失望していいはずだった。
「湯呑みを香炉代わりに使うのは感心しないな」
コツリ。机を叩いた指先が、宗三の意識を引き戻す。
足抜けと蔓延する流行り病で閑散としているとは言っても、拝領屋敷の騒々しさは本丸と比べるべくもない。
喧騒を遮断して目の前の仕事に集中する。拝領屋敷で事務仕事をする上での必須技能ではあったが、周囲の変化に疎くなるのが玉に瑕か。
歌仙の接近にまるで気付けなかった己の不覚に溜息をついて、宗三は頬へ零れた髪を耳にかける。
「その手の苦情は、下手人の一虎さんへお願いします」
「一虎殿が香を? 椿事だな。そういう雅を無駄と言い切る御仁じゃないか」
「アレは例の呪具ですよ。霊力を込めていない状態なら無害だという事で、遭遇時にすぐさま対処できるよう、箒衆は香りや特徴を覚えておくべきだと」
こぽり、こぽり、こぽり。
空き机にこれ見よがしに置かれた湯呑みから、こんこんと溢れる薄紅の煙が室内を漂う。
透明感のある甘く爽やかな芳香は、概ね万人受けする類のものだ。頭の芯が錆びついてくるような不快さを覚えるのは、それが呪具だと知っているからかも知れない。歌仙が顔を顰める。
「"刀剣男士が素直になる"とかいうふざけた触れ込みの呪香か……。少量であれば問題無いのだったかな」
「少量で済めば、ですけれどね。水に反応して香る呪物ですので、見つけた時は――何ですかその目は」
「いや? ただ、随分と熱心な仕事ぶりだと思ってね。護衛役を外れたものだから、貴殿は主の判断が不服なのかと思っていたが」
「……いいでしょう、別に。護衛の手は足りていますし、僕は主の無聊を慰められるほど芸達者でもありませんから」
差し出された書類を受け取り、何でもない風を装って視線を逸らす。
誰かしらには言われるだろうと思っていたし、予想していたよりは穏当ですらある。まあ、だからといって気分の良いものでも無かったが。
「重傷者に無体を強いるほど、落ちぶれてはいませんよ」
あの男でもあるまいに。
言下に付け足した一言に、「気を悪くしたなら謝罪しよう」と返す声音は悪びれない。
「けれど、どういう心境の変化かと思ってね。箒衆での仕事には、今まで見向きもしなかったろう」
用件は済んだろうに去る気配の無い歌仙は、まだまだ話し足りないらしかった。
疑念を抱かれても仕方ないのは承知しているが、できればあまり突かれたくない。
『が、分からなくなってしまったからです』
かつて、彼女に臣従したのは敗者であったが故だった。
器物として当然の摂理。刀剣男士ならば飲み下すべき道理。
『戦う理由。これからどうしたいのか、自分が何を感じて、何を思っているのか。そういうものの何もかもが』
宗三左文字は主の、不屈の魂を気に入っている。
追い詰められる程に鋭さを増すあの人間には、至難の窮地こそが相応しい。
情を挟まず、私欲を交えず、ただ冷徹に酷薄に。日頃の甘さぬるさの一切合切を削ぎ落し、己を含めたあらゆる持ち駒を惜しげなく消費して、蜘蛛糸の如き勝利の可能性を違わず手繰り寄せ掴み取る――自分が力及ばず果てようと、彼女は必ずその死に誉れを、意味を与えてくれる。疑いの余地無くそう確信できるだけの力強さが、戦場の彼女にはあった。
(……分からなくなってしまった、だなんて)
宗三が認めたのは、将としてのだ。
性別など些末事。歴代の主に比べて劣る部分は、これから埋めていけばいい。
魔王の刀が侍るに足る将であり、彼をいち刀剣男士として、戦う為の刀の一振りとして扱う主だからこそ、宗三はに誠を尽くすと心に決めた。個刃としての情愛やら好悪やらで頭を垂れた訳では無い。
そうであると、疑ってもいなかった。
(それじゃあ、まるで)
失望していいはずだった。
将として認め、その不屈ぶりを気に入っていたはずのが膝を屈したという事実は。
失望、侮蔑、落胆、同情。胸に兆した感情はそういったモノであるはずだったし、それ以外であるはずが無かった。
――なのに。
『喜色を露わにするのは感心せぬぞ』
自覚が無かったとはいえ、解散の際に山伏から忠告を受けたのはあまりに苦い失態である。
小夜は何も言わなかったが、訝しむようなあの目は思い出すだけでいたたまれない。
