船室に、電伝虫のプルプルプルという鳴き声が途切れる事無く木霊する。
どれほどの間そうしているのか。うんざりした様子で鳴き続ける電伝虫を、老婆が難しい顔で睨んでいた。
「うーむ……」
「入るぞ、グロリオーサ」
「む。ウィリアムか」
「……まだ繋がらないのかね」
開け放たれた扉から顔を覗かせたのは、重たげなライフルを肩に担いだ老翁だった。
それに「うむ」と重々しく頷いて、ニョン婆は電伝虫を止める。老翁に続いて、ぎゃあぎゃあと言い争いながら美しい女性と手長族の青年が入室する。老翁が「喧しい」と一喝して、二人の頭にライフルの銃床を見舞った。
ごごん、と鈍い音が船室内に響く。揃って頭を抱えた二人に、ニョン婆は「懲りんのう」と溜息を零した。
「これハンコック、ユーデル。言い争うニョなら被害報告を終わらせてから外でやらニュか」
「わらわのせいではないぞニョン婆! こやつがつっかかってきたのじゃ!」
「はァ!? 悪いのはてめぇだろうがよ! つーかテール爺さんとニョン婆も言ってやってくれよ!
こいつ、さっきの戦闘でウチの隊の連中もまとめて石にしやがったんだぞ!?」
「終わった事をぐちぐちと……。みな許したというに、心の狭い男じゃ」
「だ・か・らっ! 毎度毎度味方まきこむなっつってんだよ聞けやクソ女ぁああああ!!!」
「ふっ……美しいものに見惚れるのは自然の摂理。
わらわの魅力が留まるところを知らぬのだから、それは致し方ないことであろう」
「あ゛あ゛あ゛あ゛うっぜ! うっぜー!!」
ふふんとドヤ顔で胸を張るハンコック。
殴りたさに両手をおののかせながらユーデルが叫び、テール翁は心底うんざりした顔で鼻を鳴らした。
「自分から石になりに行く阿呆もいるのだから、こればかりはどうにもならんと思うがね。
――それに、だユーデル。ハンコックより賞金額が低くなったからと言って突っかかるな、見苦しい」
「ちちちちちげーし!? おれっち別に気にしてねーし!」
「そうじゃな。わらわの方が強いのは分かり切っておるのだから、今更気にする事でもあるまい」
「んだとやるかゴルァ!!!」
「喧しい! 二度言わせるな阿呆共!」
先程より重たい音が船内に響いた。たんこぶをさすりながら、「何故わらわまで殴られるのじゃ……!」と憮然としながらハンコックが抗議する。「挑発した以上同罪だ、馬鹿め」と切り捨てて、テール翁は鼻を鳴らした。
「それで、被害状況はどうであったニョじゃ?」
「……うむ。死者や重体の者はおらぬが、六人重傷が出たの。
他はほとんど軽傷じゃったが、医療部隊から安静を言い渡されたのも十八人ほど」
「んで、重傷六人のうち二人がロートとジェスな。副隊長やられて河彦のオッサンが静かにキレてた」
「そうか……じゃがまぁ、死人が出ておらんのは不幸中の幸いじゃニョ」
海軍がどのようにして、ログにないはずの彼等の仮拠点を察知したのかは分からない。
だが、彼等が頭領達の見送りを済ませた後、適当に海賊船をいくつか狩って戻って見れば襲撃の真っ最中だったのが現実だ。現在利用している仮拠点の島は、シャボンティ諸島攻略時には戦えない者達の待機所として利用する予定だった島でもある。それなりの戦力を島に残していた“今”だから良かったものの、これがシャボンティ諸島攻略の真っ只中での襲撃だったとすれば目も当てられない事になっていただろう。
「内部に、政府の鼠が紛れているかも知れんな」
「はァ!? 仲間を疑うのかよ、テール爺さん!」
「テール爺。おぬし、本気で言っておるのか」
テール翁の言葉にユーデルが声を荒げ、ハンコックが顔を顰める。
排斥される立場の者が多いからだろう。外に敵が多いぶん、日頃さんざん言い争っていても旭海賊団内部の結束は固い。だからこそ、仲間を疑う事に対する忌避感は大きかった。
「あくまでも可能性の話だ。……一時期を境に、海軍の追跡が正確になったろう」
