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(小話701)小説「阿部一族」の話・・・
          (一)
肥後(熊本)の国は、豊臣秀吉による九州平定後、加藤清正、小西行長が領有していたが、関ケ原の戦いに清正は東軍(徳川方)に属したが、行長は西軍(豊臣方)の主力となって敗北した。そのため肥後の国は、加藤清正の所領となり、清正は慶長十二年(1612年)に熊本城を築いた。清正没後、後継の忠広が若年のこともあって、お家騒動が起り、さらに寛永九年(1632)、徳川忠長事件に連座したため加藤家は断絶した。同九年、(福岡)小倉の領主、細川忠利が加藤領全域を継承して五十四万石の熊本藩主となった。寛永十四年(1637)、島原の乱(キリシタン一揆)が勃発した。この鎮圧のために徳川幕府は大軍を動かした。攻撃の主力となったのは細川、黒田勢で、首謀者、天草四郎時貞の首を挙げたのは細川家臣であった。将軍、家光はこのときの細川藩の活躍を褒め称えた。忠利は名君ともいわれたが、島原の乱後三年の寛永十八年(1641)に江戸への参勤(さんきん)交代に上ろうとしている内、はからずも病にかかった。忠利の病は、典医の処方も功を奏せず、日増し重くなるばかりで、とうとう三月十七日、五十六歳で死去した。
(参考)
@徳川忠長事件・・・1632年、将軍家光は、かつて競争相手だった弟の忠長を改易(所領・所職・役職を取り上げること)、その後自殺に追い込み、加藤清正の子で熊本城主の忠広を改易して将軍権力の強大さをみせつけた。忠広の改易は、将軍、家光の転覆を企てる密書が世間に流され、その密書の元が加藤忠弘の嫡子光広であったという。将軍、家光の弟の徳川忠長を家光に代わって将軍に立てようとの動きがあると伝えられている中でのこの密書の流布であった。
          (二)
忠利の死期が迫ったとき、阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)、寺本八左衛門以下、十九人の者たちが殉死(主君が死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること)を願い出た。そして、弥一右衛門を除く十八人の殉死が許され、忠利の死後、後を追って次々に切腹した。殉死したのは千石取りの重臣から犬番役の軽輩までいた。ただ一人、禄高も高い重臣である阿部弥一右衛門だけが許可されなかった。阿部一族の頭領、弥一右衛門は、はじめ明石猪之助といい、忠利が豊前小倉の領主のときに取り立てられ、千百五十石の知行を受けていた。島原の乱のとき、子ども五人のうち三人までが、その軍功により新たに二百石ずつを知行地として貰っていた。そのため弥一右衛門は、忠利が没したとき殉死するだろうと家中(かちゅう)の皆にそう思われていた。弥一右衛門は、幼少の頃から忠利の側近くに仕え、高禄を食む身分であった。殉死者十八名の者たちの誰よりも多くの知行を受けていた。彼は、再三再四、殉死を願い出ていたが、忠利は「後嗣(こうし)、光尚(みつひさ)に奉公してくれ」といって許可しなかった。弥一右衛門は決心した。自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残って、家中(かちゅう)の者に顔を合わせているということは、百人が百人、所詮出来ぬことと思うだろう。犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。だが俺は俺だ。よいわ。武士は妾(めかけ)とは違う。主の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。こう思って一日一日を毅然として勤めていた。
  (参考)
@弥一右衛門を除く・・・森鴎外は、「阿部一族」の中で「忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助と言って小姓を勤めている頃も、猪之助が「御膳を差し上げましょうか」と伺うと「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると「好い、出させい」と言う。忠利はこの男(弥一右衛門)の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかと言うと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない」、そのため忠利は、弥一右衛門が言うことに何でも反対するという性格となってしまったとしている。
          (三)
弥一右衛門は、殉死の許しが出ないままに、忠利が死亡してしまったのであった。そして、許可された十八人が次々に殉死した。年齢は六十四歳から十七歳にいたった。熊本藩中はその噂で持ち切りとなり、それに尾鰭(おひれ)がついて、忠利の愛鷹まで殉死したとの噂が広まった。忠利は、鷹狩りを好み、「有明」「明石」という鷹を飼育していた。ところが、この二羽は、岫雲院(しゅううんいん)で忠利が荼毘(だび)に付されいた時、境内に飛んで来て、まるで、死んだ主人の後を追うように、桜の下の井戸の中には飛び込んで死んでしまった。人々の間には「それではお鷹も殉死(じゅんし)したのか」とささやく声が聞えた。これに対し弥一右衛門は臆病者と罵られる始末であった。「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない。阿部の腹の皮は人とは違うとみえる。瓢箪(ひょうたん)に油でも塗って切れば好いに」といわれるようにまでになり、彼は遂に「己(うぬ)は命が惜しくて生きているのではない。己をどれほど悪く思う人でも、命を惜む男だと思うとは」といって詰所から退いて、別家している子供たちを急いで山崎の自邸へ呼び寄せた。弥一右衛門は長子、権兵衛(ごんべえ)、二男、弥五兵衛(やごべえ)、五男、七之丞(しちのじょう)、そして、後から来た三男、市太夫(いちだゆう)、四男、五太夫(ごだゆう)を見回して口を開いた「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中(かちゅう)一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今、瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」。三男、市太夫も四男、五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家していたが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、新主君になって人に羨(うらや)まれる一人であった。市太夫は言った「なるほど。ようわかりました。実は同輩(どうはい)が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃(そろ)うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その言葉が何か意味ありげで歯がゆうござりました」。父の弥一右衛門は笑った「そうであろう。目の先ばかり見える近眼(ちかめ)どもを相手にするな。そこで、その死なぬはずの俺が死んだら、お許しのなかった俺の子じゃというて、おぬしたちを侮(あなど)る者もあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一緒に受けい。兄弟喧嘩(きょうだいげんか)をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」といって、子供たちの面前で切腹した。
          (四)
当時の風習として、殉死者の遺族は加増されたりして周(まわ)りから尊敬されたが、反面、主君の許可がない殉死は、戦場で抜け駆けをして討ち死にしたのと同様で犬死と同じとされていた。そのため、弥一右衛門の切腹後、四人の知行が召し上げられたうえ、弥一右衛門の跡は長子、権兵衛が継いだが、その知行千百五十石を分割して、権兵衛に三百石、次男弥五兵衛、三男市太郎、四男五太夫の三人には二百石宛、末子五男七之丞には十人扶持を賜ることになった。この処分は、他の殉死した十八人が、それぞれ継承者に新知行地、加増、役替えなどの優遇措置があったのに対し、苛酷極まる処分であった。長子、権兵衛は、父の禄高をそのまま継ぐことができず、三百石となった。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、権兵衛の肩身が狭くなったのは言うまでもない。また弟たちも、千石以上の本家を頼りにしていたので極めて不満であった。弥一右衛門が生き長らえて奉公しているときは、殉死しないと軽蔑したが、切腹した後は後で弥一右衛門を誉(ほ)める者がいない。さらには、弥一右衛門の知行を長子、権兵衛がそのまま継ぐこともできず、阿部家への侮蔑の念は募(つの)るばかりであった。そして、権兵衛兄弟は次第に家中で疎外されていった。長子、権兵衛は、主君の仕打ちや家中の振舞いに不快の念を抱きつづけていた。
(参考)
@当時の風習・・・三代将軍、家光の代では、殉死者が多かった。しかし、主君に特別の恩顧を受けた者がみな殉死するとなると、有能な人材が失われるなどの弊害もあり、主君が許さない殉死は否定されていた。殉死という風習の弊害を考え、四代将軍、家綱は「武家諸法度」を公布する際、口頭で殉死を禁止する旨を命じ、五代将軍、綱吉の代には、殉死を禁ずる条項を「武家諸法度」に加えた。
            (五)
寛永十九年三月、菩提所の落成を兼ねた忠利の一周忌法要が、向陽院で営まれた。儀式は滞りなく進んだが、阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として焼香した後、脇差(わきざし)の小柄(こづか)を抜き取り、髻(もとどり)を切って忠利の位牌、妙解院殿に供えるという行為に出た。当時、髻を切るということは、武士を棄てるということであった。明らかに権兵衛は先君に対する面当(つらあ)てと、当主、光尚に対する不信の意を表したのであった。不意の出来事だったので、周りの侍たちは唖然として見ていたが、やがて召し捕られて組頭、薮市正に「お預け」の身となった。権兵衛が詰衆(つめしゅう)に尋ねられて答えた「貴殿らは、それがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右衛門は一生、瑕瑾(かきん=小さな傷)のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人に先だって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、上(かみ)にもご承知と見えて、知行を割(さ)いて弟どもにおつかわしなされた。それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも傍輩(ほうばい)にも面目がない。かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所柄(がら)を顧みざるお咎(とが)めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである」と。権兵衛の答を聞いて、二十四歳の血気の殿様、光尚は自分に面当(つらあ)てがましい所行(しょぎょう)をしたのが不快に思った。権兵衛は、先代の御位牌に対して不敬なことをあえてした、上(かみ)を恐れぬ所行として、遂には白昼に縛り首に処せられた。阿部一族は、切腹を賜らないで縛り首になったのを恥辱であると思った。次男、弥五兵衛以下四人の弟たち一族の者達らは、門を閉じて御沙汰を待つことにした。そして一族の前途について協議を重ねた結果、一族郎党、女子供にいたるまで山崎町の本家、権兵衛宅に立て篭ることを決意した。武士の誇りと意地であった。そして、阿部一族に討手が差し向けられる前日に、まず邸内を掃除し見苦しい物は焼き捨てた。そして老人や女は自刃し、幼い子供たちは刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸(しがい)を埋めた。あとに残ったのは屈強(くっきょう)な若者ばかりであった。
          (六)
阿部一族の立て籠った山崎の屋敷の隣には、柄本(つかもと)又七郎が住んでいた。又七郎は、平生から阿部弥一右衛門の一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男、弥五兵衛は鎗(やり)が得意で、又七郎も同じ技(わざ)を嗜(たし)むところから、親しい中であった。そのため先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹(おいばら)、家督相続人、権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠(たてこも)りという順序に、阿部家がだんだん不運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をしていた。阿部の屋敷へ討手の向う前の晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで、後日の咎(とが)めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかし、いよいよ明朝は上(かみ)の討手が阿部家へ来る。これは、逆賊を征伐せられるお上の軍(いくさ)も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手(ふところで)をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。武士であるからには一番乗りを果たすべきと考えた。やがて、藩からの討手として、武道の誉れある家に生まれた竹内数馬、高見権右衛門ら六人、それに御側弓鉄砲と御使番ら十人が差し向けられた。竹内数馬は阿部家の表門に、高見権右衛門は裏門に向かった。表門の数馬の手のものが阿部家の門を押し破って侵入した。隣家の柄本又七郎は門をあける物音を聞いて、一番乗りを果たすべき、隣家の竹垣を踏み破って、一番に乗り込んだ。そして、友人でもある弥五兵衛と相対した。二人は槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。弥五兵衛は槍を棄てて、座敷の方へ引き下がった。阿部一族の抵抗は激しかったが、やがて深手を受けた弥五兵衛は切腹し、市太夫、五太夫、七之丞も戦いの中に皆、討ち死にした。家来も多くは討ち死した。こうして、たった一人、殉死を許されたかった安部弥一右衛門の一族は、ことごとく全滅した。表門から討ち入った竹内数馬も討ち死にした。高見権右衛門は裏表の人数を集めて、屋敷の裏手にあった物置小屋を崩させて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。
(参考)
@森鴎外がこの作品を書く上で一番影響を受け、そのきっかけとなった出来事は乃木希典(のぎまれすけ)の明治天皇への殉死(明治天皇が亡くなった時、乃木夫婦が殉死した)であるという。初めて鴎外が乃木に会ったのはドイツ留学の折で、そのときの印象を鴎外は「乃木は長身巨頭沈黙厳格の人なり」と書いている。それから十年以上も経って、鴎外が小倉に左遷されることになり、その出発の夜に乃木が見送りに着てくれたのだった。そのときは鴎外が失意の場合であっただけに一層、乃木の好意は心に染み入ったことだろう。その後しばらくして、明治天皇に殉死する覚悟をした乃木は、鴎外に形見分けのつもりで晴雨計を渡そうとし、鴎外はそれを受け取らなかったが、これらを思い返したとき鴎外はこの武人の温かい心に強く触れた。当時の批評家は乃木の殉死を批判したが、鴎外は逆に乃木の生き方に強い感銘を受けた。
A「阿部一族」は細川家の史料「忠興公御以来御三代殉死之面々」に拠る森鴎外の「歴史小説」で、従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利の病死に筆を起し、忠利が其の臣、寺本八左衛門以下十八人の殉死の願を聴許し、独り阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)にのみ之(これ)を許さざりしより、弥一右衛門世を狭うし、つひに阿部の一族主家の討手を引受け、悉く滅亡に及ぶの物語」として作品にした。
B正確な話は、森鴎外作「阿部一族」を読んで下さい。
「阿部一族」はこちらへ


