ガリばりゴリばきギョリぼりベキ。
「差し入れた俺が言うのも何だけれど、骨まで食べてしまって大丈夫なのか」
「いいのっ。食べなきゃやってられないわ!」
山城国演練場、職員以外立ち入り禁止の閑散とした休憩所にて。
審神者によくある白衣に袴、面布を付けた青年の問いに、フライドチキンを骨ごと噛み砕きながら女が吠える。
黒いスーツに包まれた肢体はすらりとしなやか、大きくつぶらな瞳に可憐な顔立ち、鎖骨の位置で二つ結びにされた栗色の髪はふわふわといかにも柔らかそうで、ぱっと見には愛玩犬めいた可愛らしい女だ。
そんな見目とは裏腹のワイルドさでフライドチキンをばりばりゴリゴリ噛み砕きながら、キャンキャンと女は怒りをぶちまける。
「毎日毎日つまらないお仕事ばっかり! 皆ばっかりずるいわ! ちゃんのお見舞い、私だって行きたいのに!」
「もう行ったと聞いているが。本来の送迎担当者を脅して」
「脅したりなんてしてないわ。ちょっとお願いしただけだもの」
指摘に女は、ツンと唇を尖らせた。
しかし、すぐにしゅんと眉を落として俯く。
「……ちゃん、ずうっとぼんやりしてたのよ。何度も呼びかけたけど、反応があったのは一回だけで……順調に回復してきてるって聞いてるけど、実際に会ってみないと分からない事ってあるじゃない? 心配だわ……」
「なら、もう少し慎重に行動すべきだな」
両手でフライドチキンを持ったまま悄然としおれる女に、青年はため息をついた。
「"鈴木"の名はそれだけ重い。情に厚いのは君の美徳だけれど、無理を通せばしっぺ返しはあるものだ。何より、彼女は自分の為に君が罰を受けて喜ぶ人だったかな?」
基本的に政府職員は名札を付けておらず、面布をしている者が大半だ。
ヒトならざる者、妖達とも触れ合う機会の多い政府職員にとって、それらは真っ先に叩き込まれる基本的な自衛策である。当然、政府職員が名乗るのも大抵において審神者同様の偽名であるのだが、役割の特殊性から特別な偽名を割り振られている職員も存在していた。
鈴木。それは時の政府に所属する術者――中でも特に、荒事向きの術者に与えられる偽名の一つである。
もっぱら"鈴"で通っている女は、無言で恨めしげな眼差しを投げかけた。"ナガヨシ"を名乗っている青年は肩を竦める。
「この仕事が片付いたら大手を振って会いに行けるさ。そうだな、その時は警備局長も連れて行ってやってくれ。見舞いを断られ続けているらしいから」
「いーや。あのひと、ちゃんにお仕事の相談したいばっかりじゃない」
けんもほろろに断って、鈴は眉間にシワを寄せて中空を睨む。
「スパイは捕まえたんだから、もうお仕事終了でいいんじゃないかしら……」
「件の呪香が想定以上に広まってしまっている。残念だけど、年明けまではかかるんじゃないかな」
刀剣男士が素直になるおまじないアイテム。
そんな触れ込みで各国に流通している問題の呪具は、そもそもは時の政府所属の術者が、煙草の上位互換版として開発した代物であった事が判明している。
煙草の呪具としての基本性質は、術者周囲のものを煙に巻くという作用だ。
この作用を使って術者は敵地で簡易な結界を作ったり、周囲の思考を攪乱したりするのだが、この性質が今回の一件では悪く働いた。
強化された呪具が、周囲にいる者の表層意識を煙に巻く――理性を曇らせ、その副次効果として、普段表に出していない思考が出てくる……普段抑圧している感情を露呈させる効果をもたらしたのである。
開発者曰く、対遡行軍で使い物になるようにしたら刀剣男士にも強く作用するようになったのだそうな。
「錦織のひとたち、もっと反省していいと思うの」
更なる改良のために一門の術者内で流通させた試作品に、遡行軍のスパイが使えると目を付け、離間計の一環として市場へと流した。
一連の流れだけ見れば、開発した政府の術者は被害者だ。
しかし、件の開発者は大事になっているのを知りながら、身内で結託して事態の隠蔽を図っていたのだ。更には開き直って「あの程度の呪具でおかしくなるのは審神者の不始末」とまで言い出す始末。
件の呪香が上位互換の強化版とはいっても、あくまで煙草に比べての事。
性質上、呪具の効果は無風の場所でもない限り長続きせず、大量に吸ったとしても煙の範囲外へ逃れてしまえば三十分程度で綺麗に抜ける。問題になっている副次効果の強さも、籠める霊力量次第。
呪具は、術者の力量が如実に反映されるのだ。個々の霊力量や資質、練度如何に関わらず、安定して“刀剣男士”の励起・顕現・維持ができるよう改良され続けてきたシステム“刀剣”とは訳が違う。
