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(小話340)「薔薇の奇跡(2)。ディニス王とイザベル(英語名でエリザベート)王妃」の話・・・
       (一)
伝説より。1271年のこと、アラゴニアの王ペドロ3世に王女が生まれた。王女には、ドイツのチューリンゲンの聖女にあやかって「レイナ・サンタ・イサベラ」という名がつけられた。王女がイサベラ(エリザベート)と名づけられたのは、アラゴニア王家が持つ血統ゆえで、ペドロ3世の王妃コンスタンツの出身がホーエンシュタウフェン家であり、生前から「貧しき者の聖母」として称(たたえ)えられたチューリンゲンの聖女エリザベートは、ペドロ三世の幼い娘イサベラの大伯母(おおおば)に相当する女性であった。イザベルは幼い頃から敬虔なカトリック教徒で、日にニ度ミサへ通った。又、少女時代から、貧者や病人への奉仕を日々の信仰の日課としていた。イザベルが12歳の頃に結婚が決まった。相手はポルトガルの王子ディニスで、国王の居城がある都エストレモスへ、美しい王女イザベルは婚礼のために出かけて行った。彼女が通り過ぎる国々では、その優しい振る舞いと慈悲深い心を知るにつれて、イザベル王女は聖女に違いないと噂した。貧しい者が彼女に何かを乞(こ)えば、必ず施(ほどこ)しを受けた。ディニス王と結婚してエストレモスの城に暮らしていても、イザベル王妃は貧しい人たちに施していた。アラゴニアの王宮からポルトガルに嫁したイザベルは、ディニス王との間にコンスタンス(後のカスティーリャ王フェルナンド4世妃)とアフォンソ(後のアフォンソ4世)のニ人の子供を産んだ。「国内の弱い者の味方」であることを望んだディニス王の志を理解した彼女は、王と共に、病院や孤児院、不運な女性のための救済施設の建設などにも積極的に着手していった。又、ディニス王は貴族たちに「我々は騎士であるとともに、所有する土地の耕作者であることを名誉とすべきである」と説き、沼沢の干拓(かんたく)、荒れ地の開拓によって整備した農地に果樹、ぶどうを植えさせた。国民は「政治弱者の味方」として生きようとするディニス国王夫妻を支持するようになり、傍目(はため)には国王夫妻の仲は、とても睦まじいものであった。
(参考)
@貧しい人たちに施(ほどこ)していた・・・イザベル王妃の有名なエピソードに「薔薇(ばら)の奇跡」の話がある。「ディニス王にとって、王妃の慈悲深い行動は不満の種であった。そこでディニス王は、イザベル王妃に施(ほどこ)しをすることを禁じた。イザベル王妃は、この王の意見をよく理解していたが、しかし彼女の心にはディニス王が決して理解することのない深い決意があった。イザベル王妃は、王に隠れて常に慈悲の心で施しを行っていたのであった。ある朝とても早い時間、ディニス王が城の中庭を横切っている時に、イザベル王妃にばったりと出会った。王妃はとても急いだ様子で、長いそのスカートの端を両手に持ち、そのスカートのたるみに何か隠して運んでいるようであった。実際のところ、王妃は王宮の台所から出てきて、そのスカートには小銭の入った袋と、焼いたばかりのパンがたくさん入っていた。それは今では城の誰も通ることのないはずの、開かずの扉の向こうで待つ、飢えた人々に施すためのものであった。ディニス王は、王妃のスカートの中に何が入っているのかを理解し、妻の裏切りにその顔色は蒼白(そうはく)になった。しかしそれをかろうじて隠し、微笑(ほほえ)んで丁寧に妻に尋ねた「王妃よ、ずいぶんと早起きだな。君が今そのスカートに入れて運んでいるものは何だね」。イザベルは答えた「これは、これは・・・バラの花ですわ。あなた。今、摘(つ)んだばかりの」「バラだって? 冬のこの時期にか、そんなもの今まで見たこともない」とディニス王は、王妃のその見え透いた嘘(うそ)をおかしく思いながら、問いつめた。「そんなに不思議なことでしょうか、あなた」そう言ってイザベル王妃がスカートの裾(すそ)をひろげて見せたその時、奇跡が起こった。パンとお金の袋が入っていたはずの、そのスカートからは、一抱(ひとかか)えのバラがハラハラとこぼれるように舞い散ったのであった」。もう一つの「薔薇の奇跡」の話は、ドイツはチューリンゲンの聖エリザベートの話が有名である。(小話833)「薔薇の奇跡(1)。貧しき者の聖母、チューリンゲンの聖エリザベート。王妃から修道女になった、その短い生涯」の話・・・を参照。
       (ニ)
しかし、ディニス王とイザベル王妃の宮中における実態は決して幸福なものではなかった。王宮の外では「強きをくじき、弱きを助ける」という名君としての顔を見せていた国王は、その裏では「歩く無節操」との異名をとるような男性だった。そのような性格の王ため、宮中の行事の席上では、王妃と並んで民(たみ)に微笑を向けてはいたものの、一旦その場を離れると、王妃や二人の子供には見向きもしなかった。イザベル王妃はそれでも、国政の安定の為、そして王家の安定のことを第一に考えて、表では夫を理解し、幸福のただ中にある王妃像を演じようと懸命になっていた。それでも、時が経つにつれてイザベル王妃の悩みは、傍(はた)から見ても容易に察せられるようになっていった。そんな母の様子を見て成長した王子アフォンソは、1323年(イザベル王妃52歳)に母を思うあまりと、父王が庶子(しょし)である異母弟に王位を譲ろうとしていると邪推して、父ディニスに対して反旗を翻(ひるがえ)す決意をした。息子が父に反旗を翻そうとしていることを知ったイザベル王妃はこの時、二人の間を取り持つべく懸命になって動いた。今日まで彼女が夫の態度に対してなんの不服もいわなかったのは、ひとえに、彼女が王家と国の安定を第一に考えてのことだった。そんなイザベル王妃の思いが天に通じたのか、父と息子の反目は、王妃の懸命な仲裁によってことなきをえることになった。しかし、ディニス王には、この時の妻の動きが不満であった。この騒ぎが起きた後(のち)、ディニス王は口実を設けてイザベル王妃を一時宮廷から追放してしまった。夫の手によって城を追われたイザベル王妃は、戦いの為に築かれた要塞のひとつに居を移して暮らした。イザベル王妃が宮廷から遠ざけられていたその時は、彼女の実家であるアラゴニアの方で騒動が起きていた。この頃のイベリア半島は小国分立状態であり、イザベルの生国アラゴニアもまた、そうした争いごととは無縁ではいられなかった。イザベル王妃は遠隔地にありながら、彼女に叶う限りの力でもって、実家に起きた争いを鎮めるべく努めた。この時の争いは彼女の尽力もあって、どうにか終結した。
       (三)
そのうちにイザベル王妃にも、王宮に戻ることが叶う日がやってきた。それは、夫ディニス王が病の床についたがゆえの帰還だった。病の床にあったディニス王は、ひさしぶりに見るイザベル王妃を目前にすると、今日までの王妃への仕打ちを心より悔いて詫びた。病床にあって初めて、王妃がどれほどまでに国の為、王家や家族の為、そしてディニス王の為に心を砕いてきたかに改めて気付いた。事実、彼女のような女性が王妃でなければ、とうの昔に王室は混乱の渦に巻き込まれていたのかもしれなかった。この時、イザベル王妃は病床の夫の手をとり、微笑んでディニス王の仕打ちを許し、それからはイザベル王妃自ら夫の看護にあたった。イザベル王妃の許しを得たディニス王が昇天したのは1325年で、まだ46歳であった。ディニス王亡き後、ポルトガルの王座に就いたのは、王子アフォンソで、王子はアフォンソ4世として正式に即位した。ディニス王が世を去ると、イザベル王妃は自らの意思で宮廷を出て、かつて自分が夫とともに建設した修道院のひとつ、コインブラの近くに建つフランチェスコ会派の貧者クララ女子修道会の修道院に入り、正式に俗世を捨てることにした。修道女となったイザベルは祈りと黙想に専念する生活に入った。しかし、1336年(65歳)に、アフォンソ4世は娘マリアがその夫アルフォンソ11世により虐待されているとして、出兵した。この戦いの知らせは、修道院で静かに暮すイザベルの耳にも届いた。情報を得たイザベルは、この戦いを鎮(しず)めることを願い、息子の行軍に同行することにした。ここでもイザベル王太后の行動は両軍の心を動かすこととなり、仲裁は成功した。しかしこの後にイサベルは体調を崩した。和平の後(のち)まもなく、イサベルは熱病で死んだ。享年65歳。イサベルはコインブラに葬られた。彼女の死後、数々の奇跡が起こったとされ、1625年5月25日、ローマ教皇ウルバヌス8世によって列聖にされた。
(参考)
@英語ではエリザベス、エリザベート。ドイツ語やフランス語ではエリザベート。ハンガリー語ではエルジェーベト。スペイン語やポルトガル語ではイザベル、イザベラ。ヘブライ語ではエリザベト、エリザベツ。フランス語ではイザボー。
A今もエストレモスの丘の上にあるお城には、スラリとした長身で、ややうつむき加減の面差しの、バラの花を抱えたレイナ・サンタ・イサベラ(1271〜1336)の像が建っている。
B「バラの奇跡の王妃」と言われるイサベラ王妃には「サンタ=聖」が冠せられていて、ポルトガルのカトリック(旧教徒)では、女性の鑑(かがみ)として尊敬を集めている。
「オビドスの村(谷間の真珠)」の絵はこちらへ 新婚のディニス王がイサベラ王妃にオビドスの村をプレゼントしtsという。
「聖イサベル・デ・アラゴン」の絵はこちらへ
「聖カシルダ(ポルトガルの聖イザベル)」(スルバラン)の絵はこちらへ
「サンタ・マリア教会前の広場に立つイザベル王妃像」の絵はこちらへ


(小話339)「ある猟師と美女」の話・・・
民話より。昔むかし、惣左エ門という村一番のとても腕のすぐれた猟師がいた。ある朝まだ暗いうちに村の峠に猟に出かけ、池のほとりで獲物を待ちかまえていた。白々(しらじら)と夜が明け霧の中から姿を現したのは、なんと目鼻立ちの整った目もさめんばかりの美しい女であった。惣左エ門は獲物のことなどハタと忘れて美女に見とれてしまった。美女が言った「私は村の人にお会いできるのはあなたが初めてです。これも何かのご縁でございます」そう言って話しているうちに美女と惣左エ門の間には恋が芽ばた。村の峠で逢瀬を重ねて、一年が過ぎ、二年が過ぎるうちに玉のような男の子が生まれた。その子どもは、こっそりと村の乳母に頼んだ。乳母は雨の日も風の日も人目をしのんで村の峠に通い続けた。その通った道が乳母坂と呼ばれている。二人のことは決して誰にも言わないようにと美女は惣左エ門に約束させていた。年月が経(た)つにつれて美女は、ますます美しさを増し老いることがなかった。村にもどった惣左エ門はどうにも我慢が出来なくなった。今までのことを村人に一部始終話してしまった。その夜のこと、惣左エ門が峠にもどるかもどらないうちに美女は大蛇に変身し、金色の鱗(うろこ)をひるがえし、大きな音と共に池の中に身をかくしてしまった。そして、あっと言う間もなく池の水が溢(あふ)れて、大洪水になった。惣左エ門は必死の思いで水を食い止めようとして大きな岩に変身し、村人を助けようとした。岩はとうとう村近くまで押し流されて、大きな蛙に変身した。その時、峠では一面に水浸しになった後、大きな平池(ひらいけ)ができた。以来、人々はその地を美女高原と呼ぶようになり、その池は美女ヶ池と呼ばれ、美女峠の由来となった。そして、美女ヶ池の水は枯れることは一度もなく、干(かん)ばつのとき、村人の命の水として、大切にされてきたと言う。
