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(小話542)「眉間尺(みけんじゃく)」の話・・・

     (一)

楚(そ)の干将莫邪(かんしょうばくや)は楚王の命をうけて剣を作ったが、三年かかって漸(ようや)く出来たので、王はその遅延を怒って彼を殺そうとした。莫邪(ばくや)の作った剣は雌雄一対(しゆういっつい)であった。その出来たときに莫邪の妻は懐妊して臨月に近かったので、彼は妻に言い聞かせた。「わたしの剣の出来上がるのが遅かったので、これを持参すれば王はきっとわたしを殺すに相違ない。おまえがもし男の子を生んだらば、その成長の後に南の山を見ろと言え。石の上に一本の松が生えていて、その石のうしろに一振(ひとふ)りの剣が秘めてある」かれは雌剣一振りだけを持って、楚王の宮へ出てゆくと、王は果たして怒った。そして有名な相者(そうしゃ)にその剣を見せると、この剣は雌雄一対あるもので、莫邪は雄剣をかくして雌剣だけを献じたことが判ったので、王はいよいよ怒って直ぐに莫邪を殺した。

     (二)

莫邪(ばくや)の妻は男の子を生んで、その名を赤(せき)といったが、その眉間(みけん)が広いので、俗に眉間尺(みけんじゃく)と呼ばれていた。彼が壮年になった時に、母は父の遺言を話して聞かせたので、眉間尺は家を出て見まわしたが、南の方角に山はなかった。しかし家の前には松の大樹があって、その下に大きい石が横たわっていたので、試(こころ)みに斧(おの)をもってその石の背を打ち割ると、果たして一振りの剣を発見した。父がこの剣をわが子に残したのは、これをもって楚王に復讐せよというのであろうと、眉間尺はその以来、密(ひそ)かにその機会を待っていた。それが楚王にも感じたのか、王はある夜、眉間の一尺ほども広い若者が自分を付け狙(ねら)っているという夢をみたので、千金の賞をかけてその若者を捜索させることになった。それを聞いて、眉間尺は身を隠したが、行く先もない。彼は山中をさまよって、悲しく歌いながら身の隠れ場所を求めていると、図(はか)らずも一人の旅人(たびびと)に出逢った。「おまえさんは若いくせに、何を悲しそうに歌っているのだ」と、かの男は訊いた。眉間尺は正直に自分の身の上を打ち明けると、男は言った。「王はおまえの首に千金の賞をかけているそうだから、おまえの首とその剣とをわたしに譲れば、きっと仇(あだ)を報いてあげるが、どうだ」「よろしい。お頼み申す」眉間尺はすぐに我が手でわが首をかき落して、両手に首と剣とを捧げて突っ立っていた。「たしかに受取った」と、男は言った。「わたしは必ず約束を果たしてみせる」それを聞いて、眉間尺の死骸は初めて倒れた。

     (三)

旅の男はそれから楚王にまみえて、かの首と剣とを献(けん)じると、王は大いに喜んだ。「これは勇士の首であるから、この儘(まま)にして置いては祟(たた)りをなすかも知れません。湯釜(ゆがま)に入れて煮るがよろしゅうござる」と、男は言った。王はその言うがままに、眉間尺の首を煮ることにしたが、三日を過ぎても少しも爛(ただ)れず、生けるが如くに眼を瞋(いか)らしているので、男はまた言った。「首はまだ煮え爛(ただ)れません。あなたが自身に覗(のぞ)いて卸覧になれば、きっと爛れましょう」そこで、王はみずから其の湯を覗きに行くと、男は隙(すき)をみてかの剣をぬき放し、まず王の首を熱湯(にえゆ)のなかへ切り落した。つづいて我が首を刎(は)ねて、これも湯のなかへ落した。眉間尺の首と、楚王の首と、かの男の首と、それが一緒に煮え爛れて、どれが誰だか見分けることが出来なくなったので、三つの首を一つに集めて葬(ほうむ)ることにした。墓は俗に「三王(さんおう)の墓」と呼ばれて、今も汝南(じょなん)の北、宜春(ぎしゅん)県にある。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話541)「大神ゼウスと美しきニンフ(妖精)カリスト。そして、その子供アルカス=大熊座と小熊座の誕生」の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。アルカディア王リュカオンの娘カリスト(名の意味は「最も美しい女」)は、月と狩猟の女神アルテミスに仕えるとても美しいニンフ(妖精)であった。アルテミスは自分の侍女であるニンフたちに一生を処女で過す事を誓わせた。カリストもそうしたニンフの一人であった。敬愛する狩猟の女神アルテミスと同じように、流れる髪を無造作に束ね、弓矢を持って森を駆け回る日々を送っていた。カリストはここで一生、女同士で楽しく暮らすはずだった。そんな美しいカリストの生き生きとしたと愛らしい姿が、天上にいる神々の王ゼウスの目にとまった。夏のある日、カリストが狩りをしていると、女神アルテミスが近づいてきた。カリストはアルテミスに駆け寄り話しかけようとした。すると、その姿はたちまち大きな男の姿に変わった。それは大神ゼウスだった。ゼウスは力ずくでカリストの処女を奪って欲望を満たすと、天に帰って行って行った。そして数ヶ月たった、ある日の昼下がりの水浴の時間に、女神アルテミスはカリストが衣服を脱がないのに気がついた。周(まわ)りのニンフたちが恥らうカリストの服を無理やり脱がしたとき、カリストはもう妊娠9ヶ月になっていた。そのふっくらとしたカリストの腹を見たとき、女神アルテミスは美しい眉をひそめて「あっちへ行っておしまい。この美しい森を汚す事は許しません」と言った。尊敬するアルテミス女神に決別されて、大好きな狩猟も出来ないカリストは、身重の身体を抱えて森を出た。そして、カリストは一人寂しく、母に似た愛らしい息子アルカスを産んだ。これを知ったゼウスの正妻ヘラは激怒し、カリストを熊の姿に変えてしまった。今まで美しかった顔は恐ろしい獣の顔に、そして、雪のような胸も腕も黒い毛で覆われ、優しかった声は気味悪い吠え声に変わった。醜い熊の姿になってしまったカリストは、胸を引き裂かれそうな思いで産まれたばかりの息子アルカスをアルテミスの神殿に置いて、森の奥へと姿を消した。

(参考)

@ゼウスの正妻ヘラは激怒・・・処女神であるアルテミスは、たとえゼウスの一方的な欲望であったにせよ、関係を持ったカリストを許すことができず、姿を熊に変えて神殿から追い出してしまったという説もある。

Aアルテミスの神殿に置いて・・・アルカスは、祖父リュカオンに育てられたとも、又、伝令神ヘルメスの母マイアが引き取ったという説もある。

「ユピテル(ゼウス)とカリスト」(ブーシェ)の絵はこちらへ月型の髪飾りをつけた方がアルテミスに扮したゼウス。

「ダイアナ(アルテミス)とカリスト」(テッツイアーノ)の絵はこちらへ

     (二)

それから十数年もの間、熊になったカリストは、森の中でいつも狩人(かりゅうど)に追いかけられ猟犬には吠えられながら、おびえて生きていた。それでも人間の心だけは持っていたので、獣たちの仲間にも入れず、ただ独(ひと)りぼっちで不運を嘆いていた。その頃、アルテミスの神殿で大切に育てられ、立派に成人したアルカスは優秀な猟師になっていた。ある時、アルカスが獲物を求めて森を歩いていた時のこと。熊として森で暮らしていたカリストは、偶然茂みの向こうからやってくるアルカスを見つけた。熊になってしまったとはいえ、カリストは息子のことをひと時も忘れたことはなかった。息子に出会えた嬉しさのあまりカリストは、つい我を忘れて、茂みから飛び出してしまった。ところがアルカスには、茂みから突然飛び出して来た熊が、まさか自分の母親などとわかりようがなかった。アルカスは慌てて持っていた弓に矢をつがえ、熊の心臓に狙いを定めて、矢を放とうとした。この有様をオリュンポスの山から見ていた大神ゼウスは、母子の運命を憐れみ、即座にアルカスを母殺しの罪から救うため小さい熊の姿に変えた。そして、つむじ風を送って母親と共に大空に引き上げた。この時からカリストは天上で星座(大熊座)となり、息子のアルカスも母親のそばで星座(小熊座)となった。

(参考)

@弓に矢をつがえ・・・熊が母親とは知らないアルカスは、槍を振り上げ熊に投げつけようとしたという説もある。

Aアルカスを小さい熊・・・ゼウスはアルカスに母親殺しを止めさせるために魔法を使い、アルカスを熊にしてしまった。それ以来、熊になったカリストとアルカスは森の中で幸せに暮らすようになり、後に天に上げられ、大熊座と小熊座になり、いつまでも天の北極の近くで仲良くまわり続けているという説もある。

B大空に引き上げた・・・ゼウスが空に上げるときに、しっぽを持って勢い良くあげたので、この二匹の熊は地上の熊に比べるとしっぽがとても長くなってしまったのだと言われている

     (三)

しかし、執念深いへラの怒りは治まらなかった。恋敵(こいがたき)が天でキラキラ輝いてるのを知って逆上したヘラは、すぐに育ての親でもある、全ての河と海を支配する神オケアノスの所へ行って頼んだ「私が人間の姿をすることを禁じておいた女と、その子供が今日から新しい星座となった。許せない。正妻である私の哀(かな)しみを気の毒だと思ったなら、どうぞあの二つの星座を貴方の守っている海へ入らせないようにして下さい」こう頼まれたのではオケアノスも承知しない訳にいかなかった。こうして、他の大部分の星座が日に一度海の中に入って休むことができるのに、カリスト(大熊座)とアルカス(小熊座)は一年中休むことなく、北の空をぐるぐると回り続けなくてはならない運命となってしまった。

(参考)

@河と海を支配する神オケアノス・・・海神で、大地の果てにある世界を取り巻く川であり、海も川の泉も、その川、海神オケアノスから流れたものであるという。この神は海、川、河、湖の妖精達の親である。

 

(小話540)「イソップ寓話集10/20」の話・・・

     (一)「守銭奴」

金にうるさい男が、全財産を売り飛ばし、それを金塊に変えた。彼は、金塊を古塀の脇の畑に埋めると、毎日見に行った。しかし、彼がしょっちゅうそこへ行くのを、使用人の一人が不審に思い、何をしているのか、探りを入れた。使用人は、すぐに宝が隠してあるのを嗅ぎ当てると、そこを掘り返し、金塊を盗んでしまった。守銭奴は、金塊が盗まれたことに気付くと、髪の毛を掻きむしり、大声で泣きわめいた。隣りに住む人が、泣きわめく彼を見て、事の次第を見て取ると、こんな風に言った。「お前さん、そんなに悲しむことはありませんよ。何処かで石でも拾ってらっしゃい。そしてそれを金塊だと思ってお埋めなさい。どのみち、お前さんにとっては、同じことですからね」

(使わなければ、持ってないのも同じ)

     (二)「病気のライオン」

寄る年波には勝てずに衰えて、力では獲物を獲れなくなったライオンが、策略によって獲物を獲ることにした。彼は洞穴に横たわって、病気の振りをした。そして自分が病気であることが、世間に知れ渡るようにと画策した。獣たちは、悲しみを伝えようと、一匹づつ、洞穴へとやって来た。すると、ライオンは、やって来た獣たちを、片っ端からむさぼり食った。こうして、多くの獣たちが姿を消した。キツネはこのカラクリに気付き、ライオンのところへやって来ると、洞穴の外に立ち、うやうやしく、ライオンの加減を尋ねた。「どうもよくない」ライオンはこう答えると、更にこう言った。「ところで、なぜ、お前は、そんな所に立っているのだ? 話が聞こえるように、中に入ってこい」するとキツネがこう答えた。「だって、洞窟の中へ入って行く足跡は、たくさんあるのに、出てくる足跡が、一つも見あたらないんですもの」

(他人の災難は、人を賢くする)

     (三)「少年とハシバミの実」

少年は、ハシバミの実がたくさん入った壷に手を突っ込み、つかめるだけつかんだ。しかし、壷から手を抜こうとして、途中で手が引っかかり、抜けなくなってしまった。それでも、少年は、ハシバミの実を諦めようとはせずに渋っていたので、依然手は抜けぬまま、少年は、涙を流して身の不幸を嘆いた。すると、側にいた人がこう言った。「半分で我慢しなさい。そうすれば、すぐに抜ける」

