「斬れますか」

 主の声は、雑然とした喧騒の中にあってもやわらかに耳朶を打つ。
 夜半は疾うに過ぎ去った刻限。本邸の座敷に灯された明かりは珍しく消える事無く、戦支度の音は否応無く心を浮き立たせる。隊の編成、その最中の事であった。簡潔も簡潔。前置きなど無いに等しい言葉に、意味を掴みかねて瞬きすれば、他の者達と入れ代わり立ち代わりで主の世話を焼いていた宗三が、眉宇を寄せて「主」と嗜めた。

「何処ぞのうつけでもあるまいに、言葉を省くにも程がありますよ。
 御覧なさい、三日月を。あれはよく分からないからとりあえず笑っておこうという顔ですよ」
「織田の御仁を比較対象にされるのは……いや、まあいいか」

 顕現されて以降、ほとんど四六時中顔を突き合せていた主だ。他意が無いのは知っている。それでも、他の者であれば今の問いについて正確にその意図を読み取れたのかと思えば、少しばかり悔しくはあった。
 あと宗三は何故俺の考えを即座に見破れたのだろう、そんなあからさまな顔をした覚えはないのだが。
 顔を撫でてみるも、やはり見抜かれた理由は分からなかった。
 不思議だが、一先ず神妙な顔をしておく事にする。

「よく分からんが、主が斬れと言うなら斬るぞ?」
「や、それは知ってます」

 間髪入れずに返った言葉に、ますます何が聞きたいのか分からなくなって眉根を寄せる。
 斬れと言われれば斬るし、斬れと言われなくとも敵ならば斬る。其処に迷いや躊躇いがあろうはずもない。
 こうして意を汲むのが難しく感じられるのは、人の身を得てからの期間が半月にも満たぬ短さであるからなのか。それとも、この主であるからこそなのか。刀の身であった時分には主の意図など読む必要も無かったのだから、まぁ考えたとて分かるはずも無いなと数秒で思考を放棄した。
 現代の、棒にしか見えない筆を滑らせていた手が止まる。
 頬杖をついて、主がこちらへと視線を向けた。

「あの“人喰い”、姿を模す程度には三日月さんにも執着しているでしょう。事、この段となると釣り餌は纏めておきたいんですよね。だからまあ、三日月さんは第一部隊に入れようかと思ってるんですけど」

 ゆらゆらと筆先を意味も無く揺らしながら告げられた言葉に、「うむ」と頷く。
 釣り餌扱いにはいささか納得いかないものの、あれが本来の姿でなく、“三日月宗近”の姿である事に執着しているのは事実だ。そして――主の護衛を任されながら、おめおめと不覚を取ったのもまた事実であった。
 あの時はまだ特がついて間もなかった事など、なんの慰めにもならない。
 小夜左文字が控えていなければ、主はあそこで死んでいた。

 思い返すだに、胃の腑の底がずしりと重く感じられる。

 主から、あの失態に関しての叱責は無かった。元より“囮”以上の役割を求めてはいなかったのだろう。
 あの時の自身では、主の警護としては力不足であった。それは自分でも理解している。日も落ち、狭い路地に誘い込まれたのも不利に働いた。生け捕りに、と言われていたのも一因といえば一因か。
 そう。あの“負け”を納得するだけの理由なぞ山とあるのだ。
 納得できないのも、それをそれと受け入れられないのも――矜持が赦さぬ、というものなのであろう。
 敗北を冷静に受け入れる理性と、それを屈辱に思う感情と。成程、心とは難しいものだ。

「……推測に間違いがないなら、まぁ十中八九あれとやり合う事になるんですよね。
 うちにはいませんけど、一応同じ刀派でしょう。確認はしておこうかと」
「ふむ」

 つまり、情に流されて自分が“使えない”可能性もある、と主は判断したという事か。
 その事に気付いて、顔を顰める。じとりとした目で睨むも、主はさして堪えた様子も見せなかった。
 眠たげに半ば落とされた瞼の奥、陰影を深める眼差しは新月の夜闇によく似ている。真っ直ぐにこちらの目を見据えていて、けれど、どれだけ目を凝らして覗き込もうとも己の内を伺わせない。
 俺は隠しもしないのに、まったくもって酷い話だ。
 むっつりとへの字に歪む口元を袖で覆い隠して、力強く頷いて見せる。

