小夜左文字が急遽、召集をかけた時点で嫌な予感はしていた。
「の退院予定日が明日であるのは、周知の事実だと思いますが」
本来ならば主が座すべき上座の一段下。
大広間に集まった一同を見渡し、陰りを帯びた声音が淡々と告げる。
「本丸には戻らず、当面、相模遊郭に身を寄せる事になりました」
やっぱり、と天井を仰ぐ程度で済んだのは彼、堀川国広が本丸内で一番の新参だったからだ。
鍛刀から顕現するまでのアレソレで、僕って前任の頃からいたような……気が……? という感覚を抱いていたりしなくもないが、鍛刀したのは今の主で顕現歴半年未満なので完全にただの錯覚である。
何にせよ、堀川にとって主は確かに“主”に違いなかったが、ただでさえ短い顕現歴に二ヶ月近く主が行方不明と入院で不在だった事もあり、さしたる思い入れを持つには至っていなかった。
それでも落胆はあったのだから、古参の刀剣男士達が荒れるのは分からなくもない。
だからといって、天井を仰いだほんの十秒足らずで刃傷沙汰を発生させるのは勘弁して欲しかったが。
「乱心しましたか、青江!」
「心外だな。僕はただ、ちょっと確認しようというだけさ」
ただでさえ重苦しかった空気が肺を刺す。
彼等を庇って一歩前に出た和泉守の顔色の悪さに、堀川は清光が不在である事に歯噛みした。
堀川もそうだが長曽祢も、まだまだ彼にとっては守るべき存在であって、共に戦う仲間とは呼べないのだろう。古馴染みの清光だけでなく、和泉守に辛辣な歌仙も拝領屋敷の方へ行っていて不在な事は幸いだったが、こうなってくると良し悪しだ。
「――が、主に何を吹き込んだのかって事をね……!」
「僕の弟を侮辱しますか……!」
隣の長曽祢と目配せし合う。和泉守を連れて、部屋から撤退するべきか。
しかし彼等が行動するよりも、古参の刀が動く方が早かった。
「そこまで!」
鍔迫り合っていた二振りが、左右に退いて体勢を立て直す。
一喝と共に割り入ったのは誰あろう、堀川の兄弟である山伏国広だった。
鞘に入ったままの太刀を構えるその様は厳めしく、常の朗らかさはなりを潜めている。
「ここは戦場にあらず。双方、場を弁えられよ!」
諫められ、けれども二振りは収まりがつかないようだった。
宗三と青江が、距離を取ったまま睨み合い。
――ドゴォッ!!!
轟音。ぞわ、と皮膚が粟立つ。
哀れにもくの字に折れ曲がった畳から、木片がぱらぱらと零れ落ちる。
無言で畳を殴り砕いた次郎太刀同様、その場から動く様子も見せずもう一振りの堀川の兄弟――山姥切国広が、ぞっとするほど低い声でぼそりと命じた。
「座れ」
気付けば、視線は畳の上を這っていた。
ばくばくと耳鳴りが煩い。全身から嫌な汗が滲む。平伏に近い姿勢を取っている現状を、追い付いてきた思考が認識する。曲がりなりにも刀剣男士としては、いかに最古参と主の初期刀相手といえど、あっさり屈した事実を恥じて然るべきなのだろうが……。
(無理。兄弟と次郎さんすっっっごい怖い)
そろり、と上体を起こして上目遣いに周囲を伺えば、どうやら刃傷沙汰に立ち上がっていた他の刀達も同様の反応を示したようだった。
異質で異様。普段の陽気な酔っ払い姿や、遠慮がちながらも優しい兄弟分としての顔からは想像だにしなかった一面だった。震える指をきつく握り込んで、意識してゆっくりと息を吸い、吐く。
最前列。小夜に次いで上座にもっとも近い場所に陣取る包帯だらけの二振りは、背中ですら直視を躊躇う圧がある。三日月がいれば少しは空気も和むのだろうが、清光達同様拝領屋敷へ行っているのか、今日の警備担当なのか。どちらにせよ、残念ながらこの場に不在である事には変わりない。
「なんで、だよ」
通夜か葬儀のような沈黙を破ったのは、後藤藤四郎の涙声だった。
「――なんで! なんっでがえ゛って゛こな゛い゛ん゛だよ゛っ! た゛い゛し゛ょ゛っ、な゛ん゛でぇ――」
わぁあああん! と声を上げて泣き出した後藤を、隣に座っていた物吉が慌てて宥めにかかる。
堀川は目を丸くした。刀剣男士はどれだけ幼い見目をしていようとも、それはあくまでも外見のみ。刀としての年齢と、器の年齢は決してイコールでは結ばれない。
交流が多かった訳では無いが、それでも押しが強すぎるきらいのある同期の刀を制止し、時にフォローに回っている後藤に、堀川は落ち着きがあって面倒見の良い短刀だという印象を持っていた。
それがどうだ。周囲の目も憚らず、わんわんと泣き喚く姿はそれこそ見た目通りの子供のようだ。
「が、分からなくなってしまったからです」
感情的な後藤とは対照的に、小夜は理性的で淡々としている。
泣きじゃくって話のできない後藤を代弁してか、物吉が「あるじさまは、何が分からなくなったんですか?」と、心配と不安のない交ぜになった声音で問う。
「戦う理由。これからどうしたいのか、自分が何を感じて、何を思っているのか。そういうものの何もかもが」
