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(小話360)「百夜通いの恋」の話・・・
     (一)
古今集の六歌仙(ろっかせん=在原業平・遍昭・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町)の一人で、美人で名高い小野小町は出羽の国に生まれた。そして、十三歳の頃、上京して宮中に仕えた。歌の才能と、美貌を兼ね備えていた小町に、恋心を抱く男性は多かった。ある時、小町が出羽に帰郷すると、そのあとを京の都から追ってきた男がいた。六歌仙の一人である、深草少将(ふかくさしょうじょう)という男である。深草少将は小町に、逢いたいという手紙を送ったが、小町は少将にこう言った。「私を慕って下さるのなら、庭の生垣(いけがき)に、わたしが幼い頃、都にたつ時植えていった芍薬(しゃくやく)があります。それが不在中に残り少なくなって悲しんでいるのです。だから生垣に毎日一株ずつ芍薬を植えて、百株にしていただけませんか。約束どおり百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」少将は喜んで、姥(うば)にいいつけて野山から芍薬を堀り取らせて、植え続けることにした。そして明けても暮れても毎日一株ずつ植えては帰っていった。
(参考)
@深草少将は名前ではない。深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味で、モデルは僧正・遍照(花山僧正と呼ばれて七十五歳で死去)。彼は出家前は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、天皇に仕える役職は宮中の警護の近衛少将であった。
    (二)
実は、その時、小町は疱瘡(ほうそう)を患(わずら)っていた。少将が百夜も通う頃には、疱瘡も直るころだろうと、密(ひそ)かに近くの寺の薬師寺如来に日参し、寺にある清水(しみず)で顔を洗って一日も早く治るようにと祈っていた。そんなこととは露知らず、少将は一日も欠かすことなく、九十九本の芍薬を植え続けた。そしていよいよ百日目の夜を迎えた。「今日でいよいよ百本目だ」小町と晴れて会える日が来たのだと、今までの長い辛苦の思いも消え去り、歓喜で胸が高鳴った。少将は、従者が「今宵はお止(よ)しになっては」との言葉もきかず、「百夜通いの誓いを果たさねば」と、九十九日夜も通い慣れた路を、百本目の芍薬をもって小町の元に向かった。しかしこの夜は、雨が降り続いたあとで、氾濫した川の橋を渡っていたとき、突然の不幸が少将を襲った。橋が川の流れに負けて少将は橋ごと流されてしまった。こうして少将は、最後の一夜を前にして小町に会うこともなく息をひきとった。小町は深い悲しみに暮れ、深草の少将を手厚く埋葬した。
(参考)
@少将は橋ごと流されてしまった・・・九十九日目の雪の日に少将が代役を立てたのを小町は知ってしまい、愛想を尽かして小野は里の子供達と楽しく余生を過ごしたという話や小町は榧(かや)の実で少将の通った日を数えていた。ところが少将は九十九日目に大雪に遭い凍死してしまったという話もある。
A思いつつ 寝ればや人の見えつらん 夢と知りせば 醒めざらましを(愛しい人のことを想いながら眠り、愛しい人の夢をみた。しかし起きた瞬間にそれが夢だとわかり、夢と知っていたら目覚めずに眠っていたかった)・・・小野小町(古今集)
B薮椿で有名な、山口県萩市の笠山で「萩小町」と付けられた椿の隣に見つけられた椿が深草の少将 (フカクサノショウショウ)と名付けられた。
(小話359)「八百歳の比丘尼(びくに)」の話・・・
      (一)
民話より。昔、ある村の長者が近くの百姓を屋敷にまねいて、日頃の労苦に報いて御馳走(ごちそう)を出した「みなさんよくお出で下さった。さあ、今日は遠慮なく食事して下され」みんなは御馳走が出来るのを楽しみに待っていた。だが、お腹(なか)をすかせた一番の食いしん坊の男が便所からもどるとき、我慢できなくなって台所をのぞいた。「長者どん、いったい何を御馳走してくれるんだべか? きっとすげえ御馳走を下さるにちがいない」そっとのぞいて見て、食いしん坊の男はびっくりした。何と台所では人魚の肉を料理していたではないか。男はその事を仲間のみんなに知らせた。「人魚の肉とは気味が悪い。断わるわけにもいかねえから、家に持って帰るふりをして、途中ですてっちまおう」。
      (二)
  ところが集まった百姓のうち、一人だけ耳の遠い男がいた。みんなの話がよく聞こえなかった。事情を知らないその男は、長者の家で出された御馳走をそっくり家に持って帰った。その男には若くて美しい娘がいた。男はさっそく娘に料理を食べさせた。むかしから人魚の肉を食べると年を取らないと言われていた。その娘もそれからほとんど年を取ることもなく、いつまでも若く美しいままであった。最初は、いつまでも若く美しい娘を、里人はうらやましがった。が、時が流れるにつれ、いぶかしむ者もでてきて、化け物ではないかという噂も広がった。村にいづらくなった娘は、一人さびしく村を去った。そして、遠く若狭の国へ行って尼さんになった。その後、尼さんとなった娘は諸国を放浪し、何百年かのちに故郷に戻り、その地で亡くなったという。
(小話358)「美しき月の女神・セレネ」の話・・・
     (一)
ギリシャ神話には、二人の月の女神(アルテミスとセレネ)がいる。その一人、月の女神セレネの話。昼の間は太陽神ヘリオスが太陽の戦車にのって、日を照らしながら西方オケアノスの国に沈み火炎車を納めると、兄ヘリオスに替(か)わって孤独を愛する月の女神セレネが、東の空に二頭立ての馬車を御(ぎょ)して現れ、天界を駆け巡っていた。人々の喧騒(けんそう)がやみ 寝静まった夜空を彼女は毎夜、静かに二頭立ての馬車を御していた。他の神々たちは蒼(あお)ざめて、冷たい処女神セレネをからかったり、誘惑したりするが、彼女からは何の反応も返ってこなかった。ある夜、いつもと同じように寝静まった夜にひとり二頭立ての馬車を御(ぎょ)していた彼女は、遥かかなたの平原に羊たちに囲まれ眠っている羊飼いの男に目をとめた。若い羊飼いのエンデュミオンである。彼の寝顔は、遠くから眺めても輝くばかり美しかった。彼に魅(み)せられた女神セレネは彼をもっと良く見たいと馬車を下界へ降(お)ろした。彼女は地上に馬車を降ろすと、馬車からおりて、彼の傍らに静かに近づいた。かすかに寝息をたてているエンデュミオンのその美しい横顔に、彼女は魅(み)せられていった。次の夜も、そしてまた次の夜も、セレネは彼が横たわる草原に近づくと、二頭立ての馬車を地上におろして彼の傍らで少しの時間を過ごすようになった。
(参考)
@月の女神セレネ・・・兄の太陽神ヘリオスが昼の世界で起こることすべてを見張っているのと同様に、月の女神セレネは夜の世界の監視者で、彼女の光のお陰で旅人は道に迷わずに済み、暗闇で悪事を働こうとする者には月の光で照らしだし、その行いを封じて夜の安全を保っているである。
Aオケアノス・・・海神で、大地の果てにある世界を取り巻く川であり、海も川の泉も、その川、海神オケアノスから流れたものであるという。
     (二)
最初のうちは、彼女もただ彼の傍(かたわ)らで寝顔を見ているだけで良かった。幾晩もの時を過ごしてゆくうちに、彼女は少しづつ大胆になっていった。やがて、彼に見惚れてしまったセレネは、エンデュミオンの夢の中に入って、夢の中で激しい恋をした。夢の中で彼女は彼に触れ、くちづけをし、そして結ばれた。エンデュミオンの方はというと、毎夜、夢の中にとても美しい女性が現れては、楽しい一時を過ごして、朝方消えてゆくことを不思議に思っていた。しかし、冷たい美しさを持ちながらも、彼を見つめる瞳は優しさにあふれていて、次第に彼は彼女の虜(とりこ)になっていった。そんな逢瀬(おうせ)が何日も何日も続いた。そのうちセレネは、夢での逢瀬だけで物足りなくなり、彼をつねにそばにおいて置きたくなった。そこでセレネは、エンデュミオンの頬を優しくなでながら言った「エンデュミオン、大切なエンデュミオン。このまま生きて醜く老いていくのと、永遠に眠り続けて美しく若い姿でいるのと、どちらがいい?選びなさい」「永遠の若さをください」とエンデュミオンは夢うつつに答えた。女神セレネは大神ゼウスの元に赴(おもむ)いた。そしてセレネはこう願い出た「エンデュミオンの永遠の命を乞いたい」と。ゼウスはこの願いをきき入れた。こうして、この美しい羊飼いの青年エンデュミオンは眠り続けることで永遠の命を与えられた。
(参考)
@永遠の命・・・女神セレネがエンデュミオンにキスをすると永遠に眠りについたという説もある。
     (三)
