神は死んだ。

 ドイツの哲学者、ニーチェの言葉だ。
 神。その存在証明についてはかねてより取沙汰されているが、少なくともこの“ONE PIECE”に神はいる。転生者、かつて読者であった記憶の持ち主であれば誰しもが神妙な顔で同意を示すだろう。
 神はいる。この世界を産み出し、“原作”と呼ばれる“運命”を紡ぐ、尾田 栄一郎という名の作者かみが。

 ドーン……ドォオオン……――

 砲撃を受け、船が軋む。悲鳴を上げながら崩れていく。
 激しい戦闘の余波でボロボロになった船に、砲撃を耐え抜く余力など無かった。沈むのは時間の問題だろう。
 ジャブラが潜入する際、船内に気絶させられた海兵や船員がまだ残ってはいる。だが、その救出はルッチの任務では無い。そして、任務の片方が片付いた今――この船に、留まり続ける理由は無かった。

「……」

 読者しか知り得ぬ事だ。彼等の運命は、神に定められている。
 いずれ任される潜入任務。水の都ウォーター・セブン、そして司法の島エニエス・ロビーを舞台に、彼等は主人公一味とぶつかり合い、敗北する。其処へ至るまでの道筋は語られない。それまで彼等が何をしていたとしても、定められた役割さえこなすのであれば、その行いはどのようなものであれ、神の思惑を外れない。

 全ては神の手のひらの上。
 全ては、神の思し召すがままに。

 現実補正、主人公補正。あるいは運命の修正力。
 かつて定められた未来で。とある海賊団の船医が、笑ってルフィにこう告げた。運がいいな、と。
 必然の幸運。お話の中だから、と言えばそれまでだ。しかし此処は現実だった。
 異世界への転生。前世では物語でしかなかったはずの世界が、血肉の通ったリアルへと変わる。ファンタジーでしか有り得ないような絵空事だ。子どもの妄想か夢見がちなお伽噺、さもなければ狂気の沙汰である。
 例えば誰かが、「私はこの世界を漫画で知っていて、貴方はそのキャラクターの一人だった」と言い出したとして、果たしてどれだけ真剣に受け止める事ができるだろう。

 彼等に神を知る術は無い。
 彼等にとって、この世界が現実で無かった時など一度も無い。
 語られない物語の裏面、その暗部こそが彼等に与えられた“現実”だった。
 奇跡など存在しない。神は、ルッチとジャブラに実力差という名の“運命”を規定していた。ルッチが主人公と対峙するからこその、敵として立ち塞がるに相応しい性能。補正と呼んでもいい。

 ジャブラの運命は決まっている。
 意識しての行動ではない。けれど、彼はそれに抗った。

 だが。彼がいなくても“物語”にさしたる支障は無い。彼の運命は未だ、神の手に在る。
 “運命”がルッチへ与えた補正。才能の差。一朝一夕で実力の差は埋まらない。心ひとつで覆せる程甘くは無い。“ジャブラというキャラクター”は、“CP9史上最強の男”である“ルッチというキャラクター”を超える事はできない。そして、横やりが入らない以上。結末は一つだ。

「……馬鹿が」

 裏切り者ユダに与えられるのは、死以外の何物でもあるはずが無く。
 吐き捨てられた侮蔑は、あるいは、ルッチなりの手向けであったのかも知れない。
 沈みゆく船の中。事切れたジャブラは、それでも何処か、誇らしげな笑みを湛えていた。


 ■  ■  ■


 こふり、と。呼気と共に吐き出された鮮血が、口元を、喉を、胸を汚す。
 目の前の光景を受け入れられず、タイガーが立ち尽くす。何事か、と振り向いたガープが、そのままぎしりと動きを止めた。不思議そうに。呆然と。オトヒメ達と一緒に手当てに走り回りながら、それでも達を伺っていたマコが、「とうりょう……?」と呟いた声が、嫌に響いた。


――頭領がッ、頭領が刺されたぁああああああああああああーッッッ!!!!!!!!!」


 リプラが絶叫する。

 凍り付いた空気が動き出す。
 狂ったように笑い続ける年若い衛兵を、他の衛兵達が引き倒して拘束する。
 魚人である船員達にとって、海中を泳ぐのは、地上を歩む事とさして違いはない。
 海軍と一戦交えようと、鼻息も荒く上陸してきた船員達が動きを止める。無敵と信じた。最強なのだと誇り、自慢に思っていた彼等の頭領“リトル・モンスター”の凄惨な姿に、船員達が絶句する。

