扉の先に広がっていたのは、荒涼とした平野だった。
薄氷を透かしたような色合いの空。遠く続く地平線の、朧に揺らぐ山脈までもが見通せる。
肺腑を満たす空気は、乾いているのに何処か生臭い。
舌先に鉄と、血の味を錯覚する。一呼吸毎に異物を喰らっているかのようだ。
地に足をついているというのに、頼りない、ひどく薄っぺらな何かに立っているような、奇妙な違和感。ぢり、と網膜に幻影の火花が散った。二重写し。騙し絵を透かし見るようにして――現実感のある非現実的な風景の更に向こう側に、凄惨な地獄図絵が広がっている。遠く、近く。轟くように、或いは囁くような音量で響く銃声。怒号。悲鳴。風切り音。野太い声が叫ぶ。
「――馬を狙え! 奴らの足を止めろ!」
上がる土煙。傷口から滴るのは、もはや血とも泥ともつかない。
馬の足が、転がる頭蓋を踏み砕いて塵にする。踏み拉かれた死肉は、地面と同化し果てて原型すらも残さない。
「ぅ、え゛えっ、あ゛……っ、え゛ぐ、……っ」
気付けば、膝をついていた。胃が引き攣る。
痙攣染みた呼吸音が、胃液と一緒に喉から零れる。
足元に転がるのは何だ。身体の無い、手、腕、無造作に打ち捨てられた、足が、陥没した顔、蠅の集る、私を見て、否、違う、のたうつ、違う違う違う違う、私がいるのは、違う違う違う違う違う違うあそこ、違う、違う目の前に映って、違う、手を伸ばして、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う、違う――――――!
地面に頭を叩き付ける。
ぐぁん、と視界が回った。ちかちかと、眼裏で光が弾ける。
「……は、……は、は…………」
肩で息をしながら、緩慢に顔を上げる。
そこに広がるのは荒野で、誰一人として存在してなどいない。
相変わらず違和感はある。けれどもう、それに目を凝らそうとも、その向こう側を透かし見るつもりにもなれなかった。咄嗟に飛び込んだ門の先。繋がっていた戦場。
戦国の記憶。桶狭間。頭の何処かに、閃きにも似た、脳髄へ直接囁きかけるような声が告げる。
本陣では無い。庚地点。歴史の途上。自分の声のようで、それは他人の声のようでもある。脳内で反響するような、内側から湧くような思考。偽りは無い。疑念は浮かばなかった。
それは、そういうものだ。理屈でなく、そう納得している自分がいた。
「は、は、ははっ…………」
震えが止まらない。頭が破裂しそうだ。正常になったはずの視界をそのままに、ぐらぐらと脳が回る。
三半規管が揺れる。喉奥が痙攣する。声が告げる。
――歴史を遡りながら、敵が最も改変を望む歴史の基点/織田信長、越前侵攻/敵本陣へと到達する。一つの空間として組み上げられたこの風景は、この戦場は/庚、越前国敦賀郡金ヶ崎、浅井長政/現実に、そこへと至る歴史の道程、各戦場の上に構築された/裏切り、撤退戦、殿軍/仮想空間。歴史へ/木下秀吉、転機/の介入を、阻止せんが為の防護結界。/小豆の袋、袋の鼠を意味し/これを破られる事は即ち、歴史への介入阻止/最小限の被害/が失敗した事を意味する。阻止せよ。/大将を務めたのは、/敵陣営を退けよ。/金ヶ崎の退き口/阻止せよ――
地面に頭を叩き付けた。
音が途切れる。額づく様にして崩れ落ちたまま、転がる。不自然に震えた呼気が、一気に弾けた。
腹の内からせり上がってくる感情そのままに、顔を覆って顎を反らす。
「は――――ははははははははははははははははっ! あは、ひ、ひぁ、はははははははっ、ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
腹が痛い。息が苦しい。
ひたすらに笑えた。おかしくておかしくて仕方が無い。
ひぃひぃと喘ぐように呼吸しながら、げらげら笑って転げまわる。
「あは、ひ、ひはははははははははははは! 無様! なんって迂闊! あはは! 気ぃ回ってないにも程があるし! はは、あはははははははははははは! しかもなんで躊躇ってたよ私! ははははははははは! やだもうただの馬鹿! ぁーっはははははははっ!」
あれらは敵だ。私の事なんていとも簡単に殺せる連中だ。
分かっていたはずだった。理解していたはずだった。敵だ。なのに調略できると錯覚していた。
仲間は無理でも、何人かは中立まで持ち込めると思い込んだ。敵なのだ。なのに躊躇った、悩んだ! 甘かった。足りなかった。警戒心も危機感も覚悟も何もかもが!