(一度に、欲張るな)

 

(小話539)「石のスープ」の話・・・

      (一)

民話より。昔むかしのこと。一人の牧師が日が地に沈むころ、ほこりだらけの道を歩いていた。彼は頭が良く、また頑丈な肉体を持っていた。でもいくら歩いても迷子のニワトリにも会わないし、リンゴの木が見つかるわけでもないし、御馳走(ごちそう)してくれる誰にも出会はなかった。「ああ、何にも食べるものがない」と嘆きかけたその時、遠くに農場が見えた。「おお、我(われ)をお守り下さる主、我をお忘れ下さらなかったのだ」と牧師は満足げに微笑んだ。悪いことがいつまでも続くわけではない。きっと食べ物にありつけるに違いない。しかし、この地方には何年も続いた干ばつで穀類は芽を出さず、菜園の野菜類はしおれ、動物たちは飢えと渇きのため死んでしまっていた。領主たちはいつも通り重税を課していたが、干上(ほしあ)がった大地からは殆どなにも採取できない状態だった。かろうじて収穫したほんのわずかの食べ物は、各家庭、皆誰にもわからないようにこっそりと隠して、自分たちのためだけに充てていたのであった。

(参照)

@牧師・・・飢えた旅人という話もある。

      (二)

茅(かや)ぶきの屋根で黒っぽい石の壁の家に近づくにつれて、ある考えが彼の頭に浮んだ。道ばたに落ちている石を拾い上げると、ついている埃をていねいにはらってゴシゴシと磨き、ドアを叩いた。「誰?」女の声がした。「神のご加護を、奥さん。そこに鍋があったら貸してくれないかい。それと、水があったら、ほんの少しでいいからわけておくれ。今ここに炭火をおこして「石のスープ」を作るから」「なんですって? そんなこと本気にすると思ってるの」と女は笑い飛ばした「石のスープですって? そんなの聞いたこともないわ」。「そりゃあ、私の出身の小さな小さな村の食べ物だからね。知らないのも無理はない。よく食べたもんだよ。とても美味しいんだ。見てみたいかい?」それを聞くと女の好奇心がむくむくとわいてきた。そして半信半疑ながら彼女は牧師に言った「いいわよ、では作ってみてよ」。「なあに、簡単さ。すぐ作れるよ。まず、鍋の中にこの石と水を入れる、そしてぐつぐつと煮立てる」と先ほどピカピカに磨いたその石を示しながら、牧師は説明した。女は、好奇心には勝てず、鍋と水を取りに行った。

      (三)

牧師は木片を6つかき集め、そこに火をつけ、炎が強くなったころ、石を入れた鍋を上に乗せた。時間が経ち、水が沸騰しはじめた。女は、ずっと信じられないまま牧師と鍋をみつめていた。「もういいかな。どれどれ」そう言いながら彼は一口試してみた。「少し塩味が足りないな。塩があるといいんだけどねえ」女は塩を取りに行った。塩を鍋に入れてから、しばらくたって女が耐え切れなくなって質問した。「スープはどう? 美味しくなったかしら」「美味しいかって? そりゃあ、わたしが今まで食べたものに 比べればねえ。もし小さなジャガイモ一個とキャベツの葉を一枚足せばねえ、もうちょっと美味しくなると思うよ」女は菜園に行き、隠して置いたジャガイモを二個とタマネギ、キャベツの葉を何枚か取って戻って来た。牧師はそれらを鍋に入れて、しばらく時間が経ってから、また女のほうを振り返りこう言った。「このスープは悪くはない。でももしニンニク一切れとオリーブオイルがちょこっとあれば、こりゃあ最高のスープになるよ」

      (四)

スープの素晴らしくいい匂いがしていた。女は家に入り、必要なものを持って来た。「さあ、あとは何が必要だと思う? 奥さん。スープのいれものをここに持って来て、座りなよ。スープ2人分の出来上がりだ」。こうして、スープは見事な味に仕上がっていた。牧師が美味しい石のスープを充分に堪能したので、女は彼に大切な自分たちの食料を恵む必要はないのだと、ホッと胸をなでおろした。彼の巧みな話術で、食べ物を既に施していることにまったく気がついていなかった。「ところで、その石はどうするの?」鍋の底まで美味しいスープを食べ尽くした後、女がそう質問した。「この石かい? そりゃあ、またスープを作るために持って行くよ」と牧師は満足げに二ヤリと笑い、そう答えた。

(参考)

@ポルトガルのリスボン東部のリバテージョ地方では、レストランで「石のスープ」を頼むと、本当に石の入ったスープが出てくるそうである。

A「石のスープ」の話は、協力を集めるための呼び水の比喩にも使われるという。 

 

(小話538)「軍神・アレスと三人の神(美の女神アフロディーテと不和の女神エリスと冥王ハデス)」の話・・・

    (一)

ギリシャ神話より。偉大なるオリュンポス十二神の一人である軍神・アレスは、神々の王ゼウスの息子で、母は正妻であるヘラであった。彼は、大神ゼウスの嫡男(ちゃくなん)ともいうべき由緒ある生まれで、巨大で美しく逞しい外見をした神であったが、その性情は残忍で、暴力を好み、道義心に欠ける戦争の神であった。賢い子供を好む父ゼウスからは「わしの子でなければとっくにタルタロス(地獄)送りにしておるものを」と言われ、また母のヘラは「レトの生んだ双子(アポロンとアルミテス)と比べたら何て劣った息子」と歎いたほどの出来の悪い神であった。彼と同じく戦争を司(つかさど)る神としては、大神ゼウスの頭から誕生したアテナ女神がいたが、アレスはこの優秀な異母姉に対しても頭が上がらず、口でも腕でも常に負かされていた。一般にはアテナ女神が「英雄たちが華々しい武勲を立てる場」という戦争の光の側面を司り、軍神・アレスは戦争をけしかけてはその戦いを楽しむ「血なまぐさい殺し合いの場」という暗い面を司っていた。このため彼は、あらゆる神々から憎み嫌われた。だが、軍神・アレスにとっては、戦争の正邪は関係なく、とにかく戦いのためだけに戦いを好み、戦場には四頭立ての戦車に乗って不和の女神エリスと、息子のデイモス(恐怖)とフォボス(不安)を連れていた。

(参考)

@大神ゼウスの嫡男・・・火と鍛冶の神・ヘパイストスは大神・ゼウスと正妻ヘラの息子という説と、正妻ヘラが一人で産んだ子供という説がある。(小話474)「火と鍛冶の神・ヘパイストスの誕生と黄金の椅子」の話・・・を参照。

A四頭立ての戦車・・・戦車を引く馬の名前は「火」「炎」「災難」「恐怖」といった恐ろしい名前であった。

B不和の女神エリス・・・軍神アレスとの双子の姉妹。後に英雄ペレウスとテティスの結婚式に招かれなかった腹いせに、最も美しい人にと書いた黄金のりんごを客の中に投じた。するとヘラ、アテナ、アフロディーテが自分こそふさわしいとして譲らず、トロイアの王子パリスにその判定を下させることになり、その結果としてトロイア戦争を招くことになった。又、エリスは軍神アレスの姉妹ではなく夜の女神ニュクスの娘で、しかも姉と妹の2人がいて、妹のエリスは不和と戦いを煽りたてる邪悪な神だが、姉のエリスは人間たちの間に競争心を起こし、他人より少しでも優れてあろうと競い合わせる善い神という説もある。

「マルス(アレス)」(ベラスケス)の絵はこちらへ

「アレスの像」(イタリアのティヴォリにあるヴィッラ・アドリアーナ遺跡)の写真はこちらへ

    (二)

その残忍性ゆえに、神にも人にも嫌われ者だった軍神・アレスではあったが、三人の親しい神がいた。その一人は美と愛の女神アフロディーテで、彼女は、アレスの美しく野性的な外見とその粗暴さに魅力を感じて深い仲になった。そして二人の間には、キューピッド(又は、エロス=可愛らしい愛の神)、アンテロス(愛に対して愛を報いる神)、デイモス(恐怖の神)、フォボス(不安・逃走の神)、ハルモニア(調和の女神)などの多くの子供が出来た。もう一人は、アレスの姉妹にあたる翼を持った、不和、争いの女神エリスで、彼女は、アレスと同じ気質を持っていて、戦場ではアレスと並んで戦車に乗り、血なまぐさい光景を目にしては金切声(かなきりごえ)をあげた。あと一人は、冥王ハデスであった。ハデスの支配する死者の王国は、軍神・アレスが引き起こした戦いで大幅に住人を増やしていたのであった。

(参考)

@深い仲になった・・・軍神・アレスは、周囲の目を忍んでヘパイストスの妻(アフロディーテ)と密通をしていた。だから、全てをさらけ出す太陽神ヘリオスに密通が知られるのを怖れて、ドアのそとにはいつも戦場で付き従っていたアレクトリュオンという男を残しておいて「太陽神が昇ってくる前に起きて夜明けを知らせろ」と言いつけていた。ところがあるとき、アレクトリュオンは寝坊してしまった。結果としてアレスとアフロディーテの浮気現場が太陽神によって目撃され、太陽神はこの事をアフロディーテの夫ヘパイストスに告げ知らせた。ヘパイストスはアレスとアフディーテに仕返して、アレスは大恥をかいた。アレスは自分の不実を棚に上げ、怒りをアレクトリュオンに向け「お前は永久に夜明けを知らせつづけていろ」と、アレスはアレクトリュオンを武具もろとも、ニワトリに変えてしまった。だからニワトリは頭のてっぺんに兜(かぶと)の羽根飾りをつけているという。こうしてニワトリは、今も太陽神ヘリオスが昇ってくるのを感じると、いつも、前もって大声でヘリオスがやって来るぞと合図して、アレスに身の証しを立てているという。(小話283)「美と愛の女神・アフロディーテ(ビーナス)と軍神アレス」の話・・・を参照。

「ウィーナス(アフロディーテ)とマルス(アレス)」(ポッティチェリ)絵はこちらへ

「ウルカヌス(ヘパイストス)に驚かされるウェヌス(アフロディーテ)とマルス(アレス)」(ティントレット)の絵はこちらへ

「愛で結合するマルス(アレス)とビーナス(アフロディーテ)」(ヴェロネーゼ)の絵はこちらへ

「ウェヌス(アフロディーテ)、キューピット(エロス)、マルス(アレス)」(ジョルダーノ)の絵はこちらへ

「ビーナス(アフロディーテ)、マルス(アレス)、およびキューピッド(エロス)」(グエルチーノ)の絵はこちらへ

「エジプト遠征からのボナパルト帰還前のフランス国家の寓意」(ピエール・フランク)の絵はこちらへ

ナポレオンは仮寝の夢で祖国「フランス」(可憐な乙女)の悲鳴を聞く。大勢の悪しき神々によって痛めつけられ、先陣切って飛びかかっている松明を握った女は「不和」の女神ディスコルディア(エリス)、それに続いて武装した「罪」や布で目を覆った「激怒」たち。

 

(小話537)「イソップ寓話集9/20」の話・・・

     (一)「ハエとハチミツ壷」

ハエたちは、倒れた壷から溢(あふ)れ出る、蜜の匂いに誘われて台所へとやって来た。彼らはハチ蜜の上へと降り立つと、一心不乱になめ回した。ところが、蜜が、足にべたべた絡みつき、ハエたちは、飛べなくなってしまった。蜜の中で息が詰まって死に行く時に、ハエたちはこんな風に叫んだ。「ああ、なんて我等は間抜けなんだ。ほんの少しの快楽のために、身を滅ぼすとは・・」

(楽しみの後には、痛みと苦しみが待っている)

     (二)「人とライオン」

人とライオンが、一緒に森の中を旅していた。すると両者ともに、力と勇気について自慢しはじめた。互いに言い争っていると、二人は、ある石像の前へとやってきた。それは、人がライオンを絞め殺している像だった。男は、それを指さして言った。「あれを見ろよ。俺たち人間がどんなに強いか、百獣の王さえあの通りだ」すると、ライオンはこんな風に言い返した。「この石像は、あんた方人間が造ったものだ。もし、我々ライオンが、石像を造れたなら、足下(あしもと)にいるのは、その男の方だろうよ」

