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(小話583)「日喩(じつゆ)=太陽のたとえ話]の話・・・

        (一)

生れて盲(めし)ひたる人あり。日はいかやうなる物と思ひて、かたへの人にとへば、日はかく圓まどかなりとて銅鑼(どら)を探らせけるに、銅鑼をたたいて、さては日は聲(こえ)ある物とおもへり。又かたへの人いふは、「日は光あり。燭の至る時には、おのづからあかるきやうに覺えぬべし。その如し」といふを聞きて、蝋燭(ろうそく)をなでて、さては日は細く長きものと思へり。今の世俗道理にくらき人多し。たとひ書を讀(よ)みても、道理にくらければ、いふ人もきく人も、目こそあき候へ、心は盲(めし)ひたるにて侍(はべ)る。さればその盲ひたる心をもていろいろに思ひなぞらへ候はば、此人の日をはかるやうに、おほきに取たがへたる事もあるべきぞかし。

(参考)

宋の文豪、東坡の日喩(じつゆ)の説より。

        (二)

生まれつき目の見えない人が、太陽というのがどういうものかわからないので、目の見える人に訊ねてみた。すると、ある人は「銅でできた盤(ばん)のようなもんかなあ」と言った。そこで銅でできた盤を取り寄せて叩いてみたところ、音がした。「なるほどこういう音がするのですね」しばらくしてからお寺の鐘の音を聞いたとき、「ああ、太陽のようですな」と言ったそうである。別の人が「あれは太陽ではないよ」と教えてくれたので、「では太陽とはどのようなものなのでしょうか」と訊ねると、その人は腕組みして「そうさなあ、蝋燭のようなものかなあ」と言った。そこで蝋燭を取り寄せて触ってみた。「なるほどこういう形をしているのですね」しばらくしてから別の人から笛というものを教えられたとき、手にとってみて、「ああ、太陽のようですな」と言ったのだそうだ。太陽と鐘、笛との違いは大きい。しかし見たこともないものを人に教えてもらうというのでは、その違いにも気づかないものなのだ。

 

(小話582)「鹿の足」の話・・・

     (一)

陳(ちん)郡の謝鯤(しゃこん)は病いによって官を罷(や)めて、予章(よしょう)に引き籠っていたが、あるとき旅行して空き家に一泊した。この家には妖怪があって、しばしば人を殺すと伝えられていたが、彼は平気で眠っていると、夜の四更(しこう)(午前一時から三時)とおぼしき頃に、黄衣の人が現われて外から呼んだ。「幼輿(ようよ)、戸をあけろ」。幼輿というのは彼の字(あざな)である。こいつ化け物だと思ったが、彼は恐れずに答えた。

     (二)

「戸をあけるのは面倒だ。用があるなら窓から手を出せ」言うかと思うと、外の人は窓から長い腕を突っ込んだので、彼は直(す)ぐにその腕を引っ掴(か)んで、力任せにぐいぐい引き摺(づ)り込もうとした。外では引き込まれまいとする。引きつ引かれつするうちに、その腕は脱(ぬ)けて彼の手に残った。外の人はそのまま立ち去ったらしい。夜が明けてみると、その腕は大きい鹿の前足であった。窓の外には血が流れている。その血の痕(あと)をたどってゆくと、果たして一頭の大きい鹿が傷ついて仆(たお)れていた。それを殺して以来、この家にふたたび妖怪の噂を聞かなくなった。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話581)「若き覇王・項羽(こうう)とその妃である絶世の美女、虞美人(ぐびじん)の悲劇」の話・・・

       (一)

昔、中国は春秋・戦国の世を秦(しん)が統一した。統一を成し遂げた秦の王は初めて「皇帝」を名乗った。これが秦の始皇帝である。しかし、紀元前221年、独裁者、始皇帝の死とともに秦は滅び去って、中国全土は、再び戦乱のるつぼとなった。このとき出現したのが楚(そ)の項羽と漢(かん)の劉邦(りゅうほう)で、この傑出した2人はある時は協力し、ある時は敵対しながらも中国の覇権を争った。項羽は、楚の昔からの豪族の子孫であった。項羽は若くて武勇がすさまじく、また勢いがあり、農民出身の人望の篤(あつ)い劉邦に従う流民の集まりのような軍とは兵士の質がまるで違っていた。しかし、秦の首都、咸陽(かんよう)は政治的なかけひきが得意な劉邦によって陥落させられてしまった。項羽(25歳頃)は激怒し、劉邦(40歳頃)を攻め立てようと迫った。ここで劉邦の参謀、張良(ちょうりょう)はなじみである項羽の叔父の項伯(こうはく)とのつながりを利用して劉邦に降伏をしようと提案する。これが有名な「鴻門(こうもん)の会(かい)」である。張良のうまい計(はか)らいによって降伏を受け入れてしまった項羽は、その後、咸陽を焼き尽くし完全に秦を滅亡させた。こうして、項羽は楚王(西楚の覇王)となり、楚の彭城(現在の徐州)を都とした。一方、劉邦は巴(は)・蜀(しょく)の地を支配して漢王となった。だが、劉邦は項羽に反旗を翻(ひるがえ)し、ここに楚と漢の戦争「楚漢戦争」が始まった。戦術に優れた項羽は、劉邦との戦いに連戦連勝であった。しかし張良の計略により軍師、范増(はんぞう)を失った項羽は次第に弱体化していった。やがて、時は紀元前202年。天下統一をめぐる最後の決戦で、楚の国の覇王、項羽は劉邦の率いた漢軍に幾重にも包囲された。垓下(がいか)の戦いである。

(参考)

@項羽・・・秦の始皇帝が行幸に来た際、若い項羽「あやつに取って代わってやる!(猪突猛進型)」と叫んだといい、劉邦も「男たるもの、あんなふうになりたいものじゃ(慎重型)」と言ったいう。又、ある時、叔父の項梁が項羽に学問を教えようとすると項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまりません。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えたという。

A劉邦・・・前漢初代皇帝、高祖。農民の出身。秦の末に兵を起こし、項羽軍と連合して秦と戦い、項羽に先んじて関中に入って、秦の都咸陽を占領。項羽を垓下(がいか)の戦いで破り天下を統一した。

     (二)

垓下(がいか)の一戦に破れ、項羽は垓下の城にたてこもった。籠城する項羽に対して、劉邦は項羽の故郷である楚の出身の兵士を集め垓下の城を取り囲ませた。そして兵士達に、楚の歌をうたわせた。項羽は垓下の城に入っても、まだ漢軍の包囲を突破できるものと思っていた。項羽は、戦場から馬に乗って帰ってくると、妃である虞美人に言った「この槍で敵の武将の首級をいくつもあげたがいかんせん、多勢に無勢。敵の伏兵を防ぐ術(すべ)は無く、撤収し陣地に戻るよう、家来たちに下知(げち)をくだした」。項羽は虞美人と一緒に、テントの中に入った。項羽は虞美人に言った「苦戦つづきで、そなたにもすっかり気苦労させてしまったな。俺は今日も、戦場で、敵の武将を何人も殺してきた。しかし、殺しても殺しても、敵の包囲を破ることはできない。なぜだろうか。おそらく、これは天意だ。天が、われわれを滅ぼすつもりなのだ。俺の戦い方がまずいせいでは断じてない」。虞美人は、項羽を元気づけるため酒宴を用意した。項羽は酒をのみながら、勝利を得るにはどうしたらよいのか思い悩んだ。しかし、城の四方から自分の故郷の楚の歌が聞こえてくるに至って、項羽は、たとえ包囲網を突破できても、楚がすでに漢に降ってしまったと思い込み全てを諦めてしまった。項羽は詩を歌った「力、山を抜き、気、世をおおう。時は利あらずして、騅(すい)ゆかず。騅のゆかざるは、いかんとすべきも。虞(ぐ)や虞や、なんじをいかんせん」(私の力は山を抜き、気概は世を覆う。時利あらず、騅(すい=項羽の愛馬)は進もうとしない。騅が進もうとしないのをどうしたらよいのだ 。虞(ぐ=虞美人のこと)よ、お前をどうしたらよいのだ )。

(参考)

@故郷の楚の歌・・・「四面楚歌」(楚国の項羽が垓下というところに追い詰められ、漢軍に周囲を取り囲まれた。夜更けに四面を囲む漢軍が楚の国の歌をうたうのを聞き、項羽は楚の兵たちが漢に降伏したと思い絶望したというもので、そこから、敵や反対者に囲まれて孤立した状態をいう)の故事の由来。

A虞美人・・・虞姫(ぐき)ともいい、秦末から楚漢戦争期の人。項羽の妃とも、愛人ともいわれる。「虞」は姓であるとも、名であるともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるとも、その容姿を表現したものであるともいわれる。項羽との馴れ初めについては、史記にも漢書にも一切記載されておらず、ただ垓下の戦いで、劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍(かたわら)には、いつも虞美人がおり項羽は片時も彼女を放すことがなかったと、初めて紹介されている。又、中国での四大美人「楊貴妃」「貂蝉」「王招君」「西施」。「貂蝉」の代わりに、「虞美人」を入れる場合がある。しかし、西施と貂蝉の二人は多くの書物や詩に登場するが、史書には無いので、史実かどうかは分からない。また、虞美人も「史記」にはたった一ヵ所出ているだけだという。

     (三)

これに応じて虞美人は次のような詩で答えた「漢兵すでに地を略し、四方には楚歌の声。大王の意気も尽きなば、わらわ何ぞ生を安んぜん」(漢の兵が大地をおおい、まわりには楚の歌声が聞こえる。大王(項羽)が敗北を悟り、生きながらえることができないと観念したのなら、私もともに死ぬ覚悟です)。二人の前に突然、家来が飛び込んできて報告した「周囲の敵が一斉に攻め込んで参りました。味方の兵士は総崩れになり、武器を捨ててどんどん逃げ出しております」。項羽は虞美人に、血路を開いて一緒に脱出するよう言った。しかし虞美人は、今となっては、項羽が一人で脱出するのが精一杯、自分は足手まといになりたくないので、どうか自殺することをお許しください、と、項羽に頼んだ。しかし、項羽は虞美人の自殺を許さなかった。虞美人は、項羽が自殺を許してくれないので「外に敵兵が攻めてきました」と嘘をついた。項羽は、外に様子を見にゆこうと、背をむけた、その一瞬のすきに、虞美人は項羽の腰から刀を抜き取って、首を切って自殺した。項羽があわてて振りかえったが、すでに虞美人は、命を絶っていた。

(参考)

@命を絶っていた・・・その虞美人の血にぬれた場所からは美しい花が咲いたという。これが現在でも残っている虞美人草である。

     (四)

その夜の未明、項羽は800人余の兵士とともに、漢軍の包囲網を破って楚を目指した。漢軍は5000人の騎馬兵を差し向けて、後を追いかけさせた。項羽は戦い続けながら、ようやく長江の沿岸にたどり着いたとき、彼に従う兵士は、わずかに二十数騎だけとなっていた。幸いなことに長江には楚人の関所を守る役人が、船を用意して待ちかまえていた。近くに船は一艘もないので、項羽たちが乗り込めば、彼らは逃げ延びることができた。ところが、項羽は、乗船を拒否した。項羽が楚から挙兵するとき、8000人の楚の若者を引き連れてきていた。しかし、今は項羽に従う楚出身の若者は一人もいなかった。自分一人生き延びたのでは、楚の父兄に会わせる顔がないと項羽は考えた。そして、再び漢軍に立ち向かい、最後には自刃した。享年31歳。

(参考)

@最後には自刃した・・・項羽は、漢軍の追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、「お前は私の古なじみではなかったか?漢は私の首級に金を千と邑(ゆう=城壁で囲まれた集落)を万と懸けていると聞く、おまえにその恩賞をやろう」と、言って自らの首を刎(は)ね、その生涯を閉じたという説もある。

 

(小話580)「閻魔大王と欲張りの男」の話・・・

       (一)

民話より。昔むかしのこと。閻魔(えんま)大王が、ある人間を娑婆(しゃば)の世界に生まれさせ、三十才の寿命を与えた。が、この男、その寿命を短すぎるとして、牛のところに行って十五年の命をねだり、四十五才まで生きられるようにした。それでも足りず今度は、犬に向かって十五年の命を乞い、六十才までとした。この男、なおも満足せず、猿のところに出向き十五年を上乗せしてもらい、合計で七十五才の寿命となった。さて、その七十五才の歳月において、三十才までは人間として幸せな素晴らしい生活を送った。