「そうかぁ? 海軍が追っかけまわしてくるのなんざいつもの事だろ」
「いや、それはわらわも覚えがあるぞ。
待ち伏せて仲間を呼ぶやり口が、戦力を揃えて挑みかかってくるようになった」
ハンコックが、記憶を辿るように眉根を寄せて同意する。
気候も海流も安定せず、羅針盤が意味を成さないグランドラインで海賊団ひとつを追跡するのは至難の業だ。
それでも追跡や待ち伏せを多く受けているのは、頭領であるがマリージョアを半壊に追い込み、多数の天竜人達を黄泉路へ叩き込んだからだ。金と権力にものを言わせた人海戦術。
「あ゛―……? そうだったけか?」
「元よりお前の記憶力には期待していない」
唸りながら首を捻るユーデルを、テール翁が鼻で笑う。
青筋を浮かべてテール翁を睨むユーデル。ニョン婆が、肩を竦めて「まぁ、頭領が気に留めておらんかったしニョう」と相槌を打った。当時、前線に出ていた彼等だからこそ気付いた違和感。それは、頭領であるの圧倒的戦闘能力の前に叩き潰されるばかりではあったが、思い返してみれば確かな変化だった。
敵の戦力を把握し、位置を把握し、敵より多い戦力でもって囲い込んで叩き潰す。集団戦の基本だ。
想定外だったとすれば、の強さ。そして彼女以外にも多くの“戦力”が、旭海賊団に存在していた事だろう。奴隷の中には元海賊も含まれている。それを思えば当然の成り行きではあるが、奴隷落ちする海賊は、政府にとってさして“脅威”と見做されなかったような程度の者が多い。
「侮るのを止めたのだろう」というのが当時の、ニョン婆やタイガー達が出した結論だった。
「少なくとも位置情報は漏れているのではないかね。
このタイミングで仮拠点を襲撃された事、偶然で片付けるには些か不安要素が多い」
「テール爺さんの考えすぎだろ? うちは目の仇にされてっからな。
どうしても気になるんなら、海兵でえらそうなの締め上げて吐かせた方がいいんじゃねえの」
「虚言を吐くやも知れんぞ。同士討ちは御免じゃ」
仲間を疑う事に納得がいかないのだろう。あからさまに嫌な顔をしながらのユーデルの提案を、しかしハンコックが苦々しい口調で却下した。そんな若手二人に、テール翁は顎をさすりながら目を細める。
「何にせよ、我々だけで議論しても仕方が無い。頭領と副長の判断を仰ぐべきだろうな」
「アーロン達の戻り待ちかー。なぁニョン婆、まだ頭領に連絡つかねえのか?」
「うむ、電伝虫が繋がらんからニョう……何事もなければ良いニョじゃが」
四人の視線が、机の上に集まる。
音信不通の電伝虫は、間の抜けた顔で人間達を見返していた。
■ ■ ■
海軍本部大将“黄猿”。
ひょろりと細長い体躯に垂れた目尻、緊張感とは程遠い面差し。
戦いの最中にあっても自身のペースを崩さず、気迫や戦意を感じさせない姿は昼行燈の呼び名が相応しい――が、真実それだけの人間であるのなら、男は“大将”などと呼ばれているはずもない。
純粋な戦闘技能、身体能力もさることながら、真実恐ろしいのはその異能だ。
「これも避けるかい。まったく、二つ名通りのバケモノっぷりだねぇ~」
茶化すような言葉に反して、黄猿の表情は固い。
は応えない。黄猿の斬撃を泥土の刃でいなし、打ち合いながら間隙を縫って放たれる光線を、身体を空洞化させて逃す。刹那のタイミングで体を素通りしていった光線が地面を派手に抉った。
ロギア系“ピカピカの実”の光人間。
どれだけ身体能力を、動体視力を、異能を磨こうとも泥土であるが、“光”の速度に追いつく事は不可能だ。
光の速さは三十万km/秒。現在確認されている悪魔の実、その中で“最速”の称号に相応しいのはこの能力を置いて他にあるまい。光による移動速度を上回ろうと思うのなら、瞬間移動でも覚えなければお話にもならない。
けれど。
「化け物……」
“黄猿”と“リトル・モンスター”。