(どんなに下(くだ)らない話でも、反論されるまでは、一番である)

     (三)「農夫とツルたち」

ツルたちは、種蒔きの終えたばかりの小麦畑を餌場にしていた。農夫はいつも、投石機を空撃ちして、ツルたちを追い払っていた。と、いうのも、ツルたちは空撃ちしただけで、怖がって逃げたからだ。しかしツルたちは、それが空を切っているだけだということに気付くと、投石機を見てもお構いなしにそこに居座った。そこで農夫は、今度は投石機に本当に石を装填(そうてん)し、そして、たくさんのツルたちを撃ち殺した。ツルたちは皆、一様にこんなことを言って嘆いた。「リリパットの国に逃げる時が来たようだ、彼は、我々が怯えるだけでは満足せずに、本気で撃ってくるのだからな」

(優しく言われているうちに言う事を聞け。さもないとげんこつが飛んでくるぞ)

(参考)

@リリパットの国・・・スウィフトの小説「ガリバー旅行記」に出てくる小人国の名。

 

(小話536)「宿命」の話・・・

        (一)

陳仲挙(ちんちゅうきょ)がまだ立身出世していない時に、黄申(こうしん)という人の家に止宿(ししゅく)していた。そのうちに、黄家の妻が出産した。出産の当時、この家の門を叩(たた)く者があったが、家内の者は混雑にまぎれて知らなかった。暫(しばら)くして家の奥から答える者があった。「客座敷には人がいるから、はいることは出来ないぞ」。門外の者は答えた。「それでは裏門へまわって行こう」。それぎりで問答の声はやんだ。それからまた暫くして、内の者も裏門へまわって帰って来たらしく、他の一人が訊(き)いた。「生まれる子はなんという名で、幾歳(いくつ)の寿命をあたえることになった」「名は奴(ど)といって、十五歳までの寿命をあたえることになった」と、前の者が答えた。「どんな病気で死ぬのだ」「兵器で死ぬのだ」。その声が終ると共に、あたりは又ひっそりとなった。

        (二)

陳はその問答をぬすみ聴いて奇異の感に打たれた。殊にその夜生まれたのは男の児で、その名を奴と付けられたというのを知るに及んで、いよいよ不思議に感じた。彼はそれとなく黄家の人びとに注意した。

「わたしは人相(にんそう)を看(み)ることを学んだが、この子は行くゆく兵器で死ぬ相がある。刀剣は勿論(もちろん)、すべての刃物を持たせることを慎まなければなりませんぞ」。黄家の父母もおどろいて、その後は用心に用心を加え、その子にはいっさいの刃物を持たせないことにした。そうして、無事に十五歳まで成長させたが、ある日のこと、棚の上に置いた鑿(のみ)がその子の頭に落ちて来て、脳をつらぬいて死んだ。陳は後に予章(よしょう)の太守(たいしゅ)に栄進して、久しぶりで黄家をたずねた時、まずかの子供のことを訊くと、かれは鑿に打たれたというのである。それを聞いて、陳は嘆息した。「これがまったく宿命というのであろう」

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話535)「後の世に吸血鬼ドラキュラのモデルになった、串刺し公ヴラド・ツェペシュのいくつかの伝説(2/2)」の話・・・

       (一)

ハンガリー王やトランシルヴァニア領主から、五十五名の使節団がワラキア公国に派遣された。ヴラド・ツェペシュは彼らを五週間にわたって監禁した上、その宿舎の周囲に杭を並べた。彼らは串刺しにされるのではないかと恐れおののいた。ヴラドは、軍隊を率(ひき)いてヴュツェルランドへ進攻し、村や城や町を襲撃して略奪した上、貴重な保存食まで焼き払った。捕虜は全て聖ヤコブ教会近くのクランスタットの町の郊外に連行した。周辺一帯全てを破壊し尽くした後、捕虜全員を教会脇の丘の周りで串刺しにし、ヴラドはその光景を見物しながら食事をとった。

       (二)

ヴラド・ツェペシュは盗みをはたらいたジプシーを捕らえた。ジプシー仲間達が犯人の釈放を嘆願した。ヴラドはワラキア公国内では盗みは吊るし首にすると決められているとして、ジプシー達に犯人の処刑を命じた。ジプシー達は、我々の習俗にはそんな処罰は存在しないと言って拒否した。ヴラドは犯人を釜(かま)で煮て、ジプシー達に食べさせた。

       (三)

ある司祭が、罪を犯したら自らその過ちを償うまでは許されないと説教した。ヴラド・ツェペシュはその司祭を食事に招いた。食卓で彼はわざと料理の中にパンの塊(かたまり)を落としておいた。司祭はスプーンでその塊をすくいあげた。ヴラドは司祭が行った罪についての説教の内容を改めて問いただした後「ではどうして私が料理の中に落としたパンの塊をおまえがすくいあげたのだ」と言って、彼を串刺しにした。

       (四)

あるときヴラド・ツェペシュは、老人や浮浪者を集め、彼らに豊富な食料を施した。その後ヴラドは「この辛(つら)い世の中から逃げたいか?」と彼らに聞いた。そして彼らは「逃げたい」と言うと、その者らを捕らえて火刑に処した。

(参考)

ヴラド・ツェペシュはルーマニアでは十字軍の英雄であり、ドイツ人とっては同族民を虐殺した敵であり、ロシアにとっては東方正教会を棄てた裏切り者であった。ヴラドは自らの国に厳格な道徳律を敷こうとし、その手段として「恐怖」が用いられたのであった。

 

(小話534)「後の世に吸血鬼ドラキュラのモデルになった、串刺し公ヴラド・ツェペシュのいくつかの伝説(1/2)」の話・・・

       (一)

ヴラド・ツェペシュの元にある外国商人が訪れた。ヴラドは商人に荷物を乗せた馬車を公共の広場に置いて宮殿で休むように命じた。ところがその夜の間に商人の160枚の金貨が盗まれてしまった。商人がヴラドに訴えると、ヴラドは盗人も金貨も必ず見つけだすと約束した。ヴラドはどちらも見つけだす自信があったため、家来に命じて自分の金貨161枚を商人の馬車に戻させておいた。そしてヴラドは町の人々に「すぐさま盗人を見つけだせ。さもなくば町を打ち壊すぞ」と申し渡した。商人は馬車に金貨が戻っていることを発見し、その数を数えてみると1枚多い。彼はヴラドにその旨を告げた。そこへ盗人が宮殿へ引き立てられてきた。ヴラドは商人に向かって言った。「心安んじて帰るがよい。お前が正直に話さなかったら盗人と共に串刺しにしてやるところだったぞ」

       (二)

ワラキア公国にトルコの使者がやってきた。使者達はヴラド・ツェペシュ公の謁見の間に入ったが、習慣に従ってターバンを脱がずに御辞儀をしたため、ヴラドは何故ターバンを脱がないのか訊ねた。トルコの使者はこれが自国の習慣であるからと答えた。そこでヴラドは「その方らが厳重にその習慣を守ることができるよう、習慣を強化して進ぜよう」と言い、家臣に命じてトルコ人の使者の頭にターバンを釘付けにした。ヴラドは彼らを返す際、「自分の国の習慣を、それを受け入れない他国の君主に押しつけるのはやめて、自国の中でのみその習慣を守るようにと、主君に伝えろ」と言ったという。

       (三)

ある貴族がヴラド・ツェペシュのもとに伺候(しこう)した。彼は串刺しにされた犠牲者をさらした杭がまるで森のように林立する中にいた。貴族は、そのひどい悪臭に耐えられず思わず鼻をつまんでしまった。そして、どうしてこのような所に居られるのかとヴラドに尋ねた。ヴラドは「もっと空気のいいところへ送ってやろう」と直ちにその貴族を串刺しにして、悪臭に悩まなくてもすむように一段と高い杭に掲げてやった。

       (四)

ヴラド・ツェペシュはワラキア領内の全ての地主、貴族達を館に招待して食事を共にした後、彼らに向かって、これまで何人の君主に使えていたかと尋ねた。ある者はとても数え切れないと言い、ある者は五十人、また三十人、また二十人、十二人と様々だったが、最年少の貴族でも七人と答えた。そこでヴラドは「(こんなに頻繁に支配者が替わるほど)ワラキアが弱体化したのはお前らのせいだ」と言って、500人全員を串刺しにした。

       (五)

ある日、ヴラド・ツェペシュはぼろぼろの服を着て働いている農夫を見かけた。ヴラドは彼を宮殿へ連行して訊ねた。ヴラドは彼に健康な妻がいること、彼はしっかりと働いていることを確認した後、彼の妻を連行し「種をまき、刈り入れをし、お前を養うことが亭主の義務である。一方、亭主にちゃんとした身なりをさせるのはお前のつとめである。しかしお前は健康であるにも関わらず、亭主の服を洗うことすらしようとしない。亭主が働かないと言うのなら亭主の方が悪いのだが」と言い、彼女を串刺しにしてしまった。そしてヴラドは、男に別の女を妻として与え、その新妻には、まず夫のためにシャツを作ることを命じ、背(そむ)けば串刺しにすると脅した。

 

(小話533)「後の世に吸血鬼ドラキュラのモデルになった、串刺し公ヴラド・ツェペシュの生涯」の話・・・

        (一)

ヴラド・ツェペシュは1431年にルーマニア中部・北西部のトランシルヴァニア地方、シギショアラという町でヴラド2世ドラクル(ドラクルは「龍」を意味し、ドラクルは悪魔公と言われた)の次男として生まれた。父ドラクルはヴラドがまだ一歳にならない1431年2月に神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士に叙任された。1436年から1437年にかけてトランシルヴァニアの名家、ツェペシュ一族の勇猛で軍略に優れたドラクルは当時のワラキア公を追放して自らがワラキア公となった。当時、ワラキア公国は、東はトルコ(オスマン帝国)、西はローマ帝国による侵略に常に脅(おびや)かされていた。ドラクルは次第にトルコが力を付けてきているのを感じとると、主君である神聖ローマ皇帝を裏切り、トルコと同盟を結んだ。1438年、ドラクルはトルコ軍と共にトランシルヴァニア襲撃に加わった。しかし、神聖ローマ皇帝を完全に裏切ることはできなく、自ら降伏してきた町には彼らの命を奪うことはしなかった。こういったことが続いたため、トルコのスルタン(主君)はドラクルの忠誠心を疑いだし、ドラクルをトルコに招いた。罠とは知らずドラクルは次男ヴラドと三男ラドゥを連れてトルコに向かった。罠にかかったドラクルはわずかな期間拘禁されたのち、トルコへの忠誠の誓いをたて、その証(あかし)として、二人の息子を人質として残すことになった。

(参考)

@ヴラド・ツェペシュ・・・ツェペシュ(トルコ語ではカジィクル=串刺し)とは、「串刺し」の意味で、串刺し公と言うニックネームだが、ツェペシュというあだ名は、むしろ死後のものだという。存命時はドラキュラというニックネームの方が多く用いられたのではないかと言われ、本人の筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(「ドラクル+ア(子供を意味する接続語尾)=ドラクラ」)と書かれたものが存在する。現在では吸血鬼ドラキュラのモデルとして知られているが、しかし今日ルーマニアでは、彼は祖国の英雄として評価されている。ヴラドの死に物狂いの戦いが、トルコの前進を1世紀も止めたのである。ルーマニアは南隣のブルガリアとは違い、トルコの属領にはならず、貢納を命じられただけの独立国として存在した。

A吸血鬼のモデル・・・串刺し刑など「残酷」で知られたヴラド・ツェペシュは、後世になって吸血鬼伝承と合体し、アイルランド(イギリス)の作家ブラム・ストーカーによって「ドラキュラ伯爵」(1897年に発表)のモデルとされた。ブラム・ストーカーは東欧の吸血鬼伝説とヴラド・ツェペシュを重ね合わせ、さらに16世紀のハンガリーに実在した伯爵夫人エリザベート・バートリーも作品のヒントにしたという。(小話473)「血塗(ちまみれ)れの伯爵夫人エリザベート・バートリ。美しさを追い求めた狂気の生涯」の話・・・を参考。

