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(小話661)「用(ゆう)和尚と瑩山(けいざん)和尚」の話・・・
         (一)
道元(どうげん)禅師は二十四歳のとき、真実の仏法を求めて、明全(みょうぜん)和尚とともに宋へ修行に行った。その青年僧、道元が天童(てんどう)山景徳寺(浙江省)にいたときのこと、ある日、病気療養中の明全和尚を見舞うため、東の回廊を通って仏殿の前まで来ると、一人の老僧が敷き瓦の上に茸(きのこ)を並べて干していた。見れば典座(てんぞ=食事を司る最高責任者)の用(ゆう)和尚であった。手に竹の杖をつき、暑いのに笠もかぶらず、汗だくになって仕事に余念がなかった。こんなときの仕事は若い人でさえらくでないのに、古希(こき)に近い老僧ともなるとまことに痛々しい。道元は思わず「ご高齢のご老師がそんなことをなさらずに、誰が若い者にやらせてはいかがですか」と言ったところ、老僧は「他は是れ吾にあらず(他人のしたことは、わしのしたことにならんでのう)」という言葉がはね返ってきた。ぎくりとしたが道元はさらに「まことにそのとおりではございますが、いまは暑いさかりですし、いま少しお休みになられてはいかがでしょう。お体に無理があるといけませんから」とと言うと、用和尚はすかさず「更にいずれの時をか待たん(ひとたび去って還らぬこの時を過ごして、またいずれの時をか待とうといわっしゃるのか)」と答えて、仕事の手を休めなかった。
(参考)
@少しお休みに・・・(小話42)ある「落ち葉」の話・・・を参照。と(小話25)ある「老僧」の話・・・を参照。
         (二)
曹洞宗大本山総持寺を開かれた瑩山禅師(けいざんぜんじ)が二十七歳のとき、師匠の義介(ぎかい)禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき「黒漆の崑崙・夜裏に走る(こくしつのこんろん・やりにわしる=真黒な玉が暗闇を走る)」と答えた。そのように見分けがつかない、つまり思量分別を超えた境地であると答えた。しかし、義介禅師は「不充分、さらに一句を言え」と迫った。すると瑩山(けいざん)和尚「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯に喫す(お茶をいただく時は余念雑念を交えず、お茶をいただくことに徹し、食事の時は食事に一心になりきる)」と答え、この語によって印可(悟りの証明)を受けた。
(参考)
@茶に逢うては茶を喫し・・・思量分別を超えたすがすがしく爽やかな境地が、そのまま日常生活に活かされ、一挙手一挙投足がすべて仏道にかなってこそ、平常心是れ道である。その姿はお茶をいただく時は余念雑念を交えず、「喫茶三昧」に徹し、食事の時は食事の「一行三昧」になりきることである。


(小話660)「木鶏(もっけい)に似たり」の話・・・
      (一)
昔、中国で闘鶏(とうけい)好きな王様のために闘鶏を調教する名人の紀省子(きせいし)という人がいた。闘鶏の訓練をしはじめて十日後、王様がこの男に様子を訊ねると「相手の鶏(にわとり)を見て、虚勢を張ります。今少し訓練が必要です」という。さらに十日経って王様が再び訊ねると、「相手の鶏を見て、興奮します」という。さえらに十日後、王様が三たび訊ねたが、紀省子は「相手の鶏を見て、威嚇(いかく)します」と答えた。
      (二)
更に十日程経ち、王様は訊ねた。すると紀省子は「こんどは大丈夫です。相手の鶏を見ても動じない。木彫(きぼ)りの鶏のようである」。その時の闘鶏の様子は、ちょうど木鶏のようだったという。なにものにも動じないこの木鶏のような鶏を見ては、どんな相手もこれと闘う気力を失って逃げ出してしまった。こうして、紀省子が養育した鶏の前では、どんな鶏も応戦することなく、逃げてしまったという。
(参考)
@木鶏・・・木製の闘鶏。又、真に強い者は敵に対して少しも動じないことのたとえ。
A「荘子・外編」より。


(小話659)「木造の母と丁蘭(ていらん)」の話・・・
      (一)
今は昔、震旦(しんたん=古代中国のこと)の前漢は宣帝の代、河内に丁蘭(ていらん) という人がいた。彼は幼いときに母親を亡くしていた。十五歳になると、丁蘭は母の面影を偲(しの)び、職人を頼んで木で母親の像を造らせた。それを帳(とばり)の中に安置し、朝に晩に供え物をして仕えるさまは、まるで生きているときさながら、本当の母と異なることはなかった。朝に出かけるときには帳の前で出立の挨拶を、宵に帰ってくるとまた帰宅の挨拶をする。その上、像に向かって、その日にあったことを必ずお聞かせするのだった。起こったことで、語りきかせなかったことはない。このように衷心から孝養を怠らず、三年が経った。だが、丁蘭の妻は悪い心の持ち主で、常にこのことを妬(ねた)ましくも憎らしくも思っていた。そんなおり、丁蘭が外出している間に、妻が火で木の母の顔を焼いた。丁蘭が帰ってきたのは暗くなってからで、木の母の顔を見なかった。その夜、丁蘭の夢に、木の母が自ら現れて「おまえの妻が私の顔を焼いた」と語った。夢から覚めて不審に思い、朝になって行ってみると確かに木の母の顔が焼けていた。これ以来、丁蘭は妻をずっと憎んで愛することはなかった。
(参考)
@丁蘭(ていらん)・・・(小話554)「中国の二十四孝の物語(2/12)」の話・・・を参照。
      (二)
また、ある時、隣人が丁蘭に斧を借りにきた。丁蘭が木の母にこのことを申し上げると、木の母が喜ばない風情だったので斧を貸さなかった。隣人は大いに憤(いきどお)り、丁蘭の外出中にこっそり忍び込んで、大きな刀で木の母の片肘(かたひじ)を斬った。血が流れて地面をおおった。丁蘭が帰ってくると、帳の中から痛みを訴える声がした。驚いて帳を開き、覗(のぞ)いてみると本当に赤い血が床の上に流れていた。不審に思って近寄ると、木の母の片肘が斬り落とされていた。丁蘭はこれを見て泣き悲しみ「これは隣人の仕業だ」と知ると即座に隣家に行き、隣人の首を斬って母の墓前に供えた。国王がこの事件をお聞きになった。本来なら罰すべきではあるが、孝養のためということで、罪を不問にしたばかりか、逆に丁蘭に俸禄と官位とを授けた。このように、堅い木であっても母親と思って孝養するならば、天地が感じ入ってくれる。赤い血が木の中から出て、孝行の念、深いゆえに、殺人の罪に問われるどころか、かえって喜びが訪れた。然(しか)ればこそ、孝養の尊さを永く伝えて朽ちさせまいと、この話は語り伝えている。
(参考)
@「今昔物語集」より。


