ひらひら、ひらひら。

 桜の花びらが落ちてくる。
 淡く色付いた、彼岸桜が降りしきる。
 夜の真っ暗な空間の中。舞い落ちる花びらばかりが、発光するように鮮やかだ。

 おかえりなさい、かわいいこ。

 鈴を転がすような声がする。
 聞くだけで心の温かくなる声だった。
 女友達のようであり、妹達のようであり、母のようでもある。
 安心できて、嬉しくて、しあわせで――だから身の置きどころがない。
 こんな穢くてみっともない、ボロボロの姿でこのひとの元にいていいはずがないのに。
 花びらのように降る声が、ああ、と悲しみを帯びて震える。

 気の毒に。それではさぞかし痛いでしょう。

 ひらひらと、彼岸桜が夜闇の中を降りしきる。
 ほっそりと柔らかな手の感触が、慈しみを込めて私を撫でる。

 いま、除いてあげましょうね……。

 安堵を誘う、やさしいやさしい声が言う。
 額へ落とされた口付けに、自然、張り詰めていた緊張が緩む。弛緩する。
 全身を、激痛が襲った。

「ァ゛」




 ぶづん、




 ――桜の花びらが落ちてくる。
 はらはらと。亡者の血を吸って色付いた、彼岸桜が降りしきる。
 地の淵を臨む真っ暗な空間の中。舞い落ちる花びらばかりが、発光するように鮮やかだ。

 背の君、どうか許してあげて。

 困ったようにたしなめる、おんなのひとの声がする。
 それに応えるのは、地の底から轟く地鳴りだ。
 低く、深く。重々しくも不穏な予兆を伴って、底の底、地の奥深くが鳴動している。

 ね? 悪気は無かったのだから。
 懸命に育ててきた牙だもの、取り上げてしまっては可哀想……。

 ごうごう、ごうごう。
 肺を焼く熱気が、底から吹き上げてくる。
 真っ赤な火の粉に撫でられて、舞い落ちる桜の花びらが燃えていく。
 儚く、刹那に。瞬きの間すら保ちもせずに、燃え落ちるのは灰ばかり。

 燃える。灰になる。
 燃える。灰になる。
 燃える。灰になる。
 燃える。灰になる。
 燃える。灰になる。

 灰から変じた黒い虫が、ばらばらと火の海へ落ちていく。
 巨大な手にすっぽりと収まったまま、その行く末を、茫洋と眺める。
 凪いでいた。不安も憂いも苦しみも悲しみも憎しみも怒りも喜びも何もかもが遠く、壁を隔てたところに行ってしまったようだった。
 なるほど、と不意に理解する。ちぎれてしまったらしい。だから、ちゃんと繋がらなくなってしまった。

 大丈夫よ。継いだから、すぐに治るわ。

 影が兆す。
 巨大な手が、包み込むように下りてくる。

 本当は全部綺麗に除いて、治してあげたかったのだけど……それではいけないようだから。

 気落ちする御方様を慰めて、地響きが唸りを上げる。
 遠く、近く。深い深い、何百、何千由旬ゆじゅんも果ての底から、幾重にも重なる絶叫の不協和音を引き連れて。
 舞い散り燃える花びらが、吹き上げる熱が、灰が、蟲が、遮られて消えていく。


 かわいいこ。
 背の君の期待に沿えなくとも、私は貴方を気に入っているの。


 声が遠ざかっていく。

 視界を黒が覆い尽くす。



「 成らずとも、いつでも下っておいでなさい 」



 世界が黒く塗り潰された。


 意識が途切れる。




 ■  ■  ■



 赤。


次郎じろうさん! 大丈夫、意識ある!?」

 壁に、障子戸に、柱に、縁側に、庭先に。
 傾き始めた日差しにありありと照らし出される光景は、およそ本丸内で見るに似つかわしいとは言い難い。
 流血沙汰などさして珍しくも無い刀剣男士達ですら。否。こうした状況に慣れている和泉守いずみのかみですら、それを飲み込むには少しばかりの間を要した――辺り一面に飛び散った血の痕と、細切れになってそこかしこに散らばる肉片。元が何だったのかを示すように、次郎太刀じろうたちの利き腕は肩口から抉り取られたように失せ消えている。
 傷の状態を確認しながら次郎太刀に浦島うらしまが呼び掛け、我に返った堀川ほりかわが「何があったんですか!?」と慌てて二人に駆け寄っていく。
 ……薄暗い廊下。床板に染み付いた、黒ずんだ血の痕。疲弊し、傷を負って部屋の片隅に転がる、明日か明後日には折れるだろう仲間達。目の前の情景に重なるようにして引きずり出される記憶に、心臓が早鐘を打つ。目の前が、赤く燃え立つようだった。

