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(小話519)「首の飛ぶ女」の話・・・

     (一)

中国は秦(しん)の時代に、南方に落頭民(らくとうみん)という人種がいた。そして、その人種の頭(あたま)はよく飛んだ。その人種の集落には祭りがあって、それを虫落(ちゅうらく)といい、その虫落にちなんで、落頭民と呼ばれるようになったという。呉(ご)の将、朱桓(しゅかん)という将軍がひとりの下女を置いたが、その女は夜中に眠ると首がぬけ出して、あるいは狗竇(いぬくぐり)から、あるいは窓から出てゆく。その飛ぶときは耳をもって翼(つばさ)としていた。そばに寝ている者が怪しんで、夜中にその寝床を照らして視(み)ると、ただその胴体があるばかりで首が無い。からだも常よりは少しく冷たい。そこで、その胴体に夜具をきせて置くと、夜明けに首が舞い戻って来ても、夜具にささえられて胴に戻ることが出来ないので、首は幾たびか地に堕(お)ちて、その息づかいも苦しく忙(せわ)しく、今にも死んでしまいそうに見えるので、あわてて夜具を取りのけてやると、首はとどこおりなく元に戻った。

(参考)

@狗竇・・・犬の出入用に垣根の下に掘った穴。

     (二)

こういうことがほとんど毎夜くり返されるのであるが、昼のあいだは普通の人とちっとも変ることはなかった。それでも非常に気味が悪いので、主人の将軍も捨てて置かれず、ついに暇(ひま)を出すことになったが、だんだん聞いてみると、それは一種の天性で別に怪しい者ではないのであった。このほかにも、南方へ出征(しゅっせい)の大将たちは、往々(おうおう)こういう不思議の女に出逢った経験があるそうで、ある人は試みに銅盤をその胴体にかぶせて置いたところ、首はいつまでも戻ることが出来ないで、その女は遂(つい)に死んだという。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話518)「狂王と言われたルートヴィヒ二世。城とワグーナーに魅せられたその生涯」の話・・・

      (一)

1845年にルートヴィヒ2世はバイエルン国の皇太子マクシミリアン(後のマクシミリアン2世)とプロイセン王女のマリア・ヘートヴィヒとの間にはじめての子として生まれ、その3年後に弟のオットーが生まれた。ルートヴィヒが生まれて3年後、祖父であるルートヴィヒ1世が退位し父が国王として即位し、ルートヴィヒは皇太子となった。父が執務で忙しかったためと、父が一家の威厳を保つには、息子達が他の子供達と交わるべきではないという信念を持っていたため、ルートヴィヒとオットーは世間と触れ合う事がなかった。こうしたためルートヴィヒは、その暇な時間をゲルマン神話と騎士伝説などの物語を読む時間にあて、それが後のルートヴィヒに大きな影響を与えた。1864年、父王マクシミリアン2世が突然逝去した。ルートヴィヒはわずか十九歳で国王として戴冠(たいかん)を受けることになった。若く凛々(りり)しい長身の国王(まるでギリシャ神話のアポロン神のようであった)は、生来の高貴さ、優雅さ、穏やかさから女性たちにあがめら、憧れられただけでなく、男性たちをもその魅力で惹き付けた。ルートヴィヒは王となると早速、宮廷秘書に命じて幼少の頃から崇拝していた音楽家ワーグナー(51歳)を宮廷に呼び招いた。当時、ワーグナーは放蕩(ほうとう)がたたって経済的に苦しかったので願っても無い話であった。だが、多くの家臣は噂の悪いワーグナーの召喚を快く思ってはいなかった。周囲の反発をよそに、ワーグナーを神のように崇(あが)めていたルートヴィヒ2世はワーグナーに惜しみない援助を与えた。ワーグナーへの莫大な資金援助は結局、国家財政圧迫の一つになり、やがてルートヴィヒ2世は家臣の反対を受け入れて1865年12月、ワーグナーを追放した。それからのルートヴィヒ2世は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく中世風のノイシュヴァンシュタイン城などの絢爛豪華な建築物に力を入れるようになった。また彼はルイ14世を敬愛しており、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城を建設した。

(参考)

@音楽家ワーグナー・・・1メートル91センチの長身のルートヴィヒ2世は神々しいばかりで、謁見後、ワーグナーは友人に「ああ、彼はあまり美しく、多感で、神々の儚(はかな)い夢であるこの俗世間では消えてなくなってしまうのではないか、と恐れるほどです」と感動を書き送っている。

A1865年の12月・・・この日の朝、作曲家ワーグナーは使用人と一匹の犬を従え首都を去りスイスのトリプシェンに向かった。

Bノイシュヴァンシュタイン城など・・・ルートヴィヒ2世は非業の死を遂げるまでに3つの城を造り、一つの城を企画した。すなわち、ノイシュヴァンシュタイン城(無数の入り口があるが、扉の先はことごとく行き止まり。その1つだけが最上階の部屋へとつながっている)、リンダーホフ城(メルヘンの宮殿・隠し階段があり、その先には孤独な王が舟を浮かべた洞窟が広がっている)、ヘレンキムゼー城(ベルサイユを模した未完成の城。鏡の間には数万本のろうそくが灯されていたという)であり、着工に到らなかったフアルケンシュタイン城である。このためルートヴィヒ2世は「メルヘン王」とも言われた。

      (二)

1866年、プロイセンとの戦いが起こった。戦争を嫌うルートヴィヒ2世(21歳)はバイエルン王を退位しようとさえ考えたが、結局、議会の要求どおりプロイセンとの動員令に署名した。戦いには敗れ、バイエルンは多額の賠償金を支払うことになった。ルートヴィヒ2世は女性に関心が無ったが、ただ一人、心を許していた女性は、自分と同じ一族で「シシィ」の愛称で呼ばれた従妹のオーストリア皇后エリーザベトであった。彼女もまた彼と同じく堅苦しい宮廷を嫌って、逃避行を繰り返していた為にお互い心を通わせた。ルートヴィヒ2世の将来を心配していたエリーザベト皇后は自分の妹である、ワグナーの音楽を趣味に持つゾフィー(19歳)を彼の妃として推薦し、ルートヴィヒ2世も婚約を発表した。だが王はゾフィーに無関心で婚期を延ばし、ついには婚約を解消した。家臣らも驚き、さすがのエリーザベト皇后も彼の態度に不満を覚えたという。だが、ルートヴィヒ2世には、女性よりも男性に興味をもち、男色の傾向があって美青年を愛していた。王の好みは「中世騎士か、ブルボン風貴公子の似合う二十台の若者」で、ゾフィーと婚約解消してのち、婚礼の予定日だった日には「神よ、身の毛のよだつ程恐ろしいことがなくなったことを感謝します」と記している。この頃、バイエルン王国には、大きな転機が訪れていた。ビスマルク率いるプロイセンがドイツ統一を提唱してきた。その覇権争いに敗れて、彼はますます政治嫌いの王へと大きく転換してしまった。その上、フランスとの戦い(1870年)で弟、後のオットー1世が精神に異常をきたしてしまい、ルートヴィヒ2世(25歳)はますます現実から逃れ、孤独な自分の世界に入り、昼夜の生活が逆転してしまった。彼は夜を好み、ホーエンシュヴァンガウ城の自室の天井画を、昼の絵から夜の絵に書き換えたりした。又、王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていた。極度な人間嫌いの陥った王はますます空想の世界に閉じこもっていった。そうしたとき、魂の友でもあったワーグナーもヴェネツィアで客死した。ルートヴィヒ2世は、ひたすらノイシュヴァンシュタイン城の完成を夢見ながら、小船に乗って白鳥に餌(えさ)をやり、「小さなテーブル、食事をおだし」と呪文を唱え、階下の調理場から魔法の食卓が競りあがってくるのを無邪気に見守っていた。そこには憧れ続けた「白鳥の騎士」の化身となったルートヴィヒの孤独な姿があった。やがてルートヴィヒは完成を待つことなく、ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥の城とも言われている)に住み始めた。そこはシャンデリアが黄金に輝き、そこここに白鳥があしらわれた夢の城であった。

(参考)

@エリーザベト・・・ルートヴィヒは、エリーザベトからみると従兄の子で、ルートヴィヒがワーグナー音楽に傾倒したように、エリーザベトはハインリッヒ・ハイネの詩を愛していた。ルートヴィヒは、晩年(39歳)の1885年、自分の小さな城があるローゼンインゼルで、エリーザベト(シシィ)と過ごしたことがあった。エリーザベトのこんな詩が残されている。「鷲(ルートヴィヒ)たる君は峰々の間に高く、かもめ(シシィ)は投げたり、あわ立つ波の文、万年雪の彼方へ」

(小話459)「美しき皇妃・エリーザベト。自由に憧れた、その波乱の生涯」の話・・・を参照。

Aノイシュヴァンシュタイン城・・・ノイシュヴァンシュタイン城は「ローエングリン(北欧の伝説・白鳥の騎士ローエングリンに基づくオペラ。)」を元にした城であった。その優美さから「城の中の城」として名高く、シンデレラ城のモデルとも言われている。彼の思いを極限にまで昇華させた、ドイツの最南端、バイエルンの森と湖の奥深くたたずむノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ最高の美の遺産となった。白く、孤高のきらめきを放つその姿は、哀しくも美しい一人の男の永遠のロマンを語り続けて、空に向かって立ちつくしている。生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と残した。しかし、地元の住民らはその美しい城を壊すことができずにそのまま残し、現在まで生き続けている。

「ノイシュヴァンシュタイン城」の写真はこちらへ

「ルートヴィヒ二世像」の写真はこちらへ

Bオットー1世が精神に異常・・・二人の王子(ルートヴィヒとオットー)の悲劇的な運命は、むしろ遺伝的な要素によるものであると考えられている。ハプスブルグ家は代々血族結婚を繰り返してきたことで様々な問題が生じていた。

Cワーグナーもヴェネツィアに客死・・・ワーグナーが1883年の2月に亡くなったとき、ルートヴィヒ2世は宮廷秘書官にこう言っている「今、全世界がその死を悼んでいる作曲家は、余が最初に見出し救ったのだ」と。この言葉は半分も真実ではないが「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルグの指輪」という革命的な作品や「ラインの黄金」や「ワルキューレ」等のワーグナーをワーグナーたらしめている楽劇(ワーグナーが創始したオペラの一形式)の多くは、ルートヴィヒ無くしては具体化できなかったことは間違いないと言われている。

      (三)

しかし、無用の幾つかの城に莫大な費用をつぎ込む「狂王」に業を煮やした家臣たちは、ついに強硬手段に訴えた。家臣たちはルートヴィヒ2世の退位を企(たくら)み、1886年6月12日、ルートヴィヒ2世を逮捕してベルク城に送った。代わりに政治を執り行ったのは摂政の叔父のルイトポルトであった。ルートヴィヒ2世は精神病を理由に幽閉され、もはや囚われの身も同然であった。初夏の陽光がまぶしいその翌日、散歩に出たいというルートヴィヒのささやかな願いがかなえられて、湖に出掛けた。そして「8時には戻る」それが最後の言葉になった。翌日の6月13日にシュタルンベルク湖畔でルートヴィヒ2世は医師のグッテンと共に水死体となって発見された。享年、40歳。その死は未だ謎のままである。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べている。

(参考)

@ルートヴィヒ2世の精神病について・・・ルートヴィヒ2世は一般に精神病のために退位させられたとされるが、実情はバイエルンの恐慌にその原因があったとされる。バイエルンは、1866年のプロイセンとの戦争の講和条約のために多額の賠償金の支払い義務があり、さらにルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設、政情不安などによる恐慌が起きていた。そのため、その責任を問われた総理大臣ルッツらが、フォン・グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、禁治産者にすることを決定したのであった。

