闇夜に沈んだ部屋は、月明かりを拒絶するように薄暗く、寒い。
狐はすん、と鼻を鳴らした。――腐敗しきって澱んだ、泥水めいた空気。審神者が、本邸を離れた証だ。次から次へと沸いて出る穢れは、審神者という重しを失えば、途端に溢れ出してくる。荒れた室内。
だらりと髪を垂らして、俯いて呻き続けるのは乱藤四郎だ。
機械的に畳へと短刀を振り下ろしながら、ぶつぶつと恨み言を呟いている。
「逃げた。逃がした。マヨヒガのせいで。マヨヒガのせいで。マヨヒガのせいで。どうしてボクの邪魔するの。どうして審神者に加担するの。ボクだってできるのに。ボクだって審神者を殺せるのに。なんでみんな邪魔するの。なんで殺しちゃいけないの。裏切るのに。裏切る前に殺さないといけないのに。殺さないとみんな傷付くだけなのに。あの審神者のせいだ。あの審神者が悪いんだ。あのさにわ、あの女が――」
部屋の隅に視線を転じれば、仔虎達に囲まれた五虎退が、膝を抱えて震えている。
後ろから歩み寄ってきた主の腕が、身体を定位置へと抱き上げる。乱へ向けられたその眼差しは、同派の兄弟刀へ向けられているとは思えない程に冷ややかだ。限りなく無関心に近い、無様なものへと向ける視線。
「……余計な真似、するからだよ」
ぴたり、と。
乱の動きが止まった。髪を振り乱したまま、底光りする目が鳴狐を見上げる。
許されるなら、頭を抱えたかった。頭痛がする。ドライアイスそのままの温度で落とされた呟き。
その意味を、狐は正確に汲みとっていた。審神者に手を出すな。せっかく有利な条件で契約を結んでいるのに、ふいにするような真似をするな。何処までも優しさは含まれていない。
当然だ。鳴狐は審神者を憎んでいる――そして、兄弟である粟田口の短刀達も、好いてはいない。関心が無い。
彼が情を向けるのは自分と、同じくあの地獄のような戦場を駆けた、山姥切を筆頭とする打刀や太刀の男士に対してだ。
審神者は知らない事だ。この本丸は、二つに割れている。
一つは、薬研藤四郎を筆頭とした者達。夜伽を強制されていた男士。
一つは、山姥切国広を筆頭とした者達。絶え間ない出陣を科されていた男士。
山姥切が薬研を尊重しているから、纏まって見えるだけだ。この両派、度合いに差こそあれ、決して互いを良くは思っていない。どちらも大差ない地獄の中で、互いに互いを怨めしく思って指を咥えて眺めていた頃の、負の遺産。例外はどちらにも属せず、どちらにも属した骨喰と鯰尾くらいだろう。互いだけが支えだったあの二人は、周囲に無関心である事で己を保っていた。は、と乱が嘲笑する。暗い、地を這う声音で。
「あの女に絆されたの? いいんじゃない、あの女の下で腰振って善がってろよ。
せいぜい可愛がってもらうんだね――犬みたいに媚びてさぁ。あはは! ……汚らわしい」
無言で、鳴狐が目を細めた。びり、と空気が張り詰める。五虎退が引き攣った悲鳴を漏らした。
刀の柄を這った手に跳び付いてストップをかける。
(なりません。なりません鳴狐!)