「斬れるとも。あれは、斬らねばならぬモノだ。そうだろう? 主よ」

 同じ刀派であろうと、同位体であろうと同じ事だ。
 歴史を守るために顕現した。人と共に在るために、この身を得たのだ。
 どのような理由如何が在ろうと、ああまで堕ちたとなれば最早“刀剣男士”では無い。
 一度は刃を交えた身であるからこそ、その思いは確固として有る。あれは既に、付喪神とすら呼べぬ。
 それに、これは絶好の機会だ。ふ、と口元が笑みに緩む。

 あの時の雪辱を果たし、此度の働きによって汚名を濯ぐ。
 練度は以前交えた際より大幅に上がった。あのような無様、二度と主の眼前で晒してたまるものか。

――……問題無さそうですね。
 三日月宗近。第一部隊の配属とします。期待してますね」

 すい、と主の視線が逸れる。物言いは淡泊であったが、それでも、主の期待に悪い気がするはずも無い。
 浮き立つ心そのままに、諾と返事をした。その時は気にも留めなかった。
 ほんの一瞬。逸れるその刹那、主の瞳を過ぎった温度の無い静謐。審神者ではなく戦の采配者としての、ひとでなしの顔。肌に馴染んだつめたさの中、泡沫のように弾けて消えた憐憫は、果たして誰に向けての――……


――き! 三日月起きんしゃい!!!」
「いつまで転がってる気!? 的にでもなりたいの!」

 鋭い叱咤が剣戟に混じって飛ぶ。ぐぁん、と薄暗い視界が揺れた。全身の感覚が戻って来る。
 明瞭になった意識に、今まで気を失っていたのだと悟った。側頭部に感じるのは、ぬるりと不快な血の感触。
 奇妙な幻影を見たのは、頭を打った所為かも知れない。あれは人間が走馬灯と呼ぶものだろうか、と愚にもつかぬ考えが三日月の脳裏を過ぎった。

(刀は……手放してはおらんな)

 重量のある足音が畳を揺らす。頭蓋を叩き割る軌道で振り下ろされる大太刀を転がって避け、太刀を握り直し――ずるり。反撃に転じようとした身体が傾ぐ。そこでようやく三日月は、己が片腕を失っていた事を思い出した。床へと習い性で突き出した腕は半ばで断たれ、肘から先は不自然に腐れてぐずぐずと崩れているような有様である。これで体重が支えられるはずも無い。軌道を変えて振り抜かれる刃に、三日月は眼前で盾のように己の本体を掲げて。

 ざしゅり、

 衝撃は思いの外に軽かった。肉が裂かれて血が噴き出す。大太刀の首がごろんと落ちる。
 ぐらりと傾いだ巨体が、乱雑に蹴り飛ばされて敵の槍へと突っ込んで行く。
 合羽を真紅に染め、袖口から返り血を滴らせる前田は己が仕留めた標的にも、三日月へも一瞥すらくれる事無く、そのまま次なる標的を定めて駆けていった。
 誰の手の者か。膝をついて手を貸そうとする重歩兵を視線で制し、三日月は改めて身体を起こした。

「すまぬ。世話をかけたな」

 礼を言いながら、身体の状態を確認する。
 一番酷いのはやはり、熱を持って存在を主張する左腕の傷口だろう。
 視認できる色濃さで纏わる黒々とした靄状の穢れは異常な速度で肉の身を腐らせ、本体である鋼を軋ませ、錆びつかせる。幸いというべきか、壊死した組織が血管を堰き止めており流血は止まっている。しかし身動きするたびに全身を苛む痛苦は、顕現して以降体験した事もないようなものであった。じっとりと背中に脂汗が滲む。
 ――が、そこは腐っても“刀剣男士”。傷を苛む痛みも寒気も悍ましさも、動きを止める要因とは成り得ない。


