小話集の書庫にようこそ

(小話563)から(小話583)はこちらへ
(小話604)から(小話623)はこちらへ

 

(小話603)「狸老爺(たぬきおやじ)」の話・・・

      (一)  

晋(しん)の時、呉興(ごこう)の農夫が二人の息子を持っていた。その息子兄弟が田を耕(たがや)していると、突然に父があらわれて来て、仔細(しさい)も無しに兄弟を叱(しか)り散らすばかりか、果ては追い撃(う)とうとするので、兄弟は逃げ帰って母に訴えると、母は怪訝(けげん)な顔をした。「お父(とっ)さんは家(うち)にいるが。まあ、ともかくも訊いてみよう」。訊(き)かれて父はおどろいた。自分はさっきから家にいたのであるから、田や畑へ出て行って息子たちを叱ったり殴ったりする筈がない。それは何かの妖怪がおれの姿に化けて行ったに相違ないから、今度来たらば斬り殺せと言い付けたので、兄弟もそのつもりで刃物を用意して行った。こうして息子らを出してやったものの、父もなんだか不安であるので、やがて後から様子を見とどけに出てゆくと、兄弟はその姿を見て刃物を把(と)り直した「化け物め、また来たか」。父は言い訳をする間もなしに斬り殺されてしまった。兄弟はその正体を見極めもせずに、そこらの土のなかに埋めて帰ると、家には父が彼らの帰るのを待っていた。「化け物めを退治して、まずまずめでたい」と、父も息子らもみな喜んだ。化け物が父に変じていることを兄弟は覚(さと)らなかった。

      (二)

幾年か過ぎた後、一人の法師がその家に来て兄弟に注意した「おまえ達のお父(とっ)さんには怖ろしい邪気が見えますぞ」。それを聞いて、父は大いに怒って、そんな奴は早速、逐(お)い出してしまえと息子らに言い付けた。それを聞いて、法師も怒った。かれは声を(はげ)しゅうして家内へ跳り込むと、父は忽(たちま)ち大きい古狸に変じて床下へ逃げ隠れたので、兄弟はおどろきながらも追いつめて、遂に生け捕って撲(う)ち殺した。不幸な兄弟はこの古狸にたぶらかされて、真の父を殺したのである。一人は憤恨(ふんこん)のあまりに自殺した。一人も懊悩(おうのう)のために病いを発して死んだ。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話602)「リディア王クロイソスと賢者ソロン」の話・・・

         (一)

アテネの賢者ソロンがエジプトを回ってリディア国のクロイソス王を訪ねたときのことであった。クロイソス王は、世に賢人として名高いソロンを歓待するとともに、宝物(ほうもつ)の蔵に案内させ、豪華な財宝をことごとく彼に見せた。その上で、次のように尋ねた「そなたは、広く世界を見物して回られていると聞いているが、誰かこの世界で一番幸せな人間に会われたかどうか?」これに対して、ソロンは「この世で一番幸せな人間」としてアテネの一市民、テロスという全く無名の男の名前を挙げた。クロイソス王は、自分を「世界で一番幸せな人間」だと言ってもらいたかったが、あてがはずれたのでその理由を尋ねた。それに対してソロンは、次のように答えた「テロスは、よい国に生まれて、すぐれたよい子供に恵まれ、その子らに皆また子供が生まれ、それが一人も欠けずにおりました。彼は、わが国の標準からすれば、生活も裕福でございましたが、その死に際(ぎわ)がまた実に見事でした。アテネが隣国と戦争した際、敵を敗走せしめた後、見事な戦死を遂げたのでございます」。では、自分は二番目に違いないと思ったクロイソス王は、その次に幸福な人間は誰か尋ねた。すると、ソロンは「アルゴスのクレオビスとビトンの兄弟です」と言って、次のような話をはじめた「それは女神ヘラのお祭の日のことでした。クレオビスとビトンの母親も祭を見に行くことにしていました。ところが、出発の時が来ても車を引く牛が用意できません。そこで、二人は自分たちで車を引いて、母親を遠路はるばる祭に連れて行ったのです。祭に来た人たちは、このような孝行息子をもったあなたは幸福者だと母親を讃(たた)えました。そこで、母親は女神に対して、この世で最上の幸福を息子たちに下さるように祈りました。すると、その夜、神殿で眠りについた息子たちは翌朝には帰らぬ人になっていたのです。アルゴスの人たちは、記念にこの二人の銅像を作ってデルポイ(デルフィ)の神殿に奉納したそうです」。

(参考)

@クロイソス王・・・リディア王国の最後の王。その富はギリシア世界でも有名になった。あいまいなデルフィの神託を誤信して、愛する息子を失うとともに、ペルシアのキュロス王と戦を開き、敗れて国が亡び、火刑にされかけて助命されたと伝えられる。

A賢者ソロン・・・アテネの政治家・詩人。ギリシア七賢の一人。諸改革を行い、ギリシアの民主政の基礎を作った。プラトンが「プロタゴラス」の中で挙げたギリシアの七賢人(1)アテナイのソロン(2)ミレトスのタレス (3)スパルタのキロン (4)プリエネのビアス (5)リンドスのクレオブロス (6)ミテュレネのピタコス (7)コリントのペリアンデロス

B帰らぬ人になっていた・・・古代ギリシャ人にとって、最高の栄華の中で英雄の死を遂げること以上の名誉はなかっとたという。

         (二)

クロイソス王は、自分とは比較にならない者たちの名前ばかり挙げるソロンにとうとうしびれを切らして「あなたはわたしの幸福は、そんな者たちにも劣ると言うつもりか」とソロンに詰め寄った。それに対して、ソロンは次のように言葉を返した「クロイソス王よ、あなたは私に人間の運命ということについてお訊ねでございますが、私は神と申すものが嫉(ねた)み深く、人間を困らすことのお好きなのをよく承知いたしております。人間は長い期間の間には、いろいろと見たくないものでも見ねばならず、遭(あ)いたくないことにも遭わねばなりません。人間の一生をかりに七十年といたしましょう。七十年を日に直せば、閏月(うるうづき)はないものとしても二万五千二百日になります。もし四季の推移を暦に合せるために、一年おきに一カ月だけ長めるといたしますと、七十年間に三十五カ月の閏月が入ることとなり、これを日に直せば千五百日となります。さてこの七十年間の合計二万六千二百五十日の内、一日として全く同じ事が起るということはございません。さればクロイソス王よ、人間の生涯はすべて、これ偶然なのでございます。あなたが莫大な富をお持ちになり、多数の民を統(す)べる王であられることは、私にもよく判(わか)っております。しかしながら今お訊ねのことについては、あなたが結構な御生涯を終えられたことを承知いたすまでは、私としましてはまだ何も申し上げられません。どれはど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日幕しの者より幸福であるとは決して申せません。腐るほど金があっても、不幸な者も沢山おれば、富はなくとも良き運に恵まれる者もまた沢山おります」

         (三)

さらにソロンは続けた「きわめて富裕ではあるが、不幸であるという人間は、幸運な者に比べてただ二つの利点をもつに過ぎませんが、幸運な者は不幸な金持よりも多くの点で恵まれております。なるほど一方は欲望を充足したり、ふりかかった大きな災厄に耐える点では、他方より有力ではございましょう。しかし幸運な者には他方にない次のような利点がございます。なるほど欲望を満足させたり、災厄に耐える点では金持と同し力はございますまい。しかし運が良ければ、そういう事は防(ふせ)げるわけでございます。身体に欠陥もなく、病いを知らず、不幸な目にも遭わず、良い子に恵まれ、容姿も美しい、という訳でございますからね。その上、更に良い往生(おうじょう)が遂げられたならば、その者こそあなたの求めておいでになる人物、幸福な人間と呼ぶに値する人物でございます。人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも、幸福な人と申すのは差控えねばなりません。人間の身として、すべてを具足することはできぬことでございます。国にいたしましても、必要とするすべてが足りているようなところは、一国たりともございませぬ。あれはあるがこれはない、というのが実情で、一番、沢山ある国が、最も良い国ということなのでございます。人間にいたしましても同じことで、一人一人の人間で完全に自足しているような者はおりません。あれがあればこれがないと申すわけで、できるだけ事欠くものが少なくて過すことができ、その上、結構な死に方のできた人、王よ、さような人こそ、幸福の名をもって呼ばれて然るべき人間と私は考えるのでございます(誰も死ぬまでは幸福ではない)。いかなる事柄についても、それがどのようになってなったのか、その結末を見極めるのが肝心でございます。神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落された人間はいくらでもいるのでございますから」。クロイソス王はこの話を聞き「現在ある幸福を捨てて万物の結末を見よ」などという男は馬鹿者に違いないと思いこみ、即刻にソロンを立ち去らせた。ソロンの去った後、クロイソス王には次々と大きな不幸が襲った。クロイソス王には息子が二人いたが、一人は口のきけない障がい者だったので、もっぱらもう一人の息子アテュスのほうに愛情を注いでいた。ところが、その息子アテュスは狩りの際、体に槍が刺さって命を落としてしまった。さらに、クロイソス王はペルシアのキュロス王と戦を開き、敗れてついにリディア国は滅亡してしまった。

(参考)

@リディア国は滅亡・・・(小話596)「王妃(おうひ)の裸を見た男ギュゲス」の話・・・を参照。

Aヘロドトスの著「歴史」より。

 

(小話601)「イソップ寓話集19/20」の話・・・

      (一)「ロバとオンドリとライオン」

ロバとオンドリが、庭で麦藁(むぎわら)を食べていると、腹を空かせたライオンがやってきて、ロバに襲いかかろうとした。と、その時、オンドリが大声で鳴いた。するとライオンは、一目散に逃げ出した。逃げて行くライオンの姿を見て、ロバは、勇気百倍、後を追いかけた。ロバが、もう少しでライオンに追いつこうとした時、ライオンは、くるりと向きを変えると、ロバに襲いかかりバラバラに引き裂いた。

(よくあることだが、故(ゆえ)無き自信は危険をもたらす)

(参考)

@ライオンは、一目散に逃げ出した・・・ライオンは、オンドリの鳴き声を恐れると言われている。

      (二)「ネズミとイタチ」

ネズミとイタチは、もう長いこと、互いに多くの血を流して戦争をしていた。しかし、ネズミたちは、一度たりとてイタチに勝つことができなかった。ネズミは、自分たちが負けるのは、指揮官がおらず、訓練も不足しているからだと考えた。そこで、彼らは、中隊・連隊・大隊と戦闘隊形を整えるために、血筋も力も計略もずば抜けて優れ、その上、戦いに於いて勇者の誉れ高いネズミたちを指揮官に選んだ。あらゆる訓練が終わると、先触れのネズミが、イタチに挑みかかり、正式に宣戦が布告された。新たに選ばれた将校たちは、目印になるようにと、頭に麦藁(むぎわら)の飾りをつけて指揮をとっていた。しかし、まもなく、ネズミたちは総崩れになって敗走し、我先へと穴の中へと逃げ込んだ。だが、将校たちは、頭の飾りがつかえて中に入れず、皆イタチに捕まって、食べられてしまった。