声が出せない身が呪わしい。かつて前任者から受けた喉の傷。
そこから身体を蝕んだ穢れは、狐の声を封じた。
喋れさえすれば、鳴狐の説得も容易であったはずなのに。歯噛みする。
絶好の機会であったはずなのだ。審神者がこの本邸に足繁く出入りする、今だからこそ。
(マヨヒガが邪魔立てさえしなければ……)
刀剣男士達を未だ絡め取る瘴気。それを一掃するのは今しかないのだ。
傷が治った後では遅い。審神者が出入りする理由が無くなる。
その頃には、あの忌々しい政府の狐も戻っているだろう。あれは駄目だ。刀剣男士を何とも思っていない。どころか、あの新しい審神者に反抗的な者達など、折れてしまって構わないとすら考えているだろう。
刀剣男士に警戒を残す審神者の娘は、獣である我が身には優しい。その慈悲に縋れば、あの、閉ざされてなお悍ましい、忌まわしい部屋を浄化してもらう事も、可能なはずだった。
けれど。それを、マヨヒガは許さなかった。
審神者が望まない限り、誰しもが彼女に会う事ができない。例外なのは手入れ部屋くらいか。
偶然出くわす事などあり得ない。当然だ、ここはマヨヒガの領域。審神者の娘の些細な意図をも拾い上げ、叶えようとするマヨヒガは、彼女に好意的でない男士に対して手厳しい。
危険を近付けようとする者に対しても。己を犠牲にする事を、厭わぬ程に。
――教えれば、おまえの半身を惑わせる。錆び朽ちて、折れるまで。
審神者の娘の向こう側。見通しのよいはずの廊下を延々と彷徨い、己を探す鳴狐。
その姿に、狐は折れるしかなかった。
(青江殿と次郎殿が、間に合えば良いのですが……)
穢れの影響か。あの部屋を、誰しもが覚えていない。
辛うじて違和感を覚えている青江と、審神者の娘に鍛刀された次郎が原因を探し回っているようだが、それも間に合うかどうか。審神者に協力的なあの二人を、鳴狐は良く思ってはいない。審神者に接触するだけでも一苦労だったのだ。マヨヒガもいる。彼等に接触する事は、難しいだろう。
「なぁに、怖気ついちゃったの? ほら、抜いてみせてよ鳴狐! いらついてるんでしょ、ボクを斬ってみせればいいじゃない、感情のままに憂さ晴らしでさ――アルジサマみたいにさぁ!」
げらげらげらげら。
甲高い、調子外れの笑い声が響く。
壊れたように笑う――否。既に壊れているのだろう。
その様子を眺める鳴狐の目には、憐れみの欠片も無いけれど。痛ましさに目を逸らす。
仲間思いの、優しい男士だった。自身も手酷く扱われながら、希望を信じて短刀達を励まし続ける、そんな付喪神だった。仲間の為、処分覚悟で主に意見するような。何度折られても、足掻き続けるような。
鳴狐の腕に抱かれ、部屋を後にする。
無力な己を責め立てる、笑い声を聞きながら――未だ終わらぬ悪夢に、絶望しながら。
■ ■ ■
おはよう朝だよ! くっそ身体痛いよ! 玄関先で寝るもんじゃないな。
こんさんは未だに帰還していない。政府に問い合わせてみたけど回答不可とのお返事だった。政府の秘密主義は大概にすべきだと思うの。審神者の不信感煽る真似しかしねーな……。
「さて、と。どうしたものかな」
被害妄想マッハな誤解でうっかり刃傷沙汰になりかけた訳ですがね。
けれど正直、あれのおかげで盲が開けたような心持ちだ。感謝する気はさらさら無いが。
綱渡りをしているのだと、分かっていたはずだった。私が刀剣男士達と結んだ契約は、通常に比べて随分と緩い。利を提示して、辛うじて身の安全を買っていたようなものだ。
敵意や悪意を向けられる事はあっても、暴力を振るわれる事は無かった。少なくとも出陣任務には協力的ですらあったし、真意はどうあれ、好意的な対応をしてくれる男士もいた。
だから我知らず、警戒が緩んでいたのだろう。
少なくとも三ヶ月前の私なら、どんなに疲れていたとしても本邸で寝落ちするなんて絶対にありえない事だったし、不用意に刀剣男士に触れたりもしなかった。
本丸さんが用意してくれた、真新しい巫女服に袖を通す。
念入りな水垢離の成果だろうか。神殿で目を覚ました時には劣るものの、頭がすっきりとしている。
疲労感はあれども、纏わりつくような重さも消えている。上々だ。
着替えを済ませて部屋へと上がれば、柔らかな匂いが満ちていた。机の上には朝食と香炉。
部屋を見回せば、四隅に盛り塩もされている。
「お浄めしておいてくれたの? ありがと、本丸さん」
満開の桜が、見渡す限りにぶわっと舞う。うちの本丸さんがこんなにも可愛い!