女神セレネはエンデュミオンをカリア地方ミレトスの北に聳(そび)えるラトモス山の洞窟に運びこんだ。こうして眠れる美しい羊飼いの青年エンデュミオンはセレネと生涯をともにすることになった。しかし、若さと美しさこそとどめているものの、眠り続けるだけのエンデュミオンは、女神セレネの愛には応えてはくれなかった。それでも、セレネはエンデュミオンのもとへ毎夜、通(かよ)い続けた。そして、女神セレネは彼と夢の中で交わり、彼との間に50人の娘たちを生んだ。その後、カリア地方の人々は、エンデュミオンのためにラトモス山に神殿を建てた。こうして、今でもエンデュミオンはラトモス山の洞窟に永遠に眠り続けているといわれている。
(参考)
@50人の子供たち・・・これほどの娘をもうけた後でも、セレネの愛は衰えなかった。空を行く月がラトモス山の陰に隠れたら、女神が恋人の所に訪れている証(あかし)であると言われる。魔女メディアなどはこれを利用して、自分が闇夜を欲するときには月の女神・セレネに術をかけてエンデュミオンへの恋心を燃え立たせ、望むがままに月の姿を空から消したという。
A詩人テオクリトス(前三世紀)の詩より。
「羊飼いエンデュミオンが、彼の羊の群を牧にはなしているとき、月神セレネが、彼を見て恋して、後を追った。天から下りて、ラトモスの牧場に来て、彼にキスして傍らに身を横たえた。祝福された少年は身じろぎもせず寝返りもせず、永遠にまどろむ、羊飼いのエンデュミオンは」
「眠れるエンデュミオン」(ジロデ)の絵はこちらへ
「エンデュミオン」(アーサー・ヒュース)の絵はこちらへ
「エンデュミオン」(ワッツ)の絵はこちらへ
「ディアナ(アルテミス)とエンデュミオン」(ウォルター・クレイン)の絵はこちらへ
「セレネ(アルテミス)とエンデュミオン」(プッサン)の絵はこちらへ
「ディアナ(アルテミス)とエンデュミオン」(フラゴナール)の絵はこちらへ
「エンデュミオンの夢」(ポインター)の絵はこちらへ
(小話357)「牡(おす)の鹿がみた夢」の話・・・
「万葉集」の歌に「名児(なご)の海を 朝(あさ)漕(こ)ぎ来れば 海中(わたなか)に 鹿子(かこ)ぞ鳴くなる あはれその鹿子」(現代訳=朝、名児(なご)の海に船を漕いでいたら、海のただなかで鹿が鳴いている、ああ何といとおしい鹿よ)がある。
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  昔、摂津の国の刀我野(とがの)というところに、牡(おす)の鹿がいた。嫡妻(むかいめ=正妻)の雌の鹿は同じ刀我野に住んでいたが、側妻(そばめ=めかけ)の雌の鹿は淡路の野島(のじま)に住んでいた。牡の鹿はしばしば野島に行って側妻の雌鹿と愛し合っていた。ある朝、牡の鹿は嫡妻の雌鹿に言った「ゆうべ、こんな夢をみた。背中に雪が積もる夢と、ススキが生えた夢だ。いったい何の印(しるし)だろう?」嫡妻の雌の鹿は、夫がまた側妻のところへ行ってしまうことを憎み、偽りの夢占いをして「背中にすすきが生える夢は、猟師の矢が、いっぱい刺さるという暗示です。また、背中に雪が積もるということは、肉が塩漬けにされるということです。あなたが、野島に行こうとすると、必ず、猟師に出会って、射殺されるでしょう。どうか、どこにもいかないでください」と訴えた。しかし牡の鹿は側妻の雌鹿恋しさに耐えきれず、また野島へと泳いで行った。すると偽りの夢占いが現実となって、牡の鹿は海を泳ぎ、もうすぐ淡路島へたどりつくという少し手前で、浅瀬の岩にあがって、休んでいたところを、船に乗った猟師が突然あらわれて射殺(いころ)されてしまった。このため人々は、刀我野の地を牡鹿が不思議な夢を見た野原(のはら)であることから刀我野を「夢野」(ゆめの)と呼ぶようになったという。
(小話356)「二十八歳の老婆」の話・・・
フランス革命の頃、イギリス人の農学者であるアーサー・ヤングがフランス各地を旅行しては、農学者の目で革命前夜の社会情勢を鋭く観察した。これはその最も有名なものの一つで、時はバスティーユ襲撃が起こる二日前。イギリス人の農学者ヤングがフランスの一地方を、馬を休ませるために長い坂道を歩いて登っていたとき、貧しい女性と一緒になり、さまざまな話をした。「私の夫は小さな土地と、牝牛(めうし)一頭と小さなやせた馬を一頭持っているだけなのに、一人の領主様には四十二リーヴルの小麦と三羽の雛(ひな)を払わなければなりません。もう一人の領主様には、九十リーヴルの燕麦(えんばく=からすむぎ)と一羽の雛(ひな)と一スーの貨幣を払わなければならないんです。もちろん、この他にも人頭税や他の税金があります。子供は七人いますが、牝牛のお乳はスープを作る足(た)しになってくれます」「それならなぜ馬を売って牝牛をもう一頭買わないのかね」「とんでもございません。そんなことをしたら、夫は作物を運ぶことができなくなります。偉い人たちが私達、貧乏人のために何かをしてくださるらしいけれど、誰が何をしてくれるのかさっぱりわかりません。でも、神様がもっと良くしてくださるにちがいありません」この女性は、農作業のために腰が曲がり、顔は皺(しわ)で硬くなっていた。近くで見ても六十歳か七十歳に見えた。でも、本人は二十八歳であると言う。実年齢よりも三十歳以上老けて見えることは異常なことだが、当時の農婦達は男性よりも厳しい労働をしていた。その過酷な労働は、体の均整や女性らしさを完全に破壊していた。この農婦一人が特別に老(ふ)けていたわけでもない。イギリスの農婦も大変な仕事をしていたはずだが、フランスの農婦の過酷さはすさまじいものがあった。ヤングはこの両国の違いを一言(ひとこと)「政治による」と断言した。
(小話355)有名な「四知=天知る、地知る、子知る、我知る」の話・・・
    (一)
後漢時代の中国は、宦官(かんがん)が官僚社会を支配していて、政治が大変に腐敗した時代であった。あるとき、楊震(ようしん)という官僚が東莱郡((とうらいぐん)の太守に任命された。楊震が東莱郡に向かう途中、昌邑(しょうゆう)という場所を通った。そこのある宿に泊まっていたとき、夜遅くに、昌邑の県令(県の長官)の王密(おうみつ)という人物が、ひそかに彼を訪ねてきた。「太守さま、お久しゅうございます。荊州(けいしゅう)でお引き立てをいただいておりました王密でございます」[ああ、しばらくだったね」楊震は、王密のことをよく覚えていた。かって楊震が荊州の監察官に任じられていたころ、その高い学識を見込んで取り立ててやった男である。二人は大いに昔話に興(きょう)じていたが、そのうちに、王密が懐(ふところ)から金十斤を取り出して楊震に贈ろうとした。金十斤といえばかなりの大金である。しかし、楊震は、穏(おだ)やかながらも、きっぱりと王密の申し出を断った。「私は、今でも君の高い学識と人となりもはっきりと覚えている。それなのに君は、私がどういう人間であるかを忘れてしまったのか?」「いいえ、太守さま。太守さまがどれほど高潔なお方であるかは今でも肝に銘じております。ですが、この金は決して賄賂(わいろ)のようなものではありません。ただ、昔の御恩へのほんのお礼の気持ちなのです」
    (二)
「君は、私が見込んだどおりに立派に成長して県令になった。これからもまだまだ栄進して、世のために尽くすだろう。私に対する恩返しは、もうそれで十分に果たしているではないか」「太守さま、そんなに堅苦しくお考えにならないでください。それに、こんな夜中ですし、また、この部屋には太守さまと私の二人しかおらず、誰も知らないのですから」この言葉を聞いて、一瞬、楊震の目が鋭く光ったが、なおも穏やかに王密を見つめて、静かに王密を諭(さと)した。「誰も知らないということはないだろう。まず、天が知っている。神が知っている。それに君も知っている。私だって知っているではないか」この言葉に、さすがに王密は恥じ入って引き下がった。楊震は清廉潔白な人間で、内緒の贈り物など、絶対に受け取らなかった。それで、子や孫は粗食に甘んじ馬車も持てないほどの暮らしぶりだった。楊震の知り合いはこれを見かね、子孫の為に資産をを造ってやれと助言したが、楊震は言った。「清白な官吏の子孫という誉(ほま)れを遺(のこ)してやるのだ。それが最高の遺産ではないか」その後、楊震は、安帝(あんてい)の時に大尉(兵事をつかさどる最高官)の位にまでのぼりつめた。しかし、やがて宦官の讒言(ざんげん=事実をまげ、いつわって告げ口をすること)によって失脚するのであった。
(参考)
@宦官・・・去勢された男子で貴族や宮廷に仕えた者。古代オリエント・ギリシャ・ローマ・イスラム世界にみられ、中国では春秋戦国時代に現れてしばしば権力を握り、後漢・唐・明の滅亡の一因をなした。
A天が知っている。神が知っている・・・「十八史略」では「天知る、地知る、子知る、我知る、寧(な)んぞ知るもの無しといわんや」(天が知っている。地も知っている。お前も知っている。私も知っている。どうして知るものがいないと言えるのか)。「後漢書」では「天知る、神知る、子知る、我知る」・・・「子知る」の「子」は「二人称=あなた」のこと。
(小話354)「美しい娘と人魚塚」の話・・・
        (一)
