他に適任者がいなかった。
海軍大将“黄猿”ことボルサリーノが分かりやすい貧乏籤を引いたのは、それが一番の理由だった。
そうでもなければ、天竜人主導の“リトル・モンスター”討伐などという胃痛必至の作戦への参加などしなかったし、したくもないというのが偽らざる本音である。
その上、押し掛ける先が魚人島。状況次第では、そのまま白ひげとの全面戦争開幕だ。
あまりのタイミングの悪さに、何故シャボンティ諸島へ停泊していてくれなかったのか、と部下達と揃って頭を抱える羽目になった。魚人島を出た後にすべきだと進言したものの、それを聞き入れる天竜人でも無い。
結局のところ。彼等には、黙って従うしか選択肢がなかったのだ。
今回の一件で求められるのは、“リトル・モンスター”と対峙してなお、天竜人を守りきり、相応の戦果を上げるだけの実力と采配。何より、強引に同行が決定された問題児の手綱取りまであるとなれば、一番に求められるのは作戦を成功させるだけの実力ではなく、無難に事を収められるバランス感覚であった。
赤犬では天竜人や魚人まで巻き込みかねず、かといって青雉も向いているとは到底言えない。
損な役回りを押し付けられてしまったものだ。
黄猿は苦笑する。
生きて帰ってこい。それが、センゴク元帥が別れ際に告げた言葉だった。
負けてもいい、などとは言えない。海軍大将まで動員しておいて、むざむざ海賊に負けるなどあってはならない。求められるのは勝利だ。海軍、そして世界政府における旭海賊団の脅威度は、発足以降上がるばかりなのである。元奴隷を多く抱え込んだ、世界政府の敵を公言する海賊団。革命軍との合流も懸念されている。
彼等の。そして彼女の出自は、確かに同情すべきものだ。可哀想だとさえ思う。
けれど、それは法を犯して良い理由にはならない。復讐を、報復を正当化する理由にはならない。
悪法も法には変わりない。感情のままに振るわれる暴力ほどたちの悪いものはない。旭海賊団の行いは、安易な優しさや生半可な情で、目を瞑れる段階など通り越して久しかった。
そして、 “リトル・モンスター”。
対峙して黄猿は確信した。
近い将来この小さな怪物は、白ひげにも並ぶ脅威になると。
戦闘能力だけの問題ではない。海賊としての求心力の問題でもない。
彼女の本質は復讐者だ。憎悪と怨嗟を糧にする、血の粛清を求めて止まない殺戮者。
ここで。今この場で、殺しておかなければならない。
この、未だ成長途上にある“ばけもの”が、誰の手にも負えなくなるその前に。
身体の感覚は既に無い。
視界が霞む。
ひどく寒い。
「……あと、頼みますよォ~……」
作戦に最後まで不満たらたらだった、子どものような先輩将校に独りごちる。
拘束を解こうと抵抗する怪物を、残された片腕で、絶対に逃さぬようにと締め上げて。
そうしての身体を抱き込んだまま、黄猿は地面へと叩き付けられた。
ぐしゃり、
如何な実力者といえど、何の対処も無しに高所から墜ちればダメージは免れない。
肉が潰れ、骨が砕ける。耳にいつまでも緒を引いて残る、不愉快極まりない、嫌な水音。
嗚咽を堪えながら、涙を堪えながら。海兵達が第二射を装填する。
「――あ゛、ぁああああ゛あ゛あぁ゛あぁああああ゛あ゛あ゛!!!」
リプラが絶叫する。
抱えていたマコを放り出して、殺意を振りまきながら海兵達へと突っ込んでいく。
狂乱し、逃げ惑う人々の最中に置き去りにされたマコが、涙目で頭領の下へと駆け寄る。
「頭領! 頭領、とうりょ、とうりょぉおー!」
泣き喚きながら取り縋る彼を、止める者は誰もいない。そんな余裕などない。