敵に非情になりきれなかったなんて――日和見を許していただなんて、本当に、間抜けにも程がある!
「ははははははは! やばい連中なの、分かってた、じゃんっ! あはっ、はははは!
どいつもこいつも、一緒なの、に! ははははははははははははは! やらかす、とかっ! ぁひっ、は、あははは! はははははははははあはははははははは!」
空気の質が変わる。
何処か作り物めいた世界を、大気を、びりびりと震わせる違和感。
本丸で過ごす中で、幾度と無く感じた事のある殺意。それを煮詰めて研ぎ澄まして純化した、ひたすらに害意に満ちた――白刃にも似た、悪意。笑い転げながら地面を叩き、反転した世界の中で地平線を見据える。
「ひあ、はははははは! ふ、ぁはははあはっ、は、ぁ――………」
歴史修正主義者。本丸の霊鏡越しに、何度も目にした。直に対面するのは初めてだ。
未だ開いた距離ですら明瞭に視認できる。
陽炎めいた、禍々しい赤の燐光。それを纏って蠢く、影の軍勢。
こちらは丸腰。装備:布の服。使えそうなのは回収していた刀装程度。
いつの間にか顕現していた刀装達が、寝転がったままの私の前で一斉に膝を折った。
言葉は無い。態度で以て忠誠を示す彼等は、目の前にいるはずなのに、その存在感は酷く薄い。ほんの少し目を凝らすだけで輪郭は朧に変じるのは、彼等が個を持たないからか、それとも神霊としての格が低いからか。
そこらに散らばった、鈍色の玉を見やる。
「……偵察頼んだ」
告げてひらりと手を振れば、それに応えて影が走る。
審神者は基本、出陣先のどの地点からでも本丸へと門を繋ぐ事ができる。ただ、一度その地点へ足を踏み入れた以上は、一定時間以上交戦する事が必須条件だ。後戻りは許されず、敵前逃亡もご同様。その法則は、出陣したのが審神者でも適応されるようだった。
てのひらを、目に押し当てる。
一定時間以上の交戦。それさえ乗り切れば、本丸へ門を繋げられる。
ただし戻った先も敵地。戦場で死ぬか本丸で死ぬか。
『相手も、審神者の存在は知っておりますから。血眼になって探しているのですよ』
――敵、刀剣男子達が手引きしたんじゃなかろうか。
ふ、と。着任当初の出来事が頭を過ぎった。口の端が自然と吊り上る。
戻った先も敵地。本丸さんは戦力には数えられない。籠城は不可能。待ち伏せが目に見えている。
戦場で死ぬか。本丸で、死ぬか。そう。どうせ、結末が一緒ならば。
「ふ、ふ。ふふふっ……犬死は。癪だなぁ」
撒き餌として。
この身、この命以上に有用なモノが何処にある?