(小話658)「アイギナ島の王アイアコスの三人の息子(テラモンとペレウスとポコス)。そして、ペレウスと女神テティスの結婚」の話・・・
      (一)
ギリシャ神話より。アイギナ島の王アイアコスは、ある時、「砂浜」で海神ネレウスの美しい娘プサマテを垣間見て、いろいろ口説いたが相手にしてくれなかった。嫌がる彼女はアザラシに変身したのだが、アイアコスは彼女を無理やり孕(はら)ませてしまった。そして出来た子供が「ポコス(アザラシ)」で、このポコスは運動神経が抜群であった。ポコスの運動神経に嫉妬した腹違いの兄弟テラモンとペレウスは円盤投げにポコスを誘い、彼の頭に円盤をぶつけて殺してしまった。あわてた二人は森の中に死体を埋めて隠したが、すぐに殺害の事実が明るみに出た。しかし、父アイアコスの慈悲もあって、二人はアイギナ島を追放するという処置だけで済んだ。テラモンは追放されて、サラミスの地へ行き、親戚のキュクレウスに頼った。彼は息子がおらずテラモンに王位継承をして亡くなった。その後タンタロスの末裔アルカトオスの娘ペリボイアと結婚した。そして、二人の間に息子アイアスをもうけた。名付け親は英雄ヘラクレスであった。テラモンとヘラクレスはアルゴー遠征に連れ立って参加した親友であり、妻ペリボイアの妊娠中にヘラクレスが「強い男の子が産まれますように」と祈った。その時テラモンは天高くに舞う鷲を目にしたので、産まれた子をアイアスと名付けた。その後、テラモンはヘラクレスの第一回トロイア(イリオス)遠征(有名なトロイア滅亡時のトロイア戦争のかなり前)に同行した。十八艘の船によるヘラクレスの軍勢の中にはテラモンの弟ペレウス(アキレウスの父)もいた。軍勢は船をおりてトロイアを目指した。トロイア王ラオメドンはヘラクレスらの留守に船を襲ったが、逆にヘラクレスたちに包囲され、捕虜となった。ヘラクレスたちはトロイアを包囲し、テラモンがトロイアへの一番乗りを果たした。だが、ヘラクレスは自分よりも優れた者の存在が許せなかったので、テラモンを殺そうとした。そこで、テラモンは機転をきかせて石を集めるふりをした。不思議に思ったヘラクレスがテラモンに尋ねると、テラモンは勝利者ヘラクレスにささげる祭壇を築いているのだ、といった。ヘラクレスは大変喜び、ラオメドン王の娘ヘシオネを彼に与えた。テラモンと彼女のと間にテウクロスが生まれた。テラモンは、トロイア遠征で多くの武勲をたてて英雄となった。
(参考)
@王アイアコス・・・孤独な王と言われ、のちにミュルミドン(蟻)人の王となる。(小話634)「大神ゼウスと河神アソポスの美しい娘アイギナ。そして、その子で孤独な王アイアコス」の話・・・を参照。
A彼の頭に円盤をぶつけて・・・彼の頭に円盤が偶然ぶつかって死んでしまったという説もある。
B海神ネレウス・・・ネレウスはガイアとポントスから生まれた古い海神の1人で、オケアニスの1人である女神ドリスを妻に迎えて50人の美しい娘ネレイスたち(その一人がプサマテ)をもうけ、海底にある銀の洞窟で家族仲良く暮らしている。
C親戚のキュクレウス・・・アッティカ沖にある島で、河神アソポスとメトペの娘サラミスは海王ポセイドンとの間にキュクレウスを産んだ。その島は彼女の名を取ってサラミス島と名付けられた。成人したキュクレウスはサラミス島に巣くっていた蛇を退治し、初代のサラミス王となった。キュクレウスには子がなかったため、王位をテラモンに譲った。
Dテウクロス・・・テウクロスは、兄の大アイアスが自害した際に復讐をしなかったため、父親テラモンによってサラミス島から追放された。その後キュプロス島に流れ着いてサラミス市を起こしたという。
      (二)
アイギナ島を追放された、もう一方のペレウスは、プティアの地へ行き、そこの王エウリュティオンに罪を清めてもらった。そして王の娘アンティゴネと土地の三分の一を与えられた。彼らの間には、ポリュドラが生まれた。ペレウスはプティアの地で落ち着いていたが、ある日、カリュドンの地で大猪(おおいのしし)騒動が起きた。そこの王子メレアグロスはギリシアの全土から大猪退治の勇者を募ったので、ペレウスとエウリュティオン王はこぞって参加した。ところが不運なことにペレウスの投げた槍が、エウリュティオン王の脇腹に刺さって彼を殺してしまった。事故とはいえ、プティアを去らねばいけなくなったペレウスは、イオルコスの地へ来て王アカストスをたずねて罪を清めてもらった。そこで前王ペリアスの追善のための競技大会に参加したが、美しい女狩人アタランテにレスリングで負けてしまう不名誉な記録を作った。ペレウスが意気消沈している時に、アカストス王の妻アステュダメイアがペレウスに恋してしまった。だが、ペレウスは不倫に誘われるのをきっぱりと断った。自尊心を傷つけられたアステュダメイアは逆切れして、ペレウスに仕返をした。彼女はペレウスの妻アンティゴネに手紙を送った「あなたの夫ペレウスが私の娘ステロペに夢中で、うるさくつきまとっているの」という内容であった。事故とはいえ夫ペレウスの手にかかって死んだ父エウリュティオン王の死を嘆いているところへ、この手紙がきた。とうとうアンティゴネはいたたまれず自殺してしまった。だが、アステュダメイアの報復はまだ終わらなかった。今度は夫のアカストス王を利用した「ペレウスが私に乱暴しようとしたの」と。これを聞いたアカストス王は憤慨したが、自分が罪を清めた男を殺すにしのびず、ペレウスをペリオン山中に置き去りにする計画をたてた。武器を持たずに山の中で迷えば、野獣に殺されるだろうと考えたのであった。そこでアカストス王は家来達と共にペレウスを狩りに連れて行った。まさか自分を陥(おとしい)れる罠だとは気づかず、ペレウスは狩りに没頭した。狩りが終わったのち、ペレウスが疲れて昼寝をしている間に、ペレウスの刀を牛糞の中に隠して、アカストス王はそっと下山してしまった。やがて目を覚ましたペレウスは日の暮れに驚いた。そして、手元にない刀を探しているうちに半人半馬の怪物ケンタウロス族に襲撃された。すんでの所で騒ぎを聞きつけて駆けつけたケイロンに救われた。ケイロンはケンタウロス族の中の長老で賢人、智者と知られ、このペリオン山の洞穴に住んでいたであった。
(参考)
@大猪退治大会・・・(小話484)「勇者・メレアグロスの巨大イノシシ退治とその最期」の話・・・を参照。
Aペリアス・・・彼はアイソンからイオルコスの王位を奪ったが、アイソンの息子イアソンが王位返還を要求した。そこで、ペリアスはイアソンに黄金の羊の毛皮を持って帰るよう要求した(アルゴー船遠征)。亡くなったペリアスのために催された葬礼競技には多くの英雄が参加した。 B女狩人アタランテ・・・(小話489)「美しき女狩人・アタランテと黄金の林檎(りんご)」の話・・・を参照。
Cケイロン・・・(小話629)「半人半馬の怪物ケンタウロスたち。その中の人間好きのポロスと賢者ケイロンと好色なネッソス」の話・・・
「ベリアスの葬礼競技」の壷絵はこちらへアタランテがペレウスとレスリングをしている図
      (三)
それからペレウスは、賢人ケイロンと一緒に生活を始めた。ぺレウスは妻アンティゴネが死んだため、しばらくの間やもめで居たが、やがて海の女神ネレウスたちの中でも、一番の美女である女神テティスと結婚することになった。この結婚には深いいわれがあった。大神ゼウスと海王ポセイドンの二人の神が、美しい女神テティスに愛を求めて争っていた。彼女を奪うためにゼウスとポセイドンが争ったのだが「彼女(テティス)から生まれてくる子供は、父親よりも偉大な者となるであろう」という女神テミスの予言に恐れを抱いてお互いに手を引いた。そして、大神ゼウスはテティスの相手にプティア王ペレウスを選んだ。こうして人間であるペレウスと女神テティスとの結婚が決まった。しかし、当のテティスは女神でありながら人間の妻になることに自尊心が許さず、ペレウスから逃げてしまった。ペレウスは何度も彼女を捕らえようとしたが、海神一族であるテティスは変身が得意で、ライオンや蛇、さらには火や水などになって逃れてしまった。そこで、ケイロンがペレウスに知恵を与えた「テティスが眠っているところに忍び寄り、縄で縛り上げよ。彼女が何に変身しようとも絶対に放さず、元の姿に戻るまで待て。さすればそなたのものになる」。女神テティスが浜でくつろいでいる隙に捕らえることに成功したペレウスは、嫌がって火や水や獣に変身する彼女を元の姿になるまで放さなかった。女神テティスも精根尽き果てて、最後には元の姿に戻って結婚に同意した。結婚式はテッサリアのペリオン山中で、すべての神々の参加によって盛大に行われた。神々は豪華な贈り物をたずさえて、続々と婚礼の席にやってきた。芸術の神(ムーサ又はミューズ)が歌い踊り、ケイロンがペリオン山のとりねこの木を切って槍を作り、アテナ女神が磨いて鍛冶の神ヘパイストスが青銅の刃をつけたものをプレゼントした。海王ポセイドンは二頭の不死の馬を贈った。こうして、人間と女神の盛大な結婚式が行なわれた。だが、この結婚式はトロイアを滅亡させたトロイア(イリオス)戦争の発端となった。
(参考)
@海神ネレウス・・・ネレウスはガイアとポントスから生まれた古い海神の1人で、オケアニスの1人である女神ドリスを妻に迎えて50人の美しい娘ネレイスたちをもうけ、海底にある銀の洞窟で家族仲良く暮らしている。姉妹同士も大変仲が良く、皆美人揃い。姉妹にはポセイドンの妃となった海の女王アンピトリテもその一人。テティスは姉妹の中でも随一の美女であった。
A大神ゼウスと海王ポセイドン・・・天の神クロノスとレアの息子で、大神ゼウスが三男で冥王ハデスが長男、海王ポセイドンは次男。三男のゼウスが父クロノスから政権を奪ったとき、三人で天上、海、地下(冥界)と三等分して治める事になった。
B女神テミス・・・初代の神々の王ウラノスと大地の神ガイアとの娘で正義と掟、及び予言の女神。地上に人間が増えすぎたためこれを減らそうと考えたゼウスに対して、トロイアで戦争を起こすことで多くの死者を出せばよいと提案し、これが採用されたという説もある。又、モイライ(運命の三女神)や英知のプロメテウスや巨神アトラスの母親でもある。 Cケイロンがペレウスに知恵を与える・・・海王ポセイドンがペレウスに入れ知恵したという説もある。
D鍛冶の神ヘパイストス・・・火と鍛治の神。ゼウスが一人でアテナを生んだのに対抗して、ヘラが一人で生んだ子とされている。そのためか、すべて完全で美しい神々の中で、彼だけは醜く足が不自由だった。
Eアテナ女神・・・知恵と戦の女神。大神ゼウスの娘で、すっかり成人して鎧(よろい)かぶとをつけた姿でゼウスの頭から飛び出してきたといわれている。
「ユピテル(ゼウス)とテティス」(アングル)の絵はこちらへ
「ペーレウスとテティスの婚礼 」(ジョーンズ)の絵はこちらへ
「テティスとペレウスの婚礼(神々の饗宴)」(クラーク)の絵はこちらへテーブルの真ん中に着いた花嫁テティスと花婿ペレウス。