「コトロ! コトロ隊長何処だ!?」
「あの人まだ船だよ! 医療部隊のやついるか!?」
「誰かコトロ隊長迎えに戻れ!!」
「ここじゃ設備たりねぇよ! 近くに病院は――

 我に返った者達が叫び合う。
 獣染みた咆哮を上げて、リプラがホーディに掴み掛ろうとする。

「リプラ隊長!!!」
「落ち着いて!! 落ち着いて下さい!!!」
「くそ! おい、誰か手を貸せ!!」
「離せッ!!!! はなせはなせはなせぇええええええッ!!!!
 あいつ殺すッ殺すでちッ!!!!! ハラワタぶち撒けて殺してやる――ッ!!!!!!!」

 数人がかりで腕を、足を掴まれ制止されながらリプラが吼えた。
 下手人は一目瞭然。リプラの言葉を代弁するようにアーロンが、邪魔な衛兵者達を殴り飛ばした。静止に入った仲間を振りきり、引き倒されていた衛兵の胸倉を掴んで、憤怒の形相で馬乗りになりながら殴りつける。
 見知った顔だった。可愛がっていた弟分の一人だった。その事実が、更にアーロンの怒りを激しくする。

「てめぇッ、ホーディ!! ホーディ!! 何してんだてめぇえええッ!!!!!!」
「止めるんじゃアーロン!!」
「アーロンさん駄目だ、それ以上殴ったら死んじまう!!!」

 ジンベエが、アーロンを強引に引き剥がした。
 さんざん殴られ、原型を留めぬ顔でホーディが嗤う。大声で。
 心底愉しい、と言わんばかりに、をぎらぎらと底光りする目で睨み据えて痛罵する。

「魔女め、人を狂わす魔女め!! 復讐されるべきは貴様だ、罪深い“人間”め!!!
 貴様のような女がいるから貴様のような魔女がいるから!!! このばけものが!!!! 貴様を殺したのはおれだッ貴様を負かしたのはおれだッ!!!! 下等な劣等種なんぞじゃない、至高の種族であるこのホーディ・ジョーンズだ!!!! 同胞達を誑し込んだ魔女!!!!!  お前なんぞに屈してはいない、怖れてなどいない!!!!! ――真に“英雄”に相応しいのは!!! このおれだ!!!!!」

 ホーディ・ジョーンズ。

 復讐を。応報を。甘く毒を注ぎ、唆したの言葉は――皮肉にも、彼の心を強烈に揺らした。
 誰よりも過激な思想を秘め、悪意に支配されたホーディの心を。
 屈辱だった。の言葉にぐらついた事だけでは無い。眼前で繰り広げられた、黄猿と。そしてガープとの、彼の力量では足元にも及ばぬ、人知を超えた壮絶な戦い。見下していた下等種族。魚人に支配されるべき生き物。そんな劣等な人間が、自身を遥かに上回って優秀であるという現実。
 許せなかった。許せるはずもない。そんな事があっていいはずがない。
 歪んだ思想。それが彼を、衝動的な凶行へと駆り立てた。

 ホーディが露わにした狂気に、誰しもが二の句を次げない。
 胸から生えた切っ先を見下ろしていたの双眸が、ガープへと向けられる。
 心臓を貫かれ。ただぼんやりと、途切れがちな呼吸を繰り返しながら。死に臨みながら。は、ホーディへ意識を向けすらしない。そんな奴はどうでもいい。彼女の態度は無言のうちに、ホーディをそう、切り捨てていた。
 ことり、と。が、小鳥のような仕草で首を傾げて淡々と問う。

――……まだ、やる?」

 微動だにしなかったタイガーが、般若の形相でガープを振り返った。
 を背に庇ったまま、歯を剥き出しにして威嚇するタイガー。これ以上はやらせない。指一本触れさせはしないと、彼の目はそう語っていた。衛兵達の制止を振り切り、転がるようにして飛び出してきたオトヒメが決死の表情でガープに縋って懇願する。