       (二)

次いで四十五才までは、毎日、家族のために身を粉にして働き、まるで牛のような生活であった。六十才までは、子供らが野良に働きに行き、一人、家に取り残された親は、首を長くしてその帰りを待ち焦がれる日々で、食事はといえば、子供らが残していったもので、まるで犬と同じような生活であった。最後の十五年は、まるで猿のような生活であった。人間、七十才に近づけば風前の灯火のようなもので、いつ果てようと不思議はない。山中の猿が、猟師の放つ「無常」という弓矢で射られるのを恐れてびくびくしているようなものであった。

 

(小話579)「普通の人間から海神となった漁師、グラウコス」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。海神グラウコスは、もともと貧しい漁師であった。ごく普通の人間を両親に持つごく普通の人間であった。ある日、いつものように海で漁(りょう)をした帰りにグラウコスは、人気(ひとけ)のない浜辺に大変美しい草原が広がっているのを見つけた。豊かに咲き乱れる花々や青草は摘まれたり、刈られたりした形跡がなく、誰かが足を踏み入れた気配すらなかった。まったく手つかずの場所であった。彼はいそいそと草原に腰を下ろし、濡れた網を干して乾かすついでに、今日の獲物の数を数えようと魚を草の上にぶちまけた。すると、何ということか。今までピクリともしなかった魚たちが、草に触れた途端に息を吹き返し、ピチピチと元気よく跳ね回り始めた。そして、あたかも水中を泳ぐがごとくに、土の上を移動して海へと帰っていってしまった。これを見てグラウコスはビックリ仰天した。「何だって? 死んだ魚が土の上を動いて行った」捕ってきた魚は1匹残らずいなくなってしまっていた。唖然(あぜん)とするグラウコスの目は、自然と魚たちのいた場所に注がれた。「もしやこの草に秘密があるのか? ただの雑草としか見えないが、実は不思議な薬効を秘めていたりするのだろうか?」

(参考)

@グラウコス・・・海王ポセイドンの子やネレウスの子などとする説もある。

       (二)

グラウコスは、意を決して魚の触れた草を摘み取り、汁の滴(したた)る端っこを少しかじってみた。すると、急に水の世界への強烈な憧れが心に熱く沸き起こり、もうどうにもこうにも居ても立ってもいられなくなってしまった。突き上げる衝動に激しく身悶えした彼は、人間であることも忘れ果て、狂気に駆られて、雄叫びを上げながら海中に飛び込んだ。実は、グラウコスの口にした草は毒草などではなく、何とあの草原は黄金時代から一度も穢(けが)されることなく存続してきた古代の聖園であり、あの妖(あや)しい草は神々の王クロノス自らが種まいた神秘の薬草だった。その薬汁は触れた者を不死身にすると同時に、海に生きる者へと強制的に変えてしまう魔力を秘めていた。こうして、薬効によって不死身となったグラウコスは海の神々に迎えられ、彼らの仲間に加わった。神々の掟に従って彼の身体から人間の穢れを除去するべく、オケアノスとテテュスが浄化の呪文を唱え、多くの河川の水を頭から滝のごとく浴びせかけると、そのあまりの水流の強さにグラウコスは気を失ってしまった。そして目が覚めたときには、上半身は人間、下半身は魚の姿をした海神の姿に変わっていた。船乗りの守護神に任じられた彼は、以後、自由に愛する海を泳ぎ回り、ネレウスから授けられた予言力で航海者を助ける日々を送っているという。

(参考)

@クロノス・・・神々の2代目の王。母は偉大なる大地女神ガイアで、父は神々の初代の王である天空神ウラノス。

Aオケアノスとテテュス・・・大洋を支配する夫婦神。子供は全世界の河神たち3000人、水の女神オケアニスたち3000人ともいわれる。

Bネレウス・・・「海の老人」と呼ばれる海神。変身と予言の力を持つ。50人の美しい娘神ネレイスたちをもうけ、海底の洞窟で暮らしている。

       (三)

そんな海神グラウコスは、ある時、美しい海の妖精(ニンフ)のスキュラに恋をしてしまった。だが、美しい乙女のスキュラは、驕慢で鼻っ柱が強く、自分に焦がれてくる男たちの求愛を片っ端から蹴飛ばしてしまっていた。そこで、グラウコスはスキュラを得るために魔女キルケに相談を持ちかけたが、その時キルケの方がグラウコスを好きになってしまった。そのため、恋敵のスキュラを破滅させるため、魔女キルケはスキュラが沐浴する泉に毒草の汁を流し込んだ。スキュラがこの泉に腰までつかると、たちまち下半身は咆哮をあげる怪物達の群に変貌してしまった。つまり、下半身は三列の歯を持つ六頭の犬の上半身が絡み合ったものに変わっていた。こうして恐ろしい怪物スキュラが誕生した。

(参考)

@スキュラ・・・(小話296)「魔女・キルケとメディアとスキュラ」の話・・・

A魔女キルケ・・・太陽の戦車を駈(か)る太陽神ヘリオスと女神ペルセイスの娘で、魔法に詳(くわ)しい美しい半神の女神。アイエイア島に住み、その歌声と美しさで男性を虜(とりこ)にし、その隙に魔法で動物に変えてしまう魔女。

「グラウコスとスキュラ」(ラ・イール)の絵はこちらへ

 

(小話578)「イソップ寓話集16/20」の話・・・

       (一)「オオカミとヒツジ」

オオカミは、イヌに噛まれて、ひどい傷を負い、自分のねぐらで、身動きがとれずにいた。腹を空かせたオオカミは、そばを通りかかったヒツジを呼び止めて、川から水をくんできてくれるようにと頼んだ。 「もし、君が水をくんできてくれたら、肉はなんとか用立てられるから」すると、ヒツジはこう応えた。「ははーん、あなたは、水だけでなく、肉も、私からせしめるつもりなんでしょう。そんなこと、お見通しですよ」

(偽善者の言説は、簡単に見透かされる)

      (二)「エチオピア人」

黒人の奴隷を買った男が、彼の黒い肌を見て、前の主人が怠慢で、彼を洗ってやらなかったので、汚れがこびりついているのだと思った。男は、彼を家に連れてくると、ひっきりなしにごしごし洗った。しかし、肌の色は落ちなかった。それどころか、彼はひどい風邪をひいてしまった。

(生まれつきは変わらない)

       (三)「猟師と漁師」

森から帰って来た猟師が、海から帰って来た漁師と出会った。猟師は魚が欲しくなり、漁師は獣が欲しくなった。二人は、その日の猟と漁の成果を交換することにした。両者ともこの取引が気に入り、毎日、獲物の交換をした。それを見かねた近所の人が彼らに言った。「あんた方、毎日そんなことをしていたら、すぐに、飽きてしまうよ」

(たまにだから楽しいのである)

 

(小話577)「閔子騫(びんしけん)と鵞鳥(がちょう)」の話・・・

        (一)

民話より。孔子が弟子たちと旅をしてある村に着いた。「ここは何処(どこ)か」と孔子が聞くと公冶長(こうやちょう)は「閔家村です」と答えた。「閔家村、では、お前の弟の住む村ではないか」「はい」「お前の弟の家は貧しいと聞くが」「はい、けれども閔(びん)は心の広い人です」と公冶長が答えると、孔子は「子路、顔回、行って案内を請うてみよ、もし閔子騫が家に在れば訪ね、不在なら戻っておいで」と言った。公冶長が先に立ち、子路、顔回が続き、門を叩くと閔子騫(びんしけん)が出て来た。「兄さん、いらっしゃい、一人ですか」「いや、老師とご一緒だ」「老師はどちらに」「村の東においでになる」それを聞くと閔子騫は大喜びして、急いで村の東へ行き、孔子を丁重(ていちょう)に迎えた。閔子騫は妻に「老師がおいでになったが、食事に何を差し上げられるであろうか?」と聞いた。「白米のご飯ではどうでしょう」「それはいいが、何の料理もなくご飯だけでいいかな」「うちの二羽の鵞鳥のうち、子のほうを料理したらどうですか」と妻は答えた。

(参考)

@孔子・・・中国、春秋時代の思想家。儒教を始めた人。孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が「論語」である。孔子の門人中、学徳の優れたもの10人を「孔門の十哲」という。(1)徳行に優れた顔回=顔淵(がんえん)・閔子騫(びんしけん)・冉伯牛(ぜんはくぎゆう)・仲弓、(2)言語に優れた宰我・子貢、(3)政事に優れた冉有(ぜんゆう)・子路=季路、(4)文学に優れた子游(しゆう)・子夏。

A公冶長・・・孔子の門人で女婿。鳥の言葉を解したという。孔子が門人、公冶長を評して「あれなら娘を嫁にやっても宜しい。嫌疑を受けて投獄されてはいるが、まったくのぬれぎぬで、本人には何の罪もないのだから」と云って、自分の娘を嫁がせた。

B閔子騫・・・中国、春秋時代の魯(ろ)の人。孔門十哲の一人。又は閔損。徳行にすぐれていた。(小話575)「中国の二十四孝の物語(4/12)」の話・・・参照。

        (二)

そこで閔子騫は子の鵞鳥の足を縛(しば)ったが、老師たちは四人、わしを入れれば五人、一羽では足りない、そうだ、母鵞鳥もつぶそうと母鵞鳥の足も縛った。驚いた鵞鳥の母子はグワグワと鳴き叫んだ。その鳴き声を聞いた孔子はどうしたのだろうと思い「公冶長、鵞鳥は何を鳴いているのだ」と聞いた、鳥の言葉のわかる公冶長は「閔子騫は老師とわたしどもに鵞鳥を料理してもてなそうと鵞鳥の母子の足を縛ったのですが、鵞鳥はどちらが先に料理されるか分らず母鵞鳥は子鵞鳥に「わたしが死んでお前がこの家に一人になったら、昼間は狼や犬から身を守り、夜は狐に気をつけるんだよ。あぁ、お前は母のない子になってしまうね」と嘆き、子鵞鳥は「母さん、あたしが死んでも命の短い子だったと悲しんで体を壊さないでね。母さんも昼間は狼や犬、夜は狐に狙われないように気をつけてね」と互いの身を案じておるのです」と答えた。孔子はそれを聞くと「公冶長、閔子騫に鵞鳥の母子のどちらも殺すな、もし殺すならわしらはここで食事をしないと伝えてくれ」と言った。そこで公冶長は「閔子騫、老師は鵞鳥を殺すなと言われた。もし鵞鳥を料理するなら出て行くと話しておられる」と伝えた。閔子騫は驚いて鵞鳥母子の縄を解いた。すると鵞鳥は、閔子騫に向かって頭を下げた。閔子騫が「感謝はお前たちを殺すなと言われた老師にするがよい」と鵞鳥に言って聞かせると、鵞鳥の母子は孔子の前に行き、頭を三回下げた。すると孔子は「お前たちも川の小魚や蝦(えび)を食べるなよ。川の小魚も蝦も、お前たちと同じように生きていたいのだからな。これからお前たちは弥陀(みだ)を唱えて青草を食べよ」と言った。それから鵞鳥は青草だけを食べ、生臭ものは食べなくなったという。

 