(小話338)「伝説の女教皇(法王)ジョヴァンニ8世」の話・・・
   (一)
ローマ教皇(法王)は生涯をカトリック教会に捧げ、独身を貫いた高潔で高齢の男性というのが普通だが、しかし、長いローマ教皇の歴史の中では、愛人を囲っていた教皇、子供が何人もいた教皇、権力欲や物欲に取りつかれた教皇など様々な教皇がいた。その中に、たった一人だけ公式記録には全く痕跡(こんせき)のない女教皇がいた。9世紀中頃に在位したといわれる女教皇・ジョヴァンニ8世である。彼女の本名はジョヴァンナ(ヨハンナ)といい、イギリス・カンタベリーの地に、修道女を母に、大司教を父に生まれたが、幼いときから賢く、日々に美しさを増してカンタベリーの名花と謳(うた)われるようになった。娘の才知と美貌に行く末を心配した父の大司教は、12歳になったヨハンナを遠くドイツ・フリースラントの女子修道院に入れた。修道女となった彼女は、非常に賢かったので修道院の図書係に任命された。やがて彼女は、蔵書の大部分を暗記するほどの集中力で勉強をし、いつしか並外れた知識を持つに至った。そんなある日のこと、ジョヴァンナの前に若い修道僧フルメンツィオが現れた。修道院長の命令で、二人は狭い部屋の中で聖書の書写(しょしゃ)に熱中していた。しかし、その仕事が終る頃、若い二人はどちらからともなく愛し合うようになっていた。やがて書写を終えたフルメンツィオが女子修道院を去る日がきた。ジョヴァンナは激しい恋心を押さえることが出来なくて、フルメンツィオを追い女子修道院から抜け出した。そして彼と共に生活をしようと決心した。
   (二)
こうして、女性であることを偽り、男装してフルメンツィオの勤める修道院にジョヴァンナ修道士として勤めはじめた彼女だが、ある日、同僚の修道士に正体がばれてしまった。フルメンツィオ修道士と修道院を逃げ出したジョヴァンナは、男装のまま修道士としての長い放浪の旅に出た。行く先々で持ち前の知性と学識の深さで他の修道士を圧倒するジョヴァンナ修道士の評判は自ずから広まり、やがてジョヴァンナ自身もローマのカトリック教会で出世したいという野心を抱くようになっていった。フルメンツィオ修道僧を捨て、一人ローマへ渡ったジョヴァンナはこの時32歳。長い間の身に付いた男装で通すことにした彼女は第103代・ローマ教皇レオ4世に気に入られるようになり、神学校の教授に抜擢された。さらに教皇レオ4世の特別秘書に任命されるに至り、ついには枢機卿に抜擢され教皇庁の内部に居場所を見出した。そして、ジョヴァンナがローマに住み着いて2年後、老教皇崩御後の選挙(コンクラーベ)でついに彼女は教皇の地位に登りつめ、教皇ジョヴァンニ8世となった。
   (三)
教皇の座に着くと直ちにジョヴァンナは教会改革に着手し、教皇の体制強化に尽力した。だが、ジョヴァンニ8世となった男装の教皇の最後は、前代未聞のスキャンダルで終わりを告げることになった。なんとジョヴァンナは、教皇庁の中で働く15才も年下の若者パオロに恋をして、秘密の逢引(あいびき)を繰り返すうちに妊娠してしまったのである。ところが教理に関しては並ぶ者がいないほど学識が深い彼女でも、妊娠など女性としての知識は殆んどなかった。訳もわからぬうちに、どんどん腹はせり出してくるものの、ゆったりとした法衣に隠れ周囲に気付かれることもなく、突然その日はやってきた。聖ジョヴァンニ・イン・ラテラノ寺院で祝祭ミサを行っていた時、突然産気づいたジョヴァンナは激痛に耐えかねて祭壇の前で倒れてしまった。その法衣に隠れた彼女の足元からは、赤ん坊の泣き声が「オギャーッ」 と聞こえてきた。あっけにとられて水を打ったように静まる寺院内に赤ん坊の泣き声が響き渡った。教皇庁は上や下の大騒動になったが、当のジョヴァンナはそのまま意識が戻らず、別室で死んだ。教皇庁とカトリック教会は、このあまりにも不名誉な事件を闇に葬るべく、ジョヴァンニ8世に関する全ての記録、肖像などを抹殺し、初めから存在しなかった人物であった、としたということである。
(参考)
@女教皇ジョヴァンナの存在は14世紀頃には9世紀にいたと考えられていた。
A中世後期には女教皇ジョヴァンナの存在は、すでに民衆に本当のこととして信じられていて、カトリックとプロテスタントは彼女の存在を巡(めぐ)って論争をしていた。
B1601年にクレメンス8世は彼女を伝説上の人物であると宣言し、また1647年、カルヴァン派の神学者によって女教皇ジョヴァンナは実在しなかったという証明が行われた。
C女教皇ジョヴァンナは男装の女性であることを知られてしまったため、母とその子は、その場で異端として殺害されたとの説もある。
(小話337)有名な「ローマの奴隷・スパルタカス」の話・・・
   (一)
紀元前1世紀頃のローマ時代。リビアの鉱山で、ギリシア出身の若いスパルタカスは、鉱山採掘奴隷として激しい労働に耐えていた。剣闘士の買い付けにやってきた奴隷商がスパルタカスを買い 、彼はカプアの訓練所で剣闘士としての訓練を受けた。剣闘士は、激しい訓練に耐えられるように十分な食事を与えられ、エネルギーの消耗を避けるため、狭い部屋に閉じ込められていた。そこへローマから、大富豪クラッススがやってきた。彼は剣闘士の試合を希望し、スパルタカスを含め4人の奴隷が選ばれた。今まで共に訓練を受けた仲間と一対一の対決。スパルタカスの相手は黒人奴隷だった。スパルタカスが敗れ、黒人が喉元に槍を突きつけた。スパルタカスは観念したが、その時、黒人は向きを変え、クラッススに槍を投げつけた。しかし槍ははずれ、逆に黒人はクラッススに殺されてしまった。スパルタカスは仲間同士と殺し合うのが耐えられなくなった。ある時、機会が訪れた。何かにつけ剣闘士をいたぶった訓練士をスパルタカスが殺害すると、多くの仲間が同調して、暴動が起こった。彼らは養成所からの脱走に成功し、ベスヴィオス山にたてこもった。農場や牧場で酷使されていた奴隷数千人も集まり、一大軍団となった。こうして反乱軍を組織したスパルタカスは尊敬を集め、反乱軍の人数も日々増えていった。その中には、スパルタカスが養成所で妻にした奴隷との間に産まれた子供もいた。ローマ軍との戦いも次々に勝利を収め、ついにはスパルタカスの率いる反乱軍は数万にもふくれ上がった。
   (二)
スパルタカスの反乱軍はローマの鎮圧部隊を撃破し、老人や女性、子供と共同生活をしながら、最初、北イタリアを目指したが、将軍となったクラッススのローマ軍によって行く手をさえぎられ 、今度は一転して南下、海賊の手を借りて南イタリアのメタポンタムから、ローマ脱出して故郷に帰ろうとした。しかし、海賊たちはローマに買収され、彼を裏切った。そして、クラッスス率いるローマ軍の大軍に包囲され、果敢に戦ったスパルタカス軍はついに敗れ去った。捕らえられた6000人の捕虜たちは、司令官からスパウタカスを指(ゆび)させば生かすと言われるが、次々と自分がそうだと叫んだため、全員が死刑となり、連行されながらアッピア街道沿いに数十キロにわたって十字架にかけられた。スパルタカスも本人と名乗り出たが、我が子のように思っていた男と決闘の殺し合いをさせられた挙句に磔(はりつけ)になった。こうして、逃げのびた反乱軍の一部もポンペイウス率いるローマ軍に敗れ、ここにスパルタカスの反乱は鎮圧された。
(小話336)「百合若と鷹・緑丸」の話・・・
         (一)
時は平安時代。豊後(今の大分)に百合若という国守(こくしゅ)がいた。百合若は山野が大好きで、行政の仕事の合い間には、鷹の緑丸と共に一日中、山野を駆け回っていた。百合若には美しい春日姫という妻がいた。その頃、海のむこうの新羅の国が九州の海辺の村を襲ってきたため、百合若は都の命令で新羅と戦うことになった。百合若は春日姫に鷹の緑丸を預け、兵を率(ひき)いて豊後の国を離れた。三年後、百合若は新羅をおさえ、宝物を積んで九州へとむかった。途中、玄界島に立ち寄り、そこで兵たちと三日三晩祝宴をあげ、百合若も酔いつぶれて眠り込んでしまった。その時、以前より国守の座を狙っていた別府貞澄と貞貫の兄弟が、百合若を欺(あざむ)き、彼を島に置き去りにして、船で豊後の国へ帰ってしまった。
         (二)
豊後の国へ戻った兄弟は百合若は死んだと偽り、百合若の手柄を構取りして兄の貞澄は国守となった。しかし兄弟は政治を怠り、重税で民(たみ)を苦しめた。貞澄は春日姫を嫁にしようとしたが、姫の心は変わらず、山の岩穴に幽閉されてしまった。それから二年の月日が流れた。百合若は日に焼けて一段と逞しくなった。そして、毎日、春日姫だけを思って生きていた。ある時、百合若は浜辺に近づく鷹の緑丸に気づいた。百合若は緑丸を抱きとめて泣いた。そして木の葉に自らの血で姫への手紙を書き、緑丸に託(たく)した。緑丸はその葉を姫に届け、今度は姫から硯(すずり)箱と筆を預かると、百合若の元へ羽ばたいていったが、途中で精根尽き果て死んでしまった。その後、百合若は漂流船に助けられ、豊後へ帰還することができた。そして正月、祭りに乗じて兄弟の隙を突き、得意の弓で二人の胸を射ぬき復讐を果たした。幽閉されていた春日姫を助け出し、喜びにあふれる人々の前に現れた百合若は、その時から百合若大臣と呼ばれるようになった。こうして二人は末永く幸せに暮らしたという。
(参考)
国守・・・古代から中世にかけて、行政官として中央から派遣された官吏が国司で、国司の長官のことを国守という。
(小話335)有名な「宿命の女・サロメ」の話・・・
   (一)
ユダヤの王・ヘロデは、兄・フィリッポの妻・ヘロディアスを奪って妃としていた。ヘロディアスには16歳になるサロメという名の美しい娘がいて、ヘロデ王は彼女に心を奪われて、ひと時も目を離すことができなかった。いつものようにヘロデ王の宮殿で夜会が催された。庭にいる護衛隊長のナラボートは、夜会に出ているサロメ王女の美しい姿を見ては、想いをつのらせていた。そのとき、宮殿の中央にある、水の枯れた古井戸から突然、声が響いてきた「私の後からやってくる人には、私よりも力がある」その声は捕らえられている預言(よげん)者のヨカナーンであった。彼は、兄の妻を奪って妃としたヘロデ王を非難したために捕らえられ、こうして古井戸の中へ閉じこめられており、その姿を見ることは堅く禁じられていた。
   (二)
夜会の空虚さに飽きた美しいサロメは、宴席から離れて庭へ姿を現わした。するとヨカナーンの声が響いてきた。サロメに声の主は誰かと護衛隊長・ナラボートに尋ねた。ナラボートは「あれは預言者のヨカナーン」と答えた。サロメは、捕らえられているヨカナーンに会って見たいと、ナラボートにヨカナーンを連れ出すように懇願した。初めは断っていたナラボートも、ついには断りきれなくなって古井戸の中からヨカナーンを引き出した。初めは後(しり)込みしていたサロメも、ヨカナーンの畏怖を抱かせる美しい声とその姿に魅(ひ)かれ、いつしか彼に恋い焦がれるようになった。こうして愛を求めてサロメは、ある夜、古井戸に近づき、警備の兵士にヨカナーンを引き出させた。そして彼女は、ヨカナーンに「おまえの身体に、髪に、触らせて」と言ったが拒絶された。さらに「その唇なのだよ、あたしが欲しくてたまらないのは、ヨカナーン。お前の唇は、薔薇より赤い石榴(ざくろ)の花もお前のくちびるほど赤くはない」と接吻を求めるサロメに、ヨカナーンは死の天使の羽ばたく音を聞き「近寄るな、おまえは呪われている」と冷たく言い放った。
