「ここまでくれば、とりあえず大丈夫かな」

 どれだけ走ったか。堀川が、そう言って掴んでいた手を離した。
 乱れた息を整えながら、加州は改めて、“堀川国広”の姿をした相手と向かい合う。
 ここは和泉守の心の中だ。だから、“彼”がここにいること自体に疑問は無い。ただ、そう納得するにしても、目の前の相手は、他と明らかに毛色が違っていた。
 まるで顕現したてのように奇麗な格好をしている事もそうだが、全体的な雰囲気が、なんとも言えずきらきらしい。陰りも曇りも見当たらない、美しいものと素晴らしいものだけを髪一筋に至るまでにぎゅうぎゅう詰め込んだみたいな、根本から他とは別の存在であるのだと、纏う空気だけで周囲に知らしめるかのような――

「……おまえ、”主”の“堀川国広”?」

 根拠も何もない、ただの直感だった。
 論理的に考えればいくら器があろうとも、心を励起されていない刀が目覚めて、なおかつこの場にいる……だなんて事、あり得るはずも無い。無いのだが、堀川は加州の当て推量に、ぱっと破顔して「ご明察です」と頷いて見せた。

「幸い、僕は兼さんの傍にずっといましたから。せっかくなので清光さんに便乗して来てみちゃいました!」

 ぺっかー! と輝かんばかりの笑顔で、堀川が陽気に親指を立てる。
 どうやって、とか。そんな事できるのか、とか。こんな場面でなかったら、すぐにでも問い詰めたいくらいには疑問が山ほどあるのだが。

「おっま……嘘でしょ、そんな軽いノリでこんな危険な橋一緒に渡りに来たの……!?」
「僕は兼さんの助手ですからね! それに、清光さん一人でも心配だったし」

 唖然とする加州に対して、堀川はどこまでもあっけらかんとしている。
 長曽祢を置いてきた自分の配慮もそうだが、わりと悲壮感溢れる決意だとか覚悟だとか様々な諸々を発言毎に台無しにしていく堀川に、加州はどっと押し寄せる脱力感にへなへなとしゃがみ込んだ。

「練度1ですらない堀川にまで危ぶまれるとか、俺ってそこまで頼りない……?」
「やだなあ、頼りにしてますって。ただ、あの審神者モドキ相手となると分が悪いだろうなってだけです」

 審神者モドキ。その単語に、加州は先程の出来事を思い返して真顔になった。
 あいつは死んだはずだ。間違いなく。今の“主”、の初期刀である次郎太刀は酒浸りの飲んだくれではあるが、腐ってもご神刀である。仮に、かつて本丸を覆っていたあの審神者の呪いが和泉守の中に残っていたのだとしても、見過ごしたままにしておくとは思えなかった。それで主が一度は死に掛けているのだから、尚更に。

「………あれ、何なんだろ」
「兼さんの恐怖。その象徴みたいなものです」

 何故そんなことが分かるのか。
 困惑しながら見上げれば、堀川が「ううん」と困ったように頬を掻く。

「主さんにちゃんとした手順踏んで顕現されてないからだと思うんだけど、ここの”堀川国広”達と少し混じってるんですよね、僕」
「なっ――混じってるって、それ、そんな、大丈夫なの!?」

 瞬間的に込み上げてきた恐怖と嫌悪感に、ざあっと全身から血の気が引いた。
 記憶だろうと、あんな、前の審神者を連想させるモノが、主の堀川に少しでも入り混じっているだなんて――
 勢い込んで立ち上がり、肩を掴んで問い質せば堀川は目を丸くして、「心配してくれてありがとう、清光さん」と明るく笑い、宥めるように加州の手を軽く叩いた。

「全然平気です。あれだって結局は、兼さんの一部だし……それに、今の主さんに“主”が代わって。それからの記憶が、僕を守ってくれてますから。清光さんと同じように」
「和泉守の、記憶が……?」
「はい。そもそもそれがなかったら、闇の中に溶けて混ざって、それでおしまいですから」