そうした呪具の性質を踏まえた上で、そもそも審神者の職にありながら、怪しげなおまじないグッズに手を出す危機管理のできなさは如何なものか……という言い分には一理ある。あるが、尻拭いに奔走し、ついには担当外の山城国まで足を運ぶことになった身としてはふざけんなこの野郎、としか言いようが無かった。
「全然悪びれてないの、本当に腹が立つったら! あのひとたち、ちゃんのところに行かせた見習いだって男なのよ? 補佐役も兼ねてる人選なのに信じられないわ。デリカシーに欠けてて本当に最低!」
「例の見習い、錦織の出だったのか」
「そうなのよね。ちゃんの迷惑になってないといいけど……」
ばきばき、ぐちゃぐちゃ、べきべき、ぶちゅ。
憂いたっぷりに目を伏せる鈴の手元で、さながらストロー袋でも弄ぶように、フライドチキンがねじり潰されていく。
己の指より太い骨を肉ごと丹念に潰していく鈴を「こら、行儀が悪い」とたしなめて、ナガヨシは思案気に両手を軽く揉み合わせる。
「心配いらないんじゃないかな。最終的に許可を出したのは葦名政務官だと聞いている。あの御仁が今の状況で、問題児の派遣を許すとも思えない」
「ならいいんだけど」
術者というのは基本的に、閉鎖的な秘密主義者だ。
この戦争に勝利する為、流派や信仰、主義主張の垣根を越えての協力が求められていようと一朝一夕にいくはずもないし、手の内をすべてさらけ出すなど論外である。
錦織は安倍晴明の流れを汲む陰陽道の旧家。
落ち目の分家筋といえど、公にされている家名が一門の護りとして機能するほどに、積み上げられた神秘は重い。
軍部、それも一般出の葦名が、果たして何処までその危うさを分かっていたのか。
懸念と共に、鈴はちぎったフライドチキンのなれ果てを口の中へと押し込んだ。
■ ■ ■
生まれたからにはいつか死ぬし、形あるものはいつか壊れる。
それは万物の摂理であるので、どれだけ足掻いて遠ざけたところで、いつかは必ずやって来る。
怖れることは何も無い。痛みも苦しみも悲しみも怒りも、有るが為に生まれるものだ。
正しく死んで/完全に壊れたのならば、何ひとつとして生まれはしない。あらゆる喜びと同じように、あらゆる苦しみが無縁となる。
何も生まず、何も育まず、何の影響も及ぼさない。全き死、正しい終わりとはそういうものだ。
裏を返せば何かを生み、育み、影響を及ぼしているのならそれは、生きていると言える訳で。
ゆらゆら、ぶらぶら。
揺れている、揺れている。首を吊られて揺れている。
人間は、遠く地を離れて生きていけるようにはできていない。
どれだけ天高く吊り上げようと、いずれは形を損なって、崩れた肉はあまさず地へと降り注ぐ。獣なり虫なり微生物なり、別の命の滋養になって、ついには跡形も残らない。
形が損なわれないのは保たれているからだ。首を掴んで締め上げてくる無数の手は、へその緒であり支えでもある。壊れて欠けた部分を補い繕い作り直して、天を生きる場所とする、新たな形にする為の。
とぷとぷ、とぷとぷ。
ごうごう、ごうごう。
注がれる呪いは新たな血、注がれる祈りは新たな肉。
どちらにせよ、それらは生かそうとする願いで、逃すまいとする執着だ。私の意志とは関係ない――けれどそれらを容れたのは私の心で、ひいては私の行動である。
はい要するに自業自得。いやこんななるとか誰が想像しますよ。そうはならんやろ案件なんだわ。
ゆらゆら、ぶらぶら――びちゃ、
水滴が落ちる。
血と膿と、腐ってグズグズに融けた肉の入り混じった液体が。
後を追って道連れになった蛆虫達が、ぼとり、ぼとりと落ちていく。
無数の手に締め上げられ/支えられる、首の向こう側から。
布に隠れて見えない、だらりと垂れた両腕から。
どれだけ圧迫して留めようと、どれだけ注ぎ入れようと、生きようとする意志が無ければどうにもならない。
耳元で、ひそりと囁く声が言う。折り重なった無数の声が乞うてくる。
誕生を、産声を、生まれて、どうかどうかどうかどうか――。
切迫流産。
瞼を上げた。途端に堰を切って、階下のどんちゃん騒ぎが響いてくる。
大窓から差し込む街灯りに照らされて、馴染みになった暗がりの中、血走って見開かれた目玉達と視線が合う。
蹴り転がされて跳ね回る黒いボールを脇目に、先程まで視ていたものと最後の閃きを咀嚼して。
「…………なるほどぉ?」
砕け壊れる通り越してオーバーキルされてんじゃん。
根を下って御方様の膝元でまったりあの世ライフの予定でいたんだけどなあ。これ消滅コースでは? 来世は虫さんにもなれねぇやつでは?