   (三)
ある美しい月夜に、またも宮殿では盛大な夜会が開かれた。ヘロデ王は妻・ヘロディアスや多くの廷臣たちの前で、サロメに一緒に酒を飲むように頼んだ。サロメは、義父・ヘロデの頼みを片っ端から断った。仕方なくヘロデは、最後にサロメに踊り望んだ。始めは拒んでいたサロメだったが「欲しいものは何でも与える」と言うヘロデ王の一言(ひとこと)に心が動いた。ヘロデ王の約束した「欲しいものは何でも、たとえ領土の半分でも与える」を確かめてから、サロメはとうとう踊ることを承知した。奴隷が持ってきた7枚のヴェールを身に着けて、サロメは妖(あや)しく艶(あで)やかに踊り始めた。踊りながらヴェールを1枚1枚と脱いでいき、そうして最後の1枚も。大喜びのヘロデは「欲しいものは何か?」と声をかけた。
   (四)
サロメはうやうやしく跪(つまず)いて答えた「銀のお盆に載せて、ヨカナーンの首を!」驚いたヘロデ王は慌てて言った「他のものでは?この世で最も美しいエメラルドでは?それとも、珍しい白孔雀、百羽ではどうだ?」ヘロデ王は、何とかサロメの気をそらせようとしたが、約束したのと廷臣たちの手前、不安に駆られながらも、ついにサロメの要求をのんでしまった。命じられた首切り役人がヨカナーンのいる古井戸の中へ降りていき、やがて、ヨカナーンの首を銀の盆に載せてあがって来た。狂喜したサロメは走り寄り、ヨカナーンの首を受け取って、恍惚とした表情を浮かべた。ヘロデはこの光景を見ると耐え難くなって、その場を立ち去ろうとした。だが、サロメがヨカナーンの首に接吻して「ヨカナーンよ、そなたはわたしに接吻をしなかった。さあ、これから接吻してやるわ」と叫ぶのを聞くと、ヘロデ王は突然立ち止まって振り返り「あの女を殺せ!」と命じた。サロメは笑(え)みを浮かべて立ち上がり、自ら死を選ぶように兵士たちの刃(やいば)の下に身を置いた。
(参考)
@オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」より。
「円柱の前のサロメ(ギュスターヴ・モロー)」絵はこちらへ
戯曲「サロメ」の挿絵1(オーブリー・ビアズレー)こちらへ
戯曲「サロメ」の挿絵2(オーブリー・ビアズレー)こちらへ
A「「宿命の女・サロメ」の元となったマルコ福音書・第6章。
・・・というのは、このヘロデは自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤと結婚したのであるが、このことで彼は人を遣(つか)わしてヨハネを捕らえ、獄(ごく)につないでいた。ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていないことだ」と言ったからである。そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思っていたが、できないでいた。それは、ヘロデがヨハネを義人であり聖者であると知って畏怖を感じ、彼を保護していたからである。ヘロデはヨハネの話を聴くと非常に悩むのであるが、それでもなお進んで彼の話を聴いていた。ところが、よい機会が訪れた。ヘロデは自分の誕生日の祝いに、重臣や将校、それにガリラヤの有力者たちを招いて宴会を催したが、そこへこのヘロデヤの娘が入ってきて舞をまい、ヘロデと列座の人々を喜ばせた。そこで王は少女に「何でも欲しいものを言いなさい。おまえにあげよう」と言った。さらに「欲しければ、わたしの王国の半分でもあげよう」と誓って言った。少女は座をはずして、母親に「何をお願いしましょうか?」と尋ねた。すると母親は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。そこですぐ、少女は急いで王のもとに入ってきて願って言った「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、いただきとう願います」王は非常に悩んだが、誓ったのと列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はただちに衛兵を遣わして、ヨハネの首を持ってくるように命じた。衛兵は出ていって、獄中でヨハネの首を切り、その首を盆にのせて持ってきて少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこれを聞いて、やって来て遺体を引き取り、墓に納めた・・・
(小話334)「長者の嫁と貧乏な男の嫁」の話・・・
   (一)
民話より。昔、ある村に幼なじみの仲のよい長者と貧乏な男いた。長者の嫁は並みの女であったが、貧乏な男の嫁はこのあたり一番の美人だった。ある晩のこと、長者と貧乏な男は仲よく酒を汲みかわしながらお互いの嫁を交換してみてはどうかという話になった。貧乏な男は、酒の上での冗談だとばかり思っていたが、そのうち、長者の方は本気になってきた。「君の妻のような美人を嫁にすることができたら何もいらん。どうだ。明日中にでも君の屋敷に倉を一つ建て、米俵をいっぱいつめ込んでやるから嫁を交換してくれないか」二人は、それぞれの妻を呼び寄せて意見を聞いて見た。「わたくしども女は旦那様方のご希望とあらば、それに従います」貧乏な男は、自分の思いとは裏腹の返事を聞いて落胆した。だが、翌日、長者は貧乏な男の家に一つの倉を建て、米俵をいっぱいつめ込み、自分の妻を送りだしてきた。長者の嫁になった美人妻の喜びようとは反対に、貧乏な男と並みの女とは仕方なく一緒に暮らすことになった。
   (二)
幾月か過ぎたある日のこと。貧乏な男は「ニ、三日旅にでるから留守を頼む」と言って、彼方(かなた)の山を越え、さらに山奥へとはいって行った。三日目の夜になると山中のあちこちで、狼の遠吠えが間断なく続いた。美人妻に去られ、生きる望みさえ失っていた貧乏な男は、山奥で寝転がった。そして、今か今かと、狼に食い殺されるのを待っていたが、近づいてきた狼どもは彼の身体に触れるどころか見向きもしなかった。やけくそになった彼は、後方からやってきた老狼の尻尾を力まかせに引っ張った。すると、狼どもは一斉に振り向き、目をらんらんと輝かせ、うなり声を上げながら彼に襲いかかろうとした。その時、どこからか白髪の老人が姿を現した。そして、貧乏な男の捨て身なふるまいについて、その理由を尋ねた。「実は貧乏していたばかりに近在一番の美人妻と長者の妻女だった並みの女とをとりかえてしまった。つくづく世の中がいやになり狼にかみ殺されようとしているのだ」すると老人は彼に「愚(おろ)か者が、一人合点して、あたら命を落とそうとは。男どもの留守中に嫁女たちがどのように振舞っているか、これをつけて、よくのぞいてみるがよい」と三本の狼のまつげを与えた。
   (三)
老人の言葉で考え直した貧乏な男は、村の近くに帰りつくと、いわれたとおり狼のまつげをつけて妻女たちの様子をうかがった。すると、喜んで長者のもとへ行った美人妻は、長ギセルをくわえたまま囲炉裏端(いろりばた)で居眠(いねむ)りをしていていた。そのため、鶏(にわとり)が家中を遊び場にしていた。貧乏な男は「女の品(しな)さだめは顔だけではとてもとても」と、つぶやきながら、今度は自分の家の台所をのぞいてみた。すると、嫁はタスキをかけ、竹かご一杯、にぎりめしをにぎったり、大きな鍋にみそ汁を作っているではないか。それは、夫(貧乏な男)を探し出すために雇った村びとたちの食事づくりの様子であった。それと知った貧乏な男は咳払いをしながら家の中に入った。貧乏な男が無事帰ってきたことをみんなが喜び合った。彼は、嫁や村人たちの喜びように感激した。そして「一家の富は女について回る」という先祖の遺訓を思い出した。それ以来、貧乏な男と並みの女は仲良く打ちとけ合い、二人は力を合わせて働いたので、日毎(ひごと)に貯蓄もふえ、いつの間にか七つの倉を持つほどの金持ちになった。それにひきかえ、かつての長者は美人妻の浪費がもとで日毎におちぶれ、いつの間にか貧者になりさがってしまった。その後、かつての長者からかつての貧乏な男へお互いの妻を元にもどそうと申し込みがあったが、かつての貧乏な男は、きっぱり断ったいう。
(小話333)「拈華微笑(ねんげみしょう)」の話・・・
昔、中国・王舎城近郊の霊鷲山(りょうじゅせん)の頂上で釈尊が説法をしていた。だが、ある日に限って釈尊はひと言も言わず、そばにあった金波羅華(こんばらげ)という花をひとつつまんで弟子たちの前に示した。ほとんどの弟子たちは、意味がまるでわからず、黙っていたが、弟子の中でただひとり、摩訶迦葉(まかかしょう)だけは、その花を見てニッコリと微笑み深くうなずいた。それを見た釈尊は、静かにこう言った「わたしには正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門がある。これらは不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)で、摩訶迦葉、お前に託そう」こうして、釈迦は摩訶迦葉に仏教の真髄を伝えたのであった。
(参考)
(1)摩訶迦葉 ・・・頭陀(ずだ) 第一=頭陀とは衣・食・住にとらわれず、清浄に仏道を修行すること。畑仕事をしていて、土から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃して、殺生の罪を感じ、この事がきっかけとなり出家したという。清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜き、釈迦の死後その教団を統率し、500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集し、教えの奥義を直伝する第一祖となった。
(2)不立文字、教外別伝・・・共に悟りの真髄は言葉などでは表現できるものではないから、心から心へ伝えて心で悟るということ。
(小話332)「竪琴(たてごと)の名手オルフェウスとその妻」の話・・・
    (一)
ギリシャ神話より。オルフェウスは、太陽と音楽の神アポロンと、芸術の女神(ムーサ)たちの一人、抒情詩神カリオペの間に生まれた息子である。神々の子だが、生まれて間もなくトラキア王オイアグロスの元に預けられたため、人間として人間界で生活していた。父親の太陽神アポロンは、竪琴の名人であると同時に音楽を司(つかさど)る神、母親もまた芸術を司る女神の一人であった。成長するにつれて、オルフェウスは音楽にずば抜けた才能を発揮し、その腕で周囲の人々を驚嘆させた。特にリラ(竪琴)の腕はずば抜けたていて、オルフェウスがリラを奏でると、木々は頭をたれて耳をすまし、鳥や獣たちは森の奥から出てきて聴き入った。やがてトラキア中に、その名を知らないものはいないほどの吟遊(ぎんゆう)詩人になった。成人すると同時に、彼はエウリュディケというギリシャで一番美しい妖精の妻を娶(めと)った。彼女も音楽を好み、才色兼備という言葉が似合う女性であった。