息を飲む。自然、表情が険しいものになったのが自分でもわかった。
分からない、は相当の危険信号だ。堀川はかつて崩壊寸前だった和泉守を助ける為に、清光とその心の深層へ立ち入った経験がある。だからこそ理解できる、今の主の危うさが。それでも“分からない”を認識できている辺りは人間の面目躍如といったところか。刀剣男士以上に、心の扱いに長けている。
「この状態で本丸には戻れない、というのがの意向です。僕も、その判断は正しいものだと思っています」
「分らんままで戦ば続くるべきやなか。今ん主、だいぶ判断力落ちとーばい。薬ん影響が五感に相当響いとーみたいやし、熱も全然下がっていかん。城下やったら医者もすぐかかれるけん、連れてくるのにいちいち手続きんいる本丸より良か」
「箒衆の審神者の方々も助力を請け負ってくれています。僕らだけでは限界がありますし、の為にも、今は人の手を借りるべきです」
心の状態は目に見えず、だからこそ扱いが難しい。本人ですら分からなくなっているなら尚更だ。
かつて堀川が和泉守の心の深層で案内役を務められたのは、顕現前で自他の境界が曖昧だったのに加え、残影に過ぎなくとも“堀川国広”の居場所が在り続けたからである。残影に半ば同化し、和泉守の心の一部と成っていたからこそあの場所についての理解が叶った。
(兼さんの時と同じ手が使えれば良かったんだけど)
物の心を励起するのは審神者の業。和泉守の心に潜り込めたのは、それが審神者の領分だったからだ。
たとえ真似できたとしても、彼等は刀剣男士。“斬る”事こそが本質である。担い手を欠いた状態で対象の心を傷つけずに潜り、斬るべきものだけを斬って引き揚げてくる、などという負けの決まった博打がやりたいはずもない。
しかも対象が主となれば、和泉守を遺して折れるのと同じくらいには御免である。それ以前に、明確に斬るべきモノ自体あるのかどうか。
幸い、人間の備えた血肉は刀剣男士の仮初のそれよりはるかに安定している。これが刀剣男士であれば和泉守の二の舞となりかねなかっただろうが、少なくとも主にその心配は無用だ。
時間をかけて、手探りで心を癒していくしかない。身体の傷のようには目に見えないからこそ、その気がなくとも傷を広げる危険だってあるのだ。刀だけでどうにかしようとするよりは、他の人間の力も借りた方が主の為にもなるだろう。
(でも、なんだろう。なんだか……モヤッとする)
小夜と博多の言葉は理に適っている。
主の判断も、刀の所有者、戦の将として正しいものだと思う。
分かっている。納得できていい、そのはずだ。だというのにどうしてか、何かが小骨のように引っ掛かる。
「主がそんななら、しまわれてんのはいいけどさあ」
深く沈みかけた思考を遮って、同田貫が億劫そうに声を上げた。
「直ると思うか、小夜。戦えるまでによ」
「必ず。僕はそう信じています」
「っし。ならいいわ」
応答は端的で率直だった。
立ち上がった同田貫を「正国!」と御手杵がたしなめる。
「護衛で手がいるんなら声かけてくれ。俺ぁ納得したから十分だ」
「……んー、よしっ。俺たちも十分だから、ここで失礼するね! あ、手が必要なら遠慮なく使ってくれていいから!」
「浦島――」
堂々と部屋を出て行った同田貫の背を見て、思うところがあったらしい。浦島が、泣きじゃくってる後藤の手を引いて後に続く。
釣られるようにして立ち上がりかけた蜂須賀が、少しの逡巡の後、隣の長谷部を見てそっと腰を落ち着け直した。
(長谷部さんのこと、放っとけなかったんだろうなあ)
堀川の位置からではその表情を伺う事はできないが、背を丸くして項垂れている姿は、ここ数日めっきり口数が減っていた事もあって何処となく危うい。
まあ、危うさで言えば和泉守もどっこいではあるのだが。
斜め前で丸まりかけている背へ、堀川は即座に平手打ちを見舞った。荒っぽい活に、弾かれたようにピンと伸ばされた背を見て重々しく頷く。これで良し。隣で長曽祢が小さく吹き出した。
「ンンッ。あー……ちょいと質問いいか」
ひらり、と日本号が片手を振る。
小夜が「どうぞ」と許可したのに頷いて、どうにも納得がいかない様子で問う。
「本丸に戻らないにしても、拝領屋敷の方が良くないか? なんで相模遊郭なんだ」
「仕事と距離を置かせないと、は回復してきた途端に無茶をしかねませんから」
「……あそこは行き場が無いか、本丸療養だと危ないって医者が判断した奴の一時預かり所だろ。それに、相模遊郭のどの店に主を預けるつもりなんだ?」
「媼面の楼主のところへ」
「えっあそこですか!?」
驚きも露わに物吉が声を上げ、パッと両手で口を覆う。
言われてみれば奇妙な話だ。堀川はまだ行った事が無いものの、拝領屋敷には多くの審神者や刀剣男士が出入りしていると聞いている。誰も主の無茶を止めない、なんてことはないだろうし、物吉の反応を見るに、逗留先はあまり良い店でも無さそうだ。
(その方が、小夜さんにとって都合がいい……?)
