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(小話499)「テレウス王と美しい姉妹・プロクネとピロメラの恐ろしい復讐」の話・・・

      (一)

ギリシャ神話より。アテナイの王パンディオンは、妖精ゼウクシッペと結婚し、二人のあいだには、双子のエレクテウスとブテス、ならびに二人の娘プロクネとピロメラが生まれた。あるとき、テーバイの王ラプダコスがパンディオン王と不和になり、アッティカ(中心都市がアテナイ)の地に侵入して、強奪をほしいままにした。アテナイ人は勇敢に抗戦したが、撃退されたので、パンディオンは軍神・アレスの息子で勇敢なトラキア王テレウスに援助を求めた。テレウスは急いで海を渡って来援し、その勇猛な軍隊で、テーバイ軍をまもなくアッティカから撃退した。パンディオン王は感謝して、武勲赫々たるトラキア王に娘の美しいプロクネを妻に与えた。こうして豪華な婚礼の式が行われた。だが、この結婚の行く末を暗示するように、不吉なワシミミズクが館(やかた)の屋根に止まって、じっと婚礼を見つめていた。そうとは知らない若いテレウス王は、神々に感謝を捧げると、美しい妻を伴ってトラキアに帰った。トラキアの人々は歓呼して二人を迎えた。そして、プロクネが息子イテュスをもうけたとき、その日を祝って、トラキアの全土では盛大な祝祭がおこなわれた。

      (二)

五年の歳月が過ぎ去った。愛する故国を遠く離れた国で、さぴしい思いで暮らしていたプロクネは、たった一人の妹ピロメラがむしょうに恋しくなった。それで夫のところへ行って言った。「わたしをまだ少しでも愛していてくださるのなら、しばらくのあいだでもけっこうですから、いとしい妹を連れてきてください。父には、妹をじきに帰すと約束して」テレウス王は、すぐにそのすすめに従って、船でアテナイにおもむいた。義理の父は喜んで迎えた。二人がアテナイの町に歩いて行くうちに、テレウスはさっそく、妻からの願いを切り出した。そこヘピロメラが、義兄を出迎えにやって来た。輝くばかりの美しさで、さながら愛らしい妖精のようであった。美しいこの乙女を見たとき、テレウス王の胸は激しい愛欲に燃えあがった。そして即座に、断じてピロメラを奪おうと決心した。放将な欲情に胸をおどらせながらも、テレウス王は、死ぬほど妹を恋しがっている妻プロクネの願いを話しだした。ピロメラもまた、甘えるように父の首に腕をまきつけて、旅に出ることを許してくれるように哀願した。それで老人も、二人の一致した願いにとうとう負けて、承諾をあたえた。ビロメラは大喜びで、父に礼を述べ、それから三人は王宮へおもむいて、上等のぷどう酒と山海の珍味で元気をつけた。

      (三)

朝が来た。別れに際して、パンディオン王は娘婿の手を握って「親愛なる息子よ、どうかピロメラを慈愛に満ちた父親のように守り、そしてすぐにもわしのところにもどしておくれ」と言って、最愛の娘に口づけした。船は帆をいっぱい張って、沖へ出ていった。テレウス王は計画がうまくいったので「勝利はおれのものだ」と心で叫んだ。やがてトテキアの海岸に着いた。テレウス王はピロメラを森の奥の家畜の番人小屋に引っ張って行って、そこに監禁した。ピロメラが泣きながら姉のことをたずねると、テレウス王は悲しみを装って、プロクネは死んでしまった。自分が出かけたのはおまえを妻にするためなのだ、と嘘をついた。どんな悲嘆も哀願も、役にはたたなかった。こうしてピロメラは、テレウス王の暴力に屈して、彼のものになった。しかし、ほどなく召使たちが王妃プロクネがまだ生きていることを話しているのを盗み聞いたピロメラは、深い悲しみと、テレウス王にたいする燃えるような憎悪にとらえられた。テレウス王がやって来たとき、彼を問い詰め詰(なじ)った。そして、このおそろしい秘密を世間のみんなに知らせてやる、と怒り狂って断言した。テレウス王は追い詰められて、悪魔のような決心をかためた。自分の恥ずべき行為を、だれの耳にも絶対に入れたくなかった。といって、かよわい女を殺すこともはばかられた。そこで、テレウス王は剣を抜くと、ピロメラを後ろ手に縛り、ピロメラの舌を切断したのであった。これでもう秘密のもれる心配はなかった。何もなかったかのように、テレウス王は冷ややかに、ピロメラを見捨てると、家来たちにきぴしく見張るように命じて宮殿の妻プロクネのところに帰った。プロクネが、妹はいったいどこにいるのですかとたずねると、卑劣なテレウス王はため息をつき、偽りの涙をこぽしながら「ピロメラは死んで埋葬された」と言った。プロクネは、言いようもない悲しみに突き落とされた。そして、急いで黒い喪服に身をつつむと、墓石を建てて、愛する妹の霊魂に供物をそなえた。

(参考)

@宮殿の妻プロクネのところ・・・妻プロクネを田舎に閉じ込めて外部との接触を断ち「プロクネが死んでしまったんだ」と言って、テレウス王はピロメラに嘘をつき、彼女を無理やり手籠(てご)めにしたという説もある。

      (四)

こうして一年が経過した。しかし残酷にも舌を切られたピロメラは、まだ生きていた。番人と塀とが逃げることをはぱみ、口が利けなくなって、テレウス王の悪行を人に告げることはできなかった。しかし不幸は才知を働かせるものである。ピロメラは与えられた機(はた)織りに亜麻布を張ると、あの恐ろしい出来事を、その中に織りこんだ。それができあがると、その織物を一人の従者に渡して、王妃プロクネのもとに届けてくれるように手真似で頼んだ。従者はなにも気がつかないで、言われたとおりにした。王妃プロクネは巻いてある織物を開いた。そして、恐ろしい秘密を読み取った。プロクネの悲しみは深く大きかった。と同時に凄まじい怒りが湧き上がり、テレウスに対する復讐心に燃えた。やがて、トラキアの女たちが酒神(バッカス)の祭りを熱狂のうちに祝う夜が近づいた。王妃プロクネは、顔を蔦(つた)などでかくして、女たちの群れと一緒に、熱狂して騒ぎまわっているような振りをて森のある山に出かけた。そして、妹が捕えられている森の奥の番人小屋の中へ押し入り、ピロメラを連れ出して宮殿の自分の部屋に連れていった。そこではじめてピロメラは、自分を連れてきたのが、姉であることを知った。不幸なピロメラが、姉に抱きついたとき、姉のプロクネは叫んだ。「涙なんか何の役にもたちはしない。そうよ、血よ、剣よ、むごたらしい殺人よ。あの極悪人の破廉恥に仕返しをするためなら、どんな残酷なこともいとわない」プロクネがそう話しているはうちに、幼い息子のイテュスが、母に挨拶しようとして入ってきた。母親は暗い目で息子をじっと見つめながら「まあ、この子はなんと父親に似ていることだろう」とつぷやいた。そして、イテュスを荒々しく別の部屋に連れ去った。プロクネには、いまや母親の心はなく、気違いじみた復讐心が渦巻いていた。狂暴な怒りに駆りたてられたプロクネは、短刀をつかんで、泣き叫ぶ子供の胸を刺した。

      (五)

その夜。テレウス王は、先祖代々の王座にすわって、何も知らずに、妻が運んできたイテュスを殺して調理した御馳走を食べていた。空腹が満たされたとき、テレウスは「イテュスはどこにいるのか? 」とたずねた。「ここにおりますわ。あなたのすぐおそぱにね」とあざけり笑いながら、妻は答えた。テレウスは、たずねるようにまわりを見た。そのとき、ピロメラが入って来て、イテュスの血にまみれた首を、テレウスの足もとに投げつけた。それで何もかもがはっきりわかった。テレウス王は狂気のように、身の毛のよだつ御馳走の置かれた食卓を押し倒すと、剣を抜いて、逃げようとする姉妹のあとを追った。姉妹は逃げながら神々に祈った。すると、二人の体には、羽根が生え小鳥に変身した。一人は森に逃れ、もう一人は屋根裏に舞いあがった。プロクネは燕(つばめ)に、ピロメラは夜鴬(ナイチンゲール)になった。今もなお、燕が胸の羽毛に赤い斑点を持っているのは、人殺しをした印(しるし)なのである。しかし、二人を追いかけたテレウス王も、もう人なかへ出ることはできなかった。彼は姉妹を追いかけているうちに頭に逆毛(さかげ)が立ち、剣のようなクチバシを持つヤツガシラになっった。そして、永久に夜鶯と燕を追いかけるようになったという。

(参考)

@神々に祈った・・・三人の間の惨劇を見かねた大神ゼウスの姉である竈(かまど)の女神・ヘスチア(ヘスティア)が、テレウスをヤツガシラに、プロクネは燕に、そしてピロメラを夜鴬に変えたという説もある。

A夜鴬(ナイチンゲール)・・・似たような伝説。テーバイ王ゼトスの妻アエドンは、義理の姉妹ニオベの母としての幸福をねたんでいた。ニオベには六人の息子と六人の娘がいるのに、自分にはただ一人の子供イテュスしかなかったから。はげしい嫉妬に駆られて、アエドンはある夜、ニオベの息子の一人がイテュスといっしょに寝ている部屋に忍ぴこんで、ニオベの息子のかわりに、自分の子供を殺してしまった。翌朝、アエドンは、自分のしたことを見とどけると、名状しがたい絶望にとちえられた。神々はしかし、このかわいそうな母親をあわれんで、アエドンを夜鶯に変えた。春が来ると、彼女は茂った木の間にとまって、美しい声で、自分が殺した最愛の子供を悼(いた)んで「イテュス、イテュス!」と、繰りかえし繰りかえし鳴くのであった((小話437)「母なる女神・レトを守る狩猟と月の女神・アルテミス。そして、王妃ニオベとその子供たち」の話・・・参照)

「トラキアの王テレウスがいまその肉を食べさせられたわが子のイテュスの首と対面する」(ルーベンス)の絵はこちらへ

 

(小話498)ある「運命の別れ道」の話・・・

      (その一)

あるヤクザは自分の女を兄貴分に寝取られてしまった。兄貴分を殺す目的で首都高速道路に車を走らせた。しかし、途中で冷静になり「あの女はしょせんそんな女だったんだ」と気を持ち直して高速道路を降りようとした。が、たまたまその日に限ってその降り口が封鎖されていたため、そのまま兄貴分の家に近い高速道路の降り口で降りて、結局は兄貴分を殺してしまった。その時、降りようとしていた高速道路の降り口が封鎖されていなければ、男は素直に家に帰っていたのである。

      (その二)

ある男は、遊ぶ金ほしさに銀行強盗を計画した。銀行の様子を外からうかがい、押し入るタイミングを計っていたが、お年寄りや子供を巻き添えにしたくないと考えた男はなかなか押し入ることが出来なかった。緊張で全身が汗だくになり、結局、男は強盗をあきらめ帰路に就いた。途中、のどの渇きを覚えた男は、路上の当たり付き自販機でジュースを買った。コインを入れ目的のジュースのボタンを押すと、ピピピという音と共に電飾が回転をはじめ、男に大当たりが出た。すると男はクルリと向きを変えてもと来た道を引き返し、今度は緊張することもなく銀行に押し入った。男にとって、自販機の大当たりが引き金となって強盗を決断したのであった。

 

(小話497)「目連(もくれん)尊者と盗賊たち」の話・・・

      (一)

釈迦(しゃか)八十歳の夏安居(げあんご)のこと。既に釈迦は残りの寿命もこの年かぎりと定まり、弟子の目連と舎利弗(しゃりほつ)もまた連れ立ってこの夏安居が明けたら涅槃(ねはん)に入ろうと心に期していた。目連はいつもの通り王舎城に托鉢に出かけた。ところが、そんな彼の姿を仏教徒を憎む外道(他派の信者)たちが目ざとく見つけた。外道達は互いにひそひそ話をはじめた「どういうわけでお釈迦さまを尊敬したり、 布施する人が多いのだろうか」 「それは目連という弟子のお蔭だと思う。目連は神通力第一で、 天界のことや餓鬼道地獄のことを人々に語って聞かせる。 大衆は目連の言葉をすっかり信用して、 彼をあがめ、 釈尊を尊敬し教団に多大の布施することをおしまない。 だから我々が目連を殺すことができれば、 その尊敬や布施は我々の方にまわってくるぞ」。外道たちは、自分たちの信者にお金を集めさせ、 その金で盗賊の首頭に目連を殺すように命じた。 「目連は神通力があるから気をつけて殺せ。殺せば約束のお金を与える」。盗賊の首頭はすぐに承諾した。次の日、 盗賊たちは目連の家のまわりを取り囲んだ。 目連は盗賊たちに取り囲まれたことを知ると、 神通力でカギの穴から逃げだした。 盗賊たちは第一回目では目連を捕まえることができなかった。 別の日に盗賊たちは、また家を取り囲んだ。 目連は、それに気がつくと今度は屋根から逃げた。二回目の殺害計画も失敗した。しかし三度目に盗賊たちに取り囲まれた時、 こんなに何度も命を狙われるのは前世の業(ごう)によるということを神通力で知った。そしてもはや逃げようとはしなかった。

(参考)

@目連尊者・・・神通第一。舎利弗とともに仏弟子となった。目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が「盂蘭盆会 」(うらぼんえ)の起源になった。(注)神通とは普通では見たり、聞いたり、感じたり出来ないことを感じ取る超人的な能力のこと。(小話401)「目連(もくれん)尊者とその母親」の話・・・参照。

A舎利弗 ・・・智慧第一。「般若心経」ではお釈迦さまの説法の相手として登場する。同じ十大弟子の目連とは子供の頃からの友人。舎利弗は目連と共に、それまで修行していた集団の人たち250人を誘ってお釈迦さまの弟子となった。

B夏安居・・・夏の三か月の間、僧が一か所にこもって修行すること。

C涅槃・・・あらゆる煩悩(ぼんのう)が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地で死ぬこと。

      (二)