(小話576)「大洪水(デウカリオンの洪水)を生き抜いた夫婦、デウカリオンとその妻ピュラ」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。人間には五つの種族の時代があり、天上(時)の神・クロノス(神々の二代目の王)が治(おさ)めていた時代、オリュンポスの神々はまず最初に「黄金の種族」を作り上げた。(1)黄金の時代、人間は大地から生まれ、神々と共に大地の上で暮らしていた。この種族は苦労や悲しみを知らず、楽しい日々を送っていた。食物は自然に大地に実り、年も取らず眠りながら死んでいく。そして精霊となり、地上で生きている人間を悪から守っていた。ところがこの種族は大地が埋め隠して全滅してしまった。次が(2)銀(白銀)の時代。人は神々がつくったが、この種族は大人に成長するのに100年もかかった。やっと成長してもすぐに死んでしまった。そして互いに害しあうことを覚え、おまけに神々をおろそかにして崇拝もしなかった。この頃、天上の政権は天上の神・クロノスから神々の王・ゼウス(神々の三代目の王)に移っており、ゼウスは気温変化を作ったので人間は洞窟という住み家を初めて所有した。結局ゼウスはこの種族を滅ぼした。次が(3)銅(青銅)の時代。この種族は血の気が多く、軍神・アレスを崇拝し、青銅を使って武器を作り殺戮にふけった。人々は殺し合い、親子兄弟さえ、その手にかけた。この銅の時代の人間族が地上に住んでいたとき、神々の王・ゼウスは人間のさまざまな悪行の噂を耳にしたので、人間の姿となって地上をまわって見ようと決心した。ところが事実は噂よりもひどかった。ある晩おそくなってから、ゼウスは狂暴で悪名の高いアルカディアの王リュカオンの館に泊まった。ゼウスは前兆によって、人々に神が来たことを知らせたので、皆、ひざまずいたが、リュカオン王はその敬虔な祈りをあざわらって言った。「それが神か人間か、ひとつ拝見しようではないか」そして、リュカオン王は同時に、真夜中、客が眠っているときに、この客を殺してしまおうとひそかに決心した。又、リュカオン王は遠方の部族から人質として送られた哀れな男を殺すと、その四肢を煮えたぎる湯で煮、火にかけて焼いて、客への夜の食膳に出した。すべてを見抜いたゼウスは、食卓から急に立ちあがると、懲罰の火を神にそむくリュカオン王の城に放った。リュカオン王は驚いて野原へ逃げた。王が最初にあげた悲鳴は、獣の咆哮(ほうこう)であった。着物はもつれ毛となり、腕は足となった。こうして、リュカオン王は血に飢えた狼に変わった。

(参考)

@(3)青銅の時代の次が(4)英雄の時代。悪がはびこるものの、神々を父、母を人間とする正義の英雄たちが現れた。これもまたテーバイ遠征やトロイア(トロイ)戦記のような戦争で滅んでしまう。最後が(5)鉄の時代。我々、現在の種族だが、いっそう悪がはびこり、人間たちは堕落し、残忍になり、好戦的になっていった。正しいことをしても認められず、悪事をたたえる。そして相変わらず滅ぼしあう。神々はこうした人間を見放し、次々と天界へ上がっていった。最後まで「純潔の女神」アストライア(大神・ゼウスと正義の女神・テミスの娘)が残ったが、とうとう天へ帰ってしまった。そして「乙女座」になったという。

「狼に変身したリュカオン」の挿絵はこちらへ

        (二)

神々の王・ゼウスはオリュンポスの山にもどると、神々と相談のうえ、この不埒(ふらち)な人間族を滅ぼすことに決めた。そしてあらゆる国々に電光をまき散らそうとした。しかし大気に火がついて、天地の軸が燃えあがる恐れがあったので、思いとどまった。そのため、今度はキュクロプスたちが鍛えてつくった雷神の矢をかたわらにおくと、地上に大粒の雨を降らせ、大洪水によって人間を絶滅させることにした。ただちに「北風」ボレアスを閉じ込めて、「南風」ノトスを暴れさせ烈しい雨を降らせた。農作物はことごとくなぎ倒されてた。大神・ゼウスの兄の海王・ポセイドンもここぞとばかりに暴(あば)れだし全ての建物が海に沈んでしまった。こうして、海も陸ももう見分けることはできなかった。見渡すかぎり湖、岸のない湖であった。人間は必死になって助かろうとした。あるものは高い山によじ登り、あるものは小舟に乗って、水に沈んだ家の屋根やぷどう畑の丘を船底でかすめながら、かなたへと漕(こ)いで出た。森の木の枝には魚があえぎもがき、急いで逃げる豚は洪水に追いつかれた。人々はすべて水に奪い去られた。ようやく助かったものも、荒地の木の上で、恐ろしい飢餓のためにすべて死んだ。

(参考)

@「北風」ボレアス・・・曙の女神エオスの子。エオスが産んだ風の神々で東風の神エウロスはいつも不機嫌で気まぐれで、船乗りを悩ませる。南風の神ノトスは暖かいが、危険な疫病を運んでくる。北風の神ボレアスは乱暴者で、嵐や災いを好む。西風の神ゼフュロスは4兄弟の中で一番親切で、雪を解かし、穀物を育てる優しい風を吹かす。

       (三)

地上のすべてをおおった満々たる水のなかから、依然二つの山頂をそびえたたせていたのはパルナッソス山であった。予言と英知の神であり人類の創造者・プロメテウスはゼウスが人々を滅ぼそうとしていることを知り、息子のデウカリオンを救うため「箱舟(方舟=はこぶね)を造って、その中に逃れなさい」と神託を下していた。デウカリオンはプロメテウスの神託に従い、妻ピュラ(プロメテウスの弟、エピメテウスと人類最初の女パンドラの娘)と共に箱舟に乗り込んだ。九日九夜の間、水上を漂い、ようやく水が引くと、箱舟はパルナッソス山に漂着した。この二人は正直と敬神では、地上のいかなる男、いかなる女にもまさっていた。大神・ゼウスはいま、大地が洪水におおわれ、幾百万の人間の内、たった一組の夫婦が、罪を知らず、神を敬(うやま)うことの篤(あつ)い二人だけが残されたのを見ると、北風をやって黒雲を散らし、霧を追いはらうように命じた。そしてふたたぴ、天を地に、地に天を示した。海神・ポセイドンも洪水をしずめた。海はふたたび岸を得、川はその川床にもどった。森は泥におおわれた木々のこずえを水からあらわし、丘がそれにつづいた。最後に平地がひろがり、ついに地が再びあらわれた。デウカリオンはあたりを見まわした。地は荒れはて、墓場の静寂に沈んでいた。このありさま見て、彼の頬には涙が流れた。デウカリオンは妻のピュラに言った。「愛する妻よ。四方を遠くながめても、生きた人間は見あたらない。二人だけが地上の民族なのだ。ほかの者はみんな水のなかに沈んでしまった。だが、わしたちとて生きのぴてゆけるかどうか、確かにはわかりはしない。雲を見るたびに、わしの心はおびえる。危険はすぺて去ったにしても、二人きりになったわしたちは、この見捨てられた地で何をすればよいのか。ああ、父プロメテウスが人間をつくり、形のできた粘土に心を吹きこむしかたを教えておいてくれればよかったのに・・・」そう言いながら、見捨てられた夫婦は泣きはじめた。

(参考)

@妻ピュラ・・・(小話326)「プロメテウスとパンドラ(パンドラの箱)」の話・・・を参照。

A箱舟(方舟=はこぶね)・・・旧約聖書(ノアの箱舟)を参照

       (四)

やがて二人は、正義、秩序、及び、予言の女神・テミスの半ばこわれた祭壇の前にひざまずいて、祈願した。「ああ、女神よ。どうすれば滅びた人間族をもう一度つくり出せるのか、教えてください。この埋没した世界に、ふたたぴ生気がよみがえるように、力をかしてください」「わたしの祭壇から去りなさい」と、女神の声がひぴいた。「頭をヴェールでつつみ、帯を解き、おまえたちの母の骨を後(うし)ろに投げるのです」謎のようなこの神託を聞いて、二人はしばらく途惑(とまど)っていたが、妻のピュラがまず沈黙をやぷった。「気高き女神よ、どうぞお許しください。その御命令には、おそろしくて従うわけにはまいりません。骨を投げ散らしたりして、死んだ母の霊を怒らせたくはないのです」しかし、デウカリオンの心に、ふとある光がかすめた。それで妻に言った。「わたしの思いつきが間違いでなけれぱ、女神の神託には悪意はないのだ。我々の偉大な母というのは、それは大地なのだ。母の骨というのは石なのだ。だからピュラよ、石をうしろへ投げればいいのだよ」そこで二人はわきへ行き、頭をつつみ、着物の帯を解くと、命じられたように石をうしろに投げた。すると不思議なことがおこった。石はその竪さを失いはじめてやわらかくなり、だんだん大きくなって、ひとつの形ができ、それが人間の姿になった。こうして、デウカリオンの投げた石は、神々の助けによってまもなく男となり、ピュラの投げた石は女となった。かくして、再び地上には人間(鉄の時代の種族)があふれるようになった。その後、デウカリオンとピュラの間に数人の子供が出来た。長男のヘレンはギリシア人の祖先と言われ、ギリシア人のことをヘレネスと言われる。

(参考)

@デウカリオンの投げた石・・・こうして、再び人類は栄えるようになり、この功績が神々に認められ、デウカリオンは天に昇って「水瓶座」になったという説もある。

「デウカリオンとピュラ」(フィレンス)の挿絵はこちらへ

 

(小話575)「中国の二十四孝の物語(4/12)の話・・・

     (一)「閔子騫(びんしけん)」

周朝の時、閔子騫、またの名を閔捐(びんそん)という人がいた。この人は孔子の門下生で、早く生母を失った。父親は後妻を迎え、その後妻との間に二人の子供ができ、これを大そう可愛がった。ところが、この後妻がとても自分本意のわがままな人で、閔子騫を非常に嫌い、冬の寒い時にも、我が子には暖かい綿入れを着せたのに、閔子騫には綿入れなど着せなかった。ちっとも暖かくない葦(あし)の花の代用綿を入れた着物を着せ、それさえも穴があいたぼろぼろのものであった。ある時、閔子騫は父親を牛車に乗せて外出したが、着物が一枚きりなので寒くてならなかった。そのため牛車の引き手の綱を持つ手にも力が入らなかった。それを見て父親は、後妻の閔子騫に対する意地の悪い仕打ちがわかった。そこで帰宅してから、後妻を追い出してしまおうとした。すると、閔子騫はこう言って父親に哀願した「母上が去られては、三人の子供は凍えます。私一人が凍えていれば、弟二人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」と言った。これを聞いた後妻は、はじめて自分の非をさとり、以後は実母同様に閔子騫を可愛がったという。

(参考)

@閔子騫・・・孔子の弟子。姓は閔、名は損。魯の人。孔門の十哲のひとり。孔子は評して「孝行者かな、閔子騫は。父母兄弟が彼の孝行を褒めても、だれ一人異議をさしはさむものはない」と言った。 魯(ろ)の国の大臣、季氏(きし)が、閔子騫を費(ひ)という町の代官に採用しようとしたが、閔子騫は使者に「私は政治は苦手でお引受けすることができません。どうぞ私に代ってお断り申し上げて下さい。それでも再度お命じになるようでしたら、私は斉(せい)の国に亡命するつもりです」と云った。

A孔子は言った「徳行に関しては、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓が、弁舌に関しては、宰我・子貢が、行政に関しては、冉有・季路が、文学に関しては、子游・子夏が優れていたな」と。

B残念閔子騫(ざんねんびんしけん)とは「残念」を洒落て言う言葉。その音が似ているところから孔子の門弟十哲として有名な「顔淵(がんえん)」に掛けて、同門の閔子騫と続けて語呂を合わせたもの。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

     (二)「張孝(ちょうこう)兄弟」

張孝(ちょうこう)と張礼(ちょうれい)は兄弟であった。世の中が飢饉の時に、八十歳を超えた母親を養っていた。張礼が木の実を拾いに行ったところが、盗賊が現れて、張礼を殺して食ってしまおうと言った。張礼は「私には一人の年老いた母親がいます。今日はまだ母が食事をしていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破ったならば、私の家に来て一族の者まで殺してください」と言って帰った。母親に食事をさせてから約束のとおり、盗賊の所に戻って来た。兄の張孝がこれを聞いて、あとから行って盗賊に向かって「私は張礼より太っているので食べるには格好でしょう。私を殺して張礼を助けてください」と言った。すると弟の張礼は「私が初めからの約束なので、私が食べられます」と言って死を争った。それを見た非道な盗賊も兄弟の孝行心に打たれ、この様な兄弟は見た事が無いと、二人の命を助け、更に沢山の米と塩を与えた。兄弟はこれを持って帰り、いよいよ孝行の道にはげんだということであった。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

 

(小話574)「祭蛇記」の話・・・   

         (一)

