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(小話742)「「清貧の花」と言われたアッシジの聖クララ(キアラ)。清貧を愛し、清貧に生き、清貧のために戦ったその生涯」の話・・・
            (一)
偉大な聖人フランチェスコの最初の女弟子、クララ(キアラ)。そして「「兄弟フランチェスコが植えた草花」と呼ばれるのを好んだクララは、1193年(1194年とも)に聖フランチェスコと同じ、イタリアはローマの北アッシジの町で生まれた。父はファヴォリーノ・ディ・シフィ、母はオルトラーナといい、二人とも貴族の家系であり、特に父のシフィ家はアッシジで最も高貴な家柄に属していた。母オルトラーナは、善良で信仰深く、たびたび聖地やローマ等に巡礼の旅に出ていた。五人の子を儲(もう)けたが、次女クララの生まれる少し前、母が祈っている時、「女よ、心配するな、あなたは世界を照らす光の子を安らかに産むであろう」という声を聞いた。間もなく女の子が産まれたので、両親はクララ(光り輝くもの)と命名した。クララは敬虔な母の下で信心深く育てられた。家事、裁縫、花の栽培も良くし、宗教のほか音楽、文学、政治、社会問題にも関心を寄せ、学識ある人の話を喜んで聞いた。美しく成長したクララが15才になった時、最初の求婚者が現れた。両親は大変気に入ったが、クララは結婚に少しも耳を傾けようとしなかった。母が説得すると「自分はもう神さまに身を捧げているので、男性のことなど知ろうとも思わない」と打ち明けた。そのような時、かって宗教的回心(心の大きな転換)によってアッシジの町の評判になっていたフランチェスコ(フランシスコ)が、ローマより説教の許しを得て帰り、サン・ルフィーノ聖堂の説教壇に登った。その説教を聞き、フランチェスコを見た瞬間から、クララはフランチェスコが送っているような生活(清貧・服従・貞潔)が、自分の生活であり、これこそ自分にたいする神のご意志であることを知ったのであった。
(参考)
@クララ(キアラ)・・・キアラは、日本では「クララ」とも呼ばれ、英語では「クレア又はクララ」、キアラはクララのイタリア語。
A評判になったフランチェスコ・・・同じアッシジの裕福な織物商人ベルナルドネの一人息子フランチェスコ(フランシスコ)は、宗教的回心によって家出し、今までの贅沢とは打って変わった清貧の生活を始めた。それを見た人々は最初こそ彼を狂人と卑しめたものの、間もなくその徹底的な禁欲、克己に驚嘆し、その身を以(もっ)て教え、口を以て説く福音に感動し、イエスの再来の如く尊崇するに至った。そればかりか、中には彼のあとに倣(なら)う事を望む者も少なからずあった。そしてシフィ家のクララもその一人であった。(小話737)「中世イタリアの最も偉大な聖人フランチェスコ(フランシスコ)。その清貧と宣教の生涯」の話・・・を参照。
            (二)
クララが17歳の時、フランチェスコを訪れて、心の中を打ち明けた。フランチェスコは彼女の願いを聞いて暫くの間、その人となりを調べ、人並み勝(すぐ)れて熱烈な天主(キリスト)への愛、福音実践に対する燃えるような憧れ、溢れるばかりの犠牲や祈祷の精神を有していることを確かめると、躊躇なく主の召し出しに従い、キリスト以外にはどのような花婿をも持たないようにと勧めた。フランチェスコはその時以来、クララの霊的指導者となった。そしてクララは、1212年(18歳)、枝の主日(復活祭の一週間前の日曜日)の夜、家から抜け出し、ポルチウンクラへと道を辿(たど)った。待っていたフランシスコ会修士たちはかがり火をともして出迎えた。そしてまもなく、クララは小さな御聖堂の聖マリアのご像の前にひざまずき「貧しいぼろにくるまれたもう嬰児(みどりご)イエズス(イエス)をお愛しするあまり」ずっと以前から心に決めていた世俗からの別れを告げた。フランチェスコによって、その黄金の髪が落とされ、厚い黒の被(かむ)りものをかぶったのであった。「清貧・貞潔・服従」の三つの修道誓願を立て、さらに修道士たちのように、自分の長上としてフランチェスコに従うことを誓約した。こうして高貴な生まれの令嬢クララは、修道女クララとなった。式が終わるとすぐに、フランチェスコは、近くのサンタンジェロの女子修道院にクララを連れていった。そこがクララのための寝所であった。まもなく父と親戚の者たちが、避難所をかぎ出して、クララを連れ戻そうとやってきた。けれども18才のこの若い娘は動かなかった。懇願もお追従も、種々の約束ごともみな無駄であった。クララの脱出した六日後、妹のアグネスもまた家出して姉の許に奔(はし)り、共に修道にいそしむ覚悟を定めた。父ファヴォリーノは烈火の如く憤り、弟に十二人の武装した家来を引き連れて取り戻してくるように頼んだ。彼らは、すぐさま後を追いかけて修道院に侵入し、アグネスを引き捕らえ、無理矢理に家へ連れ帰ろうとした。「クララ、クララ。救けにきてください」とアグネスは引きずり出されながら、空しく声をはりあげた。クララは自分の部屋にいて、神にどうかこの危急をお救いくださるようにと祈っていた。すると突然、アグネスの身体が重くなり、屈強な男たちがただの1センチもこの娘の体を動かすことができなくなった。その間にクララがやってきて、死んだようになっているアグネスを連れていった。
            (三)
その後、父は神の意志を悟り、もう二人の娘に干渉する企ては止めてしまった。そして後には、三番目の妹ベアトリーチェもまたクララたちに加わり、父の死後、母オルトラーナ自身も加わった。サンタンジェロの女子修道院は、クララやアグネスにとっては、仮の宿であり、フランチェスコは彼女たちのために修道院を探さなければならなかった。その時、かってフランチェスコにポルチウンクラを譲ってくれた修道士たちが、喜んでサン・ダミアーノとその御聖堂の付属として小さい修道院を贈ろうと申し出た。二、三人の修道女たちと共に、クララはこの小さな建物に移り住み、それから42年間というものの、クララは弟子の修道女たちを指導しつつ、ここであい共に福音的完徳の生活を送った。この世の枷(かせ)にまだ縛られていない未婚の女性たちは、クララと共に生活しようとサン・ダミアーノを目指(めざ)した。サン・ダミアーノへ入るための条件は、自分の所有に関するいっさいを全て貧しい人たちに分け与えるということであった。そして修道院自体は、何一つ受け取らない「いと高き清貧の堅固な塔」であった。だから修道女たちの生活の道は、フランチェスコの兄弟たちと同じく、自ら働くということと、施(ほどこ)しを乞い求めるということの二つであった。二、三の修道女たちが修道院に留まり働いている間に、他のものたちは戸口に立って施しを乞うた。当時フランチェスコが、この修道女たちのために書いた「生活様式」の掟の内容は、福音的清貧に対する義務を構成していた。この会則は教皇によって認可され、1215年(21歳)クララはフランチェスコの命(めい)によって、女子修道院長の職を引き受けた。
            (四)
クララは、キリスト教的意志の基礎としての清貧について「あなたたちは、神とマンモン(悪魔)の富との二つに仕えることはできない」という言葉に、聖フランチェスコと見解を共にしていたように、また仕事についての意見も一致していた。女子修道院長としての体面があるにもかかわらず、クララは自分で病人を看(み)とり、どんな汚い仕事でも決して尻ごみしなかった。それと共に、自分の体をいっこうに、いたわろうなどと決してしなかった。修道院の外に出ていた修道女が帰ってきたときには、自らその足を洗ってやり、睡眠中の修道女たちに夜着をかけてやったりした。しばしばフランチェスコは、病人や弱っている人たちをサン・ダミアーノへと送った。そこでクララは彼らの看病をし、自分が病気の時ですら仕事を止めなかった。クララは病気がちの体で、寝床の上に起き、祭壇の飾布や祭服の刺しゅうをし、これをウンブリア地方の貧しい教会に送った。クララが率先して働き、修道女達に善い手本を示したと同様に、宗教的な面においてもまたそうであった。日々の日課の一番最後を終えたのちも、なお長い間ただ一人で、十字架のご像の前にひざまずいていた。クララや修道女たちにとって、どんなにフランチェスコが敬慕の的となっていたかは、フランチェスコ自身に気づかれずにはいなかった。そこで、こうしたことを止めさせ、ひたすら心を、ただ神にだけ向かわせようと、それとなく修道女たちの前から身を退(ひ)いた。フランチェスコのサン・ダミアーノへの訪問は、だんだんとだえがちになり、やがて絶えてしまった。フランチェスコはその理由を、修道女たちと神との間に自分は立ちたくないのだと説明した。
            (五)
  1226年(クララ32歳)、フランチェスコは44歳で亡くなった。フランチェスコがポルチウンクラの貧しい小さな庵で死の床についていた時、クララからもう一度お目にかかりたいという使いがきた。しかしフランチェスコは「いっさいの悲しみをお捨てなさい。今はもう私に会うことはできなくなりました。けれども、あなたにもあなたの所の修道女たちにも、あなたの亡くなられる前に私はお会いするでしょう。それによって大いなる慰めを得られることでしょう」と兄弟を通じて伝えさせた。遺体はアッシジへ運ばれたが、途中クララのサン・ダミアーノの御聖堂へかつぎ入れられ、修道女たちの格子窓近くに置かれた。兄弟たちはその聖なる亡骸(なきがら)を柩(ひつぎ)から扶(たす)け起こし、窓の前に腕を伸ばしてそれを支えた。クララとその修道女たちは、亡くなった自分たちの精神上の父に、最後に会うことができた。この小さな御聖堂は、悲しみに、お別れに、嘆き悲しむ声でいっぱいであった。1227年(33歳)、イノセント四世教皇は、クララの修道院に多少とも財産を持つように、それによって他の修道会の修道女たちのように、安穏に平和に生活ができるように勧めたが、クララは断固として拒絶した。それでも教皇は、もしも立てた誓願のためであるなら、自分にはそれを解くことができると言ったが、クララは「父よ、私を罪より解き放して下さい。でも、私たちの主イエズス・キリストに従いますことはどうぞ解かないで下さい」と答えた。イノセント四世は、クララとその修道女たちに永久に清貧であり、それに留どまる権利を保証する大教書を、クララの手元に届けさせた。
            (六)
  1240年(46歳)、ドイツ皇帝フリデリコ2世と同盟したサラセンの大軍はウンブリア地方の都市村落を席巻(せっけん)し、アッシジにも侵入して、クララの修道院も危機に瀕(ひん)した。その時、クララは聖堂の祭壇の下に平伏し「主よ、私に主の愛し給うおとめ達を護る力がございません。願わくは主御自ら、その全能によって彼等を護り、之を異教徒の手にわたし給わざれ」と祈願した後、おもむろに身を起こして御聖体の納めてある銀の容器を捧げ持ち、しずしずとサラセン軍に近づいて行った。すると不思議にも、彼女の手にある御聖体器からは、眩い光がさっと迸(ほとばし)り出て敵の目を射たから、異教徒共はびっくり仰天し、あわてふためき雪崩を打って潰走してしまった。二十八年間という長い年月を病床で過ごした後、1253年(60歳)、死を前にしてクララは、そばにいた姉妹たちに言った「恐(おそ)れないでお進みなさい。あなたの行く手には立派な導き手がおられます。あなたをおつくりなったお方は、あなたを聖とし、常にあなたを保護し、母親が子を愛するように優しく愛してこられたのですから。主よ、私はあなたを賛めたたえます。あなたはこの私をおつくりになられたからです」。こうしてクララは黄金のように輝くマリアさまの腕に抱かれ、その光の衣で包まれ、永遠に栄光の座に昇っていったのであった。クララは厳しい生活を送ったにもかかわらず、聖フランチェスコとは異なり長生きした。享年60才、修道生活42年であった。サン・ダミアーノの女子修道院は、聖クララやその姉妹たちがこの世を去った時の殆(ほとん)どそのままに、クララの小さな狭い、天井の低い寝室、クララの庭園が今日も残っている。古い言い伝えによると、聖クララはこの庭園にただ三種の花だけを作ったという。純潔の象徴としての「百合の花」を、謙遜の象徴として「すみれ」を、そして「ばら」の花は、神と人々への愛を意味しているという。クララの死後、聖キアラ(クララ)大聖堂が建てられ、地下聖堂内に遺体が安置された。死後700年以上経った今も、ミイラ化して、腐敗していないという。
(参考)
@サラセン軍・・・サラセン人の傭兵(ようへい)たちは、すでに修道院の壁をよじ登っていた。その時、クララは重い病気であったが、御聖体の秘蹟の内にましますキリストの御前に、平伏して祈った「ご覧下さい主よ、あなたご自身の愛で養ったこの無防備のはしためたちを異教徒の手に渡してもよいとお思いになるのですか?主よ、今はもう私には守りきれないこれらのはしためたちを、どうぞ、お守りください。」彼女はそれに答える声を聞いた。「私はあなたたちを常に守るだろう」。そして、兵士たちはしっぽをまいて逃げていったという。
「聖フランチェスコの遺骸に別れを告げる聖女キアーラ(クララ)と修道女たち」(ジョット)の絵はこちらへ
「聖キアーラ(クララ)」(マルティーニ)の絵はこちらへ
「聖クララ」(舟越保武)の絵はこちらへ
「聖母子と聖クララ」(ウルビーノ)の絵はこちらへ