こわ……スサノヲ様どこまで勘づいてんだろコレ……輪廻にさよならバイバイするの、御仏感性だと「イイネ!」案件だから見逃されてるってことでいい……? この有様にブチギレからの地獄へボッシュート千切り刑とかされてないから、好きにせいって解釈で宜しい……?
情緒さん別居中でもうっすら兆すフレッシュな恐怖。胸が熱くなりますね。こわわ。
「おや、ようやっとお目覚めか」
頭の方から声がした。
ごろ寝スタイルのままで頭を反らしてみれば、そこにいたのはケモみが強いタイプのカラス天狗(ぽいもの)。
跳ね飛んできた黒いボールをキャッチして、小首を傾げてこちらを見下ろすその頭に羽根が生えて見えるのは、たぶん刀剣男士の姿で見えてた時の名残りだろう。なんでこいつだけ見え方違ってるんですかね。
「こんばんは、雛よ。招き入れたがこの兄とはいえ、初対面の男に寝姿を晒すものではないぞ」
「ご忠告どーも、何処のか知らん小烏丸。自称するなら兄じゃなくて叔父でしょ」
身内自称してくる個体も初めてだなー。マジで何処のだ。
しかし八咫烏の誼があるにしろ、私の群れでないのに兄を名乗るの厚かましいが過ぎるのでは?
薄く微笑み「では、そのように」と首肯した小烏丸に、カラス達がいい加減ボールを返せと抗議する。
「返せぬよ。人の首で毬遊びは趣味が悪い……毬が欲しいのであれば、後日、代わりを持参しよう」
カラス達がいきり立ち、几帳を蹴倒して文字の影法師が踊り込んだ。
片や私を抱え上げて離脱姿勢、片や臨戦態勢で鯉口に手をかける姿に目を瞬く。
おお。刀剣男士、自我が乙ってても殺意に反応するのかぁ。RPGの仲間的に後ろから付いてくるだけの、コマンド入力しないと動かないタイプのアレだとばかり思ってた。
に、してもなぁ。
「遊ばせてあげても良くない? どうせ引き取りにくるまでの間だけなんだし」
通常、審神者や政府職員が死んだ場合、遺族の元へ送り返されて弔われる。
問題になるのは引き取り手の無い死者だ。戦争には金がかかる。生前からの蓄財が残っていたなら、時の政府への接収ついでにそこから差し引いて荼毘に付される。しかし、それすら雀の涙か無いに等しいとなれば?
妖達にとって、人の肉は価値がある。それが死肉であってもだ。
金をかけずに死体を処理できるのみならず、戦争に貢献している妖達への報酬にもなって一石二鳥という訳だ。
本丸が貧弱で、審神者としての戦績も振るわなかった――要するに、政府の金で荼毘に付すには戦争への貢献度が低すぎる手合い。政府職員とて、引き取り手も蓄財も無い者は対象となる。
首だけは流石に弔う為に回収しに来るのだが、それだって数日遅れがザラである。
ボロ雑巾にしたって誰も何も言わないし、政府は首がどう扱われたかなんて気にしない。遊んだって構わないと思うのだが。
「……いま一度言わねばならぬか。人の首で毬遊びは趣味が悪い。ゆえに、返せぬ」
「お行儀のいいこと言うねー。その形になる時に削られてない?」
「かも知れぬな。我は刀。器物ゆえ」
ほーん。まあ道具は使い手の都合に合わせて仕立てるもんか。今更だったな。
首を渡してしまうのは簡単だ。皆も殺気立ってはいるが、別に特別なこだわりがある訳でも無い。単に、楽しく遊んでいたのを諫められて気分を害しているだけだ。引きずっても数日すれば忘れる類の怒りだし、なんなら別の首を妖達に融通してもらえば、すぐに機嫌を直すだろう。
「魂の去った器はただの死肉に過ぎない。弔いは生者の為のもので、野辺に捨て置くのも盛大な葬儀を上げるのも、死者にとっては同じ事だ」
個人的にはどうでもいい。
