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(小話721)「蛮人(ばんじん)の奇術」の話・・・
       (一)
魏(ぎ)のとき、尋陽(じんよう)県の北の山中に怪(あや)しい蛮人が棲(す)んでいた。彼は一種の奇術を知っていて、人を変じて虎とするのである。毛の色から爪や牙(きば)に至るまで、まことの虎にちっとも変らず、いかなる人をも完全なる虎に作りかえてしまうのであった。土地の周(しゅう)という家に一人の奴僕(しもべ)があった。ある日、薪(たきぎ)を伐(と)るために、妻と妹をつれて山の中へ分け入ると、奴僕はだしぬけに二人に言った。「おまえ達はそこらの高い樹に登って、おれのする事を見物していろ」。二人はその言うがままにすると、彼はかたわらの藪(やぶ)へはいって行ったが、やがて一匹の黄いろい斑(ふ)のある大虎が藪のなかから跳り出て、すさまじい唸(うな)り声をあげてたけり狂うので、樹の上にいる女たちはおどろいて身をすくめていると、虎は再び元の藪へ帰った。これで先ずほっとしていると、やがて又、彼は人間のすがたで現われた。「このことを決して他言するなよ」
       (二)
しかしあまりの不思議におどろかされて、女たちはそれを同輩に洩らしたので、遂(つい)に主人の耳にもきこえた。そこで、彼に好(よ)い酒を飲ませて、その熟睡するのを窺って、主人はその衣服を解き、身のまわりをも検査したが、別にこれぞという物をも発見しなかった。更にその髪を解くと、頭髻(もとどり)のなかから一枚の紙があらわれた。紙には一つの虎を描いて、そのまわりに何か呪文(じゅもん)のようなことが記してあったので、主人はその文句を写し取った。そうして、酔いの醒(さ)めるのを待って詮議すると、彼も今更つつみ切れないと覚悟して、つぶさにその事情を説明した。彼の言うところに拠(よ)ると、先年かの蛮地の奥へ米を売りに行ったときに、三尺の布と、幾升(いくしょう)の糧米(りょうまい)と、一羽の赤い雄(おんどり)と、一升の酒とを或る蛮人に贈って、生きながら虎に変ずるの秘法を伝えられたのであった。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話720)「伝令神ヘルメスと美しい娘クロッカス。そして、花の女神フローラとサフランの花」の話・・・
         (一)
ギリシャ神話より。神々の伝令神ヘルメスには美しい婚約者クロッカスがいた。ある冬の日、二人は谷の近くで、時間が経(た)つのも忘れて遊んでいたが、日が沈み風も出てきた頃、急いで帰らなければと思い、橇(そり)で帰ろうとした。ところが、婚約者クロッカスが橇(そり)に乗り、ヘルメス神が次に乗ろうとした瞬間に突風が吹き、クロッカスだけを乗せた橇(そり)が谷底めがけて滑り落ちて行った。あわててヘルメス神は追いかけたが追いつけず、そのうち見失ってしまった。ヘルメス神は、一生懸命探した、探せど探せど雪ばかりであった。疲れ果てたヘルメス神が辿り着いた谷底で見つけたものはバラバラの橇(そり)と、白い雪を真っ赤な血で染めた婚約者クロッカスだった。あらゆる手を尽してもクロッカスを生き返らせる事はできなかった。そして次の年の冬、諦めきれないヘルメス神は愛(いと)しい婚約者クロッカスの死んだ谷に行った。するとクロッカスの血で雪が真っ赤に染った、その場所には、美しい花が一斉に咲いていた。ヘルメス神は、この花に二人の愛の証(あかし)としてクロッカスと名前をつけたという。
(参考)
@伝令神ヘルメス・・・オリュンポス十二神の一人。大神ゼウスと巨神アトラスの娘マイアとの子。神々の使者(伝令)を務めるほか、富と幸運の神で、商業・発明・盗人・旅行者などの守護神。
A婚約者クロッカス・・・クロッカスは羊飼いの娘スミラックスに恋する美しい少年で、二人は愛し合っていたが、神々に反対され少年は自殺してしまった。一人残された娘も悲嘆にくれて泣き暮らした。そんな二人を哀れんだ花の神フローラが美しい少年をクロッカスに、娘をスミラックス(サルトリイバラ)という花に変えたという話もある。
Bクロッカスの花言葉は「あなたを待っています。私を信じてください。あなたを信じながらも心配です。不幸な恋。青春の喜び、楽しみ。信頼、裏切らないで」。クロッカスの仲間は約80種あるが、春咲きと秋咲きの2群に大別さ、秋咲き系を「サフラン」、春咲き系を「クロッカス(ハナサフラン)」と呼んでいる。
         (二)
ギリシャ神話より。ある秋の夕暮れ時のこと。花の女神フローラは、湖水のほとりの牧場に座って、体を休めていた。彼女は一人、春から夏へと色々な花を咲かせてきたことを思い起こしていた。そこへ突然、足の下の辺(あた)りから誰かが出てきた。牧場のニンフ(妖精)で、ニンフは驚くフローラの前にひざまずいて、次のようなお願いをした「女神さま、秋が終わると花や草は枯れて羊たちが悲しんでいます。せめてほんの少しだけの花でも残して下さい」。このニンフは子羊達の願いを叶(かな)えに来たのであった。女神フローラは、この願いを聞き入れてやり、女神フローラが秋の最後の花として咲かせた花が、サフランの花であった。
(参考)
@女神フローラ・・・ローマ神話の、花と豊穣(ほうじょう)と春の女神。女神はかつてクロリスという名のギリシヤのニンフだった。しかし、風神ゼピュロスによってローマに連れて来られ、以後、花の女神になったという。
A次のようなお願い・・・「女神様、秋の草花に名残りを惜しみに来る子羊達が、昼寝をする時に安らかに夢をみることができるように敷物を与えてやってくださいませ」という説もある。
Bサフランの花言葉は「楽しみ。過度の警戒。残された楽しみ。陽気。喜び。歓喜」。


(小話719)「一日不作(いちじつなさざれば)、一日不食(いちじつくらわず)」の話・・・
          (一)
ある禅僧の話より。数年前、岐阜県は東部の岩村という所へ招待されて出かけて行つた。そして、夕食のために炉端焼きの旅館に案内された。山菜料理や川魚料理が出た。その中での中心料理は、アマゴという川魚を網の上で生きたまま焼き、塩をふっていただくというものであった。アマゴは熱いものだから当然、綱の上で跳ねる。それを見ていた同席のご婦人は、「やめて、かわいそう」と、目の前の残酷な料理方法に顔をゆがめていた。程なく魚は香(こう)ばしく焼き上がり、旅館の仲居さんに食べるように勧められると、驚いたことに真っ先に魚をぱくぱくと食べ始めたのは、先に騒いだご婦人だった。一体この人は何を考えて生きているのだろうと思つた。
          (二)
しかし、よく考えてみればあのご婦人に限らず、私たちは深く考える事もなく、食べ物をいただいている。人間に食べられたいと思つて生きている命は一つもない。魚はつかもうとすれば逃げる。蝿や蚊もたたこうとすれば逃げる。もし、牛や豚が食べられる為に育てられている事を知つたら、彼らは抵抗できない分だけ悲しみに沈むだろう。大根やニンジン、主食の米でさえそれぞれに生命を持つている。人間に限らず生き物は他の命(いのち)をいただくことによって自分の命の存続を図(はか)っている。つき詰めて考えれば、豚や牛の命が我が手となり足となり、我が血となり力となる。大根の命を戴(いただ)くことにより、匂いを嗅ぎ音を聞き、米の命を戴くことにより、泣いたり笑つたりと心を動かす。では、私たちに食べられたもろもろの命は無駄死にだったのだろうか。それは、私たちの生き方にかかっている。犠牲になった命のお陰を感じて生きるか、当然のごとくに生きていくかの違いである。
          (三)
禅宗では特に有名な「一日不作、一日不食(一日なさざれば、一日食らわず)」という言葉があるが、これは有名な禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉である。百丈が八十歳の時のこと。この高齢になっても百丈は日々の作務(さむ=禅寺で、僧が掃除などの労務を行うこと)をしていた。弟子たちは師匠に「作務をやめてください」と申し入れた。それでも聞き入れなかったので、作務ができないように、作務に必要な道具を隠してしまった。そうなると、百丈は作務をしようにもできない。その日、百丈は食事をとらなかった。次の日も、その次の日も。それが三日も続いたので、弟子たちは師匠に「なぜ食事を召し上がっていただけないのですか?」と尋ねた。そのときに百丈が答えた言葉が「一日不作、一日不食」であった。そこで、弟子たちは師匠に非を詫びて道具を返した。すると百丈は、すぐに作務に出かけ、いつものように食事をしたという。この「一日不作、一日不食(一日なさざれば 一日食らわず)」を「働かざるもの食うべからず」と言っては間違いになる。大切な食べ物を、ただ食べるだけであってはならない事を戒めている言葉である。今まで自分の力で生きてきたと思つているかもしれないが、とんでもない。多くの命の犠牲により生かされてきたのである。そのことに気がつかねばならない。だからこそ、今までに私が戴いた幾多の命を生かすも殺すも、私自身の心の目覚めにかかっている。だからこそ、「いただきます」という言葉の裏には、命(いのち)をいただいて「ごめんなさい」という思いが含まれている。
(参考)
@百丈懐海・・・中国、唐代の禅僧。洪州(江西省)の百丈山に住して教化し、禅門の規範「百丈清規(しんぎ)」を定めて自給自足の体制を確立した。


(小話718)「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」の話・・・
       (一)
  中国の古代王朝は、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)とつづくが、それ以前には「尭(ぎょう)・舜(しゅん)の治」とよぱれ聖天子の時代があったという。これはその昔、聖天子の聞え高い帝、尭(ぎょう)のころの話。尭(ぎょう)は「その仁徳は天の如く万物を覆(おお)い、その知は神の如く微妙な点までゆきわたる(その仁は天のように広く、その知恵は神であるかのように、人並み外れていた。近づいてみると、その心は太陽のように温かく、遠くから見ると、雲が大地を覆い、恵みをもたらすかのように偉大であった)」と言われた。尭(ぎょう)は、平陽の地に都を置き、宮殿の屋根はかやぶきで、その端を切りそろえておらず、宮殿へ上る階段は、土で築いた三段だけであったという。尭(ぎょう)は即位いてからこのかたひたすら心を傾けて、天を敬い人を愛する政治をとり行い、天下の人々から慕われた。太平無事の月日がつみかさなって、いつしか五十年がすぎた。あまりの平和さに、尭(ぎょう)の心にはかえって一抹の不安がきざした。「いったい天下は、いま本当にうまく治っているのだろうか?人民たちは本当にわしを天子に戴くことを、願っているのだろうか?」尭(ぎょう)は側近に聞いたが知らず、外朝(外国の朝廷)に聞いたが知らず、民間人に聞いたが知らなかった。そこで、尭(ぎょう)はそのことを自分の目で視、耳で聴いて直接に確かめようと思い立って、ある日のこと、目立たぬ衣服に身をやつし、こっそり町中にしのび出た。とある辻に通りかかると子供たちが手をつないで遊びながら、こんな唄を歌っていた-----「我が烝民(じょうみん)を立つる、爾(なんじ)の極にあらざるはなし。識らず知らず、帝(てい)の則(のり)に順(したが)う(天子さま、天子さま、私たちがこうやって元気に楽しく暮すのは、みんなあなたのお陰です。天子さま、天子さま、私たちはこうやって、何も知らずに気にもせず、みんなあなたの定めに従っています)」-----子供たちの無邪気な歌声は尭の胸の中までしみこむように響いた。「ふうむ、そうか。子供たちまでがわしの政治をよしとしている」と尭(ぎょう)は満足げに呟いた。
       (二)
だが、ふとまた新しい疑問が、尭(ぎょう)の心の中をかすめた。「だがまてよ、子供たちの歌にしては少しできすぎていはしないかな? あるいは誰か大人の入れ知恵かもしれんぞ」心の不安を追い散らすかのように、尭(ぎょう)は歩調を早めて先に進んだ。いつしか町はずれまで来てしまった。ふとかたわらに目をやると、白髪の老百姓がひとり、食べもので口をもごつかせながら、木ごま遊びの撃壌(げきじょう=壌をぶちつけあって勝負をきめる遊び)に夢中で、お腹を叩いて拍子をとりながら、しわがれた声でつぶやくように、だが楽しげに歌っていた-----「日出でて作(な)し、日入りて息(いこ)う。井(い)を鑿(うがち)て飲み、田を耕(たがや)して食(くら)う。帝力(ていりょく)我に何かあらんや(日が出りゃ、せっせと野良仕事、日ぐれにゃ、ねぐらで横になる。のどの渇きは、井戸掘ってしのぐ、腹の足しには、田畑のみのり。天子さまなぞ、おいらの暮しにゃ、あってもなくても、おんなじことさ)」-----今度こそ尭の心は隅から隅までパッと明るく晴れ上がった。「そうか、これでよいのじゃ。人民たちが何の不安もなく鼓腹をうち撃壌をして、自分たちの生活を楽しんでいてくれる。これこそわしの政治(無為の治)がうまくいっている、証拠というものじゃわい」宮殿に帰りを急ぐ尭(ぎょう)の足どりは、さっきと違って浮き浮きと軽かった。
         (参考)
@撃壌・・・中国の遊戯。沓(くつ)の形に似せた木を地面に置き、離れた所から同じ形の木を投げ当てる。下駄打(げたう)ちともいう。
A(後日談)尭が帝位について七十年経ったころ、九年間洪水が続いた。鯀(こん=禹の父)にこれを治めさせようとしたが、九年経っても功績が上がらなかった。尭は年老いて政治に疲労した。諸侯を統治する重臣たちは舜(しゅん)を推挙して、天下の統治を代行させた。舜はことごとく職務をまっとうして成果を上げた。尭の子である丹朱は親に似ず愚か者であったので、尭は位を世襲によらず有徳の舜に譲った(禅譲)。後に舜も、やはり世襲によらずこれも有徳の禹(う)に譲った。
B出典は「十八史略」。


