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(小話457)「英雄・ペルセウスの冒険(メドゥーサ退治と美女アンドロメダとの結婚)」の話・・・

        (一)

ギリシャ神話より。ペロポネソス半島にあるアルゴス国の王アクリシオスには、ある予言が与えられていた。「お前に男の子は授からない。それどころか、お前は孫に殺されるだろう」アクリシス王には一人娘のダナエがいた。孫が生まれないようにしなくてはならない。そこで、王は、男が接近しないようにダナエを、僅かに空が覗(のぞ)ける小窓があるだけの青銅の高い塔に閉じ込めた。しかし、ダナエは美しかった。そのため神々の王ゼウスの目にとまってしまった。だがダナエは堅固な塔に居て、直接会うことはできなかった。そこでゼウスは、ある夜、雨に変身して小窓から降り注いだ。それは黄金色に輝く雨だった。普段、滅多に美しい物に出会わないダナエはきらめく雨に喜び、身体を思いっきり浸した。雨に化けたゼウスは難なくダナエの膝の間に流れ込んだ。こうして神と人は結ばれた。塔に閉じ込めておいたはずのダナエは妊娠して、男の子が生まれた。ペルセウスである。アクリシオス王は恐れ、苦悩した。予言によれば、アクリシオス王は生まれた男の子、ペルセウスに殺されることになる。我が娘の子(孫)のペルセウスを殺さなければならない。しかし、自分の娘や孫を殺せば、神の罰があるかもしれなくて殺すことはできなかった。王は娘ダナエと孫を、箱舟に閉じ込め、海に流した。箱舟はクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着いた。二人は漁師に拾われた。ダナエ親子は、セリポス島で暮らしはじめた。そして、ペルセウスはこの島でのびのびと育ち、立派な凛々(りり)しい若者に成長した。母ダナエは、ペルセウスが青年になっても、その容色はいっこうに衰えなかった。ある日、セリポス島の王ポリュデクテスはダナエを一目見て、恋に落ちた。結婚を申し込もうとしたが、彼女は暴君である王の求愛を拒否した。又、息子のペルセウスも母をしっかり守っていたので、それ以上、王は手を出せなかった。恋に狂ったポリュデクテス王は、ペルセウスが邪魔になり、ついに彼を殺そうと企(たくら)んだ。

(参考)

「ダナエと真鍮の搭」(バーン=ジョーンズ)絵はこちらへ

「ダナエ」(ティツィアーノ)の絵はこちらへ

「ダナエと黄金の雨」の絵はこちらへ

いろいろなダナエの絵等はこちらへ

(1) 「ダナエ」 (コレッジョ)はこちらへ***(2) 「ダナエ」(レンブラント・ファン・レイン)の絵はこちらへ***(3) 「ダナエ」(シャントロン)の絵はこちらへ***(4) 「ダナエ」(ヤン・ホッサールト)の絵はこちらへ***(5) 「ダナエ」(レンブラント)の絵はこちらへ***(6) 「ダナエ」(ティントレット)の絵はこちらへ***(7) 「ダナエ」(Artemisia Gentileschi)の絵はこちらへ***(8) 「ダナエ」(ブーシェ)の絵はこちらへ***(9) 「ダナエ」(マルカントニオ・バッセッティ)の絵はこちらへ

        (二)

そこでポリュデクテス王は、ある日、島の若者を集めて宴会を催した。みな、すばらしい馬を贈り物として用意していたが、貧しいペルセウスには馬など手が出なかった。このころ、馬は大変に高価なものであった。そんなペルセウスにポリュデクテス王はこう要求した。「ペルセウス、私はメドゥーサの首が欲しい。とってきてはもらえないだろうか」ペルセウスさえ亡きものにすれば、ダナエを手に入れるのは簡単だとポリュデクテス王は考えた。「わかりました。メドゥーサの首を取ってまいりましょう」。髪がすべて蛇の怪物メドゥーサは、一目見たもの、皆、石にしてしまうという。ペルセウスはそんな恐ろしいメドゥーサを退治するために、どうしたらいいのかと思案した。幸い、ペルセウスはいまだにメドゥーサに恨みを持つアテナ女神とヘルメス神に可愛がられていた。英雄の守護神であるアテナ女神は楯を貸し与えた。そして、ペルセウスにメドゥーサを見るとき、楯に写る姿だけを見るようにと警告した。大神ゼウスの伝令者でもあるヘルメス神は翼のあるサンダルと、宝剣である半月刀(ハルペ)を貸し与えた。半月刀は、世界でただ一つ、メドゥーサの首を切ることができる刀であった。ヘルメス神は、さらにペルセウスに、あと二つのものが必要だ、と告げた。その二つのものとは、かつて、西方の国のニンフ(妖精)である美人三姉妹ヘスペリスに、ヘルメスが与えた贈り物であった。さらに、ニンフたちの住家(すみか)は、グライアイ三姉妹と呼ばれる三人の老女だけが知っているので、彼女らから、ニンフの住家を聞かなくてはならない。ペルセウスは翼のサンダルを履き、グライアイ三姉妹のところまで飛んでいった。彼女たちは、三人なのに、一つの目と一つの歯しか持たず、それらを、交代で使っていた。しかし、いつも目と歯を取り合って喧嘩していた。ペルセウスは、グライアイたちが取り合ってる目を取り上げて、目を返すかわりに、老女たちから、ニンフの美人三姉妹ヘスペリスたちは「ヘスペリデスの園」に住んでいることを聞き出した。そこにはヘラ女神の「黄金の林檎(りんご)の木」があり、巨神アトラスが天空を支えていた。もう何世紀も新しい客に会っていなかった三姉妹のヘスペリスたちたちは、ペルセウスを喜んで迎え入れた。そして、ヘルメスが残していった贈り物を与えた。一つは、ハデスの「姿を消す兜(かぶと)」といい、それをかぶると人間の姿が見えなくしてしまうのである。もう一つはキビシス(ゴルゴンの首を入れる袋)という袋である。この魔法の袋だけが、メドゥーサの毒に耐えられるのであった。

(参考)

@メドゥーサ・・・(小話452)「魔物ゴルゴン三姉妹・蛇女となった美しき髪のメデューサとその姉たち」の話・・・を参照。

Aグライアイ3姉妹・・・三人の老婆。それぞれエニュオ、パンプレド、デイノで、アトラス山脈の麓の洞窟に住む。ゴルゴン三姉妹の妹たちであるが、グライアイ三姉妹には石にする能力も無く、力も弱かった。ペルセウスがメデューサの居場所を聞き出そうとしたら、グライアイ三姉妹は「姉妹だから教えるわけにいかない」と言っていたが、脅迫されたら「西の果て、海が終わるところに天空を支えているアトラスがいて、その麓に「ヘスペリデスの園」があって、そこに黄金のリンゴの樹を守っている三姉妹がいる。その三姉妹に聞けばわかる」と答えたという。

Bハデスの「姿を消す兜」・・・一眼巨人キュクロプスたちが造った大神・ゼウスの「雷(雷霆)」、海王・ポセイドンの「三叉(さんさ)の戟(げき)」、冥王・ハデスの「隠れ兜(姿を消す兜)」の一つ。

「メデューサの頭」(ルーベンス)の絵はこちらへ

        (三)

準備を整えてペルセウスは、ニンフのヘスペリスから聞いたゴルゴン三姉妹の住む西の果ての洞窟へと向かった。そして、ハデスの「姿を消す兜」を被って眠っているゴルゴン三姉妹の内、不死身であるステンノとエウリュアレを避け、メドゥーサに狙いをつけた。メドゥーサに睨みつけられると石になってしまうので、ペルセウスは青銅の盾にメドゥーサを映(うつ)してそっと近づいた。そして、半月刀で一気にその首を切り落とした。すると、気配に気付いた二人の姉が目を覚ました。ペルセウスはメドゥーサの首をすぐさまキビシスの袋に入れ、逃げ出した。首を切り落とされたメドゥーサの体からは、天馬ペガサスと戦士クリュサオルが生まれ、地面に広がった血からたくさんの毒蛇が生まれた。ペルセウスはそんななか「姿を消す兜」のおかげで事なきを得た。途中、空飛ぶサンダルを履いて宙を駆けたペルセウスは、ゴルゴンの二人からの逃れるためにヘスペリデスの園によって、少し休ませてほしいと巨神アトラスに願った。だが、アトラスは予言にあった「ゼウスの息子」と思い込んでそっけなく追い払った。怒ったペルセウスはメドゥーサの首を突きつけて、アトラスを岩山に変えてしまった。

(参考)

@アトラスを岩山・・・グライアイ三姉妹に教えられて、ペルセウスが巨神アトラスにゴルゴン三姉妹の居所を尋ねるとアトラスはすぐに居所を教えてくれた。だがペルセウスに、その身支度ではだめだと忠告した。ゴルゴン退治には、姿が見えなくなるバデスの兜が必要だという。アトラスは、冥王・ハデスのもとにニンフを送ってその兜を取ってきてやるからその代わりに、ゴルゴンの首が取れたらそれを自分にみせて、石に変えてくれっと言った。世界を支えるのに疲れたという。ペルセウスはこの条件を飲んで、兜を手に入れ、ゴルゴン三姉妹のもとへ向かい、メドゥーサを倒してその帰途、約束通りアトラスにメドゥーサの首を突きつけてアトラスを岩山に変えてしまったというという説もある。

A天馬ペガサス・・・天空を縦横無尽に駆け巡る唯一の天馬。ペガサスの蹄(ひづめ)のあとに泉が沸き、そこに女神が集うという。後日、天に昇って星座(ペガスス座)となったという。(小話482)「天馬ペガサスに乗った勇者・ベレロポンの怪獣キマイラ退治」・・・を参照。

B戦士クリュサオル・・・産まれたときから黄金の剣を持っている巨人(翼が金色の天馬という説もある)。

Cアトラス・・・(小話459)「天空を支える巨神アトラスその娘(ヘスペリス)たち」・・・参照。

「メドゥーサの血液からのペガサスとクリュサオルの誕生」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ        (四)

ペルセウスは、メドゥーサの首を取って国に帰ろうとエチオピアの上空を天馬ペガサスに乗って通りかかった。途中で岩場にしばりつけられた一人の娘がいることに気がついた。彼女はアンドロメダといって、エチオピアの王女であった。美しい母カシオペイアは、さらに美しい娘アンドロメダが、海のニンフ(妖精)・ネレイスたちより美しい、と自慢した。ネレイスたちを気に入っていた海神・ポセイドンはこれを聞いて怒った。そして、海の怪獣(鯨)を送って、沿岸を荒らし回った。エチオピアの王ケペウスは神託を伺った。すると「アンドロメダが生贄(いけにえ)として奉げられない限り、怒りは治まらない」ということであった。美しいアンドロメダは怪獣の生贄になるために、岩に鎖でつながれた。ケペウス王は、天馬ペガサスに乗ったペルセウスに、もし娘を助け出したら娘とこの国を与えようと助けを求めた。そこで、ペルセウスは怪獣が鎖でつながれたアンドロメダに襲い掛かったとき、岩陰から飛び出して、半月刀で立ち向かった。だが、怪獣には歯が立たず、ついに最後の手段でキビシスの袋に隠し持っていたメドゥーサの首を怪獣の鼻先へ突きつけた。すると、死してなお魔力を保つメドゥーサの首は、たちまち怪獣を石の塊へと変えてしまった。こうして、見事に怪獣を倒したペルセウスは、アンドロメダと結婚した。しかし、元々のアンドロメダの婚約者である叔父のピネウスは黙っていなかった。ピネウスは、兵士の一隊を連れて結婚の祝宴に乗り込んできたが、ペルセウスによって兵士と共に石に変えられてしまった。ペルセウスは妻アンドロメダと共に旅の始まりの地、セリポス島に帰った。そのころ、母ダナエは暴君ポリュデクテスから逃れる為に、神殿に避難していた。戻ってきたペルセウスは、ポリュデクテス王の前に立ちはだかり、無事に任務を果たしたことを伝えた。せせら笑う王に、彼はメドゥーサの首を見せて石に変えてしまった。こうしてペルセウスは困難な冒険を成し遂げ、無事に母を救うことが出来た。そしてペルセウスは、サンダル、キビシス、半月刀(ハルペ)、姿を消す兜をヘルメス神に返し、メドゥーサの首はアテナ女神に献上した。ヘルメス神はキビシスと姿を消す兜をニンフたちに返し、アテナ女神はメドゥーサの首を自分の楯(イージス(アイギス)の盾)の中央にはめ込んだ。