(栄光と危険は隣り合わせ)

      (三)「三人の商人」

大きな都市が、軍隊に包囲されていた。そこで、敵から身を守るために、最善の方策を検討しようと市民たちが召集された。ある煉瓦(れんが)職人は、抗戦する際に最も有用になるのは煉瓦である。と、熱心に主張した。大工も同じような熱の入れようで、鉄壁な防御には木材が欠かせない。と、言い張った。そこへ今度は、なめし皮職人がしゃしゃり出た。「私の意見はあなた方と違います。抗戦する際には、皮の覆いほど有用なものはありません。それには、なめし皮が最良です」

(手前味噌)

 

(小話600)「天狗に捕らわれた女の子」の話・・・

        (一)

民話より。唐の時代、章仇(しょうき)という人が蜀(しょく)の長官になって、あるとき大会(仏教の大きな法事)を行った。このとき、大枚の喜捨がなされ人出もだいぶ出る、というので、百人もの芸人たちが集まってきて、章邸の庭で芸を見せたのであった。中に十歳の女の子が竿(さお)の上で舞いを見せるという芸があった。その芸の最中に、突然カラスかフクロウのようなものが空から舞い降りてきて、その女の子を掴(つか)むと空に舞い上がって行った。群集は大いに騒ぎ、行事は中止となった。女の子は行方不明となった。拉致られたのであった。幼い子どもが毒牙にかかったのではないかと思われた。だが、意外と早く解決した。

        (二)

数日後、その女の子は、高い塔の上にいるのが発見された。急ぎ両親に知らされ、ハシゴが持ってこられて、若いものが上って取り押さえた。女の子は痴呆状態で、何を聞いても反応しない。しばらくしてからやっとしゃべりはじめたのによると「壁画で見た飛天夜叉のような者に連れられて、この塔に入れられた。毎日、果物を持ってきてくれたので、飢えと渇きは覚えなかった。どこから持ってきてくれたのかは知らない」。四日ほどすると女の子はやっと元に戻ったという。

(参考)

@飛天夜叉・・・空中を飛行する夜叉。顔かたちが恐ろしく、性質が猛悪なインドの鬼神。仏教に取り入れられて仏法を守護する鬼神となり、毘沙門天の眷族(けんぞく)とされる。

 

(小話599)「神々の王ゼウスと白い牝牛(めうし)になった美しい王女イオ」の話・・・

         (一)

ギリシャ神話より。アルゴス王イナコスの王女イオは、とても清らかな美しい娘だった。イオがレルネの草地で父親の家畜の群れの番をしていたとき、オリュンポスの支配者ゼウスの目にとまった。美しいものには目がないゼウスは、早速この娘に言い寄った。ゼウスは人間の姿となり、甘い言葉で娘を誘惑しはじめた「娘よ、お前を手に入れるものは、なんと幸福だろう。だがどんな人間もおまえには価しない。おまえは最高の神の花嫁になる値うちがある。いいかね、わたしはゼウスだ。さあ、わたしと一緒にあの大きい森の蔭へ行こう」。けれども、娘はこの誘惑者から必死になって逃げた。だが、ゼウスがその力を悪用して、厚い霧(又は雲)が娘を取りかこみ、娘は動けなくなった。その時、ゼウスの正妻、ヘラは、夫の怪(あや)しい行動を勘ぐり、雲に乗って高い天空から地上におりて来た。そして、誘惑者とその犠牲者を取りかこんでいる霧に、しりぞけと命じた。ゼウスは妻の来ることを予感したので、美しいイオを、あっという間に雪のように白い、きれいな牝牛(めうし)に変えた。浮気現場へ到達したはずのヘラは、女性がいないのを不思議に思ったが、ゼウスと白い牝牛をみて、夫の奸策をすぐに見破った。そこで、何も知らぬような顔をして、ヘラは、この美しい牝牛をほめると、この牝牛を、ぜひ夫からの贈物にしてほしいと言った。ゼウスは娘を断念して、きれいな牝牛を妻に贈った。ヘラは、この贈物をとても喜んで牝牛の首に縄をつけると、意気揚々と引いていった。けれども、ヘラは、この牝牛となった娘にしっかりした見張りをつけるまでは、心が休まらなかった。そこで、部下の百眼の巨人アルゴスを白い牝牛の番人に命じた。牝牛になったイオは、アルゴスの百の目に監視されながら、一日中、草の豊かな牧場で草を食っていなければならなかった。その上、アルゴスは一つの場所にじっとしてはいなかった。それはヘラが、居場所を変えることによって、できるだけ早く夫ゼウスからイオを奪い取ろうとしたからであった。百眼の巨人アルゴスは、イオを連れて国中をさまよい歩いた。

(参考)

@王女イオ・・・イオはヘラの神殿の美しい巫女で、ある日、夢を見た。レルネの湖に行き、ゼウスに身を任せよ、というお告げであった。イオは湖畔に出かけて行き、月光の中で、ゼウスと結ばれたという説もある。

A百眼の巨人、アルゴス・・・頭に百の目をもち、そのなかで二つの目だけはいつも閉じて眠っているが、前頭部と後頭部に輝く星のように散在しているほかの目は、さめて開いているという。又、背中に第三の目があるという説や全身に目を持つという説もある。アルゴスは「すべてを見る者(パノプテス)」というあだ名を持っていた。

B居場所を変える・・・ミュケナイの森のオリーブの木につないで百眼巨人、アルゴスを番人として逃げ出さないように見張らせたという説もある。

「ゼウスとイオ」(コレッジョ)の絵はこちらへ

「ゼウスとイオ」(アンドレア)の絵はこちらへ

「イオとゼウスを見つけるヘラ」(ラストマン)の絵はこちらへ

         (二)

こうして百眼の巨人アルゴスと白い牝牛のイオは、イオが子供のときよく遊んだことのある、なつかしい生まれ故郷の川岸へやって来た。そのときイオは、はじめて水にうつる自分の姿を見た。角のはえた牛の頭を見たとき、思わずぞっとしてあとずさりし、驚いてそこから逃げだした。そして、なつかしさのあまり、妹や父親イナコスをさがして、そのそばへ行ってみたが、二人には、イオであることがわからなかった。アルゴス王イナコスはこの美しい白い牛をなで、近くの林からとってきた木の葉を食べさせた。イオは、蹄(ひづめ)で地面に「IO(イオ)」と書き、その動きによって父の注意をうながした。イナコス王は土に書かれた字を読んで、前にいるのが自分の娘であることをすぐに知った「ああ、わしはなんという不幸な人間だろう」と老人はこの発見に、大きな声で言うと、不幸な娘の頭を抱いた「国という国は、残らずさがしたのに、こんな姿のお前と再会しなけれぱならぬとは。ああ、お前を見つけた今よりも、お前をさがしていたときのほうが、まだしも悲しくなかったとは・・・」。だが、残酷な番人のアルゴスは、悲嘆にくれた父親にそれ以上話すことをさせず、イオを奪うようにして連れ去ると、人けのない草原へと引いていった。それから山の頂上に登り、百の目を開(あ)けて、四方八方を見張りながら役目についた。

(参考)

@イオ・・・イオは、とても美しい娘で、ある日、イオが大神ゼウスと二人で草原で戯れているところに、嫉妬深い妻のヘラ女神が通りかかった。あわててゼウスはイオを子牛の姿に変えて、ヘラに気づかれないようにした。ゼウスは、可愛いイオに雑草ばかり食べさせるのが可哀想になったので、子牛の食料として、スミレの葉をつくった。でも結局ヘラに知られてしまい、イオは星にされてしまった。悲しんだゼウスは、イオの美しい瞳を思い、スミレの葉にイオの瞳と同じ色の花をつけたという説もある。スミレの花ことば誠実・小さな幸せ・謙遜・控えめ・愛・無邪気な恋。

         (三)

神々の王ゼウスは、イオの苦しみをこれ以上、我慢することができなかった。そこで、息子の伝令神であるヘルメスを呼ぴつけて、白い牝牛の番人であるアルゴスの視力を奪うようにと命じた。ヘルメスは両足に翼をつけ、眠りの鞭(むち)をつかみ、旅行帽をかぷると地上におりて行った。地上につくと、牧人になって山羊をそぱへおぴき寄せ、イオが草を食い、アルゴスがその見張りをしている草原へと山羊を追っていった。そしてそこに近づくと葦笛(あしぶえ)シュリンクスを取りだして、優美に吹きはじめた。百眼の巨人、アルゴスは美しいその音色(ねいろ)を聞くと、岩場から立ちあがって叫んだ「笛を吹く人よ、誰だか知らんが、よく来なさった。この岩の上でゆっくり休みなさるがよい。家畜の草がここほどたくさんに生えているところはどこにもない」。ヘルメスは礼を言い、岩場へ登ってアルゴスのそばにすわると、世間話をはじめたが、話に身がはいって、アルゴスが気のつかぬ内に日が暮れてしまった。アルゴスの百の目が、いかにも眠(ねむ)そうになってきたので、ヘルメスは再び葦笛を手に取ると、それを吹いてアルゴスを完全に眠らせようとした。けれどもアルゴスの百の目の一部は、うとうとと眠ったが、残りの目で見張りをつづけた。百眼の巨人アルゴスは珍しい葦笛の、その起こりを聞いた。「喜んでお話しするよ」とヘルメスは言って続けた「アルカディアの雪におおわれた連山に、シュリンクスという名の有名な木のニンフ(妖精)が住んでいた。森の神々やサテュロスたちは、その美しさに魅せられて、ずっと前から、彼女の愛を求めて追いかけていたが、シュリンクスはいつも、うまく逃げていた」こうしてヘルメスは葦笛シュリンクスの由来を話し始めた。ヘルメスは物語(ものがた)りながら、百の目の番人を、間断なくじっと見つめていた。物語りはまだ終わらなかったが、アルゴスの目は、一つ一つ閉じられ、最後には百の目の輝きがみんな深い眠りに消えてしまった。そこで、ヘルメスは声を落とし、魔法の杖で眠りこんだ百のまぷたに次々と触れて、その眠りを深くした。そして、アルゴスがすっかり寝こみ、頭をうなだれているあいだに、上着の下にかくしていた鎌形の剣をすばやくつかむと、アルゴスの首を切り落とした。

(参考)

