何が起きているのか。それを、すぐに理解する事はできなかった。
 溢れだした闇が、べちゃべちゃと厭らしい音を立てて畳に滴る。生き物染みた挙動で身を捩り、蠢く。室内にわだかまる黒が、呼応するようにその色を深める。身体に纏わる、粘着質で、足を、腕を、腰を、四肢を絡め取って引きずり込むかのような、澱んだ空気が重みを増す。血と錆の悪臭に、腐り膿んだ水の臭いが混ざり込んできて。

 弦が震えた。

 衝撃に、薬研の身体が大きく仰け反る。
 心臓が煩い。荒い息を零しながらそれを睨み付けた。再度弦を引く。外した?
 おかしい、確かに頭を射たはずだ。破壊には至らなかった? いや、疑問は後回しだ。
 なんでもいい、早くあれを殺さないと、壊してしまわないと――

「あ ルじ、」

 声が響く。

 倒れ伏す寸前。不自然に硬直したまま、薬研藤四郎が語りかけてくる。
 ゆっくりと、緩慢な、ゼンマイ仕掛けの人形めいた挙動で、予備動作も無く起き上がってくる。
 ひ、と喉が痙攣して呼吸が漏れた。目が離せない。総毛立つ。
 周囲を囲む男士達は無言だ。不気味に沈黙を保つ彼等が、いつの間にか俯かせていた顔を上げる。
 光のひとかけらも含まない、蠢き、這いずる汚泥の闇。
 それを詰め込んだ眼窩に、青白く、禍々しく揺らめく鬼火を灯して。
 男士達が、私を見ていた。

「ドう  シ 、 テ  ?   」

 異口異音、けれども寸分たりとも狂わぬ台詞で、示し合せたように問いかけてくる。
 ずるり、と闇が溢れ出す。室内の影が身じろぎする。空気が重みを増す。
 腕が、嘘、やだ、なんで、動かな、や、来るな、くるなくるなくるなくるなくるな――

――アタシの審神者に、気安く触るんじゃあないよ!」

 視界を、大きな背中が遮った。
 牽制するように振り抜かれた大太刀が、泥土の闇を斬り祓う。
 ほんの一瞬、胸まで腐らす悪臭が薄れた。は、と喘ぐような呼吸音が喉から漏れる。
 昏い、底無し沼のような無数の眼差しが、私から次郎さんへと逸れて。


「 お マ  、 え  カあァぁぁぁあああAAAAAAAaaaaaaa!!」


 憎悪に満ちた怒号が上がった。
 抜き身の刃が次郎さんに殺到する。

「させませんよ」

 覚えのある声と共に、ひらりと符が舞った。
 瞬間、真白い炎が轟、と唸りを上げて噴き出す。
 耳を覆いたくなる絶叫が響く。それに一瞥すら向けず、飛び込んできた小さな影が私を振り向く。
 ふかふかもふもふな、ぬいぐるみにも似たフォルム。
 戦闘力なんてないはずなのに、不思議と誰より頼もしく見える私の味方。

「こんさん!」
「こちらです!」

 背後から鋭い声が響く。振り向けば平野藤四郎が、険しい表情で「お早く!」と促す。
 こんさんに視線をやれば、力強い頷きが返ってきた。
 駆け出そうとした私の足首を、ひんやりと冷たい手が捉える。

「え、」

 間の抜けた声が零れた。次郎さんが目を見開いた。伸ばされた手に咄嗟に縋り付く。
 支えが消えた。血飛沫が舞う。温かな鮮血を浴びながら、たたらを踏む。ぐにゅり。形容しがたい感触で、畳が、足が沈んでいく。腰にあおじろい腕がまわる。瞬く間に太腿までを呑み込んだ黒の中から複数伸びてきた手が、私の腕を、服を、背を、足を、しっかりと掴んでさらに深くふかく、奥底へと引きずり込んでいく。

 あ、これだめだ。

「次郎さん、近侍部屋……っ!」

 事態の元凶。穢れの大本。
 本丸さんが私に嘘をついた事は一度だって無い。伝えるべきことを、伝えなかった。それだけだ。
 情報はそろっていた。ただ、私自身がそれを結びつけていなかっただけで。
 審神者を嫌う短刀達が、私が近付く事を拒んだのは――本来、審神者がいるべき部屋に、もっとも近い刀剣部屋の一室。この広い本邸で。いくらでも空きの部屋のある現状で。
 あえて、忌まわしい記憶があるだろう場所を選んだその理由。