(小話717)「わずか十九歳でこの世を去った「聖母の愛娘テレシタ」と言われた尊者テレジア(テレシタ)」の話・・・
         (一)
十七歳で修道生活に入り、病(やまい)に倒れて十九歳でこの世を去った短い生涯のテレシタは、まわりの人々にほほえみをまき散らしながら多くの影響を与えた。マリア・テレサ・ゴンザレス・ケベドは、スペインで1930年4月14日、三人兄弟(兄・姉・テレシタ)の末っ子として生まれた。テレシタ(マリア・テレサのニックネーム)は、家族のみんなに可愛がられ、又その愛らしさに加えて非常に人目を引いた子供だったので、どこにいても人々の関心の的(まと)であった。それで、幼い頃のテレシタは、いつも「わたしの、わたしの」と言う自己中心的な、悪戯(いたずら)っ子であったが、どんなに叱られても機嫌を損ねる事のない、いつも快活で素直な子供であった。この溢(あふ)れんばかりの快活さは、テレシタが死に至る苦しみの病(やまい)の最中にあっても失われる事なく、生涯持ち続けた特性であった。医師であり、敬虔なカトリック信者であった父ゴンザレス・ケベトは、テレシタが、まだ二歳か三歳の頃から、娘を胸に抱きながら、次のような祈りをたびたびしていた「天の女王、御母よ。あなたに私の全てを捧げます。私の目、口、心を。今こそ私は、あなたのもの。優しき御母よ、あなたのものとして、私たちをお守りください」。テレシタは、父親の後を追って、汚れを知らない幼い頃から、その意味さえ理解できなかった聖母への奉献(ほうけん)の言葉をたどたどしく口ごもりながら唱えていた。しかし、聖母は、すでにその頃から、テレシタの心をご自分の方に引き寄せていた。テレシタのあの美しい目、口、心の全ては、聖母に似たものとして変えられていった。
         (二)
幼い頃のテレシタは、元気に外を駆け回る、溌剌とした子供であったが、極端なほど清潔好きであった。ある夏、田舎の方に避暑に行った時、裸足でボロを着た数人の子供を見て、意地悪い顔つきで追い払った事があった。年月が過ぎ、物心がついた時、テレシタは、この幼い頃の心にもない、この意地悪をまだ覚えていて、心を痛めた。それは、テレシタが初めて会った貧しい人々で、のちに聖母会員となり、修道女となるテレシタの心には、貧しい人々へのいたわりと愛が特別の優しさとなっていった。愛徳カルメル会経営の学校に入ったテレシタは、聖母の信心会に入った。そこでは、聖母に奉献する日が近づいた時、各自に会員章のメダルに刻むモットーを選ばせていたが、聖母への愛と生涯のプログラムを選んでいたテレシタのモットーは、次のようのものであった「聖母よ、私を見る人は、あなたを見ますように」。このようにして、テレシタは、感動と喜びを持って神の御計画の中に入って行った。食べ物の好き嫌いの多かったテレシタは、聖母会員になってからは、学校でも家庭でも生来の我がままを乗り越えて、ひたすら聖母に似るものとなっていった。特に毎年やって来る美しい5月の1日。1日を熱心さと愛を込めて捧げた。聖母の土曜日には、細やかな心遣いをして、まわりに微笑を振りまいた。
         (三)
十七歳の2月23日。「2と3で5。MARIA(マリア)でしょう」と言って、聖母にちなんだ日(23日。5月は聖母月)にテレシタが愛徳カルメル修道女会の修練院に入った。その日のマドリッドは、一面、雪景色であった。魂の清さを反映してか、テレシタは純白の雪を何よりも好んでいたが、喜びのあまり「私たちの会が本当に大好き。その単純さと清貧のため」と叫んだ。テレシタは、修練院に入ってから「私の召し出しは、こう言う召し出しではなかったの」と言い、白目を見せて茶目っ気たっぷりの表情をした。彼女の召し出しの経緯については、彼女の霊的指導者であったイエズス会の一司祭は「善良で純白な魂、完徳への強い望み、聖母に対する特別な信心を持っていることで、私は、最初から彼女が修道生活への召し出しを持っていることを認めました」と、報告していた。又、テレシタが志願者として愛徳カルメル会に入った日、九人の志願者たちが迎えに出た。その中の一人は、その時のことをこう言っていた「テレシタは、ほほえみながら志願者の部屋に入っていらっしゃいました。私は、テレシタと2年間ご一緒に生活してきましたが、この「ほほえみと平静さ」は、決して失われたことがありませんでした」。もう一人の志願者は「あの方は、いつも唇にほほえみをたたえていらっしゃいました。ほんとうに、だれに対してでもほほえみしかお見せにならない方でした」と言っていた。1947年の5月。しばらく前に友人が、1冊の本を贈って「これを読むと、ためになりますよ」と言っていた。だが、テレシタの姉は「テレシタは、本を読むことを好みませんでした。それは、極端なほどで、一生のうち一冊の小説も読んでいないと思います」と言うほどであった。しかし、テレシタは「私は、礼儀からその本を受け取りはしましたが、読もうなんて考えていませんでした。でも、5月が始まり、聖母マリア様にこの犠牲をお捧げしようと思い、ただ善意を持って読み始めました。その本は、修道生活への召し出しについて書いてありましたので、それこそ私にとって一番良い道であると言う事が分かりました」と贈られた本を読んで大切にしていた。修練院では、聖母に対する愛が日増しに強くなって行くのを感じて、テレシタは次のように書いていた「昨日は土曜日、食堂で聖母の理想についての一節が読まれました。聖母よ、私をあなたにお委ねいたします。お望みのままに・・・」
(参考)
@愛徳カルメル修道女会・・・愛徳カルメル修道女会は、スペイン・バルセロナ市で聖女ホアキナ・デ・ベドゥルナによって創立され、総本部をローマに置くカトリックの修道女会である。
A修練院に入った・・・修道生活の初期は、志願期(初めて修道院の中で生活を始める期間)、次いで修練期(修練期は2年で、1年目は修道生活、霊的生活を深めることを目的とし、2年目は霊的生活に併せて会の働きを実践によって学ぶ)がある。
         (四)
その頃のテレシタについて、修練院の仲間の一人は「2年間一緒でしたが「微笑みと平静」は、彼女から、決して失われた事がありませんでした。この平静さと素朴さ、そして、いつも快活で、何事も良い方面から見ていました」と言っていた。まさに修練期のこの時、テレシタは、死に至る病いとなる結核性脳膜炎にかかっていた。「苦しみがたとえどんなに大きなものであっても、それを聖母のためにお受けしましたら、なんでもないと思います。聖母のために苦しむのなら、どんな事でもわずかです。聖母は、私たちの困難、苦しみを全部、優しくして下さるのです」と、自分の苦しみに耐えて、友人の苦しみを慰めていた。テレシタの性格の特徴となっていた優しさについては、彼女の持っていた一枚の御絵に下に「恩情の法典」と、題が付けられ次のような事が書かれていた「恩情・・・それは、種々の大いなる徳の集合である。自己を与える愛徳。自己を打ち倒す謙遜。自己に犠牲を負わせる抑制。耐え忍ぶ信仰。決して恐れる事のない剛毅」。テレシタのあの微笑、あの優しさは、主ご自身が生きられた十字架の愛から来ていた。「今日は昨日より、ずっとずっと聖母をお愛し致します。けれども明日は、もっと」とテレシタは言っていた。
         (五)
臨終近くになって、病床で特別請願を立て、聖体拝領した時のテレシタの感謝の様子を同席した人々は、生涯忘れないと言っていた。長い長い潜心(せんしん=心を落ち着けて一心に考えること)。天的微笑を浮かべて、神に委ねきった魂の幸福そのものの姿であったという。激しい頭痛と嘔吐(おうと)の繰り返す苦しみの中でたテレシタは「主よ、私はあなたのものです。あなたのために生まれてきました。主よ、何をお望みでいらっしゃいますか? どんな事でも、はい、できます。御母のお助けによって」と祈っていた。夕闇が迫った頃にテレシタは、突然目が開き、両手を挙げて大きな声で叫んだ「聖母よ、私を迎えにいらしてください! あなたと一緒に天国に連れて行ってください」。そして、得も言われぬような微笑をたたえて「まぁ、なんて美しいのでしょう」と十字架の主に口づけして、その魂を御父に返した。その頬には、二粒の涙がこぼれていた。ひたむきにイエズス(イエス・キリスト)を愛し、聖母マリアとの親しみに生きたテレシタ。彼女は、わずか十九歳の命(いのち)であった。その日は、彼女が大好きだった土曜日。しかも聖母の喜びが頂点に達した、御子の復活を告げる聖土曜日で、全教会がハレルヤ(主をほめ賛えよの意)の大コーラスを声高らかに歌う日であった。
(参考)
@わずか十九歳の命・・・マリア・テレサ・ゴンザレス・ケベトは、世界中で「聖母の愛娘」として知られ、1983年に教皇ヨハネ・パウロU世から「尊者」として宣言された。バチカンで列福・列聖の調査が開始され、資料による調査が通ると教皇宣言がおこなわれる。
(1)尊者・・・この時点で公の崇敬が認められる。この段階から聖人まで進むのは神のしるし(奇跡)が要求される。奇跡とは、あきらかに尊者の取り次ぎによるもの。
(2)列福・・・列福とは、キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、福者(聖人の前段階)の地位にあげられることをいう。
(3)列聖・・・列聖とは、キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。ほとんどの場合、死後行われる。カトリック教会においては徳と聖性が認められた福者が聖人の地位にあげられることをいう。
A尊者イエズスのマリア・テレサ・ゴンザレス・ケベトの取次ぎを願う祈り。「おお、カルメル山のいと聖き聖母、憐れみの御母。全ての恵みの仲介者よ。私たちの姉妹、マリア・テレサがあなたへの愛に信頼しつつ、神の御旨を果たしていった熱心さと宣教への熱意を私たちの心に燃やしてください。あなたとマリア・テレサのお取次ぎによって、・・・(聖三位一体の神にお願いしたいことを述べる)恵みが与えられますように。私達の主イエズス・キリストによって。アーメン」(主祷文、天使祝詞と3回の栄唱を唱える)
B「聖母に全てをゆだねて」(テレシタの日記より)

聖母よ
あわれみをもって 私を助けてください
信頼の心で
ひざまずいて お願いたします。

イエスズ様への大きな愛!
それに謙遜
この徳に含まれる 全てのもの
祈りに対する 全き信頼と忠実さ

それから
私のためにも また他の人々にも
伝えることのできるような
あなたへの大きな愛!

イエスズ様が お求めになることは
何ひとつ お拒みしないこと
そして 全ては
主のみ手からくるものと思って 見ること

これらのことを
この五月から 私の着衣式の日までに
心をこめて 準備させてください
あなたの み腕に
全てを おゆだねいたします
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(小話716)「寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」の話・・・
           (一)
古代中国の代表的聖人、尭(ぎょう)は、伝説上の五帝の一人で、史記に「その仁徳は天の如く万物を覆(おお)い、その知は神の如く微妙な点までゆきわたる」と記された理想的な帝王の一人である。その尭(ぎょう)がある時、華(か)という地方へ出かけた。その華の国境の番人が尭に言った「おお、聖人よ、どうか私に聖人であるあなたを祝福させてください。聖人の長寿を祈りましょう」。すると尭は言った「おことわりします」。「それでは聖人の富が増えるように祈りましょう」「いいえけっこうです」「それでは聖人に男の子が多く恵まれるように祈りましょう」「それもおことわりします」。国境の番人はいぶかしげに尭(ぎょう)の顔を見て言った「長寿を保つことと、富が増えることと、男の子が多く授かることは、人がみな望むことなのに、あなただけが望まれないのはいったいどういうわけなのですか?」。尭は言った「男子が多くあれば、中には不出来の者も出て来て、かえって心配の種になる。富めば富むで余計の仕事が増えようし、寿(いのちなが)ければ、辱(はじ)を残さねばならぬような羽目に遭(あ)うことも多くなろうというもの。この三事、いずれも我が身の徳を養うには無用のものといわねばならぬ」。
(参考)
@尭(ぎょう)・・・古代中国の伝説上の聖王。五帝の一。暦を作り、無為の治をなした。後を継いだ舜(しゅん)とともに後世、理想の天子とされ、その政治は「尭舜の治」と称される。
A伝説上の五帝・・・五帝(中国古代の五人の聖君)は「史記」では黄帝(こうてい)、**(せんぎょく)、**(こく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)。
B寿(いのちなが)ければ、辱(はじ)を残さねばならぬ・・・長生きすると恥をさらすことが多いということ。 早く死ねばこんな目に遭(あ)わずにすんだのに、と思うこともしばしばあるということ。出典は「荘子」の中の「天地篇」・・・「多男子則多懼、富則多事、寿則多辱、是三者非所以養徳也」(男子多ければ則ち(すなわち)懼れ(おそれ)多く、富めば則ち事(こと)多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し。是(こ)の三者は徳を養う所以(ゆえん)に非(あら)ざるなり)
           (二)
その尭(ぎょう)の言葉を聞いて、国境の番人は言った「わたしは始め、あなたを聖人だとばかり思っていたが、今、話を聞いてみてせいぜい君子程度の人物だということがわかりました。天が万民を生じるにあたっては、必ず一人一人に天職を授けられるものです。男の子が多くても、それぞれその天職を全(まっと)うするように導いてやれば、何の心配もないはず。富が増えても、それを人々に分け与えてやれば、何の面倒もないはず。本当の聖人というものは、鶉(うずら)のように棲(す)み家をえり好みせず、雛鳥(ひなどり)のように無心で食らい、空を飛ぶ鳥のように自由自在で跡を残さないものです。世の中がまともであれば、衆人とともに栄え楽しみ、またそうでないときは我が身の徳を修めて隠棲(いんせい)すればよし。千年もの長生きをして、世の中がいやになったら、仙人となって白雲にのり天帝の郷(さと)へ行けばよい。このようにして「病」「老」「死」の三患(さんかん)に煩わされることなく、身には何の災いもないならば、命が長くともなんの恥が多いことがありましょうか」。こう言って国境の番人は立ち去った。尭がそのあとを追っていき「どうかもっと私にお教えください」と言ったが「さっさとお帰りなさるがよい」と言って後を振り返りもせずに、どこともなく姿を消した。
(参考)
@三患(さんかん)・・・「三利あれば、必ず三患(かん)あり」。三つの利益があれば、必ず、三つの患(うれ)いがある。利益には必ず、困難や心配事がつきまとう。
A荘子は先秦(戦国時代)における最も特異な道家の思想家のひとりで、彼は孔子を祖とする「儒家」の人々が強調する仁義、道徳、行動規範(礼)を人間の作為として排斥し、あるがままにあること、「自然」を愛し、何ものにもとらわれることのない精神的自由の境地、「道」の世界にあこがれをよせた。そして道家の根本思想を寓話(ぐうわ)を用いて説いた。その著「荘子」の中の「天地篇」にあるこの話も、そうした彼の「寓言」の一つであって、史実ではない。


