空は曇天、地には骸。
否。それらは骸では無い。最早動かぬ肉の塊は、それでも鼓動を止めてはいない。
浅い呼気が、ひび割れた唇から漏れる。そう。それらは未だ、死んではいなかった――刀剣男士は、人間ほど容易くは死なない。動く事すらままならぬ傷を負い、そうして癒されず放置されている程度で死にはしないのだ。
それでも痛苦はある。肉の器と本体である刀身は繋がっている。肉の損傷は刀身にも影響する。痛みとは危険信号だ。死を、限界を通知し続けるアラームが、延々と彼等を絶え間なく苛み続けている。
ぐちゃぐちゃ、がりがり、ぐちゅぐちゅ、ばりごり、ぼきん。
赤黒く澱んだ本丸の中、一心不乱に男は彼等を咀嚼する。
無造作に転がる肉塊を。あるいは、それらの握り締めた本体である刀を、その腕ごと。
掴み、引き千切り、口に放り込んで咀嚼して嚥下する。青い狩衣を滴る血潮で染め上げながら、男は食事を止めない。水音が響く。金属の砕ける音を交えながら、ぐちゃぐちゃと。飢えた獣さながらに貪り続ける。
「……る、……」
喰われ、引き裂かれ臓腑を零しながら、吐息めいた声で呼びかける青年に生気は無い。
血と唾液の入り混じった泡で口元を汚しながら、青年の唇は壊れたように何かの音を紡いでいる。男は頓着しない。ただ黙然と、いっそ敬虔さすら感じる懸命さで青年のはらわたを、皮膚を、熱心に食い散らかしている。
身じろぐ気力も無いのだろう。青年の本体である大太刀は罅だらけで、未だその身が崩壊していないのは刀種に由来する生命力の高さに依るものでしかない。がらんどうな二つの眼窩から、赤黒い水がはらはらと伝い落ちて地面を染める。閉じ切らない唇が、痙攣しながら音を、言葉を紡ぐ。
「……こ、ぎつ、ね――」
「煩い」
ぐしゃり。
柘榴が弾けた。
ひときわ大きく痙攣して、青年の四肢から力が抜ける。ばきん、と鋼の砕ける音が響く。
明確な死を迎えながら、その食い荒らされた肉が消える事は無かった。
無残に転がる同派の兄弟に一瞥すらくれる事無く、男は舌打ちして己の顔面を指先でなぞる。
触れる感触は滑らかだ。男の麗しい容貌には、毛一筋の欠けも無い。
血と肉片に塗れ、地獄の只中に在って尚美しい、夜空に浮かぶ月さながらの妖艶な美貌。怖気の走るような。
けれど、それはまやかしだ。ただ表皮を取り繕ったに過ぎない。
「あの女……」
地を這うように低い、寒々しい声音が殺意を込めて呻く。呪う。
端麗に装った皮膚の下、癒えぬ傷がじくじくと疼いて存在を主張する。
痛みと共に思い返すのは、彼に、この傷を負わせた審神者だ。
短刀と、刀装兵達。
そして“三日月宗近”を従えた――
「――――」
男の両手が、自身の顔をなぞる。
その造形を確認するように、丹念に、丁寧に。
「ぬしさま――……嗚呼、嗚呼。忘れてはおりませぬ忘れてなどおりませぬあなたさまが下すったお言葉を忘れるなど有り得ませぬあの様な不心得者あるじなど到底呼べはいたしませぬみなそのようにもうしておりましたあれがいつまでも来ぬ所為でどれだけご心痛であったことかおいたわしいぬしさまどうかどうかごあんしんめされませこんどこそみかづきははなれませぬずっとおそばにおりましょうおかわいそうなぬしさまじゃまものはすべてすべてすべてはいじょしてみせましょう――」
あかい、べっとりと血濡れた唇が笑みの形に撓む。恍惚とした吐息が漏れる。
思考を誰へともなく垂れ流しながら、男の頭を占めるのは彼を顕現した主の事だ。
刀剣男士を好く使う、愛い主であった。
少しばかり短慮で自制の利かぬ所はあったが、それも微笑ましく思える程度のものでしかない。