(参考)

@天馬ペガサスに乗って・・・ペルセウスは天馬ペガサスに乗って故郷に帰っていく。海を渡っているとき、キビシスに入れておいたメドゥーサの首から血が滴り落ち、それが赤い珊瑚になった。切り落としたメドューサの首から滴る血が砂漠に落ち、サソリなどの猛毒の生き物が生まれたという。

A海のニンフ(妖精)・ネレイス・・・海の神ネレウスとドリスから生まれた50人の海の女神たち。父母とともに海底の銀の洞窟に住んでいて、皆美人揃い。海王ポセイドンの妻となった海の女王アンピトリテは、ネレイスたちの中の一人。

B怪獣を倒したペルセウス・・・その後ペルセウスの父ゼウスが海神ポセイドンの怒りを鎮めてたという。

Cアンドロメダと結婚した・・・ペルセウスとアンドロメダの間には、ペルセスが生まれ、ペルセスがペルシア王たちの祖先となった。

Dアンドロメダ・・・アンドロメダは死後、天の星の仲間に加えられ、夫ペルセウス、父ケペウス、母カシオペアとともに、星座となった。しかし、母カシオペイアは、高慢の罪で、椅子に腰掛けたまま天から逆さに吊り下げられている。

「ペルセウスとアンドロメダ」(ウィテウァール)の絵はこちらへ

「ペルセウスとアンドロメダ」(ルーベンス)の絵はこちらへ

「ペルセウスと海の精」(バーン=ジョーンズ)絵はこちらへ

「メドゥーサの首を見せてフィネウス(ピネウス)を石に変えたペルセウス」(ジャン=マルク)の絵はこちらへ

いろいろなペルセウスとアンドロメダの絵等はこちらへ

(1) 「ペルセウスとアンドロメダ」(ルーベンス) の絵はこちらへ***(2) 「アンドロメダを解放するペルセウス」(ルーベンス)の絵はこちらへ***(3) 「アンドロメダ」(ルーベンス)の絵はこちらへ***(4) 「アンドロメダを救うペルセウス」(ヴァザーリ)の絵はこちらへ***(5) 「ペルセウスとアンドロメダ」(ヴェロネーゼ)の絵はこちらへ***(6) 「ペルセウスとアンドロメダ」(ティエポロ)の絵はこちらへ***(7) 「ペルセウスとアンドロメダ」(レイトン)の絵はこちらへ***(8) 「ペルセウスとアンドロメダ」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ***(9) 「ペルセウスとアンドロメダ」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ***(10) 「ペルセウス」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ***(11) 「ペルセウス」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ***(12) 「ペルセウスとアンドロメダ」(ミニャール)の絵はこちらへ***(13) 「ペルセウスとアンドロメダ」(モロー)の絵はこちらへ***(14) 「ペルセウスとアンドロメダ」(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)の絵はこちらへ

        (五)

その後、幾多(いくた)の冒険を成し遂げて英雄となったペルセウスは、生まれ故郷のアルゴス国へ戻ることにした。だが、最初、母ダナエはアルゴスに行くことを反対した。いままで辛(つら)い目にあってきたダナエは、何か良からぬことが起こるような気がしてならなかった。しかし、ペルセウスの熱意にダナエも遂に折れ、アルゴス行きを承知した。ペルセウスとその妻アンドロメダと母ダナエはアルゴスに向けて出発した。その噂はアルゴスにいる祖父のアクリシオス王の元にも届いた。ペルセウスが帰ってくることにアクリシオスは慌(あわ)てふためいたが、少し冷静になって考えた。「私を殺しに来るわけではなく、アルゴスを訪れるだけであろう。神託があったから、会えば何が起こるかわからない」とアクリシオス王はペルセウスとの揉(も)めごとを避けるべく、ひそかにアルゴスを脱出し、北方のラリッサという町に身を隠した。その頃、何も知らないペルセウス一行はラリッサに滞在していた。英雄として手厚く迎えられ、その際に乞われて円盤投げ競技に参加した。ペルセウスの投げた円盤は思いのほかよく飛び、観客席にいた一人の老人の頭を直撃した。即死した老人の身元は誰も知らなかったが、その老人こそ彼の祖父アクリシオス王で、こうして神託は果たされたのであった。

(参考)

@ペルセウス・・・アルゴスとミュケナイの王(ミュケナイを建設し、その最初の王)となった。

 

(小話456)「モーツァルトと二人の女性(アロイジアとコンスタンツェ)」の話・・・

        (一) 

オーストリアの天才作曲家・モーツァルトは21歳の時、故郷ザルツブルクに父親を残して、お目付け役だった母親と共に職を求めて、パリを目指した。最初、ミュンヘンに到着した。そこで、当地の宮廷音楽監督などに面会したが、ここでの宮廷音楽家としての就職は欠員がなかった。次に向かったのは父レオポルドの生まれ故郷アウクスブルクだった。しかしここには宮廷音楽家を雇うような宮廷はなかった。そこで、次にはマンハイムに向かった。当時マンハイムにはプファルツ選帝侯カール・テーオドールの宮廷があった。この頃のマンハイムはドイツ文化の中心地の一つに数えられており、特に宮廷オーケストラはヨーロッパ随一と言っても過言ではなかった。ここで、モーツァルトは計(はか)り知れない音楽的な刺激を得た一方、彼の人生とって重要な女性と出会った。その女性とは生涯、彼の脳裏から離れなかったアロイジア・ウェーバーであった。モーツァルトはオランニエ公妃の住むキルヒハイムに行く時に写譜屋のフリードリーン・ウェーバー(弟が、作曲家ウェーバーの父)と同行した。フリードリーンには四人の娘(作曲家ウェーバーの従妹)がいた。美人の四人姉妹の中で長女がヨゼーファ、二女がアロイジア、三女が後にモーツァルトの妻となるコンスタンツェ、四女がゾフィーであったが、モーツァルトは、特に歌がうまく、音楽の才能豊かなアロイジアに心を奪われた。これ以降、モーツァルトは彼女のために多くの歌曲を書いた。

(参考)

@当時マンハイム・・・マンハイムは、 マンハイム楽派と呼ばれる18世紀の古典派音楽の作曲家たちの本拠だった。マンハイム楽派は、18世紀ドイツでマンハイムを首都とするプファルツ選帝侯のカール・テオドール(1724年 - 1799)の宮廷楽団を中心に活躍した作曲家達を指す。カールテオドールは宮廷楽団に私財を投じ、高水準の演奏家や作曲家を各地から招聘したので、ヨーロッパ最高水準の音楽家が集まった。

        (二) 

モーツァルトは、初恋の相手ともいうべきアロイジアのいる、マンハイムの地に長く留まりたかった。日ごと彼女への思いは深まるばかりであった。しかし、「パリへ行くのだ」という父親の叱責の手紙もあって、旅の目的であるパリに行かなくてはならなかった。彼女への切々たる思いを断ち切り、モーツァルトは母親と共にパリへ向かったのであった。パリでは多くの作品を残したものの、彼を待ち構えていたのは悲しい母親の死(旅先のパリで病の床に伏し亡くなった)であった。このような中でもモーツァルトはアロイジアのための曲を多く書いた。パリに着いたものの、かつて7歳頃の神童モーツァルトを熱狂したパリの聴衆は、もう、21歳の青年モーツァルトには見向きもしなかった。結局、パリでも受け入れられなかったモーツァルトはザルツブルクに帰郷するしかなかった。その帰途、父レオポルドにあれほど行くなと云われていたにもかかわらず、アロイジアのいるマンハイムに立ち寄った。しかし既にウェーバー一家はそこにはいなくてミュンヘンに居を移していた。モーツァルトは更に彼女を追いかけるようにミュンヘンに行き着き、そこでウェーバー家に寄宿することになった。しかし、ここでまた新たな悲しみに遭遇した。それはミュンヘンで、プリマ・ドンナとなって活躍していたアロイジアが彼の求愛を拒否したことであった。パリにいる時も彼女のことを思い、彼女のために作曲までしていたのだったのに。悲しみに打ちひしがれて、モーツァルトはザルツブルクへと帰郷した。

(参考)

@プリマ・ドンナ・・・オペラの用語。主役の女の人のことをさす。歌手や女優の中でもっとも重要なポジション。イタリア語で1番の女性という意味で、とても名誉ある呼ばれ方である。

        (三) 

モーツァルトは、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教コロレドに呼びつけられてウィーンにやって来た。これ以後、ウィーンで音楽活動を開始したが、初恋の相手であるアロイジアは、およそこの2ヶ月まえに、宮廷付きの俳優で画家でもあったヨゼフ・ランゲと結婚してしまっていた。ウェーバー一家はアロイジアがウィーンの劇場と契約した為、ミュンヘンから家族で引っ越してきていた。そのウェーバー家にまたしてもモーツァルトは、寄宿した。振られた女性の家にである。そして、モーツァルトは失意のうちに、コンスタンツェに急接近した。これにはコンスタンツェの母ツェツェリーアの意図が働いていた。ツェツェリーアは美人の四人姉妹の中で、最も目立たない三女のコンスタンツェの結婚を心配していた。モーツァルトとコンスタンツェが付き合い始めた時、突然二人の面会を拒否し、逢うためには結婚の契約書にサインすることで二人の交際を許した。こうして、まんまとその気にさせられたモーツァルトは1年ちょっとの付き合いで 父の反対を押し切って結婚を決心し、コンスタンツェも家から出たい気持ちもあり、プロポーズを受けて二人は結婚した。その時、モーツァルトはウィーンで仕事を始めたばかりで26歳、コンスタンツェは19歳の若さであった。モーツァルトはコンスタンツェとの結婚後も人妻である義姉アロイジアへの想いが断ち切れなかった。モーツァルトは、アロイジアの音楽的才能を高く評価し、また、彼女は当代一のプリマ・ドンナでもあったので「後宮からの誘拐」「劇場支配人」「ドン・ジョヴァンニ」などにたびたび彼女を起用しただけでなく、数々の演奏会用コンサート・アリアを彼女のために作曲し、自分も演奏家として共演した。アロイジアも当時ウィーンで有名な音楽家になったモーツァルトに少なからず心惹かれていた。モーツァルトの葬儀の際には、喪主たるコンスタンツェは夫の葬儀にも埋葬にも参列しなかったのに、アロイジアは数少ない参列者の一人であった。そして、モーツァルトの死んだ4年後、アロイジアは離婚した。

(参考)

@ザルツブルク大司教コロレド・・・当時は王侯や貴族の庇護のもとで活動する音楽家が常であった。

A二人は結婚した・・・モーツァルトが35歳で亡くなるまでの結婚10年弱で二人の間には、6人もの子供(内4人が生後まもなく死去)ができた。

Bアリア・・・オペラなどの劇音楽で歌われる伴奏つきの独唱歌。

Cコンスタンツェは夫の葬儀・・・コンスタンツェは、世界三大悪妻の一人といわれる。他の二名は、クサンティッペ(哲学者ソクラテスの妻)とジョセフィーヌ(ナポレオン第一夫人)、又はソフィア(文豪トルストイの妻)。

Dコンスタンツェ・・・コンスタンツェは、モーツァルトの死んだ18年後の1809年、デンマークの外交官でモーツァルトの崇拝者ニッセンと再婚した。その後この夫を助けてモーツァルトの伝記を書かせ、ニッセンの死後の1828年に「モーツァルト伝」を出版した。この書はその後のモーツァルト研究の基礎資料となる。

「コンスタンツェ(20才)」(ヨゼフ・ランゲ)の絵はこちらへ

「アロイジア」(ヨゼフ・ランゲ)の絵はこちらへ

 

