愛する者の死を、すんなり認められる者はどれだけいるだろう。
家族、恋人、同僚、友人。その愛がどのような種類のものであるかは問題ではない。誰かの死に、失うことにどれだけ慣れているかもだ。戦争中らしく多くの死に触れ、死に慣らされたにとっても、その告白は受け入れ難いものだった。
“キリちゃん先輩”。雨宮 霧恵は、審神者では無かったはずなのだから。
「うそ」
死んでいるはずのない人間だった。少なくとも、の中では。
敵陣営といえど、当の本人が目の前にいるとなれば余計にだ。会話すべきではないと。抜け、戦えと薬研に訴えられながら――は、戦う意思を持てなかった。聞く耳さえも。
遡行軍に囲まれている事も、生殺与奪の権を握られている事すらどうだっていい。
冷静に、冷徹に。私情を交えず、個人的感情を棚上げになんて、到底できるはずもなかった。
「だって――だって、なら! この時代に来る必要なんてないでしょ!? 先輩も私も、平成の人間だ! 死ななくていいようにする為なら、寛永に来る意味なんてないはずだ……!」
縋るような、半ば悲鳴に近いの叫びに、「……それ、は……」と霧恵が見る間に青褪めて口ごもる。
カタカタと震え、守るように己を抱き締める主人を背に庇い、信濃が挑戦的に顎を上げた。
「そうだね。あの時代だけで終われれば良かったんだけど」
嘘であってくれと願う気持ちそのまま、瞬きも忘れて必死なの視線を受けて、信濃が片手を己の顔の前にかざす。
右半分を覆い、通り過ぎた手のひらの下から覗いたのは、肉を伴わない異形の骨と、鬼火の燃えるがらんどうの眼窩。血肉を備えて端正に整った刀剣男士の顔半分と、一目で異形の者と分かる、鬼の角持つ遡行軍のもう半分。
継ぎ接ぎの異相にが息を呑む。背後に庇った主に流し目をくれて、信濃が肩を竦めた。
「2014年での時間遡行は難しいんだ。悔しいけど、今の俺じゃどれだけやっても大将を助けてあげられない。……だから、強くなろうと思ってさ」
「強く……」
「そう。そっちの本物と一緒だよ。極修行って言うんだっけ?」
何処にでもいる“信濃藤四郎”のように笑って、信濃は刀剣男士のままの左頬を指で弾いた。
「本物の“信濃藤四郎”はこの時期、加賀藩前田家にある。こっちにいるのは贋作の俺。
外聞が悪かったんだろうね、金の為に将軍家から下賜された刀を売り払うなんて。まあ、体裁を取り繕う為に選ばれた俺が言う事じゃないだろうけど」
「がん、さく? でも、その姿――それに、体裁を取り繕う、って……」
「前田家は外様ながら、御三家並みの扱いを受ける雄藩だ。恩を売る意味もあったんじゃないかな? “信濃藤四郎”はここの城主、鍋島忠直様がお亡くなりになる際、酒井家に譲られた事になっている……公式にはね。俺はその話に真実味を持たせるため、わざわざ作風の似た刀から見繕われた代役さ」
「公式には……見繕われた……まさか」
信濃の言葉を咀嚼するように繰り返し、が表情を強張らせる。
「だから刀剣男士の姿で顕現したって事? 一時期でも、本物として扱われたから――」
「多分ね。でも、大事なのはそこじゃない。大事なのは、俺が本物に成り代われる可能性があるってことだ」
信濃が笑う。嗤う。
“信濃藤四郎”とはまるで違う、飢えた獣のような顔で。
「こんな面の皮一枚だけじゃない。あいつの“物語”全部奪えば、俺が“信濃藤四郎”になる! そうすればきっと足りる、今度こそ手が届く。大将を助けられる強さに。大将を殺したあの男を、殺される前に殺せるくらいに!!」
その言葉に理解する。
未来で取り沙汰されていた、信濃藤四郎の修行先違い。
政府が異例の速さで対応に乗り出したこの一件の主犯が、目の前にいる“贋作”信濃藤四郎なのだと。
この一件が2014年、何者かに友人が殺される事で引き起こされたのだと。
受け入れ難い現実だった。友達が死んだ、というのと同じくらいに。にとって、元の時代とは平和で、平穏であるものと信じて疑わなかったから尚更だ。