半ば無意識に、宗三は袂へ隠したお守りを撫でる。
最近何かと物騒であるからと、弟達の安全を祈って、兄の江雪が贈ってくれたものだ。
から受け取ったお守りのように、何か具体的なご利益がある物では無い。それでも江雪がくれたお守りは、触れると不思議に心が和む。
「…………ただの気まぐれですよ、気まぐれ。僕に言わせれば、あなたの方がよほど不可解だ」
「知見を広げるのは面白いものさ」
「……自分の分霊と顔を突き合わせるのも、あなたにとっては面白い知見のうちに入るんでしょうね」
「同位体と、かい? ……気にした事が無かったな」
思ってもみない事を言われた、といった様子の歌仙はどこまでも自然体だ。
この違いは、あの男に顕現された刀の中では新参だったからか。それとも"歌仙兼定"が、政府が初期刀候補として定めた刀の一振りであるからなのか。
(新参だったから――なのでしょうね、きっと)
政府の選定基準は不明だが、初期刀候補の刀剣男士と己とで、何が違うとも思えない。何より、この歌仙は宗三と同じなのだ。あの男の下で幾度となく顕現されては折れていった使い捨ての、たまたま運良く長らえただけの一振り。
袂のお守りに触れる手に、力が籠る。
もっと長くあの男の下にあったなら、歌仙だって同じ嫌悪を共有していたはずだった。
「貴殿は嫌いかな」
「嫌いですよ。籠の鳥を気取って、自分がどれだけ恵まれてるか知ろうともしない。見ていて苛々する」
まっとうな主を持つ事がどれだけ得難い幸運であるか。そんな事、想像してもみないのだろう。奪われ踏み躙られ嘲られ、己の無力を噛み締めるしかないあの苦しみと無縁の癖に、斜に構えて皮肉ばかり一人前。
閉じ込められてもいなければ、気まぐれに嬲られる訳でもない。誰に憚る事もなく、心の赴くままに皮肉を囀れている時点で、あれらのいる場所は単なる巣でしかあり得ないのだ。伸び伸びと気兼ねなく過ごせる、帰る場所。
「本丸が籠だとしても、あれは審神者の籠でしょう」
籠に鍵が無かろうと、行ける先が限られているなら同じ事だ。
外で、何物にも囚われず生きてきたのであれば尚更、審神者として籠に入っているのは苦痛なのではないだろうか。最近、特にが相模遊郭に身を寄せてからは、そんな事をよく考える。
「籠は自由を奪うが、それは危険から鳥を遠ざけ、庇護する為の守りでもある」
道理を説くような歌仙の言葉は特別奇矯なものでも無い。
だというのに、何か決定的な部分が掛け違っているような言い知れぬ違和感が、舌先で皮肉を縫い留めた。
訝しむその眼差しをどう受け取ったのか、歌仙がすまし顔でニコリと笑う。
「なぁに、要は籠の居心地が良ければいいのさ。住めば都と言うだろう?」
根拠もないのに前向きな言葉は、任せておけ、と言わんばかりの力強さに満ちていた。
何か考えがあるようだが、端々から滲む楽観が不安を掻き立てる。この打刀、文系を自称する割にはどうにも直球勝負というか、力で押し通ろうとするところがあるのだ。
脱力感といくらかの安堵が、感じた違和感を押し流す。
「今更どうにかなるとも思えませんけどね……」
審神者として正しくある事に首を賭けた。彼等にとって良き主であると声高に誓った。
そうして彼女は言葉の通り、刀剣男士を不当に踏み躙りなどしなかった。個として敬意を払い、どれだけ好き勝手な物言いであろうと必ず耳を傾けた。引き継いだ刀も自分が顕現した刀も同じように扱った。
彼等の関係は円満だった。心のままに怒り、泣き、喚き、当たり散らす権利は放棄され、不平不満は腹の底へと飲み下された。和を乱すような負の感情は隠された。
全てが嘘だったとは思わない。けれど、どこまでが本当だったのかも分からない。一線を引いて、当たり障りなく物事を受け流すのに長けていたから。
彼等の関係は円満で、は良き主であった。彼女の忍耐を前提として。
「後始末くらいは付き合ってあげますよ」
立ち直って欲しい。切実に、心からそう祈っている。
さえ立ち直ってくれれば、宗三は今まで通りに彼女の刀として、彼女の命令で死ぬことを誉とする"刀剣男士"のままでいられるから。
