この時代にやって来てはや三日目。
 最初は次郎じろうさんと町で調査チーム探しをするつもりでいたのだが、この時代の服を着ていても私は悪目立ちする、という事であえなく却下となってしまった。遺憾の意。
 かと言って調査チームが見つかるか、いつ来るか分からない迎えをただ座して待っている、なんてのは論外な訳で。

「先輩先輩、ここの部屋掃除する上で注意するとこってある?」
「ここは……そうですね、気を付けるのは雨戸だけです」
「了解、他と一緒で開けちゃダメね」

 結果として、キリちゃん先輩と一緒に佐賀城の奉公人をする事になった。
 一緒に働いていれば何かあった時にも対処がしやすいし、住み込みなので仮宿を他に探す必要もない。更には次郎さん曰く、城で焚いてる煙が認識阻害の効果も持っているから、遡行軍にかち合ってもやり過ごせる可能性が高い。つまり、城外よりよっぽど安全らしかった。わぁお得。
 そんな都合よく雇ってもらえるのかとは思ったが、何でも城主様の病がうつるのを恐れてたくさん辞めてしまって、今とんでもなく人手不足なんだとか。
 渡りに船ではあるんだけど、城内でほとんど人を見かけないのってもしやそれでか。
 なお、仕事スタイルは古式ゆかしく見て学べ系である。この採用即実戦投入なノリ、審神者就任当時を思い出す。でも教育係として組まされたのはキリちゃん先輩だし、回ってくる仕事は洗濯掃除繕い物料理の下ごしらえとかの雑事オンリーなので、まぁまだ良心的というか常識的だ。
 文明の利器は無いけどね! 歴史を先取りはできないので致し方なし。

「灯り、少し寄せますね」
「はいはーい」

 病除けにガンガン煙を焚いてる関係で、城内のほとんどは閉め切られて開放厳禁になっている。こまめに空気入れ替えた方が絶対病除けにはいいんだけどな……? 酸欠の不安もあるし。滞在してる間だけでも、換気の概念前倒し導入できないものか。
 窓は何ヶ所か免除されているところもあるけど、外に面した場所は雨戸を閉めていて、掃除ですら開けられないので昼最中でも城内は暗い。場所によっては伸ばした自分の手が見えなくなるレベルの暗さである。
 行灯は一応支給されてるけど、二人で一つだから何かとやり辛いのなんのって。

「ロウソクってどうやって作るんだったっけ」
「油を凝固剤で固める……?」
「Hey Kiri、江戸時代でお手軽に出来る油と凝固剤の入手方法」
「すみません、よく分かりません」
「ですよねー」

 せっせと掃除に勤しみながらも、同じくらい勤勉な舌は互いに留まるそぶりもない。
 ころころころと話題は転がる。下らない話、どうでもいい話、文明を恋しがっての嘆き、そうして何より、審神者や遡行軍のあれこれについて。

――と、まぁ。比叡山延暦寺の焼き討ちを阻止しようとしたり、織田信長を本能寺から逃がそうとしたりと遡行軍もいろんな時代で動いてはいるんだけど、“歴史修正主義者”全体としての目的はいまだによく分かってないんだよね。キリちゃん先輩が指摘した通り、場当たり的っていうか」
「そう、なんですか。……だとすると歴史修正主義者は、その時代その時代で、歴史を変えようとする動機のある相手を勧誘して回っているのでしょうか……?」
「ぽい。変えたい歴史は一つだけで他はこっちの手数を削る為の囮なのかも知れないし、歴史改変に時の政府が邪魔だから、その排除にだけ足並み揃えてるだけの集団って可能性もある」

 歴史を変えたい。未来を変えたい。
 生きていれば大なり小なり、そうした願いは誰しもが抱くものだろう。
 ただ、忘れてならないのはこれが“戦争”だという事だ。一個人の時間犯罪を取り締まっているのではない。軍事行動と呼べるだけの大戦力を率いて攻勢を仕掛けてきている以上、トップに立つ“誰か”は必ず存在するし、目的も存在しているはずなのだ。
 けれどそれを予想するにしたって、情報が足りなければ出てくるのは真偽不明の妄想でしかない訳で。