(小話741)「武陵桃林(ぶりょうとうりん)」の話・・・
       (一)
東晋(とうしん)の太元(たいげん)年中に、武陵(ぶりょう)の黄道真(こうどうしん)という漁人(ぎょじん)が魚を捕りに出て、渓川(たにがわ)に沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。桃の花は岸を挟んで一面に紅く咲きみだれていて、ほとんど他の雑木はなかった。黄(こう)は不思議に思って、なおも奥ふかく進んでゆくと、桃の林の尽くるところに、川の水源(みなもと)がある。そこには一つの山があって、山には小さい洞(ほら)がある。洞の奥からは光りが洩れる。彼は舟から上がって、その洞穴の門をくぐってゆくと、初めのうちは甚(はなは)だ狭く、わずかに一人を通ずるくらいであったが、また行くこと数十歩にして俄(にわ)かに眼さきは広くなった。そこには立派な家屋もあれば、よい田畑もあり、桑もあれば竹もある。路(みち)も縦横に開けて、鶏(とり)や犬の声もきこえる。そこらを往来している男も女も、衣服はみな他国人のような姿であるが、老人も小児も見るからに楽しそうな顔色であった。かれらは黄(こう)を見て、ひどく驚いた様子で、おまえは何処(どこ)の人で、どうして来たかと集まって訊くので、黄(こう)は正直に答えると、彼らは黄(こう)を一軒の大きい家へ案内して、鶏(とり)を調理し、酒をすすめて饗応した。それを聞き伝えて、一村の者がみな打ち寄って来た。
       (二)
彼ら自身の説明によると、その祖先が秦(しん)の暴政を避くるがために、妻子(さいし)眷族(けんぞく)をたずさえ、村人を伴って、この人跡(じんせき)絶えたるところへ隠れ住むことになったのである。その以来、再び世間に出ようともせず、子々孫々ここに平和の歳月(としつき)を送っているので、世間のことはなんにも知らない。秦(しん)のほろびた事も知らない。漢(かん)の興(おこ)ったことも知らない。その漢がまた衰えて、魏(ぎ)となり、晋(しん)となったことも知らない。黄(こう)が一々それを説明して聞かせると、いずれもその変遷に驚いているらしかった。黄(こう)はそれからそれへと他の家にも案内されて、五、六日のあいだは種々の饗応を受けていたが、あまりに帰りがおくれては家内の者が心配するであろうと思ったので、別れを告げて帰って来た。その帰り路(みち)のところどころに目標(めじるし)をつけて置いて、黄(こう)は郡城にその次第を届けて出ると、時の太守、劉韻(りゅういん)は彼に人を添えて再び探査につかわしたが、目標はなんの役にも立たず、結局その桃林を尋ね当てることが出来なかった。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話740)「良寛さんの七言絶句(しちごんぜっく)の詩」の話・・・
       (一)
ある禅僧の話より。越後の良寛さんは、五合庵という小さな庵に住み、近隣を托鉢(たくはつ)して暮らしていた。良寛さんの詩に「十字街頭乞食了、八幡宮辺方徘徊、兒童相見共相語、去年癡僧今又来」(良寛詩碑)(十字街頭食(じき)を乞(こ)い了(おわ)り、八幡宮辺方(まさ)に徘徊(はいかい)す。児童相見て共に相語る、去年の癡僧(ちそう)今又来(きた)る)。騒がしい市中の托鉢も終って、静かな八幡さまのあたりを歩いていたら、村の子供らがいち早く見つけ、お互いに囃(はや)し立てている。「おい、おい。去年も来た変な坊さんがまた来たぞ」と。托鉢は行乞(ぎょうこつ)とも言い、乞食(こつじき)とも言う。乞食と書いてコツジキと読み、コジキとは読まない。インドや南方の僧侶は托鉢の時、頂き物をしても決して頭を下げない。それは何故かというと、頂く僧が頭を下げては、知らず知らずに、物の損得を測(はか)るからである。そして市中の人が僧に施しをするということは、物に対する執着を少なくするという徳を積むためであって、させて戴くのである。施す者も施しを受ける者もその間に、なんの愛憎もなく行わなければならない。
(参考)
@良寛・・・江戸後期の曹洞宗の僧・歌人。越後の人。備中(びっちゅう)円通寺の国仙和尚に師事。のち、諸国を行脚し、生涯、寺を持たず、故郷の国上山(くがみやま)の五合庵に隠棲(いんせい)して独自の枯淡な境地を和歌・書・漢詩に表現した。
       (二)
越後とは、あの新潟の豪雪地帯にあって、吹きさらしの部屋一つ以外に何にもないのである。良寛さんは子供らと遊び、楽々悠々と生きてきたと思っていたのが間違っていた。その優雅に見える生活の裏側には凄(すさ)まじいものがあった。当時の良寛さんは、江戸にまで知れ渡った善知識(高徳の僧)である。楽しもうと思えば、楽な生活がのぞめたに違いない。それを敢て托鉢に依(よ)るその日暮しを選ばれた良寛さんは、遥か彼方の畏(おそ)れおおき人であった。世間では仕事やスポーツ、選挙などで、無心にやれとか、無心でやったからいい結果がでました、というがあれはウソである。そういうのは我を忘れて、という。勝利が欲しい、お金が欲しい、名誉が欲しいという土台があって、我を忘れて夢中になることであり、貪欲になることである。無心というのは損得勘定をしない働きであり、托鉢の精神と同じである。托鉢に生きる良寛さんは寡欲(かよく)な生活を送られた。良寛さんは子供らと無心に遊び、子供らの幸せを願って手を合わせたに違いない。何故なら、貧しい男の子や女の子たちは歳(とし)が来れば、嫌々(いやいや)奉公に出され、泣く泣く身を売らなければならない運命が待っているからである。その子供たちにしてあげられることは、ただひたすら、無心に遊ぶことしかなかったのではなかろうか。ひと時の幸せを共に過ごし、ひと時の想い出を作ってあげることが、良寛さんの使命だったような気がする。そして、ぼろぼろに使い果たされて、帰されてくる子供らをきっと涙とともに迎えたことであろう。


(小話739)「「銭(ぜに)を千枚」と「短歌行」」の話・・・
          (一)
ある時、五、六人の村人が渡し舟で川を渡っていた。中ほどまでさしかかった時、舟底から水が浸み込んで来て、見る見るうちに舟は水浸(みずびた)しになり、沈んでしまった。幸い、みな泳ぎのできる人たちばかりでしたから、川岸を目指(めざ)して、そろって泳ぎ始めた。ところが、一人だけ遅れがちな人がいた。「おーい、どうしたんだ? おまえは、わしらの中で一番、泳ぎが達者だったはずではないか?」。仲間が声をかけると、その男はアップアップしながら言った。「おれは、銭(ぜに)を千枚、身につけているんで、早く泳げないんだよう」「捨ててしまえ、早く泳ぐんだ!」。皆は口々に勧めましたが、男は、聞かなかった。 そのうち、他の者たちは岸にはい上がりました。見ると、男は、まだ激流の中でもがいていた。「早く、銭を捨てろ。命と銭と、どっちが大事なんだ。死んでしまうぞう!」男は、やはり、かぶりを振っていが、とうとう銭を身につけたまま溺れ死んでしまった。
(参考)
中国の古典「柳河東集」より。
          (二)
「人初生、日初出。上山遅、下山疾」(ひとはじめて生まれ、日もはじめて出ず。山に上るは遅く、山を下るは疾し)
「百年三万六千朝、夜裏分将強半日」(百年三万六千朝、夜裏(やり)分かち将(も)つ強半日)
「有歌有舞須早為、昨日健於今日時」(歌有り、舞有らば、すべからく早く為すべし、昨日は今日の時よりも健なり)
「人家見生男女好、不知男女催人老」(人家男女の好きを生ずるを見れど、知らず、男女の人の老いを催すを)
「短歌行、無楽声」(短歌行、楽声無。)
「ひとがこの世に初めて生まれてくるというのは、お日様が昇ってくるようなもので、たいへん目出度く、元気がよい。しかし、山に登るのはゆっくりと行くが、下るときには速いもので、人生も半ばからは急に速(はや)く過ぎていく。歌とか舞いとか、しようとするのであれば、早くしてしまわねばならないぞ。昨日は今日よりも健(すこ)やかだった、すなわち今日は昨日よりも衰えているのだから。そして、人々は、男女の子供が生まれてくるのを見て、かわいらしいのだ、いいことなのだと喜んでいるけれど、子供たちが生まれ育つということは、あなたたちが老いていく、ということだよ。ああ、この「短い世」の歌、この短い人生、そこにはわずかにも楽しい響きはない」
(参考)
王建の「短歌行(人生の短さを嘆いた歌)」より。


(小話738)「イソップ寓話集20/20(その17)」の話・・・
      (一)「オンドリと宝石」
オンドリが餌を探していて、宝石を見つけた。すると、オンドリはこう叫んだ。「なんと詰まらぬものを見つけたことか! 俺にとっちゃ、世界中の宝石よりも、麦一粒の方がよっぽど価値がある」
      (二)「笛を吹く漁師」
笛の上手な漁師が、笛と網を持って海へ出掛けた。彼は、突き出た岩に立ち、数曲、笛を奏(かな)でた。と言うのも、魚たちが笛の音に引き寄せられて、足下の網に、自ら踊り入るのではないかと考えたからだった。結局、長いこと待ったが無駄であった。そこで、男は笛を置き、網を投じた。すると、一網でたくさんの魚が捕れた。男は、網の中で跳ね回る魚たちを見て言った。「なんとお前たちは、ひねくれ者なんだ! 俺が笛を吹いていた時には踊らなかったくせに、吹くのをやめた今、こんなに陽気に踊りやがる」
      (三)「アリとキリギリス」
ある晴れた冬の日、アリたちは、夏の間に集めておいた、穀物を干(ほ)すのに大わらわだった。そこへ腹をすかせて、死にそうになったキリギリスが通りかかり、ほんの少しでよいから食べ物を分けてくれるようにと懇願した。アリたちは、彼に尋ねた。「なぜ、夏の間に食べ物を貯えておかなかったのですか?」。キリギリスは、答えた。「暇がなかったんだよ。日々歌っていたからね」。するとアリたちは、嘲笑(あざわら)って言った。「夏の間、歌って過ごしたお馬鹿さんなら、冬には、夕食抜きで踊っていなさい」


(小話737)「中世イタリアの最も偉大な聖人フランチェスコ(フランシスコ)。その清貧と宣教の生涯」の話・・・
      (一)
聖人フランチェスコは、キリストと同じく馬小屋で生まれたと言われ、「イエスにもっとも似ていた聖人」と呼ばれ、この世のあらゆる富・名声を捨てて、神が創ったあらゆるものに耳を傾け話しかけた。それが鳥であろうが、魚であろうがフランチェスコの目には、神の栄光を共に讃(たた)えるものとして映った。そうした、清貧と平和と謙遜を説いた聖人フランチェスコは、西欧中世の12世紀後半の1181年(1182年とも)、裕福な織物商人ピエトロ・ベルナルドネを父に、ピカと呼ばれたヨアンナを母としてイタリアはローマの北アッシジの町に生まれた。フランチェスコ(フランシスコ)とは「小さきフランス人」の意味で、織物商人であった父親が仕事上フランス語が非常に堪能であり、フランスびいきだったことから、母親のピカがすでにつけていた洗礼名(ジョヴァンニ)に満足せず、父親は彼にフランチェスコと名づけたという。フランチェスコは成長すると、持ち前の快活さと父の財力で、町の青年たちの中心となって、「宴(うたげ)の王」と呼ばれるほどの放蕩生活を送っていた。当時アッシジでは貴族と一般市民たちが、町の政治の主導権をめぐって争っていた。市民たちが、これまでアッシジを支配してきた封建領主の城塞(じょうさい)を攻撃し、破壊した時、十八歳のフランチェスコは騎士になって手柄を立てようと、これに参加した。だがアッシジは敗(やぶ)れ、フランチェスコは捕虜となり、父親が身の代金を払って釈放されるまで、捕虜収容所で一年余を過ごした。捕虜生活の間に病気に罹(かか)ったため、アッシジに帰った後も、しばらくは療養に時を過ごしていた。1204年(23歳)、病から治ったフランチェスコは、神聖ローマ皇帝と戦っていたローマ教皇軍に身を投じた。フランチェスコの伝記を書いたチェラノのトマスによれば、「美しく騎士の装束(そうぞく)に身を固めたフランチェスコが従者を従えローマに赴く途中、みすぼらしい貧相な騎士に出会い、自分の身にまとっていた衣装をその騎士に与えてしまった」と述べている。
      (二)
ある日、フランチェスコは夢で「故郷へ帰れ。そこでおまえのなすべきことを示そう」という声を聞き、アッシジへ戻っていった。アッシジに帰った彼は、今までの生活がむなしくなり、新しい生き方を探し求め、孤独と祈りを好むようになっていった。こうして、二十三歳のときフランチェスコは、信仰に目覚めた。ある夜、熱にうなされて「おまえは主人と僕(しもべ)と、どちらに使えたいのか」と問う夢を見て、騎士の夢を捨てた。やがて、フランチェスコはアッシジ近郊にある、当時、荒れ果てていた聖ダミアノ聖堂で祈りをしていた時、そこに掛っていた十字架から「私の教会を建て直せ!」という神の声を聞いた。そこで、聖ダミアノ聖堂やポルチウンクラ聖堂の修復を行い、そのほかの壊れた教会を見つけては修理に励んだ。また、ハンセン病患者と出会って看護するなどの宗教的回心を経て、それまでの裕福な生活を捨てて、無一物になり、神と人々に奉仕する生活に入った。やがて、精神的な意味で教会を建て直すことに気がついたフランチェスコは、キリストの教えを徹底的に生きること、つまりイエス・キリストが生活したように生活(「神の国の宣教」、「無一物の生活」、「平和の建設」)する事を決心した。聖フランチェスコの、この決心を促(うなが)した一つには、「マタイによる福音書」(10章)のイエスが12人の弟子を派遣する時にいわれた言葉「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖ももって行ってはならない」であったという。
(参考)
@「マタイによる福音書」(10章9〜15)・・・(10章9)帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。(10章10)旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である(10章11)町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。(10章12)その家に入ったら「平和があるように」と挨拶しなさい。(10章13)家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。(10章14)あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。(10章15)はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」
      (三)
この世の財産を投げ捨て、貧しい生活に徹して生きるフランチェスコを見て、やがて人々は彼を「ポベレルロ」(貧しき人=聖フランチェスコの代名詞)と呼ぶようになった。1208年(27歳)に清貧・貞潔・従順という三つの戒律を定め、活動を始めた。戒律は全ての財産を放棄した厳しい清貧と、福音を説くことを求めるものであった。弟子たちと共に各地を放浪し、説教を続けた。あらゆる圧迫にもくじけず、人々に改心を勧め、「平和と愛」を説くフランチェスコの姿に人々は胸を打たれ、彼の生活に共鳴した者が十二人、集った。そこで、1210年(29歳)フランチェスコはローマ法王の認可を受け、「小さき兄弟の修道会」と呼ばれる修道会の創立に踏み切った。1212年(31歳)には、女性で最初のフランチェスコの弟子となったクララ(キアラ)を始めとする、女性のための修道会(クララ会)を創立した。聖フランチェスコには、キリストと同じく貧しく生きることに徹したということと同時に、限りなく人間以外の他の生命に対して慈愛を持ち、その存在自体が、彼にとって大きな歓喜であり、感謝の気持ちを起こさずにはいられないものであった。全てのものを放棄したが故に、逆にあらゆる存在が神の栄光を現わしていると気づいたのであった。彼が話し始めると、鳥たちがが彼の周(まわ)りに集まり、じっとその話を聴いていたという。聖フランチェスコがよく口にした聖書の言葉は「空の鳥を見よ。蒔(ま)きも刈(か)りも、倉に収(おさ)めもしないのに、あなたたちの天の父はそれを養って下さる。野の百合がどうして育つか見よ。苦労もせず、紡(つむ)ぎもしない。今日は野にあり、明日は竈(かまど)に投げ入れられる草をさえ、神はこのように装わせて下さる。だから何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな」(マタイ伝より)であった。又、聖フランチェスコは、グッビオという町で人を襲う狼に出会った。しかし、聖フランチェスコは十字架の印(いん)をして、その狼を押しとどめ静かに諭(さと)すと、狼はすっかりおとなしくなり、それ以後は、町の人の間でも可愛がられるようになったという。このように、神との深い交わりからわき出る聖フランチェスコの説教は、強く人びとの心をとらえ、さらに、その慈悲深い説教には無心の小鳥、魚、羊、狼さえおとなしく聞き従ったという。
      (四)
ある時、弟子の一人マッセオが聖フランチェスコに言った「どうして、人々が貴方について来るのか、そして、どうして皆が、貴方に会いたがり、その話を聞き、貴方に従おうとするのか、私は、それを聞きたいのです。貴方の容姿は立派でもないし、学者でもないし、貴族でもないのに、それでも、どうして、世界中の人が貴方について来るのでしょう?」。これを聞いた聖フランチェスコは、弟子のマッセオの方に向き直り、溢れ出る熱情のままに、こう言った「どうして私に、どうして私に、どうして私に皆がついて来るのか、貴方は知りたいのですね? これは、どんな所でも、善人と悪人を見極められる、いと高き神の眼によるものです。そのいとも聖なる眼は、どんな罪人も、私以上に卑劣で、私以上に欠点だらけで、私以上に大罪人とは、見られませんでした。そして、神には、ご自分がなさろうとされる驚くべき御業(みわざ)のために、この地上で、私以上に哀れな被造物が見つからなかったのです。それで、神はこの世の、尊ばれる者、傲慢な者、力ある者、美しき者、知恵のある者を打ち砕くために、私を選ばれました。こうして、どんな力も、どんな善も、被造物からではなく、神からのものであることを、人々が知って、誰一人、自分のものを誇ることが出来ないようにされたのです。人が誇れるのは、すべての誉(ほま)れと栄光を永遠に持っておられる主(しゅ)においてしか、誇れないのです」と。これほど謙虚な、熱情のこもった答えに、弟子のマッセオはひどく驚き入り、聖フランチェスコが、謙遜の上に、自分のゆるぎない土台を築いていることを、あらためて知ったのであった。(「聖フランシスコの小さき花」より)
(参考)
@キリストと同じく貧しく生きることに徹した・・・フランシスコがもっとも好んだイエスの降誕祭では、家畜小屋に人間や家畜を配し、具体的に誕生の場面を再現し、祝ったという。これは今日に至るまで、クリスマスの時に教会内にミニチュアの家畜小屋を作り、人形の人物や家畜を配し、降誕祭を再現する習慣が続いている。
A鳥たちがが彼の周りに集まり・・・(小話323)「小鳥への説法」の話・・・を参照。
「荒野の聖フランチェスコ」(ベッリーニ)の絵はこちらへ
「小鳥への説教」(ジョット)の絵はこちらへ
      (五)
1221年(40歳)以後は、フランチェスコの内面が、ますます神に高められて行く過程であった。1224年9月17日、つまり死の二年前に、フランチェスコは、アルベルナ山でイエス・キリストに倣(なら)い、40日40夜の断食をし黙想をしていたとき、キリストがゴルゴダの丘で処刑された時に受けた傷と同じ五つの傷を両手両足、そしてわき腹に受けた(聖痕の奇跡)。フランチェスコにとっては、目に見えるもの、手に触れるものすべてが神のみ業(わざ)であり、人間にとっては兄弟であるという心の高みにまで達した。その後、ロバに乗って、各地方を巡回して説教した。1225年(44歳)、フランチェスコは、病(やま)いが重くなり、サン・ダミアーノで最初の女弟子のクララ(キアラ)の看護を受けた。この時期、ほとんど視力がなかったが、庭の掘立て小屋で病臥(びょうが)し、鼠(ねずみ)や虫に苦しめられながら「太陽の賛歌」を作った。ほどなく、フランチェスコはフォンテ・コロンポ近くの庵に引きこもったが、病いが進んで失明した。「太陽なる兄弟、姉妹なる月」と自然を呼んだフランチェスコは、死さえも「姉妹なる死」と呼んで、喜んで迎えた。こうして1226年10月3日の夕暮、まずアッシジからポルチウンクラに運ばせる途中、かってライ病院があったあたりで担架を止めさせ、アッシジの町を祝福した後、サンタ・マリア・デリ・アンゼリで息を引きとった。享年45歳(1182年生まれなら44歳)。最後の最後まで、イエス・キリストに倣(なら)うことを心掛けたフランチェスコは、死に方さえもキリストに倣い裸で地面に横たえてくれるよう願った。遺体は遺言にしたがって、クララがいるアッシジのサン・ダミアーノへと運ばれた。そして、聖フランシスコ大聖堂(バジリカ)に安置されて、2年後には聖人の列に加えられた。
(参考)
@聖痕の奇跡・・・フランチェスコは、まさしく「キリストのまねび」そのもので、救いや癒しの奇跡を行い、1224年には、歴史上最初の聖痕を受けた人である。聖痕は、キリストが受難の際に受けた傷が、外的な原因なしに脱魂状態の人の身体に自然に発生する現象をいい、聖痕が生じるのはキリストが傷を受けたのと同じ場所、すなわち手、足、胸、額、肩などで、医学的治療によって治癒せず、出血は続くが炎症をおこしたり化膿したりすることはなく、死に至るまで残るという。
Aクララ(キアラ)の看護・・・聖フランチェスコと同じアッシジの町に生まれ、後、聖フランチェスコの最初の女弟子となった。(小話742)「「清貧の花」と言われたアッシジの聖クララ(キアラ)。清貧を愛し、清貧に生き、清貧のために戦ったその生涯」の話・・・を参照。
Bフランチェスコの精神をよく表しているのは、有名な「太陽の賛歌」で、そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への賛美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。こうしたことから、彼は西洋人には珍しいほど自然と一体化した聖人として国や教派を超えて世界中の人から愛されている。小鳥へ向かって説教したという伝説も大変に有名であり、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。フランシスコに関する記録文書は数多くあり、その中には「聖フランシスコの小さい花」と「聖フランシスコの平和の祈り」が有名であるが、これをフランチェスコ自身が書いたという証拠は無いという。