いや、と堀川はその邪推を戒める。
小夜左文字は、本丸で誰しもから一定の信用を得ている刀だ。困りごとを相談するなら、と問えば、一番手とはいかなくとも必ず二番か三番目には名前が上がる。それで得があるとも思えないし、何より、最前列の二振りが黙したままなのだ。主の不利益になるような事なら、決定権を握っている彼等こそが真っ先に異を唱えているはずである。
「――あの店は」
ひや、と首筋を冷たいものが撫でた。
静かな声と共に、五虎退がゆらりと立ち上がる。
「行き場のない人の預かり先を探して、あるじさまが奔走なさっていた時。相模遊郭の妖共の中で唯一あるじさまを侮らず、足もとを見ようともしなかったところです」
暗く、けれど爛と底光りする双眸が日本号を敵のように見据えている。
仔虎達と合わせて計六対の視線に睨まれ、日本号がたじろいだのが傍目にも分かった。
「……あるじさまを預けるに相応しいとは言わないです。あれから増えた預かり先には、大店もありますから。でも、あの楼主はあるじさまのお気に入りです。――あれへの侮辱は、あるじさまへの侮辱と取ります」
「………………………………おぅ」
口を両手で塞いで座っている物吉を見て、五虎退を見て、日本号は裏返り気味の声で頷いた。
隣の長曽祢へ視線で問う。僕、ひょっとして結構ヤバい本丸来ちゃいました? 顔ごと視線を逸らされて、堀川は天井を仰いだ。何もできなくてもいてくれるだけでいいし一から十までお世話するので、今からでも本丸に帰ってきてくれたりはしないだろうか。
「私からも宜しいですかな?」
日本号を気遣ってか、五虎退に向かって小狐丸が申し訳なさそうに片手を上げる。
無言の五虎退が、小夜を横目に見た。小さく首肯して座り直したのに一礼して、小狐丸が朗々と質す。
「あの辺りは遊興街の中でも治安が悪い部類に入りましょう。審神者の帯同であれば抜刀の許可も下りておりますが、それも一振りきりと制限があったように記憶しております。主様の警護はどのように考えておいででしょうか」
「有事に主ば抱えて逃げ切れれば勝ちなんが護衛ばい、刀ば抜けんでも問題はなか。やけん、抜刀許可は護衛につく室内戦向きん男士に持たせてん、刀種問わずの二振り体制で回す予定やね。主導は引き続き、俺と乱が任せられとぅよ」
「抜刀制限の緩和は難しいでしょうが、箒衆の巡回路に店の周辺を入れられないかは調整を予定しています。室内で過ごすぶんには、問題は起こらないかと思います」
「すまん。一ついいか?」
隣の長曽祢が、小狐丸に倣って手を挙げた。
発言を許可した小夜に目礼し、「基本的な話なのかも知れんが」と前置きする。
「そもそも審神者が本丸を空けて休養する事を、政府はどのくらいまで許しているんだ? 特に、主は立場もある身だろう」
「ああ。……の回復が最優先です、立場は最悪、捨てて構わないでしょう。そういうものに執着する人でも無いですから」
「政府もおいそれとは取り上げられないと思うぜ? あれ、政府からの不始末と尻拭いの詫びでもあるからな。ま、これについては俺らが何も言わなくても箒衆が動くだろ。警備局勤めしてる不在本丸の連中とかもな」
小夜の補足をする獅子王は、何処となく詰まらなそうだ。
そんな立場など、いっそ無くなってしまえばいいのに――とまでは言わなくとも、あまり快く思ってはいないらしい。
(主さんの立身出世って、嬉しいものじゃないのかな)
政府からの不始末と尻拭いの詫び、というのもなかなか不穏だ。
本丸に来て半年未満。大体の事は把握したつもりでいたのだが、まだまだ知らない事は多いようである。
「休養期間は――そうですね。どのような理由であれ、一年間務めを行わなかった審神者は、政府による監査の上でその後の処遇が決められる事になっています。引き延ばしても二年が限度になるでしょう」
「……最低一年、限度は二年、か。ありがとう、よく分かった」