手が、服が、流れ出す血で赤く染まるのも構わずマコは、彼等の頭領を起こそうと、黄猿の腕を引き剥がそうと力を入れる。顔中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、「とうりょう、とうりょう」と呪文のように唱えながら必死に足を踏ん張り、力を入れる。
――ずる、り。
粘着質な音を立てて引き抜かれた手が、マコの顔を拭った。
血塗れの指先が、少年の目尻へ赤色の化粧を施す。悲痛に歪められた表情が、安堵と喜びに塗り替えられる。
黄猿の身体が吹き飛ぶ。人形のようにされるがまま、力の抜けきった身体は地面を転がっていった。
深々と肉を穿って喰い込む矢をそのままに、血塗れのが、ゆるりと瞼を持ち上げる。
ひぐ、と嗚咽を堪えながら縋り付くマコの頭を、力の無い手が撫でた。
皮肉な話だ。
確実に殺そうと。道連れにしようとしての行動が、結果として彼女を助けた。
射られた矢はほとんどが黄猿へと刺さり、が受けたのは背中と肩、そして右の二の腕だけだ。
片腕が無いからこそ、逃がさぬようにと全身で以って拘束した黄猿の行動。二人の体格差が大きかった事も裏目に出た。落下の際も同様。本人の意図とは裏腹に、黄猿の身体は衝撃からを守るクッションになったのだ。
ダメージが無い訳では無い。けれど、動く事に支障が出る程では無い。
が立ち上がる。
幽鬼の如き有様に、更なる悲鳴が上がった。
どぉおおん、と地面が揺れる。
建物が振動し、瓦礫と共に魚人が数人纏めてリプラへと飛んでいく。
頭に血が上っていても、リプラは兎のミンク族だ。その反射神経は人間のそれとは比べものにならず、更には旭海賊団の主戦力の一角を担う彼女にとって、回避できないものではない。
軽業師のように身軽なステップで魚人達と瓦礫を避け――リプラは、ぎょっと目を見開く。
「っうちの船員……!?」
濛々と立ち込めた土煙が、風に煽られ散っていく。
建物に空いた大穴の向こうから悠然と歩んできたのは、海軍の外套を羽織った大柄な男だった。
片手で傷だらけのタイガーを引きずりながら、男はにっかりと、豪快な笑みを浮かべる。
ヒュ、とリプラが息を呑んだ。の双眸に、酷薄な光が過ぎる。
「遅れてすまんな、ちいと手間取っちまったわい」
「ガープ中将!」
「中将だ、中将が来てくれたぞ!」
海兵達が、喜色を帯びた歓声を上げる。
全身の毛を警戒にぼわりと逆立てて、リプラがぎりりと歯噛みした。
「ガープ……?! 海軍の英雄が、なんでこんなとこにいるでちか……!!」
ガープが、片手で引き摺っていたタイガーを放り出す。
力無く崩れ落ちて転がるタイガー。その生死は、リプラや達の距離からでは判別できない。
確認するかのように周囲へと巡らされたガープの視線が、血染めの黄猿へと向けられる。
その身体は無残に欠け、潰れ、何本もの矢が深々と突き刺さっている。
一目で死んでいると分かる凄惨な有様に、ガープの顔がぐしゃりと歪んだ。
「ガープ中将、大将は――……っ」
「……分かっておるわい。ずいぶん暴れてくれたようじゃな……!」
激しい怒りを無理矢理抑え込んだような、地の底から響くかの如き声。
リプラが険しい顔で、けれど気圧されたようにじりりと後ずさる。の表情に変化は無い。ひたすらに凪いだ、陶器の面差し。カタカタと震えながら、マコが助けを求めての背へと身を隠した。
タイガーを。倒れた仲間を、船員を見るのは情動の色のまるで無い、虚ろそのものの硝子の眼差しだ。
静謐な。けれど独特の威圧感を伴った声が淡々と、「リプラ」と一言呼ばう。
「ッ! 頭領、ご無事で――」
「露払いを任す」
「はッ!」