表情筋をゆっるゆるにしながら、用意された朝食に手を合わせて頂きます。本丸さん分の箸が不器用に動き、ごはんが消失してくのを見守りながら、箸を動かし再度呟く。
「どうしていこうかな、あいつら」
相談に乗ってくれるこんさんはいない。本丸さんは聞き専だし、政府は論外だ。演練先、もしくは万屋で出会う余所様の審神者? 刀剣男士と順風満帆な人達のアドバイスは、さぞかし情に満ち溢れているだろう。主に刀剣男士への。有難すぎて涙が出そうだ。ふよふよ動いていた本丸さんの箸が、箸置きに置き直される。苦笑した。
「いや、そんな改まって聞く姿勢にならなくてもいいよ。
昨日の一件があったからね。現状維持、なんて呑気に言ってられなくなったなと思って」
ある程度任務をこなしている以上、諸々の不都合には目を瞑ってきた。
状況を改善しようともしなかった。最初に結んだ契約で、本邸をそんな気軽にうろつけなかった事もあるが、隠しもせず悪意を、敵意を向けてくる相手に対して向き合うだけの気力も、好かれたいという欲求も持ち合わせてはいなかったから。あちらからの接触があれば敬意を払い、なるべく丁寧に対応してきたつもりだ。
それでも今の現状。まぁ、前任がしてきた事も知っているし、恨みつらみがそんなすぐに消えるはずもないから、協力的な男士がいるだけ御の字だと思っていた。
――けれど。危害を加えられるのなら話は別だ。
強制はしない。前任者のような真似も、絶対にしない。
その誓いに私は命を賭けたし、違えればこの身を好きにしていいとも言った。
だが、理不尽に加えられる暴力に甘んじる、そんな優しさは生憎と持ち合わせてはいないのだ。
身の安全と、命の保証。それを対価に、私はあいつらの手入れをしている。刀装はカツカツだけど、手入れで資材がトぶのが主な原因だし。自業自得の尻拭いまでしてられんわ。
「……んー。しかし昨日のあれ、契約違反スレスレだよなぁ……」
ぽ、と咲いた桜が落ちてくる。
結局のところ、状況を悪い方向に転がす事なら、いくらでもできるのだ。
できた、と言い換えるべきかも知れない。
今となってみれば、前任の刀剣男士達との契約が個々に対してでなかった事は幸運だった。
一人でも契約を違えれば、私と彼等の契約は終わる。今のところ契約は切れていないようだが、それは私が怪我無く逃げおおせたからでしかない。他にも不満をため込んでいる男士はいるだろう。問題は事態を収束させるまでの過程で、命に関わらない程度の傷ですませる事ができるかという点だけだ。
香の物を咀嚼しながら、手元に視線を落とす。真っ先に目に入るのは、両手小指の包帯。
目を細めた。いやに必要とされたがっていた、脇差二人を思い返す。
あの狂気じみた妄執が、偽りであるとは思わない。
山姥切さんの、縋るような言葉も。ああもギリギリの精神状態で、虚言など吐けはしまい。
――仲間を破壊する事を命じられてなお、従順だとも思えないけれど。
「必要なのは仲間の破壊か刀解を是とできる、最低でも、どちらにも与しない男士か」
誓った以上、次郎さんは内心はどうあれ、私の身を守ろうとはするだろう。
練度も上がってきている。さすがに本丸一の高練度である山姥切国広や、それなりの練度である獅子王相手だと厳しいだろうが、今怪我している連中を手入れさえしなければ、残っているのは練度の低い者がほとんどだ。三ヶ月前とは違う。後手に回った一晩が痛い。
「無干渉、を増やしておくべきだったな。
……積極的に加担してくれそうな味方は、期待しない方が無難だろうし」
少し間を置いて、ぽ、と咲いた桜が落ちてきた。それに頷く。