「オノれおのレおノれオノレ!!! ジャまヲすルなキさマラぁアア゛アア゛アッ!!!!!」


 獣が吼える。美しい顔をぐちゃぐちゃに歪め、歯茎を剥き出しにして威嚇する。
 座敷の奥へと視線を転じれば、そこにいるのは己の姿を模した、“かつて刀剣男士であったモノ”。だが変質しようとも――否、変質したからこそか。その刃はいっそ理不尽なほどに鋭く、そして重い。今まで対峙した遡行軍とは比べものにもならない。元が太刀である故だろう。流石に打刀と脇差の速度には追い付けないようではあるが、その力強さは以前演練で対峙した、練度上限の太刀すら上回る。
 見苦しい迄の執着と、憎悪と怒りと殺意と敵意と。そんな諸々を隠しもしない、剥き出しの悪意が一撃一撃から伝わってくるようでもあった。粘着質で執念深い、情念の塊。醜悪の一言に尽きる有様である。

(見苦しいものだ)

 見ていて愉快なものではない。それでも獣と対峙するにっかり青江は常に浮かべる薄ら笑いを崩す様子も見せず、山姥切国広に至っては眉一つ動かさない。あれから感じるものなど何一つ無い、と言わんばかりに。
 白刃が閃く。火花が散る。薄暗がりであっても、穢れを斬り裂くその軌跡は明瞭だ。顔を顰めたまま、三日月は吐息と共に思考を散らした。呼吸を合わせ、畳を蹴る。

「斬る」
「そこだよね」

――ふうっ!」

 二人分の斬撃。それをいなし、攻撃に転じる間隙を縫って太刀を振るう。
 病的に青白い頬が、ぱくりと裂けた。ぎょろり、と炯々と光る赤い双眸が三日月を睨む。悪寒。警告に従い身を屈め、畳を蹴って後方へと飛ぶ。眼前で風が弾けた。逃げ遅れた髪が、ぱらぱらと落ちる。追い立てようと前傾姿勢を取った獣の側面から、山姥切国広が疾風の速度で斬りかかった。ぎぃん、と火花が舞う。
 そこかしこに裂傷を作った青江が、三日月に流し目をくれてゆるく口元を撓ませる。

「おやおや、もう動いて良いのかい?」
「はっはっは、いつまでも休憩してはおれんからなぁ」

 茶化してくる青江に、三日月は肩を竦めて軽口で返した。
 青江の視線が、三日月の頬に生じた傷へと移る。獣同様ぱくりと裂けた傷口からは、血と膿の入り混じった液体がでろりと流れて襟首を汚している。傷を中心にして分かりやすく腐れていく頬に、すぅい、と青江の目が細まった。
 三日月の腹部に鈍痛が走る。二人の前に降り立った山姥切国広が、膝をついて苦悶する獣から視線を外す事無く問う。

「……呪詛はどうだ」
「随分と濃い。長引けば全身錆び腐れて折れるだろうな」
「この時代の君の本霊、この辺りにいるんだっけ? 本命はそっちだったんだろうねぇ」
「そうだなぁ。これだけのものなら、本霊にも届いたであろうよ」

 失ったはずの左腕が痛む。ぎちぎち、ぎしぎしと肉が、鋼が軋みを上げる。つん、と鼻腔を刺激するうすら甘くて不快な臭いがねっとりと纏わりつく。それは三日月自身の身体から発せられる臭いであり――獣が、傷口から漂わせる臭気でもあった。ぐちゅり、びちゃりと赤黒い血と肉片と、粘性の液体が入り混じった汁が傷口から滴る。
 三人が油断なく見据えるその先で、山姥切国広が落とした左腕が再生する。見えざる手が無軌道に膨張した肉を捏ね繰り回して成形し、人型の枠へと押し込んでいく。

――再生は影響せず、か。傷だけは同調しているのだから、面倒な事だ)

 三日月はそうひとりごちた。
 見るのは二度目だ、驚きは既に無い。

 あの獣が、どう言い包められて自身の姿であるのかは知らない。

 確かなのは、あれが“三日月宗近”を対象とした呪いのヒトガタである事。それだけだ。
 もしもこの場に三日月がいなければ、あれが本霊を対象とした呪詛である事を察する者はいなかったはずだ。
 あの獣は、それそのものが穢れの塊である。呪いに関する知識と洞察力、強い霊視能力が無ければ本霊に向けられたそれなど、紛れて気付けるはずも無い。