反射的に肩を跳ねさせ、背筋を伸ばしてリプラが応じる。
リプラとて、ここまでの疲労もダメージもある。けれど現状、戦えるのは彼女だけだ。迷う余地など無い。
優しく、けれど有無を言わぬ力で離れている様に促され、マコがぎゅうう、と唇を噛む。
言い知れぬ不安に、マコはを見上げて懇願した。
「まけないで、とうりょう……!」
「――無論」
■ ■ ■
戦闘時のそれを、通常の呼吸に。何気ない動作へ、戦う為の挙動を落とし込む。息を整える。
一呼吸。床が強く踏み鳴らされる。瞬発的な加速。鉄の強度へと硬化された拳が、音を置き去りに振り抜かれる。
必殺の意思を伴って放たれた拳。けれども、それは獲物を捉える事無く終わった。
服を裂くだけに終わった一撃に、ジャブラは醒めた表情で舌打ちする。
「チッ。死んでくれりゃあ面倒が無くて良かったんだが」
やはり、殺気が漏れてしまったのが拙かったか。ジャブラは内心でそうぼやく。
しかし殺気も無しに相手を殺しにかかるというのは難しいものだ。脳裏を過ぎる、それが可能な限定一名。草刈り感覚で人の命を刈り取る姿に、いやあの境地は常人にゃ無理だわ、とジャブラは一人で結論付けた。
まぁ何にせよ、今のがまともに入っていたとしても仕留められたとは思わないのだが。
昔から年下の癖にやたら強く、常に自分の上を行く男だった。まったくもって可愛げの欠片も無い。
「何のつもりだ、ジャブラ」
挨拶では有り得ない、殺意の籠った奇襲。
それを受けてなお冷徹な表情を崩す事無く、ルッチが静かに誰何する。
「何のつもり、なァ。――聞く必要あんのか?」
にィイ、と歯を剥きだしてジャブラが嗤う。
そう。わざわざ問う必要など無いし、会話に最早意味は無い。
同じ“CP9”の仲間。同胞を殺しにかかった時点で、その意図など明白であった。
冷え切った氷の眼差しが、侮蔑を込めて眇められる。
「……愚かな。奴隷風情の犬に成り下がるか」
「犬か。犬ねェ……ぎゃはははは! 頭領の犬なら悪くねェな!」
物心ついた頃より、政府の為に命を使えと教えられてきた。
順調に、順当に。人体の限界を超える為の訓練を叩き込まれ、六式を修め、“CP9”の一員になった。
世の中の裏側も政府の暗部も飽きる程見てきた。任務の為に、身分を偽り出自を偽り、様々な場所へと潜入してきた。大抵のものは知り尽くしたと思っていた。定められたレール。決められた人生。
途中で脱落しなかっただけ、ジャブラは恵まれている側ですらある。
疑問も不満も、一度たりとて抱いた事など無い。
ただ、そんなものなのだと。空が落ちる事の無いように。海の水が涸れる事のないように。
自身の根底に擦り込まれ、叩き込まれた“常識”。絶対的多数の為の、ほんの少しばかりの犠牲。可哀想にと思っても、彼等を地獄へ突き落すのにも、始末する事にも躊躇いは無かった。
同情では無い。
憐憫では無い。
そんな、ありていな言葉で片付けていいような感情ではない。
今の今まで、帰還をなぁなぁに先延ばしにしていた。
旭海賊団にとって、致命的な損害にならない程度の情報を、選別しながら政府へ報告し続けた。
どちらに対しても裏切りとなる、下手をすれば両者を敵に回す危険を秘めた綱渡り。
けれど、ルッチの顔を見て。
本当にギリギリ、これ以上先延ばしのできない状況になって――選ばなければいけない局面になって思い浮かんだのが頭領の、の背中だったのだ。子どもみたいにちっぽけな癖に、頼りなさなど何処にも無い。
冷徹で、残酷で、容赦なんてまったくなくて、何を考えているか未だに少しも理解できなくて。
後始末に奔走した事は数え切れず、呼吸するように政府や海軍を煽る頭領に、頭を抱えた事も数えきれない。
