彼のいる本丸は、いわゆる元ブラック本丸と呼ばれるものであった。
濁った色の空は光も差さず、草木は枯れ落ち池は澱み、そこかしこからは饐えた悪臭が漂ってくる。
ほんの一週間前までは、まだ、もう少しまともな状態であったのだが。本丸の雰囲気を思えば不似合いなまでに陽気な、楽しそうな声が漏れ聞こえる大広間を、今剣は苦々しい気持ちで一瞥する。
忌々しい。――が、動くには好都合だ。
「幸運を祈ってるぜ、今剣」
「ありがとう、厚。あとのこと、まかせましたよ」
見送るのは、数少ない今剣の同志である短刀ただ一振。
本丸結成時、最初期に呼ばれた短刀仲間。今となってはもう、まともに動けるのは彼等二振のみであった。
かつての主に、恨みはない。多少の怒りと、それを上回って余りある諦念。そして悔恨があるだけだ。
最期まで、主を正してやれなかったという後悔。そして、主に甘やかされた連中の増長と横暴を、見ているしかできないという虚しさ。
贔屓の多い主だった。好き嫌いのはっきりした審神者だった。
子どもは嫌い。ちやほやされるのが好き。筋肉質で無骨な男は嫌い。綺麗な男が好き。
だからこの顛末は、検非違使への対策が立てられなかった段階で既に確定していたと言えよう。
彼等のかつての主に、悪意は無かったのだ。ただ、おつむが随分足りなかっただけで。
それだけの惨状。それだけの、転落だ。
ため息と共に感傷を振り払い。代わりに、懐に忍ばせた手紙の束を着物の上からそっと抑える。思い返すのは、怒涛のようであったこの数週間の出来事だ。突然の審神者の来訪。増長した連中に手紙でのやりとりを了承させていったその女審神者は、事態の改善を予期させたものだ。あちら側も制約が多いらしく交渉は難航していたが、それでも、それまでの停滞を思えばそれは確かな前進だったのだ。手紙でのやりとりが、打ち切られるまでは。
自分達に対する謝罪と、審神者側の簡潔な事情。
それらを綴った最後の手紙は、ひどく短いものだった。
そうして彼女達の仕事を引き継ぎ、新たに別の審神者達が訪ねてきた。
審神者達や政府の思惑、個人的感情を考慮に入れたとしても、彼等とて別段、悪い人間達ではなかった。善良と呼んで差し支えあるまい。ただ。言うなればそう、荷が重かったのだ。この本丸を相手取るには、彼等は素直で、真面目で、優し過ぎた。素晴らしい美徳も、悪意の前では食い物にされるばかりである。
身を守る術を知らず、刀剣男士からの好意しか知らぬ彼等は、率直に言って役立たず以外の何者でも無かった。
「……あの一期一振もですが、燭台切。あれらには、じゅうぶんちゅういしてくださいね」
「分かってる」
審神者達の誰が引き込んだのかは分からない。
いつの間にか頻繁に出入りするようになった、何処か異質な気配を纏った二振の男士。
審神者を消耗品とする事に抵抗のない彼等の存在こそが、この本丸の状況悪化の主原因であり――そして、今剣達にこの危険な賭けを決意させた。
主を持たない刀剣男士を成り立たせるのは、かつての主から受けた残存霊力。そして何より、土地から供給される霊力だ。本丸を出るという事は、即ち土地からの霊力供給を受けられないという事。
ただでさえ残り少ない残存霊力が底をつけば、顕現し続ける事はできなくなる。それを承知で、今剣は外へ出る事にしたのだ。手紙で繋いだ縁だけを手掛かりに。彼等の知る限り、もっとも頼りになる審神者へある知らせを届ける為に。
例えそれが、失敗に終わるだけの試みだとしても。
彼等は、歴史を。人間を守る為の、“刀剣男士”なのだから。
■ ■ ■
「こんさんって、食にタブーないよね」
「それはそれ、クダギツネですから」
サイコロ状にして盛ったガトーショコラをお行儀よくパクつきながら、こんさんがぱたり、と尾を振る。
まあ、さんざ同じモノ食べてきてるから今更すぎる話題ですね。厳密には生物と呼べないからアリなんだろうか。少なくともおあげは大好物だし、姿形に嗜好が引き摺られる傾向はありそうな気もするけど。
「別段深く考えずとも、“そういうもの”だと思っておけば良いのですよ、こういう事は。昔の言葉にあるでしょう? 曰く、深淵をのぞく時――」
「深淵もまたこちらをのぞいているのだ、でしょ。うーん、そんなもんかあ」
余計な好奇心起こすのは悪い癖ですね。どっちみち目先の現実問題でクソ忙しいから、深堀りしてる暇はないんだけどさ。思考を切り替え、ぱくり、と作りたてのガトーショコラとバニラアイスを口に放り込む。うんうん、納得の出来。本丸さんもお気に召してくれたようで、さっきから満開の桜が舞いっぱなしだ。
バレンタインは参加し損ねたけど、お安くなった業務用チョコレートがたくさん仕入れられたから良しとしておこう。去年とか思考の片隅にもなかったな! ていうか城下町バレンタインフェアとかほんと楽しそうで羨ましかったですめっちゃ見て回りたかった!! 来年は参加できるといいなぁ!!!