盗賊たちは、目連を捕まえた。そして、神通力を恐れて遠くから石を投げつけた。大小数知れぬ石が目連の体を砕いた。盗賊たちは目連が死んだと思い、 茂みの中に捨てて立ち去った。意識を取り戻した目連は、神通力でもって友人の舎利弗の前に姿を現わして告げた「もう涅槃に入ろうと思う。それで君に別れを告げに来たのだ」。聞いて舎利弗は驚いて尋ねた「釈尊の弟子の中でも「神足第一」の誉れ高い君ではなかったか。何故その神足を使って逃げなかったのだ」これに目連は「私は過去に行った罪が極めて深く重い。だから終(つい)には、その報いを受けなければならず、どうしても避けることはできない。だから空(むな)しくこの報いを受けたわけではない」と答え、重ねて涅槃の決意を述べた。それでも舎利弗は食い下がった「神通力を極めた者は、自在に寿命を操作できると言うではないか。どうして死のうなどと言うのか?」すると目連は答えた「その通りだ。しかし、釈尊ももう亡くなられるのだ。私は釈尊が亡くなるのを見たくはない」ここに至って舎利弗も説得することは諦めた。もはや理屈ではない「少し待て。私が先に死ぬから」と言い置くと、本当に舎利弗は先立ってしまった。残された目連は、舎利弗の死を聞くとお釈迦さまにお目にかかってから涅槃に入ろうと思い、 神通力によって釈尊のもとに降りた。 釈尊を礼拝して、「世尊(せそん)、 わたしは涅槃に入ろうと思います」 「目連よ、 どこで涅槃に入るのか」 「はい、 今住んでいるところです」 「それでは目連よ、 涅槃に入る前にわたしに法を説いてくれないか。お前のような優れた弟子には二度と会うことはできないだろうから」 目連は釈尊に礼拝して空中に飛び上がり、 神通力によって種々の威力を示し、法を説いて、 釈尊にお別れを告げると故郷の森へと向かい、そこで静かに涅槃に入った。

      (三)

盗賊たちが目連を殺したという知らせは、国中にすぐに伝わった。 王様は盗賊を捕まえるために捜査を行った。しばらくすると密偵が国王に報告した。 「王様、 盗賊たちは酒場で飲み明かし、 くだを巻いておりました。 やがて喧嘩になって、「目連に最初に石を命中させたのは、 お前だ」「いやお前だ、 目連尊者の祟(たた)りがくるぞ」と怒鳴っておりました」すぐに盗賊たちは捕まえられて、王様の前に突き出された。 王様は盗賊に聞きただした。「目連尊者を殺したのはお前たちか」 「そのとおりです。石を投げつけて殺しました」 「誰かに頼まれて殺したのか」 「外道たちからお金をやるからと頼まれました」。王様は五百人の外道たちを捕まえさせた。そして、王宮の庭に深い穴を掘らせ、盗賊の首頭をはじめ一味をことごとく穴に落とし、 藁(わら)で覆って火をつけた。 王様は彼等が焼かれて灰になったのを知ると、 鋤(すき)で土を混ぜ埋めてしまった。 夕方になって、 比丘(びく)たちは釈尊のところに集まって尋ねた。「目連尊者は偉い方なのに、 どうして非業の死を遂げなければならなかったのでしょうか?」 釈尊は答えた「比丘たちよ、 目連尊者は禅定第一の弟子にふさわしくない死に方をしたように思えるが、 それは前世に彼が行った悪業にふさわしい死に方なのです」

(参考)

@比丘・・・出家して、定められた戒を受け、正式な僧となった男子。

      (四)

釈尊は語った。「昔、 バーラーナシー(剣の城壁)に住む一人の男が目の不自由な両親を大切に世話をしていた、 近所でも評判の親孝行だった。 「息子や、 一人で家の仕事や、 畑仕事、 親の世話まで大変だろうから嫁をめとったらどうか?」と両親は彼に結婚をすすめて、嫁を迎えることになった。しかし、その嫁は邪険な女で、やがて年寄りの世話を嫌うようになった「もう、 あなたのお父さんやお母さんの面倒(めんどう)をみることはできません。 一緒に住むことはできません」。妻はそう言って涙を流した。 一生懸命に尽くしてきたが、もはや自分も疲れてしまったというように涙ぐむ嫁の姿に夫の心も動いた。妻の策略とも気付かぬまま親孝行の息子も気が変わり、 両親を殺そうという恐ろしい思いが心に浮かぶようになった。ある日、 彼は両親を騙(だま)してこう言った。 「お父さん、 お母さん親戚の人が家を造ったので、あなた方を招待したいといってきました。一緒に出かけましょう」 そして、年寄りたちを乗り物に乗せて森の中に連れだした。 森の真ん中にさしかかった時、 息子は言った。「お父さん、 お母さん、この森に盗賊が出ると言われています。 私は車から降りて、 この先を見て来ますから、 この手綱を握っていて下さい」 息子は父の手に手綱を渡して車から降りた。そうして車から離れると、 盗賊たちが襲ってきたような物音をたてた。 両親はこの音を聞くと、 盗賊が襲ってきたのだと思い、 大きな声で息子に言った。 「おぉいー、息子や、 年老いている私たちのことはいいからお前は、 早く逃げなさい」 彼は両親が息子の身を案じて、このように叫んだにもかかわらず、 盗賊がだんだん近づいてくるように思わせて、ついには両親を打ち殺して森の中に捨てて立ち去った」と。

      (五)

釈尊は、 目連の過去の行為を語った後「比丘たちよ、 目連はこの業の故に、 何百何千年という間、地獄で苦しみ、 そして残りの何百という生涯でも何度も打たれ、 骨を砕かれて殺されてきたのだ。 このように今度もまた目連は自分の業に応じた死に方をしたのだ。また五百人の外道も、 過(あやま)ちのない私の弟子に対して悪業を行ったので、 やはりふさわしい死に方をしたのだ。 罪もない者に悪いことをする者は悲運に至るのだ」と教えられた。

 

(小話496)「イソップ寓話集(1/20)」の話・・・

     (一)「オオカミと子ヒツジ」

ある日のこと。オオカミは、群れとはぐれて迷子になった子ヒツジと出会った。オオカミは、子ヒツジを食ってやろうと思ったが、牙を剥いて襲いかかるばかりが能じゃない。何か上手い理由をでっち上げて手に入れてやろうと考えた。そこで、オオカミはこんなことを言った。「昨年お前は、俺様にひどい悪口を言ったな」子ヒツジは、声を震わせて答えた。「誓って真実を申しますが、私はその頃、まだ生まれていませんでした」するとオオカミが言った。「お前は、俺様の牧草を食べただろう」「いえ、いえ、私はまだ、草を食べたことがありません」するとまたしてもオオカミが言った。「お前は、俺様の井戸の水を飲んだな」仔ヒツジは悲鳴を上げて答えた。「いえ。まだ、水も飲んだことがありません。……だって、お母さんのお乳以外は、まだ何も口にしたことがないのですから。ええい。 もうたくさんだ。お前がなんと言おうとも、俺様が、夜飯(よるめし)を抜いたままでいるとでも思っているのか?」オオカミはそう言うと、子ヒツジに襲いかかった。

(暴君は、いかなる時にも、自分に都合のよい理由を見つけるものである)

(参考)

(小話183)「子羊はオオカミの餌」の話・・・を参照。

     (二)「コウモリと二匹のイタチ」

コウモリが、地面に落っこちてイタチに捕まった。コウモリは、命ばかりはお助けを、と懇願した。しかしこのイタチは生まれてこの方ずうっと、鳥と戦ってきたと言うのだ。そこでコウモリは、自分は鳥ではない。ネズミだと言い張った。それを聞いてイタチは、コウモリを逃がしてやった。それからまもなく、コウモリは、また、地面に落っこち、そしてまたしても、イタチに捕まってしまった。コウモリは今度も、命ばかりはお助けを、と懇願した。しかし今度のイタチは、ネズミを大変憎んでいると言う。そこでコウモリは、自分はネズミではなくコウモリだと言った。こうして、コウモリは、二度までも窮地を脱した。

(賢い人は、その場その場でうまく立ち回る)

     (三)「炭屋と洗濯屋」

あるところに、働き者の炭屋が住んでいた。ある日のこと、炭屋は友人の洗濯屋にばったり出合った。そして洗濯屋に、自分の所へ来て、一緒に住まないか? そうすれば、家計は助かるし、一生楽しく暮らせるからと熱心に誘った。すると、洗濯屋はこう答えた。「私は、あなたと住むことなどできません。だって、私が洗濯して、白くしたそばから、あなたは、黒くしてしまうでしょうからね」

(水と油は混ざらない)

 

(小話495)「美しき中将姫(ちゅうじょうひめ)・数奇な運命と短い生涯」の話・・・

     (一)

伝説より。時は奈良時代。聖武(しょうむ)天皇につかえる右大臣(うだいじん)に、藤原豊成(ふじわらとよなり)という人がいた。藤原豊成は、大化改新に功績のあった藤原鎌足の曾孫(そうそん=ひまご)で、豊成は、その頃朝廷に使えていた「紫の前」と云う美しい官女を妻に迎えた。二人の間には、久しく子供が産まれず、そのために夫婦は長谷((ながたに)寺の観音さまに願(がん)をかけた。満願(まんがん)の日に、二人は同じ夢を見た。観音さまの美しいお姿が、枕元に立って、すうっと消えていくという、不思議な夢であった。そして、あくる年、かわいい女の子が生まれた。姫は小さいときから、琴が上手であった。五歳の時、母は病床に伏して亡くなった。七歳の時、父は、橘諸兄の息女、「照夜(てるよ)の前」という名の後妻を迎えた。八歳の桃の節句に宮中で宴会があり、姫は琴の役、「照夜の前」は笙(しょう=雅楽の管楽器の一)の役をつとめたが、この時、継母(ままはは)は未熟さから恥をかいた。やがて、継母に豊寿丸(とよじゅまる)が誕生した。継母は豊寿丸を溺愛して、姫を邪魔者扱いにしだした。一方、姫は成長するにつれて、輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、特に和歌や音楽の才能には、人々の目を見張らせるものがあった。十五才の時には三位中将の位になり、それ以降、世間ではこの姫のことを中将姫と呼ぶようになった。ところが継母の「照夜の前」は、噂(うわさ)がたったほどの美しい姫を嫉妬し、次第に憎むようになり、ついには殺そうとまで思い詰めるようになった。そして、照夜の前は、何度も中将姫の殺害計画を立てたが、いずれも成功しなかった。

     (二)

中将姫が十歳の時、桃(もも)の節句(せっく)の日に「照夜の前」が入れた毒の甘酒の杯を取り違えた義弟の豊寿丸が死亡して、姫は危うく助かった。このため、継母の「照夜の前」はますます中将姫の命(いのち)を狙うようになった。そこで、中将姫は、ある夜、屋敷から二、三人のお供の者を連れただけで、こっそりと出て行った。中将姫は、紀州有田(今の和歌山県有田市)に、落ち延びて行った。そして、中将姫たちは、父の豊成が狩場としていた糸我(いとが)の日張(ひばり)山の麓に住み着いた。日張山の頂上には、ちょうど机にできる石があったので、中将姫はそこで毎日お経(きょう)を写すことに励(はげ)んだ。ある日、いつものようにお経を写していると、後(うしろ)に人の気配がした。「照夜の前」に命令されて、中将姫を殺すために後を追ってきた松井嘉藤太春時(まついかとうたはるとき)であった。春時は刀を抜いて姫に迫った。だが手を合わせて死を覚悟している罪もない心優しい姫を殺すことが出来ず、ついには太刀を捨て(このため日張山を一名「太刀捨山」とも云う)て、姫の前にひれふし、自分の罪を謝(あやま)った。こうして春時は、姫を殺すことが出来ず、姫を残して一旦都に帰り、「照夜の前」には、姫を捨てたと報告すると再び妻と共に恋し野の里の日張山に戻り、中将姫を守って共に暮(く)らした。中将姫が十五歳の時、春時は死亡した。

(参考)

@日張山・・・日張山は中将姫伝説の謡曲「雲雀山」では雲雀山になっている。

A恋し野の里・・・奈良の都や亡き母を思う心は募るばかりで「母恋し 恋しの野辺や…」と中将姫が詠んだ歌から恋野の地名が生まれたという。

     (三)

一方、都では、父の豊成が国々の見回りから帰ってみると、姫の姿が見当たらなかった。「照夜の前」に聞くと「あなたさまのお留守中、姫はよくないことをいたしましたので、親子の縁(えん)をきって家から追い出しました」という。豊成はそれを聞いて、何とか探し出したいと思った。そんなある日、無事に帰国したお礼に、熊野(くまの)三山(さんざん)へ参いることにした。途中にかっての狩り場の日張山の頂上で、石の机を前で、一心にお経を写している中将姫に出会った。涙で親子の再会を果たした後(のち)、豊成は姫を都へ連れて帰った。このとき姫はまだ十五歳であった。苦労をかけたぶん、たくさんの幸せを与えよう、と父の豊成は心に秘めていた。そのころ、継母の「照夜の前」は家にいることができないと思ったのか、豊成と姫が帰ったときには、どこかへ行方(ゆくえ)をくらましていた。こうして中将姫は、父と二人で静かに都で暮らしていたが、しかしこの一年間で、姫の心は大きく変わっていた。煌(きら)びやかな都の暮らしより、もっと大切なものを求め、十六歳のある夜、乳母とともに屋敷を抜け出し当麻寺(たいまでら)に入った。そして、乳母とともに出家し、剃髪(ていはつ)して法如尼(ほうにょに=中将法如)となった。そして、精進を重ね、十九歳の夏に霊感を得て「百駄の蓮華(れんげ)の茎から繊維をとって曼陀羅(まんだら)を織るがよい」という仏の言葉を聞いた。そこで、姫は、五色の蓮(はす)糸を用い、一夜にして織り上げたのが、浄土曼荼羅(極楽の絵)を描いた当麻曼荼羅であった。後に、姫は再び日張山に登り、そこに小さな堂を建て、自らの像と嘉藤太夫婦の形像を刻んで安置し、日張山青蓮寺と名づけて尼主(にしゅ)の道場とした。宝亀六年三月十四日、諸仏、諸菩薩に見守られながら二十九歳で中将姫は浄土へ旅立った。

(参考)

@浄土曼荼羅・・・「当麻曼荼羅縁起」は国宝に指定されている。

「中将姫」(月岡芳年)の絵はこちらへ

「中将姫」の像はこちらへ

「中将姫の像」(当麻寺)はこちらへ

 

(小話494)「戦いの女神・アテナと幼馴染の美しい娘パラス。そして、アテナイの守護神」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。戦いの女神・アテナは、パラス・アテナと名乗っていた。その由縁(ゆえん)は幼馴染(おさななじみ)のパラスであった。パラスは半人半魚の海神トリトンの娘で、アテナは幼い頃、海神トリトンのもとで養育された。そのためアテナはパラスと共に育てられた。そして、パラスは、優れた女戦士に成長した。ある日、剣の稽古(けいこ)をしているとき、女戦士パラスの剣がアテナを突きそうになった。それを見ていた父でもある大神ゼウスは、とっさに天からアイギスの盾を差し出した。一瞬、驚いて天を見上げる女戦士パラスの胸にアテナの剣が突き刺さった。こうしてパラスは、死んでしまった。アテナは不運な事故に悲しみ、いつまでも忘れないために遊び友達バラスそっくりの像を作って、ゼウスの隣に置いた。そして、その日からアテナ女神は、パラス・アテナと名乗ることに決めたのであった。バラスにそっくりの像は左手に竿を持ち、右手に槍を持っていてパラディオンと呼ばれた。やがて、ゼウスは娘の許しを得て、パラディオン神像を天上から落とした。神像が落ちた地は、アテナの守護のもとにあることを示し、後にトロイア市が建設された。