@シュリンクス・・・(小話423)「黄金好きのミダス王とあし笛になった妖精シュリンクス。そしてロバの耳」の話・・・を参照。

Aヘルメス・・・大神ゼウスと巨人神アトラスの娘マイヤの子。ゼウスの伝令役で、足に羽のはえたサンダルを履き、先に輪のついた杖を持って風のように速く走る。(小話52-479)「神々の伝令神・ヘルメスの誕生と腹違いの兄、太陽神・アポロン」の話・・・を参照。

Bサテュロス・・・上半身は人間で下半身は山羊、小さな角と長くとがった耳と長い尻尾を持っていた。彼等は悪戯好きだったが、同時に小心者でもあり、破壊的で危険であり、また恥ずかしがりやで臆病だった。そして酒と踊りを愛し、情欲に満ちていた。

Cアルゴスの首を切り落とした・・・ヘラ女神は、百眼巨人の死を悲しみ、その百の目を孔雀の尾に飾り、この鳥を世界中で一番美しい鳥にしたという。

「マーキュリー(ヘルメス)とアルゴス」(ルーベンス)の絵はこちらへ

「ユノ(ヘラ)とアルゴス」(ルーベンス)の絵はこちらへ

           (四)

こうして救われて自由の身になると、イオは牝牛の姿のままでそこから走り去った。しかし、下界での出来事は、ヘラ女神の目をのがれることはできなかった。ヘラは自分の部下アルゴスを殺された怒りもてつだって、イオに一匹の虻(あぶ)を放った。イオは四六時中、虻の羽音に悩まされ、刺され続けて、世界各地をさまよい歩いた。イオが海に飛び込んだ場所は、イオニア海となった。また、狭い海峡を渡ると、その海峡はボスポロス(牛の渡し)海峡と呼ばれるようになった。イオは歩き続けていくうちに、ゼウスの罰をうけて、鎖でつながれている岩山・カフカス山のプロメテウス(予言と英知の神)に出会った。プロメテウスは、自分と同様にゼウスによって苦しめられているイオに同情し、これからも続く苦行とその救いについて予言(ナイル河に行け、等)した。イオはさすらいにさすらい、エジプトまでやってきた。ナイルの川岸にきたとき、イオは、もの言わぬ目でオリュンポスの山を、悲しみで一杯の目で見上げた。その姿を見て、ゼウスはあわれをもよおし、急いで妻のヘラのところへ行くと、あの哀(あわ)れな少女は何の罪もないのだからと、イオのために慈悲を乞い、冥府の川ステュクスの水にかけて、イオヘの愛情を捨てると誓った。ヘラはこの嘆願のあいだ中、オリュンポスの山まで聞こえてくる牝牛のせつないほえ声を聞いた。それでヘラも心をやわらげ、変身したイオを人間に戻すことをゼウスにまかせた。ゼウスは急いで地上におり、ナイル河畔へ行った。そして、白い牝牛の背をなでると、牝牛は元の美しい娘になった。ナイルの河畔で、イオはゼウスとの間にエパポス(触れられた子)を生んだ。だがヘラの怒りがすっかりおさまったわけではなく、イオの幼い息子エパポスを山の妖精クレタスたちに隠させてしまった。そのため、イオはまたしても、奪われた息子をさがして長い、むなしい旅に出た。そして、ようやくシリア王ビュブロスの妻が息子を保育しているという噂を聞きつけてエパポスを発見した。イオは結局そこに腰を落ち着け、当時のエジプト王と結婚して女王となった。息子のエパポスも跡を継ぎエジプト王になり、ナイル川神の娘メムピスと結婚し、二人の間には娘、リピュエが生まれた。「リビア国」いう名は彼女に由来している。母イオと息子エパポスは死んだのちも、ナイルの人民によって寺院に祭られ、イシスの神、アピスの神としてあがめられた。

(参考)

@虻の羽音に悩まされ・・・こうして、今でも牛は尻尾で追いきれない虻に悩まされているという。

Aプロメテウス・・・プロメテウスは「先を見る男」(前もって知る者)の意味で、ゼウスの意に反して人類に火を与え、その罰として岩山・カフカス山に鎖で繋がれた。(小話6---326)「プロメテウスとパンドラ(パンドラの箱)」の話・・・を参照。

B予言した・・・イオの放浪の途中でプロメテウスから予言されたことの一つに「あなたの子孫から弓の名人が生まれ、その男が私(プロメテウス)を救い出してくれる」というものだった。この弓の名人は後に数々の冒険を成功させる英雄ヘラクレスである。

Cナイルの河畔で・・・イオはさすらいにさすらい、エジプトまでやってきた。そこで、再びゼウスの使いであるヘルメスが現れ、イオの耳からアブを追いだして殺し、イオを元の人間の姿へとようやく戻せたとい説もある。

D山の妖精、クレタスたち・・・かってクレタ島の奥深い洞窟で、クレタスと呼ばれるニンフ達が赤ん坊のゼウスの養育にあたった。ゼウスは、ヘラに加担して、イオの息子エパポスを誘拐した罪としてクレたスたちを殺してしまった。

Eガリレオは、1610年に発見された木星(ゼウス)の1番目の衛星に「イオ」という名前を付けた。

「プロメテウス」(モロー)の絵はこちらへ

 

(小話598)「中国の二十四孝の物語(7/12)」の話・・・

     (一)「漢の文帝」

漢の文帝(ぶんてい)は、その名を恒(こう)と言った。文帝は漢の高祖である劉邦の第三子で、彼は母親の薄太后(はくたいこう)に孝行を尽くし、食事の際には自ら毒見をする程であった。兄弟も沢山いたが、彼ほど仁義・孝行な者いなかった。その一方で、文帝は国事がいかに忙しくとも、日夜その政治に意を用(もち)い、国内をよく治め、大いに実績をあげた。その間、母親の病気が三年間も続いたが、文帝は皇帝の身でありながら、日夜その枕頭にはべり、衣服の帯を解くこともなく、また目ばたきもしないほどであったという。母親の薬湯(やくとう)を煎(せん)じる時は、人まかせにせず、必ず先ず自分でその加減を見、次に母親に進めるといった具合であった。そのため、皇帝としての「仁」と「孝」との名声が、いやが上にも天下に知れわたった。そして、文帝の世は豊かになり、民衆も住みやすくなったという。

(参考)

@劉邦・・・・・・前漢初代皇帝、高祖。農民の出身。秦の末に兵を起こし、項羽軍と連合して秦と戦い、項羽に先んじて関中に入って、秦の都咸陽を占領。項羽を垓下(がいか)の戦いで破り天下を統一した。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

     (二)「姜詩(きょうし)」

漢朝の頃、姜詩(きょうし)という人がいて、妻子ともよく和合し、極めて親孝行の心を持っていた。その母親は、揚子江(ようすこう)の清水(しみず)と鮮魚の鱠(なます)を好んでいた。そこで夫婦は、二人で家から七、八里の所にある揚子江まで出向いて清水を汲み、また沢山の魚を取り、それで鱠(なます)をつくって母親にさしあげ、また隣家の老婦人にもさしあげていた。後(のち)に、ある時、突然、屋敷のそばに揚子江と同様の泉水(せんすい)が湧き出た。その上、その泉水の中に毎朝、鯉が踊り跳(はね)るといった有様であった。それからというものは、夫婦は家のすぐそばで清水を汲み、魚を獲って母親にさし上げ、孝養を尽くすことができた。このような不思議な出来事が生じたのは、ひとへに姜詩夫婦の孝行を感じて、天から姜詩夫婦に与えられたものにちがいなかった。

(参考)

@鱠(なます)・・・古くは、魚・貝・獣などの生肉を細かく刻んだもの。のちに、魚・貝や野菜などを刻んで生のまま調味酢であえた料理をいう。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

(小話597)「ギュゲスの指輪」の話・・・

       (一)

伝説より。ギュゲスという男は、羊飼いとして当時のリディア王に仕えていた。ある日のこと、大雨が降り地震が起って、大地の一部が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりに、ぽっかりと穴があいた。彼はこれを見て驚き、その穴の中に入って行った。彼はそこにいろいろと不思議なものがあるのを見つけたが、なかでも特に目についたのは、青銅でできた馬であった。これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていた。身をかがめてその窓からのぞきこんでみると、中には、人間並み以上の大きさの、屍体らしきものがあるのが見えた。それは、ほかには何も身に着けていなかったが、ただ指に黄金の指輪をはめていたので、彼はその指輪を抜き取って、穴の外に出てきた。

(参考)

@ギュゲスという男・・・(小話596)「王妃(おうひ)の裸を見た男ギュゲス」の話・・・を参照。

       (二)

あるとき、羊飼いたちの恒例の集まりがあった。それは毎月、羊たちの様子を王に報告するために行なわれるもので、その集まりにギュゲスも例の指輪をはめて出席した。彼はほかの羊飼いたちと一緒に坐っていたが、そのときふと、指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へ回してみた。するとたちまち彼の姿は、かたわらに坐っていた人たちの目に見えなくなって、彼らはギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように、彼について話し合っていた。彼はびっくりして、もう一度指輪に触(さわ)りながら、その玉受けを外側に回してみた。回してみると、こんどは彼の姿が見えるようになった。このことに気づいた彼は、その指輪が本当にそういう力をもっているかどうかを試してみたが、結果は同じことで、玉受けを回して内側に向ければ、姿が見えなくなるし、外側に向けると、見えるようになった。ギュゲスはこれを知ると、さっそく、王のもとへ報告に行く使者のひとりに自分が加わるように取り計らい、そこへ行って、まず王の妃(きさき)を寝とった上に、妃と共謀して王を襲い、殺してしまった。そして、王権をわがものとした。

(参考)

@この有名な「ギュゲスの指輪」はプラトンの著「国家」の中にある話で、さらに登場人物の一人は次のように言っている「かりに、このような指輪があったとしたら、市場から何でも好きなものを、何を恐れることなしに取ってくることもできるし、家に入り込んで、誰とでも好きなものと交わることもできるし、これと思う人々を殺したりもできるだろう。その他、人間の中で神のように振る舞えるというのに、それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつけず控えているほど志操堅固な人など一人もいないでしょう。このことは、何人(なにびと)も自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだ、ということの動かぬ証拠ではないか」(人びとが正義にかなった行動をとるのは、本気で「正しいことをしたい」と思っているからではありません。たとえば臆病だったり、高齢だったり、自分に何か弱点があるために、不正な行為をおこなう実力や能力をもっていない人だけが、不正行為を非難するのです。そしてこのことは、弱い人でも力を手に入れたとたん、できるかぎり不正な行為をおこなうようになるという事実が証明している)と。

 

(小話596)「王妃(おうひ)の裸を見た男ギュゲス」の話・・・

       (一)