民話より。むかし、遠くに佐渡ヶ島が見える雁子浜(がんごはま)という小さな村に、明神さまのお社(やしろ)があった。夜になると、漁師たちの挙(あ)げるたくさんのロウソクの火が、荒海をこえて、佐渡ヶ島からも見えた。この雁子浜に、一人の若者が、母親と二人でくらしていた。あるとき若者は、佐渡ヶ島に渡り、ひとりの美しい娘と知りあった。娘は、色が白く、豊かな黒髪は、艶々(つやつや)とひかり、潮(しお)のかおりをふくんでいた。まるで、北の海にすむという人魚かと思うほどであった。二人は、すっかり親(した)しくなって、人目をしのんでかたりあうようになった。けれどもまもなく、若者は娘を残して雁子浜へ帰っていった。佐渡の娘の若者を慕(した)う心は、激しかった。ある夜、娘は、若者に会いたい一心に、とうとう、たらい舟に乗って、荒海にこぎだした。雁子浜の明神さまの灯(あか)りを目あてにして。若者も、佐渡の娘が夜の夜中に、たらい舟にのって、命がけで会いにきてくれたことを、とても喜んだ。けれど、夜はみじかい。二人の逢瀬は、ほんのわずかだった。一番鳥(午前三時)が鳴くころには、娘は、名残(なご)りをおしみながら、佐渡ヶ島に戻らねばならなかった。こうして佐渡の娘は、毎晩、たらい舟で荒海を乗り切って、雁子浜にやってくるようになった。若者は、風の強い日は、娘が目あてにしている明神さまの灯りがきえないように守りつづけていた。
        (二)
ところで、若者には、母親のきめた許婚(いいなずけ)の娘がいた。ある日の夕方、その許婚が、両親と一緒に若者の家にたずねてきた。そして、その晩は泊まっていくことになった。若者は、気が気でない。佐渡の娘と会う約束の時刻になると、そっと家を抜け出して、海辺へ走ろうとした。すると、母親が追ってきて言った「おっかあは、ちゃんと知ってるよ。おまえに、仲のいい娘のいることをさ。若いもん同士のことだから、今までだまって見ておったが、今夜だけは、いかんでくれ。おまえと夫婦になる日をまちこがれている、許婚のことを、不憫(ふびん)とは思わないのかね。さあ、家には戻っておくれ。このとおりだよ」母は、そう言って手をあわせた。さすがに若者も、母の頼みをけって、浜辺へいくことは出来なかった。「今夜ひと晩くらい行かなくても、明日(あした)になれば、また会えるのだ。佐渡の娘も、おらがいなければ、帰ってゆくだろ」と、若者は仕方なく家に戻った。
        (三)
夜がふけて、風がでてきた。その風が、だんだん強くなってきた。若者は、明神さまの灯りが気がかりになった。けども、今までだって、灯りがみんな消えてしまったためしはないしと、若者は、むりやり自分の心に言い聞かせていた。やがて、夜があけた。若者は、もうじっとしていられず、夢中で浜辺へ走った。朝の海は、夕べの風もおさまって、波もない。日の光に輝いている。海辺には、早起きの村人が五、六人、波うちぎわに集まっていた。「かわいそうになあ。こんな若い、器量よしの娘がのう」「まるで、人魚みたいだ」「ゆうべは、明神さまの灯りが、すっかり消えてしまったからのう」「どうしてまた、夜の海になど、でたもんかのう」若者が、村人たちのそばへいってみると、波うちぎわに横たわっているのは、あの佐渡の娘の、変わり果てた姿であった。若者は、魂(たましい)がぬけたようになって家へ戻ったが、その夜おそく、海へ身を投げてしまった。村人たちは、二人を明神さまの近くに手厚く葬(ほうむ)り、塚をたてた。誰が名をつけたのか、その塚は、いつとはなしに「人魚塚」と呼ばれるようになった。
(小話353)「太陽神・ヘリオスとその一人の息子・パエトン」の話・・・
     (一)
ギリシャ神話には、二人の太陽神(アポロンとヘリオス)がいる。その一人、太陽神ヘリオスの話。太陽神ヘリオスは、ヒュペリオンとテイアの子とされる。「上なるもの」また「輝ける」はヘリオスの異名であり敬称であった。彼は天空を長い時間駆け回るので、世界中のすべての物事を目撃し、見聞きする神であった。一日の始まりは、金色やあかね色に染めた衣をひるがえしながら、太陽神ヘリオスを兄に、月の女神セレネを姉に持つ美しい曙の女神エオスがラムポス(光)とパエトン(輝き)という二頭の馬にひかれた馬車に乗って現れる。そして、兄でもある太陽神ヘリオスの前を走り、天空の門を開く。女神エオスが東の空に現れると、夜の星ぼしは光を失い、空はバラ色に染まっていく。曙の女神エオスに先導されて、太陽神ヘリオスは四頭建ての天馬に燃え盛る火炎車を引かせて東の空から現れて西の遥かオケアノスへと天駆(あまが)けてゆく。この馬車は火と鍛冶の神ヘパイストの手になるものであり、ヘリオス以外のものには御することはできなかった。この馬車に乗ることを望んだのが、他ならぬヘリオス自身の子パエトンである。パエトンはニンフ(妖精)のクリメネと太陽神ヘリオスの子であった。
(参考)
@ヒュペリオンとテイアの子・・・大地の母神ガイアと天空の神ウラノスの子という説もある。
Aオケアノス・・・海神で、大地の果てにある世界を取り巻く川であり、海も川の泉も、その川、海神オケアノスから流れたものであるという。
   (二)
太陽神ヘリオスには、クリメネとの間に7人の娘と一人の息子パエトンがいた。ヘリオスは常に東方の太陽の宮殿にいなければならない身であったから、8人の子は、母親のもとで育てられた。パエトンは、母親から「お前の父さんは太陽神だ」と聞かされて大きくなった。ある時、彼は友人たちに「神の血筋」であることを信じてもらえずに、喧嘩にになった。パエトンは家に帰って、母のクリメネに「お父さんでもない人をお父さんだと思い込んでいるんだ」と友人に侮辱(ぶじょく)された事を告げた。母は、外に出て燦燦(さんさん)と照りつける太陽に手を差伸べて言った「 あの太陽こそがおまえの父親です。もし信じられないのなら、直接、ヘリオスに会って確かめたらいい」と。そこで、パエトンは、はるばる東方の太陽の宮殿に父親を訪ねていった。煌(きら)めく黄金とまばゆい象牙(ぞうげ)の太陽の宮殿にようやくたどり着いたパエトンは、緋色の衣をまとい、エメラルドの玉座に座っている父ヘリオスに会った。「どうして、ここにやってきたのか?我が子、パエトンよ」「この広い世界をあまねく照らす太陽神よ、あなたが私の父なら私の心の迷いを取り払って欲しいのです」ヘリオスは、我が子をやさしく抱擁して言った「おまえは当然、私の子だ。おまえの疑いを晴らすためだ。誓ってどんなこでもかなえてやるから、何なりと言うが良い」ヘリオスはステュクスにかけて誓うと言った。「では、一日だけ太陽の馬車を運転させて下さい」これを聞いて、ヘリオスは困った。太陽の馬車は、あの天神ゼウスさえ、御するのは難しいといわれる2輪車で、火炎車を引く四頭の天馬は気性も荒くそれをうまく操れるのは、神のなかでもヘリオスだけだった。神々でさえ御するのが困難な太陽の馬車を、人間のそれも子供のパエトンが運転できるはずがない。しかしステュクスという冥界を流れる河に誓った言葉を覆(くつがえ)す事は出来なかった。パエトンが自分の願いを引っ込める事がなかったので、ヘリオスは渋々(しぶしぶ)太陽の馬車を出した。
   (三)
本来、太陽の馬車は天と地のちょうど中間を走るように定められていた。上昇しすぎればその激しい炎熱で天を燃やし、下降しすぎれば地を焼いてしまうためであるが、車を牽(ひ)く馬たちは大変気の荒い悍馬(かんば)ばかりなので、ヘリオス神といえども、彼らを抑(おさ)えて軌道を守らせるのは楽な仕事ではなかった。ヘリオスは、息子に高すぎず、低すぎず走ることを言い含めた。父ヘリオスが心配顔で見守る中、パエトンは馬車に乗って翔(か)けて行った。最初のうちは、パエトンも父の言ったとおりに馬車を走らせていたが、そのうち、だんだんと有頂天になってきた。そして、自分の住んでいる村が見えてくると、自分を侮辱した友人たちに、この晴れがましい姿を見せようと考えた。そして父の忠告を無視し、馬を下の方に向けて駆(か)っていった。村の家々に馬車が近づくにつれて、屋根に火がつき燃え出した。驚いたパエトンは馬を抑えようとしたが、馬は暴走し、野原も森も燃え上がり、川や泉は干(ほ)し上がった。馬車は天の道を大きく外れて低空飛行をした。大地を焦(こ)がし、海や河川も干し上がらせた。あわてたパエトンは今度は、馬首を上に向けたが、今度は昇りすぎて、地上は霜に覆(おお)われてしまった。この惨状を重く見た大地の女神ガイアはゼウスに訴えた「このままでは世界が破滅する」と。ゼウスは、オリンポス山の天の頂(いただ)きから、パエトンめがけて雷電を投げつけた。パエトンは火だるまになって馬車から転げ落ちて命を失った。馬たちは千切(ちぎ)れた手綱をのこして、走り去った。父ヘリオスは嘆き悲しみ丸一日、日の出を出さなかった。母クリメネは半狂乱になって、地上のあちこちを彷徨(さまよ)いながら息子の骨を探し回った。パエトンにはヘリアデス(太陽の娘たち)という姉妹がいたが、彼女たちも同様に悲しみのあまり、川岸でポプラの木に変身してしまった。そして彼女たちの流す涙が琥珀(こはく)となったという。
(参考)
@海や河川も干し上がらせた・・・この時、エトナ火山は火を噴いて、パエトンの故郷でもあるエチオピアの人々は皮膚が黒くなり、リビアは砂漠と化したという。