(小話715)「放下著(ほうげじゃく)と泥(どろ)多ければ仏(ほとけ)大なり」の話・・・
          (一)
唐の時代の有名な禅僧、趙州(じょうしゅう)和尚と在俗(ざいぞく)の弟子(厳陽尊者(ごんようそんじゃ))の問答。弟子が「余分なものを捨て去り、身に一物も蓄えず、名利にも捕らわれず生きておりますが、これで良ろしいでしょうか」と聞いた。だが趙州和尚は「いや捨てよ」と断言した。そこで弟子は「私は、何もかも捨て去って、さっばりとしています。この上何を捨てよと言われるのですか」と反問した。すると和尚は「それならば、直ちに持ち帰るが良かろう」と手きびしく突っぱねた。弟子は「私は既に何も持っていないのに、何を棄てろと言うのですか?」と更に食い下がった。趙州和尚は「無一物の境地がそんなに大事なら、後生大事に担(にな)いで行きなさい(何も持っていないということに執着する心を棄ててしまえ)」と諭(さと)した。そこでこの弟子は、始めて自らの非と捨て去ることの本当の意味を悟ったと伝えられている。
(参考)
@在俗(ざいぞく)・・・出家しないで俗人の状態でいること。また、その人。
          (二)
「泥多ければ仏大なり」という禅語がある。中国では塑像(そぞう)といって、材木で芯(しん)を作り、その上に泥を塗り重ねて造った仏像が多い。昔も今も土を材料とした、いわゆる泥仏が造られいるが、その場合、泥の分量がわずかしかなければ、小さな仏像しか出来ないが、もし、その泥がドッサリあれば大きな仏像を作ることが出来る。禅語で言う「泥」は五欲煩悩をさしている。欲望のかたまりのような野性味ゆたかな人間こそ、大きな仏になりうる材量をドッサリ備えていると言ってよい。「私は煩悩が多く、迷いが深くて、とても禅の修行には向かない」という人がいるが、それは大間違いで「泥多ければ仏大なり」。そういう人こそ禅の修行に向いているが、泥は、本人自らがその泥を仏に作ろうとしない限り、泥は永遠に泥のまま、煩悩はいつまでも煩悩で腐るだけだ。
(参考)
@泥多ければ仏大なり・・・(小話584)「泥中の蓮華(れんげ)」の話・・・を参照。


(小話714)「イソップ寓話集20/20(その14)」の話・・・
       (一)「ロバと買い手」
ある男が、ロバを一匹買いたいと思っていた。そこで、ロバを買う前に、そのロバを調べてみるということで、売り手と話がまとまった。男はロバを家に連れて行くと、他のロバたちと一緒に麦の置かれた囲いの中に入れてみた。するとこのロバは、他のロバたちには目もくれず、一番怠け者で一番大飯食らいのロバと仲間になった。男はこの様子を見ると、このロバに端綱をつけ、売り手の所へ返しに行った。こんなに短い時間で、どうやってロバを調べたのか? と、売り手に問われると、男はこう答えた。「簡単ですよ。こいつが選んだ仲間を見れば、こいつのことも分かりますからね」。
(その友をみれば、その人がわかる)
       (二)「泥棒と宿屋の主人」
泥棒が、宿屋に部屋を借りて、何かめぼしいものを盗んでやろうと思ってしばらく逗留することにした。数日間、泥棒は空しく時を過ごしたが、宿屋の主人が仕立ての良い新しいコートを着て、店の前に座っているのを見つけた。泥棒は主人の脇に座って話しかけた。会話が一段落つくと、泥棒は、恐ろし気に大口を開けて、そして、狼のように吠えた。すると宿屋の主人が尋ねた。「どうして、そんなに恐ろしい声を張り上げるのかね?」「わけはお話しますが、でも、その前に、私の服を持っていてもらえないでしょうか? さもないと私は服をズタズタに引き裂いてしまうのです」泥棒はそう言うと先を続けた。「いつから、こんな大口を開けるようになったのか分からないのです。また、この遠吠えの発作にしても、私が何か罪を犯して、罰として与えられたものなのかどうかも分からないのです。ただ分かっていることは、私は三回大口を開けると、狼に変身して、必ず人間を襲うのです」泥棒はこう言うと、二度目の大口を開けて、狼のように吠えた。泥棒の話を信じ込んでしまった宿屋の主人は、恐怖に駆られて跳び上がると、そこから逃げて行こうとした。すると泥棒は、彼のコートを掴んで、ここに留まるようにと懇願した。「お願いです、どうかここにいて、私の服を持っていて下さい。さもないと、私が狼に変身して、狂暴になった時に、服をズタズタに引き裂いてしまうのです」泥棒はそう言うと、三度目の大口を開いて、そして恐ろしい唸り声を上げた。恐怖に震えた宿屋の主人は、男に襲われないようにと、自分の新しいコートを手渡すと、一目散に宿の中へ逃げ込んだ。泥棒は、そのコートをもってとんずらすると、二度と戻って来なかった。
(世の中には、信じてよい話と信じてはならぬ話がある)
       (三)「男と女房」
その男の女房は、召使いたちに嫌(いや)な思いをさせるので皆に嫌(きら)われていた。男は、妻が実家の使用人に対しても同じように振る舞うのかどうか確かめようと思った。そこで、なにか理由を見つけて、彼女を父親の家へと送った。ところが、彼女はすぐに帰って来た。そこで彼は妻に、実家ではどのような生活をし、そして、使用人たちの態度はどうだったかと尋ねた。すると、彼女はこう答えた。「ウシ飼いやヒツジ飼いは、嫌悪の表情で私をみました」すると、男はこう言った。「ねえ、僕の奥さんや。彼らは、朝早くヒツジやウシの群れを連れて出掛けて行き、夕方遅く帰ってくるのだろう。そんな彼らに嫌われるとするなら、一日中お前と一緒にいる者たちが、お前をどう思っていたか分かるだろう」
(鈍感な者でも、色々な事例を示せば嫌でも分かる)


(小話713)「禅寺の修行」の話・・・
          (一)
ある禅僧の話より。桜の花が咲きほころぶ四月。本格的な修行を始めるために私は師匠と近所の人達に見送られて梅林寺僧堂へ向かった。師匠の奥さんはこれからの修行のことを思ってか、涙ぐんで遠くから私のことを見ていた。しかし、私の心の中では大勢の人たちに見送られて、もしも修行が続かなくて挫折するようなことがあったらどうしようと不安があった。出立する時、師匠は「いいか。馬鹿になるんだぞ。決して利口な真似をしてはいけないぞ。馬鹿になって馬鹿になり切るんだぞ」と、幼子(おさなご)を諭(さと)すように、噛んで含めるように云った。実際、僧堂では「馬鹿」にならなければ修行などできない。ぱかぱかしいと云つては、語弊があるが「馬鹿」に成るからこそ修行が進む。
          (二)
まず最初に教えられることは「ハイ」と「イイエ」という言葉である。入門して一年や二年までは新到(しんとう=新米)さんと呼ばれて、一人前には認めてもらえない。「ハイ」と「イイエ」以外の言葉は一切使えない。右と云われれば石を向き、左と云われれば左を向く。自己主張というものはかけらもない。今まで大切に育ててきた「俺が」「自分が」という「我(が)」はぺちゃんこにつぶされてしまう。そこで、新しく入門したものが肝に銘ずる言葉は「新到(しんとう)三年、白歯を見せず」。談笑したり、顔を綻(ほころ)ばしたりはできない。修行に親切な先輩などは、わざと面白いことを云つて笑わせておいて「おまえはド新到のくせに修行中に笑うとは何ごとか」とくる。まったく油断も隙もない修行生活である。入門して一年後、私は空を見上げて門の傍(かたわ)らに天を突く大銀杏(おおいちょう)があることに初めて気がついた。それまで毎日、庭掃除をし、落ち葉を集めていたにもかかわらず戦々恐々と薄氷を踏むが如くに、黙々と地面ばかりをみていたのだ。僧堂での新鮮な無心の一年が今日の私に染みついている。


(小話712)「特別に聖なる人はいないと仏性に南北なし」の話・・・
        (一)
二十世紀の聖女と言われたマザーテレサは、1979年、ノーベル平和賞を受賞した。マザーテレサは「貴女は、生ける聖者(せいじゃ)と呼ばれていますが、ご感想を」という取材記者の質問に答えて「人は聖なる者であるべきです。私もそれを心がけているだけで、聖なる事は特別な事ではありません。選ばれた者だけが聖者ではありません。聖なるものは人間なら誰もが目指さなければならぬ義務です」と言った。

(参考)
@マザーテレサ・・・カトリックの修道女。マケドニアの生まれ。1950年「神の愛の宣教者会」を設立。病人や瀕死の人々の保護・救癩(きゅうらい)・孤児救済の施設を、カルカッタをはじめ世界各地に設立。79年ノーベル平和賞受賞。(小話623)「二十世紀の聖女、マザー・テレサ。その信仰と愛の生涯」の話・・・を参照。
                  (二)
中国禅宗の六代目に慧能(えのう)禅師という人がいた。二十三歳の時、禅の修行を志し、五代目の弘忍(ぐにん)禅師を訪ねた。みすぼらしい姿をした慧能(えのう)を弘忍(ぐにん)禅師は試した「お前さんはどこから来たのか」「はい、南方から来ました」「何をしたいのだ」「仏になる修行をしたいのです」「お前のような南方の山猿が仏に成れるものか」。これに対して慧能(えのう)禅師は、次のように答えた「人雖有南北(人に南北有りといえども)、仏性本無南北(仏性もとより南北なし)」(人は南北で言葉や習慣の違いが有り、和尚と山猿の違いは有りましようが、断じて仏性(いのちの尊厳)に南北の別はありません)。その答えを聞いて、弘忍(ぐにん)禅師は慧能(えのう)を認めたという。
(参考)
@慧能(えのう)禅師・・・中国、唐代の僧。禅宗の第六祖。漸悟(ぜんご)を尊ぶ神秀(じんしゅう)禅師の北宗(ほくしゅう)禅に対し、頓悟(とんご)を尊び、南宗(なんしゅう)禅の開祖となった。


(小話711)「蟻(あり)の恩返し」の話・・・
        (一)
三国(魏・呉・蜀)の呉の時代に、富陽県(今の浙江(せっこう)省)の董昭之という男が、船に乗って銭塘江(せんとうこう)を渡っていた(それは遠く江西に発して東流し、杭州で海にはいる堂々たる大河である)。川の中ほどまできたとき、一匹の蟻(あり)が芦(あし)の葉に乗って流されているのを見つけた。蟻は芦の端まで歩いていくと、また引き返して、他方の端まで行く。思案にくれてうろたえているように見える。董昭之は「死ぬのがこわいのだな。しかしこの大河の中では助かるまい」と言って、船べりから手をのばして拾いあげようとした。船の人びとは「害虫じゃ。生かしておいても役にはたたぬ。踏み殺してやれ」と大声でどなるのである。でも董昭之は哀れでならない。ひそかにひもを芦の葉にひっかけ、船べりにゆわえつけて岸辺に着いた。おかげで蟻は陸へ上がることができた。その夜、昭之がうとうととまどろみかけたとき、黒い衣を着た者が100人ほどの供をつれて現れた。「それがしは蟻の王でございます。ついうっかりと川に落ちまして途方に暮れていたところを、お助けいただきました。もしそなたに何か難儀がさし迫ったときは、ひと言、私に声をおかけください」黒衣の者は深ぶかと頭を下げてひき下がっていった。
        (二)
それから十余年のちのこと、富陽に名だたる強盗が出没するようになった。とんだことで董昭之は強盗の頭(かしら)とみられて逮捕され、余杭県の獄につながれる身となった。獄中、眠られぬままに、ふと蟻の王の夢のことを思い出したが、はて、どこへどうして知らせたらよいのかわからない。思いあぐねていると、同獄の男が「何を考えこんでいるのじゃ」と尋ねた。董昭之が、ありのままを語ると、その男は「ここは土牢じゃ。そこらにいる蟻を二、三匹つかまえて、「助けてくれ。わしのことを蟻の王さまに伝えてくれ」と言ってみな。ものはためしじゃ」と教えてくれた。董昭之は半信半疑だったが、そのとおりにやってみた。するとどうだろう、その夜の夢に黒衣の人が現れて次のように言った。「急いで余杭山の中へ逃げこみなさい。天下はいまや大乱がおこるときなれば、しばし山中に身をお隠しなされよ。そのうちに必ず世は治まり、大赦(たいしゃ)によってふたたび家郷に帰れるはずです」。その言葉を聞いたと思ったら、ふと目がさめた。足をみると、たくさんの蟻が集まって、いつのまにか手足をいましめた縄をかみ切っていた。董昭之はこれ幸いと獄から逃げ出し、川を泳ぎ渡って余杭山に逃げこんだ。そのうちにはたして大赦令が出て、処刑を免れることができた。
(参考)
@「捜神記」(干宝)より。


(小話710)「いろいろな謎とパズル」の話・・・
        (一)
「スフィンクスの謎」。ギリシャ神話の中で、怪物スフィンクスが出す謎は有名だ。古都テーバイ(エジプト)の郊外に住むスフィンクスは、道行く人間を見かけては謎を出し、答えられないものを殺して食べたという。その謎は「朝は4本足、昼は2本足、夕べには3本足で歩くものは何か?」というものだった。人々はこの怪物を恐れ、テーバイの町はすっかり寂(さび)れてしまった。しかし、やがて英雄オイディプスが現われ「それは人間である!」と見事に正解してみせたのである。人間は、赤ん坊のときは這(は)い這いして4本足で歩き、成長して2本足で歩き、年を取ると杖(つえ)を使って3本足で歩くというもの。正解を出されてしまったスフィンクスは、自ら谷に身を投げ、以後現われることはなかったそうだ。
(参考)
@怪物スフィンクス・・・(小話414)「スフィンクスの謎を解いた王子・オイディプスと呪われた王家」の話・・・を参考。
        (二)
「ホメロスの謎」。ギリシャの詩人ホメロスの詩の中に、ホメロスが悩まされた謎の話が登場する。ホメロスが「深い海の獲物を捕る漁師たちよ、汝らは何か捕ったか」と漁師たちに尋ねると、「我々が捕ったものはみんな置いてきた。そして、捕らなかったものはみんな持ってきた」と答えた。ホメロスは、この謎が分からずに答を求めると、正解は「虱(シラミ)」だった。体についた虱(シラミ)のうち、捕ったものは置いてきたが、捕らなかったものは家まで持ち帰ったという訳だった。
(参考)
@ホメロス・・・古代ギリシアの詩人。前8世紀ごろの人で、叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者。
A虱(シラミ)・・・日本に古くからあるなぞなぞで「居れば探し、居らなければ探さないものは何か?」。答えは、蚤(ノミ)。
        (三)
「贋金の問題」。1945年、アメリカはバージニア州のシェルという人が考案した贋金の問題。「同じ種類のコイン8枚と天秤が1台ある。コインのうち1枚は贋金で、本物より軽い。天秤を2回使っただけで、贋金を見つけられるか?」。解法(問題を解く手順)だが、ランダムに選んだコイン3枚を天秤の皿の一方に、もう3枚をもう一方の皿に乗せる。この時、もし釣り合えば、乗せなかった2枚のどちらかが贋金となり、天秤の両皿に1枚ずつ乗せれば、軽い方が贋金ということになる。もし、釣り合わなければ、軽い方の皿の3枚の中に贋金がある。その中の2枚を両皿に乗せ、釣り合えば乗せなかった1枚が、釣り合わなければ軽い方が贋金ということになる。
(参考)
@贋金の問題・・・この問題は、多くの数学者やパズル愛好家たちを夢中にさせ、ドイツの潜水艦を沈めるための頭脳が失われたといわれたほどであった。一方で、このパズルは、実は第二次世界大戦中のドイツで考案され、紙に印刷した問題を空からまいて、連合軍側の戦意を低下させるのが目的だったという説もある。
A天秤・・・天秤は左右の重い軽いを判断するための道具として用いられる。
        (四)
クロスワード・ウィドー(クロスワード未亡人)。1925年頃のイギリスでは、クロスワードに夢中になる男性が増え、奥さんを蔑(ないがし)ろにするあまり、クロスワード・ウィドーなる言葉が生まれた。また、当時の男性は、よく電車やバスでクロスワードを楽しんでいたため、スリの被害に会うことが多かったという。同じ頃、アメリカでもシカゴに住む主婦から、こんな訴えが裁判所に出された。「夫はクロスワードに熱中するようになって、ろくに仕事もせず、私を顧みようともしない。何とかしてほしい」。そのときの裁判官が下した判決は「1日3題以上やってはならない」というものだったという。
(参考)
@クロスワード・・・クロスワード‐パズル。ヒントで示唆された語を推測し、その文字でます目を縦横に埋めていく言葉遊び。1913年12月21日に「ニューヨークワールド」紙にイギリス生まれの記者アーサー・ウィンが制作した物を掲載したのが最初と言われているが異説もある。


