この時代での生活に慣れつつあっても、未来に比べれば不便である事に変わりはない。
特に水回り全般。ちょっと手を洗いたいだけでも、この時代では蛇口を捻ってささっと、という訳にはいかないのである。時代が時代だから仕方ないっちゃないんだけど、正直めんどくさいんだよなぁ。おおウエットティッシュ、お前はどうしてこの時代に存在していないのか……確実にバカ受けするのに……!
「これはひょっとして……道間違えた……?」
繕い物をする部屋から水場までに通る廊下は、この城内としては比較的明るい方だ。
何度か通っているから行灯無しでも大丈夫だと言って一人で出てきたが、どうやら自分を過信しすぎていたらしい。やだ……私の記憶力クソザコすぎ……?
ぐるりと周囲を見回してみるが、日本家屋は似た造りの部屋が続きがちなのに加えてこの薄暗さだ。何処が何処やら、というのが正直な感想である。
城内探索マッピングとかね。儚い夢でしたね。よく使う道ですらご覧の有様だよ!
光を頼りにいったん外に出るのがいいのだろうが、生憎今日は雨か雪でも降ってきそうな曇天だ。外から差し込んでくる陽光が弱いので、あまりアテにはならない。どうしたものか。
昨日からというものふとした瞬間にうなじを波立たせる違和感を、首をさすって誤魔化しながら踵を返す。スタート地点まで戻れば、どうにか部屋まで戻れるはずだ。たぶんきっと。
「ん」
視界の端で光がちらつく。行灯の火だ。
するすると廊下の角に消えていった複数の人影を、咄嗟に小走りで追いかける。
呼び止めれば早いんだけど、そうしたところで一体どうやって道を聞けばいいのやら。元いたあの部屋なんて形容すればいい……? 繕い物がいっぱいある部屋って言えば通じる……? 何か部屋の判別を付ける分かりやすい特徴とかあったっけ、と考えている間にも、先を歩く人影はこちらに気付く様子もなく、するすると先へ進んでいく。
周囲の闇が濃くなる。焚かれた煙の臭いが強さを増す。やばいわこれ本格遭難してるぞ私。
追いかけ進む廊下の先の明るさに、ともかく呼び止めてから考えよう、と上げかけた声が喉へと引っ込む。足が止まる。くっきりと明暗を分ける置行灯に照らされた視線の先には、仰々しい武者姿の、よく似た背恰好をした二人組が立っていた。他の場所以上に重たく立ち込める煙が目鼻に痛い。私が追いかけてきた、膳らしい物を持った奉公人だろう人達が、二人組に何事か話しかけて部屋の中へと入っていく。
何を喋っていたのかまではよく聞こえなかった。耳に届くのは部屋の中からしていると思わしき、微かなすすり泣きの声。えっ怖……。なにこれホラー? 日本因習村的な闇のアレソレだったりする?
気にならないはずも無かったが、さすがに現状で潜入チャレンジするほど無謀にはなれない。二人組に話しかけるのも論外である。しっかしあの番兵? の二人組、なんか妙に既視感あるな……?
引っ掛かりはするものの、その正体は煙に巻かれたように判然としない。何だったっけ、と首を傾げつつ、足音が立たないように気を付けながら来た道をこっそりと戻っていく。たぶんこっちだった気がする、とおぼろげな記憶を頼りに角をいくつか曲がって立ち止まり、耳を澄ます。
他の足音は聞こえない。ほっと胸を撫で下ろし、
「こんなところで何してるの」
「ッ――……と。びっくりした、信濃さんか。脅かさないで下さいよ」
危うく薬研さん抜きかけたぞおい。
懐に隠し持った柄から手を離して抗議すれば、「それ、こっちの台詞」と不機嫌丸出しで返された。
行灯の灯りを挟んでジト目で見てくる信濃さんが、「で、何してたのさ」と繰り返して問う。
「えーと。道に迷って困ってました」
素直に現状を報告すれば、馬鹿? と言わんばかりの目が返ってきた。うーん、口ほどに物を言う。
盛大にため息をついて、信濃さんが顎をしゃくる。
「ついてきて。大将のところまで案内するから」
「お世話になりまーす……」
弁明の余地がミリでない立場つらいね。
しおらしく頭を下げて、足音もなく先導する信濃さんの後をついて歩いていく。
私と違って城の内部構造をよくよく把握していると見えて、先を行くその足取りには迷いがない。
「そもそも、何考えて一人で出てきたのさ。行灯も無しで」
「虫が出たんですよ、わりと大きいやつ。外に出しがてら手を洗いに行くだけのつもりだったんで、行灯無しでどうにかなるかなーって」