Aオリンポス山・・・父クロノスの率いるティタン神族との闘いに勝利したゼウスをはじめとする神々は、天にそびえる高峰オリンポス山に住んだ。この山は2885メートルで出入り口である門は雲で出来ており、四季の女神達が守っていた。大神ゼウスの兄弟、姉妹、息子、娘達によって構成されるオリンポス一族は誰もが羨む存在で、中でもゼウスを長とするオリンポス十二神は絶大な権力を持っていた。
「太陽の戦車を運転しているパエトン」(ニコラ・ベルタン)の絵はこちらへ
「太陽の戦車に乗るヘリオス」(ツィンマーマン)の絵はこちらへ
「日(太陽神ヘリオスの擬人像」(バーン=ジョーンズ)の絵はこちらへ
「パエトンの墜落」(フランツ)の絵はこちらへ
「パエトンの墜落」(ヨハン・リス)の絵はこちらへ
「パエトンの墜落」の絵はこちらへ
(小話352)「美しき狩人・オリオンと女神・アルテミス」の話・・・
   (一)
ギリシャ神話より。海の神・ポセイドンとミノス王の娘エウリュアレの間に生まれた逞しく凛々しいオリオンには、シデという美しい妻がいた。しかし、シデは神と美しさを競ったため女神・ヘラ(ゼウスの妻)により冥府に突き落とされてしまった。ある日、オリオンはキオス島に渡り、キオス王・オイノピオンを父に持つメロペという美しい女性と出会った。やがてオリオンはメロペを愛してしまった。その事情を知ったキオス王・オイノピオンはオリオンを娘を引き離すために「島中の野獣を倒したら、娘を妻に授けよう」と言った。しかし、オリオンは見事に野獣を退治してしまった。慌てたオイノピオンは次から次へと口実を作っては、なかなかメロペとの結婚を認めようとはしなかった。しびれをきらしたオリオンは酒に酔った勢いでメロペを強引にさらってしまった。怒ったキオス王・オイノピオンは、オリオンを酒に酔わせて眠らせ、その最中に、目に焼けた剣を突き刺して海辺に捨て去った。盲目になったオリオンは途方にくれて、鍛冶の神ヘパイストスに相談した。ヘパイストスの勧めでオリオンは、太陽を目指してひたすら東に向かって歩いた。やがて太陽の神・ヘリオスに出会い、太陽の光を受けてオリオンの目は治った。キオス島に引き返したオリオンだったが、オイノピオンは地下深く隠れていたので、オリオンは復讐を遂げることができなかった。
   (二)
メロペとの失恋はショックだったが、オリオンはすぐに、次の恋の相手、曙の女神エオスに夢中になった。エオスの仕事は夜明けを告げることであった。しかし、オリオンと付き合っている間の彼女はオリオンに会いたいがために仕事を早々に引き上げてしまった。このため、夜明けの時間が短くなったので、女神アルテミスは不審に思って、曙の女神エオスの宮殿がある世界の東の果てまで様子見に行った。そこで逞しく凛々しい美青年オリオンと出会った。アルテミスとオリオンは、お互いに一目見て夢中になってしまった。アルテミスは、自然の神であると共に、狩猟の神であり、そして月の神でもあり、何より永遠の処女神であった。その上、弓の名手でもあった。アルテミスは、オリオンを地中海のクレタ島に連れて来た。やがて、2人は深く愛し合うようになった。それを知ったアルテミスの兄の太陽神・アポロンは処女神・アルテミスを守るためにオリオンを殺そうとした。そこでアポロンは巨大な蠍(さそり)を放った。オリオンは勇敢に闘ったが、蠍の鉄のように堅い甲に手も足も出なかった。絶体絶命のオリオンはたまらず海へ飛び込んで、蠍から逃れた。次に、アポロンは確実な策を巡らせた。ある日、オリオンが遠い海の沖で泳いでいる姿を認めたアポロンは、海上に突き出しているオリオンの頭に金色の光を吹きつけた。そして、アルテミスのもとを訪れて、何くわぬ顔をして海の沖を指さして言った「いくら弓の名手といわれるお前でも、沖に流れるあの金色の輝きを射抜くことは出来まい」これに憤慨したアルテミスは、そんなとはないと弓を引き絞った。この沖合いに流れる金の輝きは、先程アポロンに金の粉を浴びせられたオリオンであった。しかし、そうとも知らず、アポロンの挑発に乗せられたアルテミスは矢を放った。そして見事に、金に輝く的、最愛のオリオンを射抜いてしまった。浜辺に打ち上げられたオリオンを抱きしめ泣き崩れるアルテミスの姿を哀れんだ神々の王・ゼウスは、オリオンを空に輝く星座にした。
(参考)
@曙の女神エオス・・・、太陽神ヘリオスを兄に、月の女神セレネを姉に持つ美しい女神で、ラムポス(光)とパエトン(輝き)という二頭の馬にひかれた馬車に乗って東の空に現れる。エオスは、アプロディーテの愛人アレスと密通したことでアプロディーテの怒りを買い、絶え間なく恋に身を焼くようにされたという。
Aオリオンは父ポセイドンから海の上を闊歩する能力を与えられ、海はまるで自分の庭のようであった。
B女神・アルテミスは、馬車に乗って天空を駆ける月の女神のため、月に一度は、愛するオリオン(オリオン座)と会うことが出来る(月は、1ヶ月に1度はオリオン座のすぐ北側を通る)。
Cオリオン座の傍らには、彼の猟犬であったシリウス星が輝いている。
D蠍もオリオンと戦ったことで、天に上げられた。ここでも、オリオンは蠍が苦手で、さそり座が西に沈んでから、オリオン座は東の空からのぼってくるのである。
「狩猟の女神アルテミス、通称「ヴェルサイユのディアナ(アルテミス)」の像はこちらへ(紀元前330年頃にレオカレス(?)によって制作されたオリジナルをもとにした、ローマ時代の作品・大理石)

E狩猟の女神・アルテミスの絵は(小話432)「美しくも冷たい月と狩猟の女神・アルテミス」の話・・・を参照

(小話351)「太陽神・アポロンと美女・ダフネ(月桂樹)」の話・・・
    (一)
ギリシャ神話より。女神ダフネはテッサリアの河神ペネイオスの美しい娘。狩猟の女神で、純潔を愛する処女神アルテミスに随行するニンフ(妖精)の一人だった。清純なアルテミス女神を敬愛し、常日頃から父親には「私はアルテミス様のように、一生独身でいたい」と言っていた。「それはいいけど、男どもがそれをほっとくのかい?」父は心配して言った。ダフネは自分が、美女であることの自覚が全く無かった。ある日、太陽神アポロンはエロス(キューピッド)が弓矢で遊んでいるのを見かけた。そしてエロスをからかって言った「大人の武器をおもちゃにするなんて危ないよ」エロスは子供の姿をしていても、ギリシャ神話では誰よりも早く生まれている。当然、アポロンよりかなり年上なのである。エロスはからかわれたのに腹をたてた「僕の矢はおもちゃでないことを思い知らせてやる」と。アポロンが川原で遊ぶ美しい女神ダフネに出会った瞬間、エロスは二人に見えない恋の矢を放った。一本は金の矢(恋心を抱く矢)で、もう一本は鉛の矢(恋を拒む矢)。エロスは金の矢をアポロンめがけて撃ち、鉛の矢をダフネに撃った。二本の矢が胸に刺さった瞬間から、アポロンはダフネを恋し、ダフネはアポロンを拒否した。
(参考)
@エロス(キューピッド)・・・美の女神アフロディーテに付き従い、息子とみなされている。エロスは金髪碧眼の美少年で、背中に純白の翼を持っていて、見えない金の矢と鉛の矢を持っている。金の矢は恋心を抱かせ、鉛の矢は逆に嫌悪を抱かせる。この矢の力は大神ゼウスでもあらがうことはできないといわれている。
@エロスをからかって言った・・・アポロンは、大蛇ピュトンを弓矢で退治した、その帰りにエロス(キューピッド)と出会ったので、アポロンは自らの矢(アポロンの黄金の矢)の力を過信し、エロスの恋しか射(い)ぬけぬ弓矢を嘲笑したともいう。
Aエロスは子供の姿・・・エロスは、いつまでも子供のままだ。誰かが誰かを好きになると、そこに愛(エロス)が誕生する。しかし、好きになった相手からも好きになってもらわないと、愛は育たない。エロスは、愛を与えっぱなしのために、いつまでも子供のままだという。又、エロスがいつまで経っても大きくならないので、 アフロディーテは狩りと月の女神アルテミスに相談した。 アルテミスはエロスが一人っ子ゆえに大きくなれずにいるので、 兄弟を作りなさいと助言する。 後にアンテロスが誕生し、エロスは成人したという説もある。
    (二)
アポロンは激しくダフネを恋い焦がれたが、ダフネはアポロンを避けるようになった。アポロンはどこまでもダフネを追いかけ、ダフネはどこまでも逃げようとした。だが足の速いアポロンからは逃げきれずに、ダフネは父親の河神ペネイオスいるペネイオス河のところへ駆け込みで言った「お父様、助けて下さい。私の姿を変えてください」父親は娘を助けた。追いついたアポロンがダフネを抱きしめようとした瞬間、ダフネは足から硬い樹木に覆われ、腕も髪も月桂樹の木に変身してしまった。「ああ、ダフネ!」アポロンは狂気のように叫んだ。「お前は永遠に私の妻になれないじゃいか。でもお前への愛の記念に私はお前の葉で冠を作ろう」。こうして、アポロンはこの月桂樹で冠を作り、愛しい人の想い出として頭にかぶるようになった。そして、芸術やスポーツで功のあった者にその冠を与えることで、ダフネ(ギリシャ語で月桂樹)の名を永久に残す事にしたという。