「私からもお願いします……! どうかもう、これ以上は……!」
「……海軍としちゃ、そういう訳にもいかんのじゃがなあ」

 ガリガリと頭を掻きながら、苦い顔でガープがぼやく。
 絶好の機会だ。海軍としては多分、喜ぶべき展開なのだろう。ただ、納得がいかないだけで。
 死に体の“リトル・モンスター”。けれど彼女を奪われないためなら、彼等は命を賭けて海軍の前に立ち塞がるだろう。死を覚悟した連中ほど厄介なものは無い。ひょっとしたら、魚人達さえ敵に回すかも知れない。
 それが分かるから、ガープは動かない。動こうという気にもなれない。視線で海兵達を制す。

「わたしは、」

 が口を開く。
 淡々と。いつも通りの、平坦な声音で。

「わたしは、負けない。まけられ、ない」

 にとって。

 彼女にとって敗北とは、奪われるという事だ。収奪を許すという事だ。
 蹂躙を、屈辱を、絶望を。底辺を這い蹲り石を投げられる、人間以下の日々へと追いやられるという事だ。
 モノみな平等、弱者は守られてしかるべきなどというのはしょせん甘口の童話にしか存在しない綺麗事でしかない。弱者は蹂躙され、強者は当然のごとく搾取する。はそれをよく知っていた。

 だから負けられなかった。諦めなかった。屈する訳にはいかなかった。
 もう二度と、奪わせないと決めたから。

 膝は折らない。そうすればもう二度と立てない。
 そう。止まる訳にはいかない。投げ出す訳にはいけない。最期まで戦い抜かなければいけないのだ。
 賽は投げられた。走り抜けた終着点。もう助からないと、誰よりも自身が理解している。

 けれど――不思議だ。
 何時だって足りなかった。満たされなかった。
 だって、どれだけ殺しても渇いていた。求めていたものだった、そのはずだった。
 胸を、頭を、心を占める怨嗟も呪詛も流血をこそ欲していた。憎い者達の血を見るたび、飢えが癒される心地だった。苦しみもがき命乞いをする様に心が躍った。胸が温かくなった。
 血で継承される権力など、何より忌むべき腐敗の温床。幼き日、天竜人の館でどれだけの惨劇と死を目にした事か。誰も彼もが絶望していた。苦痛に歪んだ表情のまま、剥製にされた人魚の娘。虚ろに空を見詰めるミンク族の男の皮。美しさ故に慰み者にされ、壊れて処分された人間の女性。小さく可愛らしいからというだけの理由で人形に加工されてしまった小人族。誰も彼もが死んだ。簡単に死んだ。むしけらのように死んでいった。
 母も死んだ。ほとんど交流もなかった、故郷の人達も死んだ。
 ただの母だというだけの理由だった。ただ、の産まれ故郷だからという理由だった。誰もが死んだ。

 シイには分かる。誰もが呪っていた。
 不条理に憤りながら、ごみのように死んでいきながら呪っていた。
 天竜人を。世界政府を。こんな非道を許容する世界を!

 血には血を。非道には非道を。苦痛には苦痛を。
 死は死で以ってしか贖えぬ。苦痛は苦痛でしか贖えぬ。
 力が無いから踏みつぶされるのなら、力を得たがすべきは、死者の代弁者である事だった。
 何が可笑しい。何がいけない。与えられたものを返しているだけだ。この世界が教えた通りに忠実に。

 青磁の双眸が、タイガーの背へと向けられる。

 本当に、不思議なものだ。
 延々と響いていた怨嗟も呪詛も、嘘のように静まり返っている。
 身体に纏わるのは倦怠と、喪失感。ずっとそばにあったはずの、共にあったはずのものが剥がれ落ちていくような物悲しさ。けれど、代わりに胸を満たすのはひどく穏やかな心地良さで。

「タイガー」

 何をすべきか、知っている。
 守るために、必要なことを知っている。

 ここが終着点だった。ここが、彼女の〝いきどまり〟だった。
 を必要だと言ってくれた――手を伸ばして、命を賭けてみせた唯一のひとがくれた意味。

 奴隷解放を為した。為す筈だった、魚人族の英雄。
 彼女に、意味をくれたひと。


 だけの、英雄。


――あと、おねがいね」

 息を呑む音がした。タイガーが振り向く。
 が笑う。年相応に。弾けるように鮮やかに、満足気に。

「クイック」

 囁くように呼ぶ。それで十分。
 クイックが、呼び声に応えて跳ぶ。が駆ける。
 伸ばされた、タイガーの手が空を切る。

 鉄色の髪が翻る。

 “敏捷”と名付けられた海王類が、その名の通り、瞬きにも似た速度でを浚って跳ぶ。
 どぷん。島を包むシャボンが振動する。強靭な弾力を持つはずのそれは、当然のようにクイックの通行を許した。
 絶望と、悲嘆と、憤りと。港に響いた絶叫は、果たして誰のものであったのか。

