くるくるくるくる繰り返す。
 望む結果に辿り着くまで。起点をとうに行き過ぎて、最初の場面へ何度でも。




 ■  ■  ■


 ぽっぽっぽー、はとぽっぽー。

「カァ」
「かー」
「グァアアア」
「ぐあー?」

 つぶらなお目々で見上げてくるカラスが、こて、と首を傾げるような仕草をする。
 同じようにこて、と同じ角度で首を傾けてオウム返しに鳴き声を真似てみれば、そうだ、上手いぞ! その調子だ! と周囲のオーディエンスもカァカァガァガァ大合唱。うーんやさしいせかい。やさいせいかつ。

「キリちゃん先輩おかえりなさーい」
「はい。ただいま、です」

 トテトテ寄ってくるキリちゃん先輩に、集会はお開きだぜ! とばかりカラス達が一斉に飛び立つ。
 黒い雲霞うんかが沸き立つように立ち昇る様は成程、ヒッチコックが映画にするのも納得の大迫力だ。個人的にはなんか無意味にテンション上がるやつである。翼があったら一緒にバッサーって飛び立ってみたいところ。
ぐるりと数度旋回し、そうして去っていくカラス達を見送りながら「行ってしまいましたね」とキリちゃん先輩が少し残念そうな声を出す。

「あのカラス達、いつの間に手懐けたんですか?」
「いや何も。たまたま目が合ったんで真似して適当にカアカアやってたら何故だかあんな事に」
「それは……どうしてなんでしょうね……?」
「なんでだろうね……?」

 不思議だなぁと二人そろって首を傾げる。
 偶然カラス語がいい感じに通じたとかじゃないかと思うけど。たぶん。あとはあれだ、私が政府から貰った審神者名が“雛鴉”だからとか。いやこれはこじつけ感あるな。でもカラスに親しみを覚えているのは確かである。他人って感じがしない。そこはかとなく溢れ出す身内感よ。
 昔からこんな親しみ覚えてたっけ? とは思えども、考えれば考えるほどに物心ついた頃からそうだった気がしないでも……ない……? という気持ちになってきたので今更意識しただけ説が濃厚である。

「……カーラースー♪ 何故なくのー♪」
「カラスの勝手でしょう♪」
「コケコッコー!」
「っふふ、ニワトリじゃないですかぁ……!」
「体はニワトリでも心は誇り高くカラス」
「醜いアヒルの子改め、白いカラスの子、ですね?」
「おっアルビノ個体かな」
「アルビノ個体は総じて神の御使いですから、つまり、選ばれしカラスのニワトリ……?」
「なるほど選ばれしチキン」
「ふふふふっ……焼かれてる……っふふ……!」
「ふぁーみちきー」
「シーソレーソ ラーレ♪ レ ラーシラーレ ソー♪」
「笑いながらも音階完璧。さすが先輩……侮れない子……!」

 知性が死んだ軽口を叩きながら、裾を払って立ち上がる。
 笑うキリちゃん先輩の表情は柔らかで明るく、ここで再会してからというもの、あわく付き纏い続けている暗い憂いの影は伺えない。うむ、よきかなよきかな。

「水汲みの次は何しろって?」
「ふふ、ふふふっ……ええと、繕い物だそうです」
「やった、楽な仕事きた」

 明るい外から城内へ戻れば、明暗の落差に目が眩む。
 キリちゃん先輩が行灯に火を灯して掲げた。そこかしこに染み付いた煙の臭いと、燃える行灯油の臭いが混ざり合う。滞在四日目ともなれば慣れてもくるが、それでも好きにはなれない臭いに神経がざらつく。おそとの新鮮な空気恋しい。
 しかし、もう四日かぁ。迎えが来ない可能性は考えてたから、予想の範囲内といえば範囲内だ。
 私達がやっているのは時間遡行である。未来でどれだけ調査に時間がかかろうと、遡行した時間軸と位置情報さえ特定できてさえいれば、それこそこの時代に来た当日か、遅くても翌日の時間軸へ迎えを出す事ができる。
 なのに迎えが無いという事は、私達が使った遡行径路が記録されておらず、未来から出ている迎えが大幅にズレた時間軸で到着しているか、そうでなければ今いる時間軸が、何らかの理由で外部から干渉できなくなっているか。
 あとは、未来の私達が調査チームに合流して自力帰還を果たしている、というのも考えられる。
 何にせよ、どれが正解かは現時点では分からない。叶うならネタバレが欲しいところ。