次郎さんは、私の身を守ってはくれるだろう。けれど、刀剣男士と決裂した時――積極的に私の“敵”を駆逐してくれるとは思っていない。思えない。そうするには、次郎さんはあれらに情を傾けすぎている。契約で縛って無理強いすれば、それは誓いに反してしまう。黙々と朝食を咀嚼しながら、思考を巡らせる。
「昨日の件。刀剣男士達には知れ渡ってる?」
ぽ、と散った桜が落ちた。否定。
「全員は知らない、か。じゃあ、乱藤四郎と五虎退を除いて、何人が知っている?」
少しだけ間を置いて、落ちてきた桜の花びらは一枚。
一人、か。思った以上に少ない。一夜明けて知っているのがこれだけなら、事態を伏せる方を選んだか。あの乱藤四郎の様子を思えば、さも私が悪いかのように声高らかに吹聴しそうなもんだけど。
端末を取り出して机に置き、刀帳を表示する。
トントン、と指先で叩けば、ひらりと落ちる桜の花びら。示された男士に、片眉を跳ね上げた。
「鳴狐、か」
なかなか意外な男士が出てきたものだ。
暴言こそ吐かないが、顔を会わせるたびに向けられたのは、冷たい敵意と警戒心だけ。
性格はよく知らない。常に狐を連れ歩いているから、たぶん動物好きなんだろうけれども。
刀帳の絵を眺めながら、「ふむ」と呟く。可能性が高いのは、吹聴する事に利は無いと考えて伏せさせた線か。というか、それ以外思い当たらない。
「ご馳走様。美味しかったよ、本丸さん」
手を合わせて告げれば、ひらひらと桜の花びらが舞った。
それを眺めながら、首を撫でる。
刀剣男士の審神者に対する憎しみが、変わらないのなら。
あの時は薬研藤四郎の顔を立てただけで、これまで我慢していただけならば。
決裂は近いだろう。どんな形であれ。よく纏まっていた、とすら思う。
幸いにして、猶予はある。決定的なその瞬間に向けて、備えをしなければいけない。
友好的な者達からは、決して敵に回らない、という言質を。
身を守る武器も欲しい。敵を駆逐するための手段。盾では無くて、私の剣を。私でも扱えるような。
敵になるだろう相手も把握しておかないといけない。それに、しばらくは“何事も無かったかのように”、“恐怖心に耐えながら”関わっていけなければ。
化粧道具を出して、鏡を覗き込む。見返してくるのは、疲労の色濃い女の顔だ。
ここは、敵地だ。こんさんが不在なだけで、赴任したばかりの頃と、さしたる違いもない。
感謝するべきなのだろう。準備期間があったことに。
「私の刀剣男士、か」
幻想だ。そんなものはどこにもいない。仲間のためには死ねても、あれらはきっと、私のために死ぬ事はない。それでいい。敵か、中立か。どちらにせよ、命を預けるには値しない。
面従腹背。上等じゃないか。いつ裏切るか知れたものでないようなモノが仲間とは、まったくもって審神者業界は地獄である。パラノイアかよ。腹芸は得意じゃないんだけどな。
「……まったく。ほんと、面倒なやつら」
鏡の中の女は、凄絶な顔で笑っていた。
■ ■ ■
事が伏せられているのなら、やる事は変わらない。
演練と、遠征。出陣もさせよう。戦場の選択は、私らしく慎重に。けれど、今まで以上に危険な選択を。
お守りの効果がどの程度のものか、試してみたい。どこまでなら、私の指揮に従うのかも。“運悪く”破壊される男士が一人でも出たなら、それは確実に、事態を悪い方へと転がすだろう。
きっと、誰から見ても分かりやすい決裂になる。
背に引き連れるのは山姥切国広と獅子王。
両腕に纏わる鯰尾と骨喰をそのままに、演練場へと踏み入る。
獅子王は隊長にさえ指名しておけば機嫌がいい。脇差達については何も言わなかった。
山姥切国広は物言いたげだったが、困ったように微笑んでみせれば口を噤んだ。
余所の審神者と交流を図ろうとするのは止める事にした。