(小話700)「イソップ寓話集20/20(その12)」の話・・・
         (一)「水浴びをする少年」
川で水浴びをしていた少年が、深みにはまって溺れてしまった。少年は大声で叫んで、通りかかった旅人に助けを求めた。しかし旅人は、手を差し延べようとはせずに、無頓着に傍観したまま、少年の軽はずみを叱(しか)りつけるばかりだった。「おじさん」少年が叫んだ。「お願いだから助けて。そうしたら、どんなに叱っても構わないから」
(助けの伴わない忠告は役に立たない)
         (二)「ガチョウとツル」
ガチョウとツルたちが同じ草原で餌をついばんでいた。すると、人間が、鳥たちを網で捕まえようとやってきた。ツルたちは人間が近づいてくると、素早く飛んで逃げたが、ガチョウは飛ぶのがのろく、体も重かったので捕らえられてしまった。
(危険が迫った時、貧乏人は身軽に逃げられるが、金持ちは逃げ遅れて身を滅ぼす)
         (三)「盲人とオオカミの子」
その盲人は、動物を手で触れただけで見分けることができた。ある時、狼の仔が手渡され、それが何か答えるようにと言われた。彼は、それに触れると、首を傾げながらこう言った。「キツネの子か、オオカミの子かは断定できないがね。まあ、確実なことは、これを、ヒツジの群に入れるとよくないということだね」
(悪い性分は、小さな頃から顕(あらわ)れる)


(小話699)「ゼノンのパラドックス(逆説)と嘘つきのパラドックス(逆説)」の話・・・
       (一)「アキレウスと亀」
あるところに俊足の勇士アキレウスと亀がいて、二人は徒競走をすることになった。しかしアキレウスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンデをもらって、いくらか進んだ地点(地点A)からスタートすることとなった。スタート後、アキレウスが地点Aに達した時には亀はアキレウスがそこに達するまでの時間分先に進んでいる(地点B)。アキレウスが今度は地点Bに達したときには亀はまたその時間分先へ進む(地点 C)。同様にアキレウスが地点Cの時には亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレウスは亀に追いつけないことになる。
(参考)
@ゼノン・・・古代ギリシアのエレア学派の哲学者。アリストテレスにより、弁証法の祖とよばれた。ゼノンの逆説(パラドックス)で有名。
Aパラドックス(逆説、逆理、背理)・・・一見すると筋が通っているように思えるにもかかわらず、明らかに矛盾していたり、誤った結論を導いたりするような、言説や思考実験などのこと。又、一般的な直感と反した、数学的に正しい解答や定理のこと。
Bアキレウス・・・人間のプティア王ペレウスと女神テティスの子。アキレウスは俊足の勇士でトロイア戦争に参加、敵の総大将ヘクトルを討った。不死身であったが、唯一の弱点のかかとをパリスに矢で射られて死ぬ。
       (二)「飛んでいる矢は止まっている」
矢が飛んでいる様子を考えると、ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっている。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている。
       (三)「嘘つきのパラドックス(逆説)」
「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。クレテ人の或(あ)る予言者が言った「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者のくいしんぼう、と言っているが、この非難はあたっている」。ここではクレタ人自身(予言者)が、クレタ人は嘘つきと言及しているが、クレタ人が嘘つきならば、クレタ人(予言者)は嘘つきということも嘘になってしまう。発言自体が嘘ならばクレタ人は、正直者ということになり、嘘をついたクレタ人(予言者)と自己矛盾してしまう。
(参考)
@クレタ人は嘘つきである・・・出典は新約聖書中の「テトスへの手紙」(1.12-14)
<1-12> クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつきたちの悪いけもの、なまけ者のくいしんぼう」と言っているが、
<1-13> この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、
<1-14> ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。


(小話698)「高名な学者と寺の小僧」の話・・・
        (一)
ある山寺に一人の高名な観相学(人相学)の学者が泊まった。翌朝、出発しようとしたとき、見送りに出て来た小僧を見て学者はびっくりして言った「そなたは昨晩見た時には死相があらわれていて、三日のうちに死ぬる運命だった。それを言ったとて、そなたにはなんの利益にもならぬことなので、黙っていたのじゃが、今そなたを見ると不思議なことに八十まで生きる顔になっている。そなたは昨晩から今朝にかけて何か途方もない善(よ)いことをしたのではないか。包まず話をしなさい」
        (二)
小僧は驚いて「いいえ、別に善いことはしておりません」「いや、なにか善いことをしたはずだ」「すると便所掃除でしょうか。昨晩、便所に行ったらひどく汚れておりました。ああきたないと思った時、ふと母の顔が浮かんだのです。私が赤ん坊の時、母はきたないとも思わず、汚れを浄(きよ)めてくださったのだと思いました。それで私は便所掃除をしました。そのほかは善いことなどしてません」。観相学の学者は「それだ。そのためそなたは八十まで生きることになったんだ」と言って合掌して小僧を拝んだという。
(参考)
@鈴木正三の「驢鞍橋(ろあんきょう)」より。


(小話697)「体の器官」の話・・・
          (一)
人は、子供から大人まで、成績、学歴、家庭、会社、両親の職業、年収、大きい家、小さい家、車・・・等々。すべてにおいて、他人と比較して安心したり、満足したり、逆に、不安になったり、不満足を感じたりしている。また、互いの国の貧富や文化を比較して、責め合っている。聖書には、このような言葉がある「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中で、すべての働きをなさる同じ神です」「確かに、体は ただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとえ、足が「私は手ではないから、体に属さない」と言ったところで、そんなことで、体に属さなくなるわけではありません。たとえ、耳が「私は目ではないから、体に属さない」と言ったところで、そんなことで、体に属さなくなるわけではありません。もし、体全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、体全体が聞くところであったら、どこで「嗅(か)ぐ」のでしょう」
(参考)
@体の器官・・・(小話11)「顔面問答」の話・・・を参照。
          (二)
「このとおり、神は 御心(みこころ)に従って、体の中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、体は一体どこにあるのでしょう。こういうわけで、器官は多くありますが、体は一つなのです。そこで、目が手に向かって「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、体の中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、体の中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、体のうちで、他よりも見劣りがすると思える器官には、ものを着せていっそう良いかっこうにする。良いかっこうの器官にはそうする必要がない。神は、劣ったところをことさらに尊んで、体をこのように調和させてくださったのです。それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし、一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」
(参考)
(新約聖書=コリントへの第一の手紙12.14-26)
<12-14> 実際は、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
<12-15> もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
<12-16> また、もし耳が、わたしは目でないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
<12-17> もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
<12-18> そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
<12-19> もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
<12-20> ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
<12-21> 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
<12-22> そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、
<12-23> からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 <12-24> 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
<12-25> それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
<12-26> もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。