本当なら。審神者になったあの日の間抜け極まりない出来事さえなかったなら、間違いなく彼女も2014年に居続けただろう。当然だ、その時代を生きてきたのだから。
……仲のいい友達といえど、四六時中一緒にいた訳では無い。
2014年のいつ、その事件が起きたのかは知らない。分からない。
けれど、思わずにはいられなかった。
あの時代に居続けたなら。
審神者になりさえしなければ。何か、できたのではないかと。
「お願いです。どうか……どうか、お願いだからわたしを選んで……」
祈るように切実に、ほとんど泣き縋らんばかりの声音で霧恵が乞う。
血が滲むほど唇を噛んで、はきつく目を閉じる。
人生は一度きり。失敗も、敗北も、一度目で勝ちを掴めなかったのならそのまま受け入れて然るべきもので。感情論で、積木を組み替えるような行為を許してはならない。するべきではない。
分かっている。理解しているのだ。霧恵の死んだ2014年のその日が、にとっては変えてはならない過去では無く、未来と同義であるのだとしても。
「わたし、あなたに死んで欲しくない……あなたに、ひどいことしたくないんです……!」
血を吐くような叫びだった。
皮肉なものだ。旗色を明確に、こうして対峙していてすら、互いを敵だと思えない。
味方できるものならしたかった。助けられるものなら助けてあげたいし、困っているなら力になりたい。
長い付き合いの友達だ。ひどいことをしたくないのも、言いたくないのも、だって同じだった。
「……無理だよ、先輩」
それでも、味方にはなれない。なれるはずがないのだ。
死にたくない。それは人間であるならば、決して間違いであるはずがない根源的な願いだった。誰からであろうと、非難される謂れもない。悲劇的な最期を提示されて、後世の為にそれを受け入れてくれなどと、そんな事を言われてハイそうですかと受け入れられるとすれば、それは余程の聖人君子か、さもなければ自殺志願者くらいである。
「信濃の件はもう掴まれてる。私がそっちに付いたって変わらない。政府が見逃しておくはずがない……! やってくる部隊全部を殺せなきゃ、歴史改変は成立しないんだよ!?」
問題は。その生を勝ち取らんが為に、数多の犠牲を払わなければならないという事だ。
利己的な人間であれば良かった。その犠牲を、必要な事だと割り切れる人間であれば良かった。自分が生き残る為だと、振り返りもしないような酷薄さがあれば良かったのに。
「できるの、キリちゃん先輩に! ――できないでしょ!?」
「それ、は……」
白い顔で、霧恵は喘ぐように喉元を抑えて俯く。
ヒュウヒュウと、僅かに開いた唇を開閉から漏れ出るのは呼吸だけだ。
黒い緞帳に広げ、並べた人形のように、室内に控える遡行軍は動かない。武器の群れ、暴力の象徴を従えながらも言葉を途切れさせた主の意を汲むように、信濃が「いいよ」と甘い声音で告げる。
「大将がそういうの無理なの、俺もよく知ってるから。だからいいよ。本物に成り代わるのは諦めて、この時代から手を引いても」
「……しなの?」
霧恵が、驚きも露わに信濃を見た。
血の気の通わぬ顔ながら、目を丸くしてぽかんとあっけに取られたその顔は、少なからず、安堵しているようでもある。真逆に、は険しい表情のまま、信濃に胡乱な眼差しを向けた。
「先に酒井家に伝来すればいいだろうって思ったのに、未来でおかしなことになっちゃってるみたいだし。本物に差し向けた連中は連中で、邪魔が入っててあいつを壊せてないみたいだしね」
大げさにため息をついてみせ。
場違いなほど明るい調子で、信濃が提案する。
「2014年で歴史改変するのに、俺だけじゃ駄目だった。でも、あなたが味方してくれるなら話は変わってくる。危険を犯してまで、本物に成り代わる必要が無くなる」
「ッ待ってください信濃、それは――」
声を上げようとした霧恵の肩を、遡行軍の打刀がそっと押さえる。
害意の欠片も伺えないそれに、けれど霧恵は恐怖に強張り、言葉を詰まらせた。信濃が前のめりに吼える。
「だから俺達を選んでよ。こっちについてよ! あなたは大将の友達なんでしょ!?」