「それにしても、すごく力持ちになりましたね。お話で聞く限りでは時はそんなイメージ無かったんですが、審神者のお仕事って肉体労働なんですか? その、手も……だいぶボロボロになってますし」
「あー……いや……うん……? わりと体力勝負なとこあるっちゃあるから、そうとも言える、かなぁ。でも手がボロボロなのは単なる自業自得。仕事柄、弓扱ったり馬に乗ったりする機会が多いんだけど、ほんとは手袋しなきゃいけないのに不精して付けてないからさ」
「それは不精しちゃいけないと思います」
「ウィッス」
「次からはちゃんと付けましょう。いいですね?」
「ウィッス」

 ふぇえ真顔で放たれるド正論っよおぃ……。
 他ならぬキリちゃん先輩との約束だ。守らないという選択肢なんてはなから無いが、ボロボロの手が元通りになるまでにはいったいどれだけかかる事やら。
 複雑な気持ちで、並んで歩く先輩とは反対側の手のひらを広げて視線を落とす。
 弓は元より、必要とあれば薬研さんを振るう時もあるし、全力疾走する馬の手綱を力いっぱい引く事もある。皮膚が固くなって、あちこちにタコができるのは自明の理だ。何なら何回か皮がズルズルになった経験もあるのを考えれば、綺麗に治っている、と言っていいくらいだろう。
 そう。治りは、しているのだ。些細な擦過傷も、切り傷も。打ち身だってちゃんと治る。
 悪路を走り回ったせいで剥がれた爪だって生えてくる。痕が残ったものもあれば、綺麗に治ったものもある。

「この際聞いちゃいますけど、髪はどうして切っちゃったんです? ずっと長かったのに」
「うーん。刀剣男士ってどいつもこいつも無駄に顔いいんだよね。で、次郎さん見れば分かると思うんだけど、髪もツヤッツヤの美髪じゃん。囲まれてると敗北した気持ちになるじゃん。だからイメチェンしちゃえーって思って。似合ってるでしょ?」

『髪の伸びが異常に悪い、ですか。……それでしたら、マヨヒガで過ごしているからではないかと。
 髪には霊力が宿るモノ。現とは異なる位相にございますので、余剰霊力の状態が分かりやすい形で反映しているのではないでしょうか』

 審神者になってまだ半年も経たない頃。
 私の抱いた疑問に、こんさんがそう答えてくれたのを覚えている。
 信じたい気持ちはある。でも、同じくらい疑ってもいる。あの時のこんさんの見立ては、正しいものだったのか。そこに、嘘は無かったのか。こんさんは一貫して私に協力的ではあるけれど、能動的にタブーを教える事はできなかった。政府から行動制限を設けられているから、と。こんさんも、主人であるかずらさんも間違いなく審神者の味方だ。何度も助けられてきた。そこに疑いの余地はない。
 けれど、人は時に善意で嘘をつく。味方だからと言っても、真実を全て語ってくれているとは限らないのだ。
 疑い始めればキリが無くて、穿って見出せば際限もない。それでいて、誰かに――それこそ、次郎さんに聞いてみるだけの度胸は持てないのだからお笑い種だ。

「比べて卑下する事は無かったと思います。……でも、その髪型は似合ってます」
「だよね。ありがとキリちゃん先輩」

 審神者になったばかりの時に切った髪は未だに、ようやく鎖骨に届くかという長さにしか伸びていない。割れたり、内側ではく離した爪は生え変わってきていても、適当な長さで揃える事は極端に減った。
 欠ければ埋まる。元の形に補われる。
 その先に成長/老化が無いのであれば、それは、結局は人間擬きでしかない刀剣男士と何が違うというのだろう。

「この部屋に積んであるのが全部、繕って欲しい分だそうです」
「うわ多っ。これ残り業務時間じゃ終わらないやつでは?」
「今日中に終わらせなくても大丈夫だそうですよ。他に用を申し付けられないようなら、しばらくはこの仕事ですね」
「なるなる。ならどうにかなるね。裁縫道具……は置きっぱか。いいけどさ、探す手間省けたし」

 しんしんと染み入ってくる暗い考えを、会話と目の前の出来事へ意識的に集中する事で、思考を切り替え、追い払う。行灯を置き、その周囲に並んで座って繕い物を手繰り寄せる。えーと繕うとこ繕うとこ……あ、ここか。