昔、小アジアにあったリディア国の王カンダレスは、自分の妃(きさき)に惚(ほ)れこんでいて、こんな美しい女は二人といないと思っていた。そして、王はいつも自分の妻の自慢をしていた。その聞き役は、家来の中のギュゲスという男あった。ギュゲスは王の信頼が厚くて、王から政治上の秘密を教えてもらうほどであったが、王妃の容姿の美しさについてもたっぷり聞かされていた。そのうち王は、こんなことを言いだした「わたしがいくら口で言っても、お前には、わたしの妻の美しさは解らないだろう。よし、百聞(ひゃくぶん)は一見にしかずだ、お前にわたしの妻の裸の姿が、どれほど美しいか見せてやろう」と。ギュゲスは、このとんでもない申し出に「女というものは、着物と一緒に羞恥心も脱ぎ捨てるといいます。そんなところを他人に見せるものではありません」と言って、なんとか断ろうとした。けれども、王からの申し出を拒み続けることはできなかった。そのうち、とうとう王の言うとおりにすることになってしまった。こうして、ついにギュゲスは、王の寝室の入り口の扉の陰に隠れて、妃が服を脱ぐところを盗み見ることになった。妃がこちらに背を向けてベッドに向かう隙(すき)に部屋の外へ出て行こうというのであった。しかし、こんなことがうまく行くはずがなかった。部屋の外へ出ようとするギュゲスの姿が、妃の目に入ってしまった。妃はすぐにこれが夫の企みであると気づいたが、その夜は何も言わなかった。

(参考)

@ギュゲスという男・・・(小話597)「ギュゲスの指輪」の話・・・を参照。

       (二)

翌朝、ギュゲスは妃に呼ばれた。妃に呼び出されるのはよくあることだったので、ギュゲスは何食わぬ顔をして妃のもとに出向いた。ところが、そこには妃の家来が大勢集まっていた。そして、妃はギュゲスに対して次のように言った「お前には、二つの道があります。わたしの夫を殺してリディア王となってわたしと結婚するか、見てはならぬものを見た償(つぐな)いに、ここでわたしの家来の手にかかって死ぬか、さあ、このどちらか一つを選びなさい」。主人を殺すか、自分が殺されるかの二者択一の瀬戸際に立ったギュゲスは、仕方なく自分が生きる道を選んだ。カンダレス王は妻に恥をかかせたのと同じ寝室で、同じく扉の陰に隠れていたギュゲスによって寝込みを襲われて殺された。こうして、ギュゲスが王になると、国内では反乱が起こった。やがて、反乱派とギュゲス派とは一つの合意に達した。それはデルポイ(又はデルフィ)の神託にうかがいを立てて、神託が認めたらギュゲスがそのまま王位にとどまるが、認めらなければ王位をカンダレスの家に戻すというものであった。ところが、デルポイの神託はギュゲスの王位を認めた。ただし、カンダレス家の恨みはギュゲスの子から数えて五代目のときに晴らされるだろうと神託はつけ加えた。こうしてギュゲスはリディア王となり、主人殺しの責任を問われることなく、その生涯を終えた。だが、神託通り、ギュゲスの子孫の五代目のクロイソスが先祖の犯した罪をつぐなった。

(参考)

@デルポイ(デルフィ)の神託・・・ギリシア中部、パルナッソス山麓の古代都市。アポロンの神殿があり、その神託は大きな影響力をもっていた。

Aクロイソス・・・世界で初めて鋳造貨幣を造ったとされるクロイソス王は、その野心の為に我が身とリディア国を滅ぼした。それは、クロイソスの先祖にあたるギュゲスが主君を殺して王となったことへの、報復であった。血には血を。地位には地位を。そして全ての預言は成就したという。

Bヘロドトス著「歴史」より。

 

(小話595)「トロイヤの美貌の王女カサンドラ。予言者となった、その悲劇の一生」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。美貌のカサンドラ王女は、トロイヤ(トロイ又はイリオス)最後の王プリアモスと王妃ヘカベの娘だった。長兄にはトロイヤの英雄ヘクトル、兄には「パリスの審判」で知られ、トロイヤに戦乱をもたらしたパリスがいた。トロイヤのアポロン神殿の巫女(みこ)でもあった美しく、機知に富むカサンドラは幼少の頃、その美しさゆえに不運にもアポロン神に求愛された。アポロン神は自分の愛を受け入れてくれれば、大きな贈り物をすることを彼女に約束し、その光で彼女を愛撫した。するとその影響で、彼女には驚くべき予言の力が与えられた。しかし、彼女はその瞬間「アポロンに弄(もてあそ)ばれたあげく、捨てられる自分の運命」を予言してしまった。カサンドラは彼の求愛を拒絶して、すぐさまアポロン神のもとを去ろうとした。激高したアポロンは、彼女に予言の力を与えたことを後悔したが、一度与えた力は神といえども簡単に奪うことは出来なかった。そこで、これ以上ないほど残酷なやり方で復讐をした。アポロン神はカサンドラにたった一度の口づけを懇願し、彼女はそれに応じた。二人の唇が触れ合ったとき、アポロン神はカサンドラの口に「予言は正しいが、誰も絶対に彼女の予言を信じない」という呪いを吹き込んだ。

(参考)

@王プリアモスと王妃ヘカベ・・・6人の息子---(1)ヘクトルはアキレウスとの一騎打ちで敗れる。(2)トロイロスもアキレウスに敗れる。(3)パリスはトロイア戦争の発端。(4)デイポボスはパリスの死後ヘレネを妻にするがメネラオスに殺される。(5)ヘレノス(カサンドラは予言能力を持つヘレノスと双子だった)はギリシア側に寝返り「木馬の計略」を指示 。(6)ポリュドロスはトラキア王に殺される。3人の娘---(1)イリオネはポリュドロスをつれてトラキアへ逃げる。(2)カサンドラはアガメムノンの愛妾となり、殺される。(3)ポリュクセネはアキレウスの霊を慰めるためその墓前で犠牲として殺された。

A英雄ヘクトル・・・トロイアの英雄。トロイア王プリアモスと妃ヘカベの長男で、アンドロマケの夫、王子パリスの兄。トロイア戦時にトロイア方の総大将として奮戦したが、最後にアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死した。

Bパリス・・・トロイヤの王子。ギリシャの美しい王妃ヘレネを略奪したので、トロイヤ戦争が始まった。(小話50-473)「パリスの審判・美と愛の女神・アフロディーテが王子バリスに選んだスパルタの王妃ヘレネ」の話・・・を参照。      

Cアポロン神・・・大神ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。

       (二)

こうして、美しいカサンドラは、絶望の一生を送る運命となった。まわりの人々を滅ぼすような危険が迫っていることが分かっても、それを防ぐことができなかった。「もしパリスがスパルタを訪れるならば、彼はトロイアに災いをもたらすだろう」とカサンドラは警告した。また、彼女はトロイア戦争が膠着(こうちゃく)状態になったとき、木馬を城門を通してトロイア城内に入れることに反対した。そして、自分が捕らわれの身となることも予言し、自分を捕らえた男(アガメムノン)に対し、彼がトロイアから帰還したとき、名誉を失い、殺害されることも予言した。こうしてカサンドラはトロイアの人々に「ギリシャ軍が攻めてきます」と警告し、「トロイの木馬の中に兵士たちが隠れています」と必死になって伝えようとした。しかし、誰も彼女の警告に注意を傾けなかった。やがてカサンドラの予言通りトロイア戦争が起こり、トロイア城内に引き入れた木馬から出てきた兵士が城門を開いてギリシャの猛攻撃が始まり、堅塁(けんるい)を誇ったトロイアは陥落した。雪崩(なだれ)のように乱入するギリシア軍に城中は蹂躙(じゅうりん)され、火が放たれ、財物は奪われた。カサンドラはアテナ女神の神殿に逃げ込み、神像にすがって救いを求めた。信仰心のある者はアテナ神殿に足を踏みいれる事はしなかったが、アイアスが神殿に足を踏み入れ、アテナ神像に隠れていたカサンドラを見つけ襲いかかった。アイアスによりアテナ神像は倒れ、カサンドラは神殿の中で犯された。この暴虐のためにアイアスはアテナ女神から激しい怒りをこうむり、ギリシアへの航海の途中で溺死させられた。美しいカサンドラは、それから後(のち)も捕われてギリシア軍の陣中に曳かれ、総大将アガメムノンに戦利品として与えられた。彼女はアガメムノンとの間に二人の子を生んだ。だが平穏は長く続かず、やがてカサンドラは、アガメムノンの妻クリュタイムネストラ(娘のイピゲネイアを犠牲に捧げた夫への憎悪から)とその愛人アイギストスによってアガメムノンと共に殺された。

(参考)

@アイアス(小アイアス)・・・トロイア(イリオス)戦争にはロクリス人を率いて40隻の船と共に参加した。ロクリス王オイレウスの子で、サラミス王テラモンの子アイアス(大アイアス)と区別するために小アイアスと呼ばれる。

Aアガメムノン・・・トロイア戦争のギリシア方の総大将。ミュケナイ王。傲慢で非情、所有欲の強い男。

Bイタリア語では日常の会話で「カサンドラ」は「不吉、破局」といった意味を持たせて使うという。

「カサンドラ」((モーガン))の絵はこちらへ

「カサンドラの像」(マクスクリンガー)の写真はこちらへ

 

(小話594)「中国の二十四孝の物語(6/12)の話・・・

       (一)「癒黔婁(ゆぎんろう)」

南斉の時代に、癒黔婁(ゆぎんろう)という者がいた。彼は出世して、せん陵(湖北省)の知事になったが、赴任して十日も経たないうちに、胸騒ぎがしたために、父親が病んでいることを案じ、自分の役職を捨てて帰った。ところが心配していたとおり、父親はひどい病気であった。彼は医師に尋ねた。病気の状態はどうなのか、またどうすれば治るのかと。そこで医師が言うのには、病状がよいかわるいかを知るには、病人の便をなめてみるのがよい。その味が苦(にが)いかどうかによって病人の様態がよくわかるし、それによって療治することもできるでしょうと。癒黔婁(ゆぎんろう)はそれを聞いて、たやすいことだと、それからは父親の便をなめることを第一番とした。そしてその味が思わしくない時には、父親が死んでしまうであろうことを悲しみ、北斗の星に向かって頭を下げ、父親の平癒(へいゆ)を祈り続けた。そしてさらに、父親の身代りになって死ぬことを望んだという。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

       (二)「黄庭堅(こうていけん)」

宋朝の時代に、一人の孝子がいた。その名を黄庭堅(おうていけん)といい、彼はまた文学者でもあった。天性まことに親孝行の人であって、母親への孝養を怠らなかった。使用人も多く妻もいたが、自ら母親の大小便の便器を取り、汚れている時は素手で洗って母親に返し、朝から夕方まで母親に仕えて怠けた事はなかった。黄庭堅の孝行は世間に知られ、やがて彼は、県知事まで出世し、のちまでも天下にその誉れの名をあげたという。