でも、楽しい気分に水を差されて怒ってるの私の群れなんだよなぁ。
「食べたり燃やしたりはいいけどボールにして遊ぶのは駄目。それって人間、しかも現代……近代になるのかな? そこらへんの倫理道徳を前提にした感情論じゃん。そもそも、仮初だろうと獣の形を得て有るものに、なんで人の理屈が通ると思うわけ?」
「ほほ。雛の身であろうと、やはり女子よな。口がよう回る」
わあ、よっゆう~。
呪いの影響は免れてても、夜間で室内、間合いどうこう以前に私の巣のど真ん中。
これでお腰の太刀に触れるそぶりも見せないのだから恐れ入る。私がはちゃめちゃ舐められてる可能性もあるっちゃある。
「得た形がどうあれ、心まで獣ではあるまい。群れは長に従うもの。おまえは人であるのだから、人の理にて治めるが道理であろう」
「人の理ねえ」
時代とお住まいの社会階層によって定義が変わる曖昧ふわふわワード出してくるじゃんね。だる。
そういや、似たようなテーマでミケさんとも話したなぁ。善人ゴッコしてるのが駄目で、素直になった方がいいとか何とか。
上に立つ者の振る舞いと素直になる事。どう繋がるのかと思わないでも無かったが、改めて考えてみればそう的外れでもないアドバイスだ。
芯が定まらなければ、少しの微風でたやすく揺らぐ。群れを率いていくのであれば朝令暮改は論外だ。
つまり是非善悪に囚われず、心を芯に思想と行動を一貫させろという話だろう。
自分に嘘つくのはね、うん。確かに良くなかったな。
小烏丸に抱かれた首が目に留まる。
「じゃ、たまには私も一緒に遊ぼっか」
昔の人は言いました。群れには食糧と娯楽を与えよ。
刀が人の理を持ち出すのならこちらも相応に人らしく、文明的な娯楽に勤しむとしようじゃないか。
「美しい物語の叔父さま、愛され継がれた刀の叔父さま、代わりのボールはいりませんから舞を献じてくださいな。一指し舞ってそこの首、惨めな罪人に口づけしてみせて下さったなら、それは叔父さまに差し上げましょう」
記憶を元に場に合わせ、芝居がかった口上を述べれば困惑がさざなみのように群れへ広がる。
暗がりで目玉は視線を交わし、影は顔を寄せ合って、カラス達が囁き交わす。
なんか始まったな。
珍しく乗り気でいらっしゃる。
刀装兵をいじくり回すのにも飽きてきたからでは。
そうね、招き入れてやったくらいだし。
舞だって。見たい?
それよりあいつ的にしての馬糞投げ希望。
おっじゃあ糞取ってこようぜ。馬以外ならすぐ集まる。
えー、投げるならあの首の方がいい。
糞で的当てやるなら巣の外でやりなよ。
歌って踊るのは好きだけどなあ。
いいんじゃないの、首蹴りより楽しそう。
縁もゆかりも無い女の首にキスはキツくね?
アリかナシかで言えばナシ。
見るぶんにはアリ寄りのアリ。
ディープなの頼むわ。
おう特殊性癖がいるぞ吊るせ吊るせ。
ヒソヒソくすくすケラケラざわざわ、困惑は次第に好奇心へ塗り替わる。
「その言葉、よもや二言はあるまい?」
「命にかけて、この群れにかけて、我が神にかけて。違わずその首を差し上げましょう、ただ一指し、舞を献じて首へ口づけてくれさえすれば」
踊ってはなりませぬ、叔父さま。
くすくす笑っていた群れの中から、一人が進み出て歌う。
踊ってはなりませぬ、叔父さま。
くすくす、くすくす。
この遊びを心得たとばかり、群れの一人が楽しげに歌う。
「どうぞ構わず首をお求めになるといい。私は誓った。そうでしょう?」
今宵そのようにご機嫌とは、我等も嬉しゅう存じます。
ですがあの首が喚いているうちは、叔父さまを踊らせたくありませぬ!