つまり期間内に一度でも本丸に戻って任務をこなせば、いくらでも延長が利くという事か。
聞くだけでどうかと思う規定ではあったが、実質的にはそこまでザルな運用をしている訳でも無いだろう。何より、主が務めをこなせない現状では素直にありがたい緩さだった。
おそらく主の心にあるのは斬るべきモノではなく、逆。一朝一夕には埋めがたい、塞ぐべき穴であるだろうから。
「他に、何かありますか」
「護衛役、青江と石切丸は外しといておくれよ。鯰尾と骨喰もね」
短い沈黙の後、気怠い調子で次郎太刀が口を開いた。
「が戻るまで、薬研にうろつかれちゃ困るからさぁ。這い出てきても潰せるようにしとかなきゃ。ね?」
物言いこそ軽いものの、端々から漂う殺気は他人事ながらも心臓に悪い事この上無い。
会話で薄れていた緊張感が戻ってくる。全身を強張らせ、呼吸も躊躇われる堀川の心境など知るはずもなく、「なら、俺も残っていよう」と最古参の兄弟刀が重々しくも陰鬱に宣言する。
「あいつと一番付き合いが長いのは、俺だ。――譲る気は無い」
「……へぇ。ま、好きにすりゃいいさ」
(…………あーるーじーさーんー…………!)
堀川は声には出さず切実に叫んだ。同田貫に浦島と後藤が続いた時点で和泉守を引っ張って退席するべきだった、と後悔するが、もはや後の祭りである。
というか主が戻ってきても、これではまた心身に傷を作る羽目になるのではないだろうか。ずんと圧し掛かる重苦しい沈黙の中、小夜の淡々した声が「では、最後に」と上座から響く。
「行動には責任が。そして結果が伴います。――護衛は、主の命令ではありません」
真っ先に沸いたのは戸惑いだった。
それは、今、改めて言う必要のある事だったろうか?
意図を掴みかねる堀川の困惑を置き去りに、小夜左文字は言葉を続ける。
「“自分で考え、答えを出すように”。……僕からは以上です」
「これにて解散とします」と小夜が話を締め括る。
圧が霧散する。人のはけていく室内でこっそりと息をついて、堀川は立ち上がる気配のない和泉守の背を見る。
何をしたいか分からないなら、誰かが手を引いてやればいい。塞ぐべき穴があるのなら、何かで埋めてやればいい。けれど、それは元通りになる訳ではないのだ。正しく手を引いていけるとは限らなくて、穴を塞ぐ何かだって、それが適切だとは限らない。
そうして手を引く側、埋める側が自らの正しさを信じて疑わないとなれば――。
(主さん、変な歪み方しないといいけど)
手助けするにも限界はある。
嫌な懸念をぐっと飲み込んで棚上げし、立ち上がって和泉守の肩を叩く。
どれだけ地味で歯がゆかろうと、間違っているかも知れなくても、できる事をやっていくしかない。
努力が報いてくれるとは限らなくても、怠惰が、裏切る事は無いのだから。
■ ■ ■
幻影の花が、壁に、床に爛漫と咲き乱れている。
整然と居並ぶ行灯の風よけに描かれ、蝋燭の灯で虚像を結んだそれらは、庭に咲く花とは趣きこそ異にすれども美しいことに変わりはない。
本邸審神者部屋、地下室。
今では誰しもに自由な出入りを許されたその場所は、けれど立ち入る者の少ない部屋だ。
それは前任の忌まわしい記憶を呼び覚ますからであったし、部屋に刻み込まれた悲哀の記録が、立ち入った刀剣男士の個を融かし、一時的に自己を見失わせる現象が稀に起きるからでもある。実害と呼べるほどのものでは無くとも、特に何かしらの用途が定められている訳でも無いとなれば足を踏み入れたいはずもない。
だから主のいない今、ここへ出入りするのはせいぜい彼くらいのものだった。
「お戻りでしたか、歌仙さん」
光で咲く花々が、訪問者を歓迎してゆらりと揺れる。
それほど広くはない地下室の奥まった場所。溢れんばかりの花々に飾り立てられた観音像を見上げていた前田は、階段近くに立つ打刀を振り返った。
「ああ、つい先程ね」
「主君の帰還予定変更の件、お聞きになりましたか」