碌な情報も得られずに終わるだけだ。
演練場は広い。たくさんある本丸から、部隊を率いて審神者が何人も来ているから当然だが。
参加できるのは一日十戦まで、連続で戦えるのは五戦まで。
対戦する相手を選び、ゲートで申し込みを済ませる。
「出陣だな。行くぞ、じっちゃんの名にかけて!」
待ちきれないと言わんばかりに、馬に飛び乗って獅子王が門をくぐっていく。溜息を一つ零して、黙礼した山姥切国広が続き、鯰尾と骨喰が「出陣してきまーす」「出陣してくる」と楽しげに小指に口付け、後を追った。その背に続いてゲートを潜ろうとすれば、門の管理をしている職員が、寸前で制止をかけた。
「お待ちください、審神者様。本陣から指揮をなさるのですか?」
「ええ。本来は、それが正しい審神者の有り方だと聞いたのですが……いけませんか?」
小首を傾げてみせる。
本来、審神者は本丸からではなく、出陣先の本陣で指揮をとるものだ。
第一部隊しか出陣任務に出せない理由である。当然だ、審神者は分裂したり分身したりできないのだから。危険度の高さから、今では本丸から指揮を取るのが主流となっているが、それが本来のやり方である事に代わりはない。――と、前回演練でちょっとだけ会話できた審神者が言っていた。
マニュアル見返したら一行でさらっと流してあって呆れたのは今朝の話だ。
職員の顔から、表情が抜け落ちた。眼差しが伏せられ、視線が合わなくなる。
「……いえ、問題ございません。ただ、審神者様が仮に傷を負われたとしても、刀剣男士と違い、傷がすぐに癒える事はありません。その点のみ、ご注意下さい」
「委細承知の上です。ご親切にありがとうございます」
「……行ってらっしゃいませ」
深々と頭を下げた職員に会釈し、ゲートを潜る。
戦闘の為に誂えられた空間は、成程、見通しが良く寒々しい。
相手方の審神者は、演練場の控えの間から指揮を取るようだ。まぁ、誰だって無駄な怪我は負いたくない。
私も昨日までは控えの間から指揮してたし。真っ先に気付いたのは骨喰だった。
「主? ……主は、ここで指揮を取るのか?」
「え、あーっ! 主! わぁ、やった! 主は一緒に来てくれるんですね!」
「は? 主って――うぉ!? 審神者なんでいるんだよ!?」
「驚かせてすみません。考えたのですけど、やはり、こちらで指揮を取ろうと思いまして」
目を輝かせて喜ぶ鯰尾、ぎょっとした表情の獅子王。
険しい表情で馬上から飛び降りた山姥切国広が、苛立たしげに腕を掴んだ。
「今からでも遅くない、向こうへ戻れ! これは演練とはいえ戦だぞ!」
「承知しています。ですが、戦とはいえこれは演練。
審神者として、これからは私も、出来る限りを尽くしたいのです。……ご迷惑でしたか?」
「怪我をしたらどうする気だ!? そんなもの、あんたの仕事じゃあないだろう!」
「いや国広、それは審神者の仕事だろ」
「あはは。そうですって山姥切! 主に対してその物言い、ちょっと差し出がましいんじゃないですか?」
「……どうして怒る? 主に付き従って出陣できるのは、喜ばしい事だろう」
「なっ――」
山姥切国広が、愕然とした顔で絶句した。
あらやだフルボッコ。でも獅子王達は好意的なリアクションだな。
戦の空気に慣れておこうと思っての判断だったんだけど、こうも意識の違いが明確に出るとは思わなかった。相手側の陣営に視線を向ければ、こちらの騒動を困惑した様子で見守っている。
腕を掴む手に触れ、山姥切国広を見上げて微笑む。青い目を見開いた男に、心の中だけで要注意だな、と呟いた。私の身を案じ、審神者としての仕事を否定した。
なら、こいつは『私』をなんだと思っている?