宗三左文字はに対して、忠義以外を持ち得ない。――持ちたくなんて、ないのだ。
■ ■ ■
水引がフルーツ抱えてやって来た。
もとい。結良さんがフルーツを抱えてやって来た。
しかも豪華にラッピングされた、見るからにお高そうなやつである。
「どしたの結良さん。贈答品のタイムセールでもやってた?」
「いえいえ。これはさんへのお見舞い品ですよ」
赤、白、黒、水色、金、銀、桃。
身体の半分が色とりどりの紐になっている結良さんは、会う日会う日でカラーリングの割合と各所で編まれた水引の種類に変化がある。今日は金赤で蝶結び多めだから華やかでいいな。抱えているお見舞い品が豪華だけに、華やかさも割増しだ。
「下で司馬くんと会いましてね。断り切れませんでした」
「ふぅん」
見舞い品わざわざ持って来るなら、ついでに上がっていけば良かったのに。
「司馬さん五体満足だった?」
「そうですねぇ、疲れてはいるようでしたが。まあ、彼も取り締まりで忙しいんでしょう。ブラック本丸の噂はどこにでもありますからね。……せっかく持ってきてくれたんですし、どれか食べませんか? 一口だけでも」
「ううん、いらない。結良さん達で食べて」
「とは言ってもさん、いつまでも点滴だけは身体に良くないですよ」
「へーきへーき。特に不調とか無いし」
興味を示したカラスの何人かが、豪華なラッピングをつんつんと突く。肉もいいけどフルーツもいい。分かる。
結良さんがねだられるままにブドウを房からもいでやるのを眺めながら、食べる? と差し出された目玉に首を横に振る。それは君がお食べ。
「おや、刀装兵が減ってますね。また解体失敗ですか」
「そうなんだよね。なんでか全然うまくいく感じしなくて。霊力操作、割とこなれてきたと思うんだけどなぁ」
「うーん……変異したものを元に戻すというのが、まずもって不可能なのかも知れませんねえ」
「あー……それはあるかも知れない……」
あれこれ試してみたけど、何回リトライしても手ごたえが虚無なんよな。
別の刀装兵で欠けた部分を補填……いやこれはこれで同一性の問題が浮上するか。それなんてスワンプマン?
「霊力を注いでいた方は、鳥らしきものが産まれたんでしたか」
「そうそう。頭が二個ある羽根が綺麗なのが産まれたね。すぐ死んじゃったけど」
五個試して一個しか孵らなかった上、その一個が産まれた途端苦しげにのたうち回って息絶えるんだもんなぁ。
刀装兵さんの強化って難しいね。そもそも論としてお手軽インスタントに強化する、という考え方がいけないのかも知れない。
どうしても器の耐久性や性能がネックになってくるから根本的に作り変えないといけないのに、それやってできるのは強化された上位互換じゃなくて別物だし。
「次は刀剣男士参考にして、錬結試してみようと思ってる」
「めげませんねえ」
「挑戦に失敗は付き物なので……。あと、別に結果出さなきゃいけないやつじゃないし」
何事もこのくらい気楽にやれるんならほどよいんだけどなー。
「結果と言えば、刀剣男士への呪いの対応はその後どうです」
「よその刀はそれなりに? ほら、結良さんの護衛とか前よりいいかんじに正気寄り」
「膝丸、君、今の具合はどうですか?」
「■■――■■■■■、■■、■■■……」
「膝丸さんなんて?」
「正気を保とうと頑張るのが辛い――だそうです。会話はできている訳ですし、今までを思えばこれは進歩ですねえ」
「ね。この調子でうちの刀もどうにかできればいいんだけど」
視線を落とすも、命じた通りに膝に頭を預けて横たわる乱さんは微動だにしない。
雑な力押しではダメでした。呪い主も私なのでそれはそう。
うーん。試してみてる中では乱さんが一番手応えあるんだけどなぁ。
「何がいけないんだろ」
「そうですねぇ……ひょっとしたら、無自覚に考える事を避けている何かがあるんじゃないでしょうか」
「今の私、感情差っ引かれてる状態なのに?」
「その状態でなお、"考えたくない事"なんでしょう。刀剣男士を呪っているのも、それが理由かも知れませんねえ」
「考えたくないこと……考えたくないことかぁ……」
なんだろ。
……次郎さん怒ってたのどうしよ問題とか?