        (二)

ところが何とか無事にワラキア公に返り咲いたドラクルは、ローマ皇帝に対する誓約を無視するわけにもいかず、二人の息子が人質になっているにも関わらず、対トルコ戦のために組織されたハンガリー王フニャディ・ヤーノシュ率いるバルカン十字軍に加わった。十字軍は一度はトルコ軍に大勝したが1444年のヴァルナの戦いで壊滅してしまった。父のドラクルとヴラドの兄ミルチャはこの敗北の責任をハンガリー王フニャディにあると主張した。このことからフニャディはツェペシュ(ドラクル)一族に深い憎悪を抱くようになり、1447年、ドラクルとミルチャはフニャディ王の手の者によって惨殺された。その後、ハンガリー王フニャディはヴラディスラヴ二世をワラキア公に擁立(ようりつ)した。一方、人質として囚(とら)われていたヴラドは1448年、トルコから解放された。そして、トルコは、ハンガリー宮廷につながるヴラディスラヴ公を否定してわずか二ヶ月の間だが、ヴラドをワラキア公(一回目)につかせた。しかし、二十歳にも満たないヴラドは父や兄を殺したハンガリー王フニャディや自分を幽囚したトルコを恐れ、従兄弟(いとこ)のシュテファンのいるモルダヴィアへと逃れた。モルダヴィアはシュテファンの父ボグダン公が治めており、ヴラドはボグダン公が殺害される1451年までここにとどまった。

(参考)

@ヴラドをワラキア公・・・正式名にはヴラド・ツェペシュヴラド3世。

        (三)

ボグダン公が殺害された後、ヴラドは父と兄の暗殺の扇動者であったハンガリー王フニャディに頭を下げ、その情けにすがった。フニャディ王自身、自らワラキア公として立てたヴラディスラブ二世が親トルコ政策を行いだしたため、ヴラディスラブに代わるワラキア公として、自分に従順な手先を用意しておく必要があった。こうして1451年からハンガリー王フニャディがペストに倒れる1456年までヴラドは父と兄の敵であるフニャディの元で、忠僕のようにトルコとの合戦に出陣していた。そして1456年、ヴラドは再びワラキア公(二回目)となった。ヴラドはこの年、9年前に殺された兄ミルチャの墓を掘り出すよう命じた。そこには明らかに生き埋めにされ、もがき苦しんだまま絶命した兄の変わり果てた姿があった。この時からヴラドの貴族達への復讐が始まった。ワラキア公となったヴラドは独裁的専制君主を目指し、まず、自分の命令に背く者は、串刺しの刑にしたりしてワラキア領内の大貴族を打倒し、権力を掌握した。また、ヴラドは軍隊を組織し、勇敢な兵士を養成した。そのため、ワラキア公国は戦争では負け知らずで、諸外国に負けない強国になった。そしてトルコへの貢納を拒否した。トルコがワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは、使者を生きたまま串刺し刑に処した。これ以後、トルコ軍とたびたび交戦し、その都度撃退した。1461年、地理的に反トルコ十字軍の最前線に位置していたワラキア公国にトルコ側の使者がやってきた。使者は話し合いを持ちかけてきたが、ヴラドは過去に父親が同じ手でだまされたことを忘れてはいなかった。ヴラドはトルコ側の裏をかき、話し合いの場所として設けられていた城塞都市にいたトルコ軍分遣隊兵士を全員捕らえ、ワラキアの首都まで連行し、そこで全員串刺しにし、見せしめのためにそのまま放置した。この行為が事実上の宣戦布告となり、ヴラドはトルコに攻め入ることになった。そして、このトルコに対する攻撃はキリスト教十字軍戦士としてのヴラドの名声を確立した。ヴラドはメフメット率いる十数万の兵力を持つトルコ軍の侵攻に対して数万のトルコ兵を串刺しにして戦意を削ぎ、奇襲と退却のゲリラ戦術を使うことで、僅か一万の兵力でこれを撃退した。しかし、圧倒的不利な戦いと焦土作戦によってヴラドの勢力は低下し、1462年の始め、トルコのスルタン(主君)、メフメットはヴラドの実の弟ラドゥ(美男公)を支援し、ヴラドから離反した貴族たちを糾合(きゅうごう)させてヴラドの追い落としに成功した。こうしてヴラドは、ゲリラ戦を展開しながらも、ひたすら撤退することになった。

(参考)

@串刺し刑・・・ヴラド・ツェペシュはトランシルヴァニアやモルダヴィアとの複雑な関係もあり、ワラキア領内での粛清も多く、トルコ軍のみならず、自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる。串刺し刑はこの時代のキリスト教国やイスラム教国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。しかし、ヴラドの異常性は反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン・トルコの兵士であり、トルコ語でカジィクル・ベイ(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。ヴラドの死後の1475年の報告では、その一生涯に串刺しによる犠牲者の数は10万人にものぼる、とある。

        (四)

こうしてトルコのスルタン(主君)、メフメットはワラキア公国の首都まで攻め入ったが、すでにこの都市は棄てられていた。斥候に出かけた兵士が報告に戻ってきたが、その兵士の顔は恐怖にひきっつていた。メフメットは自らの腰を上げて、検分に出た。近づくにつれて、異臭が漂ってきた。小高い丘が見えてくると、先頭の兵士の中から悲痛な叫び声が上がった。歩みを止め、中には戻って来る者もいる。「カジィクル・ベイ(串刺し公)だ!」それは、トルコ軍がワラキア公ヴラドにつけたあだ名だった。メフメットは前進したが、陰惨な光景がメフメットの眼を奪った。小高い丘の上に、杭が二本立てられていた。2人の使者がドラキュラを欺いたとして、特に長い棒にさされていた。そして、その周りには無数の杭が野原一面に刺してあった。それぞれの杭には、先端が突き出るほど深々と、人間の体が、ある者は足を上に、ある者は頭を上に、またある者はあお向けに、ある者はうつぶせに刺されていた。遠目にも、その死体は野鳥についばまれてボロボロだった。だが、犠牲者の多くは、頭にまだターバンが残っていた。「なんてことだ」メフメットは唸り声を上げた。犠牲者が誰だか解ったのだ。それは、半年も前にメフメットが送り込んだ使節と彼を護衛する兵士だった。ワラキア公がトルコへの貢納を拒否し、トルコの軍事基地を攻撃し始めたために、叱責の意味で送った使節が、よりにもよって串刺しにされていたのだった。このおぞましい光景を見たメフメットは「このような男を相手に戦って、一体なにができよう?」と言い、トルコ軍の一部隊を除き退却を命じた。残った一部隊にはヴラドを捕らえる命令を与えた。ヴラドは自らの城まで逃れたが、そこも危険だと知ると井戸の抜け道を通って脱出した。

(参考)

@ワラキアの首都・・・態勢をたてなおしてトルコ軍は、ワラキアの首都トルゴヴィシテの郊外まで進軍して行った。軍が進む先にある奇妙な森が見えた。道路に沿ってわずかばかり先端に枝葉らしいものがある木が多く立っていたと思ったものは、近づいてみれば、捕虜となったトルコ兵の串刺しされた無残な姿で、首都から数キロ離れた地点に「長さ1キロ、幅3キロの平野に、2万人ものトルコ人の串刺し死体」が放置されていたという説もある。

        (五)

ヴラドはトランシルヴァニアに落ち延び、フニャディの子で当時のハンガリー王マーチャーシュに助けを求めるが、ヴラドに恨みを持つドイツ人の陰謀のために逆にマーチャーシュ王に監禁、幽閉されてしまった。そして監禁されてから12年後の1974年にヴラドはやっと解放された。その際、ヴラドはハンガリー王マーチャーシュの妹と結婚していた。彼女との結婚は東方正教会からカトリックへの改宗を意味していた。この結婚にはワラキア公への返り咲きを目するものであった。その後ヴラドは義理の兄となったマーチャーシュ王の元でトルコと戦うことになった。そして1476年11月にはみたびヴラドはワラキア公(三回目)に叙せられた。しかし、ワラキア公の座を暖める暇もなく、実の弟ラドゥと結んだトルコ軍との戦いが待っていた。そしてワラキア公になったわずか一ヶ月後にブカレストの郊外でトルコ軍と戦って戦死した。享年、45歳。トルコ軍は、ヴラドの首を塩漬けにし、コンスタンティノープルに持ち帰って晒(さら)したという。

(参考)

@戦死した・・・ブカレスト近郊でトルコと戦っていた際、味方とはぐれてしまったため、トルコ兵に変装していたところ、トルコ軍の隊長と間違えられ、味方によって殺されてしまったとか、ラドゥに味方するワラキアの貴族達が、裏切っていきなりヴラドに襲い掛かった。ヴラドを守る者はわずかにモルダヴィアの兵士数名だけで、衛兵の兵士もろとも惨殺されたヴラドの死体には、首がなかったという説もある。ヴラドの遺体はスナゴヴの修道院に葬られたという。

Aヴラドには功罪相半ばするという。いかなる理由があろうとも、多くの人間を残虐に殺害したのは許されない。と、いう主張。父を暗殺され、兄を生き埋めにされ、自らも虜囚(りょしゅう)になって、弟に裏切られた悲惨な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、祖国のために進んでその手を血に汚した人。と、いう主張。いずれにしても、大国に囲まれた小国の命運を、残虐な処刑という行動で侵略から守ったというのは、バルカンの火薬庫と呼ばれる当時の歴史の事実である。

「串刺し公ヴラド・ツェペシュ」の絵はこちらへ

「ドラキュラ城(ブラン城)」の写真はこちらへ

この城は、ヴラドの祖父が14世紀に居城としたもので、ヴラド自身は一時期とどまったに過ぎないといわれている。

 

(小話532)「宋襄(そうじょう)の仁」の話・・・

      (一)

中国は春秋時代のこと。宋(そう)と言う国は小国だった。だが、宋は、周(しゅう)の前の殷(いん)王室の後裔(こうしょう)で、血筋はよかったが、周囲を強国に挟(はさ)まれ、国力は全く奮(ふる)わなかった。しかし、第一の覇者といわれる斉(せい)の桓公(かんこう)が死ぬと、この宋の国に中国統一と言う大それた野心を持つ王が現れた。それが襄公で、仁政によって宋国内をうまく治めていたので、覇者の地位を確立しようとしたのであった。しかし宋の宰相の目夷(もくい)はこう諌(いさ)めた「宋は小国。小国の分際で諸侯の盟主となろうとするのは禍のもとです」だが、楚と桓公亡き斉の両国とも盟約を結んだ襄公は強気になっていたので、この言葉には耳もかさなかった。やがて、宋の襄公は紀元前638年、鄭(てい)へと攻め込んだ。鄭は楚と隣接した小国であり、自国の軍事力では到底防ぎきれない。そこで同盟国の楚に救援を求め、宋軍と楚軍は泓水(おうすい)を挟(はさ)んで対峙(たいじ)した。こうして宋の襄公は、今度は楚を相手に戦おうとした。と、また目夷が諌めた「わが宋は天に見捨てられ滅びた殷の末裔(まつえい)です。楚と戦っても勝てるはずがない。いたずらに戦争をしてはいけない。宋は殷の末裔の小国としての分に甘んじて、出すぎたまねはしないほうがよい」しかし、時すでに遅しで、圧倒的兵力を誇っていた楚軍がまず渡河を始めた。それを見た目夷は戦いが避けられぬと判断すると、機先を制すべく「敵は我らより大軍ですから渡河しきる前にたたいてやれば勝算はあります」と襄公に進言した。だが襄公は「それは卑怯ではないか。覇者たる者のする行為ではない」と言って取り合わなかった。そのうち、楚軍が渡河しきってしまい、陣形を整え始めた。そこで再度、目夷は「陣形が整っていない今こそ、好機ですぞ」と言ったが、襄公は「陣形が整うのを待ってやろう」と今度も攻めようとしなかった。そして楚軍の陣形が整ったとき襄公ははじめて「今じゃ、突撃」と戦闘開始の銅鑼(どら)を鳴らしたが、少勢の宋軍が、大軍の楚にまともに戦って勝てるわけがなく、あっというまに敗北してしまった。

(参考)