(参考)
@竪琴・・・ゼウスの息子の伝令神・ヘルメスは、太陽神アポロンの牛を盗み、2匹を食べ残りをかくしていたところに海亀が這って来たので、その甲羅に穴を開け、芸術の9女神ムーサの数に合わせて9本の糸を通して手琴を作った。アポロンはヘルメスの罪を許すかわりに、ヘルメスが作った竪琴を貰い、それを息子のオルフェウスに譲り渡した。
A9人の芸術の神(ムーサ又はミューズ)・・・(1)クレイオ---讃える女。歴史の記述(2)エウテルペ---喜ぶ女。笛を吹く(3) タレイア---華やかな女。喜劇 (4)メルポメネ---歌う女。挽歌と悲劇(5)テルプシコラ---踊りを楽しむ女。竪琴 (6)エラト---憧れを呼ぶ女。舞踏(7)ポリュムニア---賛歌を沢山持つ女。物語 (8)ウラニア---天の女。天文学(9)カリオペ---美しい声の女。英雄叙事詩
    (二)
ある日、エウリュディケがオルフェウスのもとを離れて妖精(ニンフ)たちと異国の地で遊んでいたとき、彼女を人妻だと知らない牧童アリスタイオスが彼女に一目ぼれしてしまった。そしてアリスタイオスは、エウリュディケが断るのも聞かず彼女を追い回した。エウリュディケは深い森の中を逃げ回った、その途中、不幸にも毒蛇の尾を踏んでしまった。毒蛇はエウリュディケの足に噛みついた。彼女は痛みを感じる暇すらなく、そのまま地に倒れて死んでしまった。エウリュディケの死の知らせは、オルフェウスの国トラキアの人々に涙を流させた。特に、彼女の死を悲しんでオルフェウスが涙を流しながら謳(うた)った慟哭(どうこく)の詩は多くの人びとの涙を誘った。オルフェウスの深い悲しみは尽きることがなかった。悲嘆のはてにオルフェウスは決心した。「本当なら妻は死ぬはずはなかった。運命に逆らった死であったのだ。こんなことを神々が許しておくはずはない。きっと彼女が私のもとへ戻ってくる方法が何かあるはずだ」しかし、いくら探してもオルフェウスは結局、妻を生き返らせる方法を一つも見つけられなかった。「地上にその方法がないのなら、直接、妻を連れ戻すまでだ」とオルフェウスの妻への想いは、ついに彼の足を冥界(黄泉の国)に向けた。
    (三)
地上と冥界をつなぐ道には、人間が行き来できぬようにさまざまな障害があった。「私は竪琴を弾き、悲劇を吟(ぎん)ずることしか出来ぬ者。我が竪琴の調べで地獄の番人たちとハデス神を説得するしかない」こう決意すると、オルフェウスは父アポロンより譲り受けたリラ(竪琴)を片手に、冥界へ通じる洞窟へと旅立った。そして、入口の光が見えなくなるほどの深さに入ったとき、ステュクスの川が見えてきた。冥界と現世を隔てるステュクス川(日本で言う三途の川)であった。人間と死人を分かつ川で、ステュクス川は、冥界の王ハデスのしもべであるカロンが川を守っていた。オルフェウスはカロンを呼び出すと、河原の岩に腰をかけ、竪琴を弾き始めた。哀(かな)しげな旋律は言葉を持ち、愛する妻の突然の死を嘆く曲であった。カロンは言った「見事だ。まさに神の竪琴だ。見ろ、河原の石も、ステュクスの川も声を上げて泣いる。よかろう、冥王のもとへ無事送り届けよう」こうして、オルフェウスは、ステュクス川をカロンの船で冥界の奥へと向かった。オルフェウスが地獄の番犬ケルベロスを恐れていると、カロンが言った「恐れるな。ケルベロスは、血を見ると猛(たけ)り、刃を見ると興奮するが、逆に温和な雰囲気にはおとなしくなる」と。オルフェウスはカロンと別れて、地獄の門めざした。地獄の門には暗闇の中で地獄の番犬ケルベロスがこちらを睨(にら)んでいた。6つの目が赤く光りオルフェウスを凝視していた。オルフェウスは静かに竪琴を弾き出した。それは子守唄だった。聞けば大人でも酔わされてしまう柔らかな音色、いずれは妻との間に生まれた自分の子の為の唄だった。曲が始まってまだ1分も経たないうちに、ケルベロスは三つの口から大きな寝息を立て始めた。こうして無事にオルフェウスは地獄の門へ歩み寄った。
(参考)
@地獄の番犬ケルベロス・・・ケルベロスは首が三つ、尾が蛇という犬の怪物である。口からは火を吐き、心の弱い人間はその姿を見ただけで石になるという。
    (四)
オルフェウスは地獄の門の扉を押した。鉄の門は、まるで彼を招き入れるかのようにゆっくりと開き始めた。門の奥には、2つの玉座があった。そして、そこに座っていたのは二人の神。冥界の王ハデスと妻ペルセポネであった。オルフェウスは二人の前にひざまずいて、妻エウリュディケを地上に戻してほしいと頼んだ。そして、悲しみの詩を竪琴で奏(かな)でた。愛する妻の突然の死を嘆く、悲しくもせつない曲であった。「オルフェウスよ」ペルセポネが立ち上がった。顔は涙でぬれていた「そなたの想い、その音楽によって十分に伝わりました。私や夫だけでなく、タルタロス(奈落)に住まう残忍な巨人族や罪人たちも皆、涙を流したでしょう。これほどの想いで愛された女性などありません。今回は特別に彼女を下界に連れ戻すことを許しましょう。ただし、条件があります。あなたが地上に戻るとき、後からエウリュディケを追(お)わせますが、その間、決して後ろを振り向きエウリュディケの姿を見てはなりません。陽の光が差す地上まで待つのです」こうして、オルフェウスは今来た道を引き返し始めた。しばらくすると、後ろからヒタヒタと足音が聞こえてきた。「エウリュディケ?」とおそるおそる、オルフェウスが尋ねた。「はい。オルフェウス様」と足音の主は答えた。紛(まぎ)れもない、妻の声であった「おお、神よ。今一度、私に妻の声をお聞かせくださり、感謝します」と振り返らず、オルフェウスは神を讃えた。地獄の番犬ケルベロスの傍(かたわ)らを通り抜け、カロンの船でステュクス川をさかのぼるとき、二人は一言もしゃべらなかった。オルフェウスは冥界の神との約束を守るため、終始無言をつらぬいた。長いトンネルを進んだ。すると、目の前に白い点が見え始めた。点は次第に円になり、やがてそれが地上の光だということがオルフェウスにははっきりと分かった。「地上の光だ。私はお前と再び生きることができるのだ。エウリュディケ」地上の光を見て気が緩んだのか、オルフェウスは思わずエウリュディケの方に振り向いてしまった。エウリュディケは後ろにいた「ああ、エウリュディケ」。だが、まだ早かった。エウリュディケは涙をこぼしながら消えていった。あきらめきれないオルフェウスは許しを求めに、再び来た道を引き返し始めた。しかし、冥界の神との約束を破ってしまったため、今度はステュクス川でカロンに乗船を断られてしまった。
    (五)
地上に戻ったオルフェウスは、以前と同じようにエウリュディケの死を嘆く歌を歌い続けた。だが、オルフェウスは、冥界に行ったただ一人の者として有名になって、ついにはオルフェウスにアルゴー船に乗って大遠征する話しが持ちこまれた。オルフェウスはこの遠征に行って大活躍した。やがて、アルゴー遠征から戻ったオルフェウスはますます有名になり、オルフェウスの住むトラキアの女達は次々にオルフェウスの妻になろうと申し出た。しかし、それらの女性をオルフェウスは見向きもしなかった。全ての求婚を彼は無視し続けた。プライドを傷つけられた女性たちは、狂乱の宴を開くことで酒の神ディオニュソスの力を得て、その力でオルフェウスの体を八つ裂きにしてしまった。そして、八つ裂きにされたオルフェウスの体は川を流れ、首と竪琴はエーゲ海を漂い、レスボス島に漂着した。そこで彼は神の声(神託)を歌う預言者になったという。
(参考)
@アルゴー遠征・・・イオルコスの王子イアソンはアルゴー船で、ギリシャ中の名の知れた勇者50余人を乗せて、金羊毛を一緒に取りに行く大冒険物語(アルゴー遠征中は、ことあるごとに竪琴の名手オルフェウスが仲間の勇者たちを奮い立たせたり、慰めたりした。そして、アルゴー船が、その歌声を聞いた者は、気が狂い時を忘れて永遠に聞き惚れると言われているセイレーンが住むと言われる島を通過する際には、勇者らはオルフェウスが奏でる竪琴に耳を奪われて、セイレーンの歌声を聞かずに済んだ)。
A八つ裂きにされたオルフェウス・・・オルフェウスは死後、自らも冥界にくだり、妻エウリュディケともう一度夫婦生活をやり直し、今度は「決して振り向いてはならない」という条件もないため、オルフェウスとエウリュディケは思う存分お互いを見つめていたという説もある。又は、オルフェウスの死を悲しんだ音楽の女神たちが、亡骸を拾い上げてリべトラの森に葬ったため、その墓の傍の木にはいつも夜鶯(よるうぐいす)が美しい声を空にひびかせたという。また、首と琴は流れるままに海に出てレスボス島にたどりつき、落ち葉の下に埋もれてしまった。大神ゼウスはこれを見て、あわれに思い竪琴を星々の間にかけた。これが琴の星座(琴座=リラ座)で、静かな夜には今も悲しく美しい音色(ねいろ)を響かせることがあると伝えられている。そして、かつてオルフェウスのまわりに集まって その竪琴の音に聞きほれていた動物たちも星の仲間入りをし、 こと座のまわりをまるく取り巻いて その調べに聞き入っているといわれている。
(参考)
「オルフェウスとエウリュディケ」(ジャン・ラウー)絵はこちらへ
「オルフェウスとエウリュディケ」(エドワード・ジョン・ポインター)絵はこちらへ
「オルフェウスとエウリュディケ」(プッリーニ)絵はこちらへ
「オルフェウスとエウリュディケ」(Federico Cervelli)絵はこちらへ
「オルフェウスとエウリュディケ」(ミヘル・リチャード・ピュッツ)絵はこちらへ
「オルフェウスとエウリュディケ」(ジョセフ・パエリンク)絵はこちらへ
「死せるオルフェウス(ジャン・デルヴィル)」絵はこちらへ
(小話331)「星(水瓶座)になった美しい王子・ガニュメデス」の話・・・
     (一)
ギリシャ神話より。オリュンポス山の神々たちは、神の酒(ネクタル)を飲み、神の食べ物(アンブロシア)を口にしていた。それらには不老不死にする力があり、神の特権であった。オリンポスの宴会で名誉ある神の酒を注ぐ役目を担っていたのは、神々の王・ゼウスとその妻・ヘラの娘、青春の女神へべで、全身が金のように輝く美女で、女神の酌(しゃく)で飲む酒はうまいと評判だった。そのうちに、へべ女神が神の仲間入りをしたヘラクレスと結婚することになった。そこで、ゼウスはへべの代わりとなる者を探すことになった。すると、はるか下界のトロイの国にヘベにも劣らぬ金色に光り輝く美しい少年を見つけた。トロイ王トロースの3人の王子の一人、ガニュメデスで、彼は父親の所有している羊たちの番をしていた。ゼウスは大きな鷲(後に「鷲座」になる)に姿を変えると、イーダ山で羊の番をしていたガニュメデスの両腕をつかんでオリュンポスに戻ってきた。驚き怯(おび)えているガニュメデスにゼウスは優しく声をかけた「私は神々の王・ゼウスだ。お前に、これから神々の杯に神酒を注ぐ役目を授ける。その代わりに、お前には永遠の若さと美しさを与えよう」