Aルートヴィヒ2世は医師のグッテンと共に水死体・・・ルートヴィヒ2世とエリーザベトとゾフィー(エリーザベトの妹)の三人は、共通の運命を迎える事になった。三人とも普通の死でなく、ルートヴィヒはシュタルンベルク湖で水死。ゾフィーは慈善バザーで火事に巻き込まれ焼死、そしてエリーザベトは暗殺者の刃の犠牲となった。

「ルートヴィヒ二世とゾフィー」の絵はこちらへ

 

(小話517)「烏合(うごう)の衆」の話・・・

      (一)

中国で、王族ではない普通の身分から王になった最初の人物は、漢の時代の高祖(劉邦)で、高祖の部下たちも、ほとんどが王族ではない人たちであった。時は秦(しん)の天下も終わろとしていた頃、劉邦(りゅうほう)は地元の農民や山賊などを集めて軍を編成し挙兵した。規律を作っても、生活環境が違う中で育ってきた兵士たちは、簡単には纏(まと)まらなかった。そんな中、劉邦の部下に麗食其(れきいき)という人物がいた。麗食其は、小さな頃から読書好きであったが、家がとても貧しくて、田舎の役人としてなんとか生計をたてていた。劉邦が新しい国を作るために挙兵したとき、すすんで軍に入り、読書で得た知識を生かし、軍師の一人として劉邦に重用された。彼だけではなく、特に訓練もされていない、生活ぶりも全く違う人々が、ひとりひとりの持っている力を存分に発揮して、立派な国を作りあげたのであった。その活躍ぶりを、当時の歴史家たちは「高祖は、烏(からす)の集まりのように統制のない大衆を見事にリードして、気ままな乱れた軍を、立派にまとめ上げて、すばらしい国を作り上げた」と、ほめたたえた。そして、それ以来、「烏合の衆」をきちんとまとめて、勝つことが、立派な将軍の条件だ、と言われるようになった。

(参考)

@烏合の衆・・・烏(からす)の群れ。昔からカラスは自分勝手に動き回り、仲間との行動もバラバラである鳥だと思われていて、そのように、人々がただより集まって騒ぐだけの集団をいう。

A劉邦・・・中国、前漢初代皇帝(高祖)。農民の出身で、秦(しん)末に兵を起こして、項羽軍と連合して秦と戦い、項羽に先んじて、秦の都・咸陽を占領。やがて項羽を破り天下を統一、都を長安に定めて帝位についた。郡国制を敷き、一族・功臣を郡国の王とした。

B出典は「後漢書」

      (二)

後漢王朝の創始者・光武帝がまだ劉秀(りゅうしゅう)だった頃のこと。漢の成帝(せいてい)の落し子だと名乗った王郎(おうろう)が邯鄲で挙兵し、一戦を交えることになった。王郎の兵は多く、倒せるかどうか劉秀は不安になった。そんな時、家臣の一人がこう言って劉秀を励ました「王郎なんてそこら辺の烏合(うごう)の衆をあつめて威張っているのにすぎません。きっと勝てますよ」と。さらに多くの軍が味方し、勢いを増した劉秀軍は、王郎軍を次々と破り、邯鄲を陥落させ、王郎を倒した。

(参考)

@成帝・・・成帝は、歴代の皇帝と違い、酒色を好む性格であり、お忍びで町を出歩くこともしばしばで、心ある人士のひんしゅくを買っていたが、民衆からはそのことが歓迎されていたという。

A劉秀・・・後漢の初代光武帝のこと。高祖(劉邦)の九世の孫にあたる。

 

(小話516)「各地を遍歴する酒神・ディオニュソス」の話・・・

     (一)(ミニュアス王の娘達)

ギリシャ神話より。古都オルコメノスを統治していたミニュアス王には数人の娘達がいた。その頃、街ではディオニュソス信徒の力が強さを増してきていた。しかし、ミニュアス王のアルキトエ、レウキッペ、アルシッペの三人の娘はディオニュソス信徒(バッカスの巫女)を馬鹿にして祭りには加わらず、家の中で機(はた)を織って楽しんでいた。そこで、ディオニュソス自らが三人を祭りに誘った。だが、それでも拒んだため、たちまち神罰がくだった。部屋の中は猛獣だらけ、織っていた織物は葡萄(ぶどう)の蔓(つる)に変った。恐怖のあまり逃げ出した三人の娘は、たちまち蝙蝠(こうもり)に身を変えられてしまった。

     (二)(プロイトス王の娘達)

ギリシャ神話より。アルゴス領の都市ティリュンスのプロイトス王(後にアルゴスの王となる)に、三人の娘イピノエ、リュシッペ、イピアナッサがいた。アルゴス全土がディオニソス信徒で湧き上がっている中、彼女たちはこの祭礼を受け入れなかった。そのため気が狂ってアルゴス全土をさまよい歩いた。そこで、プロイトス王は予言者のメラムプスと取り引きをし、娘の狂気を取り払ったら国土の3分の2を与えると言った。予言者のメラムプスはたくましい若者を引きつれ、祭礼を行っている女たちを山から追い出した。その途中で、長女のイピノエは亡くなってしまったが、他のものはみな正常に戻った。プロイトス王はメラムプスに約束通り、所有地を分け与え、二人の娘をメラムプスとその兄弟のビアスに妻として与えた。

     (三)(イカリオスとその娘)

ギリシャ神話より。各地を遍歴した酒神・ディオニュソスはアテナイ(アテネ)の近くの村で困っているときに、農夫イカリオスのもてなしを受けた。そこでディオニュソスは、イカリオスにお礼として葡萄の栽培とワインの製法を伝授した。イカリオスは出来上がったワインを山羊皮の袋に入れ、村人たちにふるまった。だが、初めて飲む酒に村人は興奮し、毒を盛られたと誤解してイカリオスを殺して、その亡骸を隠してしまった。いつまで経っても父が戻らないのを心配した娘エリゴネは、飼い犬メーラを連れて父を探しに出掛けた。そして飼い犬メーラが見つけ出したのは、既に亡き主人の埋められている穴であった。何が起こったかを悟った娘のエリゴネは、絶望のあまり首を吊って死んでしまった。そしてメーラも、主人イカリオスの埋められたところから一歩も動こうせず、遂には、その場で飢え死にしてしまった。事の次第を知ったディオニュソス神は怒り、村の娘全員を狂気に陥らせ、集団自殺に及ばせた。やがて誤解と知った村人たちの手で哀れな父と娘は供養され、ここにディオニュソス神の怒りも収まった。

 

(小話515)「イソップ寓話集(5/20)」の話・・・

      (一)「カラスとハクチョウ」

カラスは、ハクチョウの姿を見て、自分もあんな風に美しくなってみたいと思った。カラスは、ハクチョウの羽が白いのは、いつも泳いでいるからだと思い、自分も湖に居を構えようと、餌場としている近くの祭壇を後にした。しかし、いくら洗っても、羽は白くならなかった。それどころか、餌が不足して、彼はとうとう死んでしまった。

(習慣を変えても、本質は変わらない)

      (二)「ヤギとヤギ飼」

ヤギ飼いは、群れからはぐれたヤギを連れ戻そうとやっきになっていた。彼は、口笛を吹いたり、角笛を吹き鳴らしたりと大わらわだったが、当のヤギは、全く意に介さぬようだった。とうとう、ヤギ飼いは、ヤギに向かって石を投げつけた。すると、石がヤギの角(つの)に当たって角が折れてしまった。ヤギ飼いは、どうか、このことは主人には内緒にしてくれと、ヤギに頼んだ。すると、ヤギはこう答えた。「あなたは、どうかしていますよ、私が黙っていようとも、この角が黙っていますまい」

(一目で分かるようなものを隠そうとしても無駄である)

      (三)「牝のライオン」

子供を一番多く産むことのできるのは誰か? というような論争が、野に棲(す)む獣たちの間に持ち上がった。獣たちは、論争に決着をつけてもらおうと、牝(めす)のライオンのところへ、ガヤガヤと押し掛けて行った。「ライオンさんは、一度に何人の子供をお産みになります?」獣たちが牝のライオンに尋ねた。すると彼女は、笑いながらこう答えた。「なぜそんなことを気にするのです? 私はたった一匹しか産みませんよ。でも、その子は、間違いなくライオンの子ですよ」

(量より質)

 

(小話514)「白いアーモンドの花咲く大地」の話・・・

      (一)

民話より。昔、ポルトガルの最南端の都市アルガルヴェが北アフリカのムーア人に支配されていた頃、当時のムーア人の王様のもとにスカンジナビアの美しいお姫様が嫁(とつ)いで来た。イスラム教徒だった王様には他にも美しいお妃様達がいたが、王様は言葉の通じない北国のお姫様をとても大切にし、お姫様は国民には「北の美女」と呼ばれた。王様はお姫様を深く愛していたが、冬になると、お姫様は故郷の雪を思い出して、北方の地平線を見つめては深い悲しみに沈み、ついには病気になってしまった。そうしたある日、お姫様は王様に泣く泣く訴えた。「ここには、故郷のような 雪景色がないから悲しいのです」と。アルガルヴェというのは地中海に面した地方で、温暖なアルガルヴェには雪は降らなかった。

(参考)

@アルガルヴェ・・・ポルトガルの南岸地方で、ポルトガルの中では最も温暖で日照時間が長く、春にはアーモンドやオレンジの花が咲き乱れる地方。

      (二)

そこで、可愛いお姫様をなんとか元気にしてやりたくて、王様はこんなお触れをだした。「国じゅうにアーモンドの木を植えよ!」王様はアルガルヴェ全土にアーモンドの木を植えさせた。そして、春が来た。王様はお姫様を連れて、お城の高い塔に上ると そこからの眺めをお姫様に見せた。すると、大地はアーモンドの白い花で、見渡す限りの野も山も真っ白で、まるで雪景色のようであった。お姫様は手を叩いて喜んだ。こうして、北国のお姫様はアーモンドの花に慰められて、長い間苦しんでいたホームシックから解放され、病気も治って優しい王様と幸せに暮すようになった。それからは毎年、春になると、お姫様はお城の高い塔の窓辺に立ちアーモンドの花のその美しい景色を眺め、故郷の雪景色を思い出しながらうっとりと時を過ごしたという。

(参考)

@アーモンドの木・・・アーモンドの木は収獲できるようになるまでに約4年かかり、成長したアーモンドの木からは約20年間収穫できるという。又、古代ローマの人々はアーモンドを「グリークナッツ(ギリシアの木の実)」と呼んでいたいう。アーモンドの花言葉は、希望。

 

(小話513)「悲劇の皇太子ルドルフ。時代に翻弄(ほんろう)されたその短い生涯」の話・・・

        (一)

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とその皇妃エリーザベトの子で皇位後継者のルドルフ皇太子は、1858年に誕生し、厳格な祖母ゾフィーによってハプスブルク家の方針により育てられた。当初、祖母が付けた教育係ゴンドレクール伯爵はルドルフ皇太子に軍事教練まがいのスパルタ式教育を押し通した。精神と肉体を痛めつけるこの教育の影響により、ルドルフは虚弱体質で神経過敏な子供となった。ゴンドレクール伯爵の教育の影響を憂(うれ)いた母親エリーザベトが公式に親権を取り戻すことを要請して、七歳以降のルドルフの教育方針は一転した。ルドルフが九歳の時(1867年)オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立したが、その思想基盤となったのは自由主義思想であった。皇妃エリーザベトは自由主義思想を支えた政治家や教育関係者と親交が深かく、エリーザベトがルドルフ皇太子に付けた教育係は、反宮廷派で自由主義者のヨーゼフ・ラトゥール大佐であり、彼が選抜した教師のほとんどが、自由主義思想との関連を持っていた。このことがルドルフが成人以降も自由主義を信奉し、自らの出生がそうであるにもかかわらず貴族に対して批判的な態度を取ったことの原因であった。 また、恩師ラトゥールはルドルフがその生涯を通して連絡を取り続けた精神的な「代父」であった。

(参考)

@皇妃エリーザベト・・・(小話459)「美しき皇妃・エリーザベト。自由に憧れた、その波乱の生涯」の話・・・を参考。

         (二)