 負わせた傷は、そのまま“三日月宗近”に。
 より近い位置に分霊という絶好の“形代”があるからこそ、今はまだ、本霊に影響してはいまい。
 問題は彼が斃れて尚、あの獣を討伐できなかった場合である。身代わりの形代を失えば、あの呪詛は本来の対象へと飛んでいくだろう。本霊にどの程度影響を与えられるかは分からない。しかし、あれだけの呪詛だ。到底無傷とはいくまい。本霊は実体を持つ。負った傷が審神者の手入れで容易く修復される彼等分霊とは違う。下手をすれば、現在審神者に手を貸している全ての分霊に累は及ぶだろう。

「お守り一つで済みそうかい?」
「なぁに。仕損じなければ問題なかろう」

 あの再生能力を見るだに、そう容易く死んでくれはしないだろうが。
 機会は一度、がくれたお守りは一つ。生き延びれるのは、一度きりだ。

(さて。我が主は、どこまでこの事態を読んでいたのやら)

 懐にあるお守りは、通常より質の良いそれ。
 背後を一瞥する。短刀、そして余所の刀剣男士達によって囲われ、守られているは、今も獣が求める元主を叱咤し、正気付かせようとしながら倒れた他の審神者を介抱している。それでも、戦いの趨勢を気に掛けているだろう事はなんとなしに感じられた。ほわり、と胸が温かくなる心地がして、三日月は小さく笑みを零す。

「死ねるな」

 山姥切国広が、囁くような声で告げる。
 それは問いの形を取った確認だった。失敗まで織り込んだ決定事項。

「無論」

 三日月は頷いた。躊躇いはなく、怖れもない。
 戦いが長引けばそれだけ不利になる。三日月の身を苛む呪詛もそうだが、次々湧いて出る遡行軍の刀達を、孤立無援でいつまでも捌いていられるはずもない。現在露払いを務め、審神者達を守っている刀剣男士達が倒れてしまえばそこで終わりだ。選択肢など元よりあってないようなもの。それでも、三日月の心に曇りは無かった。

――今度は、負けん)


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!!」


 獣が吼える。

 化生が吼える。

 再生の都度その目を濁らせ、ヒトらしさを喪失しながら怪物が吼える。
 策を弄する知性など、疾うに喪われている。探り合い、隙を伺う忍耐すらも。動きの無い事に焦れ、ただ衝動で敵を排除すべく、太刀を握り締めてソレが駆ける。己の本体たる刀を構え、青江と山姥切国広が畳を蹴る。

 三日月はまだ動かない。
 純粋な暴力。力の差は技巧や駆け引きを無意味にする。
 相手が理性を失くした獣であろうと変わらない。熊に素手で勝てる人間がいないように、真正面から立ち向かえば無慈悲に押し潰されるだけの未来が容易く想像できる程度には、獣は“刀剣男士”の枠組みから逸脱している。
 半身を引き、片足は前へ。刀を握る片腕を高く掲げ。胴を無防備に曝け出して上段へ構えたまま、ひたすらに呼吸を整える。眼前で、練度上限二振りを相手取って猛威を振るう様を見据える視線は瞬きもしない。
 青江が腕を掴まれた。畳に叩き付けられる。陥没して穴が空く。山姥切国広が、太刀の軌道を逸らし切れずに弾き飛ばされた。その身体を追う様にして振り抜かれた刃が風を起こす。剣圧が肌を裂く。(……まだだ)歯を食い縛る。鉄錆の味が口の中に広がる。傷が疼く。茎から鎬へと錆が侵食されていく。それでも、待つ。ひたすらに。
 握り潰され千切れた腕もそのままに、地を蛇のように青江の刀が獣の足を薙ぐ。
 ずくり、と右足首に熱が生じた。足を踏ん張る。こんな所で、倒れられはしない。獣が青江に斬りかかる。再生の過程にある足を引きずったまま斬りかかる。青江の。脇差の速度なら、避けられる程度のそれだ。

 しかし、青江は避けなかった。

 青江の身体が両断される。熱い血飛沫を浴びながら、三日月は足元を踏み鳴らして跳ぶように駆けた。
 ずるり。左右に別たれる骨肉の合間を縫って、振り下ろされた太刀筋をなぞるように。
 獣の瞳孔が窄まる。敵を斬り、屠って刃を引くその一呼吸。仲間が、身命を賭して作った機会。

 その瞬間。その刹那を――この隙をこそ、待ち構えていた!