(小話455)「モーツァルトのレクイエム(鎮魂歌)」の話・・・

       (一)

オーストリアの天才作曲家・モーツァルトが亡くなる年(1791年)のこと。夏(7月)のある日、黒い仮面(マスク)で顔を隠し、灰色のマントに身を包んだ異様な風采をした謎の男がモーツァルトを訪ねてきた。その仮面の男は、モーツァルトにレクイエム(死者のためのミサ曲)の作曲依頼の手紙を携えていた。男は、依頼主の名前や身分などは、何故か、一切明かすことをしなかった。そして、かなりの額のお金(前金)を置いて立ち去った。モーツァルトはこの男を「死神」と思い、そして依頼されたレクイエムは、ほかならぬ自分(モーツァルト)自身を弔(とむら)うためのものと信じ込み、何かに取り憑(つ)かれたように作曲を開始した。「自分自身のレクイエムを作曲する」ということは、自分の死期が近いことを意味した。モーツァルトは心身ともに次第に衰弱していった。9月頃、モーツァルトは友人に宛てて「私は見知らぬ人の影を自分の目から追い払えません」と手紙に書いた。そして10月、出産のためモーツァルトの許を離れていた妻コンスタンツァが戻ってくると、彼女は夫の衰弱した姿に驚いた。11月になると、病いは重くなり、モーツァルトはついに床から起き上がれなくなった。それでも、モーツァルトは異様な執念をもってレクイエムに取り組み続けた。だが、モーツァルトの運命はその完成をみることを許さず、レクイエムの第8曲「ラクリモサ(涙の日)」の途中まで書いたところでとうとう力尽き、永遠の眠りについた。時に1791年12月5日、午前0時55分のことであった。不世出(ふせいしゅつ)の天才音楽家は、わずか35年と10ヶ月の生涯を閉じた。「レクイエム」は結局、未完に終わった。

(参考)

@ねずみ色の服を着た・・・「死の世界からの灰色の服を着た使者に催促されて、自分自身のためにレクイエムを作曲した」というエピソードが長らく語られてきた。

A友人に宛てて・・・「あなたのお申し出に喜んで僕は従いたいのですが、しかしどうしてそのようにすることができましょう。僕は混乱しています。話すのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。僕はいつでもその姿が見えます。彼は懇願し、せきたて、早急にも僕に作品を求めるのです。僕も作曲を続けてはいます。休んでるときよりも、作曲しているときのほうが疲れないのです。それ以外、僕には恐れるものもないのです・・・・最後のときが鳴っているように思えます。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけのはいきません」(ダ・ポンテ宛の手紙(偽作説も有力だが))

B永遠の眠りについた・・・モーツァルトの埋葬に集まったわずか数人の知人と弟子は、おりからの雪まじりの悪天候の為に墓地に見送ることも出来ず、屍体はただ墓掘人の一人によって、セント・マルクス墓地の中の共同貧民墓地に葬られ、数十日後にはその正確な場所さえ不明になった。

       (二)

この匿名の依頼主は、フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパハという音楽好きの伯爵で、使者となった仮面の男は伯爵の知人のライトゲープという人物であった。ヴァルゼック伯爵は、有能な作曲家に曲を作らせて、それを自分の作品とし、自ら指揮をして人前で演奏するのを趣味としていた。そして、同じ頃、妻を亡くした伯爵は、葬儀にあたって「自作のレクイエム」をどこかから調達してくる必要があった。そこで白羽の矢を立てたのが、当時、名声は高いが、貧窮していた天才作曲家モーツァルトであった。そのため、モーツァルトに曲を依頼したことは絶対に秘密にしなければならなかった。モーツァルトは、結局、曲を完成する前に死んでしまった。あとに残されたのは妻のコンスタンツェで、お金(前金)を貰っている手前なんとしても曲を仕上げる必要にせまられた。そこで、コンスタンツェは、夫の弟子のジュスマイヤーに依頼した。ジュスマイヤーは、「キリエ」以降の全曲をオーケストラ演奏用に編曲し、モーツァルトが作らなかった部分も新たに創作した。こうして、ジュスマイヤーの手によって演奏可能な形に完成された「レクイエム」は依頼主のフォン・ヴァルゼック伯爵の手に渡った。そして伯爵は、1793年12月にはフォン・ヴァルゼック伯爵作曲の「レクイエム」として、ウィーンの教会で自ら指揮して演奏した。その上、1800年にブライコップフ・ウント・ヘルテル社からモーツァルト全集が出版された際には、そこに収録されたレクイエムをみて「これは俺の作品だ」と言い張ったという。

(参考)

@ジュスマイヤー依頼・・・実際は、次の3人の手を借りた。一人はモーツァルトの弟子のヤコブ・フライシュテットラー。もう一人はモーツァルトの友人のヨーゼフ・レオポルト・アイブラー。そして最後の一人がモーツァルトの弟子のフランツ・クサヴァ・ジュスマイヤーであった。

A「キリエ」・・・本物のモーツァルト作曲は冒頭の「入祭唱」と「キリエ」だけである。

B完成された「レクイエム」・・・現在「モーツァルトのレクイエム」と呼ばれている作品には、7つほどの版(バージョン)があるという。

モーツァルの肖像画」(ヨゼフ・ランゲ)の絵はこちらへ(コンスタンツェの義兄ヨーゼフ・ランゲの未完の絵)

「コンスタンツェ(40才)」(ヨゼフ・ランゲ)の絵はこちらへ

 

(小話454)「運命の女神たちと薪(まき)」の話・・・

      (一)

民話より。ある女が男の子を産んだ。今まで産んだ子はみな産まれると、すぐ死んだので、彼女は最後に産まれた子の、この運命をしかと聞き届けようと、運命の女神モイラたちが訪れるのを待っていた。やがてモイラたちがやってきた。母親は眠っているふりをして、耳をそばだてた。一番目のモイラは言った「この子はすぐに死ぬだろう」。二番目のモイラが言った「いや、この哀れな女から今まで多くの子供を奪ったのだ。せめて一人は残してやろう」。三番目が言った「まぁ、お聞き。この薪が燃え尽きると同時に死ぬことにしよう」。「そうしよう、そうしよう」と他の二人のモイラが賛成し、三人の女神は人の運命を記した書を閉じて姿を消した。母親は起き上がると薪の火を消し、薪を長持ちの底に隠した。息子は何事も無く成長し、やがて妻を迎えた。母親は自分の死を前にして嫁に秘密を打ち明け、薪を彼女にゆだねてこの世を去った。だが、後に嫁は夫と口論し、腹立ち紛(まぎ)れに薪を火に投げ入れた。薪が燃え尽きると同時に夫は死んだ。

(参考)

@運命の三女神モイラたち・・・彼女たちが扱うのは人間の生命の糸。現在を司る女神クロトが糸を紡ぎ、繰り出された糸の長さ(これがその人の生きた時間を表します)を過去の女神ラケシスが測り、冷徹な未来の女神アトロポスが手にした大鋏で断ち切る。切られたところがその人間の絶命の時である。モイラたちの定める「運命」とは、誕生から死に至るまでの寿命の長さと、人生におけるごく基本的な筋書きである。(小話273)「運命の三女神」の話・・・を参照。

      (二)

民話より。ある女の子供は、みな二、三歳で死んでしまった。この女が再び子供を産んだとき、隣人たちは産後三日目にペリ(天女)たちが運命を定めるのを聞き取るように勧めた。そこで母親は揺りかごの下に隠れ、ペリたちの言葉を聞いた。一番目のペリが言った「この子は美男で力持ちの若者になるだろう」。二番目のペリも言った「この子は金持ちになるだろう」。三番目のペリは嫉妬深くて意地悪だったので、こう呟(つぶや)いた「この子は暖炉の薪が燃え尽きると同時に死ぬだろう」。三人のペリたちが去ると、いそいで母親は、暖炉の薪を消して長持に隠した。やがて息子は成長して結婚した。母親は秘密を隠したまま死んだ。けれど、ある時一人の魔法使いが息子の嫁に言った「あんたの亭主が生まれたとき、姑(しゅうとめ)は運命の天使ペリたちがこう予言するのを聞いたのだよ「薪が燃えている間だけこの子は生きるだろう」と。姑は薪を長持に隠し、その薪はまだそこにある。さぁ、お前のお腹の中の子が長生きするように、薪を暖炉の中で燃やしなさい。けれども、灰になる前に薪から松の小枝に火を移し、消してから長持に隠しておくのを忘れてはならないよ。そうすれば亭主は死ぬが、その小枝がある限り子供は生きることになるだろう」その通りに事が運び、嫁は女の子を産んだ。その子は成長して結婚し、子供も何人か生んだ。母親は娘に秘密を打ち明けずにこの世を去った。娘が年を取ったある日、引越しのときに例の松の小枝を見つけた娘の子供は、事の重大さも知らずにそれを火の中に投げ入れたため、死んでしまった。

      (三)

民話より。産んだ子供をみんな失った女がいた。再び子供を産んだとき、彼女は運命の女神(モイラ)たちが赤ん坊の運命を定めるのを盗み聞いた。彼女は、運命の女神が「この薪が燃え尽きると同時に死ぬ」と言ったのを聞いて、そっと薪を隠した。やがて、息子は成長し、結婚した。結婚式の後、母親は隣人の一人に薪の秘密をうち明け、やがて死んだ。それからまた年月が過ぎ、息子自身に臨終の時が来たが、どういうわけか死ぬことが出来ず、ただ臨終の苦しみばかりが続いた。息子の母親から秘密を聞いた隣人が長持に隠された薪のことを思い出し、それを燃やすと、ようやく息子は安らかに旅立つことが出来たという。

 

(小話453)「大蛇(おろち)の喉(のど)先まで入った男」の話・・・

民話より。中国は康煕(こうき)帝の時代。ある男は商用で広西省に行った時のこと。早めに宿をとり、夜半を過ぎて、朝もまだ暗いころに起き出して、ある店へ代金を取立てに宿を出た。あたりはまだ真っ暗闇だったが、急に前方から日の光のような明かりがさしてきた。てっきり夜が明けかけたのだと思って、男はどんどん歩いて行った。すると道の途中に一軒の茶店があった。その前を通ると次には橋があって、橋を渡ると真っ暗な洞穴の中に入ってしまい方角すらもわからなくなってしまった。そうこうするうちに酷(ひど)く生臭い臭(にお)いを感じたが、急に高潮がさすように水が押し寄せてき男の体を洞穴の外まで転がし出した。男はそれっきり人事不肖に陥ってしまった。そのうち夜が明けはなれるにつれて男は少しずつ正気を取り戻した。そして見れば、山のように大きな大蛇の尾が廻転しながら向こうへ行くところであった。男は、体はまだ倒れたままで、動こうにも動くことができなかった。通り掛かりの人が見つけて事情をたずね、宿まで担いでいってくれた。男の体はもう腐りかかっていて、一年あまりも経ってからようやくもとに戻ったが、全身の皮膚が剥(は)がれてまるで蛇の抜け殻のようであった。しばらくしてから、人々は、明かりと見えたのは蛇の目であり、茶店と見えたのは蛇の歯で、橋は蛇の舌、暗い洞穴に入ったと思ったのは蛇の喉を通ったのであり幸いに蛇の涎(よだれ)がどっと涌き出たので吐き出され飲み込まれずにすんだのだといいあったという。

(参考)

夜明けの表情・・・夜明け前のまだ暗いころを「暁(あかつき)」、わずかに明るくなって「東雲(しののめ)」すこしづつ明るくなって「曙(あけぼの)」、だんだんまわりが明るくなって「朝ぼらけ」、そしてすっかり明るくなると「朝(あした)となる。

 

(小話452)「魔物ゴルゴン三姉妹・蛇女となった美しき髪のメデューサとその姉たち」の話・・・

         (一)