「あと、気になってるのがタイムパラドックスがどう処理されるかなんだよね。歴史が変わったらそもそもの動機が消えるでしょ? その矛盾がどうなるのかなーって」

 そういえば、審神者になってから明確に“歴史が変わった”って分かったのこれが初だな。
 もしや信濃しなのさんの件、思ったよりヤバかったりする? 戦力整えてないとサクッと死ぬやつだったりする? えっ今とんでもなく信濃さん本霊が身近なスポットなんですが。これ最悪、キリちゃん先輩守りながら遡行軍とゲリラ戦しないといけなくなったりする?
 掃除がてら、城内きっちり探索してマップ頭に叩き込んでおかなきゃだなぁ……。下っ端奉公人には入れない区画もあるっちゃあるけど、規模は違っても審神者の本丸と基本構造は似てるから、そこはどうにかなるだろう。

「並行時空、というのはどうでしょう」
「うん?」

 キリちゃん先輩がぽつり、と口に出した言葉にハタキを振るう手を止める。
 並行時空。それはあるタイミングから分岐した、根元を同じくする異なる世界を指す言葉だ。分かりやすく例えるなら、紅茶と緑茶と抹茶は全部お茶だけど別物、みたいな。そこまで違いが大きく無くても、紅茶に砂糖を入れるかストレートで飲むか。砂糖をどれだけ入れるかによっても、同じ紅茶がまったくの別物に変わってしまう。そんな感じ。
 疑問形で返した相槌に、先輩は半ば自分の思考を纏めるように考えを口に出していく。

「未来に生きるわたし達がここにいる、という自体、歴史の流れの上では矛盾が生じるはずです。本来の歴史の形を正史とすれば、わたし達が今、ここにいるという時点で“歴史は変わった”と言えるのではないでしょうか」
「あー、厳密に定義すればそうなるよねぇ」
「はい。わたし達がこの時代へ来なかった世界。同じ時代へ来ているけれど、会う事の無かった世界。会ったけれど別行動を取ることにした世界。どれも実現したかも知れない可能性です。選択肢は多く、けれどわたし達が選んだのはこの現在である……。その変化、違いがささやかであるから違っていても分からないように、実際には異なる並行世界の過去へ出入りしているけれど気付いていないだけ、というのはあり得るのではないかと」
「確かに、それなら正史を知りながら歴史改変、も成り立つね。別の並行世界から来てるから、自分には不利益のある形で歴史が変わろうが影響受けないし、何よりタイムパラドックスは生じない。よく似た別世界なんだから」

 歴史を変える、という行為は現在の先。“未来”を知っていなければ成り立たない。
 けれど歴史を変えればその“未来”は当然、違うものになる訳で。
 例えば源義経だ。歴史を変え、彼を上手く長生きさせられたとしよう。兄と仲違いなどせず、鎌倉で頼朝の執政を支えて穏やかに生きて死んだとして。そうなると、そもそも歴史を変える動機が消えるのだ。
 結果を変えれば動機も消える。時間遡行する理由自体が消えれば、未来において時間遡行自体が発生しないのではないのか。その辺りの矛盾が生じず整合性が取れる、という意味ではとてもいい仮説だと思うけど。

「でもさ先輩、それならわざわざ歴史変えようって頑張る意味ある? 並行時空のどこかには、最初から望む未来が掴める時空だってあるでしょ」
「でも、そうした時空ばかりでは無いですよね? 全ての並行時空で、自分の望む未来を実現させるために歴史改変しようとしているのかも知れません」
「遡行軍はハッピーエンド過激派だった……?」
「ハッピーエンド過激派。言い得て妙ですね」