それでも、それを心の何処かで楽しいとさえ思っている自分がいて。
あの、淡々とした声で名を呼ばれる事が。視界に入る事が、嬉しいと感じてしまったのだ。
だから多分、もうどうしようもないのだろう。
「それに――あのバケモン頭領の敵に回るなんざ、命がいくつあっても足りねェしな!」
ルッチと。
どちらも年下で、自分より強くて。
けれど、に対してジャブラが抱くのは恐怖と、それを上回って余りある憧憬だ。
強者への純粋な賞賛。自分では到底手の届かない高みに在る者に対する、戦士としての尊敬の念。
ルッチには敵愾心しか沸かなかったというのに可笑しな話だ。
正義も悪もどうでもいい。
ただ、あの人の――頭領の行き着く先が見たい。ついていきたい。そう思ってしまったのだ。
だから仕方が無い、とジャブラは笑う。例え、突き進んだその先にあるのが破滅だけであろうとも。
「本気で来な、化け猫ォ! てめェの身柄なら、ジジィの手土産にも丁度いい!!」
「馬鹿が……ッ」
ルッチが苦々しげに吐き捨てる。
勝てるかどうかは分からない。ルッチは強い。
かつて、ジャブラは彼に勝とうと空回りしながらも張り合っていた。その実力は骨身に沁みて理解している。あの頃より強くなっているのは疑いようもない。裏切り者に情をかける男でもない。
それでもジャブラは戦いを挑む。帰るために。頭領についていく為だけに、全てを捨てて。
裏切り者と処刑人が、激突した。
■ ■ ■
ロギア系能力者に、物理攻撃は効果が無い。
泥を斬っても意味が無い。泥を殴っても意味が無い。泥を射抜いたところで、何のダメージも与えられるはずがない。だというのに、の身体には矢が突き刺さったままだ。真新しい傷口から血が滲む。
覇気を纏わせた矢では無い。そうであるならダメージを与えたとしても、未だ刺さっているはずがない。
身体を支配する虚脱感。力が抜けていく感覚は、かつて苦渋を舐めた思い出に直結する。
海楼石。
おそらく鏃だろう。能力者を仕留めるには絶好の武器だ。
邪魔ではあるが、抜く事はできない。抜けば能力を使えるようにはなるが、出血は避けられない。黄猿との戦闘で失った質量/損傷、そしてこれから受ける損害、残る“敵”を考えれば、最悪の事態も想定して動かねばならない。早々に戦線を離脱する愚挙は犯せない。
肩と二の腕に矢を受けたせいだろう。動かせはするが、右腕の反応が悪い。
けれど、想定の範囲内の損傷だ。戦うのに支障は無い。
たかが腕一本。たかが能力を封じられた程度。たかが身体が怠いだけ。それがどうしたと言うのか。
かつての経験から学ぶ事をしない馬鹿に、成り下がった覚えはない。既に記録でしかない過去の記憶、けれども受けた屈辱も恐怖も危機感も無力さも覚えている。知っている。芋虫のように這い蹲って転がりながら、無様に逃げ惑って隠れ潜んで震えていた。捕まるたびに死を覚悟した。忘れなどしない。
( どうして、私が )
怨嗟と共にそう嘆いた“私”は、既に記録でしかないけれど。は、忘れてなんていない。
能力が封じられても、身体に力が入らなくとも。それは最早、彼女を止める鎖には成り得ない。
間合いを測りながら対峙する。
強い。
おそらくは。そしてきっと、先程戦った黄猿を含めた――これまで戦ってきた誰よりも。
ゆうにの倍以上はある、大きく、恵まれた体躯はそれだけで脅威だ。丸太のような太い手足、筋肉質な身体。パワーファイターなのは疑うべくもない。捕まったらその時点で詰みと考えるべきだ。
ただでさえは貧弱なのだ、時間をかければかけるほど不利になるのは言うまでもない。