ど、と笑い声が沸く。
喚けるはずも無いのでそれはそう。
小烏丸に、さぁどうする? と楽しそうな視線が集まる。
「お止めになっても咎めはしません。それは薄汚い罪人の首。搾取した財で肥え太り、積み上げた業に潰れて死んだ、そういう女なのだから」
気弱な審神者、幼い審神者を恫喝し、金のみならずレアな刀剣を巻き上げて取り入りたい人間への貢ぎ物にしていた。あれはそういう罪人だ。
自殺者とその刀剣に、呪い、祟られていた事から事態が発覚して、媚びていた相手は無論のこと、政府からも見切られた。誰からも、弔ってやろうと手を差し伸べられもしなかった。愚かで醜く弱かった女。
「そうか」
小烏丸は動じなかった。
「――それは、見捨てる理由とはならぬな」
やるんだ。元ネタ分かってないっぽいのにね。なんか妙案でもあるのかな。
殺気が収まったからだろう。私を降ろした日本号さんと臨戦態勢を解いた乱さんを促して、部屋の隅へと移動する。
慌ただしく動く影達が、見る間に部屋を片付け舞えるだけの空間を確保した。しごでき。
銀の皿へ乗せられる首を眺めていれば、傍にやってきたカラスの一人が訴える。ああ、配役が気に入らないと。
「って言ってもなあ。ヨカナーンが似合う首だったら、君らボール代わりにしてないでしょ」
妖達にとって、人の肉は価値がある。
けれど遊興街に暮らす妖は、無許可での人喰いを禁じられている。
生きて復帰できたなら、対価は金銭で。
そのままここで死んだなら、対価はその血肉とする。
政府からの支援が無くとも、箒衆が見張らなくとも、後見人の私が死んでも、社会復帰できなくとも。飢えず、凍えず最低限、暮らしていけるだけの価値が、妖から等しく認められた唯一の担保。私にできた最大限。
ここは底辺だ。華やかな妖社会の裏にある、審神者社会のセーフティラインの最下層。弱者と罪人が同じく行き着く終着点。
「あの首が妬ましい。そっかー」
楽器を出してきて音合わせまでやりだしたカラス達を尻目に、首をじいと睨んで吐かれる恨み言へと相槌をうつ。
小烏丸の周りでやんややんやと楽しく騒ぐ者達もいれば、あんなド畜生未満のクソアマ庇って聖人気取りかこれだからお育ちのいい奴はよ、と私の横や後ろで悪意たっぷりな陰口を呪文のように唱え続ける者達もいる。
舞の演目は剣舞のようだった。どうでもいい。ごっこ遊びで大事なのはなぞらえと、後はそれっぽさである。
「次は自分がサロメ選んでヨカナーンやりたい? うーん」
視座は器に縛られる。
世界の範囲を定めるものは好奇心と必要性で、価値や重さを定めるものは、好悪の念に他ならない。
私の目に映る小烏丸の姿はカラス天狗(ぽいもの)である。記憶に残る刀剣男士姿のように理解しやすい美しさは感じないが、人の器はあくまで政府が戦争の為に付け足した、後付けの端末だ。
強いもの、賢いもの、美しいものは好まれる。それはきっと弱いこと、愚かなこと、醜いことが、珍しくもなく普遍的であるからだ。稀であるから尊ばれ、希少であるから目を引かれずにはいられない。
名だたる偉人に愛された刀。多くの人に愛され、継がれてきた価値あるモノ。
いいなあって思うよね。欲しくなるよね。分かる。分かるけどなぁ。
「これ、私の群れにはやらせたくないんだよね。他のにしない?」
手拍子が鳴る。楽が奏でられる。舞が始まる。
何がいいかと代案に首を捻っていれば、ふ、と慣れ親しんだ気配を感じた。
「こんさんお帰りー」
隙間を縫って私の膝元までやってきたこんさんが、「只今戻りました」と返して怪訝そうに続ける。
「随分と盛り上がっておりますね。これはどのような趣向を?」
「ヘロデ王ごっこ」
「ヘロデ王……"サロメ"ですか。殿とはそれなりの付き合いになりますが、ああいうのが性欲の対象とは存じ上げませんで」
「いや全然違うけど」
カラス達がえっ……? みたいな顔して私を見る。誤解です。ケモ趣味は無いです。
前見えてたノーマル刀剣男士姿もほんのりショタっぽかったし、華奢な印象が強くて性的な目で見ろって言われても絶対無理。ストライクゾーン掠ってすらいねーぞ。
「そうでしょうとも。そうして、あのヨカナーンに何ら思うところも無い。――小烏丸様!」
こんさんが声を張り上げる。
舞が中断された。室内の視線が私とこんさん、小烏丸に集中する。
先程までの大盛り上がりが嘘のように、室内はしんと静まり返って今や身じろぎの音すらしない。
「どうぞお答え頂きたく。あなたがあの首、あなた様のヨカナーンを求めるのは恋ゆえにですか?」
「……ふむ。そう問われれば、答えは否しかあるまいよ」