 吐息のような笑い声が零れる。やったぜウケた。

「問題があるとすれば、そうやって動いてる歴史修正主義者が色んな時代にたくさんいるって事かなぁ。バタフライ・エフェクト。キリちゃん先輩知ってる?」
「蝶の羽ばたきは遠い地の気象に影響を与えうる……カオス理論の寓意的表現ですね」
「うん。歴史修正主義者は、大きく未来を変えようとしてる。歴史上名だたる武将や戦に関与して、勝った人間を負けさせたり、死んだ人間を生き延びさせようとしたり。そうなってくると、起きるはずのなかった場所で戦が起きたり、産まれるはずの人間が産まれなかったり、とかありえるよね。祖父母辺りまでならまだしも、この時代の先祖が何処で何してたとか分からないから手の打ちようもないし」

 そう。例え並行時空の話が真として、歴史修正主義者が本当にハッピーエンド過激派の集まりだったとしても、必ずどこかで矛盾は生じるのだ。過去が変われば未来も変わる。Aという地点で歴史改変を成し遂げた影響で、Bという地点が消失したとしたら? 助けたいと思っている相手が、産まれた事実から喪われてしまったのだとすれば。

「……内部分裂待ったなし、ですね」
「それ」

 顔を見合わせ、深々と頷き合う。
 最終的には勝ち残ったやつが正しい歴史! ってなる流れですね分かります。
 となると有利なのは必然、歴史遡行の力をバラ撒いた元凶だろう。でも何がしたいのかマジで分かんない。意味不明。歴史遡行軍クソほど多くて本命に切り込めてないのか、時の政府が情報統制してるだけなのかも謎である。さっさと戦争終わらせてくれるならいいんだけど、正直そこは期待薄かなぁって……。

「にしてもキリちゃん先輩、信濃さんにはあんまり話聞けてない感じ?」

 気持ち顔を寄せて小声で問えば、キリちゃん先輩の表情が見る間に曇った。
 言葉に詰まって畳に視線を落とす先輩の懐には、薄暗くて分かり辛いが、信濃さんの本体である短刀が忍ばせてある。持っていれば何か襲ってきた時に対処できるから、と預けられたらしい。なお人型部分は遡行軍を警戒して、城の外周を哨戒中だ。
 黙ったまま、止めていた手を動かしてハタキ掛けを再開する。ぱふぱふぽふぽふ。行灯の光を受け、ふわふわと舞い落ちる埃はそこだけ切り取れば幻想的だ。「……その」言い辛そうに、苦しそうに小さな声がぽそぽそと吐露する。

「信濃は、わたしにとても良くしてくれています。ただ……優しいのも、思いやってくれている事も分かってはいるんですが、どうにも……」

 刀剣男士は基本、人間に好意的で忠実だ。
 初対面の“主”に、自分の命を当然のように預けてしまえるくらいには。
 やっている事が戦争だ。そうでなければ、指揮官教育も信頼の積み上げもナシに兵を従わせる事なんてできないだろう。刀剣男士がそういう“モノ”であるからこそ、この戦争は成り立っている。
 よその本丸の分霊でしか知らないが、信濃さんは短刀で、そこまでクセの強いタイプでも無い。たかが数日の付き合いだろうと、キリちゃん先輩とこうも分かりやすくディスコミュになるほど相性が悪いとは思わない――ここまで何事も無かったのなら。
 ……言葉濁してるけど、私と次郎さんとが合流する前に何かあったっぽいんだよなー……。何したんだろ。目の前で誰か斬りでもしたかな。

「信濃さん……だけじゃないか。刀剣男士のこと、怖い?」

 キリちゃん先輩の方は見ないで、あくまでも軽い口調で問いを投げかける。
 泣くのを堪えるような声音が、自嘲と自責の色を帯びた。

「ひどい、ですよね。こんな……」
「ううん? 真面目に向き合ってる辺り、キリちゃん先輩立派だなーって思うよ?」

 相手が刀で、いくらでも増やせる分霊だから。
 それを念頭に、物と人の価値観の違いを加味したとしても、その好意も忠誠も、受け入れるにはあまりに重い。ましてや相手は何も言わない“物”ではなく、今や“同じヒトガタ”をした“意志ある存在”となっているのだ。
 噂にだけ聞くチュートリアル出陣の洗礼。あれで特大の罪悪感でも刻み込まれていなければ、器物から向けられる、持ち主に対する無私の愛なんてモノ、及び腰になろうというものだろう。
 キリちゃん先輩と信濃さんに、何があったかは知らない。言いたくないなら、無理に聞くべきではない話だ。友達同士の会話に、平等な観点からの公正公平な意見なんて必要無いのだから。