「そういえばニワトリで思い出したんですが、いまだに双子の黄身に遭遇できないんですよね」
「あー、あったねそんな事。でも私もあの一回だけだったし、双子って狙って出るものでもなくない?」
「それはそうなんですが。でも、わたしも遭遇してみたいです」
「いつか会えるってたぶん。っていうか先輩、ひょっとしてまだ毎食卵続いてるん?」
「はい。卵は何にでも使える万能完全食ですから」
「なんて綺麗な曇りなきまなこ。けどスコーンは?」
「卵無しに限りますね。クロテッドクリームとラズベリージャムたっぷりで」
「うわめっちゃ食べたくなってきた!」

 ちくちく針と手を動かしながら、キリちゃん先輩と下らなくてどうでもいい、その瞬間だけ楽しいお喋りに興じてグダグダうだうだ盛り上がる。特に食については大盛り上がり不可避である。輸送とか保存の関係もあるのは分かってるんだけどね、うん。未来の食に慣れ親しんだ身としては、思う所しかない訳で。
 そうやって楽しい話題ばかりで時間を浪費していられればいいのだが、巻き込まれた身としては、どうしても気になるし、聞かずにはいられないのだろう。
 「昨日の話なんですが」ふいに真面目なトーンで、キリちゃん先輩が話題を変える。

「疑問に思ったんですけど、時の政府は本当に信じていて大丈夫なんですか?」
「おっとキリちゃん先輩鋭い。まあそれは思うよね。歴史改変の手段を用意できる、っていう意味では政府も歴史修正主義者と同じだし」

 過去で起きた事の全てが記録されている訳では無いし、歴史に残っているような事柄ですら後から新事実が出てきたりするものだ。アカシックレコードでも閲覧できない限り、完全な対処なんて望みようもないのは少し考えれば分かる事である。

「それは……時の政府も歴史修正主義者なのでは、と?」
「おおっと否定できない……あっ待って、今思い付いたんだけどもしやこれ、政府が単に上手くやっただけの歴史修正主義者最大派閥ってセンもある?」
「派閥争いですか。変えたい過去が折り合わないならあり得ることですね」
「うわーっ否定できる要素が無い!」

 あくまでも可能性の話だ。可能性であって事実ではない。――とおもいますたぶんきっと。
 でもそれはないと頭っから否定するには、残念ながら政府とのあんな事こんな事あったよねメモリアルが濃ゆすぎた。初期刀選びもナシで元ブラック本丸引継ぎとか……そりゃもう色々……ありましたね……? こんなフワッフワ状態で命とか人生とか賭けさせられる審神者の身にもなって欲しいところだが、真実を知りたいならコッソリ探るか、中枢に食い込むレベルで出世して情報を得られる立場になるかの二択である。お祟り申し上げて宜しかろうか。

「え……否定できる要素、無いんですか……?」
「いやだってね!? 一般ぺーぺーのヒラ審神者に下りてくる情報なんてそう多くないんだって! 不都合な事、結構黙ってるだろうなーって思うし。労働環境には思うところしかないブラックっぷりだし? 守れって言われる歴史も、政府が取捨選択ミスってる可能性はある訳で」

 政府側で付き合いのある職員さんとか、良くしてくれる人もたくさんいるけどそれはそれ、これはこれである。
 全体環境で見ると依然クソなのは変わりないし、何より人間は間違える生き物だ。ついでに言えば、素直に政府の言う事を信じられるほど純真だったり世間知らずだったりな審神者の方がレアだろう。歴史修正主義者よりはマシってだけで政府のことは好きじゃないけど刀剣男士は好き。審神者って大抵そんな塩梅。

「労働環境ブラックなんですか?」
「あっうん。そこは暗黒ブラック漆黒労働」
「暗黒ブラック漆黒労働」
「実質男所帯だから主って言っても肩身狭いし、住み込みだから公私の区分なくって私的な時間とか無いし等しいし、休日だって決まってないから365日24時間仕事みたいなもんだし。スマホ死んでて現世と連絡取れないのに手紙もダメって言われるし、里帰りできないし、外出も限定されてるから旅行なんてもっての外。給料良くても残業代つかないし危険手当込みって思うとむしろ時間給換算したら安いまである」