(小話709)「日々(にちにち)是(これ)好日(こうじつ)」の話・・・
          (一)
ある禅僧の話より。今は亡き師匠と、新幹線に乗った時のことである。車内に乗り込むと師匠は私に「ビールでも飲もうか」と言った。私は早速ビュッフェへ行き、ビールとつまみを買つてきて、二人でのどを潤していた。五分程過ぎた頃、後ろの席でお婆さんが騒ぎ出した。「あれ。これは何だかちがう景色だ。こんな景色見た事ない。何だか逆に走つているみたいだ。あぁ、これは困った。どうしよう」お婆さんは新幹線の上りと下りを間違えて乗つてしまったらしい。通りかかった車掌さんに、この新幹線は止められないのかなどと聞いていたが「だめですね。この列車はひかり号ですから、次の駅まで約一時間は乗つていただくことになります。そこで乗り換えて下さい」と告げられた。それから十分ほど過ぎても、「あぁ。こまった、こまった。情けないな。ほんとに失敗したな」と、お婆さんの口からは愚痴やため息が出るばかり。私も、気の毒にと思つたが、どうすることも出来ない。すると、師匠が突然起ちあがり「わしが引導(いんどう)を渡して来てやる」と言って、お婆さんの席まで行き「おぱあちやん、おぱあちやん、間違って乗つてしまったものは、もう仕方がないんだよ。こうなったら景色でも楽しまなければ、おぱあちやんの損だよ」と、言った。意外にもその一言でお婆さんは納得したのか、駅弁を買つて食べ始めた。
(参考)
(小話62)「泣きぱあさん」の話・・・を参照。
          (二)
昔、中国の雲門(うんもん)大師が、ある時、お弟子たちに向かって「十五日、已(い)前(ぜん)は汝(なんじ)に問わず、十五日、已後(いご、一句を道(い)い将(も)ち来(き)たれ(これまでのことは尋ねまい。明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい)」と言って、ずうっと皆の顔を見わした。誰も口を固く閉じたまま、うんともすんとも言わなかった。そこでとうとう雲門大師がしびれを切らして、皆に代わって、そうした場合の覚悟の一句を示した。曰(いわ)く「日々(にちにち)是(こ)れ好日(こうじつ)」と。この意味は「毎日おかげさまで、感謝して暮らしております」ということだが、この単純なことが難しい。世の中は万事、心の持ちよう一つで「日々是れ好日」と喜んで暮らせるのだが、嫌なことや災難、又、万一の不幸をも計算に入れての「日々是れ好日」であるはずで、言うならば良寛さんが「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(そうろう)、死ぬ時節には死ぬがよく候」と言った境地こそ、日々是れ好日」の心境であるといえる。
(参考)
@雲門(うんもん)大師・・・中国、唐・五代の禅僧。雪峰義存の法を嗣(つ)ぎ、広東省の雲門山に住み、雲門宗を開いた。