C「太陽の賛歌」・・・・

神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。

わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。

わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。

わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。

わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。

わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。

わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。

神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜いく者は、あなたから永遠の冠を受けます。

わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。

神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。

神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、感謝します。
D「平和の祈り」・・・・

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいのあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を
もたらすことができますように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを
望ませてください。

自分を捨てて初めて
自分を見出し
赦してこそゆるされ
死ぬことによってのみ
永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください。
(注2)
「太陽の賛歌」に基づいて「讃美歌21」の233番(「讃美歌」の75番)の歌が作られてる。
「奏楽の天使に慰められる聖フランチェスコ」(リバルタ)の絵はこちらへ
「聖フランチェスコと彼の生涯」(ベルリンギエーリ) の絵はこちらへこの絵は、聖フランチェスコを描いた最古の絵画であると言われ、中央に立つ聖人は、両手両足に聖痕を残し、前方を見つめてフランシスコ会の衣をまとい、腰帯には特徴的な三つの結び目がある。これには、清貧、童貞、服従の三つの宗教的誓願がこめられている。さらに、両肩近くに描かれた二人の天使は、彼が聖人であることを示すもので、彼の生涯にちなんだ奇跡の物語が左右に三つずつ描かれている。
「聖フランチェスコ」(チマブーエ)の絵はこちらへ聖人の面影を最も良く捉えているという
「アッシジのフランチェスコ」(不明)の絵はこちらへ生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像
「聖母子と幼児聖ヨハネ(聖母子とパドヴァの聖アントニウス、聖フランチェスコ、アレクサンドリアの聖女カタリナおよび洗礼者聖ヨハネ)」(コレッジョ)の絵はこちらへ
「十字架上のキリストを抱く聖フランチェスコ 」(リバルタ)の絵はこちらへ


(小話736)「天国での再会」の話・・・
         (一)
ある牧師の話より。神学者バルトは「天国で愛する人々みんなと再会できるというのは確かか?」との質問に「愛する人だけでなく、他の人々とも再会する」と答えています。私が死んであの世に行く時、先ず迎えてくれるのは身内や友人などの親しい人ですが、天国には無数の知らない人や、会いたくない人もいるはずです。では、あの世もまたこの世と同じ、愛や憎しみの交錯する世界なのかということになりますが、どうなのでしょうか。イエス様は天国での人間関係の有りようを「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:30)と説明されます。これを聞いて天国はなんて水くさいところなんだろう、この世のほうがまだましだと思う人もいるでしょう。天国はこの世と同じどころか、かえって面白くないところなのでしょうか?。
(参考)
@神学者バルト・・・スイスの神学者。弁証法神学の創唱者の一人。神の啓示を神学の中心問題とし、聖書的福音主義を唱え現代神学に大きな影響を与えた。
A愛する人だけでなく・・・これらの言葉は、宗教に関するジョークとして有名である。
「再会」
ある方が、有名な神学者に天国のことについて尋ねた。
「先生、私たちは、愛する人たちみんなと、ほんとうに天国で再会できるのですか?」
尋ねられた神学者は、力を込めて言った。
「ええ、確かです・・・だが、他の人々とも再会しますよ」
         (二)
ヨハネ福音書17章でイエス様は、天国で皆が「一つとなるように」と祈られます。その「一つになる」ということは「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」というのと同じことの裏表なのです。これは消極的、否定的なものでなく、かえってそれを超えるもの、すべての人と「めとったり、嫁いだり」する以上の親しい関係、愛し合う人間関係が成立することを暗示しておられるのです。まさに、敵とも赦(ゆる)し合い「(神様の)愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいる」というような関係の成り立つところが、天国なのです。なかなか人を愛することはできないとの悩みがありますが、それも、あの世を視野に入れるとき解決するのではないでしょうか。永眠者記念礼拝を通して、天国を視野に入れた信仰を持つことを学びたいものです。
(参考)
@永眠者記念礼拝・・・教会には、教会員やその家族の方々が永眠されていて、それらの方々のことを偲び、毎年11月第1日曜日には永眠者記念礼拝を行う。いまだ地上に生きている聖徒=信仰者が、すでに地上の生涯を終えて死んだ聖徒=信仰者を記念して、共に主にあって交わりを与えられていることを感謝するのである。


(小話735)「欲張りの婆さん」の話・・・
          (一)
あるところに、自分で酒を作り、それを売って生計を立てているば婆さんがいた。この店にいつも酒を飲みに来る坊さんがいて、いっこうに代金を払わなかったけれど、婆さんはけっして、文句を言わなかった。ある日、その坊さんが言った「長い間、ただで酒を飲ましてもらったお礼に、酒の出る井戸を掘って進ぜよう」。坊さんは、店の裏に井戸を一つ掘ると、そのままどこかへ行ってしまい、二度と姿を現わさなかった。本当にその井戸からは酒が出て、しかも、何ともいえぬ良い味であった。婆さんは、わざわざ酒を作らなくてもよくなり、井戸から汲(く)み出しては人に売った。こうして酒は飛ぶように売れ、三年経つと、婆さんは大金持ちになった。
          (二)
ある日、例の坊さんがひょっこり店に入って来た。その坊さんの顔を見るなり、婆さんはこぼした「以前には、酒を造るときの粕(かす)で、豚が飼えたのに、あの井戸から自然に酒が出るので、粕が取れず、豚が飼えなくなってしまったんですよ」と。坊さんはこれを聞くと笑って、壁に歌の文句を書いた「天が高いというたとて、人の心にゃ及びもつかぬ、何より高いは人の欲、井戸から汲んだ酒を売り、粕がとれぬと不平顔」。書き終わると、坊さんは出て行った。そして、それ以来、井戸からは二度と酒が出なくなってしまったという。
(参考)
中国の古典「雪涛小説」より。


(小話734)「桃核(とうかく)」の話・・・
       (一)
ある禅僧の話より。法事の席などで時々、もの知りのわけ知り爺さまに出会う。「人間は、苦労せにゃいかん。わしらの若い時分は食うものが何もなくて、そりゃあ貧しかった。だから、一生懸命に働いてきた。そして、戦争に引っ張られ、大砲の弾の中をはいずり回って、死ぬような目に何度も会ったよ。そんな極限状態を経験してきたから、わしらは苦しいことの一つや二つはいつでも乗り越えられるんだ。和尚様の修行も大変だったろうけれど、わしらは戦争を経験して、生きるか死ぬかのところを潜り抜けてきたんですよ。お寺さんの修行は軍隊ほど厳しくはないでしょうな。それにしても今の若い者は、理屈が上手で、贅沢ばかりしておる。わしらは一生懸命に働いてきたというのに、暇さえ有れば遊ぶことばかり考えとる。孫のこともちゃんと躾(しつ)けをせにゃならんのに、こちらが口をだせば若嫁さんがプリプリと怒るので、へたに口も出せんよ。ほんとうに、世の中、まちがった方向へ行っとるよ。そもそも政治家が悪い、等々」その言はもっともである。
       (二)
「千年桃核(せんねんのとうかく)」という言葉がある。千年もの時間をかけてコチコチに堅くなった桃の種のことで、手が付けられぬほどの石頭の持ち主のことを指(さ)していう。桃には魔除けや長寿を得られるという、霊力がある、ということになっているから、これを後生大事に振り回されると余計に始末が悪いこととなる。禅宗のお坊さんが修行にいくのは、「私は苦労したから正しい」という世間一般にありがちな、固定観念という垢(あか)を落とすために道場へ行くのである。苦しむために、苦労するために修行する仏教はこの世に存在しない。もし、そう思って修行したら仏教ではなくなる。


(小話733)「山火事と小鳥」の話・・・
        (一)「1羽の小鳥」
山火事が起きた。ゴウゴウ渦巻く大火を見て、鳥も獣も一目散に逃げた。その中でただ1羽の小鳥が、その山火事を消そうとして、必死になって自分の羽を谷川の水に浸しては、大火の上に行って、羽に浸した雫をはらった。そんな努力は、くたびれもうけでなんの役にもたたないと、他の鳥たちはその愚をあざ笑ったが、その小鳥は一途にやり続けた。小鳥にできることはそれしかなかったからだ。天の神はこの小鳥の心に感じ、大雨を降らせて火を消したという。
        (二)「1羽のハチドリ」
南アメリカの先住民に伝わるハチドリの物語。あるとき森が燃えていました。森の生きものたちはわれ先にと逃げていきました。でもクリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたり、口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは、火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て、「そんなことをしていったい何になるんだ」といって笑います。クリキンディはこう答えました「私は私にできることをしているだけ」
(参考)
「ハチドリのひとしずく」(辻信一)より。
        (三)「ある小鳥の話」
山火事が起きた。そこに住むシシやトラや象などが懸命になって消火したが、火勢はつのるばかり。さすがに彼らも力つきて、安全な岩陰に逃れて山火事を傍観した。そのとき、一羽の小鳥が、遠くの沢の水を自分の羽に乗せては火事場を往復して消火につとめていた。彼らは小鳥を嘲笑して言う「やめよ!やめよ!おれ達でさえ消火できないものを、小さなお前がそんな水滴を運んだところで、この大火が消せるものか」小鳥は答えた「私の力で不可能なのはよく知っています。しかし、大切な山が焼けるというのに、出来ないからといって、そのまま傍観は出来ません」
(参考)
(小話1)ある小鳥の話・・・より再掲。