東越(とうえつ)の#38313;中(みんちゅう)に庸嶺(ようれい)という山があって、高さ数十里といわれている。その西北の峡(かい)に長さ七、八丈、太さ十囲(とかか)えもあるという大蛇(だいじゃ)が棲(す)んでいて、土地の者を恐れさせていた。住民ばかりか、役人たちもその蛇の祟(たた)りによって死ぬ者が多いので、牛や羊をそなえて祭ることにしたが、やはりその祟りはやまない。大蛇は人の夢にあらわれ、または巫女(みこ)などの口を仮(か)りて、十二、三歳の少女を生贄(いけにえ)にささげろと言った。これには役人たちも困ったが、なにぶんにもその祟りを鎮(しず)める法がないので、よんどころなく罪人の娘を養い、あるいは金を賭(か)けて志願者を買うことにして、毎年八月の朝、ひとりの少女を蛇の穴へ供えると、蛇は生きながらにかれらを呑んでしまった。

         (二)

こうして、九年のあいだに九人の生贄をささげて来たが、十年目には適当の少女を見つけ出すのに苦しんでいると、将楽(しょうらく)県の李誕(りたん)という者の家には男の子が一人もなくて、女の子ばかりが六人ともにつつがなく成長し、末っ子(すえっこ)の名を寄(き)といった。寄は募(つの)りに応じて、今年の生贄に立とうと言い出したが、父母は承知しなかった。「しかし、ここの家(うち)には男の子が一人もありません。厄介者の女ばかりです」と、寄は言った。「わたし達は親の厄介になっているばかりで何の役にも立ちませんから、いっそ自分のからだを生贄にして、そのお金であなた方を少しでも楽にさせて上げるのが、せめてもの孝行というものです」。それでも親たちはまだ承知しなかったが、しいて止めればひそかにぬけ出して行きそうな気色(けしき)であるので、親たちも遂に泣く泣くそれを許すことになった。そこで、寄は一振(ひとふ)りのよい剣と一匹の蛇喰い犬とを用意して、いよいよ生贄にささげられた。

         (三)

大蛇の穴の前には古い廟(びょう)があるので、寄は剣をふところにして廟のなかに坐っていた。蛇を喰(く)う犬はそのそばに控えていた。彼女はあらかじめ数石(すうこく)の米を炊(かし)いで、それに蜜をかけて穴の口に供えて置くと、蛇はその匂いをかぎ付けて大きい頭(かしら)を出した。その眼は二尺の鏡の如くであった。蛇はまずその米を喰いはじめたのを見すまして、寄はかの犬を嗾(け)しかけると、犬はまっさきに飛びかかって蛇を噛んだ。彼女もそのあとから剣をふるって蛇を斬った。さすがの大蛇も犬に噛まれ、剣に傷つけられて、数カ所の痛手に堪(た)まり得ず、穴から這い出して蜿打(のたう)ちまわって死んだ。穴へはいってあらためると、奥には九人の少女の髑髏(どくろ)が転がっていた。「お前さん達は弱いから、おめおめと蛇の生贄になってしまったのだ。可哀そうに」と、彼女は言った。越(えつ)の王はそれを聞いて、寄を聘(へい)して夫人とした。その父は将楽県の県令に挙げられ、母や姉たちにも褒美(ほうび)を賜わった。その以来、この地方に妖蛇(ようじゃ)の患(うれ)いは絶えて、少女が蛇退治の顛末(てんまつ)を伝えた歌謡だけが今も残っている。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話573)「イソップ寓話集15/20」の話・・・

      (一)「ネズミとカエルとタカ」

陸に棲(す)むネズミが、水に棲むカエルと友達になった。これが、そもそもの間違いだった。ある日、カエルは、自分の足にネズミの足をしっかりとくくりつけ、自分の棲む池へと向かった。そして、水辺へやってきた途端、池の中へ飛び込んで、善行を施しているとでも言うように、ケロケロ鳴いて泳ぎ回った。哀れネズミは、あっという間に溺れ死んだ。ネズミの死体は水面に浮かんだ。一羽のタカがそれを見つけると、鈎爪でひっつかみ、空高く舞い上がった。ネズミの足には、カエルの足がしっかりと結ばれていたので、カエルも共にさらわれて、タカの餌食となった。

(害を成す者は、また、害を被る者なり)

      (二)「イヌに噛(か)まれた男 」

ある男が、イヌに噛まれ、誰か治療してくれる人はないかと方々訪ね歩いた。そして、ある友人に出会った。その友人は、こんなことを言った。「傷を癒(いや)したいならば、傷から流れる血にパンを浸(ひた)して、君を噛んだイヌに与えてごらん」男は、この忠告に笑って答えた。「どうしてそんなことをしなくちゃいけないんだい? そんなことをしたら、街中のイヌに噛んでくれと、お願いするようなものではないか!」

(自分を害する者に、情けをかけてはならぬ。相手につけいる隙を与えてはならぬからだ)

      (三)「二つの壷」

二つの壷が、川に流されていた。一つは陶器の壷で、一つは真鍮(しんちゅう)の壷だった。 陶器の壷が真鍮の壷に言った。「どうか、私から離れていて下さい。あなたが、ほんの少しでも触れたら、私は粉々に砕けてしまいます」

(分相応の相手が、最上の友である)

 

(小話572)「閻魔大王と怠け者の女房」の話・・・

       (一)

民話より。昔、怠け者の女房がいた。とても怠け者で、ご飯さえ一口一口、亭主に食べさせて貰った。家の仕事は全部亭主がした。野良仕事、洗濯など何一つしなかった。このため、亭主は女房を貰ってからは家から遠くに出ず、家で女房の世話をしていた。ところが、ある時、どうしてもこの亭主が、やらなければならない仕事が出来た。うまくすれば六、七日で済む仕事だが、うまくいかないと十日でも八日でも難しい。それで亭主は誰に女房の世話を頼んだらいいかと心配になった。近くには親戚の者もいない。「男は七、女は八」と言うが、この意味は男は七日食べずに生きられる、女は八日食べずに生きられるという事で、もし十日も帰れなければ、女房は飢えて死んでしまう。亭主はいろいろ考え、ある方法を思いついた。大きくて硬めなお好み焼きを焼きあげ、その真ん中に穴をあけ女房の首にかけ、女房に「お腹が空いたら、口を開けてこの下の所をひと口かじればいいよ、たりなかったら手で持ち上げて回し食べられる所を口にもっていけばいい。水はそばに置いておくからね、ご苦労だね」とよく言い含(ふく)めた。女房は何も言わず頷(うなず)いた。

       (二)

亭主は出かけて忙しく働き七、八日で仕事を終え、また急いで帰った。ところが家に着いてみてびっくり、女房が座ったまま死んでいた。よく見ると水は飲んでなく、お好み焼きも頭をさげて食べられる所しか食べていなかった。まったく回していないので、食べたりなくて飢え死したのであった。この怠け者の女房は死んで、閻魔大王の所に送られた。閻魔大王は「この人間はまだ寿命がきていないのに、なぜ死んだのか」と思い、女房に「どうして来たのか」と聞くと女房は「飢えて死にました」と答えた。閻魔大王はまた「どうして飢え死にしたのだ」と尋ねると、女房は「わたしの亭主が仕事に行く時、食べ物、飲み物をそばに用意してくれたけれど、わたしは口の回りにある所だけ食べ、あとは口で食べられる所に回すのが面倒くさくて、食べずにいたので飢えて死んだのです」と言った。閻魔大王は「お前の寿命はまだきていない、また人間世間に生まれ変われ」と言った。すると女房は手を左右に振って「また人間になるのですか、わたしはもう人間はこりごりです」と言った。閻魔大王は「お前はどうして人間に生まれたくないのだ」と聞いた。女房は「掃除、洗濯、ご飯作りまで、みんな女の仕事で遊んで暮らせません、わたしは遊んで暮らせるものに生れ変わりたいのです」と言った。閻魔大王は「お前は何に生まれ変わりたいのだ」と聞くと、女房は「わたしは人間の飼い猫に生まれ変わりたいのです」と言った。

       (三)

閻魔大王は自分の耳を疑って「何、猫に生まれ変わりたい」と言うと、女房は「はい、そうです、飼い猫になれば、黙っていても魚や海老(えび)が食べられるし、暖かい床に寝られ、飼い主は可愛がってくれます。わたしは楽しく遊び、鼠(ねずみ)を捕まえ、嫌なら鼠を捕まえない、自由自在ですよ」と言った。閻魔大王は「よかろう、お前が猫に生まれ変わりたいなら、猫に生まれ変われ」と言った。すると女房は急いで「わたしを猫に生まれ変わらせてくれるなら、まだして貰いたいことがあります」「どんなことだ」「わたしがして貰いたいのは毛の色です」閻魔大王は面倒くさそうに「言ってみろ」と言うと、女房は「わたしは黒い、それも墨のように真っ黒な体と少し白い毛が鼻すじにあればいいのです」「それはどういう意味だ」「わたしはもし鼠が食べたくなっても、あまり苦労したくないのです。真っ黒な体でわたしが暗い所に隠れていると鼻すじが白く光るから、鼠はこの白い筋を冷たい蒸し餅だと思ってわたしの口の上にくる、するとわたしはなんなく一口で鼠が食べられるというわけです」と言った。閻魔大王があきれたように手を振ると、この女房は真っ黒な猫になって人間世間に戻って行った。

 

(小話571)「傾国の美女、楊貴妃。その美貌と波乱の短い生涯(白楽天の「長恨歌」(現代語訳)より)(2/2)」の話・・・

      (一)

漢の皇帝(実は唐の玄宗皇帝のこと)は美しい女性を愛して、国を傾けるような絶世の美人を得たいと思っておられたが御治世中、長い間、探し求めても得られなかった。(そうしたとき)楊(よう)という家に一人の娘がいて、やっと一人前に成長したばかりの年ごろであったが、奥深い女部屋の中で育てられていて、まだだれも知らなかった。しかし、生まれながらの麗(うるわ)しい姿態は、そのまま捨てておかれるはずもなく、ある日たちまち選び出されて、天子のおそばにお仕えすることになった。(謁見の日)彼女がひとみを巡らせてにっこりほほえむと、この上ないなまめかしさがあふれ奥御殿の、おしろいとまゆずみの化粧を凝らした多くの美しい宮女たちも、精彩がなくなって美しく見えない有様であった

      (二)

春のまだ寒いころ、天子は楊貴妃(ようきひ)に華清宮の温泉に入ることを 許されたが温泉の水は滑らかで、引き締まった脂のような白い肌に注ぎかかった。侍女たちがそばから助け起こすと、なまめかしくなよなよとして立ち上がる力もないほどで、これが初めて天子の御寵愛を受けるようになったときのことであった。雲のように豊かな黒髪、花が開いたように美しい顔、そしてきらきらと揺れる黄金のかんざし(楊貴妃は)蓮(はす)の花の縫い取りをした帳(とばり)の中で暖かに、春の夜を(天子と)過ごした。春の夜の短く明けやすいのを恨みつつ、日も中天に上がってからお起きになるという有様で、これ以後、天子は早朝の政務をおとりにならなくなった。(彼女は)天子のお気に入り、宴会の席にはべり、少しのひまもなく、春は春の遊びのお供をし、夜は夜でただ一人でお仕えする。後宮には麗(うるわ)しい美人が三千人もいたが、その三千人に分けられるべき天子の寵愛を楊貴妃ただ一人に注がれた。黄金造りの御殿(楊貴妃の私室)で化粧を凝らし、なまめかしい姿で夜の宴の席にはべり、玉の高殿での宴が果てるころには、うっとり酔うて春の気分に溶け込む 。楊貴妃のゆかりの姉妹も、みな貴族となって、領土を連ねて栄え(そして)なんと(うらやましいことに)栄光は一門に輝いたのである。かくて天下じゅうの父母たちに男を生むことを重んじず、 女を産むことを大事に思うようにさせた。

      (三)

驪山(りざん)のふもとのにある宮殿の高くそびえ立つ辺りは雲の中に入り、仙界の音楽のような妙なる音楽は風に吹かれてあちこちに聞こえている。緩やかに歌い、のびやかに舞い、琴や笛の調べを緩(ゆる)く奏(かな)でるさまを、天子は一日じゅう見ていても見飽きることがなかった。そのとき突如として、安禄山が、漁陽(ぎょよう)から陣太鼓を打ち鳴らし大地を揺るがして攻め上ってきて、霓裳羽衣(げいしょううい)の天人の舞曲を楽しんでいるのを仰天させた。

      (四)