「部屋から出すだけで良かったんじゃないの、それ」
「とっさに素手で掴んじゃったので……。ほら、キリちゃん先輩虫全般ダメじゃないですか。虫わし掴みにした手で触られるの、気分良くはないでしょ」
「…………ふーん」
信濃さんの声が、分かりやすくワンオクターブ低くなる。
あ、もしかしなくてもキリちゃん先輩が虫ダメな事知らなかった感じかこれ。
察してそっと口元を抑える私を振り返るそぶりも見せず、「ねえ」とぶっきらぼうに信濃さんが鋭く質す。
「大将とさ、どうやって仲良くなったの」
「え? それはまあ……普通に?」
「その普通が分からないから聞いてるんだけど」
「そう言われても」
本当、普通にとしか言いようがないのだ。
というか曲がりなりにも“信濃藤四郎”でキリちゃん先輩もああいう人なのに、何故この分霊はこうなのか。これでキリちゃん先輩の刀じゃなかったら適当にあしらうか、そもそも相手していないところである。
めんどくさ、と口から出かかったぼやきを飲み込み考える。さて、どう説明すれば通じるものか。
「高校の時に部活が一緒だったんですよ。最初はただの先輩後輩だったんですけど、気が合うからよく話すようになって。そこから仲良くなっていって今に至ります」
「……それだけ? 本当に? こういう事があって仲良くなった、そういう分かりやすいの無いの」
「無いですって本当。そんな特別な出来事、そうホイホイ起きる訳ないじゃないですか」
歩調を緩めてこちらを見る信濃さん。その顔には、100%の疑念しか存在していなかった。ハハハこの野郎めが。
たぶん私の話を参考にしてキリちゃん先輩と仲良くなりたいんだろうけど、期待されるような分かりやすく特別なイベントとか無かったんだよなぁ。あったとすれば、それは現在進行形なこの現状だけである。とってもクソ。
「強いて言うならお互いに好感や尊敬は持っても、嫌だなって思ったり、腹が立ったりする事が無かったからですかね。別に一緒にいないといけない理由があった訳でなし。仲が良くても進学とか就職のタイミングで縁の切れる友達だっていますしね。それで付き合い切れたくないなってお互い思ってたから、今も友達してるんですよ」
大きなイベントがある人もいるだろうが、基本、人間関係はささやかな出来事の積み重ねだ。
どれだけ好ましく思う相手であろうと、どちらか一方の思いだけでは続かない。逆に、心底嫌いで関わりたくない相手であっても付き合っていかないといけない事もままあるのだが。親類縁者とか職場とか、身近でしかも絶対会話しないといけない相手にそういうのがいるとストレス半端ないですね。ありとあらゆる角で足の小指強打しろ。
私の言葉に、信濃さんは眉根を寄せて黙り込む。不機嫌とも、何か考え込んでいるともとれる顔だ。ややあって、「あなたにとって、次郎太刀は特別なんだってね」と何で知ってるんだ、とツッコミたくなる発言が飛び出す。もしや私とキリちゃん先輩の会話、どっかでこっそり聞いてたりした? 怖……ストーカーじゃん……。
「大将とあいつ。どっちの方が大事?」
「えぇー……これまた答えにくいこと聞きますね……?」
ひっそりドン引きする私と真逆に、信濃さんは真剣そのものだ。
刀剣男士である初期刀と、人間の友達。比べるようなものではないし、何より、何故信濃さんからそんな問いを投げかけられねばならんのか。
あれか、大事な主を最優先できない奴を主の傍には置いておきたくない的なやつか。小姑かな?
「そうですねぇ。同時に何かあったと仮定したら、助けるのはキリちゃん先輩一択ですけど」
真面目に答える気にはなれなかったので、まぁ信濃さん相手ならこれが無難だろう、という事実で回答する。
「そんな感じです」と雑に纏めれば、「ふぅん」と含みしか感じられない相槌が返った。
いや意味深なリアクションに返事を圧縮するな。ちゃんと言語化しろ言語化。
「ところで信濃さん、行き先こっちで合ってます? 行きよりだいぶ歩いてる気がするんですが」
「合ってるよ。そもそも俺、あなたと大将を呼びに来たんだ。なのにあなたは勝手に迷子になってるし……」
「あははは……いやーこの度は誠に申し訳なく……。えっと、信濃さんはどうして呼びに? 調査チームが見つかったとか?」
だったらいいな、という期待を込めて問えば、信濃さんは顔を顰めた。
忌々しい、と言わんばかりの反応である。違うっぽいな。これ、もしや見つけたの遡行軍か?