それに、名前にも憶えがある。中将ガープ。“原作”のキャラクター。主人公の祖父。
強敵だ。改めてその事実を噛み砕く。主人公補正、なんて単語が頭の片隅で囁かれる。成程。地力の差だけでなく、天運も味方につけていると考えておくべきか。それにも留意しておこう。
何にせよ、“敵”は殺す――それが誰であろうとも。
だらりと四肢から力を抜く。地を這うように、駆けるように。
獣染みた。否。獣と同じように。
地面を踏み鳴らす。
剃。六式と呼ばれる、人体を武器に匹敵させる武術。
かつて目にし、独学で会得した技術。その名称は知らなくとも、使う事に支障はない。
大地を震わせ叩き割り、瞬発的に暴力的な加速を得る。獣の挙動で行われるの剃は通常のそれとは比較にならない速度を得る。瞬く間も無く距離を詰めて懐へ。
ガープの身体が傾ぐ。後方へ。みちり、と筋肉が膨れ上がる。視界の端で振り抜かれる拳。
まともに受ければ、ただでさえ薄いの身体ではひとたまりも無いだろう。
二目と見られない肉塊になるか、全身複雑骨折で再起不能になるか。
無論、どちらも選ぶ気は無い。
空気を蹴る。更に加速して疾走。
体当たりしながら手を伸ばす。五指を広げて爪を立てる。
振り抜かれたはずの拳が制止する。ニィ、とガープの表情が獰猛に歪む。
武装色で強靭に固めた足を目前にして止められた拳。反対側で、の腕が掴まれる。
「 、 」
早く、速く。
は止まらない。回避はできない。
捕まった。
ならば先に殺すまで。
守りの薄い人体の急所。眼窩へ躊躇いなく突き立てられた爪が、指が眼球を潰して神経を抉り抜く。
覇気で強化された手が、顔面ごと脳髄を削ぎ落さんと進む。
「グッ――ぬ、ぅううん!!」
赤い涙を撒き散らし、唸りながらガープが掴んだ腕を振り抜く。の身体が宙を舞う。
握り締められた手が骨を砕く。鏃ごと肉を握り潰す。
掴まれた手は離れない。判断は一瞬だ。右腕を肘から抉り切る。
放り出される身体。ガープの目が愕然と見開かれた。
肩に、背に突き立ったままの矢が半ばから折れ、鏃が奥へと喰い込む。ぶづ、と幻聴が響く。
片腕は失った。が、解放された事に変わりない。転がりながら地面を蹴って間合いを離れる。体勢を立て直す。
肘から、潰れた肉からぼたぼたと血が溢れて滴る。
鏃が腱を切ったらしい。だらんと垂れた右腕は、最早ぴくりとも動かない。
の表情に変化は無い。人形めいた無表情のまま。視線はガープを見据えたまま。
陶器の面差しに感情の色は見えない。苦悶一つ浮かべる事無く、は袖を破いて手際良く止血する。
ガープも同様だ。コートを破いて顔の左半分を覆い止血しながら、無事な右目が油断なくを睨んでいる。
両者共に無言。隙はそのまま死に直結する。それを理解しているから、彼等は容易に動かない。
援護は無い。けれど、邪魔する者は誰もいない。
海兵達を相手取るのはリプラだ。咆哮し、縦横無尽にの壁として立ち回る。
頭領の邪魔はさせない。動けない船員達にも、手は出させない。
未だ姿を見せない仲間を信じて。その到着を信じて、傷を負いながらも彼女は戦場を駆ける。
「オトヒメ王妃、王子達! 早く避難を……!」
「分かっている!」
「母上様――」
恐慌状態にある民衆を誘導し、守りながら衛兵達が急きたてる。
応急処置を施したとはいえ、血の気を失った肌は白く、その腕はだらりと垂れさがっている。
命に関わる傷ではない。それでも受けた傷は痛み、身動きする事さえ億劫に感じさせる。くしゃり、と泣きそうに顔を歪めて心配する我が子達。その表情に心を痛めながらも、オトヒメは険しい顔で拒絶する。
「私の可愛い子達、避難するのならばあなた達だけで。
