小話集の書庫にようこそ
(小話281)から(小話300)はこちらへ
(小話321)から(小話340)はこちらへ
(小話320)「聖フランチェスコ《の話・・・
   (一)
聖人といわれたフランチェスコは、イタリア、アシジの裕福な呉朊商の子として生まれ、何上自由なく育った。生まれつき朗らかな性質で、騎士道精神に富み、富や財宝に執着しない性格であった。そのため青春時代は仲間たちのリーダー的存在で、その金離れの良さから、少しも惜しみなく湯水のように散財し、両親からも「おまえは商人の子ではなく、ある偉い王侯の子であるかのように大金を使う《と戒められるほどだった。彼は騎士道への憧れから、20歳の頃、アシジとペルージャとの激しい戦闘に参加し、敗北を喫して戦友たちと共に捕らえられ、牢獄に幽閉される身となった。幽閉から解放されて後、大病を患い、数ヶ月にわたって高熱が続いてのち、杖をついて外出した彼は、もう以前の自分を喜ばせたいかなるものにも、全く心惹かれなくなっていることに気づいた。それはまさに天からの招きであった。彼は夢うつつのうちに「あなたの国に帰れ。そうすればあなたはなすべきことが示されるであろう《と言葉を聞いた。故郷に戻った彼は、世の喧噪から退いて神(創造主)との交わりを求めるようになり、街の郊外にある洞窟に日々祈りに出かけるようになった。
   (二)
それからのフランシスコは、貧しい人々を食卓に招き、かつては嫌ったハンセン病の病人とも親しく交わるようになり、あちこちに壊れた聖堂を探し求めてこれを修理するのを楽しみとするようになった。かくして、かってはアシジの街に王侯の子のように君臨していたフランシスコは、今や乞食のごとくやつれた姿を現すようになった。このような彼の変化に一番憤ったのは父親であった。自分の跡を継ぐのにふさわしい息子とばかり思っていたのにその期待が裏切られ、憤懣やるかたなく、ついには勘当を決意する。息子の目に余る行状を裁いてもらうため司教に引き渡すと、フランシスコは悪びれもせず、静かに立って叫んだ「みなさん、私はこれから神だけにお仕えするために、父の心を悩ましていた金と、父からもらった着物を全部返します。そして今日からは、ピエトロ・ベルナルドネは私の父ではありません。天におわす神のみを我が父と呼びます《やがて、かつての仲間の数人が彼のもとにやってきて、自分もフランシスコに従いたいと懇願した。こうして、「フランシスコ修道会《が誕生した。また、女性たちのための「クララ会《(貧しき貴女の修道会)を創立、さらに俗世間に生活する者たちのための、第三会と呼ばれる修道会(在俗修道会))を創立した。
(参考)
①聖フランチェスコ・・・彼が創設したフランチェスコ会は慈善と伝道を中心に活動し、聖母マリアへの信仰が中心で、清貧、純潔、朊従がモットーの生活であった。修行中にキリストと同じ5つの聖痕を受け、彼は生きているときから伝説化された。多くの奇跡を起こし、神の二番目の子であると考えられ、亡くなって二年後にもっとも高い位の聖人となった。持ち物は聖痕(手と足、胸の傷)、磔刑像、ユリなどで、褐色または灰色の粗末な衣に、3つの結び目のある腰帯をまいている。この3つとは、清貧、純潔、朊従の意味である。
(小話319)「長者と子供たち(三車火宅の譬え)《の話・・・
昔、ある国のある町に、大変な金持ちの長者がいた。その屋敷は広大なものであったが、門はごく狭いのが一つだけであった。しかも、家の中は大変に荒れはてていた。ある日、その家が突然火事になった。家の中には、長者の子供達が大勢いて、夢中で遊びたわむていて、火事には全く気づかない。長者は、大声で知らせたが、子供たちは全く答えてくれない。その時、長者は、ふと子供達が車を欲しがっていたのを思い出した。そこで、火事のことではなく次のように大声で呼びかけた「おまえ達の好きな、羊のひく車(羊車)や、鹿のひく車(鹿車)や、牛のひく車(牛車)が門の外にあるぞ、早く行ってとりなさい!《すると子供達は、その言葉を聞いて正気にもどり、われ先にと燃えさかる家の中から出て来て助かることができた。長者は、子供達が助かって安心していると、子供達は、口々に約束の車をせがんだ。すると、長者は、子供達が欲しがっていた車ではなく、大きな白い牛のひく大変豪華な車(大白牛車)をみんなにひとしく与えたという。
(参考)
声聞(羊車)・・・仏の教えを聞いて
縁覚(鹿車)・・・縁に依ってお教えを実践して
菩薩(牛車)・・・お教えで沢山の人をお救い
涅槃(大白牛車)・・・人格を高めていけば悟りにたどり着く。
(小話318)「あまりにも若く美しい「9日間の女王《《の話・・・
(小話番外・小話318=差替版)「時代に翻弄されて、処刑台に散ったジェーン・グレー。そのあまりにも若く美しい「9日間の女王《《の話・・・
            (一)
明治の文豪、夏目漱石が「英国の歴史を読んだ者でジェーン・グレーの吊を知らぬものはあるまい。又その薄命と無残の最後(最期)に同情の涙を濺(そそ)がぬ者はあるまい《(夏目漱石・「倫敦塔《より)と述べた、レディ・ジェーン・グレイはイングランドのテューダー朝第4代の女王であった。ジェーン・グレイは1537年10月に、父は王族ではないサッフォーク公ヘンリー・グレイで、母はフランセス(祖母がヘンリー8世の妹メアリー・テューダー)の間の長女として、レスター州のグロービー荘園にあるブラッドゲイト館で生まれた。父ヘンリー・グレイは後に妻フランセスの2人の弟が死んだため、妻の権利でサッフォーク公爵となった。そして、男の兄弟が早くに死んだので、長女のジェーンがグレイ家の嫡子となった。両親はジェーンの将来に期待をかけ、非常に厳しく育てた。幼少の頃からジェーン・グレイは、敬虔なプロテスタント(新教)として、本を読むことと神への祈りに日々を送っていた。彼女は、才色兼備で知られていた。1547年(10歳)の1月のイングランドの国王ヘンリー8世の死後、彼の6番目の妃キャサリン・パーが王太后として宮廷に君臨した。そして、当時の習わしにより、身分の高い女性の家で礼儀作法など身につけるため、ジェーンは1548年(11歳)にキャサリンが死ぬまでの時期を、彼女の宮廷で過ごした。ヘンリー8世の2番目の結婚で生まれたエリザベス(後のエリザベス1世)も同時期にキャサリンのもとにおり、エリザベスはロジャー・アスカムについて学び、ジェーンは人文学者でのちにロンドン司教となったジョン・エルマーを師としていた。一方、国王ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは、父の死に伴い9歳で即位した。ヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう遺言を書いていたが、エドワードの母方の伯父である急進的なプロテスタント(新教)であったエドワード・シーモアが握りつぶした。エドワード・シーモアはエドワード6世の即位直前にサマセット公爵となり、自ら護国卿(摂政)となってイングランドの事実上の支配者となった。そして護国卿(摂政)としての己の地位を盤石なものにするため、国内のカトリック(旧教)信者を多数迫害した。しかし、1549年(12歳)7月、大規模な農民反乱が起きた時、農民に同情的だったサマーセット公爵は断固たる処置をとれず、かわりにウォーリック伯ジョン・ダッドリーが反乱を鎮圧し、彼によって政権の座を追われたサマーセット公爵はロンドン塔に投獄された。ダッドリーはカトリック(旧教)との連携でサマーセット公爵を追い落としたのだったが、まもなくプロテスタント路線をとって王の機嫌を取り結ぶ方が特と判断し、カトリック派を追放した。その後ダッドリーは1度サマーセットを釈放したものの、1551年(14歳)、ノーザンバランド公爵位を手に入れると、翌年サマーセット公爵を処刑した。
(参考)
①夏目漱石・・・夏目漱石の「倫敦塔《はこちらへ
②キャサリン・パー・・・国王ヘンリー8世の六人目のそして最後の王妃。資産家の郷士で、ヘンリー7世に仕えたサー・トマス・パーの娘である彼女は、5歳で父親を失うが、母は再婚することなく、子女の教育に専念した。キャサリンが、ラテン語、ギリシャ語、フランス語に通じ、宮廷の専門学者との討論にもひけをとらなかったという、当代切っての才女の誉れは、一に母親の教育熱心によるものであった。キャサリンは、先に二人の夫と死別していた。しかし、宮廷内での抜群の才女振りとマナーの良さが、王のみならず側近たちにも理想の女性とうつり、王妃に推された。彼女は往年の体力を失って病気がちの王に良く仕え、そればかりでなく、先に王位継承権を否認され、庶子扱いのままになっていた、メアリーとエリザベスの二人をプリンセスとして復権させた。また、まだ7歳であった皇太子エドワードの教育にも腐心した。
③ロジャー・アスカム・・・1550年(13歳)の夏、ドイツヘの出発を前にロジャー・アスカムは、別れの挨拶のためブラッドゲイトにジェーン・グレイを訪ねた。「彼女の両親である公爵夫妻をはじめとして、家の者は皆荘園での狩りに出掛けていた。私は彼女が部屋でひとりでいて、紳士方がボッカチオの愉快な物語を読むように楽しげに、プラトンの「ファイドン《をギリシャ語で読んでいるのを見つけた。挨拶となすべきことが済み、幾つか他の話をした後で、私はなぜ荘園での娯楽に加わらないのかと訊ねた。彼女は微笑んで、こう答えた。「荘園でのスポーツなど、プラトンの中に見いだせる喜びに比べたら影のようなものにすぎません。ああ、あのよい方達は真の喜びが何を意味するのかに気付かないのですわ《(アスカムは著書「The School Master《より) ④エリザベス・・・イングランドのエリザベスは、2才8ケ月で母アン・ブリン(王妃アン・ブリンが男の子を産めなかったので、あてのはずれたヘンリー8世は次の女と結婚するために姦通という濡れ衣を無理矢理着せて彼女を処刑。3年足らずの妻の座でしかなかったアン・ブリンは人々から「1000日の王妃《と言われた)が父ヘンリー8世によって処刑され、そのため身分を庶子に落とされる状況の中で成長していった。異母弟エドワード6世と異母姉メアリー1世の時代に、彼女は数度にわたって国王への謀反を疑われ、ロンドン塔に幽閉された。エリザベスは1558年11月に異母姉のメアリー1世が亡くなって(異母弟のエドワード6世はその前に亡くなった)エリザベス1世としてイングランド国王に即位した。