特に男は殊更に可愛がられていた自覚がある。そうだ、今でもありありと思い出せる。
お前は可愛いなあ。そう言って、笑み崩れる主の姿を。不器用に、けれど丁寧に髪を梳いてくれたあの手の感触を。特別だぞ、と差し出された稲荷寿司の味。軽傷に至らぬ傷でも手入れしてくれた優しさ。
何故お前ばかり、と恨み言を吐かれる事もあったが、仲間達とてなんだかんだと言いながらも主を好いていた。
共に出陣し、肩を並べて戦場を駆けた日々の記憶に男の眦が緩む。
忘れない。忘れてなどいない。善い主であった、愛い主であった。
かつての主が、本丸を去った理由を男は知らない。聞いてもいない。正確には、それどころではなかった、と言うべきか。唐突な変化だった。突然の拒絶だった。遠征から戻ってみれば、主はすっかり変わってしまっていた。
困惑する男達を余所に、主は一人で本丸を出て――そうして、次の主を自称する人間がやって来て。
その後の事は、思い出したくも無い。
灼熱の塊が胃の腑を焼く。屈辱と怒りと殺意とで目の前が赤くなる。ぎりぎりと奥歯が鳴る。
何度殺しても殺し足りない。憤怒で腸が捩れる心地だ。引き潰れた呻きを喉奥から漏らしながら、男は太刀を振るった。ばきん、ばきん、ばきん。あちこちから澄んだ、いっそ清らかですらある音が響く。命が途絶える音が響く。
けれど、男が足元の惨状を視認する事は無かった。彼にとって、それらは餌以上の価値を持たぬが故に。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。
ふ、と。異音が、男の鼓膜を震わした。鉄。あるいは骨が軋み、擦れる音。
何時から其処に在ったのか。曇天の闇の下、茫洋と揺らめくのは鬼火を灯した無数の眼窩。水中を泳ぐ魚のように、尾をゆるゆるとくねらせてみせる奇形の化生。蜘蛛を連想させる複脚をせわしなく擦り合わせる、人の上半身を持ったばけもの。暗がりから滲み出るように佇む、角持つ異形の人型。
黙然と口を噤んたまま男を見詰める怪物達は、命令を待つ軍用犬の群れのよう。
彼等を見渡し、男は一転して晴れ晴れとした顔で無邪気に笑って見せた。
「ゆくか」
さぁ、取り返しに行こう。迎えに行こう。
主が戻りさえすれば――あの輝かしくも愛おしい日々が、帰って来るのだから。
■ ■ ■
半泣きになりつつ話が分かって戦力になる審神者に渡りつけて男士を説き伏せ、本丸でお留守番組と連れてく組とで分けて招かれるまま政府にお邪魔しましたが既におうちに帰りたい青息吐息のです。
一周回って目は冴えてきたけど、仮眠も満足にしてねーぞおい。
渡りつけた審神者全員快諾してくれたのはいいけど、一人で政府に繋ぎ取りに行った事についてこんさんから大いに抗議が入るわ、次郎さんから本格的に経緯について吐かされるわ、吐かされた内容について歌仙さんと宗三さんからお小言食らうわ挙句に五虎退さんからは「僕らが頼りないから……」と静かにはらはら泣かれるわ。
うん。最後の方は完全にごめんなさいロボと化しましたよねっていう。そしてこんさんのご主人には即日謝罪と言い訳のお手紙を書きましたほんとすいませんそちらに先に話を通すのが筋ですねでも余裕なかったんです実質猶予どんだけあるかも分からなかったんです急がなきゃって思ったんです。反省はしている。
そして何とか準備を整えやってきた政府ですが、正規警備組からのあからさまな「お前らなんなの? 邪魔なんだけど」という分かりやすい冷遇と蔑視が繊細なハートにクリティカルでワンアウト。警備状況もよく分かってない中、正規組から完全にハブられてる現状でツーアウト。それでも最低限、審神者間は連携せねばと打ち合せている最中に捻じ込まれる警備組リーダーと渦中の元審神者による強制配置通達による、実質上の各個孤立状態追い込みでスリーアウトな有様である。頭痛い。