(小話708)「トロイア陥落後のギリシャ軍の知将オデュッセウス。その波乱に満ちた数奇な大冒険(2/2)」の話・・・
(前編は(小話707)「トロイア陥落後のギリシャ軍の知将オデュッセウス。その波乱に満ちた数奇な大冒険(1/2)」の話・・・へ)
        (一)
オデュッセウスたちは、船を海へ降ろし、それに魔女キルケが順風を送った。船はオケアノスを流れ、やがてキルケが教えてくれた大洋の果てにある死者の国へと着いた。オデュッセウスは羊の首を切り、その血を穴に注ぐと、闇の底から亡者(もうじゃ)の群れがぞろぞろと這い出してきた。その光景にオデュッセウスは恐怖し、部下に先ほどの羊の皮を剥(は)いで肉を焼き、冥府の女王ペルセポネに捧げよと命じた。オデュッセウス本人は予言者テイレシアスが現われるまで、血に亡霊たちを近づけてはならぬと剣を抜いて身構えた。そこに近づいてきたのは、オデュッセウスの母アンティクレイアの亡霊であった。トロイアへ遠征に出たおりには、まだ存命だった母の姿にオデュッセウスは涙をこぼした。そこへ稀代の予言者テイレシアスの亡霊が黄金の杖を携(たずさ)えて現われた。予言者テイレシアスはオデュッセウスの身を憐れみ、血を飲んだらオデュッセウスの取るべき道を教えようと言った。テイレシアスは血をすすると、オデュッセウスが、これより先の故国への路に待ち受ける災難と、イタカ島の自身の館が不逞の輩に荒らされていること、帰郷の後(のち)は海王ポセイドンの怒りを鎮(しず)めるために生贄(いけにえ)の儀を行わねばならない旨を明かした。今ひとつ「汝の死は、全てが片付いた後、やがて海から遠くはなれた場所で、平和な老年の死がやって来るであろう」との予言を付け加えた。予言者テイレシアスが話を終わると、オデュッセウスはすぐ側(そば)の自分の母の亡霊に、どうすれば語らえるであろうと尋ねると、どの亡霊も血に近づくことを許せば真実を話すが、それを拒めばみな去っていくであろうと教えた。そこまで話すと予言者テイレシアスは冥王の館へと、その姿を消してしまった。オデュッセウスは、母アンティクレイアが血に近づいてくるのを待っていると、母は彼の存在に気づき、何故生きている身で冥府へとやってきたのか、今だイタケには戻っていないのかと尋ねてきた。オデュッセウスはイタケへ戻るためにどうしてもテイレシアスの予言を聞く必要があったと話し、何故、母が命を落としたのか、父や妻、息子はどうしているのかと尋ねた。アンティクレアは妻のペネロペが辛抱強く夫の帰宅を待っていること、息子テレマコスが領地をきちんと守っていること、ただし老父は町を離れて生活をし、息子の帰りを待っていることなどを伝えた。そして自分が死んだのは、ただ帰らぬ息子を思い辛い日々を過ごしてきたからだと語った。オデュッセウスは愛(いと)しい母をその腕に抱きたいと、三度アンティクレイアに手を差し伸べたが、三度とも影のようにその手をすり抜けてしまった。アンティクレイアは誰もが亡霊となると、生身の腕で掴(つか)むことは出来ない存在になると悲しむオデュッセウスを諭(さと)した。オデュッセウスとアンティクレイアがこのように涙ながらに話をしていると、女の亡霊が次々に現れて血を欲して近づいて来た。そして、亡霊たちはかわるがわる近づいて、血をすすりオデュッセウスと語り合った。次に出てきた亡霊は、トロイア遠征での戦友たちで総大将ミュケナイ王アガメムノン、英雄アキレウス、パトロクロス、アンティロコス、大アイアスなどとオデュッセウスは言葉を交わした。その後、オデュッセウスは冥府の裁判官ミノスが死者に裁きを下しているところを見たり、巨人オリオン、大地の母神ガイアの息子ティテュオスが横たわっている姿、水中で永遠の渇きに苦しんでいるタンタロス、永遠に岩を転がし続けるシシュポスの姿を見た。そして最後に神となったヘラクレスの幻影を見た。ヘラクレスはオデュッセスに気づくと数々の難業(十二の功業)をこなしたことを語り、その時、冥府の番犬を連れ出すためアテナ女神とヘルメス神に付き添われて、この場所に下ったことを話した。ヘラクレスの幻影が消えたので、オデュッセウスは仲間と共に船へと戻ることにした。そして、出航の合図をすると、はじめのうちは櫂(かい)をこいだがやがて順風に恵まれ一路、魔女キルケのアイエイアの島へと戻っていった。
(参考)
「テイレシアスとオデュッセイア(オデュッセウス)」(陶器画)の絵はこちらへ
        (二)
オデュッセウスがアイエイア島を去る際、魔女キルケはこれからの航海中に起こるであろう様々な困難について助言を行った。キルケは「まずあなたたちは、セイレーンの住む海域へと向かわなくてはなりません。セイレーンは海の魔女たちで、歌声で船乗りを魅了しては彼らを海に引きずり込んでしまうのです。だから、彼女らの魔法にかからないためには耳に栓をしなければなりません」。そこでオデュッセウスは、部下たちには耳に栓をさせたが、自分だけはそれをしなかった。しかし、その代わりセイレーンの魔法に魅了されて海に飛び込むことがないよう、自分を船の帆柱に縛り付けた。オデュッセウスたちが船を進めていくと、どこからともなく美しい歌声が響いて来た。船員たちは耳に栓をしていたおかげで、この歌を聴かずにすんだが、オデュッセウスだけはそうはいかなかった。彼はすっかりこの歌に魅了されてしまったが、部下は言われた通り彼の言葉には耳も貸さなかった。こうして船は無事にセイレーンの住む海域を抜け出した。無事にセイレーンの海域を抜け出したオデュッセウスたちであったが、その前途にはまだまだ困難が待ち受けていた。魔女キルケは「セイレーンの住む海域を抜けたら、次はスキュラとカリュブディスの住む海峡を抜けなければなりません。しかし、カリュブディスは出てくるときに大きな音がしますから、気をつけていれば渦に巻き込まれずに済みます。問題はスキュラの方です。スキュラは六つの蛇の頭をもっているから、六人をスキュラの餌食(えじき)とすることで、逃れがることができます」と助言した。オデュッセウスたちが海峡を渡ろうとすると、大きな水の音が聞こえて来た。オデュッセウスはこの音が怪物カリュブディスの出現を告げるものであることを知っていたので、注意深く舵(かじ)を取ってなんとか渦巻きに巻き込まれずに済んだ。しかしオデュッセウスたちがカリュブディスに気をとられている間に、もう一方の怪物スキュラが音もなく近づいてきた。そこで、魔女キルケの助言に従ってオデュッセウスは、泣く泣く六人の仲間をスキュラの餌食とすることで、逃れがたい災厄を逃れたのであった。
(参考)
@カリュブディスという怪物は、この海峡に発生する大渦巻きのことで、一日に三度、海底にある岩の裂け目に水が流れ込むので、海面に大渦巻きが発生し、これに巻き込まれると例え海王ポセイドンでも助けることができないという。(小話296)「魔女・キルケとオデュッセウス」の話・・・を参照。
Aスキュラ・・・スキュラとは上半身が美しい乙女、下半身が恐ろしい6頭の蛇という怪物で、海峡を通過する旅人をその6つの蛇頭で喰らっていた。このスキュラ、もともとは美しい少女だったのだが、海の神グラウコスによってこのような醜い怪物になってしまった。(小話296-1)「魔女・キルケとメディアとスキュラ」の話・・・と(小話579)「普通の人間から海神となった漁師、グラウコス」の話・・・を参照。
「漁師とセイレーン」(レイトン)の絵はこちらへ
「セイレーネス(セイレーン)の島の傍らを進むオデュッセウス一行」(ドレイパー )の絵はこちらへ
「オデュッセウスとセイレーン」(ウォーターハウス)絵はこちらへ
「オデュッセウスとスキュラ」(フラックスマン)の絵はこちらへ
        (三)
オデュッセウスたちは、犠牲者を出しながらも何とか怪物のスキュラとカリュブディスの棲(す)む海峡を通過することが出来た。一行が次に着いたのは、トリナキアという美しい島だった。ここには、太陽の神ヒュペリオンの所有物である家畜が飼育されていた。魔女キルケは次のような忠告を与えていた「ヒュペリオンの家畜を殺してはなりません。もしこれを破ると、大変な災難が襲い掛かります」。オデュッセウスはできればこのような島には立ち寄りたくなかったが、船員たちが島に上陸したいと言い張ったので、しかたなく島に停泊することになった。しかし、運の悪いことに船が島に着くや否や、激しい嵐が襲い掛かってきた。これでは島を後にすることが出来ないので、やむをえず一行はこの島にしばらく滞在することとなった。魔女キルケのアイエイア島で調達した食料があるうちは皆ヒュペリオンの家畜を殺すことはなかったが、食料が乏しくなるにつれてだんだんと船員たちの上に飢餓が襲いかかってきた。そしてついに、オデュッセウスが留守の間に船員は太陽の神ヒュペリオンの家畜を殺して食ってしまった。そのため、嵐が去ってオデュッセウス一行の船が、この島を去ろうとすると、少しも進まないうちに落雷で船は木っ端微塵に砕け散ってしまった。おかげで家畜を食べた船員は全員、溺れ死に、ただ一人家畜を食べなかったオデュッセウスだけが生き残ることになった。トロイアを立つときには大勢いたオデュッセウスの一行も、今や彼一人だけとなってしまった。
(参考)
@太陽の神ヒュペリオン・・・太陽神ヘリオス、月の女神セレネ、暁(曙)の女神エオスの三兄妹の父親。
        (四)
オデュッセウスはなんとか木切れに捕まって命を永らえ、波に運ばれてそのまま「カリュプソの島」へ漂着した。この「カリュプソ」というのは、この島の主である女神の名前で、神隠しの女神と言われていた。天空を支える巨神アトラスの娘カリュプソは漂着したオデュッセウスを見ると一目惚れして、自分の洞窟に連れ帰った。彼女のオデュッセウスに注ぐ愛情は深いもので、何をするにも心がこもっていた。そんな生活が七年も続いたが、オデュッセウスの心は一日も晴れることはなかった。遠い故郷に帰ることだけが、彼の心を占めていた。そこで、伝令の神ヘルメスはオデュッセウスを救出するために「カリュプソの島」へ向かった。海の女神カリュプソはヘルメス神を手厚く迎え、美しい果樹園に案内して酒肴の用意をさせた。しかしヘルメス神が大神ゼウスの意向「カリュプソは、オデュッセウスを手放して彼を送り出さなければならない」ことを話すと、彼女は泣く泣くオデュッセウスを解放することを了承した。海の女神カリュプソから許可を得たオデュッセウスは、さっそく木を切り倒し、丈夫な筏(いかだ)を作り上げた。こうして無事カリュプソの島を出発したオデュッセウスだったが、彼には、またもや災難が待ち受けていた。エチオピアからギリシャ本国に戻ろうとしていた海王ポセイドンが、オデュッセウスの筏を見つけてしまった。「どうもわしがエチオピアへ行っている隙に、神々たちがオデュッセウスに手を貸したらしいな。このまま無事、奴を故郷に返してなるものか」こうしてオデュッセウスの筏は、ポセイドンによって破壊されてしまい、またまた彼は漂流するはめとなってしまった。オデュッセウスが海で荒波に揉(も)まれ、筏にかろうじてつかまり、まさに溺れかかっている姿を、海の精レウコテアが目撃した。カモメに似た姿で筏に近づいたレウコテアはオデュッセウスに筏を捨て、着物を脱いで泳ぐように忠告し、身を守るヴェールを渡した。そして、海の精レウコテアは再びカモメに似た姿で去って行った。そのヴェールのお陰で、オデュッセウスは、何とか海岸にたどり着くことができたのだった。
(参考)
@カリュプソの島・・・オデュッセウスがカリュプソの島から出発してしばらくした後、ちょうど入れ違いに今度は、父オデュッセウスを探して旅に出ていた息子のテレマコスが、彼女の島に到着した。テレマコスは父がすでに出発したことを聞いて落胆したが、カリュプソは父オデュッセウスにそっくりのテレマコスをすっかり気に入ってしまい、今度はテレマコスを自分の手元に留めておこうと考えるようになった。女神アテナから警告を受けたテレマコスは急いで海に飛び込み、この島を後にした。
「カリュプソの島」(ドレイパー)の絵はこちらへ
「カリプソのオデュセウスのための饗宴」(ブリューゲル(兄))の絵はこちらへ
「カリュプソー」(バーレン)の絵はこちらへ
「カリュプソにオデュッセウスの釈放を命ずるヘルメス」(フラックスマン)の絵はこちらへ
「嵐で漂流するオデュッセウスを助けるレウコテアー女神」(フラックスマン)の絵はこちらへ
「カリュプソに冒険談を話すテレマコス」(ラウー)の絵はこちらへ
        (五)
オデュッセウスは二日二晩海の上を漂(ただよ)った後、ようやく陸地に辿り着くことが出来た。幸運なことに、この島はパイアケス人という民族が治める島で、高度な文明と寛大な気風を持つ土地であった。しかし、さすがのオデュッセウスも漂流の疲れが出てしまい、海岸に辿り着くや否や裸のまま、すぐに深い眠りに入ってしまった。この島はパイアケス人の王アルキノオスが治めていたが、王女ナウシカは、その夜、不思議な夢を見た。それは「明日の朝一番に洗濯に出かけよ」という夢だった。翌日さっそく王女ナウシカは、侍女(じじょ)たちを連れて泉へと洗濯に向かった。泉のそばで寝ていたオデュッセウスは、王女ナウシカとその侍女たちの声で目が覚めた。見ると、身分が高そうな少女たちが洗濯物をしていた。彼はどうにかして彼女らの助けを得たいと思ったが、素っ裸の状態なので出るに出られない。やむなく彼は近くの木の枝を折り、それで体を隠しつつ彼女らの前に出ることにした。全裸の男を見て、侍女たちは逃げてしまったが、そのとき女神アテナが王女ナウシカに勇気と観察力を与えたので、彼女だけはオデュッセウスの話を聞くことが出来た。話を聞いて可哀そうに思った彼女は、侍女たちを叱り付け、兄の衣装を取ってこさせてそれを着せた。しかも女神アテナがここでもオデュッセウスの味方をして、彼の姿をより良く映(はえ)させたので、王女ナウシカはすっかりこの男のことが気に入ってしまった。こうしてオデュッセウスは、王女ナウシカに案内されてアルキノオス王の宮殿に招かれ、客人として丁重なもてなしを受けた。パイアケス人の王アルキノオスと王妃アレテは、このギリシャ人の男を不憫に思い、故郷へ帰るための船と船員を用意しょうと約束した。名もなき男に対しては破格の厚遇であった。その後、パイアケス人の宮廷では、オデュッセウスを歓迎するためのスポーツ大会が開かれた。若者らはオデュッセウスに自分たちの練達ぶりを見せるべく、さまざまな競技を行った。やがて若者たちは、オデュッセウスにも何かして見せてくれと勝負を挑んだ。初めオデュッセウスはこれをことわったが、若者の一人が彼を挑発したので、やむなく彼は円盤投げに挑戦することにした。オデュッセウスはパイアケス人の若者が投げた円盤よりも、はるかに重い円盤をつかみ、それを誰が投げたよりもはるかに遠くに飛ばした。パイアケス人たちはこれを見て驚き、いよいよオデュッセウスに尊敬を払った。スポーツ大会がおわると、今度は広間において歓迎の宴会が開かれることとなった。そこには、盲目の吟遊詩人デモドコスが招かれていた。デモドコスはトロイア戦争を題材とした「木馬(トロイの木馬)」を題にとって歌を謳い始めた。それを聞いてオデュッセウスは、過ぎ去った日を思い出し、涙を流した。それを見たアルキノオス王は「なぜトロイアのことを歌うと悲しくなるのです。その戦争で誰か親しい人でも亡くしたのですか?」と尋ねた。オデュッセウスはここで始めて自分の本名を明かし、請(こ)われるままにこれまでのさまざまな冒険を語った。この話を聞いて、パイアケス人のオデュッセウスに対する同情と賛嘆は極度に達した。一方、アルキノオス王の王女ナウシカは、宮殿の入口で別れて以来、一度もオデュッセウスと逢うことはなかったが、侍女たちからオデュッセウスの事はすべて聞いていた。アルキノオス王が彼をナウシカの婿にと望んだことも。彼がそれでも帰国を望んだことも。そこで、宴会の合い間にオデュッセウスを呼び止めて、王女ナウシカは「故郷へお帰りになっても、いつかまた私のことを思い出してくださいませ。誰よりも先に貴方の命をお助けしたというご縁があるのですから」と告げた。オデュッセウスは「忘れるものですか、美しく心優しいナウシカ、神にかけて私は誓います。どんなことがあっても、私は命の恩人のあなたのことを敬い続けます」と感謝の言葉を残して立ち去った。こうしてオデュッセウスはパイアケス人の手厚い保護と援助を受け、再びイタケ島へ向かって出発することになった。
(参考)
「オデュッセウスとナウシカァ(ナウシカ)」(ラストマン)の絵はこちらへ
「オデュッセウスとナウシカァ(ナウシカ)」(不明)の絵はこちらへ
「海岸に漂着したオデュッセウスとナウシカー(ナウシカ)」(グレール)の絵はこちらへ
「ナウシカア(ナウシカ)」(レイトン)の絵はこちらへ
        (六)
オデュッセウスはパイアケス人の協力を得て、船を貸してもらい、イタケ島へ向かうこととなった。航海は順調に進み、ついに彼は故郷のイタケ島へ到着した。イタケ島へ到着した際、オデュッセウスはちょうど船の中で寝ていたので、パイアケス人は彼を浜辺に下ろして自分たちの国に帰ろうとした。しかし、オデュッセウスが無事にイタケ島へ着いたのを見た海王ポセイドンは、なんとも腹の虫が納まらない。そこで海王ポセイドンは、腹いせにオデュッセウスに協力したパイアケス人たちを船もろとも、岩に変えてしまった。こうして二十年間、イタケ島を留守にしていたオデュッセウスは、ついに故郷の土を踏むことが出来た。だが、深い眠りから覚めたオデュッセウスは、今、自分がどこにいるのかわからなかった。そこでアテナ女神は若い羊飼いに変身して、オデュッセウスの前に現われ、ここがどこであるのか、また宮殿では留守中に求婚者たちが横暴を働いていることなどを話した。アテナ女神は「このままあなたが宮殿に帰っては問題が起こります。まずは、乞食に変装して豚飼いのエウマイオスの下に身を寄せるのがいいでしょう」。アテナ女神はの助言を受けたオデュッセウスは、さっそく乞食に変装してエウマイオスの下(もと)を訪れ、ここで時を待つことにした。一方、オデュッセウスの息子テレマコスは父を探して各地を旅していたが、夢枕(ゆめまくら)に女神アテナが立って「故郷のイタケ島へ戻りなさい。もうオデュッセウスはイタケ島に帰ってきています」と告げたので、彼も急いでイタケ島へ帰還することにした。帰還したテレマコスは、まず宮殿で下男をしていた豚飼いのエウマイオスのもとを訪れ、宮殿での様子を聞こうとした。そこで、女神アテナの加護もあってテレマコスは、父オデュッセウスと二十年ぶりに喜びと涙の再会をした。
(参考)
「イタケー島に到着し、眠りのなか洞窟に運ばれるオデュッセウス」(フラックスマン)の絵はこちらへ
        (七)
再会した父親オデュッセウスと息子テレマコスは、オデュッセウスの妻ペネロペの求婚者たちを退治するにはどうしたらよいか策を練った。多くの求婚者たちは、彼女が一人でいることをいいことに、勝手にオデュッセウスの宮殿に押しかけては毎日宴会を開き、オデュッセウスの財産を勝手に浪費しているという始末であった。オデュッセウス「よし、それでは私は乞食の姿のままで宮殿に帰ることにしよう。もし私が求婚者たちに侮辱されるようなことがあっても、決して私の素性を明かしてはならないぞ。求婚者どもを油断させなければならん。お前はなんとかして求婚者たちから武器を取り上げてくれ」こうして二人は宮殿に戻っていったが、門前には、一匹の老犬が力なく横たわっていた。老犬はオデュッセウスの姿を認めると、たれていた耳を少し立ててオデュッセウスを見つめ懐しそうに低く呻いた。その犬はかってオデュッセウスが手塩にかけて可愛がっていた猟犬のアルゴスだった。アルゴスは主人を見ても駆け寄ることも、大声で吠えて歓びを表すことも出来ないほど老いていた。そして、訴えるようなまなざしで、喉の奥でひと声小さく呻くと安心したように息絶えた。オデュッセウスは、涙をこらえて手でそっと愛犬の瞼(まぶた)を閉じてやった。宮殿に入っても、オデュッセウスは乞食の格好をしているので誰も彼のことを気付かなかった。テレマコスは乞食の姿をしたオデュッセウスを連れて求婚者達の前にあらわれ、彼は自分の客だから失礼のないようにと申し渡した。だが、求婚者達は乞食の姿のオデュッセウスを馬鹿にして嘲笑の声をあげた。これまで、宮殿では「戦死したかも知れない男をいつまでも待ち続ける気か」とオデュッセウスの妻ペネロペの美貌と財産をつけ狙う男たちが放っておかなかった。ペネロペには、その美しさにひかれて四十人の求婚者が言い寄っていた。そこで、ペネロペは「年老いた義父ラエルテスの葬式の際に着せる織物がが完成したら再婚します」と言っていた。ただし、昼の間こそ懸命に布を織(ペネロペの織物)ったが、夜になるとそれを解いてしまっていたので、婚期は何年も伸び伸びになっていた。しかし、求婚者に買収された侍女がこのことをバラしてしまい、ついに彼女は婚期を伸ばすことが出来なくなってしまった。こうして今、ペネロペは再婚の意思を決め、次のように言った「今日、私はこの中の誰かを選ぶことに決めました。ここにある大弓と長矢は、あの気高いオデュッセウスが昔使っていたものです。この大弓に弦をかけ、十二の斧の頭の穴を一矢で射抜いた方と私は結婚することにします」。こうして求婚者たちの前に大弓と長矢が運ばれた。弓を引くにはまず弦をかけなければならず、そうするためには弓を曲げなければならない。しかし、何しろものすごい強弓で、求婚者の全てが弓を曲げるべく挑戦したが、一人も曲げることが出来なかった。このとき、広間の隅にたたずんでいた乞食が口を開き「わたしは今でこそ乞食をしていますが、もとは戦士だったのです。この老いた手足にもいくらか力が残っているかもしれません」と言った。求婚者たちは嘲弄の声を上げながら、この乞食を追い出そうとしたが、テレマコスが「こんな乞食にも試させてみたら」と言ってとりなした。すると意外や意外、乞食はいとも簡単に弓を曲げると、瞬(またた)く間に弦を取り付け、一本の矢をつがえて放すと、矢は直線上に並んだ十二の斧の穴を見事に射抜いた。求婚者たちは驚愕したが、乞食の変装を取り払ったオデュッセウスは「さあ、今ひとつ的を射ることにしよう。われこそ、この家の主人オデュッセウスだ」と言って、驚いている求婚者の一人を矢で射抜(いぬ)いた。狼狽した求婚者たちは武器を抜いて応戦しようとしたが、オデュッセウスは片っ端から求婚者たちを射殺(いころ)し、とうとうこの無礼な輩を皆殺しにしてしまった。その後、殺された求婚者の縁者たちがオデュッセウスに復讐しようと攻撃をしかけてきたが、オデュッセウスが彼らも射殺(いころ)そうとしたので、女神アテナが制止して和解することになった。オデュッセウスは、妻ペネロペに自分が無事帰ってきたことを告げたが、ペネロペは、これを容易に信じようとはしなかった。そして、オデュッセウスに一つの謎かけをした。彼女は侍女に向かって「オデュッセウス手製のベッドをここに運んで頂戴」と命じた。そこでオデュッセウスが「あのベッドはオリーブの木に作りつけたものだから、動かすことはできないよ」と夫婦だけが知っている事柄を告げたので、ようやくペネロペは夫の帰還を信用した。翌日、オデュッセウスと息子テレマコスらは、老父ラエルテスの農園に出かけて行った。この農園はラエルテス自身が開拓した土地で、彼は身の回りの世話をシシリア生まれの老婆に任せ、下僕と共にここに住んでいた。ここでオデュッセウスは懐かしい父親と再会した。こうしてオデュッセウスの二十年間(トロイア戦争で10年間+キルケの元で1年間+カリュプソのもとで7年間+その他の冒険で2年間)に渡る戦いと艱難辛苦の月日は終わりを告げ、彼はふたたび結ばれた妻ペネロペとすえ長く幸せに暮らした。
(おわり)
(参考)
@幸せに暮らした・・・ホメロス作の「オデュッセイア」の後日談では、オデュッセウスに安息の日々が約束されたかに見えたある時、イタカ島を一人の青年が訪れた。彼は、ほかならぬオデュッセウスと魔女キルケとの間に生まれた子テレゴノスであった。彼は顔も知らぬ父を求め、はるばる海を渡ってイタカを訪れて、浜辺に船を泊め、そこで家畜の群れを追っている一人の牛飼いの男と出会い、ふとしたはずみから手にした銛(もり)で誤って突き殺してしまった。実はこの牛飼いの男こそ、父オデュッセウスだった。その後、テレゴノスは、ペネロペとテレマコスを伴って魔女キルケのアイアエア島へと帰り、父殺しの罪を魔女キルケに祓(はら)い浄(きょ)めてもらっい、テレゴノスはペネロペと、テレマコスは魔女キルケと結婚したという。
「ペーネロペーと犬」(ワイアット)の絵はこちらへ
「ペーネロペーと求婚者たち」(不明) の絵はこちらへ
「ペネロペ」(スタナップ)の絵はこちらへ
「ベネロベと求婚者たち」(ウォーターハウス)絵はこちらへ
「機を織るペーネロペイアと求婚者たち」(フラックスマン)の絵はこちらへ
「ペネロペ」(クリンガー)の絵はこちらへ
「オデュッセウスとペーネロペー」(プリマティッチオ) の絵はこちらへ
「ペネロペの像」(バチカンに展示)の絵はこちらへ
   