(参考)
「アポロンとダフネ」(ポライウォーロ)の絵はこちらへ
「ダフネを追跡するアポロン」(ティエポロ)の絵はこちらへ
「アポロンとダフネ」(ティエポロ)の絵はこちらへ
「アポロとダフネ」(ニコラ・プッサン)の絵はこちらへ
「アポロとダフネ」(シャセリオー)の絵はこちらへ
「アポロとダフネ」(ウォーターハウス)の絵はこちらへ
(小話350)「太陽神・アポロンと美女・コロニス」の話・・・
    (一)
ギリシャ神話より。ある日、太陽神アポロンはオリュンポス山のふもとにある、テッサリア地方のラリッサの領主の娘コロニスと出会い、恋人同士となった。コロニスは他に並ぶもののないとまで言われた、テッサリア随一の美女であった。いつしか彼女は太陽神アポロンに愛されるようになった。しかし、アポロンはいつも一緒に過ごせるわけではないので、恋人コロニスと手紙のやり取りをするのに、一羽のカラスを使った。「太陽の神アポロンの使者」という誉れ高いカラスは、体中を純白の羽が覆うきれいな鳥で、言葉もしゃべるのでお互いの慰めにもなった。アポロンは人々の願い事を聞き、託宣を与えるので、人気があり忙しい神様だった。アポロンはさまざまな仕事に手をとられて、しばらく恋人コロニスを訪ねることができなかった。ある日、カラスが久しぶりにコロニスのもとへ飛んだ。彼女は庭で若い男と親しそうに話していた。これにカラスは驚いた。そして「これはまずい、一刻もはやくアポロン様に報告せねば」とカラスはアポロンのもとに飛んでいき、告げ口をした。「アポロン様、コロニス様にはどうやら好きな男がおられるようです」と。
    (二)
実は、コロニスは幼なじみに久しぶりに会ったので、懐かしくて、お互いに楽しく話し合っていただけであった。デルポイ神殿で、これを聞いたアポロンは、恋人コロニスの不実に激怒した「なに、コロニスが他の男と浮気しているだと。許せん。この私を裏切ったことを後悔させてくれる」そして、ねらった的ははずさないという弓をひいて、ラリッサ向けてその場で遠矢を放ったのだった。そして、銀の矢ははるかかなたに飛んでいき、恋人コロニスの胸に深く突き刺さった。激情からさめると、アポロンは自分のした愚かさを後悔し、恋人コロニスのもとへとすぐに飛んでいった。コロニスは死ぬ直前に、アポロンに言った。「お腹にいるあなたの子供を生んでから死にたかった・・・」コロニスのお腹から、赤ん坊を取り出したアポロンは、その子を、半人半馬(ケンタウルス)族の医術に詳しい賢人ケイロンに養育をたのんだ。この子は後に医術の父と呼ばれるアスクレピオスである。アポロンは自分の短慮もさることながら、余計な告げ口をしたとして、カラスを憎んだ。「お前の早とちりで、私はコロニスを失ってしまった。これからは永遠にコロニスの喪(も)に服すがいい」とアポロンはカラスから人間の言葉をとりあげ、白い羽を黒い羽に変えてしまった。そして、カラスは見せしめのため天(からす座)に上げられてからも、すぐ隣にあるコップ(コップ座)の水にクチバシが届かず、いつまでも喉を乾かしている運命をたどることになった。
(小話349)「太陽神・アポロンの誕生」の話・・・
     (一)
ギリシャ神話には、二人の太陽神(アポロンとヘリオス)がいる。その一人、太陽神アポロン誕生の話。美しい女神レトは巨人神族(テイタン)のコイオスとポイペの娘であった。神々の王ゼウスはこの美しい女神を愛したが、正妻ヘラの怒りを恐れて、身重のレトを見放してしまった。ゼウスのこの浮気を察知すると、ヘラは嫉妬に怒り狂った。というのも、レトから生まれる子供たちは、今までに生まれたものの中で、誰よりも輝かしい存在になるという予言があったからである。レトの妊娠を知ったヘラは、「太陽が照らしたことのある全世界の土地」にレトの出産の場を与えることを禁じた。こうしてレトは、出産の場所を求めて各地をさすらった。お腹が大きくなって、出産が近くなっても彼女は身を横たえる場所も無かった。ヘラの呪(のろ)いを恐れて、どの町も、島も、野も山もレトに出産できる場所を貸さなかった。しかも、ヘラは彼女をひと時も休ませずに追い立てるため、大蛇ピュトンを遣わしたので、彼女はひと時も横になることさえできずに、地の果てまでさまよったのであった。彼女が最後にたどり着いた場所はデロス島で、この島は浮き上がったばかりの草木も生えない不毛の小さな島だった。そのため「太陽が照らしたことのある全世界の土地」というヘラの呪いを受けていなかった。
     (二)
浮き上がったばかりのデロス島は、レトが生む子供たちの神殿を作ることを条件に彼女を受け入れた。すると浮島は四本の柱でしっかりと固定された。レトは、やっと安心できる出産場所を得たのであった。そのころ、ヘラは自分の娘である出産の女神エイレイテュイアをオリンポス山上の黄金の雲の後ろに隠していた。レトの側(かたわ)らにいる女神たちはエイレイテュイアを迎えに、虹の女神イリスを使わした。イリスはエイレイテュイアに首飾りを渡すと、彼女と共にデロス島に下りてきた。しかし、出産は容易でなかった。ヘラの呪いにより、9日9夜続いた陣痛の果てに予言どおりレトは双子を無事に出産した。はじめに月の女神アルテミス(英語名ではダイアナ)が、次に太陽神アポロン(英語名ではアポロ)が生まれた。双子は生後3日目に、母親を苦しめていた大蛇ピュトンを射殺した。こうして、ヘラの嫉妬とさまざまな妨害にもかかわらず、レトから生まれたこの二人の神は、ヘラが生んだ神々よりもずっと権威のある、偉大な神となった。そのため、ちっぽけな不毛の浮島でしかなかったデロス島も、きらびやかな神殿のたつ聖地となり、後々まで栄えたという。
(参考)
@アポロン・・・父から最も信頼される眩しい光明の神。太陽の神で、音楽、弓矢、予言、医術などの神も兼ね備えた万能の神。そのうえ、オリュンポスの男神のなかで一番の美男で、デルポイの信託の主になり、ゼウスの意思を人々に伝える。毎朝、東の宮殿で目覚め、黄金の太陽の馬車に乗って大空を通り、炎をたなびたせながら西の地平に降り立ち、馬をつなぐという。ただ、恋人コロニスとの悲劇で代表されるように女性にはあまり縁が無かった。
Aアルテミス・・・狩猟の女神であり、純潔を愛する処女神で、狩りの時は森や山のニンフたちを従えている。純潔を愛する処女神だけに、気性が激しく、何かの辱めを受けると無慈悲なまでに残忍な復讐をした。兄のアポロンが金の矢を持っていたのに対し、アルテミスは銀の矢を用いた。アルテミスは後に月の女神と言われるようになった。
「パルナッソス・アポロとミューズたち」(シモン・ヴーエ)の絵はこちらへ
「パルナッソス・アポロとミューズたち」(シモン・ヴーエ)の拡大の絵はこちらへ
「アポロとミューズたち(パルナッソス)」(ニコラ・プッサン)の絵はこちらへ
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「アポロンとミューズたち」(ラファエロ)の拡大の絵はこちらへ
「アポロンとミューズの踊り」(ジューリオ・ロマーノ)の絵はこちらへ
(小話348)「重い罪と軽い罪」の話・・・
   (一)
中国の古代王朝・殷(いん)の法律では、街路に灰を捨てた者を処刑した。子貢(しこう)は厳しすぎると考えて、それを師の仲尼(ちゅうじ=孔子のこと)に問うた。仲尼は答えた。「人の治め方をよく心得たものだ。そもそも街路に灰を捨てれば必ず人にふりかかる。灰をかけられた人は怒り、人が怒ると争いになり、争いになれば必ず父母・兄弟・妻子をあげての殺傷沙汰になる。つまりは家門一統を損なうことになる仕業だ。だから、灰を捨てるのを処刑するのはもっともなことだ。それに、重い罰は誰もが嫌がるものだが、灰を捨てないようにするのは誰にも簡単にできる。誰にも簡単にできることを行わせて、それで嫌な目にあわないようにさせるのは、これこそ人をうまく治める方法だ」。
(参考)
ある人が仲尼(孔子)のことを悪く言ったので、子貢は言った「そんなことはお止めなさい。仲尼のことは悪く言えませんよ。ほかの人の勝れていると言うのは丘のようなもので、まだ越えられますが、仲尼は日や月のようなもので、越えることなどとても出来ません。誰かが[その悪口を言ったりして]自分で絶交しようと思ったところで、一体、日や月にとって何のさわりになりましょうか。その身のほど知らずを表すことになるだけです。」
   (二)
公孫鞅(こうそんおう)の法では、軽い罪をわざと重くしている。重い罪というものは、誰もが簡単には犯さないものであり、小さい過ちというものは、誰もが犯しやすい。人々に、その犯しやすいものを無くさせて、犯しにくい重罪にはひっかからないようにさせるのが、人をうまく治めるやり方である。公孫鞅は言っている。「刑罰を行うには、その軽い罪を重く罰すると、軽いものも起こらず、重いものも出てこない。これこそが、「刑によって刑を去る」ということだ」
(参考)
中国最初の統一王朝・秦(しん)が国家体制を整備したのは孝公(こうこう)の時代で、孝公の重臣の一人が公孫鞅(こうそんおう)であった。
(小話347)有名な「注文の多い料理店」の話・・・