およそ平均、常識の範疇から数段上を軽々と行く彼等の攻防に参加できる猛者は、現在この場にはいない。
過ぎた恐怖は、逃げようとする意志すら奪う。成り行きを見ているしかないのは、偶然ここに居合わせた魚人達も、港の守護の為に存在する衛兵達も、任務の為に付き従ってここまで来た海軍兵士達にしても同じだった。
誰しもが動かない。動けない。常軌を逸した光景から、目を逸らす事ができない。
呆然と。恐らく無意識だろう、明確な恐怖を帯びた囁きが落ちる。
人型から泥土へ。
そうしてが造形したのは、傍目にも理解しやすい明快な“異形”の姿だ。
細く長く泥縄で編み上げられた、輪郭だけは人の面影を残した上半身。
その下肢は人間の原型すら残さず、蜘蛛に酷似した複脚は流動と伸縮を繰り返しながら現在の戦闘域における最適解を求め、変異を重ねていく。長くうねる髪と腕は半ば以上一体化して、何処から何処までが髪で、何処からが腕なのかも判然としない。融合し、癒着して混じり合い、そうして細分化されて鋭利な刃を模した触手は、末端まで統制された正確さで目前の敵を絶え間なく苛む。
戦闘特化――“キメラ”形態。
少女めいた人間形態は、油断や侮りを誘うには適してはいても、戦闘には向かない。
泥土の性質を持つからこそ、リーチは補える。それでも細い肢体に短い手足、薄い胴体。
成長期を終えてなお、お世辞にも戦う者とは呼べない貧相極まりない肉体。いっそ泥団子状にでもなった方が余程戦い易いというものである。だからこそ模索し、追求した果ての、勝利の為の“定型”。
が負けるというのは奪われるという事だ。収奪を許すという事だ。
蹂躙を、屈辱を、絶望を。底辺を這い蹲り石を投げられる、人間以下の日々へと追いやられるという事だ。
だからには油断も、慢心も存在しない。“敵”は殺す。全力で以って磨り潰す。完膚なきまでに叩き潰して壊して砕いて裂いて殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くす。
たかだか光の速度。
たかだか海軍本部大将。
その程度で敗北するなど、に――旭海賊団頭領“リトル・モンスター”に、許される事ではない。
「――、――――」
たん、たん、たん、とん。
リズムを刻む。呼吸を写す。行動を支配する。
強者であればある程に、戦いの最中にあって尚、個々に在る独自のリズムは崩れない。
呼吸、衣擦れ、鼓動、空気の流動。五感で感じる要素総て。
見聞色の覇気を用いての“先読み”、そこへ読み取った情報を組み合わせれば、数手先まで読み通せる。人垣の存在もあり、黄猿の行動制限は考える以上に容易かった。
泥土の刃と光の剣が交差する。余波が大気を震わせ軋み、地面へ無数の穴を穿つ。
光は本来、実態を持たない。それを攻撃手段に用いようと思うのならば武装色の覇気によるコーティングだけでは不足だ。光の収束及び物質化。否、収束に伴う熱が、それを物質と錯覚させ得るのか。何にせよ、どういう理屈で成り立たせて扱っているのかはの知るところではない。黄猿と違い、に剣術の心得は無い。ただ触れるものを裂く。それだけの稚拙極まりない刃。
斬り捨てられる。
叩き落される。
受け流される。
いなされる。
傷を与えるにも至らない。無為にも思える攻防。
それでも今や輪郭しか残さない泥土の面差しは、その感情を読み取らせない。
間隔を空けず、絶え間なく、ただ捌かれ続けていようとも機械的に泥土の刃は、槍は、触手は、真正面から/背後から/横合いから/上下左右四方八方、あらゆる角度から――時に死角を縫って黄猿へと殺到する。
黄猿にとって救いがあるとすれば、間合いへの侵入を許していない事か。
けれど、それは見せかけの希望だ。
確実に、着実に、正確に。間合いを削り、包囲を狭め、詰め将棋のように淡々と。自身が追い込まれている事を理解できない程、黄猿は愚かではない。それでも、なおも余裕の表情を保つ黄猿の双眸に、焦燥が過ぎる。