「あつあつでつめたいのって、なんだか不思議な感じですね……」
「単品でもいいけど、合わせると結構印象変わるもんだな」
「俺どっちも好きー! あ、御手杵そっちのミントアイスちょーだーい」
「おー。交換でそっちのイチゴのやつもらっていいかー?」
「レモンのやつも存外合うなあ」
「モカもいいぞ、兄弟」
「いいね、じゃあ一口交換しよう!」
「んんー、これはよか! 城下で露天ば出したら売れそうばーい!」
「無理でしょ。去年の秋口には似たような店あちこちで見たし」
わいわいがやがや。
お菓子につられて集まってきた男士達を眺めやりながら、賑やかになったなあ、としみじみする。
ほんの一年と少し前。本丸に就任したばかりの頃には、想像すらしなかった光景だ。そもそも仲良くやっていけるという考えすら頭になかった。それが、こうして男士達によるガトーショコラ一番おいしい組み合わせアイスはどれだ選手権を見守る流れになってるんだから……ほんっとふしぎだなー……?
あと気になるんですけどいつの間にこんな備蓄アイス増えてたんですかね。しかもこれ城下のお高いアイスじゃないですかやだー。本邸の食材どういう買い込み方してんの? いっぺんきちんとチェックした方がいい?
「ねぇ、洋酒あったろ? あれ一瓶もらえるかい」
そんな事を考えていると、ガトーショコラ番外~アイスでなくて一番合う酒はどれだ選手権~の主催がひょっこり顔を出した。来たな酒代が高くつく原因そのいち! まあ日本号さんも負けず劣らず呑むけど!!
「んー……それはいいけど、ひょっとしてなんか目ぇ付けてたりする?」
「バレたか。ほら、封切ってもない大きめの瓶あったろ。茶色い色したの」
「あ、分かったブレンディット・ウイスキーだ」
手をつけてない洋酒と言えば、あれくらいしか思いつかない。他は小物のリキュールばっかだし。
どうしよっかな。実家に戻る時に手土産で持って帰る予定で買っといた、わりとお高いやつなんだけど。んー……次郎さんが呑みたいなら、いっか。どうせ里帰りの目途も立たないし、お酒なら城下でもっといいの買えるし。
「いいよ、待ってて。取ってくる」
「いーさいーさ、アタシが自分で取ってくるよ。本丸いる時くらい、ちったあゆっくりしな」
「そのくらい別にいいのに……」
ひら、と桜の花が降る。むう、本丸さんが次郎さんの肩を持つとは。ちょっとジェラシー。
唇を尖らせて次郎さんを見送っていると、こんさんが「そういえば」と呟いてこてん、と小首を傾げた。
「城下の見回り、結局誰が纏め役を務める事になったのですか? だいぶ揉めているご様子でしたが」
「大丈夫、押し付けれる。しばらく忙しかったし、当分は楽してみせる!」
力強く頷き、ぐ! とこんさんに親指を立てて見せる。纏め役とかめんどいお仕事、心底ごめんですな! 意見調整も折衝も二度とやりたくないです、あれめっちゃ疲れるんだぞ。気苦労で死ぬわ。
でもなんでこんさんそんな生温かい目で見上げてくるの? やめて? 死亡フラグ自分で立ててく人を見る目はやめて? 待って私なんか見落としてたりするの怖いやめて。
「……順調なら、宜しいですが。不在本丸の件はどうなっているんです?」
「うーん。お前は顔売れすぎてるから一切調べようとするな首突っ込むそぶりも見せるな、うろちょろせずに大人しく遡行軍殲滅してろ、って烈水さんから釘刺されてるんだよね。こんさんは何か知ってる?」
「さて。詳しい事はこちらでも存じ上げませんが……順調、とは口が裂けても言えない有様のようですね」
「わぁい修羅場ぁー。でも手出し厳禁だもんなぁー……」
上から睨まれてるのに加えて、相手方から敵視されてるっぽいんじゃあね!