奥深い宮城の中には煙と塵が立ち上り、天子は多くの車と騎兵の大軍を引き連れて西南(蜀の成都)へと落ち延びて行った。かわせみの羽で飾った天子の旗は、ゆらゆらと揺らぎ、進んでは再びとどまって、都の城門を西に百里余り出た所に着いた。ところが近衛の大軍はここからは進んでいかず、どうしようもなくて、まろやかな曲線を描く眉の美人の楊貴妃は天子の馬前で死んでしまった。花模様のかんざしは地に捨てられたまま、だれも拾い上げる人もなく、かわせみの羽の髪飾りも、黄金造りの孔雀の形をしたかんざしも、玉で作ったこうがいも、同じく散乱したままである。天子は見かねて顔を袖で覆ったまま、救おうにも救えず振り返って見ると、血を交えた涙が流れるばかりであった

      (五)

やがて 騒ぎが収まると、行列は、黄色い砂塵が一面に舞い上がり、風が物寂しく吹く中を進んで行き、雲に届くような高い懸け橋の曲がりくねった道を剣閣山へと登ってゆく。娥眉山のほとりの成都にたどり着くと、道行く人もほとんど無く、天子の旗も今は色あせて光なく、日の光までも弱々しく薄く感じられる。蜀の川は深みどりの色をし、蜀の山は青緑色をしており、それを眺めるにつけても、天子は朝夕、楊貴妃を恋い慕って悲しまれた。そして仮の御所で、月の光を見れぱ心を痛ませる御様子である。雨の夜に駅伝の鈴の音を聞くと、はらわたを断ち切られるような思いでいらっしゃる。戦乱が治(おさ)まり、天下の情勢が変わると、天子は車を都に向け帰還されることになったが、途中、馬嵬(ばかい)の地に差し掛かると、行きつ戻りつして立ち去りかねた。馬嵬の坂道のほとりの土の中には(楊貴妃が葬られ)、かつての玉のように美しい顔は二度と見られず、楊貴妃の亡くなった跡が空しく残っているばかりであった。天子も家来も互いに振り返りして、涙で旅衣の袖を濡らし、東の方、都の城門を望みながら、馬の進むのに任せて力なく帰ってゆく。

      (六)

宮中に帰ってみると、池も庭も皆昔のままであり、太液池の蓮の花も、未央宮の柳も変わりなく。蓮の花は在りし日の楊貴妃の顔のようだし、柳の葉は眉のようで、これを見るにつけ、どうして涙のこぼれないことがあろうか、涙を流さずにはいられなかった。暖かな春風に誘われ、桃やすももの花が開く夜、秋の雨に青桐の広葉が落ちるときなども(天子は楊貴妃を思い、特に堪え難い心情にかられる)。西の御殿も南の御所も、秋草が生い茂り、宮殿の庭に落ちた木の葉が階段の上に一面に散り敷いても、その紅葉をだれも掃除しない。かつて梨園で(舞楽を)親しく教えた弟子たちも、このごろめっきり白髪頭になり、若くして美しかった皇后の部屋の監督の女官もすっかり衰えてしまった。夜の御殿に蛍(ほたる)の飛ぶのを見てもしょんぼりと思いにふけり、ただ一つともっている灯火のしんをかき立て、それが燃え尽きても、目はさえて眠られない。時を告げる鐘や太鼓の音が遅く間延びして聞こえて、初めて夜が長く感じられ、やがてかすかにぼんやりと(輝く)天の川の空が早くも明けようとする。おしどりの形の屋根瓦は冷えて、霜の華は真っ白に重そうに厚く降り、かわせみの縫い取りのある夜着も冷え冷えとして、いっしょに寝る人もいない。はるかに遠く生と死の世界に別れてから、長い年月がたったが楊貴妃の魂魄(こんぱく=霊魂)はこれまで天子の夢にさえ現れることがなかった。

(参考)

@魂魄・・・古代中国、人間に宿っているとされた2種類の霊魂のこと。「魂」を心と同義にして陽の気に属する魂で、「魄」は心のよりどころとなる形あるものの事であり、陰の気に属して肉体をつかさどり人の成育をたすけるという。人間の死後「魂」は人間の身体を出て位牌の中に住み、やがて天に上る。「魄」は人間の死後も身体の中に住むもので、墓に埋められた死体と一緒にやがて土になるとされた。

      (七)

蜀の臨キョウの道士で、長安の鴻都門に身を寄せている者がいたが、彼は真心のこもった祈祷で死者の魂魄を招き寄せることができるとのことであった。天子が楊貴妃を恋い慕うあまり、夜も眠られず寝返りばかり打っている、その心に同情したので、(玄宗の側近は)彼に命じて念入りに(場貴妃の魂魄を)捜し求めさせることにした。その方士(仙術師)は大空を押し開くようにしながら、気流に乗ってまるで稲妻のように走り、天上に上り地下に潜り、残るくまなく捜し求めた。上は青空の果てまで、地は黄泉(よみ)の国まで探し尽くしたが、どちらも広々として果てしなく、楊貴妃の魂魂を見いだすことはできなかった。そのうちに、ふとこんなことを耳にした、「海上に仙人の住んでいる山がある」。その山は何もない広々とした所に在って、そこの高殿は麗しく輝き、辺りには五色の雲がわき起こり、その中にはたおやかな美しい仙女がたくさんいる中に一人、字は太真という仙女がいるが雪のような白い肌、花のように美しい顔形(かおかたち)は、楊貴妃にどうやら似ているのである。

(参考)

@太真・・・楊貴妃は元は、玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。さすがに息子から妻を奪うのをはばかり、いったん女道士(道教の女修行者)となった後で玄宗の後宮に迎え入れられている。太真は楊貴妃の女道士時代の名。

      (八)

そこで方士は仙山を訪ね、黄金造りの御殿の西の棟に行って、玉の扉をたたき案内を乞うて、出てきた侍女の小玉に、更に双成へと、順次に取り次がせた。漢王朝の天子の使者がやってきたと聞いて、いろいろの美しい花模様を縫い取りした帳(とばり)の中で、夢うつつであった楊貴妃の魂魄はぱっちり目を覚ました。急いで衣を手に取り、枕を押しやって、しばらくためらって行きつ戻りつしたが、やがていくつも重なる玉のすだれ、銀の屏風が次々にずらりと押し開かれた。雲のようにふさふさした髪は、少し乱れて傾き、たった今眠りから覚めたばかりの風情で、花の冠も整えないまま、奥の部屋から階段を下りて現れた。風は仙女の袂を吹いて、ひらひらと翻って上がり、それはまるであの霓裳羽衣の舞をまっているようであった。しかし、その美しい顔はいかにも寂しげで、涙のはらはらと流れるさまは、まさしく、一枝の梨の花の上に、春の細かい雨がはらはらと降り懸かってぬれているかのようであった。

      (九)

(楊貴妃の霊は天子恋しい)思いを込め、じっと見つめながら、天子にお礼を申し上げて言った。「(馬嵬駅で)お別れしてからは、お声を聞くことも、お姿を見ることもできず、それらははるかに遠いものとなりました。生前、昭陽殿で受けた御寵愛も今は絶えてしまい、ここ蓬莱宮に来て、もう長い月日が過ぎ去りました。(仙宮から)振り返って下界の人間世界を望みましても長安は見えず、ただ一面、塵(ちり)やもやの立ち込めているのが見えるばかりです。今はただ昔をしのぶ形見の品によって、わたしの深い心の内を(天子に)お示ししたいと思います。それで(かつて天子からいただいた)青貝細工の小箱と黄金のかんざしとをことづけて持っていっていただきましょう。かんざしは一方の足をこちらに残し、小箱は蓋と本体の一方をこちらに残します。かんざしは黄金造りであるのを二つに裂き、小箱は青貝細工のを分けます。と言いますのは、わたしたちの心が、この黄金や青貝の堅いように、堅く思い合っていさえすれば、今は天上界と人間界とに別れて住んでいましても、いつかはまたきっとお会いできましょう」と。方士が別れ去ろうとすると、楊貴妃の霊はまた丁寧に重ねてことづてをした。その言葉の中には誓いの言葉があり、それは天子と楊貴妃の二人の心だけが知っているものであった。それは、ある年の七月七日、長生殿で、夜更けだれもいないとき、ささやき交わしたそのときの「天上においては、どうか比翼(ひよく)の鳥となりたい。地上においては、どうか連理(れんり)の枝となりたい」というものであった。たとえ天地は長く久しいといっても、いつかは滅び尽きる時もあるであろう。しかし、この玄宗と楊貴妃の相思別離の悲しい思いだけはいつまでも続いて絶え果てるときがないであろう。

(参考)

@比翼の鳥・・・中国の空想上の鳥で、雌雄各一目一翼、常に一体となって飛ぶというもの。男女の契りが深いことの喩えに用いる。

A連理の枝・・・連理となった枝。転じて、夫婦、また、男女が仲睦(むつ)まじい様子。

B白楽天・・・白居易。中唐の詩人。官吏の職にあったが、高級官僚の権力闘争にいや気がさし、晩年は詩と酒と琴を三友とする生活を送った。その詩は平易明快で、「長恨歌(ちようごんか)」「琵琶行」などは広く民衆に愛された。

C中国では、美人を形容する諺に「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)=魚や雁も恥じらって姿を隠すほどの美人を指す。閉月羞花(へいげつしゅうか)=月や花でも恥ずかしくて隠れてしまいたくなるような美人を指す」というのがある。(1)春秋時代の西施(せいし)は、「沈魚」・・・川で洗濯をしている西施の美貌に心を奪われて、魚たちが泳ぐことを忘れて沈んでしまったという。(2)前漢時代の王昭君(おうしょうくん)は、「落雁」・・・勢力結婚で匈奴に嫁ぐ途中、空を飛ぶ雁たちが、その美貌に見とれて、飛ぶのを忘れて墜落したという。(3)三国志の貂蝉(ちょうせん)は、「閉月」・・・空の月が、彼女の美貌に及ばないことを恥じて、雲に隠れたという。(4)唐代の楊貴妃(ようきひ)は、「羞花」・・・花たちが彼女の美しさの前に頭を垂れたという。

 

(小話570)「傾国の美女、楊貴妃(ようきひ)。その美貌と波乱の短い生涯(1/2)」の話・・・

      (一)

世界の三大美人(クレオパトラ・楊貴妃・小野小町)の一人、そして、中国の四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人、美女中の美女、楊貴妃の話。時は唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(げんそう)皇帝の時代のこと。唐の第六代皇帝、玄宗は則天武后の孫にあたり、皇帝に即位したのは二十八歳の時であった。玄宗を補佐した有能な大臣たちはみな、則天武后の時代に頭角をあらわしてきた人たちで、玄宗時代の繁栄を「開元(かいげん)の治(ち)」と言う。玄宗が行った政策は、仏教僧たちの度牒(どちょう=出家した者に、得度したことを認めて与えた公認文書)の見直し、税制改革、節度使制の導入などであった。だが、やがて天下泰平の中で玄宗は即位30年を越え、年齢が六十近くになってくると、徐々に政治に倦み始めた。そうした中、玄宗皇帝は、男30人、女29人の合計59人もの子供を作った。なかでも、皇帝が愛した武恵妃(ぶけいひ)との間にできた第18皇子、寿王(じゅおう)は、次期皇帝と目(もく)されていた。そして、その妃として選ばれたのが、一地方官吏の娘、十六歳の楊玉環(ようぎょくかん)であった。楊玉環は蜀(四川省)の司戸という役職の楊玄#29744;(ようげんえん)の四女として生まれ幼名を玉環と言った。そして、父親が早死したので幼い時、叔父に引き取られ、楊一族の一員となった。十七歳を迎えた頃、彼女はその美しさから周囲の評判を得、唐の玄宗皇帝の息子・寿王の妃として長安の都に上ることになった。

(参考)

@楊貴妃・・・中国での四大美人「楊貴妃」「貂蝉」「王招君」「西施」。「貂蝉」の代わりに、「虞美人」を入れる場合がある。しかし、西施と貂蝉の二人は多くの書物や詩に登場するが、史書には無いので、史実かどうかは分からない。また、虞美人も「史記」にはたった一ヵ所出ているだけだという。

A則天武后・・・中国、唐の第三代皇帝、高宗の皇后。高宗の死後、690年、国号を周(中宗が再び即位して国号も唐に戻された)と改め帝位につく。独裁政治を行なったが、人材を登用し治政に努めた、中国史上最初で最後の女帝。