(小話732)「偉大なる英雄テセウスの波乱に満ちた冒険の生涯。そして、怪物ミノタウロス退治と冥府下りとその最期」の話・・・
         (一)
ギリシャ神話より。ギリシャ最大の英雄ヘラクレスに匹敵する英雄であるアテナイの王テセウスは、アイゲウス王とトロイゼンの王女アイトラの息子であった。父親のアテナイ王アイゲウスは何人もの妻を娶(めと)ったが、一向に子供が出来なかった。アイゲウス王は、このままでは相続のことで一族に争いが起きると考えて、神託の地デルポイを訪れて神託を求めた。デルポイの巫女(みこ)の神託は「アテナイの故郷にたどり着くまでは、決して酒袋の口を開けてはなりません」というものであったが、アイゲウス王には、その予言の意味がまったく分からなかった。だが、とにかくデルポイを立ってアテナイへと戻ることにした。帰路、途中少し回り道をして、アテナイと湾を挟んで反対側のトロイゼンに立ち寄った。トロイゼンのピッテウス王はアイゲウス王のデルポイの神託の話を聞くと、瞬時に神託の意味を悟った。それは他国で酔っ払って女を抱くと子供ができてしまうのだと解釈したのであった。そこで、ピッテウス王はアイゲウス王に多量の酒を勧めて、娘の王女アイトラと床を供にさせた。すると王女アイトラはアイゲウス王の子を懐妊した。しかし、アイゲウス王は子供が生まれる前に、アテナイへと戻ることになった。「もし男の子が産まれたら私の素性を決して教えてはいけない。命を狙われる恐れがあるから、父の名を隠して養育して欲しい。そして彼が一人前の若者となった時、大岩の下に隠しておいた剣とサンダルを取り出させてみて欲しい。もしその子が大岩をどかせる位の男であれば、この父の名を教え、そして、証拠品を持たせてアテナイに来るように言ってくれ」。そう言い残しアイゲウス王は、王女アイトラを置いて去って行った。そして月満ちて、王女アイトラはテセウスという立派な男の子を産み落とした。
(参考)
@デルポイ・・・デルポイはギリシア本土、パルナッソス山のふもとにあった古代ギリシアの都市国家(ポリス)である。アポロン神殿を中心とする神域と、都市からなる。神託は、神がかりになったデルポイの巫女(みこ)によって、謎めいた詩の形で告げられる。
A王女アイトラと床を供にさせた・・・テセウスは、海王ポセイドンとトロイゼンの王女アイトラの子と言う説もあり、ピッテウス王が泥酔したアイゲウス王を王女アイトラの寝室に放り込んだ。そして、同じ夜に海王ポセイドンも寝室にやってきたという。
         (二)
テセウスがトロイゼンで健(すこ)やかに成長している間、アテナイでは事件が起きていた。アイゲウス王は恒例の「パンアテナイア祭典」を行い、その競技で優勝を果たしたのが、ちょうどアテナイに滞在していたクレタ島のミノス王の息子アンドロゲオスであった。しかし彼は、この地で変死を遂げてしまった。それを聞いた父親のクレタ島ミノス王は激怒して、アテナイを逆恨みし大艦隊で攻め寄せて来た。だがミノス王はなかなかアテナイを落とすことができなかった。そこで、まずアイゲウス王の兄弟ニソスが統治するメガラの地に目をつけた。しかし、ここも防御が堅った。ニソス王には一人娘スキュラがいたのだが、彼女は敵国の王ミノスに一目ぼれしてしまった。盲目の恋は、自国や親をも裏切るもので、スキュラはミノス王に父親の弱点を教えてしまった。ニソス王には紫色をした髪の毛が頭の真ん中に一房(ひとふさ)生えていた。これを切り取ると死んでしまうのだった。娘のスキュラは、父が寝ている隙に髪の毛を切り落して、ミノス王の元に逃げ込んだ。大将を失った国は落ちるのも早い。メガラの地はミノス王により落城した。そして、ミノス王は冷酷にも用済みのスキュラを船の先端に逆さ吊りにして、溺死させてしまった。ミノス王はメガラの地を征服したものの、結局、戦争は長引き、なかなかアテナイを落とすことができなかった。そこで、ミノス王は父でもある大神ゼウスに祈った。するとアテナイに飢饉と疫病がはやり、アテナイ側もすぐに神託を求めた。「お前達はクレタ島ミノス王に勝つことはできない。出来ることは、彼に降伏することだけだ」。そこでアイゲウス王は、早速クレタ島に使者を遣(つか)わして和解を求めたが、和解の条件は恐ろしいものであった。それは毎年(又は3年ごと、9年ごと)七人づつ(十四人)の少年少女を怪物ミノタウロスの餌食(えじき)に送れというものであった。こうして、七人づつの少年少女たちは、クレタ島にある迷宮ラビュリントスに送りこまれることになった。迷宮ラビュリントスには半人半牛の怪物ミノタウロスが閉じ込められており、アテナイから来た少年少女たちはここでミノタウロスの餌食となるか、運良く怪物に見つからなかったとしても、餓死する運命が待っていた。この迷宮ラビュリントスは、名工ダイダロスが作った、一度入ったら二度と出られない死の迷宮であった。
(参考)
@クレタ島のミノス王・・・クレタ島の王。大神ゼウスとエウロペの子。法を制定し、善政をしき、死後、冥府の判官となった。ダイダロスに命じて迷宮を造らせ、妃の生んだ怪物ミノタウロスを閉じ込めた。(小話419)「ミノス王と迷宮ラビュリントスの怪物ミノタウロス。そしてイカロスの翼」の話・・・を参照。
A彼はこの地で変死を遂げた・・・ミノス王の息子アンドロゲオスは、アイゲウス王にマラトンの牡牛退治を頼まれて逆に殺されてしまったとか、あるいはテーバイのライオス王の葬儀競技会に向かう途中で彼の運動能力に嫉妬する何者かに暗殺されるのだとかいう説もある。
B用済みのスキュラ・・・スキュラには、羽が生えてケイリスという鳥に変身したが、しかし、海鷲(ハリアエトス)に変身した父ニソスが、絶えず彼女を引き裂こうと追い回しているのだという。
C名工ダイダロス・・・ダイダロスは名高い名工だがうぬぼれが強く、ねたみ深かった。かって、ダイダロスの甥(おい)にタロスという男がいたが、 タロスは多才であり、ある時、蛇の顎(あご)骨を見て鋸(のこぎり)を発明した。 それを見たダイダロスは驚愕し、もしかすると将来自分を陵駕(りょうが)するのではないかと思い、アテナイの城から突き落して殺してしまった。 その為、ダイダロスはアテナイから逃れて、ミノス王の元で名工として尊敬されていた。
「クレタ島の迷宮のミノタウロスに捧げられるアテナイの若者たち」(モロー)の絵はこちらへ
「スキュラとミノス」(ジャン・マテウス)の絵はこちらへ
         (三)
テセウスはトロイゼンで王女アイトラの子として、父の名前を知らずに育った。母アイトラはアイゲウス王との約束を守った。テセウスが七歳の時に、英雄ヘラクレスがピッテウス王の館を訪れた。その時、幼いテセウスはその食卓に同席した。ヘラクレスが食事の際に着ていた獅子の毛皮を脱ぐと、その毛皮を見た他の子供は驚いて逃げ出したが、テセウスは怖れる色もなく家来の手から斧(おの)を取ると、本当の獅子だと思って毛皮に向かって飛び掛った。英雄ヘラクレスのこの訪問以来、幼いテセウスは将来ヘラクレスと同じような胸躍る冒険と功績をたてることを夢みるようになった。テセウスが十六歳の時に母は言った。「立派に成長したお前なら、もうあそこの大岩を押しのけることができるでしょう。あの大岩の下に剣とサンダルが埋まっています。それを取りにいきなさい」。テセウスは大岩を持ち上げさせ隠してあった剣とサンダルを取り出した。「そろそろ本当の事を言う時期が来たようですね。あなたの父親はアテナイ王アイゲウス様なのよ」。こうしてテセウスはサンダルを足に結びつけ、剣を腰に帯び、アテナイに向けて旅立つことになった。アテナイはトロイゼンと湾を挟んで隣にあったため、母親アイトラは安全な船旅を勧めたが、英雄ヘラクレスのような冒険を求めていたテセウスは、それを断りわざと危険な陸路の道をとった。当時の陸路は山賊や追いはぎが横行して、善良な旅人を脅かしていたので、テセウスはそれらを退治してやろうと心に決めたのであった。
(参考)
「テセウスとアイトラ」(ラ・イール)の絵はこちらへ
「テセウスとアイトラ」(プッサン)の絵はこちらへ
「テセウスとその母アイトラ」(ラ・イール)の絵はこちらへ
         (四)
まず最初にテセウスは、エピダウロス近郊で「棍棒使いの男(コリュネテス)」というあだ名を持つペリペテスと出会った。彼は鍛冶の神ヘパイストスの子といわれており、鉄の棍棒(こんぼう)で旅人を殺す追いはぎであった。テセウスはなんなくペリペテスを殺して、戦利品として彼の棍棒を自分の武器に加えた。そして二番目には、コリントスのイストモス地峡に差し掛かった場所で「松の木を曲げる男(ピチュオカンプテス)」というあだ名を持つ男シニスと出会った。この男は旅人を捕まえて両足にしなった松の木をくくりつけ、二股裂きにして喜んでいる凶悪な男であった。テセウスはシニスを捕まえて、同じ二股裂きの方法で殺した。自分の行った罪の報いを受けさせたのだ。三番目にテセウスは、クロミュオンの地に赴いてパイアという狂暴な白い毛の牝猪(めすいのしし)を退治した。四番目には、メガラ領の入り口でコリントス人スケイロンを倒した。スケイロンは「スケイロンの岩(スケイロニダイ)」と呼ばれる巨岩に居座り、通行人に無理やり自分の足を洗わせ、その最中に下の海に蹴り落とし、そこに棲(す)んでいる巨大亀の餌食にしていた。テセウスは彼の足をつかんで海に投げ込んで、大亀の餌にしてしまった。五番目には、エレウシスの地に入って、ケルキュオンを退治した。ケルキュオンは旅人に無理やりレスリングを強(し)いては殺していた。しかし、そんなケルキュオンもテセウスには敵(かな)わず、頭上高く持ち上げられ、そのまま地面に叩きつけられた。そして最後の六番目は、「引き伸ばす男(プロクルステス)」というあだ名を持つダマステスで、彼は旅人を自分の家に招き背の高い者は小さな寝台に寝かせ、はみ出した部分をのこぎりで切り取り、背の低いものは大きな寝台に寝かせ、足りない分を引き伸ばすという悪党であった。テセウスはダマステスを捕まえると、彼が旅人に行ったのと同じ方法で彼を殺してしまった。こうしてテセウスはアテナイにたどり着くまでの間に、六つの手柄を立てて、トロゼンからアテナイの陸路を旅人が安全に通れるようにした。又、この危険な冒険の旅でテセウスの名は、一躍ギリシャ中に広まった。そして、アテナイに着くころには勇者として名を上げていた。
(参考)
@五番目には、エレウシスの地・・・実はこれと前後して、テセウスが ヘラクレス をはじめとする英雄たちと共にアルゴー号に乗って冒険したという説もある。だが、若きテセウスが父に会うためにアテナイに到着し、このとき父アイゲウス王の後妻がメデイアのため、お互いに相手を知らないのも不自然である。
         (五)
こうしてテセウスは、ようやくアテナイの城に到着した。その頃、アテナイ王アイゲウスは、アルゴー船探検隊長イアソンの元妻でコルキスの王女メディアを後妻として王妃に迎えていた。彼女はイアソンの元を逃げて、有翼の竜の馬車に乗ってアテナイの地へ来ていたのであった。王妃メディアは魔女であり、したたかな女であった。その王妃メディアは、アイゲウス王に面会を求めて来た若い勇者テセウスを一目見て、自分にとって邪魔な人間だということを見抜いた。テセウスとアイゲウス王が親子の再会を行う隙も与えずにアイゲウス王に入れ知恵をした。「あの男は貴方の地位を狙っている不届き者よ。ああいう輩(やから)はさっさと排除すべきですわ。ちょうどマラトンの地では荒牛に困っていますし、あの男をあそこへ送り込んで退治するという名目で死んでもらいましょう」。王妃メディアの口車に乗ったアイゲウス王はテセウスを「マラトンの荒牛退治」に駆り出すことにした。しかし、テセウスは難なく荒牛を退治して、アテナイに凱旋帰国した。計画が失敗し王妃メディアは、今度はアイゲウス王をそそのかしテセウスに毒薬の入った酒盃を飲ませるようたくらんだ。早速アイゲウス王は王妃メディアに言われるがまま毒の入った酒杯を用意させ、荒牛を退治した勇者テセウスを歓迎した。しかし、勇敢な若者のテセウスを視察していたアイゲウス王の目に飛び込んできたのは、 テセウスが腰からぶらさげていた剣であった。それはかって自分がトロイゼンで大岩の下に隠してきた剣だった。アイゲウス王は急いでテセウスの手に持つ毒入りの杯を払い落とし、親子の対面をした。これを見て王妃メディアは、ここに留まると危険だと察知し、さっさとアイゲウス王との間に出来た息子メドスを連れて、アテナイから竜の馬車で逃亡した。親子の対面の喜びもつかの間で、アイゲウス王の跡取が突然現れたことで、アテナイ国内では賛否両論、意見が真っ二つに割れた。アイゲウス王はすでに老齢の域に達していたので、彼の死後、相続権が回ってくることを期待していたアイゲウス王の弟パラスの五十人の息子たちは、トロイゼンから来た男にアテナイを渡すことに我慢ならなかった。そこで王位をめぐってとうとう内乱が起こった。だが反乱軍が攻め込んできたとき、彼らの伝令レオスが寝返り、テセウスは、パラスの五十人の息子たちは皆殺しにして勝利を得た。こうしてテセウスは名実共にアテナイの世継ぎとして迎えられた。
(参考)
@王女メディア・・・コルキスの王女。女神ヘカテ(天、地、海を支配する力を持っていたが、のちに冥界を支配する女神)に仕える魔女。叔母が魔女キルケ。(小話296-1)「魔女・キルケとメディアとスキュラ」の話・・・を参照。
A王女メディアを後妻・・・ イアソンとコルキスの王女メディアはコリントスに来て10年間幸せに暮らしたが、 イアソンの英雄譚(えいゆうたん)はコリントス王クレオンの耳に入った。よほど気に入ったらしく、自分の娘グラウケ(またはクレウサ)を嫁に与えて王族の仲間入りをしろという好条件をつきつけた。イオルコス王になれなかったイアソンは王族への未練があって、メディアから心が離れていった。夫の胸中を悟ったメディアは、静かに身をひくふりをした。「王位を夢見てきた貴方に、妻としてこのチャンスを逃せるようなものではありません。ただ残された私たちの2人の息子がかわいそうです。せめて息子達だけでもこの国にとどまるようにしていただけませんか?」メディアはそう言って、太陽の輝きを放つといわれる美しい衣装をメルメロスとペレスに持たせて王女に貢献させた。メディアの正体など知る由もない王女は、その美しい衣装を見ていそいそと着替え始めた。しかしその衣装には恐ろしい毒薬がすりこまれており、肌に吸い付いた瞬間たちまち王女は炎に包まれてしまったのだ。娘の叫び声に駆けつけた父も一緒に焼かれて死んでしまったのだ。事の成り行きに呆然とするイアソンをよそに、メディアは2人の息子を殺して逃亡をはかった。コリントスから脱走したメディアはヘリオス神から借りた有翼の竜の馬車でアテナイに逃げ、そこでアイゲウス王の後妻の地位に納まっていた。
         (六)
このころアテナイでは、大きな悩みを一つ抱えていた。それはクレタ島の迷宮ラビュリントスに住む怪物ミノタウロスへの生贄として毎年、少年少女たち七人(十四人)ずつ差し出さねばならなかった。これもすべてクレタ島との戦争に負けた賠償金の一部で、年頃の子供を持つ親は、籤(くじ)をひいて毎年、生贄の男女を決めていた。テセウスの王位継承に反対する声にくわえて、この生贄制度にアイゲウス王を非難する声も上がった。この事情を父から聞いたテセウスは、自らすすんで生贄に志願した。アイゲウス王は涙を流して息子を止めたが、テセウスの決意は変わらなかった。「父上、何かしなければ物事は進まないのですよ。このままずっと怪物ミノタウロスが死ぬまでアテナイの子供たちを生贄に差し出すつもりですか?」テセウスに諭(さと)された父アイゲウス王は仕方なく許可を出した。「生贄をクレタ島に送る船は、我々、つまりアテナイの船を使うことになっている。それ故、喪(も)に服すという意味を込めて黒い帆を張っているのだ。もしお前が怪物ミノタウロスを殺して脱出できれば、この船に乗って戻ることになる。その時は、白い帆を張って帰ってきておくれ。わしは高台に昇って帰りを待っている」。こうして生贄の子供たちをを乗せた船はクレタ島に到着した。クレタ島に着くと、すぐに生贄の少年少女たちは牢獄に閉じ込められた。ミノス王の娘アリアドネは、牢獄にいる美しい青年テセウスに一目惚れした。愛するテセウスが迷宮ラビュリントスに閉じ込められてしまうことを知ったアリアドネは、迷宮を作ったダイダロスに相談し、テセウスに銀の糸玉(アリアドネの糸)と剣を一振り手渡して、無事に脱出することが出来たら自分を妻にして欲しいと頼んだ。テセウスは銀の糸玉の端を迷宮の入り口にくくりつけ、子供たちと共に迷宮ラビュリントスの奥へと進んだ。やがて一行は怪物ミノタウロスと遭遇した。子供たちは皆、怯(おび)え震え上がったが、一人テセウスは勇敢に立ち向かい格闘した末(すえ)、ついに怪物ミノタウロスを倒した。そして、生贄の子供たちを連れ糸を辿って迷宮を脱出した。テセウスは約束通り、アリアドネを伴ってクレタ島の港を出港した。それからアテナイへと帰る途中、一行はナクソス島へ立ち寄った。そこに上陸したが、テセウスは戦いの女神アテナの「アリアドネを置いてすぐに島を出よ」という神託を受けたので、彼女が寝ている隙に、アテナイに一人旅立った。そんな時、酒神ディオニュソスがやってきて、悲しんでいるアリアドネを保護して妻にした。一方、アテナイに戻ったテセウスだが、大事なことを一つ忘れていた。船が戻って来たと聞きつけたアイゲウス王は、急いでアクロポリスの丘の上に駆けつけた。そこから見えた帆の色は黒であった。テセウスは船に白帆を張り忘れていたのだ。アイゲウス王は、息子の死に絶望して丘の上から飛び降り自殺をしてしまった。こうして父王の死後、テセウスは計(はから)らずともアテナイの王位を継いだのであった。
(参考)
@生贄の子供たちをを乗せた船・・・この船にはクレタ王ミノスが乗船していたという説があり、クレタ島に着くまでの間、ミノス王が生贄の娘の一人を辱(はずかし)めようとしたところ、テセウスがそれをやめさせた。するとミノス王は自分は大神ゼウスの息子だと自慢してテセウスをなじり、その証拠に大神ゼウスが雷鳴を轟かせたところ、テセウスは自分の父は海王ポセイドンだと言ってミノス王が投げ捨てた金の指輪を海の底から拾い上げてきたという。
A酒神ディオニュソス・・・アリアドネは酒神ディオニュソスの妻となり婚礼のの品として宝石のついた冠が彼女に贈られた。アリアドネの死後、ディオニュソス神が婚礼の時に贈った冠を空高く放り投げると、それは夜空に輝く冠座(かんむりざ)となった。
「テーセウスとアリアドネ」(ルンルン)の絵はこちらへ
「テセウスとミノタウロス」(壺絵)の絵はこちらへ
「ミノタウロスを退治したテーセウス」(ポンペイ壁画)の絵はこちらへ
「ナクソス島の眠っているアリアドネー」(バンダリン)の絵はこちらへ
「アリアドネ」(ウォーターハウス)絵はこちらへ
「バッカス(ディオニュソス)とアリアドネー」(ティントレット)の絵はこちらへ
「バッカスとアリアドネ」(フォッシー)の絵はこちらへ
「バッカスとアリアドネ」(ベルタン)の絵はこちらへ
         (七)
武勇に秀(ひい)でた冒険好きな王として、アテナイに君臨することになった英雄テセウスは、さまざまな政治改革も行った。まずアッティカ地方の各代表者がアテナイに集まって政治を行うようにした。しに上、色々な祭りごとを催して王政を廃止して、貴族・農民・工人による民主制を設立した。又、初めて貨幣というものを作った。だがテセウス王は、アマゾン族の女軍には手こづっていた。以前、英雄ヘラクレスに同行してアマゾン遠征をした時に、妻にするため女王ヒッポリュテを奪ってきたのだった。女王を取り戻すべく、アマゾン族たちはアテナイに攻撃を開始した。アレスの丘に陣取った彼女たちを迎え撃ち、約四ヶ月続いた戦争は和平という形で集結したが、女王ヒッポリュテは他のアマゾネス族の槍にかかって命を落とした。一方、テセウス王はミノス王の死後、息子デウカリオンの統治するクレタ島への攻撃を開始した。クレタ島は和平交渉を持ちかけて、ミノス王の娘パイドラをテセウス王の元へ嫁(とつ)がせるということで戦争は終わった。ところが後妻のパイドラは、アマゾン族の女王ヒッポリュテとテセウス王の息子ヒッポリュトスに恋心を抱いてしまった。だが、女嫌いのヒッポリュトスに振られ、その腹いせにパイドラは、彼に暴行されたとテセウス王に訴えた。テセウス王は息子を呪って、海王ポセイドンにヒッポリュトスの破滅を願うと、ヒッポリュトスが海辺で戦車を走らせている折、波間より牡牛が現れ、戦車が粉々に砕けたので、彼はそのまま引きずられて死んでしまった。その後、パイドラも自分のよこしまな行動が露見し、自ら首を吊(つ)って自殺した。妻を失ったテセウス王は、同じく妻を亡くしていたラピタイ族の王ペイリトオスと共に新しい妻を捜すことにした。テセウス王とペイリトオス王は「マラトンの荒牛退治」(又、「アルゴー船遠征」)や「カリュドンの巨大イノシシ退治」に参加した大親友であった。そして、二人はお互いに大神ゼウスの娘と結婚するために協力する約束を結び、五十歳になったテセウス王は十二歳のスパルタの王女ヘレネを、ペイリトオス王は冥界の女王ペルセポネを選んだ。ヘレネは首尾よく誘拐に成功したのだが、冥界に訪れた二人はまんまと冥王ハデスに捕まってしまった。「忘却の椅子」に座った二人の体に大蛇が巻きつき、微動だにすることが出来なくなってしまったまま、昏睡状態に陥っていった。テセウス王が冥界で捕まっている間に、スパルタのヘレネの兄弟のカストルとポリュデウケスがアテナイに侵入して、ヘレネを無事に奪回した。テセウス王(助かったのはテセウスだけで、ペイリトオスはタルタロスに落ちた)が冥界に来ていた英雄ヘラクレスに救出されアテナイに戻ってきたときは、すでにアテナイの支配権は政敵メネステウスの物となっていた。そこでテセウス王は、スキュロス島のリュコメデス王の元に亡命した。しかしリュコメデス王はテセウスを恐れてか、メネステウスに買収されてか、テセウス王を崖から突き落として殺害してしまった。こうしてアテナイの偉大な英雄は、あっけない最期を遂げた。テセウス王を追い出した後のアテナイ国では、いろいろな不祥事や不幸が起こった。国民はテセウス王の呪いのためだと考え、エウボイア島に亡命していたテセウスの息子達を迎えて王位に就けた。また、テセウス王を「半神の英雄(ヘロス)」として崇(あが)めることにしたのだった。
(参考)
@女王ヒッポリュテ・・・女王アンティオペ、あるいはメラニッペという説もある。(小話557)「ギリシャの英雄アキレウスとアマゾン族の美貌の女王ペンテシレイアの闘い」の話・・・を参照。
A女王ヒッポリテは他のアマゾネス・・・女王ヒッポリテは姉ペンテシレイアに、狩りの最中に誤って殺されたしてしまったという説もある。
Bヒッポリトス・・・(小話444)「潔癖な美少年ヒッポリュトスと医術の天才・アスクレピオス」の話・・・を参照。
C冥界に来ていた英雄ヘラクレス・・・英雄ヘラクレスは、狂気によって自分の妻子を殺してしまった。その罪を償うため、12の功業をせねばならなくなり、その最後の12番目の難行(冥界の番犬ケルベロスを捕まえる)の為に冥界に来ていた。かってヘラ女神の呪いで発狂したヘラクレスが妻子を皆殺しにした時も、友人達は皆ヘラクレスを見捨てたものの、テセウスだけはヘラクレスをただ一人かばったと言う。
「アマゾン族のアテナイ攻撃」(ヒルデブラント)の絵はこちらへ
「アテナイの壺絵」の絵はこちらへアマゾネスに全裸で襲いかかっているのがテセウス
「テセウスの抱擁を拒むパイドラ」(トリオゾン)の絵はこちらへ
「パイドラ」(カバネル)の絵はこちらへ
   