 ぶっちゃけ忙殺されてるのは自業自得なとこあるし、一緒に頑張ってくれる同僚にも、しっぺ返しが怖くなるレベルで恵まれてる。悪いことばっかりとは言わない。言わないよ?
 ただ、審神者という仕事に対してキリちゃん先輩が下手に夢を見るような事があってはいけないのだ。
 絶対なりたくないという固い決意を抱いて欲しい、友人としての切実な気持ち。
挙げられた分かりやすい一例に、「とてもブラックですねそれは」と狙い通りの同意が返る。

「守ってる歴史が本当に正史だという保証は無い上、労働環境も劣悪。それなら、審神者の仕事なんて辞めてしまってもいいんじゃないでしょうか」
「んんー……でもなぁ、審神者仲間放ってイチ抜けする訳にもいかないし」

 そもそも、退職がさせて貰えない。できて転勤だけっていうね。
 これが現世なら問答無用で労基に駆け込むのだが、悲しいかな、労基の更に上は政府。つまり駆け込んでも無意味なのである。きたないさすがせいふきたない。

「それに、私一人が仕事投げ出しても意味ないからさ。場当たり的に動いてるようにしか思えない歴史修正主義者よりは方針に一貫性あるし、少なくとも、“歴史改変を防ぐ”のは正しいと思ってる。だからまあ、頑張れるうちは頑張るよ」
「……そう言いながら、無理してでも最後まで踏ん張っちゃうじゃないですか」
「私、やりたくないとこは人に押し付けたり巻き込んだりするし。手抜きできないキリちゃん先輩よりはマシでしょ」
「めんどくさいって言う癖に、大変な事ほど一人で背負い込む人に言われたくないです」

 キリちゃん先輩が、怒っているような嘆いているような、そんな複雑な顔をする。心配を無下にした罪悪感はあれど、もし自由に辞められたとしたって頷けるはずもないのだから、笑って適当に場を濁す。
 そう。たらればの話だろうと、その仮定にもう意味は無いのだ。
 退職の自由を自分に許せる段階なんて、とっくの昔に通り過ぎてしまったのだから。

「キリちゃん先輩は、歴史修正主義者のことどう思う?」
「歴史修正主義者のこと、ですか」

 振られた話題に、戸惑いも露わにキリちゃん先輩は黙り込んだ。
 考え込むその姿から手元の着物に視線を落とし、止まってしまっていた繕い物を再開する。
どれくらい考え込んでいただろうか。「そう、ですね」思案に沈む声音で、言葉を選びながら喋っているんだろうな、というとつとつとした調子で先輩が言葉を紡ぐ。

「歴史修正主義者には、歴史修正主義者の言い分があるのだと思っています。その……力を与えた存在が何を目的としているのか、というのは分かりませんが、不幸な未来を変えたい、誰かを助けたい、という願い自体は、一概に否定されるべきものではないんじゃないか、と……」
「そうだね。キリちゃん先輩らしい、優しい考えでいいと思うよ」
「……は、違うんですか?」
「んー。確かに、キリちゃん先輩の言う事も正しいとは思うんだけど」

 先に待つのが悲劇なら、変えようとするのは人の性だ。
 生きたいと、幸せになりたいと抗うのは当然の事だ。それを否定はすまい。
 咎を負うべきはそれを知らせた者であり、その時代を生きる当人をなじる権利など誰にもありはしない。
 正しく死ねというのは、結局は未来を生きる者の傲慢で、押しつけだ。
 歴史改変で得られるものが誰しもが幸せな世界であるというのなら、私だって喜んで賛同しよう。
 けれど。そんな世界は有り得ない。誰かが笑えば誰かが泣く。今も昔も敗者のいないハッピーエンドは御伽噺でしかなくて、未来は、そんな“今”という“結果”の積み重ねの上にある。
 悲劇も喜劇も、歴史という積木のほんの一部分。どれだけ苦い悲劇であろうと、直視に堪えない惨劇であろうとも。感情論で、積木を組み替えるような行為を許してはならないのだ。
 それを許す事はそのまま、私達の生きる“今”の瓦解に繋がるのだから。

「人生は一度きりでいい。失敗も、敗北も、一度目で勝ちを掴めなかったのならそのまま受け入れて然るべきだ」

 だから、せめて敬意を払わねばならない。その願いを誠実に、真摯に否定しなければならない。足元に積み重なるのが死山血河の地獄だとしても、その上に成り立つ“今”を生きていたいと願う者として、ひとでなしと謗られようと情を傾けてはならないのだ。