「なに、考え続ければいずれ取っ掛かりは掴めますよ。ああそうだ、次に来る時は追加の刀装兵は多めにしますね。錬結は数が要るでしょう」
「それは有難いけど、結良さんそんな刀装兵持ってきちゃっていいの? 自分とこの刀に怒られたりしてない?」
「ははははは。いいんですよ、さんが楽しそうですからね」
「楽しそう……?」
「おや、自覚ありませんでしたか」
「無かった……」
……まあ、好奇心を満たす行為は楽しいものか。
そういえば、これも命の消費だなぁ。目的が強化とはいえ、失敗していっぱい壊しちゃってる訳だし。
で、いくらでも替えが利くから惜しんでもいない。情緒さん別居してなかったら違う感想出たのかな、これ。
「結良さんは私が刀装兵さん達にしてる事、酷いって思う?」
「まさか。これが酷いことなら、最初に聞いた時に窘めていますよ」
果汁塗れの手をツンツンされながら、「誰も止めてはいないんでしょう?」と言う結良さんの指摘は正しい。
おかしなものだ。彼等だって人型をした命であるのに、刀剣男士と同列には扱われない。
弱く、脆く、自我の薄い刀装兵が喪われたところで、刀や人が喪われるのと同等に悲しみ、惜しむ審神者がどれだけいるか。味方であっても、数に入ってはいないのだ。
すべての命はみな等しく区別なく、同じだけの重さの価値しか持ち合わせない。異なる重さ、異なる価値があるのだとすれば、それは自分が、その命に他と異なる重さの価値を与えているという事に他ならない。
「……憐れに思いますか? 彼等を」
「憐れ――は、違うと思う。培われた倫理観的には、己の享楽の為に命を消費する行為は悪いことだけど。でも、あれって結構偏った価値観でもあるよね。肉や魚を食べるのに、人殺しと同じだけの罪悪感抱く人っていないし」
“我々は最後のドードーの卵を割って朝食のスクランブルエッグを作るだろうし、キャンプファイヤーのかがり火を消さないためにイースター島最後の木を切り倒すだろう。”
“悪魔のピクニック”だったか。
その、警句とも皮肉とも取れるフレーズが妙に印象深かったのを覚えている。
罰を受けなければ何をしてもいい訳ではない。それは正論ではあったが、同時に理想論でもある。
「いずれ罰を受け、不利益を被るのだとしても、私達は欲するのならどんな事だってする。自分のしたいように歴史を書き換えもするし、従う他に無い相手を劣悪な条件下で酷使もする。……あるとしたら同族意識で、気にかけてしまうのは単なる自己満足の代償行為、かな」
誰かに救って欲しかった。
白馬の王子様を待ち望むお姫様の心境――を称するのは、おとぎ話に失礼か。
幸せになりたい。取り上げられたものを取り返して欲しい。何の責任も義務も負う事無く何もかもから守られたい。自分の手を汚す事なく復讐したい。泥を被ることなく綺麗なままでいたい。
言語化すればするほどに露呈する欲望はあまりに怠惰で醜悪で、どうしようもなく身勝手だ。
「自分の足で立ち続けるのは、辛い事でしたか」
「さあ。こっちの方が性に合うんで、納得してはいた……はず」
自分の足で立つ事を放棄する。
それは即ち、自分の選択権を他人に委ねるという事だ。
何もかも、誰かに決めて貰えばいいのは楽だろう。なにせ従っているだけなら、責任だって背負わなくて良くなる。自分で自分に言い訳が立つ。
けれど。
選択権を委ねた相手が、どれだけ大事に大事に愛して尊重して甘やかしてくれるとしても、それだけは絶対に嫌だった。
納得できない選択肢しか無いのだとしても、選ぶのは自分の意志でありたい。
そうである以上、別居中の情緒さんが同意見でないはずが無い――ん、だけど素のままの欲望とありのままの本音が秒で矛盾してくるんだもんなぁ。論理破綻すな。
「結良さんは、辛かった時ってあったりする?」
「そりゃありますとも。長く生きていれば、それなりに色々とありますから」
おっとりと眉を下げた結良さんが「ガダルカナル作戦はご存知ですか?」と問うのにはてなと記憶を漁る。
何だっけ。審神者になってから勉強がてら読んだ戦史にあった気はする。確かあれは……
「――太平洋戦争における、陸戦のターニングポイント……?」
「ああ、そんな評価になってるんですか。あれに僕、参加してましてねえ」
そういや結良さん、あの時代の出身だっけ。
「陸軍と海軍の共同作戦だったんですが、長年、対立関係にあったのがまずかったんでしょうね。意地を張り合って、形勢がどれだけ不利でも相手より先には引くまいとした。……足並みも揃わず、まあ、連携も無いに等しいものでしたが」