十八歳になるまでの教育期間において、ルドルフ皇太子に関わった教師は同時に三十人以上いたが、この人数は19世紀後半当時の王侯貴族の教育状況においては、とりわけ極端に多いとは言えない。ただ例外的なのは、前述のようにこれらの教師たちの多くが、保守的な王侯貴族の教育とはまるで逆ともいえる自由主義の信奉者だったことであった。そのためルドルフ皇太子は父親の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の保守的な思想とは異なり、母エリーザベトと同じ自由主義的な思想を持っており、そのことから父親(フランツ・ヨーゼフ1世)と対立することが多かった。皇后でもある母エリーザベトはウィーンの社交界を嫌い、姑(しゅうとめ)のゾフィーと反目していたため、常に旅行することが多かった。そのため、母親のエリーザベトはルドルフのよき理解者とはなり得なかった。自由主義の影響を色濃く受けた教育と、貴族に対する批判から、ルドルフはウィーン庶民の娯楽の場であるホイリゲに良く足を運び、庶民の心情を写し取る民衆歌シュランメルンを好んで聴いた。又、執筆者としてのルドルフは、自由主義をベースに貴族批判を主な内容とした匿名政治的パンフレット「オーストリアの貴族とその使命。ある貴族青年による警告書」を始めとして「新ウィーン日報」への投稿などをしていた。政治批判のパンフレットを執筆するとき多用されたペンネームは「ユリウス・フェリックス」という。1880年代における保守派の再台頭、ことに1879年にエドゥアルト・ターフェがオーストリア・ハンガリー帝国の二回目の首相就任以降は、自由主義を固持する二十一歳のルドルフ皇太子の政治的立場は不安定なものとなっていった。

(参考)

@執筆者としてのルドルフ・・・彼は「絵と文章で綴るオーストリア・ハンガリー帝国」という、広大な帝国版図の文化・歴史をまとめた24巻に渡る辞典の編纂も勤めた。初巻および第二巻の多くは、彼自身の手による文章から成っている。そのため、この辞典はまた「皇太子の作品」という別名で呼ばれることもある。

         (三)

1881年、ルドルフ(二十三歳)はベルギーのレオポルド2世の娘シュテファニー王女と結婚し、1883年には娘エリーザベトが誕生していたが、性格の不一致は深刻なもので、二人の仲は冷え切っていた。結婚以前から、彼は貴族専門の娼婦や女優たちとの関係があったが、特にミッツィ・カスパルは、彼の一番のお気に入りの女性であった。1888年末頃、三十歳のルドルフは十六歳の男爵令嬢マリー・ヴェツラと出会った。この出会いを仲介したのは、エリーザベトお気に入りの姪、ラリッシュ伯爵夫人だった。皇太子妃シュテファニーの「つやのない麦わらのような金髪はボサボサで、眉毛は薄く、正視に耐えなかった」(ラリッシュ伯爵夫人の言葉)の姿と比べて、マリー・ヴェツラは小柄の美しい娘であった。やがて、ルドルフはマリー・ヴェツラに惹(ひ)かれて、ローマ教皇に宛てて、シュテファニーとの離婚を求める書簡を送った。教皇は、「不許可」の返事を返したがこれはルドルフにではなく、ローマ駐在の外交官を通じて父帝フランツ・ヨーゼフ1世に渡されてしまい一切が洩れてしまって、父帝の激しい怒りを呼び起こした。このころのルドルフは、オーストリア帝国のドイツ頼みの政策を嫌っていた。とくにドイツ帝国宰相ビスマルクには不信感を抱いていた。そのためルドルフは、対ロシア・対フランスとの同盟を構想して、フランスに積極的に接近する一方、秘密裡にロシアにも赴(おもむ)いたことがあったが、これも新聞によって暴露されてしまった。父帝は激怒して、ルドルフを呼びつけて叱(しか)り飛ばしたが、翌朝の父帝の書簡には「今宵のドイツ大使館のパーティには、プロシア軍第一礼装で出席するように」と書かれてあった。父帝は、新聞に暴(あば)かれた親フランス、親ロシア、反ドイツ疑惑を払拭(ふっしょく)するために必死だった。プロシア軍の礼装を身につけたルドルフ皇太子は、「この軍服は僕には耐えられないほど重い」とこぼした。

(参考)

@シュテファニー王女と結婚・・・この結婚式で最も目立っていたのは、花嫁のシュテファニー王女ではなく華やかに着飾った美しい義母のエリーザベト皇后だった。彼女と比べるとシュテファニーはあかぬけず、美人とは言えなかった。そして、この結婚はシュテファニーにとっても、ルドルフにとっても不幸な結果に終わった。

         (四)

亡くなる前々日の午後、ルドルフ皇太子は、ウィーン郊外のプラーターの狩猟地に赴き、従姉ラリッシュ伯爵夫人に「明日、マリー・ヴェツラを連れてきてほしい。今頼れるのは彼女だけだ」と語った。ルドルフ皇太子の最後の夜となった1889年1月28日の月曜日には、ルドルフはミッツィ・カスパルを訪ねた。ルドルフは夜中の三時までミッツィの元にとどまり、何杯もシャンペンを飲み、管理人には口止め料として十グルデンを与えた。そして、ルドルフは別れ際に、彼女の額(ひたい)に十字を切った。そして、ルドルフはそこからマイヤーリンクへ赴いた。翌日、ルドルフは、マリー・ヴェツラとともにマイヤーリンクの狩猟館に馬車で向かった。1月30日水曜日午前6時10分。ルドルフの部屋から二発の銃声を聞いた執事が駆けつけた。しかし、部屋は内側から施錠されており、執事は斧でドアを破って入った。ルドルフとマリーがベッドの上で血まみれになって死んでおり、傍らに拳銃が落ちていた。享年、三十一歳であった。事件の知らせは、はじめは「心臓発作」として報道されたが、じきに「情死」、「心中」としてヨーロッパ中に伝わり、様々な憶測を呼んだ。

(参考)

@様々な憶測・・・ルドルフが本当に心中したかった相手はミッツィ・カスパルだったという説がある。ルドルフは、1888年の夏には、ミッツィに教会の前で、拳銃で撃ち合って死のうと提案していた。驚いたミッツィは、すぐにウィーンの警察長官のクラウスの元に、このことを通報した。それからルドルフは、以前にも増して厳しく刑事達に監視されるようになった。それに、ルドルフの狩猟友達の ヨーゼフ・ホヨス伯は、ルドルフとマリー・ヴェツラが心中事件を起こす1889年の1月には、すでに2人の仲は冷めきっていたと語った。

Aルドルフにマリー・ヴェツラを紹介したラリッシュ伯爵夫人は、フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト皇后の怒りを買い、オーストリアから追放され、アメリカに移り住むことになった。彼女は追放された腹いせから、エリーザベトを中傷する内容のことを書いたという。

Bマイヤーリンクの狩猟館・・・母エリーザベト皇后の意向を汲み、皇帝の名でカルメル派の尼僧院とされた。

C「情死」、「心中」として・・・反人種主義・反教権主義・リベラリズムに傾いていったルドルフ皇太子の死については、謎が多く、愛人と心中した、あるいは暗殺された。又、母親のエリーザベト皇后も父親のフランツ・ヨーゼフ1世も実はルドルフが暗殺される事を知っていた等々、いろいろな説がある。白黒時代の映画「うたかたの恋」原題(Mayerling)ではこの事件を心中事件として美しく描き、この映画によってマイヤーリンクが世界的に有名になった。(11969年にはカラーで新たに映画化された)

         (五)

事件から94年後、1983年3月、63年の亡命生活に終止符を打ってウィーンに戻った最後のオーストリア皇后ツィタは、ルドルフ皇太子の死が情死ではなく、暗殺によるものだという衝撃的な告白をウィーンの大衆向けタブロイド紙「クローネン・ツァイトゥング」に行った。ツィタの夫は最後のオーストリア皇帝カール1世だが、彼はフランツ・ヨーゼフ1世に暗殺の証拠をあげられ、真相を解明するように言われたが、第一次世界大戦勃発により、うやむやになってしまっていたのだ。ツィタ皇后は次のように語った。@事件の直後、緘口(かんこう)令がひかれたのは、暗殺と知りながらも事件に政府の要人が関係しているため、政治的波及を懸念したからである。A皇太子の葬儀許可を教皇に打電したところ、教皇は拒否の返電を送った。しかし、皇帝が二回目に二千語もの暗殺電報を打電して説明すると、たちどころに許可が下りた。B マイヤーリンク近く在住の家具職人が、事件の二日後に室内の片付けを命じられたとき、家具がひっくり返されており、激しい争いの跡が見られ、壁にも弾痕・血痕の跡が著しくあり、銃声は言われるように二発ではなかった。C皇帝カールの義妹ルートヴィヒ大公妃が、ルドルフの遺骸を見たことを語り「皇太子は黒い手袋をしていました。軍服なら白い手袋のはずです。しかも、黒い手袋のなかには綿がつまっていました。ルドルフの手が利かなくなっていたようです」と証言した。D母后エリーザベトの兄、ド・ブルボン・パルマ公は「現場に駆けつけた当局者の話によると、皇太子の右手は手首からサーベルで切断されていた」と語った。このようにツィタ皇后は語ったが、真相は今も謎のままである。

(参考)

「ルドルフ皇太子」の絵はこちらへ

「マリー・ヴェツラ」の絵はこちらへ

 

(小話512)「若者デモフォーンと王女フュリス」の話・・・

      (一)

ギリシャ神話より。あるとき、デモフォーンという若者が乗った船が難破し、トラキアの海岸に流れついた。そして、助けてくれたトラキアの美しい王女フュリスと愛し合うようになり、いつしか結婚を誓う仲になった。だがデモフォーンは、王女フュリスの父のトラキア王のシトンに直してくれるように頼んでおいた船が航海できるようになると、すぐに戻るとフュリスに約束してから故郷に戻って行った。しかし、デモフォーンは故郷で美しい娘に出会い、その娘に夢中になって王妃フュリスとの約束を忘れてしまった。そのことを知らないフュリスは毎日海岸に立ってデモフォーンの船が戻ってくるのを待ち続けていたが、恋焦がれて重い病気になり死んでしまった。一部始終を見ていた狩猟の女神であり処女神でもあるアルテミス女神は、一途に恋人を待ち続けたフュリスを哀れに思い、フュリスの亡骸をアーモンドの木に変えてしまった。

(参考)

@デモフォーン・・・アテナイの英雄テセウスの息子デモフォーンはトロイ(トロイア)戦争に参加し、伝説のトロイの木馬の中に入り、ギリシャ軍を勝利に導いた立役者の一人であった。トロイの陥落後、トラキアに立ち寄り、トラキアの王女ヒュリスと恋に落ちた。一度故郷のアテナイに帰り、そして何年かの後、トラキアに戻ってきて、ヒュリスが姿を変えたアーモンドの木を抱きしめると、アーモンドの木は花を咲かせ、束(つか)の間ヒュリスはかつての姿を現わした、という説もある。

      (二)

やがて時がたち、デモフォーンは王女フュリスのことを思い出し、トラキアの地に戻って来た。しかし王女フュリスはそこにはいなかった。デモフォーンは、人々からフュリスが自分を待ち焦れて死んでしまったこと、そして、哀れに思ったアルテミス女神にアーモンドの木に変えられたことを知って、フュリスへの仕打ちを後悔した。デモフォーンは急いでフュリスが変身したアーモンドの木のところへ行き、後悔の涙を流しながら木を抱きしめた。するとフュリスのアーモンドの木はデモフォーンが戻ってきたことを喜んで満開の花を咲かせた。そして、すぐにデモフォーン自身も、アーモンドの木の芽や葉に変身して、二人は、一体となり永遠に結ばれたという。

(参考)