B楊玉環・・・玉環というには、玉(ぎょく)で作った環で、腰に佩(お)びる飾りを意味する。古代より中国では玉に神霊が宿るとされ、その美しさから女子の名に好んで用いられた。楊玉環は、幼いころからしてにすでに、その美貌が評判であって、大奥に選ばれた後、故郷が恋しくて、気晴らしのためによく花園を散歩した。ある日、彼女が花に手を触れると、どの花も恥ずかしくて頭(こうべ)を垂れた。このことが広く伝わり、それ以来人々は彼女の美しさを「羞花(しゅうか=花も恥らう)」という言葉で喩えるようになったと言われる。

      (二)

737年、玄宗は寵愛した武恵妃が亡くなると、その後釜を探すことにした。玄宗はそれに代わる女性を求めさせたが、後宮3000人の美女の中にも、ふさわしい女性を見出すことはできなかった。740年秋、長安郊外の温泉保養地、華清池(かせいち)で、玄宗は初めて武恵妃によく似ていた楊玉環と出会った。楊玉環は、唐代の美人らしく、ふくよかな姿態と切れ長の目、小さな口をしていた。むしろ太り気味で、玄宗は「おまえなら少しの風ぐらいなんともあるまい」とからかったほどであったが、玄宗はその魅力の虜(とりこ)となった。玄宗五十六歳、楊玉環二十二歳であった。玄宗は楊玉環を自分の妃に迎えたいと考えたが、楊玉環は自分の息子の妻であり、万が一、世間の人々に知れると、玄宗の名誉が失われてしまうことになる。そこで、玄宗皇帝はひとまず彼女を道観(道教の寺)に入れて道教の尼(女道士)にした。つまり、彼女の自由意志で夫の寿王と離婚したのであった。そして745年、玄宗は正式に彼女を皇后に継ぐ後宮での最高位の称号「貴妃(きひ)」にし、楊一族の貴妃、楊貴妃が誕生したのであった。そのとき、楊貴妃二十七歳、玄宗六十一歳であった。さらに玄宗は、楊貴妃の気を引こうと、彼女の一族にことごとく高い地位を与えた。特に従兄弟の楊国忠(ようこくちゅう)は、皇帝に次ぐ宰相の役職につき、莫大な富を得、欲望のままに権力を行使し、こうして唐王朝は激しく衰退していった。

      (三)

玄宗皇帝は政治家よりも芸術家肌の男で、自ら歌舞団を組織し、自作の歌舞、音曲を演じさせた芸道楽だった。美人で聡明、その上、歌舞に秀でていた楊貴妃は、後宮にいる3000人の美女を差し置き、玄宗の寵愛を一身に受けた。楊貴妃が流し目で微笑(ほほえ)むと例(たと)えようのない艶(なまめ)かしさが漂い、その美貌はきらびやかに装った後宮(こうきゅう)の美女たちをして顔色をなさしめた。又、彼女が得意とした「霓裳羽衣(げいしょううい)」の舞いは、玄宗が編曲した舞だった。玄宗は、彼女の望むことは、どんなことでもかなえさせてやった。二人は温泉がある離宮、華清宮に住み、優雅に遊んで暮らしていた。その暮らしは豪華絢爛で、二人は、日々宴会や歌舞に明け暮れたり、豪華な彫刻が施(ほどこ)されている大理石の浴室に入ったりして過ごしていた。また、楊貴妃は楊貴妃専用の「貴妃池」という浴室で入浴したあと、すぐに玄宗の前で踊りを披露したりした。玄宗はその姿を惚れ惚れと眺めていた。又、楊貴妃は茘枝(れいし=ライチ)という果物が好きで、はるか南方、広東地方のの茘枝がうまいというので、そこから取り寄せることにした。長安から何千キロも離れた南から運ぶのだから、途中でぐずぐずしていたのでは風味が落ちてしまう。できるだけ速く運ばなければならない。濛々(もうもう)たる砂煙をあげて走り去る早馬を見て、人々はそれを急ぎの公用だと信じ、まさかあの楊貴妃個人の嗜好(しこう)を満たすためだとは考えなかった。愛する妃のためにどれほど人民が苦しみ、公務が妨げられようと、玄宗はもはや意に介するところではなかった。一時が万事、楊貴妃の出現により、それまで「開元の治」と呼ばれる善政をしいていた玄宗は、完全に政治への情熱を失ってしまった。

(参考)

@政治への情熱を失って・・・君主が絶世の美女の色香に迷って城や国を滅ぼすことを「傾城(けいせい)」とか「傾国」という。

      (四)

こうして唐代きっての名君と謳(うた)われた六十三歳の玄宗皇帝は、政治をなおざりにして楊貴妃と二人だけの世界にうつつを抜かしていた。だが、二人の間には子どもはなく、楊貴妃は後宮での自分の立場が危うくなることを恐れていた。そんなある日、楊貴妃と玄宗の前に、安禄山(あんろくざん)と名乗る男が現れた。安禄山は口がうまく、口八丁手八丁で、辺境を守る軍隊の司令官である節度使という地位についた人物で、玄宗皇帝に取り入ろうとしていた。安禄山は子供に恵まれない楊貴妃の弱点をつき、彼女の養子になることを申し出た。安禄山は楊貴妃より十六歳も年上であったが、二人の利害が一致して、養子縁組が成立してしまった。楊貴妃の養子という地位を得た安禄山は、男性には入れない後宮に出入りして楊貴妃と面会し、宮中では二人の不倫の噂まで流れる始末であった。それを知り、不快感をあらわにしたのが、宰相の楊国忠であった。楊貴妃の考えをよそに、安禄山と楊国忠の宮廷での権力争いが始まった。

(参考)

@節度使・・・辺境防衛のために新たにつくられたのが節度使という軍団で、兵士は徴兵ではなくて募兵、お金で雇った傭兵であった。そして、軍団の司令官は管轄地域の民政もおこなった。玄宗の時代には北方の国境地域を中心に十の節度使(安禄山は、その内の三つ節度使えお兼ねていた)のが設けられていた。

      (五)

楊国忠は、事あるごとに玄宗皇帝の耳に「安禄山謀反の恐れ有り」と吹き込んだ。そしてこの報を聞いた安禄山は、先手を打って15万の強大な兵力を動かし、755年に「安史(あんし)の乱(又は、「安禄山の乱」」を起こした。辺境の戦いの経験豊富な安禄山の軍に対し、唐の兵は訓練すらされていない状態で、勝敗は明らかだった。玄宗皇帝は、楊貴妃や楊一族を伴い近衛騎兵(このえきへい)に守られて、長安の都を脱出し蜀(しょく)の国を目指して落ちて行った。西の門から百余里(約50キロ)、馬嵬(ばかい)の地に着くや「この反乱の原因は楊一族にこそあり」と近衛軍は楊貴妃や宰相、楊国忠を含む全ての楊一族を始末するように玄宗皇帝に要求し、動こうとしなかった。そのため、楊国忠は衛騎兵に殺され、さらに楊貴妃の姉たちも次々と殺された。玄宗皇帝はどうすることも出来ないまま宦官(かんがん)、高力士(こうりきし)に楊貴妃の縊死(いし=首をくくって死ぬこと)を命じた。ここに楊貴妃は国に殉ずる形で756年、三十八才の生涯を終えた。このあと玄宗皇帝は反乱勃発の責任をとって退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位して、反乱鎮圧の指揮を執ることとなった。その後、玄宗は半軟禁状態で762年に寂しく死去した。享年七十八歳であった。

(参考)

@安史の乱・・・安禄山によって引き起こされた大乱で、この乱は安禄山の死後 その子 安慶緒(あんけいちょ) 武将の史思明(ししめい)その子 史朝義(しちょうぎ)と前後四人の武将によって指導されたので「安史の乱」という。

A楊貴妃の縊死・・・楊貴妃は、実は臣下に助けられ、日本海を渡って山口県油谷町に流れ着き、そこで亡くなったのだ、という伝説がある。

「中国、唐の天宝15年(756年)のある日、一艘(いっそう)の大きな船が油谷の唐渡口に流れ着いた。船には絶世の美女が乗っていたが、長い間の航海でとても憔悴(しょうすい)していた。お付きの者は言った「この方は唐の皇帝玄宗の寵妃、楊玉環です。安禄山の反乱により唐軍は大敗を喫し、馬嵬坡に至った時、士気が衰えていた将兵たちは、楊貴妃と宰相の楊国忠の処刑を強く要求しました。楊貴妃をこよなく愛していた玄宗皇帝は、彼女を処刑にすることに耐えられず、危機一髪の所で、腹心の家来に楊貴妃を助けさせ、そして船に乗せ、ここまで逃げてきたのです」その話を聞いた地元の人たちは、心を尽くして楊貴妃の面倒を見たが、彼女は幾日も経たないうちにこの世を去った。地元の人びとは、彼女を西の大海原に望む丘の上に埋葬した」。

B反乱鎮圧の指揮を執る・・・反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰るが都はすっかり変わり果てていた。時の唐の詩人、杜甫(とほ)は「春望(しゅんぼう)」という作品を著した。

  国破れて 山河あり

  城春にして 草木深し

  時に感じては 花にも涙をそそぎ

  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす

  烽火 三月に連なり

  家書 万金に抵(あた)る

  白頭 掻(か)けば更に短く

  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

C玄宗皇帝と楊貴妃の話は、白楽天の詩「長恨歌」が有名である。(小話571)「傾国の美女、楊貴妃。その美貌と波乱の短い生涯(白楽天の「長恨歌」(現代語訳)より)(2/2)」の話・・・を参照。

「楊貴妃」(平平)の絵はこちらへ

「楊貴妃」の絵はこちらへ

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(小話569)「イソップ寓話集14/20」の話・・・

        (一)「子ヤギとオオカミ」

屋根の上に立っていた子ヤギが、オオカミが通るのを見ると、口汚く罵った。するとオオカミは子ヤギを見上げて言った。「こ奴、何を言うか!俺に悪口を吐いているのは、お前ではない。お前の立っている屋根が言わせておるのだ」

(よくあることだが、時と場所が、力のある者よりも、力のない者を強くする)

        (二)「カニとその母親」

カニの母親が息子に言った。「なぜ、横歩きばかりするの?真っ直ぐ歩くようにしなさい」すると子ガニはこう答えた。「お母さんが、真っ直ぐ歩いてくれたら、僕も真っ直ぐに歩くよ」 母ガニは、真っ直ぐ歩こうとしたが、どうしても出来なかった。

(実例は教訓より説得力がある)

        (三)「モミの木とイバラ」

モミの木がイバラを見下して言った。「私は、世の中に色々と役に立つが、お前には一体何の取り柄がある?」するとイバラがこう言った。「確かに、私には何の取り柄もありません。でも、ほら、斧を持った樵(きこり)がやって来ましたよ。まあ、私には関係ありませんけどね、あれ? どうしました。風もないのに急に震え出したりして、私は本当にイバラでよかった」

(不安を抱える金持ちよりも、貧乏でも憂いがない方がよい)

 

(小話568)「山中の猿」の話・・・

       (一)

「信長公記」(巻八)より。美濃の国と近江の国の境に山中(関ヶ原付近)というところがあった。その道のかたわらで、一人の不具者が雨にうたれて、乞食(こじき)をしていた。信長公はこれを京への上(あが)り下(くだ)りのたびに見ていて、常々その様子に不憫(ふびん)を覚えていた。あるとき、「大体(だいたい)乞食というものは、その住所が定まらず流れて行くものなのに、この者だけはいつも変わらずこの地にいる。どのような事情があるのか」と不審のあまり、土地の者に尋ねた。土地の者は「この山中でその昔、常磐御前(源義経の母)を殺した者がおります。その因果によって、子孫に代々不具者が出て、あのように乞食をしているのです。人はあの者を山中の猿といいます」と答えた。

(参考)

@「信長公記」・・・信長公記(のぶながこうき)は日本の安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長の家臣であった太田牛一。江戸時代初期に成立。

A常磐御前(源義経の母)を殺した者・・・実際は殺害されていないが、何かの拍子でそういう伝承ができあがったという。

       (二)