 答え合わせは、どうやらできそうにないけれど。

 こんさんが悲痛な声で叫ぶ。次郎さんの顔が歪む。
 お願い、と声にならない言葉で告げて――あとはぜんぶ、黒に呑まれた。


 ■  ■  ■


 げらげらと男が笑っている。
 僕を顕現させた主が笑っている。

 見上げた兄さまは血塗れで、青褪めた唇を震わせていた。
 泣き出す寸前のような表情のその人を慰めようとして、手がもう無い事に気付く。
 嬉しそうだなぁ宗三、と男が笑う。げらげらげらげら。愉しげに嗤う。
 達磨にするのは楽しかったか? 喜べ、お前の手柄首だ。
 主人に逆らう愚弟の処分を任せてやっているんだ。這い蹲って感謝しろよ。
 笑い声が止む。ほらありがとうございますって言ってみろよ! 一転して怒気に満ちた罵声が飛ぶ。
 悄然と項垂れた兄さまを打ち据える男。ぎちり、と歯を鳴らした。

 やめろ。汚い手で兄さまに触るな。
 潰れた喉では声が出ない。呻き転がりながら、男を睨んでいる事しかできない。

 くやしい、くやしい、くやしい!
 どうして、僕らは仕える主を選べない!
 どうして、無為に砕けた仲間の復讐すらできない!

 なんだその目は。男が吐き捨てる。
 頭を靴底が踏みつける。男の手には兄さまの刀。
 眼球に押し当てられた刀身越しに、男を睨みつけた。何度顕現しても不愉快な餓鬼だな。
 舌打ちと共に、刀身が沈む。耳の奥で異音が響く。ぞぶり。


 ――とぷん。


 薄暗い部屋に、すすり泣きの声が響く。

 すまねぇ、すまねぇ国広。

 背中を丸めて、ただの鉄に戻ったそいつにすすり泣きながら詫びている。
 その姿を哀れに思う。胸を過ぎるのは虚しさか怒りか。
 俺たちは武器だ。戦うために呼び出されたはずだ。顕現したはずだ。
 なのに、なんで戦以外で折れなきゃならない。誇りを踏みつけにされなきゃならない。

 同時に、あれで済んで良かった、と胸を撫で下ろす自分もいる。
 あの和泉守の前で、堀川が折れるのはまだ一度目だ。自分の手で、折らされたわけじゃあない。
 自分の手で堀川を傷付けさせられて、絶望しながら折れていったのは何度目の和泉守だっただろうか。
 ろくろく動けない身体を引きずりながら、主の部屋に向かう。
 あいつにとって、俺たち刀剣男士は使い捨ての消耗品だ。手入れなんてされない。
 次の出陣で、俺は折れる。本体の槍を握り締めた。

 刺す以外、能のない俺だけど。
 ロクに会話も無かった同属達だけど。
 せめて最後ぐらいは――あいつらのために、魂を賭けたい。


 ――とぷん。


 青褪めて白い肢体が跳ねる。
 茫洋と開かれた唇が、壊れた音を垂れ流す。
 下から突かれるままに四肢を踊らせ、腰をくねらせて、捌かれたはらわたを散乱させて。
 その目が死んでいない事こそがきっと、いちばんの不幸なのだ。

 やげん、

 虫の息で、隣で伏した乱が哭く。
 男が笑う。ぼくらを顕現した人間。主とは、到底呼べない下種。
 ほら、よぉく見ておけ。お前らの助命嘆願の為だけに、こいつはこの扱いを受け入れたんだぞ? 素晴らしい同胞愛じゃあないか! 見せつけるようにして犯される薬研。下種の声が、悦を含んで嫌らしく嗤う。
 仲間の勇姿だ。しっかりとその目に刻んでおく事だなぁ。

 どうして。どうしてこのさついで、あいつをころせない!

 口内に血の味が広がる。縫い止められた身体は、どれだけ力を入れても虚しく畳を掻くだけだ。
 殺したい。人の身を得て知り得た憎悪が身の内を焼く。身を縛る枷に歯噛みする。
 下種が嗤いながら顎をしゃくる。やれ、山姥切。無言で引き抜かれる白刃。

 ま、て  たいしょ、 はなし、 ちが……

 ははは、薬研。お前は本当に阿呆だなぁ。
 俺がいつ、頼みを聞き入れると言った? なぁ。言ってないだろう?