(参考)

@海神トリトン・・・半人半魚の海神。父ポセイドンの従者をつとめ、海のラッパ手という名を持ち、難破しそうな船を見つけると、ホラ貝の笛で嵐を静めたり、凪(なぎ)をもたらしたりするという。

Aアイギス(イージス)の盾・・・大神・ゼウスの盾。山羊の皮で作られた丸盾で、雷神たるゼウスの雷雲の象徴。鍛冶の神・ヘパイストスがゼウスのために作ったものだが、たびたび娘のアテナ女神に貸していたため、アテナの盾ともいう。アテナ女神がメドゥーサの首を楯(イージス(アイギス)の盾)の中央にはめ込んだ。

「パラス(アテナ)とケンタウロス」(ボッティチェリ)の絵はこちらへ

「パラス・アテナ」(クリムト)の絵はこちらへ

「パラス・アテナ」(シュトゥック)の絵はこちらへ

       (二)

後(のち)の古代ギリシャ文化の中心地となるアテナイ(アテネ)の町の守護神の座を巡って、戦いの女神・アテナと海王・ポセイドンが言い争った。言い争っても決着が着かなかったので、二人は住民にとって、もっとも価値のある贈り物をした方が勝ちだと言うことに決めた。海王・ポセイドンは、手に持っている三叉(さんさ)の戟(ほこ)をアテナイ市のアクロポリス(丘)に投げ込み、その戟が刺さったところからは海水の泉が吹き出した。戦いの女神・アテナはアクロポリスに自分の神木であるオリーブの木を植えた。ただ、海王・ポセイドンの贈った泉の水は塩水で、全く飲む事ができなかった。そこで、アテナイの住民たちはオリーブの木の方が実用になると考えた。オリーブは滋養の高い食物であり、油として、又、体育の際にも使われ、古代では非常に重要な役割をもっていた。こうして、アテナイの住民たちは、自分たちの守護神にアテナ女神を選んだ。

(参考)

@泉が吹き出した・・・海王・ポセイドンは、馬を贈ったという説もある。

A泉とオリーブの木とどちらがアテナイの町に有用かで、オリュンポスの神々に選択が任された。そして、多数決の結果、女神達が支持したアテナ女神が1票の差で勝った。その理由は、泉はあまりにもありふれていたが、オリーブは生活の役に立ったのと、ポセイドンの贈った泉の水が塩水で、全く飲む事ができなかったからであった。こうして、アテナイ町の所有者はアテナに決定したという説もある。(小話452)「魔物ゴルゴン三姉妹・蛇女となった美しき髪のメデューサとその姉たち」の話・・・を参照。

 

(小話493)「戦いの女神アテナに恋した鍛冶の神ヘパイストス。そして、ケクロプス王の三人の娘」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。戦いの女神・アテナと鍛冶(かじ)の神・ヘパイストスは、戦いの神と武具を作る鍛冶神としての日頃から深い付き合いがあった。ある日、アテナ女神は新しい武器を作ってもらいに鍛冶の神・ヘパイストスの元へ訪れた。ところが「天界一の魅惑的な美女(アフロディーテ)を妻に持つ真面目男」のヘパイストスは妻のアフロディーテが新しい浮気にうつつを抜かして相手にしてくれないので、つい、アテナ女神に対して欲情を抱いた。そして、隙を見てアテナ女神に飛びかかった。だが、彼女は処女神でもあり、その上、武術に長(た)けていた。その女神を手篭(てご)めにすることなど出来るはずもなく、アテナ女神に抱きついて突き飛ばされた際に、我慢できなかったヘパイストス神はアテナ女神の足の上で果ててしまった。潔癖なアテナ女神の顔面は蒼白になり、怒りに身を震わせて、わななく手で足にかかった精液を羊毛でふき取り、地面に投げ捨てた。その捨てられたヘパイストス神の胤(たね)は、大地の女神・ガイアによって受胎され男の子が産まれた。その男の子は、エリクトニオスと名づけられ、ガイアからアテナ女神に与えられた。しばらくアテナ女神は、アテナイの自分の神殿で母として面倒を見ていた。しかし、アテナ女神は忙しいため、赤ん坊のエリクトニオスを箱に入れてアテナイの王ケクロプス(大地・ガイアから産まれたアテナイの王で、下半身は蛇であった)に預けることにした。そこでケクロプス王に会いに行った。だが、王は留守だった。王の代わりには、三人の娘がいた。ケクロプス王の娘アグラウロス(輝かしい微風)とヘルセ(露に濡れた)とパンドロソス(すべての潤い)で、アテナ女神は、箱を開けることを禁じて、その三姉妹に箱を預けた。

(参考)

@ヘパイストス・・・火と鍛治の神。ゼウスが一人でアテナを生んだのに対抗して、ヘラが一人で生んだ子とされている。そのためか、すべて完全で美しい神々の中で、彼だけは醜く生まれつき片足が不自由だった。産まれたとき彼があまりにも醜かったためにヘラは彼をオリュンポスから投げ捨てた。海のニンフ(妖精)であるネレイスたちに拾われた彼は鍛冶の技術を学んだ。(小話474)「火と鍛冶の神・ヘパイストスの誕生と黄金の椅子」の話・・・を参照。

Aエリクトニオス・・・エリクトニオスはアテナ女神が生んだ子ではなく、クラナオスの娘アッティスとヘパイストス神との間の子という説もある。

B母として面倒・・・アテナ女神は、父ゼウスから生まれた娘。男より強い女。処女でありながら子を得た母であり、アンドロテア(おとこ女神)やアンティアネイラ(男に匹敵する女)という異名がある。

「ウルカヌス(ヘパイストス)の鍛冶場」(ベラスケス)」の絵はこちらへ(左から太陽神ヘリオス(アポロン)、ヘパイストス、後の3人がヘパイストスの弟子たち)

「ウルカヌス(ヘパイストス)の鍛冶場」(ヴァザーリ)の絵はこちらへ

       (二)

しかし、見るなと言われると逆に見たくなるのが人間である。好奇心に勝てなかった三姉妹は、ついに箱を開けてしまった。何と箱の中には、赤ん坊のエリクトニオスと大蛇がいた。そして赤ん坊自身の足も大蛇であった。アテナ女神の禁を犯した三姉妹は、女神の怒りに触れて気が狂い、アテナイにあるアクロポリスの山頂から身を投げた。だが、命を落とすことはなかった。その後、神々の伝令役であるヘルメス神が三姉妹の一人のヘルセ(露に濡れた)に恋をしたとき、アグラウロス(輝かしい微風)はその仲介を頼まれた。しかし、それを知ったアテナ女神は、洞窟に住む「嫉妬」という女神に頼んで、アグラウロスに嫉妬の感情を植えつけた。こうしてアグラウロスは、ヘルメス神とヘルセ(露に濡れた)の二人の仲を裂こうと、ヘルセの悪口を言ったり、ヘルメス神を誘惑しようとした。これに怒ったヘルメス神は、アグラウロスを石に変えてしまった。後に、ヘルセ(露に濡れた)はヘルメス神との間に、ケパロスを生んだ。     

(参考)

@エリクトニオス・・・後、アテナイの王となった。死後、アテナイでは蛇の姿をしたものとして崇拝され、パルテノン神殿にはアテナの盾の背後に、蛇の姿として掘られている。

Aケパロス・・・(小話384)「狩人・ケパロスとその美しい妻・プロクリス」の話・・・を参照。

 

(小話492)「デンマークのクリスマスツリー」の話・・・

         (一)

民話より。北は遠くデンマークに、松やリンデンバウム(シナノキ科の落葉高木)、モミやオーク(カシワ・カシ・ナラなど、ブナ科の大木になる樹木の総称)の木々からなる、ある大きな森があった。森にはある男が家族と一緒に住んでいた。そして、毎年奥さんと、両親と可愛い子供たちとクリスマスを楽しく祝っていた。ある年のクリスマスの深夜の宴の終わりに、男は、次の年は家族と共にここにいられないのだと打ち明けた。遠く聖地・エルサレムに巡礼の旅に出るからであった。その旅は、その時代ではとても長く危険な旅であった。一年後のクリスマスの日、彼はパレスチナにいてベレンの洞窟に向かっていた。この夜、次の年には無事故郷に戻り家族と共にクリスマスを過ごしたいので、どうかこの巡礼の旅の間、私を守りお導き下さい、と天使に強くお願いした。そして、男は、一ケ月後にはジェノバの方をめざし進んでいた。フランドレス地方に行く船に乗るためであった。しかし、まず最初に病気が彼を突然襲い、次には船がないために陸地を馬に乗って進まざるを得なくなった。

         (二)

男は、食べる時と眠る時以外は休むことなく、自分の故郷にクリスマスまでに到着することだけを熱望し、馬を進め続けた。しかし、ようやくフランドレスに到着した時には既に冬になっており、川も海も凍りついてしまっていたため、船で渡ることが出来なくなっていた。再び陸地を旅しようと決意し、何週間も馬を進め続けた。クリスマスイブの前日、男は自分の故郷の森まであと少しのところの小さな集落に到着した。十二月二十四日、暗く茂る森の中を、男は自分の身の回りの危険もかえりみずに馬に乗って進み続けた。おりから雪が降り、暗闇からは腹をすかせた狼が様子をうかがっていた。道に迷い寒さに震えながら、静けさの中で男は勇気を奮って前進しつづけた。道に迷ってしまったため、何も見えず、何も聞こえない中、純粋に希望を持ち勘だけを頼りに進んだ。やがて、馬が雪の中に埋もれ、歩みはいちだんと遅くなり、そしてついに立ち止まってしまった。男は鞭で馬を促したが、ぴくりとも動かなかった「今晩、ここで死ぬのか」と男は思った。それから、男は、星をちりばめたエルサレムの青い夜を思い出した。これまでの道々で空に見た星座の数々を思い出した。だが、ここの空は暗く、重く、静かで、何の声も聞こえず何も見えなかった。男は、天使たちの祈りを大きな声で唱えた。そしてさらに、ひと言ひと言声高らかに祈った「故郷の空と平和のもと、良き心を持った男たちに神の栄光あれ」

         (三)

すると木立の暗闇の遠くに、小さな灯りが見えはじめた「おお神様、ありがたい」と男はつぶやいた。「あれは火だ。きっと誰か自分のように道に迷った木こりがたき火をしているのだ。私の祈りは届いたのだ。灯りの所に行き、その男とともに夜が明けるのを待とう」馬がいなないた。馬もまた灯りを見たのである。励まされるように、男と馬はまた前進し始めた。

灯りは輝(かがや)き続けていた。その輝きは大地から空へと、円錐形の形をとっていた。大きく輝く三角形。森の中でひときわ高い頂き。その時森全体が輝いた。氷が輝き雪がその無垢で美しい姿を見せた。新鮮な空気、美しいせん光が枝や幹の間から差し込んだ「何と美しい火だ」と男は思った「こんなに美しい火は見たことがない」しかし、その光りのもとに着いた時、それが火ではないことがわかった。気づかずにいたのだが、それは彼の家のある場所であった。彼の家の隣にはその森では一番大きな茂ったモミの木があり、灯りで飾られていた。クリスマスの天使たちが、男に彼の家を知らせるために10個のきらめく星々で飾り付けていたのであった。こうして男は無事、家族のもとに帰り着いた。これ以後、クリスマスの夜にはツリーに灯りをともすことになったという。

 

(小話491)「天才パスカルとその瞑想録(パンセ)」の話・・・

          (一)

ブレーズ・パスカルは、1623年、フランスのクレルモン・フェランで生まれた。父は、貴族の出身で、数学者の上、国王の参事官でもあった。特に数学者としては、一家をなし、他の科学にも相当の理解をもっていた。思想においては進歩主義者であり、宗教においては穏健なカトリック教徒であった。母は、パスカルが三歳のときに他界した。姉はジルベルト、妹はジャクリーヌで、いずれも才色兼備の婦人であった。姉は後(のち)にペリエ家に嫁(か)して、パスカルの最初のすぐれた伝記を書き、妹はその芸術的天分を放棄してポール・ロワイヤルの修道院に入り、パスカルに深大な宗教的感化を与えた。パスカルは幼時から頭脳明晰で探求心が強く、しぱじぱ鋭い質問をしては周囲の人々を手こずらわした。父はこの子の前途に多大の期待をかけ、再婚を拒み職を辞して、その教育にあたったが、その甲斐(かい)があって、パスカルは天才特有の早熟性を発揮して「アルキメデスの再来」とまで言われた。パスカルは、十一歳のとき、客人が食卓の皿にナイフを打ちあてて発した音からヒントを得て、音響に興味をもち、それに関する実験をかさねた結果「音響論」という最初の論文を書いた。また十二歳のとき、人から学ぱずして幾何学を修得し、ユークリッド幾何学の定理「三角形の内角の和は2直角(180°)」を独力で証明した。父親は、独学で数学に目覚めたパスカルの天才に驚き、率先して数学の指導をした。又、パスカルは、少年ながら父親の参加している学会にも出入りした。この会には神父メルセンヌをはじめとした当時第一流の科学者たちが属していたが、少年パスカルは、それらの人々のあいだに伍(ご)して、どうどうと問題を提出したり解決したりした。彼が科学的精神に目ざめたのは、幼時からの父の教育や時代の雰囲気の影響もあったが、直接にはこれらの人々の感化の賜物であった。こうしてパスカルは、十六才で有名な「円錐曲線試論」を発表し、天才の名を揺るぎ無いものにした。また十九歳のころには、当時ふたたび任官して税務長官の職にあった父の仕事を助けるため、計算器の発明を思いたち、約三年の苦心ののち、加滅乗除が自由にできる精巧な器械(歯車式演算装置「パスカリーヌ(パスカルの計算機)」)を製作した。これは現代の計算器の先駆をなすものであった。

(参考)

@アルキメデス・・・古代ギリシャの数学者・物理学者・技術者。てこの原理やアルキメデスの原理の発見した。(小話268)「アルキメデスと王冠」の話・・・を参照。

「パスカルの計算機」の写真こちらへ

          (二)