 堀川の言葉に、加州は戸惑いながら自身の両手を広げて見詰める。
 そうして注意深く観察してみれば、両手の輪郭――そうして全身を、周囲の黒と明確に区分するかのように、燐光のように仄かな光が包んでいる事に気付く。暖かで優しい、穏やかな光だ。じわじわと込み上げてくる情動に、加州はくしゃりと顔を歪めて俯いた。

(そっか。……そっかあ)

 ずっと一緒にいたのに、どうすれば和泉守が救われるのかが分からなかった。
 どうすれば、抱え込んだ重荷を楽にしてやれるのかが分からなかった。
 自ら孤立し、自身を追い込んでいく和泉守がもどかしくて、どうにか助けてやりたくて、長曽祢虎徹まで巻き込んでおきながらこの有様だ。今日に至るまで、何もできなかったと思っていた。新しい日々も新しい生活も、加州の働き掛けも。なにひとつ、和泉守に届いていなかったのだと、そう思っていた。

 けれど、違った。
 あの日々は決して、無駄なんかじゃなかったのだ。
 ぐい、と涙の滲む目頭を乱暴に袖で拭って、にっと笑う。

「ッし! なら尚更、さっさとあいつの首根っこ引っ掴んで連れ戻してやんなきゃね! こんなとこであんなクソ野郎と心中なんて、マジありえねーし」
「僕も同意見です。……ただ、あの審神者モドキをどうするかが問題なんですよね」

 言って、堀川が難しい顔をする。

「兼さんを“ここ”に押しとどめている最大の要因は、間違いなくあいつです。
 でも、あくまでもあれは兼さんの恐怖で、兼さんの心が産んだ存在でしかないから、僕らじゃなくて、兼さん自身が断ち切らないと意味が無いんです。そうでないと、兼さんをここから連れ戻すのに成功しても、また同じことの繰り返しになっちゃいますから」
「げぇ、最悪じゃん。どうしたもんかな……」

 堀川がいてくれるのもあって、ここに来たばかりの時ほど思い詰めた気分では無い。
 だが気は軽くなっていようと、和泉守の救出が難題で、取っ掛かりも掴めていない事には変わりないのだ。頭を掻きながら、加州は随分遠くになった本丸を睨む。
 周囲の黒は相も変わらず、深くて濃い。在りし日のあの本丸だけが、陰鬱で、陰惨であろうと明瞭だった。ここから見れば、それが一際よく分かる。たぶん、あの本丸が最後の砦なのだろう。そうして恐らくは、あそこがこの闇に沈む、その時がタイムリミットになる。

(あんのクソ審神者、ほんっっっっと碌でも無いな)

 恐怖心が形になった、と堀川は言ったが、その取った形があれだという事は、結局、そういう事なのだ。和泉守の心は未だに、あの、かつての本丸に囚われている。
 まったく、考えれば考えるほどに腹立たしい。殺意すら入り混じった怒りが、今更ながらにふつふつと湧いてくるのを感じて、加州は顔を歪めて舌打ちした。
 しかし、もう二度と見る事はないだろうと思っていたあの前任者の顔を、こんな形で拝むことになろうとは。(……。……ん、あれ?)

「……堀川」
「何? 清光さん」
「あの審神者モドキについて、なんだけどさ。……顔、分かった?」
「うーん……分かったのは輪郭と雰囲気だけでしたね。だいぶぼやけてましたから、顔までは分からなかった、かな」
「そっか……そうだよな……もう二年近く前になるんだし、考えてみれば当たり前なんだよな……」

 そもそも加州達が前の審神者と、顔を合わせる機会はそう多くなかった。
 写真や映像記録の類が残っている訳でもなし、よしんばあったとしても、絶対に処分していただろう。かつて、あの審神者がいた頃の地獄のような日々は記憶に鮮明で、忘れようにも忘れられないが――詳細に、何もかもを取り零さず覚えているなんて、土台、無理な話なのだ。
 改めて思い返してみれば、加州はあの審神者の声も、顔だって覚束ない。だいたいこんな雰囲気で、こんな声で、こんな顔をしていたような気がする、くらいには曖昧だった。