私はここにいます。……ここで、見届けなければならないのです。
それより、倒れている人達に手当てを」
「! 王妃様、ですが……」
「お願い。どちらにも、加勢する訳にはいかないけれど――命に区別など無いのですから」
「……っ!」
衛兵が、はっとしたように顔を引き締めて敬礼する。
なおも納得のいかない顔で涙を零す末娘。息子達が、「ならば我等は母上をお守りします!」と必死に言い募る。
困り顔のオトヒメの手が、えぐえぐと泣き続ける娘の頭へと伸ばされて。
「――お前ら、動くんじゃないえ!!!!」
憤怒の形相をした天竜人が、オトヒメを突き飛ばして踏みつけた。
衛兵達がとっさに槍を構えるも、オトヒメの頭に向けられた銃口が、それ以上動く事を許さない。
背後に庇われた王子達が蒼白になる。
「母上ッ!!」
「ははうえさま!」
「母上~!!」
「お下がりください、王子達……!!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっっっ!!!! どいつもこいつも黙れ!!!!
わちきの前でちょろちょろ動いてるんじゃあないんだえッ!!!!!」
衛兵達が、逃げる最中の魚人達が。
戦っていた海兵達も跳ね回っていたリプラも、互いしか見ていなかったガープとすら、その視界に天竜人を入れた。天竜人の憤怒の絶叫に、誰もが動きを止めて口を噤んだ。空気を読まない事に定評のあるガープでさえ、「そういやこいついたな」という顔をしながらも押し黙る。の双眸が底無し沼のようにどろりと澱んだ。
「くそ、くそっ……! どいつもこいつも、わちきを誰だと思っているんだえ……!!
愚図共、何をぼさっと突っ立っているんだえ! おい海兵!!! 貴様等だ、何のために連れてきたと思ってる!? たかが家畜女を処分するだけに、どれだけ時間をかけるつもりなんだえ!!!! そこの目障り な魚連中もだ!! わちきの盾にもなれないような能無し、さっさと纏めて処分するんだえ!!!!!」
口角から泡を飛ばし、額に青筋を浮かべて天竜人が喚き散らす。
あのまま気絶していてくれれば良かったものを。口にせずとも、その思いだけは共通だ。
苦々しい顔で、海兵達は拳を握り締める。リプラが殺気立つ。魚人達も同様だ。
銃口を向けられ、傷を足で踏みにじられてオトヒメが苦痛に呻く。
「う゛――、あ、う゛――」
とガープが、互いの動向を伺うように、無言で視線を交わし合う。
けれど、二人が動き出すより――極度の緊張状態に晒され続けた、オトヒメの末娘。“海王類”をも従わせる才を秘めた王女しらほし。母が死ぬかもしれない状況を眼前に、彼女の精神が限界を迎える方が早かった。
「――おがあ゛ざま゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛――――!!!!!!」
大気が震える。
幼い人魚姫の嘆きが空間を揺らす。
海が揺れる。粟立って渦巻く。波が港を振動させる。
巨大な身体をくねらせ、震わせて。
飛沫を撒き散らしながら、何匹もの海王類が港を覗き込んだ。
海水が滴る。魚特有の、剥き出しになった眼球がじぃっと彼等を見据える。
がぱり、と。笑むように裂けた口が、鋭い牙を剥き出しにする。
脳に理解が追い付かない。
天竜人の手から、拳銃が滑り落ちて転がる。
ただ呆然と、口を開けて上を見上げる人々を縫うように、とガープは同時に駆けて。
「「勝負の――邪魔(じゃ)!!!!」」
大気が震える。空気が震える。地面が振動する。
衝撃波で斬り裂かれた魚体が傾ぐ。どてっ腹に大穴を空けられ、苦痛に身をよじる。