(小話657)「喫茶去(きっさこ)」の話・・・
        (一)
趙州(じょうしゅう)和尚は、今から千百年も前、中国は唐の時代の禅の巨匠で、ある時、この趙州和尚のところに二人の修行僧が訪ねて来た。趙州和尚は尋ねた「前にここに来たことがありますか?」。一人の修行僧は「ハイ、ございます」と答えた。すると趙州和尚は「喫茶去(きっさこ)」と言った。もう一人の修行僧は「私は、はじめて参りました」と答えた。すると、趙州和尚は、一人目の修行僧に言ったと全く同じように「喫茶去(きっさこ)」と言った。
(参考)
@喫茶去・・・「お茶を召しあがれ」という意味の言葉。
        (二)
前に来たことのある者に対しても、はじめて来た者に対しても、ひとしく「喫茶去」と言ったことに不審を抱いた院主(寺院の事務を行なう役僧)が、たずねた「坊さんに、ここへ来たことがあるといっても、来たことがないといっても、一様に、お茶をおあがり、といわれますが、それはどういうわけですか」と。すると趙州和尚は、その意味には何も答えず「院主さん」と呼んだ。院主がつられて「ハイ!」と返事すると、趙州和尚は言下に言った「喫茶去(じゃお茶を一服どうぞ)」。
(参考)
@喫茶去(じゃお茶を一服どうぞ)・・・趙州和尚は、悟った者であろうとまだ悟らない未熟な相手であろうと、また日頃親しい院主であろうと、誰に対しても一視同仁、みな一様に「喫茶去」と言っているのであり、親疎を差別せず、すべての人を平等に見て接することの大事なことを教えているという。


(小話656)「イソップ寓話集20/20(その6)」の話・・・
      (一)「ライオンとキツネとロバ」
ライオンとキツネとロバが、互いに協力し合って狩りをした。大いなる戦利品を手にすると、ライオンは、ロバに、協定に基づいて、森の報酬を3人に分配するようにと言った。ロバは獲物を正確に三等分すると、他の二匹が先に選ぶようにと謙虚に言った。ところが、ライオンが突然怒り出し、ロバに跳びかかり食ってしまった。そして今度は、キツネに、獲物を分配するようにと言った。キツネは、自分にほんの一口分だけ残し、その他は全てライオンに差し出した。するとライオンがこう言った。「おお、素晴らしき我が友よ。一体誰が、そのような分配の仕方を教えてくれたのだ? 君の分け方は申し分がない」すると狐はこう応えた。「このような分け方を教えてくれたのは、ロバさんの運命ですよ」
(他人の不幸から学ぶ者は幸い)
      (二)「カシの木と樵(きこり)」
樵は、カシの木を切り倒すと、その枝で楔(くさび)を作った。そして、幹に楔をあてがってカシの木を易々と解体した。するとカシの木は、ため息混じりにこう言った。「斧が、根本へ打ち下ろされるのは、我慢できる。しかし、自身の枝から作られた楔で引き裂かれるのには泣けてくる」
(身から出た不幸は、耐え難い)
      (二)「ロバとカエルたち」
木材を運んでいたロバが、水たまりを渡っていると、足を取られて転んだ。そして重荷のせいで起きあがることが出来ずに、烈しく鳴いた。すると、水たまりに集まっていたカエルたちが、ロバの悲鳴を聞いてこう言った。「水に倒れたくらいでそんな大騒ぎして、もし、あんたが、我々のように毎日ここに住まなければならなかったら、どんな騒ぎをするんだろうね」
(人が不幸に堪えられるのは、勇気があるからではない。大きな不幸を省みて小さな不幸に安堵しているだけなのだ)


(小話655)「裕福な男とある聖人」の話・・・
         (一)
民話より。昔、ある村に裕福な男が住んでいた。男はいつも大変に感情的で、ひどい頭痛に悩まされていた。ある日、男は、このひどい頭痛を治してくれた者には多額の報酬を与えると人々に宣言した。医者を始め、たくさんの人々が頭痛を治す方法を助言したが、男の症状はよくならなかった。ある日、一人の聖者がこの金持ちの男を訪ねた。そして、病気のことを聞くと聖者は男に言った「あなたの頭痛を治すのは簡単です。いつでもどこでも緑色が見えるようにするだけでよいのです」。これなら簡単にできると金持ちの男は大喜びした。次の日、金持ちの男は何百人もの塗装職人を雇い、村全体を緑色に塗らせた。男は金持ちなので、村人全員に緑色の服を買い与えた。男は聖者が教えた通り、どこに行っても緑色を見られるようになり、頭痛もなくなってきた。そして以前より笑顔が見られるようになり、ずっと幸せになった。
       (二)
数ヶ月して、例の聖者が金持ちの男に会いに戻ってきた。しかし、一人の塗装職人が立ちはだかって言った「いけない、いけない。その色の服を着たままこの村に入ってはいけません。あなたを緑色に塗らなくては」。聖者は金持ちの男の家へ逃げ込み、怒って言った「なぜそんなに時間とお金を使って、あなたの周りのすべてを変えようとするのです?私はすべてのものを緑色に塗りなさいとは一言(ひとこと)も言わなかったはずだ。ただあなたが緑色の眼鏡をかけるだけでよかったのです。そうすれば、あなたの周りがすべて緑色に見えたでしょう」。


(小話654)「父母の霊」の話・・・
        (一)
劉根(りゅうこん)は字(あざな)を君安(くんあん)といい、長安(ちょうあん)の人である。漢の成帝(せいてい)のときに嵩山(すうざん)に入って異人に仙術を伝えられ、遂にその秘訣を得て、心のままに鬼を使うことが出来るようになった。頴川(えいせん)の太守、史祈(しき)という人がそれを聞いて、彼は妖法をおこなう者であると認め、役所へ呼び寄せて成敗しようと思った。召されて劉が出頭すると、太守はおごそかに言い渡した。「貴公はよく人に鬼を見せるというが、今わたしの眼の前へその姿をはっきりと見せてくれ。それが出来なければ刑戮(けいりく)を加えるから覚悟しなさい」「それは訳もないことです」劉は太守の前にある筆や硯(すずり)を借りて、なにかの御符(おふだ)をかいた。そうして、机を一つ叩くと、忽(たちま)ちそこへ五、六人の鬼があらわれた。
      (二)
鬼は二人の囚人を縛って来たので、太守は眼を据えてよく視ると、その囚人は自分の父と母であった。父母はまず劉にむかって謝まった。「小忰(こせがれ)めが飛んだ無礼を働きまして、なんとも申し訳がございません」かれらは更に我が子を叱った。「貴様はなんという奴だ。先祖に光栄をあたえる事が出来ないばかりか、かえって神仙に対して無礼の罪をかさね、生みの親にまでこんな難儀をかけるのか」太守は実におどろいた。彼は俄(にわ)かに劉の前に頭(かしら)をすり付けて、無礼の罪を泣いて詫(わ)びると、劉は黙って何処(どこ)へか立ち去った。 (参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話653)「二人の神(ポセイドンとアポロン)と約束を守らないトロイ王ラオメドン。そして、英雄ヘラクレスと海獣ケトスの闘い」の話・・・
           (一)
ギリシャ神話より。ある時、何を思ったものか太陽神アポロンは海王ポセイドンと組んで神々の王ゼウスに反乱を起こした。そのため、怒った大神ゼウスは二人に人間の姿になって、一年間、自分の子孫であるトロイア王ラオメドンの奴隷になってこいと命じた。トロイア(イリオス)に赴いた二人は共に決められた賃金で、トロイアの町を守る堅固な城壁を築くという仕事を言い渡された。二人は任された職務をきちんとやり遂げた。ところが、一年経って契約が切れ、約束の報酬をもらうはずの日が来ても、王は一向に支払おうとしなかった。傲慢でケチだったラオメドン王は、恐ろしいことに神々に対して脅し文句を吐きつけた「誰が奴隷に金など払うか、とっとと出ていけ。これ以上ガタガタ言うようなら、おまえたちの手足を引っくくり、両耳削ぎ落とした上でどこかの島に売っ払うぞ」。この言葉を聞いたアポロン神は、ラオメドン王に腹を立てて疫病を流行(はや)らせはしたものの、アポロン神はアジアの大都トロイアを無条件で加護していたので、疫病の流行も一時的なものであった。だが、海王ポセイドンは違っていた。彼はカンカンに怒り、容赦をしない報復をした。ポセイドン神は海底の宮殿に帰るなり、巨大な海獣ケトスをトロイアに送り込んだ。海獣ケトスはトロイア(イリオス)の町を散々に荒し回った。
           (二)
その後、「王女ヘシオネをポセイドンが送った怪物に生贄として差し出せば、神々の怒りはおさまるであろう」という神託が下った。そこで、海から来る海獣ケトスに見えるように、海岸近くの大岩にラオメドン王の娘ヘシオネを縛り付けた。そこへ丁度、英雄ヘラクレスが九番目の功業の途中で、トロイアに寄港した。そして、美しい娘が大岩に縛り付けられているのを見た。事情を知ったヘラクレスは、ラオメドン王に大神ゼウスが与えた「不死身の神馬」をくれるなら、怪物を倒してヘシオネを救おうと申し出た。ラオメドン王が請合ったので、ヘラクレスは怪物を倒して王女ヘシオネを救った。だが、ヘラクレスが報酬の馬を貰おうとすると、ラオメドン王は拒絶した。怒ったヘラクレスは、いずれトロイア(イリオス)を攻め落としに来るぞ、と捨て台詞(せりふ)を残して去っていった。やがて、英雄ヘラクレスは参加者を募(つの)ってトロイア攻めを行った。十八艘の船による軍勢の中にはペレウス(アキレウスの父)やテラモン(大アイアスの父)もいた。軍勢は船をおりてトロイアを目指した。トロイア王ラオメドンはヘラクレスらの留守に船を襲ったが、逆にヘラクレスたちに包囲され、捕虜となった。こうしてラオメドンのトロイア王国(有名なトロイア戦争の前の王国)は、英雄ヘラクレスによって滅ぼされた。
(参考)
@アポロンはイデ山で王の牛の世話・・・ポセイドンは町を守る堅固な城壁を築く仕事、アポロンはイデ山で王の牛の世話をする仕事であったという説もある。
A大神ゼウスが与えた馬・・・ラオメドン王の祖父トロースが子供ガニュメデスの代償として大神ゼウスより戴いた馬。又、ガニュメデスはトロース王の子ではなく、ラオメドン王自身の子供だという説もある。(小話331)「星(水瓶座)になった美しい王子・ガニュメデス」の話・・・ を参照。
「ヘラクレスとケトス」の絵はこちらへ
「ヘラクレスとケトス」の絵はこちらへ