(参考)
@ヘラクレス・・・神々の王ゼウスとアルクメネ王女の子で半神。ヘラクレスの生涯は嫉妬深いゼウスの正妻ヘラの悪意ある嫉妬に苦しめられた。彼は、十二の難行を成し遂げたギリシャ一の英雄で、死後に天に上ったヘラクレスはゼウスの仲介によりヘラと和解し、ヘラの娘の青春の女神ヘベと結婚してオリュンポスの神の一員となる。
Aガニュメデスの両腕をつかんで・・・この時に持っていた水瓶からこぼれた魚が天に昇り、南の魚(うお)座になったという。
     (二)
ゼウスの息子の伝令神・ヘルメスは、嘆き悲しんでいるトロース王のところに赴き、ガニュメデスのことを心配しないように伝えた。さらにゼウス神はトロース王に鍛治の神・ヘパイストスがつくった「黄金のぶどうの木」や嵐の如く迅速な「不死身の神馬」などを送った。ガニュメデスの任務は、若さを保つ神の酒の入った金杯の守るだけではなく、地上に雨を降らす重要な役目もあった。マントを肩にトラギア帽子をかぶってゼウスに隣座するガニュメデス、時にはゼウスの聖なる鷲に跨(またが)るガニュメデス。こうしてガニュメデスは、ゼウスの寵愛を一身に集めた。あまりの寵愛ぶりにゼウスの妻ヘラはガニュメデスに嫉妬した。そしてついには彼女はガニュメデスを殺そうとまでした。ゼウスは神々の王とはいえ妻であるヘラが怖かったのと、又、息子を失ったトロース王の悲しみも和らげようと、ガニュメデスを天上の星に加えることにした。ガニュメデスを「水瓶座」にし、彼をさらった鷲を、その近くで「鷲座」とした。こうしてガニュメデスは、神の酒倉の番をする「水瓶座」になった。水瓶から流れ出すのは神の酒だと言われ、この世を浄化する聖なる水でもあると言われている。
(参考)
@妻ヘラはガニュメデスに嫉妬した・・・ヘベが結婚する前に、ガニュメデスがゼウスや神々に酒を注ぐ役目になった。娘ヘベがこの名誉ある役を降ろされたので、怒ったのは母親ヘラがガニュメデスを殺そうとしたという説もある。
「ガニュメデスの誘拐」(コレッジオ)の絵はこちらへ
(小話330)「三年鳴かず飛ばず」の話・・・
        (一)
中国は春秋戦国の時代の話。楚(そ)の国で荘王(そうおう)という人が王に即位した。王は即位してから三年の間、毎日、酒宴を開いて政務を顧みなかった。三年経って、伍挙(ごきょ)という人が、王になぞあてを出した。王は謎とき遊びが大好きだったのである。伍挙が王に言った「我が国には大きな鳥がいて、王の庭に留まっておりますが、三年間飛びもしなければ鳴きもしません。王よ、この鳥は一体何なのかご存知でしょうか?」王は答えた「その鳥は飛び立たねばそれっきりだが、ひとたび飛び立てば天上まで飛び上がるだろう。また鳴き出さねばそれっきりだが、ひとたび鳴き出せば人々を驚かすことだろう」生来聡明だった荘王は、伍挙の言わんとするところを理解して、政治の改革に乗り出した。
        (二)
最初に王は国中から県の長官を呼び出し、その中でも即墨(じも)の長官を招いて「そちが即墨に赴任している間、左右の者から散々そちの悪口を聞かされたものだった。そこで即墨を視察させたところ、田野は開拓されて人々は満ち足りた暮らしをし、政務は滞りなく行われ、他国からの侵略もよく防いでいるとのことであった。これはそちが、わしの側近にへつらうことなく、ひたすら政務に励んだということである」と賞賛した。又、王は同じように阿(あ)の地の長官を招いて言った「そちが阿の長官となってから、よく左右の者からそちを褒める言葉を聞かされた。そこで阿を視察させたところ、田野は開拓されず、人々は貧しい生活をし、趙(ちょう)や衛(えい)が我が領土に攻め込んで来た時も援軍を送ろうとしなかったという報告を受けた。そちはわしの側近に賄賂を贈って自分の声名を高めようとしたのであろう」王は直ちに阿の長官を処刑した。そして彼から賄賂を受け取った側近も同じように処刑した。その様子を見聞きして、楚の人々は王を恐れて勝手な振る舞いをしなくなり、国内が安定した。
(小話329)「カトリーヌ・ド・メディシスと「6人の奥方の城」」の話・・・
   (一)
優雅なフランスの城館(シャトウ)の中でも、ひときわ女性的な美しさを誇る貴婦人の城シュノンソー城(王家の谷ロワール川流域のど真ん中)は国王アンリ2世が寵愛したディアーヌ・ポワティエのために心をこめて贈った城であった。そして、代々、女性の城主が住んでいたため、この城には「6人の奥方の城」という別名がある。最も有名なのは、永遠の美女と言われ、アンリ2世の愛妾だったディアーヌ・ド・ポワティエである。しかし、王の死後は、王妃カトリーヌ・ド・メディシスによって城を取り上げられてしまった。この二人の女性の名前が付いた庭園が城の左右にそれぞれあって、時を隔てた今もなお、お互いに華やかな美しさ競っているかのようである。
(参考)
@6人の奥方・・・(1)アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ。(2)アンリ2世の正妻カトリーヌ・ド・メディシス。(3)アンリ3世の妻、ルイーズ・ド・ロレーヌ。(4)王妃ルイーズ・ド・ロレーヌの姪フランソワーズ・ド・ロレーヌ。(5)フランス革命から城を守ったマダム・デュパン。(6)1863年に修復を生涯の仕事にしたマダム・ブルーズ。
A王妃カトリーヌ・ド・メディシス・・・彼女はイタリアフィレンツェの名門メディチ家に生まれたが、母は彼女が出産後、亡くなり、間もなく父も亡くなって孤児となった。1533年、当時のローマ教皇(クレメンス7世=メディチ家の一門から輩出)とフランス王の間で縁組交渉がまとまり、14歳同士だったフランス王の第2王子アンリ・ド・ヴァロア(のちのアンリ2世)と結婚した。
   (二)
16世紀フランスの国王アンリ2世の愛人で、元家庭教師のディアーヌ・ポワティエは20歳近く年下のアンリから生涯愛された才色兼備の女性であった。出会いはアンリ11歳、王子の家庭教師のディアーヌ31歳であった。ディアーヌの「月の女神」のような美しさに王子は骨抜きで、彼女に恋い焦がれてしまった。アンリは成人になると、ディアーヌを愛人にし、28歳で国王となると正式に愛妾にした。ディアーヌは、王宮の画家が競って彼女をモデルに絵を描くほどの美女で、その容貌は老齢になっても若い女性に引けを取らない美しさであった。また公式の手紙に王と並んで「HenriDiane(アンリディアーヌ)」とサインするほどの力を持っていた。アンリは彼女へ戴冠式に用いる宝石を渡すなど、妻のカトリーヌに対するよりも多くの愛と美しいものを与えた。そのため正妻のカトリーヌは嫉妬に狂った。それでも、アンリは妻のカトリーヌには目もくれず、母と子ほど年の差も気にせずにディアーヌを愛し続けた。このため、アンリ2世の王妃(正妻)カトリーヌ・ド・メディシスは面目丸つぶれであった。彼女は当時イタリアでも飛び抜けた名家、大富豪メディチ家の本家出身で、洗練されたイタリアの豊かな暮らしの中で育ち、知性と教養を身につけた自尊心の高い女性であった。にもかかわらず政略結婚によって結ばれた夫婦関係は最悪で、彼女はショモン城で放ったらかされて暮らしていた。カトリーヌは芸術を愛し、魔術や錬金術、占星術などに凝(こ)って、贅沢に暮らしながら気を紛らしていた。それでもしっかりと後継ぎの王子をもうけて、自分の地位の安定を図っていた。そんな中、突如、悲劇が起こった。騎上槍試合で、日頃から好戦的で勇猛果敢なアンリ2世が思わぬ傷を受け、それがもとであっけなく死んでしまった。享年40歳であった。
(参考)
@占星術など・・・占星術師ノストラダムスは国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスに謁見し、以後、王妃カトリーヌ・ド・メディシスはノストラダムスを相談相手とし庇護した。
A後継ぎの王子・・・アンリ2世とカトリーヌの間には10人の子供ができた。 Bアンリ2世が思わぬ傷・・・ノストラダムスの「百詩編、第一の書」の予言通り、アンリ2世は若い近衛隊長モンゴメリー伯と余興の騎上槍試合をして、どうしたはずみか、伯の槍がアンリ2世の黄金の兜をつらぬいて、片目を突き刺してしまった。槍は脳にまで達して、それが原因でアンリ2世は九日間を昏睡状態ですごしたまま、まもなく死んだ。
   (三)
アンリ2世が亡くなると、日ごろからディアーヌに嫉妬の炎を燃やし続けたカトリーヌは、この時とばかりに王子をフランソワ2世(15歳)として即位させて、自らは摂政の座につき全権力を自分の物にした。彼女は以後30年にわたりヴァロア王家に君臨することになった。摂政という権力者なると「出てお行き、王妃は私よっ」とばかりシュノンソー城からディアーヌを追い出した。そして、自分の住むショモン城を与えた。ディアーヌは一時、ショウモン城に住んでいたが、その後、自分の持ち家であるアネの城に帰った。アネ城はパリの西のはるか地平線の見える広大な田園地帯の真ん中で、狩と乗馬を愛したディアーヌにふさわしい城であった。ディアーヌは城の裏手に広がる森での鹿狩りや乗馬で気を紛らしながらひっそりと余生を暮らし、アンリ2世が亡って、7年後、波乱に満ちた67歳の生涯を閉じた。
(参考)
@アンリ2世が亡くなる・・・夫が死んだ後、カトリーヌは一生喪に服すため、黒い喪服を着ていた。
A自らは摂政の座・・・カトリーヌはそれまで田舎臭かったフランス王家に洗練されたイタリアの先進文化や料理、衣装等を取り入れ芸術の振興をした。一方で毒薬の研究や占星術にも凝り、血生臭い権謀術数を操り返したため、歴史上でも有数の悪女といわれている。
Bフランソワ2世として即位・・・カトリーヌの長男、フランソア2世は間もなく死んでしまい、以後、彼女の息子のうち3人(フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世)が王位に付き4男のアンリ3世をもって王家ヴァロア家は終わる(お気に入りの占星術者ノストラダムスの予言どおり息子全員が死んでしまった)。
   (四)
一方、権力を手に入れてディアーヌを追い出した王妃カトリーヌは、シュノンソー城からディアーヌの香りを消し去ろうと改築、内装や調度をすっかり変えてしまった。こうして、シュノンソー城からはディアーヌの香りを消し去ると共に自らの好み通りの城にした。彼女の好みが存分に生かされたシュノンソー城は、すっかり美しい姿に生まれ変わった。摂政となったカトリーヌは、フランソア2世の死後、王位についた次男シャルル9世とともにブロワ城に居を構えると、まだ幼い王を利用して、持ち前の男勝りの性格と狡猾さを駆使して宮廷に出入りする実力者達や、取り巻きの女性達を翻弄した。このころのフランスは新教徒と旧教徒両派のバランスの上に成り立っていた。だから政略結婚はもちろん、陰謀、暗殺、裏切り、密告、浮気、近親相姦など当たり前であった。カトリーヌは、実の娘であるマルゴも利用した。マルゴは王家の悩みの種である新教徒(プロテスタント)のアンリ・ド・ナヴァールと政略結婚させられた。ところがこのマルゴも母親に負けず劣らずで、いけ好かない夫とは距離を置きつつ浮気三昧であった。ところが夫の方もまた別に愛人を作り、互いに浮気につぐ浮気の奇妙な結婚生活をしていた。