 甘ったるく、下種が目元を緩ませる。
 嬲る意図を隠しもしない言葉が薬研の耳孔をねぶる。紫暗の双眸が絶望に染まる。
 ぼくの頭上で、山姥切が刃を振り上げる。吐き捨てた。

 のろわれろ、げどう。


 ――とぷん。


 嘆きが聞こえる。呪いが聞こえる。怒りが聞こえる。憎しみが聞こえる。
 内側から湧き出すように/外側から侵すように数多の声が延々と繰り言を注ぎ込んでくる。
 目の前の光景が移り変わる。くるくるくるくるくるくるくる。万華鏡のように。内側を満たす。怨嗟があった。喪失があった。屈辱が、無念が、苦痛が、憎悪が。無数に折り重なる負の情念が、地獄よりも地獄らしい、悪意と血でもってして混濁した世界を描き続けている。

 声が囁く。声が告げる。

 のろわれろのろわれろのろわれろ憎いのろわれろのろわれろのろわれろ何故こんな扱いをのろわれろのろわれろ悔しいのろわれろよくものろわれろ憎いのろわれろのろわれろ死ねのろわれろ死んでよのろわれろ憎いのろわれろのろわれろ死んでしまえのろわれろのろわれろ死ねのろわれろ死ね死ね死ねのろわれろ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――

 さらさらと金色の髪が流れる。流れて頬を撫でていく。
 覗き込む昏い二つの孔で、赤い鬼火が燃えている。馬乗りで首を締め上げる。
 うすぐらく霞む世界。至近距離で覗き込んでくる顔は、黒色で塗り潰されて表情すらも分からない。
 傷だらけの手が、血塗れの手が、戦慄く手が、緩慢に息の根を止めようとしていた。

 声が響いている。頭の中で反響する。

 死ね死ね死ね死ね憎い死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね憎い死ね死ね死ね死ね死ね死ね憎い死ね死ね死ね死ね憎い死ね死ね死ね死ね死ね死ね憎い死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね憎いしね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死死死死死死死憎死死憎死死死死死死死死死死死憎死死死死死死死死死死死死死死――



 ――かなしい。



 呪詛が響く。怨嗟が響く。絶望が聞こえる。
 胸に去来する感情のままに、見下ろしてくるその頬を、てのひらで包み込む。
 手は緩まない。ひたすらに首を締め上げる。それすらも微笑ましい。
 さらさらと流れる髪を、手で優しく梳く。慈しみを込めて。労わりを込めて。妹達に、対するように。

 哀れだった。
 けれど、同じくらいに愛おしかった。

 愛と憎悪は一つのコインの裏表だ。どちらも相手無しには成立しない。
 強く相手を思う、という点においてはどちらの感情であっても変わらないのだ。
 彼等は憎んだ。審神者を呪った。その死を願った。そこに諦念は存在しない。絶望してはいても、諦めきれない。人間を、見限ってはいないのだ。どうしたって無関心ではいられない。
 その発露が、どんな形であったとしても。

 悲しいと、折れた刀が泣いている。
 求められぬままに使い捨てられた事を嘆いて、泣いている。

 いいよ。

 答えの代わりに微笑んだ。

 いいよ。

 くるしいけど、いいよ。

 無数の声が木霊する。頭の中を泳いでいる。脳を、魂を侵食する。うちがわに。ひたひたと。
 敵だと思っていた。恐ろしかった。危害を加えられることが。悪意を、敵意を向けられることが。分からなかったんじゃない。理解しようとしなかった。知りたくもなかった。
 おそろしいものはおそろしいままに。見ないふりをして目をそむけて。
 そうすれば切り捨てられた。そういうものだと割り切らなければいけなかった。
 それが身を守るために最善の方法なのだと、思っていた。

 いいよ。許そう。ぜんぶ。

 愚かなのは私も一緒。関係ない、だなんて言い訳だ。
 誰かが手を差し伸べなければ、結局、誰も救われない。随分と遅くなってしまったけれど。
 だから許そう。受け入れよう。凝った呪詛のままに、この首を締め上げられること。
 心臓を貫かれ、魂に喰い付かれて。奪われ尽くして果てる事を。