継ぎ接ぎの双眸が、挑むように真っ直ぐな視線でを射貫く。
主を助ける為ならどんな犠牲も、手段も厭わない。嫌いで、気に入らない相手とだって手を組む。何だってしてみせる。そんな信念を感じさせる、迷いのない目だった。
その揺るぎなさに、は眉尻を下げる。憎めたらよかった。嫌いになれたらよかった。おまえら歴史修正主義者なんて信用できないと。突っぱねられたら、よかったのに。
「……そうだね。そうすれば、犠牲はそのクソ野郎だけになる。先輩の件に関しては」
多くの死に触れてきた。多くの命を、奪ってきた。
かつて、夏の演練場で。死んでいった審神者達の、潰れ、欠けて横たわる、死に顔の数々を覚えている。
誰だったかも分からなくなった、折れた刀剣男士達の、破片の鈍色を覚えている。
この手にかけた、秋田藤四郎の最期を覚えている。
仲間の安全を最優先して。あるいは誤解と行き違いから。そんな成り行きで折れと命じた不在本丸の刀剣男士も、本丸単位で数えたって、両手両足の指でも足りはしない。
「でも、そこで終わりじゃない。これが戦争である以上、助けて、そこで終わりじゃないんだよ」
一度手を貸したなら、後は転落するだけだ。
歴史修正主義者側の審神者として、次を、そのまた次を求められることになるのは目に見えている。
時の政府か遡行軍。どちらかの勝ちが確定するまで、足抜けできるはずがないのだ。次は改変した歴史を、正されない為に足掻く事になるだろう。何より歴史改変について、遡行軍については多くの疑問点がある。勝ちをつかみ取るまで、どれだけの死を積み上げる事になるのか。その果てに何が残るのか、そもそも残るものがあるのかどうかも疑わしい。
それでも、審神者になったばかりの頃だったら。あの本丸の主として認められる前までだったら、その手を取れたかも知れなかったのに。他の何もかもを打ち捨てて、ただの一個人として。終わりの見えない戦いに身を投じることになろうとも、友達を助ける事を、躊躇いながらも感情のまま、選び取れたかも知れなかった。
仮定の話だ。
もう取り戻せない。あったかも知れない可能性の、終わった話。
ほんの数秒。目を伏せて、は苦く笑った。
隠し持っていた薬研を抜き放つ。途端、殺気立つ周囲に肌が粟立つ。それに脅える事は無い。にとって、それは肌に馴染んだ空気だ。
戦場の気配。流血の気配。信濃の背後で、霧恵が小さく悲鳴を上げて縮こまる。
その姿に突き付けられる。随分、遠いところまで来てしまったのだと。
「ごめんね、キリちゃん先輩」
この戦いが並行時空に跨るもので。霧恵が言った通り、歴史を守ることの矛盾も何もかもが泡沫の夢に等しいものだったとしても、それを寝返る理由にはできないのだ。
敵の言う事に説得力があるはずもない。時の政府が間違っているなら、審神者として糾し、正さねばならない。そうでなければ、今日までの何もかもが徒労になる。
……死にたくなかった。生きていたかった。だから殺した。
これからも、きっと殺していけるだろう。積み上がるばかりの死を、どれほど重荷に感じていても。
無責任だと分かっている。
背負い、担ってきたものの全てをなげうつ、愚かな結論だと知っている。
それでも。刀剣男士の主として、どうしようもなく失格の回答であろうとも――殺さなければいけない理由ばかりだと、理解していても。
「これぐらいしか、もう、してあげられないんだ」
友達を、殺したくはなかったのだ。
信濃が目を見開く。耳の奥でノイズが騒ぐ。
うなじが灼けつく熱を訴える。一緒に死んで、なんて。あんな馬鹿な約束、さっさと撤回しておくべきだったと。自嘲と共に心の中で初期刀に詫びながら、は己の喉に向けた薬研の切っ先を、勢いよく突き降ろして。
ぞぶ、
あるべき痛みも衝撃も無かった。
伝わってくるのは、質量のあるゼラチンでも刺したかのような異様な感触。
虚をつかれて開いた視界を占めるのは、薄幸の、とでも形容詞を付けたくなる白皙の美貌だ。他審神者の連れ歩く分霊としては見覚えのあるそれに、思考が止まる。