@アーモンドの木・・・アーモンドの花言葉は希望・真心の愛・永遠のやさしさ。現在でもギリシャでは、アーモンドを「若さと優美の象徴」としている。古代ローマの人はアーモンドを「ギリシャの木の実」と呼んでいた。

「ヒュリス(フュリス)とデモフォーン」(バーン・ジョーンズ)の絵はこちらへ

 

(小話511)「イソップ寓話集(4/20)」の話・・・

     (一)「キツネとヤギ」

ある日のこと、一匹のキツネが、深い井戸に落ちて出られなくなってしまった。そこへ、ヤギが通りかかった。ヤギは喉が渇いていたので、キツネを見ると、その水は美味しいかと尋ねた。キツネは、自分の窮状を隠し、この水はとても美味しいと褒(ほ)めちぎり、降りてくるようにと促(うなが)した。ヤギは、渇きを癒(いや)すことばかりに気を取られ、深く考えもせずに深い井戸へと飛び降りた。ヤギが水を飲みはじめると、キツネは、自分たちの窮状をヤギに打ち明け、そして、二人して抜け出す方策を語って聞かせた。「いいかい、君が、前足を壁に掛けて、角(つの)でしっかりと支えてくれたら、僕は君の背中を駆け上って、ここから抜け出すから。そしたら、君を助けてあげるよ」こうして、キツネは、ヤギの背中を跳躍し、井戸から抜け出した。しかしキツネは、そのまま井戸を後(あと)にした。ヤギが、それでは約束が違うと叫んだ。するとキツネは振り向いてこう言った。「ヤギさん、あんたは老いぼれて、もうろくしたようだね。もしあんたの頭に、その、あごひげ程の脳味噌が詰まっていたなら。抜け出せるかどうかも確かめずに、降りては行かなかっただろうがね」

(転ばぬ先の杖)

     (二)「クマと二人の旅人」

二人の男が一緒に旅をしていた。と、二人は、ばったりとクマに出くわした。一人は、すぐさま、木に登り、葉陰に身を隠した。もう一人は、クマにやられてしまうと思い、地面に横たわった。すると、クマがやってきて、鼻先で探りを入れながら、全身をくまなく嗅ぎ回った。彼は、息を止め、死んだ振りをした。クマは死体には触れないと言われているのだが、その通り、クマはすぐに彼から離れて行った。クマが見えなくなると、木に登っていた男も降りてきて、「さっき、クマは、なんて囁(ささや)いたの?」と、間抜けなことを言い出した。すると相方はこんな風に答えた。「クマはね、僕にこんな忠告をしてくれたよ。危険が迫った時に、知らんぷりするような奴とは、一緒に旅をするな」

(災難は、友の誠実さを試す)

     (三)「牡ウシと車軸」

重い荷物を積んだ、数頭立ての牛車が、田舎道を走っていた。すると、車軸がもの凄い音を立てて、ギジギシときしんだ。ウシたちは振り向くと、車輪に言った。「なぜ、あんたらは、そんなに大きな音を立てるんだね。引っ張っているのは、我々だ。泣きたいのは、こっちの方だよ」

(怠け者は無駄口ばかり叩くが、働き者にはそんな暇はない)

 

(小話510)「寡婦(やもめ)の献金」の話・・・

    (一)

聖書より。民衆が皆、聞いているとき、イエスは弟子たちに言った。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、神の前でどうかよりも、人の目にどう映るかに関心があるため、長い衣をまとい、公の場で挨拶される事や、上座を好んでいる。これは自己顕示欲や虚栄心が強い事を表している。また弱い人たちを、食い物にしている貪欲がある。聖書を研究し、深い知識を持っている律法学者は、神のまなざしよりも、人のまなざしを喜んでいる」と。

(参考)

@ルカによる福音書20章。

「民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」

    (二)

次にイエスは、神殿の中で人々が献金を捧げている様子をみていた。「婦人の庭」と呼ばれた所に、トランペットの形をした十三の献金箱が置かれており、各々の箱には、献金の使用目的が記されてあった。金持ちたちが献金を投げ入れていた。多額の献金を捧げる者もいた。そのそばに、一人の寡婦(やもめ)が近づいてきた。その彼女が、レプトン銅貨二枚を投げ入れた。レプトンというのは、ユダヤの貨幣の中では最小単位であった。彼女の献金額を横目で見ながら「フン!」とつぶやいている金持ちの姿もあった。イエスは言った「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」。すべてを捧げた彼女は、その日の夕食をどうしたのか。隣りの人が、温かいパンとスープを運んでくれたであろう。憐れみ深い天の父は、そのように貧しい者を省みてくださる方だから。

(参考)

@寡婦(やもめ)・・・当時のユダヤでは、寡婦が生計を立てるのは非常に困難なことで、「やもめ」という言葉自体が、極貧を意味していた。レプトン二枚が、彼女の手持ちの全生活費であった。それを彼女は献金として捧げた。それは人の目には、あまりにも小さな金額だが、やもめにとってはそれが全てであった。という事は、それは彼女が自分自身を捧げた、という事を意味していた。

Aレプトン銅貨二枚・・・当時のユダヤにおいて神殿に最低限の献げ物さえしない人は「罪人」の烙印を押されて、貧しさだけでなく社会的・宗教的な制裁をも身に負わなければならなかった。

Bルカによる福音書21章。

「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

    (三)

インドのカルカッタで、八人の子供がいる大家族があった。この家族の者が、もうだいぶ長い間ほとんど何も食べていない、ということを聞いたマザ−・テレサは、二人の修道女にご飯を持たせ、一緒にその家族を訪ねた。マザ−・テレサは、子供たちが飢えで苦しそうな顔をしているのを見て、彼らは大変お腹を空かしていることが分かった。久し振りにおいしいご飯を見た八人の子供たちは喜び、母親は涙ながらにマザ−・テレサに感謝の言葉を述べた。そしてご飯を受け取った母親は、そのご飯を二皿に分けると、急いでその一皿を持って外に出て行った。マザ−・テレサは帰ってきた母親に「どこに行っていたのですか? あなたの子供たちはお腹を空かして待っていますよ。ご飯のもう一皿はどうしたのですか?」と尋ねた。すると母親は「隣りの人たちもお腹を空かして、苦しんでいるのです」と答えた。キリスト教徒のこの母親は、隣のイスラム教徒の家族の人たちが自分たちと同じくお腹を空かして苦しんでいることを知っていたのである。 

(参考)

@マザ−・テレサ・・・カトリック修道女。1948年カルカッタの貧しい人々への奉仕に生涯を捧げることを決意。1950年に彼女が設立した「神の愛の宣教者会」は、カルカッタの癩病人、孤児、死を待つばかりの老人の世話から始めて、全世界の貧しい人々のために働いた。彼女は、1979年ノーベル平和賞を受けた。

 

(小話509)「美しき皇妃・エリーザベト。自由に憧れた、その波乱の生涯」の話・・・

      (一)

生きているうちに伝説となった美貌の皇后・エリーザベト(愛称はシシィ)は、小国バイエルンの王族マクシミリアン・ヨーゼフ侯爵(こうしゃく)とその妻ルードヴィカの次女として、1837年のクリスマスイブの日にミュンヘンの館で誕生した。その年のイブは日曜日でもあったことから「この子の人生は勝ったも同然」と言われた。エリーザベトの母親のルードヴィカは名門・ヴィッテルスバッハ家の王女で、父親のマクシミリアン・ヨーゼフはその分家出身の侯爵であった。家柄では母親のほうが格上ということもあってか、マクシミリアン・ヨーゼフは領地にも家庭にも全然責任をもたなかった気楽な人であった。気さくで教養があって身のこなしもスマートだったが、公務や儀式は大嫌いであった。エリーザベトは八人兄弟姉妹の次女で、父親に似て、これまた自由奔放で常に夢見がちな少女であった。エリーザベトたちは冬の間はミュンヘンのルートヴィヒ通りにある館で過ごし、夏はシュタインベルク湖のほとりにあるポッセンホーフェン城で暮らしていた。ポッセンホーフェン城は馬や犬などの動物がたくさんいて、子供の遊び場にはとてもいいところであった。また、エリーザベトたちは当時の王侯貴族の子弟と違って、いつでも両親に会ったり、甘えたりできる環境にあった上、父親がかなりの放任主義者だったおかげで、とても自由な子供時代を過ごした。しかし、自由すぎると母親のルードヴィカは、ルイーズ・ヴェルフェン男爵夫人をエリーザベトの家庭教師に就(つ)けた。だが、陽気な父のマクシミリアン・ヨーゼフがエリーザベトをすぐ遊びに誘い、連れ出して行ったのであまり効果はなかった。エリーザベトは八人の子供たちの中で最も優しい半面、とても夢想家であった。また、エリーザベトの好きな科目は作文、外国語、絵画で、父の影響のせいか、詩作もしていた。一方、貴族の子弟の一般教養として必要な歴史、音楽、作法にはまったく興味を示さなかった。エリーザベトは、勉強ができない代わりに、馬に乗って走ったり大きな犬と遊んだりすることが大の得意であった。逆に姉のヘレーナ(愛称ネネ)は母親似で、大変利口で、デキもよかった。子供の頃のエリーザベトは伝説の美しさとは縁の遠いもので、頬の赤い農家の娘という感じだった。エリーザベトの父親は地元の農民にチターを習って、これを酒場で演奏して、エリーザベトがその代金をいただく役目をしていた。エリーザベトは、そのときのお金をずっと大切に持ち、のちにウィーンの宮廷で「これは私がちゃんとお仕事として稼いだ唯一のお金よ」と自慢していたという。こうして、王家の血筋を継ぐ者としてはずいぶん「おてんば」で難があったとはいえ、エリーザベトの子供時代はとても幸福なものであった。

(参考)

@チター・・・南ドイツ・オーストリアの民族楽器。板状のボディに弦を平行に張った弦楽器のこと。

      (二)

1853年8月16日、オーストリア中部の温泉保養地であるイシュルのオーストリア・ホテルに、ミュンヘンから一台の馬車が到着した。中から降りてきたのはエリーザベト(15歳)とその姉のヘレーナ(18歳)と母親のルードヴィカで、彼女たちを待ち受けていたのは、長身の若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(23歳)とその母ゾフィーたちであった。この日はヘレーナとフランツ・ヨーゼフのお見合いの日であった。だが、午後のお茶の席に着いた際、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の目がふと末席で家庭教師のレヴィ夫人と並ぶエリーザベトにとまった。エリーザベトは、皇帝の視線に当惑を感じ、隣りのレヴィ夫人に「こわくて何も食べたくない」とこっそり耳打ちをした。この席のあと、フランツ・ヨーゼフはなかなか上機嫌で「エリーザベトは実にいい」と言い、反対する母親ゾフィーを無視して「夜の舞踏会にはぜひエリーザベトを呼びたい」とルードヴィカに申し渡した。その夜、フランツ・ヨーゼフは、本来の儀礼を無視して、エリーザベトとだけしか踊らなかった。このため若き皇帝がエリーザベトを選んだことは誰の目にも明白となり、翌日にフランツ・ヨーゼフははっきりエリーザベトとの結婚を心に決めた。こうして1854年4月24日、エリーザベトは16歳で結婚、オーストリア帝国の皇后となった。しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだエリーザベト皇后は、母方の伯母でもあり、夫の母(姑=しゅうとめ)であるゾフィーがとりしきる宮廷の厳格さが耐えられなかった。その上、長女(ソフィー)が誕生しても、次女ギーセラが生まれても、皇太子ルドルフが生まれも、すべて自分で育てることは許されなかった。エリーザベトは保守的な宮廷生活を嫌い、その上、姑との確執と夫の浮気などによってかなり重い病気になった。そこで、大西洋に浮かぶマデイラ島などに療養に行ったり、夫の同行でイタリアを訪問したり、個人的には病院を慰問したりと、理由を見つけてはウィーンを離れることが多くなった。やがてエリーザベトは病気が回復し、少し逞しくなってウィーンに戻った。だが、エリーザベトが心安らぐ最高の場所となったのは、当時オーストリア帝国の一部となっていたハンガリーであった。