仲間の海王類をも巻き込み、引き倒しながら、巨体がくねる。悲鳴を上げる。
苦悶のまま、港を海王類の尾が薙いで――その尾を、横合いからすり抜けるようにして、傷だらけの小柄な海王類が食い千切っていった。クイックの有様に、の眉根が微かに寄る。着地。ぼたぼたと落下してきた肉片を蹴り飛ばす。天竜人の頭目掛けて弾丸の速度で叩き込まれた肉片は、けれど別の肉片によって弾かれた。
頭から血と肉を浴び、天竜人が失禁しながら白目を剥く。
ガープがむっつりした顔で、びしり! とへと指を突き付けた。
「こら、ついでに天竜人の頭ブチ抜こうとするんじゃないわい!! 危ないじゃろーが!!!」
「……見捨てればいいのに」
「守れって言われとるんだから仕方ないじゃろ! わしだってこいつ嫌いじゃわい!!」
「そう」
「「「「「!? !?! ……!?!?!?!!!?」」」」」
怒涛の展開。目の前で繰り広げられた光景に、ついていけないのだろう。
何処までもペースを崩さない二人とは対照的に、周囲の人々は未だ、口を開きっぱなしにしたまま愕然としている。例外は、それどころではないしらほしと、「あ゛―……」と遠い目で呻くリプラくらいか。この世の終わりとばかりに泣きじゃくる少女をちらりと見て、二人は改めて対峙する。
「クイックの傷。……あなた?」
「ん? そうじゃな。わしがやった!」
ぐ! と得意満面で親指を立てるガープ。
無言では吐息を落とした。脱力。身体が傾ぐ。前方へと倒れ込む――直前で、地面ごと空気を踏み捨てて跳んだ。地面すれすれでの低空飛行。更に空を蹴って加速。拳が落ちる。足技は使わないようだ。その情報を頭に叩き込んで、無事な左手で地面を撃つ。低空から上空へ。角度を加えての軌道修正。
掠めた拳が地面を砕いた。土埃と石が飛び散る。
上から下へ。が足を振り抜く。衝撃波を纏った蹴りが空を裂いた。
視界が晴れる。地面が軋む。拳を握ったガープが其処にいた。
「――!」
「おおおぉおお――っ!!」
咆哮。
空気が爆ぜる、地面が爆ぜる。
速い。先程交えた時よりも遥かに。間合いを見誤ったと悟るも既に遅い。
巨体に見合わぬ速度で拳が迫る。回避は間に合わない。リーチが違う。受けるしかない。
身体を武装色にて硬化。見合わぬ強度を得た脇腹を、尋常でなく重い拳が捉える。
後方へ飛びながら衝撃を流す。それでも内臓への損傷は避けられない。
喉が焼ける。口から血と胃酸を撒き散らしながら、は左肘を渾身の力で打ち下ろした。
ごぎゅ、と骨の砕ける異音。
指を、自慢の拳を砕かれ、ガープの双眸を驚愕が過ぎった。
の肘が赤く爆ぜる。爆ぜてだらりと垂れ下がる。
唇を笑みに歪め、は後方へと、半ば吹っ飛びながら跳び退った。
ぺろりと、口元を濡らす液体を舐め取って吐き捨てる。
強化してなお、あの固さ。しかしこれで残るは片腕。狙うは喉か、もう片目か。
獰猛に破顔してガープが駆ける。距離が詰まる。
爆音が、港に弾けた。
意識が逸れる。注意が逸れる。ガープが動きを止めた。
船が轟音を立てて崩れる。更に爆音。崩れながら、船が砲撃を受けて燃え上がる。ぼろぼろのリプラが愕然と、「ジャブラちゃん……!?」と呟いた。体勢を整え、駆けようとしていたの足が止まる。
どぉん。どぉおおん。砲撃を次々打込みながら、二隻の船が姿を現す。
廃船一歩手前のような有様のオンボロ船。
それと連れ立って現れた船が掲げるのは、奴隷の印を打ち消す“タイヨウ”のマークだ。
喜色に顔を染め上げ――しかしはっとした顔で、リプラがぴょんぴょん跳びながら両手を振り回して叫ぶ。
「あ゛ー!! あ゛―っ!!! だめー! だめでちぃいいー!!!