わざわざ余計なお節介しにしゃしゃり出ても現状、デメリットしか無いんだよね。下手すると状況悪化させかねない以上、静観以外に選択肢は無いだろう。何より、動くにしても情報が足りなさすぎる。
「……ま、なるようにしかならないでしょ」
ほんと、烈水さん達なーんも教えてくれないしなー。結良さんの事だし、何か考えがあるんだろうけど。
概要だけなら審神者業はどう考えても日アサ枠だっていうのに、この世界には絶対無敵のヒーローも、最強万能な魔法少女も、何処にもいやしないのだ。
誰もが幸せになれるハッピーエンドは存在しなくて、救えるのは、手に収まるだけのもの。取り零されたものはどれだけ心苦しかろうと、そのまま捨て置くしかできやしない。欲張れば、救えたものまで取り落とす。
「あるじさまー!!!!!!!」
「!?」
「ぅひっ!?」
憂鬱な気分をノーブレーキで吹っ飛ばしていくように、目を輝かせた物吉さんがスライディング正座で滑ってきた。こんさんも流石にびっくりしたらしい、尻尾が一気にぶわっと逆立っている。何事!?
「あるじさまあるじさまあるじさま! ばっちり聞こえてきたんですが! 当分楽をするという事は!! しばらく外でのお仕事はないって事ですか!?!」
「ぇ、あ、うん。はい。外出減る予定ではあります……?」
「やったあ! それじゃあ主様とご一緒できる時間が増えますね!」
わーい! と満面の笑顔で万歳する物吉さん。そしてよっしゃー! と湧き上がる歓声。
えっなんでそんな盛り上がるの。えっそもそもいつから会話を聞き耳してたの皆。
「主! 外での仕事が減るなら、出陣増えるよなァ!」
「ああうん、そうですね?」
同田貫さんがめちゃくちゃイイ顔をしていらっしゃる……鯰尾さんとか御手杵さんとかも何気にガッツポーズしてらっしゃる……そうかもっと出陣したかったか……なんか……外出多くてごめんな……?
思い返してみれば正月からというもの、外での仕事が忙しくてほとんど本丸にいなかったような気がする。ぷわわと桜を降らせる本丸さんも嬉しげだ。なんだろう、仕事にかまけて家庭を顧みなかったかのような罪悪感。
「んー……検非違使日課分消化できる程度には出陣増やしたいし、掃除もうちょっとマメにやりたいし、読めてない本読みたいし、城下で本丸でも使える電化製品売ってたからいい加減TV導入したいし、本格的に池の整備もしたいし……。わりとやる事いっぱいあるなぁ」
これで少しは休めそうって浮かれてて、何したいかは考えて無かったわ。うっかり。
まあでも、余裕ができたならの優先度一位は決まってる。
きゃっきゃと騒いでいる皆の視線を、ぱんぱん、と手を叩いて集める。
「出陣も増えますけど。もう一部隊分くらいは刀剣男士増やしたいな、と思ってます」
今の人数だと、四部隊フルで回すと本丸からっぽになっちゃうからね。
後藤さん達も大分練度上がってきたし、ここらで頭数を増やしておきたいところ!