@周囲を強国・・・同じ頃の諸侯に、斉の桓公、晋の恵公、秦の繆公、楚の成王などがいた。

A今度は楚を相手に・・・宋は襄公の時代に力をつけ、斉の桓公が死んだ後に諸侯を集めて同盟を結んだ。これを楚の成王は不快に思い、同盟にやってきた襄公を監禁した。 一旦謝罪し開放してもらった襄公はこの屈辱をそそがんと泓水(おうすい)で楚と決戦を行った。

      (二)

国中の非難は襄公に集まったが、襄公は非を認めようとしなかった「君子たるものは、人の弱みに付け込んだりしないものだ」と。目夷は、これを手厳しく批判した「戦は勝つことが目的。平時の礼は通用しません。そのようなお考えならば、初めから戦などせず、奴隷になってしまえばよろしい」と。やがて、宋の襄公はこの泓水(おうすい)の戦いで股に傷を負っていて、それがもとで翌年あっけなく死んでしまった。このため世間の人たちは「宋襄の仁」と言って嘲り笑ったという。

(参考)

@君子たるもの・・・十八史略でも韓非子でも、襄公に対して非難しているが、史記を書いた司馬遷はその史書「史記」で「春秋の礼儀の失われた時代に襄公の礼譲の心は賞賛に価する」と記している。

Aこのような出来事から、後の人は、つまらぬ情けをかけることや無用の情けを「宋襄の仁」と呼ぶようになった。出典は「春秋左氏伝」。

 

(小話531)「薔薇(ばら)になった美しい娘ローダンテと赤い薔薇」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。ギリシャ南部、ペロポネソス半島の商業地コリントという所にローダンテという知性・誇り・美を兼ね備えた、誇り高い娘がいた。あるとき、三人の若者に求婚されたローダンテは、誰を選ぶか困り果てて太陽神・アポロンと狩猟と月の女神・アルテミスを祀(まつ)る神殿に身を隠した。若者たちが追いかけてきて聖なる神殿の中に入ろうとしたとき、その礼節をわきまえない態度に、ローダンテは怒りのあまり男たちの前に姿を現して「ここは神殿です。汚してはなりません。すぐに帰ってください」と言った。だが、その姿があまりにも美しく高貴だったので若者たちはますます血迷い「ローダンテこそが我々の女神だ」と叫びながらアルテミスの像を台座から引きずりおろして、その代わりにローダンテを台座に押し上げてしまった。それを天空を行く炎の馬車から見ていた太陽神・アポロンは双生児の姉である狩猟と月の女神・アルテミスへの侮辱に怒り、ローダンテに炎の矢を射った。矢を受けたローダンテの脚は石にくっつき、体は小さくなり、みるみるうちに、その姿は美しい薔薇の花へと変貌を遂げた。そして、若者たちの神への冒涜を許さなかったローダンテの誇り高さが、薔薇の刺(とげ)になり、三人の若者は毛虫と蜜蜂と蝶にされてしまったという。 

       (二)

ギリシャ神話より。愛と美の女神・アフロディーテは大神ゼウスの命令で鍛冶(かじ)の神・ヘパイストスと結婚していた。だが、ヘパイストスはゼウスの妻ヘラが一人で生んだ子で、足が不自由で神の中では一番醜かったた。そのため、美の女神アフロディーテはいつしか夫のヘパイストスを嫌い、男らしい軍神アレスに恋をしてしまった。そして、その不倫な恋は我が子エロスに知られてしまった。夫に知れるのを恐れたアフロディーテは、沈黙の神に頼みエロスの口を封じた。この時、アフロディテが沈黙の神にお礼で贈ったのが赤いバラだったという。

(参考)

@軍神アレス・・・(小話283)「美と愛の女神・アフロディーテ(ビーナス)と軍神アレス」の話・・・を参照。

A我が子エロス・・・(小話380)「美の女神アフロディーテの鏡とバラの棘(とげ)」の話・・・参照。

Bアフロディーテ・・・アフロディーテはシリアの王子アドニスが死んだとき悲しみのあまり、アフロディテが流した紅の涙に、白バラが赤く染まったという説もある。(小話368)「愛と美の女神・アフロディーテと美少年・アドニス」の話・・・を参照。

C青い薔薇についての神話。愛するニンフ(妖精)が死んだとき、花と豊饒の女神・クロリス(フローラ)は、オリュンポスの神々に願って、そのニンフを花の女王、バラにしてもらった。そのとき、クロリス自身がバラの花びらに色を与えたが、青色は冷たく、死を暗示するということで青いバラだけは作らなかったという。

Dバラの花言葉は愛情・美・恋

 

(小話530)「イソップ寓話集8/20」の話・・・

     (一)「喉の渇いたハト」

喉の渇いたハトが、水差しを見つけた。実はそれは、看板の絵であったのだが。ハトはそれに気付かずに、ばたばたと飛んで行くと、もの凄い音を立てて、激突した。その衝撃で、両の羽とも、砕け、ハトは地面へと落っこちて、見ていた人に捕まった。

(熱中し過ぎて分別を無くしてはならない)

     (二)「ヒツジ飼とオオカミ」

ある日のこと、ヒツジ飼いはオオカミの子を見つけて、連れ帰った。その後、しばらくたってから、ヒツジ飼いは、オオカミの子に、近くの牧場から子ヒツジを盗んでくることを教えた。 オオカミは、教わったことを完璧にこなすようになると、ヒツジ飼いにこう言った。「あなたは、私に盗むことをお教えになりました。ですから、これからは、自分の群を失わぬように、いつも目を光らせていなければなりませんよ」

(悪に悪を教えるとはなんたることか)

     (三)「父親と二人の娘」

男には二人の娘があった。一人は、庭師と結婚し、もう一人は、煉瓦(れんが)職人と結婚した。ある日のこと、男は、庭師と結婚した娘の所へ行き、暮らし向きはどうかと尋ねた。「すべて順調です。ただ、願い事が一つだけあります。草花にたくさん水をやれるように、大雨になってもらいたいのです」その後すぐ、男は、もう一方の煉瓦職人と結婚をした娘の所へ行き、暮らし向きはどうかと尋ねた。「私は取り立てて何もいりません。ただ、願い事が一つだけあります。それは、太陽が照り、乾燥した暖かい日が続くことです。そうすれば、煉瓦が乾きますから」父親は娘の話を聞くとこう言った。「お前の姉さんは雨の日を願い、お前は晴れの日を願う。わしは、どちらを願えばよいのだ?」

(あちらを立てればこちらが立たず)

(参考)

@大雨になって・・・(小話62)「泣きぱあさん」の話・・・を参照。

 

(小話529)「妖怪・カクエン」の話・・・

      (一)

中国でのこと。蜀(しょく)の西南の山中には一種の妖物(ようぶつ)が棲(す)んでいて、その形は猿に似ている。身のたけは七尺ぐらいで、人の如くに歩み、かつうまく走る。土地の者はそれを国(かこく)といい、又は馬化(ばか)といい、あるいはカクエン(けものへん+矍)とも呼んでいる。彼らは山林の茂みに潜(ひそ)んでいて、往来の婦女を奪うのである。美女は殊に目指される。それを防ぐために、ここらの人たちが山中を行く時には、長い一条の縄をたずさえて、互いにその縄をつかんで行くのであるが、それでもいつの間にか、その一人または二人を攫(さら)って行かれることがしばしばある。

      (二)

彼らは男と女の臭(にお)いをよく知っていて、決して男を取らない。女を取れば連れ帰って自分の妻とするのであるが、子を生まない者は、いつまでも帰ることを許されないので、十年の後には形も心も自然にかれらと同化して、ふたたび里へ帰ろうとはしない。もし子を生んだ者は、母に子を抱かせて帰すのである。しかも、その子を育てないと、その母もかならず死ぬので、みな恐れて養育することにしているが、成長の後は別に普通の人と変らない。それらの人間はみな「楊(よう)」という姓を名乗っている。今日、蜀の西南地方で楊姓を呼ばれている者は、大抵その妖物の子孫であると伝えられている。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記」より。

 

(小話528)「酒神・ディオニュソスとその信者(バッカスの巫女)を迫害する二人の王(リュクルゴスとペンテウス)」の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。トラキアの国でのこと。時のトラキアの王であるリュクルゴス(光を遮る男)は、ディオニュソスを迫害する王の一人であった。ぶどう酒に酔って踊り狂う集団を引き連れたディオニュソスはトラキアの民衆たちに熱狂して迎えられ、ディオニュソスを信仰する者たちが日ごとに増えていった。特に、リュクルゴス王にとっては、酒を飲んで亭主や子供をほったらかし狂喜乱舞するディオニュソスの女信者たち(バッカスの巫女)の態度には我慢ならなかった。そこで、リュクルゴス王は、自ら狩(かり)用の斧を携えて女信徒たちの元へ出かけていった。そして、彼女たちの持つディオニソス信者の証しである棒の先端に松毬(まつかさ)がつき、蔦(つた)と葡萄(ぶどう)の葉で覆われた杖を叩き折り、彼女たち自身も殺してしまった。また、キュベレの儀式の邪魔もした。これをみて、ディオニュソスはリュクルゴスの不敬な態度に激しく怒った。ディオニュソスはリュクルゴス王に狂気を送って、狂わせた。するとすぐにリュクルゴス王の身体にぶどうの蔓が絡まっていった。これが狂気が生み出した幻とは知らずに、リュクルゴス王は、絡(から)みつく蔓を切ろうと斧を振るった。そのとき、近づいて来た息子のドリュアスを蔓だと思って切り殺してしまった。狂気はそれだけにとどまらず、自分の足ですら、這い上がってくる蔓だと勘違いし、膝から下を自ら切り落としまった。こうしてリュクルゴスは、ようやく正気に戻った。だが、彼の災難はこれだけでは終わらなかった。やがて、リュクルゴス王の領土が大凶作に襲われた。領民が神託を伺うと「王が死ねば実りがもたらされるだろう」と告げられた。群れをなした領民たちはリュクルゴス王をパンガイオン山に連れて行き、八つ裂きにしてしまった。

(参考)

@ディオニュソスを迫害・・・ディオニュソスは酒と陶酔の神で、ディオニュソスは汚い姿でふらりと街へやってくる。すると街の女性たちは未婚も既婚も全てソワソワしだして彼について行き、山に入って狂乱せる女たち(バッカスの巫女)となって共に乱痴気騒ぎを起こした。

A女信者たち(バッカスの巫女)の態度・・・リュクルゴス王は、神殿にいたバッカスの巫女を追放し、当時、子供だったディオニュソスをも追放した。ディオニソスはまだ幼く、自らリュクルゴスを罰する神の能力は持っていなかったため、海中へ逃げテティス(海の女神ネレイスたちの一人)に救われた。その罰として、大神・ゼウスは、リュクルゴス王を盲目にして、悲惨な最期を遂げさせたという説がある。

Bキュベレの秘儀・・・キュベレの秘儀は雄牛の供犠で、生贄にされた雄牛の血を浴びたという。

C群れをなした領民たち・・・領民たちはリュクルゴス王をパンガイオン山に連れて行き縛った。そこでリュクルゴス王はディオニュソス神によって馬で殺されたという説がある。

     (二)

各地を巡(めぐ)ってのち、ディオニッソスはいつも酒に酔っている狂気の集団を引き連れて、故郷テーバイに戻ってきた。民衆の間ではディオニソスへの崇拝が広まっていた。いかがわしく狂気な信仰に、秩序を重んじる、時のテーバイの王ペンテウス(ディオニッソスの従兄弟)には我慢のならないものであった。ペンテウス王は断固としてディオニッソスに対決する構えを見せた。ところが彼の母アガウエ(カドモスの娘)も、アガウエの妹たちもディオニソスの信者(バッカスの巫女)になってしまった。さらに国中の多くの女性たちも信者となった。ディオニュソスを崇拝し、国王の権威は地に落ちた。とうとう堪忍袋の尾が切れたペンテウス王はディオニュソスの信者たちを捕まえて牢屋に入れた。さらに、人間の姿をとったディオニュソス自身も捕まえて牢屋に入れてしまった。だが、ディオニュソスは神なので、牢の鍵はあっさりと開き、信者たちと共にキタイロンの山へ逃げ出して行った。ディオニュソスや信者たちを取り逃がしたペンテウス王は、さらに信者たちへの迫害を強めていった。そんな中、ついに意を決したペンテウス王は、ディオニッソスの女信者に変装して、一人でキタイロンの山で行われているディオニッソスの祭りに乗り込んだ。ところが狂気に満ちた信者たちに見つかってしまった。酔って狂ったアガウエは「怪物がいる。退治して」と、これまた酔った群衆をけしかけた。ペンテウス王は母や叔母たちに体を八つ裂きにされて殺されてしまった。息子を野獣だと思い込んでいたアガウエは、転がった首を杖で貫き戦利品を誇るようにテーバイの町へ凱旋帰国した。町の人たちは驚き、老カドモスが急いで館から飛び出て娘達を冷静に戻した。そこでようやくアガウエは、手にした首が息子ペンテウスだったことを悟った。