立ち位置は明確にしておかなければいけない。
審神者でないなら、この男にとっての私は何だ。
霊力の供給源か。安全圏に飾っておくだけのお飾り上司か。まぁ、なんでもいい。
使い物になるのなら。私の、害にさえならなければ。微笑んだまま、私の刀剣男士達を見回す。骨喰が蕩けるような微笑みを返した。鯰尾が幸せそうに目を輝かせて笑う。獅子王は不思議そうに私を見返した。
「国広さん、心配してくれてありがとうございます」
掴まれた腕から手を外して、一歩、距離をとる。
ぴんと背中を伸ばし、胸を張る。穏やかに目を伏せて、意図は読ませないように。
唇だけで笑んでは、分かりやすい作り笑顔になるだけだ。
「でも、皆さんは約束して下さるでしょう? 私を、必ず“敵”から守って下さると」
「! 当り前じゃないですか、任せてください!」
「勿論だ。俺を、必要としてくれるのなら」
速攻で脇差組が喰い付く。怖鬱陶しいのさえ除けば、こいつらものすごいチョロいな。
呆れていると、馬上で獅子王が破顔した。からりとした、なんでもない事に答えるような明るさで。
「そうだな。あんたがいい審神者でいる間はな!」
「では、良識的な審神者であるよう、努めさせて頂きますね」
刀剣男士にとって“都合の”いい審神者でいてやる気は無い。
獅子王と笑み交わし、無言で佇む山姥切国広を見上げ――ぎょっとした。
え、なんでこのひと顔真っ赤にしてるんです? 耳まで赤いとかどういうことなの?
マジ切れなの? 激おこぷんぷん丸なの? わけがわからないよ。思わず一歩引いた私の肩を、真っ赤な顔をした山姥切国広がわし掴みにする。熱を帯びて潤んだ瞳が、こちらを見下ろす。
……怒って、は、いないな。肩は痛いけど。
はくはくと、物言いたげに動く唇を見詰めながら、柔らかに微笑んでみせる。
怒ってはいない。少なくとも、負の感情ではない。なら。
「国広さん。私を、敵から守って頂けますか?」
「……俺なんかで、いいのなら」
囁くような、絞り出すような。躊躇いを帯びて落とされた声音は、睦言めいて甘い。
意味が分からない。理解できない。――が、言質は取った。身の安全と引き替えならば、向けられる感情の不可解さには目を瞑ろう。それで、良しとしよう。
「審神者様。演練を始めたいのですが、宜しいでしょうか」
「はい。お待たせしました」
空から降ってきたアナウンスに返答し、腕を叩いて離れるように促す。
名残を惜しむように、山姥切国広が切なく吐息を零した。ハイライトの無い目で無表情にこちらを凝視する脇差組が怖い。獅子王が口笛を吹いて「やるなぁ」と呟いた。何をだ。
馬へと跨るその背を見送り、空に向かって一つ頷く。
「戦闘開始!!」
無機質なアナウンスが流れ、刀装の兵士達が顕現する。
土煙が舞い上がる。びりびりと、肌が粟立つような感覚。背筋を伝う寒気と、自然に湧き上がってくる高揚感。
どくどくと高鳴る心臓を抑えて、観の目を意識する。部隊長を任せた獅子王が、声を張り上げた。
「閲兵だ! 実力見せろ!」
応、と楽しげな声が上がる。刀装達だ。
今までには無かった事だった。成程。刀装は審神者の為に有る。こういう事か。
荒野に展開される敵陣営を眺め、目を眇めた。不思議な気分だった。
あの不思議な鏡越しでもないというのに、敵の刀装の種類、質、数が理解できる。敵となる男士達の練度も。