「堀川。ちょっと思いついたんだけど……こういうの、どうかな」

 転がっていた“堀川国広”達が目の前の彼のように目鼻立ちまではっきりしていたのは、他の本丸の分霊と、少なからず顔を合わせる機会があるからなのだろう。
 ここは和泉守の心の深層心理だ。第三者である堀川の目から見ても、あの審神者の顔がぼやけていたのなら、つまり和泉守の中ですら、元主は曖昧な形でしか残っていない、という事でもある。

 取っ掛かりがあるとすれば、そこだ。


 ■  ■  ■


 記憶は薄れる。過去は遠ざかる。
 どんなに強烈な思い出も、日を置く毎に、細部は曖昧にぼやけていく。
 残り続けるのは強烈に焼き付いている部分だけ。感情を伴って何度も何度も繰り返すほど、心を置き去りにするほど、囚われ続けた瞬間だけだ。

 壁も、障子も、天井にまで血がべったりと飛び散っている。
 そこは真っ赤な部屋だった。現実に、そこまで酷かった事は無い。彼等は付喪神、その本性はあくまでも刀だ。折れれば仮初の肉は失せ消える。だから、生首と死体がいくつも折り重なって、そのままに散乱しているような有様であったためしはない。
 血の臭いがむせ返るようだ。兼さん、兼さん、兼さん、兼さん。歌うように軽やかに、生首だけの堀川国広が和泉守を呼んでいる。
 茫洋と、部屋の中心でだらりと腕を下げて立ち尽くす姿は無防備ですらあった。

「和泉守」

 声を潜め、囁くように名を呼ばう。

 ゆるり、と。緩慢な動作で、和泉守が顔を上げた。
 そのまま無言で刀を構える。じっとりと背中に脂汗が滲むのを感じた。無視して、険しい顔を作ったままで続ける。あの頃と同じような表情を、意図して取り繕って続ける。

「主が、堀川のこと引き摺ってくのが見えた」

 あの頃を想起させる言葉に、和泉守が動きを止めた。
 実際には、そういう出来事があったとしても当時、加州が和泉守に知らせる事は無かった。見なかったふりをして、口を噤んで、俯いてやり過ごすしかできなかった。そうしなければ、自分も折られると知っていたからだ。
 いつだって、悲劇は避けようもない“命令”という強制の形でやって来た。

 けれど、今必要なのはかつての焼き直しではない。
 必要なのはあの頃の、やり直しだった。今度こそ、乗り越える為に。

 考える間を与えず、畳みかけるように加州は告げる。

「助けに行こう、和泉守」
――、」

 死んだ目が、淡い驚愕を宿して揺れる。何を言っているのか、と。
 無視して続ける。かつて、一度だって言えなかった言葉を。あの頃は思いつきもしなかった、けれど、本当はずっと言いたかった言葉を。

「あのクソ主ぶっとばしに行こう。その後は三人で演練場なり城下町に駆け込んでさ、現状大声で叫んで回りゃどうにかなる。でなきゃ、みんなで戦場でて、折れるまで戦うのだっていい。少なくとも、こんなところであの野郎の娯楽になって死ぬよりずっとマシだ」

 早口気味にまくしたてながら、思った以上に自分の言葉に熱が籠っている事に驚く。
 そうだ。斬れなくったって、殴るくらいはできたはずだった。自分で物を考える、という事自体が縁遠かった。あの当時はこんな惨めなまま折れたくない、と。そんな事を考えていた気もするけど、あの野郎を殴って、一泡吹かせられるなら。そうして折れるのだって、決して悪くはなかったはずなのだ。
 良くも悪くも、心を折られていたのだな、と自嘲する。
 けれどそれは、和泉守も同じだった。――そうして今も。

「随分とまあ、生意気な口叩くじゃあねえか」

 和泉守は、かつての”主”を、恐れている。

 ゆるり、と。染み出すようにして恐怖が形を作る。造形される。かつての主を模して。
 皮肉なものだ。どくどくと、心臓が早鐘をうつ。どっと全身から汗が噴き出す。似ているだけだ、こんなもの。そうとわかっているのに、雰囲気が、輪郭が、喋り方が。ただ似ていて、それらしいというだけで、あの頃に戻ったような錯覚を覚える。

(呑まれるな)