(小話696)小説「恩讐の彼方(かなた)に」の話・・・
          (一)
越後国は柏崎生れの無頼の若侍、市九郎は、主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾である茶屋の女中上がりのお弓と密通した。そして、それが三郎兵衛の知るところとなり、手討ちされそうになった。とっさに反撃に出た市九郎は、逆に主人の三郎兵衛を斬ってしまった。計(はか)らずも主殺しの大罪を犯した市九郎は、自殺の覚悟を固めていた。だが、お弓にそそのかされ、金になりそうなものかき集めて出奔した。こうして、二人が、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永(あんえい)三年の秋の初めであった。後(あと)には、当年、三歳になる三郎兵衛の一子、実之助が、父の非業の死も知らず、乳母の懐ろにすやすや眠っていた。市九郎とお弓は、東海道を避けて、人目の少ない東山道を上方(かみがた)に向かった。路銀が尽きると、お弓を使っての美人局(つつもたせ)を稼業とした。そして、往来の町人、百姓の路銀を奪っていた。初めはお弓にそそのかされて、つい悪事を犯し始めていた市九郎も、ついには悪事の面白さを味わい始めた。浪人姿をした市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながら柔順であった。最初、市九郎は、美人局からもっと単純な、手数のいらぬ強請(ゆすり)をやり、最後には、強盗を稼業とするようになった。彼は、いつとなしに鳥居峠(とりいとうげ)に土着し、昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。やがて、彼は悪事を重ねる内に、金のありそうな旅人を狙っては殺して、巧みにその死体を片づけたようになった。江戸出奔から三年目の春に参勤交代の北国大名の行列があり、木曾街道の宿々は賑わった。又、この頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。ある夕暮のこと、市九郎の茶店に男女二人の旅人が立ち寄った。男は三十を越し、女は二十三、四で、信州の豪農の若夫婦らしかった。彼らは、ここで疲れを休めると、茶代を置いて、小木曾(おぎそ)の谷に向って、鳥居峠を降りていった。二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。市九郎は、獲物を追う猟師のように、二人の後を追った。そして先回りして二人を待った。二人が、近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に突っ立った。そして市九郎は、男を切り殺した。女を切って女の衣装を台なしにしてはつまらないと思い、彼は腰に下げていた手拭(てぬぐい)をはずして女の首を絞(くく)った。市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じた。彼は、二人の胴巻と衣類とを奪うと、あたふたとしてその場から一目散に逃れた。彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは老人とか、商人とかで、若々しい夫婦づれを二人まで自分の手にかけたことはなかった。彼は、深い良心の苛責(かしゃく)にとらわれながら茶店に帰ってきた。しかし、お弓が殺した女の頭につけた櫛(くし)や笄(こうがい)まで取りに行くと言って駆けだして行った、あまりの強欲さに嫌悪して、彼は茶店から身一つで逃げだした。
         (二)
翌日、美濃の浄願寺に駆け込み、悪行を懺悔した市九郎は、奉行所に自首しようとしたが、明遍大徳(みょうへんだいとく)は「重(かさ)ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱(くげん)を受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依(きえ)し、衆生済度(しゅじょうさいど)のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」と諭(さと)した。明遍大徳の慈悲によって市九郎は、出家を果たし、以後、名も了海(りょうかい)と改め、ひたすら仏道修行をした。彼は自分の道心が定まって、もう動かないのを自覚すると、明遍大徳上人の許しを得て、諸人救済の誓願を起し、諸国行脚の旅に出た。そして、行脚中に道路で難渋の人を見ると、彼は、手を引き、腰を押して、その道中を助けた。病に苦しむ老幼を負うたこともあった。本街道を離れた村道の橋でも、破壊されている時は、彼は自ら山に入って、木を切り、石を運んで修繕した。道の崩れたのを見れば、土砂を運び来って繕うた。こうして、畿内から、中国を通して、ひたすら善根を積むことに腐心したが、身に重なる罪は、空よりも高く、積む善根は土地よりも低いと思うと、彼は今更に、これまでの悪業の深きを悲しんだ。
          (三)
享保九年、秋八月、赤間ヶ関、小倉を経て、豊前国(福岡県南東部)に入った市九郎は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川(やまくにがわ)沿いにある耆闍崛山羅漢寺(きしゃくつせんらかんじ)を目指した。樋田(ひだ)郷に入った市九郎は、難所である鎖渡(くさりわた)しで馬が狂うたため、五丈(約16m)に近いところを真っ逆様に落ちて、亡くなった馬子(まご)に遭遇した。そして、この難所で年に三、四人、多ければ十人もの人たちが、命を落とすと聞いた市九郎は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうと思いついた。二百余間(約400m以上)に余る絶壁を掘貫(ほりつらぬ)いて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのであった。市九郎は、自分が求めたものが、ようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。その日から、山国川に添うた村々を勧化(かんげ)して、隧道開鑿(ずいどうかいさく)の大業の寄進を求めた。が、誰もこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。市九郎は、十日の間、徒(いたず)らな勧進に努めたが、誰もが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力で、この大業に当ることを決心した。彼は、石工の持つ槌と鑿(のみ)とを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。そして、山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。が、市九郎の心は、そのために挫(くじ)けることはなかった。やがて、市九郎は、絶壁に近くに木小屋を立てた。新しい年が来た。春が来て、夏が来て、早くも一年が経った。市九郎の努力は、空しくはなかった。大絶壁の一端に、深さ一丈に近い洞窟が穿(うが)たれていた。それは、ほんの小さい洞窟ではあったが、市九郎の強い意志は、最初の爪痕(つめあと)を明らかに止めていた。が、近郷の人々は、また市九郎を笑った。二年の終わりにも、里人(さとびと)はなお嘲笑を止めなかった。更に一年経った。市九郎の槌の音は山国川の水音と同じく、不断に響いていた。村の人たちは、もうなんともいわなかった。彼らの嘲笑の表情は、いつの間にか驚異に変っていた。四年目の終りが来た。市九郎の掘り穿(うが)った洞窟は、もはや五丈(約16m)の深さに達していた。こうして、ちょうど九年目の終りに、穴の入口より奥まで二十二間(約44m))を計るまでに、掘り穿った。
(参考)
@難所である鎖渡(くさりわた)し・・・当時この道は、中津藩から幕府領の日田への重要な交通路で、断崖絶壁、岩のはるか上に板と鎖を渡し、やっと通っていた。
          (四)
樋田郷(ひだのごう)の里人は、初めて市九郎の事業の可能性に気がついた。一人の痩せた乞食僧が、九年の力でこれまで掘り穿ち得るものならば、人を増し歳月を重ねたならば、この大絶壁を穿(うが)ち貫くことも、必ずしも不思議なことではないという考えが、里人らの胸の中に湧いてきた。七郷の里人は、今度は自発的に開鑿(かいさく)の寄進を行い、数人の石工が雇われた。しかし、翌年になって、里人たちが、工事の進み方を測った時、それがまだ絶壁の四分の一にも達していないのを発見すると、里人たちは再び落胆し疑惑の声をもらした。そして、雇われた石工は、一人減り二人減り、ついには一人もいなくなった。が、市九郎は黙々として、自分一人その槌を振い続けた。又、一年経ち、二年経った。そして、ちょうど十八年目の終りであった。彼は、いつの間にか、岩壁の二分の一を穿っていた。里人は、この恐ろしき奇跡を見ると、もはや市九郎の仕事を、少しも疑わなかった。彼らは、こぞって市九郎を助け始めた。その上、中津藩の郡奉行が巡視して、その計(はからい)らいで三十人に近い石工があつめられた。工事は、枯葉を焼く火のように進んだ。
          (五)
一方、父、中川三郎兵衛が市九郎に殺害された時、三歳であった一子、実之助は、縁者に養い育てられた。実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。彼は即座に復讐を誓った。彼は、柳生(やぎゅう)の道場に入り、十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに敵討ちの旅に上った。実之助は、敵(かたき)を求めて諸国を遍歴した。そして、江戸を立ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下に迎えた。彼は、宇佐八幡宮に参拝し本懐の達せられんことを祈念した。そして、そこで、百姓体(ひゃくしょうてい)の男から、市九郎と素性が一致する了海という僧が、山国川の難所で艱難辛苦の最中であるという話を耳にした。実之助は、これぞ正しく宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。彼はその老僧の名と、山国谷に向う道をきくと、敵の所在(ありか)へと急いだ。刳貫(くりぬき)の入口に着いた時、彼はそこのに石工に、了海を尋ねてきたと伝えた。しばらくして実之助の面前へ、洞門から一人の乞食僧が出てきた。実之助は、刀の柄に手をおいて言った「了海とやら、よも忘れはいたすまい。汝に殺害されし中川三郎兵衛の一子、実之助と申すものじゃ。もはや、逃れぬところと覚悟せよ」。すると、五、六人の石工が身を挺して彼を庇(かば)いながら「了海様をなんとするのじゃ」と、実之助を咎(とが)めた。「皆の衆、お控えなされい。了海、討たるべき覚え十分ござる。この洞門を穿(うが)つことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今かかる孝子のお手にかかり、半死の身を終ること、了海が一期(ご)の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」といいながら市九郎は、実之助のそばに寄ろうとした。その時、石工の統領が、実之助の前に進み出て「御武家様も、この刳貫(くりぬき)は了海様、一生の大誓願にて、二十年に近き御辛苦に身心を砕かれたのじゃ。この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を、我らに預けては下さらぬか。刳貫(くりぬき)さえ通じた節は、即座に了海様を存分になさりませ」と哀願した。実之助も、そういわれてみると、その哀願をきかぬわけにはいかなかった。実之助は、逸(はや)る気持ち納めたたが、大事の場合に思わぬ邪魔が入って、目的が達し得なかったことを内心、憤った。そこで、彼は深夜にも洞窟の中へ忍び入って、市九郎を討って立ち退(しりぞ)こうという決心を固めた。深夜、実之助は、足を忍ばせてひそかに洞門に近づき、中に入った。洞窟の奥では、了海が経文を誦(じゅ)しながら、鉄槌を振っていた。洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。彼は、潔(いさぎよ)く完成の日を待ち、その約束が果されるのを待つよりほかはないと思った。
          (六)
そのことがあってから間もなく、刳貫(くりぬき)の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような浅ましい心は持っていなかった。了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、了海がその一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。が、それにしても、茫然と待っているよりも、自分もこの大業に力を尽くすことによって、復讐の期日が短縮せられるはずであると、実之助は自ら石工と並んで、槌を振い始めた。敵と敵とが、相並んで槌を下した。実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。そして、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享(えんきょう)三年九月十日の夜であった。了海が力を籠めて振り下した槌が、何の手答えもなく土を崩した。彼は「あっ」と、思わず声を上げた。「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端(はし)なくも今宵成就いたした」こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退(すさ)って、「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱(こまね)いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。このかよわい人間の双の腕(かいな)によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼は近寄って、再び老僧の手をとった。二人はすべてを忘れて、感激の涙にむせび合ったのであった。
(参考)
@正確な話は、菊池寛作「恩讐の彼方に」を読んで下さい。
「恩讐の彼方に」はこちらへ
A山国川にせり出した岩山に「青の洞門」がり、鑿(のみ)をつかう禅海(小説では了海)の石像がある。九州・耶馬渓谷の鎖渡しの難所に、人馬の行き悩む様子を見た旅の僧、禅海が、洞門の開削を発願し、村人の嘲笑をよそに、27年もの間ノミをふるい、ついにその目的を達成した「小説はもともとこの地に伝わる実話を基にしたものです。だけど「敵討ち」はつくりごとです。禅海さんが一人で掘り続けたというのも間違いで、托鉢で資金を集め石工を雇って掘ったというのが本当なんです」(町の耶馬渓風物館副館長)