何が起きているのか。
理解が追い付かず唖然とする主人を、薄い藤色の双眸が、ヒトならざる燐光を帯びて見返していた。
「駄目だぜ? 主。それは駄目だ」
鼻先の触れ合う距離で。
媚びるような、吐き気がするほど甘ったるい声音が囁く。
全ての音が消えた中。常のような思念ではなく、肉を伴った薬研藤四郎の声だけが、怖気の走るような怒りを孕んで耳を犯す。無表情だった白皙の美貌が、狂相に歪む。
「そんな人間風情の為に――あんたが死ぬ、なんてなぁ!」
足元が爆ぜた。
の主観としては、そうとしか表現しようがなかっただろう。
当然だ。それは、彼女の足元から現れた――薄闇に存在を曖昧にしていたその影から。獲物を見つけた猟犬を思わせる速度で、あるいは罠にかかった獲物へ襲い掛かる、捕食者のような速度で。
影から溢れるようにしてまろび出た異様な質量。瞬く間に、黒々とうねる一筋の束へ纏められたソレが、百足の形をした鋼の下肢が、吐露された激情そのままの激しさで以て室内を薙ぎ払う。
「ッ大将!」
大きい、太いというのはそれだけで強い。鉄パイプで電柱と殴り合って勝負になるか、という話だ。
畳を抉り襖を跳ね飛ばし柱を叩き割るモノから、それでも主人を間一髪で退避させたのは、敵ながらも短刀の面目躍如だった。……もし、冷静に観察できたとしたら。はさぞ動揺した事だろう。かつて相対したソレのよりはまだ造形こそまっとうであったし、サイズも小さかったが――何処へ行くにも持ち歩き、望まれる通り道具として使ってきた懐刀が、かの大百足を否応なく連想させる姿で顕現した事実に。
けれど、にそんな余裕などあるはずもなかった。
短刀を握っていた手に、薬研の手が被さる。
握りしめたまま。何かを殺せる形のまま、決して離れないように。万力の力を込めて――人間では到底抗いようもない万力で以て、を引きずっていく。彼女の意思など物ともせずに。
「ぃ――ぎ、ぁ゛……ッ」
腕が軋む。人間の肉の脆さに対する思慮など欠片も無い強引さだった。
万力で拘束され、引きずられる動きはさながら幼子に手加減なく振り回される人形の如しであっただろう。予備動作のない、可動域を無視した挙動に関節が悲鳴を上げる。激痛の中、骨が砕ける音が聞こえる。
時間にして十数秒。見る間に霧恵との距離が近付く。薬研が何をしようとしているのかを察して、必死で逃れようとあがく、重ねられた手が軋む。砕け、潰れる。
「――やめ、――やげんっ……!」
痛みに塗り潰されそうな意識を繋ぎ止めながら、辛うじて絞り出した制止は、けれど誰にも受け止められずに潰えて失せる。瞬きすら忘れて目を見開くの眼前で、立ちはだかった信濃が玩具のようにひしゃげ跳ぶ。
呆然と、ただ立ち尽くす霧恵と視線が交わる。
薬研と重ねられた手が、骨が砕けて意のままにならない腕が、短刀を握り締めたまま、当然のように霧恵に向かって振りかぶられて。
「じ――じろうさん――――!!」
咄嗟に喉をついた叫びが、薬研の哄笑に塗り潰される。
緩慢に引き延ばされた刹那。霧恵と目を合わせたまま、恐怖に硬直した顔を、瞳を、間近でつぶさに見詰めながら、の手が、薬研の刃が、その胸へと突き立てられる。
肉を抉る、確かな手応え。生暖かい液体が肌を濡らす。
持ち主の意に反して、握り締めた短刀が、あたたかくぬめる肉の中へと潜り込んでいく。
見つめ合った霧恵の瞳に苦痛が混じる。困ったように。を見返す眦が、唇が、ふいに、やわらかく緩む。
刃が引き抜かれる。零れ落ちる血の雫が、刀身を滑って赤を更に塗り重ねる。胸を貫かれた友が、静かに、諦めたように瞼を落とし。力なく、崩れ落ちて。
「ぁ゛」
殺したくなかった。
殺したくなんて、なかった。
誰かを殺せる人じゃないと、知っていたから。
だから。自分が死ねば、霧恵が、先を諦める事は分かっていた。
「は、は……あはは…………」
息が苦しかった。
腹の底からせり上がってくる衝動が、喉を震わす。
どうしようもなく痛かった。どこが痛いのか分からなかった。
