我に返ったのは、ノイズ交じりの囁きによってだった。


 ――勝  負  ア   、   リ


 脳髄に、鼓膜に直接注ぎ込むような、音の無い宣言。
 長居してはいけない。そんな予感がした。今なら、簡単に空間を繋げるだろう。
 ……これ以上の消耗は下策、だよなぁ。選択肢なんて一つしかない訳で。
 自然、深々とした溜息が漏れる。

「次郎さん、降ろして。本丸に繋ぐから」
「……あいよ」

 腕の中から降りて、てのひらに視線を落とし、無言で握り締めた。
 指先の感覚は完全に麻痺している。けれど、不思議と痛みも、疲労感も感じない。うん。まだいける。
 優しい手付きで、次郎さんが私の手を浚う。
 何とはなしに見上げれば、にぃっと笑って手首へと唇を寄せてみせた。

「辛いなら言いな。何刻だろうと抱えててやるよ」
「いや、それ刀振り回す時邪魔だよね」
「何言ってんだい。そのくらい余裕に決まってるだろ?
 アタシとしちゃあ、アンタを抱えてた方がやる気も出るし安心できるってなもんなんだが……」
「嫌だよ? そんな真剣な顔で見てきても絶対嫌だからね?」
「なんだい、つれないねぇ……そんなに嫌かい」
「次郎さん自分の鈍足っぷり自覚ある?
 今から本丸に戻るってのに、わざわざお荷物になる趣味ないよ、私」

 人間一人分の体重舐めんな。
 溜息交じりに浚われた手を引き戻し、意識を本丸の門へと向ける。
 ぱん、と柏手を一つ打てば、それだけで先程飛び出してきたばかりの扉が出現した。
 一番警戒しないといけないのは待ち伏せ、だな。基本方針は籠城戦でいくか。
 離れで大勢を立て直してから作戦考えよう。

「次郎さん、戻ったら離れまで直行……次郎さん? 次郎さん聞いてる?」

 片手で顔を覆ったまま、次郎さんが無言でひらひらと手を振った。
 いや、聞いてるのか聞いてないのかどっちだよ。
 リアクションの薄い次郎さんに口をへの字に曲げて、荒野へと視線を走らせる。
 遺体は無い。残っていない。埃っぽい地面にできた血溜まりの跡と、鉄の残骸がそこかしこに転がっているだけだ。ちらちらの移り込んでくるのは無数の影。空には無数の亀裂が走り、青白い火花を散らしていた。のんびりしてる暇は無いようだ。次郎さんが隣に並ぶ。それを横目に一瞥して、扉が片方無くなった門を見据えた。
 黒で塗り潰されたその先を、窺い知る事はできない。

「先陣は任せな。ま、必要ないとは思うがね」
「……それ、どういう事?」
「それどころじゃあないって意味さ。多分だけどね――さーて、主のお帰りだよぉ!」
「」

 だから! ひとの! はなしを! きけよ!?


 ■  ■  ■


 門をくぐった瞬間、体感気温が一気に下がった。
 空には黒々とした雲が垂れ込め、木々は立ち枯れて生気の欠片も無い。
 肌を這う生温かさが、ひどく気持ち悪かった。饐えた、腐った水の臭いがする。
 じっとりと重たい泥水みたいに、降り積もった底辺でひたすらに澱み続ける――ねっとりと甘く、絡め取られるような不快感。呼吸する事すらも、拒みたくなるような。
 出て行った時とは大きく様変わりした本丸の有様に、思わず息が止まった。

   、 ぽ 。

 桜の花が、一輪落ちる。
 てのひらで受け止めたそれは、一瞬で枯れ落ち、灰になった。
 伝わってきた感情は、嘆きと警告。

 いつになく、明瞭な。

「……本丸さん?」

 にげて。

 だめ。


 もう、もどせない。


――やぁ。おかえり、

 身体が強張るのが分かった。
 薄暗がりの中。静かに微笑むにっかり青江が、そこにいた。
 その片手には抜身の脇差。自身の血と、誰のとも知れない返り血を浴びて佇む男の眼差しが、私を捉えて眇められる。やわらかな、敵意も殺意も、悪意すら感じられない無い目。
 恍惚と、熱病に浮かされてでもいるかのような。