「無論だとも。だから、きみと話をしておこうと足を運んだんだが……」
歌仙兼定の視線が、前田の後ろに立つ観音像へと移る。
半ば目を伏せ、慈愛に満ちた微笑を湛える立像の優美な面差しに、歌仙が表情を緩めた。
「――うん。なかなかに悪くない」
「今の出来得る限りを注ぎましたので。……完璧な出来栄えとは言えませんが」
「この際、妥協は止むを得ないさ」
燻る線香が花の波間を漂っている。
この地下室に刻み込まれた、悲哀の慰めとなるように。
そういう名目の下、前田は主から鋳造と設置の許可を得た。鍛刀妖精たちの面白半分な薫陶と協力を受け、一から手掛けて試行錯誤を繰り返した観音像は理想通りとはいかず、いまだ拙い技量を突き付けられるものではあったが、どうにかそれなりには見られるものであるようだった。花々に囲まれて佇む観音像を眺めながら、歌仙が目を細める。
「あとは魂入れだけか」
「……主君は」
誰かに任せれば間違いなく、もっと良いものが用意できた。
前田藤四郎は戦士であって職人では無い。遊興街の妖怪や城下町の人間。主の伝手を辿れば良い職人を手配して、それこそ理想通りの完璧な器が用意できたかも知れない。
分かっていて尚、誰の手にも委ねたくなかったのは己という前田藤四郎の我欲、執着と呼ぶべきものなのだろう。
妥協を苦々しく感じる気持ちはある。完璧な出来栄えとは言えない。理想通りの満足な出来でもない。髪一筋に至るまで寸分の狂いも無い器で、花の如きあの様を永遠に留めておきたかったというのが本当のところだ。
だが残念な事に、行方不明からの現状が現状である。心の何処かに、主はいつだって無事に戻ってくるのだという思い込みがあったのだと突き付けられてしまえばもう、納得いかずとも妥協しておくより他なかった。
「鋼の造花を、お気に召すでしょうか」
「気に入ってくれるさ。慣れるのに時間はかかるかも知れないが、我等と同じ炉で作られた、我等と同じ玉鋼の花だ。何かと無防備なあのお転婆娘には、このくらい頑丈な方が丁度いい」
「ありがとうございます。……鋼となれば、本丸に腰を落ち着けても下さるでしょう」
つい先程。ほんの数刻前の出来事を思い返し、前田は憂いと共に目を伏せる。
今日と同じ明日が来るとは限らない。本丸に、必ず主が帰ってきてくれるという保証も無い。
そんな事、到底許容できるはずが無かった。
「次郎さんか国広さん、小夜の誰か一人でも引き込めれば、もっと手堅く事が運ぶのですが……」
次郎太刀と山姥切国広は無理だろう。
性格こそ真逆だが、どちらも取っ掛かりを掴ませない。
小夜であればあるいは、と思うが――。
『そこの怨霊擬きが、主に何を吹き込んだのかって事をね……!』
大広間で、小夜に斬りかかった青江が口にしていた言葉がどうにも引っ掛かる。
単なる言いがかり、侮辱と片付けてしまうには躊躇う何かを、刀剣男士としての勘が伝えてくるのだ。それが何かは分からなくとも。
「なに、無理に引き入れる必要もないさ。下手をうって事が露見する方が問題だ」
「そう……ですね。露見するにしても、後戻りできなくなってからでなくては」
魂を移して、古い器は葬って。
後戻りできなくなってしまえば、主を解放しよう、などと血迷う者が出たとしても物の数にもなるまい。口では何と言っていようと、誰だって、主を喪いたいはずが無いのだ。
頭が痛いのは、主よりも薬研の方である。
歌仙は計画の協力者だが、薬研への悪感情は隠そうともしない。
前田にとって、この計画を進める以上に薬研の安全確保は急務だった。何せ、今回の件で薬研は敵を作り過ぎた。歌仙以外にも心強い味方はいるが、なにぶん意思疎通に難がある。どうしても急く気持ちはあった。
(焦らず、見定めなくては)
失敗する訳にはいかない。
きっと、前田の罪は許されないだろう。