(小話695)「イソップ寓話集20/20(その11)」の話・・・
        (一)「キツネとサル」
キツネとサルが一緒に旅をしていた。二匹が道を歩いていると、立派な碑の立ち並ぶ墓地へとやってきた。するとサルがこう言った。「この碑は、皆、僕のご先祖様を讃えて建立されたものなんだよ。僕のご先祖様方は、皆、偉大なる名声を博した市民だったのさ」するとキツネはこう言い返した。「僕が君の先祖を知らないと思って、随分とうまい嘘をつくものだね」
(嘘は、大抵はばれるものだ)
        (二)「ヒバリとその雛(ひな)」
春先のこと、ヒバリが新緑の小麦畑に巣を作った。それから、雛たちはぐんぐん成長し、空を飛べるまでになっていた。そんな時、畑の主が、たわわに実った作物を見てこう言った「近所の皆に頼んで、刈り入れを手伝ってもらわねばなるまいな」。一羽の雛が男の話を聞いて「どこか安全な場所に避難しなければなりません」と、母親に言った。すると母親はこう答えた「まだ、避難しなくても平気なのよ。友達に手伝ってもらおうなんていうのは、刈り入れを真剣には考えていない証拠なんだからね」。数日後、畑の主がまたやって来て、実が入りすぎて落ちた小麦を見てこう言った「明日は、使用人と一緒に来なければなるまい。そして雇えるだけ人を集めて、刈り取りをせぬことには」。母ヒバリはこの言葉を聞いて、雛たちに言った。「さあ、坊やたち、出掛ける時が来ました。今度こそ彼は本気です。友達を頼りにせず、自分自身で刈り取ろうとしているのですから」 (自助努力こそが、我が身を助ける)
(参考)
@ヒバリとその雛・・・(小話54)ある「ヒバリ」の話・・・を参考。
        (三)「キツネとライオン」
まだ、ライオンを見たことのなかったキツネが、森で初めてライオンに出会った時、死ぬかと思ったほど恐怖した。二度目に会った時は、とても驚いたが、最初ほどではなく、三度目に出会った時には、近づいて行って親しく話しかけるほど、大胆になっていた。
(面識を持てば、先入観も払拭される)


(小話694)「風外和尚と虻(あぶ)」の話・・・
        (一)
今から二百年ほど前、風外(ふうがい)和尚という風変りな坊さんがいた。この和尚の絵がまた素晴らしく蛸風外(たこふうがい)といって世に珍重されていた。風外和尚が大阪、円通院に住持していた頃の話。この寺は破れ放題に破れた荒れ寺だったが、風外は一向頓着もなく坐禅と揮毫(きごう)に余念がなかった。そこへ、大阪屈指の豪商、川勝太兵エがやってきた。彼は大きな悩みを抱えて進退窮し、風外和尚に指導を仰ごうと思ってきたのだった。彼は自分の苦しい現況を述べるのだが、和尚は真面目に聞いてくれない。というのは、和尚は先刻からあらぬ方向を見つめていた。一匹の虻(あぶ)が障子にぶつかっては落ち、また飛び上がっては障子にぶつかって落ちていた。それをジーと見つめていた。
(参考)
@風外和尚・・・江戸時代後期の人で、その学殖と禅定において稀にみる巨匠で、さらに絵を描き、尺八をよくしたので、人呼んで「風流風外」「画聖風外」と言った。
        (二)
たまりかねた太兵エは「和尚様はよほど虻がお好きと見えますなぁ」というと「おお、これは失礼」と和尚は言い「太兵エどの、よくごらんなされ。この破れ寺、どこからでも外に出られるのに、あの虻、自分の出る処はここしかないとばかりに障子にぶつかっては落ち、飛んではまたぶつかる。このままだとあの虻、死んでしまう。しかし太兵エどの、これと同じことをやっている人間も多いでのう」。この言葉を聞いて太兵エ、グァーンと頭を殴られた思いだった「ああ、そうだった。わしはこの虻と同じだったんだ」と風外和尚の教えを身にしみて感じ取り、厚く礼を述べると、風外和尚は「お礼はあの虻に言いなされ。これが本当の南無あぶ(阿弥)陀仏だよ」と答えた。


(小話693)「徐光(じょこう)の瓜(うり)」の話・・・
      (一)
三国の呉(ご)のとき、徐光(じょこう)という者があって、市中へ出て種々の術をおこなっていた。ある日、ある家へ行って瓜(うり)をくれというと、その主人が与えなかった。それでは瓜の花を貰いたいと言って、地面に杖を立てて花を植えると、忽ちに蔓(つる)が伸び、花が開いて実を結んだので、徐(じょ)は自分も取って食い、見物人にも分けてやった。瓜あきんどがそのあとに残った瓜を取って売りに出ると、中身はみな空(から)になっていた。徐は天候をうらない、出水(でみず)や旱(ひでり)のことを予言すると、みな適中した。
      (二)
かつて大将軍、孫*(そんりん)の門前を通ると、彼は着物の裾(すそ)をかかげて、左右に唾(つば)しながら走りぬけた。ある人がその子細(しさい)をたずねると、彼は答えた。「一面に血が流れていて、その臭(にお)いがたまらない」。将軍はそれを聞いて大いに憎んで、遂に彼を殺すことになった。徐(じょ)は首を斬られても、血が出なかった。将軍は後に幼帝を廃して、さらに景帝(けいてい)を擁立し、それを先帝の陵(みささぎ)に奉告しようとして、門を出て車に乗ると、俄(にわ)かに大風が吹いて来て、その車をゆり動かしたので、車はあやうく傾きかかった。この時、かの徐光が松の樹の上に立って、笑いながら指図しているのを見たが、それは将軍の眼に映っただけで、そばにいる者にはなんにも見えなかった。将軍は景帝を立てたのであるが、その景帝のためにたちまち誅(ちゅう)せられた。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話693)「西郷隆盛と三人の刺客」の話・・・
        (一)
明治維新で活躍した西郷隆盛が、まだ郷里の鹿児島にいたころの話。幕府の家臣の中でも腕に覚えのある三人が相談の結果「今後、討幕の大将となるのは西郷であろう。いまの内に倒しておかぬと幕府の一大事になろう」ということになった。そこで、三人は、当時西郷を知っているという勝海舟を訪ねた。そして、西郷への紹介状を書いてもらい、それをもって西郷暗殺のため鹿児島に出かけた。だが、勝海舟のその紹介状には「この三名は幕府の名のある剣士で、貴殿を殺さんがため、そちらに赴(おもむ)くものである。何卒、接見の栄を与えられたい」と書いてあった。勝海舟は西郷が大人物であることをすでに見抜いており、彼を殺してはならぬと考え、わざと紹介状にそのことを書いたのであった。
(参考)
@西郷隆盛・・・政治家。薩摩(さつま)の人。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新の三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(きどたかよし)=桂小五郎)の一人と称された。新政府の参議・陸軍大将となったが、明治6年征韓論に関する政変で下野、帰郷。同10年西南戦争に敗れ、城山で自殺。
A勝海舟・・・幕末・明治時代の政治家。江戸の人。万延元年、府使節とともに、咸臨丸(かんりんまる)を指揮して渡米。幕府海軍育成に尽力。幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。
        (二)
幕臣の三人が鹿児島に着き、西郷家を訪ねると「おう」と答えて出てきた巨大漢を見て三人は書生と思い「西郷先生はご在宅なればお目にかかりたい」と、紹介状を差し出した。その大男は、三人を座敷に案内して「これは勝さんの紹介状でごわすか?。おいどんが西郷でごわす。では拝見いたそう」と言って、顔色一つ変えず読み終わり、三人の顔を見返し「この紹介状には、おいどんを殺しに来られたと書いてごわす」と言った。三人が愕然として色を失っていると、西郷は、言葉をついで「それはそれは遠路ご苦労でごわした」と言った。西郷の平素と変わらぬ温顔と剛胆にどぎもを抜かれた三人はそこそこと辞し去ったという。