目の前に崩れ落ちた、積み上げたばかりの死の前で。とめどなく溢れる激情そのままに、顎を反らす。
「ははは……あは、はははは――は、ははっ……はははははははははははははっ! あは、ひ、ひぁ、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
背負ってきた、何もかもを投げ捨てる行為だった。
担ってきた、何もかもを裏切る行為だった。
それでも良かった。友達を殺して。その死を肯定してまで生き残るよりは、余程。
「そうだ、そうだ! やっぱり、あんたはこうでなきゃ――ぁ?」
いっそ無邪気な調子ではしゃぐ薬研の言葉が、ふいに途切れた。
ボール大の何かが跳ね飛ぶ。一転して憎々し気な舌打ちが響くと同時に、室内を圧していた質量が、惨劇の痕を残して瞬く間に失せ消える。
血塗れの、薄汚れて濡れた腕が、拘束から開放されて尚、笑い続ける女の頭を抱き込んだ。
「なんで、もっと早く呼ばない……!」
苦り切った、次郎太刀の声が最後。
その先の出来事を、は覚えていない。
■ ■ ■
“夢は妄想転倒のつくりごとである。
夢に金の玉を手にしたとしても、覚めたその手に金玉が握られているはずもない。”
安倍晴明「金烏玉兎集」(訳:藤巻一保)より抜粋
■ ■ ■
「――…………」
十二月。真冬のアスファルトに横たわって、女――“キリちゃん先輩”こと雨宮 霧恵は、緩慢に瞬きを落とした。
とうに日は暮れ、通りには他に誰もいない。近くにある家々は、人が住んでいるのかいないのか。窓に灯る明りも無く、黒々としたシルエットと化して薄ぼんやりと存在を主張する事もせず、均一の背景となって立ち並んでいる。合間に存在する枯草で覆われた田畑や空き地では、真冬の寒さ故だろう。虫の気配も伺えない。まばらに立ち並ぶ街灯だけが、物憂げに時折点滅しながら、かろうじて、彼女を夜闇から遠ざけている。
「ゆめ」
遠ざかっていく車のエンジン音を聞きながら、霧恵は焦点のぼやけた眼差しを虚空へ投げかけて、唇を震わせる。
既に、痛みは無かった。感覚も。所在なくあちこちに散らばった鞄の中身と同じように、己の血で赤黒く変色したアスファルトに横たわったままで。霧恵はかけそき音で、傍目には譫言としか思えない囁きを、深い安堵と共に落とす。
「……よかった」
胸を占めていたはずの死への恐怖は、幻のように消えていた。どうしようもない孤独感も。
きっと、先程まで見ていた夢のせいだろう。霧恵は思う。
「なかないで……?」
誰もいない虚空へ囁きかけながら、彼女は宥めるように、慰めるように、てのひらにあたる守り刀の柄を撫でる。
それは最早、撫でるというよりは痙攣する指が触れた、とでも形容した方がいいような動きであったが、霧恵にとってはもう、分からない事だった。
「……ね。てを、にぎっていてください」
とつとつと乞う音は、満足に呂律も回っていない。
ひょうひょうと寒々しい、大通りから離れた路地でただ一人。自身の血に塗れて寂しく凍えていく女は、それこそ日差しを受けて微睡んでいる最中のような穏やかさで、虚空に向かって甘えるように懇願する。
怖い夢を見た。
怖くて、悲しくて、酷い。生き延びるために、誰かを犠牲にしなければならない夢だった。
ハッピーエンドなんてどこにもない。終わりの見えない、ただ延々と続く地獄の予感に身を震わせるしかないような。
死ぬ事がおそろしくてたまらない癖に、誰かを犠牲にする覚悟も持てず。
かと言って、生きる事を諦めるだけの踏ん切りもつかず。
自分のために手を汚す守り刀を、止めもできず脅えているだけの、愚かで、情けなくて、どうしようもない。罪を重ねていくだけの夢。
「ねむる、まで……おしま、ぃ……ま……で……」
怖くて、寂しくて、おそろしくて。
だから名前を呼んで、唯一応えて夢に出て来てくれた友達が、最後に見せた顔を思い返しながら霧恵は微笑む。
ああ。本当に――ほんとうに。あれが、ただの夢で良かったと。心の底から安心しきって。
