、ロバが、何かに躓(つまず)いて、川へ落っこちた。ロバが起きあがった時、塩は水に溶け、荷は軽くなっていた。商人は引き返し、前よりもたくさんの塩を袋に詰め込んだ。それから、また、先ほどの小川までやって来た。すると、今度は、ロバはわざと倒れた。そして、荷物が軽くなるのを見計らって起きあがり、してやったりと、いなないた。商人は、ロバの計略を見て取ると、またもや、海岸へと引き返し、今度は、塩の代わりに海綿(かいめん)を買い付けた。ロバは、流れにさしかかると、今度もわざと倒れた。しかし、海綿は水を吸って膨らみ、今度は、倍の重さの荷を背負う羽目になった。
(参考)
@海綿は水を吸って・・・(小話793)「古代ギリシャの七賢人(その1)、哲学の祖タレス(ターレス)」 の話・・・を参照。
      (ニ)「天文学者」
ある天文学者は、夜になるとしょっちゅう、星を観測しに郊外へと出かけて行った。ある晩、彼は、星に気を取られていて、誤って深い井戸に落ちてしまった。彼は、打ち身や切り傷をつくって、悲鳴を上げた。その声を聞きつけて、近所の人が井戸へと飛んできた。そして何が起きたのかを知ると、こんな事を言った。「天国を覗(のぞ)くことばかりに、うつつを抜かしてないで、少しは足下(あしもと)に注意を払いなさいな」。
(参考)
@井戸に落ちてしまった・・・(小話793)「古代ギリシャの七賢人(その1)、哲学の祖タレス(ターレス)」 の話・・・を参照。
      (三)「禿(はげ)の騎士」
鬘(かつら)をつけた禿の騎士が、猟に出かけた。と、突然一陣の風が吹き抜け、帽子と鬘を吹き飛ばした。それを見て、仲間がどっと笑った。彼は、馬を止めると、爆笑の渦に、こんな冗談で応えた。「あれは私の髪の毛ではない、本当の持ち主の頭を見捨てた者たちが、私の頭から飛んで行ったとて、何の不思議もあるまい」


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