それからしばらく経(た)って、信長公は急に京に上ることになった。諸用に紛(まぎ)れてご多忙であったにもかかわらず、あの山中の猿のことを思い出した。そして、木綿二十反を自ら取りだして、山中の宿に行き「この町の者は、男女すべてがここに集まるように。言いたいことがある」とおふれを出した。人々は、どのようなことがあるのかと、緊張しながら御前に出た。すると、信長公は、木綿二十反を乞食の猿に与えられ「この反物半分でもって、あの者のために小屋をつくってやり、餓死しないように情けをかけてやってほしい。この近くの者はこの乞食のために、麦の収穫のときには、それを一度、秋には米を一度、一年に二度づつ、毎年安心できるように少しづつ、この乞食に与えてくれれば、自分は嬉しい」と言った。もったいなさのあまり、乞食の猿はいうまでもなく、この山中の町中の者で、ありがたさに涙を流さぬ者はいなかった。又、お供の者も、もらい泣きしたのであった。

 

(小話567)「「三国志演義」に登場する、独裁者・董卓(とうたく)を滅ぼした絶世の美女、貂蝉(ちょうせん)」の話・・・

       (一)

時は中国後漢の第12代皇帝、霊帝(れいてい)の後期のこと。184年、民衆の怒りが大爆発して張角(ちょうかく)を首領とする「黄巾(こうきん)の乱」が起った。この反乱により後漢王朝は一時、危機に陥ったが、董卓らの地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧は成功した。しかし、この反乱により後漢の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すことになった。189年、国内がさらに乱れる中で霊帝が崩御(ほうぎょ)した。後継者を明確に定めていなかったために、死後、息子の劉弁(りゅうべん)と劉協(りゅうきょう)との間で皇位継承争いが起った。こうして、中央政界では権力争いが続き、その混乱に乗じて地方豪族の一人、董卓が政治の実権を握り、独裁者となった。董卓は、自分のかたわらには剛勇でなる養子、呂布(りょふ)を護衛役として中央の乗り出した。その頃、中央では霊帝の長男、劉弁(少帝弁)が第13代皇帝、廃帝弁(はいていべん)となって即位した。だが、洛陽に入ってきた董卓によって次男の劉協が第14代皇帝(後漢の最後の皇帝)、献帝(けんてい)に即位し、劉弁はわず5ヶ月で廃位させられた。その後、暴虐の限りを尽くした独裁者、董卓は袁紹(えんしょう)、曹操(そうそう)らが董卓討伐の兵を挙げたとき、都を洛陽(らくよう)から長安に移した。だが、董卓の専横、暴虐ぶりは相変わらずで、捕虜数百名の両目をえぐり、舌を抜かせ、煮え立つ大鍋の中へ放り込んだり、董卓の悪口を言う者はすぐさま首を切らせたりした。そして自分は豪華な城を築き、数知れない財宝を蓄え、多くの美女を城内に住まわせていた。

(参考)

@呂布・・・彼の強さは群を抜いていて、弓術・馬術にも秀(ひい)でていたために飛将と呼ばれた。「三国志演義」では、虎牢関の戦いで関羽と張飛と劉備の三人を同時に相手にしても、呂布はまったく平気だったというほどの三国志最強の武将。

A袁紹・・・後漢末の地方豪族の一人。霊帝の死後、独裁者、董卓を洛陽から追放して、冀州(きしゆう)を中心に勢力を伸ばし、山東の曹操(そうそう)と対立し、敗れて病没。

       (二)

そんな時、世の中の行く末を憂(うれ)いている一人の人物がいた。宮中の皇帝、献帝に忠実な司徒(首相)の王允(おういん)で、彼は常に独裁者、董卓を倒し、再び皇帝にその座をつかせようと思っていた。だが、独裁者、董卓のかたわらにはいつも呂布がいて睨(にら)みをきかせていた。呂布がいては董卓を殺すのは難しいと王允は考えた。その王允には義理の娘がいて、名前を貂蝉(ちょうせん)と言った。類(たぐい)稀(まれ)なる美貌の貂蝉は、子供の頃、董卓に両親を殺されて流浪していたところを王允に拾われ、娘として暮らしていた。貂蝉は王允が、常日頃、何事かに悩んでいるのを心配していた。そして、自分を拾って育ててくれた王允に恩返しがしたいと考えていた。王允はそんな貂蝉に自分の悩みを打ち明け、董卓と呂布を反目させる「連環(れんかん)の計」(美女連環の計)を実行することにした。このとき貂蝉は十六歳であった。王允が貂蝉に悩みを打ち明けた翌日、彼は呂布に黄金の冠を送った。呂布はその礼のために王允の屋敷を訪ね、そこで絶世の美女、貂蝉に見事一目惚れしてしまった。王允は呂布に娘が気に入ったのなら、呂布将軍に差し上げようと持ちかけた。呂布はすぐその気になり、その日はそれで帰った。

(参考)

@王允・・・若い頃に「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王に仕えてその人を偉大にする才能)である」と評されていた。

A義理の娘・・・「忻州木児村の生まれで、姓は任、名は紅昌、宮女として貂蝉冠を掌っていたので貂蝉とよばれ、のちに呂布の義父であった丁原のはからいで呂布と結婚したが、黄巾の乱に夫婦離散し、やむなく王允の府中に入った」とあり、貂蝉はもとから呂布の妻であったという説もある。

B連環(れんかん)の計・・・関連する計略を連続させて敵を翻弄する。つまり「連(つら)なる環(わ)」のようにひとつひとつの計略が次から次へとつながっていく計略のことで、董卓と呂布を仲違(なかたが)いさせるために仕組まれた計略がつながって、最終的に目的を果たした。

C絶世の美女、貂蝉・・・中国での四大美人「楊貴妃」「貂蝉」「王招君」「西施」。「貂蝉」の代わりに、「虞美人」を入れる場合がある。しかし、西施と貂蝉の二人は多くの書物や詩に登場するが、史書には無いので、史実かどうかは分からない。また、虞美人も「史記」にはたった一ヵ所出ているだけだという。

       (三)

数日後、王允は今度は独裁者、董卓を屋敷にまねき、貂蝉に会わせた。大の女好きである董卓はすぐさま歌舞がうまく、まるで仙女のよう美貌の貂蝉が気に入り、その日のうちに屋敷に連れて帰った。その話はその夜のうちに呂布の耳に入り、呂布はすぐさま王允を問い詰めにやってきた。しかし王允は「董卓が呂布を喜ばす為に貂蝉を連れて帰ったのだ」と答えたので、呂布はおとなしく帰った。ところが、翌朝になって呂布は、董卓が貂蝉に手をつけたことを知った。呂布は悔しがりながらもどうすることもできなかった。こうして、呂布は董卓に恨みを持つようになった。貂蝉は、董卓がますます自分にのぼせ上がるように努める一方、機会をとらえては呂布と密会するなどして二人の間でうまく立ち回った。密会を重ねるつど、呂布はますます貂蝉に溺れていった。そんなある時、呂布と貂蝉が二人きりでいるのを目にした董卓は、とうとう呂布に戟(げき=武器の一種)を投げつけて憤(いきどお)った。これで二人の不仲は決定的になった。呂布はやり場のない怒りで王允に相談した。ついに呂布が董卓殺害を決めたので、王允は皇帝が董卓に王位を譲ることを決めたという嘘を使い、董卓を宮殿に移動させた。そして宮殿に到着した董卓を待っていたのは呂布であり、その場で呂布によって首を切り落とされた。こうして、豪族たちが連合しても倒せなかった独裁者、董卓であったが、わずか十六歳の美女の罠によって破滅してしまった。その後、董卓の遺体は市中においたままにされ、彼の脂(あぶら)ぎった死体の臍(へそ)の上に立てられた蝋燭(ろうそく)は、その脂肪で何日も燃え続けたという。王允は殊勲者の呂布を奮威将軍に任じた。そして董卓の残党狩りを行い、董卓の一族を皆殺しにし、董卓派と見られた官僚らを粛清した。さらに長安の外に居た董卓の腹心であった李カク(りかく)らの討伐を呂布に命じた。李カクらは最初は軍を解散して逃げようとしていたが、覚悟を決めて逆襲し、呂布はこれに敗れて逃亡した。呂布を破った李カクらは長安を包囲し、王允は献帝と共に李カクらと対峙した。李カクらは「陛下に害意はありません。王允を引き渡して下さい」と言って来た。王允もこれに仕方なく従って兵士たちの中に入り、王允は兵士により殺害され、晒(さら)し首となった。

(参考)

@戟を投げつけて憤った・・・董卓は、二人が密会しているのを見て大いに怒り、呂布に戟を投げつけた。しかし、李儒は「絶纓の会(ぜつえいのかい)」の故事をひいて董卓を諌め、天下を得るために貂蝉を呂布に与えるよう進言した。一度はそれを受け入れた董卓だったが、貂蝉が拒んだため二人で別の場所に移り住んだ。王允はここぞとばかり「これでは、呂布将軍は天下の笑い者である」と呂布をそそのかし、ついに呂布は意を決し、董卓を殺すと誓った。

A絶纓の会・・・昔、楚の荘王(そうおう)は、諸侯を招いた宴会でお気に入りの寵姫に酒をすすめさせていたが、突然の風が灯火を全て吹き消すと、座にあった一人のものが寵姫に戯れた。寵姫はその者の冠の纓(ひも)を引きちぎり、荘王に訴えた。しかし、荘王は「酒の上の事じゃから」と全ての者に纓を切らせてから灯を点けさせたため、寵姫に戯れた者は誰だか分からなかった。後に荘王が秦の兵に囲まれると、一人の将が深手を負いながら必死の働きで王を救った。その将こそ、かつて王の寵姫に戯れた蒋雄(しょうゆう)という者だったという。

       (四)

わずか十六歳でその身をもって独裁者、董卓から人々を救った貂蝉は、その後、呂布と共に行動していたが、198年に呂布と共に曹操とその下に当時いた劉備の軍勢によって捕らえられた。貂蝉は、保身のために劉備の義弟である関羽の歓心を買おうとして、呂布を口を極めて非難する一方、関羽や張飛を褒めたたえた。関羽は呂布が貂蝉という美女のために身を誤ったと考え、ただでさえ貂蝉に対する印象が悪かったところへ、貂蝉が呂布を悪く言うのを聞き、その憤激は頂点に達した。関羽は貂蝉の不義、不貞ぶりを責め、このような女を生かしておいては禍の元になるとして斬り殺した。一方、呂布は、命乞いをしたが最後は「丁原(ていげん)、董卓のことをお忘れになるな」という劉備の進言により、曹操は呂布を処刑した。

(参考)

@貂蝉・・・貂蝉にはモデルがいて、呂布伝には「董卓はいつも呂布に奥御殿の守備をさせていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、そのことが露見するのを恐れて、内心おちつかなかった」とあり、この侍女が呂布と董卓の仲を裂く一因になり、それに枝葉をつけて貂蝉と言う美女が誕生したという。

A劉備・・・三国の蜀漢(しよつかん)の初代皇帝。関羽・張飛らとともに「黄巾の乱」鎮圧に尽力。諸葛亮(しよかつりよう)の天下三分の計により、呉の孫権と結んで魏(ぎ)の曹操を赤壁で破り、蜀を平定した。

B丁原・・・当初、呂布は地方豪族、丁原の部下であったが、丁原を殺し、その軍勢を引き連れて董卓の軍に降(くだ)った。

 

(小話566)「予言者ポリュエイドスとミノス王の幼い息子グラコウス」の話・・・

             (一)

ギリシャ神話より。クレタ島の偉大なるミノス王の幼い息子グラウコスが行方不明になった時、ミノス王は神託を伺った。すると、ミノス王の家畜の中に不思議な子牛がいるので、その子牛が何に似ているか言い当てた者がグラコウスを見つけて生き返らせてくれる、というものであった。その子牛は、日中4時間ごとに白、赤、黒と色を変えた。ミノス王は国中の占い師を集めたが、答えは出なかった。その時、ちょうどクレタ島に来ていた予言者のポリュエイドスが話を聞いて王宮に来て言った。「その子牛は桑(くわ)の実に似ています。はじめは白く、だんだん赤くなり、終りには黒くなります」神託通り、彼はグラウコスを見つけて生き返らせることができたという。

(参考)

@ミノス王・・・ミノス王は大神ゼウスと美しいエウロペの子で、クレタ島に居住し、太陽神ヘリオスの娘 「すべてに輝く」パシパエを妻にし、、カトレウス、デウカリオン、 グラウコス、アンドロゲオスの四人の息子とアカレ、 クセノディケ、アリアドネ、パイドラの四人の娘がいた。(小話31-419)「ミノス王と迷宮ラビュリントスの怪物ミノタウロス。そしてイカロスの翼」の話・・・を参照。