(参考)

@黄庭堅・・・山谷(さんこく)黄庭堅(こうていけん)というが、山谷と黄庭堅とは別人という説もある。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

(小話593)「イソップ寓話集18/20」の話・・・

      (一)「後家とヒツジ」

大変貧しい後家さんが、ヒツジを一匹飼っていた。彼女は、ヒツジの毛は欲しいが毛を刈(か)る費用が惜しかった。そこで、自分で刈ることにした。しかし、鋏(はさみ)がうまく扱えなかったので、毛と一緒に肉まで切ってしまった。ヒツジは痛さの余りのたうち回ってこう言った。「ご主人様、あなたはなぜ、私を、傷つけるのですか? 毛が欲しいなら、毛刈り職人に頼んで下さい。もし、肉が欲しいのなら、肉屋に頼んで下さい。苦しまずに殺してくれますから……」

(安物買いの銭失い )

      (二)「野生のロバとライオン」

野生のロバとライオンが、一緒に狩りをした。ライオンは力でもって……、ロバは脚力でもって、それぞれ狩りに貢献した。そして、大きな成果を上げたので、それぞれの取り分を決めることにした。ライオンは獲物を三等分すると、こう言った。「私は動物の王であるが故に、まず最初の部分をもらう。二番目は、狩りの報酬としてもらう。さて、三番目だが……君が、これを辞退しないと、大いなる災いが降りかかることになる」

(力は正義なり )

      (三)「病気のトンビ」

病気で死にそうになったトンビが、母親にこう言った。「お母さん。悲しまなくても平気です。神様がきっと、救ってくれますから」すると母親が言った。「祭壇から生贄(いけにえ)をくすねてばかりいるお前に、腹を立てていない神様などいるのかえ?」

(逆境の折りに、援助を得るには、順風の時に友をつくれ)

 

(小話592)「羽衣(はごろも)」の話・・・

        (一)

予章新喩(しんゆ)県のある男が田畑へ出ると、田のなかに六、七人の女を見た。どの女もみな鳥のような羽衣(はごろも)を着ているのである。不思議に思ってそっと這いよると、あたかもその一人が羽衣を解(と)いたので、彼は急にそれを奪い取った。つづいて他の女どもの衣をも奪い取ろうとすると、かれらはみな鳥に化して飛び去った。羽衣を奪われた一人だけは逃げ去ることが出来なかったので、男は連れ帰って自分の妻にした。そうして、夫婦のあいだに三人の娘を儲(もう)けた。

        (二)

娘たちがだんだん生長の後、母はかれらにそっと訊いた。「わたしの羽衣はどこに隠してあるか、おまえ達は知らないかえ」「知りません」「それではお父(とっ)さんに訊(き)いておくれよ」母に頼まれて、娘たちは何げなく父にたずねると、母の入れ知恵とは知らないで、父は正直に打ちあけた。「実は積み稲の下に隠してある」それが娘の口から洩(も)らされたので、母は羽衣のありかを知った。彼女はそれを身につけて飛び去ったが、再び娘たちを迎いに来て、三人の娘も共に飛び去ってしまった。

(参考)

@羽衣(はごろも)・・・(小話450)「牛郎(ぎゅうろう)と織姫(もう一つの七夕伝説B」の話・・・参照。

A岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話591)「羅漢像(らかんぞう)に礼拝するスズメ」の話・・・

        (一)

福建(ふっけん)の泰寧県にある瑞雲院の住職、普聞(ふもん)師が、ある日、院内のお堂をめぐってお香を焚き、羅漢の像の前で拝礼を行おうとしたとき、一羽のスズメが飛んできた。スズメは、鳴きながらくるりと一回旋回し、翼を畳(たた)んで香炉の上に止まると、そのまま動かなくなってしまった。しばらくしても、じっとしていて動かない。よく見ると死んでいた。死んでいるけどそのまま、香炉の上で動かないのである。不思議なこともあるものだと噂になり、その日から村人らが相次いで見にきた。そのスズメは、まっすぐに立ったまま正面から羅漢像と相対(あいたい)し、まるで礼拝をしているかのようなのであった。「これは公(おおや)けに申し上げておく必要があるだろう」と誰かが言い出し、瑞雲院の責任者であった顕用法師は県令の趙知事に報告した。知事はこのことを証明する文書を書いて、その末尾に、次のような詩を付したという。

        (二)

日日飛鳴宣妙旨、幻華起滅復何疑。可憐多少風塵客、去去来来只自欺。

(日々に飛び鳴きて妙旨を宣し、幻華起滅す復た何か疑わん。憐れむべし多少の風塵客、去々来々すも只自ら欺く=毎日毎日飛びさえずって御仏のありがたい教えを伝えていたのだなあ)

 

(小話590)「ロシアの女帝で大帝とも言われたエカテリーナ2世の数奇で波乱の生涯」の話・・・

          (一)

ロシアで大帝と呼ばれたのはピョートル大帝(1世)と女帝エカテリーナ(2世)であった。女帝エカテリーナ2世は啓蒙専制君主として知られ、ロシアの絶対王政を確立した。大帝と言われたピョートル1世とエカテリーナ1世との間には長女、アンナ(ドイツのホルシュタイン・ゴットルプ家へ嫁いだ)と次女、エリザベータ、そして息子の皇太子アレクセイがいた。だが皇太子アレクセイが非業の死(反逆の罪により囚われ殺害される)したため、生涯独身を通した女帝エリザベータは、ロシア帝国の後継者として姉アンナの子供であるカール・ペーター・ウルリッヒ(後のピョートル3世)を後継者に指定した。こうして、カール・ペーター・ウルリッヒは、半ば強制的に、ルター派からロシア正教に改宗し、名前もピョートル・フョードロヴィッチと変えて1642年、十四歳でロシアへやって来た。皇太子となったピョートルはロシア語よりドイツ語の方がうまく、ドイツに対する郷愁が非常に強い少年だった。一方、ピョートル皇太子の妃(後のエカテリーナ2世)となるゾフィー・アウグスタ・フレデリーケは1729年、プロイセン(ドイツ北東部)のシュテッテンで、敬虔なプロテスタント(新教)のルター派信徒であった両親のもとに生まれた。父親は貴族でプロイセン軍の少将、クリスチィアン・アウグスト、母親も地方貴族の娘ヨハンナ・エリザベートであった。「私は1729年4月21日、つまり今から42年前に、ポメラニアのシュテッテンで生まれた。男子を期待したのに最初の子が女の子で、みんながっかりした、と後でよく聞かされた。でも父は、周りの人々よりは私の誕生を喜んでくれたらしい」(エカテリーナ2世の回想録より)。ゾフィーは二歳の時からフランス人の家庭教師に育てられ、特に2番目の家庭教師にはロシアへ行くまで教えを受けた。フランス語に堪能で、合理的な精神を持った少女に育った。乗馬も達者だったが、音楽は苦手で、それほどの美貌ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨き魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来、家柄的にはとても大国の后妃(こうひ)候補に挙がる身分ではなかったが、母ヨハンナの兄カール・アウグストがエリザベータ女帝の若い頃の婚約者で、婚姻に至らぬまま早世した縁もあり、ゾフィーはピョートル皇太子のお妃候補の一人としてロシアに呼ばれた。エリザベータのおめがねにかなったゾフィーはロシアでルター派からロシア正教に改宗し、名前もエカテリーナ・アレクセーェヴナに変え、ピョートル大帝の孫、ピョートル皇太子と婚約した。

(参照)

@ピョートル大帝・・・ロシアの近代化を推進、サンクト・ペテルブルグを建設し、北方戦争やトルコとの戦争を通して領土を拡大、ロシアを北方の強国とした。「ピョートル大帝はロシアに形を与え、エカテリーナ大帝(2世)は心を与えた」と言われている。

Aロシアに呼ばれた・・・ゾフィーは「わたしはピョートル3世とでなく、ロシアと結婚するのです」と決意してやってきたといわれる。

「少女の頃のエカテリーナ」の絵はこちらへ

          (二)

1745年、エカテリーナは十六歳で、第10代ロシア皇帝エリザベータの甥でロシア皇太子ピョートルと結婚した。二人ともロシア文化に不慣れであったが、エカテリーナがロシア語を習得しロシア正教に改宗し、ロシアの貴族・国民に支持されるように努力を惜しまなかったのに対し、知的障害もあったピョートル皇太子はドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中して周囲の人々の反感を買った。さらに不幸なことに、ピョートル皇太子の男性能力の欠陥のため、結婚後も長期間本当の夫婦関係はなかった。後にピョートルは手術を受け、ようやく夫婦生活が可能になったものの、その頃には既にエカテリーナはサルトゥイコフらの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。これをエリザベータ女帝や側近も世継ぎ確保の大義名分で黙認していた。やがて、ピョートルの方も有力貴族の娘ヴォロンツォーヴァ嬢を寵愛するようになり、ここに夫婦の関係は完全に破綻した。

(参考)

@夫婦生活が可能・・・(1)1754年、後のパーヴェル1世を出産。父親はセルゲイ・サルトゥイコフといわれる。サルトゥイコフは、エカテリーナの初恋の相手で、絶世の美男子の上、洗練された学識や知性があり、恋愛に手馴れた侍従であった。(2)1758年、女児アンナ出産。父はスタニスワフ・ポニャトフスキといわれる。(3)1762年、男児出産。父は近衛連隊将校グリゴリー・オルロフ。オルロフは筋骨隆々とした強靭な肉体を持つ軍人で、結局、この将校と深い関係を持ったことで、エカテリーナは夫であるピョートル3世を退位させるクーデターに成功した。(4)1775年、秘密裏に女児エリザベータ・チョムキナ出産。父はグリゴリー・ポチョムキン。

          (三)