(小話731)「雷車(らいしゃ)」の話・・・
       (一)
東晋の永和(えいわ)年中に、義興(ぎこう)の周(しゅう)という姓の人が都を出た。主人は馬に乗り、従者二人が付き添ってゆくと、今夜の宿りを求むべき村里へ行き着かないうちに、日が暮れかかった。路ばたに一軒の新しい草葺(くさぶ)きの家があって、ひとりの女が門(かど)に立っていた。女は十六、七で、ここらには珍しい上品な顔容(かおかたち)で、着物も奇麗である。彼女は周(しゅう)に声をかけた。「もうやがて日が暮れます。次の村へ行き着くのさえ覚束(おぼつか)ないのに、どうして臨賀(りんが)まで行かれましょう」周は臨賀という所まで行くのではなかったが、次の村へも覚束ないと聞いて、今夜はここの家(うち)へ泊めて貰うことにすると、女はかいがいしく立ち働いて、火をおこして、湯を沸かして、晩飯を食わせてくれた。
       (二)
やがて夜の初更(しょこう)(午後七時から九時)とおぼしき頃に、家の外から小児(こども)の呼ぶ声がきこえた。「阿香(あこう)」それは女の名であるらしく、振り返って返事をすると、外ではまた言った。「おまえに御用がある。雷車(らいしゃ)を推(お)せという仰せだ」「はい、はい」外の声はそれぎりで止むと、女は周(しゅう)にむかって言った。「折角(せっかく)お泊まり下すっても、おかまい申すことも出来ません。わたくしは急用が起りましたので、すぐに行ってまいります」女は早々に出て行った。雷車を推せとはどういう事であろうと、周(しゅう)は従者らと噂をしていると、やがて夜半から大雷雨になったので、三人は顔をみあわせた。雷雨は暁け方にやむと、つづいて女は帰って来たので、彼女がいよいよ唯者(ただもの)でないことを三人は覚(さと)った。鄭重(ていちょう)に礼をのべて、彼女にわかれて、門を出てから見かえると、女のすがたも草の家も忽ち跡なく消えうせて、そこには新しい塚があるばかりであったので、三人は又もや顔を見あわせた。それにつけても、彼女が「臨賀までは遠い」と言ったのはどういう意味であるか、彼らにも判らなかった。しかも幾年の後に、その謎の解ける時節が来た。周(しゅう)は立身して臨賀(りんが)の太守となったのである。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話730)「イソップ寓話集20/20(その16)」の話・・・
     (一)「ロバとキリギリス」
ロバは、キリギリスの歌声を聞いて魅了され、自分もあんな風に美しい声で歌ってみたいものだと考えた。そこでロバは、キリギリスたちに、どんなものを食べるとそんなに素敵な声が出るのかと尋ねてみた。キリギリスたちは答えた。「水滴だよ」それで、ロバは、水しか摂らないことに決めた。ロバは、空腹ですぐに死んでしまった。
     (二)「ライオンとネズミ」
ライオンが気持ちよく寝ていると、何者かに眠りを妨げられた。ネズミが顔を駆け抜けたのだ。ライオンは、いきりたってネズミを捕まえると殺そうとした。ネズミは、必死に哀願した。「命を助けて下されば、必ず恩返しを致します」ライオンは、鼻で笑ってネズミを逃がしてやった。それから数日後、ライオンは、猟師の仕掛けた網にかかって動けなくなってしまった。ネズミは、ライオンのうなり声を聞きつけると、飛んで行き、歯でロープを、ガリガリとかじり、ライオンを逃がしてやった。ネズミは、得意になって言った。「この前、あなたは私を嘲笑しましたが、私にだって、あなたを、助けることができるのですよ。どうです。立派な恩返だったでしょう?」
     (三)「父親とその息子たち」
その男には、息子が大勢いたのだが、兄弟喧嘩が絶えず、いつもいがみ合ってばかりいて、父親が止めても、喧嘩をやめないというありさまだった。この期に及んで、父親は、内輪もめが如何に愚かなことであるかを、教え諭さなければならぬと痛感した。頃合いを見計らって、男は息子たちに、薪の束を持ってくるようにと言いつけた。息子たちが薪の束を持って来ると、男は、一人一人にその束を手渡し、そして、それを折るようにと命じた。息子たちは、懸命に力を振り絞ってみたが、薪の束はびくともしなかった。そこで、男は、束をほどくと、今度は、一本一本バラバラにして、息子たちに手渡した。すると息子たちは、たやすく薪を折った。そこで、彼は息子たちに、こんなことを語って聞かせた。「よいか、息子たちよ。もしお前たちが、心一つに団結し、互いに助け合うならば、この薪の束のように、どんな敵にもびくともしない。しかし、互いがバラバラだったなら、この棒きれのように、簡単にへし折られてしまうのだ」