ギリシャ神話より。魔物ゴルゴン(恐ろしいもの)は、海の神ポルキュスと女神ケトの間に生まれたステンノ(強い女)、エウリュアレ(遠くに飛ぶ女)、メデューサ(支配する女)からなる三姉妹のことをいう。彼女たちは西の果てのヘスペリデスの園の近くに住んでいて、その顔は醜悪で、髪はすべてが生きた蛇となって無気味にうごめき、黄金の翼を持ち、歯はイノシシの鋭い牙のようであり、手は青銅で出来ていた。このゴルゴン三姉妹の目を見たら最後、あまりの恐ろしさのためか石に変えられてしまうという。それは神々であっても例外ではなかった。三姉妹の末っ子・メデューサは、二人の姉と違って、かっては一番美しく、とても奇麗な髪を持った愛らしい娘であった。又、二人の姉は永遠の命を持つ神々であったが、なぜかメデューサだけは不死ではなかった。ある日、海神ポセイドンは美しいメデューサを見て、一目ぼれしてしまった。恋人になったメデューサは、愛する海神ポセイドンが女神アテナとアテナイの地を巡って争い、敗れたことがとても不満だった。

(参考)

@ポセイドンが女神アテナとアテナイの地・・・アテナ神殿では、アテナイ(アテネ)のアクロポリスのパルテノン神殿が有名だが、アテナ女神が、アテナイの守護神になる際には海王ポセイドンとの争いがあった。アテネの領有権を主張するアテナ女神と海王ポセイドンに対して大神ゼウスは、より人間達に必要な物を与えた方を勝利とすると決めた。ポセイドンはアクロポロスの丘に塩水の泉を湧き出させ、アテナ女神はそこにオリーブの木を生じさせた。アテナイの人々は有益な贈り物をしてくれたアテナ女神を選んだ。しかし、これに海王ポセイドンが怒りアテナイに洪水を起こさせた為、人々はポセイドンに第二の守護神の地位を与え怒りを和らげたという。((小話***)「戦いの女神・アテナと幼馴染の美しい娘パラス。そして、アテナイの守護神」・・・の話。を参照。)

         (二)

そこでメデューサは、アテナ女神への腹いせに彼女が最も嫌う行為をした。何と神聖な場所であるアテナ神殿内でポセイドンと抱き合ったのである。そして、高慢にも調子に乗って、メデューサは「アテナがいつも兜(かぶと)をしているのは、私のように美しい髪をしていないからよ」と、神をも恐れぬことを口にした。こうした神に対する冒涜(ぼうとく)と不敬に処女神でもあるアテナ女神は大いに怒り狂った。そして海神ポセイドンの不在の折を狙い、メデューサが一人になったときに現われて「神を侮辱した罪、思い知るがいい」と言ってメデューサの髪を蛇に変えてしまった。泣き叫ぶメデューサに追い討ちをかけて「その髪にふさわしい顔を与えよう。見たものが恐ろしさで凍りついて石になるほどの顔にね」と言った。こうして、アテナ女神は、メデューサの美しい髪を全て蛇にし、その顔と目を合わせた者は石になってしまうほど恐ろしい顔の怪物に変えてしまった。このためメデューサは恋人ポセイドンに顔を見せれなくなり、自分たちの住処(すみか)であるヘスペリデスの園の近くに戻っていった。その後、恋人ポセイドンに会うことは二度となかった。それ以来、メデューサは世界の果てで二人の姉とひっそりと暮らすようになった。

(後日談)

それから何百年も経った頃、メデューサはアテナ女神の加護を受けた英雄ペルセウスに倒された。メデューサが首を切られたとき滴った血から生まれたのが、天馬ペガサスであった。アテナ女神はペルセウスが受け取ったメデューサの首を愛用の盾(イージスの盾)に埋め込み、蛇は鎧(よろい)飾りにし、以後その姿を戦いの神アテナ自身の正装にしたという。(小話457)「英雄・ペルセウスの冒険(メドゥーサ退治と美女アンドロメダとの結婚)」・・・の話。を参照。

(参考)

@アテナがいつも兜(かぶと)をしている・・・アテナ女神は、大神・ゼウスの娘で、すっかり成人して鎧(よろい)、兜(かぶと)をつけた姿でゼウスの頭から飛び出してきたといわれている。

@魔物ゴルゴンに対する詩。「お前の姿を見たものが、まだ生きているとするならば、お前の話しは全て嘘だ。彼がまだ生きているならば、お前の姿を見たはずがない。彼がもう死んでいるならば、見たものの話などできはしない。(スペインの詩人ケベード)」

A二人の姉・・・メデューサが怪物にされたことに抗議した二人の姉も、怪物に変えられてしまったという。

「メデューサの首」(カラヴァジョ)の絵はこちらへ

「メデューサ」(カラヴァジョ)の絵はこちらへ

「メデューサの頭」(シメオン・ソロモン)の絵はこちらへ

「眠れるメデューサ」(クノップフ)の絵はこちらへ

「メデューサ(怒りの波)」(デュルメル)の絵はこちらへ

 

(小話451)「お姫様と王子様(もう一つの七夕伝説C」の話・・・

     (一)

韓国の昔話。ある星の国に美しいお姫様がいた。お姫様は何でも良くでき、中でも機(はた)を織(お)ることが特に上手であった。父親の王様は、このお姫様を大変に寵愛していた。ある時、王様は別の星の国の王子様を婿として迎えた。それからのお姫様は王子様と仲むつまじくしていたが、この王子様は時々よからぬことをした。最初は我慢していた王様ではあったが、とうとう堪え切れなくなって、天(あま)の川の北岸から半年も遠い所へ王子を流してしまった。しかし、お姫様のことを思い年に一度・七月七日だけは、天の川の辺(あたり)で逢うことを許した。一年も離れ離れでいるので、お姫様と王子様は何とか逢うことができないものかと、いろいろ思いをめぐらしたが、ついには二人の目から涙が止めどなく溢(あふ)れ出た。このため、下界では大雨になり家などが流さる程の洪水になってしまった。

     (二)

そこで下界に住むもの皆で相談した末に、カササギが天上へ遣(つか)わされることになった。大任を負(お)ったカササギは、大雨のなか天に向かって飛び立った。カササギは大雨の理由を知り、お姫様と王子様の悲しみを取り除いて差し上げようと仲間を呼び集めた。カササギの仲間は皆、天上に飛び立ち、天の川の南の岸から北の岸へ頭を揃え、羽根を合わせて「懸橋(かけはし)」を作った。こうして王子様は、カササギの橋を渡ってお姫様に逢うことが出来た。下界の雨もそのときからパッタリと止んでしまった。今でも七月七日の「朝の雨はお嘆きの雨」。そして「昼ごろの雨はお逢いになることが出来たお喜びの雨」。さらに「夜の雨はお別れのお悲しみの雨」と云われている。また、七月七日に地上でカササギを見ると、天の川の懸橋を作りに行かない怠け者のカササギだというので、皆に追い払われたいう。

 

(小話450)「牛郎(ぎゅうろう)と織姫(もう一つの七夕伝説B」の話・・・

      (一)

中国の昔話。ある山のふもとに一人の若者いがいた。いつも老いぼれた牛を草原に連れていって草を食べさせていたので、皆は「牛飼い」と呼んでいた。ある夏のこと、草原に霧が出て少しも先が見えなくなったときがあった。そのとき突然、老いぼれた牛が牛飼いに話しかけてきた。「草原の南にある川で、七人の仙女が水浴びをしています。そのうち一人の衣を隠してしまえば、ご主人様は仙女を嫁にすることができますよ」と。牛飼いは言われた通り川べりに行き、大きな声を出して、衣の一つ手にすると逃げ出した。仙女たちは恥ずかしがって、衣を付けて天に舞い上がったが、織姫(おりひめ)と言う名前の仙女だけが、裸のまま顔を真っ赤にしながらも牛飼いの後を追いかけてきた。牛飼いは家に駈け戻ると、衣を隠してしまった。織姫は衣がなくては天に戻れない。しかたなく地上の着物を身につけ、牛飼いの嫁になった。織姫は、天では織物をするのが上手だったので、いつも梭(ひ)を使って機織(はたお)りをしていた。織姫を嫁にしてからの牛飼いは牛の世話をしなくなってしまった。牛は病気になりって寝込んでしまった。牛は牛飼いに向かい話しかけた。「ご主人様、私が死んだら、私の皮で袋を作り、そこに黄砂(こうさ)を入れて、鼻の綱(つな)を使ってしっかりと縛っておいてください。その袋を背負っていれば困ったときはいつでも手助けしますから」牛はこう言って息を引き取った。牛飼いは大変悲しんだが、牛の言い残した通り皮で袋を作った。

(参考)

@梭・・・織機の部品の一。緯(よこ)糸を通す用具。

A七人の仙女・・・天帝には七人の娘がいて、七人の仙女の中で一番幼い娘が織姫であった。

      (二)

三年も経つうちに、織姫と牛飼いの間に娘と息子の二人の子どもができた。そうしたある時、織姫は牛飼いに話しかけた。「あの衣をどこに隠したの。二人の子どもを置き去りにしたりしないから、教えてよ」牛飼いは、それはそうだと思い「もう、ボロボロになったかも。戸口の土台の下に埋めてあるんだ」織姫は、それを聞くとすぐに戸口に走っていき、戸口の土台をどけると、衣を取り出した。衣はまだキラキラ輝いていた。織姫はその衣を身につけると、すぐさま空に舞い上がった。びっくりした牛飼いは、慌てて背中の牛の袋を叩いた。すると牛飼いと二人の子どもは空に舞い上がり織姫の後を追いかけることが出来た。織姫は牛飼い親子が追いつきそうになったのを見て、頭から金の簪(かんざし)を抜いて、自分の後(うし)ろに線を引いた。するとそこに、たちまち大きな川が出来あがった。ところが、牛飼いの背負っていた牛の袋から、黄砂がこぼれだして、あっというまに川を横切る土手が出来あがった。牛飼い親子はその土手を走って、追いかけることができた。織姫はまた追いつかれそうになったのを見ると、先ほどのようにかんざしで線を引いた。するとまた川が出来た。牛の袋にはもう砂は無くなっていたので、牛飼いは袋を縛っていた綱をほどき織姫に投げつけた。綱は織姫の首に絡(から)みつき、織姫は持っていた機織(はたお)りの梭を牛飼いに投げつけた。こうして二人がやりあっているときに、神仙(しんせん)があらわれた。

(参考)

@ 神仙・・・神通力をもった人。神や仙人。

      (三)

神仙は二人に向かい「私は天帝の命で、二人の仲裁にきた。織姫は川の東に住むが良い。牛飼いは川の西に住むが良い。しかし年に一度、七月七日の夜だけは、川の東側で会うことを許す」と言った。天帝の命とあっては、二人は従わざるを得なかった。こうして、天の川は織姫の金のかんざしで引いて出来た線であって、織姫と牛飼いは天の川の東と西に別れて光っているという。又、織姫の回りの星は牛の綱で、牛飼いの回りは子どもたちと機織りの梭なのである。そして、織姫は一年三百六十日(旧暦日数)の間に牛飼いが使った、それぞれ三百六十の鍋と碗を洗って、着物を洗ったり繕ったりして、七月十六日になると後ろ髪を引かれる思いで、再び母親の元へと帰っていくのであった。また七月七日に降る雨は、二人が逢えないために流す涙と言われている。

 

(小話449)「織女(しょくじょ)と牽牛(もう一つの七夕伝説A)」の話・・・

      (一)