 理解できない。

 気付けば、手の中には小弓があった。それを握り込んで、次郎さんの背後へと身を寄せる。
 青江の視線は、私に釘づけだ。でろでろに煮詰まったジャムみたいに粘着質な、たっぷりと沈殿物を含んだ視線。目元を蕩けさせ、仕草だけは可愛らしく小首を傾げてみせる姿は、艶やかであると同時に、どうしようもなく媚びて見えた。

「……なんだい青江。アタシには挨拶の一つも無しかい?」
「ああ。……ごめんね? が無事に戻ってくれたのが嬉しくて、ね」

 視線が外れない。次郎さんと会話しながらも、その微笑みは私だけに向けられていた。
 こんな男、だっただろうか? 出会いこそ最悪だったものの、私の知っているにっかり青江は穏やかで品のある、紳士的な態度の男士だった。距離の取り方の上手い、内心を簡単に悟らせはしないタイプの男だと、そう、思っていた。
 少なくとも、ここまで露骨な態度は今まで取られたことが無い。
 この三ヶ月の間、友好的に、折り目正しく保たれてきた距離。
 だからこそ、向けられる視線の温度に違和感が募る。

「戦場は疲れただろう? ついておいで。皆、首を長くして君の帰りを待っていたんだ」

 踵を返し、ゆらゆらと歩いていく青江の後姿に、眉根を寄せて次郎さんを見上げた。
 かつて結んだ和平協定は、既に効力を失っているようだった。
 まぁ、元々私の顕現した刀剣である次郎さんとは繋がっているので、さして問題は無いのだが。
 次郎さんが心底だろう苦い顔で、私を見下ろす。

「安心しな、アイツは敵じゃあないよ。……アンタにとっちゃあ、ね」
「……確かに、命の危険は無いだろうけど……」

 命の危険だけが危険じゃないよねっていう。
 というか、敵じゃないのは私にとって限定とかどういう事なの……?
 次郎さん、青江とつるんでなんかやってませんでしたかね? ひょっとして私の勘違い?

「……とりあえず、ついてこっか。いざという時はお願いね」
「任せな。何が相手だろうと、みんな叩き斬ってやるさ」

 即答か。私より、あいつらとの距離は近いと思ってたんだけどな。
 じわり、と苦い感情が胸に滲んだ。身勝手極まりないそれを、無言のうちに呑み下す。
 請うたのは私だ。自分で手を下すのも、次郎さんが手を下すのも、どちらもきっと、大差は無い。
 ゆるく瞑目して、次郎さんと一緒に青江の後を追って歩いていく。

「戻ってきて驚いたろう? すっかり穢れが蔓延してしまっていて。ふふ。でもね、これが本来の、このマヨヒガの姿なんだよ? 君の前では取り繕っていただけさ。本丸さんは隠し事が上手だよねぇ」

 発言内容と裏腹に、青江の声音は奇妙に明るい。
 取り繕っていた。隠し事。物言いから見え隠れする悪意に、わずかに眉宇を顰めた。
 斜め前を歩く次郎さんが、がしがしと頭を掻きながら嘆息する。

「アタシらが探ってたのは、コレの大本さ。まぁ、未だに見つかっちゃいないんだが」
「探ろうにもこんな状態でね。参るよねぇ……。おまけに、僕ら以外は誰もこの穢れを認識できていないんだから」
「……そりゃ、アイツらも穢れの一端を担ってるからだろ」

 アンタも含めて。

 言外に添えられた言葉に、驚くよりは納得の気持ちが強かった。
 にっかり青江は幽霊斬りの霊刀だ。他の刀剣男士よりは耐性があるのだろう――たとえ、自身がその一部であったとしても。頭痛がしてきそうな話だった。

 本丸さんに悪意はない。敵ではない。
 この三ヶ月。影に日向に私を支えてきてくれたのは本丸さんだ。
 だから、私に隠し事をしていたとしたら、それは純然たる好意と善意からだ。それだけは断言できる。
 本丸さんとのコミュニケーションは、言葉を使わない分だけ直截的だ。
 裏があるとしたら、それはこんさんの方だろう。この状態を知らなかったとは思えない。
 けれど、私が害される事を、黙認するとも思っていない。
 ……刀剣男士については、確実に物の数にも入っていないだろうけど。

 隠されている死体。

 何も言わなかったこんさん。

 本丸さんの隠し事。

 隠匿犯として、唯一名指しされていた鶯丸。

 穢れを、認識できていない。

 見つからない大本。


『本丸さん、遺体が隠してあるのは本邸のどこ?』


 検非違使の一件が無ければ、こんさんが長期間に渡って本丸を離れる事は無かっただろう。
 本邸に、あんなにも長時間居座る事も。
 無言で口元を抑えた。険しい顔をしている自覚がある。