それでいい。全てが望み通りになるはずもない。どうしても得たいものがあるなら、捨てるものを惜しんではならない。薬研と主が安全な場所で、ただ平穏に安穏と日々を過ごしていてくれるのなら、それだけで前田は救われる。
……所詮は付喪神。それも、ほんのひとかけらに過ぎない分霊のわざだ。上手く事が運んだところで、真の永遠からはほど遠い。
(岩の如き鋼の命を、主君に差し上げる永遠としましょう)
それでも、椿の如き儚い命よりはずっと良い。
だから罪科を上塗ろう。薬研を生かしておく理由を作ろう。
そうすれば彼等の優しい主は、薬研を許してくれるはずだから。
前田藤四郎は、主君が薬研を大切に扱い、時々は手入れして、そうして穏やかに、怪我も無く共にあり続けてくれればそれでいい。
そこに自分がいないとしても。その未来の為ならば、何を捧げても惜しくは無いのだ。
■ ■ ■
からすがないている。
■ ■ ■
空気が変わる。肌に馴染む。
旅先から故郷に帰ってきたような安堵感があった。
きらきらチカチカぎらぎらビカビカ。濁った蛍光色の奔流が、カーテンで遮られたように勢いを減じる。
ぐるぐるくるくる、何もかも安定しなくて移り変わり続けていた世界は、ここにきてようやく、上下の概念を思い出したようだった。メリーゴーランドのように留まらず回転している視界の中、一面の赤が揺らめく地には黒い蟲が無数に蠢き這いずっていて、けれども天は、パステルカラーの水彩で描いたように牧歌的なあかいろだ。
まともな空を目にしたのは、どれだけぶりの事だろう。落ち着いている時間も、きちんと物事を考えられる時間も確かにあるはずなのに、色々なものが曖昧にぼやけている。
耳障りな不協和音の絶叫はいつしか、一定の方向性を持った喧騒に取って代わっていた。
寄せては返す波のように。折り重なった無数の声は入れ代わり立ち代わり、途切れる事無くとぷとぷと、耳から注ぎ込んでくる。
――憎め憎め憎め。
――怨め怨め怨め。
――呪え呪え呪え。
ひとつひとつは違う事を言っているはずなのに、多すぎる声はぐちゃぐちゃに潰れて混じって融け合って、結局はそこに帰結する。
どうして死ななければならなかった。どうして苦しまなければならなかった。どうして踏みにじられなければならなかった。どうして虐げられなければならなかった。どうして嘲られなければならなかった。どうして謗られなければならなかった。どうして背負わなければならなかった。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――嗚呼。だから■よ、どうか応報を。不条理の是正を。無理解へ誅罰を。復讐を、復讐を、復讐を!
善なるものなどこの世に何ひとつとしてありはせず、罪なき者もこの世に誰一人としてありはしない。
とぷとぷ、とぷとぷ。注がれているのか、溢れているのか。どちらなのかも分からない。
死んでしまえ、呪われろ。
客観的に見れば、私はきっと運が良い。
引継ぎとして元ブラック本丸に放り込まれて。でも、脅され、少しの傷を負っただけで受け入れられた。
良くてせいぜい役立たず、と言わんばかりの対応に傷付き、針の筵に座らされるような扱いに鬱屈を抱え込もうとも、実害のある嫌がらせや暴力を受ける事はなかったし、衣食住にも困らなかった。思い返せば短い日々のその末には、新しい主と認められた。
不在本丸対応をしていれば嫌でも思い知らされる。それがどれだけ得難い幸運だったのか。
たくさんの遺体を引き上げた。運が悪かった引継ぎ審神者の末路だった。
少しばかりの傷付いた人達を助け出した。引継ぎ審神者にはありふれた姿だった。
不在本丸対応をしていれば噂に聞く事もある。苦難の末に和解して、生き残った引継ぎ審神者の物語。
真偽のほどは知らずとも、耳にするたび考える。
障害の残る傷を負わされていたら。私は彼等を受け入れられた?
悪意のある嫌がらせを受けていたなら。私はその屈辱を水に流せた?