      (一)
都会から狩猟にやってきた二人の若い紳士は、イギリスの兵隊の姿をしていた。手にはピカピカの鉄砲を持ち、白熊のような犬を二匹つれて、山奥で獲物を探していた。奥深い山に入ったので、いつの間にか、案内してきた専門の猟師も、どこかへ行ってしまった。それに、あまり山が険(けわ)しいため白熊のような二匹の犬も泡を吐いて倒れてしまった。二人はおじけづいて帰りたくなった「なあに帰りに、昨日の宿屋で、山鳥を十円も買って帰ればいい」「兎(うさぎ)もでていたねえ。そうすれば結局、同じこった。では、帰ろうじゃないか」しかし、帰るにも道がよくわからなくなっていた。そのとき、風がどっうと吹(ふ)いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴った。何だか不気味な雰囲気になってきた「どうも腹が空いた」「ぼくもそうだ」二人の紳士は、その時ふとうしろを見ると、立派な一軒の洋館が目にはいった。洋館の玄関には「西洋料理店・山猫軒」という札がでていた。空腹の二人は、こんな山の中に立派なレストランがあるのはおかしいと思いながら、食事にありつけそうなのを喜んだ。そして店のガラスの戸には「どなたも、どうかお入りください、決してご遠慮はありません」と書いてあった。
      (二)
店の中に入っていくと、いくつもの部屋と扉と廊下があり、最初の扉にはこう書いてあった。「ことに肥(ふと)ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」二人は大歓迎というので、もう大よろこびであった。ずんずん廊下を進んで行くと、今度は、こう書いてあった。「当軒は注文の多い料理店ですから、どうかそこはご承知ください」こうして次々と部屋の奥には扉があって、進むごとに色々な注文を書いた紙が貼ってあった。そして、終わり頃には「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうか体中に、壺の中の塩を沢山(たくさん)よくもみ込んでください」とあった。ここまで来ると、二人の紳士は怪訝そうに顔を見合わせた。「どうもおかしいぜ」「ぼくもおかしいと思う」「沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ」「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人に食べさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。これは、その、つ、つまり、ぼ、ぼくらが……」「その、ぼ、ぼくらが……うわあ」「逃げよう」一人の紳士はうしろの戸を押そうとしたが、戸は動かなかった。奥の方にはまだ一枚の扉があって「いや、わざわざご苦労です。大へん結構にできました。さあ、さあ、お腹(なか)におはいりください」と書いてあった。おまけに鍵(かぎ)穴からはキョロキョロと二つの青い眼玉(めだま)がこっちをのぞいていた。
      (三)
「うわぁ」「うわぁ」二人は恐ろしさのあまり泣き出した。泣いて泣いて大声で泣いた。そのとき後(うし)ろからいきなり「わん、わん、ぐゎあ」という声がして、あの白熊(しろくま)のような犬が二匹、扉をつきやぶって部屋の中に飛び込んできた。たちまち部屋は煙(けむり)のように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていた。犬が唸りながら戻ってきた。そして後ろからは「旦那(だんな)あ、旦那あ」と叫(さけ)びながら、案内してきた専門の猟師が、草を分けてやってきた。二人の紳士は、やっと安心した。そして猟師のもってきたダンゴを食べ、途中の宿屋で十円だけ山鳥を買って東京に帰った。しかし、さっき恐怖で「紙くづのやうになった」二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もう元のとおりにはならなかった。
(参考)
@宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」より。正確な話は、次のHPにあります。
「注文の多い料理店」はこちらへ
(小話346)「不信の使徒トマスと聖帯伝説」の話・・・
     (一)
使徒トマスは、キリスト十二人の弟子の一人でディディモ(ディディモとトマスもどちらも「双子」という意味)とも呼ばれた。しかし、イエスが復活した後(のち)ガリラヤの山で十一人の弟子たちに出会ったとき、使徒トマスだけは、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、使徒トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。こうして、使徒トマスは、「不信のトマス」または「疑いのトマス」と言われた。イエスの復活を疑う使徒トマスに対し、イエスは八日の後、復活者として彼に出会った。そしてトマスに言った「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」トマスはイエスの手に触(ふ)れ、その傷に触れた。「わが主よ、わが神よ」とひれ伏して信仰告白する使徒トマスに「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸(さいわ)いである」とイエスは言った。
(参考)
@十二人の弟子・・・イエス・キリストの高弟たち。「十二使徒」、「十二弟子」、「十二人」と呼ばれる。ダ・ビンチ「最後の晩餐」では左から、@バルトロマイAアルファイの子ヤコブBアンデレCユダ(裏切ったユダの後にマテアが12使徒となる) Dシモン・ペテロEヨハネ、(イエス)、FトマスGゼベダイの子ヤコブHフィリポIマタイJタダイKシモン。
     (二)
「不信のトマス」と言われる使徒トマスには、聖帯伝説がある。それは、神の子イエスが昇天したのに対し、あくまで普通の人間である聖母マリアは自力で天に昇ることができない。そこでキリスト同様、聖母も死んで三日後に復活するのだが、その魂はイエスによって、また肉体も純潔ゆえに天使たちによって天に引き上げられた。インドから呼ばれた使徒トマスがエルサレムの郊外で、その「聖母被昇天」を目撃し、自分が「マリア昇天を見た」という証拠が欲しいと、天に向かうマリアに「証拠を下さい」と呼びかけた。すると聖母マリアが自分が身につけていた帯(聖帯)をはずして、トマスに投げ与えた。翌日、聖母マリアの墓に訪れた使徒たちは、墓が空っぽになっているのを見て慌てふためいた。そこへ、使徒トマスが現れ、「聖帯」を示して「聖母被昇天」を告げた。
(参考)
@聖母マリアは、エルサレムの都のはずれ、シオンの丘の家で臨終を迎えたという。また、聖母の死は「お眠り」とも言われる。
A聖母被昇天・・・キリストの昇天と区別して、人間である聖母マリアが復活して昇天することをいう。
Bインドから呼ばれた・・・その頃、使徒トマスはインドで布教していたという。
     (三)
使徒トマスは、インドに戻る前に「聖帯」をエルサレムのある司教に譲り、「聖帯」はその家に代々伝えられた。その後、12世紀頃、プラート市民で商人のミケーレがエルサレムに行った際、「聖帯」を受け継ぐ家の娘マリアと恋に落ちて結婚した。マリアの父親には隠れた結婚であったが、母親は持参金として「聖帯」をミケーレに渡した。やがてミケーレは妻と共に故郷のプラートに帰った。ミケーレは盗難を恐れて、毎日、「聖帯」を納めた長持ちの上で寝ていた。ところが不思議なことにいつも朝になると彼は、床の上で寝ていた。それは、毎晩、天使が現れてミケーレを床に引きずり降ろしていたからであった。その後、死の床についたミケーレは、司祭長にその由来を話し「聖帯」をプラート大聖堂(サント・ステファノ大聖堂)に寄進し、現在に至っているという。
(参考)
@「聖母被昇天」は、聖母への熱烈な信仰から、5世紀前後に東方で生み出され、西欧には13世紀初頭に「聖帯伝説」とともに広まった。
Aイタリアはフィレンツェの北西にあたる小さな都市がプラート(草原という意味)で、巨都フィレンツェの侵略に脅かされたプラートにとって、エルサレムからプラートへ運び出された「聖母の帯」(聖帯伝説)は民心をまとめる象徴であった。
「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母」(ルドヴィコ・ブーティ)の絵はこちらへ
有名な「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母」(フィリッポ・リッピ及び弟子のフラ・ディアマンテ)の絵はこちらへこの絵は、正式には「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母および聖グレゴリウス、聖女マルゲリータ、聖アウグスティヌス、トビアスと天使」。絵画の中で、聖母の前で跪くのは使徒トマス、聖母の左は聖グレゴリウス、右が聖アウグスティヌス、その横は大天使ラファエル、少年トビアス(キリストの前身)。当時は、聖人は大きく、普通の人間は、小さく描く当時の慣習があった。