1762年にエリザベータ女帝が死去すると、ピョートル皇太子は第11代ロシア皇帝に即位し、ピョートル3世となり、エカテリーナもロシア皇后となった。ピョートル3世はプロイセン国王フリードリヒ2世の熱烈な信望者で、皇太子時代からエリザベータ女帝と対立するなどロシア貴族に不人気で、ロシアの習慣にも全く馴染もうとしなかった。特に七年戦争(1756〜1763年)では自国のロシア軍がプロイセン領内に侵攻し、フリードリヒ2世を追い詰めていたのに、ピョートルの即位によっていきなり和約(仲直りの約束)を結んだことはロシア国内で不評だった。又、ピョートル3世はエカテリーナ皇后を廃し寵姫ヴォロンツォーヴァ嬢を皇后に据えようとし、彼女の一族を重用した。その上、ルター派信者のピョートル3世はロシア正教会にも弾圧を加えた。国内にはピョートル3世への怨嗟(えんさ)の声が高まり、エカテリーナ皇后の待望論が巻き起った。だが、その頃、エカテリーナはグリゴリー・オルロフの子を妊娠中ですぐには動きがとれなかった。1762年4月に極秘に出産を済ませた後、7月、エカテリーナ皇后(33歳)は、近衛連隊やロシア正教会の支持を得、2万人の軍を率いてクーデターを敢行し、自ら軍服の男装姿になって馬上から指揮を取った。在位6ヶ月のピョートル3世は退位宣言書に署名させられて幽閉、1週間後に監視の近衛兵、アレクセイ・オルロフ(グリゴリー・オルロフの兄弟)に殺された。9月、エカテリーナ皇后はモスクワで戴冠式を行い、正式にロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)として即位した。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカテリーナ2世はこれを深く悼む」と発表された。

(参考)

@フリードリヒ2世・・・フリードリヒ大王とも言われたプロイセン王。自らを「国家第一の下僕」と称した典型的な啓蒙専制君主で、領土を拡大し、プロイセンをヨーロッパの強国にした。

Aクーデターを敢行・・・クーデターに参加したメンバーは、ほぼ全員が近衛連隊出身であった。エカテリーナ2世はドイツ人で、ロシアにやってきた新参者のため、当然ロシア国内の古くからの有力者(名門貴族)に血縁関係はなかった。そのため親しく接する側近を手なずける必要があり、そのため、側近を自分に最も忠実な近衛連隊から引っ張り挙げた。エカテリーナは数少ない側近を確実な味方にしておくために、破格の出世、莫大な褒章(ほうしょう)はもちろんのこと、外聞や手段を選ばず側近と男女の仲になるのも厭(いと)わなかったという。

Bロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)・・・エカテリーナ2世には、皇位簒奪者、夫殺し、似非啓蒙君主、農民反乱の残酷な弾圧者、多くの寵臣を持った淫婦など数々の悪名もある。

「馬上のエカテリーナ」の絵はこちらへ

          (四)

女帝になってからもエカテリーナ2世は夜明けとともに起き、仕事や読書に励(はげ)み、夜10時には就寝するという庶民的な規則正しい生活を続けた。食事は質素で、観劇や舞踏会も顔は出したが、次の日の朝早く起きるためにいつも途中で退場した。エカテリーナ2世は公的には克己、禁欲的な日常を課す一方、自分に許す唯一の贅沢は、肉体の快楽であった。エカテリーナ2世は約10人(又は21人)ともいわれる男性の愛人を抱え、夜ごと人を変えて、寝室を共にした。そうした中、エカテリーナ四十五歳の頃、10歳年下のグリゴリー・ポチョムキンと密(ひそ)かに結ばれた。ポチョムキンは、家庭には恵まれなかったエカテリーナ2世の、生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家、軍人としてもエカテリーナ2世の最高のパートナーとなった。二人は秘密裏に結婚していて、二人の間には実の娘、エリザベータ・チョムキナが産まれた。二人が男女の関係ではなくなってもパートナーであり続け、エカテリーナ2世の男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の寝室に送り込んでいた。互いの信頼関係はポチョムキンがエカテリーナ2世に先立って、世を去るまで続いた。彼女は愛人をお払い箱にする時には、土地や財産など多大な報酬を与えたので、年を取り、歯が抜けたおばあさんになっても、愛人志願の美青年は跡を絶たなかった。

(参考)

@女帝になってから・・・皇帝の配偶者が帝位についた例は、ロシアでは既にエカテリーナ1世の例があったから、皇帝ピョートル3世の皇后に過ぎなかったエカテリーナ2世が帝位に即いたのも、それほど驚くべき行為だった訳ではない。エカテリーナ1世とエカテリーナ2世の違いは1世は夫の死後、廷臣に擁立されて女帝となったのに対して、2世は夫のピョートル3世を廃してクーデターで帝位をもぎとったことである。

A男性の愛人・・・エカテリーナ2世の愛人たちは、いずれも有能な人物たちで、彼女の治世、ロシアの歴史に大きな影響を与えた。彼らがいなければロシアが強国になることもエカテリーナ2世が「大帝」と称されることもなかったという。ちなみにエカテリーナ2世は数百ともいわれる男性の愛人を抱えていたとする伝説もある。

Bグリゴリー・ポチョムキン・・・後に、クリミア総督になったポチョムキンは、ロシアの有名な映画「戦艦ポチョムキン」の由来の人物。

          (五)

ドイツ人でありながらロシア皇帝に即位したエカテリーナ2世(女帝)は、当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、ボルテール(フランスの小説家・啓蒙思想家)などとも文通して、教育や社会制度の改革に取り組んだ。1773年にドン川流域で大規模な農民反乱であるプガチョフの乱が発生したが、1775年には鎮圧した。又、愛人であったポチョムキンを旧クリミア汗国地域の県知事に任命し、黒海北部沿岸およびクリミアの開発を行なわせた。ポチョムキンはクリミアをロシアの拡大政策の突端とすべく黒海艦隊を設立した。これに抗議したトルコとの間で1787年、露土戦争(ロシアとトルコ)が起ったが、これに勝利し黒海北部沿岸の完全ロシア領化に成功した。エカテリーナ2世は1789年のフランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した。こうして、豪放磊落(ごうほうらいらく)で派手好みのエカテリーナ2世は、国家のため積極的に他国に侵攻し、ピョートル大帝が作り上げたロシア帝国を継承、領土を拡大し、やがて、一辺境国に過ぎなかったロシアを、一代にして広大な領土と60万の大兵力を擁する当時の三大強国にまで発展させた。一方、財政を立て直し、教育施設を作り、学問、芸術を振興し、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在のエルミタージュ美術館)の建設もおこなった。

(参考)

@プガチョフの乱・・・エミリアン・プガチョフ。ドン・コサック出身。7年戦争やトルコとの戦争に従軍した後、軍隊を脱走して分離派教徒の社会に隠れていた。ヤイク・コサックの反乱に乗じてピョートル3世を名乗って「本当のツァーリ(皇帝)」を求める民衆の期待に答え、1年の間に5万の軍勢になり、20万を超える民衆が味方したためモスクワ近くまで進軍した。蜂起後ちょうど1年目の1774年に仲間に裏切られて政府軍に引き渡された。

A他国に侵攻し・・・オーストリアの女帝マリア・テレジアが外交で国力を拡大したため「オーストリアの盾(たて)」と言われ、エカテリーナ女帝は武力で国土を拡張したため「ロシアの矛(ほこ)」といわれた。

B教育施設を作り・・・エリザベータ女帝の時代、華やかな宮中に2人の若い女性がいた。後にエカテリーナ2世となるエカテリーナと、後にロシア・アカデミーの初代総裁となるもう1人のエカテリーナである。偶然同じ名前の2人のエカテリーナがロシアの女子教育の礎(いしずえ)を作った。さらに、エカテリーナ女帝のクーデターに加わったダーシコワ公爵夫人には新設のロシア・アカデミー総裁を命じ「ロシア・アカデミー辞典」の完成を託した。

Cエルミタージュ宮殿・・・エカテリーナ2世は帝国の莫大な財力を背景に、輝かしい芸術コレクションの獲得にも夢中になり「美の宝庫」であるエルミタージュ宮殿を建設。「エルミタージュ」という言葉は「隠れ家」を意味するフランス語で、その入り口にはこんな言葉が掲げてあったという「この扉を通るもの、帽子とすべての官位、身分の誇示、傲慢さを捨て去るべし、そして陽気であるべし」。

D1783年、伊勢国白子の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂流。その後ロシア人に助けられ、1791年、エカテリーナ2世に拝謁して、帰国が聞き届けられた。

          (六)

エカテリーナ2世には、長男、パーヴェル皇太子が生まれていた。ところが、先の女帝エリザベータはパーヴェル皇太子を引き取り、自らの手で養育していたため、エカテリーナ2世はパーヴェル皇太子に対してほとんど愛情を抱かなかった。又、エカテリーナ2世はパーヴェル皇太子の政治的能力も見限っていたため、彼はガッチナの宮殿でほとんど幽閉状態で生活していた。そこでは、パーヴェル皇太子は、父のピョートル3世同様にプロイセン風に偽装させた軍隊を閲兵する遊びに熱中していたが、それは母親のエカテリーナ2世の最も忌(い)み嫌うところであった。パーヴェル皇太子は相変わらず、短気で猜疑心の強い性格のままで、皇子女達に対しても恐ろしい暴君振りを発揮していた。エカテリーナ2世は原則的には「政治」と「色恋」は区別していたが、パーヴェル皇太子は国政に関与する機会を奪われたとして、母親とその愛人たち、とりわけ、グリゴリー・ポチョムキンを憎悪するようになっていた。そこで、エカテリーナ2世はパーヴェル皇太子の息子のアレクサンドル(後のアレクサンドル1世)とコンスタンチンを早くから手元において寵愛し、将来の帝位継承者として自ら帝王学教育を施し、パーヴェル皇太子を廃嫡しアレクサンドルを次代の皇帝に望むようになった。世上にはパーヴェル皇太子を差し置いて、アレクサンドルに帝位を譲ろうとしている噂もあったが、1796年11月5日、エカテリーナ2世は卒中の発作を起こした。そして、11月6日エカテリーナ2世は意識の回復しないまま崩御した。享年67歳。ロマノフ朝第9代ロシア皇帝には、長男のパーヴェル1世が即位した。

(参考)

@パーヴェル1世・・・パーヴェル1世は皇帝になると、同日、帝位継承法を定めて男系男子による帝位継承のルールを確定し、女性が帝位に付くことを禁じた。

Aアレクサンドル・・・パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの第一皇子。近衛将校たちによるクーデターが発生してパーヴェル1世は殺害される。クーデターに一枚かんでいたともいわれるアレクサンドルが帝位を継承し、当初は、自由主義的改革を志向し開明的な政策をとったが、ナポレオン戦争を経て、治世後半は強権的反動政治に転じた。

「エカテリーナ2世」(エリクソン)の絵はこちらへ

「晩年のエカテリーナ2世」(ロコトフ)の絵はこちらへ

 

(小話589)「董永(とうえい)とその子、董仲舒(とうちゅうじょ)」の話・・・

       (一)

民話より。昔、董永という貧しいながらも真面目な男がいて、借金のかたに自ら貸主の奴隷になると申し出た。すると道で出会った見知らぬ女性が彼の押しかけ女房になり、十日と掛(か)からずに千疋(せんびき)の絹を織って借金を全て返してしまった。そして「私は天宮の織女です、天帝に命じられてあなたを救うために参りました」と明かし、そのまま飛び去ってしまった。その時、天女は地上に一人の男児を残して行き、その後も天女は、天と地を往来しては子供と夫の世話を焼いたという。この児こそが董仲舒であった。