(参考)

@各地を巡って・・・アテナイを初めとするギリシア都市ではディオニュソスの信者が増え、その祭りのため悲劇の競作が行われたので、ディオニュソスは演劇の神にもなった。

Aテーバイの王ペンテウス・・・テーバイ王カドモスとその妻ハルモニアの娘がアガウエ(ペンテウスの母)とセメレ(ディオニュソスの母)である。その他の姉妹としてはイノ(一時、赤ん坊のディオニュソスを養育)やアウトノエ(鹿になった狩人アクタイオンの母)がいる。

B一人でキタイロンの山・・・ディオニュソス本人がペンテウス王の前に現われて、ペンテウスをキタイロンの山にいる信者たちの元に連れて行った。信者たちはいつものように、興奮して神がかり状態で、ディオニュソスが信者たちに「わが娘たちよ。ここに私を侮辱する敵がいる。こらしめてやりなさい」と号令すると殺気だった信者たちペンテウスに殺到し、ペンテウスは母や叔母たちに八つ裂きにされてしまったという説もある。

「バッコス(バッカス)の凱旋」(シャルル・ド)の絵はこちらへ

 

(小話527)「ある教授夫人の死」の話・・・

      (一)

ある年老いた大学教授の話。「私の家内は長いこと病の床につき、亡くなる前には、家内もガンであることを感じていたようです。ですから病状が悪化してきた頃、「あなた、私ももう長いことないようですから、子供や孫やお世話になった方々にお会いし、そのかたたちにお礼を申し上げ、お別れもして、死んでゆきたい」といいましたので、皆さんに連絡をしたのです。しかし、連絡はしましたが、それぞれに忙しい人達が多いものですから、なかなか集まって貰えない。そんなある日、妻は病床から「あなた、この間、みなさんを呼んで下さいとお願いしましたが、あれは取り消します」という「そんなに気を使わなくてもいいよ。みなさんも、そのうちだんだんに集まって来てくれるからね」

      (二)

「あなた、有り難う。でも、私が取り消した意味は違うのですよ。私もはじめは、みなさんの手を握って、にぎやかにこの世を去ってゆきたいと思っていました。でも、あれから、よくよく考えてみますと、結局、人間は一人で死んでいくんだなあ」ということがしみじみとわかりました。その一人で死んでゆくことに安らぎを覚えることが、一番大切なことなのだとわかりましたから、あなた、心配しないで、どうぞ、一人で死なせて下さい」と喘ぎながら言ったのです。又、妻は「路頭の死」を味わいたいとも言っていました。一人で裸で生まれてきたものが、「一人で死んでゆける」という母なる大地に還るような、心なつかしい世界を私に教えていってくれました」と。

 

(小話526)「イソップ寓話集7/20」の話・・・

     (一)「ウサギとカメ」

ある日のこと、ウサギがカメを、足が短くてのろまだと嘲(あざ)笑った。するとカメは笑(え)みを浮かべてこう答えた。「確かに、あなたは、風のように速いかもしれない。でも、あなたをうち負かしてみせます」ウサギはそんなことは、無理に決まっていると思い、カメの挑戦を受けることにした。キツネがコースとゴールの位置を決めることになり、両者はそれに同意した。競争の日が来た。二人は同時にスタートした。カメは、遅かったが、一瞬たりとも止まらずに一歩一歩着実にゴールへと向かった。ウサギは、道端でごろりと横になると、眠りこんだ。「しまった!」と思って、目を覚ましたウサギは、あらん限りのスピードで走ったが、カメはすでに、ゴールインして、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

(ゆっくりでも、着実な者が勝つ)

(参考)

@ウサギとカメ・・・(小話222)ある「カメとキツネの駆けっこ」の話・・・を参照。

     (二)「農夫とコウノトリ」

ある農夫が、種蒔きを終えたばかりの畑に網を仕掛け、種を食べに来たツルの群を一網打尽にした。するとツルの群と一緒に、コウノトリが一匹捕らえられていた。網に足が絡まり傷ついたコウノトリは、農夫に泣きついた。「私は骨を折っているのです、どうか私を哀れんで今回は見逃して下さい。それに、私は下世話なツルではなく、コウノトリなのです。私が、父や母をどんなに慈(いつく)しみお世話するか、あなたもご存じでしょう? 私の羽を見て下さい。ツルの羽とは違うでしょう」すると農夫は、大きな声で笑った。「言いたいことは全部言ったか? では、俺の番だ。お前は、あの盗人どもと一緒に捕まった。よってお前は奴らと一緒に死なねばならぬ」

(同じ穴の狢(むじな))

     (三)「ツバメとカラス」

ツバメとカラスが、羽のことで言い争っていた。そして、カラスがこんな事を言って、その議論に決着をつけた。「君の羽は、春の装いにはぴったりかもしれない。でも、僕の羽は、冬の寒さからをも、身を守ってくれるんだよ」

(困難な時の友こそ本当の友) 

 

(小話525)「二人の赤子(あかご)」の話・・・

    (一)

民話より。昔々あるところに、勇敢で若い王さまが住んでた。彼はたくさんの都市を治める王国の王さまであったが、ある時、遠い地方での戦争に旅立たなければならなくなった。悲しみに沈む王妃とまだ揺り籠(かご)にいる幼い赤子を残したまま、軍を引きつれて旅に出た。それから少したったある日、王の部下の一人が戦いに破れたことと、王さまが死んだと言う知らせを持って現われた。王妃は悲嘆と涙に暮れた。夫を亡くした悲しみばかりではなく、愛(いと)しい我が子が、多くの敵のまっただ中に残されたからであった。これらの敵のうち、最悪なのは王とは血の繋(つな)がりのなかった叔父であった。嫉(ねた)み深く極悪人で財宝と権力を欲しがる彼は、山の上にある城に住んでいて、狼が餌食を狙うがごとくいつも機会をうかがっていた。そして、その機会が来たのであった。国王の亡き後、国王の後継ぎである黄金の揺り籠(かご)に眠る小さな乳飲み子の王子が餌食であった。

    (二)

黄金のゆりかごの隣にはまた別のゆりかごがあり、も一人の赤子が眠っていた。この子は美しく強い乳母の子供であった。乳母は王子と、自分の子の両方に乳を与えていた。どちらも夏の同じ夜に生まれた子供たちで、王妃は眠る前には必ず金髪の小さな王子にキスをしに行き、また隣に眠る黒い毛の乳母の子供にもキスをしたのであった。どちらの子の瞳も美しい宝石のように輝いていた。ただゆりかごだけが違っていた。片方は象牙で出来て美しいレースのカーテンに包まれている素晴らしい黄金のゆりかご、もう片方はみすぼらしい木製のかごであった。忠実な召使いはどちらの子も隔てなく可愛がった。一人はかけがえのない我が子、そしてもう一人は王の子であったからである。乳母はその王の家で生まれ、自分のご主人様たちを心より好きであった。王の死を彼女は王妃に劣らぬほど悼んでいた。

    (三)

乳母は小さな王子のことを考えるととても不安になった。何度となく胸に抱いた小さく弱い王子、まだあんなに小さいのに。王座を狙う残忍な叔父。彼女が愛してやまない王子のことを考えると胸がはりさけそうであった。やがて、もはや女たちしかいないその宮殿に大きな恐怖が襲いかかった。あの恐ろしい叔父が道々で村を破壊しながら、やって来た。絶望した王妃はただ自分の子のもとに走り、自分の無力さを嘆くのみであった。忠実な乳母だけが、なんとかしてこの幼い王子を守り抜こうとしていた。静かで暗いある夜、乳母が2人の赤子の間に横たわろうとした時、不吉な予感がしたその瞬間に騒がしい音がした。あの叔父が王子を殺そうとさらいに来たのであった。乳母はすぐさまためらいなく、王子を象牙のゆりかごから抱き上げ隣りのゆりかごへ入れ、また可愛い我が子に狂おしくキスをしながら、王子のいたゆりかごに横たえた。突然、大男が寝室のドアのところに現れ、黄金のゆりかごを見つけるや、泣きわめく赤子をつかんでその口をふさぎ、走り去った。王子は新しいゆりかごの中で眠っていた。

    (四)

髪を振り乱した王妃が、悲鳴をあげながら王子の寝室に入って来た。そして、服のみが残る黄金のゆりかごを見るや、王妃は床に泣き崩れ落ちた。そこで乳母は、静かにゆっくりと、みすぼらしいかごの覆いを取り去った。そこには王子が静かに微笑みながら眠っていた。王妃は大きな喜びと共に揺りかごを抱きしめた。その瞬間、宮廷が大きな叫び声に震えた。あの残忍な叔父が死んだと言うのであった。しかし連れ去られた子供も殺されてしまっていた。王子は死んだ。誰もがそう思った。しかし、微笑みながら我が子を手に抱いた王妃が現われると、人々は驚嘆し歓声をあげた。王妃は、王子の命を守るために、我が子を犠牲にした乳母を抱きしめてキスをし、心からのお礼を述べた。群衆の中で誰かが、王国の王子を救ってくれた彼女に報いてあげるべきだと叫んだ。そして長老たちが、その宮廷にある豪華な金銀財宝の全てをそこに運んで、選んだらどうかと言った。

    (五)

やがて金銀財宝の宝箱が運ばれ、それを開くとその余りの素晴らしい財宝の数々に、皆息を飲んだ。部屋の中に立つ乳母はその箱の中を触ることもなく、ただその瞳を、彼女の乳を求めて泣いたあの我が子がいる空に向けたのであった。乳母はふと微笑み、手をのばした。皆は、一体どんな宝を選ぶのだろうと、息もせずその開いた手を見つめていた。ダイヤモンドのネックレスか、それとも?腕をのばした先には一本の短剣があった。それは、エメラルドが散りばめられたとても価値のあるもので、彼女が忠誠を誓ってやまない、あの勇敢な若い王さまの遺品でもあった。それを手に持ち空に向かってかかげ、王妃とそこにいた人々に目をやり、こう叫んだ。「私は王子さまをお救いしました。そして今、私の乳を求める息子のところに行きます」そう叫ぶや、乳母はその短剣を深く胸に突き刺し、息絶えた。

 

(小話524)「鼎(かなえ)の軽重を問う」の話・・・

      (一)

中国は春秋時代のこと。新興勢力の楚(そ)は周王朝の武王(ぶおう)

時代から王号を自称するようになった。それ以後、楚が周王朝を軽んじる態度は子々孫々に受け継がれていった。そして、楚(そ)の荘王(そうおう)の時代、荘王は三年間「鳴かず飛ばず」であったが、ついにその翼を広げて大空に飛び立った。莊王はただちに官吏の粛清を行い、諸政を刷新し、軍を強化して諸侯に反撃し、近隣諸国を次々に併呑(へいどん)し、南方を平定して中原の覇権を窺(うかが)うまでにのし上がっていった。そして巨大な周王国をも脅かすようになった。やがて楚の荘王は、西方の戎(じゅう)という異民族を討伐するために洛水(らくすい)まで進軍した。この戎の討伐はみせかけで、実は楚の強力な軍事力を諸侯、ひいては周王朝に見せつけるために周の国境付近で大規模な軍事演習を行ったのであった。驚いた周王朝の定王(ていおう)は大夫の王孫満(おうそんまん)を使者として荘王を慰労させた。そのとき荘王は王孫満に向かって「古(いにしえ)に鋳造された九鼎(きゅうてい)洛陽(らくよう)にあると聞くが、その形状や大小、軽重はいかなるものなのか」