「お聞きになりましたでしょう。この語りは成り立ちません」
「ふぅん?」
あちこちの陰に佇む無数の目が、耳が、事の成り行きを寸分とて逃さぬとばかり注視している。
いきなりとんだ風評被害ブッ込んできたと思ったらそういう事か。
小烏丸にこんさんにと、今日はどうにも遊びに邪魔が入る日のようである。
「でも、これはごっこ遊び。それを途中で止める理由にはできないかな」
内心なんて、表に出さない限り他人に分かるものでは無い。
よりそれっぽい方がいいのは間違いないが、キャストの心情は残念ながら枝葉である。
それに、小烏丸は自分から首を求めてこの遊びに乗ったのだ。中断したところで諦めて帰ってくれそうな感じでも無いし、こんさんには悪いが、その理屈ではこちらとしても承服しかねる。
「いいえ、殿。語りは半ばとなりますが、続きは諦めていただかねばなりません」
「どうして?」
「そこな首の迎えが、小烏丸様であるからでございます」
おっとぉ。
「こちらの小烏丸様へ、時の政府が回収を依頼しております。遊んでいいのは迎えが来るまでの間のみ。そうである以上、首は無条件で引き渡さねばならない。そうでしょう? 殿」
「んー……まぁ、そうだね。約束は守られるべきだ」
それが真実であるのなら、だが。
見下ろす私の視線を受けて、真っ向から見返すこんさんの視線は揺るぎない。
狐は化かすモノだ。が、こんさんは手回しの良い有能ナイスフォックスでもある。その場しのぎを後から真にしておくぐらいは普通にするからなー。はい。いっぱいお世話になりました。
「いいよ。こんさんが言うならそういう事にしとこっか」
刀剣男士を庇うとか、本音ではやりたくなかったろうしね。
途端に四方八方から上がるブーイング。はいはい黙らんと蹴散らすぞ。
「ありがとうございます、殿」
安堵を滲ませてこんさんがぺこりと頭を下げる。
しっかし珍しい事もあるもんだ。近いうちに天変地異とかあるかも知れない。
「小烏丸様、お送り致します。初めてとなれば、必要な手続きに抜けもある事でしょうから」
乱雑に投げ渡された首を、小烏丸の、人よりは鳥に近く見える手が受け止めた。
ボールとしてさんざん遊ばれていた首である。砕け崩れて歪んだ顔は、さながらゴヤ風味のピカソとでも言うべきか。耳に届くのは嘲笑だ。いい気味だ、ざまあみろと私の群れが嗤ってる。感情の乗った声。意思の乗った言葉。私の心を揺らすものは何もない。
心。心か。……無い方が楽なのは確かだけど、このままずっとは無理だなこれ。
何もかもが無価値な些末事に成り下がる。
こんさんが尖った声音で「小烏丸様」と重ねて呼ぶ。
「用件は、もうお済みでしょう」
「――……そうさな。では、雛よ。また会おう」
「ばいばーい」
また来る気なのかあの自称叔父。こっちはもう招く気ないんですけども。
首を抱えた小烏丸とこんさんの背を追って、カラス達の何人かがしれっと後へ続いていく。
嘘ついたら拳骨げんまん針千本。見届けなきゃ納得できないにしても、人数ちょっと多くありませんかね。なんか企んでない?
「ん、どしたの。中途半端で物足りない。あー……」
サロメの見せ場って言ったら、やっぱ舞の後のキスシーンだもんなぁ。
そこまで話が進んでしまえば後は締めるだけだった。なんとなく消化不良なの分かる。
「仕方ない。続きは普通に語ろっか」
場に合わせて筋書きいじっちゃったし、いい感じでつじつまを合わせねば。
アドリブぢからと語りの腕が試されますね? うなれ妹二人でレベル上げした語り聞かせテクニック(錆び付き気味)!
「舞の終わったとこからね。――"サロメは言いました。さぁ王様。お約束通り、ヨカナーンの首をわたくしに下さいな。ヘロデ王は苦い顔。まあ待てサロメ。他に素晴らしい宝はたんとある。人の首など醜悪だ、お前が手に入れて何とする"……」
■ ■ ■
夜を謳歌する遊興街にあろうとも、裏通りは喧騒を離れて寒々しい。
表通りと異なって、街灯りはまばらに光を投げかけるのみ。薄膜を重ねた雲に月の光は遮られ、闇が皮膚にぬとり、とへばりついてくるようだった。
粘性を帯びて滞留する冬の夜は深く、重い。
沈んで沈んで、二度と日の目を見られないのではないか、などという益体も無い妄想が、頭を離れなくなるほどに。
こういった暗がりをこそ好む妖も確かにいるはずなのに、管狐と刀剣男士の組み合わせである故か、それとも今宵の昏さの為か。
一匹と一振りの他に、通りすがる者は影ひとつ、足音ひとつとて存在しない。
「……小烏丸様におかれましては、此度の戯れ、どのような仕儀にございましょうか」
口火を切ったのはこんのすけからだった。