中国の昔話。わし座の牽牛星(アルタイル)の傍らに寄り添うように光る星ふたつは、牽牛(けんぎゅう)の息子星と娘星と呼ばれている。悠々と瞬(またた)き流れる天の川の向こう岸には、子供達の母親、琴座の織女星(べガ)が艶やかに輝いている。昔むかし、ある村で、牽牛という名の若者が、牽牛の兄である夫に先立たれた兄嫁と一緒に牛の世話をしながら暮らしていた。この兄嫁がお金がないと言うので、牽牛は寒さをしのげるような着物ももたず、食べるものもろくに与えてもらえなくても、一生懸命に牛の世話をしてた。そんなある日のこと、牽牛が牛を放牧しようとしたところ、どういうわけか、牛が今来た家の方へ戻って行ってしまった。 慌てて後を追って行くと、家の方からとても美味しそうな匂いがただよってきた。不思議に思って家の中を覗いてみると、兄嫁がほかほかに焼けた饅頭(まんじゅう)を食べているところだった。自分だけご馳走を食べているところを見られた兄嫁は、牽牛に向かって怒り狂ったので、牽牛は泣きながら牛小屋へ逃げ込んだ。すると、悪いと思ったのか、後から兄嫁が美味しそうな麺(めん)の椀を持って来て「食べなさい」と言って帰って行った。そこで、牽牛はそれを食べようと箸をつけたところ、不意に年老いた牛が「食べるのをお止めなさい、その中には毒が入っています。早く私と一緒にここを逃げましょう」と言った。

      (二)

牽牛は長いこと世話をしてきた牛の言うことを信じて、家を後にした。途中、牛の不思議な力で銀を拾った牽牛は、家や土地を買ってやっと安心して暮せるようになった。ある日、牛が「後ろの山に池があって、そこへ仙女たちが水浴びにきます。その仙女の衣を隠して置きなさい。そうすれば、仙女は天に帰れなくなって、きっとあなたお嫁さんになってくれるはずです」と言った。牽牛は言われるがままに仙女の衣を隠して置くと、天に帰れなくなった織女という仙女が牽牛のもとへ来たので、この仙女と結婚した。こうして結ばれた二人は、仲の良い夫婦となって、一男一女に恵まれ、それは幸せに暮らしていた。ところが、そうしたある日のこと、いつものように牽牛が畑へ行って帰ってくると、子供達が泣きじゃくっていた。家に入ると、怒り狂った天の西王母(せいおうぼ)が妻を捕まえていた。西王母は「この娘は天に属する者、天に帰らなければならぬ」と言い放って、織女を連れて天に昇って行ってしまった。途方に暮れた牽牛は、子供達の手を引き、牛にもらった空を飛ぶ靴を履いて、天へ昇って星になった。でも、織女の居場所と、牽牛と傍らの子供達の間には、決して渡れぬほどの大河、天の川が横たわっていた。それから長い年月が過ぎたが、今だ、けなげに向こう岸の織女を慕い見つめ続ける牽牛親子に胸を打たれた西王母は、年に一度だけは家族が再会できるようにした。それが七月七日で、織女と牽牛、そして二人の子供達が愛しい人と逢うことを許された大切な夜であるという。

(参考)

@西王母・・・玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という道教の最高位の神様の妻で、女神の中では最高位の神様である。

 

(小話448)「天の川・織姫と牽牛(七夕伝説@)」の話・・・

      (一)

中国の昔話。夜空に輝く天(あま)の川は、天空を東と西に分けていた。東側は天人の世界で、その天の川のほとりに、天帝の娘で織姫(おりひめ)と呼ばれる美しい天女が住んでいた。織姫は、父、天帝の言いつけで、毎日、機(はた)織り仕事に精を出していた。織姫の織る布はそれはみごとで、五色に光り輝き、季節の移り変わりと共に色どりを変える不思議な錦(にしき)であった。天帝は、娘の働きぶりに感心していたが、年頃の娘なのに化粧一つせず、恋をする暇もない娘を不憫(ふびん)に思い、天の川の西に住んでいる働き者の牽牛(けんぎゅう)という牛飼いの青年と結婚させることにした。こうして織姫と牽牛の二人は、天の川の西のほとりで、新しい生活を始めた。しかし、結婚してからの織姫は、牽牛との楽しい暮らしに夢中であった。そのため、天の川の東に戻ってする機(はた)織りの仕事をすっかり止めてしまった。天帝も始めは新婚だからと大目にみていたが、いつまでもそんな有様が続いたので、天帝はすっかり腹を立ててしまった。そして、二人の所へ出向くと「織姫よ、機を織ることが天職であることを忘れてしまったのか。心得違いをいつまでも放っておく訳にはいかない。再び天の川の東の岸辺に戻って機織りに精を出しなさい」更に付け加えて「心を入れ替えて一生懸命仕事をするなら、一年に一度、七月七日の夜に牽牛と会うことを許してやろう」と申し渡した。織姫は牽牛と離れて暮らすのがとても辛く涙にくれるばかりであったが、父、天帝に背(そむ)く事もできず、牽牛に別れを告げて、天の川の東に帰って行った。

      (二)

それ以来、織姫は自分の行いを反省して、年に一度の牽牛との再会を励みに、以前のように機織りの仕事に精を出すようになった。牽牛も思いは同じで、働いて働いて七月七日を待った。こうして、牽牛と織女は互いの仕事に励みながら、指折り数えて七月七日の夜を待った。ところが、二人が待ち焦がれた七月七日に雨が降ると、天の川の水かさが増して、織姫は向こう岸に渡ることができなくなる。川下(かわしも)に上弦の月がかかっていても、つれない月の舟人は織姫を渡してはくれなかった。二人は天の川の東と西の岸辺にたたずみ、お互いに切ない思いを交しながら川面を眺めて涙を流すのであった。七月七日に雨が降れば会えなくなる、そんな二人を見かねて、七月七日に雨が降ると、どこからともなくカササギの群が飛んできて、天の川で翼と翼を広げて橋となり、織姫を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれるという。また、七月七日の朝の雨は、織姫と牽牛が天の川の両岸で泣いている雨で、昼ごろの雨は、一年ぶりに合えた二人の嬉し涙、そして夜の雨は二人の離別を悲しむ雨だといわれている。

(参考)

@七月七日の夜・・・七月七日の七夕の夜は、天の川を隔てて輝く、 わし座の牽牛星(アルタイル)彦星と、琴座の織女星(べガ)織姫が 一年に一度だけ逢うことを許された夜。

 

(小話447)「ペドロ王と王妃になったイネスの悲劇」の話・・・

     (一)

ポルトガル(ブルゴーニュ朝)の国王ペドロ1世(あるいは「残酷王」)の伝記より。当時の王ドン・アフォンソ四世と女王ビアトリシュ・カステラとの間に生まれた王子ドン・ペドロ1世は、ポルトガル王国の世継ぎであった。父王は思慮深く落ち着いた王であったが、息子のペドロ王子は気性が激しく、思いこんだら命がけと言う性格であった。父王はペドロ王子が、まだ幼いうちに隣国カステラの貴族で大地主の娘ドナ・コンスタンサ・マノエルとの結婚を決めていた。ペドロ王子が成長し結婚にふさわしい年齢になると、コンスタンサとの婚礼が盛大にとり行われた。王子は自分自身の気持ちを全く無視した、この政略結婚には不満であった。そのため、妻を迎えたのちも王子は妻をまったく愛さず、常に妻から距離を置いていた。ペドロ王子は日々を狩猟を楽しんで過ごしていて、家庭に目を向けようとはしなかった。そんなある日、ペドロ王子は一人の美しい娘に出会った。それはコンスタンサの侍女として、コンスタンサと共にポルトガルにやって来たイネスという娘だった。美しい細身の姿、太陽のように輝く金髪、上品で優雅なものごしに、ペドロ王子は、一目見て恋に落ちてしまった。

(参考)

@ペドロ1世・・・在位は1357年 - 1367年。

     (二)

ペドロ王子と妻コンスタンサの侍女の恋は、たちまち皆に知れ渡った。このスキャンダルに妻コンスタンサはショックを受け、何とかして夫の心をイネスから遠ざけることは出来ないかと考えた。そこで、すでにコンスタンサは、ペドロ王子の子供を身ごもっていたので、イネスをそのお腹の中の子供の洗礼儀式上の保護母にした。妻コンスタンサは、これでもうイネスとペドロ王子の恋には終止符が打てるものと思った。しかし、ペドロ王子のイネスに対する愛はとても深く強く、保護母であろうとなかろうと、イネスへの思いはまったく変わらなかった。この許されないスキャンダラスな恋は、もはや宮廷中の注目を浴び、噂の的であった。更に悪いことに、コンスタンサの赤ん坊は生まれたのだが、たったの一週間で死んでしまった。「イネスのせいで死んだのだ」と言う噂がたちまち宮廷中に広がった。この事態を重く見た国王は、このままではいけないと、王子の愛人イネスを国外に強制追放することに決めた。王子ペドロの妻コンスタンサは、ペドロの子供を生んだとき余りの難産に苦しみぬいていた。そして、コンスタンサは難産の末に、半年もたたない内にとうとう死んでしまった。コンスタンサが亡くなるや否や、ペドロ王子はすぐさまイネスを迎えに行った。不幸な結婚に縛られていたのが、妻の死により自由になったのである。ペドロ王子は愛するイネスをポルトガルに連れ帰り、パソ・ダ・セラの近くのモレドの別荘に住まわせた。

(参考)

@保護母・・・教会では、当時この保護母はその子供の両親の兄弟であると見なしていた。つまりイネスが保護母になれば、彼女はペドロの妹になるので、ペドロ王子とイネスが愛し合えば近親相姦の罪を犯すことになる。

     (三)

それからの二人は、とても幸せな日々を過ごした。モレドの別荘にいる間、三人の子供が生まれた。だが長男のアフォンソは、まだ小さいうちに死んでしまった。二人は大変悲しんだが、それでも親子で仲良くモレドの宮殿で暮らしていた。しかしペドロ王子とイネスの幸せは長くは続かなかった。周りの人々は、スペイン人の血の流れるイネスに憎悪の目を向けた。このころ国内に黒死病で死ぬ者が出始め、人々は恐怖におののいた。この恐ろしい病気はイネスのせいだと口々に言い始めた。その上、不作が続いて人々は飢えにも苦しんだ。こうした悪い出来事はすべてイネスのせいだと言われた。ペドロ王子はこの状況を憂い、イネスを連れてポルトの郊外のカニデロに移り住んだ。ここでは、女の子ビアトリシュが誕生した。二人の愛はますます深まるばかりであった。しかし、彼らが強く愛し合えば愛し合うほど、このスキャンダルに対する非難は高まって行った。国王アフォンソ四世の取り巻きたちはペドロ王子がイネスの兄弟であるカストロ家の者たちに毒されていて、我が国が狙らわれていると吹聴した。アフォンソ四世は日毎(ひごと)に不安を募(つの)らせて行った。主な取り巻きであるペドロ・コエーリョ、アルヴァロ・ゴンサルヴェス、そしてディオゴ・ロペス・パシェコの三人はカストロ家がいかに危険であるかを強く示唆し「唯一の解決方法は、イネスを殺すことだ」と主張し続けた。そして、ついにイネス殺害計画を立てて、王の承認を得た。アフォンソ四世と武装した人々は、そのころペドロ王子とイネスが住んでいたコインブラに向かった。その時ペドロ王子は狩りに出かけていた。アフォンソ四世と、その取り巻き達がコインブラの宮殿の中に突然入って来た。取り巻き達の手には刀剣が握られていた。瞬時に自分を殺しに来たのだと悟ったイネスは、必死で頼んだ。「お願いです。ご慈悲を。どうか殺さないで。助けて下さい」イネスの必死の懇願にもかかわらず、三人の男たちの手で無惨にも殺されてしまった。

(参考)

@三人の子供が生まれた・・・アフォンソ、ジョアン、ディニスの三人。

Aコインブラのキンタ・ダ・ラグリマス(涙の館)には二つの泉があり、「愛の泉」はペドロ王子とイネスの密会したところ、そして「涙の泉」はイネスが殺害され、流した涙で出来たと言われている。

     (四)