二十三歳のころ、ガリレオ・ガリレイの弟子トリチェリがイタリアでおこなった真空実験(トリチェリの真空)をフランスにおいて最初に実験し、一般に公開した。それ以来、彼はこの問題を追求して、実験と研究により「真空論」「流体平衡論」「気重論」等の諸論文を書くと共に、気圧計、手押ポンプ等で実際に応用した。有名な「パスカルの原理」はこれらの業績の一部であった。又、種々の実験によって「自然界に真空は存在しない」という物理学の常識も覆(くつがえ)した。早熟の天才がたいていそうであるように、パスカルも生まれつき体が弱かった。それが科学の研究や発明によっていっそう悪化し、二十代の半ぱ頃には、もはや普通の仕事に耐えられぬほどになった。このころパスカルはポール・ロワイヤル派の宗教者に感化を受け、宗教的自覚を体験し、厳格な信仰へと導かれた(第一の回心)。一方、彼は医師の勧告にしたがって、不本意ながらパリの社交界に出入し、気ぱらしをして健康を回復しようと努めはじめた。多くの社交人たちと交際するようになり、そのサロンや庭園において娯楽や賭けごとに熱中した。当時、社交界でおこなわれたことで、彼の興味を惹(ひ)かないものはほとんどなかった。哲学、文学、絵画、音楽、劇、詩、箴言(しんげん)、会話、カルタ、テニス、狩り、賭けごと等、のちに「パンセ(瞑想録)」の中にとり入れられて、その生彩を放った多くのものは、このとき学びとられたのであった。通説によれぱ、パスカルはこの間に恋愛を経験したという。相手ぱロアネス公の妹シャルロットで、才気ある麗人であったが、身分の相違や情勢の変化から、ついに結婚までいくことはできなかったという。

(参考)

@パスカルの原理・・・一定の容器内部に液体を満たして、ある面に圧力をかけたとき、重力の影響が無ければ、その内部のあらゆる部分に均等に圧力が加わるという原理。均等な圧力がかかることを応用して、小さな力を増幅する装置を作ることができる。

          (三)

このようにパスカルは、社交生活によって、それまで知らなかった新しい世界を発見した。それは人間の心であり、微妙な心理の世界であった。この世界は先の自然界とすべてにおいて相違していた。理性的な青年科学者であった彼は、在来の尺度や方法がここではまったく役にたたないことを知った。社交生活よってパスカルは、科学者と人間学者とを兼ねるようになった。しかし、パスカルの深刻な魂は、この第二の世界にも長くふみとどまることはできなかった。三十歳の終りごろから、パスカルはその社交生活に別れを告げて、第三の秩序である信仰と愛との世界への復帰(第二の回心)した。パスカルは、父の死後に修道女になった妹ジャクリーヌのことを思いおこし、彼女のいるポール・ロワイヤルの修道院ヘしばしぱ足を運ぶようになった。こうして、パスカルは世間から離れて、ポール・ロワイヤルの修道院の客員となり、そこの修道士たちと起居をともにして、厳格な信仰の生活にはげんだ。「あらゆる快楽とあらゆる賛沢とを退(しりぞ)ける」というのが、彼の新しい生活の根本方針であった。彼はまた修道院に附属していた「小さい学校」の教育にもあずかり、国語の教授法に新生面をひらくとともに、教師用の教科書の草案にもたずさわった。彼は神にとらえられ信仰に徹することによって、長くあえぎも求めていた魂の休息と平安とを見いだし、満(み)ちあふれる自由と歓喜とにひたったのであった。

(参考)

@長くふみとどまること・・・世に流布しているパスカル伝説の一つに「深淵の逸話」がある。パスカルは「自分のからだの右側に深淵がポッカリと口を空けている」のが見え、それを恐れていつも体の右側に椅子を積み上げておいたという。

A信仰の世界への復帰した・・・「信仰の対象となるものは、理性の対象とはなりえない」という父の言葉に従って「考える」ことを放棄した。

          (四)

そうしたとき、パスカルに一つの奇跡的な出来事がおこった。パスカルの姉の娘マルグリットの悪質な眼病が、イエスの十字架上で冠(かむ)らされた棘(いぱら)の冠(かんむり)の遺物と称するものに触れることによって、不思議にも癒(いや)されたのであった。その棘がはたして本物であったかいなかは別問題として、病児が癒されたことは事実であり、そのことは当時の権威ある医師たちによって確認され「聖なる棘(いぱら)の奇蹟」として、世上に伝えられた。この小さい出来事がパスカルの精神におよぼした影響は大きかった。彼にとって、それは神の直接なみわざであり、特にそれがポール・ロワイヤルでおこったということは、神がこの教団を嘉(よみ)している証拠であった。またこの事実から、彼は奇跡に関する多くの真理を学ぴとった。それまであまり気づかなかった聖書中の奇跡、その内にふくまれた対立、相反、矛盾等の原理が、信じない者をつまづかせ盲目にすると同時に、信じる者を啓蒙開発して、自然から超自然へと飛躍させるものであることを知った。その上、この稀(まれ)な恩寵が、彼の血縁の姪(めい)、とりわけ洗礼のときの自分の名づけ子に与えられたことに対して、彼は絶大な感謝と喜びとに満たされた。そこで、どうかしてこの恩寵に報いたいと心をくだき、その報恩の道を、自由思想家や無神論者たちに福音を弁証し、彼らを信仰に引き入れる仕事のうちに具現しようとして「キリスト教弁証論」の執筆を志すようになった。

          (五)

パスカルがこの新しい仕事に着手したのは、ポール・ロワイヤルでの現世的な寿命もつきかけたころであった。彼はまず聖書をはじめとして、できるだけ多くの参考書を読み、ついで腹案をねり、徐々に資料になるような思想を書きとめはじめた。ところが、1658年ごろから彼の健康は再び悪化し、床の中で日を過ごすことが多くなった。それからというもの、彼は心に浮かんだ想念を手近にある紙片に書きつけたり、甥(おい)や召使にロ授して筆記させたりした。しかし彼は、それらを編集し完成するだけの寿命を与えられず、中途にしてこの世を去らなけれぱならなかった。彼の主著「パンセ」は、彼の死後その部屋に積みかさねられていた原稿を、友人たちが整理して出版したものであった。その巻頭には「いとなみはとぎれたままに」と記(しる)されていた。死期がせまるにつれて、パスカルの魂は聖淨(せいじょう)の域に近づいた。晩年の彼が好(この)んで口にしたのは、貧しい人々への愛と奉仕とであって、そのために彼はつねに応分の施与(せよ)をしただけでなく、自分の病弱をもかえりみずしてパリに乗合馬軍の会社(世界で初めて公共交通機関)を創設し、その利益を慈善事業に振り向けようとした。愛と単純と謙遜とは、病床の彼を特徴づけた性格であった。いよいよ息をひきとろうとするときには、パスカルは、貧しい人とともに死ぬことを願い、そのために貧しい病人を自分の病室に連れてくるか、自分を施療病院につれていくかしてほしいと懇望した。また最後の聖餐(せいさん)を涙を流さんぱかりの感動をもって拝受し「主よ、私をお見すてにならないように」という十字架上のキリストを思わせる言葉を残して亡くなった。それは1662年、彼の三十九歳二ヵ月のときであった。

(参考)

@「パンセ」・・・哲学者ニーチェは「パンセ」のことを「血で書かれた」書物の一冊と評した。

A友人たちが整理・・・1670年、友人らにより「死後、書類の中から見出された、宗教及び他の若干の主題に関するパスカル氏の断想(パンセ)」との題名で草稿に手を加えられた版が最初の出版で、これをポール・ロワイヤル版という。

「パスカル」の絵はこちらへ

「パスカル」の絵はこちらへ

「パスカルの銅像」(生地クレルモン・フェランの公園)の像はこちらへ

 

(小話490)「リスと山カガシとコブラ」の話・・・

      (一)

民話より。ある暑い日のこと、小さな山カガシ(蛇)が食後の散歩にでかけて、とある大きな木の下の草の中で昼寝をはじめた。その木の上にはリスがいた。リスは山カガシを見ると、けたたましく、キッ、キッ、と鳴いた。一人の狩人がリスの声を聞きつけて、木の下にやってきた。「リスがこんな鳴き方をしているところを見ると、なにかいるんだろう」こう思って、狩人があたりを見まわすと、草の中に山カガシが眠っているのを見えた。「なあんだ、おまえか、おまえにゃ毒もないが、そのかわり、ちっともうまくない」こう言って、狩人はそのまま行ってしまった。しぱらくすると、又、別の狩人がやって来た。リスのなき声を聞いて、なにか獲物がいるかと思ってやって来たのである。けれども山カガシを見ると、やっぱりさっきの狩人と同じように、「おまえじゃ、おかずにもならん」と言って、行ってしまった。

      (二)

ところが、山カガシの寝ている草むらのかげに、コプラが一匹かくれていた。コプラはさっきからのようすを、ずっと見ていた。このコプラは、朝から狩人に追いまわされて、やっと、ここまで逃げてきたところであった。じつは、コプラの牙(きぱ)には毒があるが、肉がおいしいので、誰もかれもがコブラをつかまえようとしていた。コブラは、狩人たちが山カガシを見ても何もしないで行ってしまうのを見ると「あの木の下は、きっと魔法がかかっていて、安全なんだな」と思った。そこで、山カガシのそぱに近よって、ピスーッとつぱをかけた。山カガシは目をさまし、ふるえあがって逃げて行った。コプラは山カガシのいたところにとぐろを巻いて、眠ってしまった。木の上のリスは、前よりもいっそうけたたましく、キッ、キッ、と鳴き叫んだ。すぐに三人目の狩人がやってきた。この人は、一日じゅう獲物がなくて、がっかりしていたところであった。狩人は木の下で眠っているコブラを見つけると、大喜ぴでぬき足、さし足、そっと近よって、毒のついた棒をコプラめがけて力いっぱい振り下ろした。コブラは一撃で死んでしまった。「ありがとうよ、リスくん。おまえのおかげでこんなごちそうが手にはいったよ」と狩人はリスにお礼を言って、コブラをもって帰って行った。これを見て「山カガシには安全な場所も、コプラには安全じやないんだなあ。よくおほえておこう」とリスは思った。

 

(小話489)「美しき女狩人・アタランテと黄金の林檎(りんご)」の話・・・

      (一)

ギリシャ神話より。美しき女狩人・アタランテはアルカディアのイアソス王とクリュメネの娘で「カリュドンの猪退治」で、高い名声を博した。アタランテは、男の子を望んでいた父のために、生まれるとすぐに捨てられた。子熊を殺された母熊が、山のなかで泣いている赤ん坊を見つけ、そっと口にくわえて穴に連れて帰ると、自分の乳を飲ませた。あるとき、猟師たちがそのあたりを歩きまわっているうちに、赤ん坊を見つけたので、連れてもどり、育てあげた。女の子のアタランテは森のなかで、男勝りの美しい弓の名手として成長したが、足の速いことでは、どんな鹿にも劣らなかった。その美貌は森の妖精か、狩猟の女神である処女神・アルテミスのように輝いていた。こうして、女狩人・アタランテは山野を駆け巡(めぐ)り、投げ槍で美しい鹿をとるのが、なによりの楽しみであった。あるとき、半人半馬(ケンタウロス族)のロイコスとヒュライオスの二人が、美しい女狩人の駆け去るのを見ると、相談してこの女を奪い去ろうとした。しかし、二人が迫って来たとき、アタランテはその矢で二人を射殺した。また、アタランテは、女の身ながら「黄金の羊の毛皮」を求めて旅立った「アルゴー船」の遠征にも参加した。

(参考)

@カリュドンの猪退治・・・(小話484)「勇者・メレアグロスの巨大イノシシ退治とその最期」の話・・・を参照。

Aイアソス王・・・又は、父はスコイネウス王ともいわれる。

B女狩人・アタランテ・・・アタランテは月の女神・アルテミスのお供の女狩人となったという説もある。

      (二)

アタランテは、ペリアスの息子が亡父の追善のためにイオルコスで催した、有名な競技にも参加し、不死身の英雄・アキレウスの父ペレウスと戦って勝利をおさめた。その後、アタランテが両親を見出したとき、父のイアソスは彼女に、誰か立派な英雄を婿にとって結婚してくれと頼んだ。しかし、アタランテはそれには耳も貸さず、結婚という絆(きずな)を拒否した。その理由は、かつて暗い予言があったからである「アタランテよ、男に近づいてはいけない。おまえはそれでなくても、男から逃(のが)れ去ることはできないのだから」。それでアタランテは、うるさく押しかけてくる求婚者たちを追い払うために、求婚者が彼女自身との競走に勝つこととし、競争に負けた者は殺されるとした。このきぴしい条件にもかかわらず、アタランテの美貌とその魅力には、おぴただしい求婚者がやって来た。この競争見物人のなかに、美しい青年メラニオン(又は、ヒッボメネス)がいた。いよいよ競走がはじまった。勇敢なアタランテは、はじめから勝つ自信があるので、求婚者の男を先に走らせた。それから、まるで弦(つる)をはなれた矢のように飛んで行った。疾走は彼女の美しい魅力を、いっそう高めた。アタランテは、はやくも歓声をあげて決勝点に立ち、はるか後ろから敗れた男がそのあとを追っていた。男がようやくゴール地点が見える場所に着くと、そこにはアタランテがこちらを見て待ち構えていた。手に弓をもち、狙いをピタリと定めている。男が叫び声をあげ、引き返そうと後ろを向くと同時に、アタランテの矢が放たれた。後ろから眉間(みけん)を射抜かれた男は、そのまま地面に崩れ落ちた。

(参考)

@ペリアス・・・イオルコス王。海神ポセイドンとテュロの子。王子イアソンの叔父で、イアソンに継がれるべき王位を奪って、イアソンを「黄金の羊の毛皮」(「アルゴー船」の遠征)を求めて旅立せた。イアソンが、多くの英雄(アルゴナウタイという)の助けによって無事戻ってきたとき、ペリアスは王位返還に応じなかったため、イアソンの妻となった魔女メディアの策略で死んだ。亡くなったペリアスのために催された葬礼競技には多くの英雄が参加した。

      (三)

勝ち誇っているアタランテに向かってメラニオンは、大声で言った。「美しいアタランテよ、どうしてあなたは、あんなろくでなしどもで、自分の力を計(はか)ったりするのです? さあ、私と競走するのです。運命が私に勝利を授けたら、あなたは私と結婚することになる。私も名を知れた男、私が負ければ、あなたの名声はいっそう高まるでしょう」アタランテは若者の美しい顔を見た。そして言った「そんな考えはお捨てなさい。あなたは心も気高く、寛大な御様子。それはどんな娘でも、あなたを夫と呼ぷことことでしょう。けれども、どうしても私と競走するとおっしゃるなら、あなたとても手心は加えません。負かされたなどという不名誉には、我慢がなりませんから」。メラニオンは心ひそかに美と愛の女神・アフロディーテに祈願した「聖なるアフロディーテよ、どうぞ、慈悲をたれて、わたしの味方をしてください」アフロディーテはその嘆願を聞き入れた。そして誰にも見えないようにして、メラニオンのそばへ行き、黄金の林檎(りんご)を三つ手渡すと、急いでその使い方を教えた。

(参考)

@美と愛の女神・アフロディーテに祈願した・・・女神アフロディーテはアタランテが愛と結婚を拒否していた事に腹が立ってメラニオンに助力したという。

@黄金の林檎・・・黄金の林檎はヘラクレスから女神アテナに手渡されヘスペリデスの花園に戻されるが、その間にアテナはこの林檎を女神アフロディーテに貸していた。(小話459)「天空を支える巨神アトラスとその娘(ヘスペリス)たち」の話・・・を参照。