(参考)

@ヘレーナ・・・フランツ・ヨーゼフとのお見合いが没になったヘレーナはその後、郵便事業で財をなした名門貴族のトゥルン・ウント・タクシス家に嫁ぎ、早くに夫に先立たれて苦労をしたが、母親であるルードヴィカから受け継いだ忍耐強さを発揮して持ち応え、同家は現代でも大富豪であるという。

      (三)

1863年、エリーザベト(26歳)は正式にハンガリー語を習い始めるようになった。彼女は皇帝一族の必修語だったチェコ語で挫折したが、今回は周囲の予想に反してたちまち進歩した。その真の功績者は、側近として皇后に仕えるようになったエリーザベトより4才年下のハンガリー女性のイーダ・フェレンツィであった。以降、ジュネーブでエリーザベトが暗殺されるまでの三十四年間、彼女は単なる側近ではなく、皇后のあらゆるプライバシーをバックアップする不可欠の存在であった。エリーザベトとイダの会話には、常にハンガリー語が用いられ、後年、ハンガリー語はエリーザベト皇后の日常語となった。 やがてエリーザベトは二十八歳のとき、自分の父マクシミリアン・ヨーゼフと共通するタイプの男性に出会った。それはハンガリーからの陳情団の一員として、ホーフブルク王宮を訪問したハンガリー貴族の穏健独立派の指導者アンドラーシ伯爵(42歳)であった。アンドラーシ伯爵は1848年に独立運動の失敗でゾフィーらの宮廷側から死刑の判決を受け、パリに亡命していた反逆の自由人で、その後1858年に恩赦が出てハンガリーに帰り、独立運動の中心人物となっていた。彼はエリーザベトの父親に負けないくらいの伊達男(だておとこ)で女好きだったが、豊富な人生経験と深い知性を兼ね備えた立派な人物だった。エリーザベトのハンガリーへの思い入れは深く「イタリアで事件があると私は胸を痛めますが、ハンガリーで何か起こると死ぬ思いです」と語り、アンドラーシィ伯爵は「私は多くの主人に仕えてきましたが、女主人は一人だけなので、それだけに一層光栄です」と述べていた。エリーザベトはアンドラーシ伯爵のことを父のマクシミリアン・ヨーゼフに重ね合わせていた、その上アンドラーシ伯爵と仲良くすることはハンガリー嫌いだった姑のゾフィーへの当てつけにもなった。こうして、アンドラーシ伯爵が目指していたハンガリーの自治権獲得は、嫁のエリーザベトと姑のゾフィーの代理戦争ともいえた。こうしたことや、その後の国際情勢の変化もあって、結局、1867年ウィーンとブダペストの二つを首都にもつ「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立し、皇帝夫妻はブダペストのマーチャーシ教会でハンガリー王、女王としての戴冠式を行った。こうして、エリーザベト(30歳)はオーストリア帝国の「皇妃」及びハンガリー王国の「王妃」となった。そして、ハンガリーの初代首相、帝国の外相にはエリーザベトの推すアンドラーシ伯爵が就任した。

(参考)

@ハンガリーの自治権獲得・・・ハンガリーが自治権を獲得したので、ボヘミアも同じことを要求した。しかし、エリーザベトはボヘミアには冷淡であった。ボヘミア貴族(当時ウィーンの宮廷で勢力を有したのがボヘミアの貴族であった)が親ゾフィー派という態度が気に入らなかった。こうしてエリーザベト・ハンガリー連合軍はゾフィー・ボヘミア同盟軍に勝利し、その後のボヘミアは事実上ハンガリーの属国にも等しい扱いに格下げとなった。

      (四)

エリーザベトの交友関係の中では、同名のルーマニア王妃エリーザベトとは、詩を書くという共通点もあり親交が深かった。エリーザベトはユダヤ人差別のある中、ユダヤ系の詩人ハインリッヒ・ハイネを好み、彼のことを深く尊敬していた。また、1865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いた宮廷画家ヴィンターハルターから彼女の話を聞いたフランス皇后ウージェニーが、エリーザベトに興味を持った。1867年の8月に、ナポレオン三世とウージェニー皇后は、数ヶ月前にフランスが後押しして、メキシコ皇帝(傀儡=かいらい)の座に就けたマクシミリアンが銃殺刑に処されたため、オーストリアへ調停訪問をもくろみ、ザルツブルクで、二人の美人皇后の対面が実現した。しかし、マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス皇帝夫妻を冷ややかに迎えた。だが、二人の美しい皇后が見られるということには大変関心を寄せた。そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウージェニー(スペイン貴族の娘)は、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳と美しさに何ら遜色(そんしょく)ないと市民達の目に映った。二人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトと比べ、ウージェニーの方がだいぶ小柄だったという。1868年4月、エリーザベトに三女(マリー・ヴァレリー)がハンガリーで生まれた。この子はエリーザベトにとって、初めて自分で育てることを許された子供であった。ブダペストでの三女誕生に、ハンガリー国民は大喜びであった。そして、このころエリーザベトは女盛りの31歳で、欧州全土で最も美しい女性の一人ということが広く認められ、ヨーロッパ随一の美貌のエリーザベトを一目見ようとする野次馬が増えるようになった。やがて、1872年天敵ともいうべき姑ゾフィーが六十七歳で亡くなった。以降、エリーザベトはウィーンのホーフブルク王宮よりはブダペスト郊外にあるゲデレー宮殿に滞在することが多くなり、ここで猟騎の特訓を受け、当時イギリスで流行していた極めて危険度の高い猟騎に繰り返し参加して、常にトップグループで完走し、当代随一の女性騎手との名声を得た。又、サーカス団やジプシーをゲデレー宮殿に招くなど、ウィーンでは不可能な、父譲りの風変わりな趣味を満たしていた。後年、ウィーン宮廷との溝は一層深まり、親しかった従弟のバイエルン王ルードヴィヒ二世の怪死、ルドルフ皇太子の自殺によって大きな精神的打撃を受けたエリーザベトは、以後、旅から旅へと放浪した。そして、1898年9月10日、エリーザベトは、ジュネーブのレマン湖のほとりで散歩中にアナーキスト(無政府主義者)のルイジ・ルケーニにとがった凶器ですれ違いざま心臓を一突きにされて暗殺された。享年、六十一歳。

(参考)

@詩を書く・・・「私はカモメ、どこの陸地から来たのでもなく、どの浜辺にも、私の故郷はない。いかなる土地への絆もなく、ただ波から波へと、私は飛び続ける」これは、ハインリヒ・ハイネを崇拝し師と仰いだエリーザベト皇后が遺した膨大な詩の一節。

Aフランス皇后ウージェニー・・・スペイン貴族の娘で、ナポレオン3世と結婚。第二帝政が滅亡するまでの18年間フランス皇后として、フランス社交界の中心となって様々な流行を生み出した。その美しい容姿からオーストリアのエリーザベト皇后と並ぶ19世紀ヨーロッパを代表する美女と言われた。

Bマクシミリアン・・・1860年頃メキシコは、自由主義的な改革を推進しようとするフアレス(後のフアレス大統領)らと保守派の間で内戦状態となっていた。保守派はフランス皇帝・ナポレオン3世と結んで巻き返しを図ってメキシコに軍事干渉を行い、1864年、ナポレオン3世がオーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝の弟・マクシミリアンをメキシコ皇帝(傀儡=かいらい)として帝位に就けた。しかし、フアレスらの自由主義勢力が保守派を破ると、ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させた。孤立無援となったマクシミリアンは自由主義勢力に捕らえられ、銃殺刑に処された。

Cバイエルン王ルードヴィヒ2世(映画「ルードビッヒ−神々のたそがれ」)・・・1886年、お城を作りまくって国家財政を破綻しかねない状態にしたエリーザベトの従兄弟・ルートヴィッヒ2世は、バイエルンのシュタインベルク湖で謎の溺死をした。(小話468)「狂王と言われたルートヴィヒ二世。城とワグーナーに魅せられたその生涯」の話・・・を参照。

Dルドルフ皇太子の自殺(映画「うたかたの恋」)・・・1889年、エリーザベトの長男ルドルフは、マイヤーリンクの狩の館で、マリー=ヴェツラと心中(暗殺説もあり)。以後、エリーザベトは常に黒の喪服を身につけたという。(小話463)「悲劇の皇太子ルドルフ。時代に翻弄されたその短い生涯」の話・・・・・・を参照。

Eヨーロッパ随一の美貌・・・エリーザベトは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌と、ウエスト50センチという驚異の体形の持ち主だった。過酷なダイエット(毎日、木でできた吊り輪にぶら下がり、何キロもウオーキングをしたり、断食療法として、何日もスープと果物、あるいは卵白を塩だけで味付けしたものを飲むという食事など)や美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて顔を扇で隠すようになり、それが彼女の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。

Fエリーザベトの手紙の一つに「確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。でも、私にとっては得体が知れないのです…」という言葉からもわかるとおり、人の好き嫌いが激しく、気難しい所があった。また、彼女は貧しい民衆に同情するなど、優しい面も持っていたが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを拒否し続け、自分の心の平安のみを求める極めて利己的な女性であった。それから、エリーザベトは、しばしば王族でありながら王政を否定していた、とても進歩的な女性と評されることもあるが、皇后としての役目は拒否しながら、その特権は存分に享受し、皇后としての莫大な資産によって各地を旅行したり、高額な買い物をしたりするなど、矛盾した点も見られる。しかし、エリーザベトはハンガリーに関しては非常な情熱を傾け、過去に分割、被支配と様々な苦難の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎を築いた人物として、今もハンガリーの人々の心に生き続けている。

Gオーストリア皇后・エリーザベトは話は、宝塚歌劇「エリザベート、愛と死の輪舞」や東宝ミュージカル「エリザベート」で有名である。

「エリーザベト」(ヴィンターハルター)の絵はこちらへ

「ウージェニー」(ヴィンターハルター)の絵はこちらへ

もっとエリーザベト皇妃のことを知りたければ・・・こちらのホ−ムーページへ

 

(小話508)「イソップ寓話集(3/20)」の話・・・

     (一)「ライオンの御代(みよ)」

野や森の動物たちは、王様にライオンを戴(いただ)いていた。ライオンは残酷なことを嫌い、力で支配することもなかった。つまり、人間の王様のように、公正で心優しかったのだ。彼の御代(みよ)に、鳥や獣たちの会議が開かれた。そこで彼は、王として次ぎのような宣言をした。「共同体の決まりとして、オオカミと子ヒツジ、ヒョウと子ヤギ、トラとニワトリ、イヌとウサギは、争わず、親睦をもって、共に暮らすこと」すると、ウサギが言った。「弱者と強者が共に暮らせるこんな日を、私はどんなに待ちこがれたことか」ウサギはそう言うと死にものぐるいで逃げていった。

(地上の楽園などこの世にはない)

     (二)「イナゴを捕まえる少年 」

ある少年がイナゴを捕まえていた。そしてかなりの数が集まったのだが、少年は、イナゴと間違えてサソリに手を伸ばそうとした。するとサソリは、鋭い毒針を振り立てて少年に言った。「さあ、捕まえてごらん。君のイナゴを全部失う覚悟があるならね。」

(友だちを作るなら、ちゃんと見定めてからにせよ。見誤って悪い友だちを作ろうものなら、善い友だちを一瞬にして失うことになる)

     (三)「山のお産 」

かつて、山が大いに揺れ動いたことがあった。巨大なうなり声が響き渡った。一体何が起こるのか一目見ようと、あらゆる所から、人々が集まってきた。何か恐ろしい大災害が起こるのではないか? と、皆、固唾(かたず)を飲んで見守った。が、しかし、出てきたのはネズミ一匹だけだった。

(大山鳴動してネズミ一匹)

 