             (二)

ギリシャ神話より。クレタ島の王ミノスの息子グラコウスは、幼い頃、蜂蜜を入れた大甕(おおかめ)の中に落ちて死んでしまい、そのまま行方不明になっていた。グラコウスがいなくなったことに気付いた人々があちこち探したが見つからなかった。ミノス王は予言者ポリュエイドスに占ってもらい、グラコウスを見つけたが、既に死んでいた。ミノス王はポリュエイドスに息子を生き返らせてくれと頼み、彼を息子の墓の中に一緒に閉じ込めてしまった。途方にくれているポリュエイドスに蛇が襲いかかってきた。ポリュエイドスが蛇を殺すと、仲間の蛇が現れて、仲間が死んでいるのを見てどこかへ行った。やがてその仲間の蛇は薬草を持って戻ってくると、その薬草で死んだ蛇が行き返った。ポリュエイドスは蛇が使った薬草を探し出し、グラコウスの口の中に入れて蘇(よみがえ)らせることができた。こうしてグラコウスは生き返り、ポリュエイドスは墓から出ることができたという。

 

(小話565)「青牛」の話・・・

     (一)

秦(しん)の時、武都(ぶと)の故道(ごどう)に怒特(どとく)の祠(やしろ)というのがあって、その祠のほとりに大きい梓(あずさ)の樹が立っていた。秦(しん)の文公(ぶんこう)の、二十七年、人をつかわしてその樹を伐(き)らせると、たちまちに大風雨が襲い来たって、その切り口を癒合(ゆごう)させてしまうので、幾日を経ても伐り倒すことが出来ない。文公は更に人数を増して、四十人の卒に斧(おの)を執(と)らせたが、なおその目的を達することが出来ないので、卒もみな疲れ果てた。その一人は足を傷つけて宿舎へも帰られず、かの樹の下に転がったままで一夜を明かすと、夜半に及んで何者か尋ねて来たらしく、樹にむかって話しかけた。

     (二)

「戦いはなかなか骨が折れるだろう」「なに、骨が折れるというほどのことでもない」と、樹の中で答えた。一人がまた言った。「しかし文公がいつまでも強情(ごうじょう)にやっていたら、仕舞いにはどうする」「どうするものか。根(こん)くらべだ」「そう言っても、もし相手の方で三百人の人間を散らし髪にして、赭(あか)い着物をきせて、朱(あか)い糸でこの樹を巻かせて、斧を入れた切り口へ灰をかけさせたら、お前はどうする」樹の中では黙ってしまった。樹の下に寝ていた男はその問答を聞きすまして、明くる日それを申し立てたので、文公は試みにその通りにやってみることにした。三百人の士卒(しそつ=兵隊)が赭い着物をきて、散らし髪になって、朱い糸を樹の幹にまき付けて、斧を入れるごとに其の切り口に灰をそそぐと、果たして大樹は半分ほども撃ち切られた。そのとき一頭の青い牛が樹の中から走り出て、近所のホウ水(ほうすい)という河へ跳り込んだ。これで目的の通りに、梓の大樹を伐り倒すことが出来たが、青牛はその後も水から姿をあらわすので、騎士をつかわして撃たせると、牛はなかなか勢い猛(たけ)くして勝つことが出来ない。その闘いのあいだに、一人の騎士は馬から落ちて散らし髪になった。彼はそのままで再び鞍(くら)にまたがると、牛はその散らし髪におそれて水中に隠れた。その以来、秦では旄頭騎(ぼうとうき)というものを置くことになった。

(参考)

@旄頭騎(ぼうとうき)・・・それ以来、秦の騎兵の先鋒は、魔除けのために髪を乱して駆けるようになった。それが秦の「旄頭騎(ぼうとうき)」のいわれだという。

A岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話564)「閻魔大王と生き返った三男の嫁」の話・・・

       (一)

昔話より。中国は山東の奥の王家村に王長者が住んでいた。王長者の妻、陳氏は六十二歳であった。子供は息子三人と娘一人だった。長男も次男も三男も嫁を貰っていた。三男の嫁は十八歳で一番若い嫁だった。王長者の妻、陳氏はある日の真夜中、閻魔大王に「明日の正午、お前は霊界に来い、死ぬのだ」と言われる夢を見てびっくり、一晩中泣いて眠らなかった。夜が明けると、三人の息子、三人の嫁、一人の娘をみんな呼んで「わたしは昨夜、夢の中で閻魔大王様に、今日の昼に寿命が終わるから、黄泉(よみ)の国に来るように言われた。わたしゃ、六十二で死にたくない。息子や、お前行っておくれ」と叫んだ。長男は慌てて母親の前にひざまずき「わたしはお母さんの替わりに死んで閻魔大王の所へ行く気持ちはありますが、わたしの国境警備の任務を誰も替わってくれません」「じゃあ、次男のお前が替わりに死んでおくれ」次男も慌てて母親の前にひざまずき「わたしもお母さんの替わりに死んで閻魔大王の所へ行く気持ちはありますが、誰もこの家を離れた分家を継いでくれません」「じゃあ、三男のお前が替わって死んでおくれ」三男も慌てて母親の前にひざまずき「わたしだってお母さんの替わりに死んで閻魔大王の所に行く気持ちはありますが、誰もわたしに替わって学問をしてくれません」と言った。つまり、誰も母親の替わりに死にたくはないのだった。

       (二)

母親はあきらめず、今度は娘に「息子たちは誰も替わってくれない。娘やお前、替わっておくれ」娘も慌てて母親の前にひざまずき「わたしはお母さんの替わりに死んで閻魔大王の所へ行く気持ちはありますが、わたしは何処かの家へ嫁に出て行くのですから」と言った。「それなら嫁さんたちの誰かが、替わりに死んでおくれ」長男の嫁が慌てて姑(しゅうとめ)の前にひざまずき「わたしはお姑さんの替わりに死んで閻魔大王様の所へ行く気持ちはありますよ。けれど、お姑さんの生んだ息子さえみんな替わらないのに、ましてお金で買われた嫁は誰だって、替わりに死ぬなんて思いません」と言った。次男の嫁も大きくうなずいた。するとそばで聞いていた三男の嫁が心を決めて「わたしがお姑さんの替わりに死んで、閻魔大王様の所に行きます。老母はしおれた白菜と同じで、一度切られたら戻れません、若い嫁は南の畑の韮(にら)と同じで、一度切ってもまた生えます。この世に老いない人はありません。わたしは南の畑の韮より強いです。わたしはお姑さんに替わって閻魔大王様に会いに行きます」と言った。

       (三)

三男の嫁は急いで自分の部屋に帰り、嫁(とつ)いで来た時の衣裳を着て、上から下まで綺麗に化粧をすると「わたしの死鬼、わたしを連れてお行き、わたしが姑に替わって大王様に会うわよ」と言って、白綾の帯を梁(はり)にかけると、嫂(あによめ)たちは、「あんた早く死んで、あたしたちがこの三尺の白綾の帯を結んであげる」と言った。三男の嫁は「さあ、わたしはこの世からあの世へ行くわ、門を開けて」と言って首を吊(つ)ると、二匹の死鬼は三男の嫁を担いでどんどん走り、閻魔大王の前に来た。閻魔大王は若い三男の嫁を見ると死鬼に「わしは、お前たちに六十二歳の陳老婆を連れて来いと命じたのに、なぜ十七、八歳の若妻を連れて来たのだ」と言った。三男の嫁は慌ててひざまずき「閻魔大王様、お聞きください。わたしは崔氏の娘、十八歳で崔素貞と申します。わたしは、姑に替わって死んで大王様に会いに参りました」閻魔大王はこれを聞くと笑いながら言った「これは世にも珍しいことだ、いくら賢良な妻女でも姑に替わって死ぬとは驚いた、お前こそ大賢人だ、これ白面判官、生死簿を開いて、この女の寿命を調べろ」

       (四)

「はい、素貞さんは五十八歳で閻魔庁に来ることなっています、いま十八歳ですからまだあと四十年あります」「わしはお前に二十年寿命をのばし、跡継ぎに一男一女を授けてやる、どうじゃ崔素貞。ついでにお前の姑の寿命も十年のばしてやる、七十二歳になったらわしの所へ来い、あと十年生きろ」すると三男の嫁の素貞は「大王様、わたしの寿命の十年を減らし、姑の寿命をあと十年ふやし二十年にしてください」と言った。「お前は賢良なばかりか情も深いな、二十年のお前の寿命をそのままにして、お前の姑に二十年の寿命をやろう、八十二歳になったら、わしに会うのじゃ」三男の嫁は鬼たちに連れられてまたこの世に戻ってきた。

       (五)

三男の嫁、崔素貞が首を吊って死んだので、崔の実家では可哀相で道教の和尚を呼び、花模様のついた棺桶に納めた、そこへ崔素貞があの世から戻って来て、棺桶の中から「閻魔大王がわたしを生き返らしてくれた、わたしは死人ではない、幽霊ではない」と叫んだ、道教の和尚はびっくり仰天し「大変だ、死人が中で叫んでいる、死んでいないのだ」と叫び棺桶の蓋が開けられた。中から十八歳の崔素貞が這い出して来て「わたしの寿命は五十八歳ですが、この度七十八歳の寿命になりました、お姑さんは六十二歳でなく八十二歳で閻魔大王に会うことになりました、あの世で閻魔大王様はお前の嫂(あによめ)はお前を死なせたから、二人の寿命を十五年ずつ減らすと、言っていました」と言った。これを聞いて二人の嫂(あによめ)は地面に座りこんで大声で泣き出した。

 

(小話563)「中国の二十四孝の物語(3/12)」の話・・・

      (一)「曽参(そうしん)」

周(しゅう)朝の時代、一人の極めて道徳を好む者がいた。その名を曽参(そうしん。又は、曽子=そうし)といい、孔子の門下生であった。彼は幼い時に父を失い、母と子は互いに寄り添うようにして暮していた。曽子は母親を養い、その心根はまことに孝順な者であった。毎日山にのぼり、柴(しば)刈りをして生計を立てていた。ある時、曽子が柴刈りをしていたが、家の方に俄(にわか)にお客がやって来た。曽子の親しい友人がやって来たのであった。一人で留守居をしていた母親は、どうしておもてなしをしていいかわからず、ただおろおろするばかりであった。そこで、母親は、曽子に帰ってほしいと願って自分で自分の指を噛(か)んだ。その時に、山の中にいた曽子は、にわかに胸騒ぎがしたために、急いで柴刈りをやめて家にとんで帰った。そして母親の前にひざまづいた時に、母親はありのままを詳しく語り聞かせた。このように指を噛んだのが、遠い所で反応したのは、とりわけ曽子が孝行者であって、親子の情の深いしるしであった。曽子のことは、ほかの人の孝行と違って心と心との深いつながりのことをいっているが、これには奥深い道理があるに違いない。

(参考)

@曽参(曽子)・・・中国、春秋時代の思想家。孔子の弟子。孝行で知られ、「孝経」を著したという。「曽参、人を殺す」と言う言葉があるが、この話は「ある時に曽参の親類が人を殺し、誰かが誤って曽参の母親に「曽参が人を殺した」と報告した。母親は曽参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、二度、三度と報告が来ると終(つ)いにはこれを信じて大慌てしたと言う」(戦国策)

A柴(しば)刈り・・・薪を拾いにいったという説もある。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ

      (二)「炎子(たんし)」

周(しゅう)朝の時代に炎(たん)という者がいた。後(のち)の人は炎子(たんし)と呼んだ。天性、非常に孝順で、親のために命を捨てようとしたほどの孝行な人であった。年をとった父母が共に両眼をわずらい、それを治すために効能のあるといわれる鹿の乳を欲(ほ)しがっていた。そこで炎子は、鹿の皮をかぶって鹿の群れの中にまぎれ込み、鹿の乳を取って、それを両親にさしあげていた。ところがある時に、険(けわ)しい山中に入っていったところ、猟師が鹿と誤って炎子を弓で射ようとしたので、炎子があわてて事情を説明した。それを聞いて、その猟師ははじめて炎子が一人の至孝(この上もない孝行)の子であることを了解し、深く感じ入ったという。

(参考)

@炎子・・・ぜん子という説もある。

「二十四孝図絵馬」(庚申寺)の絵はこちらへ