懸念に胸の底が冷える。可能性は考えてたけど、とうとうか。となると――
「!」
焦燥と安堵の滲む声に思考が途切れる。信濃さんが足を止めた。
置行灯があるらしい。他より数段明るく照らされて白く煙る廊下の先、襖の前に立っていたキリちゃん先輩が、勢いよく抱き着いてくる。「よかった」と呟く声は震えて弱々しい。先輩を一人置いて、信濃さんが私を探しに来ていたのだ。そこまで差し迫って危ない状況ではないのだろう。今からそんなで大丈夫なのかとは思うものの、心配をかけたのは事実である。真摯に案じられていた事に対する面映ゆさと申し訳なさとを感じながら、抱き締め返した背中をトントンと軽く叩いて宥める。
「ごめんねキリちゃん先輩、うっかり道に迷っちゃってて」
「いいんです。いいんです、そんなの」
私に抱き着いたまま、涙声でそう答えてキリちゃん先輩は頭を振った。
先程までとは打って変わったしおらしい声で、信濃さんが「大将」と呼ぶ。先輩が大きく肩を振るわせた。
「水を差してごめん。……でも、時間がないんだ。急がないと」
「ぁ――そう、でした。……そうです、ね」
分かりやすくしょんぼりして、キリちゃん先輩が私から離れる。
既に二人の間では何か情報の共有があったようだが、いまいち状況が見えてこない。これ次郎さん呼んだ方がいい流れ? 昨日の件まだ腹に据えかねてるから、呼ばなくていいならギリギリまで呼びたくないんだけど。
疼くうなじを擦って誤魔化す。現状について問うより先に、「」と意を決したようにキリちゃん先輩が私を呼んだ。
「この前した並行時空の話、覚えてますか」
「? それはまあ、覚えてるけど」
いきなり話題が飛んだな。なんなの。
困惑している私を他所に、信濃さんが襖を開いた。白い煙が、するすると室内に向かって流れていく。
「こっち。入って」信濃さんがそう言って先導するが、うん。今気付いたんですが、ここの襖やたら立派ですね。暗くてよく分かんないけど、部屋の中もなんか広そうな感ありますね。ここ奉公人の立場で入っていいとこか?
そもそも、信濃さんは何故ここに案内したのだろう。
「よく似た歴史を持つ、よく似た、けれど細部の違う別の世界。……正しい世界ならいるはずのない、わたし達がいるこの時間」
疑問はあったものの、キリちゃん先輩に続いて部屋へと踏み入る。
行灯の落とす影が、なめらかに畳の上を滑っていく。予想通り、広い部屋のようだった。
身体に纏わる煙の白が、空気と攪拌されて無色に解ける。
「時間遡行と、並行時空移動。観測者の立場にでもならない限り、わたし達が経験しているのが、どちらなのかは分かりませんよね」
ここ数日、ほとんどの時間を城内で過ごしているせいだろう。
煙で麻痺してしまっているらしく、どうにも鼻が利かないのではっきりとしないのだが、この部屋、既視感のある臭いがする。さっき番兵二人組を見た時と同じ感覚に、眉を顰めた。どちらも覚えがある気がしてならないのに、心当たりを探ろうとすると煙に巻かれたように曖昧になる。
「先輩先輩。その話、今じゃなきゃ駄目なやつ?」
「はい。今じゃないとダメな話です」
「そっかー」
……状況の分からない人ではないはず、なんだけどな。
信濃さんも信濃さんで、さっきはキリちゃん先輩を急かした癖に、今は口を挟もうともしない。先輩の話が終わってからじゃないと、聞いたところで答えてはくれないだろう。時間が無いとはなんだったのか。こっそりとため息をつく。
「――“知らず、莊周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に莊周と為れるかを”」
「“胡蝶の夢”だっけ?」
「はい。わたし達、夢を見ているんだと思うんです」
「夢を」
今じゃないとダメらしい、キリちゃん先輩の話は何が言いたいのかどうにもよく分らない。
手持ちで使えるのは軽騎の刀装兵と薬研さん。弓は信濃さんに譲ったが、どちらにせよ室内戦向きではない。戦力不足の現状、選択肢は逃げ隠れして敵をやり過ごすか、さもなければ敵大将を討ち取るか。
煙の認識阻害がある。逃げ隠れするなら室内の方が向いているとはいっても、キリちゃん先輩同様、この時代の人間もあまり巻き込みたくは――。