そりゃね、うん。正規警備組の気持ちは分かるよ。
急遽捻じ込まれた審神者と刀剣男士とかね。予定とか計画に大幅に変更来たすもんね、気に入らないよね。でもこっちも好きで捻じ込んでないんだよ必要だから捻じ込んだんだよ。気に入らないからってとりあえず頭から馬鹿にしてかかる態度はダメだろ社会人。お前らいったい何歳だ。自制心学び直してきてどうぞ。
「くっそめんどい……なんでこんな苦労してんだ私……」
プルタブを起こし、冷たいココアをしかめっ面で喉奥に流し込む。
糖分が疲れた身体とすきっ腹に染み渡る。
「渋い顔だねぇ、」
「次郎さん」
後方から伸びた手が、ひょい、とココアの缶を浚っていった。
缶を煽ると、少し顔を顰めて「……甘ったるいね」と舌を出す。いや、ココアは基本的に甘い物だよ?
「ココア飲んだ事無かったっけ」
「覚えがないねぇ。うちにあったかい?」
「うん。離れだけじゃなく、本邸にも何袋か買い置きしてあったはずだけど」
首を傾げれば、おしるこを無心に啜っていた博多さんから「甘くなかやつならあるばい」と補足が入った。
そういやあっちに置いてるのって、砂糖入ってないピュアココアだっけか。
「そうだ。ココアで作るお酒なら、次郎さんもおいしく飲めるんじゃない?」
「へぇ、そりゃ面白そうだ。帰ったら作っておくれよ」
「ココアんお酒!? 俺も呑みたか!」
「ん、いいよ。博多さんココア好きだもんね」
買い置きのココアが無くなると催促に来るのは、決まって博多さんか御手杵さんだ。
この調子なら、御手杵さんも喰い付いてくるかな。あとは日本号さんと五虎退さん辺りか。
「へっへへ~!」「楽しみだねえ!」と陽気に笑い合う二人を横目に、次郎さんから空き缶を回収してゴミ箱へ放り込む。さしてご大層なレシピでも無いし、いっそ帰ったら気になってたカクテルレシピ全部試作してみるのもいいな。
「そういえば次郎さん、なんでこっちいるの? 割り当て、ここらへんじゃ無かったよね」
「ん? そりゃ勿論、休憩がてらアンタの顔見に来たのさ」
伸ばされた手が、頬に触れる。
親指の腹で目の下を優しくなぞりながら、次郎さんが案じるように眉尻を下げた。
「敵さんがおいでになるのは、どうせ日が落ちてからだろ。ちょいと仮眠してきた方がいいんじゃないかい?」
「あー……それができればいいんだけどねー……」
「……主が休憩で抜けるってだけで、ずいぶんな大騒ぎだったけんね。あれは無理ばい」
「そういう事」
元審神者が指定してくれやがった私の警護担当場所は、何を隠そう、ご当人様の身辺だった。
休憩で抜ける際の騒ぎを思い出したのだろう、苦い顔で博多さんが溜息をつく。言葉を継いで肩を竦めてみせれば、次郎さんが分かりやすく渋面になった。思わず苦笑する。
「ま、出掛けにちょっと寝れたから。一日二日の夜更かしくらい何とか保つって。
それより。遡行軍、次郎さんはどこから来ると思う?」
「さて。内通者の出方次第――そうでなきゃ、が遭遇した“人喰い”の動向次第、ってトコかねぇ」
「結局あちらさんの動き待ちかー……」
予想はしてたけど辛い。次郎さんの言葉に、しょんぼり肩を落とした。
まぁ、元々からいる警備組の人達だって、政府の施設任されてるんだから別に無能って訳でも無いだろう。
対策を練る時間は昨日今日の出来事だけに設けられなかっただろうけど、襲撃の可能性については伝わっているはずなので、警備員さん達だけで何とかしてしまう可能性だってある。あちらさんはプロな訳だしね!