暴行されていたら。凌辱されていたら。踏み躙られていたら。嘲られ、毒を盛られ、生き延びるために靴を舐めるような行為を強いられていたとしたら? 全部想像でしかない。私の引き継いだ彼等にはまだ誇りがあった。前任者のひどい扱いにも関わらず、後任の私を、自分達と同じ目にあわせてやろうとはしなかった。
私はきっと運が良い。元ブラック本丸の引継ぎとしては。
でも。だけど。
新しい刀剣男士を顕現するたび、どうしたって見限られ、殺される危険を考える。
力で敵わない事は分かり切っていた。いくら刀剣男士が契約上、意図的に主へ暴力を振るったり殺したりできないようになっているとはいえど、そんなものはやりよう次第だ。霊力操作を身に着け、弓馬を学び、刀装兵を持ち歩いていようとも、根本的な性能差は覆しようもなく、不意をつかれればどうにもならない。一撃でも受けてしまえば――それが私を殺す意図であったなら、どれだけ足掻いたってそこで終わりだ。
生かしておく意味を、示さなければならなかった。
辛酸を舐め、それでも私に従ってくれている彼等に対して。何も知らず、それでも歴史を守るために私に従ってくれる彼等に対して。前任者との違いを、誠実さを、自制心を、正しさを、人間の善性を、従うに値する自らの価値を、証明し続けなければならなかった。
本当はそんなもの、必要ないはずだった。
まっさらな本丸で一からスタートを切っていたなら、そんなもの、必要ないはずだった。
初めて行った演練場の、居心地の悪さを覚えている。
よく資材を買いに行っていた万屋以上に審神者が刀剣男士達に囲まれていて、なのに誰も彼も、和気あいあいと楽しそうに過ごしていた。
勝てば共に喜んで、負ければ共に悔しがる。頭を撫で、肩を組み、抱きつき抱きつかれ、小突き合い、冗談を口にして、文句を言い、不平を垂れ、笑顔を、ふくれっ面を、嫌そうな顔をして、不機嫌も呆れも悔しさも何ひとつ気負わず晒して頓着しない。
世界が違った。同じ審神者のはずなのに。同じものだとは思えなかった。
美しい身なりの女審神者が、背後に己の白刃隊を従えて、颯爽とした足取りで歩いていく。
凛々しい顔の男審神者が、己の白刃隊を伴って、堂々とした足取りで歩いていく。
おどおどと挙動不審な審神者が、己の白刃隊に守られて、人目を避けるように歩いていく。
だるだるの室内着にサンダル履きの審神者が、己の白刃隊に文句を言われながら、素知らぬ顔で歩いていく。
一人じゃないのだと思いたかった。
引継ぎ審神者ではなかったとしても、スタートラインが違っていても、誰かは分かってくれるはずだと思いたかった。演練は日課任務だったから、欠かさず通っていろんな審神者に話しかけた。会話しようと試みた。
大抵は上手くいかなかった。自分が異端の側なのは、早い段階で嫌でも悟った。同じ演練のやり方をしている審神者は片手の指で数える程度しかいなくて、それでも自分から始めて、上手く行っているやり方を、今更辞める訳にはいかなかった。
違うものは輪の中からは弾かれる。
ほとんどの審神者は、私とろくに会話しようとはしなかった。いくらかの審神者は話に応じてはくれたけど、だいたい興味本位か面白がってかだったから、それ以上は続かなかった。意図の分からない再戦依頼を受けるようになる頃には、探しても無駄なのだという諦めは身に染みていた。
普通じゃないスタートを切って、普通では無くなって。
それでようやく、私は普通の審神者にとっての当たり前を享受できた。
普通の審神者と同じになって。それでも普通の審神者じゃないから、同じだと思える人はいない。悩みも辛さも喜びも悲しみも苦しさも悔しさも、誰とも、本当の意味では同じになれはしない。
羨望があった。妬みがあった。怒りがあった。失望があった。憎しみがあった。それでも、それは諦めと共に飲み込まなければいけなかった。
分かっている。私にだって覚えはある。
経験していない事は語れない。認知していない世界は無いも同然。
普通の審神者にとって、不在本丸もそこで起きる出来事も、良くてせいぜい他人事。悪ければ気にも留められない。
興味を持って関わっている人たちだって、気にするのは分かりやすい傷を抱えた人たちばかり。幸運にも引き継ぎに成功できてしまった審神者が抱えた澱みなんて、誰も顧みたりはしないのだ。
当たり散らしたってどうにもならない。投げ出したところで、状況が悪くしかならないのは目に見えていた。
仕方が無かった。向き合ったからって何がどうなる訳でも無かった。あれこれ押し付けられて、厄介事に首を突っ込んで、自分から仕事を増やしていって。そうして忙しくしていた方が、精神的にはマシだった。正しいと確信できる事をしているのは楽だった。
箒衆の審神者達ですら。私についてきてくれている彼等ですら、時々、別世界の人に感じる事がある。
私はきっと運が良い。元ブラック本丸の引継ぎとしては。
それでも新しい主と認められるまでに、殺されかけた場面は何度かあった。