(参考)
@実の娘であるマルゴ・・・マルグリット(デュマの小説と映画で有名な王妃マルゴ)のことで、カトリーヌは旧教徒のギース公アンリと図って、マルゴとアンリ・ド・ナヴァールの結婚を利用して、集まった新教徒(プロテスタント)を虐殺した(聖バルテルミーの虐殺)
   (五)
マルゴの夫がアンリ・ド・ナヴァールなら、王位を虎視眈々(こしたんたん)と狙う旧教徒(カトリック)の有力者ギーズ公もアンリで、カトリーヌの3男のアンリ3世もアンリ。この3人のアンリ(3アンリの争い)をめぐりカトリーヌの駆け引きが始まった。彼女の嫉妬や陰謀は度重なる毒殺合戦や宗教戦争(国内が旧教と新教に二分)の激化を引き起こし、天下の悪女との評判がすっかり定着してしまった。後(のち)、国王となったアンリ3世は母親のカトリーヌとともに目の上のたんこぶであるギーズ公を毒殺した。しかし、アンリ3世自らも毒殺され、同じ頃カトリーヌは病で死んでしまった。享年70歳だった。こうして、当時の王家ヴァロア家は断絶してしまった。結局、生き残ったのはマルゴの夫アンリ・ド・ナヴァールで、彼がブルボン家のアンリ4世として、以後のフランス絶対王政の基礎を築くことになった。最後の悲劇はアンリ3世の妻ルイーズで、野心満々だったアンリ3世があっけなく報復による毒殺で命を落としたため妻ルイーズ・ド・ロレーヌは王家のしきたりで喪に服した。そこで選んだのが貴婦人の城シュノンソー城であった。ブロア城から移り住んだ彼女は常に全身、白の喪服をまとい生涯、祈りの日々を貫いた。それまでは華やかに飾られていた彼女の居室は、服喪(ふくも)の部屋にふさわしく黒が基調の重苦しい内装に模様替えされてしまい、陰鬱そのものだったという。
(参考)
@アンリ3世自らも毒殺され・・・母カトリーヌ・ド・メディシスは、美男で伊達男のアンリ3世を溺愛していたが、彼は同性愛者であった。したがって妃(ルイーズ・ド・ロレーヌ)をとらせたが子供が生まれるはずが無く、結局は彼も子供が無いままノストラダムスの予言どおりカトリック(旧教徒)の修道士ジャック・クレマンに暗殺された。
「ディアーヌ・ポワティエ」の絵はこちらへ
「カトリーヌ・ド・メディシス」絵はこちらへ
(小話328)「狂った子と良医(狂子良医の譬え)」の話・・・
あるところに大変に優(すぐ)れた医者がいた。その医者は、優れた知恵を持ち薬の処方にも熟練していて、どのような病気でも治すことのできる名医であった。その医者が他の国へ出かけた留守に、子供たちが誤って毒になる薬を飲んでしまった。そこに父である医者が帰ってきた。毒を飲んだ子供たちは、苦しみながら「お父さん、どうか治してください」と頼んだ。さっそく父は、薬草を調合して子供たちに与えた。子供たちの中でも心のしっかりした子供たちは、素直に薬を飲んで、すぐに毒を消すことができたが、毒で心が乱れている子供たちは、毒を消すことを望みながら父の調合してくれた薬も毒薬に見えて飲もうとしなかった。父は悲しんで、毒で本心を失っている子供たちに「私はもう死期が近づいているが、また他の国へ行かなければならない。この良薬を置いておくから必ず飲むように」と言い残して旅に出た。そして、旅先から使いを出して、自分が死んだことをまだ毒で苦しんでいる子供たちに告げさせた。それを聞いた子供たちは「父がいるならば、我らを苦しみから救ってくださるであろうに、他国で亡くなられた。我らはもう頼むところもなくなった」と深く悲しんだ。だが、それによって毒に酔った心から醒めて本心に立ち返り、父が残してくれた薬を飲んだ。それによって子供たちの毒は消えさり、元の元気な身体を取り戻したのであった。父は、子供たちが毒を消し去り、本来の元気な姿に立ち戻った時、再び姿を現したのであった。
(参考)
医者・・・仏
子供たち・・・衆生
毒・・・三毒(貪・瞋・癡)
薬・・・すぐれた教え
元気な姿・・・仏のすがた
(小話327)「財布を失くした商人」の話・・・
イギリスでのこと。昔、村と町との間で、百ポンド入りの財布を失くしたある商人、その財布を見つけて届けてくれた者には、誰でも二十ポンドの謝礼を出すと村と町でふれまわった。たまたま落とした財布を見つけた一人の正直な作男が町の代官のところへ届けて、約束どおり二十ポンドをもらいたいと申し出た。これを知った強欲な商人は、見つけてくれた礼の二十ポンドが惜(お)しくなって、自分の百ポンドの他に二十ポンド余計に取ってやろうと企(たくら)み、実はあの財布には百二十ポンドが入っていたと言い張った。長いあいだ、お互いの争いつづけたあげく、この一件は名裁判官の誉れ高いある判事の前に持ち出された。百ポンド入りの財布が原因の訴えだという報告を代官から受けた判事は「問題の財布はどこかね」と訊いた。「ここにあります」と言って、代官は財布をさし出した。「中味はちょうど百ポンドかね?」と判事。「はい、そのとおりです」と代官は答えた。「よろしい、判決を下す」と判事は、財布を見つけた作男に言った。「この金はおまえのものとして使うがよい。してもし今後、百二十ポンド入りの財布を見つけたならば、さっそくこの正直な商人のもとへ届けるように」すると商人は慌てて言った。「それはわたしの金です。わたしの失くしたのは百ポンドきりです」だが、判事は言った。「おまえの言い分は遅すぎた」こうして正直な作男には、百ポンドが与えられた。
(小話326)「プロメテウスとパンドラ(パンドラの箱)」の話・・・
   (一)
ギリシャ神話より。最高神・ゼウスは父クロノスたちのティタン神族を征服した。プロメテウスは、ティタン神族ヤペトスの息子であったが、先見の明があったのでゼウス側に組してクロノスを倒すために闘った。プロメテウスと弟のエピメテウスは神々から地上に満ちあふれた生き物たちに、色々な贈物を与える仕事を任せられた。プロメテウスは、人間を作り、人間に地を耕し作物を作ること、道具を使うこと、羊や牛を飼い慣らすこと、言葉で話すことなど沢山のことを教えた。エピメテウスが贈り物をする仕事を自分に全部やらせてくれと言ったので、プロメテウスは彼に任せることにした。エピメテウスは鳥に翼を、蠍(さそり)には猛毒を、豹(ひょう)には最速の足を、象には長い鼻を、ネズミにはすばしっこさを・・・と与えて行ったが、うっかり人間のことを忘れていて、いざ人間に何か贈物をしようと思ったら、もう何も残っていなかった。困ったエピメテウスは兄のプロメテウスに相談したが、どうしようもなかった。しかし人間は弱々しい生き物なので、放っておくとすぐ他の獣の餌食(えじき)になってしまう。そこでプロメテウスは人間たちに、神だけが持っている火を与えようと思った。それはゼウスが許すとは思えないことだったので、彼はこっそりと太陽の宮殿に忍び込んで、ヘリオスの太陽の馬車から火を盗んで人間に与えた。
(参考)
@ティタン神族・・・プロメテウスとオケアノス以外のティタン神族は「クロノス」の配下でオリンポスの神々(中心はゼウス)と闘った。
Aプロメテウス・・・プロメテウスは「先を見る男」(前もって知る者)の意味で弟エピメテウスは「後から考える男」(事が起きてから知る者)の意味。プロメテウスと異なりエピメテウスは愚鈍であった。
Bヘリオス・・・大地母神ガイアと天空神ウラノスの子で、毎日、太陽の戦車にのって、東から西へと天空を横切る4頭の荒馬を御(ぎょ)する神。
   (二)
しかし人間たちが火を持っていることは、すぐにゼウスの知るところとなった。彼はどうして人間が火を獲得したのか調べ、やがてプロメテウスがそれを与えたことを知ると、プロメテウスを捕らえて彼に罰を与えた。それは永遠の苦しみを与えるものであった。プロメテウスは不死で、どうやっても死なないので、ゼウスは彼を北方の寒冷(かんれい)な岩山・カフカス山の崖の大岩に鎖でしばりつけ、両手両足を釘で打ちつけて「はりつけ」にして、毎日、大鷲に襲(おそ)わせるようにした。大鷲はプロメテウスの腹をくちばしで裂き、肝臓を食べてしまう。彼は不死なので、夜の間に肝臓は復元するのだが、また翌日には大鷲に食べられてしまう。この痛みと苦しみは毎日、毎日続いた。それは長い年月続いた。しかしその苦しみもやがて終る時がやって来た。ケンタウロス族の長老ケイロンが彼の身代りになって苦しみを受けると申し出た。それは、ヘラクレスが誤ってを毒矢で射てしまい、ケイロンは不治の傷を負ってしまった為、彼はこの機会にプロメテウスの苦しみも一緒に引き受けることにしたのであった。そこでゼウスは英雄・ヘラクレスに命じてプロメテウスを苦しめている大鷲を殺させ、プロメテウスを解放した。
(参考)
@プロメテウスを捕らえて彼に罰を与えた・・・天上の火を盗んで人間に与えたほかに、かってプロメテウスは、神に捧げる生け贄(にえ)を欺いて、人間には肉、神には骨を取るようにし向けたりしたことで、ゼウスの怒りをかっていた。
Aケンタウルス・・・半人半馬のケンタウロス族の賢者。ケイロンはティタン神族のクロノスとピリュラの子で、永遠の命を持っていたが、ヘラクレスに毒矢で射られて、そこから毒が回りケイロンは激しく苦しみ、死を得ようとティタン神族の英雄・プロメテウスの苦しみを引き受けることにしたであった。ゼウスは殺すのは惜しいとケイロンを天空に置いた。
Bヘラクレス・・・神々の王ゼウスとアルクメネ王女の子で半神。嫉妬深いゼウスの正妻ヘラは、二匹の毒蛇を送り赤ん坊のヘラクレスを殺そうとするが、これをヘラクレスがつかみ殺した。長じては十二の難行を成し遂げたギリシャ一の英雄で、死後に神となる。
   (三)
一方、ゼウスはエピメテウスにも罰を与えた。ゼウスは鍛冶の神・ヘパイストスに泥から最初の人間の女である美しき乙女パンドラ(その意味は「すべてを与えられた」)ををつくらせて、ゼウス自ら生命を吹き込んだ。パンドラは、その名の通り、神々から多くの贈り物をもらって創(つく)られた女であった。アテナからは知恵を、アプロディーテからは美しい肉体を与えられた。アポロンからは美しい歌声を与えられた。アルテミスからは月の神秘を与えられた。そして最後に、大神ゼウスからは美しい金の箱(パンドラの箱=壺とも言われる)が与えられた。決して開けてはいけないという忠告と共に。それとさらにゼウスの伝令役・ヘルメスからは、彼女に「好奇心」が与えられた。こうして、ゼウスはヘルメスに命じて、美しい乙女・パンドラをプロメテウスの弟・エピメテウスの女として連れていくよう命じた。プロメテウスは罰を受けることになった時、弟のエピメテウスに、ゼウスが何か贈物をして来ても決して受け取らないようにと警告を与えていたが、彼は美しいパンドラを見るとそんなことなどすっかり忘れて、彼女に一目惚れしてしまい、彼女と結婚してしまった。
(参考)
@パンドラ・・・プロメテウスが大地の土を取り、水で練り固め神々の姿に似せて創り上げたのが人間の始まりで、彼は自分の姿を基本として創ったため、それまで人間界には男性しか存在しなかった。