(落ち着け)

 ともすれば先走りそうになる激情を、ぐっと抑えて自制する。
 抑圧は過ぎれば毒となる。――が、怒りに我を忘れたところで、事態を悪くするだけだ。
 深く呼吸して自分に言い聞かせながら、周囲を警戒する。
 敵らしき姿は影も伺えない。侵入者を知らせる半鐘だって、鳴らされてはいなかった。あったのは悲鳴だけだ。本丸じゅうに響き渡った、痛苦に満ちた薬研藤四郎やげんとうしろうの大絶叫。
 遡行軍では無い。そもそも、何をどうすればこんな手傷を、この大太刀に負わせられるというのか? じっとりと嫌な汗が背中へ滲む。正体不明の敵への警戒が膨れ上がる。

「警戒の必要は無いよ」

 水を差したのは、場違いなほどに淡泊な石切丸いしきりまるの声だった。

「しても意味が無い、と言うべきかな。……主は無事かい?」

 不穏な問いに、緊張が走る。
 血塗れの次郎太刀が、壁に身をもたせ掛けたまま億劫そうに口を開いた。

――どうだかね。なにせ、あちらさんにその気が無くてもこのザマだ」

 吐き捨てるその声音は不機嫌極まりないものであったものの、一目で重傷と分かる状態の割には力強い。

「わざわざ干渉してくるほどの気に入りだ。壊しはしないだろうけど……参ったね。できる事が無い、というのはもどかしいな……」
「……二人とも、何の話してるの?」

 次郎太刀の傷の状態を確認していた浦島が、不可解そうに眉をひそめた。
 和泉守も同感だった。意味が分からない。辛うじて理解できたのは、主に何かあったらしい事。それに、何が起きているのかを二人は把握しているらしい、という事くらいである。

「カミサマの話だよ。をご贔屓の」

 明確な怒りを孕んで肌をひりつかせる殺気に、堀川が身体を強張らせた。

「だから余計なお節介への横やりも、広い心でご寛恕かんじょ下さるんだとさ。――糞ったれ」
「そういう事を口に出すものではないよ。今は地の底に鎮まっておられるとはいえ、はるか神代から、ここはかの尊の統べる地だからね」

 おっとりと次郎太刀をたしなめて、石切丸がすい、と庭先へと視線を移す。
 飛び散った血が凄惨な痕を付け足していても、歌仙かせんが整え、心を砕いている庭は常と変わりなく美しい。

 ――ア゛ァ
 ――ガァ、グアァ

 ――ガァア

 和泉守達の注視を受けて、カラスが一斉に飛び立つ。
 いつもの風景だ。血の痕さえ除けば本丸では珍しくも無い、見慣れた日常の。
 だというのにどうしてか、その鳴き声は嘲りを帯びて耳に残った。
 石切丸が目を細める。

「告げ口をする耳は、腐るほどある」

(……分かんねぇな……)

 おそらくは相当に力のある神の関与があったのだろう、という事は理解できた。
 その神様と次郎太刀の間に、主を巡って何かしらの攻防があったらしい、というのも。
 けれど、そこまでだ。前提となる知識が足りていないのだろう。御神刀同士は通じ合っているようだったが、和泉守はどうにもピンと来ていなかった。次郎太刀の憤りも石切丸の達観も、分からないから共感できない。
 浦島と堀川も表情を見る限り、理解度で言えば和泉守と似たり寄ったりのようだった。
 顔を顰め、何か言いかけて咳き込む次郎太刀の背を浦島が擦る。床に、服に、容赦なく撒き散らされるどす黒い赤は、臓腑へまで損傷が及んでいる事を物語っていた。