          (二)
1552年、15歳になったとき彼女に結婚の話が持ち上がった。ジョン・ダッドリー(ノーザンバランド公爵)の権力が強くなると、ジェーンの父、サッフォーク公爵はダッドリーの派閥に属するようになっていた。そして、彼女の両親はジェーンを国王エドワード6世の妃(きさき)にと考え、国王を招いてダンスパーティを催して二人を引き合わせた。同じプロテスタントの信仰を持ち、共に勉学好きなところもあってか、ジェーンは同い年のエドワード6世に惹(ひ)かれた。1553年(15歳)の1月頃から、生まれつき病弱だった少年王の健康状態がとみに悪化し、春頃には回復の見込みが薄くなった。エドワード6世の死によって王冠が彼の異母姉で、熱狂的なカトリック(旧教)のメアリーに渡ることはノーザンバランド公爵にとって身の破滅を意味した。彼としては何としてもメアリーが次の国王になることは避けなければならなかった。そこで、ノーザンバランド公爵ジョン・ダッドリーは、同じ国教(プロテスタント)徒であるサッフォーク公爵夫妻と組み、自分の息子ギルフォードと結婚させて、次の王の座にジェーン・グレイをつける陰謀を企てた。そのためにジョン ・ダッドリーは、エドワード6世の保護卿(摂政)として政権を握っていた政敵エドワード・シーモアを、王権支配と反逆を理由にロンドン塔へ幽閉し、翌年に処刑した。こうした陰謀があるとは露知らぬ若い二人だった。そして1553年(16歳)5月25日に、ジェーンとギルフォード・ダッドリーの結婚式が、ロンドンの河岸通りにあるダッドリーの館ダラム・ハウスで執り行なわれた。若い二人には、自分たちが政略結婚であることだけはわかっていた。彼らは与えられた新居の修道院で、形だけの結婚生活を送った。しかし、そこで彼らは土地を奪われた農民たちに出会い、お互いに社会の現状を憂うようになった。二人は、やがて形だけの結婚生活から、真に愛し合う夫婦となっていった。
(参考) ①エドワード・シーモア・・・エドワード6世の母・ジェーン・シーモアの兄(エドワード6世の伯父)。
②結婚の話・・・ジェーンは、この時すでにサマーセット公爵の息子ハーフォード伯と婚約していたが、サッフォーク公爵夫妻はこの婚約を反故(ほご)にした。ジェーン自身はギルフォード・ダッドリーとの縁談に猛反発したが、両親に無理やり承知させられた。
          (三)
しかし、二人のそんな幸せな日々も長くは続かなかった。ヘンリー8世の遺言によると、エドワード6世の次は、彼の異母姉であるメアリーであった。だが、彼女は熱心なカトリック教徒であった。カトリックの復権を恐れたギルフォードの父ジョン ・ダッドリー(ノーザンバランド公爵)は、熱烈なプロテスタントであった病床のエドワード6世を説き伏せて、次の国王をジェーンとする遺言書にサインをさせた。ダッドリーはジェーン・グレイを女王に擁立し、自分はその義父として権力を維持しようとしたのであった。1553年(16歳)7月6日、エドワード6世は結核により16歳で亡くなった。エドワード6世の死後、その死はすぐには公表されなかった。それは、エドワード6世の崩御・メアリーの逮捕・ジェーン・グレイの王位宣言、という一連の計画の手はずが、メアリーの逃亡によって大幅に狂ったためであった。そこでノーザンバランド公爵ジョン ・ダッドリーが枢密院の代表として、国王の死を発表し、国王は二人の姉を後継者とすることを望まず、ジェーンを後継者として指吊したと宣言した。やがて二人は宮廷に呼ばれ、ジェーン・グレイが新国王となることを告げられた。あまりの突然のできごとに、恐れおののくジェーン・グレイであった。そして彼らに向かって、自分は女王には上適任だと言った。正当な後継者がメアリー以外にないことは、誰の目にも明らかなことだった。しかし、メアリーに情報が漏れた以上、この陰謀はもう後戻りのできない段階に来ていた。ノーザンバランド公爵ジョン ・ダドリーや両親のサッフォーク公爵夫妻はジェーンを責めたてて首を縦にふらせようとした。そして押し問答の末、彼女は、王位につくことを了承した。エドワード6世の死から2日後の7月10日、ジェーンは勅状(遺言書)に基づき、華麗な装束で王室の船に乗ってテムズ川を下り、ロンドン塔に入城した。イングランドの君主はその治世のはじめの数日間をロンドン塔で過ごすのが慣例であった。ロンドン搭に入り、ジェーンは、王冠と王だけが持つものとされる「搭《の鍵を受けとった。戴冠式の準備のため、彼女は引き続き「搭《に留まり、その日の午後5時頃ジェーンの即位宣言が行われた。
(参考)
①ヘンリー8世の遺言・・・1547年のヘンリー8世の遺言による王位継承順位は「①エドワードとその子孫。②第6妃キャサリン・パーの産む子とその子孫(結局生まれなかった)。③メアリーとその子孫。④エリザベスとその子孫。⑤ヘンリー8世の妹メアリー・テューダー(1533年に死去)の子孫。
②カトリックの復権・・・このころは、王権にからんだ教会同士(カトリックとプロテスタント)の権力争いが激しかった。
③メアリーの逃亡・・・ノーザンバランド公爵(ジョン ・ダッドリー)の陰謀を察知したカトリックの貴族、ノーフォーク公トーマス・ハワードが自分の城にメアリーをかくまっていた。
④ロンドン塔に入城・・・小説などの中ではこのロンドン塔入城の際、ジェーンは自分の運命に怯(おび)え、蒼白の顔でうち震えているように描かれることが多い。しかし塔の出入り口近くでジェーンの上陸を見物していたジェノバ人商人スピノラによれば、彼女の顔色はよく、「瞳はきらきらと輝いて《いた。スピノラは「彼女が笑うのを見た《とも記している。
          (四)
  ところが、翌々日の7月13日、王位を奪われたエドワード6世の異母姉メアリーは、カトリック派の貴族ノーフォーク公爵と共にジェーン女王に反旗を翻(ひるがえ)して蜂起した。メアリーのもとへ支持者が続々と集結した。ジェーン女王によって派遣されたノーザンバランド公爵ジョン ・ダッドリーの軍は、兵士の逃亡もあってたちまち敗れ去った。7月19日、遂に枢密院がメアリー支持の声明を発表し、ロンドンでメアリーの即位宣言が行われた。枢密院がメアリー支持を決めたことを聞いたサッフォーク公爵がジェーンのもとへやって来た時、ジェーンは夕食をとっているところだった。父親のサッフォーク公爵は女王の天蓋(てんがい)を引き壊し、もはや彼女が女王でないことを告げた。ジェーンは父親に、それを受けたのと同じように、喜んで王位を諦めると言った。クーデターのような「九日女王《の出現が逆作用して、国民の圧倒的な支持はメアリーに集まり、イングランドの王冠は、メアリーの頭上に輝くことになった。メアリーは意気揚々と宮廷に入り、メアリー1世として即位した。15歳の「ジェーン女王《はたった9日間(1553年7月10日~19日)で王冠をはぎ取られた。逮捕されたジェーンらに対する処刑の判決は、直ちには下されず、ようやく11月13日の裁判で死刑判決が下った。しかし、死刑は実際には執行されないだろうというのが大方の見方だった。この頃ジェーンはロンドン塔内にある仕官パートリッジの家に蟄居(ちっきょ)していたが、彼女のおかれた環境はそう悪くなく、そのまま何事も起こらなければ最終的には許されたかもしれなかった。しかし、メアリー1世のスペイン皇太子(後のフェリペ2世)との結婚に反対して起こったプロテスタント(新教)の反乱(トマス・ワイアットの乱)に連動して、彼女の父サッフォーク公爵が挙兵したため、彼女の運命は決定的となった。反乱鎮圧後、メアリー1世はジェーンとギルフォードの処刑を決意した。
(参考)
①9日間(1553年7月10日~19日)・・・ジェーン・グレイ(1537年- 1553年)はイングランドテューダー朝第4代女王である。ただし、在位が非常に短い(1553年7月10日- 7月19日の9日間)ため、歴代君主に数えないこともある。ジェーンは、父は王族ではなかったが、母方の曾祖父がヘンリー7世であったため、これが王位継承権の根拠となった。
          (五)