 おちてあげる。

 いっしょに。

 ふいに、首へかかる圧力が弱まった。
 雨が降る。ほろほろと、闇を詰め込んだ眼窩から、涙が零れて降りしきる。
 不思議な気持ちで、そのまなじりを指の腹で拭う。
 赤黒くひび割れた指先が、涙の代わりに血化粧を刷く。ひび割れた唇が、擦れた声で「いやだ」と呻く。

 闇が蠢く。闇が広がる。闇が濃くなる。
 涙を零す乱藤四郎の背後で、折れた刀が啼いている。

「いや、だよ」

「もう、」


 うらみたくない。



 ――とぷん。


 ふと。畳の敷かれた広い部屋に、立ち尽くしている事に気付いた。
 そこかしこに置かれた、よく見覚えのある調度品の数々。整然と並べられた座布団。
 馴染みのある和室だった。幼い頃から。

 顔を上げれば奥まった場所に、ぽつりと白い棺がひとつ。

 誘われるようにして、棺へと近付いた。覗き込む。
 いつかと違って、窓の無い棺。その蓋を押しのけて、幼い日と同じように。
 棺の中に敷き詰められているのは鋼だ。
 折れた刀剣を寝床にして、胸の上で手を組んで。一人の少年が横たわっている。
 鮮やかな、華やかな色合いをしたふわふわの髪。白磁の肌、薔薇色の頬。
 長い睫が、幼さを色濃く残す目元にうすらと艶めいた陰影を落としている。鋼の棺の白雪姫。

「……あきた、とうしろう……」

 瞼が震える。むずがるように唇が動き、ゆるゆると、大きな瞳がひらかれる。
 よく晴れた空をそのまま切り取ったような瞳だった。兄弟である、乱藤四郎と同じ色。
 ぼんやりと彷徨う瞳が焦点を結ぶ。笑顔が花開く。
 一点の曇りもてらいもない、嬉しさだけを詰め込んだ、無垢な笑み。

「やっと来てくれましたね」

 咄嗟に後ずさった。とん、と背中に何かが当たる。
 振り向けばそこには、傷だらけの男の姿。その首は何処にも見当たらない。
 両腕を掴まれた。拘束を振り払おうともがくも、手は一向に緩む気配を見せない。
 畳が消える。硬質な床。足にぶつかった何かが澄んだ金属音を立てて転がる。
 世界が一変する。懐かしい光景が消える。足元に転がる、折れ錆びた刀剣の残骸。
 弔われることも、見返られることもなく捨て置かれた、付喪神の墓場。

「良かったです。僕は、ここから動けませんでしたから」

 安堵を滲ませ、秋田藤四郎が微笑む。
 窓一つない部屋。暗闇に覆い尽くされた部屋の中で、その姿、表情は不自然なまでにありありと読み取れる。
 鞘から短刀を抜き放つその動作に、躊躇は無い。

――……鶯丸さんが封じていたのは、あんた達だったの」

 問いではない。確信だった。
 あの時、あの部屋にいなかった刀剣男士は三人。

 平野藤四郎。

 鶯丸。

 そして、秋田藤四郎。

 以前、本丸さんが死体の隠匿犯として名指ししたのは鶯丸だけ。
 けれども、以前相対した鶯丸からは、爪の先ほどの敵意も感じなかった。審神者への憎しみも、何も。
 あったのはがらんどうな憐れみだけ。限りなく無関心に近い。本丸さんが秋田藤四郎については触れずに鶯丸の名を挙げたのは、事態の核心を握っている、いちばん安全な刀剣男士だからだろう。秋田藤四郎と前任がここに封じられていて、誰もが穢れの大本を――この部屋を忘れさせられていた以上、鶯丸抜きでこの真相に到達する事は困難だ。そして、鶯丸に敵対の意思はなかった。事を露見させる気も。
 危険から遠ざけるにはうってつけの人選、という訳だ。
 平野藤四郎は、たぶん鶯丸の協力者なんだろう。
 そうでなければ、こんさんが行動を共にしていたはずがない。