「負けるかも知れない現状より、自分達の面子が優先された?」
「情けない話ですがね。現場の部隊がどれだけ獅子奮迅の働きを見せても、戦略が粗雑では限界がある。まして、現場から上がってくる報告も軽視されているとなれば――」
ぶちゅり。
剥きかけだったブドウが潰れる。結良さんが口を閉ざして、自身の手を見下ろした。
ガダルカナル作戦は、攻撃するごとに壊滅状態に陥ったと本にあった。四ヶ月間の攻防戦の後半には飢餓と病が蔓延し、生きて帰れたのは投入された将兵のおよそ三分の一程度。
私が知っているのは本で読んだ情報で、経験しているのも、遡行軍との戦や刀剣男士の鎮圧ばかりだ。
戦場は違っても、命を賭けた殺し合いには変わりない。
共通する部分はあって、それでもきっと人間同士の戦争を未体験の私には、想像もできない地獄がそこにはあった。
「……さんは、審神者が戦場に出る事をどう思っていますか?」
「生き残る為の必須条件」
審神者が戦場に出るのは愚かな事、という言説があるのは知っている。
箒衆結成以降は聞こえよがしにはされなくなったが、口さがない連中は頭がおかしい、あそこの刀は気の毒だ、と後ろ指さしてきていたし、そうでなくとも大抵は静かに距離を置いた。
否定はしない。戦場は危険で、恐い場所だ。
刀剣男士と違い、審神者の怪我は一朝一夕には治らない。
死ぬ可能性が高いのは言うまでも無いし、わざわざ本陣にまで赴かなくたって、安全な本丸からでも指揮は取れる。前線まで出るとなれば、自殺志願者の同義語だ。
刀剣男士が全滅しようと審神者さえ無事なら再起が図れるが、審神者が死ぬという事は、戦闘可能な本丸が一つ減る事を意味する。全体として見た時に、戦力がいち本丸分減ってしまうのだ。
「肉体的にだけでなく精神面まで含めれば、審神者は刀装兵にも劣るだろうね。戦場からは距離を置いていた方が、よっぽど長持ちするんだろうな、っていうのは分かってるけど」
戦場へ審神者が出ないのは、"精神を健全に保つ"という点において大正解だ。
距離は負担を緩和する。
人間性の否定は、戦場から遠ければ遠いほど容易になる。
その死に様も断末魔も、知らないままでいるに越したことはない。あとは"自分は正しい事をしている"と心の底から信じ込めているなら完璧だ。正義は暴力を正当化し、誇りに転化してくれる。
叩き殺した蚊を悼みなどしないように、踏み潰した蟻の数などいちいち数えはしないように。本丸からの指揮に徹していれば、殺した遡行軍はただの数字で、刀剣男士を強くしてくれる経験値だと思えるようになるだろう。
「でも、それじゃあ生き残れない。恐怖は思考を麻痺させる。身体は震えて硬直して、動く事すらままならなくなる。自分を殺す脅威の前で、役立たずに成り下がる。――生き残り続けたいなら、慣れておかなきゃ駄目でしょ?」
「勿論ですとも。……現場を知らず、知ろうともしない指揮官は、特に劣勢下にあってあまりに無価値ですからね……」
穏やかに凪いだ結良さんの言葉に、カラス達の何人かがそれな、と深く同意して頷く。
無価値なんて言葉で足りるかこっちが空きっ腹抱えて地べたで腐った戦友と熱に魘されて死んでってんのにあの腰抜けの恥さらしどもはよ、と何人かはブチギレながら恨み言を連ね出した。そっかー。
「こちらの世での戦にあって、審神者が危険に晒される状況は投了寸前の極限下だ。本当は、そういう状況に陥る事が無いのが一番良いんでしょうけどね」
「それはそうだけど、こういうのって言ってどうなる話でもないしなぁ……」
それでどうにかなるのなら、私はきっと、ここにいない。
ひとでなしの自分なんて知らないまま、無価値に生きて、無意味に死んでいっただろう。
……いやでも、それなりに意味は発生してたのか? そういうの、心や繋がりに由来するものだし。情緒さん別居中の現状だと、"どうせ消えるモノだしこの世の万物は全部無意味で無価値"に収束するんだよな……。
「僕のような人間にとっては有難い事ですけどねえ。殺し合いが身近な場所でないと、窒息してしまいそうだ」
「え、意外。結良さん何処でだって上手くやってけそうなのに」
「上手くやれるかどうかと、呼吸しやすいかどうかは違うものですよ」
「あー……」
それは確かに、分からなくもないが。
「結良さん、ひょっとして割と難儀な人?」
「はははは」
わぁ。戦場を日常にした結果なんだろうけど、平和な社会だと生き辛そう。
過去出身審神者の戦後補償問題抜きにしてもこれ、まっとうに社会復帰できないやつでは?