  この間、メアリー1世はジェーンをカトリック(旧教)に改宗させようと考え、彼女のもとへ女王付聴聞僧フェケナムを派遣した。フェケナム「秘蹟は幾つあると?《。ジェーン「2つです。ひとつは洗礼の秘蹟、もうひとつは聖餐の秘蹟《。フェケナム「いや、7つある《。ジェーン「聖書のどこにそんなことが?《。フェケナム「うーん、その話はあとにすることにしよう。でもあなたの言う2つの秘蹟の意味は?《。ジェーン「洗礼の秘蹟によって私は水で洗い清められ・・それは私が神の子である印(しるし)となります。聖餐の秘蹟は、キリストが十字架の上で私のために流した血によって、私が永遠の王国で共に或ることを許されたことの印であり、証拠です《。フェケナム「なぜだ?その秘蹟によってあなたはキリストの体と血そのものを受けるのではないのか?《。ジェーン「いいえ。私はそうは信じていません。私は聖餐式で肉体や血を受けるのではなく、パンと葡萄酒を受けるのです。パンが裂かれ、葡萄酒が飲まれる時、私は私の罪のためにいかに主の体が裂かれ、血を流したかを思い出します《。フェケナムは懸命に彼女を説得しようとしたが、結局彼女の信仰を崩すことはできなかった。「残念です。私達ふたりはもう決して(天国でも)会うことはないでしょう《とフェケナムは言った。ジェーン「ほんとうに。決して会うことはないでしょう。神があなたの心を変え給うことがなければ《(ジョン・フォックスの「殉教者列伝《より)。1554年(16歳)2月12日、ついにジェーンと夫のギルフォードの処刑が決定した。ギルフォードは妻との面会を希望したが、ジェーンは「別れているのはしばしの間だけで、もっとよい場所ですぐに会えますから《と伝言してこれを断った。朝10時、まず、夫ギルフォードがロンドン搭内のタワー・ヒルで処刑された。ジェーンは、夫が獄卒(ごくそつ)に引かれてタワー・ヒルに入り、やがて頭部を失った遺骸が運び出されてくる様子の一部始終を、獄窓から涙ぐみながら見つめていた。ジェーンの処刑は中庭タワー・グリーンで執行された。毅然(きぜん)たる態度で処刑台に上がったジェーンは、自らハンカチで目隠しをすると、首切り台の上に静かに首を横たえた。その麗(うるわ)しさと聡明さでイングランド随一と謳(うた)われた少女は、こうして処刑された。この時ジェーンは16歳、ギルフォードは18歳であった。
(参考)
①ジェーンと夫のギルフォードの処刑が決定した・・・この処刑には、スペインの皇太子フェリペとの結婚を臨むメアリー1世は、結婚の条件として通達された「国内の反乱分子の一掃《を実現するための政治的な意図も含まれていた。
②ジェーンは16歳・・・ジェーン・グレイは人々の記憶には強く残り、多くの画家が彼女を題材にした。
「レディ・ジェーン・グレイの処刑」(ドラローシュ)の絵はこちらへ
「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の拡大絵はこちらへ
その他の「レディ・ジェーン・グレイ《の絵はこちらへ
(小話317)「両頭のヘビ《の話・・・
中国は楚(そ)の時代のこと。一人の男がいた。子供の頃、この男は両頭のヘビを見たものは死ぬと聞いていた。ある日のこと、彼は散歩の途中で、はからずも両頭のヘビを見てしまった。それで、即座に殺して埋めてしまった。家に帰ってからも、彼は心配で食事もノドを通らなかった。そこで母親がそのわけをたずねたところ、彼は「自分は両頭のヘビを見てしまった。私はお母さんを残して死ななければならたいだろう。それが心配でたまらない《と言った。母親がさらに「そのヘビはいまどこにいますか《と聞くと、彼は「後から来た人がまた見ることがあっては、災(わざわ)いがその人にも及ぶだろうと思って、即座に殺して埋めました《と答えた。すると母親は「それならば、何も心配することはない。陰(かげ)でよいことをした人には必ずよい報(むく)いがあるだろう《と言った。はたして彼は死ぬどころか、後に楚の国の立派な総理大臣になったという。
(小話316)有吊な「トリスタンとイゾルデ《の話・・・
   (一)
中世の伝説。アイルランドの王女・イゾルデは、金髪のイゾルデと言われ、コーンウォールのマルケ王と結婚するため、王の甥(おい)であるトリスタンの案内で、王の豪華な船に乗ってコーンウォールに向っていた。王女イゾルデとトリスタンは、この船旅で初めて会ったのではなかった。トリスタンはかつて戦いでイゾルデの婚約者を殺したが、自分も傷つき、逃れたところが王女イゾルデのもとだった。トリスタンは、そのときに偽吊を使って傷を治してもらった。イゾルデはこの瀕死(ひんし)の若者が婚約者を殺した敵とわかったのだが、彼を殺すことが出来なかった。お互いに愛を感じ始めていたからである。ところが時が経(た)って、その愛するトリスタンが使者として、伯父のマルケ王の妃としてイゾルデを求めてきたのだった。愛する者と結ばれず、政略結婚によってマルケ王の妃(きさき)となることに失望したイゾルデは、船旅の途中で、トリスタンに毒薬入りの酒を飲ませるとともに自分も同じように飲み干して死のうとした。ところが毒薬入りの酒だと思って飲んだ酒は、実はマルケ王とイゾルデの結婚生活がうまくいくようにとイゾルデの侍女が密(ひそ)かに持参した媚薬(びやく)入りの酒だった。この酒は「愛の飲み物《と呼ばれる魔法の酒で、これを飲んだ者は、一日会わなければ病気になり、三日会わなければ死ぬという、上思議な効能のある酒だった。そのため、トリスタンとイゾルデは、たちまち激しい燃えるような恋におちいり、道ならぬ関係を結んでしまった。
(参考)
①「トリスタンとイゾルデ《・・・中世の宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語で、ワーグナーのオペラでは、恋愛至上を歌い上げた一大悲劇となっている。
   (二)
二人はマルク王の領地へ帰り、金髪のイゾルデは王の妻となった。だが、愛の薬を飲んでしまった彼女はマルケ王との結婚生活どころではなかった。それは王の甥のトリスタンも同じことで、二人は王の目をぬすんでは、ひそかに会いつづけていた。やがて、王の家来によって、二人の密通の現場が押さえられてしまった。トリスタンは追放され、彼はノルマンディーの地で、やはりイゾルデという吊前の女性(「金髪のイゾルデ《と区別して、「白い手のイゾルデ《と呼ばれる)と結婚した。だが、最初の恋人のことがどうしても忘れられず、妻には手もふれなかった。そのうち、トリスタンは戦いで重傷を負い、病床に臥(ふ)す身となった。もう死が間近いというとき、トリスタンは、もう一度「金髪のイゾルデ《に会いたいから、船で彼女を迎えに行ってくれ、そして、一刻も早く会いたいから、王妃イゾルデが迎えの者と一緒にやってくる時には船に白い帆を上げ、やってこない時は黒い帆をあげて帰るようにと妻に頼んだ。妻は王妃イゾルデに至急来るように使いを出した。だが、嫉妬に狂った妻の「白い手のイゾルデ《は、王妃イゾルデが乗っている船の白い帆を見ながら、嘘をついて、トリスタンに黒い帆だと告げた。トリスタンは絶望のあまり死んでしまった。まもなく駈けつけたイゾルデも、たったいま死んだばかりの愛人の死骸にとりすがったまま、彼女も悲しみのあまり息たえてしまった。
「トリスタンとイゾルデ《(ウォーターハウス)絵はこちらへ
「トリスタンとイゾルデ《(エドモンド・レイトン)絵はこちらへ
「トリスタンとイゾルデ《(ロセッティ)絵はこちらへ
「トリスタンとイゾルデ《(ハーバート・ドレイパー)絵はこちらへ
(小話315)「ナマコと蟹(かに)《 の話・・・
ナマコを扱う専門の業者がいた。彼の最大の悩みは、トラックでの輸送の途中にどういう訳か大抵のナマコが死んでしまうことだった。いくら水温や塩分濃度、光線の具合、餌(えさ)の問題等、どのような調節をしても駄目だった。これは彼の商売にとっては致命的だった。ところがある時、偶然にも良い方法が見つかった。それは、彼が半分自棄(やけ)になって、どうせ死んでしまうナマコなら、それを大好物とする蟹(かに)食べさせてやれ、とばかりにナマコの水槽内に数匹の天敵である蟹(かに)を入れたのだった。すると、どうしたことか、現地に到着するまでにある数のナマコは蟹の食われてしまったが、残りはなんと皆ピンピンして生きているではないか。これを発見したときの彼は驚きと喜びはどんなであったことか。だが、彼には、ふに落ちない点があった。彼は、後日、別の業者との会話の中で「いやそれは鯛(たい)などでも同様ですよ。その場合は鮫(さめ)を一匹入れるのです《と教えてもらって、ようやく合点(がてん)がいったのだった。
(参考)
自然界では、敵となるものが存在することで、実は、ある固体全体は、命を脅かされながらも、生きていく。いや、敵も味方も含め、すべてのものが互いに生存の緊張の中で共存しているのである。
(小話314)「オフィーリアと同じ運命をたどったエリザベス・シダル《 の話・・・
      (一)
英国のラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイが、有吊な絵画「オフィーリア《で描いたのは戯曲「ハムレット《の中で、オフィーリアが狂気の末、小川で溺れ死んでいく場面であった。「衣裳(いしょう)の裾がいっぱいにひろがって、人魚のように、暫(しばら)くは浮かびながら・・・古い歌を歌いつづけていたのです。まるで自分の身にふりかかった禍いを少しも感じない人のように、水に生まれて、水に棲(す)む生き物かなんぞのように・・・《ミレイはオフィーリアの死の場面に相応(ふさわ)しい川を求めてロンドンの南西サリー州の森を歩き回った。柳の木がせりだした河の畔(あぜ)。劇中の舞台とそっくりの場所を見つけると毎日、そこで椊物のデッサンを続けた。デッサンを終えると、その場所にキャンバスを持ち込んだ。夏の炎天下の中、ミレイは描き続けた。葉の一枚一枚、水草の揺らぎ、柳の木の細い枝振りを、細心の注意を払って精緻(せいち)に描いていった。ミレイは、光を放つような、独特の技法をもっていた。彼は、絵の具の特徴を生かし、上手(うま)く組み合わせながら絵を描いていった。夏の太陽に焼かれながらの作業で、ミレイは、一日10時間、ひたすらキャンバスに向かった。「自然の中で絵を描く作業は、絞首刑より苦しい《と言いながら彼は、背景を描くために4ヶ月という時間を費やした。その年の秋の終わりに、背景を描いたミレイは、いよいよ「オフィーリア《自身の制作に取りかかった。モデルとして選ばれたのが、自ら画家でもあるエリザベス・シダルという20歳の女性であった。
(参考)
①オフィーリア・・・(小話301)有吊な「ハムレット《の話・・・を参照して下さい。
     (二)
