魚人街“ノア”に、砲撃と発砲の音が響く。
悲鳴と怒号。子ども、老人。戦えぬ者、戦いを知らぬ者達が逃げ惑う。
けれど。ここはリュウグウ王国の裏町。スラム街。荒くれ者、無法者の集う場所。
何より地の利は彼等にある。産まれ育った故郷の街だ。反撃に転じるのに、さしたる時間はいらなかった。
「おのれ貴様等っ! “奴隷であった者達”を全員差し出せェ!!!
加担する者は諸共罪人としてしょっ引くぞ!!!」
「駄目です少将殿!! 数が多すぎ――ぐわぁ!!!」
「潰れてなくなれドゴン!!」
「ん~っ!! まけないろ~!!!」
海兵が吹っ飛ぶ。
次々と叩きのめされる。
元来、魚人は人間に好印象を抱いていない。
中でも魚人街の住人達は、人間に対して憎しみさえ抱いていた。
その辺りの事情は海軍の知るところではないが、街に軍艦で押し寄せてきた挙句、同胞を引き渡せと居丈高に命じられて、はいそうですかと頷くはずもないし、そもそも交渉の余地自体が無い。旭海賊団に対して思うところが無い訳ではないが、どちらにつくかと言われれば、満場一致で旭の面々に軍配が上がる。
海賊ですら無い一般人まで交えての抵抗は、この上無く熾烈を極めていた。
「いたぞ! “ノコギリ”のアーロンだ!!!」
「シャハハハハハハ!!!!」
「ぎゃああああ!」
「うわぁああああああー!」
「ぬーっ!!!!」
「ぐああっ!」
「何処だ!? 何処から――ガッ!」
「くそ、コトロだ!! “疫病医”のコトロが出たぞー!!!」
無論、旭の面々も大人しくしているはずがない。
せっかくの帰郷を台無しにされた怒り。故郷に土足で押し入り、荒らしまわるが如き所業。
彼等の怒りは激しく、自然、海軍を追い回すのにも熱が入る。治療妨害を受ける事になったコトロも、怒り具合では魚人達とどっこいだった。「汚物は消毒ぬー!!!」と怒りに満ちた声が高らかに響く。
「ぬぅん! ――失礼、後ろが留守だぞ!!」
「チュッ!? ああ悪いね、助かった!」
「……あ゛あ゛ん!? 待て、そいつリュウグウ城の兵士じゃねェか! なんでいんだ!?」
「ジンベエ殿より使いを任されてきた! 本島でも襲撃を受けている為、旭の者は予定を切り上げ本船へ帰還!
現在魚人街にいる者達は速やかに乗船し、本島の港へ回るように、との事だ!!」
「!?! 本島を!? 正気かよ海軍の連中は!!!」
「我々が知るはずないだろう!!」
リュウグウ王国は“白ひげ”の縄張りだ。
そこを大挙して攻めるなど、全面戦争になりかねない愚挙である。
いくら旭海賊団を捕らえる為だとしても、言い抜けられるかは相当怪しい。
「お前はスルメになるのだっヒ!!!」
「ぅわああああああ!」
「ニュ~!! 本島の方はどうなってるんだ!?」
「船長の殿が現場に急行! タイガー殿とジャブラ殿、リプラ殿が後を追った!!