犠牲者が出ないなら別に無駄骨でも構わないんだけど、乗ってくれた審神者は全員暴れる気満々で来てるんだよなぁ。ごめん言いだしっぺが一番やる気無いわ。本丸帰ってお風呂入っておふとんにくるまってこころゆくまで眠っていたい……本丸さんのごはん食べたい……いかん、本格的に帰りたくなってきた。
「次郎さん、今回の戦いだけど――」
「分かってるって。戦況が悪けりゃ、人間を避難させつつ速やかに撤退だろ?」
今回、私が連れだしたのは三部隊。
そのうち一部隊は、私と一緒に身辺警護に回される事になった。
問題なのは残りの二部隊だ。元審神者の熱烈な主張の結果、私はほぼ部屋に籠り切りで彼等に指揮を出す事ができなくなってしまった。各部隊、各々の隊長を任せた男士達の指揮能力に問題がある訳じゃあない。
ただ、彼等は刀剣男士だ。だからこそ不安が残る。
生きていれば次がある。生きているからこそ挽回の機会は巡ってくるのに、彼等は簡単に死地へと身を投じてしまう。傷付く事を恐れず、傷を受けても怯まないのは元が刀剣であったからか。痛みを感じてはいても、戦いに恐怖する心は持ち合わせないのだ。だからこそ、人間なら退くところで踏み込む。まだいける、と思ってしまう。
それが戦う事を本分する刀剣男士だからなのか、それとも彼等という分霊の性質なのかは分からないけれど。
ましてや、今回は複数部隊の運用になる。
代理を次郎さんに任せはしたけど、第一部隊の隊長も兼ねるからこそ、どうしたって負担の多さに不安は残る。敵と斬り合いしながら自部隊仕切りつつ戦況把握して両方の部隊運用とかね。まぁ普通に無茶振りだよね。
ぶっちゃけ連理さん辺りに任せたかったんだけど、警備組リーダーの横槍人事にそれもご破算となってしまった。あのおっさん頭の残り資源全枯れすればいいのに。
「アタシはアンタの初期刀だよ? 心配しないで、この次郎さんにどーんと任せときな!」
「……ん。ありがと」
不安を吹き飛ばすように、殊更明るく言って見せた次郎さんがにっと笑ってウインクする。
自然、頬が緩んだ。……まあ、どうにもならない事に頭抱えてても仕方ない、か。
「――主。そろそろ戻った方が良さそうばい。乱が迎えに来たとー」
博多さんが、廊下の先を見ながら告げた。同じ方へと視線を移す。
いつの間にやって来たのか。申し訳なさそうな顔をした乱さんが、影の中に佇んでいた。
私と目が合った瞬間、眉をハの字にして悲しげに視線を床へと落とす。
「あの、ごめんなさいあるじさん。アレ、また癇癪起こして……」
「謝らなくていいですよ、乱さん。知らせてくれてありがとうございます」
「……うん」
どうやら気を遣わせてしまったらしい。すまんな心配かけて。
次郎さんと別れ、乱さんと博多さんを引き連れて部屋へと戻る。ドアの前に警備員よろしく立っている余所様の刀剣男士に目礼して「ただ今戻りました」とドアを開ければ、即座に「遅い!!!」という一喝が飛んできた。
「お前はなんで呑気に休憩なんてしてるんだ!!僕の命がかかってるんだぞ!!?!」
唾を飛ばしながらがなり立てるのは人喰い狐の元主、旧イチイチ本丸の審神者だ。
怒鳴り声こそ元気一杯ではあるものの、その顔色は怒っている事を差し引いたとしても良いとは言えない。伸びきった皮膚は弛んでおり、ぶかぶかのスーツと相俟ってどこか道化染みた印象を与える。