「鶯丸さんは、主君の願いは叶うべきではないって思ってますから」
「……願い?」
「“死んでしまえ、呪われろ”」

 息が止まった。

 それは、まるで。

「主君はいつも帰りたがっていました。
 帰りたがって、帰れなくって。……僕らに当り散らして、それでも満たされなくて」

 目を伏せて、秋田は語る。優しい口調で。慈しみを込めて。切なげに。
 その表情に悟る。外道の、ろくでなしの前任者でも――少なくとも彼にとっては、紛れもなく“主”だったんだろう。
 仲間より、優先する事のできるような。今更ながらに、彼の目が虚ろだった理由を悟る。あれは、大切な人を。愛する“主”を、喪ったからこそのものだったんだ。守り切れず、共に逝く事すらできず。大多数の意思で押し潰されて、口を噤むしかなかった自分への失望とない交ぜになった絶望。

「恨まれてるのは知ってましたし、殺されても仕方のないような、そんな人でした。
 でも、これじゃあんまりじゃないですか。望んで審神者になった訳じゃなかったのに。
 望んで、何もかも置いてきた訳じゃないのに。貴方だってそうでしょう?」

 そんなことない、なんて言えなかった。
 現世に残してきたもの。自分で選んだ仕事。小さいながらも居心地のいい、私の家。愚痴で盛り上がる仕事仲間。気の合う友達。生意気で可愛い妹達。大好きな両親。数え上げればキリがない。
 ぜんぶ、おいてきてしまったけれど。
 ああ、そういえば――最後に連絡を取ったのはいつだっただろうか。

「主君は最後まで憎んでました。自分から大切なものを奪った政府の人間のことを。
 ……末期の願いまで、踏み躙られる謂れは無いはずです」

 貴方だって憎いでしょう。

 貴方だって怨めしいでしょう。

 貴方だって――


 お前も、呪わしいだろう。なぁ?


 なまあたたかい、つめたい吐息が耳朶を這う。嬉しそうに乞うてくる。
 好きできたんじゃないんだろ。俺達から奪うばかりのあいつらに思い知らせてやろう。
 奪ったぶんだけ奪われろ。目に物見せてやろうじゃないか。可愛い後任。かわいそうな俺の後輩。こんなに苦労させられて。俺ならお前を理解してやれる。お前の苦悩を分かち合える。人間の俺だからこそ。
 つらかったろう、くるしかったろう。誰にも理解してもらえなくて。
 一緒においで。一緒にいこう。報復してやろう。俺達を犠牲にして、のうのうと生きている奴らに。俺達から奪い尽くしておいて安穏としている奴らに。命じた奴らばかり、何も失っていないなんておかしいだろ。
 恨まれるだけで終わるなんておかしいだろ。あいつらも死ぬべきだ。俺と同じように。あれらのように。
 苦しんで苦しんで、絶望しながら死ねばいい。

「貴方の身体があれば、主君は外に出る事が叶う。
 首を取り戻して、ようやく願いを遂げに行く事ができるんです」

 だから、


「主君のために、死んでください」


 俺に、ぜんぶ寄越せ。


 饐えた水の腐臭がまわる。あまったるい毒の声が流れ込む。
 丁寧とすら言える手付きで、秋田が私の胸元に触れる。心臓の真上へ、短刀を振りかぶる。

 ――ぱきん、

 耳の奥。身体の内側で、音が響いた。
 喪失感と共に消えていく。刀装が砕ける。ぎょっとした様子で、秋田が突き立てた短刀を引き抜いた。
 冴え冴えとした鋼の刀身には、血の一滴もついてはいない。
 両腕の拘束が緩む。突き飛ばされて、折れた刀剣の残骸の上に転がった。衝撃に息が詰まる。

「主君!? 主君、どうしたんですか!?」

 秋田が駆け寄る。首の無い男が、身を捩らせて苦悶する。胸を掻き毟る。
 皮膚がめくれて腐汁と蛆が撒き散らされる。黒ずんだ血がどろりと零れる。
 痙攣して自傷しながら、喪った首を起点として亀裂が入る。反転する。

 ――NNンン野尾p絵pお嗚呼嗚えいrdtyfぎjこ亜ペア嗚呼エrhbllれ呼嗚呼アンに尾rんえいrdtyfぎjこ亜ぎjこ亜ペア嗚呼エrhbllれ呼嗚呼アンにペア嗚呼エrhbllれ』prk-絵bにkねrkrdtふゅ位お!!