ジンベエ殿は海上の本隊に連絡を付け次第、船をこちらへ回すそうだ!」
「そりゃまた、血の雨が降りそうなこった――なァ!!!」
「ぐあああああっ!!!」
海兵を殴り飛ばしながらの台詞に、話を聞いていたのだろう。
近場で戦っていた船員達から「違いねぇ!」「頭領が大人しくしてるはずが無いしな!!」「急がないと獲物が消えてるんじゃねェか!?」「やっぱついてかなくて正解だったぜ!」と笑いを含んだ野次が飛んだ。
兵士の顔に、呆れとも驚きともつかぬ感情が広がる。
「貴殿らの船長は、随分信頼されているのだ、なっ!!」
「ったりめェだ!」
「俺らの頭領、最っ高にイカれてっからなー」
「敵ブチ殺してる時の頭領とか、夢に出る程おっかねぇぞー!」
「そうそう、ションベンちびるくらいにな!!」
それはどうかと思うような人物評だ。
だが海賊である事を踏まえれば、最上の評価と言えなくもない。
軽口を叩き合いながらも、根底にあるのは揺るぎない畏敬と親愛の情だった。
人間と魚人。王妃の理想を体現したかのようなその姿に、兵士は思わず口元を緩める。
「バホホホホホ!!!」
「くそ、怯むな!! 隊を組め、撃てー!!!!」
「コトロの患者さんに手を出すんじゃないぬぅうううー!!!!」
「ぐぁ……!」
野放図に拡大する、魚人街での攻防。
それこそが海軍の狙いだったのだとは、誰も気付く事は無く。
元々燻っていた憎悪を種火に。海軍の想定すら上回って、戦いは激しさを増していく。
海軍という名の“人間”狩り。
止める者を欠いた騒乱は未だ、終わる気配を見せない。
■ ■ ■
「…………?」
「あ……」
「……!」
惨劇を、その場の誰もが予想した。
予想しながら住民も、衛兵も、海兵も誰一人として止めに入る事はできなかった。
恐怖で身動きが取れないまま、驚きに目を見開いて人々がどよめく。
地面を穿つはずだった、無数の槍。
それらは一つとして、オトヒメと黄猿を貫いてはいなかった。
既視感を覚える展開に、底無し沼の双眸がすぅいと細まる。
の見据える先にいるのは、オトヒメ達を庇うように割って入った魚人の少年だ。
涙目なのは、勢いよく転がり込んできたからだけではないだろう。
泥土の触手にぐるぐる巻きにされた少年は、口をへの字に引き結んで俯いている。
「マコ」
凪いだ声に名を呼ばれ、少年は気まずそうに肩を跳ねさせた。
そろり、と上げられた顔は、さながら死刑執行を待つ殉教者のそれである。
「戦闘時の心得は」
「……戦いが始まったら、そこから逃げる。
できないなら大人のそばか、頭領の目が届くとこにいること。不用意に動かないこと……」
「今の、不用意。……怪我する。離れて」
嗜める言葉と共に、少年が地面へと降ろされる。
異形から人の形へ。瞬く間に本来の姿を取り戻した手が、マコを宥めるように撫でた。
安堵したように表情を緩め、けれどはっとしたようにマコは、離れようとする袖をはっしと捕らえて嘆願する。
「あっ、待って頭領! 王妃様いいひとだよ? 見逃していいじゃん」
「――」
かくり、とは首を傾げた。
その表情は人形めいて、少しの感情も伺えない。
袖を捕らえるマコの指をそっと引き剥がしながら、淡々と、平坦な声音が説く。
「これは私の“敵”を庇った。天竜人の犬を庇った。
搾取するしか能の無い、度し難いゴミの走狗風情に加担した。
血筋で選ばれた権力者など、皆等しく愚劣な天竜人の雛型――力無き理想が身を滅ぼす事すら理解し得ていないのだから、死ななければ治らない馬鹿の類なのだろうね。何事にも優先順位というものがあるけれど、黄猿と、そこで転がってる自衛もできない駄肉のついでと考えれば丁度良い順序だから」