(小話707)「トロイア陥落後のギリシャ軍の知将オデュッセウス。その波乱に満ちた数奇な大冒険(1/2)」の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。知将、又は策略家、当時随一の知恵者と言われたオデュッセウスは、イタカ王ラエルテスと神々の伝令神ヘルメスの子アウトリュコスの娘アンティクレイアの子供であった。彼は、その知謀を買われてギリシャ軍の参謀役を務め、トロイア戦争で多大な功績を挙げた。その上、女神アテナの加護を受けた英雄で、トロイア滅亡の原因となった、有名な「トロイの木馬」も彼の考えた作戦であった。知恵と勇気を備えたオデュッセウスの名は、若くしてギリシャ中に知れ渡っていた。スパルタ王テュンダレオスが世界一の美女と言われた娘ヘレネの結婚の際に助言をしたのは、若きオデュッセウスであった。彼は、自身を含めて並み居る求婚者の内から、スパルタ王テュンダレオスの娘婿が決まったら、いかなる結果になろうと不平をもらさないこと、万一、ヘレネが夫から引き離されようとした時には、皆で阻止することを全員に承諾させた(「テュンダレオスの掟」という)。こうして、世界一の美女ヘレネはメネラオスの許へと嫁いで行った。ところが、「パリスの審判」により、トロイアの王子パリスにさらわれた美女ヘレネを取り戻さんとして、トロイア戦争が勃発し、かつて彼女の求婚者に名乗りを上げた者たちは、敵国トロイアへの出征を余儀無くされた。しかし、オデュッセウスには、一つの不吉な予言が下っていた「トロイア遠征に加わるならば、オデュッセウスは二十年は帰ることがかなわず、そして故郷の土を踏む時には、異国の船に乗り、しかも物乞いの姿になっているであろう」と。あまりに恐ろしい予言に、オデュッセウスはトロイアへの出征を逃れようと考えた。そこで彼は、枯れた畑を馬で耕(たがや)し、穀物の種の代わりに塩を播(ま)いて、気が触れたふりをした。その頃、オデュッセウスはテュンダレオス王の弟にあたるイカリオスの美しい娘ペネロペを妻に迎え、その間に一子、テレマコスを儲けていた。そこへ、ギリシャ軍の総大将アガメムノンの命を受けた賢者パラメデス(アガメムノンの従兄弟)が訪れ、乳飲み子のテレマコスをオデュッセウスの牽(ひ)く馬車の先に置き、車の行く先を変えた父親の正気のさまを見抜き、渋る彼をトロイア参戦に駆り立てた。こうして、オデュッセウスは幼い我が子の養育を賢人メントルに託して、故郷のイタカ島を出発した。
(参考)
@アンティクレイアの子・・・コリントス王シシュポスが父とする説もある。(小話639)「シシュポスの岩。又は、神を欺(あざむ)いた男、コリントス王シシュポス) 」の話・・・を参照。
Aパラメデス・・・オデュッセウスを味方に引き入れるとき、オデュッセウスの息子テレマコスを剣で刺し殺すように見せて、オデュッセウスの偽の狂気を見破ったという説もある。
Bトロイア参戦・・・(小話668)(小話669)(小話670)「トロイア(トロイ)戦争・スパルタの美しき王妃ヘレネと王子パリスの恋。そして英雄アキレウスの活躍とトロイの木馬」の話・・・を参照。
C賢人メントル・・・オデュッセウスにテレマコスの養育を託された老賢人。現代では賢明な教育者の代名詞ともなっている。
        (二)
十年の長きに渡るトロイア戦争でギリシャ軍は大勝利を納めたが、トロイアを陥落させた際に、トロイアの男は子供から老人まですべて殺し、女はすべて奴隷にするなどの常軌を逸した略奪と殺戮を行った。そのため、神々の怒りを買うことになった。特に、トロイア軍に加担した美と愛の女神アプロディーテや海王ポセイドンの恨みが激しかった。このため、トロイアから本国に帰還するギリシャ軍には、多大な困難が付きまとうことになった。ギリシャ軍の参謀にしてトロイア陥落の立役者であるオデュッセウスについても、例外ではなかった。彼はトロイア陥落後、自らの艦隊を率いて故郷のイタケ島へ出発したが、その航海中、十年に亘(わた)って数々の困難に遭遇(そうぐう)することになった。トロイア出発後、すぐ嵐に遭って、オデュッセウスとその部下たちは、凶暴なキコネス族の住むイスマロスという島に辿(たど)り着いた。島で彼らは航海に必要な物資を略奪した。そのため、その島の住民たちとの間で小競(こぜ)り合いが発生して、オデュッセウスたちは六人の船員を失った。命からがら島を後にしたオデュッセウスたちだが、今度は暴風雨に見舞われてしまった。このため船団は九日間、海の上を漂流し「蓮(はす)喰い人(ロータス・イーター)の島」へ漂着した。ここの島の住民は、その名の通り蓮ばかり食べている不思議な人たちで、この蓮を食べると恍惚状態になって故郷のことなどすっかり忘れてしまった。オデュッセウスは偵察のため三人の船員を派遣したが、この三人は島民の勧めで蓮を食ってしまい、いつまでたっても戻ってこなかった。不審に思ったオデュッセウスが自ら様子を伺うと、船員たちは住民の間で蓮ばかり食っていた。やむをえずオデュッセウスは、この三人の部下たちを強引に船に連れ帰り、縛って身動きが取れないようにして出航した。
        (三)
次に彼らが到着したのが、種を撒(ま)かずとも小麦や大麦、葡萄(ぶどう)の木が育つ「キュクロプスの島」であった。キュクロプス(一眼巨人)は「円い目」を意味する言葉で、その名の通りこの巨人達には顔の中央に円い大きな目が一つだけついていた。この巨人たち、性格はいたって凶暴で、島に辿り着いた漂流者を片っ端から食い殺していた。そんなこととは露知らないオデュッセウスは、島に上陸すると、山羊(やぎ)を狩りだした。皆はこの地で豊富な山羊の肉を喰らい、キコネス族の国で掠奪した酒を飲み、日がな一日ゆっくりと滞在した。次の日の朝、オデュッセウスは十二名の部下を選び、山羊皮の袋には極上の葡萄酒と食料を詰めて、この島の洞窟へと入っていった。そして、そこの住民が帰ってくるのを待った。しばらくすると大きな足音が聞こえ、並外れて巨大な一つ目巨人が洞窟の中に入ってきた。一つ目巨人は家畜を洞窟の中に引き入れると、大きな岩で入り口をふさいでしまった。そして、その巨大な目で周囲を見渡して、ちっぽけな人間たちを見つけた「お前たちは何者だ。このポリュペモス様のところで何をしておるのだ?」と巨人が吠えるように問いかけてきたので、オデュッセウスは丁重に自分たちの身の上を話し、どうか歓待してもらいたいと頼んだ。ところが巨人は何も言わずにオデュッセウスの部下二人を捕まえると、洞窟の岩壁に叩きつけて殺し、死体を喰ってしまった。その後、人間二人を食って腹いっぱいになった巨人は眠りについてしまった。次の朝も、目を覚ましたポリュペモスは再び二人の船員を叩き殺して食べてしまった。それが済むと巨人はオデュッセウスたちが自分の留守中に逃げ出さぬよう、入り口を大岩でふさぐと、またどこかへ行ってしまった。オデュッセウスと彼の部下達は巨人が杖として使っていた巨大な丸太を加工し、一方の端を錐(きり)のように鋭くした。夕方になると再び巨人が帰ってきて、入り口を大岩でふさいだ。そして、例のごとく二人の人間を叩き殺してその死体を食ってしまった。オデュッセウスはお椀(わん)に酒を満たし、ポリュペモスに話し掛けて酒を勧めた。ポリュペモスは、オデュッセウスに名を尋ねた。オデュッセウスは「キュプロクスよ、私の名前はウテュス(誰でもない)という者だ」と名を告げた。するとキュプロクスは「ウテュス(誰でもない)よ。それではお前を喰うのは一番最後にしてやろう」というと仰向けに転がって、そのまま眠ってしまった。オデュッセウスは用意していた丸太の先を火に掛け真っ赤に熱し、仲間と共にキュプロクスの一つ目を思いっきり突き刺した。キュプロクスは凄まじい悲鳴を上げ、丸太を目から引き抜くと他のキュプロクス達に呼びかけた。声を聞いたキュプロクスたちは「ポリュペモスよ、どうした?何があったのだ」「仲間たちよ。俺を殺そうとしているのは「誰でもない」のだ」「何だ、「誰でもない」のか。人騒がせな奴だ」。集まってきたキュプロクスたちは、そう言い残すとそれぞれの洞窟へと戻ってしまった。朝になり、洞窟から家畜たちはいつものように外へ出て行った。その羊にまぎれてオデュッセウスと仲間たちは無事に洞窟から脱出した。そして、早々に出航し、ある一定の距離まで漕ぎ出してからオデュッセウスは「キュプロクスよ。お前の目を潰(つぶ)してやったのは「誰でもない」者なんかじゃない、かの高名なオデュッセウス様だぞ!」と叫んだ。するとポリュペモスは、父である海王ポセイドンにオデュッセウスの帰国を遅らせ、様々な苦難に遭うようにと祈りを捧げた。その上、ポリュペモスは大岩を持ち上げると、船に向かって投げつけた。キュプロクスの投げた大岩は、あやうく船の切っ先をかすめ海に落ちたが、大海原の支配者、海王ポセイドンは息子の望みを聞き届け、この先オデュッセウスに多くの苦難を与えることになった。
(参考)
「キュクロプス」(不明)の絵はこちらへ
「オデュッセウスとキュクロプス(ポリュペモス)」(フラックスマン)の絵はこちらへ
        (四)
次にオデュッセウス一行が到着したのは、風の支配者アイオロスが住む浮島アイオリエであった。島の周りには青銅の城壁が巡(めぐ)らされ、さらに険(けわ)しい岩山が切り立った、この島には風の王アイオロスの他に彼の六人の息子と六人の娘が住んでいた。風の王アイオロスはオデュッセウスのトロイア戦争での武勇や知略の数々に心を躍らせ、彼らを新鮮な肉と美酒、海と山の珍味で歓迎した。オデュッセウス一行は、この島で一ヶ月を過ごしたが、やがて出港の旨(むね)をうち明けると、風の王は快く承知し、旅路の用意をしてくれると共に、牛の皮を剥(は)いだ皮袋を手渡してくれた。この皮袋の中にはオデュッセウスの船団が無事にイタケ島へたどり着けるように、彼らの邪魔になるような、すべての逆風を閉じ込めてあった。九日の間、オデュッセウスの船団は西風のみの順風を受けて、十日目には夢にまで見たイタケ島の地が見えてきた。しかしオデュッセウスが風の王アイオロスの皮袋を誰にも触らせなかった為、部下たちは袋の中には風の王から貰った財宝が入っており、それをオデュッセウスが独り占めしようとしていると思ってオデュッセウスが眠っている隙に、風が詰まった皮の袋を開けてしまった。たちまち船は、アイオリエへと逆戻りし、困ったオデュッセウスは一人の部下を伴って風の王アイオロスの屋敷を訪ねた。アイオロスは驚いて事情を尋ねたが、オデュッセウスがことの次第を話すと風の王は逆上し、神々に疎(うと)まれている者の世話をすることは出来ないと、彼らを島から追い出してしまった。それから七日に渡る航海の末、オデュッセウスの船団は、ライストリュゴネス島へ辿り着いた。ここがまたキュクロプスの島同様、最悪の島で、島民は人喰い人種たちだった。凶暴な人喰い人種たちはオデュッセウスの船団を入り江に誘い込み、退路をふさいでから総攻撃をかけてきた。おかげで船員たちは皆食い殺されてしまったが、オデュッセウスの乗った船だけは、注意深く沖合いに停泊していたので何とか助かることが出来た。とはいえ、トロイアを出発するときには多くあった船も、今ではオデュッセウスの乗る船だけとなってしまった。
(参考)
@風の支配者アイオロス・・・風の王。あらゆる風神たちを支配し、思いのままに解き放ったり封じたりできる 「アネモイ(風神)の主アイオロス」(古い大理石)の絵はこちらへ
        (五)
次にオデュッセウスの一行は、美しい魔女キルケが治める島「アイエイア島」に辿り着いた。アイエイア島へ着いたオデュッセウスは、副官のエウリュロコスに船員の半分を預けて島内を探検させた。探検隊がしばらく島を捜索していると、島の真中に宮殿があるのが見えた。さっそく行ってみると、魔女キルケが現れて彼らを宮殿に迎え入れ、食事を出して手厚い歓待をした。しかし副官のエウリュロコスは、宮殿に入らずに中の様子を窺(うかが)っていた。すると魔女キルケは魔法の杖で油断した船員たちに次々に魔法をかけ、彼らを豚(ぶた)の姿に変えてしまった。これを見たエウリュロコスは急いでオデュッセウスの元へ戻ると、事の次第を報告した。オデュッセウスは、青銅の太刀を持ち弓矢を背負うと船員を救うべく、一人で魔女キルケの宮殿へ向かった。オデュッセウスが進んでいくと、黄金の杖ケリュケイオンを手に持った神々の伝令神ヘルメス(オデュッセウスの曽祖父)が彼の前に姿を現わした。ヘルメス神は魔女キルケのたくらみをオデュッセウスに告げると、キルケの魔法を無効にする薬草を手渡した。オデュッセウスは魔女キルケの屋敷を訪れた。キルケは最初、オデュッセウスを歓待していたが、そのうち例によって「さあ、仲間たちと一緒に豚小屋でおやすみ」と言って魔法の杖で叩いたが、ヘルメス神から貰った薬草を飲んだ彼に魔法は効かなかった。オデュッセウスが魔女キルケに躍りかかりすばやく剣を突きつけると、彼女は驚いて「あなたはいったい何者です。そうだ、あなたこそ以前よりヘルメス神が言っていたオデュッセウスに違いない。さあその剣をどうぞ鞘(さや)に収めて、私の寝室に入り愛の契りを交わして許しあいましょう」。オデュッセウスは彼女に今後一切危害を加えないと誓いを立てさせ、部下たちを人間に戻すように命じると、魔女キルケの寝室へと共に入って愛の契りを交わした。こうして、オデュッセウス一行はキルケの歓待を受け、毎日心ゆくまでもてなしを受けた。勇者たちもすっかりこの地に腰を落ち着け、豊富な肉や酒を飲みながら楽しい時を過ごしていた。そうしているうちに一年という月日が流れ、忠実な部下たちがオデュッセウスに、イタケへの帰国の気持ちを思い出させた。オデュッセウスにとっては、まだ三日のつもりだったのに。帰ろうとするオデュッセウスに魔女キルケは彼の子供を宿していることを告げ、航路も分からない出発の無謀さを説いたが「たとえ海の藻屑(もくず)となり、魂(たましい)だけになろうとも愛する妻のいる国に帰る」という彼の意志の強さに負けて旅立ちを許した。そして、さらに魔女キルケは帰国するためには、冥府(めいふ)に赴き盲目の予言者テイレシアスに会って、行き先を尋ねることが必要だと教えた。彼女の言葉にオデュッセウスは絶望し、生きている人間がどうして冥府へなどと行けようかと嘆き悲しむと、キルケは冥府への道順を教え、どうやってテイレシアスに予言を請うたらよいかを丁寧に教えた。オデュッセウスは部下たちを起こし、帰国するためにはまず冥府へ赴いて、稀代(きだい)な予言者テイレシアスに会わなければならぬと告げた。冥府へ赴くと聞いた部下たちは驚き、嘆いたが、そうしているうちに魔女キルケは予言者テイレシアスに捧げるために、牡の羊一頭と黒い牝羊一頭を船の傍らに縛り付けた。
(つづく)
(後編は(小話708)「トロイア陥落後のギリシャ軍の知将オデュッセウス。その波乱に満ちた数奇な大冒険(2/2)」の話・・・へ)
(参考)
@魔女キルケ・・・魔女キルケは太陽の戦車を駈(か)る太陽神ヘリオスと女神ペルセイスの娘で、魔法に詳(くわ)しい、半神の美しい女神。アイエイア島に住み、その歌声と美しさで男性を虜(とりこ)にした。しかし、キルケはそういった男性たちに飽きると、捨てるのではなく、魔法で、それぞれを狼、ライオン、豚などの姿に変えて暮らしていた。(小話296)「魔女・キルケとオデュッセウス」の話・・・を参照。
A黄金の杖ケリュケイオン(「カドケウス(伝令の意)の杖」ともいう)・・・ヘルメスは翼のはえたつばの広い帽子を被り、翼のはえたサンダルを履き、二匹の蛇が絡まった黄金で作られた魔法の杖ケリュケイオン(死者の魂を冥界へと運ぶのにも使う)を持っている。ケリュケイオンはアポロンから与えられた物で、二匹の蛇は、かつて争いあっていた二匹の蛇の間にヘルメスが杖をおいたところ、それにからみつき、離れなくなってしまったものだという。又、ヘルメスは旅人を守る神としての彼の顔を描いた里程標や同祖神が立てられている。
B予言者テイレシアス・・・人間エウエレスとニンフ(妖精)のカリクロの子で、昔、蛇が交尾している様を偶然、見掛けた彼は、持っていた杖でその二匹を叩いて引き離してしまった為に、蛇の祟(たた)りを受けて「女の体になってしまった」が、それから7年後、またしても蛇が交尾をしている様を見掛けて、同じように蛇を杖で叩き、再び祟りを受けて男の身へと戻ったという。ある時、女神・アテナの沐浴(もくよく)を覗(のぞ)き見たために視力を奪われた予言者で、テーバイの町に住んでいた。
「魔女キルケ」(ドッシ))の絵はこちらへ
「キルケー(キルケ)」(バーカー)の絵はこちらへ
「オデュッセウスとキルケ」(フラックスマン)の絵はこちらへ