(小話652)「倩女離魂(せいじょりこん)」の話・・・
          (一)
中国は唐時代の衡州(こうしゅう)に、張鑑(ちょうかん)という人が住んでいた。娘が二人あったが、姉が早く死んだので、妹の倩女(せいじょ)を一層かわいがって育てた。倩女は評判の美人だったので、結婚したいという若者が大勢いた。父の張鑑は、その中から賓僚(ひんりょう)という好青年を選んでその求婚に応ずることにした。ところが、倩女には、ひそかに想いを寄せている王宙(おうちゅう)という恋人がいた。王宙は、張鑑の甥であったが、彼がまだ子供の頃、倩女の父がたわむれに「王宙と倩女とは似合いの夫婦になるだろう。大きくなったら結婚したらよかろう」と言ったことがあった。これをまともに受けた二人は許嫁(いいなずけ)の間柄と思いこみ、いつしか互いに愛し合うようになっていたのであった。
        (二)
突然、父親から賓僚(ひんりょう)と結婚するよう言い渡された倩女(せいじょ)は、すっかり意気阻喪してふさぎ込んでしまった。王宙(おうちゅう)もまたこれを聞いて大いに悩み、倩女(せいじょ)の近くには住むことはできぬとして、村をでる決心をした。ある夜、彼は倩女にも告げず、ひそかに故郷を後にした。しばらく行くと、倩女が追っかけてきて「あなたといっしょでなければ」という。王宙(おうちゅう)はその心根をうれしく思い、二人は手に手をたずさえて遠く蜀(しょく)の国におもむいた。そして、五年の歳月が流れて、二人の間には子供が二人できた。こうして二人の子供の母となった倩女であったが、はるか遠い生まれ故郷を忘れることができず、父母を慕い、故郷を恋しくなる思いは日増しに募(つの)るばかりであった。ある日、彼女は夫に「あなたをお慕いして後を追い、家を出てこのような遠い国に来ましたが、両親はどのように暮らしていることでしょう。父母の大恩に背いて家出した私のような親不孝者は、二度と故郷に帰ることはできないのでしょうか」と苦しい胸の内(うち)を打ち明けた。王宙とても故郷を慕う情に変わりはなかった。「それでは思い切って衡州に帰って、両親にお詫びしよう」と早速舟を雇って、倩女と二人の子供と共に懐かしい故郷に帰ってきた。王宙は舟着場に倩女を残して、まず一人で張鑑の家を訪ね、不孝不義をわびて、一部始終を物語った。
        (三)
話を聞いた張鑑(ちょうかん)は驚いて「いったいどこの女のことをいっているのだ」と問うた。「あなたの娘、倩女ですよ」と王宙は答えた。「娘の倩女だって。あれは、お前が衡州を去って以来、ずっと病気で寝たきりだ。ものを言うこともできなくなってしまった」と張鑑は言った。王宙もまたおどろいて一生懸命説明した。「いいえ、倩女は間違いなく私を追いかけてきて、一緒に蜀の国で暮らしていたのです。二人の子供までできて、彼女はとても元気です。現に舟のなかで私を待っているのです」。王宙は倩女を連れてくるにかぎるとし、急いで引き返し、倩女を連れてきた。すると、いまのいままで病いで臥(ふ)していた倩女がとてもうれしそうに布団の上に起き上がり隣の部屋から出てきて、二人の倩女は互いに歩みよったかと思うとアッという間に合体して一人になった。張鑑は、自分が昔、約束していたことを守らなかったことを詫び、二人の結婚を認めた。その後、怪異は二度と起こらず、王宙と倩女の夫婦は天寿を全うしたという。
(参考)
@合体して一人・・・禅の世界における一種の試験問題「無門関」第三十五則に「倩女離魂(せいじょりこん)」の問題がある。「五祖、僧に問うて云く「倩女離魂、那箇か是真底」(唐代の禅僧、五祖は僧に問うた。「ではどっちの倩女が本物だったのか?」と」。
A唐代の伝奇小説「離魂記」より。


(小話651)「剣の達人、柳生宗矩と沢庵和尚」の話・・・
        (一)
徳川三代将軍、家光に、朝鮮から虎が献上された。家光は兵法師範役の柳生宗矩に「虎の檻に入ってみよ」と命じた。宗矩(むねのり)は檻の中にはいり、刀を構え、ジリッ、ジリッ、と虎に迫った。虎はうなり声をあげ、眼をいからし、いまにも飛びかからん物凄い形相だったが、ついに宗矩に威圧され、視線をそらした。「勝負あり」、さすがは宗矩と絶賛を博した。次に 沢庵和尚(たくあんおしょう)が檻に入ることになった。和尚ノコノコと虎の前に進み、犬や猫をかわいがると同じ仕草で虎の頭をなでた。虎もまた、子猫のように目を細め、沢庵の体に頭をこすりつけていたという。
(参考)
@柳生宗矩・・・江戸初期の剣術家。父、宗厳とともに徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授。徳川家光の信頼があつく、寛永9年総目付となり、諸大名の監視に当たった。
A沢庵和尚・・・沢庵宗彭、江戸初期の臨済宗の僧。37歳で京都・大徳寺の住持となる。のちに三代将軍家光の帰依をうけ、1638年には江戸品川に東海寺を開く。「不動智神妙録」など著述も多い。
B沢庵の体に・・・この話はできすぎで、「対立の世界(柳生宗矩)」と「一如の世界(沢庵和尚)」の違いを例えた話であるようだ。
        (二)
将軍家の剣の指南番としての柳生宗矩が、絶対に負けることのできない試合に臨(のぞ)むに際して、その心構えを沢庵和尚に訊ねた。沢庵和尚は答えた。「千手観音に手が千本あるのは何を教える姿なのか?。それは、一つの手に心を駐(とど)めたら999本の手はみな役に立たなくなる。どの手にも心を駐めないからこそ、千本がみな役に立つことを人々に示そうとして作られ姿であって、そのことを得心した人はすなわち千手観音にほかならない、と教え、それをふえんして「向こうへも、右へも、左へも、四方八方へ心は動きたきよう動きながら、そっとも止まらぬを不動智(何物にも動かされることのない智慧)と申し候」。
(参考)
@「不動智神願録」より。


(小話650)「隠者の許由(きょゆう)と巣父(そうほ)」の話・・・
       (一)
中国古代の伝説上の帝王、尭(ぎょう)の時代のこと。高名な賢者にして隠者の許由(きょゆう)は、その人格の廉潔さは世に名高く、当時の尭帝がその噂を聞き許由(きょゆう)に国を禅譲(ぜんじょう=天子がその位を世襲としないで、有徳の人にゆずること)しようとして言った「月と太陽が出て世の中を明るく照らし出しているのに、松明(たいまつ)を灯したままでいても意味はありません。すでに恵みの雨が降っているのに、あくせく田に水を引いているのは徒労というほかありません。今や、あなたがいらっしゃるのに私が今の位に付いているのは無意味、徒労そのものです。国政をお任せいたします」
(参考)
@帝王尭・・・古代中国の伝説上の聖王。暦を作り、徳をもって理想的な仁政を行った。後を継いだ舜(しゅん)とともに後世理想の天子とされ、その政治は「尭舜の治」と称される。
       (二)
すると許由は答えて言った「あなたが国を治めになられ、すでに立派に治まっています。私があなたに代わってその位に付いたとて、名誉職で実質何の変りもないのです。私は美名を求めない。鷦鷯(みそさざい)は森林に巣を作るが、それは一枝に過ぎない。土龍鼠(もぐらねずみ)は渇きをいやすために川を求めるが、飲むのは一腹の水だ。私と国の関係はそのようなもので、天子の富貴はあなたのものです。貴方は今のままで安心し、帰って休んでいればいいのです。私は政治に関わってもなすこともない。料理人が料理をしないからと、神主が祭器を踏み越えて来て、包丁(ほうちょう)を握ることはないのです」と。そして、この後(のち)、許由は「汚らわしいことを聞いた」といって、潁川(えいせん)の水で耳を洗った。又、許由が潁水(えいすい)で耳を洗っているのを見て、やはり尭帝から天下を譲ろうと言われた伝説の高士、巣父(そうほ)は、そのような汚れた水を牛に飲ませることはできないとして、牛を引いて帰っていったという。
(参考)
@高士・・・志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。又は、世俗を離れて生活している高潔な人物。
A巣父(そうほ)・・・中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという。
「許由巣父図」(狩野永徳)の絵はこちらへ
 