「そうです。時間遡行では矛盾します。歴史を改変しても守っても、あり得るはずの無かった戦いが、何一つ痕跡も、影響も残さないなんてありえません。……だからきっと、莊周が胡蝶の夢を見ていたように。わたし達は、並行時空の夢を見ているんです」
足が止まる。
「そのはず、なのに」
何か。何かを今、掴みかけたような気がした。
嫌な感じがする。言い知れぬ違和感が急速に膨らんでいく。脳の片隅で警鐘が鳴っている。
キリちゃん先輩の話は終わらない。私に向けてしているはずのお喋りは、何処か独り言めいて、自問自答の色を帯びる。
「だんだん、だんだん。区別がつかなくなってくるんです。ここにはいない。この時代に来なかった、来るはずもなかったどこかの“わたし”と。それとも、この“わたし”は――あの“わたし”が見ている夢なんでしょうか」
廊下には置行灯があったのに、どうしてか、室内には何もない。だから暗い。暗くて、広いのだ。
信濃さんの持っている小さな行灯の光程度では、部屋の全体像を把握できないくらい。
他に誰かいても、すぐには気付けないくらいに。
「夢の中なら。これが平行時空での出来事なら、矛盾は矛盾のままでも許されます。どうでもいい事になってくれます。平成を生きるわたし達が、寛永の時代にいる事も。歴史を変える事が許されるかどうかも」
信濃さんが足を止める。キリちゃん先輩が立ち止まる。
距離にして十数歩。得体の知れない焦燥感が、チリチリと神経を炙っている。
「ね。そう思いませんか。思ってくれませんか。これは許される事だって。どうか、肯定してくれませんか――どこかの世界の生きてるわたしを、死んだわたしが生きる事を」
「ぇ」
今。キリちゃん先輩は、何を言った。
言葉は聞こえたはずだった。なのに頭が痺れたように、それ以上の思考を拒否している。
耳鳴りがする。じんわりと、嫌な汗が毛穴から噴き出す。指先が震える。薄皮を隔てた向こう側で、薬研さんが私に何かを訴えている。いつもなら明瞭なはずの、音にならない声は遠い。心臓が奇妙に重さを増した。
ぱたん、と。背後で、音を立てて襖が閉まる。
行灯の及ぶ光の外。広い室内の、濃い暗がりから鋼の擦れる音がする。
私と、キリちゃん先輩と、信濃さん。それ以外の誰か達の、押し殺した息遣いが聞こえる。
信濃さんは何も言わない。行灯を持ったまま黙然と、主の影のように慎ましく寄り添っている。
「……おねがい。どうか、一緒に来てくれませんか」
先輩が振り返る。
差し伸べられた手は、まるで祈りのようだった。
「あなたがいてくれるなら、わたし……この夢を、続けられる気がするんです」
行灯の届かない闇の中、熾火が茫洋と浮かび上がる。
赤く、紅く。色に反して冷え冷えと無情な、寒々しい鬼火の群れ。
部屋にひしめく遡行軍が。先輩の後ろから、私を無言で睥睨していた。
■ ■ ■
青白く陰る摺りガラスの空から、臘雪がぽつり、ぽつりと落ちて肌を濡らす。
まだらに降り始めた白を気にするそぶりも見せず、一路、佐賀城目指して人通りの少ない道を三つの人影が駆け抜けていく。一つは次郎太刀。残る二つは、亀甲貞宗と物吉貞宗――時の政府に所属する、調査チームの刀剣男士である。
行く手を鋭い目で睨みながら、次郎太刀は並走する政府の刀へ怒鳴るように質した。
「どういう事さ、信濃が本霊のありかを断言できるはずがないってのは!」
「言葉通りの意味です! 信濃さんの分霊は例外なく、この時期の記憶が欠落しているんです!」
「この時代の“信濃藤四郎”の持ち主には二通りの説があってね! 加賀藩主の前田光高と、ここ、肥前佐賀藩主の鍋島忠直!」
「どちらが正しいのかは、未来に残った資料からは分かっていません! ですから――」
「政府は両方とも信濃の“逸話”から削ったって事だね……!」
“刀剣男士”がただの刀であった頃の記憶は、政府が取捨選択した“逸話”と“歴史”、そして何より“物語”に拠っている。
要するに、彼等を“刀剣男士”として成立させる過程で削ぎ落された記憶もあれば、付け足された記憶もあるという事だ。最たる例としては、今剣が挙げられるだろう。源義経の刀としての物語を与えられた、実際にはあり得なかったはずの思い出を語る短刀男士。歴史上では間違っていようと、少なくとも極めるまで、今剣にとってそれは事実として在った過去の出来事だったのだ。