生き残る為に命を賭けて、そのたびに当たり籤を引き当てていなければ死んでいるような人間が、幸運と呼べるはずもない。
優秀であって欲しかった。普通の審神者に。恵まれた人間は、恵まれなかった私達よりもはるかに優れていて然るべきだった。スタートラインが違うのだから、少なくとも私と同等か、それ以上の結果を出せて当然のはずだった。
ほとんどの審神者は、期待に応えてはくれなかった。恵まれた人間である癖に。
ゆらゆら、ぶらぶら。
揺れている。揺れている。
逃げられない現実が、振り子のように揺れている。
愛と憎の端境で、ゆらゆら、ぐらぐら揺れている。
無数の手を縄にして。首吊り女が、振り子のように揺れている。
優しい人間でありたかった。審神者になる前。そういう人が周囲にはたくさんいて、その人たちが好きだったから。
私は、人殺しに忌避感を持てないようなひとでなしだから。せめて行動だけでも、好きな人たちと同じ優しさを装っていたかったのに。
「 ぜ ん ぶ 、 こ わ し ち ゃ え 」
喪服のような黒いスーツの、髪の長い私が言う。
巫女服の上に黒い羽織の、髪の短い私が言う。
復讐を。応報を。無理解へ誅罰を。不条理の是正を。
憎しみは正当であり怨みは当然でありその境遇へ押し込まれた我々の呪いを受けるは恵まれた者の義務である責務は果たされねばならない不平等は正されねばならない同じになれ同じになれ同じになれ同じく死ね同じく死ね同じく死ね歴修正主義者も時の政府も審神者も刀剣男士も遡行軍も何も知らないで安穏と過ごしている連中もみんなみんなみんな等しく偏りなく公平に平等に同じように死ね死ね死ね死ね死ね死ね――。
とぷとぷ、とぷとぷ。注がれているのか、溢れているのか。どちらなのかも分からない。
善なるものなどこの世に何ひとつとしてありはせず、罪なき者もこの世に誰一人としてありはしない。
我等が末、我等が同胞、我等が代行者、我等が贄、我等が器。
捨てられ、憎まれ、祝われた。
■よ。
■よ。
■よ。
■よ。
さ
ぁ 。
産
声
を
、
――行っちゃダメ、です。
闇の向こう。
蜘蛛の糸のようにか細く、キリちゃん先輩の声が届く。
後ろの誰かが、私を呼んだ。
「ちゃん」
「………… す、ず さ ん ? 」
耳元で舌打ちが聞こえた。
まだ充ちぬ。
■ ■ ■
“怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。”
――ニーチェ
■ ■ ■
「あれ。804号室の患者さん、退院したんですか?」
「何言ってんのよ、転院でしょ? あんな状態で退院できるはずないじゃない」
「自宅療養に切り替えじゃありませんでしたっけ。お仕事の都合がどうとか」
「冗談。あんないつ急変してもおかしくない患者に、主治医がそんなの許可する訳ないでしょ」
「あの患者さん、主治医どの先生でしたっけ」
「え? それはもちろん外科の――」
「執刀医の先生、よその病院から来てませんでした? 手術の難易度高いからって」
「そうそう。あの患者、整復手術したんですよね。あのレベルだと正常に治るかも怪しいし、併発症ヤバいだろうから切除して義肢にした方が絶対良かったのに」
「あれなあ。本人ってか、周囲の強い希望って感じあったな」
「おかしいなー……内科……いや麻酔、違う、精神科……? カルテどこだったっけ」
「どうでもいいじゃないですか。あの患者さん、なんか気味悪かったですもん」
「こら、そんな事言うものじゃないよ」
「だって師長。あの人が入院してから、明らかに亡くなる患者さん増えたんですよ? 病室も生ゴミみたいな悪臭が酷かったし……」
「偶然でしょ? 病室前でいっつもカラスが煩かったのは確かだけど」
「うーん、鼻おかしいのかなー……悪臭した覚えないし、カラスだってそんな煩いほどいたっけ?」
「悪臭はともかく、気味悪かったのは分かる。あの患者さん面会謝絶なのに、ずーっと部屋の中に誰かたくさんいるみたいなカンジあってさあ。ほんっとマジで無理だった」
「何だったのかしらね、あの患者さん。ほら、一回だけ特別に面会来た人いたじゃない。あの人も何だか……ねえ」
「あー、その人覚えてます覚えてます。あれでしょ? どっかでヒットマンしてそうな目付きの」
「ヤバい仕事してんじゃないの。ベッドから落ちてる以外は大人しい患者だったけどさあ、妙に怖い感じする人だったじゃん。壁も壊してたし」
「いや壁壊れたのは無関係でしょ。あれはあれで原因不明だけど」
「本当に無関係だと思います? あの人、腕もですけど怪我が全体的に異様だったじゃないですか。何かに締め上げられたみたいで。……正直、いなくなってくれてほっとしてます」
「分かる。違う世界の人、って雰囲気あったよね」
「まったく。あんた達、もういない患者さんの噂してる暇あるなら仕事に戻る!」
「はぁーい……」
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