「でもほどほどにね。いちいち律儀に受け取ってたら、こっちが潰れるだけだから」

 トラウマを刻まれ、負い目を持って。それでようやく、捧げられる博愛への受け皿ができる。
 傷付けた事への赦しと肯定。そこから始まる途切れ目のない遡行軍との戦いによる負傷と治癒、年月を経る事で起きる慣れと感情の鈍化によって、その愛を当たり前のモノと受け入れ、気に留めなくなっていくのだろう。
 なお、これはあくまでも私の推測である。チュートリアルも初期刀選びも無かった引継ぎ審神者組だからね! だいぶスルーできるようになったけど、ぶっちゃけ自分の刀にも時々引いてる。私を見る目になんかおかしなフィルターかかってる気がするのよなあいつら。でもフィルター抜いたら抜いたで失望される予感しかないっていう。ははは失望程度ですめばいいなぁ!

「そう、でしょうか」
「んー……そう見えないなら多分、次郎さん相手だからかなぁ。審神者なりたてからの付き合いだからね。次郎さんが私の特別枠ってだけ」
「特別枠……ですか。それはひょっとして、恋人とか、そういう……?」

 キリちゃん先輩からさらりと飛び出た衝撃ワードに呼吸が止まった。
 手に持っていたはずのハタキが畳の上に転がる。
 戦場以外では基本、物らしく沈黙している懐の薬研さんまでもが?????? という言語化し難い衝撃の感情をお届けしてくる。「落としましたよ」と拾ってくれたハタキをキリちゃん先輩から受け取りながら、脳に馴染まない衝撃ワードを呆然と繰り返した。

「こいびと」
「? はい」
「こいびと?」
「はい」
「……こいびと……?」
「えっと……違う、みたいですね」

ほっとしたような、困ったような微苦笑を浮かべて「ごめんなさい、男女だからって安直でした」と謝罪するキリちゃん先輩に、けれど衝撃が消化しきれず呆然としたまま「だんじょ」と呟くしかできない。
 うん。うん、まあ。はい。刀剣男士は、刀剣男士なので。うん。……男だね?
 次郎さんが女性的なのは見た目だけだ。顕現したばかりの時はどっち分類なのか密かに悩んだものだが、流石にここまで付き合いが続けば嫌でも分かる。
 刀剣男士と付き合っていると思わしき審神者を見かけた事だって何度となくある。ただ、それが自分達の関係にも適応される場合がある――というのを、考えたことも無かっただけで。

「……ひょっとして、まだ昔の失恋引きずってたりします?」
「ウ゛ァ゛ッ」

 古傷ーッ!!!!!!!!

「おやめくださいキリちゃん先輩……当て馬悪役モブみたいなムーヴしちゃった過去の傷を掘り返すのは……! あれ黒歴史だから未来永劫葬っておかせて……!?」
「言うほど酷い事はしてなかったと思うんですけど……」
「先輩学年違ったじゃん! あ゛あ゛あ゛あ゛両想いだとかクッソ痛い勘違いしてた過去の自分殴りたい……!」
「微笑ましくて可愛かったよってみんな言ってたじゃないですか」
「いーやあれ何人か半笑いだった! あれで私は身に沁みたね、口に出されない好意は低めに見積もるものだって! 特に恋愛、主に恋愛!!」
「もう勘違いするもんかって一時期口癖になってましたね……」
「自分に都合のいいようにしか解釈しないの最高に頭悪かったんだわ。フられて残当」