(小話649)「太陽神アポロンとペライの王アドメトス。そして、夫アドメトスの身代わりになった妻アルケスティス」の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。太陽神アポロンの息子アスクレピオスは、医術をさずかり、死人を生き返らせることができた。冥府の王ハデスは驚いて、大神ゼウスに報告した。ゼウスは雷霆(らいてい=烈しい雷)によってアスクレピオスを撃ち殺してしまった。可愛い自分の息子を殺されたアポロン神は、怒って、雷霆を造ったキュクロプス(一眼巨人)を射殺してしまった。怒ったゼウスは「一年間、地上で人間の奴隷として働いて罪を償え」とアポロン神をオリュンポスの山から追放した。こうして、罪のないキュクロプス達を殺した罰として、アポロン神は奴隷として人間(ペライ王アドメトス)に一年間仕える、という罰を受けたのであった。アポロン神は、人間に姿を変えて、神としての素性を隠し、ペライの王アドメトスの羊飼いとして働いた。アドメトス王は良い人間で、素性の知れぬアポロン神をかわいがったので、アポロン神もアドメトス王の為によく尽くした。。アポロン神は、牧人として仕えた一年間よくアドメトス王の家畜の面倒を見、すべての雌牛に双子を生ませて財産を増やした。ある時、アドメトス王はイオルコス王ペリアスの美しい娘アルケスティスに思いを寄せた。そして、アドメトス王がアルケスティスとの結婚を望んだときに、イオルコス王ペリアスは「獅子(しし)と猪(いのしし)を共に戦車に繋(つな)いで走らせることができた者に娘をやろう」という条件を出した。そのため、アポロン神は自ら二頭の仲の悪い野獣を手なずけて戦車に繋ぎ、アドメトス王に渡した。こうして、この戦車のおかげでアドメトス王はアルケスティスを勝ち得て結婚した。だが、アドメトス王は、喜びのあまり舞い上がり、結婚式の際、神々に犠牲を捧げるのにアルテミス女神の分だけをうっかり忘れてしっまた。そこで、怒った女神はアドメトス王の新床を蛇まみれにしてしまった。このときも、アポロン神は巧みに姉のアルテミス女神をいさめて機嫌を取り、嫌がらせをやめさせた。
(参考)
@アスクレピオス・・・(小話38-444)「潔癖な美少年ヒッポリュトスと医術の天才・アスクレピオス」の話・・・を参照。
Aイオルコス王ペリアス・・・有名なアルゴー船遠征で王子イアソンに金の羊毛皮を取りに行かせた王である。
        (二)
ところがアポロン神は、結婚後まもなくしてアドメトス王が若死する運命であることを知った。そして、息子エウメロスが生まれてまもなく アドメトス王は死の病にかかった。アポロン神は、親切な主人だったアドメトス王の運命を何とか変えてやろうと考えて、宴の席に運命の女神モイラたち(クロト、ラケシス、アトロポス)を呼び出した。そして、彼女たちに酒を飲ませて酔わせ、アドメトス王に贈り物をする約束を取り付けた。すると、モイラたちはアドメトス王に恐ろしい予言を告げた「お前の命は残りわずかだ。もし誰かが身代わりに死ねば、お前の寿命を倍に伸ばしてやろう」。最初は両親の誰かが死んでくれるだろうとアドメトス王はたかをくくっていた。しかし、肝心の身代わりが見つからなかった。アドメトス王の家来は、彼のためなら何でもすると言っていたのに、いざとなると、誰も身代わりに死のうという家来はいなかった。アドメトス王の両親も、我が子を亡くすのを悲しんでいながらも、自分たちが身代わりになることは怖(こわ)がった。ついにアドメトス王に最期の時が来た。すると、なんと妻のアルケスティスが夫の身代わりを自ら買って出た。アドメトス王は当然反対したが、それでも妻は頑として譲らなかった。ついにアルケスティスが死ぬことになり、アドメトス王の病は快癒(かいゆ)した。だが、代わりにアルケスティスが死病に倒れ、手を尽くす甲斐もなく衰弱していくばかりであった。アドメトス王は妻に取りすがって運命の皮肉を嘆き、身代わりになってくれなかった他の人々(両親や家来たち)を呪うしかなかった。
(参考)
@運命の女神モイラたち・・・彼女たちが扱うのは人間の生命の糸。現在を司る女神クロトが糸を紡ぎ、繰り出された糸の長さ(これがその人の生きた時間を表わす)を過去の女神ラケシスが測り、冷徹な未来の女神アトロポスが手にした大鋏で断ち切る。切られたところがその人間の絶命の時である。モイラたちの定める「運命」とは、誕生から死に至るまでの寿命の長さと、人生におけるごく基本的な筋書きであるという。
        (三)
ちょうどそのとき、旅の途中のヘラクレスの一行が、ペライの宮殿にやって来た。宮殿では、みなが王妃アルケスティスの病を悲しんでいるところであった。嘆き悲しむアドメトス王から事情を聞いたヘラクレスは「友人の奥方は俺が守ってやる」とアルケスティスを迎えに来た死神タナトスを待ち伏せて組み付き、怪力にものを言わせて息も絶え絶えになるまで締め上げた。死神タナトスは遂に「アルケスティスを連れていくのは諦めるから放してくれ」と悲鳴を上げた。当然この騒ぎは冥府の王ハデスの耳にも入ることとなり、事情を聞いた冥王ハデスは特例としてアドメトス王とその妻アルケスティスを許してやることにした。アドメトス王夫妻の命の恩人として十分にもてなされたヘラクレスとその一行は、また旅に出た。こうして、アドメトス王とアルケスティスは末永く幸せに暮らした。
(参考)
@旅の途中のヘラクレス・・・ヘラクレスは、第8の功業「ディオメデスの人食い馬をミュケナイに持ち帰る」の最中に偶然通りかかった。
A冥府の王ハデス・・・ヘラクレスは、アルケスティスを冥府(黄泉)の国から連れ戻す決心をした。そしてハデスの元へ行ってアルケスティスを連れ戻してしまったとか。又、冥府の女王ペルセポネが気の毒に思い、地上に返してやったのだという説もある。
「アルケスティスの死」(ペロン)の絵はこちらへ
  「アルケスティスを取り戻すために死(死神タナトス)と戦うヘラクレス」(レイトン)の絵はこちらへ
 

(小話648)「漱石枕流(石に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す)」の話・・・
         (一)
六朝時代の晋(しん)という国に孫楚(そんそ)という、学識にすぐれ、とても頭が切れる人物がいた。孫楚の父も祖父も相当な高官に進んだ家柄に生まれたが、郷里では一向に目立たなかった。孫楚の友人、王済も名門の家柄だったので、二人は交流があり、互いの優れた能力とその偏屈な性格もあって意気投合していた。王済が出世して当時の宰相(さいしょう)であった時、人材登用の役職にある男が王済に、孫楚の人物について尋ねた。それに対して王済はこう答えた「あの男は、あなたが直接ご覧になったところで、判るような人物じゃございません。私がひとつ言ってみましょう。孫楚という男は、天才英博、もの凄くずば抜けていて、他人と一緒くたには出来ない、と言った具合ですかね」。
(参考)
@当時の宰相・・・後に王済は友人の孫楚を仕官させたという。
         (二)
そんな孫楚(そんそ)が、まだ若い頃のこと。彼は仕官もきず、日々悶々としていたこともあって、早くも俗世間を捨て、隠居(いんきょ)して山林の中に隠(かく)れ住もうと思ったことがあった。そこで、そのことをまだ若い友人の王済(おうさい)に打ち明けた。その時に、孫楚は「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕するような生活をする」と言った。すると、王済は笑って言った「石で漱(くちすす)ぐことは出来ないし、流れに枕することは出来ないよ。それを言うなら「石を枕にし、流れで口を漱ぐ」だろう」。すると、負けず嫌いだった孫楚は「いやいや。川のせせらぎを枕にすると言ったのは、世間のつまらない話を聞いて汚れてしまった耳を洗うためです。石で口を漱ぐと言ったのは、自然の中で歯を磨くのだ、ということが言いたかったのですよ」と言った。これを聞いて王済は「とんでもない言い訳を言う奴だが、なかなかうまいことを言うな」と思った。後に王済は孫楚の言い訳に許巣(きょそう)伝説が暗示されていたのを知り、改めてさすがに孫楚だと感心した。ここから、感心するときの「流石(さすが)」という言葉が生まれたという。
(参考)
@俗世間を捨て・・・当時は老荘の学が盛んであり、隠逸を求める傾向が強く、世俗の道徳名聞を軽視して老荘の学問を談ずることが重んぜられた。
A許巣伝説・・・伝説上の隠者、許由(きょゆう)は尭(ぎよう)皇帝が自分に天下を譲るという話を聞き、耳がけがれたといって潁川(えいせん)の水で耳を洗ったという。潁水(えいすい)で耳を洗っている許由を見て、やはり尭皇帝から天下を譲ろうと言われた高士の巣父は、そのようなけがれた水を牛に飲ませることはできないとして、牛を引いて帰っていったという故事。(小話633)「隠者の許由(きょゆう)と巣父(そうほ)」の話・・・を参照。
B「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」は「晋書・孫楚伝」の故事から出た言葉で、負け惜しみが強いこと。また、屁理屈を並べ、言い逃れることのたとえ。文豪の夏目漱石がこの故事から自分のペンネームを選定したという。