いやね、うん。演練場の一件以来連絡つかないなーとは思ってたんだよね。
ぶっちゃけ審神者辞めてこんなとこにいるとかね、考えてもみなかったっていう。
以前見た時はまるまるころころしたボディだったのに、もはや見る影もない変わり具合だ。ダイエット成功して良かったね。もしかしなくても審神者辞めた原因ってあの一件ですよねOK理解。おのれ遡行軍め。
「まあまあ若君。警備は万全ですし、審神者も、刀剣男士も詰めているのです。何も不安になる事は――」
「うるさいうるさいうるさい!! そんな連中が頼りになるかっ!!!!」
「ははは、これは手厳しい」と笑ってみせるのは、審神者の連続失踪事件について、話を持って来た議員さんだ。
正直ここに繋がりがあると思ってなかったから、やってきた時にはぎょっとした。
どうやら父親の榊原議員と縁があるらしく、内心どう思ってるかは知らないがちゃっかり居座って元主の周りをずっとうろちょろしている。点数稼ぎですね分かります。しかしあの人何気にメンタル強いし面の皮厚いな。
ヒステリックに怒鳴り散らす元審神者に、程度の差こそあれ、室内にいる面々はほとんどがうんざりした顔をしている。まぁ、気持ちは分かるが元審神者――榊原ジュニアの方も精神的に追い詰められているのだろう。なにせあのヤバさ溢れる人喰い刀剣に三ヶ月以上粘着されているんだから。
でも引き継ぎがまだ生きてる段階からストーカーされてたって事は、刀剣男士納得してなかったんだろうなー……。引き継ぎ審神者が速攻でブラック本丸化させたせいもあるんだろうけどね! なんだこの負の連鎖。
父親の伝手とかで防護策は講じてたみたいだけど、そりゃヒステリーを起こすのも仕方ないというものである。
ぎゃんぎゃんぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる榊原ジュニアを尻目に、うんざり顔を隠しもしない唯織さんの方へと歩み寄る。近寄ってきた私を、唯織さんはあからさまに嫌そうな顔で睨んできた。あっちょっと傷付く。
「唯織さん、来てよかったんですか?」
「何よ。私が来たことに、何か文句でもあるの?」
唯織さんの発言は刺々しい。
たぶんこれ、廃墟本丸探索まで付き合ったにも関わらず、私が唯織さんに警護の方の動員で声掛けなかったからだろうなぁ……。なのになんで唯織さんがいるのかって? 議員さんが「話は伺いました! 彼等もどうぞお使い下さい!!」って連れてきたからだよ。ちなみにもう一人の審神者は、連理さん曰くの“金魚の糞”である。
議員さんと一緒に点数稼ぎに余念が無い勤勉さは、素直に尊敬していいと思うよ! たまにこっちに嫌味とばしてくるのは鬱陶しいけどまぁ無害無害。だから斬らないでね特に乱さん。敵の前に内輪で抜刀騒ぎとかやめてねこの部屋が空気くっっっっそ悪いの君らが剣呑な視線隠しもしないからってのも一因だからな!!!!
他所様の刀剣男士からすら警戒を向けられる現状にわりと頭が痛い。博多さんも同じ気持ちなのだろう、ほんのり目が死んでいる。三日月さんはのほほーんとしてるけどね! レアリティの高さはメンタルの強度だった……?