 青春時代のめんどくせぇ女ムーヴ、自分史上ワースト3に入るレベルで黒歴史だからな。羞恥心で死ねるまである。そういう意味では、失恋を引きずっていると言えなくもない。
 なお、このワースト3黒歴史には次郎さんに一緒に死ねとかメンヘラってる事も含まれていたりする。
 あれ、撤回するどころか重ねて確認しては安心してるんだから救いよう皆無なんだよなぁ……。精神的に弱ってる時ほどあの約束を支えにしちゃってるの、ほんっと洒落になってない。
 何故人は愚かムーヴ繰り返してしまうのか。学習してどうぞ。

「ともかく! 次郎さんが特別っていうのはそういう色恋のあれそれでは無いから。刀剣男士の主に対する感情を勘違いしてはいけない。あれは純粋な信頼で忠誠です。信濃さんと一緒。そういう意図とか微塵もないです。オーライ?」
「えっと……はい。そうですね」

 キリちゃん先輩は曖昧な微苦笑で頷いた。
 同じように純粋な気持ちで応えられてない現実を突き付けられるリアクションは止めて頂けまいか。自分の気持ちとかね、うん。戦争が終わるまで生きていられるかも怪しいんだから考えない方がいいアレだよ?
 大切にされるのも必要とされるのも、あくまでも私が審神者で、主だからだ。それ以外の何物でもあるはずがない。セクハラ上司とか須らく死ぬべきそうすべき。
 大丈夫。分かっているから、勘違いはしていない。
 大きく深呼吸して、脱線した話を戻す。

「えーと。だからさ、先輩。罪悪感あるかもだけど、好意に応えられないからってそんな深刻にならなくても大丈夫だよ。信濃さんがどうあれ、キリちゃん先輩にはキリちゃん先輩の気持ちがあるでしょ? 私だって次郎さんとすぐ仲良くなった訳じゃないし。ただ、信濃さんはキリちゃん先輩を傷付けない。怖くても、そこだけは疑わないであげて欲しいかな」

 まぁ言うは易し、行うは難しなんだけども。
 でもなー信頼関係が構築されてるかどうかって、何かあった時、如実に出てきちゃうからなー……。はい。不信感こじらせた挙句盛大にやらかしたのは私です。審神者就任当時のあれそれ、思い出すたびに心に傷を負ってしまうな。とてもつらい。

「あ、そうだ忘れてた。キリちゃん先輩これ持ってて」

 昨日渡すつもりだったのに、この時代の着物買ってきてもらったり勤務初日でバタバタしててすっかり忘れてたや。うっかりうっかり。困惑しながら受け取ったキリちゃん先輩は、渡されたものに更に困惑を深めたようだった。

「あの、これは?」
「おじさんの きんのたま だよ! ――っていうのは冗談で、刀装兵っていう装備アイテム。こっちは信濃さん、こっちはキリちゃん先輩のやつね。信濃さんは……使い方教えなくても分かるかな、刀剣男士だし。先輩には休憩時間にでも教えるねー」
「はぁ……」
「あっ次郎さんには渡したの内緒で」

 困惑しながら生返事をするキリちゃん先輩に、唇に人差し指をあててしー、とジェスチャーしてみせる。
少しの沈黙の後、「それは」困ったように眉を下げて、先輩は囁くように声を潜めた。

「怒られるから、だったりしますか?」
「んーん? 怒りはしないよ」
「……怒りはしないけど、いい顔はしないんですね……?」
「へっへへー」

 次郎さんは怒らない。
 というか、それなりに長い付き合いになるけど怒ったのを見た事――は、あったか。でも、それも一回だけだ。私が手持ちの刀装兵をキリちゃん先輩達に全部譲った事だって、怒らないだろうなという確信はある。普段なら口止めするまでもないし、笑って誤魔化すのも次郎さんに対して、なんだけど。
 何だろうなー……なんとなーくいつもとちょっと違う感じがあるっていうか、肌がざわざわするっていうか。言わない方がいい気がするの何でだろ。