(小話647)「イソップ寓話集20/20(その5)」の話・・・
         (一)「牡(お)ウシとヤギ」
ライオンに追われていた牡ウシが、洞穴へと逃げ込んだ。するとそこには牡ヤギがいて、角(つの)を烈しく突き立ててきた。牡ウシは静かに言った。「好きなだけ、そうしていればいいさ。私は、お前などなんとも思わない。怖いのはライオンだけなのだ。あの化物(ばけもの)が行ってしまったら、ヤギとウシではどちらが強いか思い知らせてやる」。
(友人の苦境につけ込むなど、もってのほかだ)
         (二)「二匹の子ザルと母ザル」
サルは、二匹の子どもを育てると言われている。二匹とも、自分でお腹を痛めた子のだが、一匹は、最大限の愛情と、細心の注意を払い、胸に抱いて育てる。しかし一方は憎悪して構おうとはしない。ある日のこと、胸に抱かれ愛情を注がれていた子ザルが、母親の過剰な愛情に押しつぶされ て窒息して死んでしまった、一方、蔑(ないがし)ろにされていた子ザルは、ほったらかしにされたにも関わらず元気に育った。
(細心の注意を払っても、思わぬ落とし穴が待っているものだ)
         (三)「旅人と運命の女神」
長旅で疲れ果てていた旅人が、疲労のあまり、深い井戸のすぐ側に横になった。彼が水の中へ落ちようとした、まさにその時、運命の女神が現れ、こう言って彼を起こしたそうだ。「さあ目覚めなさい。もしお前が井戸に落ちたら、私のせいにするに違いない。すると人々の間で私の評判が下がってしまい、そうなったら、たとえ、自分たちの愚かさから起こったこと であろうとも、その災難を皆、私に転嫁するに決まっているのです」
(自分の運命は、自分で決定している)



(小話646)「中国の二十四孝の物語(10/12)」の話・・・
      (一)「蔡順(さいじゅん)」
漢朝の頃、蔡順という者がいた。父親が早く亡くなり、母親にこの上もない孝養を尽した。当時、王莽(おうもう)が王位を奪い、そのため天下が大いに乱れ、盗賊が四方に出没した。又、飢饉が起こり、食事にも乏しかった。ある日、蔡順は郊外に桑(くわ)の実を採りに出かけた。そして、その桑の実を二つの篭(かご)に、紅い実と黒い実とを入れ分けていた。そこへ不意に盗賊があらわれた。盗賊が「何故、桑の実を二つの篭に入れ分けているのか?」と尋ねた所、蔡順は「私には一人の母親がおりますが、熟して黒い方の実は母親に差し上げる分で、紅くて未熟な実は私の食べる分です。そのために二つの篭に入れ分けているのです」と答えた。それを聞いた非道な盗賊もえらく感心して、物を取るどころか、かえって三斗の米と牛の腿肉を蔡順親子のために与えて立ち去ったという。
(参考)
@二十四孝・・・古い中国における幼童のための教訓書であって、昔から孝子として世に聞こえた人を二十四人選んで記したもの。
「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ
      (二)「呉猛(ごもう)」
晋朝の頃、一人の孝行者の子供がいた。その名を呉猛(ごもう)といい、年はわずか八才であった。家が大そう貧しかったので、部屋にかける蚊帳(かや)もなかった。夏になると呉猛は毎晩のように両親のそばに裸で寝て、自分のところに蚊が寄って来るのにまかせた。なぜなら、自分さえ蚊に血を吸わせれば、蚊は父母のもとへは飛んで行かないであろうと考えてのことであった。すると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺す事は無くなったと言う。幼い者のこのような孝行は不思議なことだと評判になった。
(参考)
「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ


(小話645)「王様とある大臣」の話・・・
       (一)
民話より。昔、あるところに一人の大臣がいた。大臣はいつも、何が起ころうとも、それはその人にとって良いことなのだ、と主張していた。ある日、王様はさとうきびの皮を剥(む)こうとして、指を切ってしまった。大臣は王様の指から血が流れているのを見て、指のケガは王にとって良いことだ、と言った。王はたいそう怒って、すぐに大臣を牢屋に入れてしまった。そのような目に遭ってさえ、大臣は牢屋に入れられたことは自分にとって良いことだと言った。
       (二)
それから二、三日して王は一人で森に狩に行き、木の下で休んだ。森に住む族長の召使いが王様を捕らえて、部族の女神に捧げる生贄(いけにえ)にしようとした。王様があわや、首を切られようとしたとき、王様の指がケガをしていることが分かった。ケガをしている人間を女神の生贄にすることはできないため、王様は開放された。王様は大臣の言葉を想い出し、指をケガしたために命が助かったことが分かった。王様はまっすぐに牢屋に行き、牢屋に入れられたことですら大臣にとって良いことだと言ったのは何故かと、尋ねた。大臣は、もし自分が牢に入れられなかったなら王様のお供をして、森に行っていたであろうし、もしそうならば森の種族は王様の代わりに自分を生贄に選んだであろうから、と答えた。