(参考)

@董永・・・(小話586)「中国の二十四孝の物語(5/12)の話・・・参照。

A董仲舒・・・中国前漢時代の儒学者。儒家の思想を国教とすることを献策し、儒教の基礎を作った。清廉潔白な人柄で、徳高く、ただ学問の究理にのみ人生を費やした。博士時代は部屋にカーテンをしめて講義を行い、3年の間、庭を見たこともなかったと言われ、数多くの出世した弟子がおり、司馬遷もその一人である。

       (二)

董仲舒は十二歳のとき、高名な占術家、厳君平(げんくんぺい)に教えられて、母親を探して太白山(たいはくざん)に赴(おもむ)いた。その日は丁度(ちょうど)七月七日で、多勢の天女が天下(あまくだ)って山中の泉で薬瓶を洗っていたが、七人目の黄色い服を着た女が母親であった。母親は董仲舒に金の瓶と銀の瓶を渡し、金の瓶は厳君平先生に渡し、銀の瓶はあなたが取るようにと言った。厳君平が金の瓶を手に取ると、中から火花が飛び散って寿命占いの本が丸焼けになり、彼自身も両目を焼いて失明した。一方、董仲舒が銀の瓶を開けると、中に米が七合入っていた。母親は一日一粒食べよと言っていたが、董仲舒は物足りない気がして全部一度に煮て食べた。すると見る見る背が伸びて異常なまでの巨漢になった。それを見た病身の父はショック死してしまった。董仲舒は父の葬式を済ませると、玉帝に命じられたので天に昇って鶴神の官職に就く、と人々に告げて去ったという。

(参考)

@厳君平・・・「漢書」によれば,厳君平は成都の市場で占いをして暮らしていたが、彼は、占いは賤業ではあるが人々の役に立ちうると考え、占いにことよせて人の道を説いたという。(小話438)「銀河を旅した人」の話・・・を参考。

 

(小話588)「イソップ寓話集17/20」の話・・・

     (一)「老婆とワイン壷」

老婆は地下室を片づけていて、空(から)のワイン壷を見つけた。そして匂いを嗅(か)いでみた。「ああ、なんて素晴らしい匂いなんだろう。この壷に入っていたワインは、よっぽど上等だったに違いない。だって、こんなに甘い香りを残していったのだからね」

(美しい思い出は、生き続ける。)

     (二)「二匹のイヌ」

ある人が、イヌを二匹飼っていた。一匹は猟犬として訓練し、一匹は家の番をするように仕込んだ。男は猟(りょう)を終えて家に帰ってくると、いつも番犬の方に獲物をたくさん与えた。猟犬は、憤懣やるかたなく、番犬を咎(とが)めだてた。「お前は、猟の手伝いもしないくせに、俺の獲物を貪(むさぼ)り食う」すると、番犬はこう答えた。「私を非難するのはお門(かど)違いですよ。文句を言うならご主人様に言って下さいな。だって、ご主人様は、私に働くことを教えずに、他人のあがりで暮らすように躾(しつけ)たのですからね」

(親の躾が悪かった場合、子供に責任はない。)

     (三)「タカとトンビとハト」

ハトたちは、しょっちゅうトンビに襲われるので、その害から逃れようと、タカに守ってくれるようにお願いした。タカは快く承知した。そこで、ハトたちは、タカを鳩舎に入れたのだが、この時はじめて、タカがトンビよりも、獰猛であることに気が付いた。大勢の仲間がタカに殺された。その日一日の被害は、トンビから受ける被害の一年分以上だった。

(病気よりも恐ろしいのは、下手な治療である)

 

(小話587)「鳥の言葉を解した公冶長(こうやちょう)」の話・・・

        (一)

民話より。孔子の門人で女婿(おんなむこ)の公冶長という人は百の鳥の言葉がわかったという。ある日、カラスが山の上で「かぁ、かぁ」と鳴いているので公冶長は何事であろうかと聞いてみると、南の山の上に大きな羊の死体があるのだが、冬なので固くなって、カラスには噛(か)み切れない。そこでカラスは公冶長に頼んで、その羊を取らせ、自分は、はらわたを貰おうと考え「公冶長、公冶長、南の山に死んだ羊がある、お前は肉を取って、俺に腸(はらわた)をくれ」と告げていたのである。公冶長はそれを聞き、人を連れて山へ行ってみると、本当に大きな羊が死んでいる。公冶長たちは死んだ羊を割(さ)いて、肉や腸(はらわた)を取り出し、みんな食べてしまい、カラスには何も残しておかなかった。カラスは公冶長の奴ずるい、俺があんなに肉はお前、俺たちには腸(はらわた)とよく言っておいたのに、公冶長は俺たちに何もよこさなかったと、カラスは何時かあいつをいじめてやれと考えていた。ある日、カラスはまた「公冶長、公冶長、東の街道に死んだ羊がある。お前は肉を食え、俺は腸(はらわた)を食べる」と叫んだ。実はそれは死んだ羊ではなく、頭を切られた人の死体で役人が調べていたのである。

(参考)

@孔子・・・中国、春秋時代の思想家。儒教を始めた人。孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が「論語」である。孔子の門人中、学徳の優れたもの10人を「孔門の十哲」という。

A公冶長・・・孔子の門人で女婿。鳥の言葉を解したという。孔子が門人、公冶長を評して「あれなら娘を嫁にやっても宜しい。嫌疑を受けて投獄されてはいるが、まったくのぬれぎぬで、本人には何の罪もないのだから」と云って、自分の娘を嫁がせた。

        (二)

そうとは知らず公冶長はカラスの言葉を聞いて、よしまた取ってやろうと東の街道へ「そのままにしておいてくれ、俺が殺したんだ」と叫びながら走って行った。ところがびっくり仰天、役人は犯人を捜(さが)していたので、公冶長が「俺が殺したんだ」と叫んでいるのを聞くと、たちまち、公冶長の首に縄をかけ、腕を背中にまわして縛り上げてしまった。州の知事が「お前はどうして人を殺したのだ」と糾(ただ)すと公冶長は「わたしはやっていません」と答えた。「やってない?お前は走りながら、「俺が殺したのだ」と言ったというではないか、一体どういうわけだ」「わたしは百の鳥の言葉がわかります。カラスやツバメがなんと言っているのか、みんなわかるのです」と言って、いままでのことをみんな話した。だが、知事はそんなことは信ぜず「なに、でたらめを言うな、人を殺したのはお前だろう」と言った。ちょうどこの時、庭にスズメが飛んで来て「ちゅ、ちゅちゅ」と鳴いて、またパアッと飛んで行った。それを見た知事が「お前は百の鳥の言葉がわかるなら、あのスズメたちは今なんと言ったのだ」と聞くと、公冶長は「雀たちは「みんな、みんな、西の方でに粟(あわ)を積んだ車がひっくり返っているから、みんなで粟を食べに行こう」と言っていました」と答えた。知事はこれを聞いて役人を見にやらせると、確かにそのとおりであった。またしばらくすると、役所の門にツバメが集まって鳴いた。知事はまた「ツバメはなんと言っているのだ」聞いた、公冶長が「ツバメは「知事さん知事さん、どうしてあなたの息子はなんの罪もないわたしの子を机の引き出しの中に閉じこめるのですか」と言っています、お聞きなさい、ツバメはまだ言っていますよ」と答えると知事は息子を呼んで、そうかどうかを聞くと、息子はそうだと言うので、引き出しを開けツバメの子を放すと子ツバメは「ちぃちぃ」と鳴いてツバメたちの方に飛んで行った。知事は公冶長が本当に百の鳥の言葉がわかると知って、公冶長を釈放した。

(参考)

@公冶長を釈放した・・・公冶長は捕らえられて、牢に入れられるが牢の軒でカラスが「公冶長、公冶長、斉(さい)の軍隊がわが国の国境を侵略している。まごまごしていないで水上と山岳の守りにあたれ」と叫んでいるのを聞き、牢役人に斉国が出兵して、わが国を侵犯していると伝える、牢役人がこれを国王に報じたので、直ぐ兵を出して敵を迎え討ち勝利した。これで公冶長は無罪となり、釈放されたという話もある。

 

(小話586)「中国の二十四孝の物語(5/12)の話・・・

       (一)「朱寿昌(しゅじゅしょう)」

宋朝の頃、楊州(ようしゅう)に朱寿昌という者がいた。彼が七才の時に父母が離別し、母親と生き別れになった。そして、五十年が経過した。神宗皇帝の時代に、彼は官吏となったが、その間にあっても、心の中では母親に再会できる日を念じていた。そのため、ついには官吏を辞職し、妻や子も捨てて、わざわざ故郷の楊州にまで出かけて行った。この時、母親に会えなければ再び帰ってこない事を誓った。だが、その旅路は大そう困難で、とうとう彼は道ばたに倒れてしまった。或る旅人がそれを見て介抱し、その訳を尋ねた。問われるままに、朱寿昌は理由を語った。すると突然、彼を取り囲んでいた群衆の中から、一人の七十才ばかりの白髪の老婆が走り出て来た。その人が、彼が長年の間たずね求めていた母親であった。母と子は抱き合い、再会を喜んで泣いた。人々もまた感動して泣いたという。

(参考)

@彼は道ばたに倒れてしまった・・・「母に会わせて下さい」こう言って朱寿昌は自分の血で経文を書き天に祈願をかけると、突然、彼を取り囲んでいた群衆の中から白髪の老婆が駆け寄って来て、自分こそが母であると名乗ったという説もある。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

       (二)「董永(とうえい)」    

中国は古代、漢朝の時代、董永という人物がいた。彼は、幼いころに母を亡くし、父親と二人で暮らしていた。だが、田畑がなかったので、家は貧しく、いつも人に雇われて農作業をし、賃金をもらって日を送っていた。父は足が不自由なので、董永は小さな車を作り、父を乗せて田の畔(あぜ)に置いて世話をしていた。ある時、父が亡くなり葬儀をしようと思ったが、もともと貧しいので、それすらもできなかった。そこで、銭十貫で自分の身を売り、父の葬式をとりおこなった。それから、その銭の貸主のもとに行った。ところが、途中で。一人の女性に会い、その女性が妻になる事を望んだので一緒に貸主の家までやって来た。貸主は、絹を三百疋(六百反)織ったら借金を棒引きにしてやると言った。夫婦は、一ヶ月で織り上げて貸主に渡した。貸主は大いに驚いて、董永を自由の身にした。そののちに、妻は董永に向かって「私は天上の織姫ですが、天があなたの孝行に心を動かされて、私を地上に下ろして借金を返済させたのです」と言って天上に帰っていった。孝行の心は天の神をも動かしたのであった。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