国広くにひろ。鍛刀所ひとっ走りして火ィ貰って来てくれ」

 何にせよ、次郎太刀の傷をそのままにしておくのは拙い。
 鯉口を切っていた刀を鞘に納めて指示を出す。怒気にあてられている堀川も、このまま居させるのは酷だろう。

「傷口を焼いて止血する。手入れまでの応急処置だ」

 深く信を置く初期刀の変事だ。知らせれば、おそらく主は戻って来る。
 だが、それは望むまい。状況を完全に把握できてはいなくとも、その心情だけは、和泉守にもよく分かる。

「それでいいか」

 膝をつき、血の気が失せた顔を覗き込む。
 べっとりと血で汚れた口元を無事な片手の袖で雑に拭って、ふ、と次郎太刀が苦笑した。

「……そうだね。頼むよ」

 返答は、やはり予想した通りのものだった。

「分かった。すぐ持って来るね!」

 堀川が身を翻して駆けていく。
 難しい顔で沈黙していた浦島が、躊躇いがちに「あのさ」と和泉守へ提案する。

「この傷で焼くのって危なくないかな。他の傷みたくさ、包帯で圧迫しておくのじゃ駄目?」
「ここまでデカいと、圧迫だけじゃ完全には止まらねぇ。……出血も長く続くと体力削るんだよ。動くにも支障が出る。焼いちまった方がいい」
「おや。そんな手間をかけるくらいなら、お守りを使ってしまった方が早いのではないかい?」

 今。この大太刀は、何と言った?
 さらりと告げられた問題発言に、和泉守は思わず石切丸を振り返った。
 主が彼等に与えているのは極のお守りだ。刀剣男士の破壊を防ぐのみならず、万全の状態にまで回復してくれる。だから言っている事は理解できる。できるが、できない。したくない。視界の端で浦島が珍しく――本当に珍しく、嫌悪感を露わにするのが目に留まって和泉守は安堵した。
 彼等は刀剣男士だ。死を怖れはしない。だが、死を怖れない事と、死を軽く扱う事はまったく別の話である。
 二人の反応を気にしたふうもなく、石切丸が腰へ佩いた大太刀の柄へ手を添える。

「自責の念ゆえの選択なら、あまり健全とは言えないね。まとめて切ってしまおうか」
「……石切丸さん。それ、本気で言ってる?」

 呻くような浦島の問いに、不思議そうに石切丸が首を傾げる。

(冗談だろ?)

 本気で分かっていない顔をしている。和泉守は戦慄した。
 顕現した審神者は違えども、同じ刀剣男士、同じ主を戴く良き仲間のはずだった。今の主である同様の寛容と、穏やかさを併せ持った――時折、ふいに叩き折りたくなる衝動に駆られるほどまっとうな。
 それがこれだ。間違ってもあの三日月みかづきと同派の、主の顕現した刀から出て良い発言では無い。同派だけあって三日月に相通じるところのある、おっとりと柔らかな面差しをしているものだから尚更にうすら寒いものがあった。何かに憑かれでもしたのではないか? という疑念が和泉守の中で頭をもたげる。
 長い沈黙を挟んで浦島が、石切丸に微笑みかける。それは横で見ていた和泉守すら姿勢を正す、大変に力強い微笑みだった。

「うん。三日月さん交えて、後でちょーっと話し合おっかあ」
「えっ」
青江あおえさんもするよね? 参加」
「……そうだねぇ。これは主の分までじっくりと、時間をかけてやる必要がありそうだ……」

 するりと会話に混じってきた教育係の声に、石切丸が大きく肩を跳ねさせる。
 いつからいたのか。傾く夕日の夜陰に紛れるようにして、青江が庭先に佇んでいた。
 片手で顔を覆ってはいたが、垣間見える表情は分かりやすく苦虫を噛み潰したような、沈痛極まりないそれである。

「再教育の話は後で詰めるとして。離れの封印に、今のところ目立った異変は見受けられない。……外から見る限りはね。国広さんが引き続き警戒にあたっているけれど……」
「本丸さん、中の封は破られてないね?」

 石切丸を無視しての青江の報告に、次郎太刀が虚空へ問う。
 約一名を除いた全員の視線が集まる中、肯定を示す満開の山桜が何処からとなくぽとり、と落ちた。

「問題ないってさ。何にせよ、が決めなきゃアタシらも動けないからね。まだ我慢、だ」
「あぁ、分かったよ。国広さんにも共有しておこう」

 踵を返した青江を見送って、浦島が「……警戒、必要ないんだよね?」と誰にともなく呟いた。

「ここで出来ることも無さそうだし、俺、みんなに警戒の必要は無いって伝えて回ってくるよ。あっ、石切丸さん借りてっていいかな? 質問されても俺だとちゃんと答えられるか分かんないし」
「んー……いいよ、連れていきな」
「うん! よぉ~し! 石切丸さん、がんばってこー!」
「さ、さいきょういく……………………」