「ッ――」
斬り結んだ先から泥土の刃が断面を晒す。
ずるりと滑り落ちる末端を肉体の一部から“純粋な”泥へと置換。ふるりと解けて液状化した泥は、地面へ落ちる前に伸びた触手に取り込まれて還元された。溜め込んだ質量は一グラムたりとも無駄にはできない。
これが魚人島でなければ気にする必要はなかっただろう。砂漠や極寒の地のように極端な気候でもない限り、基本、地面はにとって身体の一部だ。
「……」
この国は海底にある。珊瑚礁の岩盤、そして――海水を多分に含んだ泥砂の大地。
能力者は、海水に触れると力を奪われる。もその例には漏れない。リュウグウ王国の大地は、の支配が及ぶ範囲外だった。能力の制限。小賢しい、と苛立たしげに頭の片隅で声が憤慨する。
だが、地面を味方にできないのは海戦でも同じ事。気に留める程の小細工では無い。
模造された上半身。本来ならば顔の収まるべき場所へ、光線が続けざまに叩き込まれた。
ぱかりと割れた顔の中を、高温の白熱が通り過ぎる。過ぎった熱の余韻が泥土の肌を焼く。流動する身体は乾く事無く、微かな熱は散らされて消えた。
広げた感覚器官の只中で閃く光の剣閃を、泥土の刃で受け流す。
僅かな動揺の気配。その反応に、頭の中で嘲笑が響く。何を驚く事があるだろう。攻撃の範囲と間合いは斬り合いの中で把握した。黄猿の剣はの泥土と違って伸縮自在な獲物でも無い。
斬り込みの角度、力の加減、方向。既に交えた数は数十に上る。
何も剣士を相手取るのはこれが初めてという訳でも無し。
それだけ情報と経験があれば、受け流すくらいにもできる。
鈍った動きはそのまま隙だ。覇気を纏った泥土の槍が、黄猿の肩を貫いた。
「ぐっ……!」
呻きが零れ、泥土が半ばから断ち切られる。繋がりを失う直前の置換。血と入り混じった泥が黄猿の肩口を汚す。持って行かれた質量は微小。損害は軽微。攻め手を緩める程では無い。
足元から/背後から/頭上から/真正面から泥土の刃が首を、足を、胴を、背を切り裂かんと殺到する。
「 、」
本能が警句を発した。
勢いの乗った刃を直ちに引き戻す事は不可能。質量を解体/細分化/変形。末端を可能な限り最小へ。音も無く、圧倒的熱量の前に水分が沸騰、蒸発する。回避/置換し損ねた肉体の一部が灼ける。自身の身体を光線と化し、黄猿が泥土の檻を抜ける。感慨は無い。あれはピカピカの実の“光人間”。その肉体は須らく光へ変換可能なのだ、むしろとしては何故人の形に拘るのか――そちらの方が不可解である。
人から光へ。上空へと逃れた黄猿の姿が変じる。光速での移動で攪乱、体勢を立て直して攻め直す積もりか。だが、それは悪手だ。光の移動速度は驚異。追い付こうなど愚の骨頂。枝分かれした複脚が大地を抉る。濛々と土煙が舞い上がり、の姿を覆う。伸ばした触手を手繰り、衛兵達の腰から剣を拝借する。
光は直線距離でしか動けず、その進行は土煙にすら遮られる。
そして、光は反射する。悪魔の実の能力である以上、任意で反射角、進行方向を調整する事も可能だろう。
だが。の泥土が、熱を与えられればただの砂と化すように。例えばエネルの雷が、絶縁の性質を持つゴムに通じなかったように。ただの水を含ませるだけで、クロコダイルの砂に攻撃が通じるように。
悪魔の実に与えられた異能といえど、その性質は物理法則に添う。
だからは、拝借した剣を投擲した。黄猿に向けてではなく、その上へ。そして四方へ。
ブーメランのように旋回/あるいは落下する複数の刃。磨かれた刀身は鏡と同じ。
完全な反射で無くとも、挙動を制限するにはそれだけで十分だった。
光の移動速度は最速。
その絶対的な前提は覆らないが、ここで一つ疑問がある。
光速での移動中に、その反射角を変えられたとして。想定とは違う場所へと誘導されたとして。人間の思考速度と状況把握能力で、それを認識できるのは一体どのタイミングになるのか?