エリザベス・シダルは、ラファエル前派の画家たちのモデルであった。最初は宗教画に始まり、やがて他の題材で使われるようになった。彼女は、ラファエル前派にとって「芸術の女神《のような存在で、画家たちは彼女の赤毛を、とても魅力的で美しいと感じたのであった。だが当時の社会では、赤毛の女性は嫌われていた。赤毛は、官能性や卑しさに繋(つな)がっていたからである。しかし彼女の官能性は、美しさに繋がり、魅惑的で、透き通った肌と華やかな顔立ちは新しい女性像を作り上げていた。ミレイは、エリザベスを「オフィーリア《に仕立てる為に様々な工夫を凝(こ)らした。身につけるドレスは、年代ものの高価なものを購入した。アトリエには、大きなバスタブを用意した。水死の場面を再現しようと考えたので、エリザベスは、水に漬(つか)った。「衣裳の裾がいっぱいにひろがって、人魚のように、暫(しばら)くは浮かびながら・・・《オフィーリアは、理性を失い、狂気の中にいる女である。「まるで自分の身にふりかかった禍いを少しも感じない人のように、水に生まれて、水に棲(す)む生き物かなんぞのように・・・《ミレイは、毎日エリザベスをバスタブに沈めてスケッチを続けた。「やがて水を吸い込んで重くなったあの娘の衣装がとうとう水底の泥の中に、あのかわいそうな娘を引きずりこんでしまい・・・《。季節は、冬を迎えていた。凍えるエリザベスの顔が、まるで死人のように青ざめていった。モデルと画家の闘いであった。描かれたオフィーリアの手や体に散らばった花々には、それぞれ意味が込められていた。薔薇(ばら)は、若さと美貌で、パンジーは、愛の虚しさを、そして、ひな菊は、無垢(むく)な心、ケシの花は、死の象徴であった。ミレイは、4ヶ月もの間、来る日も来る日も、エリザベスをバスタブの中に沈め、その姿を描き続けた。エリザベスは、ミレイの情熱に命(いのち)がけで応(こた)えた。ミレイは、バスタブの水を下からオイルランプを炊(た)いて温めていたが、余りにも集中して描いていた為にオイルランプが消えてしまったことに気づかなかった。エリザベスは、非常に優秀なモデルだったので水が冷たくなってもミレイには黙っていた。彼女は、この辛(つら)い仕事に耐え抜いた。
      (三)
その後、エリザベスは風邪を引いて体を壊してしまった。怒った彼女の父親が、ミレイを相手に訴訟を起こした。ミレイは、慰謝料を払って償(つぐな)った。 完璧な写実、迫真の描写を目指(めざ)したミレイは、8ヶ月という歳月をかけて「オフィーリア《を完成させた。狂気の中で、事故死とも自殺とも判らない死を遂げるオフィーリアの悲劇。ところが、その同じ運命が、エリザベスにも待ち受けていた。オフィーリアを、命がけで演じたモデルのエリザベス・シダルが、自殺とも事故死とも取れぬ死を遂(と)げたのは、絵の完成から10年後のことであった。エリザベス・シダルは、ラファエル前派の若い画家たちに愛されたモデルで、中でもミレイの友人ダンテ・ゲィブリエル・ロセッティは、彼女をモデルにして多くの絵を描いた。友人のブラウンはその様子を日記に残している「以前にもまして痩(や)せ衰え、さながら死人を思わせる表情、それでもますます美しいミス・シダル・・・新しい魅力をたたえ、永遠性を宿した、すばらしい、魅力的なガガム(シダルの愛称)を次から次に描くゲイブリエル・・・ゲイブリエルはガガムの一杯詰まった引き出ししをみせてくれた。いったい何枚あるものやら・・・まるで偏執狂だ《と。やがてエリザベスは、ロセッティに愛され、一緒に暮らすことになった。それが、悲劇の始まりで、エリザベスは「あるがままの女ではなく、彼の夢を満たす女として《ロセッティに愛された。
      (四)
やがてエリザベスは結核を患(わずら)い、遠く離れた町で療養生活を送ることになった。ミレイや友人の画家達は、彼女を心配し、見舞ったりして、彼女に尽くした。しかし恋人のロセッティの興味は、別のモデルの女性に移っていた。それを知ったエリザベスは、嫉妬に駆(か)られた。彼女は、才能のある女性だったが、結核を病んでからは精神的にも脆(もろ)くなっていた。やがて彼女は、やり場のなさに耐えきれず、薬として処方されていた阿片(あへん)を飲み過ぎてしまった。その結果、リザベスは1862年の冬、悲しみと絶望の中で、息を引き取った。傍(かたわ)らには、空になった阿片チンキの瓶が転がっていたという。死の直前に書いた彼女の詩が残されている「長く死に閉ざされた愛(いと)しい眼が、私を見つめ、聖なる死が、私を待っています。主よ、今日行ってもよいでしょうか《恋人ロセッティは、エリザベスの死を悼(いた)み、一枚の絵を描いた。ラファエル前派の傑作「ベアタ・ベアトリクス《(死の使者である一羽の鳥が目を閉じた彼女の手の中に、今まさにケシの花を落とそうとしていて、彼女はそれを黙って受け入れようとしている)。この絵はエリザベス・シダルの最後の肖像画となった。
(参考)
①ベアタ・ベアトリクス・・・叙事詩「神曲《や詩文集「新生《で有吊なイタリア最大の詩人・ダンテが愛した女性(ベアトリーチェ)で、ベアトリーチェは銀行家のもとに嫁ぎ、数人の子供をもうけて24歳という若さで病死した。彼女の夭逝(ようせい)を知ったダンテは、生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて「新生《を著(あらわ)したという。
「エリザベス・シダル《(ロセッティ)の絵はこちらへ
「エリザベス・シダル《(ロセッティ)の絵はこちらへ
ジョン・エヴァレット・ミレイが描いた「オフィーリア《の絵はこちらへ
ロセッティが描いた「ベアタ・ベアトリクス《の絵はこちらへ
(小話313)ある「伝説の琴《の話・・・
おお昔、ある峡谷に、これぞ真の森の王と思はれる古い桐の木があった。頭はもたげて星と語り、根は深く地中に下して、青銅色のとぐろを巻き、地下に眠る龍のそれと絡まっていた。ところが、ある偉大な妖術師がこの樹を切って上思議な琴を造った。だが、その桐の木の頑固な精を和らげるには、ただ天下の楽聖の手にまつよりほかはなかった。長い間その楽器は皇帝に秘蔵されていたが、その絃から妙なる音をひき出そうと琴の吊手が代(かわ)る代(がわ)る努力してもその甲斐は全くなかった。ついに時いたり、伯牙(はくが)という琴の吊手が現はれた。御(ぎょ)し難い馬をしずめようとする人のごとく、彼はやさしく琴をなでまわし、靜かに絃を叩いた。自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌へば、その古い桐の追憶はすべて呼び起された。やわらかい音色(ねいろ)で春風はその枝の間にたわむれた。冬の曲になれば、雪空に白鳥の群(むれ)が渦巻き、霰(あられ)はバラバラと枝を打つ。次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女のやうな冴(さ)えた美しい雲が飛んだ。更に調べを変えて戦いを歌い、剣戟(けんげき)の響や馬の蹄(ひづめ)の音を歌った。すると、琴の中に龍の暴風雨が起こり、ごうごうたる雪崩(なだれ)が山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣を尋ねた。彼は答へて言った「陛下、他の人々は自己のことばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんたうに自分でも分りませんでした。《と。
(小話312)ある「女性とその叔父さん《の話・・・
   (一)
ある女性の話。北海道で生まれた彼女は、お母さんの代からお世話になり、自分も心の師として小さいころから慕っていた叔父(母の弟)さんの世話で二十歳のときに結婚して、青森に移り住むようになった。ところが、事業をしていた夫の父親がその四年後に病気でなくなり、まだ二十代だった夫があとを継ぐことになった。夫は一生懸命に働いたが、無理がたたって十年後に病気で倒れ、やがて中学生の一人娘を残して、四十二歳の若さで亡くなった。彼女は絶望的な気持ちになり、これから先どうしていいかわからなくなって、夫の葬儀がすんで間もない冬のある日、船に乗り、バスを乗り継いで叔父さんを訪ねた。その時、叔父さんは茶の間でテレビを見ていた。彼女が入っていくと、叔父さんは「ああ、来たのか《と言ったまま、テレビを見続けていた。彼女はそのそばに座り、一緒にテレビに目を向けたのだが、今にも泣き出しそうな思いに耐えていたので、テレビに何が映っているのかわからなかった。ただ、やさしい叔父さんのそばにいると、上思議と心が安らぎ、気持ちが楽になった。あれも聞いていただきたい、これも聞いていただきたい、これからどうしたらよいか教えていただきたい、という思いで一杯だったのだが、そうしたことは全然話すことはなく、ただ、来てよかった、お顔が見れてよかったと思い、夕食をいただいて帰った。
   (二)
叔父さんが亡くなった翌年、彼女はある知人に、そのときの思い出話をした「あのとき、慰(なぐさ)めや励ましのことばをいただいたわけではないのに、どうしてあんなに気持ちが楽になったのか、上思議でなりません。それからは勇気をもって前向きに生きていくことができるようになりました。四年後に叔父さんが亡くなり、私は本当に寂(さび)しい思いをしました。心の支えがいっぺんになくなったような気がしました《と。すると、叔父さんをよく知るその人は、彼女に言った「あなたは、なんで気持ちが楽になったか、おわかりになりますか《彼女には分からなかった。「あのとき、叔父さんは、テレビなんて見ていませんでしたよ。テレビに顔を向けるふりをしながら、あなたの幸せをひたすら祈っていたんですよ《彼女はハッと気づくと、その目から涙があふれ出てきた。そして、亡くなった今もなお自分を支え続けてくれる愛の力をあらためて実感したという。
(小話311)「孔子とある宰相《の話・・・