(小話729)「天怒(天の怒り)」の話・・・
          (一)
私(江進之)は、ある夏、舟に乗って長江(揚子江=ようすこう)沿岸の豊城の町のあたりを通り過ぎた。時に太陽は真南にあって空の色はぴかぴかし、万里の果てまで青々と晴れていて、大変暑かった。西北の方に綿のような形の小さな黒雲があるだけであった。ところが、船頭は舟を豊城の町の港に着けて「ここで一晩泊まりまっせ」と言ったである。「こんなにいい天気なのにどうしてここで泊まるのだ? 前の舟も出て行くではないか?」「うんにゃ。駄目だ」と、とりあわず、ついに船頭は船を岸につけて、船首と船尾を杭(くい)に堅く結びつけた。
(参考)
@長江・・・中国最大の川。チベット高原北東部に源を発し、重慶・三峡を経て華中を横断、江蘇省の上海付近で東シナ海に注ぐ。長さ6300キロ。中国では長江とよび、揚子江は下流の揚州付近の称。
          (二)
私はしかたなく、お供の童子(子供)を連れて岸に上がり、氷を売る家があったので、そこで氷を食べて午後を過ごしていた。そのうちに、にわかに風が吹き始めた。と思っているうちに、川面(かわも)に激しい波が立ち始め、川沿いの家々の瓦(かわら)が蝶のように舞い上がり、童子が「あ、あれ」と指差すので、冠を押さえて長江の沖の方を見ると、白い怒涛が高く高く山のように立ち上がって、あっという間に我々より先に行っていた船を飲み込んでしまった。みんなで大騒ぎしていたが、波が高いのでどうしようもない。夕方までにはまた、嘘のように波が静かになりはじめた。ここで、はじめて舟を出しておぼれた人たちを救助したが、十六人が溺死したのだった。私の舟は、波をかぶって荷物が少しぬれたものの、それ以上の被害はなかった。わたしは、船頭に「あなたは神様ですか?」と言った。すると船頭が答えた「我輩江行久、故能測。測其且怒、畏焉而謹避之、庶不及覆。(我輩は江行すること久しく、ゆえによく測る。そのまさに怒らんとするを測り、畏れて謹んでこれを避け、覆るに及ばざるを庶(ねが)う=わしらはこの長江(揚子江)を長いこと航行しておりますで、(揚子江がどうなるか)先のことを見通すことができるんですわ。(揚子江が)まさに怒ったようになろうとしている、と見通して、慎んでこれを避けて、転覆しないようにしたんですじゃ)」と。そして、「前に行った舟も、見通さなかったのではないのです。ただ、畏(おそ)れるほどではない、と見切ったので進んだのです。何を根拠にそんなことをして溺死するに至ったのか、まったくわからんです」と付け加えた。
(参考)
江進之の「雪涛小説」より。


(小話728)「アッシジの聖フランチェスコ」の話・・・
      (一)
ある牧師の話より。聖フランチェスコは1181年か82年にアッシジの裕福な商人の子として生まれた。彼の夢は、騎士となって手柄を立て美しい貴婦人と結婚することであった。しかし、急にキリストに仕える騎士になり、清貧という名の貴婦人と結婚しようと思い立った。ローマのサンピエトロ大聖堂の前のホームレスの人々、重い病にかかった人々の群れの光景が彼の生き方を変えた。ある日の礼拝で読まれた聖書の言葉も彼の心を刺した。 「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな!」(マタイの福音書 10章9)というもので、フランチェスコはすべてを捨て、まったき貧しさを生きようと決心した。つまり、キリストは、このように言うことで、生きて行く上の必要な品が与えられるかどうかは、すべて神にお任せし、自分たちはただ、福音の宣教以外に心を向けては ならぬとお教えになったのであった。マザー・テレサが病気の人、行き倒れの人を世話する仕事を、インドで無一物で始めた時と同じであった。
(参考)
@聖フランチェスコ・・・カトリック教会の聖人。フランチェスコ修道会の創設者。イタリアのアッシジの生まれ。キリストにならい清貧・貞潔・奉仕の生活を守り、「小さき兄弟修道会」(のちのフランチェスコ修道会)を創立、愛と祈りの一生を送った。花や小鳥に至るまで、すべての小さきものへの純粋な愛によって、「キリストに最も近い聖者」として知られる。(小話737)「中世イタリアの最も偉大な聖人フランチェスコ。その清貧と宣教の生涯」の話・・・を参照。
Aマザー・テレサ・・・カトリックの修道女。マケドニアの生まれ。1950年「神の愛の宣教者会」を設立。病人や瀕死の人々の保護・救癩(きゅうらい)・孤児救済の施設を、カルカッタをはじめ世界各地に設立。79年ノーベル平和賞受賞。(小話623)「二十世紀の聖女、マザー・テレサ。その信仰と愛の生涯」の話・・・を参照。
      (二)
やがて、フランシスコの周りに同じ志(こころざし)を持った人々が集まって、フランシスコ修道会が生まれた。ところで、フランチェスコが小鳥に説教したという話があり、狼も彼に耳を傾けたと言われている。彼の周りにはそれほどの優しさが感じられたのであった。そのように彼は神様の愛と平和を体現した人で、彼の祈りに「私をあなたの平和の通り道にしてください」という言葉があるが、フランチェスコの伝記「聖フランチェスコの小さな花」の筆者は言っている。「この兄弟たち(つまりフランシスコ会の修道士 たち)は、この世では、小烏たちと同じく自分のものはなにひとつ持たず、ただ神さまのみ心の成るため、自分のいのちをささげようとしているのである」と。


(小話727)「王女アンティオペと双子の息子(アムピオンとゼトス)」の話・・・
          (一)
ギリシャ神話より。テーバイ建国の英雄カドモスの息子でテーバイのポリュドロス王が臨終の床についたとき、王は義理の父ニュクテウスに、未成年の息子ラプダコスの後見を頼んだ。しかし、ラブダコスが王位にあったのは一年にすぎなかった。ラプダコスは死に、ニュクテウスはこんどは、ラブダコスの幼い息子ライオスの後見をすることになった。ニュクテウス王にはアンティオペという美しい娘があったが、娘は大神ゼウスに見初められた。そして彼女は、あるとき森で眠っているところをサテュロスに変身したゼウスに襲われて身ごもってしまった。厳しい父ニュクテウスの怒りを恐れて、アンティオペは子供が生まれる前に、恋人のシキュオンのエボペウス王の元に逃れて王の妻となった。これを父親のニュクテウス王は大いに怒り、軍勢を率いて、エポペウス王の国に攻め入った。この戦いで、ニュクテウス王もエポベウス王も共に傷を負ったが、勝利はエポベウス王に帰したので、テーバイ軍は余儀なく瀕死の王といっしょに本国に帰った。死ぬまえに、ニュクテウス王は遺言して、幼いライオスが成人するまで、自分の兄弟のリュコスを王位の継承者と定め、さらにエポペウス王に復讐を加え、娘のアンティオペをテーバイに連れもどすことを頼んだ。
(参考)
@カドモス・・・テーバイの都の建設者で、初代の王となった。ギリシアに文字を伝えたとされる。(小話404)「英雄カドモスのドラゴン退治とテーバイ建国」の話・・・を参照。
Aサテュロス・・・上半身は人間で下半身は山羊、小さな角と長くとがった耳と長い尻尾を持っていた。彼等は悪戯好きだったが、同時に小心者でもあり、破壊的で危険であり、また恥ずかしがりやで臆病だった。そして酒と踊りを愛し、情欲に満ちていた。
「ユピテル(ゼウス)とアンティオペ」(ヴァトー)の絵はこちらへ
「眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス(アンティオペの眠り)」(コレッジョ)の絵はこちらへ
          (二)
リュコス王は死期の追った兄ニュクテウスに、その望みに従うことをおごそかに誓い、エボベウス王にたいする戦争の準備を整えた。リュコス王はその遺言を実行し、シキュオンを攻撃してエポペウス王を殺害し、アンティオペをテーバイへ連れ戻した。リュコス王はアンティオベを連れて国に帰ったが、その途中、キタイロン山麓のエレウテライで、彼女は大神ゼウスとの間にできた双子の男の子を出産した。だが、二人の子供はすぐに山中に捨てられた。捨てられた双子の男の子は、親切な牛飼いに拾われ、立派な若者に育てられた。けれども、この二人の子供アムピオンとゼトスとが、神々の父である大神ゼウスの息子だと気づくものは誰もいなかった。二人は心からの愛情で互いに結ぴついてはいたが、その気質は、大きくなるにつれて、まるで違ったものになった。ゼトスは豪胆で、途方もない力をもった、たくましい牧人になり、それに反して、アムピオンは伝令神ヘルメスから竪琴(たてごと)をもらったので、歌と竪琴に熱中し、その道にかけては名人の域に達したので、音楽の神アポロンですら、交友の仲間に加えたほどであった。
          (三)
二人の兄弟は、誰にも知られないで、さぴしい山の中で日を過ごしていたが、一方、母親のアンティオペは、ひどい苦しみを耐えしのばなけれぱならなかった。というのは、リュコス王は穏やかな、善良な男であったが、妻ディルケは残忍な女であった。ディルケは嫉妬に目がくらんで、夫が姪のアンティオペを愛していると思いこんで、不幸なアンティオペに、残酷な報復を加えた。二十年の間、ディルケによって奴隷として虐待され、夜は暗い牢屋に幽閉された。ついにアンティオペの苦悩は極度に達したので、ある晩、大神ゼウスはアンティオペの両手から鎖を解き落とし、牢屋の扉を打ち破らせた。そこで、アンティオベは、たった一人で道も知らず、真っ暗な夜を、冷たい嵐に追われながら、キタイロンの山にと逃げ、最後に森の真ん中にある牧人の家のところにたどりついた。そこで一夜の宿を乞うと、自分の息子である、二人の若者が出てきた。だが、二人はそれが母親であることを知らなかった。竪琴の名人であるアムピオンはすぐに、この気の毒な女を泊めることを承諾した。優しい心が無意識のうちに、この女にひきつけられることを感じたのであった。傲慢なゼトスは、それを拒もうとしたが、結局は情にほだされて、泊めることにした。
(参考)
@牧人の家・・・アンティオベは牢を脱出して、ゼウスに導かれて昔、子供を捨てた山中へ入っていった。又、リュコスの妻ディルケはディオニュソス(バッカス)信仰に影響されており、信者たちと共にキタイロン山中を踊り歩いていた。そして小屋に隠れているアンティオペを発見という説もある。
          (四)
けれどもそのときすでに、リュコス王の妻ディルケが急いでそこへやって来た。アンティオベが逃げたことを知って、その跡を追ってきたのであった。そして、ありもしない様々(さまざま)な罪を言い立てることによって、ディルケは二人の若者に、アンティオペが下賎な罪人であることを信じこませた。そして、ディルケが勧めるままに、二人は荒牛を引き出して、自分の母親をそれに縛りつけようとした。そのとき、かつて双子の兄弟の命を救った牛飼いの老人が駆けつけてきて「アンティオペは、アムピオンとゼトスの母上ですぞ」と秘密を打ち明けた。兄弟の怒りが、今度は、卑劣なディルケに向けられた。ディルケは荒牛に縛りつけられて、山の中をひっぱり回されたあげく、むごたらしく苦しみながら死んだ。アムピオンとゼトスは、見い出された母アンティオペと一緒にテーバイにおもむいた。そして、柔弱なリュコス王を殺そうとした時、大神ゼウスの使者ヘルメス神が現れてリュコス王に、大神ゼウスの命令を伝えた。「テーバイの支配権をアンティオペと大神ゼウスの子に譲り、ディルケを火葬にした灰をカドモスが竜と争った「アレスの泉」に撒け」。こうして「アレスの泉」は「ディルケの泉」と呼ばれるようになり、テーバイはアンティオペの二人の息子アムピオンとゼトスが支配することになった。又、テーバイ王となった兄弟は、祖先のカドモスの築いた城の下手(しもて)にあるこの町には、まだ防御の施設がなかったので、町に囲壁(いへき)をめぐらすことにした。力持ちのゼトスは巨大な岩塊(いわくれ)を山から切りだして、工事場に引っ張ってきた。竪琴の名人アムピオンが、竪琴を鳴らすと、途方もなく巨大な岩のかたまりがひとりでに動き、竪琴の音に従って、積み合わされていった。テーバイの有名な囲壁はこうしてできたのであった。アムピオンは七弦の琴を発明したので、テーバイの町にはそれを記念して、七つの門が造られた。
(参考)
@七つの門・・・テーバイには、名高い七つの門があり、それぞれ七人の将が守っていた。(小話414)「スフィンクスの謎を解いた王子・オイディプスと呪われた王家」の話・・・を参照。


(小話726)「百年三万六千朝(ちょう)」の話・・・
          (一)
ある禅僧の話より。人間八十年生きたとして、二万九千二百日。百年生きても三万六千五百日。これを長いと見るか、短いと思うかはそれぞれの感じ方である。しかし、明治の頃までは、人生五十年が常識であった。そう考えると明治の人は、今の人より人生の楽しみは半分しかなかったのだろうか。当時の生活はそれなりの緊張感があり、充実していたのではなかろうか。家庭に仏壇が有るところでは、内なかや上に昔の写真が飾ってある。それを見てみると写真館の修正があったとはいえ、きりりと引き締まった個性的な顔の持ち主が多い。それに比べて現代の顔は、仕事や情報に溢れ、自分に優しい人々が多いから、ぬるま湯で屁をこいたような顔をしている人が増えたような気がする。
          (二)
次のような言葉がある。「百年三万六千朝、反覆元来是這漢(百年三万六千朝(ちょう)、反覆(はんぷく)すれば元来(がんらい)これこの漢(かん)と)」。百年生きても、ただずるずると三万六千日 (人生を百年とし、一年を三百六十日と数えると)を過ごせばそれだけの人生であり、それだけの人間であり、それだけの漢(男)である。いただいた命がもったいない。吉田松陰(よしだしょういん)は伯父の玉木文之進から塾を受け継いだ時に、僅か二十五才であった。その塾を松下村塾(しょうかそんじゅく)として天下に轟(とどろ)かせ、三十才で江戸の伝馬町の牢屋で処刑されるまで、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など多くの指導者たちを育てた。三十年という短い人生ではあったけれども、百年生きたような充実したこの世を満喫したのではなかろうかと思う。安政の大獄で刑死した吉田松陰の残した辞世の句は「身はたとひ、武蔵の野辺(のべ)に朽(く)ちぬとも、留めおかまし大和魂(やまとだましい)」。
以下は、松陰が獄中から郷里に送った詩。
「吾今為国死(吾(われ)、今、国の為に死す)」
「死不負君親(死して、君親(くんしん)に負(そむ)かず)」
「悠悠天地事(悠々たり、天地の事)」
「観照在明神(観照明神(かんしょうめいしん)に在(あ)り)」
(今、私は国の為に命を捨てようとしている。ここで死んでも、すべて国の為を思ってしたことで、君公と両親の恩義にそむくところは少しもない。天地間のことは、悠々として果てしもない。この忠誠こそ、神のみがご覧下さっておられるのである)
(参考)
@松下村塾・・・江戸末期、長門(ながと)萩にあった私塾。吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾を、安政3年(1856)から松陰が主宰し、高杉晋作(奇兵隊を組織)・久坂玄瑞(尊王攘夷の急進派で、蛤御門(はまぐりごもん)の変で負傷し、自刃)・伊藤博文(明治憲法立案に当たり、内閣制度を創設、初代総理大臣)ら明治維新に活躍した多くの人材を養成した。