黄猿の表情が崩れる。失態を悟って、取り繕われた余裕が消える。
それを補足しながらは理解する。思惑と違った反射を経ての次点。成程、其処が思考速度/把握の追い付く最短。補足し、理解し、把握した。ならば詰みだ。
赤い雨が降る。
腕を失くし、腹を裂かれて黄猿が地に墜ちる。周囲から悲鳴が上がった。
完全に体勢を崩しての自由落下。それでも転がってダメージを逃す姿に、は驚嘆の吐息を漏らす。手心は加えていない。確実に仕留めるつもりだった。回避できないと確信していた――だと言うのに決定的な致命傷を避け、なおかつ落下のダメージを少しでも軽減しようと動いて見せた。初めてだ、こんなにもしぶといのは。
血塗れで地に伏せてこそいるものの、には分かる。
あれはまだ死んでいない。意識を飛ばしていない。戦意を喪ってすらいない。
未だ、を殺すタイミングを計っている。
これが海軍本部“大将”。
これが、――“原作”で語られる“実力者”。
「……強かった、よ」
敗者への嘲りも、侮蔑も。
“敵”に対する憎悪すら含まず、は囁くように賛辞を呈する。
淡々と、感情の波を見せない、凪いだ声音。
何処までも純粋で含みの無い称賛は、紛れも無く本心からのものだ。
ぎちぎちぎちぎち。泥土が軋む。刃が哭く。
無造作に、触手が剣を四本投擲する。
風切り音を立てて投げられたそれは、回転しながら放射線を描く。
強かった。
凄かった。
でも、“敵”は死ね。
四本の剣が飛来する。黄猿の真上へ。手足を縫うべく殺到する。
黄猿は動かない。泥土のギロチンが、その首を落とすべく振り下ろされて。
「え……」
「な……」
「王妃様……!?」
人垣から、魚人達とも海兵ともつかぬ動揺の声が上がる。
凍り付いていた人々が動き出す。にわかに周囲が騒がしくなる。状況の掴めない人々を横目に、はひとつ、瞬きを落とした。とはいっても、現在のに瞼も眼球も存在していないので感覚的なものでしかないが。辛うじて存在する眼窩を模した虚ろが二つ、眼差しさながらに目の前の光景へと向けられている。
飛び出してきたのは知っていた。こちらへ向かっているのも理解していた。
手を打たなかったのは、その必要を感じなかったからでしかない。
が泥土のギロチンを止めていなければ、ここには死体が二つ出来上がっていただろう。
地に伏す黄猿へ覆い被さり、庇っているのはこの国の王妃だ。
謁見の際はまともに顔も見ていなかったが、周囲から上がる声を聞く限り間違いはない。
どうして止めた、と頭の片隅で怨嗟の籠った声が唸る。の回答は単純だ。タイガーが。船員達が、あれは殺しては駄目だと言ったからだ。それ以上の理由は無い。怨嗟が酷い。脳内に木霊して反響する声に耳を傾けながら、王妃の様子を観察する。その肩には黄猿を縫い止めるはずだった剣が一本、突き刺さっている。
それだけで済んだのは体格差、そして何より庇われながらも黄猿が剣を弾いたからだ。刺さった一本にしても、貫通こそしているが致命傷とは呼べない。
「――きゃあああああああ!」
ようやく事態を理解したのだろう。人垣から悲鳴が上がった。
肺の奥から深く息を吐き出しながら、黄猿がごろり、とオトヒメの下から転がり出る。その意識は依然、を捉えている。覇気を使って負わせた傷は、ロギア系であってもダメージ無効とはいかない。動かないのは、少しでも体力を回復しようとしているからだろう。まだ敵は残っている。あまり回復されると厄介だ。
「オトヒメ王妃が傷を!」「医者だ、医者を呼べ!」とめいめいに騒ぎ立てながらも、黄猿やの存在があるからだろう。不自然に遠い人垣は、少しも狭まる気配を見せない。
肩を貫通する剣を傷口ごと抑えて、荒く息を零しながらオトヒメがを見上げた。
読み取れるのは恐怖。
そして、それを遥かに上回る強い意志。決意。
信念と呼ぶに足る、確固たる“ナニカ”。
“キメラ”形態は戦闘特化だ。
それは性能のみならず、外形的な意味も含む。以前の娯楽に満ち溢れた世界とは違う。この世界において、は自身の今の姿が見る者に多大に恐怖をもたらし得る事をよく知っていた。それは魚人とて例外ではない。
黄猿すら、この形態へ変化した瞬間その異質さに先手を許した。
泥土の刃の形状を変える。分割/細分化/変形。ギロチンから無数の槍へ。
しかし黄猿に狙いを定めるより、オトヒメが口火を切る方が先だった。
「勝敗は決しました。これ以上の争いは、不要でしょう……!」
「――」
ぱちり。は瞬きを落とす。
オトヒメが、本気で言っているのは分かる。真剣なのも分かる。