カラスにガジガジ指を噛まれながら、「おかしなものですよねぇ」と結良さんは困ったように笑った。
「戦のやり方は審神者の裁量範囲内です。生きていくなら本丸だけで事足りる。なのに僕らは本丸の外に居場所を欲しがる。価値観を共有できる理解者を、探し求めずにはいられない」
覚えのある心理だった。
きっと世の中には、本丸だけで満ち足りていられる審神者だっているのだろう。ひょっとすれば、そういう審神者の方が多数派なのかも知れない。
これは心の問題だ。感じ方の相違。欠けている今の私にはたぶん、理屈としてしか解せてはいない。
それでも不思議と、そういう審神者とは分かり合えそうにないなと思った。
「遡行軍も、一緒かな」
「おそらくは。……彼等にとっては、改変したい歴史こそが取り戻したい居場所なんでしょう」
「その為なら何もかもなげうっていい、と思えるくらい? ――愚問か」
何があろうと時間は流れ続けるものだ。
停滞し続けるにしろ現状維持の努力は必要で、それができなければ強制的に、前へ、前へと引きずられていく。
過去は遠のく一方で、だからどれだけ後ろ髪を引かれても、しぶしぶ未来を受け入れる。
それがやり直せるとしたら。一度は失われたものを、取り戻す機会が与えられたとしたら?
答えがこの戦争だ。審神者である限り、誘惑はいつだって共にある。
時間遡行の技術、つくづく人の手には余るなー……。
「……結良さんにとって、箒衆は執着するに足る居場所?」
「さん。君、育ちがいいでしょう」
「? や、特に実家が裕福だったりはしないけど」
首を傾げる私にはたはた手を振って、「ああ、いえ。そういう話ではなく」と目を細める。
「人間性の話ですよ。まっとうに愛されて育ってきたのだろうな、と」
それは――確かに、そうだ。
楽しいことばかりだった訳じゃない。
嫌なことも苦しいことも辛いことも色々あった。
それら全部ひっくるめても、審神者になる前の日々は幸福だったと言い切れる。
私は恵まれた人間だった。あの日々を取り戻す為なら、人殺しにだってなれてしまったくらいには。
「居場所とは、人と人との繋がりだ。……理解者を求める一方で、人は、自分に欠けたものに惹かれもする」
それはまるで、初恋を打ち明ける少年のように。
気恥ずかしさを滲ませた顔で、眼差しで、結良さんは囁くように告白する。
「好きですよ、箒衆。地獄を知った後の君を、好ましく思うのと同等に」
「含みが多くてなんかヤダ」
情緒さん別居中でも感じるじっとり加減。特性:しめりけか?
ノーセンキューを申し立てる私に、結良さんが機嫌よく「ふふふ」と笑う。
「失うものが減るほどに、残ったものへの執着は重くなる。心の戻った君にとっても、箒衆が生きるに足る居場所となる事を願っていますよ」
「不吉な宣告と100%の私利私欲を直球でねじ込んでくるじゃん……」
ちゃんと心が繋がっていれば、受け取り方も変わるのだろうか。
考えてみるも今の私に、それは分かりそうにも無かった。
■ ■ ■
「一部の刀が、護衛中の状態を自覚できるようになってきた」
のいない本丸は、外界からは取り残されて春爛漫と平穏である。
遡行軍との戦の為の前線基地といえど、取り仕切る審神者不在となれば血の臭いも、戦場の気配も夢のようにほど遠い。
日差しは柔らか、風は優しく、花は艶やかに繚乱と。姦しく届く見習いと長谷部の口論も、慣れてしまえば環境音に成り下がる。極楽とはかの如く――カラス達さえいなければ、そんな錯覚を抱けたかも知れなかった。
「に呪っている実感は無くても、解呪を試している影響だろうね。当面はこのままだろうし、まだ少数だから自覚した面々には緘口令を敷いておいたよ」
一定距離内に踏み入った刀剣男士の自我を眠らせ、それに違和感を抱かせない。
の呪いはそういうモノだ。彼女と縁のある――特に、己の刀に強く働く思考汚染。
「術中にある間が快いだけに、抜け出すのが相当辛いらしいですよ」淡い満足が滲む、それでいてどうしたものかと悩ましげな結良の呟きは示唆的だった。「人柄が出ますねえ……」
呪いは心に端を発する。現状を正しく把握している者は小夜含め、刀剣男士との対話への拒絶が根幹にあると睨んでいる。