半ば独り言めいた口調で続けながら、は自由な左手で髪を梳く。
ふわり、と揺らめく髪が泥土の色を帯びて変貌する。瞬く間に、マコの視界を泥の刃が占拠した。
外野から悲鳴が上がるが、マコはけろりとした顔だ。当然だろう。彼は彼等の頭領が、理不尽に自分を傷付けたりするはずがないとよく知っているのだ。怖れる理由など何処にもない。
「そこまでだ!」
「それ以上動くな!」
「母上様に近寄るぁああああー!」
「お゛がぁじゃま゛ぁあ゛あ゛あ゛あ゛!」
「! ……あなた達、どうして――」
人垣を割って、年若い人魚の少年達が乱入する。
口々に叫びながら達の間に割って入ろうとする彼等に、魚人の大人達が慌てて手を伸ばす。しかし、引き止めようとするよりも彼等の動きの方が早かった。大人達は動けない。誰かしら、旭海賊団の船員がいれば違っただろう。しかし不運にも、この場にいる旭のメンバーはマコ一人。他の人々にとって、は怖ろしく強い“ばけもの”だ。黄猿を圧倒し、止めに入ったオトヒメ王妃すら手に掛けようとする冷酷非情の怪物。
竦む足、震える身体。少女めいた姿に変わりはしたものの、刻み込まれた恐怖が早々に克服できるはずもない。
硝子玉の双眸が、新たに乱入してきた四人の人魚達を一瞥した。
「お前が母上様をやったのか……!」
怒りも露わに、一番年嵩らしき少年が三つ又の矛をへと向ける。
幼さの色濃い少女が涙目でオトヒメへと取り縋り、アカマンボウの人魚である少年が、同じく涙を堪えながらも少女ごと自身の後ろへと庇う。リュウグウノツカイの人魚である少年が、を睨んだままマコに手を差し伸べる。
「そこにいちゃ危ない! 君もこっちにくるんだ!」
「何のつもりかは知らないが、この国でこれ以上の狼藉は許さん!」
の表情に変化は無い。
凶器へと変じた髪が、優先順位を決めかねるように切っ先を揺らす。
オトヒメを守ろうとする姿、へ向けられた矛先。
そして自身に差し伸べられた手を順繰りに見詰め、マコは困ったように眉尻を下げた。
「頭領。おれ、難しいことはわかんないけどさ。
こいつら悪いやつらじゃないし……母親、いなくなるのはすっげー悲しいよ」
「――……マコ、め。」
「だって頭領、今こいつらやっちゃおうとしたろ」
とっさに泥土の刃をわし掴んだ手をはたき落とされ、マコは頬を膨らませて反論した。
少年達の警戒が高まる。なおも意見を翻す気配を見せないに、マコの頬が更に膨らんだ。
眉間にきつく皺を寄せ、鼻息も荒くびしり、とへと指先を突き付ける。
「あーもーっ! 頭領! いい加減にしないと、タイガー副長に言いつけるからな!!」
ぴたり、とが動きを止めた。
「は?」と誰かが、思わずといったふうに間の抜けた声を漏らす。
ひそひそと、魚人達が「タイガー副長って」「そういや、旭海賊団は……」と囁き交わす。
少年達がきょとん、と虚をつかれたような顔でとマコを交互に見やる。それら全てをまるまる無視して、「ニョン婆ちゃんにも言いつけてやるー!」と駄々をこねるように大声でマコが叫ぶ。
陶器人形めいたの表情は、ほんの少しも揺らいではいない。
揺らいでいないがしかし、無数に揺らめく泥土の刃は、力を失ったように揃ってしんなり下を向いた。
「だいたい頭領、弱いものイジメすんなよ! 頭領は助ける側だろ!!」
「……それは、わたしの船員じゃない」
平坦な声音が、淡々と反論を述べる。
旭の船員でない以上、助ける必要など何処にもない。