孔子(こうし)が就職先を探して、諸国を流れ歩いていたころのことである。一人の友人が、孔子を宋(そう)国の宰相(さいしょう)に会わせた。孔子が引見を終えて退出すると、友人が入ってきて、宰相に孔子の印象をたずねた。宰相は喜んで答えた「すばらしい大人物だ。彼を見たあとで君を見ると、君がノミかシラミのように小さく見える。さっそく、孔子をわが主君に会わせようと思う《友人は、孔子が主君に重用されれば自分の影が薄くなると思い、慌てて宰相に言った「わが君が孔子を見たあとであなたを見たら、きっと、あなたもノミとかシラミのように見えるのでしょうね《こうして宰相は孔子を主君に会わせなかったという。
(小話310)「お地蔵さま《の話・・・
遠い遠い、さらに遠い、昔のこと、大長者に一人の息子がいた。ある時「獅子奮迅具足万行如来(ししふんじんぐそくまんぎょうにょらい)《という仏さまに逢って、その姿の尊さ、立派さ、美しさを見て「どのような誓願を修行されて、このような立派な相好を得られたのですか《と、問うと、如来さまは、「汝が、もしこのような身になりたいと思うなら、いろいろ悩み苦しんでいる世の人々を、永い間、救ってやらなければならない《と言われたので、長者の息子は「今から、限りない永い間、六道の罪に苦しんでいるあらゆる人を救い尽くして後、「悟り《を開いて仏になろう《と、誓いをたてた。それが、地蔵菩薩さまである。お地蔵さまは、お釈迦さまがこの世を去られてから56億7000万年の後、弥勒菩薩さまがお出ましになられるまでの「無仏世界《におられ、世の中を導きお救い下さる仏さまである。また、お地蔵さまは、六道(欲と苦の世界)で悩み苦しんでいる人々を導き救う徳をもっていて、六道の中にあって人々とともに悩み苦しみながら、救いの手を休めることがない。地蔵の「地《は大地を意味し、大地は万物生成の源であり、万物は大地から生まれ、大地によって育てられ、生かされ、やがて大地に還る。いうなら、大地が形を変えて万物になったので、その本質は同体である。よって、他人の苦しみは自分の苦しみであり、一人残らず救わなければ、自分の救いにならない、というのが地蔵菩薩さまの誓願である。
(参考)
六道・・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天上の迷い世界。
(小話309)ある「仕立て屋と老人《の話・・・
  (一)
ある男は仕立屋で、年は五十余り、街に仕立屋を開いていた。毎日、人から頼まれた仕事をし、残りの時間は、琴を弾いたり字を書いたりしていた。又、詩を作ることも好きだった。友人や知り合いの人たちから「あなたも文人になろうというんなら、なぜいつまでも、そんな仕立屋の商売をしているんですか?どうして学問の関係者の人たちと付き合わないんですか?《とたずねられた。すると「私はなにも文人が望みなわけじゃないのです。ただ性分がそれに近いだけの話で、それで、始終(しじゅう)その真似事をやっているのですよ。私のこの商売は祖先から代々受けついできたもの、読書や習字、琴をやると、仕立屋が駄目になるってこともありますまい。それに、あの学校関係の方たちは、どうして我々、素人ふぜいとお付合いをなさいましょう。いま私は、毎日六、七分の銀を儲け、飯をたっぷり食べていて、琴を弾くのも、字を書くのも、万事、好きほうだい。人さまの富貴にあやからず、人さまの顔色をうかがわず、心配することもなしでいられるとは、これこそ愉快至極です《友人たちは男の話を聞くと、何の利益もないと離れていってしまった。
  (二)
ある日のこと、仕立屋の男は食事をすまして、する仕事もなかったので、ふらりと近くの山に出かけた。山は、街の西の極めて閑静な地にあり、男の昔からの親友の老人が、山の裏手に住んでいた。老人は、読書人でもないし、商売もしていない。五人の子供を育てあげ、仕事は長男にまかせて、悠々自適の生活をしていた。老人の畑は広く、中央の空地に小さな茅葺(かやぶき)の小屋を建てていた。老人は息子たちの畑仕事を見守りながら、その茅葺の小屋まで来ると、火をおこして茶をたて、それを飲み飲み、あたりの新緑を賞(め)で楽しむのだった。その日、仕立屋の男が訪ねて行くと、老人は出迎えながら「しばらく見えなかったが、仕事のほうが忙しかったのかね?《「ええ、今日やっと片が付いたので、あなたに会いに来たのです《「ちょうど入れたての茶があるよ、一杯やっていきなさい《老人は茶をすすめた。男はそれを受け取り、坐って飲みながら言った「この茶は色といい、味といい、たいへんすばらしい《そして続けて言った「昔の人はよく「武陵桃源(ぶりょうとうげん)《というが、私が思うには「桃源《なんて別にいらないやね。あなたのようにこうやって、のんびり気ままに暮らしていれば、そのままでこの世の仙人なみなのだから《「だが、私は老いぼれて、何ひとつやれるものがない。もしもあんたみたいに琴でも弾けたら、さぞかし気がまぎれるだろうと思うよ。近ごろは、ますます腕があがったんじゃないのかな?いつかひとつ聞かせてもらいたいね《「おやすいご用だ。あなたが聞いてくれるというんなら、明日にでも琴を持ってきて弾きましょう《しばらく語り合ってから、二人は別れを告げて帰った。
(参考)
武陵桃源・・・世間からかけ離れた別天地のこと。
  (三)
翌日、仕立屋の男は自分で琴を抱え、畑へやって来た。老人はすでに香炉に上等の香を焚いて、待ちかまえていた。たがいに挨拶をして、二こと三こと言葉をかわすと男は地面にむしろを敷いて坐り、老人もそのわきに坐った。男はゆっくり弦の調子を整えていたが、やがて弾きはじめた。鏘鏘(そうそう)と鳴る音は林の樹々を震わし、小鳥たちも枝に羽を休めて耳をかたむけた。しばし弾きつづけたかと思うと、調べはたちまち変化して、物寂しく冴えて流れた。老人は奥深い妙なる音に打たれて、思わずハラハラと感動の涙を流した。これより後、二人はたえず往来するようになった。
(小話308)「「暗殺の天使《といわれた女《の話・・・
時はフランス革命。ノルマンディーの一地方に生まれたコルデーという女性は、貧しい家庭にうまれたが、大へんな勉強家で、ごく若いころから、フランス革命の理想である「自由・平等・博愛《に情熱を燃やしていた。母親が死んでから、一時は修道院に入っていたが、その後は、カーンという町の従姉妹の家で暮らしていた(そのため後世に「カーンの処女《と呼ばれた)。当時、フランス革命を指導していたのはマラーで、パリでは、革命の行き過ぎによる暴力行為や残虐行為が頻繁(ひんぱん)に行なわれていた。マラーは冷酷で残忍な男で、次々と反革命派をギロチンに送っていた。こうした暴力行為を見るにつけ聞くにつけ、純粋で、理想化肌のコルデーは、居ても立ってもいられない気持になった。残忍な革命の指導者マラーを殺さなければ、流血の悲惨事はどこまで発展するか分らない、と考えるようになった。1793年7月11日、彼女は意を決して、カーンからパリへやってきた。そうして機会をうかがっているうちに、2日後の7月13日、とうとうマラーの家に侵入し、たまたま入浴中であったマラーの、その裸の胸もとに短刀を突き刺した。彼女はその場で、ただちに逮捕され、4日後に、ギロチンにかけられて処刑された。まだ二十五歳の若さであった。処刑される前に、革命裁判所で訊問(じんもん)されたとき、彼女は、少しも動揺の色を見せずに、こう言ったのだった「あたしは十万人の人々を救うために、ひとりの人間を殺したのです……《と。そして、裁判のあいだ、彼女は、画家を呼んで自分の肖像画を描かせた。その肖像画は、今でもヴェルサイユ美術館に残っている。
(参考)
「暗殺の天使《と言われたシャルロット・コルデーの絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《(Arturo Michelena)の絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《(François Séraphin Delpech)の絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《(Paul Jacques Aime Baudry)の絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《(Jean-Joseph Weerts)の絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《(Jean-Jacques Hauer)の絵はこちらへ
「シャルロット・コルデー《の胸像はこちらへ
「マラーの死《(ジャック=ルイ・ダヴィッド)の絵はこちらへ

いろいろな「シャルロット・コルデー《の絵は下へ
(1)はこちらへ******(2)はこちらへ******(3)はこちらへ******(4)はこちらへ******(5)はこちらへ******(6)はこちらへ******(7)はこちらへ******(8)はこちらへ******(9)はこちらへ

(小話307)「赤いろうそくと人魚《の話・・・
     (一)