戦う前から敗北が読める程度には練度差があった。だが、相手側の刀装もこちら同様、申し訳程度。しかも、疲弊がありありと見て取れる。自然、唇が笑みをかたどった。丁度いい相手だ。
刀剣男士達の、本気の戦意に。命の危機に。慣れようと思うのなら。
索敵失敗、と刀装から報告が上がった。部隊長では無く、背後に控える私に。
へ、と間の抜けた顔で獅子王が振り返った。
指揮権を譲りたくないのなら、本陣にいろという事か。危険度の高い、本陣に。
納得した。反吐が出る。ことごとく、政府は引き継ぎ審神者を死なせたいらしい。笑う。
「逆行陣を。大太刀を最優先で掃討して下さい」
大太刀が三体。後は太刀。次郎太刀を除けば、どれもこれも見ない顔と、刀帳だけで知る顔ばかりだ。
戸惑いながらも従うのは、“使われるもの”を本質とする付喪神の性分か。
投石兵が礫を降らせる。敵側の騎兵を、歩兵を、ぐしゃりと柘榴に変えて血飛沫と肉片が落ちる。土と、乾いた空気に入り混じる血の臭い。見据えた先で、投石に盾ごと刀兵が押し潰された。滑り出しは悪くない。広い演練場からすれば意外なほど、戦いの光景は鮮明だった。本当に目で見ているのか疑わしい。
突出して先行したのは、練度がこの場において最も高い山姥切国広だ。
「斬る」
閃いた刀身が、次郎太刀の率いる刀装を纏めて刈り取る。手綱を握った片腕ごと。
練度も近い。一撃で落とせるとは、元より考えてはいなかった。敵側の声は聞こえない。
相手方の陣形は方陣。偶然とはいえ、その点は有利だ。それを上回って不利な要素がある訳だが。
大太刀の攻撃範囲は広い。獅子王が吼える。
「へへっ、隙だらけだぜ!」
相手取ったのは、烏帽子姿の男だ。刀装は既に無い。馬上から横薙ぎに一閃。
防ぐには間に合わない。返り血で金の髪が染まる。全身真白い男がその背後へと迫る。
「獅子王!」
声が届くはずのない距離だ。反射的に叫んだ警告に、獅子王が馬の腹を蹴る。
背から袈裟懸けに一太刀。――浅い。軽傷だ。
「いってぇな!」
獅子王が笑う。名の通り、獰猛に。
鯰尾と骨喰が馬の背を蹴って躍り出る。獲物は同じ。次郎太刀によく似た面差しの大男。
二人掛かりで練度差を補う積もりか。狙いは首。男の動作は緩慢だ。刀装も無い。
「いけっ!」
「突きだ!」
狙いがはっきりしていたからか。長大な刀身が、纏めて二人の本体を受け流す。
無理もない。相手方で一番練度の高い男だ。浅黒い肌の男と、眼帯をした男が動いた。
刀装達の首が落ちる。真っ二つに両断され、ぐしゃりと潰れたそれらは死穢を晒すことなく薄れて消える。演練で消耗した彼等は元通りになると知っていても、気分の良いものではない。
戦線が押し込まれる。練度差から、真っ先に崩れ落ちたのはやはり脇差の二人だった。
くそ、と骨喰が荒い口調で吐き捨てる。
刀身を支えにしながら、血みどろの腹を抱えた鯰尾がもう勝ったつもりかよ、と憎々しげに呟いた。
次郎太刀が哂う。ぎらぎらとした、獲物を食い殺す寸前の、獣染みた顔をしていた。
別の分霊ではあるが、初めて見る表情だった。あんな顔もするのか。
馬がどう、と土煙を上げて倒れる。巻き込まれるのは回避したようだったが、残る二人も無傷とは呼べない。
ダメージを考えても六体二。覆せる戦況ではない。