      (四)

アタランテとメラニオンの競走が、いよいよ開始された。ラッバが高らかに鳴り響くと、メラニオンがまずスタートを切った。全力をあげて疾走したが、決勝点はまだ遠いのに、はやくも、アタランテはすぐ後ろに迫っていた。そこで黄金の林檎を一つ、地に落とした。アタランテは、光り輝く黄金の林檎に、思わずはっとして立ち止まると、腰をかがめ、それを拾いあげた。その間に、メラニオンはかなり先に出ることができた。アタランテが再び追いついたときに、二つ目の林檎を走路に投げた。アタランテは、今度もその誘惑に抵抗することができなかった。そのあいだに、メラニオンは飛ぷように決勝点に近づいていった。「女神よ、助けて下さい」と大声で祈ると、最後の林檎を落とした。アタランテは三度、逡巡した。そして、彼女が黄金の林檎を拾っているあいだに、メラニオンは決勝点に着き、歓呼する人々から勝利者として迎えられた。負かされたアタランテは、この立派な若者の妻となった。こうして メラニオンとアタランテの二人はアルカディアの国王と王妃として幸福に暮らした。二人の間には、両親と同じように、美しく上品な息子が生まれた。パルテノバイオスで、のちにテーバイに向かう七将の一人としてテーバイの城門の前で、英雄としてはなぱなしい討ち死にをとげた。

(参考)

@アルカディアの王と妃として・・・二人は結婚して幸せな毎日を送ったが、女神アフロディーテに二人を結び付けてくれたお礼をするのを忘れていたため、アフロディーテは恩知らずな二人が二代目の王・クロノスの妻である女神・レアに無礼をはたらくように仕向けた。怒ったレアは、アトランタを雌ライオンに、メラニオンを雄ライオンに変え、天に上げて自分の戦車を引かせたという説もある。

「アタランテとヒッポメネス(メラニオン)」(グイド・レーニ)の絵はこちらへ

「アタランテとヒッポメネス(メラニオン)」(ニコラ・コロムベル)の絵はこちらへ

「ヒッポメネスとアタランテの競争」(ノエル・アレ)の絵はこちらへ

 

(小話488)「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」の話・・・

     (一)

お釈迦さまの時代、インドの都市ヴェーサーリーに維摩居士という大富豪が住んでいた。彼は学識すぐれた在家信者であったが、大乗仏教の代表的な経典「維摩経」の主人公としても有名である。ある時、光厳童子(童子とは修行者、または菩薩の意)が修行に適した静寂の地に道場を求めて、喧騒の街を出ようとして城門にきたら、そこで、折から城門に入ろうとしている維摩居士に出会った。「どちらから来られましたか?」と光厳童子が訊ねると、「ウン、道場からだよ」と維摩居士は答えた。「道場ですって?それはどこにあるんですか?」「道場」と聞いて、光厳童子は弾(はず)んで訊ねた。すると「直心是れ道場!」と維摩居士は答えた。

(参考)

@維摩居士・・・(小話289)「維摩居士(ゆいまこじ)と仏陀の弟子」の話・・・を参照。

A直心・・・直心とは、正直な心、素直な心、誰でも生まれながらに持っている自然の心、と言う意味である。直心なれば、喧騒の街頭もまた静寂そのもの道場なのである。

     (二)

本山大徳寺の開山・大燈(だいとう)国師(こくし)は「座禅せば四条五条の橋の上、行(ゆ)き来の人を、そのままに見て」と歌っている。大燈国師は、修行により悟りを開いたが、しかし、さらに京の五条の橋の下で乞食の仲間に入り、悟後の修行をしたと言う話しは有名である。今も昔も、四条も五条も京都の繁華街、車も人も沢山の行き来があり、その街中の橋の上で座禅しても、もう境地においてはそこが深山幽谷だと言われたのであった。このように修行は決して深山幽谷などの静閑清浄の場所だけとは限らない。街中の雑路であれ、満員電車の中であっても、心が純一、無雑の直心であれば、道場ならざるところなしなので、「歩々是れ道場(ほほこれどうじょう)」である。

(参考)

@大燈国師・・・鎌倉後期の臨済宗の僧。大徳寺の開祖。

A禅語に「歩々是れ道場」という言葉がある。

 

(小話487)「戦いと知恵の女神・アテナの誕生」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。戦いと知恵の女神・アテナの母は、大神・ゼウスの最初の妻となった知恵の女神・メティスで、アテナは大神・ゼウスがもうけた最初の子であった。妻メティスが身籠(みごも)ったとき、大神・ゼウスは、予言の力を持つ大地の女神・ガイアから「今度の子は、とても賢い女の子でおまえを助けてくれるけれど、メティスが次に生む男の子は、おまえを王座から追い払うだろう」と聞かされので、娘ごとメティスを自分の腹中に飲み込んでしまおうと企(くわだ)てた。ゼウスはメティスを呼んで何気なく言った「水になっておくれ」。妻メティスは何の疑いも抱かず水に変身して杯に流れ込んだ。ゼウスは杯を手に取って、一気に飲み込んだ。しかし、このときゼウスは、妻が身籠もっている娘のことをすっかり忘れていた。父の中で生き続ける母メティスの胎内で娘はすくすくと成長していった。メティスはゼウスの一部となったものの娘の方は、ゼウスの頭部へ移って成長し、すっかり成人になってしまった。やがて生まれる月になると、ひどい頭痛についに耐えきれなくなったゼウスは喚(わめ)きたてた。「誰か、いっそこの頭をかち割ってくれ」。そこで息子のヘパイストス神(又はプロメテウス)がこれを受けて、ゼウスの頭を注文通りに斧(おの)でかち割った。すると、ゼウスの頭から飛び出したのは、全身見るもまばゆい鎧(よろい)、兜(かぶと)を身に付け槍と楯を持った武装姿の麗(うるわ)しい乙女アテナであった。

(参考)

@メティス・・・ティタノマキア(ティタン神族とオリュンポス神族の10年戦争)の際、ゼウスは大洋の神・オケアノスとテテュスの娘メティスの作った秘薬を混ぜた神々の飲み物ネクタルをクロノスに飲ませた。

A一気に飲み込んだ・・・飲み込まれる際にメティスは様々な姿に化けて逃れたものの、蠅(はえ)に変身したところを飲み込まれてしまった説もある。

Aメティスはゼウスの一部・・・ゼウスは、知恵の女神メティスを助言者として体内に宿したことで、最高の知恵者となった。

B乙女アテナ・・・完全武装の姿で誕生したアテナは、気性の激しい戦いの女神となるが、彼女は、頭脳明晰で知恵と理性の女神でもあるため、争いは好まず、戦いはあくまでも防御的なもので、軍神アレスのように戦争を推し進めるのではなく、平和を回復するためのものであった。

「アテナの誕生」の壁画はこちらへ

「アテナ」の像(1)はこちらへ

「アテナ」の像(2)はこちらへ

       (二)

ゼウスは自ら苦しんで生んだ娘アテナをとても愛した。一方、結婚と出産の女神である姉のヘラは、男が妻の腹も借りずに一人で子を産んだというので、これは妻の権利を侵す侮辱行為だと激怒した。だが、その怒りすらもどこ吹く風で、ゼウスはアテナを寵愛した。またアテナ女神の方も父を慕い、他の神に負けることなく父の期待によく応えた。アテナ女神には「一番」という言葉がよく似合い、大変に優秀で、しかも完璧な文武両道の女神であった。だが、いつも武装しているわけではなく、オリュンポスにいるときは技芸の女神らしく、自ら織った美しい長衣をまとっていた。しかし、いざ戦場に赴(おもむ)く際にはゼウスの館でそれを脱ぎ捨て、代わりに父の武具を借用した。このとき肩に掛けるのがゼウスの楯アイギス(イージスの盾)で、アテナ女神はこれを随意に身につけることを許されていた。さらにアテナ女神はゼウスの雷霆(らいてい)が収められた武器庫の鍵のありかを知る唯一の神であり、その強力な武器を父から借りて自分の気に入らぬ人間に撃ち下(お)ろした。雷の使用を許されるのは、ゼウスの正妻ヘラの他はアテナ女神だけであった。その上、アテナ女神には、常に勝利の女神ニケが付き従っていた。こうして、ゼウス譲りの腕力と母譲りの知謀を兼備したアテナ女神は、父であり、神々の王ゼウスの絶大の信頼を得ていた。偉大なオリュンポス十二神の一人でもあるアテナ女神は、並み居るオリュンポスの神々の中でも、最高の女神であった。

(参考)

@アテナ女神・・・ヘスチア(竈の女神)やアルテミス(狩猟の女神)と共に、ギリシア神話の三大処女神の一人。アテナは恋に興味がなく、恋に時間を費やさない分、英雄たちの守護し、その冒険を助けた。アテナ女神が加護した英雄はペルセウス、ヘラクレス、ベレロポン、カドモス、ディオメデス、アキレウス、オデュッセウス等、数知れない。また、知恵と技芸の女神でもあったので、アテナは女たちに身につけておくべき手仕事、紡(つむ)ぎ、裁縫、機(はた)織りの術を教えた女神であった。アテナ女神の聖獣は梟(ふくろう)、聖木はオリーブの木、聖地はアテナイで、アテナ神を祭る神殿はパルテノン神殿であった。

A女神ニケ・・・ティタン神族のパラスとステュクス女神(憎悪の河)の娘で勝利の女神。背中に翼を持ち、戦いの勝利者の頭に冠をかぶせる役を受け持つ。サモトラケ島で発掘された彫像「サモトラケのニケ」(ルーヴル美術館)が有名である。

「ミネルウァ(アテナ)」(ホルツィウス)の絵はこちらへ

「ミネルウァ(アテナ)」(アンドレア・マンテーニャ)の絵はこちらへ

「ウェヌス、クピド、バッコスとミネルウァ(ルーベンス)」の絵はこちらへ

「ミネルウァ(アテナ)の勝利」(スプランヘル)の絵はこちらへ

「女神アテナ」(ルーヴル美術館)の石像はこちらへ

「女神アテナ」(ルーヴル美術館)の石像はこちらへ

「サモトラケのニケ」(ルーヴル美術館)の彫像はこちらへ

「ニケ小像」(ルーヴル美術館)の彫像はこちらへ

 

(小話486)童話「月夜と眼鏡(がんきょう)」の話・・・

   (一)

静かな町のはずれに 一人のおばあさんが住んでいた。あるおだやかな、月のいい晩のこと。おばあさんは、窓の下にすわって 夜の針仕事をしていた。目ざまし時計が棚の上でカタ、コトと刻んでいる音がするばかりで、あたりはしーんと静まり返っていた。このとき外の戸をたたく音がした。そして「おばあさん、おばあさん」と だれか呼ぶ声がした。おばあさんは立って、窓の戸を開けた。「私は眼鏡売りです。この町ははじめてですが、今夜は月がいいから、こうして売って歩くのです」と眼鏡売りの男は言った。おばあさんは、最近、目がかすんでよく針に糸が通らないので困っていたから「わたしの目に合うような、よく見える眼鏡はありますか」とたずねた。「これなら、なんでもよく見えること請け合いです」男は、大きな眼鏡を取り出した。おばあさんはその眼鏡をかけてみた。そして時計の数字や暦(こよみ)の字などを読んでみたが、一字一字がはっきりとわかった。「これをおくれ」おばあさんが銭を渡すと眼鏡売りの男は、立ち去っていった。こんどは楽々と針の穴に糸を通すことができて、おばあさんは大喜びであった。

   (二)

もう時刻もだいぶ遅いから休もうと、おばあさんは仕事を片づけにかかった。このとき、また外の戸をトン、トンとたたくものがあった。「なんという不思議な晩だろう。まただれかきたようだ」おばあさんは立っていって、入り口の戸を開けた。すると、月の光の中に十二、三の美しい女の子が立っていた。「どこの子か知らないが、どうしてこんなにおそくたずねてきたの?」「私は町の香水製造所に雇われています。毎日、毎日、白ばらの花から取った香水を瓶に詰めています。今夜も働いて、独(ひと)りぶらぶら月がいいので歩いてきますと、石につまずいて指をこんなに傷つけてしまいました。それで戸をたたきました」そして少女は「この家の前をたびたび通って、おばあさんが窓の下で針仕事をなさっているのを見て知っています」と言った。「まあ、それはいい子だ。お入り。どれ、その怪我(けが)をした指に何かクスリをつけてあげよう」とおばあさんは、新しい眼鏡をかけてこの美しい娘の顔をよく見ようとした。すると、たまげたことにそれは娘ではなくて奇麗な胡蝶(こちょう)であった。

   (三)

おばあさんは、おだやかな美しい月夜の晩には、よく胡蝶が人間に化けて、夜おそくまで起きている家をたずねるという話を思い出した。その胡蝶の傷にクスリを塗ってやり「いい子だから、こちらへおいで」とおばあさんは、先に立って戸口を出て裏の花園の方へとまわった。少女は黙ってついて行った。花園には、いろいろの花が今を盛りと咲いていた。昼間と違って夜の今は、花たちも葉陰で楽しい夢を見ながら休んでいるようでまったく静かであった。垣根には、白い野ばらの花がこんもりと雪のように咲いていた。おばあさんは、ふいに立ち止まって振り向いた。娘は、どこへ姿を消したのか、足音もなく見えなくなっていた。おばあさんは花たちに「みんなお休み。どれ私も寝よう」と言って家の中へ入って行った。ほんとうに、静かでいい月夜であった。

(参考)

小川未明の童話「月夜と眼鏡」より。

 

(小話485)「若い女と身代わり地蔵」の話・・・

        ******

民話より。昔、越中の国の立山(たてやま)で僧侶が夜中の2時頃に修行をしていると若い女のすすり泣く声が聞こえて、人の影が現れた。この人影は僧侶に言った「私は京都の七条あたりに住んでいた女です。私の父母は、今もそこに住んでいます。私はこの世の果報が尽きてしまい若くして死んで、この立山の地獄に堕(お)ちました。生前は少しも信仰心などなく善根も積んでいません。ほんの二、三度、地蔵講にお参りしたことがあるご縁で、地蔵様がこの地獄にいらして下さって、早朝、日中、日没の三回、私の苦をかわって受けて下さいます。どうか上人様、私の家に行って、父母にこのことを告げ、良い行いと供養(くよう)をするようお話下さい。そうすることにより私は成仏でき救われます」僧侶は憐(あわ)れみの心から早速に京の七条付近に行った。そして、その女の家を探してみると、実際、女の言った通り、その場所に父母が住んでいた。父母はこの話を聞いて、涙を流して泣き悲しみ、すぐに、娘のためにと仏師に依頼して、三尺の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)像を造り、法華三部経を書写してお寺で法要をした。列席した親戚、僧侶に至るまでこの話を聞いて涙を流さないというものはいなかったという。