偵察はすぐに終わった。報告が上がる。雁行陣。
命令を愚直に待つ刀装達を一瞥して、腹筋だけで上体を起こす。
ぐしゃり、と髪を掻き上げた。
ここは戦場。それも、大火力で押し潰していく近代の戦場ではない。
前時代の、英雄と呼ばれる人種だけが輝く大舞台だ。
主戦力は刀剣男士。刀装も、非力な審神者などもお呼びではない。
良くて重傷、致命傷。どのみち死は免れない。
それでいい。本丸まで――門を開くまで、この命が保てばいい。
「軽騎兵。私を乗せて走れる?」
是、と回答が上がった。空を見上げる。青い。
風切音が聞こえた。青い空に複数の点が現れる。矢玉だ。
「他は顕現解除」
応えるが早いか、軽騎兵を残して他の刀装達の姿が消える。
降り注ぐ矢の雨の中、立ち上がって手を伸ばす。肉の感触に乏しい腕が私を抱き上げ、馬上へと据えた。
落ちた投石に、鏃にその身を貫かれ、数人の軽騎兵が無声のままに絶命する。
吸い込まれるようにして跳ね上がった刀装の玉が、手の中に収まった。
懐に、だいじにだいじに仕舞い込む。
「隊列は直線。左翼へ突っ込む。負傷しても構わなくていい――後方まで駆け抜けろ」
血煙が上がる。骸の残滓を踏み越えて、馬が速度を上げていく。驚くほどに従順。
そう。“兵士”とはこうあるべきだ。戦場で命令に従わない兵士は、敗北と破滅を確実なものにする害悪でしかない。遡行軍。その姿を視認できる距離に認めながら、笑う。
さぁ。最後の、悪足掻きだ。
■ ■ ■
戦争は数である。基本中の基本。
この圧倒的な人数差で有利な点があるとすれば、小回りが利く事。迂回は悪手だ。追い立てられ、狩られるのが目に見えている。それよりは懐深くに飛び込み、敵の隊列を崩してやった方が生存率が高い。敵太刀が率いる左翼に突っ込んだのはそのためだ。懐深くは短刀、近距離は脇差の間合い。ゆえに、右翼は選択肢に無い。中央は打刀。ここは人数差と位置関係を考えれば包囲されに行くようなものだ。足を止められればそこで詰む。
速度が肝要。軽騎以外は足手まといでしかない。
ああ、ほら。敵が振り回した太刀が、目測を違えて打刀の腕を抉る。血煙。怒号。
「――ァぁアア■アア■■アアア■■■■■■■■■!」
耳障りな不協和音がびりびりと空気を震わせる。間近の大音量で、耳が効かない。
駆け抜ける軽騎兵。胸中に飛び込んできた獲物に、敵が陣形を崩して殺到する。斬り捨てようとして同士討ちする様に、胸に広がるのは深い安堵と満足感だ。連携のれの字もない。
私を乗せた軽騎兵の片腕が消える。重傷。それでも馬は止まらない。いい子。
眼前の混迷を見据えながら、視覚を、感覚を拡散していく。観の目を意識する。より広く、より遠く。片頬に熱が生じる。無視できる範囲だ。手入れでさんざん鍛えられた。戦闘ではお荷物でも、霊力の扱いなら多少は自信がある。
目の前を見ながら全体を俯瞰する。透けて移り込んでくる、結界の向こう側に用は無い。
境界線は紙より薄くて鉄より硬い。虚空へと指先を滑らせる。
刻一刻と、兵は削られていく。一定時間。凌ぎ切れるとは思っていない。
狙うのは、盤面だ。
結界は組木細工の箱に似ている。一定法則に従えば、解くのは簡単だ。
悠長に解いている暇はない。解く事が目的でもない。交戦、という条件は満たしている。そこが付け入る隙になる。指先へ霊力を集中。目を凝らす。本丸への門へと続く道に爪を立てる。
視界に躍り込んでくる白刃。死人めいた男が吼える。邪魔だ。
「――わんっ!」
敵打刀が動きを止めた。
手綱が引き絞られ、速度を緩める事無く進行方向だけをずらしてその横をすり抜けていく。
犬の吠え声には退魔の力が宿る。昔からある悪霊除けのお呪い。
効いた。良かった。高揚する気持ちのままに、爪を立てた結界の境目へと、強引に指先を捻じり込む。鋭い痛みが走る。爪が割れて血が滴る。構わず更に押し込んだ。