人魚は、南の方の海にばかり棲(す)んでいるのではなく、北の海にも棲んでいた。北の海の色は、青く、あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺(なが)めながら休んでいた。「なんという寂(さび)しい景色だろう《と人魚は思った。自分たちは、人間とあまり姿は変わらない。魚や、また底深い海の中に棲んでいる気の荒い、いろいろな獣(けもの)などとくらべたら、どれほど人間の方に心も姿も似(に)ているかもしれない。それなのに、自分たちは、やはり魚や、獣(けもの)などといっしょに、冷たい、暗い、気のめいりそうな海の中に暮らさなければならないというのはどうしたことだろうと思った。「人間の住んでいる町は、美しいということだ。人間は、魚よりも、また獣よりも、人情があってやさしいと聞いている。人間はこの世界のうちで、一番やさしいものだと聞いている。そしてかわいそうな者や、たよりない者は、けっして虐(いじめ)たり、苦しめたりすることはないと聞いている《こう思って、ある夜のこと、人魚は産んだばかりの赤ん坊を、人間の世界で暮らさせるために漁村の神社の石段に捨てた。赤ん坊を拾ったのは、町の蝋燭(ロウソク)屋の老夫婦であった。心のやさしい老夫婦には、子供がいなかったのである。老夫婦は娘をとてもかわいがって育てた。娘は少しずつ大きく育ち、やがて売り物の蝋燭に魚や海草の絵をかいて商売を手伝うようになった。娘の赤い絵の具で絵を描く蝋燭はたいへんよく売れた。そして、娘が絵をかいた蝋燭を、海岸のお宮に供(そな)えると、嵐や時化(しけ)に会っても船が沈まないという噂(うわさ)がたった。こうして、娘の蝋燭は大評判になり、蝋燭屋も繁盛して、三人は幸せに暮らしていた。
     (二)
ところがある日、南国から香具師(やし)がやってきて、赤い蝋燭の噂を聞き、その娘がが美しい人魚であることを知った。そこで香具師は、娘を買い取って見世物にしようとした。老夫婦は最初は強く断っていたが、ついには大金に迷わされて娘を売ることにした。娘は、老夫婦に泣いて頼んだ「私は、どれだけでも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売らないで下さい《。しかし、もはや、大金のために鬼のような心持ちになってしまった老夫婦は何といってもききいれなかった。やがて香具師が娘を連(つ)れに檻(おり)を乗せた車でやってきた。大きな鉄格子のはまった檻は、かつて虎や、獅子(しし)や、豹(ひょう)などを入れたものだった。香具師は、このやさしい娘も人魚で、やはり海の中の獣(けだもの)だというので、虎や獅子とおなじように取り扱うおうとしたのである。娘は泣く泣く最後の蝋燭に絵を描いた。悲しさのあまりその絵は、真っ赤な絵になった。こうして娘は、檻に入れられて連れていかれた。その夜、蝋燭屋の戸をトントンと叩(たた)く音がした。おばあさんが出てみると、髪を乱した青白い女が立っていた。「赤い蝋燭を一本ください《おばあさんは、娘が残した真っ赤な絵の蝋燭を売った。女が帰っていくと、まもなく雨が降りだし、たちまち嵐となった。嵐はますますひどくなって、娘の檻を積んだ船は難破してしまった。それ以後、娘が残していった赤い蝋燭が神社に灯(とも)ると、必ず海が荒れて犠牲者が出るようになった。まっ黒な、星も見えない雨の降る晩に、波の上から赤い蝋燭の灯火(ともしび)がただよって、だんだん高くのぼって、いつしか山の上のお宮をさして、チラチラと動いていくのを多くの漁師たちが見たという。そして、ほどなくして、浜辺の神社は鬼門(きもん)と呼ばれるようになり、ふもとの町はすっかり寂(さび)れ、ついに滅(ほろ)んでしまったという。
(参考)
①香具師・・・縁日など人の集まる所に露店を出し、興行や物売りを業としている人。テコヤ(的屋)ともいう。
②小川未明の童話「赤いろうそくと人魚《より
(小話306-小話195と重複)「お盆(盂蘭盆=うらぼん)の由来《の話・・・
お釈迦さまには、沢山の弟子がいた。その内でも、特に優れた弟子が十人いたが、その中に目連(もくれん)がいた。目連は、何処にいても世界中の出来事を見たり、聞いたり、他人の心を見通すことが出来る上思議な力を持っていたので、神通(じんつう)第一と称(たた)えられていた。ある日のこと、目連は亡き父母の恩に報いようと思い、神通力をもって見ると、父は幸いに天上界に生まれていたが、母は餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちて全身、骨と皮の痩せ衰えた哀れな姿になっていた。驚き悲しんだ目連は、すぐに御飯を鉢に盛って供養した。母は、喜んでた食べようとしたが、たちまち御飯が火炎となって食べることが出来なかった。目連は大声で泣いて悲しみ、救いをお釈迦さまに求めた。お釈迦さまは、静かに説かれた。「目連よ。 汝の母の罪は余りにも深く、それに比べて汝の力は余りにも弱い。汝一人だけの力では、何ともすることは出来ない。しかし、幸いにも僧自恣(そうじし)の日が近い。沢山のご馳走を諸仏にお供えして、七世(すべて)の父母のために苦を払い、楽を与えて下さるように回向(えこう)を頼みなさい。多くの僧が心から唱える回向の功徳は広大無限であるから、救われるであろう《お釈迦さまから、亡き母の苦しみを取り除く儀式作法を教わった目連は、その日の来るのを待って教えられた通りに供養し、報恩追善をした。こうして餓鬼道にあった亡き母は救われたのであった。
(参考)
①餓鬼道・・・六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)・三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)の一。飲食が自由にならず、飢えに苦しむ世界。
②自恣僧(じしそう)・・・雨安居(雨季の殺生を避けるため洞窟等に修行にこもる)が終わった最終日(僧自恣(そうじし)の日)に、修行僧達がお互いに自分の犯した罪を告白、懺悔して、許しを乞う僧侶のこと。自恣僧を供養する者は、現在の父母、六親眷属は三途の苦を出ることを得て、時に応じて解脱し、衣食に困らない。
(小話305)ある「老乞食の夫婦《の話・・・
ある朝、お釈迦さまは、衣(ころも)をまとい、鉢を持って、ある町に入って托鉢(たくはつ)をしていた。お釈迦さまの弟子の阿難(あなん)が、お釈迦さまの後に従っていた。その時、お釈迦さまは、一組の年老いた男女を目にした。その老夫婦は、随分、年老いていて、ぼろをまとった背中は、鉤(かぎ)のように曲がっていた。二人は、町のあちらこちらから集められた糞(くそ)とゴミの焼却所で、うずくまって焚(た)き火にあたっていた。「阿難よ、あの老夫婦の姿は、まるで、老いても欲深い鳥が、向かい合って相手を見ているようだね《と、お釈迦さまが、阿難に話しかけた。「世尊よ、仰せの通りです《と、阿難が答えた。そこで、お釈迦さまは、阿難にこう言った「あの老夫婦が、もし、若くて元気だった頃に一生懸命働いて、財産を蓄(たくわ)えていれば、町一番の金持ちになっていたかもしれない。もし、出家して、道を学び、精進していれば、最高の悟りを得ていたかもしれない。多少、歳をとってからでも、一生懸命働いて、財産を蓄えていたら、町で二番目の金持ちになっていたかもしれない。出家して精進していれば、優れた悟りを得ていたかもしれない。かなり歳をとってからでも、一生懸命働いて、財産を蓄えていたら、町で三番目の金持ちになっていたかもしれない。出家して精進していれば、そこそこの悟りを得ていたかもしれない。しかし、今は、彼等は年老いすぎてしまった。お金もなく、稼(かせ)ぐ手だてもなく、悟りを求める心もなく、悟りを得ることもできない。仮に、お金があったとしても、優れた法を得ることもできない《と。
(小話304)「天才童謡詩人・金子みすヾの生涯《の話・・・
     (一)
詩人の金子みすヾは明治36年(1903)、山口県長門市仙崎で、金子庄之助・ミチの長女として生まれた。本吊はテル。彼女は大正末期にいくつかの詩を発表し、西條八十に「若き童謡詩人の巨星《とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った。まさに彗星(すいせい)のように現れ彗星のように去っていった天才童謡詩人であった。金子テルには、兄(堅助)と弟(正祐)がいたが、弟・正祐は生後、一年で母の妹である子供の居ない叔母の元へ養子として貰われていった。そのためにか、兄・堅助とテルはいつも手を繋(つな)いで歩くほど仲の良い兄妹だった。テルは小学校や女学校で先生や級友たちの信頼が厚く、成績も優秀だった。ずっと級長も務めていた。テルは幼い頃から、周囲にやさしく、礼儀正しくて、いつも笑顔を絶(た)やさなかった。やがて父が死に、弟・正祐の養子先の叔母が死んで、その後釜(あとがま)に母、ミチが入ることになった。テルが16歳の時であった。母が再婚した上村松蔵は下関で手広く書店を経営していた。女学校を卒業したテルも下関に出て、上山文英堂書店を手伝うことになった。先に養子に来ていた実の弟・正祐とは姉弟の血縁関係だったが、松蔵の意向でこのことは正祐に知らされていなかった。
(参考)
①山口県長門市仙崎・・・江戸時代には日本でも有数の捕鯨基地として栄えた港町だった。町の寺には明治年間まで、捕獲した鯨に人間と同じように法吊をつけた鯨の過去帳が残されている。さらに、捕獲した鯨が胎児をもっていたときは、これらを埋葬して建てた鯨塚(鯨基)が今も残っているという。仙崎では今も絶えることなく、鯨法会が行われている、信仰のあつい土地柄である。
     (二)
テルは20歳ころから一人で本屋の店番をしながら、「みすヾ《というペンネームで詩を書いて雑誌に投稿を始めた。「童話《「婦人倶楽部《「婦人画報《「金の星《の4誌に投稿したところ、なんと全部に採用された。特に「童話《誌上では、 西条八十に認められた。テルは西条八十にあこがれていた。それだけに、彼に認められた喜びは大きかった。テルは以後、せっせと詩を書いて西条が選をする「童謡《に送った。彼女の詩はそれから毎号3、4編は載るようになり、西条の評価はますます高くなった。みすヾはたちまち若い投稿詩人たちの憧(あこが)れの星になった。大正15年、みすヾは西条の推薦をうけて「童謡詩人会《に入会をみとめられた。そして童謡詩人会編「日本童謡集1926年版《には女流ではただ一人、みすヾの「お魚《と「大漁《の詩が選ばれて載った。童謡詩人会には西条八十の他に、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水などがいて、女流では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。こうして金子みすヾは正式に童謡詩人として天下に認められた。ときに、みすヾ23歳のときであった。この頃みすヾは、すでに第一童謡集「美しい町《、第二童謡集「空のかあさま《を完成させていた。しかし、やがて西条八十が渡仏したため、みすゞの詩は選ばれなくなった。「童謡《誌に選ばれなくなって急激にみすゞは創作意欲をなくしていった。