(小話507)「酒神・ディオニュソスとエーゲ海の海賊。そして美しきアリアドネとの出会い」の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。地中海沿岸の国々で葡萄(ぶどう)の栽培を教えたのち、ディオニュソスがエーゲ海を通ってナクソス島に渡ろうとしていた時の話。ディオニュソス神が小さな岬(みさき)に立っていると、そこにテュレニア人の海賊が通りかかった。ディオニュソスが高価な紫紺(しこん)の衣をまとっていたので、海賊たちはディオニュソスを良家の人間だと思って即座に誘拐し、海賊船に連れ込んだ。そして、身代金を要求しようと考えた。だが、海賊たちはディオニュソスを縛ろうとしたが、縄も鎖も彼には利かなかった。縛ったと思うと、すぐに解けて縄や鎖が地面に落ちてしまった。その様子を見ていた舵取りが海賊たちに言った「その若者は人間じゃない。きっと神様か何かだ。すぐに陸へ連れ戻せ。さもないと海が荒れ狂うぞ」しかし、海賊たちは舵取りの言うことを無視して、帆を上げて船を沖に進めた。そこでディオニソスはマストと櫂(かい)を蛇に変えた。さらに葡萄のつるをうねうねとあちこち伸ばして、船全体を覆(おお)いつくしまった。驚いた海賊たちはうろたえ騒いだ。続けて、ディオニュソスは獅子に姿を変えて、船の真ん中に現れた。海賊たちは恐れをなして船尾の方へと逃げて行った。獅子であるディオニュソスが海賊たちを船尾に追い詰めると、恐怖に耐え切れなくなった海賊たちは次々と海に飛び込んだ。その姿を見ると、人間ではなくてイルカであった。海賊たちはみなイルカに変えられてしまったのである。

     (二)

ディオニュソスを助けようとした舵取りに「わたしは、ディオニュソス神。ナクソス島に連れて行ってはくれまいか」とディオニュソスは人間の姿に戻ると、舵取りを褒(ほ)め、ナクソス島に案内させた。ナクソス島に着くとディオニュソスは、美しい娘アリアドネに出会った。アリアドネはクレタ王・ミノスの娘で、勇者テセウスが怪物ミノタウロスを退治しに来た時、彼に恋をし、糸玉を与えて迷宮からの脱出を助けた。二人は結婚の約束をして一緒にクレタ島を出たが、ナクソス島でアリアドネはテセウスに置き去りにされてしまったのであった。ディオニュソス神は彼女を憐れみ、その美しさを見初(みそ)めて花嫁に迎えた。そして、ディオニュソス神はアリアドネに妻の証(あか)しとして、七つの宝石をちりばめた美しい冠を贈った。アリアドネはその後、ディオニュソスの妻として幸福に暮らし、ディオニュソスとの間に数人の男の子が産まれた。のちアリアドネが亡くなると、ディオニュソス神は妻に贈った冠を天に飾った。それが夜空に美しく輝く「北冠座」(きたのかんむりざ)になったという。

(参考)

@アリアドネはクレタ王・ミノスの娘・・・(小話419)「ミノス王と迷宮ラビュリントスの怪物ミノタウロス。そしてイカロスの翼」の話・・・を参照。

「バッコスとアリアドネの凱旋」(カラッチ)の絵はこちらへ

「バッカス(ディオニュソス)とアリアドネ」(ティチアーノ)の絵はこちらへ

 

(小話506)「漁夫の利」の話・・・

    (一)

燕(えん)の国(戦国の七雄の一つ)と趙(ちょう)の国(戦国の七雄の一つ)が争っていた。あるとき、趙の恵文王(けいぶんおう)が燕の国に一気に攻め込もうと決断した。それを聞きつけた燕の昭王(しょうおう)は思いとどまらせようと、外交家である蘇代(そだい)を趙に派遣した。派遣された蘇代は、恵文王に会って語った「今日、私がこちらの国にまいります途中に、易水(えきすい)という川(趙と燕の国境の川)を渡りました。その川のほとりでカラス貝(蚌(ぼう))が日向(ひなた)に出て、殻の中の肉をさらして、のんびりと日向ぼっこをしていました。そこにお腹をすかせたシギ(鷸(いつ)が飛んできて、長い嘴(くちばし)でその肉をつつきました。驚いた貝は貝がらをぴったりと閉じて、シギの嘴を挟んでしまいました。そこでシギが「今日は雨が降らない。もし明日も雨が降らなければ、おまえは死んだ貝になってしまうぞ」と言いました。貝も「今日、嘴をここから引き出せず、明日も引き出せなかったら、死んだ鳥になってしまうぞ」と言い返しました。

(参考)

@戦国七雄は、中国の戦国時代の七国(秦・楚・魏・斉・燕・趙・韓)で、秦・楚の兵力は百万、魏は七十万、あとの四カ国は数十万ずつだったという。

    (二)

両方とも全く譲ろうとしませんでした。そこに漁師が通りかかって、もめている両者を何の苦労もなく捕らえてしまいました。今、恵文王さまは燕の国を討(う)とうとされています。このまま趙と燕が争い続けると、どちらの国も人民は疲れ切ってしまうでしょう。両国とも長年の敵対関係によって明らかに国力が落ちています。もともとは趙と燕とはバランス良く調和を保ち支え合って平和を保ってきたのではありませんか。私が恐れているのは、このまま両国が争うことになったときには、それに乗じて趙の背後に控えている強国の秦(しん)の国(戦国の七雄の一つ)が漁師となって利益を得てしまうのではないかということです。恵文王さま、今は十分考えてから行動なさるほうがよろしいと思います」これを聞いた恵文王は「もっともな話だ」と納得し、燕を討つことを取りやめて、すぐに撤兵を命じた。

(参考)

@もとは「鷸蚌(いつぼう)の争い、漁夫の利となる」といったが、短くなり「漁夫の利」となったという。又、「漁父(ぎょほ)の利」ともいう。出典は「戦国策(せんごくさく)---燕策」。 

 

(小話505)「蘭(らん)になった半神半獣のオルキスと松の木になった羊飼い」の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。山野の精に半神半獣のサテュロスがいた。彼は酒が大好きで、いつもニンフ(妖精)を追いかけて遊び回っていた。遊び好きのサテュロスとニンフの間に生まれたのがオルキスという若者であった。オルキスは、父親によく似て、わがままで酒好きで女好きであった。オルキスは、酒を飲んで酔ってはニンフ達を追いかけまわす困った若者であった。勝手気ままで情熱のおもむくまま生きていた彼が、酒神バッカス(ディオニュソス)の祝祭のある日、酒を飲み過ぎて、女司祭に襲いかかってしまった。周りの信者たちが慌てて彼を取り押さえ、怒って彼の体をバラバラにしてしまった。父親のサテュロスは「息子を元の体に戻してください」と、必死になって神々に祈ったが、女司祭に襲いかかったのだからと聞き入れてもらえなかった。しかし神々は、身体をバラバラにしたのは酷(むご)すぎると思い、オルキスを奇妙な形をした花に変えてやった。こうして、オルキスの亡骸(なきがら)はラン(蘭)となって地上に残ったという。そのためか、この花の根を食べると淫乱・粗暴になると言われている。

(参考)

@サテュロス・・・上半身は人間で下半身は山羊、小さな角と長くとがった耳と長い尻尾を持っていた。彼等は悪戯好きだったが、同時に小心者でもあり、破壊的で危険であり、また恥ずかしがりやで臆病だった。そして酒と踊りを愛し、情欲に満ちていた。

@蘭(花言葉は熱情・激情)・・・ギリシャ語のオルキス(睾丸の意味)に由来している。ヨーロッパに自生する蘭の多くは「地性蘭」で、地中に二つある塊根(かいこん)が丸くて対になっているところから名付けられたという。又、塊根は精力増進の効果があるといわれている。

A「ランは地球上でもっともセクシーな花である」「ランには人を熱く濡らす作用がありヴィーナス(アフロディーテ)の女神の支配によって欲望を過剰に刺激する」

     (二)

ギリシャ神話より。神々の二代目の王で天空の神・クロノスの妻であり、神々の三代目の王で大神・ゼウスや海王・ポセイドン、冥王・ハデスなどの母親でもある女神・レアが、ある時、美しい若者の羊飼いに恋をした。しかし、羊飼いには恋人がいたのでレアはまったく相手にされなかった。レアは思い通りにならない羊飼いを怒りと嫉妬のあまり松に変えてしまった。それでもレアは美しい羊飼いのことをいつまでも忘れられず、その松の木の下でずっと嘆き悲しんでいた。その様子を見た息子である大神・ゼウスは、母親レアに同情して、レアの大切な松の木をいつまでも変わらないようにと常緑樹にしたという。

(参考)

@松の木・・・花言葉は同情、慈悲、不老長寿。

 

(小話504)小説「五重塔」の話・・・

     (一)

渡り大工の十兵衛は鑿(のみ)や鉋(かんな)を持った時の腕前には絶対の自信を持ちながら、腕前を生かす仕事に恵まれなかった。十兵衛は「鷹揚(おうよう)」で「世才に疎(うと)く心よき」気質のため、のっそり十兵衛とも言われて、実入りの多い仕事を取りのがしていた。その結果、十兵衛は長屋の羽目板や馬小屋などの小さな数仕事に明け暮れ、妻子の衣服にも事欠く貧しい暮しを送っていた。妻のお浪も「腕の半分でも、我が夫の気心が働い」たなら、こんな貧乏はしないと見ていた。ある時、十兵衛の転機がやってきた。それは、江戸・谷中にある感応寺の改修工事であった。人々から慕われている有名な朗円上人が、学徒のためにもう少し広ければとつぶやいた独り言が大工事の契機になり、その独り言が学徒によって広められ「百川(ひゃくせん)海に入るごとく金銭の驚かるるほど」集まった。上人は改築工事で余った大金の使途を相談されて「五重塔を建てよ」と一言(ひとこと)指示した。この話を聞いて十兵衛は、百年に一度あるかないかの五重塔の建立にあたって命に代えてもやり遂げると奮い立った。しかし、感応寺は棟梁(とうりょう)として名高い源太によって大がかりに改築され、その実績に基づいて源太に五重塔の見積もりが命じられた。十兵衛は源太に比べて改築工事を取り仕切ったような実績がなかった。そこで、十兵衛は感応寺の上人への直訴に全てを賭けた。十兵衛が名乗り出たことで、源太の妻のお吉は「もしこの仕事を奪(うば)われたら」源太がどれだけ癇癪(かんしゃく)を起こすかと心配した。又、十兵衛の妻のお浪も日頃から世話になっている棟梁の源太と妻のお吉と対立し義理を欠くことになるのを懸念していた。その上、源太の弟子の清吉は「感応寺の和尚様に胡麻(ごま)をすり込むという話だが、それは正気の沙汰か寝ぼけてか」と十兵衛を罵倒した。又、源太の妻お吉も「あれめ(十兵衛)にできる仕事でもなく、あれめの下に立って働く者もあるまい」と嘲(あざけ)った。

(参考)

@渡り大工・・・全国の寺や神社を修理するために旅をしながら各地の現場を渡り歩く宮大工のこと。1カ所の修理工事は何年にも及ぶため、自宅に帰れるのは年に数日である。

     (二)

十兵衛は感応寺の朗円上人に会いに出かけたが、寺の用人たちに粗末に扱われて上人に面会できなかった。寺の用人や小坊主は、粗末ななりをしてぼろぼろの草履(ぞうり)を履いていることで十兵衛を軽んじていたのである。それに対して十兵衛は大声で何度も繰り返して面会を求めた。そして、ようやく用人たちにたたき出される間際(まぎわ)に上人が出てきて、十兵衛は上人に面会できた。上人は「未学を軽んぜず下司をも侮らず」「迂闊な根性にも慈悲のしみ透った」人物であって十兵衛を外見のみで判断しなかった。十兵衛は上人の茶室に上がると顔を突き合わせるほど間近に座った。そして「舌の動きもたどたどしく」「声の調子も不揃い」「辛(から)くも胸にあることを額やら腋の下の汗と共に絞り出せば」など緊張してぎごちない様子で「伎倆もない癖に智恵ばかり達者な奴」が宮を作り堂を請け負うのを見て「天道様が智恵といふものを我にはくださらない故」世間に認められない不運を上人に訴えた。十兵衛は私は馬鹿で、意気地のない奴だけれども仕事が下手ではないし、嘘は申しませぬと上人に断言し、その上、「大工となって生きる以上は、一度でよい、死んでも名の残る立派な仕事がしたい」と申し出た。そして、十兵衛は自分が造りたい気になって、毎日仕事を終ると五重塔の五十分一の雛形(ひながた)をつくり、昨夜で丁度仕上げましたと、五重塔の雛形を差し出した。