「……、……――」
笑みを浮かべた唇が、最期に紡いだ言葉は音にもならず。
虚空を揺蕩っていた瞳から光が消える。守り刀に触れていた指先が、力を失って弛緩する。
物言わぬ躯と化した主の傍。刀身に大きな亀裂の入った短刀が、後を追うようにひび割れて、砕けた。
ぱきん。
■ ■ ■
信濃藤四郎に係る歴史改変について、概要及び顛末を記す。
西暦2207年4月25日に解禁された信濃藤四郎の極修行の過程において、美濃国の審神者(仔細は別紙添付資料を参照)より、歴史改変の疑義の申し出有り。職権を以て事前調査を行ったところ疑義に相違なしと認定、事の重大性を鑑み、同年5月1日、政府案件とした。
本件は歴史修正主義者・雨宮 霧恵、並びに贋作・信濃藤四郎の主導によって行われたものである。この贋作が真作の逸話・来歴乗っ取りの為、本来伝来すべき出羽庄内藩酒井家へ先に伝来しようとした結果、信濃藤四郎の修行先が歴史に齟齬の少ない形で収斂、若狭小浜藩酒井家へすり替わった。
かの歴史修正主義者の最終目的は贋作による真作への成り代わり、並びにそれを利用しての内部工作にこそあったものと推察される。
真作破壊の為、加賀藩へ現れた遡行軍については政府調査チームい班がこれを防衛・阻止。
歴史修正主義者の蠢動は、転移事故により現地に居合わせた相模国イチマルハチ本丸審神者・雛鴉によって阻止されたが、同時に所有短刀・薬研藤四郎のシステム“刀剣”からの逸脱及び完全変質を確認。同審神者所有の次郎太刀がこれを鎮静化している。当該変異体の処遇については別途検討されたし。
また、この贋作・信濃藤四郎は遡行軍でありながら刀剣男士の姿をしていたとの報告が上がっているが、これは当該遡行軍が信濃藤四郎の贋作であった事、寛永十二年から十三年の歴史上において、この贋作が真作として扱われていた事を起因とした、類感呪術による刀剣の励起・顕現プロセスの一部共鳴があった結果に依るものである。同現象による敵味方の識別誤認は任務遂行における重大な誤謬の元となり得る為、陰陽部にて優先的に対策を講じるものとする。
座敷牢へ幽閉されていた同時代人の救出、半壊した佐賀城大広間の修復については遅延なく完了。以後の経過観察にて、本件に関する記憶消去を起因とした致命的齟齬、問題発生は確認されなかった。
西暦2014年12月16日においても、雨宮 霧恵の正史通りの死亡、及び贋作・信濃藤四郎の完全破壊を確認。
同年6月13日、信濃藤四郎における歴史改変の完全修正が成されたものと認定し、同分霊全振りに対する外出禁止、並びに各本丸での観察措置命令を解除。
後日、治療中の雛鴉への聴取を以て、本件を完了とする。
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◎おまけ&追悼リスト
>キリちゃん先輩(雨宮 霧恵)
ごく普通の善良な一般人兼、無辜の犠牲者概念。
今までシリーズ追悼リストに載ってきた/これから載る人々代表。
歴史に名を残すこと無く消える、誰かの子、誰かの隣人、誰かの知り合い、誰かを愛し誰かに愛された、誰かの大切な人。いつかどこかで貴方に親切にしてくれた、名前も知らない見知らぬ他人。
>信濃藤四郎(贋作)
刀剣男士のガワで顕現した遡行軍の短刀。
本物偽物真作贋作に拘りは無かったが、必要だったので奪いに行った。主犯で元凶。
その身は贋作であろうとも、愛され、継がれ、祈りを受けた。鋼一片、与えられた仮初の血肉、目覚めた心の全ては己が主の明日の為に。殉じた。
>現地の皆様
一ヶ月ぶんくらい記憶があいまいフワッティ。
>(雛鴉)
SAN値直葬不可避。
現地で過ごす日数1D100で決めさせたら5を叩き出したのはどうでもいい余談。
>薬研さん
解釈違い絶許過激派ガチ勢。
このたび公式()を解釈に合わせた。
>次郎さん
ノーコメント。
>行間にしか存在しない後方支援担当班
黎明で「いやこれ無茶振りでは?」案件片付けてたから大規模破壊(城)やってもいけるやろって思いました。