ばちばちと閃光が迸る。青白い光の華が咲く。結界が揺れて軋みを上げる。
空がひび割れる。亀裂から墜ちた霊力の余波が、敵味方構わずに薙いで奔った。
流れ込む空気は不思議と舌先に優しく、何処か懐かしい。懐で、軽騎兵の刀装がぱきん、と音を立てて砕けた。残すところはあと一つ。ぶづ、と耳奥で響く異音。
赤くぬめる視界を、べたつく顔をそのままに、視線を結界と、そのひび割れに固定。
力任せに、腕をじりじりと奥へと押し込んでいく。扉の片側消えた、本丸の門。
あの状態で、完全な閉鎖など不可能だ。そして、あそこの主はまだ私。陽炎が質感を増す。
境界線が薄くなる。
土煙。馬の嘶き。恐慌の絶叫。地面が揺れる。血だまりに転がる肉片。人間だったものが転がる。
呆然と、見上げてくるのは希薄な影。敵脇差の複脚に潰されて掻き消えた。
喚く声がいやに近い。あちこちに亀裂が見える。本丸の、門にまだ指が届かない。
か、ろん
賽が転がる。世界が暗転する。一瞬の浮遊感。咄嗟に手を引いた。手近にあった何かを掴む。
落下。ぶぢ、と何かが潰れるような音がした。地面に投げ出される。
脳髄に囁きが落とされる。
――結界の破壊、崩壊は回避すべき/報復戦、近江、六角/最優先事項である。警告。/川が血で染まる。朱い。沈む。人だったものが。/歴史の改変を阻止せよ。/徳川家康が織田軍に合流、浅井・朝倉方は/敵を倒せ。力場を賽の目の先へ。緊急措置。/大太刀を、縦横無尽に振り回す鎧武者が吼える。老齢の、二人の男。その手に握られて、/辛方面へ強制転移。警告。敵を倒せ。警告。/否、違う。寄り添って、共に嬉々と歯を剥き猛り、哂うのは、/敵部隊の合流/榊原康政、側面からの攻撃/姉川の戦い/を確認。――
視線が絡んだ。黄玉の瞳が、驚きに見開かれる。
「か、は……っ!」
息が詰まった。衝撃に咳き込む。口の中に鉄錆びた、不快な味が広がった。頭上に影が差す。
ぼたぼたと血が滴り、倒れ込んできた身体が掻き消える。
ぱきん、と胸元で音が響いた。投石兵の刀装が砕ける。
軽騎兵はもうない。顕現した歩兵に支えられて立ち上がる。
握り込んでいたのは弓だった。べっとりと血糊がついたそれが、淡く輝いて黒ずんだ玉へと変じる。
――弓兵。視線を上げれば、数を増して地平を埋める遡行軍の姿。
正面突破のみを許可。反則は不可、か。残念だ。
失敗に対して感慨は沸かなかった。どうせ、ぶっつけ本番の悪足掻き。
「護りはいらない。一人でも多く道連れにしろ」
歩兵達が粛々と応じる。
てのひらに出現した、弓兵の兵装。
服の袖で、乱暴に顔を拭う。割れた指先が熱を持つ。感覚が鈍い。が、動く。問題ない。
握り込んだままの刀装に、“口”を“寄せ”て呟く。
「……お前は私と一緒に、ね」
がり、と歯を立てて咥える。
願うだけで、手の中に弓が顕現した。小弓だ。
武器なんてまるで扱った事がないのに、それは当然のように手に馴染んだ。
扱い方も、考えずとも理解できる。教えてくれる。長年扱いなれた身体の一部のよう。
口を寄せて、口寄せ。
正式なやり方なんて知らない。だから、言葉遊び染みた反則技。
神秘は存外身近なものだ。いつかの時代には、誰しもが知っていた護身の術。
芸は身を助く。ああ、全くだ。
弦を爪弾く。矢はいらない。引くのは私だ。だから、必要ない。
びぃん、と大気が震え、無形の鏃に敵の咥えた短刀が、甲高い音色を響かせ砕け散る。
結果を視界の端に留めて次々と構え、放つ。鳴弦。放っているのは霊力の矢だ。
補填の手間がなくて有難い。敵は選り取り見取りだ。狙わなくても何処かにあたる。
暗雲が垂れ込める。赤黒い空の色。傷口が疼く。穢らわしい空気だ。結界がひどく不安定になっている。これ大丈夫か、と弦を番えながら考えて、すぐにその思考を捨てた。死んだ後がどうなろうと知った事か。
風が鳴く。弓を引き絞り、放つ。慣れない動作の繰り返しに腕が痺れる。