(参考)

@周・・・中国古代の王朝。姫(き)姓の国。殷に従属していたが、武王が殷を滅ぼして建国。鎬京(こうけい)に都をおき、封建制をしく。前771年以後は、諸侯が分立する春秋戦国時代になる。

A「鳴かず飛ばず」・・・(小話330)「三年鳴かず飛ばず」の話・・・を参照。

      (二)

九鼎とは夏・殷・周の三代にわたって伝えられた宝器である。夏の禹王(うおう)が青銅で鋳造し、王位伝承の象徴として今は周に祭られていた。鼎は足が三本あり、後の三国時代のように天下を三分することを「鼎立(ていりつ)」というのはこれが語源といわれている。九鼎というように鼎は九つあり、当時、中国全土の九つの州をあらわしたもので、これを手にすることが天下の支配者であることを証明したのであった。周王の使者に挨拶もせずに、荘王はこの九鼎の軽重を問うた。「何故にそのようなことを聞かれます?」と王孫満は戸惑ったが、荘王は「それ楚に持ち帰るために、聞いておるのじゃ」と尊大な態度を崩さない。鼎の軽重を問うということは自国に持ち帰り、今後、楚が天下に号令を下すぞという意味であり、周王朝はすでに国運が尽きており、王の威権など備わっていないと見下したのであった。それを敏感に感じ取った王孫満は、すかさず言い返した。

      (三)

「それはなりません。鼎の大小、軽重はそれを持つ人の徳によって決まるもので、鼎自身の問題ではありません。昔、夏(か)の禹 (う) 王が徳を備えていた時代、中国の九つの州から献上された銅で鼎を鋳(い)て九つのあらゆるものをかたどり、それをつかって人民に神と怪の区別を教えました。そのことによって夏の王はさらに天の恩恵を受けることができたのです。しかし夏の桀王(けつおう)は徳に欠けたため、夏王朝が滅ぶと、殷 (いん)に王位継承の象徴として引き継がれたのです。そして六百年たって殷(いん)王朝最後の紂王(ちゅうおう)が暴虐であったために鼎は周にうつりました。徳が大いに明らかなときには小さい鼎も重く、よこしまででたらめなときには、大きくても軽いのです。もっとも天が明らかな徳に幸いするといっても限度があり、周の第二代の王、武王の子の成王(せいおう)が鼎を安置するときに王が何代続くか占ったところ、三十代と出、何年続くかを占うと七百年と出ました。これが天命なのです。今は周の徳が衰えたとはいえ、天命はまだ改まってはおりません。だから、まだ鼎の軽重を他人が問うべきではないのです」この気迫に満ちた王孫満の返事に荘王は押され、鼎を持ち帰るのをあきらめた。そして荘王は、周の国境から兵を退き、自国に帰っていった。

(参考)

@鼎を持ち帰るのをあきらめた・・・この話では王孫満が荘王をやりこめたようになっているが、実際はそうではない。実際には楚が大軍で周に押し寄せ、鼎を奪ったすれば周王朝をいまだ奉じている中原諸国を一斉に敵にまわすことになる。中原の大国、斉や晋を同時に敵に回して勝つことは不可能で、計算高い荘王は自国の軍事力が未だ中原を威圧するに至ってないことから、時期にあらずと察して退却したのであった。

A現在日本では権威、権力のある者をあなどって、その実力のほどを問う、という意味である。

B鼎はその後、周が滅亡すると秦 (しん) の手に渡ったが、運ぶ途中で 泗水 (しすい)の川に沈んだとも伝えられている。

B出典:春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)

 

(小話523)「血塗(ちまみ)れの伯爵夫人エリザベート・バートリ。美しさを追い求めた狂気の生涯」の話・・・

         (一)

後(のち)の世に「悪魔の花嫁」「美しき女吸血鬼」「流血の伯爵夫人」とも言われたエリザベート・バートリは、1560年にハンガリーはトランシルバニア地方の名家、バートリー家(この家系は財産及び権力を保つ為に血族結婚を繰り返していた)の娘として誕生した。バートリー家は、オーストリアの名門ハプスブルグ家との繋(つな)がりもある古い貴族の家柄だった。そして、エリザベートの父ゲオルグ・バートリーと母アンナはいとこ同士の結婚であった。エリザベートの幼少期・少女時代は何不自由なく暮らし、次第に美貌を謳(うた)われるようになった。バートリー家が名門であるがゆえに、十一歳の時からその身を結婚相手に委ねられた。相手は、ハンガリーの名門貴族フェレンツ・ナダスディ伯爵であった。彼女の不幸の始まりは、この婚約者ではなく、婚約者の母ウルスラ・ナダスディと出会った事であった。口やかましいこの養母を見るや、エリザベートは一目で嫌いになった。その大嫌いな養母のもとで、何年も花嫁修行をさせられたのであった。1575年、ナダスディ伯爵は二十六歳、エリザベートは十五歳で結婚し、二人はハンガリー北西部にあるチェイテ城に移り住んだ。後の悲劇は、全てこのチェイテ城を中心に起きたのだった。エリザベートの夫ナダスディ伯爵は「ハンガリーの黒い英雄」として知られるようになったほどの国民的英雄で、隣国トルコとの戦争で戦場に出陣することも多かった。

(参考)

@エリザベート・バートリ・・・エリザベートが結婚後もバートリー姓を名乗っていたのは、夫の家よりバートリー家の格が上だったため。

         (二)

時は戦国時代であったため、ナダスディ伯爵は自分の領地や家族を守るために常に城を不在にしていた。暇をもてあましたエリザベートは、下男のツルコから、様々な魔術を学んだ。彼女は、そのことをナダスディへの手紙に書き記している。内容は「これを相手に塗れば戦わずして相手を殺せる」とかいうような内容であった。これは彼女が、ただ魔術に没頭していたのではなく、早く夫に帰ってきて欲しい、戦場から帰ってきて欲しい、そんな寂しさを綴った手紙でもあった。しかし、軍人として才能に恵まれていたナダスディ伯爵には、文人としての才能は欠如していた。彼は、妻に返事を書くことも無く、戦場を転々としていた。やがて、エリザベートは不貞を働くようになった。しかし、それを知った夫ナダスディは、エリザベートの浮気を寛容にも許した。というよりも、許すしかなかった。彼の家系はエリザベートの家系との繋(つな)がりを持つ事が重要であり、それを手放す事はできなかった。だが、この浮気の噂を姑(しゅうとめ)のウルスラは許そうとせずに、エリザベートを厳重な監視下に置いた。うるさい姑にほとほと嫌気がさしていたエリザベートは、気分を晴らすために、ウルスラの使用人を地下室に閉じ込めて、拷問して殺害してしまった。この時、エリザベートに従って拷問に協力したのはエリザベートの乳母イロナ、執事ヨハンネス・ウィヴァリー、下男のツルコ、女魔術師ドロテア・ツェンテス、森の巫女ダルヴァリといった面々だった。彼女らは、後にエリザベートが「血の伯爵夫人」となるまで、従い続ける事になった。姑との確執がしばらく続いたものの、やがてエリザベートとナダスディとの間に三人の息子と一人の娘が生まれると、それも収まったかのように見えた。エリザベートは良い妻となり、姑のウルスラはそれを暖かく見守った。

(参考)

@暇をもてあましたエリザベート・・・エリザベートは、夫と共に何度か神聖ローマ帝国のウィーンの宮廷を訪れたことがあった。そして時の皇帝マクシミリアン2世は、エリザベートの美しさを褒め称えたという。

A不貞を働く・・・不貞の内容は様々で、どれが真実かは不明。結婚前には妊娠していたとか、駆け落ちを何度もして城に連れ戻されたとか、同性愛に耽っていたとか、身分を偽り城下町で娼婦として働いていたとかいう説もある。だが、エリザベートは、不貞などしていなく、ただ、夫の気を引くために女中に噂させたのが事実らしい。

B拷問して・・・エリザベートが20代だったこの頃、女中が服の着せ方を間違えたために顔に加熱した鉄棒を押し付けたり、体の上に紙を置き火をつけるなどの行為があったとされる。また、10代の少女を男性達の前で裸にして踊らせたこともあるというが、こうした行為も当時の慣習・世情を考えると必ずしも異常ではなかった。

         (三)

1604年、エリザベートが四十四歳の時、夫ナダスディ伯爵はオスマン=トルコ軍と戦って戦死、次いで口うるさい姑ウルスラが死んだ。こうして、エリザベートを抑える者が一人もいなくなり、エリザベートは魔女へと変貌していった。当時の彼女にとって、最も重要なのは美貌であった。エリザベートの日常は次のようなものであった。宝石を並べて鏡の前で衣装を着替えたり、侍女に髪の毛を梳(くしけず)らせたり、肌の手入れを丹念におこなった。時には魔女の大鍋のようなもので草をぐつぐつと煮立てて、肌を綺麗にする薬を作ったりしていた。そんな、美貌に執着する彼女が、ついには流血の饗宴を開くようになった。ある時、侍女の少女がエリザベートの髪をすいていた時、櫛(くし)に絡まった毛を強く引っぱられた。激怒したエリザベートは侍女の顔を返り血を浴びるまで殴り続けたが、返り血を浴びたエリザベートは、血をぬぐおうと肌に触れてみると、そこが若返ったかのようにしっとりとしていた。エリザベートはすぐさま侍女を殺し、全身に血を浴びた。こうして血液による若返りを彼女は発見した。エリザベートは、ほどなくして美貌を保つために血を求める魔女となった。四人の子供を産み、女性としての盛りを過ぎたエリザベートにとって「老い」が最も忌(い)むべきものになっていたのであった。

(参考)

@姑ウルスラが死んだ・・・ウルスラは、エリザベートが毒殺したとも言われるが、真相は謎である。

         (四)

やがてエリザベートは、執事ヨハンネス・ウィヴァリーらに命じて次々と侍女を殺していった。エリザベートは、彼女達の血を効率良く集めるために「鋼鉄の処女(アイアン・メイデン)」という器具を使った。「鋼鉄の処女」から絞り取った血を浴槽にため、エリザベートはそれに浸った。そのほか、「鉄の鳥籠」から流れ落ちる血を下でシャワーを浴びるかのように受けた。また、時には真冬に侍女の服を脱がせて全裸にして外に放り出す。そこに冷水をかけて、生きたまま氷の彫像になっていくのを楽しんだりした。他には、おしゃべりな侍女、歌の上手い侍女、そういった侍女の口を針で縫いつけてしまったりもした。さらに、侍女の両手を侍女の口に入れると、思い切り左右に引っ張って、口を裂いたりもした。貴族のエリザベートにとって、侍女の一人や二人など、まるで価値がなかった。こうした「血の饗宴」が行われ、娘がいなくなれば、隣近から集めた。当時の農民達は生活に苦労しており、毎日の生活費を稼ぐのがやっとだった。そんな彼らの前に、貴族の屋敷への奉公という仕事が舞い込むと、娘達は何も知らないで、地獄へと歩いていったのだった。やがて「誰も帰ってこない城」そんな噂は近隣にも広がり、城への奉公に上がろうとする者がいなくなった。するとエリザベートは、下男達に命じて娘達を誘拐させていった。チェイテ城のまわりからは若い娘達の姿が消えた。エリザベートの凶行は自分の領地にとどまらなかった。

(参考)

@「鋼鉄の処女」・・・この器具は鋼鉄製で人の形を模(も)していた。機械仕掛けで顔が笑うというこだわりまであった。人形の胸には宝石の首飾りがはめ込まれており、これがスイッチになっていた。宝石を押すと、人形の両腕が上がり、やがて押さえ込むような格好になる。人形には仕掛けがあり、胸が二つに分かれ、左右に開くようになっていて、人形の内部は空洞で、開いた胸の内側には鋭利な刃がついていた。抱きしめられた犠牲者は、否応無しにその刃に貫かれ、血を絞り取られて絶命した(「鋼鉄の処女」はドイツの時計技師クロック・スミスの作といわれる)

A「鉄の鳥籠」・・・人が入るくらいの鳥籠の内側に、無数の鋭利な刃がついていた。籠の中に娘を入れ、天井から吊り下げて、左右から思い切きり揺さぶる。当然、中にいる娘は刃に貫かれて傷つき血を流す。