そっちの船―!! いま!!!! ジャブラちゃん乗ってます!!!! 乗ってるでちよぉおおお!!!!」
聞こえているのかいないのか。
二隻の船を追うようにして、海軍の軍艦が姿を現す。
激しく互いに砲撃を叩き込み合う様子を見る限り、リプラの必死な叫びが届いているかは疑わしい。
海賊船から鬨の声が響く。
海兵達が動揺の声を上げる。
とガープは動かない。
す、と。の視界を、広い背中が遮った。
傷だらけで、よろめきながら。覚束無い足取りで、それでも全身血と埃塗れのタイガーが、ガープからを庇うようにして立つ。自分を負かした相手を睨む、その瞳に恐怖は無い。ガープが分かりやすく顔を顰めた。
「なんじゃい、もう起きたのか」
「生憎、この状況でのんきに寝ていられるほど図太くなくてな」
タイガーが転がっていた場所へと視線を走らせれば、そこには衛兵達とオトヒメの姿がある。
オトヒメ指揮の下、敵味方の区別無く手当てに走り回りながらこちらを伺う彼等に、ガープは「むう」と唸って困ったように顎をさする。海賊への加担は諌めねばならない。しかし海兵も同じく手当てを受けており、リュウグウ王国に大挙して押し寄せたという負い目もある。
何より、この国は海軍では無く“白ひげ”の縄張り。
対応に迷うガープを真っ直ぐに見据え、警戒しながらタイガーが問う。
「ここから先は総力戦だ。
魚人の腕っぷしとタフさとは、あんたも分かってるだろう。それでも、まだやるか?」
「ぬ」と呟き、難しい顔でガープが黙り込む。
立ち塞がるタイガーに、けれど、口を開いたのはが先だった。
「タイガー、や。やだ。わたし、まだできる。まだ動ける。まだ戦える」
「駄目だ。もう動くな」
「やだ、やだやだ。まだ殺してない。天竜人、まだ、殺してない……!」
「駄目と言ったら駄目だ! それ以上の無茶は命を削るぞ!!」
「や、う。うう、うううう……!」
厳しく窘められ、ぐしゃり、との顔が泣き出しそうに歪む。
肉体の限界などとうに超えている。傷口からのみでなく、穴という穴から滴る血と返り血で、は頭から爪先まで真っ赤だ。それでもは納得しない。動けるから。まだ戦えるから。止まるという発想が無い。
垂れ下がり、使い物にならなくなった両腕を揺らしながら「や。や! やぁー……!」と幼子のように駄々をこねるを背に庇ったまま、タイガーはガープの返答を待つ。
しばしして。ガープは深く長く、溜息を吐き出した。
「ふん。ま、海のモクズにするのは次の機会にしてやるわい」
踵を返し、「帰るぞ!!!」と海兵達に向かって八つ当たり気味にガープが叫ぶ。
それに、タイガーがほっと肩から力を抜いた。
「 、あ 」
「何だ、。言っとくが、本当にそれ以上は――」
タイガーの言葉が途切れた。
てらてらと。血に塗れた鋼が不気味に輝く。
の唇が戦慄く。硝子の双眸が、胸から生えた切っ先を見下ろす。
「――は、ハハ。ジャハハハハハハハハハ!!!」
の背後。
両手を赤く染め上げた衛兵が、高らかに哄笑した。
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