(小話692)「トロイア陥落後のギリシャ軍の総大将アガメムノンとその一族の悲劇」の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。父の死後にギリシャの大国のミュケナイ王となったアガメムノンは、傲慢で非情、所有欲の強い男であったが、全ギリシアをまとめあげた。そして王となったアガメムノンは、絶世の美女へレネの双子(ふたご)の姉妹であるクリュタイムネストラを、夫であり従兄(いとこ)テュエステスを追放し、その幼い息子を殺して奪い去り妻とした。そして、彼女との間に三人の子供(息子オレステスと長女イピゲネイアと次女エレクトラ)をもうけた。アガメムノンの実弟、スパルタ王メネラオスの妻、世界一の美女ヘレネが「パリスの審判」によって、小アジアに位置するトロイアの王子パリスに連れ去られた。ここに、かねてからアジア最大の富を誇るトロイの富を狙っていたアガメムノン王は、全ギリシアから志願者を募って、自ら総大将になり、トロイアに遠征した。長くて苦しい十年の「トロイア戦争」ののちにようやくこれを征服したが、ギリシャの多くの船団は、帰還の途中で暴風雨にあって半数を失った。その中で、アガメムノン王の船団は、大神ゼウスの妻ヘラ女神の加護によって何の被害もなく故郷に凱旋することになった。
(参考)
@トロイア戦争・・・(小話668)(小話669)(小話670)「トロイア(トロイ)戦争・スパルタの美しき王妃ヘレネと王子パリスの恋。そして英雄アキレウスの活躍とトロイの木馬」の話・・・を参照。
@ミュケナイ王となった・・・アガメムノンの父アトレウスは自分の兄弟のテュエステスや甥のアイギストスとミュケナイ王の座を巡って骨肉の争いをした果てに敗れた。そこで、アトレウスの嫡男アガメムノンは、テュエステス王を追放してミュケナイ王となった。
A三人の子供・・・四人の子供(娘---イピゲネイア、エレクトラ、クリュソテミス、息子オレステス)の説もある。
「クリュタイムネストラ」(コリアー) の絵はこちらへ
        (二)
ギリシャ軍の総大将アガメムノンはトロイア遠征に行く前、王妃である妻クリュタイムネストラにもしトロイアを攻め落とすことが出来たら、その日の内に松明(たいまつ)によって知らせを送ることを約束していた。クリュタイムネストラは、その松明の火を確認する見張り番を雇った。ある日、遠くに輝く松明の光を確認した。見張り番はギリシャ軍の勝利に違いないと大喜びでクリュタイムネストラに伝えた。知らせを受けたクリュタイムネストラは早速、神への犠牲を捧げた。そこへ長老たちがやってきて、王妃クリュタイムネストラに犠牲の訳を訊ねると、彼女はトロイア落城の吉報を彼らに伝えた。長老らは驚き、彼女がどうやってその事実を知ることが出来たのかを訊ねると、彼女は、まずはイデ山から篝(かがり)火を炊き、幾つかの島や断崖、絶壁、平原、入り江を中継してようやくこの館まで知らせが届いたことを伝えた。歓喜している長老たちの元へ、いち早くトロイアより戻ってきた先発の使いが現われ、自軍の大勝利とアガメムノンの凱旋を伝えた。やがてアガメムノンが晴れ晴れしく懐かしの我が館に凱旋すると、長老たちと王妃クリュタイムネストラは大歓迎で迎え入れた。アガメムノンはトロイア攻略の戦利品として得ていた、愛人の王女カサンドラを紹介すると館の中へと入っていった。王妃クリュタイムネストラがカサンドラに奴隷としての身分を言い渡し館へ入るよう申し付けたが、カサンドラは長老たちの前で、意味不明な予言を口ずさみだした「夫を湯浴みで洗い清めた後、女が狙いをつける」さらに「なんと不運な私の運命、ここまでお連れになったのはただ一緒に死ぬため」などであったが、長老たちには、何の意味があるのかさっぱり理解できなかった。やがて、カサンドラは言葉の意味を誰にも理解してもらえないことに嘆き、自分自身への弔(とむら)いの歌を口ずさみながら館の中へ入っていった。
(参考)
「アガメムノンの帰還」(不明)の絵はこちらへ
「殺害直前」(ゲリン)の絵はこちらへ
        (三)
アガメムノン凱旋の夜の豪華な饗宴の後、突然、館の中ではアガメムノンの断末魔の言葉が響き渡った。長老たちが声のした方に入っていくと風呂場でアガメムノンとカサンドラの二人がすでに息絶えており、その傍(かたわ)らには返り血を浴びた王妃クリュタイムネストラの姿があった。彼女は無防備で湯浴みをしているアガメムノンを惨殺し、さらに愛人カサンドラも殺したのであった。長老たちは驚きと恐れをもって王妃クリュタイムネストラを非難したが、彼女は以前、トロイア遠征の際、愛娘イピゲネイアがアルテミス女神への生贄(いけにえ)に捧げられた復讐であることを明かした。長老たちは、この王妃の大それた行動に嘆き悲しんで彼女を責め立てたが、彼女はアガメムノンこそ娘を殺した報いを受けるべきと反論した。双方がお互いの意見を主張しあっていると、そこへアガメムノンの従兄弟(いとこ)であり王妃クリュタイムネストラの愛人でもあるアイギストスが現われた。アガメムノンの留守を守っていた武将のアイギストスは、アガメムノンの父アトレウスが己の父に対して行った所業を恨み、アトレウスの血筋の者を同様に恨んでいた。そこで彼は、そのことでアガメムノンの不在を良いことに、愛娘イピゲネイアを失った傷心の王妃クリュタイムネストラに取り入り、彼女と二人でアガメムノンを亡き者にせんと以前より策略をめぐらせていた。長老たちは王妃クリュタイムネストラとアイギストスを非難したが、アイギストスは亡きアガメムノンに取って代わりこの地の王となることを宣言した。そして、長老たちをも殺そうとするが、それを王妃クリュタイムネストラが制止した。王妃クリュタイムネストラは、この国の主はアイギストスと自分であることを宣言した。やがて、王妃クリュタイムネストラとアイギストスは、アガメムノンの十二歳になる息子オレステスをも殺そうとしたが、いち早く弟思いの姉エレクトラが、彼を伯父のストロフィオス王の元に逃がしていた。エレクトラはその後、宮廷での冷遇に絶えながら、弟のオレステスが成人して父の仇(かたき)をとってくれる日を待つことになった。
(参考)
@愛娘イピゲネイアがアルテミス女神への生贄に・・・ギリシャ軍総大将アガメムノンは、月と狩りの女神アルテミスのお気に入りの鹿を殺し、さらに「俺はアルテミスよりも狩りうまい」と自慢したことで女神アルテミスを怒らせた。その為、トロイアへの航海に必要な順風が吹かなかった。ギリシャ軍の予言者カルカスは女神アルテミスに犠牲を捧げなければならないと告げた。アガメムノンは、ギリシャ一の英雄アキレウスと結婚させるという名目で、娘イピゲネイアをアウリスまで連れてこさせた。イピゲネイアを待っていたのは、結婚でなく死であった(イピゲネイアが生贄に捧げられる寸前に、彼女を哀れに思った女神アルテミスが彼女を雌鹿とすり替え、自分の巫女として連れ去ったとも言われる)。
「アガメムノンの死」(不明)の絵はこちらへ
「イフィゲーネイア(イピゲネイア)の犠牲」(テイエポロ)の絵はこちらへ
        (四)
やがて、伯父のフォキス王ストロフィオスのもとに預けられた十二歳のオレステスは、伯父の王子ピュラデスと無二の親友となり、ここでたくましく成長した。そしてついに成人した彼は、父親の仇を討つべくピュラデスと共にミュケナイに向かうこととなった。しかし、殺された父親の仇を討つことを唯一の目的としていた一方で、息子が自分の母親を殺すことは大罪とされていた。そこでオレステスとピュラデスは、アポロンの神託を受けるべくデルポイに向かった。そこでの神託は次のとおりであった「殺した二人を殺せ。死を死によって償い、流された古い血のために、新しい血を流すがいい」。これを受けてオレステスはついに決心し、父の仇、アイギストス王と王妃クリュタイムネストラを討つべくミュケナイを目指した。しかし、このまま単に乗り込んでも仇を討つことはおぼつかない。そこでオレステスは一計を案じ、変装してミュケナイ宮殿に入り込んだ。そして「私はストロフィオス王の使いの者です。王の元に預けられていたオレステスが病気で亡くなったので、それを知らせに参りました」と告げた。自分が死んだと思い込ませることによって、ミュケナイ王アイギストスと王妃クリュタイムネストラを油断させようとしたのであった。案の定アイギストス王は大喜び、王妃クリュタイムネストラも多少の後悔はしたものの、結局は心配の種が一つ減ったことに安堵感を覚えたのであった。しかし、弟の帰還を一日千秋の思いで待っていた姉のエレクトラは絶望し、泣く泣く使者(実はオレステスの変装した姿)からオレステスの骨壷(こつつぼ)を受け取った。エレクトラの悲嘆ぶりを目にしたオレステスは、ついに我慢できなくなり、アガメムノンの墓前で密かに自分の正体を告げたのだった。
(参考) 「アガメムノンの墓の上のエレクトラ」(リッチモンド)の絵はこちらへ
        (五)
こうして、アガメムノンの一人息子オレステスと姉エレクトラ、親友のピュラデスは一致団結して、宴会の席でついにアイギストス王を斧で叩き殺した。三人は次いで王妃クリュタイムネストラも殺そうとしたが、彼女は「おお、息子よ、私の胸をごらん。お前のまだ歯の生えていなかったあどけない口が、この胸から乳を飲んだのだよ」と哀願した。オレステスはためらったが、クリュタイムネストラがアイギストスの死体に向かって「最も愛(いと)しい者」と呼びかけたのを耳にするに及び、ついに母親まで殺害してしまった。こうして、オレステスは父親の仇をすべて討ったのであった。だがオレステスは、父親の仇を討ったが、同時にまた母親殺しの大罪も犯してしまった。彼はたちまち「復讐の女神たち」に付きまとわれることとなった。そして彼は、復讐の女神たちにしつこく付きまとわれてついに発狂してしまった。そこで親友のピュラデスは、彼をなんとか正気に戻すべく、彼を連れて諸国を旅して巡(めぐ)った。復讐の女神たちはなおもオレステスに付きまとい、彼らは国から国へと安息なくさすらった。ついに彼らは、再びアポロンの神託を伺うことにした。「元はといえばアポロン神の神託によって、我々は復讐を行ったのだ。それなのに、このような仕打ちを受けるとはなんたること。もう一度、アポロン神に聞いてみよう」と。そして、神託の内容は次のとおりであった「タウリケへ行き、そこで崇拝されているアルテミス神の像をギリシャに持ち帰るのだ。そうすれば狂気は癒えることとなるだろう」。
(参考)
@姉エレクトラ・・・エレクトラは現代では「エレクトラ・コンプレックス(娘が父を愛し、母を憎む無意識な心的表象)」の語源になっている。
A復讐の女神たち・・・三人(アレクト、ティボネ、メガイラ)の復讐の女神。特に、親殺しなどの血縁間の殺人の罪をきびしく追及し、罪人を執拗に追って苦しめ狂気にいたらせる。頭髪は蛇で、翼があり、黒い服を身に纏い、手には鞭(むち)と松明(たいまつ)を持つ。
「オレステスの悔恨」(ブーグロー)の絵はこちらへ
        (六)
この神託を受けたオレステスとピュラデスの二人は、さっそくタウリケへ向かった。だが、そこで二人は、現地の人々に捕まってしまった。そして、アルテミス神への生贄(いけにえ)として神殿へ連れて行かれた。この神殿の巫女(みこ)はトロイア戦争の際に「イピゲネイアの犠牲」で死んだと思っていた、アガメムノンの長女イピゲネイアが務めていた。狂気のオレステスに代わって、ピュラデスは巫女イピゲネイアに事情を話し、三人でアルテミス像を奪って脱出することになった。こうして無事アルテミス像はギリシャに持ち帰られ、イピゲネイアも久方ぶりに故郷に帰ってくることが出来た。しかし、オレステスの周りにはなお復讐の女神たちがしつこく付きまとって彼を責めさいなんでいた。ついに我慢できなくなったオレステス達はアテナイへ向かい、そこで女神アテナの裁判を受けることとなった。この裁判というのはアテナが議長となって行われる神々の裁判であり、復讐の女神はオレステスの母親殺しの罪を述べ立てて、彼の死刑を求刑した。一方オレステス側は、アポロン神が弁護に立ち、敵討ちの正当性を述べて無罪を主張した。裁決は、有罪と無罪が全くの同数であった。そこで議長であるアテナ女神が無罪に投じて言った「オレステスは母親を殺したのでなく、父の殺害者を殺したのです。オレステスは生きながらえてよい」と。ついにオレステスは復讐の女神たちから解放されることになった。こうして、オレステスは正気を取り戻し、父の後を継いでミュケナイの王となった。その上、スパルタ王メネラオスと世界一の美女の一人娘ヘルミオネを妻にして、スパルタ王国も手に入れた。ここに長い間ミュケナイ王家を苦しめた呪い(タンタロスの呪い)もついに終わりを告げたのであった。また、オレステスの無二の親友ピュラデスは、後(のち)にエレクトラと恋に落ちて結婚した。
(参考)
@現地の人々に捕まってしまった・・・タウリケの島では普通訪れた者は神の生贄に捧げられてしまうのであった。
Aイピゲネイアが務めていた・・・オレステスは黒海沿いのタウリケに導かれるが、そこには彼の姉のイピゲネイアが捕らわれていた。イピゲネイアは、実はアルテミス女神によりタウリケで巫女にされていた。そして、捕らえられたギリシャ人を生贄(いけにえ)として捧げる仕事をしていた。二人の出会いは、ピュラデスとオレステスが女神アルテミスへの捧げものとして、イピゲネイアの元に連れられてきたことによった。イピゲネイア、ピュラデス、オレステスの三人はタウリケを脱出した。タウリケ王トアスは怒って後を追ったが、その時、上空に女神アテナが現れ「すべて神意であり天命であるゆえ、イピゲネイアらをそのままアテナイへ行かせよ」と言った、という説もある。
Bタンタロスの呪い・・・タンタロス(アガメムノンやオレステスの先祖)を先祖とする一族は、末代まで一族同士で骨肉相食む殺し合いをする呪い。(小話703)「呪われたタンタロス一族。末代まで続いた一族同士の悲劇」の話・・・を参照。
Cヘルミオネを妻・・・オレステスは、かっての許婚(いいなずけ)で従姉妹(いとこ)のヘルミオネを夫ネオプトレモスの留守中に連れ出し、謀略をもってネオプトレモスをデルポイで地元民に殺させた。(小話687)「トロイア陥落後のネオプトレモス(アキレウスの息子)とアンドロマケ(ヘクトルの妻)の生涯」の話・・・を参照。
「イピゲネイアの前に犠牲として連行されたオレステスとピュラデス」(ウェスト)の絵はこちらへ