そう言下になされた主張を、人生のほぼ半分を“旭海賊団”の一員として過ごしてきたマコはしっかりと読み取っていた。ぽかんとする周囲を余所に、マコは呆れたように鼻を鳴らす。
「頭領、船員じゃなくても困ってる人助けるじゃん。
一人で突っ走るなー! ってタイガー副長とかニョン婆ちゃんに怒られてるの、知ってるんだからな!」
「……………………」
は権力者が嫌いだ。幼子であろうと、躊躇いなく手にかけられる程度には。
自身の、そして旭海賊団の敵。種族や出自、身分を理由に蔑む者。どれもこれも、の嫌悪の対象だ。
そこに処分する際の優先順位こそあれど、対応はさして変わらない。ただ、自身の視界から不必要なものを排除した。それだけの話で、人助けとてそれに付随する結果でしかない。行き場の無い者を拾うのも同じ事。
後始末の延長。あるいは、そこにいたから手を差し伸べた。それ以上でもそれ以下でも無い。
けれど、それでも。
気紛れだろうが偶然だろうが、助けられた者達にとって理由など些細な事だ。
地獄から救い上げてくれるのならば、それが悪魔であっても構いはしない。旭の船にはそうやって、に救い上げられた者は少なくない。そして、語る事をしない頭領に代わってその勇姿を喧伝するのも珍しくはない光景だった。
そうして培われた、信頼の眼差しは揺るぎ無く――がその“理想”から外れる事を許容しない。
これが船員で無ければ。あるいは船員であっても、それなりに道理を理解できる年頃であったなら違っただろう。
しかしマコはの守るべき船員で、その中でも庇護を必要とする子どもで。
「だから頭領。やっつけちゃダメだからな?」
念を押すように告げられた言葉に。
は、彼女としては珍しく――溜息をついて頷いた。
「……それを、マコが望むのなら」
「うん!」
不満いっぱいだったマコの表情が、一転して明るくなる。仕方ないが、この場は譲るより他無いだろう。“敵”はまだいるのだ。黄猿を殺す機会も、天竜人を殺す機会もまだ巡ってくるだろう。はそう結論付けた。
ゆらり。揺らいだ泥土の刃が、瞬く間に鉄色を帯びて本来の姿を取り戻す。
「! 母上様、動いちゃだめだ!」
「う゛、ふぇ~……!」
「……だいじょうぶ。泣かないで、私の天使達……」
「すぐに病院へ――」
よろめき、ふらつく足でオトヒメが、少年達に支えられながらもの方へと歩み出る。
はっと閃いたように、マコが押し留めるようにしての腰へとしがみ付く。
オトヒメと。二人の視線が交差する。
「……あなたの、根深い憎悪を……私は、理解する事はできません。
私の理想は……ハァ……、あなたにとっては、愚かしい幻想、なのでしょう……。
けれど――……あなたが、その子を守り、慈しむように……船員達を、大切に思っているように。
魚人と人間は、共に歩んでゆけるのだと……私は、信じています」
じぃっと見上げるマコの視線が、に突き刺さる。
温度の無い青磁色の双眸が、ふい、とオトヒメから逸らされた。
「人は、理想だけでは動かない。――せいぜい、足を掬われないようにね」
転がったままの黄猿は動かない。呼吸はあるようだが、へと向けられる戦意はひどく希薄だ。
これまでの出血量。そして与えたダメージを考慮すれば、動く事は無いだろう。少なくとも、戦闘行為に耐え得る余力が残っていないのは疑いようもない。はマコを小脇に抱え上げて踵を返す。
張り詰めていた空気が緩み、海兵達が勢いよく吹っ飛ばされた。
人垣の一角。海兵の群れを盛大になぎ倒しながら飛び出してきたのはリプラだった。
ぴこぴこと長い兎耳を揺らしながら、周囲を見渡して愕然と叫ぶ。
「ぴゃー! なんで海兵いっぱいいるのにジェノサイドされてないでち!?!