B「血の饗宴」・・・年月が経つごとに、夜毎行われる拷問のため死体の処理が追いつかず、その腐敗臭が城下に漂い、また夜になると城の地下から悲鳴が上がったりすることから城下の住民の噂となり、地元の住民が召使として雇えなくなった。そのため今度は付近の貴族の娘を集めて拷問を行った。しかし、結局貴族の娘もすぐに足りなくなってしまったので、従者は近くの農家の娘を拉致同然で連れて帰って「貴族の娘」と偽り城に監禁していた。そうして貴族として集められた娘の内60人は「宴会」に招かれたテーブルで全員が首を落とされたという。

C「誰も帰ってこない城」・・・城に奉公にあがった娘の家族達が娘の事を聞きにくることもあった。しかし、親達は娘が不慮の事故で死んだとか、使えなかったから追い出したとか、不祥事を起こして逃げたとか言われて追い返された。

         (五)

1610年12月30日。エリザベートに裁きが下る時が来た。その悪行が当局の耳に入ったため、エリザベートの従兄弟(いとこ)である軍警察総監ツルゾ伯爵に、エリザベート・バートリーの逮捕が命じられた。この知らせを聞いたハンガリー王マーチェスは、大喜びでエリザベートを逮捕するべく手配を整えた。カトリック教徒であるマーチェス王にとって、バルカン一帯に勢力を持つプロテスタントのバートリー家は、目の上のたんこぶだったのである。部下を引き連れたツルゾ伯爵がチェイテ城で見たものは、目を覆わんばかりの惨劇だった。大広間には血を絞り取られた娘の死体や、全身穴だらけになり息も絶えだえの娘達がいた。地下牢には、生贄(いけにえ)となるべく捕らえられていた娘達が怯(おび)えながら身を寄せ合っていた。また、城の土中から大量の死体が見つかった。その数は400人とも、600人とも言われた。こうして、数々の証拠が集まり、エリザベートは逮捕された。彼女の身柄はチェイテ城に軟禁された。そして翌年の1611年1月から2月にかけて貴族院裁判所による裁判がおこなわれた。この間、エリザベートは法廷にいっさい出廷しなかった。結果は有罪。彼女に従った者も、有罪の判決を受け、裁判で斬首または火刑になった。しかし、首謀者であるエリザベートは公式には何の罰も受けなかった。王室と血縁関係(ポーランド国王の従姉妹)にあるエリザベートを簡単には処刑できなかったのだ。そこで、そのままエリザベートはチェイテ城に監禁、幽閉されることになった。チェイテ城に大工が呼ばれ、彼女を寝室に閉じ込めると入り口や窓を塗りつぶした。残ったのはわずかな食事の差し入れ口だけであった。こうして血塗れの伯爵夫人は、自分の寝室に閉じ込められたのだった。そして、3年と半年がすぎた1614年、エリザベート・バートリーは五十四歳で死亡した。死んだ時は、かつての美貌は見る影もなかった。彼女の死後、チェイテ城は呪われた城として忌み嫌われ、打ち捨てられた。

(参考)

@逮捕が命じられた・・・逮捕の理由は不明だ。一説には生贄の一人が逃げ出して当局に訴えたとも、下級貴族達の娘に手を出したから徒党を組まれて反逆にあったとも、血を抜かれて殺された女性を埋葬する際にたびたび居合わせた神父が、あまりにも異様であることに疑念を持ち、教会の教区監督にそれを通告したとの説もある。

A大量の死体・・・エリザベート本人の日記によれば犠牲者は612人である。

Bエリザベートは、吸血鬼の元祖で、吸血鬼ドラキュラのモデルは、残忍でありながらも毅然とした紳士であり古城の主であったヴラド・ツェペシュと、自らの若返りの為に処女の生き血を求め続けたエリザベートという2人の人物の複合によって出来上がった怪物と言われている。

C54歳で死亡した・・・トランシルバニア地方では、エリザベートの死後、時々少女が姿を消し、見つかった時には全身の血液を抜き取られているかのような、干(ひ)からびた死体で見つかる、という事件があった。これらは、近隣の国も発生しており、エリザベートが本物の吸血鬼になったのでは?という噂も流れたほどであるという。

D呪われた城・・・エリザベート・バートリーの話は、国王が名前を口にすることすら禁じたことで長らく封印された。しかし口づてに「悪魔の花嫁」として伝説化し誇張され、その一部が事実として認められたのはチェイテ城が発見された1962年のことだった。

「エリザベート・バートリー伯爵夫人」の絵はこちらへ

「チェイテ城」の写真はこちらへ

 

(小話522)「老(お)いた犀(さい)の最期」の話・・・

     (一)

ある人から、次のような話を聞いた。アフリカのサバンナ地帯は一年のうち二、三ヶ月のみ雨が降り、後は降水量なしの乾期になる。そこに生きる動物や植物は、この過酷な条件下、どのようにして生き残るのであろうか。犀は、象、河馬(かば)に次ぐ、大型の陸棲哺乳類で、分厚く皮膚にはほとんど体毛が生えていない。頭部に1本または2本の硬い角を持つ。この角には骨質の要素はなく、表面から中心部までの全体が、体毛や蹄と同じく、死んだ角質である。大きな犀は攻撃力も防衛能力も傑出している。だが、このサバンナ地帯の乾期には犀さえも生存の危機に曝(さら)される。ましてや寿命には勝てない。すべての動物は例外なく寿命がある。老いた犀は、死期を悟ると、本能的に雨期を経て次の乾期を越すことができないと知る。すると、こうした犀は特異な行動を始めるという。雨を待ち望む大平原で、独り群れから離れた老いた犀は地面に寝転がり、しきりに身体を動かして窪(くぼ)みを造っていく。

     (二)

そしてある程度の大きさの窪みができると、また重々しく移動し、他所で別の窪みを造る。それを何度も、それこそ力を振り絞って幾つもの窪みを造る。この不思議な行動は、雨期になると判明する。スコールという強く断続的な雨が毎日のように降り出すと、その恵みは乾燥した大地に生命の誕生と躍動をもたらす。赤茶けた大地は潤いを増すにつれ、緑が自然に発生し、色濃くなるとともに赤や黄や白の色とりどりの花が咲き乱れ、どこからともなく蝶や無数の虫たちが大乱舞を始めるのだ。そしてその地上の楽園はニヶ月ほど続く。だが、それから大地は急速に干(ほし)上がり、あの長く不毛の乾燥期になる。しかし、その始まりのころ、よく見ればあちらこちらの窪みに水が溜(た)まっている。つまり小さな池が出現したのだ。そこから今暫く動物たちに水や緑が供給される。そしてこの生命たちへの僅かな恵みに依(よ)って、他の生命あるものたちの存亡にまた大きな影響を与えているのだ。この老いた犀が造った池も、終(つい)に涸(か)れ果ててしまうのだが、この水をいとおしむように集まり、束の間の残りオアシスを楽しむ仲間の犀や他の動物、水鳥などをこの老いた犀は満足そうに見つめている。そして自分はもう一滴の水も、一本の水草も食べようとしない。あと僅かの余命の中で、少しでも飲み食べることで命を延ばすのではなく、温かい眼差しで他の生きものを見やり、静かに自分の生命の消え入るのを待つという。

 

(小話521)「イソップ寓話集6/20」の話・・・

     (一)「オオカミとサギ」

喉に骨が刺さったオオカミが、多大な報酬を約束してサギを雇った。というのも、口の中へ頭を突っ込んでもらって、彼女に骨を抜いて貰おうと考えたからだった。サギが、骨を抜き出し、約束の金を要求するとオオカミは、牙を光らせて叫んだ。「何を言ってやがる。お前は、もう俺様から、十分すぎる報酬を受け取ったはずだぞ。俺様の口から無事に出られたのだからな」

(悪者へ施す時には、報酬など期待してはならぬ。もしなんの危害も受けずにすんだなら、それでよしとすべきである)

(参考)

@(小話114)ある「ライオンとツル」の話・・・

     (二)「ヘラクレスとウシ追い」

あるウシ追いが、ウシに車をひかせて、田舎道を進んで行った。すると、車輪が溝に深くはまり込んでしまった。頭の弱いウシ追いは、牛車の脇に立ち、ただ呆然と見ているだけで、何もしようとはしなかった。そして、突然大声でお祈りを始めた。「ヘラクレス様、どうか、ここに来てお助け下さい」すると、ヘラクレスが現れて、次ぎのように語ったそうだ。「お前の肩で、車輪を支え、ウシたちを追い立てなさい。それからこれが肝心なのだが、自分で何もしないで、助けを求めてはならない。今後そのような祈りは一切無駄であることを肝に銘じなさい」

(自助の努力こそが、最大の助け)

(参考)

@ヘラクレス・・・ギリシャ神話中最大の英雄。神々の王ゼウスとアルクメネ王女の子で半神。十二の難行を成し遂げ、死後に天に上ったヘラクレスはオリュンポスの神の一員となる。

     (三)「旅行者と彼のイヌ」

男が、旅に出かけようとすると、彼のイヌがドアのところで、伸びをしていた。「なぜ、伸びなどしているんだ? 用意万端、直ぐに出かけられるのか?」男は、イヌをピシャリと叱った。すると、イヌは、しっぽを振りながら答えた。「ご主人様、わたしゃ、支度は済んでます。待っていたのはわたしの方です」

(自分のせいで遅くなったくせに、難癖をつけて相手のせいにする者がいる。怠け者は得てしてそういうものだ)

 

(小話520)「雛芥子(ひなげし)の花。エロスがあげた天の星とひなぎくに変身した森の妖精ペルデス」の話・・・

      (一)

ギリシャ神話の愛の神・エロスは、つねに弓矢を持って世界中に恋の矢を放っていた。しかし毎日毎日この仕事をしていると嫌気をさすこともあった。それを察したエロスの母である愛と美の女神・アフロディーテは、彼を地上に降ろした。地上に降りたエロスは、愛し合う相手を探し求めて歩いたが、この人こそという相手には巡り会えなかった。でも、天上に戻ろうとしたときに、彼はプシュケという美しい女性と出会った。エロスとプシュケはすぐにお互いを愛し合うようになった。しかし神であるエロスは、いつかは天上に戻らなくてはならなかった。そこで、彼はプシュケとの別れを決意した。最後にエロスは、プシュケとの愛を育んだ牧場に感謝をあらわすために、天を仰ぎ「星を1つおくってください」と頼んだ。エロスはその星を牧場に置くと、星は「ヒナギク」に変わり、一面に広がっていった。こうしてエロスはプシュケとの愛の証として、デイジーを咲かせた。その花は、開けば魂を、閉じれば純血を表すといい、ヒナギクは、陽が昇るとき花を開かせ、陽が沈むとき花を閉じる。英名であるデイジーは、「お日様の目」という意味を持っていて、時計のない時代、花を時計の代わりとしていた人々がつけた名前だという。

(参考)

@エロス(キューピッド)・・・美の女神アフロディーテに付き従い、息子とみなされている。エロスは金髪碧眼の美少年で、背中に純白の翼を持っていて、見えない金の矢と鉛の矢を持っている。金の矢は恋心を抱かせ、鉛の矢は逆に嫌悪を抱かせる。この矢の力は大神・ゼウスでもあらがうことはできないといわれている。

Aプシュケ・・・(小話377)「愛の神エロスと遍歴する美しきプシュケ」の話・・・を参照。

      (二)

ローマ神話より。ある春の日、美しくて可愛い森の妖精ペルデスは恋人のエフェギュスと楽しく過ごしていた。そこを通りかかった果樹の神(四季の神)ベルタムナスがペルデスを一目見るなり、彼女の美しさの虜になってしまった。ベルタムナスは「おまえを私のものにできるなら、命も惜しくない」とまで言いだし、あの手この手で言い寄った。彼女は、エフェギュスを深く愛していたのでベルタムナスの愛に応えることはでない。しかし、相手は神なので身を守る手だてはなく、ペリデスは天の神に助けを求め「私はエフェギュスを愛しています。どうか私をお守り下さい」と祈った。天の神はペルデスの願いを聞きとどけ、ヒナギクに変えてしまったという。

(参考)

@天の神・・・ギリシャ神話では処女神アルテミスになっている。