信濃藤四郎は逆だ。矛盾する来歴の逸話双方を削り落とされた。
歴史においてどちらが正解だったのか。過去に遡って調べなければ分からないのと同様、信濃藤四郎にとっても、どちらが正しかったのかは判然としない。彼の中ではどちらも等しく、存在しない記憶であるのだから。
「何より、加賀藩へ行った調査チームがあちらでこの時代の信濃さんの所在を確認しています! ですから、こっちにあるはずがないんです!」
信濃藤四郎の修行先相違によって明らかになった歴史改変。
未来において、問題になったのはこの時代の次。即ち、“今”の持ち主が、信濃藤四郎を譲渡した先だ。
何故、正しい伝来先である出羽庄内藩の酒井家ではなく、若狭小浜藩の酒井家へと歴史が変わってしまったのか。その調査を行う上でこの時代、“誰が”今の持ち主であったのかは必要不可欠な情報である。
そうして政府は見事、加賀藩にこの時代の信濃藤四郎が存在する事を突き止め、そちらの調査・歴史改変阻止の為に多くの人手を割り振った。外れと見做されたここ、肥前佐賀藩側に亀甲と物吉にいたのは、本来伝来すべき先である出羽庄内藩の酒井家の動向を追ってきたが故だ。この成り行きには、時の政府もさぞや頭が痛い事だろう。
「それにしても、まさか平成の人間が関わっているなんてね……! 一緒にいたなら歴史改変の動機は分かるかい!?」
「さーね! そっちは本人に聞くしかないが、嘘をついてた理由はアタシにも分かるよ!」
本霊の所在を騙った信濃藤四郎。次郎太刀を監視し、調査チームとの接触を確認すると同時に狼煙を上げて何処かに何かを知らせた遡行軍の短刀に、佐賀城へ近付くほどに数を増す時間遡行軍の刀達。
あそこにいて気付かなかったのは、間違いなく病除けの煙が認識阻害の効果を持っていたが故だ。のように頭から信じ切ってはいなくとも、油断が過ぎたようである。
……どうして歴史修正主義者が、刀剣男士を連れているのか。何故、この時代の歴史を改変したのか。未だ謎は残れども、状況証拠は十二分。あの“キリちゃん先輩”と呼ばれる審神者は、十中八九歴史修正主義者である――そうして、そうである以上。この時代、この場所にいたあの人間が、信濃藤四郎の歴史改変に無関係であるはずもない。
だというのにこの五日間、平穏そのものだった。いくらでも隙はあったはずなのに、次郎太刀に対してすら、監視を張り付かせてはいても一度だって手を出そうとしなかったのは。
「戦いたくなかったんだろ、と! 昔っからの友達とさぁ!」
あの審神者と共にいる時の、を見る信濃の目を覚えている。
己の審神者と上手くいっていないが故の悋気であるとばかり思っていたが、あの刺々しさは、邪魔だと分かっているはずの敵を排除できないが故のものでもあったのだろう。おそらくはあの審神者達にとっても、との再会は予定外の出来事だった。帰還を最優先課題とし、戦力の少なさを理由に信濃の件を深く調べようとしなかったのも手伝って、微妙な均衡の上に五日間の平穏は成り立っていたのだ。
けれどその平穏は終わった。猶予は終わったのだ。次郎太刀が、調査チームと出会った事で。
「増援が来るまで、無事であってくれればいいんだけれどね……!」
苦悩の色濃い亀甲の言葉を嘲笑うように、行く手を遮って現れた時間遡行軍が、無言のうちに抜刀する。
あれだけ情を傾ける相手だ。割り切れるだけの非情さがあるなら、この五日間は成り立たなかった。“キリちゃん先輩”に、を殺せはしないだろう。
だから、懸念があるとすれば――。
「早まるんじゃないよ……!」
祈るようにひとりごちて、次郎太刀は敵を迎え撃つべく鞘を払う。
保険は確かにかけてある。けれどそれは、呼ばれなければ意味を成さない。
太陽が陰る。ぬくもりを芯から奪い去る、つめたい雪が降りしきる。立ちはだかる遡行軍の背後。黒々としたシルエットとなってそびえる佐賀城は、墓標に似ていた。
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