(小話644)「「小さき花のテレーズ」と呼ばれたリジューの聖テレーズ。その深い信仰と短いの生涯」の話・・・
     (一)
「幼きイエスのテレーズ」や「小さき花のテレーズ」」と言われたリジューのテレーズ(本名はマりー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン)は、1873年1月2日にフランスのアランソンに生まれた。父ルイは時計屋を営み、母ゼリーは腕のいいレース職人だった。夫婦は信仰あつく、仲が良かった。夫婦の間には九人の子供が生まれたが、結核などのために四人が夭逝(ようせい)し、五人の娘たち(マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズ)だけが成長した。テレーズは末っ子(七女)で、感受性が強く、誰からも愛される子供だった。だが、小さいテレーズは、いつも冬中は病気がちで、ほんのわずかな風邪にもすぐ高熱を出して、息切れがしていた。ある時、母ゼリーに「よい子でないと天国に行けない」と言われたテレーズは「じゃ、お利口でないと地獄に行くの?」と聞き返した。そして、幼いテレーズが思いついたのは「ママが天国に行くとき、私をしっかりママの腕の中に抱き締めてちょうだい。神様だって私を取り上げられないわ」。四歳に満たないテレーズのこの確信は、後に「イエスの腕」によって父なる神のもとに行く、という信頼につながっていった。テレーズはまた「その年ごろの子には見られない機知に富んだ即答」が上手であった。「どうして神様が小さなホスチアにおられるのか?」と八歳のセリーヌ(四女)がテレーズに問うと「神様は全能ですもの、不思議じゃないでしょ」「全能って?」「望むことは何でもできるってことじやないの」と四歳のテレーズは答えた。1875年12月5日、母ゼリーは次女のポリーヌにあてて次のように書いた「テレーズは驚くはどのいたずらっ子です。時には私をいい子いい子とかわいがってくれますが、時には死んでほしいというのです。「ママ、私、ママが死んだら、ほんとにうれしい」。私が叱ると、彼女は答えます。「だって、それは天国へ行けるってことよ。ママだっていつも言うじやない、天国に行くには、その前に死ななくちゃって」同じように、パパに向かっても、パパが好きでたまらない時、「パパ死んでちょうだい」と言うのです」。そして又、母ゼリーはこうも書いていた「テレーズもよい子になるでしょう。この世の富をどんなに積まれても、彼女は嘘をつかないでしょう。彼女はうちの家族のなかで、これまで見たことがないほど頭がよいのです。この子は私たちの宝です。よい子になるでしょう。すでにその芽が見られます。彼女は神さまのことしか話しません。どんなことがあっても、自分の祈りをやめることはありません」(以上「ある魂の物語」より)。1877年、テレーズが四歳のときに、もともと体が弱かった母ゼリーが病死し、精神的に耐え切れなくなった父は店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家があるノルマンディー地方のリジューへと移った。
(参考)
@五人の娘たち・・・(1)長女マリー(2)次女ポリーヌ(3)三女レオニー(4)四女エレヌ6才で死亡(5)五女セリーヌ(6)六女メラニー・テレーズ0才で死亡(7)七女テレーズ(8)長男ジョセフ・ルイ0才、次男ジョセフ・ジャン0才で死亡。
A小さいテレーズ・・・テレーズとかテレサとかテレジアとかは言語による呼び方の違いで、二十世紀の聖女マザー・テレサは、自分の名が、アビラのテレサではなくリジューのテレーズからだと言うほど、テレーズを愛していた。テレーズの修道名は「幼きイエスのテレーズ」で、彼女はカトリック教会の聖人にして33人の教会博士の一人。若くして世を去ったが、その著作は今でも世界中で広く読まれる聖人。記念日は10月1日。リジューのテレジア、幼きイエスのテレーズ(テレジア)、小さき花(テレジア)などとも呼ばれる。
Bホスチア・・・ホスチアとは、聖別用に用いられる円形の薄いパンのことで、「聖体」となるパンのことを言う。
     (二)
1882年、テレーズが九歳のとき、それまで母親がわりをつとめていた姉のポリーヌ(次女)がリジューのカルメル会修道院に入った。母親についで、第二の母であった姉を失うという体験は幼いテレーズの心に大きな影響を与えた。このころからテレーズは修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるようになった。1883年(10歳)、テレーズは、奇妙な病気にかかったが、この時、聖母像が微笑み、奇跡的にテレーズの病気は平癒(へいゆ)した。1886年(13歳)に二人の姉マリー(長女)とレオニー(三女)も修道院に入ったことで、テレーズの修道院に入りの望みがいっそう強くなった。この時期に修道院の一人の修道女がテレーズについて書いている「テレーズは背が高く、体はしっかりしていますが、あどけなさも残っています。声の調子も表情もかわいいのですが、その中に、五十代の人とも思われるほどの英知、完徳、見識を秘めています。いつも心の準備ができており、すべてのことにおいて、自分自身をコントロールしています。何の邪気もなく、告解なしに聖体にあずかるようなあどけない子どものようでもありますが、彼女の頭の中はどんな人でもやりこめることができる、いたずらっ気に満ちあふれているのです。神秘家といっても、道化者といっても、どちらも当てはまります。時には人が涙を流すほど敬虔な気持ちにさせるかと思うと、休憩時間には、皆を死ぬはど笑わせたりします」と。1887年、十四歳になったテレーズはカルメル会入会を願った。父は許してくれたが、修道院の院長や指導司祭に年齢の低さを理由に断わられた。ついでバイウの司教に許可を得ようとしたが、やはり年齢の低さを理由に許可されなかった。同年10月、テレーズは十五歳の時、父や姉たちと共にローマへの巡礼団に加わった。そこでローマ教皇レオ13世に謁見して直接カルメル会入会の特別許可を願ったが、教皇もやはり司教と指導司祭のすすめに従うようにと穏やかにテレーズを諭(さと)した。テレーズが十六歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会し「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けた。同じ年、かねてから体調がすぐれず、精神を病む兆候を見せていた父ルイが心臓発作に見舞われ、療養所に入った。父はここで最後の三年をすごすことになった。1894年7月29日、父ルイが死去した。最晩年は発作の影響で下半身不随になっており、精神的に混乱したり、うわごとをいうことが多かった。父の死後、最後まで父につきそった姉のセリーヌ(五女)もカルメル会に入会した。
(参考)
@カルメル会修道院・・・カルメル会(カルメル修道会)は、キリスト教、カトリックの修道会。男子カルメル会と女子カルメル会、および第三会と呼ばれる在俗者会がある。12世紀にパレスティナで起こり、現代でも世界中にその修道院がある。
Aテレーズは修道女になりたい・・・テレーズは修道女になる準備をしていた頃、姉マリーから花束を作るよう勧められた。その花摘みとは「愛のために何かを我慢すること、愛のために何かをする」ことであった。又、テレーズには「聖テレーズの秘密」といわれる心の持ち方があった「ある真夜中のこと、テレーズは、お客様の為に急にランプを用意するように、と言われた。彼女はくたくたに疲れていて、一刻でも早く休みたいと思っていた。そのときこんな考えが閃いた「もし、このランプを必要としていらっしゃるのが、マリアさまだったら」。テレーズはそれでマリアさまのためにランプを用意している「つもり」になったという。「つもり」になると仕事はまったく苦にならなくなったとテレーズは話した。
B修道名を受けた・・・修道院の病室にとても気難しい病人がいた。修道女が忙しい時をねらいすましたように、つまらぬ用事を言いつけた。 テレーズは係りの修道女にこう言った「病室の前を通るとき、病人があなたを呼びとめられるよう、わざとゆっくり歩くようにしてごらんなさい。そしてなにかを言いつけられたら、ニコニコして「はい、今すぐに」と答えましょう。偉大なことをするのも立派だけど、呼ばれたとき親切な返事をすることには及びません」
       (三)
こうして、テレーズの一家は全員が修道女になった。しかし、もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは1896年(23歳)、4月に喀血(かっけつ)し、そのまま病勢が進み、1897年9月30日に姉のセリーヌ(五女)に守られながら二十四歳の若さで亡くなった。この最後の一年間のテレーズは、何度も喀血し、重体に陥った。そして死ぬ一ヶ月前は、床ずれが出来、骨が露出し、激痛を起こした。極度にやせてしまったために出来た傷が壊疽(えそ)し、テレーズが忍んでいた肉体的苦痛は、恐ろしいほどであった。こうした凄惨(せいさん)な苦痛に耐えて息を引き取った時、微笑(ほほえ)みをたたえたテレーズは、心を奪われるほどの美しさだったという。彼女はその死の少し前、次のように言った「私はいつも聖人になりたいと望んでおりました。けれども、聖人がたに自分をくらべてみますと、雲にそびえる高い山と道行く人にふまれる砂の一粒はどの違いがあります。しかし、私は失望しません。まっすぐで、早く行ける小さな道を通って、天国にいく方法を見つけたいのです」と。そして、他の修道女の問いについて「いいえ、私は聖人などではありません。聖人がたがなさったことを何一つしておりません。私は神さまがその恵みで満たしてくださったちっぽけな魂(たましい)です。私が言うことは本当です。皆さんはそれが天国でおわかりになるでしょう」。そして、死ぬ間際には「私の使命が始まるような予感がします。私が主を愛するように、人びとが主を愛し、人びとに私の小さな道を知っていただくことです。もし私の願いがかなえられるなら、世の終わりまで、私は地上で自分の天国を過ごすでしょう。私は世の終わりまで、そして救うべき人びとがいるかぎり、決して休むことはできません」(以上「最後の言葉」より)。「おお……神さま、私はあなたを愛します。あなたを愛します」これがテレーズの最後の言葉であった。こうして、テレーズが生前、長姉であるマリーに話していたことが成就した。マリーは言った「あなたが死んだら、私たちはどんなに悲しむことでしょう!」「いいえ、見ていてください。パラの雨が降るでしょう。そうですよ。私がバラの雨を降らせましょう」(「最後の言葉」より)。
(参考)
@パラの雨が降るでしょう・・・テレーズは亡くなる前に「私は死んだらバラの雨を降らせます」と謎めいた言葉を残した。誰もその意味を理解できなかったが、死後、彼女に奇跡を願うと、病が癒(いや)されたり、苦しみが取り除かれたり、祈りが次々と聞き届けられていった。「バラの雨」とは聖女テレーズの奇跡のことだった。
A小さな道を通って・・・テレーズはより小さな、弱点を持った霊魂たちがどのように天国を確信することができるか不思議に思った「イエズス(イエス)は、自然の書物を私の前に開かれました。そして、私はイエズスが創造なさった花がみなそれ自身の美を持っていること、バラの輝きと百合の白さとはスミレからその香りを奪わないし、また雛菊の魅力を減じるものではないということを見ました。私は、もし小さな花がみなバラでありたいと望んだならば、自然はその春の飾りを失い、そして野原はもはやその種々様々の花でいろどられることもないということがわかりました。ですから、主の生ける庭園、霊魂たちの世界においてもそうなのです。百合やバラに比較されてもよい偉大な聖人たちを創ることは、主を喜ばせます。しかし、主はまた雛菊やスミレであることに満足しなければならない、小さな聖人たちをもお創りになりました。雛菊やスミレも、主がそれらを見ることを選ばれるときには、主の眼を喜ばせるために主の足もとに気持ちよく横たわっています。主が望まれるように、それらが幸せであればあるほど、それらはそれだけ完全です」(「幼いイエスの聖テレーズ自叙伝」より)
     (四)
生前のテレーズは海外宣教に強い関心を持っていて、インドシナ宣教の望みがあったが、それは果たされなかった。わずか9年間の修道生活。そして、二十四歳で病死するまでテレーズは、リジューの修道院から一度も外にでることはなかった。そんな彼女が死後、自叙伝(「幼いイエスの聖テレーズ自叙伝」)が出版されて、大きな反響を呼び、20世紀のベストセラーとなった。こうしてテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まった。1914年6月10日、教皇ピウス10世はテレーズを列福(れっふく)にし、ベネディクトゥス15世は、通常、死後5年たたないと列聖(れっせい)はできないという条件をテレーズに限って特別に緩和することを決定した。これは異例のことであった。1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖にされた。リジューのテレーズは病人や花屋、宣教師の守護聖人で、又、彼女はジャンヌ・ダルクについでフランスの第二の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから1927年にはフランシスコ・ザビエルについで宣教者の守護聖人にもなった。1997年10月19日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって深い霊性と思想がたたえられて、歴代最年少の「教会博士」に加えられた。教会博士の称号を与えられている聖人は現在では33人で、女性としてはアヴィラのテレジア、シエナのカタリナに続いて3人目であった。
(参考)
@自叙伝(「幼いイエスの聖テレーズ自叙伝」)が出版されて・・・テレーズが多くのカトリック教徒に愛される理由は、自叙伝(「幼いイエスの聖テレーズ自叙伝」)の「跡(=大きな業)」をする力は持ってない。だからその代わり、幼な児のように、「小さい業」を懸命に励むことで、信仰生活を守ろう」「人間は、たとえどんなに弱くても、小さな力しか持っていなくても、何一つ悲嘆することはない。弱くて小さいからこそ、神は決して放っておかれず、大きなあわれみと愛を与えてくださる」という信念で活動し、生涯を終えた、その生き方が多くの信者の手本となったからだという。
A列福・・・列福とは、キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、福者(聖人の前段階)の地位にあげられることをいう。
B列聖・・・列聖とは、キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。ほとんどの場合、死後行われる。カトリック教会においては徳と聖性が認められた福者が聖人の地位にあげられることをいう。
C「教会博士」に加えられた・・・「あれほど神に近く、あれほど単純化された祈りの人であったリジュのテレーズが、本質的なものを求めるよう人々の心を駆り立てますように。あれほど神に希望を置いた聖女テレーズが、神の存在を疑う人や、自己の限界に苦しむ人々に道を開きますように。あれほど真実に愛した聖女が、教会に対する信頼の雰囲気の中で、私たちの日常生活の義務を高め、対人関係のあり方を変化させますように」(パウロ6世の祈り)
D女性としては・・・リジューにあるテレーズの大聖堂には毎年百万人の巡礼者が訪れるという。
     (五)
テレーズの帰天後まもなくに起こった奇跡(バラの雨)の数々。 (1)「大腫物の癒し」・・・ドボスと言う婦人は、10年前より左のわき腹に大きな腫物が出来ていて、苦しんでいたが手術をすることを好まず、神父の勧めにしたがってテレーズにノヴェナ(9日間の祈り)を熱心に捧げていた。すると不思議な事に9日目にその重い腫物が跡形も無くすっかり消え、完全に癒された。
(2)「腹膜炎などの癒し」・・・ジョアンナと言う植木屋の妻は、以前から胃腸の病気を患っており、さらに腹膜炎と虫垂炎を併発してした。それで最も有名な医者が腹部を切開してみると、多量の膿が出てきたので手術を中止し、神父を迎えるように言った。呼ばれた神父は、ジョアンナ夫人に終油の秘蹟を授け、罪の許しを与えた後、テレーズに取次ぎを願うように勧めた。それでジョアンナ夫人はその勧めに従い、テレーズの特別の保護を願った。すると、数日後には全ての病気が完全に癒された。
(3)「胃ガンの治癒」・・・スペインのトラピスト修道院のパウロ修道士は、初期の胃ガンにかかって、長い間ベッドの上で苦しんでいた。それで、テレーズに取次ぎを願い、テレーズに対して深い信頼心を起こし、自ら牛乳を飲む事を決心した。そして、テレーズの聖遺物の中から1本、糸を取り、それを牛乳の中に入れて飲んだ。すると非常に快い感じがして、すぐにベッドから起き上がりしばらく外を散歩した。完全に胃ガンは癒された。この修道士は、その次の年に山を切り開くための工事現場で、急に火薬が爆発すると言う事故にあったがテレーズの助けによって、不思議にも助かった。
(4)「プロテスタント(新教)の牧師のカトリック(旧教)への改宗」・・・スコットランドのグランドと言う名高い牧師は、小さきテレーズの自叙伝を読んでいるうちに、非常に感動する所があって、テレーズの取次ぎにより改宗し、熱心なカトリック信者になった。彼が言うには、テレーズが自分に現れ「私の小さき道を歩みなさい。これは確かで唯一の道である」と言ったという。このことは、イギリスの新聞に公表された。のちに彼は、夫人と共にアランソンにあるテレーズが居た家に住むようになり、夫の死後、夫人は一人でこの家に住み、多くの巡礼者の案内役として残りの生涯を過ごした。その後、テレーズの取次ぎにより、多くのプロテスタント信者がカトリックに改宗した。
(5)「小さき者へのいつくしみ」・・・3歳になるある幼子は重い病気になり、もはや臨終が迫っていた。ところが、突然その子の顔が強く光り輝き、そばにいた母親は驚きのあまり気絶しそうになったほどであった。そして不思議にも、その子供は急に全快し、その翌日、この子はテレーズの聖画を母親に見せて「昨日、この人が僕のところに来たんだよ」と言った。又、ポールと言う同じ年齢の男の子は、骨の結核にかかり、非常に大きな苦しみの中に居た。このポール君によれば、小さきテレーズが現れて「坊やの病気を治してあげましょう」と言ったという。そしてそのテレーズの言葉通り、まもなくポール君の病気は、完全に癒された。また、ある子供は、「私は天国の美しい様子を見ました。そして幼きイエズスのテレーズが主のおそばにいるのを見ました」。また他の子供も「テレーズの頭には女王様のような冠があり、金の星で飾ってある服を着ていました」と、証言している。
(6)「ノヴェナの祈り」・・・マリア・ベニーグスと言う修道女は、食道の病気で苦しんでいたが、テレーズへの祈りで急に全快した。ポルトガルにもバラの雨が降り、ある病人がテレーズにノヴェナを捧げていると足の大きな傷が不思議にも全快した。フランスのある司祭の食事係りが、胃の病気の為にまったく食事をとることが出来なかったが、家族は、最後に望みとテレーズにノヴェナの祈りを捧げ始めた。するとその祈りを始めた日から、何の薬も飲まないのに病気が快方に向かい、9日目には完全に癒された。マダガスカルのベルマンと言う修道女がある家を訪問したところ、可愛そうな事に母親が死期の迫っている病気の子のそばで泣いていた。それで修道女は、この母親を慰めた後、この病気の子に洗礼を授けテレーズの聖画を与えて、取次ぎの祈りを願うように勧めてから帰った。すると次の日、その母親が修道女のところに来て「昨日頂いた聖画と同じ婦人が昨夜子供に現れて、持っていた白い服を子供にかけると消えました。すると子供の病気は完全に癒されていました」と言った。
(7)「500フランの紙幣」・・・イタリアのガルボリにあるカルメル会修道院は、経済状態が非常に悪く、もはや日々の食物にも差支えが出るようになった。そこで全修道女がテレーズの「小さき花」を読み、彼女の助けを請うために3日間の祈りをした。すると3日目の真夜中、どこからともなく一人の修道女が現れて、修道院長のカルメラー修道女を眠りから覚まさせ、驚く院長を金庫のある部屋に導いた。金庫の中には、まったくお金がなかった。その修道女は、持ってきた500フランを金庫の中に置くと去ろうとしたので、院長は益々驚いてそこに跪いた。するとその修道女は、「私は、天主の婢なるリジューのテレーズ修道女です」と答えた。このテレーズが500フランを持って現れたと言うのは、あまりにも不思議であったために、司教は最もテレーズに反対しているある者に、この出来事について調査させた。ところがこの人が厳格に調査した結果、完全に事実であることを確かめられた。
(8)「バラの雨、バラの夕立」・・・全世界においてテレーズのバラの雨(恵み)は降り、たくさんの人が回心し、あるいは病気の治癒や貧困、霊的な苦しみからの解放など多くの人がテレーズからお恵みを得た。また、テレーズのことを何も知らない神学校のある生徒に現れて「明日、バイユにおいて司教は私について大いにお祝いされます。私はバラの夕立を降らせましょう」と告げたが、その言葉通り、全世界にバラの夕立が降り、リジューのカルメル会には、毎日300通以上の感謝の手紙が来るようになった。その翌年には、パリの神学生に現れて「バラの雨を降らせる」事を告げた。このように今でもバラの雨は降り続いているという。
(9)この他、数々起こった奇跡は記録としてまとめられ「バラの雨」というタイトルで1907年〜1925年までに7巻3000ページ以上が次々に出版された。
(参考) 「リジューのテレーズ」の写真はこちらへ
「帰天したテレーズ」(セリーヌ(姉))の写真はこちらへ