     (三)

十兵衛は源太に対抗して棟梁になるために、上人の同情心に期待をかけていた。それに対して上人は十兵衛の「ただ鑿をもつては能(よ)く穿(ほ)らんことを思ひ、鉋を持つては好(よ)く削らんことを思ふ心の尊さ」が五重塔の棟梁に相応(ふさわ)しいと考えていた。そして、上人は十兵衛の心情に報いるものとして五重塔の棟梁の座も考えていた。一方で源太は世間の信望があつく改修工事を取り仕切った実績があった。その上に十兵衛に情けをかける男気もあった。従って上人も簡単には、源太を排除できなかった。そこで上人は、源太と十兵衛に対して、棟梁決定は、二人の相談の結果を受け入れると申し渡した。その真意は、相手のために譲る気持ちを持って協力して事にあたれば必ず報われるというものであった。上人の言葉に十兵衛と源太は、我欲と譲る心の間でそれぞれ葛藤した。十兵衛は棟梁を譲るにあたって「一生とてもこの十兵衛は世に出ることのならぬ身」だと歎いた。やがて十兵衛は、諦めなければならないのかと思い悩んだ。一方、義理と人情に厚く、根っからの江戸っ子、源太は、二人で半分ずつという連名仕事を考えついていた。上人の提案は、貧しく孤立している十兵衛が源太に比べて有利でった。源太も十兵衛を欲得抜きで五重塔を願う心意気は認めていた。その上で源太は連名仕事を提案した。上人の条件がある以上は相手のために諦めて全てを譲るか、協力して分け合うかの選択しか残らなかった。源太は、十兵衛に棟梁を譲るか譲らないかで葛藤していた。源太の情熱からしても半分諦めるのは全て諦めるに等しかった。

     (四)

源太の妥協的な提案に対して、十兵衛はそれは情けない、やるなら一人でやると意地を貫いて連名仕事を拒否した。そして、上人に面会して辞退する心を決めた。十兵衛が断っても源太が一人で建てることはできなかった。又、源太がひとりで塔を建てるのは上人の条件に反していた。お互いが一人で建てるのが本望なら、半分諦めるのは全てを諦めるのと大差なかった。十兵衛に連名仕事を拒否されると、源太は諦めると上人に申し出た。すなわち十兵衛が意地を通すと、同じ意地を通すのが源太の男気であった。十兵衛は源太が帰ってから断った理由をお浪に話した。十兵衛は勢力のある職人の下でその力を利用して利益を得るやり方を「寄生木(やどりぎ)」として軽蔑していた。十兵衛は連名仕事を自分が「寄生木」になることと同じだと考えていた。一方、源太は譲るのを名誉と考え恵まれないものに助力する心持ちを持っていた。こうして、上人は五重塔の棟梁を十兵衛に決めた。上人は、源太が十兵衛を助力することにおいて、半分は五重塔を引き受けたと考えたのであった。上人は源太が不遇な十兵衛に助力することを褒(ほ)めたたえ、さらに上人は源太の弟子たちがひがみ根性を出さないように源太に言い含めた。源太が十兵衛に援助する「木材の引合い」「鳶(とび)人足への渡り」は、源太が長年の仕事の中で築いてきた信頼関係であった。この援助がなければ五重塔は建てられなかった。このため十兵衛はお浪以上に源太への義理を強く意識していた。そのため、十兵衛は意地かた源太が見取り図や京都奈良の五重塔の写しなどの提供の申し出に対しても拒否した。十兵衛は決定的な援助を受けながらも、源太に頼らないと意地を通したため、源太は善意が裏切られたことに腹を立て酒やどんちゃん騒ぎで憂(う)さ晴らした。

     (五)

源太の妻のお吉は、源太が五重塔を十兵衛に譲ったことに不満を持っていた。のっそり十兵衛のことなど気にかけずに仕事を取ってしまえば良いと公言した。それに源太の弟子の清吉は、日頃から源太夫婦に世話になり恩義を感じていた。そこで、清吉はある夜、仕返しに十兵衛の耳をそぎ、肩に傷を負わせた。しかしこの事件で、棟梁の源太は上人が言い含めたことを守ることができなかっので、以後、源太は資材や職人の手配をしながらも表舞台には一切出ることができなくなった。一方でこの事件は十兵衛を軽蔑と孤立から救い出して、五重塔の仕事を進めさせる決定的な契機となった。事件が起こるまでは十兵衛が命懸(いのちが)けで仕事をしても、職人たちは表面では十兵衛に従いつつも相も変わらず十兵衛を軽蔑し仕事も怠(なま)けがちであった。十兵衛は自分が名前だけの棟梁に過ぎない事を嘆きつつも、この事件が起こるまでは全くの無力であった。十兵衛が怪我の翌日に仕事場に現れたことで、職人たちの働きぶりは一変した。十兵衛は心配し制止するお浪を振り切って怪我をおして仕事場へ出ることで職人仲間から棟梁としての完全な信頼を得た。今まで職人たちの軽蔑が一変して「一を聞いては三まで働き、二と言はれしには四まで動く」ように変身した。

     (六) 

明日は五重塔の落成式という夜、未曾有(みぞう)の嵐が襲った。そして五重塔がきしみだすと、感応寺の用人、為右衛門(ためえもん)と役僧の円道(えんどう)は五重塔が倒れるのを心配して十兵衛に使いを送った。瓦が飛ぶような嵐の中を掃除人の七蔵爺が十兵衛のもとへ出かけた。七蔵が十兵衛の家に行ってみると、十兵衛の屋根が半分めくれて「見るさえ気の毒な」有様であった。七蔵は妻子をこんな目にあわせる十兵衛を気の回らない人間だと軽蔑していた。激しい嵐の中でも十兵衛が泰然としている根拠は「紙を木にして仕事もせず、魔術も手抜きもしていぬ」ことであった。十兵衛は手抜きをしていないから塔は倒れないと繰りかえし強弁して七蔵を嵐の中に追い返した。上人の言葉以外を認めない十兵衛は呼び出しには応じなかった。そこで、円道と為右衛門は上人の命と偽って再び七蔵に十兵衛を呼び出させた。この策略によって十兵衛は信頼していた上人が自分を信用していないと誤解した。「つくづく頼もしげ無き世間、もう十兵衛の生き甲斐無し」と世間への恨みを抱きつつ、嵐の中を五重塔に向かった。五重塔と対照的に、金持ちの芝居小屋や生け花の宗匠の家が被害を受け、江戸で有名な大寺が役僧と請負師の不正による手抜きが原因で倒壊(とうかい)した。感応寺の五重塔は他の建物と違って手抜き工事や横領がなかったことで倒壊はしなかった。人々は塔が倒れたら鑿を含んで塔の上から飛び下りる覚悟で十兵衛が風雨をにらんでじっと構えていたことを「甚五郎(じんごらう)以来の名人じゃ、真の棟梁じゃ」と称賛した。又、「十兵衞の親分、源太がまた大したもので、もしも少しでも壊れでもしたら同職(なかま)の恥辱、知り合いの面汚し、汝(うぬ)はそれでも生きて居られうかと、十兵衛を叱って、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲を巡って居たさうな」と噂し合った。落成式の後に上人は、源太を呼んで十兵衞と共に塔に上ると「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太郎之を成す」と銘を入れた。この銘は十兵衛に五重塔の棟梁の座を譲り十兵衛に助力した源太への報いであった。

(参考)

@甚五郎・・・左甚五郎(ひだりじんごろう)のこと。江戸初期の大工・彫刻師。日光東照宮の眠り猫、上野東照宮の竜などを彫ったとされる伝説的人物。

A五重塔・・・「五重塔」のモデルとしても知られている谷中の五重塔は、戦後に火事を出して焼失して今は無い。「感応寺」は今「天王寺」という名になっている。

B幸田露伴の小説「五重塔」より。正確な話は、こちらを読んで下さい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/43289_16904.html  

 

(小話503)「二人の小隊長」の話・・・

    (一)

戦時中のこと。A小隊の小隊長は、まことに厳しい小隊長で、規律に口やかましく、融通の利かない人であった。訓練でも絶対に「手抜き」を許さず、その厳しさと執拗さは、隊員達の恐怖となり、「鬼のような小隊長」は、兵士達の怨嗟(えんさ)の的(まと)となった。これに対し、B小隊の隊長は、穏やかで、円満な人柄であり、隊員達にも優しかった。訓練でも「融通」が利き、隊員達はこの「人情深い小隊長」を敬慕(けいぼ)した。A小隊の隊員達は、隣りのB小隊を羨み、B小隊長に憧れ、A小隊長を憎んだ。

    (二)

やがて、大戦が始まり、敵の攻撃に備えて見張りをするためA・B部隊とも、それぞれ、前線近くに配置された。ある日の夜、敵の奇襲攻撃が有りA・B両隊共、敵軍の夜襲を受けた。日ごろ、厳しい訓練を積んだA小隊は、不意の夜襲にも慌てず、指揮命令が行き渡り、A小隊長の冷静な判断も有り、敵に反撃し、良く守りきり、敵を追い払った。これに対し、B小隊は、規律の緩みから、見張り番が居眠りをしており、敵の発見が遅れた。さらに、夜襲に慌てふためいた兵士達は恐慌状態に陥り、B小隊長の指令は行き渡らず、バラバラに応戦した。結局、B小隊は全滅した。以後、A小隊では、以前にも増して、厳しい規律や訓練が続いたが、不平を云う者は居なくなった。

(参考)

(小話41)「戦時中の演習」の話・・・を参照。

 

(小話502)「酒神・ディオニュソス(バッカス)の誕生」の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。ディオニュソス神は神々の王・ゼウスとセメレの子で、別の名をバッカスという。テーバイの国に一人の美しい娘がいた。カドモス王とハルモニア王妃の娘セメレで、その美しさはひときわ際(きわ)立っていた。セメレを見初めたのが神々の王・ゼウスで、ゼウスは人間の姿に変身してセレメに近づいた。そして、ゼウスに愛されるようになったセメレは、やがて身篭(みごも)った。だが、セメレの幸せは長く続かなかった。やがてゼウスの浮気は、嫉妬深い正妻のヘラ女神の知るところとなった。ヘラは夫ゼウスには何を言っても効果がないので、セメレに復讐することにした。そこでヘラは、セメレとなじみの深かった乳母に身を変えてセメレの元を訪れた。セメレは久しぶりに会った乳母を招き入れ、そして、懐妊したことを告げた。「おめでとうございます。で、お相手の男性はどなたなのでしょうか?」セメレは「ゼウスさまよ」と喜んで告げた。乳母に身を変えたヘラ女神は言葉を巧みに言った。「セメレ様、お気をつけください。もしかしたら、あなたはゼウスと名乗る男に騙(だま)されているんじゃないかしら」「まさか」という思いがセメレの脳裏によぎった。そんな筈はない、偉大なる全知全能の神ゼウスと自分は愛し合っているはずだ。「でも、どうすればセウスさまとわかるのかしら?」乳母に身を変えたヘラ女神はここぞとばかり言った「簡単なことです。「神であるその御姿を見せて下さい」といえばいいのですよ」「なるほど、今度お願いしてみるわ」ヘラの悪企みとは知らないセメレはあっさりと納得した。

(参考)