 

(参考)

@地蔵菩薩・・・虚空蔵菩薩が天をあらわすのに対し、地蔵菩薩は地をあらわす。釈迦入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの期間、六道で苦しむ衆生の救済にあたる。左手に宝珠、右手に錫杖(しやくじよう)を持った姿で、幼くして命を落とし、賽(さい)の河原で苦しむ子供を救済する。又、 地獄の入り口で人々を救ってくれる菩薩(地蔵菩薩) とは地獄の責め苦をも救う救済の菩薩で、身代わり地蔵といわれるように、地蔵菩薩は人の苦しみを代わってくれる慈悲深い仏さまである。 既に亡くなってしまった人の苦しみをも救い浄土へと導いてくれると信じられている。普賢菩薩・文殊菩薩・観世音菩薩・勢至菩薩などの菩薩は既に悟りを開いているが、地蔵菩薩は人々の救済を願い菩薩のままでいると考えられている。

 

(小話484)「勇者・メレアグロスの巨大イノシシ退治とその最期」の話・・・

        (一)

ギリシャ神話より。カリュドン国の王オイネウスは敬虔な人物で、秋の豊作の初物(はつもの)を、神々にささげた。豊穣の女神デメテルには穀物を、酒神ディオニュソス(バッコス)には葡萄(ぷどう)を、女神アテネにはオリーブの実を、そして、ほかの神々にはそれぞれに好みの果実を供えた。ただ、狩猟の女神アルテミスだけには、それを忘れていた。これに女神アルテミスが怒って、オイネウス王に復讐しようと決心し、巨大なイノシシを王の田畑に放った。獰猛(どうもう)なイノシシは麦畑や穀物畑を荒らし回った。葡萄は蔓(つる)もろともに、オリーブの実は枝もいっしょに食いつくされた。羊飼いや番犬も、その巨大なイノシシから家畜の群れを防ぐことはできなかった。そこでオイネウス王の息子で剛勇無双の上、槍投げを得意とする勇者・メレアグロスが立ちあがった。そして、おそるべき巨大なイノシシを退治するために、猟師と犬を集めた。猟師として、ギリシアの全土から名高い勇者たちを招いた。そ中には、紅一点、アルカディアのイアソス王の娘、勇敢なアタランテもいた。彼女は、狩りの名手だったので、今回の巨大なイノシシ退治の仲間に誘われたのであった。アタランテは、髪をたばねて結ぴ、肩に矢筒(やづつ)をかけ、左手に弓を携えていたが、その顔はさながら美しい若者のようであった。イノシシ退治の指揮を執る勇者・メレアグロスは美しい彼女をひとめ見たとき、妻を持つ身ながら驚嘆した「この女から夫に選ばれる男は、さぞ幸福だろう」しかし、それ以上、考えている暇はなかった。危険なイノシシ退治は、もう延ばすことが許されなかったからである。

(参考)

@初物・・・その季節の最初にとれた野菜・果物・穀物・魚など。

A勇者・メレアグロス・・・アルゴー号船冒険の英雄たちの一人で、その剛勇無双は、ギリシヤ全土に知られていた。

B勇敢なアタランテ・・・イアソス王は後継ぎになる男の子が欲しかったので女の子のアタランテを森に捨てた。彼女は、牝(めす)熊の乳を飲んでいるところを、猟師たちに見つけられ育てられた。こうして、美しい男ぎらいの乙女は、ずっと森のなかで、狩によって生活していた。(小話(489)「美しき女狩人・アタランテと黄金の林檎(りんご)」の話・・・を参照。

        (二)

ギリシア全土から続々と集まった数十人の勇者たちの群れは、まず平野から山の斜面に延びている太古の樹木におおわれた森に出かけた。森に着くと、あるものは網を仕掛け、あるものは犬の綱(つな)をとき、またあるものは、はやくもイノシシの足跡を追った。まもなく、渓流に深くえぐられたけわしい谷に着いた。巨大なイノシシはこの谷に隠れていたが、犬に駆りたてられると、まるで稲妻のように、森を駆けぬけ、荒れ狂いながら、勇者たちのまんなかに突進し、猟犬の群れを突破した。槍がつぎからつぎと投げられたが、わずかにかすっただけであった。イノシシは激怒して、くるりと向きを変えると、勇者たちの右翼に突進し、その三人を引き倒して深手を負わせた。四人目の、のちにトロイア戦争で名を上げたネストルは、柏(かしわ)の木の枝にのぼって難を逃れた。イノシシが牙で木の幹をかじったいるとき、駆けつけてきたスパルタ人の双子の兄弟カストルとポリュデウケスが槍で突き刺そうとしたが、イノシシは藪(やぶ)の中に逃げこんでしまった。女狩人アタランテは、弓に矢をつがえると、藪の中のイノシシを目がけて矢を放った。矢はイノシシの耳の下に当たり、はじめてその剛毛を血で染めた。メレアグロスはそれを見ると、仲間にアタランテを指さしながら「気高き乙女よ。勇気の褒美(ほうび)は御身のものだ」と叫んだ。他の勇者たちは、女に勝利を得られることを恥じて、急いでイノシシのいる藪めがけて槍を投げた。しかし、命中することなく、逆にイノシシは猛(たけ)り狂って、アルカディア人アンカイオスたちに突進してきた。慌てて名高い英雄イアソンが槍を投げつけたが、槍は犬の首に当たった。最後にメレアグロスが、二本の槍をつづけて投げた。一本目は外れたが、二本めの槍がイノシシの背中のまんなかに突き当たった。メレアグロスはさらに槍で、首に痛手を負わした。このとき、四方八方から投げられた槍がイノシシの体中に突き刺さった。イノシシは血の海のなかに、のたうちまわりながら死んだ。こうして何人かの勇者を犠牲にして、巨大なイノシシは退治された。

(参考)

@ネストル・・・トロイア遠征軍の武将。皆から尊敬される策略家。

Aイアソン・・・アルゴー遠征で有名な英雄。イオルコスの王子イアソンはアルゴー船で、ギリシャ中の名の知れた勇者50余人を乗せて、金羊毛を一緒に取りに行く大冒険物語(アルゴー遠征中は、ことあるごとに竪琴の名手オルフェウスが仲間の勇者たちを奮い立たせたり、慰めたりした。そして、アルゴー船が、その歌声を聞いた者は、気が狂い時を忘れて永遠に聞き惚れると言われているセイレーンが住むと言われる島を通過する際には、勇者らはオルフェウスが奏でる竪琴に耳を奪われて、セイレーンの歌声を聞かずに済んだ)

「カリュドンのイノシシ狩りの風景」(ルーベンス)の絵はこちらへ

「カリュドンの猪狩り」(ルーベンス)(ルーベンス)の絵はこちらへ

「カリュドーンの猪狩り」(ルーベンス)の絵はこちらへ

「メレアグロスとアタランテーの狩り」の絵はこちらへ

「メレアグロスとアタランテ」(ヨルダーンス、ヤーコブ)の絵はこちらへ

「猪を殺すメレアグロス」(ヴァッカーロ)の絵はこちらへ

        (三)

メレアグロスは、イノシシの皮をはぐと、切り取った首といっしょに勇敢なアタランテに差しだして「さあ、この獲物を受げ取ってください」と言った。「掟のうえから、これは私のものだが、この手柄の一部は、当然、そなたのものなのだから」他の勇者たちは、この栄誉が女にあたえられることを妬(ねた)んで、不平をこぼした。そして、メレアグロスの伯父にあたるプレクシッポスとトクセウスの二人がアタランテの前に進み出るとアタランテから獲物を奪い取り、メレアグロスに向かって「おまえには獲物をかってに処分する権利はない」と言い放った。メレアグロスは思わずかっとなり、歯ぎしりしながら叫んだ「あんたがたは盗賊だ。脅迫と手柄とを、どう区別するか、わたしから学ぷがよい」そう叫びながら、伯父の一人を刺し、あっと思うまもなく、もう一人の伯父の胸をも刺した。

        (四)

メレアグロスの母アルタイアは、息子メレアグロスの勝利に感謝の供物をするために、神々の神殿に出かけた。だが、その途中で、自分の二人の兄弟の死体が運ばれてくるのを見た。アルタイアは悲しみながら、急いで宮殿に帰ると、黒い服を身につけて、町を悲嘆の声で満たした。しかし、人殺しの下手人が、息子のメレアグロスであることを知ると、涙は止まり、悲しみは復讐心に変わった。そして突然、昔の記憶が蘇(よみがえ)って来た。それは、メレアグロスが生まれて七日目に、運命の三女神モイラたちがアルタイアの前にあらわれたことだった。そして、一番目のラケシア(割り当てる者)女神が言った「おまえの息子は豪胆な英雄になるであろう」。二番目のクロト(紡ぐ者)女神は「おまえの息子は高貴な男になるであろう」と言った。そして、三番めのアトロポス(不可避の者)女神は「おまえの息子は、いま炉で燃えている薪(まき)が燃え切ってしまうまで、生きているだろう」と言った。運命の女神たちが去るやいなや、母親アルタイアは赤々と燃えている薪を火の中から取り出し、水に入れて消すと、息子の生命を気づかう親心から、その薪を自分の部屋の秘密の場所に隠したであった。悲しみで夢中の彼女は、いまその薪のことを思い出すと、急いで部屋に行った。薪は秘密の隠し場所に保存されていた。アルタイアは柴(しば)の束にたきつけをのせ、赤々と火をおこした。しかし、心の中では、母親としての愛情と、兄弟に対する愛情とが互いに戦い、その顔には、激しい不安と燃えたつ怒りが、かわるがわるにあらわれた。アルタイアは四たび、あの薪を火にくべようとし、四度、その手をひっこめた。が、ついに兄弟にたいする愛情が、母としての愛情に打ち勝った。

(参考)

@運命の三女神モイラたち・・・彼女たちが扱うのは人間の生命の糸。現在を司る女神クロトが糸を紡ぎ、繰り出された糸の長さ(これがその人の生きた時間を表します)を過去の女神ラケシスが測り、冷徹な未来の女神アトロポスが手にした大鋏で断ち切る。切られたところがその人間の絶命の時である。モイラたちの定める「運命」とは、誕生から死に至るまでの寿命の長さと、人生におけるごく基本的な筋書きである。(小話273)「運命の三女神」の話・・・を参照。

「運命の三女神」(サルヴィアーティ)の絵はこちらへ

画面右奧でクロトが糸巻き棒を捧げ持ち、中央でラケシスが紡がれた糸の長さを測り、背後からアトロポスが腕を回して鋏で糸を断ち切ろうとしている。

        (五)

「運命の女神たち。さあ、この供物を見ておくれ」と、アルタイアは言った。「いましがた死んでいった兄弟の亡霊たちよ、わたしの胸は、子を思う愛情に張り裂けんばかかりです。でも、わたしはあなたがたに、慰めになるものを遣(つか)わして、すぐそのあと追いますよ」そして、目をそむけ、ふるえる手で薪を火の中に入れた。メレアグロスは、既に町へ帰っていたが、勝利と愛情と殺人とのこもごもの思いに、身も裂けんぱかりであった。突然、どうしたことか、腹の奥が隠れた高熱に焼かれることを感じ、はげしい苦痛のために寝床に身を投げだした。超人的な力で、その苦痛をおさえたが、不名誉にも寝床のなかで死なねばならぬことが、このうえもなく悲しかった。イノシシの牙に突かれて死んだ仲間が羨(うらや)ましかった。メレアグロスは、兄弟を、姉妹を、年老いた父を、そして、呻(うめ)きながら母を呼んだ。が、その母は依然、炉ぱたに立ち、目をすえて薪を見つめていた。メレアグロスの苦痛は、火とともにますます激しくなった。そして、燃えている薪が炭になり、色あせた灰のなかに隠れたとき、苦痛も消え、余燼(よじん)とともにメレアグロスの息は絶えた。父と姉妹とは、その死体の上に泣き伏し、カリュドンの人々は、こぞって喪に服した。しかし、母親のアルタイアだけは、そこにはいなかった。そして、アルタイアの死体は、冷たくなった灰の残っている炉の前で見出された。

(参考)

@メレアグロスの息は絶えた・・・メレアグロスの死に、その姉妹達であるメレアグリスは、あまりにも惨(むご)たらしい彼の死を悲しみいつまでも泣きつづけていた。狩猟と月の処女神・アルテミスはもう悲しみを感じないようにと、彼女達をほろほろ鳥に変えてやったという。ただ、酒神ディオニュソスがアルテミスに対し、デイアネイラ(英雄・ヘラクレスの妻となる)が自分とアルタイアの子であると告げ、彼女と仲のよいゴルゲの二人だけは鳥にされなかったという。

Aアルタイアは言った・・・メレアグロスのもう一つの話。「カリュドンの猪狩り」を催したが、狩の獲物のことでカリュドン人とクレテス人とのあいだに争いが生じ、勇者・メレアグロスが打って出て母アルタイアの兄弟(伯父、叔父)を数人殺した。母のアルタイアは怒って、子より兄弟への愛情からメレアグロスを呪った。メレアグロスはこれに憤激して家に閉じこもった。このためにクレテス人は勢いを得て、いまやカリュドンの町は陥落寸前となった。メレアグロスは市民や父母姉妹の嘆願をも聞き容れない。しかし、ついに妻クレオパトラーに説き伏せられて、打ってでて、クレテス人を追い払った。しかし、戦いに参加するのが遅かった為、メレアグロスには報償が与えられなかったという。

 

(小話483)「無信不立(信無くば立たず)=食・兵・信」の話・・・

    (一)

中国は春秋時代こと。子貢(しこう)が政治(国)とは何かとたずねると、孔子(こうし)は「まず第一に「食を足(た)し」、つまり食生活の充実をはかってやること、次に「兵を足し」、つまり軍備をととのえること、そして、「民これを信ず」、つまり民衆の信頼を得ること」と答えた。子貢は、ではその三つのうち、止む得ずして一つを除くとしたら、どれを除きますかと再度、質問をした。孔子は言下に「兵を去れ」、つまり軍備を捨てよ、と答えた。子貢は、さらに第三問を発して、その二つとも保持し得ない事態が到来した場合、どちらを捨てますか、と迫った。孔子曰く「食を去らん。古よりみな死あり、民(たみ)信(しん)なくんば立たず」、つまり、食を過大視してはならぬ。昔から死はあるものであり、ある意味避けられない。しかし民衆の信頼なくしては、政治は何もなし得ない。

(参考)

@子貢・・・孔門十哲(、孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子をさす)の一人。弁舌・政治力にすぐれていた。

A孔子・・・中国、春秋時代の魯(ろ)の思想家。儒教の祖。魯に仕えたがいれられず、諸国を遊説したのち、門人の教育に専念。周公旦(しゆうこうたん)の政治と事績を理想とし、仁と礼とを倫理的行為の根本におき、徳治政治を達成せんとした。その思想は、言行を記録した「論語」にみられる。