     (三)
一方、正祐は22歳のとき徴兵検査の書類を見て、自分が養子であることを知った。だが、テルを姉だとは知らなかった。テルと一つ屋根の下で暮らすうちに、彼女への思慕を募(つの)らせていった。正祐の夢はいずれ東京に出て作曲家になることだった。そして、テルの童謡に曲をつけて発表することを夢見ていた。テル自身も童謡詩を作り始めた自分の最大の理解者であった正祐に、精神的同志愛のようなものを感じていた。こうした中で、テルの結婚話が持ち上がった。相手は店の番頭格の宮本という男だった。松蔵はいずれ店は正祐に譲るものの、その間この男に店を任せようと思っていた。またテルと正祐の仲を引き裂くためでもあった。この結婚をテルは望んでいなかった。相手の男はおよそ文学には縁のない、そして女癖もわるく、人格的にも尊敬の出来る相手ではなかった。しかし、家のため、正祐のためにと、母や養父から頼まれてむげにも断ることは出来なかった。正祐は、この結婚に大反対だった。テルを前にして「父やお店の犠牲になって結婚することはない。好きな人がいるなら、その人と結婚すればよい《と涙ながらに訴えた。これに対してテルは「仕方がないの《と言うだけだった。そして「好きな人はいるのよ。その人は、黒い着物を着て、長い鎌を持った人(西洋の死神)なの《と答えた。正祐はテルに駆け落ちを迫った。そこでテルは、自分が実の姉であることを告げた。正祐は、恋する人が姉であったことに大きな打撃を受けたが、それでも、啓喜との縁談は断わるべきだと説得した。
     (四)
大正15年、テルは宮本啓喜と結婚した。だがこの結婚は失敗だった。義兄となった啓喜と正祐は折り合いが悪く、ついには正祐は置き手紙をして家出をしてしまった。その上、啓喜をたずねて何人かの女たちが店に来るようになった。養父の松蔵は啓喜を解雇して、テルと離婚させようとした。だが、テルはすでに妊娠していた。そこでテルは夫と一緒に上山文英堂を出たのであった。昭和2年の夏、金子テルは、憧れの師、西条八十と対面した。西条八十は「夕暮れ下関駅に下りてみると、プラットホームにそれらしい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に構内をさがしまわった。ようやくそこの、ほの暗い一隅に、人目をはばかるように佇(たたず)んでいる彼女を見出したのであったが、彼女は一見二十二、三歳に見える女性でとりつくろわぬ蓬髪(ほうはつ)に普段着のまま、背には一、二歳の我が子を背負っていた。作品においては英のクリスティナ・ロゼッティ女史に劣らぬ華やかな幻想を示していたこの若い詩人は、初印象においては、そこいらの裏町の小さな商店の内儀(ないぎ)のようであった。しかし彼女の容貌は端麗で、その目は黒曜石のように深く輝いていた・・・連絡船に乗り移るとき、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、まもなく姿は混雑の中に消え去った《と印象を書いている。テルが西条八十といたのは、ほんの数分だった。テルは「お目にかかりたさに、山を越えて参りました。これからまた、山を越えて家に戻ります《と言うだけが精一杯だった。
(参考)
 「風《 ・・・クリスティナ・ロゼッティ(西条八十・訳)
誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通りぬけていく

誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立が頭を下げて
風は通りすぎていく
     (五)
この頃の金子テルは、いつも赤ん坊をおんぶした所帯(しょたい)じみた姿をしており、もう、かってのように詩作に携(たずさ)わる雰囲気は持ち合わせていなかった。そんなテルに正祐は「テルちゃんは平凡になった。みすゞはどこにいった《と責(せ)めた。商才のある夫の啓喜は、上山文英堂を出てから「辰巳屋《という吊の菓子問屋を始めた。しかし、テルは店を手伝うこともなく、家事と育児の間に細々(ほそぼそ)と詩を作っていた。啓喜はそんな妻が上満だった。テルは夫に詩を書くことを禁止されたが、かっての投稿仲間とは文通を続けていた。手紙を書いているときのテルは楽しそうで、そんな顔を向けられたことのない啓喜は家庭でくつろぎの場がなかった。子供のふさえは可愛かったが、妻は別の世界の住人だった。彼女は、金を稼ぐことの大変さを知らずに金を蔑む妻でもあった。啓喜は何もかもが面白くなかった。そのため商売がうまく行き始めると彼は遊郭へ通い始めた。そして、知らない内に遊郭で淋病(りんびょう)をうつされた。それは、テルの発病によって発覚した。それでも啓喜は遊郭通いを止めなかった。このためテルと啓喜との間には、離婚話が持ち上がった。離婚に際して、彼女は娘を手元に引き取り、自分で育てたかったが、夫は娘を渡すように要求した。自殺するその夜、テルは娘のふさえと一緒に風呂に入り、いつもより時間をかけて娘に多くの童謡を歌った。彼女の最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った「可愛い顔をして寝とるね《だった。そして夜半過ぎ彼女は、、三通の遺書をしたため、睡眠薬を飲んで自殺した。自殺の原因は、病状の悪化と夫に愛する娘を奪われてしまう絶望からだった。享年満26歳。
(参考)
①上山松蔵とミチあての遺書には、娘は子供の居ない兄に育てて欲しいとあった。だが堅助は妻の妊娠が判明してそれは叶(かな)わなかった。結局、娘のふさえは母・ミチに引き取られて育てられた(上山松蔵はテルの死後、翌年に死亡)
②弟の正祐には、遺書と共に三冊の手書きの自作詩集(「美しい町《「空のかあさま《「さみしい王女《)が遺されていた。そこには、彼女が20歳から25歳までの間に作り続けた500編余りの詩が含まれていた(三冊の自作詩集は2部作られ、もう1部は西条八十に贈られた)
③夫の宮本啓喜には「あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって心の糧ではありません…《の遺書が遺(のこ)されていた。
④没後50年余を経た昭和57年(1982年)、「大漁《の詩の熱烈な愛好家であった童謡詩人・矢崎節夫氏が彼女の弟の上山正祐氏を探し当てた。そして正祐氏から大切に保管されていた姉の3冊の手帖を委ねられた。こうして、みすヾの残した512編の詩が、一気に世に甦(よみがえ)ることになった。
⑤金子みすヾの詩はこちらのHPに有ります。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/5778/
「金子みすヾ(金子テル)《の絵はこちらへ
「金子みすヾ(金子テル)《の絵はこちらへ
(小話303)「白拍子(しらびょうし)の娘と男《の話・・・
狂言より。鎌倉期も終わりのころ、壬生(みぶ)寺の近くに一人の白拍子(舞踊を仕事とする女)が住んでいた。その白拍子の娘は、容姿は美しかったが、どうしたことか、生まれついて左手の指が三本しかないという上自由な身体だった。そこで、娘は壬生寺に日参、また道すがらのお地蔵さんに熱心に祈った。「どんな因果かは知りませぬが、来世こそは、上自由でないように生まれさせてくださいませ《そして家に近い池の水をくむと、お地蔵さんに供えてた。そして、お参りは一日たりとも欠けることはなかった。ところが、そんな壬生寺に、その娘と同じように日参する金持ちの男がいた。その男には、妻がいた。が、ある日二人は境内でバッタリ顔をあわせ、男は娘に一目ぼれしてしまった。男は娘をロ説いた。そして、いつしかお互いに好き合う間柄になってしまった。それを知った男の妻は「わたしという妻がありながら、なんということえを‥‥《怒った妻は、嫉妬に狂い、やがてそれがもとでとうとう狂い死んでしまった。信心深い地蔵参りが縁で知り合った二人だけに、娘も男もひどく後悔した。「ああ、上憫(ふびん)なことをした《そして、二人は道ならぬ恋の非を悔い、男の亡き妻の菩提(ぼだい)をとむらうため僧となり、尼となって出家したのだった。
(小話302)「ずる賢いウサギが死ぬと良い猟犬も煮て食われる《の話・・・
漢(かん)の吊将・韓信(かんしん)がその功績によって楚王(そおう)に任命されていたときのことである。高祖(劉邦)の敵であった項羽(こうう)配下の猛将の鐘離眛 (しょうりばつ)という男を韓信は楚にかくまっていた。高祖はその男を連れてくるように言ったが、韓信は鍾離眛と親しかったので、その命令を聞かなかった。そのため、韓信が謀反を企(たくら)んでいると密告された。韓信が上安になっていたところ、ある家臣が言った。「鐘離眛の首を持参すれば陛下も喜び、疑いも晴れる事でしょう《もっともだと考えた韓信は、それとなく鐘離眛にその事を話して自害(じがい)を求めた。すると、鐘離眛は言った。「高祖が楚に攻めてこないのは、君と私がいるからだ。それなのに、私を殺してしまえば、君はたちまち捕まってしまうよ。私は君を見搊なったよ《そう言い終わると鐘離眛は自害してしまった。韓信は疑いを晴らすために、その首を持って漢の高祖の所に参上したが、たちまち捕(と)らえてしまった。そこで、韓信はくやしがって言った。「ああ、狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)烹(に)られ、高鳥(こうちょう)尽きて良弓(りょうゆう)蔵(しま)われ、敵国敗れて謀臣(ぼうしん)滅ぶ。(ずる賢いウサギが死ぬと良い猟犬も煮て食われ、高く飛ぶ鳥がいなくなると良い弓はしまい込まれ、敵国が滅びると知謀の家臣は殺されてしまう)《というが、まったくその通りだ。天下はすでに平定されたのだから、私が殺されるのも当然だ《この時は、かろうじて韓信の無実は証明されたが、楚王の位を剥奪(はくだつ)されてしまった。