(小話725)「イソップ寓話集20/20(その15)」の話・・・
      (一)「アリとハト」
アリが喉の渇きを癒(いや)そうと、川の土手へ行ったのだが、激流にさらわれ溺れて死にそうになった。すると、川面(かわも)に突き出た枝に止まっていたハトが、葉をむしり、アリのすぐそばに落としてやった。アリは葉に這い上がって流れに浮いて、無事に土手まで辿り着いた。それから幾日もたたないある日、鳥刺しが、枝に止まっていたハトに、鳥黐竿(とりもちざお)を差し伸べた。男のたくらみに気付いたアリは、彼の足を刺した。鳥刺しは痛みに耐えかねて、竿を放り出した。その音でハトは飛んでいった。
(情けは人のためならず)
      (二)「盗賊とオンドリ」
賊が家に押し入ったが、何も発見できなかったので、オンドリを盗んだ。そして一目散に逃げ去った。盗賊たちはアジトにつくとすぐに、オンドリを殺そうとした。するとオンドリは、命を助けともらおうとしてこう言った。「お願いです。助けて下さい。私はとても人の役にたつのですよ。夜が明けるのを知らせて、人々を起こしてあげるのです」すると、盗賊たちがこう言った。「お前が隣近所の人たちを起こしたりしたら、我々の商売はあがったりだ」
(悪人は、美徳を守ろうとする者たちを嫌悪する)
      (三)「旅人とプラタナス」
ある昼下がり、二人の旅人が、夏の照りつける太陽にあてられて、広く枝を張ったプラタナスの木の下に横になった。二人が木陰で休んでいると、一方が言った。「プラタナスって、本当に役に立たない木だな。実はつけないし、人にちっとも恩恵をもたらさない」すると、プラタナスの木がこう言った。「この恩知らずめ! 私の木陰で休んで恩恵を享受しているくせに、無駄で役立たずなどよく言えたものだな」
(大変な恩恵を受けているのに、それに気付かない人がいるものだ)


(小話724)「四角い部屋を丸く掃(は)く」の話・・・
        (一)
ある禅僧の話より。若い頃に禅宗のお寺へ誰の紹介状もなしに飛び込み、弟子となった。そして、師匠に「先ずは大学へ行つて勉強したいんですが」と云つたら、師匠は「馬鹿もん。何処(どこ)の馬の骨だか分からん者を大学に行かせられるか。先に修行道場へ行って来い。お前さんの願心が本物だったら道場を逃げ出さないだろうから、それをやってからにしろ」と言い、翌日から修行道場へ行かされた。ある時、朝の勤行(ごんぎょう)のあとで毎日、決まってやる座敷の掃除をしていたら「おい。四角い部屋を丸く掃くなよ」と注意された。和尚は事務室で書き物をしていたので、「おかしいな。和尚からこちらは見えていないのに、部屋を四角に掃いているのか、丸く掃いているのかどうして判るんだろう」と思い、妙な緊張感をおぼえて一所懸命に掃除した。
        (二)
「水を掬(きく)すれば月、手に在り。花を弄(ろう)すれば香、衣に満つ」と言うように禅寺の修行は、何時でも、何処でも、この時、この場所が本物でなければならない。水を掬(すく)えば水と一つになり、花をもてあそんでいれば花と一つになる。箒(ほうき)を手にすればもちろん箒(ほうき)と一つにならなければならない。和尚は掛け出しの小僧が箒(ほうき)と一つになっていない事くらいは、その音を聞いただけで見破つたのだった。禅宗のお坊さんは毎日の綿密な修行の積み重ねで、耳には聞こえぬ声を聞き、目には見えない心を見ていく事が出来る。だから箒(ほうき)が畳の上を擦(す)る音を聞いて、気持ちが入らずに丸く掃いているのか、綿密に隅々まで掃いているのかがなんとか判るのであった。


(小話723)「若者と蟻の王」の話・・・
        (一)
民話より。昔、大飢饉があって、人々は食べられる葉っぱ、木の実、草の根、野草などみんな食べ尽くして食べる物がなくなってしまった。人々はみんな飢えて顔は黄色くなり体は痩せ細って力がなくなり、天地は太陽、月、星すら分らない闇になり、人は息をのんで、ただ天命を待つばかりであった。あるところに、二人の弟と暮らす一人の若者がいた。飢えは募(つの)るばかりで、二人の弟はもう死にそうであった。若者は家をでるとよろよろ山へ向かった。もう何日も何も食べていないから全身には少しの力も残っていなかった。やがて、彼は森の中の大きな石に寄りかかって休んだ。何気なく見ると、赤蟻(あかあり)の一群が道のわきの木影から、一匹のバッタを前から引き、後ろから押しながら出て来て、若者の足の前の巣穴へ運び込もうとしていた。しかし、巣穴は小さくバッタは大きい、それでも蟻たちは構わず力づくで無理やり捕らえた獲物を巣穴に入れようとしていた。しばらくすると一匹の大きな蟻が出て来て来た。だが蟻たちが、どうやってもバッタを穴の中へ運び込めない、蟻の王はあっちへ行ったり、こっちを見たりしていた。若者は力なく座ってこの蟻の群れを見て、蟻はこんな大きいバッタをどうやって捕まえたのだろうとか、これを蟻たちは何日で食べ切るのだろうかなどと考えていた。そして、もし俺たちがこの蟻のように獲物を捕ることが出来れば、こんなに飢えることもないのにと思った。若者はこんなことを考えると、バッタを掴(つか)み、幾つかにちぎって、一つ一つ蟻の巣穴に投げ込んでやった。バッタが巣穴に落ちてきたので蟻たちは、獲物を巣の奥に運んで行った。
        (二)
若者は、じっとそこに座り目を閉じると、知らず知らずに寝込んでしまった。しばらくすると、耳もとで「もしもし、もしもし、起きてください、起きてください」と声がした。目を開けて見たが誰もいない、誰だろうと驚いていると、また耳もとで「もしもし、わたしは蟻の王です」と小さな声がした。よくよく見ると若者の耳もとの草に大きな蟻がいて、若者の耳たぶに口をよせて話していた。手を伸ばすと蟻は若者の掌に這い上がって来た。若者が「何ですか、蟻の王様」と聞くと、蟻の王は「さっきは、あなたのおかげで助かりました、何かお礼をしたいのですが、お困りの事はありませんか」と言った。お礼なぞいらないと思って首を振った。すると蟻の王は、また小さな声で「わたしたちは人間界が大変な飢餓で、このままでは人間は滅亡するかもしれないと思っています、わたしはあなたに生きる道を教え、あなたの好意に報いたい」と言った。若者は蟻の王に「どんな生きる道がありますか」と聞いた「狩猟で動物の肉をとり、飢えを凌(しの)ぐのです」若者はそれは無理というように頭を振り「動物たちは人間を見ると風のように逃げて姿を見せませんから、探せません」と言った。すると、蟻の王は口から小さくて見えないような珠(たま)を若者の掌に吐き出すと、息を吹きかけた。すると珠はゆっくり親指ほどの大きさに変わった。そして、若者に「見てごらんなさい」と言った。若者が注意深く珠を持って見ると、前の緑の山全体が小さくなって、この珠の中に見えた。そして山の森の中には蚤(のみ)のように小さく鹿、熊、猪、猿などが木の陰に休んでいたり、水辺で草を食べていた。若者が別な山を見ると、そこには野牛、虎、豹(ひょう)などの猛獣が見えた。
        (三)
「これがあれば獲物を見つけ狩猟ができる」と若者は蟻の王に礼を言った。彼は、珠を持って家へ帰った。そして寝ている二人の弟に光る珠を出して見せた。三人の兄弟は宝の珠を見て喜び元気を取り戻し、珠でこっちの山を見たり、また別な山を見たり、何度も三人が珠を手渡しながら替(か)わるがわる見てるうちに珠を地面へ落としてしまった。珠が塀の隅に寝ていた犬のそばに転がると、犬は珠をくわえて外へ走り出した、驚いた三兄弟はそれぞれに銃を持って犬を追いかけた。犬は庭を駆け抜け、村から森に向かって走り出した。若者と二人の兄弟は犬を追いかけて森の中へ入った。走っているうちに犬の姿が見えなくなり、三兄弟は、別れ別れになって捜そうとすると、犬を見失ったあたりに大きな鹿が一頭いた。とっさに三人は一緒に鹿の額めがけて引き金をひいた。鹿が倒れ、しばらくして死んだ。兄弟は鹿を担(かつ)いで家へ帰ると、肉をとり村の家々にも分けてやった。夜になって犬が帰って来て塀の隅に横になり、兄弟が肉を食べているのを見ていた。若者は犬を叱る気にもならず、肉を分けてやった。二日で鹿の肉は食べ終わってしまった。犬は兄弟たちがまた食べ物がなくなったのを知ると起き上がって外へ走り出した。若者と二人の兄弟たちも犬のあとについて森の中へ入った。森に着いて犬は見えなくなったが、木の下に丸々と太った猪が木の実を食べているのが見えた。兄弟三人は銃でまた猪を射った。それから、食べ物がなくなると犬は黙って外へ走りだし、獲物を見つけるとそこに足で標(しる)しをつけておき、あとでそこへ兄弟を案内して獲物を射たせた。こうして兄弟は、獲物の肉で飢餓を切り抜けることができたので、若者と弟たちはもう犬を責めず、何時も猟にいく度に犬を連れて行った。そして、だんだんと犬は猟師を助けるなくてはならない働き手となったという。
 