 ――と、いう真面目な考えもあるにはあるけどまぁぶっちゃけ「無駄なあがきで余計な仕事増やしやがってド畜生大人しく死んどけやクソが」(中指おったて)がありのままの飾らぬ本音だけどな!!!!!
 あいつらのせいでいらない苦労してるからなマジで。ブラック本丸始めとした身内のアレソレだって、この戦争が起きさえしてなきゃ問題自体発生しようがないし。苦労の大元大元凶にかける慈悲とか持ち合わせてないです。

「私はさ、キリちゃん先輩。時間の流れは、誰しもに公正であるべきだと思ってるよ」
「……ここにいるわたし達が、正史の存在ではなかったとしても?」

 ぱちり、と瞬いた。
 会話が途切れ、音を忘れたかのような静寂が降りた室内で、不安定にゆらゆら揺れる行灯の明かりに照らされて、二人分の影絵が無数に分岐して踊る。
 これまで考えてもみなかった事だった。自然、繕い物をする手が止まる。顔を上げてキリちゃん先輩の方を見れば、気まずそうに目を逸らされた。
 何かを堪えるような、悼むような横顔の上で、ほの赤い色彩を帯びた陰影が揺れる。

「そうだね」

 もし、自分が正史の存在ではなかったとして。
 歴史が正しいものとなれば、消えてしまう存在だとしたら。
 そこまで考え。ゆるり、と目蓋を落とす。目を伏せる。

「刀剣男士の主としては。きっと、それが正解だ」


 ■  ■  ■


 カツ、カツ、カツ、カツ。

 鋭利な曲線を描いて整えられた爪先が、幅広の肘掛けを叩く。
 ソファへ半ば寝そべるようにして身を預ける女主人のせわしない爪先を目線で追いながら、相模国イチマルハチ本丸付の管狐は、机の上で恭しく言葉を締めくくった。

「以上が現状報告となります」
「あら。……あらあらあらあら」

 政府施設の一室。
 おっとりと、緩慢な仕草で小首を傾げるのは退廃的で煽情的な一人の女だった。
 艶やかな黒髪に、濡れて潤んだ切れ長の黒瞳。口づけを誘う婀娜めいた唇。ほっそりとした首と肩から続く豊満な胸が、襟ぐりの開いた白いワイシャツから谷間を覗かせて視線を誘う。
 直截的に色香を誇示するその様は、しかし下賤な娼婦と蔑むにはあまりにも毒気が強い。
 政府の使いである管狐達を管理・使役する“飯綱使い”達の次席。かずらはぽってりと赤い唇に、同じくらい鮮やかな爪を押し当てた。

「あの下種に顕現された刀どもの癖に、存外我慢が保つものねぇ。アテが外れてしまったわ」

 一ヶ月ほど前に行方不明となり、現在もいまだ発見されていない相模国イチマルハチ本丸の審神者“雛鴉”。
 かずら達が話題にしているのは、くだんの審神者が前任者から引き継いだ――より正確には、背負い込まされた刀剣男士についてである。

殿の顕現なさった刀がああですので。問題行動を起こすだけの余力なぞ、根こそぎ搾り取られているのでございましょう」
「やぁねえ。文句のつけようが無いったら」

 刀剣男士は規格こそ共通のものだが、顕現した審神者による根本への影響を免れ得ない。
 例えば雛鴉の刀がやれる事は全部やる、と言わんばかりの行動力で主を探しに行きたいです!!!!!!! と手を変え品を変え毎日毎日朝昼晩、合法的な手段から人脈を駆使してのギリギリセーフな手段まで駆使して政府に訴え続けている辺りとか。
 審神者不在の状態での時間遡行は厳罰対象だ。それを理解していて尚、特例的に認めてもいいのではないか? という声が末端の政府職員や術者からチラホラ上がってるのは、刀剣男士達の努力の成果であったし、主である雛鴉自身の人徳もあるだろう。
 かずらとて手を回すのはやぶさかではなかったが、残念ながら彼女一人の権限でどうにかなる案件では無い。軍部のご老体以外にも、上役をあと一人くらいはその気にさせてくれなければ動けないのが口惜しいところだ。
 唇から覗いた小蛇のような舌先が、淫猥な動きで爪をねぶる。