「別に文句は無いですけど、体調崩してましたから。身体、大丈夫です?」
室内の空気が悪いのは私の刀剣男士のせいも多分にあるけど、それを差し引いても、唯織さんの顔色は良くない。安定さんが唯織さんの傍を離れようとしないのは、十中八九体調を心配しての事だ。
なんかいい対処方法とか教えられたらいいんだけど、私は瘴気で気分悪くなったことないからな……。
「……。……別に、平気よ」
「良かった。辛かったら、無理せず休憩して下さいね」
むすっとした顔で、唯織さんがそっぽを向いた。
安定さんが唯織さんから見えない角度で、申し訳なさそうに手を合わせる。いや気にしなくていいですって。
ともあれ、強がる元気があるなら当面は問題無さそうだ。ぶっちゃけあの狐と遭遇したらぶっ倒れるんじゃないかなーって思うけど、唯織さんの刀剣男士達がフォローするだろう。
「いいか、今度抜けたら承知しないからな!!!」
榊原ジュニアが鼻息も荒く私を指差して怒鳴るのに「留意しておきます」と顔だけは神妙に取り繕って返事して、心の中で溜息をついた。態度がアレでも苛立ちが湧いてこないのは、主持ちの刀剣男士に対してすら、恐怖を隠しきれていないからだろう。
なんか妙に頼られてる感はあるけど、私がいるからってなんとかなる訳じゃないんだけどなー……。
まったくもって、めんどくさい。
■ ■ ■
西へと沈みゆく夕日を眺めながら、近侍をそれぞれに従えた二人の男が雑談に興じていた。
一人は年若い、何処か幼く見える面差しの青年だ。あちこち痛んで色が抜け、ところどころ金に変わった茶髪を風に弄ばれながら、窓辺に腰掛けて足をぶらつかせている。
その眼差しが煌めいて見えるのは、何も夕日の照り返しだけが理由ではあるまい。
「まさかこーんな扱いだとか、思ってもみなかったっていうねー?」
“ミケ”と呼ばれる審神者が、楽しげに語尾を躍らせる。
審神者名の通りに猫科の動物めいた、奇妙な愛嬌のある顔立ちがにんまりと歪んだ。
この状況を心底面白がっている。その事を、ミケは隠す気も無いようだった。
そんなミケの口振りを問題視する様子も無く、隣に立つ男は肩を竦めて言葉を返す。
「護りの固い拠点の一つみてぇだからな。ここの連中はそこまで危機感持っちゃいねぇんだろうよ」
ミケとは対照的に隆々とした身体付きの、筋骨逞しい大男だ。
どこもかしこも分厚く、見るからに頑健そのものな体躯は、蜻蛉切や岩融と比較しても遜色無い。
男臭く角張った顔立ちは厳つく、美しさからは程遠くとも威圧感には満ちている。
普通なら前に立つだけで萎縮してしまいそうな男、“一虎”の言葉に、しかしミケの対応は極めて軽い。
「んふふー。また演練場の時みたいになったら楽しいよねぇー!
“不幸な事故にあった”上のヒトタチに代わって、ボスがぜーんぶ指揮すんの。
縛りナシで、手札がいっぱいあればもーっと有利になると思うんだー」
「おお、そりゃいいな。上の連中のクソみてえな腰の重さにゃ苛ついてたとこだ。
……しっかし。オレはてっきり、てめぇはこの不利も面白がってると思ってたんだがなあ」
少しばかり意外そうな一虎の言葉に、ミケはぷう、と頬をふくらました。
「ひどいなー。確かにギリギリなのは好きだけどさー、ゲームは最後に勝つから楽しいんだよ?
俺、負け確定なゲームとか嫌いなんだよねー」
「ま、そりゃそうだな。今回は途中撤退アリなんだったか」
「そ! ボスからのオーダーは、“死人は最小限になるように”だけだしー。
いくら四部隊まるっと使えるってゆってもさぁー、ボスがお荷物サマの子守りで動けないっしょー? 俺らも連携できない配置のされ方したしさぁ、ついでに他の連中は危機感ナシ! これ、今回は超やべーよ?」
「ん? そんなヤバいか? 撤退していいんならンな危険度ねぇだろ」
「もー。一虎ってばわかってないなー」
太い腕を組んで首を捻る一虎に、ミケは唇を尖らせて窓枠の上に立った。
後ろに控えていた近侍の大倶利伽羅は無言で眉間に皺を寄せたが、嗜める事はしなかった。
彼の主は、無粋な口出しを大層嫌っているのである。言っても無駄なのはよく理解していた。くるりと器用にターンして、ミケは大仰に両腕を広げてやれやれと言わんばかりに首を振る。
「ここ、いつもの戦場でも演練場でもないんだよー?