(小話643)「螻蛄(けら)」の話・・・
         (一)
廬陵(ろりょう)の太守企(ろうき)の家では螻蛄(けら)を祭ることになっている。何ゆえにそんな虫を祭るかというに、幾代か前の先祖が何かのまきぞえで獄舎につながれた。身におぼえの無い罪ではあるが、拷問の責め苦に堪えかねて、遂に服罪(ふくざい)することになったのである。彼は無罪の死を嘆いている時、一匹の螻蛄(けら)が自分の前を這い歩いているのを見た。彼は憂苦のあまりに、この小さい虫にむかって愚痴を言った「おまえに霊があるならば、なんとかして私を救ってくれないかなあ」。食いかけの飯を投げてやると、螻蛄は残らず食って行ったが、その後ふたたび這い出して来たのを見ると、その形が前よりも余ほど大きくなったようである。
(参考)
@螻蛄・・・体長約3センチメートルの昆虫。体は円柱状で褐色。前足は幅広く、土を掘るのに適する。土中でジーと鳴く声は俗にミミズが鳴くといわれる。昼は地中に潜み、夜は出て飛び、よく灯火に来る。
         (二)
不思議に思って、毎日かならず飯を投げてやると、螻蛄も必ず食って行った。そうして、数十日を経るあいだに虫はだんだんに生長して犬よりも大きくなった。刑の執行がいよいよ明日に迫った前夜である。大きい虫は獄舎の壁のすそを掘って、人間が這い出るほどの穴をこしらえてくれた。彼はそこから抜け出して、一旦の命を生きのびて、しばらく潜伏しているうちに、測(はか)らずも大赦(たいしゃ)に逢って青天白日(せいてんはくじつ)の身となった。その以来、その家では代々その虫の祭祀を続けているのである。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。