っていうか王妃様血だらけーって生きてるです?! まだ死人誰も出てない!?! マジで!?!? 頭領一人で動いてたのに!?!?!? これは天変地異の前触れでちー!?」
「あ、リプラ隊長ー!」
「うわぁマコちゃん何でこんなとこいるでち! 他の船員は!? 保護者何処です!?!」
「それより聞いてよリプラ隊長! さっき頭領が喋った! めっちゃ喋った!!」
「――!?!?!?」
小脇に抱えられたままで、興奮気味にリプラに報告するマコ。
リプラの顔が劇画調になる。無自覚にいろんなものを台無しにしていく二人の姿に、遠巻きだった人垣が崩れ、旭の面々から距離を取りながらも動き出す。そんな彼等をは元より、リプラもマコも気にしない。にとっては取るに足りない些末事。そしてリプラにしてみればどうでもいい事で、マコにとって、それはいつもの事だった。
の警戒がわずかに緩む。黄猿を意識から除外し、“この後”について思索を切り替える。
瞬きよりも短い刹那。
けれど。必死に意識を繋ぎ止め――忍耐強く隙を伺っていた黄猿にとって、それは十分な時間だった。
光が走る。走ってを押し飛ばす。咄嗟の判断で投げ渡されたマコを抱えて、リプラが「頭領!?」と叫ぶ。
ロギア系にとって、覇気を纏わぬ攻撃は意味を持たない。相性によっては触れ合うだけでダメージを負う場合もあるが、と黄猿は泥土と光。素のままであれば干渉し合う事は無い。
覆い被さるように。身体全体を使って逃さぬように締め上げながら、地上から上空へ。
光の速度で押し出された身体がぐん、と強圧な負荷を受けた。息が詰まる。
「――やりな、君らァ!!!!」
黄猿が吼える。
海兵達が、悲痛な表情でボウガンを構え。
十数本に及ぶ矢が、黄猿ごと――を射抜いた。
■ ■ ■
時間を、少し遡る。
黄猿と。ジャブラが港に突入した船へと潜入したのは、両者が戦いを繰り広げている最中の事だった。
乗り込んでまず気付いたのは、船は軍艦ではなく、個人所有のもの――それも、金が唸るほどないと用意できないようなシロモノだという事だ。備え付けられた設備はジャブラの知り得る限り最先端のものだし、目につく調度品は、そこらでは到底お目にかかれないような高級品ばかり。
戦闘を主目的とするものではなく、主人が快適に過ごす事を目的とした造り。
乗っている船員こそ海兵が多かったが、何処かで見たような黒服の侍従までうろちょろしているとなれば、持ち主は考えるまでもない。
「……追い詰められてんのかねェ、海軍」
元々、ジャブラの所属は“CP9”だ。
世界政府直下ではあるが、裏の仕事に従事する彼に、天竜人と接する機会などあるはずもない。
しかし諜報部員という仕事柄、情報はそれなりに入ってくるものだ。特に、ジャブラが潜入しているのは旭海賊団である。良くも悪くも天竜人と関わりの深い海賊団に所属している彼にとって、優先順位は相応に高い。
それに旭海賊団の半数以上が“天竜人の奴隷”であった経歴の持ち主である事もあり、その碌でもない人となりに関しては、黙っていても耳に入ってくるのである。
おそらくは天竜人の横暴に振り回されているのであろう海兵達に対して、同情心は無くもない。
ジャブラとて人の子なのだ。そのくらいの良心はある。
乗組員達を片端から始末していくのではなく、気絶させるに留めているのは彼のせめてもの優しさだった。
脳裏に過ぎるのはいつだったか見た、頭領による権力者血祭り惨殺パーティーである。
しばらく夢に見たし、半年ほどトラウマで肉が食べられなくなったのはジャブラにとって苦い記憶だ。
今後起きるだろう出来事を思えば、慈悲もかけたくなる。
人員把握の為に潜った船内から甲板へ。
船内を漁り尽くしたいという欲求はあるが、それは仕事を済ませてからだ。
リプラに請け負った以上、海軍の逃げ道を潰しておくのがジャブラの仕事なのである。無いとは思うが、もしも天竜人をおめおめ逃がそうものなら頭領がどんな反応をするか。考えるだけで気鬱になるというものだ。
リュウグウ王国は海底にある。船をこの深海へと進める為には重しが必要だ。逃げ道を潰すのならその重しを外してしまうか、さもなくばマストと舵を使えなくしてしまうか。
船内を漁る、という行動方針を立てた以上、選ぶのは無論、マストと舵を使えなくする方である。
「んじゃま、いっちょやりますかねー……っと、あン?」
甲板に出て、そこでジャブラはもう一隻、船があった事に気付いた。
今乗っている、やたらと大きなものとは違う。後ろにつくように、隠れるように泊められているのは軍艦のようだった。それ自体はさして驚く事では無い。クイックの存在や魚人達の事を思えば、天竜人の乗る本船に、軍艦の護衛を付けておくのは至極妥当な判断である。むしろ一隻だけな事が意外なくらいだ。
問題はその軍艦が。否、その軍艦の特徴が、ある海軍将校のものであるという事だった。
思い当たった人物に、マジかよ、とジャブラは思わず天を仰いで。
――ガキィイインッ!