「じゃあ、やっぱり受け取れません」
「えええ? いいよいいよ持っててよ。私的にはキリちゃん先輩が持っててくれた方が安心」
「教えてもらっても、そんなすぐに使えるようになる気がしません。……が持ってるべきです」
「えー」

 確かに宝の持ち腐れになるかも知れないが、信濃さんを顕現した時のように、いざという時役立つかもしれないのだ。薬研さんを持っていて、場慣れもしている私が持っているよりキリちゃん先輩が持っていてくれた方が絶対いいはずなのである。

「じゃあ信濃さんの分だけでいいから貰ってよ。これ一個あるのと無いのでだいぶ違うんだから」

 ぐいぐい、ぐいぐい、ぐいぐいぐい。
 二人向き合って、無言で刀装を押し付け合う事しばし。最終的に勝者になったのは私だった。
 ふはは、審神者業でガンガン育った図太さがまさかこんな形で役に立つとはな! やったね私、大勝利! ほんとに誇っていいのかとか考えてはいけない。とてもいけない。勝てばよかろうなのだ。


 ■  ■  ■


 条件が揃っていたから与えられた。それだけの話。

 2014年12月16日。最寄り駅から約十二分。アパートへ帰る道すがら。
 誰か住んでいるのかいないのか。窓に灯る明りも無く、黒々としたシルエットと化した家々が夜闇に同化して立ち並んでいる。合間に枯草で覆われた田畑や空き地が続いている道には、女の外に動く者など無いように思えた。まばらに立ち並ぶ街灯だけが、行く手にぽつり、ぽつりと光の輪をアスファルトの上に投げかけている。
 通り慣れた道だからと、不用心だったのは間違いない。
 遠回りだとしても、もっと人通りの多い、大通りに面した道を歩くべきだった。
 反省点をあげつらえば片手の指では足りなくて、けれどそうした後悔は、何事もなければ頭を掠めもしないものだ。
 今まで何も起きなかったから。危ないことなんてあるはずがないから。
 平和な時代、平穏な国。培われた無意識の過信と根拠のない信頼は、大なり小なり、誰しもが抱くものだろう。
 陰惨な事件も痛ましい事故も、身近に起きない限りは他人事。

「あのォー、ちょっといいですかァー?」
「……はい?」

 背後からかけられた声に、女は驚きと、いくらかの警戒をもって振り返る。
 月の見えない夜だった。空に垂れ込めた雲の緞帳が、夜の暗さを更に深いものへと変えている。
 声をかけてきた見知らぬ男が、警戒心を解こうとするようにヘラヘラとうすっぺらな笑いを張り付かせたまま言う。道を尋ねたいんですけどォ、と。
 男の後ろ。道の片隅には先程距離を置いて行き過ぎた、黒いワゴン車が停まっている。

「そこでしたら……」

 暗い夜、分かりやすい目印も無いような道だ。迷った、という話にはまだ納得できても、ルームランプすらつけていなかった事に対する違和感はある。まるで人目を避けるように、車が停まっていた事についても。
 不審に思いながら、それでも差し出された地図を覗き込んでまで丁寧に答えたのは女の善性ゆえだった。
「ハイハイそっちね」と男が頷く。「チョット分かりづらいから、隣でナビ頼めます?」の言葉に、「ごめんなさい、そこまでは……」と思わず身構えて距離を置くも、「ああマァそうですよね」と男は平然たるものだ。何事もない。特にねばるでもなく、ありがとうございましたと言って車に戻っていく後ろ姿にほっと緊張を解き、そのまま通り過ぎようとして。

「!?」

 思えば、その油断を狙っていたのだろう。

「大人しくしろ」

 耳元で囁かれるのは、陳腐でお決まりの脅し文句だ。
 べったりと、生暖かく湿った荒い呼吸が肌を舐めるのが気持ち悪い。後ろから覆いかぶさるようにして羽交い絞めにしてくる腕の力強さに、あまりにも明白な力の差に、ざっと全身から血の気が引く。彼女を捕らえた腕がそのまま強引に、ドアを開け放したままのワゴン車へ押し込もうとしてきて――