    (二)

孔子の生きた、この時代は中国は春秋時代、群雄割拠して各国が凌(しの)ぎを削っていた時代で、国を維持するには、兵力が第一であった。もし、兵を捨てたら、たちどころに他国に侵略されてしまう。国が滅びたらどうなるか。家来たちは、うまくすれば他国に再就職できる。民衆は更に影響なしで、支配者(国王)が代わるだけである。しかし、国王以下大臣たちは、確実に殺されてしまう。兵を捨てる発言は、国王以下大臣たちに死ねと薦(すす)めるのと同じである。だから子貢は聞き返した。「信」が重要なのは判るけど、果たして「兵」や「食」と同列に置くほどのものなのかと。そこで孔子は、兵を捨てることで国の上層部が死に、食を捨てることで民衆まで含めて皆死んでしまう。ゆえに「命」よりも「信」のほうが大事、と説いた。

(参考)

@「信」のほうが大事・・・「信」ということは社会存立の基礎であり、これが失われたら崩壊するほかない。為政者に対する不信、人間への不信、友人への不信、親子・兄弟・夫婦間の不信に終始するならば、人は一刻もこの世に生きていることはできない。

A「論語」(顔淵第十二)より。子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。曰。去食。自古皆有死。民無信不立。

 

(小話482)「天馬ペガサスに乗った勇者・ベレロポンの怪獣キマイラ退治」 の話・・・

      (一)

ギリシャ神話より。ギリシアの都市国家(ポリス)のコリントスに、海神ポセイドンの息子ベレロポンという武術と勇気に優れた勇者がいた。ペレロポンはアルゴス王プロトイスのもとに身を寄せていた時、王の妻アンテイアが美しい若者ベレロポンにしつこく言い寄ってきた。しかし、誇り高い青年であったベレロポンは、不貞の恋を激しく非難し、王妃アンテイアの誘惑をすべてはねつけた。怒ったアンテイアは自分の衣服を裂き、王プロイトスに「ベレロポンに襲われそうになった」と嘘を告げた。プロイトス王はベレロポンに怒り狂ったが、「主客の義」を守る大神・ゼウスを敬っていた王プロイトスは、自分の客を殺すことはできなかった。そこで、ベレロポン王を妻アンテイアの父であり、アジアの王国リュキアのイオパテス王のもとへ「なんとか手段を講じて、この男を始末(しまつ)するように」という手紙と一緒にリュキア国の地に送った。手紙を読んだイオバテス王は、ちょうど、そのころ、キマイラという怪獣が国中を荒らしまわっていたので、ベレロポンに怪物キマイラを退治するように命じた。怪獣キマイラは、獅子の頭、蛇の尾、山羊の胴をし、口から火炎を吐くという恐ろしい化け物であった。イオバテス王は、いくら勇者ベレロポンといえども怪獣キマイラを倒せるはずはないと思ったのある。ベレロポンは女神アテナに祈った。英雄の守護神でもある女神・アテナはベレロポンの謙虚な態度が気に入り、助けることにした。ピレネーの泉に行き、天馬ペガサスを捕らえるように、と教えたのである。ペレロポンが目を覚ますと、ベッドの上に黄金の手綱があった。ベレロポンは喜んで、天馬ペガサスを探しに出かけた。

(参考)

@ペレロポン・・・一説によるとベレロポンは、誤って兄弟を殺してしまった。それでコリントスから追放されて、アルゴスへ行ったという。

A天馬ペガサス・・・英雄ペルセウスに首を切り落とされたメドゥーサの体からは、天馬ペガサスと戦士クリュサオルが生まれた。英雄ペルセウスの次に天馬ペガサスの乗り手となったのは海の神ポセイドンの息子ベレロポンであった。(小話457)「英雄・ペルセウスの冒険(メドゥーサ退治と美女アンドロメダとの結婚)」の話・・・を参照。

B怪物キマイラ・・・父は巨人テュポン、母は怪物エキドナ(どちらもギリシア神話の怪物)。同じ両親を持つ怪獣に「地獄の番犬ケルベロス」、切り落とせばその分首が増える「九頭の大蛇ヒドラ」、ヘスペリデスの園で黄金の林檎を守る竜ラドンなどがいる。

「キマイラの像」の写真はこちらへ

      (二)

ベレロポンはヘリコン山のペイレネ(ピレネー)の泉で、黄金の翼と真鍮(しんちゅう)のひづめ、輝く金のたてがみの、美しい白馬ペガサスを見つけた。水を飲んでいたペガサスは、ベレロポンを見ると、翼を広げ、飛び去ろうとした。そこで、ベレロポンはアテナ女神の黄金の手綱を、天馬の頭上に投げた。すると、馬はおとなしくなった。天馬ペガサスを馴らしたベレロポンは、やがて天馬ペガサスに乗って、怪獣キマイラを退治しに出かけた。ベレロポンは、怪獣キマイラを見つけると、天馬ペガサスと共に空高く駆け上がった。そして、空中から怪獣キマイラの激しく炎を吐く口に、鉛の付いた槍を突き入れて退治した。こうして、勇者ベレロポンはキマイラ退治で一躍、天下に名を知られた。王イオパテスは、その他にも敵対していた凶暴は男子族ソリュモイ人やアマゾンの女戦士族の討伐を命じたが、ベレロポンは天馬ペガサスと共に、それらを難なくやってのけ、最後にはイオバテス王がベレロポンを殺すために雇った兵士たちも皆殺しにしまった。

(参考)

@ヘリコンの山・・・天馬ペガサスは一時、ゼウスの雷光を運ぶ軍馬になったのち、ミューズ(芸術などを司る9人の女神)たちに譲られた。ペガサスはミューズたちの住むヘリコン山に放たれると、地面を蹴り、その蹄の跡から泉を湧き出させた。その泉は「ヒッポクレネ(馬の泉)」と呼ばれた。

A鉛の付いた槍を・・・ベレロポンは天馬ペガサスを操り、怪獣キマイラ(頭が二つ、又は、三つ)の口から吐く炎を右に左に避けつつ、狙い澄まして矢を一本、二本と打ち込み、ついに十本目の矢で仕留めたという説もある。

B「天馬ペガサスの一蹴り」の話・・・大神ゼウスとティタン神族のムネモシュネの間に生まれたミューズ(ムーサ)という9人の芸術の女神がいた。マケドニアの王にもピエリデスという9人の娘たちがいた。傲慢な父は傲慢にもミューズたちと同じ名前をつけ、そして娘たちに歌自慢をさせていた。芸術の女神たるミューズたちがこんな人間の傲慢な振る舞いを許すはずがない。ミューズたちは歌の競技を行った。その際、あまりに美しいミューズの歌声に会場となったヘリコン山までがうっとりしてしまい、ついには空へと飛び上がってしまった。空へ上昇していくヘリコン山を見かねて海神ポセイドンは天馬ペガサスに乗って空高く駆け上ると、ペガサスに上昇するヘリコン山を蹴り落とせと命じた。天馬ペガサスは一蹴りで、ヘリコン山を元の場所に戻した。そしてペガサスが蹴っ飛ばしたところには聖なるヒッポクレネの泉が湧き出たという。

      (三)

こうなると、イオバテス王もベレロポンを偉大な勇者と認めて、国を半分を与え、末の娘ピロノエと結婚させた。ベレロポンは三人の子供をもうけて幸福であった。しかし、ベレロポンは数々の冒険を、天馬ペガサスで乗って、いつも勝利を得ていた。このためベレロポンの名声は上がる一方であった。それと同時に、ベレロポンは謙虚さを無くし、増長していった。いつしか驕(おご)り高ぶるようになり、自分のことを世界で一番強い人間だと思うようになった。そして、ある日「神様の住んでいるオリュンポスの世界にだって行けるんだ」と思い、ベレロポンは天馬ペガサスに乗って空高く、神の世界へ向けて駆け上り始めた。これを天の世界から見ていた大神・ゼウスは、怒って言った「人間のくせに、神の世界へ来ようとは。けしからん」そして、ゼウスは一匹の虻(あぶ)をペガススに向け飛ばした。虻は天馬ペガソスの尻を刺し、ベレロポンは振り落とされた。地上に墜落したベレロポンは、命は取り留めたが、足を悪くし、また盲目となって生涯、荒野を彷徨(さまよ)ったという。又、天馬ペガソスは天空へと舞いあがってゆき、これ以降、ペガサスは再び人間を乗せることはなく、元の仕事である大神・ゼウスの雷光の担い手に戻った。そしてのち、天に昇ってペガスス(ペガサス)座とい星座になったという。

(参考)

@天馬ペガソスの尻を刺し・・・ペガサスは、痛さのあまり空高く駆け上がっていき、そのままペガスス座になったという説もある。

Aベレロポンは、命は取り留めた・・・ペガサスに振り落とされて死んでしまったという説もある。

早稲田大学所沢キャンパスのシンボル像「人とペガサス」(カール・ミレク)の写真はこちらへ

「ペガソス(ペガサス)」(ルドン)の絵はこちらへ

「ペガサス」の像はこちらへ

 

(小話481)「手打ちうどんと殿様」の話・・・

      *****

民話より。昔、伊予の国の殿様は大変な美食家で、毎日たくさんの御馳走(ごちそう)を用意させていたが、一度もおいしいとは言わず「明日はもっと美味(うま)いものを」などと言っては家来達を困らせていた。その上、殿様は他にやることがないので体を動かさず、美味いものばかり食べているのですっかり太ってしまった。そこで家来達は、何とかして殿様に運動してもらおうと城下の見回りに連れ出したものの、殿様は馬上で居眠りをしているだけであった。ついにはそのまま馬から転げ落ち、慌(あわ)てて駆け寄った家来達の心配顔をよそに、相変わらず眠ったままという有り様であった。さんざん悩んだ末(すえ)に家来達は、殿様が自ら体を動かすようになるようにと、今度は山の鷹狩りに連れていった。始めは眠そうだった殿様も、次第に夢中になって兎(うさぎ)を追いかけるうちに、すっかりお腹(なか)がすいてしまった。山の中で突然、食事の用意を申しつけられた家来達は大慌てしたが、とてもいつものような御馳走は用意できなかった。ようやく探し当てた近くの人家で頼み込むと、その家のおじいさんがうどんを打ち、飯櫃(こめびつ)にお湯を入れ、その中にうどんをいれて持ってきた。そんな物はとても殿様の口に合わないと思って家来達がハラハラしながら見ていると、体を動かしたことですっかり腹をすかせた殿様は、一口食べるなり「美味(うま)い、美味(うま)い」と大喜びであった。そして、あっと言う間に平らげてしまった。こうして殿様は手打ちうどんが大好物になり、又、家来達の進言を聞いて体を動かすようになった。ただ、うどんが大好きになった殿様は、お腹がすくたびに「手打ちじゃ、手打ちじゃ」と言うので、家来達が首を切られると勘違いして生きた心地がしなかったという。

 

(小話480)「獅子と高僧・寂昭(じゃくしょう)」の話・・・ 

     (一)

能楽の「連獅子」と「石橋(さっきょう)」より。中国は清涼山、文殊菩薩(もんじゅぼさつ )の浄土といわれる霊地での話。ここには有名な石の橋があった。自然にできたもので、その石橋を渡った先に文殊菩薩の浄土があるという。その石橋を文殊菩薩のおつかいの獅子たちが護っていた。ある時、石橋の近くに二匹の獅子の親子が現われた。そして、親獅子が子獅子を谷へと蹴落とそうとした。獅子は子供を谷へ蹴落として、上って来た子だけを育てるという言い伝えがある。子獅子は落ちそうになりながらもまた登ってくるが、親獅子は容赦なく再び子獅子を深い谷へと蹴落とした。子獅子がしばらく木陰で休んでいると、親獅子は子獅子が本当に谷へ落ちてしまったかと案じて谷を覗(のぞ)き込んだ。川面に映(う)ったその姿を見て、子獅子は再び勇敢にも谷を一気に駆け上がった。こうして、獅子の親子は無事を喜びあい、近くに飛んできた蝶々を追って親獅子と子獅子は姿を消した。そこへ念仏僧と法華僧が現れた。彼らは音に聞こえた石橋を渡ろうとやってきたのであった。二人の僧は、道連れになったものの、お互いに自分の修派がすぐれているといって、言い争っていたが、石橋の凄(すご)さに彼らはすごすごと去って行った。

(参考)

@清涼山・・・中国仏教の霊地で文殊菩薩の住む浄土と考えられていた。

A文殊菩薩・・・舎衛国(しゃえいこく)のバラモンに生まれた実在の人物ともいわれる。智恵を司る菩薩とされる。「維摩経」には、維摩居士に問答でかなう者が無かった時、文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記されている。一般にも「三人寄れば文殊の智恵」などのことわざでよく知られる。普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍(釈迦三尊=釈迦を中央に、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩を配置)をつとめる。

B念仏僧と法華僧・・・極楽往生のために念仏を唱え、阿弥陀仏の救いを信ずることを説く宗派。法華経をよりどころとする宗派の意

     (二)

ある時、天台宗の僧、寂昭(じゃくしょう)法師がはるばる日本からこの清涼山へ訪(おとず)れた。そして、寂昭は、文殊菩薩の浄土へと続く伝説の石橋へと辿(たど)り着いた。彼は向こう岸へ渡ろうと思ったが、まずはこの橋のことを誰か地元の人に聞いてからにしようと考えた。折りよく樵(きこり)の童子が現れた。童子は寂昭の尋ねに答えて、これこそ有名な石橋だと答えた。しかし、寂昭が今にも渡ろうとすると童子は慌てて止めて言った。高名な僧たちですら難行苦行の末でなければ渡れぬ橋、普通の行者にとっては無謀なこと、と。そして、童子は「そもそも、この世界が開け生まれて以来、雨や露を降らせてこちらへとかける橋、虹によって神々はこの地へとお渡りになっているのです。それを天の浮橋ともいいます。それが橋のはじまりです。その他にも、世界中のあちこちに有名な橋がありますが、橋というものは民が水波の危険から逃れることのできるもの。人々がみな豊かに暮らせる世の中を渡っていけるのも、これは橋の徳によるものではないでしょうか。そして、この「石橋」は人工の物ではなく、自然に現われて架(か)かっている石の橋なので「石橋」と名付けられたのです。この石橋は、苔(こけ)に覆われて滑りやすく、幅は一尺(30cm)足らず。にもかかわらず長さは三丈(10メートル)にもおよび、深さは数千丈(1000m以上)にまで達します。橋の上から落ちる滝は雲よりかかる糸のよう。橋の下は地獄、かどうかは知りませんが滝波の音は嵐のように谷底に響き合っています。山河は振動し、雨が降って土を動かすのです。橋の様子を見てみると雲から雲へと架けられているかのよう。たとえるなら雨の後にさす夕陽がかける虹、また弓を引いた形です。橋のたもとに立ち遥か下の谷底を見れば、足はがくがくと震え心も消え入るばかり。誰が好きこのんで渡ろうなどと思うでしょう。神仏の力にでもよるのでなければこの橋を渡れる人などありません」と。