頭上からの奇襲。
それをいなし、ジャブラは顔を歪めて舌打ちする。
対峙するのは黒いスーツを身に纏った、年若い青年だ。
かつては飽きる程に見慣れた。その時よりもいくらか大人びた、しかし冷然とした表情だけはあの頃から少しも変わっていない同僚の顔。“CP9”至上最強と讃えられる男。歯を剥き出しにして、ジャブラは哂う。
「懐かしいなァ、ルッチ~……ずいぶんなご挨拶じゃあねェか。ああ゛?」
「貴様のバカ顔は変わらんようだな、ジャブラ」
互いに鼻を鳴らし、戦闘態勢を解いて距離を取る。
元より挨拶代りの分かりやすい奇襲程度で、本気になるはずもなし。
甲板に、二人の他に人影はない。ガリガリと頭を掻きながら、ジャブラは憮然とした調子で問う。
「でェ? なんでルッチがいやがる。おれァなんも聞いてねェぞ」
「知るか。ほとんど連絡を入れてもいない貴様の自業自得だ」
「おれの所属隊、やたら目端の利くジジィの下なんだよ。んなホイホイ連絡できっか。
――んで? わざわざ接触してきたんだ。何か用件あるんだろ」
“CP9”は政府の影。
隠密裏に事を運ばなければならないのは言うまでもなく、いくら一人でいるからとはいえ、潜入任務中の同僚にこんな堂々と接触しに来るなど、ジャブラにとって予想外もいい所だ。
当然の疑問に、ルッチが苦虫を噛み潰したような顔になる。
「天竜人の護衛だ。貴様と合流し、同じ任務に付かせるようにとの命令が出ている」
「マジかよ」
頭おかしいんじゃねェの、という台詞を辛うじて呑み込むも、ジャブラの表情はそれをありありと語っていた。
そもそも“CP9”の仕事は暗殺と諜報で、間違っても護衛ではない。
戦闘能力が高ければいいというものではない。求められる資質と技能が違うのだ。
お門違いも甚だしい任務。ルッチがぎろり、とジャブラを睨む。
「貴様のせいだぞ、ジャブラ。
再三の帰還命令を無視しているだろう。連れ帰るついでにと捻じ込まれた任務だ。何か弁明はあるか」
「マジかよ」
若干恨みの籠ったルッチの視線に、ジャブラは呻いた。
はぁああああ、と溜息をついて、ジャブラは苦い顔のまま降参、とばかりに両手を上げて見せる。
「長官にゃ言ったはずだがなァ……。
あのな、おれァ五年も旭で潜伏任務してんだ。
仲間が姿を消したとなりゃ、街一つ焦土にしてでも探し出そうとするのが頭領なんだよ。
ある程度手の内は知られてるから簡単に足抜けできやしねェし、早々に騙されてくれるほど甘くもねェ。
下手すりゃマリージョア襲撃よ再び、だ。おいそれと帰れる訳ねェだろーが」
「知らんな。俺は命令に従うだけだ」
ルッチの返答はにべもない。
「長い任務で情でも移ったか?」
「……おいルッチ、しばらく会わねェ間に頭でも可笑しくなったか?
おれァ諜報部員だぞ。それで仕事ができる訳ねェし、そもそも、海賊連中の何に情を移せってんだよ」
トントン、と自分の頭を叩きながら真剣な顔で心配してみせるジャブラに、ルッチの眉宇がぴくりと動く。
しかし、ジャブラの言葉に不快を覗かせたのはほんの一瞬。
挑発を綺麗に黙殺して、ルッチは元通りの、しかし先程より一段階低い冷徹な声音で続ける。
「……革命軍の動きが活発でな。人手が足りん。引きずってでも連れ帰れと言われている」
ルッチがゴキリ、とわざとらしく腕を鳴らす。
発言内容こそ冗談めいているが、その目は限りなく本気だ。そもそも冗談を口にするようなタチの男でもない。獲物を前にした肉食獣のような目をする同僚に、ジャブラは面倒臭そうに肩を竦めて頷いた。
「へーへー。ご命令通りに致しますよっと」
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