「ぃ、嫌……!」

 容易に想像できるその先に、力の限りで身をよじって逃れようともがく。
 男と女。力の差は歴然だったが、それでも死に物狂いで抵抗する女を易々と抑え込んでおけるほどの力が男に無く。そして、単独犯であった事を果たして幸運と言ってよかったのかどうか。

「静かにしろ!」

 舌打ちして男がナイフを取り出す。脅しつけてそのまま――という考えだったのだろう。けれど、既に冷静さなど吹っ飛んでいた彼女にそれは狙った通りの効果を発揮しはしなかった。恐怖して動けなくなるのではなく、恐慌状態に陥ったのだ。

「はなして、はなしてぇっ!」

他に人の気配は無く。だから、大声を出しても誰も助けはこない。何事かと玄関先まで出てくる住人も、誰も。めちゃくちゃに手足を、鞄を振り回して逃げ出そうともがく女に、「このアマ!」と男も頭に血を昇らせた。
 容赦のない拳が頬を殴打する。振り回されて散乱した鞄の中身同様に、女が衝撃に倒れ伏す。
 朦朧としながらもがき、立ち上がろうとする女の指がざらりと荒れたアルファルトを掻く。すかさず男が馬乗りになる。激高した男が、持っていたナイフを振り下ろした。
 冬場の事だ。着込んだ衣服は分厚く、必然、手応えは鈍くなる。傷口から流れる血は布地に吸われ、分かり易く視覚へ訴えるのも遅い。

 チカチカくるくる、世界が回る。
 霞む視界。熱を訴える腹部。アスファルトに叩き付けられて痺れた四肢。
 伸し掛かる黒い影。街灯から届く光を受けて、鋭い切っ先が白い線を何度も何度も何度も描く。

 チカチカくるくる、世界は廻る。
 霞む視界で黒い靄が渦を巻く。ごうごうばちばち、地を這いずる重低音が、その他すべての音を圧し潰す。
 それはさながら、舞台背景を塗り替えるように。光が残らず駆逐され、黒い視界に赤が走る。鮮やかな赤の雷光が、眼裏に焼きついて残光を散らす。
 何かを叩き壊すような轟音が、大音量で響き渡る。
 一寸先も見通せないほど色濃い闇に染まった世界で、紅い残光の欠片が花弁のように舞う。
 ただ呆然と。瞬きも呼吸も、痛みすら忘れて見上げた空に色が宿る。
 獣の骨。最初に連想したのはソレだった。
 両の眼窩で炯々と輝く鬼火を燃やす、二本角を生やした異形。

 ――ィイ――――、……?

 姿が変わる。
 カタチが変わる。
 異形の輪郭が曖昧に融け、赤がばちばち、ぱちぱちと爆ぜる。
 戸惑ったような響きを帯びた金属音が、急速に人間めかしい音へと変わっていく。
 火花のような赤が瞬く。ぱちぱち、ぱちぱち。ぐんにゃり融けた輪郭が揺らぎ、人のカタチが滲み出る。
 およそ欠けらしい欠けの存在しない、左右対称の整った面差し。大人にはほど遠い、稚さの抜けきらないまろやかな曲線を描く白皙。ただ赤毛と形容するには躊躇いを覚える、艶やかで華やかな色合いの赤い髪。
 そうして現れた、空恐ろしくなるほど美しい少年が、彼女の手を掬い取って告げる。

「俺は――信濃藤四郎。……あなたの、守り刀だ」

 何が起きているのか分らなかった。
 言っている事も理解できてはいなかったし、何よりその見知らぬ少年が、ヒトでない事は明白だった。
 けれど。祈るように名乗った声が、縋るように見返す眼差しが、今にも泣き出しそうに思えたから。
 女は。雨宮 霧恵は、その手を握り返したのだ。




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