 気合い十分、といった様子の浦島が、固まったままの石切丸をはりきって引きずっていく。
 改めて耳をすませてみれば、本邸内の慌ただしさがここまで伝わってくる。あれだけの大絶叫だ。考えてみれば、物々しい雰囲気になるのは当然である。
 それに今の今まで思い至らなかった自身に、和泉守はひっそりと落胆した。冷静であろうと努めているのに、どうにも以前ほど上手くいかない。

「……あーあ。ほんと、ヤになるなぁ」

 ぽつり、と。

 次郎太刀が、小さな声でひとりごちる。
 返答など求めてはいない、誰かに聞かせるつもりも無かったのだろうその独り言は、己の無力に苛まれた者にしか分からない自嘲に塗れていた。

「諦めんなよ」

 励ましも、時に重荷になると知っている。
 それでも同じ苦悩を、自身への失望を、膝を屈したくなる衝動を知っているから、どうしても、言わずにはいられなかった。浦島達の去って行った方向を見たまま、次郎太刀を見ないままで和泉守は静かに告げる。

清光きよみつ達が諦めてりゃ、俺はここにいなかった」

 一人ではいられなくなってしまった。
 以前ほど、鋭くは在れなくなってしまった。

 あの時、あのまま諦めていてくれていたならと。そんなふうに、恨めしく思う気持ちも無くはない。
 和泉守兼定いずみのかみかねさだは欠陥品だ。通常の分霊よりも性能の劣った、呪われた刀。
 早合点して主に斬りかかった結果として背負った、約定破りの応報。きっと、折れるその時までこの身は呪われたままなのだろう。

 あの時、あのまま折れていた方がきっと良かった。

 それでも、諦めてはくれなかった事が嬉しい。
 手を繋いだままでいてくれた事が。救ってくれた事が、自分の生を泣くほど喜んでくれた事が、どうしようもないくらい、途方もなく嬉しかったから。
 それだけで、生きていたいと思えたから。

「だから――あんたも、諦めんな」

 返答は無い。
 続く沈黙に身を委ね、和泉守は空を見上げる。
 赤く、朱く。傾く夕日が、春で時を止めた空を薄紅に染めていた。


 ■  ■  ■






 ――哭く必要が、何処にある?






 ■  ■  ■


なく 【 哭く 】

(1)泣く。大声で泣く。
(2)人の死をひどく悲しみ、声をあげて泣く。
(3)死者を弔う儀式として泣き叫ぶ。
 [補説] 人の死を弔う涙を語源とする。


 ■  ■  ■


 相模遊郭へ来て数日。
 こんさんが来客を連れてやってきたのは、帰って早々の昏睡から目覚めた、その翌日の事だった。

「あら。あらあらあらあらあら」

 蕩けた飴か、蜂蜜を連想させる声が軽い驚きを含んで届く。
 鮮やかな緋色の爪はシャープなラインも相まって攻撃的で、けれど中指に金で描かれた稲穂が、ともすれば毒々しいばかりの印象を中和している。肉感的で色っぽい、とても綺麗な女性だった。それでいて美人特有の圧は無く、親しみやすさや頼もしさが先に立つ。
 何処か拍子抜けした様子で私の頬をつつく手を止め、ため息をつく。

「継いだと聞いていたのだけれど。いやぁね、繋がってないじゃない」
「楽ですよ、心が何にも反応しないの」
「それが言えるの今だけよぉ? くっついたら繋ぎ直してあげないといけないわねぇ」
「御方様はすぐ治るって仰ってましたし、もうくっついてるのでは」
「それはあちらの感覚でよぉ。あたくし達の感覚だと、早くても半年はかかってよ」

 上座へ戻っていった美人さん。もといかずらさんが、肩を竦めて脇息へとしなだれかかる。
 大きくスリットの入ったスカートから覗く足は、堂々と衆目へ晒しているだけあって見事な美脚だった。
 畳の上に敷かれた敷物が色鮮やかで華やかなものあるだけに、露出した肌の白がよく映える。強いだけあって目に優しいな。全部このレベルだと楽なんだけど。