「……。この事を黙ってた理由、聞かせてもらっても?」

 前を歩いていた、青江の足が止まった。

「黙っていた理由、か。……そうだねぇ。
 君の可愛がっている政府の飼い狐とマヨヒガが、とびきり過保護だから――かな?」

 青江がくるりと振り返り、おどけた様子で肩を竦めて唇を歪める。
 視線だけで次郎さんに問えば、苦りきった表情で頷いた。楽しそうに青江が笑う。

「馬鹿だよねぇ。あんなに信頼されて、愛されてたのに裏切るなんて。隠し事なんて。
 決めるのは君だ。使うのも捨てるのも、決めていいのはだけだ。彼等じゃない」

 その言葉に、疑惑が確信に変わる。

 ――こんさんは。否。本丸さんも。刀剣男士に被害が出る事を容認していた。

 穢れが、男士達にどんな影響をもたらすのかは分からない。
 けれど、これだけ悍ましく、忌まわしく感じるモノだ。悪影響をもたらす事だけは確実だろう。
 それは、本丸さんにとっても同じ事のはずだ。
 思い出すのは、遺体の所在を尋ねた時の、本丸さんの嫌悪と不快の感情。
 守ろうとしてくれた、その気持ちは嬉しく思う。同じくらいの腹立たしさもあるけれど。

 一緒に、戦ってきたつもりだった。
 これを裏切りと呼ぶのなら、それも間違ってはいないだろう。
 私はそんなにも頼りない存在だったか。守られるだけの主だったか。

 自分の身を犠牲にしてまで、守る価値のある人間だったか。

「……では、我らが主? 僕らからの精一杯の持て成しだ。心ゆくまで堪能してくれ」

 青江が笑う。にっかりと。名の通りに。
 ざわ、と悪寒が走る。
 とっさに制止するよりも早く、襖が開け放たれる。
 澱んだ水の腐臭を一瞬で塗り替える、むせ返るような血と錆の悪臭。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、畳を、襖を、べったりと彩る赤黒い色彩。


 血の海が、そこにあった。


 あるいは座り込み、あるいは柱にもたれ掛る男士達。
 誰もかれもが満身創痍だ。部屋の中央には、同じく満身創痍の。否。
 虫の息の男士達が、縛り上げられ、猿轡をされて等間隔に転がされている。
 部屋の奥。上座には、綺麗な座布団が一つだけ敷かれていた。
 その横で正座して微笑んでいるのは他の者同様、血に塗れた薬研藤四郎。

――。いや、主……無事のご帰還を、心よりお喜び申し上げる。
 ったく、無茶するお人だぜ。言ったろ? 誰かに警護させとけって。
 ああ、でも。これで俺を持ち歩いてもらえるなぁ……。約束。したもんな?」

 嬉しそうに。

 幸せそうに。

 薬研が笑う。ただの子供のような表情で、はにかんだ笑顔で。
 落差の酷さに目眩がしそうだった。なんだこれはなんだこれはなんだこれは。
 身体が震える。手の中の小弓を、縋るように握り締める。なんだ、これは。

「薬研、ずるいなぁ……。ね、ね、あるじぃ。俺達、とーっても頑張りましたよ!」
「……すまない。主にもらったお守り、駄目にしてしまった」
様、御怪我をなされたのですか!? 次郎殿! 貴殿がついていながら、これはどうした事だ!」
「何てことだ、女の子の顔に傷だなんて……! ああ可哀想に、痛かったろう?
 こんなに汚れてしまって……すぐに湯殿の用意を整えるとしよう」
「いや落ち着けってお前ら。それより、あいつらの処遇決めるのが先だろ。なあ? 国広」
「……ああ、そうだな」

 血塗れで。それでも、存外しっかりとした足取りで、近付いてくる男士達。
 敵だろう。それはいい。私は審神者だ。折る覚悟はできている。罵られる覚悟もできている。敵である以上、情けをかけてはいけないのだと学んだ。恨まれるのは承知の上だ。
 なのにこれはなんだ。どうして笑える。当たり前のように私を心配して、気に掛けている。
 元々友好的だったメンバーなのは確かだ。遠征や出陣で、助けてもらった。

 でも。

――なんで、」

 なんで、こいつらの仲間だったはずの連中は、血だらけで転がされている?