喧騒は遠く、けれど咲き乱れる血の華は、この身を飾るほどに近く。
弦を引くたびに悲鳴が上がる。当たりが良ければそのまま砕ける。骸も残さず霞んで消える。
ぞくぞくと背筋を這い上る恍惚に、ほぅ、と吐息を零した。
目前へと躍り出た歩兵が、玩具のようにきりきり舞いしてぐしゃりと潰れた。
馬鹿な子だ。護りはいらないって言ったのに。弦を引く。
――むちゃをおっしゃる、あるじさまだ……。
かすかな声が呟く。薄れ消える口元が、微苦笑を刻む。ぱき、と懐で歩兵の刀装が砕けた。
これで私一人きり。弓兵の刀装は武器扱いだ。今の状況で顕現しても肉盾にしかならない。
安定しない力場。門を開くにはまだ早い。次の戦場へと逃れるにも。
残念だな。本丸に敵勢力招き入れてやろうと思ったんだけど。
状況を振り出しに戻す。
それすら、もう不可能だ。
あれらの掃除程度はしておきたかったんだが。後任には迷惑かけるな。正直すまん。
弓を引く。弦を引く。せめて。せめて一人でも多くを。
振りかぶられる長大な白刃。それを握る大鬼に、狙いを定めて――
「させるかぁああああああっ!」
血が噴き出す。上半身を失った、大鬼の下半身がぐらりと傾ぐ。
その向こう側から現れたのは、見知った顔だった。艶やかな装い。華やかに結い上げられていたはずの黒髪は解け、乱れている。険しく引き締められた表情。傷だらけの身体を惜しげもなく晒して、そのまま返す刀で背後に迫った脇差を刀装ごと薙ぎ払う。
「――邪魔だ!」
当然のように向けられた背中。弦を引き絞った姿勢のまま、眉根を寄せる。
なんて無防備。しかも、この至近距離。的にしてくれと言わんばかりだ。
困ったな。あまり狩られ過ぎても困る。どのタイミングで射殺そうか。
「なんで呼ばなかったんだい!」
背を向けたまま、苛立たしげに男が怒鳴る。
「アタシはアンタの初期刀なんだろ!? 呼べばいいだろう! 裏切らないと誓った!
この身、この命を賭して守ると誓ってやっただろう! アタシはそんなに頼りないか!」
吼えながら、鬱憤をぶつけるように敵を叩き斬っていく。
嵐のような暴れっぷりだ。狙いがつけにくい。結界は未だ、門を開ける状態にない。
暴れ回る男の頭で、赤い髪飾りが所在無さげに揺れていた。
記憶の片隅に引っ掛かるソレに、瞬く。ボロボロになった、血を吸って赤黒くなった摘み細工の、花髪飾り。
――椿の、花を模した。
『おや、貰っちゃっていいのかい?』
目の前が真っ赤に染まった。腹の底から熱いものが込み上げてくる。
ばぎ、と口内で異音が響く。舌の上の異物が溶け、霧散する。
引き絞った無形の矢が放たれた。無防備な背に――次郎太刀の肩へと、深々と喰い込む。
舌打ちする。外した。ぐらついた身体は倒れなかった。膝すらつかない。
「うそつき。あいつらの肩持つ癖に。私とあいつらならあいつらの味方する癖に! 最初からそうだった! 守ってやるなんて言いながら結局あいつらの弁護して、それで味方だなんてどの口で言う!? 笑わせるな!」
感情のままに吼える。吼えて、弓を引き絞る。
門はまだ開けない。歯噛みする。男は振り返らない。ただ、遡行軍の連中だけを見ている。
首が落ちる。血霧が舞う。白刃が煌めく。男の背は、ゆるがない。
「いっつもいっつも肝心な時にいない癖に! 影で青江と組んでコソコソ動いてるの、気付いてないとでも!? 何も言わないのはそっちでしょ! 守るって言った! 裏切らないって誓った! だから何!? 馬鹿みたいに喜び勇んで感謝しろって!? 私のこと愛玩動物扱いしてる癖に、受け入れるのが当然だって思ってる癖に、私よりもあいつらを尊重する癖に! 私は譲歩した! 諦めた! 関係ない事で罵声浴びるのも無視されるのも敵視されるのも見下されるのも馬鹿にされるのも普通に出歩く事すらできない事も、命の危険があることも!