言葉を交わすのも不愉快、というのが本心であったが、真意は質しておかねばらなない。
例え、真意を口にはすまいと予想できていようともだ。
「はて、面妖なことを申す」
灯りに乏しい夜の道。
夜目の利く狐の身といえど、なにぶん身長差が大きい。
表情を伺い見ようにも、歩きながらの会話となれば観察するのは困難だ。
「妹――では無いか。姪を叔父が見舞うのに、特別な理由など必要あるまい?」
「ご冗談を」
「ほほ、流石はあの女狐が重用する子飼いよ。口が減らぬ」
小烏丸がころころと笑う。
年の功を感じさせる鷹揚な態度ではあったが、返す言葉は軽口と受け流すには棘がある。
こんのすけの主、かずらの刀剣男士嫌いは周知の事実だ。扱いも相応である為に彼女を嫌う政府の刀は数多いが、こと小烏丸に限って言えば事情が異なる。
「御身は斎王様の近衛が一振り。他に代わりなき身でございますれば、何卒ご自重いただきたく」
平家伝来の刀。
刀剣男士としての軸となる物語では無かろうと、それが小烏丸の一部である事に違いはない。
それ故の隔意であり警戒。鬱陶しいものだとこんのすけは心の底から思っている。
「案ぜずとも、使われどころは心得ておる」
「では、お伺い致しますが」
敵情視察であろう事は察していた。
もしもの時。の討伐を担うとすれば、それは間違いなく"現代最強の陰陽師"の呼び声高い備前のネームドとこの太刀だ。
人の世に仇為すものは斬る。こんのすけも政府に与する管狐だ、もしもの時は止む無しと覚悟している。
「語りて騙る。場に応じ、因を合わせて果と成すは殿の得意技でございます。いかな小烏丸様といえど、最後まで付き合っていれば無傷とはいきますまい」
だからこそ、腹立たしくて憎々しい。
人の世に与する者となるか、仇為す者となるか。は今がいちばん大事な時期だ。
いざという時には敵に回ると知れている、ぽっと出の叔父などハナからお呼びで無いのである。
「失礼ながら、どのような策がおありでございましたでしょうか」
小烏丸からの返答は無い。
足を止め、振り仰いでもそこにあるのは意味深な微笑みばかりだ。
「……殿が我が主と昵懇の仲であられること、ゆめお忘れになりませぬよう」
「仲の良いことだ」
目を細める小烏丸に、こんのすけは鼻を鳴らした。
「わたくしは"こんのすけ"。時の政府が定めた、審神者様方のサポート役でございます」
憑き物筋ははぐれもの。扱いを誤れば、時に主人をも食い殺す。それが管狐という化生だ。
刀剣男士同様、彼らも幾重に重ねた術で元来の在り方から都合よく歪められている。
けれど、管狐はあくまで獣。人に都合のいいよう歪めるのが、器物ほど簡単であるはずもない。
有用性を認められ、政府に席を得ているとはいえ本質的には彼らは魔。
彼の主人がかずらである事も考えれば、穿った見方も致し方無い。
「黎明期より勤めて参りました。己が職務を忘れ、刀に媚びる恥知らず共と同じにされては困ります」
だが、それはそれ。これはこれだ。
何ひとつ恥じる事は無いと、皮肉を込めて吐き捨てる。
刀剣男士に比べれば、こんのすけはよほど審神者に誠実であると自負していた。
「これはしたり。審神者の無体に目を瞑る事をさぽぉと、などと」
「おや。小烏丸様ともあろう御方が異な事を仰る」
必ずしも良好な関係を築けていた訳では無い。
昔は今ほど管狐も数がおらず、複数の本丸を掛け持ちするのは当たり前だった。
接する時間の限られた中、今より過酷な状況下にあって、こんのすけは色々な審神者達を見てきた。
善人もいれば悪人もいた。臆病な者、勇敢な者、優しい者、苛烈な者、卑怯、真面目、不器用、素直、享楽的……。まっとうな善人ほど、真面目で優しい人間であるほど、この現実に耐えられなかった。自ら死を選んだ者、壊れることで適応した者、現実に背を向けた者。本当に、色々な人間がいた。
「行い正しき聖人君子に、戦の世で人殺しなどできますまい。時の政府は審神者様方へ、護国の鬼となる事を強いたのです。このうえ人であり続ける事まで求めるのは、それこそ無体な行いかと」
現状と真摯に向き合えば向き合うほど、心は擦り切れて摩耗する。
殺し合いの道具などには分かるまい。顕現したての刀ほど、気安く愚かしい発言をする。
『戦のいろはも、戦場の何たるかも知らない人間風情が』
誰しもが矜持を胸に反論できる訳では無くて、誰しもが、怒りをバネに奮起できる訳でも無い。
頑張りすぎて動けなくなってしまった者、品定めに耐えられなくなって引き籠った者、心を壊して豹変し、刀を虐げるようになった者。己が担当し、死を見届けた審神者達。