「繋ぎ直す必要あります? 皆の声も見えてるモノも、心を揺らさず処理できてる方が楽なんですが」

 視覚はまだいい。
 時間は多少かかってもよく目を凝らして観察していれば、本当にここにあるものかどうかの区別はつけられる。
 問題は耳の方だ。格上の前で皆さすがに黙ったけど、他は大体舐めてかかってるからなぁ。
 本質的には群体だろうと斬られてノーダメって訳じゃないのに、どうしてちょっかいかけにいくのか。

「あらあらあら。雛鳥ちゃんの都合に合わせて繋ぎ直した方が良くってよぉ? どうせ、何かの拍子に自然と繋がってしまうのだもの。今だって、好悪の念はいくらか残っているのではなくて?」
「うーん。そうなんですが、何処まで残ってるのか自分でも明確には把握できてないんですよね。たぶん快不快とも連動してるせいだとは思うんですけど」
「何にせよ、コントロールを身体に叩き込んでおけば済む話よぉ。あなた得意分野でしょう」
「得意分野……ですか」

 身に覚えが無いな。
 首を傾げた私に、かずらさんは呆れた顔をした。

「霊・力・操・作。霊力量を調整して手入れの術式を強制中断したり、視覚の一部を結界に同調させて情報を摘まみ食いしたりと色々しているそうじゃなぁい。雛鳥ちゃんたら、意識して使っていたのではなくて?」
「便利使いはしてましたけど、あれ霊力操作だったんですか。やったらできたし、頑張れば普通に使えるスキルなのでは」
「そうねぇ。頑張れば誰にでもできるわ? センスが無いと、一生かかって習得できるかどうかだけれど」
「ああ、成程。それなら得意って言えますね」

 妖精さん達のヤクザキック指導、コミュニケーションがボディランゲージなのもあってスパルタ難易度だったからな。
 センスないと痛い目見ただけで終わってたとかあまりにも無駄が過ぎる。蹴り食らってできたアザ、しばらく消えなかったし。

「それより、いい加減座って楽になさいな。ふらついていてよ」
「じゃあ失礼して」

 敷物は毛足が長くてフカフカだった。
 鎮痛剤効果で触覚が鈍化していなければさぞかし気持ち良かっただろう。まあその場合、腕の痛みがセットでついてくるのでそれどころじゃなくなってるんだろうけど。
 そういえば、痛みってどのくらいで落ち着くんだろうなー。後で医者に聞いてみるか。

「こうして顔を合わせるのは初めてですね。改めてご挨拶した方がいいですか?」
「やぁねえ、初めてではなくってよ。……と言っても、実感は無いかしらね? あたくしも、あの場では後ろに控えていたのだもの」
「あの場」

 どこだろ。査問会こと吊し上げ集会……は違うか。
 政府の施設には結構出入りしてるけど、かずらさんが後ろに控えている必要があるレベルの場は――

――ひょっとして、御方様に初めてお招きされた時にいたりしましたか」
「いたりしたわねぇ、ひょっとしなくても」

 あれかー。どうりで覚えが無い。

「挨拶は、そうねぇ。繋ぎ直した後にしましょう。累積はあるにしても、感情は古くなるほど薄まるものぉ」
「要りますかね、それ。敬意があれば足りるのでは」
「大事よぉ? 敬意は勿論、感情もね」

 うーん意味深。でも分かんない。
 思考の方は無問題だと思ってたんだけど、ひょっとして何か欠けたかな。

「かずらさんがそう言うのなら」

 まあいいか。そんな今更確かめようも無いものの事より、答えを貰う方が大事だ。
 入院中、私はこんさんに質問をした。キリちゃん先輩を殺した人間が、その後どうなったのかと。
 けれど歴史改変の要因となりうる、という事で先輩と関係の深かった私にはそれを知る権利が与えられておらず、こんさんもまた、その情報へのアクセス権限は与えられていなかった。
 なのでこんさんは不正を承知で調べてくれていた訳なんだけど。今にしてみれば、こんさんもよくまぁこんな頼みごとを引き受けてくれたものだと思う。デメリットしかないんだよなぁ。