Aヘパイストス・・・火と鍛治の神。ゼウスが一人でアテナを生んだのに対抗して、ヘラが一人で生んだ子とされている。そのためか、すべて完全で美しい神々の中で、彼だけは醜くびっこだった。
Bアテナ・・・ゼウスの娘で、すっかり成人して鎧(よろい)かぶとをつけた姿でゼウスの頭から飛び出してきたといわれている。
Cアプロディーテ・・・美と愛の女神である。海の泡から生まれたという。彼女がいなくてはどこにも喜びはないとされる。
Dアポロン・・・ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。
Eアルテミス・・・月・狩の女神。アポロンの双子の妹。白馬がひく銀の馬車にのって夜空を駆け巡る。彼女だけが海の潮を銀の鎖で操る。
Fヘルメス・・・ゼウスとアトラスの娘マイヤの子。ゼウスの伝令役で、足に羽のはえたサンダルを履き、先に輪のついた杖を持って風のように速く走る。
   (四)
パンドラは、エピメテウスと結婚して幸せな生活を送っていた。しかし、パンドラには一つだけ気になることがあった。それは大神ゼウスから貰った金色の美しい箱だった。「一体、どんなものが入っているかしら」と昼はその箱を眺め続け、夜はその箱の夢を見るほどになった。パンドラは、とうとう我慢出来なくなってしまった。そして、ある日パンドラはついに好奇心に負けて、その箱を開いてしまった。すると、そこからは人間界のすべての災い(嫉妬、怨恨、復讐、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪、貧困 戦争、虚栄、飢餓、残虐、好色・・・などなど)が飛び出してきた。パンドラは慌ててその箱を閉めたが、すでに一つを除いて全てが飛び去った後であった。たった一つ残ったのは希望(又は前兆)だけであった。こうして、以後、人類は様々な災厄に見舞われながらも、希望だけは失わずに生きていくことになった。パンドラは箱を開けてしまったことを後悔し、泣きじゃくっていたが、やがて事情を聞いた夫のエピメテウスは、金色の箱を二度と彼女が開けないように取り上げた上で、彼女を優しく抱いてなぐさめた。パンドラとエピメテウスの娘ピュラはデウカリオンと結婚して大洪水を生き残って、ギリシャ人の祖といわれるヘレンを産んだ。
(参考)
@たった一つ残ったのは希望・・・「希望」が箱の中に残されていたなら、この世界に「希望」が無いはずだが?(普通は、希望というと美しい言葉だが、古代ギリシャ人にとって希望とは、まやかしの誘惑であり、苦しむ人間にとりついて悪事をそそのかす魔女だったという)。それで、パンドラの箱に残っていたのは「前兆」(将来何が起こるか予測出来てしまうと、希望を抱くことが出来なくなり人類は破滅してしまう)という説がある。
A大洪水・・・人間には五つの種族の時代(最初は(1)黄金の時代、人間は大地から生まれ、神々と共に大地の上で暮らしていた。次が(2)銀の時代。人は神々がつくり、人々は弱者を虐げ、争うことを知った。次が(3)青銅の時代。人々は殺し合い、親子兄弟さえ、その手にかけた。次が(4)英雄時代。悪がはびこるものの、神々を父、母を人間とする正義の英雄たちが現れた。最後が(5)鉄の時代。いっそう悪がはびこり、人間たちは堕落し、残忍になり、好戦的になっていった)青銅の時代の人間に愛想をつかしたゼウスは、青銅の時代の人間を滅ぼすことにした。「青銅の時代の人間など、大雨に流されてしまえ!」激しい稲光と雷鳴とともに激しき嵐が起こり、世界はたちまち大洪水に見舞われた。家や木々はもちろん、山まで流してしまい、人間たちは逃げるまもなく溺れ死んでいった。しかし、この大洪水を生き延びた夫婦がいた。プロメテウスの息子であるデウカリオンと、エピメテウスの娘ピュラであった。デウカリオンはひそかに箱舟を造ってこの危機に備えていたのである。
B(小話282-1)有名な「天地創造と神々の誕生」の話・・・と(小話282-2)「父・クロノスと子・ゼウスの闘い」の話・・・を参照。
「縛られたプロメテウス(モロー)」絵はこちらへ
「パンドラ」(ウォーターハウス)絵はこちらへ

(小話325)ある「有名な画家と孫弟子」の話・・・
   (一)
江戸時代後期の有名な画家・谷文晁(たにぶんちょう)と孫弟子の話。文晁の弟子の金井烏洲(かないうしゅう)の弟子に田崎草雲(たざきそううん)という若者がいた。草雲は若いのに、画には優れた能力があって、世間の評判も高く、そのため本人もかなり高慢になっていた。ある時、若い草雲は師匠に願い出て、文晁に、自分の腕を見てもらうことになった。文晁はおだやかな人物で、門弟に対しても一度も大声で叱りつけたことはなかった。文晁は草雲の挨拶を受けてから、早速その場で「梅の花」の絵を描くように言った。草雲は、自分の力を見せる絶好の機会とばかり、すぐさま筆をとって見事に描きあげた。しかし、文晁はそれを手に取ってじっと見ているだけであった。その様子を見て草雲は心ひそかに、これでほめてもらえるだろうと期待していた。ところが文晁は「これが絵か。これが絵なら子どもでも描ける、わっはっは」とあざ笑って、その絵を足もとへ投げ出して奥へ入ってしまった。後に残った草雲は、しばらく茫然としていたが、やがて我に返ると、カーッとなってその絵を引きさき、いかに文晁といえどもあまりにひどい侮辱だとこぶしを握りしめ、歯をくいしばり、畳をけって立ち去った。そして、いまに立派な絵を描いて、必ず文晁を見返してやろうと決心したのである。
   (二)
それからの草雲の修行は、すさまじいものであった。そして、師の烏洲も驚くほど草雲の腕は、メキメキと上達した。二年たったある朝、草雲は一枚の絵を持って師匠の前に出て、もう一度、文晁に会わせて欲しいと頼んだ。持って来た絵は、実に見事な梅の花の絵であった。そこで師匠は、手文庫(てぶんこ)から一通の手紙を取り出して、草雲に渡した。それは二年前、草雲が文晁をたずねた日に、文晁から烏洲へひそかに宛てた手紙であった。文面は次の通りであった。「あなたの弟子の草雲という若者は、行く末まことに見込みのある者である。よい弟子はよい宝だ、国の宝として大事にしてもらいたい。しかし惜しいことには慢心の気配が見られる。したがってそれをいましめておきたいと思って、今日は心にもない悪口を言って、その絵をけなして帰した。どうか今後、彼の身に注意してやってもらいたい。修行はもちろん厳格でいいが、彼は体が弱そうだから……」草雲はこの手紙を読んで、ただ泣くばかりであった。それからの草雲は、烏洲とその師・文晁の指導によって、いっそうの進境を示し、ついには明治の日本画壇を代表する大家となった。
(小話324)「ミラノ公国の名花、チェチリア・ガッレラーニ」の話・・・
   (一)
イタリアの北端のミラノ公国。時の君主は、ルドヴィコ・イル・モーロであった。チェチリア・ガッレラーニは貴族ではなく普通の家「ガッレラーニ家」の娘で、10才の時、父親が亡くなって、経済的に苦しく貧しい状況になった。このため結婚することになり、貴族のステファノ・ヴィスコンティと婚約をしたが、彼女が14歳になったとき破談となってしまった。この破談には、ルドヴィコ・イル・モーロの差し金があり、やがてチェチリアはルドヴィコ・イル・モーロの愛人の一人になった。チェチリアは花のように美しいだけではなく、非常に賢い女性で、ラテン語を流暢(りゅうちょう)に話し、詩を書き、音楽にも造詣(ぞうけい)が深く、才色兼備をうたわれた美少女であった。こうしてチェチリアは、君主の寵愛を受けて宮廷の花形となった。その後、チェチリアが16才の時、ルドヴィコはレオナルド・ダ・ ヴィンチにチェチリアの肖像画を描くように命じた。レオナルド・ダ・ ヴィンチは、胸に白貂(しろてん)を抱いて、かすかな微笑みを浮かべ、遠くを直視する目をした美しいチェチリアを描いた。これが有名な「白貂を抱く貴婦人」の絵である。この絵は、3ヶ月で完成した。ミラノの宮廷詩人ベルナルド・べッリンチョーニが、ルドヴィコと「白貂を抱く貴婦人」を描いたレオナルドとチェチリア・ガッレラーニにソネットを捧げている。「(詩人)自然よ、何を怒っている? 誰に嫉妬しているのだ?(自然)君の憧れの星、チェチリア様の肖像を描いたダ・ヴィンチにさ! 今や彼女は美の絶頂期にいるので、彼女の美しい瞳と比べれば、光り輝く太陽でさえ、暗い影にしか見えないのだ。(詩人)画家は彼女が黙って聞いているように絵画で描いているが、彼が受けている賛美は実は君のものだよ。考えてもごらん、その肖像画が生き生きとして美しいほど、彼女を生んだ君の栄光は、時が経つにつれて、ますます大きくなるのだから。それゆえ、君は絵の制作を命じたロドヴィーコと、制作したレオナルドの才能と手腕に感謝しなければならない。彼は後世の人々に、君がどれほどの美人を創造できるのかを知らせてやろうとしたのだから。たとえ将来、彼女の容色が衰えたとしても、この肖像を眺める者は、彼女が生きているのを見てこう言うだろう。「自然と芸術がどれほどの美人を創造できるかを知るには、この肖像画だけで十分だ」と」
(参考)
@このころのレオナルド・ダ・ ヴィンチの庇護者はミラノの専制君主・ルドヴィコ・イル・モーロであった。
A白いイタチ(オコジョとも訳されている)はミラノで権力を握っていたルドヴィコの紋章で、ルドヴィコは、ナポリ王より「白貂の勲位」を授かっており、彼自身の象徴ともなっていた。又、当時、白貂は純潔や節度のシンボルと見なされていて、白貂は、穴へ逃げ込んで体が汚れることより、狩人に捕まることを選ぶ、汚れを嫌う動物として知られていた。
Bダヴィンチは手稿の中に「崇高なる淑女チェチリア、我が最愛の女神よ。類(たぐい)なく優雅なる君・・・」と書いている。
   (二)
この間、チェチリア・ガッレラーニはミラノ社交界の中心的な存在であったが、君主ルドヴィコがフェッラーラ公国のエステ家のベアトリーチェ・デステと結婚することになったため、社交界から身を引いた。だが、ルドヴィコの寵愛は深く宮殿の中に部屋を与えられて、そこに住んでいた。やがて、城内にルドヴィコの子を宿したチェチリア・ガッレラーニの噂が流れた。フェッラーラ公国の駐ミラノ大使ジャコポ・トロットは、次のように述べている。「ロドヴィコ様は、大部分の時間を例の愛人と一緒に過ごしています。彼は彼女をスフォルツァ城内に住まわせ、どこに行く時でも彼女を同伴しています。彼はこの愛人にすっかり入れ上げており、彼女は現在妊娠中でありながら、まるで花のように美しく、彼はしばしば私を伴って彼女に会いに行きます。でも、時はすべてを解決するのですから、無理強いする必要はないと思います」。やがて1490年、18歳のチェチリアは、城内で男児を産み落とした。この私生児はチェーザレ(皇帝)と名付けられた。やがて、ルドヴィコの寵愛が別の若い愛人に向いたのと、正妻のベアトリーチェ・デステの憎しみなどがあって、チェチリアは城を出てミラノ市内に住むようになった。そこで、ルドヴィコは、チェチリアの夫としてロドヴィーコ・ベルガミーニ伯爵を見つけてやり、自分の息子チェーザレには、市内の豪壮な邸宅を与えて、彼女が夫とともにそこに住むよう手配してやった。1499年にミラノ公国にフランス軍が侵攻し居城ミラノ・スフォルツア城は陥落し、ルドヴィコは非業の死を遂げた。チェチーリアとその家族は、イザベッラ・デステを頼ってマントヴァに一時避難していたが、彼女はすぐにミラノに戻って、以前と同じ邸宅に住み始めた。そして、フランス軍政下でも、彼女は以前と変わらない一種の文芸サロンを主催し続けた。チェチリアは最愛の1人息子チェーザレ(21歳で死亡)を失(うしな)ってから、晩年には、サン・ジョバンニ・インクローチェ村の館でひっそりと暮らして63才で亡くなった。館の近くに、彼女が眠るサン・ピエトロ教会がある。