「やれ、近すぎるのも問題よな。目が曇る」
「――」
「蛇の道は蛇。修羅道を征くなれば、修羅が易いは道理であるが」
静かであるのによく通る小烏丸の声は、嫌になるほど玲瓏と耳に快い。
正しさを確信するが故の迷いなさを芯にして、その力強さが、どうしようもなく癇に障る。
「ただ一時、己を見失ったばかりの過ちよ。傍にいる者が易きに押し流すようでは、雛のこれまでが報われまい」
「あなたに何が分かりますか」
風評でしか彼女を知らない癖に、知ったふうな口を利く。
これだから刀は嫌いだ。こんのすけは苛立ちのままに噛みついた。
「殿は頑張ってこられた。見捨てていけば楽なものを置いていけぬと拾い上げて、己は強いと虚勢を張って。……馬鹿げていると分かっていながら、しなくていい怪我をして、不安に心を削られて。それでも精一杯、ここまで戦ってきたのです。それはこのこんのすけが、一番よく存じております」
正しさだけでは救えない。
正しさだけでは生きられない。
善く生きる。それがどれだけ難しく大変であるか、恵まれた者には分かるまい。
罪を重ねずには生きていけない者もいる。の前任者であった、あの審神者のように。
……こんのすけとて分かっている。だからそのツケを、が支払う羽目になってしまった。ただ本丸の後任だったというだけで。
時を巻き戻したところで、何かできたとは思わない。あの当時、時の政府は本丸内での出来事に一切の不干渉を貫いていた。圧倒的な戦力不足を理由に、審神者のそれも、刀のそれも、どちらも等しくあらゆる不都合に目を瞑った。そんな事にかかずらっている余裕など、何処にもありはしなかった。
あの頃、こんのすけは審神者達に同情していた。憐れんでもいた。ほんの一時、瞬きの間だけであろうと審神者が苦しみを忘れられるのならばと、畜生にも劣る外道の行いを黙認していた。
けれど。その後の事を、真剣に考えてはいなかったのだ。
「地獄を生きるには甘すぎる。いっそ人の道など外れてしまった方が、殿の為になりましょう」
後始末が甘かった。
今ほどの熱意があの頃あれば、もう少し楽な道を選ばせてやれたはずなのに。
やり直せるものならやり直したい。本当に、心からそう悔いている。
「……お前にとって、雛はほんに良き友であるのだろうな」
玲瓏たる声が柔らかな響きを帯びる。
喋りすぎた。いつも以上に感情的になっている己に気付き、こんのすけは苦い顔をした。
この太刀との相性が悪いのか、どうにも負の感情を煽られてならない。
止まっていた歩みを再開すれば、背後からしんと降る声が、宥めるようにはらわたを撫でる。
「荷を下ろせば、確かに身は軽くなろう。だが――それは、必ずしも幸せな事ではあるまいよ」
こんのすけは無言で奥歯を噛み締めた。
会話が途絶え、沈黙の落ちた一人と一匹の道行きは暗い。
茫漠としていた月は完全に闇の淵へと沈み、いつしか、表通りから届く街明かりも途絶えていた。
幾度となくと通った道である。後ろの太刀がどうかは知らないが、夜目の利くこんのすけにとって、視界の暗さも足場の悪さも何ら障害とはなり得ない。
暗い、昏い夜の道。
誰一人として行きあわぬ、一人と一匹の他にはだあれもいない夜の道。
毛並みを透過する初冬の冷気は霜雫のように。
昏さを増した夜闇が、ぬちゃり、と粘性を帯びて全身へと絡みつく。
先へ投げかける視線はわだかまる黒に飲み干され、暗澹として道の輪郭も失せ消えている。
慣れた道だ。良く知った道だ。この道はここまで底無しに暗くは無いし、ここまで果てなく長くも無い。異常事態に、一人と一匹は足を止める。
「惑わされておるな」
気付くのが遅れた。失態に、こんのすけは喉奥で呻いた。
彼らを嘲笑うように、嬲るように、闇の奥から誰とも知れぬ、複数の笑い声が木霊する。
「恨みを買いましたね」
直接手を出しては来るまい。
元々の契約があるし、何より彼等の正当性をが認めている。
カラスは恨みを忘れないものだが、長の決定は絶対だ。大方、野放しにされている群れの一部が、契約に抵触しない範囲で憂さ晴らしの嫌がらせを仕掛けてきているのだろう。
「押し通りたくばご随意に」
「斬らぬよ。口先だけの道理など、何の価値もありはすまい」
予想通りの正論に、自然、口角が下を向く。
「後進に道を示すは年長者の大事な務め。主には悪いが、この者等の気が済むまで付き合ってゆくとしよう」
「……左様で」
刀と死霊の根競べ。結果は見えているが、長丁場になりそうだ。
うんざりした気分で見上げる夜空には、星のひとつぶ、月のひとかけらも伺えなかった。
日の出は遠い。
BACK / TOP / NEXT