「これで――どうだ……!」

 薄闇の中、白刃が閃く。

 打ちのけの月が軌跡を描く。

 袈裟懸けに斬り裂いた渾身の一太刀が、獣の心臓を叩き斬る。
 喘ぐように開いた口から血が溢れ出す。ぐるり、と白目を剥いた眼窩から刃が生える。獣の背後。首の付け根から、眼球へ。その刃を押し込んだ山姥切国広が、奈落のような目で獣を見ていた。無言で、突き立った刀が引き抜かれる。ばきん、と。三日月の耳元で――否。頭の奥で、刃の折れる音が響く。



「    」



 獣の唇が、微かに動いた。

「なっ――!?」
「……ッ!」

 靄が集まる。穢れが渦巻く。ぼこぼこと傷口が無軌道に膨れ上がる。
 人の輪郭が崩壊する。崩れ落ちた肉が鋼が皮膚を突き破って風船のように質量を増す。三日月と山姥切国広、そして青江をぶよぶよと増殖する肉の下に巻き込んで取り込んで押し潰しながら膨張していく。
 刀剣男士は人並み外れた身体能力を誇るが、受肉したその器はあくまでも人間をベースとしている。
 例え並外れた再生能力を有していようとも、致命傷を負い、更に間を置かずして脊髄と脳を貫かれて尚、元通り機能するほどその基本性能は高くはない。まして、数多の人間を。刀剣男士を喰らって道理を踏み外し、辛うじて人型に収まっていたような化け物ともなれば――


「「 「 「――ア゛、aAAAAAaAAAAAAaaAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」」 」」


 肉塊が絶叫する。
 そこかしこに開いた孔という孔から、狂った音律が叫喚する。
 膨張した端から崩壊を繰り返しながら津波のような勢いで、審神者達目掛けて殺到する。明らかに限界を迎えながら、それでも、見た目からは想像もつかない速度で疾駆する。お守りによる再生/全快。折れ、砕けた刃が修復される。肉体に力が戻る。けれどそれも意味を成さない。逃れようと振るう切っ先すら肉に押し固められて身動きもとれない。三日月達の耳の奥で、骨が砕け、肉が潰れる音が木霊する。

「ガッ――
「あるじ、逃げ――……!」

 それ以上進ませまいと斬りかかった男士達も遡行軍さえも、全て薙ぎ倒して膨張しながら、ぶよぶよと揺れる肉に進路上のあらゆるものを押し込み、蹂躙していく。審神者達は動かない。
 過呼吸に陥っている唯織は朦朧として足元すらおぼつかず、榊原は股座を濡らし、ただひたすらに震えている。は抜き身の薬研藤四郎を構え、迫る肉塊を睨んで瞬きひとつしない。
 逃げられない。逃げられる速度ですら無い。死の恐怖に、榊原が涙声で悲鳴を上げた。

「いやだ――いやだいやだいやだくるなぁあああああああああああッッ!!!」


 ――ぴた、り


 肉塊が、静止した。
 「え」と。思わず、といったふうに声を漏らしたのは誰だったか。
 肉塊が震える。ぐにゃり、とその密度を喪って広がり、捩れ、震えながら――ぼろぼろと、崩れていく。自壊していく。
 榊原の。どうしようもなく求め焦がれた、かつての主人からの拒絶に、耐え兼ねるように。

 世界が反転する。空間が揺らぐ。

 襖は壁へ。畳は床へ。荒れた、元通りの室内の光景へと変貌する。
 肉塊から投げ捨てるように放り出され、刀剣男士達が膝をつく。
 何処か遠くで除夜の鐘が、ごぉん、と鳴った。


 ■  ■  ■


 梵鐘が響く。重く、静謐な音色が戦場に、波紋となって広がっていく。穢れの凝った靄が薄れる。
 聞く者を厳粛な気持ちにさせるそれは、一年の終わりを告げる音だ。心を惑わし悩ませる、悪心と執着を祓う音律。しかしこの場に限っては、除夜よりも葬送の役割こそが相応しい。死んでいった者達に手向けられる、鎮魂の鐘。それに依るものだけではない、明らかに変わった空気。愛染国俊は夜空を見上げた。