しかし、今のは心の大半が欠落した状態だ。根幹の感情をどうにかしようにも外部からの働きかけに対する反応は薄く、本人ですら、"何故自分がそうしているのか"を分かっていない。
刀と人。種は違えども近しいものであったから、小夜は同胞として受け入れられて、呪いの影響から逃れ得た。そうでなければ己も、根拠の無い安堵の中に漠然とした不安を感じながら日々を過ごしていただろう。考えるだけでぞっとした。
「外傷の回復は順調に。呪いの中毒症状は、今のところ発熱だけで安定してる。……精神面がどうなってるかは分からない。こんのすけ曰く、早ければあと二ヶ月で千切れた魂が完全に癒合するらしいけど」
そうすれば、切っ掛けひとつで欠けた感情も自然に戻ると聞いている――それが良い事であるかどうかは別として。
腕が使えない以外、傍目にはいつもより気楽な様子のを思い返して小夜はゆるく目を伏せた。
見下ろす縁側は綺麗なものだ。庭まで散らばっていた肉片や血の痕は拭い去られ、代わりとばかり流れるままの黒髪が、木目の上へ野放図に広がっている。
春の日差しを受けて艶々と光を弾く濡れ羽色は、上質の絹を連想させた。
「前に話した時間経過のズレについては、本丸さんはだんまりを貫いてる。これはどうにもならないかな。本丸外での業務に支障が出てるのは、拝領屋敷を拠点にして人員配置を調整し直す予定」
刀剣男士に人間のような成長/老化にあたる代謝は発生しないが、風雨に晒されていれば砂埃で汚れていくし、髪や肌は傷んでくる。
本丸内の時間がゆっくりになっている事を加味したとて、もっと薄汚れていていいはずだった。だというのに、大の字で寝転がった次郎太刀は身綺麗なままである。むしろ以前より整ってすらいた。
「連絡はいつでも取れるようにしておくけど、時間がズレてるぶん対応が遅れるからそこは頭に入れておいて」
誰が世話を焼いているのかは知らないが――おそらく複数名いる――普段、次郎太刀が自分でやるより手間をかけているのだろう。
綺麗な、と自称するだけあって見目に気を使ってはいるものの、細やかさには欠ける男だ。
そうして普段より手間をかけられている為か。隻腕で、あちこちに包帯を巻いた痛々しい有様にも関わらず、酒甕と一緒に縁側へ寝転がる姿が長閑な春の庭にしっくりと馴染む。
「例の件は近々片が付く予定らしい。こんのすけから立会人を出すかの確認が――」
ふ、と兆した感情に口を閉ざす。
短い沈黙の後、小夜は爪先で次郎太刀の脇腹を小突いた。
「次郎。ちゃんと聞いて」
「聞いてる聞いてる~」
ごろりと寝転がったまま、次郎太刀がひらひらと片手を振る。
適当感溢れる返しに、小夜は屈み込んでその眉間をぐりぐりと押した。
「ぉああ」
「体力温存に努めるのは結構だけど、せめて目くらいは開けててよ」
どれだけ平然として見えるように振舞おうと、次郎太刀は重傷だ。
刀剣男士の傷は、手入れされない限り直らない。しかし審神者の資質さえあれば、主で無くとも手入れは可能なのである。
今の平穏は嵐の前の静けさに過ぎない。見習いへの警戒があるにしろ、本来であれば手入れを受け、万全の状態で最悪に備えておいてもいいはずだった。
そうしていないのは、直す訳にはいかないと次郎太刀が譲らないからだ。
「あなたは相性が悪いんだから、に付けた紋、いい加減外すべきなんじゃないかな」
に流れ込み/注がれ続けている呪いは、縁を伝って波及する。
箒衆はその典型だ。呪いが病の形で災いを為している。死人が出ていないのは、生者ではあっても彼等がの群れ――箒衆に属しているからである。
人間とは変化する生き物だ。呪いとの親和性が高い者、群れの一員としての自負が強い者ほど変質/適合は容易に終わる。
けれど刀剣男士は違う。彼等の本性は器物、それも鋼だ。人間と同じようにはいかない。
「やぁーだよ。アタシが手を出しにくくなっちゃう」
寛永に行っている時に次郎太刀が付与した紋は、への強い干渉を可能とするが、そのぶん伝播する呪いを濃いものともする。
御神刀は呪いに対する抵抗力が極めて高い。裏を返せば、それだけ呪いに変質/適合し難いという事だ。