ふざけるな! おまえらが何を失った、何を諦めた!
私は前任者じゃない! 知りもしない相手の尻拭いで、どうして私がその責任を負わなきゃいけない!?
うそつき、おまえなんて味方なもんか! これ以上、譲ってたまるか……っ!」
息が苦しい。くら、と一瞬視界が回った。
よろめいた身体を、足に力を入れて何とか支える。弓を握る手に力を入れる。
もう感覚がない。肩で息をしながら、狙いを定め直した。照準が安定しない。舌打ちする。
男が、無言で獲物を鞘に収めた。いつの間にか振り返り、こちらを見詰めるその表情は、先程とは打って変わってひどく静かだ。あれだけの敵を相手取っていたのに、重傷だったはずなのに、平然とした様子で佇む姿が腹立たしかった。
「……そうだね。言い訳はしないさ」
大太刀を力強く地面へと突き立て、どっかりとその場に腰を下ろす。
周囲から、音が消えていた。黄玉の瞳が逸らされる事無く、真摯な眼差しで私を見据える。
「折りたいなら、折りな。それがけじめってなもんだ」
「…………」
照準を頭に。視線が交差する。
男は。次郎太刀は、身動き一つしない。
本気だ。
本気で――折られる事を、受け入れている。
「……言い残す事は、ないの」
次郎太刀は、無言だった。
ただ、私を見詰めながら――やわらかく。とろけるような、慈しむような表情で、微笑んでみせた。
きゅう、と心臓を掴まれたような感覚。手が震える。照準を。嘘。刀剣男士なんて、みんな敵だ。信頼には値しない。そうだ。どうせ本丸に戻ったら元通りだ。躊躇うな。
躊躇って、諦めて、譲って、それで一体何を得た。三ヶ月だ。どいつもこいつも一緒だ。
根本的なところで、審神者を一個人だと思ってやしない。人格なんて考えちゃいない。害がないなら、利があるのなら。私じゃなくたっていいんだ。いくらでも、替えが効く。
射ればいい。引き絞ったこの弓を。
頭に、狙いを定めて射ればいい。
一撃だ。それでこの顔を見る事も無くなる。
命中して頭が柘榴になった遡行軍の刀剣同様、あのお綺麗な顔も盛大に弾けさせてしまえばいい。どうせ人間じゃない。分霊だ。いくらでも替えが効く。今ここで殺しても、誰も困ったりしない。大勢には影響ない。
「なんで、」
なのに。
なのに――どうして、射れない。
「……ちくしょう」
弓が解ける。吐き捨てた声は、まるで他人のように弱々しかった。
馬鹿だ。大馬鹿だ。まるきり道化だ。これ以上の馬鹿が何処にいる。顔を覆う。
今更のように震える身体に、自嘲する。なんて弱い。なんて臆病。腰抜けにも程がある。
呻くような恨み言が、自然と唇から零れていく。
「うそつき」
「おおうそつき」
「たすけてなんてくれないくせに」
「――……いっしょに、死んでくれないくせに」
腰に手が回る。ふわり、と身体が浮いた。
力強く抱え上げる腕。のろのろと顔を上げれば、微笑む次郎太刀と目が合った。
てろり、と蕩けたままの黄玉の瞳が、あまやかに細められる。
「……死ぬさ。アンタと一緒に。アンタの傍で。アンタの為に」
髪に、唇が触れた。顔が寄せられる。
ぬるりとした感触が、頬の傷をなぞっていく。
「……それ、本気? 誓えるの?」
「ああ。誓おう」
「…………」
全身から、力が抜けていくようだった。
脱力感のままに、目を閉じる。腕を次郎さんの首に回して、身体にもたれて囁きかける。
「……違えたら、許さないから」
「違えやしないさ。――何時までも、一緒だ」
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