(補足)フィリッポ・リッピの描いた上記の絵で、聖母の左下の黒衣の尼僧は、この絵の注文主、プラートの聖マルゲリータ女子修道院院長で、その横に立つ若い女性が聖女マルゲリータ(同修道院の尼僧ルクレツィアをモデル)である。当時50歳で画家のフィリッポ・リッピは僧侶でありながら、19歳の尼僧ルクレツィアと恋に落ち、駆け落ちしてしまった。このため、この絵の完成が遅れ、最終的に弟子のフラ・ディアマンテが完成させたという。駆け落ちした二人は、その後、ローマ教皇とフィレンツェの国父コジモ・デ・メディチによって還俗を許され結婚した。のち画家となるフィリッピーノ・リッピは二人の息子である。
(小話345)「無法者と突然できた滝」の話・・・
   (一)
民話より。昔、川越(かわごえ)に弥太という悪党がいた。彼は、元々は腕のいい石工だったのだが、博打(ばくち)に喧嘩と無法の限りをつくし「まむしの弥太」と異名をとっていた。高尾山の近辺で質屋に強盗に入ったり、豪農の家に盗みに入ったりと悪事を繰り返していたが、とうとう悪運がつきて川越の代官所に捕まってしまった。本来は当然、死罪となるところだったが、人殺しだけはしていなかったので、母親の必死の嘆願もあって打ち首を免れて島流しとなった。母親の恩情に救われた弥太は、三宅島で3年を過ごし、恩赦により放免となっても戻ってきた。しかし、母親は心労が重なって、弥太が島で過ごしている間に亡くなっていた。なんと親不孝をしてしまったと、その罪の深さに改めて嘆き、悲しみ、そして心底、改心した弥太は、生まれて初めて大声で泣いた。村の長(おさ)にこれからの身の振り方を尋ねると「高尾のお山に登り、身を浄め、母親の菩提を弔(とむら)うがよい。お前はもともと石工としての腕は確かだったのだから、これからはその腕を使い、一生懸命に働けば母親もきっと喜ぶことだろう」と教えてくれた。
   (二)
さっそく弥太は、村の長(おさ)に言われたように高尾のお山に登ろうと装束を整えた。そして、坂道にかかり、一(いち)の鳥居をくぐろうとしたところ、何としたことか、体が全く動けなくなった。行く手を阻まれたように、ぴくりとも身動きがとれなかった。後ろには、退(しりぞ)くことができるのに、先に進もうとすると金縛りにあったように一歩も前に足を出せなかった。お山に登る他の人は、その様子を傍目(はため)で見ながらも何の支障もなく進めるのに、弥太だけはどうしても登れなかった。鳥居をくぐらなければよいかもと、山道に入ろうとしたが、それでもやはり駄目であった。弥太は道にはいつくばって泣き出した。出来事を聞きつけて不動寺の住職がかけつけて言った「これは、弥太の心にまだ十分の改心がなく浄められていないからだ。身を清らかにすればお山に登れるのだが。しかし、身を清めるにも、滝はお山の中にしかないし、ここには水もない。困ったことだ」と心を痛めた。弥太は、これを聞くと合掌し「身を清めることが出来るのならば私は今この身を滝に打たれ砕かれても構いません」と一心に祈った。すると峰のほうからどどどどっと水音がして、あれよあれよという間に近くの崖から水が降り注いで滝となって流れ落ち始めた。弥太は、これこそ恵みの滝と歓喜し、急いで滝に身を打たれた。こうして、弥太は、一の鳥居も難なく潜(くぐ)れ山にも登ることができた。その後、この滝は「清滝」と呼ばるようになり、以来、心に邪心があった者が、お山に登るときには、この滝で、身も心も清らかにしていったそうである。そして、清滝の傍らに立つ「岩不動」は、石工・弥太が収めたものと言われている。
(小話344-1)「舎利弗(しゃりほつ)と天女」の話・・・
維摩居士の病室にお釈迦さまの弟子たちが集まっていたとき、突然、天女があらわれて天上から菩薩や仏弟子たちの上に花をふりまいた。すると、その花は菩薩たちの身体に当たるとそのまま落ちてしまったのだが、舎利弗などの仏弟子たちの上に落ちた花はかれらの身体に付着して離れなかった。舎利弗が必死になって花を落とそうとしているのを見た天女が「あなたはなぜ、花を落とそうとしているのか」と問うと、舎利弗は「この花は出家の身にふさわしくない」と答えた。これに対して天女は「この花を出家修行者にふさわしくないと考えてはなりません。この花にあれこれ分別するはたらきがあるのではなく、あなた自身が身を飾ることになるのではないかという、分別の思いをおこしているだけなのです」と答えた。天女の力量に感じ入った舎利弗は「あなたほどの力量の人が、なぜ男性の身体とならないのか」と尋ねた。この問いに、天女は「私は十二年間、男性とはちがう女性の本質(女人相)を求めて来ましたが、ついに見つかりませんでした。いったい何を変えろと言うのですか」と答えるや否や、法力によって舎利弗を女性の姿に変えてしまい、先ほど舎利弗が天女にした質問と同じ質問を、舎利弗自身に問い尋ねた。そこで、はじめて舎利弗は男性に固定した本性があるのでもなく、女性に固定した女性としての本性があるのでもないことを本当に知ることができたのである。
(参考)
@維摩居士・・・大金持ちの社会的にも尊敬されている商売人で、在家の熱心な仏教信者。豊かな学識を身につけ、悟りを開いて聖者になった。「維摩経」は、在家の菩薩である維摩居士を主人公にしたお経。
A舎利弗・・・智慧第一。「般若心経」では仏の説法の相手として登場する。
Bインドの仏教の歴史のなかで、女性が悟(さと)りを得て成仏するためには、いったん女性の身体を男性に変えなければならないという考え方(変成男子=へんじょうなんし)があった。
(小話344)「美青年ナルシスと妖精エコー」の話・・・
     (一)
ギリシャ神話より。美青年ナルシス(ナルキッソス)の母親は、美しい水の妖精レイリオペーで、河の神ケーピーソスが自分の曲がりくねった河の流れにレイリオペーを誘い込み、波の中に閉じ込め手籠(てご)めにした結果、ナルシスが生まれた。生まれた時から、可愛らしいの風貌で、ナルシスを観て、ある予言者が「己を知らなくば、長寿をまっとうできるであろう」と言った。それほどに彼は幼い時から人を引きつける魅力を持っていた。月日は流れて、ナルシスも年頃になった。輝くばかりのその美貌は、多くの少女や青年から羨望の眼差しで見られた。そんなある日、鹿追いをしているナルシスに、「自分から喋(しゃべ)れないのに、他人が喋ると黙っていられない」木霊(こだま)の妖精エコーが好きになってしまった。そして、それ以降、森の妖精の中でも一番美しいエコーは、ナルシスを見るたびに、熱い恋心を燃え立たせた。だが、彼女はエコー(こだま)なので自分から声を掛けることができなかった。そんなある日、ナルシスは仲間と連れ立って山歩きをしているうちにはぐれてしまった。ナルシスが「誰かいないか」と呼んだので、エコーは喜んで「居るよぅ」と答えた。ナルシスは「こっちにおいでよ」と呼んだ。エコーは答えた「おいでよぅ」エコーはこだまで返すことしか出来ない。姿を見せないエコーに焦(じ)れて来たナルシスは遂に言った「一緒になろうよ」エコーは答えた「なろうよぅ」。エコーは、嬉しさのあまり、姿を現わすと、いきなりナルシスに抱きついた。驚き慌(あわ)てたナルシスは「何をするんだ、君の思い通りないなんかなりたくないよ」恥ずかしさのあまりに、エコーは逃げ出してしまった。しかし、ナリシスに対する恋心はさめることなく、募(つの)りに募って身をやつし、残ったのは声と骨のみ、やがて骨は石になった。こうしてエコーはついに声だけになってしまった。
(参考)
@妖精エコー・・・エコーは森のニンフ(妖精)のひとりで、あるとき女神ヘラが、夫ゼウスの浮気の相手の森のニンフを追いかけていたが、エコーが現れて色々なおしゃべりで引き止めるので、夫ゼウスとニンフとも逃してしまった。怒った女神はエコーに「おまえなんか短い言葉しかいえなくしてやる」と言って呪いをかけた。それでエコーは他人の最後の言葉を返すことしかできなくなってしまったという。
     (二)
一方、自分の美しさに慢心したナルシスは、あちこちで、彼に恋をした多くの娘から言い寄られても、いつも冷たく、素っ気なかった。そのため、振った娘たちから恨まれるようになった。その中でも、冷たい仕打ち受けて心が傷ついた一人の娘が「彼も恋をしますように、そして決してその相手を手に入れられませんように」と天に向かって叫んだ。すると、復讐の女神ネメシスが娘の願いを聞き入れた。しばらくして、狩りをして疲れたナルシスが泉のほとりに来たとき、復讐の女神は「人を愛せないのなら自分を愛していればよい」とナルシスに自分のことだけしか愛せないようになる呪いをかけた。こうして泉に映ったナリシスは自分に惚れてしまったのである。そこに映った自分に触れようとしても掴(つか)めない、いや、会話すら成り立たない。恋に身をやつしたナルシスは、泉のほとりで、うなだれつつも己を見たまま、日に日に衰え、ついに死んでしまった。それを悲しんだ姉妹が火葬するために遺体を引き取りに行くと、泉の何処にも遺体は無く、黄色い花弁を白い花弁で囲った美しい水仙(花言葉は「うぬぼれ」)が一輪、花を水面にうなだれながら咲いていた。ナルシスは、「水仙」に変身したが、魂は冥界を旅し、その旅の途中でも水面に映る自分を見つめつづけていたという。