     (三)

さらに樵の童子は「橋の向こうは文殊菩薩さまの浄土。絶えず笙(しょう=雅楽の管楽器の一つ)の音が響き、花が降り注いでいます。笙、笛、琴の音があの夕陽に照らされた雲の隙間から聞こえてきています。ああ、奇跡が今にも起こりそう。しばらくお待ちなさい。目前で奇瑞(きずい)が起こりますから」と語って、樵の童子は姿を消した。やがて、そこへ現れたのは文殊菩薩の使者である獅子で、今を盛りと山に咲き乱れる牡丹の花に近づくと獅子は力強く頭を打ち振るった。獅子が動くと空気が動き、牡丹の香りもまた広がった。牡丹のつぼみが開いて中より黄金の髄が姿をあらわした。獅子は牡丹の花や枝の上に伏し転がり牡丹の花々と戯れる。このめでたさが続くように、千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と太平の世が続くようにと獅子は舞い終わった。その姿を寂昭に見せて、獅子は文殊菩薩の下(もと)へと帰っていった。

(参考)

@寂昭法師・・・俗名を大江定基といい、千年前に実在した日本の高僧で中国に渡った人物。

A樵の少年・・・石橋で会ったのは童子ではなく、樵夫(きこり)であるという説もある。

B奇瑞・・・めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象。吉兆。

C千秋万歳・・・千年万年。永遠。また、長寿を祝う言葉。

 

(小話479)「神々の伝令神・ヘルメスの誕生と腹違いの兄、太陽神・アポロン」の話・・・ 

     (一)

ギリシャ神話より。オリュンポス十二神の一人、ヘルメスは大神・ゼウスと女神・マイアを父母として、アルカディアにあるキュレネ山の洞窟の中で生まれた。この洞窟に住んでいたプレイアスたちの一人、美貌の女神・マイアを大神・ゼウスが見そめ、毎夜、正妻のヘラが寝入った後にこっそり通ってきては、愛を交わして身籠もらせた。生まれたヘルメスは、とんでもない天才児だった。生まれた瞬間から頭脳明晰、かつ行動力抜群だった彼は、生まれたその日から、母の目を盗んでごそごそと抜け出し、洞窟の外を探険しに出かけていた。昼ごろ、赤ん坊のヘルメスは、お腹が空(す)いて来た。「お肉を食べたいな。でも、牛はここにはいないし、ちょっと探してみよう」と、洞窟を飛び出して見晴らしの良い場所へ出た。鋭い神の目でぐるりと周囲を見渡した。すると、遥(は)かアルカディアから北に遠く離れたピエリアの山間に、見事に太った素晴らしい牛の群れがいた。そこは、太陽神・アポロンの牧場であった。それを知ってか知らずか、赤ん坊のヘルメスはさっそく人生、最初の盗みを行うべくピエリアに直行した。ピエリアのアポロンの牧場に到着すると、雌牛がざっと五十頭ほど、青々とした牧草を食べていた。遠くには黒い雄牛が一頭離れてやはり草を食(は)み、四匹の番犬が目を光らせて牛たちを見張っていた。ヘルメスはにっこと笑うと、番犬の存在などお構いなしに手近にいた雌牛五十頭を鮮やかな手際(てぎわ)で、さっさと牧場から追い立ててアルカディアへ帰り始めた。盗んだ雌牛は尻尾を引っ張って後ろ向きに引きずり、ヘルメス自身も奇妙な形の巨大な草履(ぞうり)を履き、残った足跡からアポロンが追跡できないようにした。

(参考)

@太陽神アポロン・・・大神ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ムーサ(ミューズ)の女神たちが彼に従っている。音楽・予言・光明の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。アポロンは、ヘルメスの腹違いの兄にあたる((小話349)「太陽神・アポロンの誕生」の話・・・参照)

A最初の盗み・・・ヘルメスは、ゼウスの伝令使、死者の案内人、盗賊、商人、旅人の守護神であった。

Bプレイアス・・・大洋神オケアノスの娘プレオネと、巨神アトラスの間に生まれた七姉妹をいう。

Cマイア・・・昴(すばる)の女神プレイアスたちの長女。7人姉妹の中で最も美しい。アルカディアのキュレネ山に一人で住んでいた頃、ゼウスの寵愛を受けて伝令神ヘルメスを生んだ。

     (二)

牛を盗んだ途中で赤ん坊のヘルメスは、葡萄(ぶどう)畑の手入れをしていたバットスという名の老人に目撃された。そこで、こう言って口止めを図った「おじいさん。今おじいさんが見てること、見なかったことにしといて。もしこのことを誰かに告げたら、ひどい罰を与えるからね」目を白黒させる老人に別れを告げたヘルメスは、ますます先を急ぎ、夜明けも近くなった頃、無事アルカディアに戻ってきた。そして、近くの牛小屋に雌牛を放り込み、次に肉を焼くための焚(た)き火の準備をした。堅い月桂樹の枝を折り取り、柔らかなザクロの木片に突き立てて激しく回わすと、やがてその摩擦熱によって煙と炎がぶすぶすと立ち上ってきた。この方法で火をおこしたのはヘルメスが最初であった。おこした炎の上に置いた薪が赤々と燃え上がると、二頭の牛の喉を切り裂いて、剥(は)ぎ取った皮は岩の上に広げた。次にたっぷりと脂(あぶら)のついた肉を切り分けて串に刺し、焚き火で炙(あぶ)って、それらを12等分にするとオリュンポスの神々に捧げた後、まるまる二頭分をぺろりと平らげてしまった。満ち足りたヘルメスは牛の後始末をして、焚き火を消すと洞窟に向かった。途中、赤ん坊のヘルメスは、近くの海辺でのんびりと歩いていた一匹の亀を発見した。ヘルメス大喜びしてその亀を抱えて洞窟に戻り、ひっくり返した腹側を小刀で裂いて中身をえぐり出した。その肉を食うと、甲羅の内面に牛皮を張って補修した上、甲羅の間に先ほど食べた牛の腱(又は腸)で作った弦を七本張った。すると不思議にも、さまざまな音の出る楽器、竪琴が出来上がった。赤ん坊のヘルメスは竪琴をかき鳴らしながら母の女神・マイアと父である大神・ゼウスの愛の顛末やら自らの誕生の次第やらを即興で歌って楽しんでいた。

(参考)

@七本張った・・・ゼウスの息子の伝令神・ヘルメスは、太陽神アポロンの牛を盗み、二匹を食べ残りをかくしていたところに海亀が這って来たので、その甲羅に穴を開け、芸術の九女神ムーサの数に合わせて九本の糸を通して手琴を作ったという説もある。アポロンはヘルメスの罪を許すかわりに、ヘルメスが作った竪琴を貰い、それを息子のオルフェウスに譲り渡した。((小話332)「竪琴(たてごと)の名手オルフェウスとその妻」の話・・・を参照)

     (三)

その頃、太陽神・アポロンはピエリアの牧場に来て、絶句した。五十頭もいた自慢の雌牛は跡形もなくかき消え、残されているのはしょんぼりとうなだれる番犬たちと、のっそりと突っ立つ黒毛の雄牛一頭のみであった。「クソッ、さては牛泥棒か。いや、牛泥棒ならこの犬たちが吠えたはずだ。泥棒なら、まず犬を始末しにかかるだろう。なのに番犬はこうして無事、雄牛も残され、雌牛だけが消えた。これは一体どういうことなんだ」。アポロンは地面を調べてみた。そして、とりあえず牛の足跡を辿(たど)ってみた。だが、不思議なことに五十頭の雌牛たちの足跡はみんな牧場から出ていくのではなく、牧場へと入って来る方向に付いていた。しかもその側に残された盗人とおぼしき者の足跡は巨大で、人間のものでも獣のものでもない奇怪なものであった。怪訝(けげん)な気持ちで、アポロンはともかく追えるところまで追って行った。すると途中で、葡萄(ぶどう)畑で働く老人に出会った。そこで老人に、五十頭ほどの雌牛の群れを連れた者を見かけなかったかと尋ねた。バットスという名の老人はアポロンの問いに、先にヘルメスの口止めを無視して答えた。「妙な草鞋(わらじ)を履いた幼子(おさなご)が、多くの牛を連れて歩かせておりましたわい」。そして、牛と子供がピュロスの方角へ行ったと聞くと、アポロンは、ピュロスに向かって再び歩き始めた。途中で、アポロンの視界を一羽の鳥が横切り、悠然と空を飛んで行くのを目にした。アポロンは予言の神でもある。占術を使って飛ぶ鳥の姿に兆(きざ)しを読み取ると、牛泥棒の犯人がアルカディアのキュレネ山にむゼウスの息子であるとを見抜いた。

     (四)

アポロンは、すぐにキュレネ山の怪しい洞窟を発見した。洞窟の中では、若い女神の側(かたわら)の揺り籠(かご)には、玉のような男の子が世にもあどけない表情で眠っていた。激怒したアポロンは揺りかごの中のヘルメスを起こして牛を何処へやったかと問いつめた。これに対してヘルメスは平気な顔でアポロンを見上げて言った。「牛って何のこと、アポロン兄さん。僕、そんなの見たことも聞いたこともないよ。 だって僕、昨日生まれたばっかりで、お母様のお乳をもらって眠っているだけなのに、あなたの牛なんて盗りに行けるわけないじゃない」「何たる厚顔きわまる言い訳だ。生後たった一日だというのに大したものだ。よかろう、おまえを父上の前に引き出して「大泥棒」であることを他の神々の間でも広めてやろう。さあ来い」こうして兄弟は連れだってオリュンポスに昇ることになった。神々の王・ゼウスの館では常に変わらず神々が集(つど)い、宴会を開いていた。二人の言い分を聞いた大神・ゼウスは、すべてを見通していたのでヘルメスに牛を返すように言い、二人を仲直りさせた。ヘルメスは、おとなしく兄のアポロンを牛小屋へ案内した。そこの岩の上に広げられた牛の皮を見たアポロンは、一人で二頭も屠(ほふ)って食べた赤子の怪力と食欲に今さらながら呆れ果て、その行く末に恐れをなした。ヘルメスは、まだ不機嫌な兄のアポロンを宥(なだ)めようと、自分の発明した竪琴をかき鳴らしながら神々を讃える歌を美しく歌ってみせた。すると、音楽の神でもあるアポロンの心は、初めて聴く竪琴の妙音にすっかり魅了され、それまでの怒りもどこへやら、その楽器と音楽の技を譲ってほしいと言った。ヘルメスはその代償として盗んだ雌牛と、それまでアポロンが司っていた牧畜の権能、そして富の印である黄金の杖ケリュケイオンをもらい受けるという条件で、これを贈ることに同意した。こうして互いの道具などを交換した太陽神・アポロンと伝令神・ヘルメスは固い友情で結ばれ、オリュンポスでも無二といわれる親友同士となった。ヘルメスは「二度とアポロンからものを盗んだりはしません」と誓いを立てた。又、ヘルメスの口止めを無視してアポロンに牛泥棒の目撃証言をした葡萄畑のバットス老人は約束破りの罰を受け、ヘルメスによって石に変えられてしまった。その石は、今でも「密告の石」と呼ばれているという。

(参考)

@黄金の杖ケリュケイオン(「カドケウス(伝令の意)の杖」ともいう)・・・ヘルメスは翼のはえたつばの広い帽子を被り、翼のはえたサンダルを履き、二匹の蛇が絡まった黄金で作られた魔法の杖ケリュケイオン(死者の魂を冥界へと運ぶのにも使う)を持っている。ケリュケイオンはアポロンから与えられた物で、二匹の蛇は、かつて争いあっていた二匹の蛇の間にヘルメスが杖をおいたところ、それにからみつき、離れなくなってしまったものだという。又、旅人を守る神としての彼の顔を描いた里程標や同祖神が立てられている。

Aヘルメスは神々の伝令役や父である大神・ゼウスの使者のみならず、冥府の王でありゼウスの兄であるハデスとその王妃ペルセポネの使者として、死者の魂を冥府へ導く任務を担っていたという。

「マーキュリー(ヘルメス)」(フォン・デール)の像はこちらへ

「キューピッド(エロス)の教育」(コレッジョ)の絵はこちらへ子供はキューピッド(エロス)、後ろの立っているのは美の女神ヴィーナス(アフロディーテ)。

「ヴィーナスとクピド」(ロレンツォ・ロット)の絵はこちらへ

「マーキュリー(ヘルメス)」(フォン・デール)の絵はこちらへ

「エロス(クピド・キューピッド)」(パルミジャニーノ)の絵はこちらへ

「エロス(クピド・キューピッド)」(ブロンズィーノ)の絵はこちらへ

「クピド」(カラヴァッジョ)の絵はこちらへ

「オデュッセウスに警告を与えるヘルメス」の絵はこちらへ

「黄金の杖ケリュケイオンとヘルメス」の絵はこちらへ

 

(小話478)「トラフグとその猛毒」の話・・・

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ある水産試験場を見学した禅宗のお坊さんの話。水産試験場は、魚の孵化(ふか)から、稚魚(ちぎょ)の飼育をし、全国の養殖業者に配送できるまでの大きさに育てるのが仕事だが、さまざまな稚魚の内、トラフグが少々面白い。そのユーモラスな姿と、トコトコと泳ぐ様子は見飽きることがなかったのだが、フグという魚も中々好奇心が強く、見ている人たちに興味を示し、近寄って来た。見学者の種々の質間の中に「こんな小さな稚魚でも毒はあるのですか?」というのがあった。主任研究員の人は、それに対して「フグの毒テトロドドキシンは生得的に有(あ)るものではなく、他の生物を摂取することで徐々に体内に蓄積されていくのです。ですから養殖もののフグは基本的には、そのテトロドドキシンを含む餌を与えない限り毒性はありません。因(ちな)みに海の蝦(えび)や蟹(かに)にそれが微量に含まれていて、又、これはフグの好物でもありますので、成長過程でこれらを大量に摂取することで、僅かずつ毒性が高まり、ついにあの猛毒を得るのです」と答えた。これは意外なことであった。フグは生来の毒魚と思っていたものが、何かの仕組みで餌からその毒をのみ、体内に蓄積しているという。だがこれは何故か。あのような遅々として鈍(どん)な動きの魚に、もし何にも武器とすべきものがなければ、他の餌食(えじき)としてあっという間に絶滅してしまうのではないか?。その故に、種(しゅ)を保つためにフグに、この能力を天が与えたのであろう。それも自己を犠牲にして種を守るということ。そこには個を超えた、種の持つ崇高さがあった。人間はおおむね窮し尽くすと、自己を守ろうとするが、そこに解決の道はなく、他(た)、いや全体を守ろうとした時こそ道が開かれていると知るべきではなかろうか。