(小話691)「老(お)いたマンゴーの樹」」の話・・・
         (一)
ある禅僧がサイパン島を訪れた際の話より。「人は生きてきたように、死ぬといわれる。誠に至言であろう。ならば、どう今日を生きたか、いや今この瞬間を如何に生きるかと言うことの連続が、人の一生の完結という意味になる。先日、次のような体験をした。サイパン島に毎年訪れ、慰霊をさせていただいている。今年も、先月下旬、僅かは滞在であったがサイパン島を訪れた。その中で唯一の息抜きとして、島内の植物園を見学し、ゆっくりとした時間を過ごした。熱帯の珍しい草木と鮮やかな花々。特に色取り取りのハイビスカスは同行の人達の歓声を呼んだ。ガイドの植物研究員が、実に見事な説明をしてくれたが、国内最大のマンゴーの樹の解説で、我々は深い感動を覚えた。園内の奥に在るそのマンゴーの樹を、植物研究員は老樹と表現した。もちろん樹木にも寿命はある。その樹には、何十何百もの傷があった。我々は「この傷はどうしたのか」と質問した。
(参考)
@マンゴー・・・ウルシ科の常緑高木。黄白色の小花を群生し、中に大きな種子が1個はいった楕円形の実を結ぶ。果肉は黄や橙黄色をし、多汁で甘く、食用。インド・東南アジアの原産で、古くから果樹として栽培。
       (二)
すると植物研究員は、次のように説明した。一年程前に、この老樹は次々に葉を落とし、樹勢が一気に衰え、枯れる寸前になった。それもあっという間のことだった。そこで研究員達で相談をし、こんな時の常套手段を取った。彼らは鉈(なた)を用意して幹の地上から一メートル余りの上下を、ぐるりと何重(なんじゅう)にもその鉈で傷つけたのである。その傷痕は今でも生々しく、何十何百もあって、めくれた魚の鱗のようであった。すると、この影響で、つまり殺されると認識したことで、老樹は残る力の全てを費やして、一斉に無数の花を咲かせたという。それは一種、悲槍な光景ではなかったか、死を覚悟したマンゴーは全力で子孫を残そうとしたのだ。だが、それは花だけのことで済まなかった。地中の根も連動して、それこそ死に体(てい)のそこに続々と小さな根が生じ、残る力で可能な限り張り巡らしたのであろう。そして、水分と養分とを幹から枝へ、枝から残れる葉に、もちろん花にも注ぐ。運命に逆う訳ではないが、最後の力を振り絞り、生き切ろうとした。正に花咲き、新芽を出し葉も青々とし、皮肉と言うべきか、この老樹は自分で思いも寄らず復活してしまったのだ。今日、我々の観(み)たマンゴーの樹は、堂々たる風格に、気力横溢し、健全そのもののたたづまいを見せていた。「人は誉(ほ)めて育てるものである」が、昨今の常識となっている。だが、生きとし生ける物は、危急存亡の秋、必ず深く生命の底に仕組まれた働きを始める。即ち、一刻も長く生き、少しでも多くの子孫を残さんがため。これは合理ではなく摂理だ。それ故に、究極のところ人の育て方は、そして人が育つとは、ここにあると言える。しかし、知っておいて欲しいのは、このマンゴーの樹の傷つけ方なのだ。つまり叱り方、苦しめ方を一つ間違えれば即座に死につながる。また、それが生(なま)ぬるければ、無視怠惰、反発に結(つな)がり、結局、自滅してしまうだろう。誉めて育てるの対局の叱る育て方が、この頃、否定されるのは、この加減が難しいからだ。ともあれ、このマンゴーの樹のように、生命の炎を燃え上がらせて、毎日を生きたいものである」


(小話690)「子供の死と放生(ほうじょう)」の話・・・
        (一)
ある子供が十三才で夭折(ようせつ)した。彼は、死の一週間前に「お母さん、私はとても助かりません。親不幸を許して下さい」といい、「お母さん、泥鰌(どじょう)を買ってきて下さい。放生(ほうじょう)したいのです。私は今度、生まれてくる時は丈夫で長生きしたい。それには生き物の命を助けること、放生する事が一番功徳があると聞きました。私に今生(こんじょう)の終わりに功徳を積ませて下さい」と言った。子供とは思えない我が子の言葉を聞いて母親は早速、泥鰌を求め、菩提寺で供養してもらって川に流し、家に帰ってみると少年は布団の上にすわり、合掌していて「お母さん有り難う。お母さんが私に変わって放生してくれましたので、私はここから一心に仏様を念じておりました」と言った。
      (二)
そして、子供は一週間後に亡くなったのだが、母親は、あの子がどうして放生を知っているのだろうと不思議に思った。そして、ようやく思いだしたのは、少年が七つの時、上野不忍池で行われた放生会に連れていったことがあった。そこでは、当時の高僧や居士(こじ=在家の男子であって、仏教に帰依した者)がたが延壽会という会を作り、月に一度いろんな魚を持参しては弁天様で供養を営み、不忍池に放生されたのであった。その時、子供ながら有り難いと思ったのであろう。それが死の間際に表面意識に現れ、放生の功徳となったのであった。
(参考)
@放生の功徳・・・放生とは、捕えた生物を放ち逃がすという意味で、放生すれば、その功徳のより家内の繁栄、長寿を保つとされる。各寺にある放生会は、食料などとして日常生活の必要のため、はからずも殺した生き物(動物)に感謝を捧げ、不必要な殺生を戒めながら、その冥福を祈る祭事である。