「……あんたに害を成す刀剣男士は、必要ないだろう」
「安心したまえ、。不忠者も謀反人も、皆まとめて手打ちにしておくから。
 だから君は何も心配せず、ゆっくりと身を清めておいで」
「おいおい歌仙の旦那。それを決めるのは主だぜ? 折るにしろ刀解するにしろ、先走るのは良くねぇなあ」
「そうそう! その判断、歌仙がする方が僭越なんじゃないですかね?」
「……へぇ。半端者の分際で、僕に意見するのかい? 鯰尾」
「あはは。主を馴れ馴れしく呼び捨てるようなのに言われたくないですね」
「おいおい君達、の前だよ? ちょっとは慎んだらどうだい」

 おかしいだろう。虐げられていたはずだ。苦しい日々を、共にしてきた仲間達だ。
 もう誰にも折れて欲しくない。薬研。それが願いだったんじゃないの。青江。私がどうしようもなく甘ちゃんだから、皆を任せたんじゃなかったの。拒絶する権利。それを与えたのは私だ。全肯定して欲しいなんて、そんな事思ってなかった。考えてすらいなかった。誰にしも情はある。慈悲はある。仲間意識も。
 だから許した。許容した。当たり前の権利だと、そう思ったから。
 今は無理でも、いつの日にかは歩み寄れるように。互いを許せる距離を、模索できるように。

 なのに。

 なのにどうして、そんな、当然のような顔で切り捨てられる。

 視線が痛い。転がされ、虫の息で沙汰を待つ男士達だ。
 憎しみと殺意、悪意がたっぷりと込められた目が、おまえのせいだと無言のうちに語っている。

――。アンタは、どうしたい」

 次郎さんが、真剣な表情で問う。
 その手は本体である、大太刀の柄にかけられていた。
 この距離なら。あの傷の状態なら、全員狩れるな、と。そんな思考が頭を過ぎった。
 次郎さんも同じ考えなのだろう。その目は、決断を迫っている。

――……」

 深く、長く。
 胸を重くする感情を追い出すように、息を吐く。

「ひとつ。皆さんに、聞いておきたい事があります」

 目線で次郎さんを制する。
 震えは止まっていた。手の中の小弓を撫でる。
 認めよう。彼等は友好的だ。正規の契約を持ちかけたとしても、まず躊躇いなく受け入れるだろう。意見の異なる男士達は全員切り捨てて。平然と。それが、普通なのだと言うように。

「貴方達にとって、彼等は。……仲間ではなかったんですか」

 それが、本心からの行動なのだとしたら――狂っているとしか、言いようがない。

 喧騒が止む。誰しもが、虚をつかれたような顔で口をぽかんと開けていた。
 転がされて、呻いていた男士達ですらも。例外は次郎さんくらいか。
 厳しい表情を崩さないまま、いつでも抜刀できるように気を張り詰めている。

「なかま」

 山姥切国広が、平坦な声音で反復した。

「……私は。貴方達が恐ろしい。貴方達がどんな関係性を築いてきたのかは知らない。
 だけど、同じ苦労を分かち合った仲間でしょう。私より、ずっと長く付き合ってきた同胞のはずでしょう。
 なのに、どうして誰も助命を請わない。どうして、そんな嬉しそうな顔で語れる……!」

 同情じゃない。

 憐憫じゃない。

 そんな言葉で、片付けられるようなものじゃない。
 胸をひたひたと満たす、寒々しいこの感情を何と呼べばいい。
 腹の底で渦巻く熱を、なんと表現すればいい。
 勝手な事を言っている自覚はある。それでも、言わずにはいられない。問わずにはいられない。
 この不信を抱えたままで、どうして審神者でいられるだろうか。どうして、共に戦場を駆けられるだろうか。どうして、彼等の命を担えるだろうか。それが仮初めのものだとしても。

 弓を構える。
 照準を、目線の先で佇む少年に合わせて。

 弦を引く。

「ある、じ?」

 呆然とした表情で、薬研が呟く。
 それを言下に切り捨てて、重ねた言葉に温度は無かった。

「答えなさい。薬研、藤四郎――

 答えは返らない。
 無言のままに、少年の首が、落ちそうなほどに傾いて。

 ごぽり、と。


 ――その唇から。闇が、溢れた。




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