「任せておくのが僕らでは、不満?」
「小夜の事は頼りにしてるよ。でもねえ、どうしたって手が出せない時はあるじゃないか。がちょっかいかけられた時みたいにさ」
「それは……」
手痛い指摘に、小夜は唇を噛む。
死霊達は群体だ。を長として成りつつある"八咫烏"という神性、その一端。
古く、神代からこの国に根差す御霊信仰――祖霊信仰を根源とする八咫烏は、けれど神使でもあるが為に己が主神への従属を本分とする。
付喪神として神の末席に座していようと、小夜は分霊で、何より群れの一員だった。
群れに属している以上、群れの意向に反する行いは許されない。群れの一員に過ぎない者が、主神とその奥方へ諫言するなど論外である。
「アタシは肝心な時に手が届くなら、誰でもいいと思ってる。アンタ達でも、それこそポッと出の、知らない誰かだってね」
「……次郎がそうしているのは、保険ってこと」
呪いは弱い部分から蝕み苛む。
次郎太刀は重傷だ。傷の痛みだってある。
群れの同胞と認められるほど相性のいい小夜には分からないが、相当辛いはずだった。
「生憎そこまで謙虚じゃないよ。それはアタシでありたいし、譲ってやろうなんて気はさらさら無いさ」
持ち上げられた瞼の下から、力強い光を宿した双眸が露わになる。
確固たる自負と揺るがぬ願いに裏打ちされて、挑むように小夜を見据える眼差しもその声も、弱々しさからはほど遠い。
「アンタ達と競り合うからには、死に近いところにいた方が動きやすい。――何より、これで音を上げるようじゃあの隣に立ってる資格は無い。だろ?」
にっと不敵に笑う顔に、チカチカと光が弾けて瞬く。
やせ我慢のはずだ。なのにその笑顔は、ひどく頼もしくてきらきらしい。
残影が、掠めるように眼裏で閃く。折れ、砕け、どれだけ形を喪おうと終わる事ができないまま、恨みを憎しみを呪いを引き摺り続けてぐちゃぐちゃに入り混じっていた刀剣男士達のなれ果てに、微かに焼き付いていた未練の欠片。
“小夜左文字”になる前のいつかに、薬研も同じ顔をして笑っていたと残滓が囁く。
刹那の泡沫に鮮やかな昔日の面影も、同じ顔で笑うこの大太刀も。
本当に、同じ刀剣男士とは思えないほど綺麗で、眩くて、誇り高くて――。
「やあーっぱ攫ってこっかなーって思ってたんだけどね~」
「次郎」
湧き上がる仄暗い衝動へ盛大に冷や水を浴びせられ、小夜はジト目で次郎の髪を引っ張った。
「やんないよぉ。和泉守に諦めんなってケツ叩かれちゃったし、監視もキッツイからさあ」
当然である。小夜はむっつりと唇をへの字に曲げた。
次郎太刀が望むならきっと、はそれを良しとする。まあいいか、と叶えてしまう。
分かっているからカラス達も、目を離す訳にはいかないのだ。
(刀として、戦士として使われるだけで満足していればいいのに)
ただ"刀剣男士"として在るのなら、主の隣にこだわる必要は何処にも無い。
もっとも、小夜とて言えた口では無いのだが。欲する立ち位置が同じだったら、隙を見て陥れていたところである。溜息をついた。
「それで国広さんにも塩を送るなんて、結構な自信だね。薬研の事だってあるのに」
「いやぁ~そっちは物の弾みっていうか場の勢いっていうかあ」
「は?」
皮肉のつもりが予想外の返しをされて、小夜は目を丸くした。
帰ったばかりの頃に起きた、次郎太刀と山姥切国広の大喧嘩を本丸内で知らない者など誰もいまい。
表向き、過剰な私的制裁への牽制と失態の見せしめを兼ねているにしても、随分派手にやったなとは思っていた。思っていたが、なにせ相手が相手である。
だから特に追及もしなかったのだ。私情であえて加減を見誤っても、私情で多少やり返してもおかしくはないと。
だと言うのに。
「待って。あの大喧嘩、まさか、考えがあっての事じゃなくて……?」
「もう済んだ話だよぉ小夜。そーんな細かいことは気にしない、気にしなーい!」
「馬鹿すぎる……!」
悲鳴染みた小夜の叫びに同意して、庭先でカラスがアホーと鳴いた。
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