 ここは和泉守の心の中だ。
 潜っている以上、和泉守の影響を、視界を加州もきっと、共有している。影響を免れきれはしない。それでも、加州は和泉守とは別物なのだ。呑まれてしまえば、動けなくなる。
 ぎゅう、と強く手を握り込む。お守りのように。今の主の色をした、朱殷色に染めた、自身の爪を、てのひらに食い込ませ、確かな“今”を刻み込みながら、声を張り上げる。

「ああ、どれだけだって言ってやるさ! あんたなんてただの審神者で、ただの人間だ! 刀だってろくに振り回せやしない! 怖い事なんてあるもんか!!」
「き、清光……! お前、相手が誰だか、分かって――

 蒼白の顔で、それでも加州の言葉を遮ろうと、和泉守が手を伸ばす。
 自分を止めようと、守ろうとして咄嗟に伸ばされたその手を掴んで、怒鳴り付ける。

「和泉! お前もいい加減目ェ覚ませ!!」

 “自分で、よく考えて”。

 今の主。の言葉だ。ああ、そうだ。自分の頭で、目で、よく見て、よく考えて。
 出せた答えは多くない。二年近く今の主の下にいるのに、まったくもってお笑い草だ。正解だって分かってやしない。でも、それでも。これだけは、はっきり言えることがあるのだ。

「主だろうと、こいつに顕現されていようと――こいつに俺達を、俺達の心を踏みにじる権利なんて、どこにもないんだよ!」
「そーいうこと――ですッ!」
「な……っ!?」

 元主――審神者モドキが、動揺の声を上げる。
 背後から審神者モドキを羽交い絞めにしながら、堀川が「兼さん!」と叫ぶ。

「目を逸らさないで! それとも、まだ逃げ続けるの!?」
「おれ、は……」
「新選組副局長! 鬼の土方の刀が、そんなへっぴり腰でどうするのさ!」

 和泉守の呼吸が止まった。加州の頬が思わず引き攣る。
 けれど、誰よりも容赦のない堀川の言葉は、まったく留まるところを知らなかった。

「自分の恐怖心に呑まれて折れる、だなんて! ――最高に格好悪いよ、兼さん!」
「……ゃ、ねえ……」

 小さく。身体を震わせながら、和泉守が何かを呟いた。辛うじて加州にも聞き取れた程度の声が耳聡く聞こえていたのか、唇の動きでも見ていたのか。もがく審神者モドキを羽交い絞めにしたまま、「もっとはっきり!」と堀川が鋭く叱咤する。

――ッ俺は! 格好悪くなんか、ねえッ!」

 やけくそのような叫びを和泉守が上げると同時に、ざぁ、と視界が開けた。
 血まみれの部屋は、何の変哲もない畳敷きの部屋へ。荒れ果てた庭は、太陽の光が差し込む燦々と明るい整った庭に。いつしか沈黙していた生首達は、忽然と姿を消していた。

「ヒ、ァあ゛あ゛ア゛あ゛あ゛ア゛ア゛ァあ゛あ゛あ゛あ゛――ッ!!」

 濁り切った悲鳴が上がる。
 審神者モドキが、身を捩りながら絶叫する。遠ざかる暗がりに逃げ込もうと、必死になって足掻いている。じゅうじゅうと嫌な音を立てて身悶えするそれが堀川を振り払う。

「ッさせるかよ!」

 身投げする勢いで、それの脚にしがみつく。
 触れた瞬間、ずしりと身体が重くなる。目から涙が滲みそうになる。動けなくなりそうだ。勝手に指先が震え出して力が抜けていきそうになる。それでも、逃がしてはいけない、という思いがあった。ここで、断ち切らなければいけない。「和泉ィ!」力の限り、声を張り上げた。
 躊躇うような、永遠とも思える数秒。
 それを振り切るようにして、床を蹴る音が力強く響いた。

 白刃が閃く。

 冴え冴えと白い軌跡が、陽光を受けて残像を残す。


 とす、ん


 首が落ちる。叫び続けた唇が硬直する。
 整った庭先に落ちた首が、地面に触れた端から、ほろほろと、桜の花弁になって崩れ落ちて。
 一枚、二枚、三枚……。桜が舞う。花弁が、みるみる数を増していく。増えていく。世界が、覆われていく。慌てて、傍にあった和泉守の腕をはっしと掴んだ。