いちおー政府の拠点の一つで、危機感足りないお偉いさん達がいるの。
俺らが撤退、イコールここの拠点はロスト。ボスはああ言ったけど、あいつら絶対撤退ごねまくるだろうしー、死人とか被害出たって、むしろ俺らになんとかしろー! とか無茶振りしだすだろーしぃ? コトが片付いても、責任問題とかでしばらく司令部、行動不能になるんじゃない? そんなスキ見落とすほど、遡行軍だってバカじゃないっしょー」
「……もう。そういう事、あんまり口に出しちゃダメよ?」
柔らかなソプラノの声が、やんわりと二人の会話に割り込んだ。
コツリ、とヒールを鳴らして彼等の下へやってきたのは、スーツに身を包んだ、くりくりとした目の女だった。
鎖骨の位置で二つ結びにされた柔らかな栗色の髪が、彼女が歩くに従ってふわふわと揺れる。ビーグルを連想させる演練場職員、達からはもっぱら“鈴”と呼ばれる女は唇の前に人差し指を立てて、しぃ、とジェスチャーしながらぱちりと片目をつぶってみせた。
「大きな声で言うと、警備の人達にまで聞こえちゃうわ。
特に、ここに詰めてる術者はプライドばっかり高い人が多いから、変に反感買うと呪われちゃうわよ」
「ハ、そりゃ願ってもねぇな。いっぺんレーノーシャってのとやり合ってみてぇと思ってたんだ」
「一虎ってばやっばんー♪」
肉食獣さながらに獰猛な顔をした一虎を、ミケがけらけら笑いながら茶化す。
そんな緊張感の無い二人に、鈴は腰に両手をあてて唇を尖らせた。
「もう、あなた達ったら危ないことばっかり面白がってるんだから。
それに、そこまで最悪の事態なんて早々無いわ。ここの人達、保身にかけては一流よ? 心配しなくたって護りは万全。ここを狙ってくる遡行軍は、残らず“連隊戦”の戦場へと転移されるようになってたわ」
連隊戦。
政府主導のものとしては過去に類を見ない、複数部隊を用いての大規模作戦。
その内実は審神者に明かされていないものの、政府所属である鈴は彼等より詳しい情報を握っていた。この点は、彼女が術者系列の職員である事も関係している。最も、鈴の所属はあくまで相模演練場。政府職員と一口に言っても、さして権限のある立場では無い彼女にとって、情報とはそこらから掠め取ってくるものだった。
本来であればここにいるはずもない女は、ふぅわりと柔らかな表情のままで言葉を紡ぐ。
「だから、ここは安全でしょうね――何事も無ければだけれど」
「んっふふー。で、何事かの対策はしてないんでしょー?」
「そうねぇ。ちゃんとあなた達が、対策と言えば対策なのかしら」
くすくすと笑う声音は可愛らしいが、そこに滲むのはここを警備する者達に対しての侮蔑の感情だ。
うんざり、といった様子を隠しもせずに一虎が舌打ちしながら腕を組む。
「連理の旦那もぼやいてたが、いっそ適当に見捨ててくか」
「あらやだ、ちゃんは死人は最小限にって言ってたんでしょ? 命令には従わなくっちゃダメよ」
「そうそ! なにせボスの命令だからねー。お仕事はちゃーんとしなきゃ、ね!」
底抜けに明るい調子で、ミケがぱちんとウインクする。
そして、そのままの調子でチェシャ猫のようににんまりと笑みを浮かべて。
「でも、今回はボスの目が行き届いてないからー。ミスがあっても、仕方ないよね?」
一拍の間を置いて、三人分の笑い声が夕闇へと吸い込まれる。
その背後。欠伸交じりに審神者達と鈴の会話を流し聞きしていた同田貫は、なんとはなしに、隣に黙然と立つ大倶利伽羅に問いかけた。
「なぁ、あんたは何人死ぬと思う?」
「……さあな」
西暦2205年12月29日。
年末年始の訪れに伴い――通称“連隊戦”、開幕。
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