(参考)
@美しい水仙・・・水仙の学名はナルキッススで、ギリシア語のナルキッソスをラテン語化したもので、ナルシスは、英語で簡略化。
「エコーとナルキッソス」(ウォーターハウス)絵はこちらへ
(小話343)「弘法大師と二人の母子」の話・・・
伝説より。弘法大師(空海)が諸国行脚の際、高尾山(今の東京都八王子市)にやってきたときのこと。折からの雨が、嵐と変わり、大師に容赦なく襲いかかってたきた。大師はともかく山を下(お)り始めたものの、このままでは体が冷え切ってしまうので、どこぞ休むところはないかと岩肌ばかりの小道を急いだ。すると途中の大岩の影に、ずぶぬれの姿でうづくまってい二人の母子がいた。気の毒にと思って近づいてみると母親の方は急な病気で、その子どもが一生懸命に介抱していた。なんとかこの母子のために雨宿りが欲しいものよと大師が合掌(がっしょう)すると、突然、目の前の岩肌が音を立てて崩れ始め、ぽっかりと洞穴があいた。大師はそこで母子の冷(ひ)えた体を温め、嵐の通り過ぎるのを待った。岩屋の中は外の嵐から完全に遮断(しゃだん)されて暖かく、見る間にこの母は回復していった。以来、この洞穴は「岩屋大師」と呼ばれるようになったと言う。
(小話342)「伊藤夫婦と伊東奨学会」の話・・・
    (一)
伊東三右衛門(いとうさんうえもん)は、明治二十五年に今の羽田(はねだ)空港のあるあたりに生まれた。幼いころの名前を三三雄(みさお)といい、代々酒屋や質屋を営む裕福な家の一人息子として育った。その当時、町には小学校がなく、三三雄は、隣村の高等小学校に入学し、中学は、自宅から八キロメートルも離れた中学校に歩いて通った。中学校卒業後は、東京高等商科学校(今の一橋大学)に進学し、そこで「少年よ 大志(たいし)を抱(いだ)け」といったクラーク博士の弟子、内村鑑三と出会った。このことが、その後の三三雄の人生に大きく影響した。「人は学問や文化に等しくふれ、等しく幸せになる権利がある」と説く鑑三に、三三雄は自分が育った羽田の人々のことを思った。当時、羽田に暮らす人々は、水道もなく学問とは縁(えん)遠い生活を続けていた。「私たちが死ぬときは、自身が生まれたときより世の中を少しでもよくして、財のある者は事業をして役立ち、財のない者は教師となって思想を人に残すことが大切です」という鑑三の教えも共感できても、三三雄にはまだそのために自分で行動を起こすということはしなかった。華やかな一生でなく、平凡な生涯をおくりたいと考えていたのである。三三雄は、大学卒業後に三井銀行に就職し、その翌年には、加藤南美(かとうなみ)と結婚した。妻の南美は東京の立教女学院を経て、大妻技芸学校を卒業した才媛であった。
    (二)
  三十四歳のとき、三三雄は父親の跡を継ぎ五代目・伊東三右衛門となり、三年後には地元の羽田で経理士事務所を開設した。子どもに恵まれなかった三三雄は、近所の子どもたちの世話をしたり、身寄りのない子どもを預かったりしていた。日中戦争に端(たん)を発した第二次世界大戦がますます激しくなっていくなか、三右衛門は、会館を建設して町会に寄付するなど町の中心的人物となっていった。戦時下の子どもたちは、空襲(くうしゅう)から命を守るために親と別れて疎開(そかい)し、人々は苦しい生活をじっと我慢して送っていた。この苦しい人々の暮らしぶりを見ていた三右衛門は、「軍に献金(けんきん)して戦車や戦闘機をつくれば華やかかもしれないが、伊東家の財産はすべて町の人々がいたからこそ蓄えられたものだ。すべての財産を町のために使おう」と固く決意したのである。そのような固い決意によって実現したのが伊東奨学会で、子どもたちの教育や、地元の人たちの文化を発展させることを目的に昭和十九年九月に設立された。そして、伊東奨学会は、戦後の教育向上に大きく貢献した。昭和三十五年、三右衛門は六十八歳で亡くなったが、妻の南美は遺言を守って、何とか自分一人が生活できるだけの資産を残し、すべてを伊東奨学会に寄付した。その後、昭和四十六年に南美も亡くなったが、遺志(いし)によりすべての財産が伊東奨学会に贈られた。
(小話341)「松風(まつかぜ)、村雨(むらさめ)姉妹」の話・・・
    (一)
猿楽の「潮汲(しおくみ)」より。姉の名前を「松風(まつかぜ)」といい、妹の名前は「村雨(むらさめ)」いう。二人とも「もしほ」と「こふじ」が本名の二人姉妹で、村長の娘に生まれ、別にこれといった不自由もなく平和に暮らしていた。ところが、須磨に在原行平(ありわらのゆきひら)という都の貴族がやって来た。行平は、平城天皇の孫で平城天皇ー阿保親王ー在原行平という、とても高貴な血筋の人であった。須磨に来た行平は、この「もしほ」と「こふじ」の二人の姉妹と恋仲になった。田舎の須磨に都の貴族が現れたのだから、親の欲目などがあって、姉妹が一人の男に恋することも許された。この時に行平が二人につけた新しい名前が「松風」「村雨」という優雅な名前であった。田舎の村長の娘二人は行平から高価な着物を贈られたりして、華やかな生活を送った。夢の様に三年の月日が流れ、ある日、二人が外出から帰宅すると庭の松の木に行平の衣が掛けてあった。そして、そばには「急に都に帰る事になった。別れを言うのが辛(つら)いので、あなた達の留守の間に行きます。この衣は私の形見(かたみ)だと思ってください」という書き置きがった。その後、二人は、いまさら他の人に嫁ぐ事も出来ずに、この松のそばに庵を作って、二人で侘(わび)しく暮らしていた。しかし、行平が都に帰ってしまった後、時をおかずして、すぐに二人は死んでしまった。
(参考)
@猿楽・・・軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物まねなどの演芸。奈良時代に唐から伝来し、室町時代になると、田楽や曲舞(くせまい)などの要素もとり入れ、観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成される。
A「汐汲=潮汲」というのは昔の製塩作業の一つで、海水を汲んできて「藻塩草(もしほくさ)=ホンダワラ等」に掛けて乾かし火で焼いて作る。この方法を「藻塩焼き(もしほやき)」という。
B世阿弥は彼女達の身分を村長の娘から貧しい海女に変えた。それが「松風」という能である。
C衣を掛けた松が「衣掛けの松」といい、今でも須磨に古株だけが残っている。そして、姉妹が在原行平の旧居跡に庵をたてたのが松風村雨堂だといわれている。
    (二)
能の「松風」より。時は流れて、ある年の摂津の国、須磨の浦の「衣掛けの松」のもとに一人の旅の僧がやって来た。そして、「衣掛けの松」が「古(いにしえ)の松風、村雨という二人の海士(海女)の旧跡」と里の者に教えられ、僧が読経(どきょう)して弔(とむら)っていると夕方になった。すると、遠くから若い女性たちの声が聞えてきた。見ると、二人の海女(あま)の姉妹が海辺で汐(しお)を汲(く)んでいた。二人は謡いながら「げにや憂き身の、業ながら、殊につたなき、海士小舟の・・・」(本当に哀しい人生です。生きるための仕事とはいえ、荒涼とした漁師の小さな舟が荒海を渡るように、私達もやっとの思いで生きています・・・)と。旅の僧は二人に今夜、一晩の宿を頼んだ。二人は「みすぼらしい家なので」と一度は断ったが、僧を泊める事にした。その晩、僧が二人を相手に「衣掛けの松」の話をし始めると、突然、二人が「実は、私達は松風・村雨の幽霊です」と言い出した。そして姉の松風の幽霊は、在原行平の形見の衣を身に着けて、行平への切ない想いや別れた時の悲しみを切々と語り、舞いはじめた。「恋草の、露も想ひも乱れつつ、露も想ひも乱れつつ・・・」(ああ、今でも恋しく切ない思いでございます。いつかまたきっとここに来て下さると待っています。私達は頼むすべもなく、ただ涙するばかりでございます・・・)。ところが、感情が高ぶってきた松風の霊は自制がきかなくなって狂いはじめた。驚いて村雨の霊が止めようとしたが、それを振り払い松風は、ますます狂い乱れて舞い狂った。「あの松こそは行平よ、たとひ暫しは、別るるとも、待つとし、聞かば、帰り来んと、連ね給ひし、言の葉は、いかに・・・」(あの松は行平様よ。たとえ暫(しばら)く別れ別れになっていても、私がお待ちしていますと言ったら、あの方はきっと帰ってくると仰(おっしゃ)ったではないですか)。夜が白々と明けた時、僧の前には二人の姿は無く、松吹く風だけが残っていた。「松風ばかりや、残るらん」すべては旅の僧の夢であった。
(参考)
@能「松風」は「熊野、松風に米の飯」という諺があるくらいで、いつ見ても飽きない、噛めば噛むほど味が出るとされる能の代表的作品。