 世界が変わる。夢が終わる。
 深い眠りから目覚める時のように、視界は徐々に白へと染まり上がって――

 目を開ければ、そこは手入れ部屋だった。
 ひらひらと、誉桜が舞い散っている。目の前には加州の手を握り締めたまま、布団から身を起こす和泉守の姿がある。その向こう、加州の対面に座る主が、ぽかんと口を開けているのが視界に入った。ヒュウ、と次郎太刀が愉快そうに口笛を吹く。
 横に立つ誰かの明るい声が、笑いを含んで告げた。

「すみませーん、なかなか顕現してもらえないから、この機に押しかけてきちゃいました。あ、僕は堀川国広です。よろしく!」
「は、ははは………ははははっ! 良かった、ほんとうに、良かった――!!」

 くしゃくしゃに顔を歪めた長曽祢が、両手を広げて和泉守と加州に向かってぶつかってくる。同じように後ろから伸し掛かるようにして抱き着いてきた堀川が、くすくすと笑いを噛み殺すのが聞こえた。「あれ、長曽祢さんボロボロじゃないですか。どうしたんですか?」「ん? ああいや、ちょっと蜂須賀に活を入れられてだな……」頭上で会話する声、ぎゅうぎゅうに密着した和泉守の体温に、未だ握り合ったままの手。何処かふわふわと、今も夢の中にいるかのような五感へ、徐々に現実感が戻ってくる。
 もみくちゃになりながら、どうにか顔と、片手を出して。主に向かって、Vサインをして見せた。

「加州清光、ただいま戻りました!」

 辛いこともあった。苦しいこともあった。
 これから先だってきっと、胸が苦しくなるような出来事は、いくらだってあるだろうけど。

 それでも、生きていてよかった。

 助けられてよかった、と。そう、思うのだ。


 ■  ■  ■


 冬の日差しは輝かしい。
 降り積もった残雪が陽光を照り返し、目が眩んでしまうほど。吐いた息は凍えるほどに白くとも、春の訪れが近しいことを知らせるように、庭を彩る梅は、既に蕾を綻ばせつつあった。
 けれど、それはあくまで日が当たる場所においての話。
 日陰では光の濃さを強調するかのように、同じだけ深い闇が黒々として蟠る。

「清坊の四苦八苦を間近でつぶさに見守れなかったのは残念だが……ま、悪くはない出し物だったな」

 手入れ部屋の喧騒は、廊下を挟んでいてもよく届いた。
 空き部屋を我が物顔に占拠していた陵丸は、言葉の割にはまんざらでもない様子で、満足げに目を細める。
 なにせ顕現してからというもの、悲劇惨劇の類ばかりを目にしてきたのだ。予想していたソレではない、見飽きるほど見てきた陰惨な結末では無かったというその一点だけで、気分も上向こうというものであった。

「君はどうだ、山姥切。最古参だと聞いているぞ? 感想のほどを聞かせてくれはしないか」

 機嫌よく弾む陵丸の声が、手入れ部屋とは対照的に、冷え冷えとした廊下に響く。
 返事は無かった。元より期待などしていない――だから陵丸は、暗くて寒々しい廊下の、更に色濃い闇色の影からその人影が姿を現した事に、むしろ軽い驚きを禁じ得なかった。

「…………」

 薄汚れた襤褸布を目深に被ったその男が、口を開くことは無い。
 黒一色で塗り潰されたような、僅かな表情の変化すらも読み解きようがない陰影の奥。疑いようもなく剣呑な、それでいてどろどろと粘着質極まりない激情を湛えた緑の双眸が、黙然と陵丸を睨み据える。

 沈黙は、果たしてどれほどの間の事だったか。
 視線が逸らされ、足音も無く、男の姿が闇に溶ける。
 誰もいなくなった廊下に、強張った全身から力を抜きながら陵丸はぼやいた。

「……やれ、怖い怖い。城督殿もよくまあ、あんなモノを飼っておけるものだ」




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