(小話722)小説「高野聖(こうやひじり)」の話・・・
       (一)
私と車中で偶然に道連(みちづれ)になった上人(しょうにん)は、東海道は掛川(かけがわ)の宿(しゅく)から同じ汽車に乗り込んで来た。尾張(おわり)の停車場で他(ほか)の乗客は残らず下りたので、車内にはただ上人と私と二人だけになった。そこで互いの紹介などをしながら、私は一人旅の旅宿のつまらなさから、旅の道ずれとなった上人と共に越前敦賀(えちぜんつるが)の旅籠屋に泊まった。この宿は、今までの宿よりもずっと気持ちのよいものだった。やがて、寝る段となったが、二人とも眠れない。そこで上人(彼は高野山(こうやさん)に籍(せき)を置く、年は四十五、六で六明寺(りくみんじ)の宗朝(しゅうちょう)という和尚だった)は、次のように話をはじめた。
・・・・・・・・・・・・
私(上人の若い頃の話)は、飛騨の山越(やまごえ)をやった時、麓(ふもと)の茶屋峠の茶屋で厭(いや)な富山の薬売りと出会った。喉(のど)が渇いた私は、流行(はや)り病(やまい)のうわさが気になって、茶店の女に川水のことで話していたら、富山の薬売りは「これや、法界坊(ほうかいぼう)、異(おつ)なことをいうようだが、何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命(いのち)は欲しいのかね」といって笑った。年は若し、私は真赤(まっか)になった。手に汲(く)んだ川の水を飲みかねていると、さらに厭な富山の薬売りは「何、遠慮(えんりょ)をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命(いのち)が危くなりゃ、薬を遣(や)らあ、そのために私(わし)がついてるんだぜ」とからかうように言った。私は腹立紛(はらたちまぎ)れに、そうそうにその場を逃げだした。私が道を急ぐと、薬売りも追いかけて来た。そして、故(わざ)とらしく、小ばかにしたように追い越して行った。先の道の前に川のようになったところがあり、渡るに難儀だったが薬売りは、ひょいと本道を外れて行ってしまった。私が迷っていると、近くの百姓に出会った。ここには出水があり、村がひとつ壊滅したという。また、薬売りの行った道は、通れぬ藪(やぶ)の中で、最近も巡礼が道に迷ったとのこと。それを聞いた私は「厭な薬売りだが、このままでは見殺(みごろし)じゃ、どの道、私は出家(しゅっけ)の身。気が責めてならなんだから」との理由で、薬売りの後を追いかけた。
(参考)
@法界坊・・・歌舞伎「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」などの登場人物。また、同作の通称。若い娘に横恋慕したりする破戒僧で、滑稽みのあふれる小悪党。
       (二)
  藪の中の一本道を健脚に任せて歩く私は、山が両方から迫ってきて、肩に使えそうな狭いところにやって来た。景色も見えなかった。さらに恐ろしいことには、大嫌いな蛇が両方の叢(くさむら)に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡していた。私は今さらながらに後悔をした。覚悟して進むと大嫌いな長虫(蛇の異称)がいくらもいた。これは山の霊かと念仏を唱えながら進むと、山颪(やまおろし)が吹いて来た。涼しくなり、蛇は見えなくなり、暑さも凌(しの)ぎよくなったので、気も勇(いさ)み足もはかどったが、やがて、神代の昔から人の手が入っていない大森林が現われた。大森林に入り、涼しく歩きやすくなったと思ったら、私の体へ降ってくるものがあった。それは、やたらと大きな山海鼠(やまなまこ=蛭(ひる))で、体中に引っ付いた。何にしても恐(おそろ)しい。樹々の枝には蛭が生(な)っているのであろうと思って振返ると、見返った樹の枝にはやっぱり蛭の皮で、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで蛭が充満していた。私は思わず恐怖(きょうふ)の叫び声を立てて、死ぬ気になり、この果てを見てやろうとがむしゃらに進んだら、青空の下へ出た。後はだらだらと続く坂道で、進むと土橋があり、渡るとまた上り坂であった。その時、私は馬の嘶(いなな)きを聞いて、山の一軒家を見つけた。一夜の宿を頼んだが、足を投出したままの、呆けたような出っ腹の異様な形相(ぎょうそう)の少年が一人いるのみで、反応がなかった。さらに、呼びつづけると納屋のほうから奇麗な声がして、美しい女が現われた。美しい婦人に私は一夜の宿を頼んだ。婦人はしばらく考えていたが「ああ、お泊め申しましょう」と言い、さらに婦人は「私は癖として都(みやこ)の話を聞くのが病(やまい)でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな」と言った。私は、頷いた。そして、婦人に案内されて、家の裏の流れで、体を流すことにした。婦人は「さあ、私に付いてこちらへ」と婦人は米磨桶(こめとぎおけ)を抱(かか)えて先に立った。ふっさりとした髪を束(たば)ねて、櫛(くし)をはさんで簪(かんざし)で留(と)めている、その姿の佳(よ)さといったらなかった。先ほどの痴けた異様な形相の少年は、舌不足な声で「姉(ねえ)や、こえ、こえ」と言いながら手を持上げて自分の蓬々(ぼうぼう)と生えた頭を撫(な)でた「坊さま、坊さま?」。すると婦人は、三度ばかり頷いた。その時、紫陽花(あじさい)の花の蔭(かげ)から一人の親爺(おやじ=中年または老齢の男)が現われて、婦人を「嬢様」と呼んで何やら話をしだした。婦人は「おじ様、今日はお前、珍しいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎(痴けた少年)さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私が帰るまでそこに休んでいておくれでないか」と言った。馬小屋からは、ことことと羽目板を蹴る音が聞こえた。
       (三)
途中で先へ立った婦人の姿が見えなくなったので、松の幹(みき)に掴(つか)まって覗(のぞ)くと、つい下に居た。「嬢様にご心配をかけては済みません」「あれ、嬢様ですって」と婦人はあでやかに笑った。「はい、先ほどあの爺様が、さよう申しましたように存じますが、夫人(おくさま)でございますか」「何にしてもあなたには、叔母(おば)さんくらいな年(とし)ですよ。まあ、お早くいらっしゃい」。婦人について私はずんずんと道を下(くだ)った。もうその辺から薄暗くなって来た。一刻も早くこの身を清流に浸(ひた)したい。傍(かたわ)らの叢(くさむら)から蟇(がま)が一匹、婦人の足に絡みついた。「お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦(から)まって、贅沢(ぜいたく)じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。あなた、どうもしはしません。こう云う所ですからあんなものまで人懐(なつか)しゅうございます」。蟇はのさのさとまた草を分けて入った。仰いで見ると松の樹(き)はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低くなった。だいぶ下(くだ)ったところでようやく美しい谷川へ着いた。婦人は米をとぎながら、十三年前の日本一の滝が荒れて起こった洪水の話をした。「こんな高い処まで川の底になりましてね、麓(ふもと)の村も山も家も残らず流れてしまいました。この上(かみ)の洞(ほら)も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました」婦人は、もう米を磨(と)ぎ終わって、衣紋(えもん)の乱れた、乳の端(はし)もほの見ゆる、膨(ふく)らかな胸を反(そら)して立った。鼻高く口を結んで目を恍惚(うっとり)と上を向いて頂(いただき)を仰いだ。私がかがんで二の腕を洗っていると、すっぱり脱いで洗ってしまいなさい、と婦人が言い、無理やり脱がされてしまった。私は、師匠が厳(きび)しかったし、経(きょう)を読む身で、肌(はだ)さえ見せたことがなく、あがくことも出来ずうずくまっていると、婦人はかまわず脱がした法衣(ころも)を傍(かたわ)らの枝へふわりとかけた。「お召はこうやっておきましょう、さあお背(せな)を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす」
       (四)
私の蛭(ひる)に吸われた痣(あざ)を見て、婦人は手でやわらかく流してくれた。さらに両方の肩から、背、横腹、尻(しり)に、さらさら水をかけてはさすってくれた。心地のよさにうっっとりして、眠気(ねむけ)がさしてきて、私は花びらの中へ包まれたような工合であった。不思議な薫りのする心地に包まれていた私が、尻餅をついて我に帰ると、婦人が衣服を脱いで全身を曝(さら)していた。「太っておりますから、もうお恥(はずか)しいほど暑いのでございます。今時(いまどき)は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します。この水がございませんかったらどういたしましょう、あなた、お手拭(てぬぐい)」といって絞(しぼ)ったのを寄越(よこ)した。「それでおみ足をお拭(ふ)きなさいまし」といいながら。私の体はすでに拭いてあった。肉つきの豊かな体をゆっくりと拭く婦人と私は姉弟(きょうだい)が内緒話をするような調子であった。「まあ、女がこんなお転婆(てんば)をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう、川下(かわしも)へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね」「白桃(しろもも)の花だと思います」と何の気もなしにいうと、顔が合うた。すると、さも嬉(うれ)しそうに、にっこりして下を向いた。やがて婦人は、手をあげて黒髪をおさえながら腋(わき)の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅(うすくれない)になって流れのではないかと思った。月の光を浴びて透き通って見えるような婦人の体。するとそこへ、大蝙蝠(おおこうもり)が目を遮(さえぎ)った。「あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね」と婦人は、不意を打たれたように叫んだ。「どうかなさいましたか」とすでに法衣(ころも)を着た私は尋(たず)ねた。「いいえ」と言ったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向(うしろむき)になった。その時、小犬ほどな鼠色(ねずみいろ)の猿が、背後(うしろ)から婦人の背中へぴったりと抱きつき、婦人の、裸体(はだか)の立姿は腰から消えたようになった。「畜生(ちくしょう)、お客様が見えないかい」と婦人の声は怒(いかり)を帯び「お前達は生意気(なまいき)だよ」と猿の頭を叩いた。猿は、キッキッといって奇声を放って戻って行った。蟇(がま)と蝙蝠(こうもり)と、猿で三度の悪戯に機嫌(きげん)を損(そこ)ねた形の婦人は、若い母親が悪戯の子を怒るような様子であった。
       (五)
「それでは家(うち)へ帰りましょう」と婦人は、米磨桶(こめとぎおけ)を小腋(こわき)にして、崖へ上(のぼ)った。婦人に案内されながらまた道を戻った。家の前へ戻ると、親爺が「やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様(ぼうさま)、旧(もと)の体(からだ)で帰らっしゃったの」と言った。「何をいうんだね、小父(おじ)さん、家(うち)の番はどうおしだ」。「もういい時分じゃ、また私もあんまり遅(おそ)うなっては道が困るで、そろそろ青(馬のこと)を引出して支度(したく)しておこうと思うてよ」と大笑いしながら親爺は馬小屋へ行った。親爺が出してきた牡の馬は、激しく嘶(いなな)き抵抗して動かない。親爺はこの馬を諏訪の湖の辺(あたり)の馬市へ出すつもりであった。馬は激しく嘶いて私のほうを見た。婦人は「あなた、ここへいらっしゃる道で誰にかお逢いなさりはしませんか」と聞いた。薬売りに会ったことをいうと、婦人は会心の笑みをもらした。婦人は馬の前へたつと、着物を脱いだ。馬はなよなよと身震いをした。親爺はすかさず手綱を引き、馬子歌を歌いながら引いて行った。その後(あと)いただいた料理は、珍味であった。膳のつけ方も高級であった。先ほどの白痴(ばか)の少年が駄々をこねて食べなかった。すると婦人は戸棚から、蛇のような沢庵(たくあん)を出すと白痴(ばか)の少年は、それにむしゃぶりついた。そう、少年の体も沢庵色に太っていた。食事も終わり、床を勧められたが、眠くないというと、婦人は白痴(ばか)の子供を抱きながら「挨拶だけは教えたのですが」といい、挨拶をさせた。ぜんまいが切れたような挨拶をした少年に、にっこりした婦人は「あの流れは、どんな病にでもよく利きます。私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽(か)れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ」と先ほどの清流は万病に効くが、この子の病(やまい)だけは治らないと嘆いた。白痴(ばか)の少年が唄を歌った。「木曽の御嶽山(おんたけさん)は夏でも寒い、袷(あわせ)遣(や)りたや足袋(たび)添(そ)えて」。その声はまったく冥土(めいど)から伝えたような、子供の身からは信じられぬ声であった。私は何か感じて涙を流した。それを見た婦人「あなたは、ほんとうにお優しい」と、目にえもいわれぬ色をたたえて私を見た。やがて、座が白けて、言葉が途絶(とだ)えたので、子供の大欠伸(おおあくび)をきっかけに寝ることにした。真夜中の孤家(ひとつや)を取り巻いた異様な物の怪(け)が襲ってくる気配に目が冴えて眠れぬ中、納戸の方で、婦人が低声(こごえ)で「今夜はお客様がある」と叫んだ。「お客様があるじゃないか」としばらく経って二度目は、はっきりと清(すず)しい声であった。さらに「お客様があるよ」といって寝返る音がした。私は一心に陀羅尼(だらに)を呪(じゅ)した。やがて、外の怪しい気配も夫婦の閨(ねや)もひっそりとした。
(参考)
@陀羅尼・・・密教で、仏・菩薩(ぼさつ)などの真実の言葉、また、その働きを表す秘密の言葉で、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文。
       (六)
翌朝、私は一夜の礼を言って孤家(ひとつや)を発ったが昼過ぎに峠で、例の馬引きの親爺に出くわした。私は、婦人を忘れがたく修行を止め、ともに暮らすことを悶々と考えいた。それも、昨夜(ゆうべ)、白痴(ばか)を寝かしつけると、婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流(ながれ)に一所に私(わたし)の傍(そば)においでなさいと言ってくれたことが心にあった。それに、今朝も別れの際に、お名残惜(なごりお)しや、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃(しろもも)の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄(しお)れていた。歩くのを止めた私は、峠の石の上に腰掛けて眼下の滝を眺めた。女夫滝(めおとだき)というもので、悩ましげな滝の姿を見ながら、私はだんだんと婦人の下(もと)へ帰る決心を固めた。そのとき、後ろから肩をぽんとたたかれた。それは、かの親爺で、馬を売った金で買ったのか鯉を一匹持っていた。親爺は、私が婦人に執心する心を見透かした。そして親爺は、嬢様の手が触(さわ)ってあの水を振舞(ふるま)われて、今まで人間でいようはずがない。並みのものなら今は人の姿でいられない。牛か馬か、猿か、蟇(がま)か、蝙蝠(こうもり)になっていたはずだと。そして、あの薬売りの男は馬になってしまったのだといった。その昔、あの婦人は評判の美人であった。何でも飛騨一円当時変わったことも珍しいこともなかったが、ただ不思議なのは、この医者の娘で、生れると玉のようであった。母親は醜い女子(おなご)だったが、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。父親は藪医者で見え坊で傲慢。だが、鰯(いわし)の頭も信心からで、それでも命数の尽きぬ輩は回復するから、外(ほか)に医者のいない土地で、相応に繁盛した。ことに娘が十六、七の女盛りとなってきた時分には、そっと患者を抑えていると不思議と治(なお)った。薬師様が人助けに先生様の内へ生れ来たといって、我も我もと詰めかけた。ある時、枇把(びわ)の古木へ熊蜂が来て恐ろしい大きな巣を掛けた。それを見つけた医者の内弟子が、お嬢様、私のこの手を握って下さりますと、あの蜂の中に突っ込んで蜂を掴んで見せましょうと。やがて取って返した左の手には熊蜂が七つ八つ羽ばたきするだけであった。さあ、あの神様の手が障(さわ)れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛(くも)の巣のように評判が八方へ広がった。親爺は言った。「ご坊は、孤家(ひとつや)の周囲で、猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎(うさぎ)も蛇も皆、嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩(やから)」
(参考)
@薬師様・・・薬師如来。仏教で東方浄瑠璃(じょうるり)世界の教主。12の大願を立てて、人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏。古来、医薬の仏として信仰される。
       (七)
さらに親爺は言った。今の白痴(ばか)も、かって評判の高かった頃に、医者の内(うち)へ来た病人、その頃はまだ子供で、幼い子供の手術は、脚の腫物(はれもの)で、その治療には、相当血を抜かねばならぬものであった。鶏卵を飲ませ精をつけさせて、娘が抱いてやった手術は失敗し、命は助かったものの腰が抜けて立てなくなった。もとより諦めかけていたものであるから、その子の親も文句は言わないが、子供は娘から離れない。仕方なく、山の子供の家に娘と村から供をしたこの親爺が送っていった。子供の親兄弟は麓で稲刈りの最中であった。娘が情にほだされて逗留すると、五日目から大雨が振出して、麓は大水ですべて全滅してしまった。生残ったのは、娘とこの親爺と子供のみになった。嬢様は帰る家なく、世にただ一人となって子供と一緒に山に留(とど)まったのは、ご坊が見らるる通り。また、あの白痴(ばか)につきそって行届(ゆきとど)いた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、今になるまで一日も変わりはない、と言って親爺は気味の悪い北叟笑(ほくそえみ)をして「こう身の上を話したら、ご坊は、嬢様を不憫(ふびん)がって、薪(まき)を折ったり水を汲(く)む手助けでもしてやりたいと、情(なさけ)がかけたろう。情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたいだろうが、よしなされ。嬢様はあの白痴殿(ばかどの)の女房になって世の中へは目もやらぬ、関わりもせん。嬢様は如意自在、男はより取って、飽(あ)けば、息をかけて獣にするわ。殊(こと)にその洪水以来、山を穿(うが)ったこの流れは天道様(てんとうさま)がお授けの男を誘う怪(あや)しの水、生命を取られぬものはないのじゃ。しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好(すき)じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実(まこと)としたところで、やがて飽(あ)かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ」といい「妄念(もうねん)は起さずに早うここを退(の)かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加(いのちみょうが)な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ」とまた一っ背中を叩いた親爺は鯉を提(さ)げたまま、振り向かず山へ向かった。腑抜けのような私に魂が戻り、あわただしく里へ下った。そのときすくすくと雲が出て、滝のような大雨が降って来た。
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高野聖(こうやひじり)はこうして長い話を終わると、それ以外何も言わなかった。私は翌日、高野聖と袂(たも)を分って、名残惜(なごりお)しく、ちらちらと雪の降るなかを次第(しだい)に高く坂道を上(のぼ)ってゆく聖(ひじり)の姿を見送った。
(参考)
@高野聖(こうやひじり)・・・高野聖は、日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧。その教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものであった。
A「高野聖」は泉鏡花の代表作であり、浪漫的神秘的怪異小説の最高峰といわれている。鏡花は十歳の時、若く美しかった母に死別。この作品について僧は鏡花自身、山の美しい女は母親、智恵遅れの夫は母を独占していた幼児期の父親ともみられている。又、泉鏡花は、自然や社会の中には自分に向ってくる妖怪が実在し魔力を用いるが、一方では自分を守ってくれる観音も実在すると信じていたという。
正確な話は、泉鏡花作「高野聖」を読んで下さい。