(小話689)「イソップ寓話集20/20(その10)」の話・・・
        (一)「トンビとハクチョウ」
昔、トンビたちは、ハクチョウと同じように、歌の才能に恵まれていた。しかし、ウマのいななきを聞いて、すっかりその声に魅了されてしまい、その声を真似ようとした。そして、ウマの真似ばかりしていたものだから、自分たちの歌を忘れてしまった。
(何かを望むあまり、今持っている天恵をも失うことがある)
        (二)「カラスと水差し」
喉がカラカラに渇いたカラスが、水差しを見つけて、喜び勇んで飛んで行った。しかし、水差しには、水がほんの少ししか入っておらず、どうしても水面まで嘴(くちばし)が届かない。カラスは悲嘆に暮れたが、それでも、あらゆる手段を講じて水を飲もうとした。しかし、その努力もみな徒労に終わった。だが、カラスはまだ諦めなかった。カラスは集められるだけの石を集めると、一つ一つ嘴で水差しの中へ落としていったのだ。水はどんどん嵩(かさ)を増し、ついにカラスの嘴まで届いた。こうしてカラスは命を長らえることが出来たのだった。
(必要は発明の母)
        (三)「二匹のカエル」
小さな水たまりに二匹のカエルが住んでいた。一匹は、広く世間を知っていたので、遠くにある、深い池に引っ越していった。もう一匹は、溝にかろうじて残った水たまりから離れようとはしなかった。しかもそこには、馬車の行き交う太い路が横切っていた。池のカエルは、友達の身を案じて、自分の住んでいる所は、こんな水たまりよりも、ずうっと安全で、しかも餌も豊富だから、一緒に来て住むようにと、熱心に誘った。しかし、水たまりのカエルは、住み慣れたこの場所を引き払うのは忍びないと言い張って、首を縦には振らなかった。数日後、大きな馬車が水たまりを通り抜け、カエルは、車輪でぺしゃんこにされてしまった。
(頑固者は、その頑固さ故にひどい目にあうものだ)


(小話688)「風外(ふうがい)和尚と奕堂(えきどう)和尚」の話・・・
          (一)
禅寺の朝食はお粥に相場がきまっているが、時としてご飯になることがあった。ご飯には一汁一菜がつきもので、或る朝のこと、その日はご飯であった。風外和尚は小僧の運んできたお膳につき、箸をとり、まずひと口、味噌汁を吸い「うまいなァ、何汁かな」と、箸で味噌汁の具をさぐると、箸の先に何やら堅い物がふれた。つまみ上げてみると、何とそれは蛇の頭であった。前の晩、ザルに入れておいた野菜の中にはいり込んだ蛇を、暗がりの中で知らずに野菜と共に切って煮たのであった。風外和尚は「典座(てんぞ)の和尚を呼んでこい」と小僧に命じた。
(参考)
@風外和尚・・・江戸時代後期の人で、その学殖と禅定において稀にみる巨匠で、さらに絵を描き、尺八をよくしたので、人呼んで「風流風外」「画聖風外」と言った。
A典座・・・禅寺で、多くの僧の食事などをつかさどる役職。
        (二)
呼ばれた典座の奕堂和尚が方丈(住職の居室)の間に入ると「これはなんじゃ」と、風外和尚は箸でつまんだ物を前に突き出した。奕堂和尚は手のひらでそれを受け取った。蛇の頭である。が、奕堂和尚は平然として「これは牛蒡(ごぼう)の頭です」というや否や、口の中に放り込み、かんで呑み下(くだ)してしまった。「うむ、そうか」とひとこと言うと風外和尚は、奕堂和尚の見事な証拠隠滅(しょうこいんめつ)ぶりを見て大いに満足した。
(参考)
@奕堂和尚・・・曹洞宗大東山総持寺の独住第一世となった人。


(小話687)「トロイア陥落後のネオプトレモス(アキレウスの息子)とアンドロマケ(ヘクトルの妻)の生涯」の話・・・
            (一)
ギリシャ神話より。トロイア戦争はギリシャ軍の勝利に終わった。将軍たち一同は、祝宴が終わると眠りについた。アキレウスの息子、ネオプトレモス(幼名はピュロス)も眠りについたが、父アキレウスの霊が息子の枕元に立ち、語りかけた。アキレウスの霊は言った「自分は神々と共に食事を共にしているゆえ自分のことで心痛めることは全くない。おまえは常にギリシャ軍の第一人者であれ。優れた人間を敬(うやま)い、徳を積むように。名誉を追い求め、人には優しくあるように。そして、トロイア王プリアモスからの戦利品のうち、プリアモスの娘ポリュクセイネを自分の墓に犠牲として捧げるようにアガメムノンに命じよ。もしそれを聞き入れないならば、自分は海原を揺すぶって嵐を起こし、ギリシャ軍を帰国させないであろう」と。アキレウスの霊は言い終えると姿を消した。ネオプトレモスは目を覚ますと父のことを思い出し、喜びに震えた。朝が来て、ギリシャ軍が帰国の途に着こうとしたとき、ネオプトレモスは一同を押しとどめて、会議を招集し亡き父アキレウスの命令を伝えた。折しも海は嵐により波が高くなっていた。彼らは、アキレウスが今や神となったのだと彼に祈りを捧げ、ポリュクセイネを連れてアキレウスの墓所へと向かった。アキレウスの墓の前に来ると、ネオプトレモスは無事の帰国を父の墓に祈願し、ためらうことなく剣でポリュクセイネを殺してアキレウスの魂に捧げた。そして、その遺体はアンテノール(トロイア側の長老)の館に運ばせた。ポリュクセイネは、アンテノールの子エウリュマコスの妻となるべき女性だったからであった。アンテノールは、彼女をガニュメデスの神聖な墓の傍ら、アテナ神殿の向かいに葬った。すると、海はそれまでの嵐が嘘のように静まりかえった。
(参考)
@アンテノール・・・トロイア側の長老の一人で、トロイアが陥落すると、ヘレネの返還によって和平を主張したため、もしくは祖国を売ったためギリシャ軍に容赦されたと言う。
Aポリュクセイネを殺して・・・娘のポリュクセイネの不運を嘆いていた母親の王妃へカベの姿が人から犬へと変わっていったという説もある。
            (二)
ネオプトレモスは、トロイア戦争の戦利品としてトロイヤより、ヘクトルの妻アンドロマケとヘクトルの弟で予言者でもあるヘレノスを戦利品とし、陸路を通って無事にプティアの地に帰国した。当初、ネオプトレモスは、海路で帰国する予定であったが、トロイア戦争の折、ネオプトレモスがアポロンの祭壇でトロイア王プリアモスを殺した件でアポロン神の怒りがネオプトレモスに向いているとして、祖母のテティス女神は海路を避けさせたのであった。ネオプトレモスの奴隷としてやってきて来た美しいアンドロマケは、やがて亡き夫(ヘクトル)の仇の孫モロットスを産んだ。しかし、ネオプトレモスは世界一の美女ヘレネの一人娘ヘルミオネを正式の妻に迎えた。嫉妬深くわがままなヘルミオネは、自分が子を産めないのはアンドロマケの魔術によるものだと言いがかりをつけ、子のいるアンドロマケを妬(ねた)み、誹謗中傷の限りを尽くした。その上、ヘルミオネはアンドロマケと息子モロットスの殺害を企み、父メネラオス王に助勢を頼んだ。一方、アンドロマケはネオプトレモスがアポロン神に贖罪するためにデルポイへと赴いていたので誰も頼りになる者はおらず、亡き夫の仇(アキレウス)の父ペレウスを頼るために侍女を遣(つか)わした。こうした中、ネオプトレモスの若妻ヘルミオネは、傲慢な言いようでトロイアの総大将ヘクトルの妻だったアンドロマケが奴隷となったことを侮辱すると、アンドロマケもネオプトレモスの父アキレウスの最期はヘルミオネの母ヘレネのせいだ応酬し、両者は激しくいがみ合った。
(参考)
@トロイア王プリアモスを殺した・・・ネオプトレモスは、ヘクトルとアンドロマケの幼い息子アステュアナクスも城壁から投げ落として殺したという説もある。
Aアポロンの祭壇・・・ネオプトレモスは、ゼウスの祭壇のほとりにある古い月桂樹の下にいたトロイア王プリアモスを殺したという説もある。
Bデルポイ・・・デルポイはギリシア本土、パルナッソス山のふもとにあった古代ギリシアの都市国家(ポリス)である。アポロン神殿を中心とする神域と、都市からなる。神託は、神がかりになったデルポイの巫女(みこ)によって、謎めいた詩の形で告げられる。
            (三)
やがて、ヘルミオネの父親であるスパルタ王メネラオスがモロットスを連れて現れ、アンドロマケを侮辱するとともに、モロットスかアンドロマケのいずれかを殺すと言った。アンドロマケが死を覚悟すると、メネラオス王は騙(だま)せたことをいいことにモロットスも処刑する準備を始めた。処刑の準備も整い母子がおのが不運を嘆いていると、そこへアキレウスの父でありネオプトレモスの祖父ペレウス王が現われた。ペレウス王は生まれの良さだけが頼りの無能な王メネラオスを一喝して、アンドロマケとモロットスを解放した。謀殺に失敗したヘルミオネは身の不安を感じて狂乱した。そこに、かっての許嫁(いいなずけ)の従兄弟(いとこ)であるオレステス(アガメムノンの息子)が現われた。ヘルミオネは懲りずに自分は回りの侍女たちに唆(そそのか)されただけだと弁明し、オレステスに庇護してもらおうと頼んだ。哀れな従姉妹(いとこ)に同情したオレステスは連れ出すことを約束した。そして、アポロン神に以前の過失の許しを乞いにデルポイへ赴いているネオプトレモスを亡き者にする算段を練った。時がたってネオプトレモスを謀殺しようとしている話を洩れ聞いたペレウス王がデルポイへ使いを出そうしていたとき、使者がデルポイよりネオプトレモスの死の知らせを携えてやってきて、事の次第を語った。デルポイ中にオレステスが噂をばらまき、市民たちを煽動して、アポロンの神殿で祈りを捧げているネオプトレモスに襲いかかり、見るも無惨に切り刻み、境内の外へ投げ捨てた、と。プティアの老王ペレウスは子(アキレウス)も孫(ネオプトレモス)も失ってしまった我が身の不幸を嘆いていると、妻である女神テティスが現れた。女神テティスは孫のネオプトレモスをデルポイに祀(まつ)り、アンドロマケは子供と共にモロッシアに送り、その地でトロイア王家の生き残りであるヘクトルの弟ヘレノスと結婚するように命じた。そして夫ペレウスには神の仲間にする旨を伝え、ともに来るように命じ、ペレウス王はこれに従った。アンドロマケは女神テティスの命に従い、トロイア王家の生き残りのヘレノス(ヘクトルの弟)の妻となって、息子モロッソスと共にギリシア北西地方に移住した。やがて、その地はモロッシアと呼ばれ、亡国のトロイア人の血統を伝えることになった。
(参考)
@ネオプトレモスの死・・・ネオプトレモスはオレステス(アガメムノン王の息子)に殺されたという説もある。
A息子モロッソス・・・アンドロマケはネオプトレモスとの間に三人の子供をもうけたという説もある。
  Bギリシャの英雄アレクサンダー大王は、アキレウスの子孫といわれ、ネオプトレモスとアンドロマケの間に生まれた子の子孫でもあるという。
「ヘルミオネと出会うオレステス」(トリオゾン)の絵はこちらへ