この残酷非道な仕打ちに、ペドロ王子は激昂した。すぐさま父である王に対して軍隊を起こし、殺されたイネスの家族達と共に北上し、父の軍隊と戦おうとした。だが、母ビアトリシュの涙ながらの説得によってり父王と和解した。しかし、その内心ではイネスを殺されたことを赦(ゆる)す積もりは微塵もなかった。年老いた父王が亡くなり、王子が遂に王座に上る時が来た。そして即位するなり、国外に逃亡している、愛する者を殺した三人をあらゆる手を使って探し始めた。ペドロ王はフランスに逃げてしまったロペス・パシェコは逃したものの、ついにペドロ・コエーリョとアルヴァロ・ゴンサルヴェスの二人は捕らえることが出来た。二人はサンタレンにいる王のところに連行された。かねてからの復讐を果たすため、まず王はペドロ・コエーリョの心臓を生きたまま胸からえぐり出すこと、同じくアルヴァロ・ゴンサルヴェスの心臓を背中からえぐり出すことを命じた。彼らは地位の高い貴族であったが、こう取り扱われることで名誉をすべて失くしてしまう死であった。しかし王はこれだけでは満足せず、「玉葱(たまねぎ)とビネガーを持ってこい。このコエーリョ(ウサギ)にぶっかけてやる」と言い、それからその憎むべき者たちの心臓をかみ砕いたと言う。また一方で、王ペドロはとても美しい柩(ひつぎ)を作らせた。そして、イネス・デ・カステロの遺骸はコインブラのサンタ・クララ修道院から歴代の王たちの眠るアルコバサのサンタ・マリア修道院に移された。

(参考)

@心臓をかみ砕いたと言う・・・こうした激しい行動をとったため、ペドロ王は別名「残酷王」とも言われた。

Aあれほど妻に迎えたかった・・・ペドロ王は「実は七年前にブラガンサにおいて、イネスを正式な妻として娶(めと)った」と宣言した。つまり、イネスが殺害される2年前、1353年に二人は既に夫婦になっていた。

Bペドロ王の統治の時代には、飢餓もなく黒死病もなく、もはや戦争も起こらなかった。カステラ国とアラガオン国との友好関係を樹立させ、ポルトガルに平和をもたらした。その死の後、人々は「王が統治下さったこの10年間は、ポルトガルにはそれまでかつてない素晴らしい時代だった」と言われた。

「ペドロ王の棺」の写真はこちらへ(ペドロ王の石棺は六匹のライオンが支えている)

「イネスの棺」の写真はこちらへ(イネスの石棺はペドロ王によって処刑された人たちが支えている)

(小話446)「天竺(てんじく)の髪起(ほっき)長者」の話・・・

     (一)

天竺(インド)の舎衛国(しゃえいこく)に貧しい老人がいた。歳は八十で、物乞いをして世を渡っていた。妻を持っていたが、その妻は髪が長く、全ての人がこれを見てひどく羨(うらや)ましがり「この女の髪を、美人に付けたら、どんなに素晴らしいだろう」と噂していたので、この妻はこの髪のためにかえって情けない思いをしていた。ある夜、夫は「私たちは、きっと前世で善業を行わなかったので、貧乏人に生まれたのだろう。現世でまた善業を行わなかったら、後世もまたこのような身に生まれるだろう。だから少しでもいいから、善根を積みたいものだ」と嘆いた。すると妻が「この髪を売り、善根を行い、後世の糧(かて)としましよう」と言った。夫は「お前のこの世における宝はこの髪だけだ。それをどうして切ろうというのだ」と言って止めたが、妻は「この身は無常です。この世はこのままで終わっても構いません。ただ、後世のことを思うと、なんとも恐ろしいのです」と言って、髪を切ってしまった。妻はその髪を米一斗と交換し、飯(めし)を炊(た)き、二、三種のおかずを調(ととの)えて、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に持って行った。そして、老人夫婦は地位の高いお坊さんのいる部屋へ行って、供養したいと申し出た。地位の高いお坊さんは、女からわけを聞くと「この寺では、このようなお供えものを配る場合、一部屋だけで独占してしまうことはない。鐘を撞(つ)いて多くの僧たちの鉢を集めるから、それらに一合ずつ配りなさい」といい、鐘を撞いて三千人の鉢を集めた。

(参考)

@舎衛国・・・釈迦の時代、中インド、マガダ国((摩竭陀国)とコーサラ国(舎衛国)は並び栄えた。祇園精舎はこの南にある。

A祇園精舎・・・須達(すだつ)長者が釈迦とその弟子に寄進した寺((小話376)「須達(すだつ)長者と祇園精舎」の話・・・を参照)

     (二)

老人夫婦は驚いて「わたしたちは、この供養のために、三千人の僧たちに捕縛(ほばく)されて責められることになる。どういうつもりです」と言うと、地位の高いお坊さんは「そんなことは知らない」と言った。夫は妻に「一人の鉢に、飯をみな投げ入れて逃げ去ろう」と言って、一番目の鉢に飯を全部投げ入れてみた。だが、桶には飯が同じ様に残っていた。飯を鉢に入れなかったのかと思って、鉢を見れば、僧は飯を受けて去って行った。桶にも飯があった。不思議だと思いながらも、他の鉢に飯を入れた。また、桶には飯があった。このように配ってゆくうちに、いつしか三千人全員に配ってしまった。こうして供養がすんだ老夫婦は、喜んで帰って行く途中で、たまたま暴風に追われて、祇園精舎の近くに来ていた他国の商人の一団に出会った。彼らは食糧が尽き飢餓に苦しみながらこの場にやって来て、老夫婦に言った「今日は祇園精舎で僧侶を供養する儀式があると聞きました。われわれは飢え疲れています。どうか助けください」と飯を乞い求めた。飯はまだあったので、それを商人たちに与えた。商人たちは飯を恵んでもらい「飯を配ってくれた夫婦を見ると、身分卑しい貧乏人のようだ。われわれはこのお供えものを食べ、命を全うした。その恩に報いなければ罪が深いであろう」といって、各自が持っている金を三等分し、その一分をこの老人夫婦に与えた。合計した金はどれほどになったことであろう。老人夫婦はその金を得て帰り、大した長者となった。そして、その名を髪起(ほっき)長者と言われた。

 

(小話445)「完璧(かんぺき)」の話・・・

       (一)

中国の戦国時代、趙(ちょう)の国の恵文王(けいぶんおう)が持っていた「和氏(かし)の璧(へき)」と呼ばれる立派な「璧」(平らで中央に孔のあいた宝玉のこと)があり、それを秦(しん)の国の昭王(しょうおう)が欲しくなり「秦の十五の城と交換したい」と申し出た。恵文王は、「秦の国は、いずれ我が国を滅ぼそうとしている」と知っていたので、昭王の申し出を信用することができなかった。素直に「璧」を差し出せば、都市との交換の件をうやむやにされる、かといって、断れば、それを口実にして一気に攻めてくるかもしれない。恵文王が困っていると、藺相如(りんしょうじょ)が申し出て「王のために使者として秦に行く適当な人材は、私以外にはいないでしょう。もし、約束どおり十五の城市が手に入ったら璧は秦に置いてきます。秦が約束を守らなければ、璧を無傷のまま無事に持って帰りましょう」と言った。そして、藺相如は秦の都へ向かった。交渉の場で藺相如がまず「璧」を手渡すと、昭王は大喜びした。しかし、予想していたとおり交換条件のことは何も言わず知らん顔をしていた。

(参考)

@完璧・・・完璧とは、完全で欠けたところがないこと。完璧は「傷のない玉」が本来の意味で、原義は、大切なものを傷を付けずに無事に持ち帰ること。

A和氏(かし)の璧(へき)・・・春秋時代の楚(そ)に和氏(かし)という者が山中で見つけた名玉(めいぎょく)の原石を楚の脂、(れいおう)に献上した。鑑定の結果、ただの石と言われ、だました罰として左足を斬られた。和氏は、脂、が亡くなったあと、次の武王(ぶおう)に献上することにした。ところが、又、同じように「たいした価値のない原石だ」と鑑定されてしまい、だました罪として、今度は右足を切断された。和氏が老人になったとき、楚の王に文王(ぶんお)が即位した。原石が認められなかった老人は山で嘆いていたが、ある日、和氏の噂を聞きつけた文王が気になり召しだした。そこで原石を磨かせてみると素晴らしい名玉ができあがった。それが「和氏の璧」と名づけられ、和氏は恩賞を授かった(のち楚から「璧」を献上された)

B趙・・・中国、戦国七雄の一。晋の有力世族、趙氏が韓氏・魏氏とともに晋の領地を三分して諸侯となり成立。のち秦に滅ぼされた。

C秦・・・中国最初の統一王朝。周代の諸侯国の一、戦国七雄の一。始皇帝の時、六国を滅ぼして天下を統一したが、三代15年で滅んだ。

       (二)

そこで藺相如は「実は、その玉には小さなキズがありまして」と申し出て、説明するふりをしてその「璧」をさっと手にした。そして、部屋の入り口の柱まで下(さ)がると「あなたは、都市との交換のつもりがないようなので、この「璧」は私が持ち帰ります。もしそれをお許しなさらないのなら、ここで私の頭もろとも「璧」を柱に打ちつけて砕いてしまいます」と言った。昭王は、驚いて非礼を詫び、地図を見せて、交換する十五の城市を示したが、藺相如は、もはや信用せず、「璧」とともにそのまま帰国した。こうして「璧」は完全なままで、趙の恵文王の手元に戻った。藺相如は「完璧」の功績によって趙の上卿となり、当時、趙きっての名将軍、廉頗(れんぱ)より位が高くなった。もともと武人の廉頗は口先が器用である文人、藺相如に対して大変な不信感を持っていたが、彼の後塵を拝するこの人事にはたいそう憤慨した。しかし、藺相如は何度も頭を下げて「秦がいま、趙に攻めてこないのは廉将軍と私がいるからです」と文武両面の重要性を説明した。そうこうしているうちに、廉頗は藺相如に謝罪し、以後、二人は「刎頚之交」(刎頚(ふんけい)の交(まじ)わり)を結び、無二の親友になった。

(参考)

@都市との交換・・・秦の昭王が十五の都市と交換しようと申し出たことから「連城の璧」とも呼ばれている。

A「刎頚之交」・・・(小話281)有名な「刎頚(ふんけい)の友」の話・・・を参照。

B完璧・・・出典は史記(廉頗藺相如伝)

 

(小話444)「潔癖な美少年ヒッポリュトスと医術の天才・アスクレピオス」の話・・・

      (一)

ギリシャ神話より。ヒッポリュトスは、有名なアテナイ王テセウスとアマゾン族の女王ヒッポリュテの間に生まれた息子である。アマゾンの血を引く気性の激しい美少年ヒッポリュトスは、男女の愛を惰弱(だじゃく)な汚らわしいものとして忌み嫌い、純潔の処女神アルテミスだけを崇拝していた。女神もこの少年のひたむきな敬愛を喜んでいた。ところが、愛を侮蔑するヒッポリュトスの態度に愛と美の女神アプロディテが立腹し、エロスを呼びだして生意気な少年に復讐すべく、テセウスの妃で少年の継母(ままはは)でもある美貌のパイドラの心に金の矢を射らせて、義理の息子への恋心を燃え上がらせた。美しくも冷たいヒッポリュトスに対する王妃の禁断の恋は、テセウス不在の隙に老乳母を通じて彼に伝えられたが、父の妻である女性からの道に背く、継母の恋心など潔癖なヒッポリュトスにとってはこの世の何より汚らわしいものであった。少年に激しく拒絶されたことを知ったパイドラは、自らの命を絶つ覚悟を決めた。しかし、一人で逝(い)くつもりはなく、冷酷な仕打ちをしたヒッポリュトスに対して、強い憎しみを抱いていた。そこで、夫宛てに遺書を残して首を吊ってしまった。遺書には「こともあろうに、ヒッポリュトスが義理の母であるわたくしの身を汚しました」とあった。

      (二)