「それで、早速教えてもらっていいですか? あと、どうせなら他にも聞いてみたい事あるんですが」

 結局、こんさんの不正調査はうまく行っていなかったらしい。
 なので代わりにかずらさんが答えてくれるそうである。施しが手厚い。

「いいわよぉ。あたくしの答えられる範囲でなら、なぁんにでも答えてあげる。――ただし」
「ここで得た情報は誰にも漏らさない」
「そうよぉ。閻魔えんま大王様の御名の下にね。あたくしも、偽りなく答えると誓約しましょう」
「分かりました。……にしても、ほんとかずらさん手厚いですね。どうしてここまで?」
「あらあらあらあら。だあって、納得できなければ前には進めないでしょう?」

 かずらさんがコロコロと笑う。
 教えた事が政府にバレたら立場を悪くするだろうになぁ。

「遠慮なく質問なさいな。勝つにしろ負けるにしろ、戦うしかなくなるまでね」
「あー……」

 そっちの御意向で動いてる訳か。納得。
 繋ぎ直した後で苦しいのと辛いのでまた全部埋まっちゃうのは勘弁なんだけどな。最後のほうとか自我の境目ワヤワヤだったし。あのままだったらそのうち塗り潰されて、皆に同化しちゃってたろう。まあ傀儡にされたり器だけ奪われるよりかは有情。
 しっかし、となると繋ぎ直したら即折れ……じゃ足りないか。砕け壊れるくらい徹底的にやっといた方が楽だなこれは。メンタル強度どの程度か知らんけど、しょせん私だしいけるいける。

「じゃあ手始めに、先輩を殺した人間のその後についてを」
「雛鳥ちゃんのお友達を殺した半年後に、連続強姦殺人事件の犯人として無期懲役になってるわねぇ。仮釈放中に再犯。2042年9月、裁判中に病死していてよ」
「ああ、早めに殺しておくほど社会の為になるタイプ。被害人数は?」
「七人ね。うち三人が死んでいるわぁ」
「思った以上に凶悪犯。殺すと偉人には及ばなくとも、それなりに影響出そうですね」

 そりゃ時の政府もお口にチャックしますわ。
 正義は我にあり! って言えちゃうレベルの害悪度。

「私が審神者になった後で、身の回りの誰かが何かの事件に関与した、とかってあったりします?」
「そうねぇ。強いて挙げるなら、2020年1月から始まったパンデミックかしらぁ」
「誰か死にましたか」
「死んではいなくってよ。偏見や過重労働で、医療従事者は苦労が絶えなかったでしょうけれど」

 私が審神者として召集されて六年後、で、医療従事者――となると上の妹か。
 新人なりたてピッカピカの頃にぶち当たってるなこれは。あっちは負けん気が強い・クソたくましい・向上心EXなガッツの塊だから大丈夫だろうけど、下の妹なんかは意地っ張りでふてぶてしい割に結構繊細なとこあるからなぁ。
 心配し過ぎてブチ切れかましてのギャン泣き大喧嘩やってそう。

「私の身近だった人で、他に審神者か歴史修正主義者になった人はいますか」
「歴史修正主義者はいないわねぇ。審神者も、条件が合って召集されたのは雛鳥ちゃんだけよぉ」
「……そういえば、過去からの審神者の召集って特例なんでしたっけ。その条件って何なんです?」
「見つからなかった行方不明者」

 唄うような回答は、極めてシンプルだった。
 心の中で何度か繰り返して咀嚼する。さすがに今のはちょっと衝撃。

「行方不明者だから審神者として召集されたのか、審神者として召集されたから行方不明者になったのか。哲学じみてますね」

 行方不明者であるのなら過去から連れてきても、いつ、どういうふうに死のうと歴史に影響を及ぼす危険は無い。
 この時代出身の審神者と違って、現世との繋がりも無ければ気にしてくれる誰かもいない。どんな無残な死に方をしようと、何なら死体が戻らなかろうと、後で非人道的だと裁判起こされる事も無い訳だ。捨て駒には丁度いいな。

「あ、見つからなかったって死体も、で合ってます?」
「合っていてよ」
「となると、遺体の処理ってどうなってるんですか? 遺骨は親類縁者のところに帰れてるんだろうなーって思ってたんですけど」
「見つからなかったものよぉ? 帰せるはず無いじゃない。政府で弔うくらいかしらぁ」
「ふぅん」