((小話706)「アダムとイヴとイエス・キリスト」の話・・・
           (一)
  ある牧師の話より。ギリシャ正教の聖画に、イエス・キリストが陰府(死者の世界)で鎖を解かれたアダムとイヴを両手で引き起こしているというものがあるそうで、これは、福音に接する機会を持たないで、先に死んだ人にもキリストの救いが宣教されていることを示す画像であるという。ペトロ手紙1の3章にもキリストの死者たちへの福音宣教のことが記されている。又、ペトロ手紙1の4章では「死んだ者にも福音が告げ知らされた」とはっきり死者への福音宣教と死後の救済を根拠づけている。使徒信条にも「死にて葬られ、陰府にくだり」 という条項がある。これは、明らかに聖書を反映し、それはイエスを信じないで死んだ人の救いをさえ語っている。これは大きな慰めです。
(参考)
@ペトロ手紙1の3章・・・(3-17)神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。(3-18)キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(3-19)そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
Aペトロ手紙1の4章・・・(4:06)死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
B使徒信条・・・「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラト(ユダヤの総督)のもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父である神の右の座に着き、生者(せいじゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン」
           (二)
  イエス・キリストの救いの御事業の前には(例えば自殺のような場合でさえ)取り返しがつかないというようなことはない。では、生きている間に神様を信じなくてもよいのでは? との問いに対しては、神様の愛、永遠の生命を知らないで、恐れの内を生きているのと、すっかりイエス様にお任せして、悠々安心して楽しく生きるのとどちらがいいか、答えははっきりしている。この使徒信条がキリストの死をくどいほど強調するのは、イエス様が本当に生身の人間を救うために、その人間の居場所までおいでになり、本当に死んでくださり、さらにさらに死者のところまでも行かれたことを表わすためで「死にて葬られ、冥府にくだり」は、陰鬱な言葉のようですが、実はこれ以上喜ばしいことはないとの信仰を表わしている。


((小話705)「イソップ寓話集20/20(その13)」の話・・・
         (一)「イヌどもとキツネ」
幾匹かのイヌがライオンの皮を見つけて、チリヂリに裂(さ)いていた。キツネがそれを見てこう言った。「彼が生きていたなら、お前たちの歯なぞより、彼の爪の方が強いことを、瞬時に思い知らされるだろうがな」
(倒れている者を蹴飛(けと)ばすのはたやすい)
         (二)「オオカミとウマ」
麦畑をうろついていたオオカミが、畑から出て来ると、ウマに出合った。そこで、オオカミは、こんなことを言った。「いいことを教えて上げるよ、畑の中へ行ってごらん、美味そうなオート麦がどっさりあるよ。僕は手をつけずに君のために残しておいたんだよ。だって、君は僕の友達だろう。僕は友達が、食べ物を歯で噛み砕いている音を聞くのが大好きなんだよ」。すると、ウマはこう答えた。「もし、オオカミの餌がオート麦だったなら、胃袋を満たさずに耳で我慢するなんてことはなかっただろうよ」
(悪評のある人は、善行をしても、悪評がために信用を得ない)
(参考)
@オート麦・・・オート麦あるいはオーツは、別の名をカラス麦とかエンバク(燕麦)と言い、水溶性食物繊維の豊富な穀物。
         (三)「北風と太陽」
北風と太陽が、どちらが強いか言い争った。そこで、旅人の服を早く脱がすことができた者を勝者とすることにした。まず北風が、あらん限りの力で風を吹きつけた。しかし、激しい突風のために、旅人はよけいマントを身体にぴったりと巻き付けた。とうとう、北風は諦めた。次に、太陽がやってみることにした。太陽は、俄(にわか)に輝きだした。旅人はこのポカポカの日差しを感じると、一枚一枚服を脱いで行き、とうとう、暑さに耐えかねて、裸になった。
(権力者の争いに巻き込まれた民衆は、結局、身ぐるみはがされてしまうのである)


((小話704)「好事(こうじ)と独坐(どくざ)」の話・・・
           (一)
    ある禅僧の話より。岐阜市の長良橋のたもとに鵜匠のブロンズ像が立っていて、その近くに松尾芭蕉の有名な俳句「おもしろうて、やがて哀(かな)しき、鵜舟(うぶね)かな」の碑が刻んであった。芭蕉は旅の途中、長良川の鵜飼いを楽しんだものと見える。舟に乗りワイワイと、おそらく鮎を肴(さかな)にお酒でも飲んで、美しい鵜飼いの夜を満喫していたのであろう。しかし、だんだんと時間が過ぎ面白さの頂点に達したその時、ふっと心の中をすき間風が吹き抜けて、十分に楽しんだはずなのに、何だか満たされない淋しく、空しい気分になったのであろう。かって漢の武帝が「秋風の辞」に「歓楽(かんらく) 極まって、哀情(あいじょう)多し(自分の欲するものは何でも叶えられた武帝は、遊び、楽しみごとのその果てには空しい、哀しい気持ちしか残らないという)」と詠んだ。又「好事不如無(好事も、無きに如かず)」という禅語があるが、好事とは良いこと、楽しいこと。どのような有頂天になるような事が あっても、それに心を奪われるくらいなら、無い方がまだ良い、という意味である。
(参考)
@「秋風の辞」・・・「秋風(しゅうふう)起って、白雲(はくうん)飛び。草木(そうもく)黄落(こうらく)して、雁(がん)南に帰る。蘭(らん)に秀(ひい) でたる有り、菊に芳(かんば)しき有り。佳人(かじん)を懐(おも)うて、忘るる能わず。楼船を泛(うか)べて、汾河(ふんが)を済(わた)り。中流に横たわって、素波(そは)を揚げ。簫鼓(しょうこ)鳴って、櫂歌(とうか)を発す。歓楽(かんらく)極まって、哀情(あいじょう)多し。少壮(しょうそう)幾時ぞ、老(お) ゆるを奈(いか)んせん」(秋風が吹き起こっては雲が飛び、草木は黄ばみ葉を落として、雁は南へ帰っていく。蘭は花をつけ、菊は香りを放ち、立派な臣下を得たい思いが、念頭を離れない。屋形船を汾河に浮かべると、船は流れの中で白波をたてる。笛の音、鼓の響きに和して、舟歌が起こる。歓楽の極まるところ、しきりに悲しみが込み上げてくる。若いときは束の間に過ぎ、迫りくる老いを如何ともできない)
           (二)
中国は唐の時代、百丈(ひゃくじょう)禅師という坊さんが居た。ある日、修行僧が百丈禅師に、「この世で一番尊くて、ありがたい事は一体なんでしょうか」と訪ねた。それに対して百丈禅師は「独坐大雄峯(どくざだいゆうほう)」と答えた。大雄峯とは百丈禅師が住職をしいたお寺の山の名前で、富士山とか、御嶽山と云うのと同じある。つまり、世の中で一番ありがたく尊い事は、この俺がこの山にどっかりと腰を据えて坐っていること意外に、特別な事はないのさ、と答えたのだ。自分が、今ここに存在している事が有り難いのであった。
(参考)
@百丈禅師・・・百丈懐海。中国、唐代の禅僧。洪州(江西省)の百丈山に住して教化し、禅門の規範「百丈清規(しんぎ)」を定めて自給自足の体制を確立した。


((小話703)「三つの「川渡し」の問題」の話・・・
         (一)
アルクィンの「狼と山羊とキャベツを伴う旅人の川渡り」の問題。「1匹の狼と1匹の山羊と1個のキャベツを旅人が舟に積んで川を渡るとき、旅人は1回の渡しに1つのものしか積むことはできない。山羊がキャベツを食べないように、狼が山羊を食べないようにするには、それらをどのように運べばよいか? (狼とキャベツは一緒でも大丈夫である)」
(参考)
@アルクィン・・・イングランドのヨーク出身の修道士、神学者、教育者であったアルクィン著の「青年の精神を敏捷にする問題集」に「狼と山羊とキャベツを伴う旅人の川渡り」の問題がある
解答はこちらへ
         (二)
16世紀のタルターリアの「3人の川渡り」の問題。「3組の夫婦が川を舟で渡ろうと思った。舟には一度に2人しか乗ることができない。ところが、かれらはきわめて嫉妬深く、妻は自分の夫が対でない他の夫人と一緒にいることは我慢がならない。夫の方も自分の妻が対でない他の男と一緒にいることは許さない。どうしたらトラブルなしに川を渡ることができるだろうか。こちら岸でも、向こう岸でも舟の中でも妻は夫が側にいない限り、他の男と一緒にいてはいけない。(たとえ、他の男が2人でも)
(男同士、女同士は一緒で大丈夫)」
(参考)
@タルターリア・・・イタリアの数学者。三次方程式の一般的解法を発見。また、弾道の理論を研究。ユークリッドの「原論」を翻訳。
解答はこちらへ
         (三)
江戸は元禄期の「男重宝記」の「虎の子渡し」の問題。「天竺(印度)に3匹の子をもつ母虎がおり、子虎の1匹は凶暴で母虎がいないと他の子虎を食い殺す危険がある。この母虎が3匹の子虎を連れて川を渡ろうとしている。川を渡るには母虎は子虎を1匹ずつくわえて泳いで渡らなければならない。全ての子虎を無事に向こう岸に運ぶには母虎はどうすればようか? (凶暴でない2匹の子虎は一緒でも大丈夫)」
解答はこちらへ
(参考)
@「虎の子渡し」・・・南宋時代の周密の「癸辛雑識‐続集下」と言う本に次のような話が載っている。「虎が三匹の子を生むと、その中には必ず彪(ひょう)が一匹いて、見ていないと他の子供を食べてしまおうとする。だから、川を渡る時、親は一匹ずつ運ぶんだそうで、うまくしないと彪が他の子を食べてしまう。そこで、親は、まず彪を背負って対岸に渡し、次にもう一匹を背負って渡した帰りに彪を背負って戻り、残りの一匹を渡したあとで、また彪を背負って渡るという。