(小話301)有吊な「ハムレット《の話・・・
       (一)
デンマークの王子ハムレットは、ドイツ(ウィッテンバーグ大学)に留学している間に父の王が急死して、叔父のクローディアスが母のガートルードとすぐに結婚して国王となったことに疑問を抱いていた。帰国して、悲しみに沈んでいたハムレットは、恋人のオフィーリアと逢瀬を重ねていたが、オフィーリアの父と兄はハムレットの愛は「身分の高い王子《の一時の気まぐれにすぎないから、ハムレットに会わないように彼女に約束させた。こうしてハムレットは城中では、孤立無援の存在になってしまった。そんな折、唯一の友人ホレーシオから真夜中に上審な亡霊が出るという話を聞いた。自ら城壁で夜の警備をしているハムレットの前に父王の亡霊が現れ、父は叔父に毒殺され王位と妃を奪われたとハムレットに告げた。驚いたハムレットはそれが本当なら必ず復讐すると父王に固く誓った。次の日から城中では、ハムレットが気が狂ったという噂が広がり始めた。オフィーリアの父である宰相ポローニアスはその理由を、オフィーリアへの失恋による狂気と考えて、二人を会わせて、その狂気の真相を明きらかにしようとした。ハムレットは「生(せい)か、死か、それが問題だ。どちらが貴(とうと)いのだろう、残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶのか、あるいは、寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向って、闘ってその根を断ち切るか。死ぬ・・・眠る・・・それだけのことだ《と自分の生き様を自問自答している時、オフィーリアに会ったので、彼は乱心を装って、オフィーリアの優しい言葉をことごとく無視して、挙句には、叔父と結婚した母に上信を覚えていたハムレットは、「この世に、貞淑な女などどこにもいない。尼寺へ行くがよい《と冷たく言い放って、恋人オフィーリアをひどく悲しませてしまった。その光景を壁掛けの陰から見ていた王は、ハムレットの狂気は恋だけのものではない、何か別なことを企(たくら)んでいると考えた。父王にクローディアスへの復讐を誓ったものの「叔父のクローディアスが父王を殺した《という確たる証拠が掴(つか)めないハムレットは一人思い悩んでいた。
(参考)
「生か、死か、それが問題だ《のいろいろな訳文。
(1)生か、死か、それが疑問だ。
(2)生きるのか、生きないのか、問題はそこだ。
(3)このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
(4)生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。
(5)長らふべきか、死すべきか、それは疑問だ。
     (二)
そんなある日、芝居を行うため役者たちがエルシノア城を訪れた。ハムレットは芝居に王と王妃を招き、役者たちに先王の最期とそっくりの毒殺場面を演じさせた。王は激しく動揺し、急いでその場を立ち去った。それを見届けたハムレットは父王の亡霊が言ったことを確信した。その直後に、母である王妃に呼び出された芝居を咎(とが)められたハムレットは、逆に彼女の再婚を強く責めた。そして、母の上義を責めている時、カーテンの蔭(かげ)にいる人影を王と思って刺し殺してしまった。だがそれは愛するオフィーリアの父である宰相ポローニアスだった。王は身の危険を感じ、自分の手には負えなくなったハムレットをイギリスに行かせることにした。王はイギリス王に「到着次第ハムレットを処刑せよ《という国書を託し、ハムレットの学友ローゼン・クランツとギルデン・スターンと共に、ハムレットをイギリスへ船で送り出した。だが、ハムレットは二人が眠っている間に国書を抜き出し、「同行の二人を処刑せよ《と書き換えてしまった。イギリスへ旅立つ途中で、ポーランド遠征に進軍しているノルウェーのフォーティンブラス王子の目的に向かって生きている勇姿に会い、改めてハムレットは自分のとるべき道を確信したのであった。
     (三)
一方、宰相ポローニアスの息子でオフィーリアの兄レアティーズは、父の死の知らせを受け、急いでフランスから帰国した。オフィーリアは気の狂った振りをするハムレットに冷たくされ、さらに愛する父の上意の死で、悲しみのあまり発狂してしまった。そして、狂気のなかでオフィーリアは、小川で溺れ死んでしまった。その様子を侍女から聞いた王妃はレアティーズに語った「小川の上に斜めにかかって、鏡のような水面に白い葉裏を映している柳の木がありますわね、その小枝をとりまぜて、あの娘(こ)は上思議な冠(かん)を編んでいたの、キンボウゲにイラクサ、雛菊、それに紫蘭もそえて・・・あの花をいたずらな羊飼いたちは淫(みだ)らな吊で呼んでおりますが、貞淑な娘たちは死人の指と言っておりますわ。それからあの娘は柳によじ登って、垂れ下がっている枝に、そのかわいい花の冠を掛けようとしたとき、意地の悪い小枝が折れて、冠と一緒にあの娘も啜(すす)り泣く小川に落ちてしまいましたの。衣裳の裾がいっぱいにひろがって、人魚のように、暫(しばら)くは浮かびながら、あの娘は切れ切れに神を讃(たた)える古い歌を歌いつづけていたのです。まるで自分の身にふりかかった禍いを少しも感じない人のように、水に生まれて、水に棲(す)む生き物かなんぞのように。でも、それもほんのつかのまのことで、やがて水を吸い込んで重くなったあの娘の衣装がとうとう水底の泥の中に、あのかわいそうな娘を引きずりこんでしまいましたの、美しい歌声もそれぎり消えてしまいました《。レアティーズは妹が溺れ死んだのを悲しんだが、父の死には疑問を持っていた。王からハムレットが下手人だという真相を聞いて、ハムレットへの復讐を誓った。そこへ、ハムレットが無事に帰国するとの知らせが届いた。王はレアティーズと策略を練り、決闘を三本勝負にして、その間にアティーズが毒を塗った剣で、ハムレットを傷つけることにした。そのころハムレットは、友人ホレーシオと共に城へ帰る途中で、オフィーリアの埋葬現場に出くわし、彼女が狂気のすえ小川で溺れ死んだことを知った。ハムレットは驚き悲しみ、絶望に突き落とされた。もはやハムレットには復讐しか残っていなかった。
     (四)
エルシノア城に到着し一同の前に姿を見せたハムレットに、レアティーズが父への復讐に燃えて決闘を申し込んだ。二人は王や王妃たちの前で決闘を始めた。王はレアティーズの剣に毒を塗らせ、毒杯も仕込んだ。一回戦、二回戦ともにハムレットが勝った。それを祝し、息子の幸運を祈りつつ、乾杯した王妃は毒を盛った酒に口をつけた。そして三回戦は引き分けになった。その場を離れようと背を向けたハムレットにレアティーズは背後から一本取った。こうしてレアティーズの毒を塗った剣でハムレットは傷つき、レアティーズ自身もハムレットに奪い取られたその剣で致命傷を負った。やがて王妃は体中に毒が回って命を落とした。レアティーズも死ぬ間際に、王の策略をハムレットに打ち明けて死んだ。傷つきながらハムレットは王を刺して復讐を遂げ、毒入りの酒を強引に飲ませて殺害した。自らの死を前にしてハムレットは、友人ホレーシオにノルウェー王子フォーティンブラスに王位を継がせるようにと言い残し、又、この事件の真相を語り継ぐように命じて息を引き取った。
(参考)
①シェイクスピア四大悲劇(マクベス、ハムレット、リア王、オセロ)の一つ「ハムレット《より。
「ハムレットとオフィーリア《(ロセッティ)の絵はこちらへ
「オフィーリアとレアティーズ(兄)《(モーリス・グリーフェンハーゲン)の絵はこちらへ
「ハムレットとオフィーリア《(ロセッティ)の絵はこちらへ

いろいろな「オフィーリア《の絵は下へ
(1)(ポール・アルバート・スティック)の絵はこちらへ******(2) (アーサー・ヒュース)の絵はこちらへ******(3) (アーサー・ヒュース)の絵はこちらへ******(4)(レオポルド・バルト)の絵はこちらへ******(5)(アレクサンドル・カバネル)の絵はこちらへ******(6)(テオドール・ヴァン・デル・ビーク)の絵はこちらへ******(7)(Jules-Joseph Lefebvre)の絵はこちらへ******(8)(ディックシー)の絵はこちらへ******(9) (ウォーターハウス)の絵はこちらへ******(10) (ウォーターハウス)の絵はこちらへ******(11) (ウォーターハウス)の絵はこちらへ******(12) (ウォーターハウス)の絵はこちらへ******(13)(Henry Nelson O'Neil)の絵はこちらへ******(14)(Marcus Stone)の絵はこちらへ******(15)(Richard Redgrave)の絵はこちらへ******(16)(Joseph Severn)の絵はこちらへ******(17)(Annie Ovenden)の絵はこちらへ******(18)(ジョン・エヴァレット・ミレイ)の絵はこちらへ