 視界が染まる。青く深く、闇色に塗り替わる。
 人間の身体には、到底耐えられない深海の圧力がを襲う。
 ざぁん、ざざぁあん。波の音が聞こえる。幻聴が響く。深淵の底のような、全てを塗り潰したかのような闇の黒。
 その向こう側。に添い続けてきた影が、泥土の悪魔が――ぱっくりと口を開けて。蕩けた顔で、笑った。


 ■  ■  ■


 “リトル・モンスター”死亡。

 その報は大々的に喧伝されたものの、多くは懐疑的に受け止めた。
 公開処刑が行われた訳ではない。その死を素直に受け止めるには、の悪名は轟き過ぎていた。
 そもそも、信じようにも死体が存在しないのだ。魚人達の協力を得て海底の捜索が行われたが、広大な海の中、海王類が連れ去った死体を探すなど無茶振りもいいところだ。見つかるはずもない。
 何処かで生きているのではないかと、誰しもがそう囁き合った。
 傷を負って何処かに隠れ潜んでいるだけで、今もなお、再起の時を伺っている――
 彼女を英雄視する者達の手で、の生存説は畏怖と、希望を込めて語られる物語へと姿を変えた。

 旭海賊団の面々とて同じこと。
 頭領であるへの信頼は絶大だった。誰より強いと、最強であると船員達は信じて疑わなかった。
 その場に居合わせた者達ですら、彼女の死を信じ切れていないのだから余計に、だ。
 ただ、の不在は旭海賊団に埋め切れぬ溝を作った。結束が固いとは言っても、なんだかんだでアクの強い船員達を纏め上げていたのはのカリスマに依るところが大きい。タイガーが彼等を取り仕切る事ができていたのは、の存在あってこそだった。旭海賊団は、半年も保たず分裂した。
 あの馬鹿の仇を討つ。自隊の副隊長であったジャブラの死に、テール翁はそれだけ告げて去っていった。
 一人で行かせた負い目があったのだろう。リプラもまた、テール翁を追っていった。
 それぞれの思いを胸に、それぞれの信念を胸に。タイガーが、それを止める事は無かった。

 旭は沈まない。

 の名が、畏怖と希望を込めて語られ続ける限り。
 その生存を信じ、怖れる人がいる限り――例えばらばらになろうとも、夜明けの“タイヨウ”が沈む事は無い。
 旭海賊団と共にまた、タイガーも姿を消した。を迎えに行く、とだけ弟分達に言い残して。

 リュウグウ王国での一件が切っ掛けとなって、魚人の有用性は周知のものとなった。
 海軍は積極的に魚人を海兵として登用しようと働きかけるようになった。辛くも生きて帰った天竜人が、魚人も人魚も全員奴隷にしてしまえと息巻いたものの、これ以上の犠牲を嫌った海軍や、それをすれば白ひげとの対決が不可避である事を案じた政府。そして何より、オトヒメ王妃による数日に及ぶ説得によって、それが実現される事は無かった。  そして、反政府側への加担を防ぐ意味合いや、生存の囁かれる“リトル・モンスター”対策等、政治的配慮が成された結果。罪の無い魚人、人魚を奴隷として売買する事は、正式に禁じられる運びとなった。
 小さな進歩。追い風を受けながら、オトヒメ王妃は人間との友好を説き続ける。
 今もなお、魚人街を中心に渦巻く人間への憎悪の念。不信は、早々簡単には拭い去れはしない。彼女は前のめりに進むばかりでなく、歩みを止め、振り返りながら同胞達と歩いて行く事にした。
 足を掬われないように。の忠告を、深くその胸に刻み込んで。


 そうして舞台は続く。歯車は巡る。
 予定外の役者と改変したシナリオすら取り込んで、“原作”目指して突き進む。
 何れ起きるであろう齟齬、乖離した歴史を孕んで役者達は演じ続ける。

 これは脇役ですらなかった、正史における死人のお話。
 舞台の観客であった記憶を持っていた、ONE PIECEひとかけらの物語。



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