(小話585)「太陽神アポロンと美しい娘クレウサ。そして、その息子イオン」の話・・・

          (一)

ギリシャ神話より。アテナイ(アテネ)の王エレクテウスは、美しい娘クレウサを掌中(しょうちゅう)の玉とかわいがっていた。ところがクレウサは、父親の知らないうちに太陽神アボロンに見初(みそ)められて愛し合い子供を産んだ。だが、父親の怒りをおそれて、子供を籠(かご)に入れ、アポロンとひそかに会っていた洞穴に捨てておいた。神々がこの捨てられた子供に、あわれみをかけてくれることを期待してのことだった。そして生まれたばかりの子供に、何か目じるしを残しておくため、娘のときに身につけていた飾りを、子供の首にかけておいた。アポロン神は、自分の子供が生まれたことを知ると、子供を助けるために天と地のあいだを人目につかずに往復することができる神々の伝令神であり、異母兄弟でもあるヘルメス神に、こう言って頼んだ。「ある娘がわしの子供を生んだ。その女というのは、アテナイの王エレクテウスの娘なのだが、父親を恐れて子供を岩穴に隠したのだ。で、その子供を助けることに手を貸してほしい。子供は布にくるんで籠にはいっているから、デルポイのわしの神託所に連れていって、神殿の入口においてきてはくれまいか」

(参考)

@太陽神アポロン・・・ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。

Aヘルメス神・・・ゼウスとアトラスの娘マイヤの子。ゼウスの伝令役で、足に羽のはえたサンダルを履き、先に輪のついた杖を持って風のように速く走る。

          (二)

翼をもったヘルメス神は、急いでアテナイに行き、言われた場所で赤ん坊を見つけると、赤ん坊が寝かせてあった柳の籠をデルポイヘ運び、神殿の門の前において、目につくように籠のふたを開けておいた。それは夜のうちにおこなわれた。翌朝、太陽がのぼったとき、デルポイの巫女(みこ)がやって来て、神殿にはいろうとすると、籠のなかに眠っている生まれたぱかりの赤ん坊が目にとまった。巫女は、赤ん坊を神殿の入口からどこかへ捨てようとしたが、ふとあわれみの情がわいてきた。そこで、巫女は子供を籠から抱きとると、両親のわからぬその子供を育てあげた。子供は父であるアポロン神の祭壇のまわりで遊ぴながら、だんだん成長して、やがて凛々(りり)しい少年になったが、両親のことは一切、何も知らなかった。デルポイの町の人々は、彼を神殿の小さな番人として馴染んでいたので、この少年を、神に献納された供物の出納役に任じた。こうして、イオンと名づけられた彼は父の神殿で毎日を過ごしていた。母親のクレウサは、アポロン神からは何も聞いていなかったので、アポロンが自分のことや、息子のことを忘れてしまったと思いこんでいた。

(参考)

@デルポイ・・・デルポイはギリシア本土、パルナッソス山のふもとにあった古代ギリシアの都市国家(ポリス)である。アポロン神殿を中心とする神域と、都市からなる。神託は、神がかりになったデルポイの巫女(みこ)によって、謎めいた詩の形で告げられる。

          (三)

このころ、アテナイ人は隣の島エウポイアと戦っていたが、それは凄惨(せいさん)な戦いであったが、エウボイア人が敗れた。この戦いで、アカイアから来た一人の見知らぬ男が、奮戦してアテナイ人を助けた。その男というのは、デウカリオンの息子ヘレンの子クストスであった。クストスは、戦いを助けた報酬として、美しい王女クレウサを望み、彼女と結婚して、アテナイの国王となった。しかし、ひそかに彼女と結ばれていたアポロン神は、クレウサがほかの男と結婚したことに腹をたてて、クストス夫婦には、その後も子供が恵まれないようにした。長い年月ののち、クストス夫婦はデルボイのアポロンの神殿に懇願して、子宝を授けてもらおうと思いついた。クレウサはクストス王とともに、わずかぱかりの侍女を供にして、アテナイからデルポイにあるアポロンの神殿に着いた。アポロンの神殿の前庭では、成長したイオンがこの神殿の小さな番人の役を勤めていた。王妃クレウサは清らかな少年の姿に惹(ひ)かれてその身の上を訊ね、母を捜しているイオンに同情と愛とを覚えた。そして彼女の胸にも、古い昔の、行方の知れなくなったかつての我が子が思われた。

(参考)

@デウカリオンの息子ヘレン・・・(小話576)「大洪水(デウカリオンの洪水)を生き抜いた夫婦、デウカリオンとその妻ピュラ」の話・・・を参照。

          (四)

その間にクストス王は、神殿の奥で巫女によってアポロンの言葉を告げられた。「神殿を出て初めて会う者が汝の子である」と。クストス王には身に覚えがあった。神殿を出たクストス王は少年のイオンに出逢い、お告げの真実であることを喜んで彼を抱き接吻しようとした。イオンは驚いてこれを拒み、彼を詰問した。クストス王は今聞いてきた神託を告げ、彼が自分の子であるに違いない、と説明した。そして、クストス王は自分の長い結婚生活は汚れのないものであったが、その昔、デルポイの大祭に来たおり、彼は泥酔して婦人に戯れたことがあった。イオンは渋々これを承諾したが、なかなか一緒にアテナイヘ行こうとはしなかった。彼はクストス王の言葉が信用できなかったし、今のデルポイの清らかな奉仕の生活により大なる魅力を感じていた。一方クレウサ王妃は、この一部始終を侍女から聞いて驚いた。彼女は夫が長い間の隠し子を、いま自分を欺(あざむ)いて引取ろうとするのだ、と告げられた。彼女は、自分を侮辱しようとするのに憤り、彼女に味方する年老いた召使の言葉に従って、夫の私生子であるというイオンを毒殺しようと考えた。彼女は同時に、先刻あれほど自分を引きつけた少年が、いま自分を夫と共に裏切ろうとするのに、深い悲しみと怨みとを感じるのだった。

          (五)

クレウサ王妃の年老いた召使が注ぐ盃を、祭りの席でイオンがまさに乾(ほ)そうとしたとき、彼は不吉な囁(ささや)きをふと耳にした。神殿に育ってその道に慣れた彼は、皆と共に一斉にその盃を神に献げて地にそそぎ、他の盃に酒を注がせた。そのとき神殿の棟から多くの鳩が舞い降りて来て、皆のそそいだ酒を味わったが、イオンの盃のぬらした所に降りた鳩は、翼をふるわせ、たちまち身もだえして死んでしまった。こうして、危(あや)うくも母は知らずに己が子を毒殺することから免れえた。しかし今度はイオンが、デルポイの衛士たちを引きつれ、神殿の神聖さを汚そうとした女を捉(とら)えに、祭壇に逃れたクレウサ王妃に迫った。そのとき、デルポイの巫女が、かつてのイオンが赤ん坊として納められていた籠を、証拠の品々と共に捧げて現われた。それらの品々を目にしてクレウサ王妃は「わたしの息子」と、喜びの叫ぴをあげて、イオンに抱きついた。しかし、イオンはこの見知らぬ女の抱擁が、偽りと邪推して振りほどこうとした。クレウサは言った「息子よ、この籠の中の亜麻布が、わたしのために証言してくれるでしょう。その布のまんなかには、蛇にかこまれた怪物ゴルゴンの首が描いてあるはず。それに、常緑のオリーヴの冠。それは女神アテネがはじめて植えたオリーヴの木からとったもので、わたしが赤ん坊にかぷせておいたものですよ」と涙ながらクレウサは言った。イオンは布ほどいて、喜びの声をあげた「おお、偉大なゼウスの神よ、怪物ゴルゴンだ。蛇だ」そして、籠の底から、美しいオリーヴの冠を取りだした。イオンはすすり泣きながら「母上、母上」と叫ぶと、クレウサの首に抱きついて、その頬を口づけでおおった。やがて、イオンは母のクレウサから身をはなすと、父のクストスに会いたいと言った。クレウサ王妃は、出生の秘密を打ち明け、おまえは、長らく忠実に神殿で仕えていた、あのアポロン神の息子なのだ、と話した。一方、クストス王は、神の尊い贈物として息子イオンを抱くと、三人は神に感謝するために、ふたたび神殿におもむいた。巫女は、イオンが偉大な民族の父となること、その民族は彼の名にちなんで、「イオニア人」と呼ぱれるであろうと予言した。こうしてアテナイの国王夫妻は、首尾よく見出された息子をともなって、故国に出立した。デルポイの住民たちは、みんなでこの三人を見送った。

 

(小話584)「泥中の蓮華(れんげ)」の話・・・

      (一)

明治維新の三傑に数えられた西郷隆盛と大久保久通。その若き二人の座禅の師である当代随一の名僧として知られた無参(むさん)和尚は、ある時、藩主、島津侯の菩提所、福昌寺の住職に迎えられた。晋山式(しんさんしき=新しい住持が新たに寺に入ること)という住職就任のときに、無参和尚は香を焚いて、雲水たちと大問答を始めた。すると藩主の島津侯、みずから本堂の中央に進み出て、大声一番、「如何なるか これ久志良(くしら)の土百姓」と問いかけた。当時の薩摩の風習としては、農民を軽(かろ)んじ、士族でなければ出家を許さなかったのだが、無参和尚は久志良村の農家の出身だったので、士族の苗字(みょうじ)を借りて出家したのだった。それだけに無参和尚の破格の出世をねたましく思った人が、無参和尚を満座の中ではずかしめようと企てて、ひそかに藩主をそそのかしての謀ごとだった。

(参考)

@三傑・・・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允=桂小五郎

A福昌寺・・・藩内随一の学問所でもあった。

      (二)

しかし、無参和尚はいっこうに動ぜず、従容として、顔に笑(え)みを浮かべて、「泥中の蓮華(れんげ)」と答えた。蓮華が泥の中から出て、泥に汚されず、美しく清らかな花を咲かせるように、自分は泥田に生きる農民出身だが、修行の結果、ごらんのように無垢清浄の花となることができた、との確信に満ちた無参和尚の答えだった。島津侯は返す言葉もなく、いよいよその教えに感じ入り、深く帰依したという。

(参考)

@泥中の蓮華・・・蓮華(れんげ=ハスの花)は泥中にあって、はじめてきれいな花を咲かせる。泥なくしては決して美しい花は咲かない。泥が大切で、泥があってこそはじめて咲く蓮華である。又、この「泥」というのは、私たちの住む煩悩の世界の「象徴」でもあり、「泥多ければ、仏大なり」で泥中の蓮華こそ尊い。