(参考)
@チェチリアの夫として・・・当時の女性の結婚適齢期は15、16歳であった。
Aイザベッラ・デステは、ルネサンスを代表する才色兼備な女性で、妹のベアトリーチェ・デステより才能も美貌も数段勝っていたので、高名な画家レオナルドに肖像画を描いてもらったチェチリアが、とても羨ましくて仕方がなかった。彼女は「白貂を抱く貴婦人」の絵を望んだがチェチリアはお気に入りの、この絵を生涯手放さなかった。
「白貂を抱く貴婦人」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の絵はこちらへ
(小話323)有名な「小鳥への説法」の話・・・
      (一)
フランチェスコ会を創設した聖フランチェスコの話。聖フランチェスコがお供を連れて、道を歩いていたときのこと。彼が、ふと目を上げると、道端の多くの木に、かなりの数の小鳥がとまっているが見えた。彼は連れに言った「私の姉妹の小鳥たちのところへ説教をしに行ってきますので、ここで待っていて下さい」と。そして野原に入り、地面にいた小鳥たちに説教を始めた。すると突然、木の上にいた多くの小鳥たちがやってきた。そして、彼の説教が終わり、彼らに祝福が与えられるまで飛び立つこともなく動かずにいた。
      (二)
このときの彼の説教は次のようであった「私の姉妹の小鳥たちよ。あなたたちは創造主である神に感謝し、いつもどんな場所でも神を賛美しなければなりません。神はどんな場所へも飛んでゆける自由や、二重(ふたえ)、三重(みえ)もの衣類を与えられ、世界の中であなたたちの子孫が欠けることのないように、ノアの箱舟に一つがいの小鳥を乗せられた。また、あなたたちが飛ぶことができるように、空気をお造りになり、さらに、種を蒔(まか)かず、刈り取りもしないのに食べ物を与えてくださり、飲むためには川や泉を、宿(やど)るために山や谷を、巣を作るために高い木を与えて下さった。紡(つむ)ぐことも縫うこともできないのに、神はあなたたちや、あなたたちの子供たちに衣類をお与えになった。あなたたちの創造主がたくさんの恵みを与えて下さるのは、あなたたちを愛していらっしゃるからです。ですから私の姉妹たちよ、忘恩の罪には気をつけなさい。そしていつも努(つと)めて神を賛美しなさい」すると、小鳥たちは口を開け、首をのばし、翼を広げ、恭(うやうや)しく頭を垂れ、態度と歌で大きな喜びを聖人に表した。こうして聖人は、小鳥たちにも創造主を賛美する心を目覚めさせたのである。説教が終わると、彼は小鳥たちに十字を切り、飛び立つ許可を与えた。すると小鳥たちは皆、見事にさえずりながら飛び立った。そして聖人が十字架の印(しるし)をすると、四方へ飛び立った。東や西へ、南や北へ、めいめいに素晴らしい歌をさえずりながら群れは飛び去っていった。
(小話322)「長者と放浪した貧しい子(長者窮子の譬え)」の話・・・
昔、むかしの話。ある男は、幼い時に町一番の長者であった父の屋敷をさまよい出て、行方知らずになって五十年。そして、男は放浪しながら他国で貧乏な暮らしを続けていた。が、ある年に、男は放浪で知らないまま本国へもどり、偶然、父とは知らず父の立派な屋敷の前に立った。父親は、すぐ我が子だと気づいたが、男は気づかず、立派な老人に畏(おそ)れをなしてしまい、屋敷から立ち去った。しかし、父親は、二人の召使いを男と同じような貧しい恰好をさせて近づけさせ、屋敷で働くように仕向けた。こうして、息子である男は、屋敷で働くようになった。父親は、始めは、便所掃除などの仕事から徐々に財産の管理などの重要な仕事へと段階的に導いた。男も、始めの卑屈な心から次第に誇りのある、高潔な心へと段階的に変化していった。そして、父親は臨終間じかに、大勢の人の前で、この男は私の実の子ですと真相を明らかにした。男は、その時初めてこの長者が本当の自分の父であったことを知り、昔の貧しい境遇と、それに甘んじて卑屈であったのにくらべ、今は父の無限の財産を譲り受けて、限りない喜びに浸るのであった。
(参考)
長者の父・・・仏さま
放浪の男・・・衆生
二人の召使・・・聲聞(仏さまの教えを聞いて、その通りに教えを守って生活する修行者)・縁覚(仏さまの教えを聞くだけでなく、自からの力で覚る修行者)
便所掃除などの仕事・・・心の迷いを取り除くこと
無限の財産・・・悟りの境地
(小話321)「フィレンッエのマドンナ。その名は、麗(うるわ)しきシモネッタ」の話・・・
    (一)
シモネッタ・ヴェスプッチは、ルネサンス時代の絶世の美女として後世に名を残した。多くの画家が麗しきシモネッタの肖像画を描いている。シモネッタ・ヴェスプッチは、1453年にジェノバ共和国の港町ポルト・べーネレ(「ビーナスの港」の意味)に富商の娘として生まれた。その後トスカーナ地方ピオンビーノに移り住み、16歳のときフィレンツェのヴェスプッチ家のマルコ・ヴェスプッチに嫁いだ。ヴェスプッチ家は名門ではないが、フィレンツェでは中堅どころの商人であり、支配者メディチ家と結んで親メディチ家として手広く貿易を行っていた。シモネッタは、髪は金髪、丸顔で情熱的な目、身体は細くしなやかで、脚はすらりとして、優雅さを備え、初々しい雰囲気を持った美女だった。フィレンッエの詩人、ポリツィアーノが書いた長編詩「ラ・ジョストラ」(馬上槍試合)の一節では「彼女は純白で衣服も白地、そこにはバラと草花が描かれ、黄金の頭部から編まれた髪は、慎ましくも高貴な額にしなだれかかる。その瞳は、甘き青色に輝き、そこにキューピットが自らの炎を隠している・・・」と描がいている。
(参考)
@シモネッタの夫のヴェスプッチ家は、後にアメリカという名の由来ともなった新大陸の発見者・アメリゴ・ヴェスプッチを輩出した。アメリゴ・ヴェスプッチ(1454-1512年)とシモネッタ・ヴェスプッチ(1453- 1476年)は同じ時代に生きている。
    (二)
花の都フィレンツエで「麗しのシモネッタ」と唄われたシモネッタ・ヴェスプッチは、やがてメディチ家の若い末弟・ジュリーノ・メディチに見初(みそ)められ、深く愛されるようになった。そして、1475年フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ間に防衛同盟が締結されたことを祝ってフィレンツェのサンタ.クローチェ教会広場でメディチ主催で馬上槍試合(ラ・ジョストラ)が開催された。ぐるりと周囲を囲む観客の面前で、騎士たちは名誉をかけて、愛する美しい貴婦人の面前で試合をした。中世の騎士道華やかなりし頃の騎士たちのトーナメントが遊戯化したものであり、殺し合いなどはなかった。だが、華麗な装束、軽やかな身のこなし、観客の歓声と興奮が町を走り抜けた。騎士の一人となったジュリアーノは、宝石を散りばめた銀の甲冑を着て、手には中央に戦いと文化の女神アテネ(シモネッタをイメ−ジ)を描いた旗を持ち、見事な駿馬に乗って現れた。ジュリアーノが現れると、サンタ.クローチェ広場の群集から大喝采が沸き起こった。ジュリアーノは恋人として貞節で名高く、美しいマルコ・ヴェスプッチの妻シモネッタ・カッターネオを選び、彼女のために闘った。彼女は女神と見まがうような美しい白の衣装で、闘いを見守った。そのなかでジュリアーノは見事に優勝を勝ち取った。優勝したジュリアーノは、優勝の兜をミネルヴァの女王(美の女王)役のシモネッタに捧げたのであった。美男子ジュリア−ノと絶世の美女のシモネッタの二人は、自由と平和の街〈フィレンツェ〉を象徴する理想的カップルであった。こうして、ジュリアーノとシモネッタの恋が始まった。
(参考)
@馬上槍試合・・・フィレンツェの支配者メディチ家が、1469年に兄のロレンツォが出場したそれと同様に、今回は、弟ジュリアーノの成人ぶりと騎士としての成長ぶりを広く世に知らしめるためのものであった。
Aマルコ・ヴェスプッチの妻シモネッタ・カッターネオ・・・彼女の夫マルコ・ヴェスプッチはフィレンッエの実業家であったが22歳で死んでいる。
    (三)
しかし、この馬上槍試合の数ヶ月後、シモネッタは、高熱を出し寝込んでしまった。そして1476年23歳の若さでこの世を去った。肺結核が原因だった。遺骸は、ヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に安置された。シモネッタの死を悲しんでフィレンツェ中の鐘がいっせいに鳴り響き、多くのフィレンツェ市民がシモネッタに別れを告げた。ジュリアーノの兄・ロレンツォは、「フィレンツェ市民は驚愕に包まれていた。何故なら、彼女の死顔の美しさは、生前のそれを超越していたからだ。彼女を前にすれば、死もまた美しい・・・」とシモネッタの葬儀の様子を書き残している。その彼女の遺体を見る群集の中に、一人の偉大な芸術家がいた。レオナルド・ダ・ヴィンチその人だった。そしてシモネッタの義父ピエロ・ヴェスプッチは彼女の死後、その形見のドレスをジュリアーノに贈った。だが、シモネッタの死後2年経った1478年フィレンツエ大聖堂でミサの最中にメディチ家に対立するパッツィ家が襲撃して来た。剣の名手だったジュリアーノは剣をとって戦ったが多勢に無勢(ぶぜい)で殺されてしまった。兄・ロレンツォは聖具室に逃げ込んで助かった。こうしてシネモッタ23歳、ジュリアーノ25歳、ともに短い人生を閉じた。
(参考)
@メディチ家に対立するパッツィ家・・・銀行家であるメディチ家の勢力に脅威を抱いているローマの時の法王シスト4世はフィレンツェ第二の商人であるパッツィー家を動かし、1476年の復活祭の日、フィレンツエ大聖堂においてメディチ家一族のミサ中に襲撃した。「パッツィー家の陰謀」と云われる。
Aボッティチェリは「美しきシネモッタ」そして、名画「ヴィーナスの誕生」「春」ヴィ−ナスはシモネッタの面影が反映されている。ピエロ・ディ・コジモ「シモネッタ・ヴェスプッチ」もレオナルド・ダ・ヴィンチ「女性の頭部」もシモネッタを描いている。
※偉大な画家・ボッティチェリはフィレンツェ生まれで、画家として名声を得るとメディチ家、ヴェスプッチ家をはじめ、フィレンツェの上層階級をパトロンとして華々しい活躍をした。また、彼は個人的にもロレンツォ、ジュリアーノ兄弟とは友人づきあいをしていた。
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「美しきシモネッタ(シモネッタ・ヴェスプッチの肖像)」(ピエロ・ディ・コシモ)の絵はこちらへ