男士達が互いに目線を交わし合う中、す、と小夜が手を挙げた。はいどうぞ。
「。誰を顕現するかは、もう決めているの?」
「大太刀の石切丸は確定ですね。薙刀も、と言いたいですけどそっちは依代自体が呼べてないので、あとは太刀か打刀で考えてます。――と、いう訳で顕現希望の刀がいたら、後でこっそりでもいいので言いに来て下さいね。あ、依代が来てない男士は除外で」
三日月さんがぺっかーと輝かんばかりの笑顔になった。そうだね三条派の仲間が増えるね。すまぬ。
続いてびし! と鯰尾さんが手を挙げる。はい次の方どうぞ。
「はいはーい主! 希望制限は! 制限はありますか!」
「なしでーす複数人を認めまーす」
「選考基準はなんですかー!」
「希望者の多かった男士を優先してとしまーす」
続いて問うた浦島さんが、は、と何かに気付いた顔で加州さんの方を見た。つい、と加州さんが気まずげな顔で目を逸らす。ああーそういえば長曽祢虎徹……ううんこれは下手に口出さない方がいいやつ。
ともかく、だ。
「今いない男士にも伝える予定ですけど、期限は弥生の末とします。
誰に来てほしいか。希望を出すも自由、出さないも自由。自分達でよく考えて、答えを出すように。以上!」
ノリのいい男士中心に、はーい! と良い子のお返事が上がる。
ううん。私が顕現した男士が増えたからってのもあるだろうけど、この本丸も変わったよなあ、本当。
しみじみしていると、こんさんが流し目をこちらにくれた。囁くような声で問いかける。
「……殿、宜しいので?」
「いいよ、私はさして拘りもないし。誰がどんな判断をしてどう関わってるか。気になってたからいい機会だ」
最後に顕現したメンバーも、本丸に馴染んできたところだ。誰とでも、最低一度は同じ部隊を経験させるようにしている。普段関わりが薄くとも、多少はどんな性格か掴めているだろう。
特定の誰かに来てほしいなら、より多くの男士を説得する必要がある。来てほしくない男士がいる場合も、だ。事前に約束のある数名については希望出されても顕現する気はないけど、他にもこいつとは会いたくない、という相手はいるはずだ。それなりに人数が増えてきているのもあるが、基本的に男士達も気の合う者同士でつるむ傾向にある。同部隊に組み込めば交流はするし協力もするが、それはその場限りだ。別に全員仲良しこよしになーあれ☆ とかは思ってないし、嫌いな奴や苦手な相手がいたっていいとは思ってる。
だが、それはそれ。これはこれだ。
男士の人数は増やさなければいけない。今後の戦いを考えるなら、あと一部隊分は必須となる。
それぞれに考え、決断し、交渉して折り合いをつけていく。自分達で決めた仲間なら、前任顕現組にとっても受け入れやすいだろう。緩衝剤系男士は多い方が楽できてとっても嬉しいな!
あと純粋に刀剣男士コミュニティに興味があります。自分の本丸の事なのに、横の繋がり知らないからね。よくつるんでる相手くらいなら把握してるけど。さーて誰が一番説得上手かなー。
「おや、なんだい。ちょっとの間に随分騒がしくなってるじゃないのさ」
「あ、おかえり次郎さん。いやちょっと次の顕現メンバー選抜をば」
「? なんだいそれ」
疑問符を浮かべる次郎さんに、かくかくしかじかと説明する。
「はーん、なるほどねぇ。まあた面白い事考えたもんだ」
「……で、なんですが。次郎さんのご兄弟、未だに呼べてなくてごめんなさい」
レアじゃないはずなんだけどね。ふしぎだね。
依代呼べる刀剣男士、偏ってる感があるんだよなあ。来る刀剣はめっちゃ来るけど、来ない刀剣はとことん来ない。相性なのかな、こういうのも。別にいるメンバーで戦力揃えればいいとは思ってるけどさ。
来てほしい、と次郎さんが言った事は一度も無い。それでも演練や、城下町で仲良さそうにしている他の分霊を見掛ける事はあるのだ。複雑な気持ちにはなる。
ぺこりと頭を下げると、何故かうーん、と頭を掻きながら次郎さんが困ったような顔をした。
「あーいや、兄貴は気ィ使ってくれてる、って言うかなぁ……」
「?」
珍しく歯切れの悪い次郎さんに、「……ああ、なるほど。そういう事でしたか」と、得心したと言いたげにこんさんがぼそりと呟く。その声音は何故か、舌打ちせんばかりの低さである。どうした。
「……」
「……」
首を傾げる私を余所に、こんさんと次郎さんが真顔で互いに見つめ合う。
見えない火花でも散ってそうなんだけどなに。なんなのほんと。
「……いいでしょう。高級おあげ一パックで手を打ちます」
「うし、乗った」
「えっなに。いまなんの取引したの」
「ご安心を、殿。本当にどうでもいい、下らない話ですので」
「下らない話で高級おあげ一パックを……?」
「はいはいこの話は終わり! 兄貴はいないし来ない、以上!」
「ええー……」
結局、こんさんも次郎さんも教えてはくれなかった。
納得いかない私を慰めるように、ひらひら、ふわふわと本丸さんの桜が舞い落ちる。
いいもん……本丸さんがいるから内緒にされても悔しくないもん……。
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