@ハルモニア王妃・・・調和の女神・ハルモニアは軍神・アレスと美と愛の女神・アフロディーテの娘である。

「ユピテル(ゼウス)とセメレ」(モロー)の絵はこちらへ

     (二)

こうして、大神・ゼウスがいつものように人間に変身して美しいセメレのもとを訪れたときに、彼女は頼み込んだ。「ゼウス様、私のことを愛しておいででしたら、一つだけお願いを聞いてください」「わかった、ステュクスの流れに誓って聞き届けよう」ステュクスの流れに誓うということは絶対に守るということであった。「私にその御姿を見せて下さい」。その願いにゼウスは困惑した。人間が神の姿を直視することはできなかったからである。しかし、約束は果たさなければならない。「わかった」ゼウスは本当の姿をセメレに見せた。なんという輝きか、あたり一面に光が満ちていた。セメレはゼウスの神光に耐えられず、灼熱の神火で灰になってしまった。悲しむゼウスがその場を立ち去ろうとしたとき、胎児(たいじ)にまだ命があることに気がついた。ゼウスは、この胎児を自らの太腿(ふともも)の中に埋め込んで臨月まで育てあげた。そして、生まれたのが酒神・ディオニュソスであった。大神ゼウスは、ヘラ女神から隠すために子供をセメレの妹のイノに預けた。ディオニュソスは、イノの元で少女として育てられた。だが、ここでもヘラ女神の嫉妬はしつこく、ヘラの呪いでイノは気が狂ってしまって、自分の子のメリケルテスを抱いたまま海に身を投げてしまった。そこでゼウスは、ヘラからディオニソスを守るため、商売と泥棒の守り神・ヘルメスと山の妖精(ニンフ)たちに養育を任せた。ヘルメスは、ディオニュソスを山羊に変え、山の妖精たちに見張らせた。こうしてディオニュソスは無事に成長した。

(参考)

@灼熱の神火で灰に・・・セメレは大神・ゼウスに「今度来るときは、天上の光を身につけて来てください」と哀願した。ゼウスはひどく困惑したが、結局、次の逢引(あいびき)のときに、大神として雷鳴をとどろかせ戦車に乗ってセメレの元へ行き、稲妻を放った。セメレはその稲妻に当たって、焼け死んでしまったという説もある。

Aディオニュソス・・・ディオニュソス神と戦いの女神・アテナ(ゼウスの頭から生まれた)の2人だけが、大神・ゼウス自身から生まれた子供である。

Bイノ・・・海に身を投げたイノとメリケルテスは海王・ポセイドンによって、慈悲深い海神、イノはレウコテアに、メリケルテスはパライモンになったという。

Cヘラからディオニソスを守る・・・正妻ヘラは巨人族の一人に、ディオニュソスの殺害を命じ、憐れにも、ディオニュソスは体を八つ裂きにされてしまった。ディオニュソスの体から流れた血は、大地に染みて、真紅の実がなるざくろの木となった。この後、ばらばらになったディオニュソスは、大地の女神レイヤ(ゼウスの母)に体を繋(つな)いでもらい、もう一度誕生(ディオニュソスの名には、二度生まれた者という意味がある)したという説もある。

「Drinking Bucchus(バッカスを飲む)」(レーニ)の絵はこちらへ

     (三)

少年時代のディオニュソスを育てたのがシレノス(半人半獣の野山の神)であった。シレノスは、ハゲ頭で太鼓腹の山野の精で、そのひょうきんな外見とは裏腹に、大変な知恵者で予言の能力も持っていた。こんなシレノスから、ディオニュソスは葡萄(ぶどう)の栽培方法とワインの製造法を教わり、それを広めるべく、地中海沿岸からアジアやアフリカを旅して回った。霊杖テュルソスを持ったディオニュソスの後には養父で従者のシレノスを始め、酒に酔った好色な半人半獣のサテュロスや酔ってあられもない格好で踊る女たち(バッカスの巫女(みこ))がついて回った。ディオニュソスの行く先々では、ぶどう酒に酔って踊るディオニュソスの崇拝者たちの集団の数が日ごとに増えていった。こうして、ディオニュソスの崇拝者たちの集団は一大勢力となった。そこで大神・ゼウスは、ディオニュソスをオリュンポスの神々に加えることにした。だが、ディオニュソスを嫌っていたヘラだけは猛反対した。その時、オリュンポス十二神の竈(かまど)の女神ヘスチア(ヘラの姉)が争いはもうたくさんと、偉大なオリュンポス十二神の座をディオニュソスに譲った。かくてオリュンポスの偉大な十二神の一人となったディオニュソス神は、かねてから心にかけていた、父ゼウスの神の姿をみて焼け死んだ母セメレを冥界に助けに行った。ディオニュソスは、アルゴスにあるレルネの底なし沼を通ってタルタロス(地獄=冥府)に下(くだ)った。そして、冥界の王・ハデスの妻ペルセポネにアフロディーテ(ビーナス)の神木であるギンバイカ(銀梅花)の木を贈った。かって春の女神といわれたペルセポネはそのギンバイカの神木を大変に気に入った。そのため、ペルセポネはディオニュソスの頼みを断れ切れなくなった。こうして、ディオニュソスはペルセポネに頼んで、特別に母セメレを生き返らせてもらった。その後、今度は父である大神・ゼウスに頼んで、セメレを神にしてもらったのであった。

(参考)

@シレノス・・・フリュギアの王・ミダスはディオニュソス(バッカス)の養父シレノスをもてなしてやったので、ディオニュソスに何でも望みをかなえてやると言われた。貪欲(どんよく)な王は触れるもの全てが黄金になるようと願った。(小話423)「黄金好きのミダス王とあし笛になった妖精シュリンクス。そしてロバの耳」の話・・・を参照。

A霊杖テュルソス・・・酒神ディオニュソスとその信女たちが持つ霊杖。長い木の棒の先端に松毬(まつかさ)がつき、蔦(つた)と葡萄(ぶどう)の葉で覆われたもので、、敵に向かって投げつけたり殴りかかったりする武器として使われることもある。

Bレルネの底なし沼・・・レルネの沼には、九つの頭を持った怪物ヒュドラ(水蛇)が住み、英雄・ヘラクレスの「十二の難業」の二番目の仕事でヒュドラは退治される。

Cペルセポネ・・・(小話389)「冥界の王・ハデスと美しきペルセポネ」の話・・・参照。

D冥界に助けに行った・・・冥界を訪れた三人は、オルフェウス((小話332)「竪琴(たてごと)の名手オルフェウスとその妻」の話・・・を参照)とヘラクレスとディオニュソスで、オルフェウスは意志の弱さのため妻を地上に戻すことができなかった。ヘラクレスは腕力にものを言わせてテセウスを解放しケルベロスを連れて帰った。そしてディオニュソスは平和のうちに自分の母を救い出した。このときディオニュソスは、冥界の王妃・ペルセポネにギンバイカでなく美しい花束を贈ったという説もある。

Eセメレを神に・・・ディオニュソスは、他の死者たちがセメレを嫉妬したり、憤慨したりしないように、女神となった母の名前を改め、テュオネとして神々に紹介したという。

「シレノスの物語 蜜の発見」(コジモ)の絵はこちらへ

「酔っているシレノス」(ルーベンス)の絵はこちらへ

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(小話501)「イソップ寓話2/20」の話・・・

     (一)「農夫とヘビ」

ある冬の日のこと。農夫は、寒さに凍えて今にも死にそうになったヘビを見つけた。彼は可哀想に思い、ヘビを拾い上げると自分の懐(ふちころ)に入れてやった。ヘビは暖まると、元気を取り戻し、本性をあらわにして命の恩人に噛(か)みついた。農夫は死ぬ間際(まぎわ)にこう叫んだ。「おお、これも、悪党に哀れみを与えた、当然の報いだ」

(悪党には親切にしないのが、一番の親切)

     (二)「子ジカと彼の母親」

むかし昔のことである。子ジカが母シカに言った。「お母さんは、犬よりも大きいし、敏捷で、駆けるのもとっても速い。その上、身を守る角(つの)だって持っている。それなのになぜ、猟犬を怖がるの?」母シカはにこやかに答えた。「お前の言うことは、みなその通りなんだけど。でも母さんは、犬の吠(ほ)えるのを一声(ひとこえ)聞いただけで、卒倒しそうになり、飛んで逃げたくなるんだよ」

(いくら説得しても、臆病者は勇者にはならない)

     (三)「カメとワシ」

日がな一日、日向(ひなた)ぼっこをしていたカメが、海鳥に向かって、誰も空の飛び方を教えてくれないのだと愚痴をこぼした。近くを舞っていたワシが、カメの溜め息まじりの言葉を聞くと、何かお礼をくれるのなら、空高く連れて行って、飛び方を教えてやると言った。カメは喜び勇んでこう答えた。「紅海の幸(さち)を全てあなたに差し上げます」「よしわかった。ではお前に、空の飛び方を教えてやろう」ワシはそう言うと、カメを鈎(かぎ)爪でひっつかみ、雲間へと運んでいった。「さあ、飛ぶのだ」ワシはそう言うと、突然、カメを放り出した。カメは、そびえ立つ山の頂きに落ちて行き、甲羅もろとも粉々に砕け散った。カメは死ぬ間際にこう言った。「こうなったのも当然だ。地上を歩くのさえおぼつかぬ者が、翼や雲の真似をして空を飛ぼうとしたのだから」

(望むことの全てを叶えようとするならば、破滅が待っているだろう)

 

(小話500)「樵(きこり)とサトリという動物」の話・・・

    (一)

昔のこと。年老いた樵が銘木を求め山中に入るうち、人里離れた深山に踏み込んだ。やっと思うような木を見つけ、斧(おの)を振るい切り始めたが、そのうちに、ふと背後より何物かが様子を窺(うかが)っているような気配がした。樵が振り向くと向うの木の陰から、人とも猿ともつかぬ奇妙な生き物が赤い眼でじっとこちらを見つめていた。樵が「こやつ、何物か」と心中に訝 (いぶか) しく思うと、その生き物が、いきなり「俺はサトリだ」と言った。樵はこれが噂に聞くサトリかと思った。風評によると滅多にお目にかかれない珍獣で、人の心を読み取る能力を持ち、未(いま)だかつて生け捕りにされたことがないと聞き及んでいた。樵はこいつを生け捕りにすれば大層金儲けができると思った。するとその刹那にサトリが「お主、今、金儲けをたくらみ、俺(おれ)を生け捕りにしようと思ったな、浅はかな奴じゃ。俺は人の心がわかるから、お前が何を考えても、その先回りが出来るのだぞ」と言って笑った。ますます驚いた樵は「ええ、小癪(こしゃく)な奴。斧で一撃のもとに殺してやろう」と考えた。するとサトリは「こんどは俺を殺そうというのか。いやー、おっかない」と、からかうように言った。「こりゃーかなわん。こんな不気味な動物を相手にしておったんでは、めしの食いあげだ。こんなものにかかわらないで、本来の仕事を続けよう」と、樵は考えた。

    (二)

するとサトリは「俺をあきらめたのか。かわいそうに」と言った。樵はこの不気味な動物を諦らめて、再び元気をだして木を伐(きる)ることに没頭し、力いっぱい斧を木の根元に打ちおろした。額からは玉なす汗が流れ、樵は全く無心になった。すると、偶然、全く偶然に、斧の頭が柄から抜けて飛び、サトリの眉間 (みけん) に命中した。「ぎゃっ」と一声叫ぶとサトリはその場に倒れ息絶えた。「人の心が読めても、心を持たぬ斧相手ではどうにもならぬのか、不思議なモノだ」樵には、今はもう物言えぬ身となった サトリが憐れにも思えるのだった。

(参考)

@全く無心・・・、これは「般若心経」などでは「無罫礙」(むけいげ)ともいう。罫とは引っかけるの意。礙はさまたげる、さわり、障害の意。したがって「無罫礙」とは分別や妄想によって心が束縛されないこと。