「自分達で処分の口実を作ってくれるの、こぉんなにも期待して待ってるっていうのに。本当にままならないわぁ」

 刀剣男士は政府の術者達が付喪神本霊承認の下、ヒトが扱いやすいようにと物語と逸話で鋳型を作った戦士達だ。使われた物語に真偽は問われず、使われた逸話も取捨選択の上に在る。型に押し込め、削ぎ落し。そうやって成立過程に人の手が加わっている彼等は、付喪神本霊と完全なイコールでは結ばれない。
 だから顕現する審神者の質は程度の差はあれども性根に影響するし、顕現されてから築いていった“物語”次第では、まったく別種の“ナニカ”に成り果ててしまうケースも存在する。それこそ、いつぞやの大演練で出た大百足のように。

「それなりにマトモなモノもおりますが……引継いだ全振り、でございますか?」
「そうよぉ。この件が片付いたら、いい加減どうにかしてあげなくちゃいけないわね」

 どのように外面を取り繕おうと、内実が変わる訳では無い。
 屑に顕現された刀剣男士など、いかに表面を取り繕おうと屑以外になれるものか。
 だが巧妙に取り繕われているのなら、それが巧妙であればある程、内実は見抜き難くなる。
 手間のかかる事、とぼやきながらも浮かべる表情は情を滲ませて柔らかい。
 雛鴉は大事な大事な政府の“ネームド”で、その中でも成功作となる公算の大きい、経過が順調な審神者である。
 なにより、かずら個人としても彼女はとびきりのお気に入りだ。管狐を通じてとはいえ、他より目をかけてきたという自負もある。
 万が一、億が一の可能性であろうとも、不穏分子は可能な限り取り除いてやりたい。
 凡百のいち審神者であった、本丸を引き継いだばかりの頃とはもう違うのだ。雛鴉のこれからに、捻じれ歪んだ堕ち刀予備軍など不必要を通り越して害悪ですらあった。

「アレ等をどうにかするとなると、相当引っ掻き回す必要があるのでは?」

 けれど、それが実現可能かどうかはまた話が別である。
 今や相模国イチマルハチ本丸専属を任じられ、就任当時からと付き合ってきたこんのすけとしても、排除できるなら排除した方がいいというのには同感だ。しかし、前任者から受け継いだ刀の中でも特にあの二振り――山姥切国広と薬研藤四郎が、並大抵の手段でどうにかできるとは思えなかった。
 の無警戒さ、信頼度を考えれば、殊更に警戒すべきは薬研藤四郎だろう。顕現はしておらずとも、心は目覚めたままなのだ。今は円満にやっていてもいつ何時、何をしでかすか分かったものではない。
 昨年の大演練でも、一度は大百足に取り込まれた癖に無事戻って来たと聞いて絶句したものだ。は折れずにいてくれたと嬉しそうだったので、折れていてくれた方が絶対良かった、という本音を表に出す事はしなかったが。本当にアレがまだ、刀剣男士と呼んでいいモノのままなのか。大いに疑わしいというのが、こんのすけの正直な所感である。

「本丸が立ち行かなくなる危険性を考えれば、大人しく好機が巡るのを待つが良策かと愚考しますが……」
「あらあらあら。お前にしては随分と察しの悪いこと」

 管狐の忠言を呆れたふうに鼻で笑って、かずらは頬杖をついた。
 この部屋には管狐しかいないというのに、いちいち匂いやかな女の所作はそれが彼女の無意識にまで染み付いた生来のソレである事を伺わせる。
 パンがなければお菓子を食べれば良いのよ、とフランス革命の露と消えた某王妃が実際言ったかどうかは定かではないが――少なくともそう言いかねない、と思われたパブリックイメージそのままの傲慢さで、かずらは悪びれなくのたまう。

「多くの審神者を纏め上げる優秀な人材に、いつまでもいち審神者としての仕事までさせておくものではないわ?」
「主様のご決定とあらば、こんのすけめは従うのみではございますが」

 いささか非生物的ですらある淡泊さで応答していた管狐が、言葉を切ってぱたりと尾を揺らした。女主人を見上げる瞳に明確な呆れを滲ませて、我が子を案じる親さながら、真剣な声色で告げる。

「こればかりは直接会って、殿の反応を見ながら事を進めた方が宜しいですよ? 同性受け最悪な主様が逃げ腰なのは分かりますが」
「おだまり」




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