(小話686)「盤瓠(ばんこ)」の話・・・
         (一)
高辛氏(こうしんし)の時代に、王宮にいる老婦人が久しく耳の疾(やまい)にかかって医師の治療を受けると、医師はその耳から大きな繭(まゆ)のごとき虫を取り出した。老婦人が去った後、瓠(ひさご)の籬(かき)でかこって盤(ふた)をかぶせて置くと、虫は俄(にわ)かに変じて犬となった。犬の毛皮には五色(ごしき)の文(あや)があるので、これを宮中に養うこととし、瓠(ひさご)と盤(ふた)とにちなんで盤瓠(ばんこ)と名づけていた。その当時、戎呉(じゅうご)という胡(えびす)の勢力が盛んで、しばしば国境を犯すので、諸将をつかわして征討を試みても、容易に打ち勝つことが出来ない。そこで、天下に触れを廻して、もし戎呉(じゅうご)の将軍の首を取って来る者があれば、千斤(せんきん)の金をあたえ、万戸(ばんこ)の邑(むら)をあたえ、さらに王の少女を賜わるということになった。やがて盤瓠(ばんこ)は一人の首をくわえて王宮に来た。それはかの戎呉(じゅうご)の首であったので、王はその処分に迷っていると、家来たちはみな言った。「たとい敵の首を取って来たにしても、盤瓠は畜類であるから、これに官禄を与えることも出来ず、姫君を賜わることも出来ず、どうにも致し方はありますまい」
         (二)
それを聞いて少女は王に申し上げた。「戎呉(じゅうご)の首を取った者にはわたくしを与えるということを、すでに天下に公約されたのです。盤瓠(ばんこ)がその首を取って来て、国のために害を除いたのは、天の命ずるところで、犬の知恵ばかりではありますまい。王者は言(げん)を重んじ、伯者は信を重んずと申します。女ひとりの身を惜しんで、天下に対する公約を破るのは、国家の禍(わざわ)いでありましょう」。王も懼(おそ)れて、その言葉に従うことになった。約束の通りに少女をあたえると、犬は彼女を伴って南山にのぼった。山は草木(そうもく)おい茂って、人の行くべき所ではなかった。少女は今までの衣裳を解き捨てて、賤(いや)しい奴僕(ぬぼく)の服を着け、犬の導くままに山を登り、谷に下って石室(いしむろ)のなかにとどまった。王は悲しんで、ときどきその様子を見せにやると、いつでも俄(にわ)かに雨風が起って、山は震い、雲は晦(くら)く、無事にその石室まで行き着くものはなかった。それから三年ほどのあいだに、少女は六人の男と六人の女を生んだ。かれらは木の皮をもって衣服を織り、草の実をもって五色に染めたが、その衣服の裁ち方には尾の形が残っていた。盤瓠(ばんこ)が死んだ後、少女は王城へ帰ってそれを語ったので、王は使いをやってその子ども達を迎い取らせたが、その時には雨風の祟(たた)りもなかった。しかし子供たちの服装は異様であり、言葉は通ぜず、行儀は悪く、山に棲むことを好んで都(みやこ)を嫌うので、王はその意にまかせて、かれらに好(よ)い山や広い沢地をあたえて自由に棲(す)ませた。かれらを呼んで蛮夷(ばんい=野蛮人)といった。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話685)「良寛さんと小さな虫」の話・・・
      (一)
江戸時代の高名な僧、良寛さんの話。良寛が托鉢に出て不在の時、良寛さんを召しかかえようとした殿様の家来が来て、五合庵の周囲の草を刈り、良寛さんに喜んでもらえるだろうと思っていた。ところが帰ってきて良寛さんは「これでは虫が鳴かなくなる」と嘆き、殿様の招きもすげなく断ったという。「焚(た)くほどは、風がもてくる、落ち葉かな」この句はその時、詠(よ)んだものといわれている。又、「一つ松、人にありせば 、笠(かさ)貸さましを、蓑(みの)着せましを、 一つ松あはれ」と雨に打たれる松の樹を見ては、お前が人間だったら笠を貸してやるものを、簑(みの)着せてやるものをと、やさしい言葉をかけている。
(参考)
@良寛さん・・・江戸後期の曹洞宗の僧・歌人。備中(びっちゅう)円通寺の国仙和尚に師事し、のち、諸国を行脚し、生涯、寺を持たず、故郷の五合庵に隠棲(いんせい)して独自の枯淡な境地を和歌・書・漢詩に表現した。
      (二)
秋晴れの日の午後、五合庵の南側の縁側で日向ぼっこしていた良寛さんは、ふところから虱(しらみ)を取り出し、手のひらの上にのせ「さぁ、お前たちも日向(ひなた)ぼっこしなさい」と、まるで人に語りかけるように言い「この良寛は親があるでなし、子があるでなし、血を分けたのはお前たちだけじゃのう」と呟(つぶや)いた。そして、「血を分けし、虱いじらし、衣替(ころもが)え」といって、虱も一緒に衣替えさせたという。


(小話684)「名君、池田光政と不寝番の家来」の話・・・
       (一)
備前岡山の藩主、池田光政は徳川時代の名君として有名だった。この名君の家臣に津田永忠(つだながただ=晩年は父の名を嗣ぎ左源太と名乗る)という小姓の若侍がいた。彼は宿直(とのい)といって、殿の寝室の隣で不寝番の役を勤めていた。ある晩、気の弛みか疲れからか不覚にも居眠りをしてしまった。折悪しく殿が目を覚まし「隣に居るのは誰じゃ」と問われた。はっとして目を覚ました左源太が「はい、津田永忠にござります」と答えると、殿は「今、何時であるか」と尋ねた。
(参考)
@池田光政・・・藩政改革に熊沢蕃山(くまざわばんざん)を登用。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努め、水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸時代初期の三名君として称されている。
       (二)
時計のない三百年も前のこと、時を告げる時報を聞き漏らすと皆目見当がつかない。永忠は、いい加減に答えて誤魔化すか、それともお叱りを覚悟で居眠りを白状するか。こういうせっぱ詰まった永忠は「ただいま寝入っておりましたので、わかりません」と答えた。殿の命(いのち)を護る不寝番が居眠りをするとは許し難い怠慢であり、普通の殿様なら「けしからん」と処罰するところであろうが、池田光政、勤務上の過失よりも処罰を恐れず、自己の過失を率直に告白した永忠の正直な勤務ぶりを高く評価した。そして、彼が二十五歳に達したとき、評定衆という藩の重責に任じたという。
(参考)
@許し難い怠慢・・・永忠は、夜が明けると座を立ち平然と退いていった。この様子を見た光政は「これはただの男ではない、何かやってくれそうだ」と感じたという説もある。


(小話683)「売茶翁(ばいさおう)と称した禅僧」の話・・・
        (一)
宝暦十三年(1763年)七月十六日、京都三十三間堂の南にある幻々庵にて、一人の還俗僧が逝去した。彼は、もと肥前蓮池の生まれで、本名を柴山元昭と言ったが、十一歳で出家し、十三歳で黄檗宗の禅僧となった。二十二歳の時、痢病(激しい下痢を伴う病気。赤痢・疫痢の類)を患ったことで、発憤して諸国行脚ののち、京都に定住した。そして、自ら茶具を担いで席を設けては客を待ち、「売茶翁」と称せられた。翁は「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟(けさ)の仏徳を誇って、世人の喜捨(寄付)を煩わせるのは、私の持する志とは異なっているのだ」と述べて、売茶の生活に入ったという。そのころの肥前の国法として十年に一度、国許に戻って官印(職務に使う公式の印)を受けねばならなかった。これは僧侶とて同じであった。それまで売茶翁は放浪しながらも、十年ごとに肥前に戻って官印を得ていたが、肥前の人で京都に仕えている人の部下の身分となって、今後十年ごとに戻らなくてもよい扱いにしてもらおうとした。
(参考)
@自ら茶具を・・・売茶翁の売茶生活の方法は、移動茶店とでもい うべきもので、自分の力で担える程度の煎茶道具をになって、洛中洛外の名勝の地を選び、季節に応じてあちらこちらに茶具を運んで、茶を煎(せん)じて売ったのであった。
A柴山元昭・・・江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖。還俗(僧侶が俗人に戻ること)後は、高遊外(こうゆうがい)とも称した。
        (二)
肥前の国も売茶翁の人となりを知って、これを許そうとしたが、少なくとも僧籍のままではそのような身分は認められなかった。そこで翁は、やむなく還俗(僧侶が俗人に戻ること)した。時に齢(よわい)すでに七十であった。ここにおいて自らを高遊外と称した。そして翁は、つねに笑って人に語って言った「わしは貧乏で肉を買うことができんので、肉を食わないのじゃ。老いて妻あっても快楽を得ることができんので、妻を持たないのじゃ」(決して出家の身として戒律を守っている立派な人間ではないのじゃよ)と。かくして翁は、また京に赴いた。以後も、「売茶翁」と呼ばれながら、貧苦の中、煎茶(せんちゃ)を売り続けた。八十一歳になった売茶翁は、売茶業を廃業、愛用の茶道具も焼却した。この時、愛用の茶道具に対して「私の死後、世間の俗物の手に渡り辱められたら、お前たちは私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう」という文章を残した。このころ翁は、腰痛に悩まされ、高齢のせいもあって、死期の近づいたことを感じていたという。以後は揮毫(きごう=毛筆で文字や絵をかくこと)により生計を立て、八十九歳で逝去した。
(参考)
「近世畸人伝」より。
「売茶翁」(掛け軸)の絵はこちらへ