押し込まれた戦線。相手方に突っ込む形であったというのに、遠かったそれは既に手が届きそうなほどに間近だ。心臓が煩い。身体が戦慄く。笑え。自分に言い聞かせた。
笑え。笑え。これは演練。あれらは、私を殺しにきているわけじゃない。慣れろ。
まだいけるはずだ。動じるな。この程度、耐えられなくてどうする。
乱藤四郎を思い出す。振り下ろされかけた、刃の輝きを。
あの日、青江に命を握られた恐怖を。
命乞いなんて選択肢は無い。脅えて震えているだけでは、抵抗も出来ず殺されるだけだ。
慣れなければいけない。克服しなければいけない。早急に。
――死を目前にしても、冷静であれるように。
意識して、唇を釣り上げた。
「最優先。次郎太刀を、」
放った言葉が終わるより早く、二人が動いた。
狙うのは次郎太刀。迫る他の男士達には目もくれない。そう。それでいい。
「ぅおりゃっ!」
「その目、気に入らないな」
両側から深々と白刃が食い込んだ。次郎太刀と視線が噛み合う。
ぎらついたその眼差しに、ああ、違うな、という感想が脈絡も無く浮かんだ。違う。不思議だ。同じ刀剣の分霊であるはずなのに、こうも違うものなのか。ごぽり、と口から血の固まりを吐き出して、途切れがちな、これだけは聞きなれた声が呻く。
「ああ…なんだか醒めちゃったな…」
次郎太刀の身体が、馬上から滑り落ちた。
白い男が笑う。玩具を見つけた子供のような――性質の悪い、悦を帯びた視線。
見せつけるような大仰な動きで、山姥切国広へと斬りかかる。
「遅い遅い!」
「っ――、は。血で汚れているくらいで丁度いい……!」
呻きが漏れる。重傷。だが、まだ動けなくなる程ではない。手に取るように理解できた。
眼前まで押し込まれた背。鍔是り合う両者を意識に収めながら、獅子王を伺う。
「死ね」
「格好良く決めたいよね!」
「かッ――」
腕が飛ぶ。首から腹。血飛沫が上がる。巫女服が、染め上げられて赤くなる。
仰向けに倒れ込む獅子王が、苦笑気味に唇だけで何かを呟いた。白い男の姿が消え、山姥切国広が刃を引く。もう遅い。既に、間合いだ――私ごと。
「――薙ぎ払う!」
視界から、最後の一人が消えた。
生温かな液体が頬を濡らす。
「勝負あり!!」
無機質なアナウンスが流れる。一瞬の浮遊感。瞬きすれば、そこは既に、演練場の控えの間。
身を起こす男士達に、既に傷は無い。巫女服は血に染まったままだ。
「先ずは一戦目、お疲れ様です。
二戦目をこのまま続けて申し込もうかと思うのですが、支障ありませんか?」
「はーい、大丈夫でーす」
「……問題ない」
「おー、いいぜー。次行こうぜ、次」
「…………」
皆様やる気に満ちているようで。喜ばしい事だ。
顔を上げればその先には、ついさっきまで戦っていた部隊がいた。
ひらひらと、白い男が笑顔で手を振ってくる。眼帯の男がこちらを指差した。
審神者らしき男を含めた、全員の視線がこちらを見る。
それに黙礼して、ゲートの職員へと向き直った。
「すみません。次の対戦を申し込みたいのですが――」
頬に付いた返り血を袖で拭いながら告げて、ふと、手を見下ろす。目を細め、強く握り込む。
……今日中に、震えくらいは克服しておきたいものだ。
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