 ――ギィイイ
 ――ガァアアァ

 何人かのカラスが、視界の外から慎ましくお邪魔してきて憤懣ふんまんを訴える。
 あんなんで誰が鎮まるか死ぬまで突き回して野辺に散骨してやらにゃ収まりつかねぇ。そっかー。

「そうすると生き残っても戦後、元の時代には帰せないですよね。そこらへんどういう予定なんですか? 手っ取り早く処分?」

 戦が終われば刀剣男士を顕現させ続ける必要も無くなる。
 手を汚すのを嫌うにしろ、刀剣男士取り上げて放り出すくらいは普通にやりそう。
 インフラ維持にも金はかかるしなー。全体の規模を縮小しつつ、残党処理と哨戒で死ぬまで使われるって辺りならまだ穏当ではあるけど。

「戦争の長期化が予想されてるから、議論されてもいないわねぇ」
「議論するにも勝ちが見えてからって事ですか」

 まあ負けたらそれどころじゃないもんな。
 肌感覚だと戦況変わってないまま推移してるっぽい上、内ゲバまでやってるんだからさもありなん。
 勝って生き残っても、余力が無ければ捨て置かれるだろう。
 誰一人取りこぼさず拾い上げるのが理想ではあるが、社会のリソースは有限だ。そのしわ寄せを受けるのは、いつの時代だって社会的弱者と相場は決まっている。
 過去出身の審神者にとっては戦争長引くほどお得なの、破綻してるなあ。

「遡行軍が付け入る隙になりますね。自己犠牲強いるならちゃんと教育しといた方がいいんじゃないですか?」

 審神者側で統率力あるのがトップにいれば、謀反ワンチャンありそう。

「もっといい解決方法があってよ」
「と言いますと」
「上に行く」

 えー……。

「便利よぉ、俗世で我を通せるだけの地位があるって。雛鳥ちゃんになら席を用意してあげてもいいけれど……ほほほほほほ。いやぁねえ、あからさまに面倒だという顔をするものではないわ?」
「いやしますよ。皆の幸せが私の幸せーなんて寝言ほざいて滅私奉公キメるほどマゾくないんで」

 出世して過去出身者の戦後保障確保するとか、皆殺しチャレンジとさして変わらんダルさ。

「あらあらあらあら。雛鳥ちゃんたら、自分の行動を顧みた方が良いのではなくって?」
「要領が悪いんですよ。身の程は弁えてたつもりだったんですけどね」

 努力すればそれなりにはできても、それなり以上になれた試しは一度も無い。
 だから適当なところで妥協しておくべきだったのに、感情に駆り立てられて、立ち止まる事ができなかったのが敗因と言えば敗因か。
 引継ぎのアレソレで判断基準バグってた感あるけど、自分の感情の直視したくない部分から目を逸らし続けてたのも悪かったなと思うなど。

「というか、過去出身の審神者って本当に生者なんです?」

 戸籍上は云々とかこの時代では本来死んでるはずだとか、そういう話を差っ引いたとしても疑わしいんだよなあ。
 じゃあ死者なのかって言われるとそこも首傾げるんだけど。死んだら残った肉は順当に腐るし。

「代謝の速度がどう考えても遅いんですよね。それでいて傷は普通に治る。――ああ、本当に生者なのかって聞くより、本当に人間のままなのかって聞いた方が適切なのか」

 生き物は、飲み食いしたモノでできている。
 ヨモツヘグイをして帰れなくなるのは、食事という行為によって身体がその異界に相応しく変容するからなのではないだろうか?
 死者は甦らない。他のどんな異界よりルールが厳格だからこそ、一口の例外も許されない。
 独自ルールを敷いて異界と現世の間をフラフラしているマヨヒガは元より、根の国よりは浅いこの地で飲み食いしたところで現世との往来に支障はない――それでも、過ごす時間が長ければ長いほど、飲み食いすればするほどに、土地に合わせて変容していく。
 元に戻れるのかは……どうだろ。浦島太郎は玉手箱が調整アイテムだったっぽいし、地底の国から地上に帰ったら蛇になってたっていう甲賀三郎なんかは、脱皮したら人間に戻ったらしいけども。
 どちらにせよ、人間でなくなっているのであれば戦後、人間社会に居場所を作ろうと考える事からして無意味だ。帰るところも無ければ行くあても無いの、つくづく詰んでる。