帰還したテセウス王は、この遺書を見て激怒した。真っ赤な偽りだという息子の言葉にも耳を貸さず、彼を王宮から追放し、さらにかつて三つの願いを叶えてやろうと言ってくれた海王ポセイドンに「おお神よ、不埒な我が息子に死を与えたまえ」と祈った。効果はてきめんで、追放処分に呆然としながら馬車を駆っていたヒッポリュトスは、突然、海から現れた怪獣に驚き暴れた馬を制御できず、馬車から転落し、暴走する馬に引きずられて若い命を散らしてしまった。使いの者からヒッポリュトスの最期を聞いてテセウス王が喜んでいると、そこへ、彼を諌(いさ)める声が聞こえてきた。女神アルテミスで、すべてを知っていたアルテミスは、テセウス王に真相を告げて、テセウスの軽率な行いを責めた。そして、狩猟と月の女神アルテミスはヒッポリュトスを哀れみ、兄でもある太陽神・アポロンの息子である稀代の名医である医術の神・アスクレピオス(母はコロニス)に「どうか彼を甦らせてやって」と頼んだ。アスクレピオスは叔母の願いに応えて、見事にヒッポリュトスの蘇生に成功した。息を吹き返し、もう二度と父の顔を見たくないというヒッポリュトスを女神アルテミスはイタリアへ連れていくと、ウィルビウス(再生した者)という名を与えて神とし、自分の祭祀(さいし)を執り行わせることにした。

(参考)

@アルテミスは、テセウスに真相を告げ・・・パイドラの老乳母が黙っていられなくて真相を告げたという説もある。

Aアスクレピオス・・・アスクレピオスは、神ではあったが不死でなく、死者を医術によって蘇らせたためにゼウスの怒りを買い、雷に討たれて死んでしまう。 

      (三)

一方、ヒッポリュトスを甦らせたアスクレピオスは、医術の天才で、その腕は師であるケイロンをも凌(しの)いでいた。彼にかかれば、死者さえも蘇えってしまうため、冥界の王ハデスは、自らの領域から死者が取り戻されていくのに腹を立て、神々の王ゼウスに対し、世界の秩序を乱すものと強く抗議した。そこで、ゼウスは死者を蘇らせることのないよう、アスクレピオスに命じた。ところが、叔母である女神アルテミスの依頼で、無実の罪で殺されたヒッポリュトスを、ゼウスとの禁を破って蘇らせてしまったのである。冥王ハデスは激怒し「冥王の権利を侵害した重罪人である」としてアスクレピオスを訴えたため、ついにゼウスは、雷霆(らいてい=烈しい雷)によってアスクレピオスを撃ち殺してしまった。ゼウスに可愛い息子アスクレピオスを殺されたアポロンは、仕返しに、ゼウスの雷を作ったキュクロプス達(一つ目の怪物)に矢の雨を降らせて皆殺しにしてしまった。怒ったゼウスは「一年間地上で人間の奴隷として働いて罪を償え」とアポロンをオリュンポスの山から追放した。こうして、罪のないキュクロプス達を殺した罰として、アポロンは奴隷として人間に一年間仕える、という罰を受けたのであった。

 

(参考)

@ケイロン・・・神々の二代目の王・クロノスとピリュラの子。半人半馬(ケンタウルス)族で大変に賢く、音楽、医術、予言の能力に優れ、狩りの名人でもある。やがて、彼は、テッサリア地方ペリオン山の洞窟に住み、イアソン、ヘラクレス、アキレウス、アスクレピオスなどの多くの英雄を育てた。

Aアスクレピオスを撃ち殺し・・・アスクレピオスは死後も医術の神としてギリシアの人々に崇拝され「蛇使い座」として天に上げられた(星座となったアスクレピオスが蛇を持っているのは、彼がいつも「アスクレピオスの杖」(一匹の蛇が巻きついた杖)を持っていたからだで、ある時、アスクレピオスは一匹の傷を負った蛇を見つけた。その蛇はアスクレピオスが見守る中、脱皮によって自らの傷をあっという間に治してしまったのが由来という)

Bキュクロプス・・・ウラノスとガイアとの息子たち。一つ眼の巨人で、卓越した鍛冶技術を持つ。キュクロプスとは「丸い目」の意味で、額の真ん中に丸い目が一つだけ付いている事に由来する。

C人間に一年間仕える・・・テッサリア王アドメトスのもとで羊飼いとして家畜の世話をさせられたという。

「アスクレピオスの診察」(エドワード・ジョン)の絵はこちらへ

「アイスクラーピウス(アスクレピオス)の神殿へ運ばれた病気の子供」(ウォーターハウス)絵はこちらへ

「アスクレピオスの像」の写真はこちらへ

 

(小話443)「昭候(しょうこう)と豚をごまかした司祭」の話・・・

昔、春秋時代のこと。韓(かん)では毎年、年が改まった正月には先祖を祭る祝祭が執り行われた。ある年の正月に、祝祭の供え物の豚が小さいと感じた昭候(しょうこう)は司祭にもう少し大きい豚に取り替えるよう命じた。司祭は再び豚を持ってきて供えたが、それを見た昭候は烈火の如く怒った「司祭。わしの目はごまかせんぞ。これはさっきと同じ豚ではないか」昭候はあれこれと言い訳する司祭を厳しく咎めて、ただちに免職を申しつけた。この一件は昭候の洞察勝ちであった。たしかに司祭は供え物の豚を横領していたのだった。後の目撃者の証言から明らかになったのである。この一件は昭候の威厳を持ち上げる形となり、皆がその洞察力を讃(たた)えた。ただ宰相の申不害(しんふがい)だけは、昭候に異を唱えた「殿下は司祭を免職になされたとか、証拠はつかみましたか?」昭候は自信ありげに言った「いや、わしはしかとこの目で同じ豚であることを見抜いたのだ。証拠など必要なかろう」「残念ながら我が国の法では実と名、つまり証拠と罪名を比べ合わせなければ罪に問うことはできません。今となってはおそらく豚は処分され物証は困難でしょう。今回は不問とするしかないようです」「なるほど、軽率であったか。肝に銘じよう」この出来事で昭候は君主のあり方、つまり君主は何も為さず、ただ法のみに因(よ)るということの意味を悟ったのであった。この法による体制は百官の襟を正して、申不害が宰相を勤めた間は、韓の国もよく治まって諸国から侵略されることもなかったのであった。

(参考)

@申不害・・・中国、戦国時代の思想家・政治家。老荘思想に基づき刑名の学を唱え、韓の昭侯の宰相として国力の強化につとめた。

 

(小話442)歌劇「ばらの騎士」の話・・・

    (一)

ここは陸軍元帥ヴェルデンベルク侯爵の屋敷。ヴェルデンベルク侯爵は遠くクロアチアへ狩りに出て留守であった。侯爵夫人(32歳)は久しぶりに青年オクタヴィアン伯爵(愛称カンカン、17歳)と一夜を共にした。そして、二人は朝の幸福な余韻(よいん)を楽しんでいた。すると不意に、玄関の方が騒がしくなった。玄関に来たのは従兄弟(いとこ)のオックス男爵であった。短気なオックス男爵は、召使に「いつまで待たせるのか」と怒鳴っていた。オクタヴィアン伯爵は小間使いの女に変装して夫人の寝室から出たところで、オックス男爵と出くわしてしまった。女ったらしのオックス男爵は、変装した綺麗な小間使いに一目ぼれして色目を使った。夫人は小間使いを田舎出のマリアンデルという娘だと嘘を言って、変装したオクタヴィアン伯爵を隣りの部屋へ引き下がらせた。従兄弟のオックス男爵は先ごろ貴族になった金持ちのファーニナル家の娘ゾフィーを花嫁にしたいと思い、その相談にウィーンの侯爵夫人を訪ねて来たのであった。ファーニナル家は、身分は低いが父親は資産家で病弱、娘のゾフィーはまだ幼さが残る美人であった。オックス男爵にとっては色と欲との願ってもない結婚相手である。オックス男爵は娘のゾフィーへの愛の証(あか)しに「銀のばら」を贈る使者の人選を依頼するためにウィーンに来たのであった。夫人はオクタヴィアン伯爵の絵姿を見せ、彼を「ばらの騎士」に推薦した。オックス男爵はオクタヴィアン伯爵に「ばらの騎士」の役を引き受けて貰うべく「銀のばら」を伯爵夫人に差出して帰って行った。そこへ先ほど小間使いのマリアンデルに変装したオクタヴィアン伯爵が乗馬姿に着替えて入ってきて、甘い愛の言葉を侯爵夫人に伝えたが、侯爵夫人はそれをさえぎるように「いつか自分を捨てて若い女性のもとに行ってしまうだろう」と言った。オクタヴィアン伯爵は「そんな事は絶対にない」と激昂し退室してしまった。一人になった侯爵夫人は、鏡を見つめて呟いた「私が若かったなんてどうして信じられるかしら、このままやがてお婆さんになってしまうなんて・・・私の可愛いカンカンは、いつか若い娘と結ばれて私の元から去っていく、時間を止めてしまいたい」

(参考)

@私が若かった・・・32歳にしては悲観的だが、寿命の短かったこの時代の32歳はすでに人生の下り坂だった。侯爵夫人32歳とオクタヴィアン伯爵17歳、15歳の年の差は親子みたいなものであった。

    (二)

オックス男爵の使者、オクタヴィアン伯爵が「ばらの騎士」となってゾフィーのもとへ「銀のばら」を届ける日が来た。ファーニナル家は貴族との結婚の儀式に大騒ぎであった。オクタヴィアン伯爵は供を従え豪華な身なりで「銀のばら」を携えて入ってきた。オクタヴィアン伯爵とゾフィーはお互い一目見て心をひかれた。挨拶の後、ゾフィーは、オクタヴィアン伯爵のことについてよく知っていて、カンカンと言う愛称まで知っていた。快活なゾフィーの可憐さにオクタヴィアン伯爵はますます心を奪われた。そこへ、ゾフィーの父親のファーニナルがオックス男爵と入ってきて娘のゾフィーに「未来の花婿だ」と紹介した。オックス男爵は、横暴にもすぐにゾフィーを膝に抱こうとしたので、ゾフィーは困惑し、嫌悪を抱いた。オクタヴィアン伯爵もオックス男爵の下品な振る舞いに怒りがわいた。ゾフィーは男爵が退室したのをとらえオクタヴィアン伯爵に男爵との結婚を妨害する手助をして欲しいと懇願した。そして、お互いが愛を告白し、二人が思わず口づけを交わしたところを、オックス男爵の供の者が見つけて男爵に報告した。伯爵は男爵にゾフィーは結婚する意思がないと告げるが、男爵は結婚証書に署名するよういやがるゾフィーの手を引いて別室に行こうとした。オクタヴィアン伯爵は怒って剣を抜きオックス男爵に挑んだ。臆病なオックス男爵も剣を抜きへっぴり腰で伯爵に切りかかり格闘するうち腕を刺され、男爵は大げさにわめき騒いだ。ファーニナルは騒ぎに驚いて入ってきてオクタヴィアン伯爵をなじり退室を求め、結婚を拒否する娘に「承諾しなければ修道院に行け」と脅した。伯爵がいなくあなると男爵は急に強がりをみせ伯爵を非難した。そこへ男爵あてに小間使いのマリアンデルから日暮れに逢いたいという恋文が届いた。これで男爵はいっぺんに上機嫌になって、部屋を出て行った。

    (三)

オックス男爵の従者ヴァルツァッキは同じ従者のアンニーナが喪服姿の夫人に変装するのを手伝っていた。二人は小間使いのマリアンデルからの恋文をオックス男爵に届けた際、マリアンデルに変装したオクタヴィアン伯爵からは財布ごとのお礼をもらったが、オックス男爵からは相手にもされなかったので、仕返しを企(たくら)んでいた。オックス男爵がマリアンデルを居酒屋の一室に連れてきて、接吻をしようとすると、そこへ喪服を着た夫人に変装した従者のアンニーナが「男爵は私を見捨てた夫だ」とわめきながら入ってきた。後ろからきた4人の子ども達も「パパ、パパ」と叫んだ。驚いた男爵は夜警で通る警官たちを呼びいれて、部屋を捜査するよう命じた。しかし、逆に警部はオックスが男爵である事に疑いもち尋問を始めた。オックス男爵は、マリアンデルを許婚(いいなずけ)だと紹介し名前はゾフィーであると言った。そこへ「宿でオックス男爵が危ない目にあってる」と男爵の従者からの伝言を受けたファーニナルが入ってきた。慌(あわ)てた男爵はファーニナルを許婚(いいなずけ)の父ではなく縁者だと紹介したが、ファーニナルから「婿殿」と言われ、言い訳が効かなくなってしまった。このため、ファーニナルは男爵の本性を知り、外に待たせておいた娘のゾフィーを呼び入れてオックス男爵の破廉恥ぶりを非難した。小間使いマリアンデルに変装したオクタヴィアン伯爵は、警部に計画の全てを話した。やがて、男爵の従者の知らせで侯爵夫人が現れ、オックス男爵に名誉を重んじて立ち去るように忠告した。そこへオクタヴィアン伯爵が正装して入って来た。オックス男爵は小間使いのマリアンデルの正体を知って、腹立たし気に立ち去った。部屋にはオクタヴィアン伯爵、ゾフィー、侯爵夫人の3人だけなった。侯爵夫人はオクタヴィアン伯爵にゾフィーの愛を受け入れるよう諭(さと)して部屋を出て行った。オクタヴィアン伯爵はゾフィーをかき抱き二人は喜び合った。