 心臓を鷲掴みにするような絶叫。
 悍ましい、既に人声とは到底呼べない苦鳴が室内に反響する。闇が薄れる。
 膨れ、捻じれ、奇怪なオブジェへと変貌しながら腐り溶ける前任者に取り縋りながら、秋田が必死に呼びかけている。ふ、と鼻先を掠める清涼な空気。アルコールを多分に含んだ。
 床についた指先が何かにぶつかる。握り込んだのは無意識だった。誰かが必死な声で叫ぶ。

 ――使え!

 弾かれるように駆け出した。
 使い方が分かる。間合いが分かる。どう振るえば良いのか、どこを狙えばいいのか分かる!
 秋田が振り返った。険しい表情で床を蹴る。肉薄する。白刃が閃く。

「ここです!」

 躱せる間合いじゃない。突き出される短刀の軌道に左腕を割り込ませる。灼熱が肉を貫いた。
 構わず踏み込む。視線が交差する。バックステップで距離を取ろうとする秋田。更に踏み込んで、そうだ、その間合いだ。誰かが告げる。片手に握った短刀を、勢いそのままに突き出して。

「柄まで……っ、とおったぁあ――!」

 肉を抉る、確かな手応え。
 そうするのが自然なのだと言わんばかりに、手が、更に短刀をあたたかくぬめる肉の中へと潜り込ませていく。
 大きな瞳に驚愕が広がる。慄いた唇から、ごぽり、と血の塊が吐き出された。

「……こ、んな……とこ、ろ……で……!」

 短刀を、力任せに振り抜く。秋田がたたらを踏んだ。
 辛うじて踏みとどまった少年が、信じられない、と言わんばかりの怒りの籠った眼でねめつけてくる。

「……ど、して……あなたも、にくい……はず、……です……!」
「……貴方も、ね……」

 荒く、肩で息をしながら、滑り落ちそうな短刀を強く握り締める。
 否定はしない。間違いではなかったから。
 前任者と、なんら変わるところはない。憎いと思う。怨めしいと思う。呪ってやりたいと思う。
 私をこんな目に合わせたやつら。こんなところに放り込んだやつら。
 好きで審神者になったんじゃない。同じくらい失えばいいと、奪われればいいと思う。
 どうしようもなく自分本位な感情だ。あのろくでなしな男と大差無い。

 でも。

「……それは、免罪符にはならないんだよ」

 同じ場所までは、堕ちたりしない。
 それが、どうしようもなく臆病な私の――せめてもの誇りだ。

 ぐじゅぐじゅと蠢き伸縮する肉塊が、私達へと触手を伸ばす。
 秋田の瞳に昏い影が過ぎる。諦めたように、受け入れるように、その瞼が閉ざされる。
 振りかぶった短刀を、差し出された首筋目掛けて振り下ろす。血の花が咲く。
 ぱきん。鋼の折れる音がした。肉塊が咆哮する。闇の中から無数の手が伸ばされる。
 悍ましく身悶える人間だったものを掴んで、奥底へと引きずり込んでいく。
 ぶよぶよと、腐り果てた汚泥を滴らせた触手が、弱々しく這いずりながらにじり寄る。
 短刀を構え直す私の横を、影が通り抜けていった。

――鶯丸……?」

 溜息交じりに、透けるように薄い男が触手に触れる。
 呆れかえった表情で、けれども仕方が無いと許容する表情で、ぽんぽん、と気軽な動作で肉塊を叩く。
 瞬きすれば、その横には秋田が並んでいた。困ったような顔で、肉塊に触れる。
 足元の闇が薄れる。肉塊を覆う黒が濃くなる。二対の視線が、私に向けられた。
 脳髄に突き刺さる、断末魔の叫びが木霊する。二人と、ひとつの姿が闇にすっぽりと呑み込まれる。
 抵抗するそれを引きずって、闇へと消えていく。


 ――さようなら、審神者の娘。君の手料理は悪くなかったぞ。

 ――ごめんなさい。手入れ、ありがとうございました。……お元気で。


 闇が消える。霧散する。
 本丸を覆っていた呪詛が。凝った憎悪が。前任者と、その従者達を引き連れて。
 世界がまわる。膝が笑う。瞼が重い。立っているのも億劫だった。
 力無く沈む身体を受け止める、力強い腕の感覚を感じながら――安堵に、微笑んで目を閉じた。




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