「それについては今のところ、政府でも分かってはいないのよねぇ」

 適当な仕事してるなぁ政府。
 まあ手段えり好みしてられるほどの余裕は無いっぽいし、緊急性のある問題でも無いならこんなもんか。斬られれば普通に死ぬのは間違いないし。

「有力なのは、魂が錯覚を起こしている――という仮説かしらぁ。ここは時間の流れが曖昧だけど、現世とのアンカーに使っているのは2200年代の時間軸なのよねぇ。でも、過去出身の雛鳥ちゃん達にとっては本来死んでいるはずの時間軸だもの。"死んでいる"と誤認しているから代謝が遅くなっていて、けれど傷を負うのは"生きている"からだから、その間は代謝の速度が元に戻る。正しくこの地に適応した結果、と言えるのではなくて?」
「かずらさんはどう思ってるんです?」
「そうねぇ……雛鳥ちゃんは、何を以て人間は"人間"と呼べるのだと思う?」
「? 人間の胎から産まれたなら人間では」

 笑い声が弾けた。
 私の返答がよほどツボだったらしい。そんなおかしな事言ったかな。

「なら、どのように変容しようと些末事ねぇ。移ろい果てたところで、"人間の胎から産まれた"という過去は、揺らぎようもないものぉ」
――

 確かにそうだ。傷はちゃんと治るし、別に代謝が遅かろうと何ら支障が出る訳でも無い。
 今後、人間社会で生きていく訳じゃないとなれば、むしろ相応しい形に適応すべきまである――ん、だけど。何だろうな、正しいはずなのに肯定できない。
 笑いの収まってきたかずらさんが、「そういえばぁ」と流し目をくれる。

「これは政府からの要請なのだけれどぉ。見習いを一人、預かる気はあって?」
「この状態で、ですか」

 見習い制度については聞き知っている。
 おもに不在本丸の引き継ぎを予定している審神者への研修制度、というのが当初の予定だったはずなのだが、何がどう転んだのか、初期から現在に至るまで、この制度への評価と言ったら不平不満悪評ばかりでちっとも良い噂を聞かない。
 だから見習いの引き取り先が見つからないのは分かるし、普段なら研修後に預かってる不在本丸宛がっていいなら……と条件付けて引き受けてるとこなんだけど。

「見習いはあくまでも名目よぉ。実際は雛鳥ちゃんの補・佐。経験が無いのが難だけれど、好きに使えばいいわぁ」
「未経験新人の補佐って、それ名目通りの見習いって言いません?」
「ほほほほ。安心なさいな、葦名あしな政務官が紹介状を書く程度には能があるから」

 管狐の一匹が差し出した紹介状を、カラスの一人が受け取って運んでくる。
 広げられたそれに目を通す。どう扱っても構わない。で、交換はいつでも受け付ける。ふーん。葦名おじさんらしい。

「見習い、この時代の人間ですよね。どこまでなら免罪になります?」
「それは勿論、どこまでだって」
「気前のいいことで」

 つまりは裏があるやつか。となると、断っても手を変え品を変えでまた来るな。
 まあいいや、何が目的だろうが私の知ったことじゃない。
 葦名おじさんがこう書いて寄越したのなら、最低限、義理を果たしておけばいいだろう。

「じゃあ見習いらしく、うちの刀に新人研修でもさせておきますよ。誰か暇なのに担当を――……何やってんの」

 後ろを振り仰げば、そこにあったのは黒い塊が計二つ。
 カラスの一人が答える。話の邪魔になりそうだったから黙らせた。なるほど。
 羽根が舞い散る。カラス達がどいて、一回り小さくなった人型はけれど相変わらず真っ黒だ。刀を芯に人型を成した文字の群れ。に、しか見えなくなった刀剣男士である。
 ぴくりともしませんが。意識はある? ならいいか。

「見習い来るから、適当に審神者教育しといて下さい」

 言って、少し考えて付け足す。

「死なせなきゃいいんで。お願いしますね」

 それにしても“優秀な見習い”、かあ。
 ……いいか、別に。ほんとに優秀なら後のこと丸投げできるし、イマイチでも刀剣男士と上手くやってさえいれば、繋がった後の私は勝手にメンタル削られるでしょ。
 彼我を比べて妬んで羨み、ただあるものをあるがままには受け取れない。
 心って本当、めんどくさい。さっさと砕けて下るのが一番だな。がんばってこー。




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