(参考)

@ワルツで有名なリヒャルト・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」(台本はオーストリアの文学者ホフマンスタール)より。

A歌劇「ばらの騎士」は上演後、ウィーンで大流行し「ばらの騎士」特別列車まで運行されたという。実際、「ばらの騎士」という慣例はフィクションである。

 

(小話441)「葛城の女神と山伏」の話・・・

      (一)

能の「葛城(かずらき)」より。昔、役小角(えんのおづの)という修験道の祖である行者(ぎょうじゃ)がいた。仏教流布のため葛城山(かつらぎさん)で、そこから神山(かみやま)に渡るのに葛城の女神に岩橋を渡せと命じた。しかし、葛城の女神は顔が醜いことを恥じて、昼は仕事をせずに、夜にだけ仕事をしたため約束の期限に間に合わなかった。役小角は怒って不動明王に命じ、その罰として、蔦葛(つたかづら=つるくさの総称)で七回りも縛って岩戸に封じ込めてしまった。そのため三熱の苦しみが葛城の女神をおそった。やがて時がたち、あるとき出羽の国、羽黒山の山伏が葛城山に修行のため山に入った。時は真冬で、降りしきる雪に困っていると一人の女性が現れ、谷かげの庵(いおり)に山伏を連れて行き、細い木の枝を焚(た)いてもてなした。明け方、山伏が「後夜(ごや)の勤行」を始めようとすると、女は自分には三熱の苦しみがあるから加持祈祷をして、助けてもらいたいと頼んだ。不審に思った山伏が詳しい話を求めると、女は昔、岩橋を架けなかった咎(とが)めとして不動明王に蔦葛で体を縛られている葛城の女神であると正体を明かして消え去った。

(参考)

@役小角・・・奈良時代の山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国の葛城山に住んで修行した。役行者(えんのぎょうじゃ)ともいう。

A三熱・・・仏教では龍に三熱の苦痛(熱風や熱砂に身体を焼かれる苦しみ、ひどい風が吹いて家や衣服を飛ばされてなくしてしまう苦しみ、それから金翅鳥に襲われ喰われそうになる苦しみ)ありと説く。それが神に転用されている。

B後夜の勤行・・・午前4時ごろの勤行。

      (二)

山伏が夜もすがら呪縛(じゅばく)を受けた葛城の女神のために祈祷をしていると、再び現れた葛城の女神は、真っ白い装束で、山伏の祈祷のおかげで三熱の苦しみを免れたことを感謝した。そして、雪が映える月の光りの明るさにも関わらず「見苦しき顔で恥ずかしいけれども構うものか、さぁ、大和舞を舞おう」と、一大決心して山伏の前で昔から伝わる土着の舞である大和舞を披露した。しかし、舞い終わると「神の顔かたち面(おも)はゆや。恥ずかしや。浅ましや」という地謡(じうたい)に合わせて葛城の女神は、顔を隠しつつ夜明け前に岩戸の中に引きこもってしまった。

(参考)

@地謡・・・6〜12人によって斉唱される謡。

 

(小話440)「狂恋の男女一体・美少年ヘルマフロディトスと妖精サルマキス」の話・・・

       (一)

ギリシャ神話より。妻である美と愛の女神・アフロディーテ(ビーナス)が軍神アレスと密会していること知った夫の鍛冶の神・ヘパイストスは細い、透(す)き通った糸で魔法の網をこしらえて、それを寝室にそっと仕掛けておいた。罠を掛けれられているとも知らずに、アフロディーテとアレスは寝室に入った。そして、蜘蛛の巣のような網がかぶさって二人は裸で抱き合ったまま動けなくなってしまい、神々一同の笑いものになった。それを見て「相手が美の女神・アフロディーテならあんな目に遭ってもいい」と物好きにも思ったのが神々の伝令役・ヘルメス神であった。早速、彼は愛と美の女神アフロディーテを口説いた。そして二人の間にはヘルマフロディトスが生まれた。彼は生れ落ちるとニンフ(妖精)たちに育てられた。やがて、ヘルマフロディトスは美の女神・アフロディーテ譲りの美貌の少年に成長した。しかし、このヘルマフロディトスは両親に似ず、大変に純情な少年だった。

(参考)

(小話283)「美と愛の女神・アフロディーテ(ビーナス)と軍神アレス」の話・・・を参照。

       (二)

美少年ヘルマフロディトスは15歳の時、リキュアを訪れた。そして、サルマキスの泉に着いた。この泉にはニンフ(妖精)のサルマキスがいた。このニンフは、狩猟の女神・アルテミスの従者と違って狩(かり)をすることは無く、いつも泉に写る自分の姿を見ながら髪をとかしていた。サルマキスは美しいヘルマフロディトス少年を見かけると、一目で灼熱の恋に落ちてしまった。ところが、彼女のことが気に入らなかった少年は、すげなく追い払うばかりだった。それでも諦められないサルマキスは、一旦、立ち去ったふりをして物陰からそっと彼の様子を伺った。そのうち彼が夏の暑さに水浴しようと、何も知らずに彼女の支配するサルマキスの泉に飛び込んだのを見ると、すかさず自分も飛び込んで水中でその身をしっかりと抱きしめ「永遠に二人が離れることのないようにして下さい」と神々に祈りを捧げた。祈りは聞き入れられた。あっという間に彼女は恋しい少年と融合を果たし、吸収されたニンフの姿が消え失せた後には、男女一体となったヘルマフロディトスだけが取り残された。こうして二人は、どちらの性ももたぬようでいて、どちらの性ももっているような一つの存在になった。以来、ヘルマフロディトスは両性具有になり、豊満な乳房をもった青年となった。やがて、サルマキスの泉に入った者が男なら、出て行くときは半ばだけの男となり、水の力で男性としての働きを失くなると言い伝えられるようになった。

(参考)

「ニンフのサルマキスとヘルマフロディトス」(フランソワ=ジョゼフ)の絵はこちらへ

「ニンフのサルマキスとヘルマフロディトス」(スプランヘル)の絵はこちらへ

「サルマキスとヘルマプロディートス」(ホッサールト)の絵はこちらへ

 

(小話439)「美しい黒姫と大蛇(だいじゃ)」の話・・・

    (一)

民話より。昔、信州の山のふもとの城に、黒姫という美しいお姫様がいた。ある日のこと、城の殿様が黒姫をともなって花見に出かけると、そこに一匹の白いヘビが現われた。黒姫はヘビを怖がることなく杯をふるまってやると、ヘビは酒を飲み干(ほ)し、去りがたそうに姫を見上げていた。その晩のこと、一人の立派な若者が黒姫をたずねて来た。若者は姫に、竜をかたどった鏡を贈ると、霧のように消えてしまった。黒姫は、気高く美しいこの若者に心ひかれた。数日後、再びたずねて来た若者に殿様が会うと、彼はこう言った「自分は大沼池の主である大蛇です。白ヘビに化(ば)けて散歩していた時に出会った黒姫が忘れられず、こうして参上しました」若者は黒姫を我が妻にと頼んだが、人ならぬ者に大事な娘をやれないと、殿様は若者を追い返してしまった。しかし、それから何日も何日も、大蛇の青年は人の姿をとって殿様の前に現れ、同じ願いを繰り返した。そうして100日が過ぎた頃、殿様はある話を若者に持ちかけた。「わしが馬に乗って城を21回まわる。遅れずに付いて来れたら、お前に姫をやろう」

    (二)

こうして殿様と大蛇の青年の力くらべがはじまった。若者は負けじと殿様の後を追い駆けたが、殿様は馬の名手で、なかなか追いつく事が出来なかった。彼は次第に苦しくなり、ついに大蛇の姿を現してしまった。大蛇に姿を変えた青年を、橋の下に隠れていた殿様の家来達が、刀で切りつけた。見る見るうちに血は流れ、大蛇は息もたえだえになった。それでも大蛇は21回、城をまわり終えた。しかし、傷つき、見るも恐ろしい姿になった大蛇に、殿様は言った。「お前のような異形の者に、姫をやれるか。さあ帰れ、さもなくば切り殺すぞ」大蛇はついに激怒した。「さんざん礼を尽くした結果がこれか」大蛇はそう叫び、かき消えたかと思うと、あたりは真っ暗になり、激しい嵐となった。あちこちで洪水が起こり、人々は悲鳴をあげて逃げ惑(まど)った。そのありさまに黒姫は、いてもたってもいられなかった。「お父様、なんてひどいことを。大蛇との約束を破った上、傷つけて帰すなんて、人としてあるまじきこと」黒姫は庭へ走り出ると、大蛇の青年がくれた鏡を空へと投げて叫んだ。「大蛇よ、私はあなたのもとへ行きましょう。だから嵐をしずめて下さい」鏡はキラキラと光りながら空へ吸い寄せられたかと思うと、たちまち大蛇が降りてきて黒姫を背に乗せ、再び空へと駆けのぼっていった。

    (三)

黒姫は大蛇の背から見える風景に、目を覆(おお)った。城下の家々や畑が流され、あたり一面は洪水により川原と化していた。大蛇は山の頂に静かに下(お)りた。大蛇の背中から降りると、黒姫は涙を流して言った。「大蛇よ、あなたはなぜ、あんなひどいことをしたのですか?罪なき村人を巻き込むなんて」黒姫の言葉に、猛々(たけだけ)しい大蛇もその目に涙浮かべて答えた。「許してください、姫。人間に裏切られたと知った時、私の心には、自分でもどうにもならない荒れ狂うものがあったのです。しかし姫のやさしい心に触れ、私の心も生まれ変わることが出来そうです」こうして黒姫と大蛇はこの日より、この山で共に暮らすようになった。そして以後、人々はこの山を「黒姫山」と呼ぶようになったという。

 

(小話438)「銀河を旅した人」の話・・・

中国の昔話より。天の川と海とが通じていた、ほんの少し昔のこと。海のほとりに住んでいた一人の男性が、毎年必ず八月になると、浮き木の流れてくるのを不思議に思っていた。そこで、ある年、その浮き木を追うために、筏(いかだ)を作り、筏の上に小屋を建て、食料を蓄えた。そして浮き木を追って、川へ漕ぎ出した。十日あまりの間は、太陽や月、星座などを見ることができたが、その後は、太陽や月、星がぼんやりとして、昼とも夜ともつかなくなった。それからまた十日あまりが過ぎたある日、城のある町に辿りついた。そこは、機を織っている女性が多く、波打ちぎわでは一人の男性が牛を引いて来て水を飲ませているのを見た。その男性に「ここは何処ですか?」と尋ねると「帰ったら蜀(しょく)へ行って、厳君平(げんくんぺい)に聞いてみるといい。きっと答えてくれるだろう」と言った。それで岸には上がらずに川をもとのように下って蜀に行き、天文の名人といわれた厳君平に尋ねたところ「ある年、ある月のある日、見なれぬ星が、牽牛星(けんぎゅうせい)に近づいて行ったが、あの星があなたでしたか」と答えたという。

(参考)

@    牽牛星・・・七夕(たなばた)伝説の天の河をへだてて織女と対する彦星(ひこぼし)のことを中国では牽牛星という。