((小話703)「呪われたタンタロス一族。末代まで続いた一族同士の悲劇」の話・・・
          (一)
ギリシャ神話より。大神ゼウスと人間の娘プルトの子であるリュディア王タンタロスは、その美しさゆえに、神々に愛された男で、神の飲料「ネクタル」と食べ物「アンブロシア」(不老長寿の果物)を食べて不死の命まで与えられていた。しかし、そのためタンタロス王は傲慢となり、あるとき神々を騙(だま)してみようと思いついた。彼は自分の息子ペプロスを殺し、その人肉を料理して神々の前に出した。人肉は非常に上手に料理されて何の肉かわからなくなっていたので、彼はこの肉を出すことで神々を試したのであった。しかし、この企(たくら)みは大神ゼウスによっていとも簡単に暴(あば)かれてしまい、タンタロスは「息子を殺した罪」と「神々に不敬をはたらいた罪」に問われ、冥界タルタロスへたたきこまれた。タンタロスがここで受ける罰は、悲惨なものであった。彼は泉に腰まで浸かった状態で、餓えと喉の渇きにさいなまされた。タンタロスが水を飲もうとしても、水は彼を避けていってしまうので、決して彼は水を飲むことが出来ない。しかも、泉のそばには果実がたわわに実っているのだが、これまた彼が手を伸ばすと逃げていってしまった。こうしてタンタロスは、永遠の飢えと渇きの罰を受けた。
(参考)
@神の飲料「ネクタル」・・・神の飲料「ネクタル」と食べ物「アンブロシア」を人間の仲間に与えようとした説や地上で神々のような贅沢をして暮らしたいと言って大神ゼウスを怒らせたという説もある。
Aタンタロス・・・タンタロスの娘ニオベは、七男七女をもうけた事を自慢し、女神レトの怒りをかい、太陽神アポロンと月と狩りの女神アルテミスにその子供たちを全員射殺された。(小話437)「母なる女神・レトを守る狩猟と月の女神・アルテミス。そして、王妃ニオベとその子供たち」の話・・・を参照。
B永遠の飢えと渇き・・・こうした状態を「タンタロス状態」という。これは「目の前に欲しいものがふんだんにありながら、決してそれを得ることが出来ない」といった飢餓感を表す言葉である。
「タンタロス」(ホルバイン)の絵はこちらへ
           (二)
神々はタンタロスの息子ペプロスをかわいそうに思ったので、彼を生き返らせてやることにした。神々はこの人肉に手をつけなかったが、ただ一人、豊穣の女神デメテルだけは、娘を失った悲しみで注意力が欠けていて、うっかり肩の肉と骨を食べてしまった。そのため、神々は象牙(ぞうげ)で肩の部分を補い、ペプロスを再生してやった。このため、ペプロスとその子孫は、その特徴として「象牙のような白い肩」を持っていたという。このペプロスは大人になるにつれて、ますます美しい若者になった。彼は、神々の中でも、特に海王ポセイドンの寵愛を受けた。そして、海王ポセイドンより有翼の戦車を与えられた。ある時、ペプロスはピサという国の王オイノマオスの美しい娘ヒッポダメイアに恋をしたため、彼女に求婚することにした。しかし、彼女と結婚するには、その父オイノマオスの過酷な試練を受けなければならなかった。オイノマオス王は「娘婿に王座を奪われる」とアポロン神の神託を受けていたので、求婚者には自分と「戦車競争」をして勝てば娘を与えるが、負ければ殺すと宣言していた。「戦車競争」では、まず求婚者はヒッポダメイアを連れて戦車に乗って逃げ、その後をオイノマオス王が武装してこれまた戦車で追うというもので、求婚者がうまく逃げ切ればヒッポダメイアと結婚できるが、追いつかれてしまった場合はオイノマオス王に殺されるというものであった。今までにも何人もの求婚者たちが、この「戦車競争」に挑んだが、オイノマオス王は軍神アレスからもらった武具と馬を持っていたので、皆敗れて彼に殺されていた。ペプロスはこの「戦車競争」を受けて、美しい娘ヒッポダメイアを手に入れようとしたのであった。
(参考)
@女神デメテルだけは娘を失った悲しみで・・・女神デメテルは、娘である春の女神ペルセポネが冥界の王ハデスにさらわれて突然、姿を消したために悲しみに沈んでいた。(小話389)「冥界の王・ハデスと美しきペルセポネ」の話・・・を参照。
A「戦車競争」・・・古代オリンピックは、この戦車競争を記念してペロプスが大神ゼウスへの奉納試合として競技会をはじめたのが起源だと言われている。又、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、英雄アキレウスが競技会を行ったのが起源だという説もある。現在もオリンピックに人間以外で唯一参加している動物は馬である。
「大神ゼウス、オイノマオス王、娘ヒッポダメイアの像」の写真はこちらへ
左から大神ゼウス、オイノマオス王、娘のヒッポダメイア、かがむ従者と王の戦車をひく馬。
          (三)
一方、オイノマオス王の娘ヒッポダメイアの方も、凛々(りり)しいペプロスを見て一目惚れしてしまった。そこで彼女とペプロスは、オイノマオス王の戦車の御者を務(つと)める、神々の伝令神ヘルメスの子ミュルティロスに助けてくれるように言い「自分がピサの王になった暁には、領土を半分与えてやる」と約束した。この御者ミュルティロスもまたヒッポダメイアに惚れていたので、彼はこの申し出を了承した。王の娘ヒッポダメイアを賭けた死の競技が始まった。しかし、ミュルティロスがあらかじめ王の戦車の車軸の釘(くぎ)を抜いていたため、競争中に王の戦車の車輪が外れてしまい、オイノマオス王はバランスを崩して戦車から転落した。しかもその時、手に手綱が絡(から)まってしまったので、オイノマオス王は戦車に引きずられる格好となり、そのまま絶命した。死に際してオイノマオス王は、ペプロスと自分を裏切った御者ミュルティロスに呪いをかけた。こうしてペプロスはヒッポダメイアを手に入れたが、オイノマオス王の呪いを受けた。その呪いは、早くも効果を現わした。ペプロスは妻としたヒッポダメイアの他、御者のミュルティロスも一緒につれて故郷に帰ろうとしたが、その途中、ペプロスが水を探しに行った隙を見計らってミュルティロスがヒッポダメイアを犯そうとした。ヒッポダメイアは夫ペプロスにミュルティロスの狼藉(ろうぜき)を訴え、怒ったペプロスはミュルティロスを崖から海に突き落としてしまった。ミュルティロスは死ぬ間際に、ペプロスに向かって「ペロプスの子孫に災いあれ」と呪いの言葉を浴びせた。これでペプロスは、オイノマオス王と御者ミュルティロスの二人から呪われることとなった。やがて、ペロプスとヒッポダメイアは故国のリュディアに戻った。ペロプスは、故国の妻を拒絶して、ヒッポダメイアと二人で、公衆の面前で彼女を侮辱した。その後、リュディアの王となったペロプスは妻ヒッポダメイアの故国ピサに軍勢を従えて侵略に向かい、見事勝利を収めて帰国した。そしてペロプス王は、自分の不在中に元妻が子を産んだのを知った。だが、妻のヒッポダメイアの命令によって、その元妻が殺されていたので、生れた子は、元妻の墓前で保護することを誓った。
           (四)
ペロプス王の統治で二十年が過ぎ去った。ペロプス王とヒッポダメイア夫妻には二人の息子がいた。アトレウスとテュエステスであった。だがペロプス王がもっとも可愛がったのは、元妻との子クリュシッポスであった。そこで、密(ひそ)かに王妃ヒッポダメイアは、自分の二人の息子(アトレウスとテュエステス)がクリュシッポスに罠をかけるように仕向けていた。そうした中、後のテーバイ(エジプト)の王となるライオスが、亡命してペロプス王の客となっていた。そして、王子クリュシッポスに、戦車を駆(か)る術を教えている時に、王子クリュシッポスに恋した。だが、彼を略奪しようとして、彼を死に到(いた)らしめてしまった。そのとき、美少年クリュシッポスは死に際(ぎわ)に、ライオスを呪って、ライオスが将来生まれる自分の子に殺されるようにと大神ゼウスに祈った。ペロプス王は、最愛の息子を亡くした悲しみに荒れ狂った。王妃ヒッポダメイアはオイノマイオス王の呪いが成就してしまったと悟り、自害して果てた。ペロプス王は王国のすべてを「呪いの女神たち」に委ねることにして、城を立ち去った。一方、ペプロス王と王妃ヒッポダメイアの子供のアトレウスとテュエステスの二人は、父が受けた呪いのせいで仲が悪った。そして兄弟は、ピサの近くのミュケナイの王位をめぐって激しく争った。
(参考)
@ライオスを呪って・・・(小話414)「スフィンクスの謎を解いた王子・オイディプスと呪われた王家」の話・・・を参照。
A美少年クリュシッポス・・・死んだと思われていた御者のミルティロスが乞食(こじき)の姿で現われ、王子クリュシッポスに近づき、ペロプス王と王妃ヒッポダメイアによるオイノマイオス王の殺害について告げ口をした。クリュシッポスは王妃ヒッポダメイアを公の場で罵(ののし)り、それに怒った王妃ヒッポダメイアの子アトレウスがクリュシッポスを突き刺し、とどめをテュエステスが刺したという説がある。
         (五)
ある日、アトレウスは自分の羊の中で最も美しいものを、狩りと月の女神アルテミスに捧げると誓った。するとアルテミス女神が彼を試すかのように、黄金の子羊が目の前に現われた。あまりの美しさにアトレウスは女神に捧げるのをためらい、結局、誓いを守らず子羊を絞め殺して箱に納め、自分の物としてしまった。このせいで、女神アルテミスの怒りから妻アエロペが弟のテュエステスに心移すようになってしまった。やがて「ペロプスの子を王に選ぶべし」という神託によって、アトレウスとテュエステスがミュケナイ国に招かれた。野望高き兄弟は、我こそが王になる者だ、と一歩も譲らなかった。そこで弟のテュエステスは、ある策を練った。自分を好いている兄嫁アエロペを利用して、兄アトレウスに見つからぬよう黄金の子羊の入った箱を盗ませた。自分の手中に収めるやテュエステスは「黄金の子羊の所有者が王国を有するべき」と布告した。まさか盗まれたなどとは夢にも思わない兄アトレウスは同意した。しかし、テュエステスが持ち出してきたのは、自分の所有物であるはずの黄金の子羊で、盗まれたとわかりながらも、アトレウスは弟テュエステスがミュケナイ国王になることを認めざるを得なかった。そんな時、兄のアトレウスに大神ゼウスが味方についた。そして、神々の伝令神ヘルメスを遣(つか)わして助言した「もし太陽が逆の道を通ったなら、アトレウスが王になるという契約を結べ」と。そこで兄アトレウスは、弟テュエステスに話を持ち出した。「太陽が逆にすすむだと?そんなことがあるわけない」と鼻で笑いながらテュエステスは承諾した。すると本当に太陽が西から昇って、東へ沈んだ。こうして、兄のアトレウスがミュケナイの国王になり、弟テュエステスを国外に追放した。しかし、アトレウスは自分の妻アエロペが弟テュエステスと不倫していたことを知り、更なる憎悪を燃やし、恐ろしい報復を実行した。
(参考)
@元妻との子であるクリュシッポス・・・後(のち)にテーバイの王となるライオスはペロプス王の元妻の子クリュシポスに 戦車競技を教えていたが、やがてこの王子を愛するようになり、彼を犯そうとした。クリュシッポスは同性愛の相手になることを拒み、自害した。騒ぎを恐れてライオスはさっさと自分の生まれ故郷のテーバイに帰国した。(小話29-414)「スフィンクスの謎を解いた王子・オイディプスと呪われた王家」の話・・・を参照。
          (六)
アトレウス王は、弟テュエステスに和解を持ちかけて彼の帰国を促した。この申し出をすっかり真に受けたテュエステスは、三人の子供を連れてミュケナイに帰国し、アトレウス王のもてなしを受けた。しかしアトレウス王はこの三人の息子を密(ひそ)かに殺し、その人肉を弟テュエステスに差し出した。人肉はバラバラに切り刻まれている上に、手足の部分が除かれてあったので、テュエステスは何も知らずに、自らの息子の肉を喰った。アトレウス王は頃合を見計らってテュエステスの三人の息子の生首を見せ、料理の正体を教えた。その上、アトレウス王はテュエステスを散々辱め、再び彼を国外に追放した。天上の神々も、この極端な復讐行為には眉をひそめた。弟テュエステスは、このような非道な仕打ちをされたことに激しく憤り、憎悪の心を燃やした。彼はアトレウス一族に復讐するべく自らの娘ペロピア(後にペロピアは自害)と交わり、これに一子アイギストスを産ませた。そして、このアイギストスにアトレウス一族への復讐を託した。アイギストスは成長して自分がテュエステスの子であることを知った。そこで、伯父のアトレウス王に自分が父を殺すと偽りの申し出をして、アトレウス王を油断させた。その上、父テュエステスと報復の相談をして、アトレウス王に血に染まった刀を見せた。アトレウス王は弟テュエステスが死んだと思って喜び、感謝の供物を捧げている隙に、アイギストスは剣で伯父のアトレウス王を刺し殺した。こうしてアイギストスは、ミュケナイ王国を父テュエステスに渡した。一方、アトレウス王と妻アエロペとの間には長男アガメムノンと次男メネラオスがいたが、テュエステスに政権が移ったので二人の子供はスパルタ王テュンダレオスのもとに逃れた。やがてその地で、弟のメネラオスは、テュンダレオス王の娘の絶世の美女ヘレネと結婚した。後にスパルタ王テュンダレオスは死に際してメネラオスを王位の継承者に定めた。長男のアガメムノンは、スパルタ王テュンダレオスの後ろ盾でミュケナイ国に戻り、テュエステス王を追放した。そして、テュエステス王の幼い息子タンタロスを殺し、妻である美しいクリュタイムネストラ(絶世の美女ヘレネと双子の姉妹)を奪って自分の妻とした。ただ、テュエステス王の子アイギストスは神の加護(一族の呪いを継続するため)で死をまぬがれて、アガメムノン王の武将の一人になった。こうして、アトレウスの長男アガメムノンはミュケナイ王家を継承した。オレステスはこのアガメムノン王の息子で、オレステスまでタンタロウス一族の呪いは続いていくのであった。
(参考)
@オレステスはこのアガメムノン王の息子・・・(小話692)「トロイア陥落後のギリシャ軍の総大将アガメムノンとその一族の悲劇」の話・・・を参照。


(小話702)「怪比丘尼(かいびくに)」の話・・・
        (一)
東晋(とうしん)の大司馬、桓温(かんおん)は威勢(いせい)赫々(かくかく)たるものであったが、その晩年に一人の比丘尼(びくに)が遠方からたずねて来た。彼女は才あり徳ある婦人として、桓温(かんおん)からも大いに尊敬され、しばらく其の邸内にとどまっていた。唯(ただ)ひとつ怪しいのは、この尼僧の入浴時間の甚(はなは)だ久しいことで、いったん浴室へはいると、時の移るまで出て来ないのである。桓温(かんおん)は少しくそれを疑って、ある時ひそかにその浴室を窺(うかが)うと、彼は異常なる光景におびやかされた。尼僧は赤裸(あかはだか)になって、手には鋭利らしい刀を持っていた。彼女はその刀をふるって、まず自分の腹を截(た)ち割って臓腑をつかみ出し、さらに自分の首を切り、手足を切った。桓温(かんおん)は驚き怖れて逃げ帰ると、暫くして尼僧は浴室を出て来たが、その身体は常のごとくであるので、彼は又おどろかされた。しかも彼も一個の豪傑であるので、尼僧に対して自分の見た通りを正直に打ちあけて、さてその子細(しさい)を聞きただすと、尼僧はおごそかに答えた。
(参考)
@大司馬(だいしば)・・・古代中国の官名。周代には軍政の長として軍事・運輸をつかさどった。
        (二)
「もし上(かみ)を凌(しの)ごうとする者があれば、皆あんな有様になるのです」。桓温(かんおん)は顔の色を変じた。実をいえば、彼は多年の威力を恃(たの)んで、ひそかに謀叛(むほん)を企てていたのであった。その以来、彼は懼(おそ)れ戒(いまし)めて、一生無事に臣節(しんせつ=臣下として守るべき節操)を守った。尼僧はやがてここを立ち去って行くえが知れなかった。尼僧の教えを奉じた桓温(かんおん)は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄(かんげん)は謀叛(むほん)を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。