 つい先刻まで、分厚く空を覆っていた暗雲。
 風に流され、追い立てられて散っていくその合間から覗くのは、月隠りらしい冬の空だ。透き通った闇夜の中、人工衛星と星々が存在を主張している。隣に立ち、歩兵を使って方々に指示を飛ばしていた審神者も気付いたらしい。
 紺色の羽織に千鳥柄の着流しという出で立ちの、恰幅の良い、初老に差しかかろうかという年頃の男だ。
 苦み走った顔付きの男前ではあるものの、鋭すぎる眼光やいかにも酷薄そうな表情と相俟って、見る者に好感よりは恐怖を抱かせる。額にかかる髪を乱雑に掻き上げて、“連理”と呼ばれる審神者は鼻を鳴らした。

「……片が付いたか」

 その声に疲労が滲むのは致し方あるまい。
 相手が人間ならば攻め手の緩む時もあったろうが、相手は人ならざる遡行軍の刀達。
 満足な休憩も取れず、ただでさえ神経を削る前線での指揮を丸々二日もこなしていたとなれば、どんな体力お化けだろうと疲弊しようというものだ。しかもお荷物を複数抱え込んで、である。
 警備連中の式神と歩兵をフル活用し、分断して配備された審神者達全員と連携しながら対処していったものの、遡行軍がそこかしこから無限に湧いてくる状況下ではそれも満足に行くはずが無く。鬼門という、特に敵が多く“湧いた”場を担当しながら彼の刀剣男士が一人として欠けなかったのは、連理の采配あってこそだと言えよう。
 愛染が、大きく伸びをしながらしみじみとした口調で相槌を打つ。

「だなー。いい加減過労で死ぬかと思ったぜ」
「ふ。誉れ桜が途切れもせん癖に、良くもほざいたものだ」
「あのなー……。オレじゃなくて主さんが、だからな? ほんっと自重しねぇんだもんよ」
「自重せぬのは国俊くにとしもだろう。満足気な顔をしおって」
「そりゃあな。こんなでかい祭り、早々参加できるもんでも無いしさ」
「違いない」

 施設内部。歪み、異界と化した空間を核とし、道を繋いで続々と湧いていた遡行軍に、既に勢いはない。
 おそらくは、異界の核であった“モノ”――それが討伐されたのであろう事は容易く察しがついた。侵入経路が断たれたとなれば、あとは残党の討伐を残すのみだ。
 この施設に詰めていた政府の人間で、生き残った者は既に退去を終えている。
 誰にも保護されず、それでも生き延びた者もいるかも知れない。だが襲撃時点でどれだけの人間がいて、どれだけの人数が死んだのか未だ判然としない現状、それを知る術などあるはずも無かった。元警備担当、現式神連絡網を担う術者達を通じて行方不明者リストを出すよう促してはいるが、それとていつになる事やら。
 続々と入ってくる戦況報告に耳を傾けていた連理が、「ふむ」と呟き無精ひげの生えた顎を撫で擦る。

「掃討序でだ、総大将殿の迎えでも出すか」
「あ、ならオレが行ってくる! でも総大将の姐さん、無事でいるかなー」
「さてな。死んでいればそれまで。その程度の器であったと云うだけの事よ」
「生きてるって疑ってもいねーのに、よく言うぜ」

 死んでいればそれまで。その言葉に嘘は無い。だが、死んでいるとは思っていない。
 審神者は刀剣男士ではない。手当てをすれば直ぐに傷が癒える訳でもなく、深手を負えばそのまま死んでしまう可能性だってある。それを知りながら彼等が――彼等の総大将の帰還を待っていたのはそれ故にだ。
 己の命運を預けて後悔しない程度には、連理はを名乗る審神者に惚れ込んでいる。それはきっと、彼女の求めに応じた審神者達にとっては共通の思いだろう。そうでなければ、誰が危険を承知で従うものか。
 呆れ顔でわざとらしく溜息をついた愛染に、連理は片頬を歪めてにやりと笑った。
 夜明けは、未だ遠い。




BACK / TOP / NEXT