が動きを止めなければ。あるいは黄猿が剣を弾き損ねても、死んでいたかも知れないのだ。
あの状況に乱入して見せたというだけで、その行為は是非はどうあれ讃えられてよい肝の座り具合だ。自殺志願者なのだと言われた方が、まだ納得できる程度には無謀だった。
発言内容は分かる。
しかし、意図が理解できない。読めない。
目の前の女が何を言っているのか。には、ほんの少しも理解できない。
「……あなたの心の叫びは、私の胸にも届いています。
この方の次は、海軍の方々を。そして、天竜人を……殺すおつもりなのでしょう」
厳密に言えば、海兵は船員達の獲物である。
天竜人を殺す事は譲れないが、とて手当たり次第に殺している訳では無い。
あまり手柄首を減らすと、暴れ損ねた船員からのブーイングが飛ぶのだ。手強い“敵”さえ殺してしまえば、後は別に生死をとやかく言う気は無い。
“無暗に殺すな。”
タイガーから、ニョン婆からも。時には船員達にさえ。
はその言葉を、聞き飽きるほど繰り返し説かれている。
「どうか、これ以上争うのは止めて下さい。
海賊であるあなたにとって、海軍が相容れないのは分かっています。けど、何も殺す必要はないはずです。
幼い子ども達もいるこの場で、これ以上血を流すのはお止めになって。
私はあの子達に――いいえ。あの子達だけでなく、この場にいる国民達にも。
人間を、怖いものだと思って欲しくはないのです」
真っ直ぐに、を見据えてオトヒメが訴える。
真摯な。そして、とても身勝手な訴えだ。
殺そう/だめ/殺せ/殺すべき/不許可/殺したい/殺して/怒られる/殺そう/殺す/……――
声が響く。呪詛が叫ぶ。怨嗟が脳髄を染める。
ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち。
槍を模した泥土が軋む。軋んで哭いて変異する。より凶悪に。より殺し易く。周囲で喚く声が煩い。幾つもの声は恐怖の悲鳴と相まって、何を言っているかには聞き取れない。
「……私も、殺しますか?」
“敵”ではない。
だが王族だ。天竜人の同類だ。
殺してくれるなと、他ならぬタイガーに嘆願されてさえいなければ“敵”に次いで殺しておくべき生き物なのだが。黄猿に意識の焦点を合わせたまま、は思考を巡らせる。
黄猿は殺したい。しかし、それには身を挺して庇うオトヒメが邪魔だ。
引き離せばそれで済む話ではあるのだが、正直「うっかり」力加減を間違える可能性が極めて高い。
もう殺して良いのではないか、と嘯く声。
けれど、ここはタイガー達の故郷だ。産まれ育った場所だ。
滅んだ訳ではない。誰もが死に絶えた訳でもない。
だというのに、確かにある故郷に拒絶され、立ち寄る事さえできない事。懐かしい人に会えない事。
それは、失うのと同じ事だとは思う。
生きているのに、二度と会えない。言葉を交わせない。
ただ、無事だと。心配いらないと。それすらも伝えられないのは。
とても。
かなしくて、さびしい。
ぱちり。はひとつ、瞬きを落とした。
異形が解ける。融解する。ぐちゃり、と粘土細工のように歪んで捻じれ、一塊になった泥が人の形を造形する。泥土の肌が色彩を帯びる。――醜悪に軋む泥土の異形を片腕に宿したまま、は人間の姿になった。
ぱちり。瞬きをまたひとつ。ゆるりと、陶器の面差しにやわらかな微笑みが浮かぶ。
悍ましい、殺意を形にした腕とはまるで真逆の笑みだった。いっそ無垢ですらある、花の微笑み。
「――だいじょうぶ」
穏やかな。
日頃の平坦な声音が嘘のような、ひどく優しい声音だった。
喧騒が止む。しん、と静まり返る荒れ果てた港に、の声が朗々と響く。
誰もが呆気にとられている。先程までの光景が、夢か幻だったのかとでも錯覚する程度には、の変貌ぶりは異常だった。周囲の、そして対峙するオトヒメの思考を置き去りにしたままでは語る。
「怖ろしいと感じるのなら、それを耐える必要はないの。
怖ろしいと感じるものから、遠ざかるのは正しいの。
その場だけ取り繕って、覆い隠して――それは無知を生むだけでしょう。
学ばなければ繰り返される。知らなければ餌食にされる。
守るべきものは、きちんと決めておかないと……簡単に無くしてしまうよ?」
駄々をこねる妹に対する姉のような、幼子を相手にした母のような。
柔らかに優しい声音で、はオトヒメに。周囲に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
状況に理解が追い付かないまでも、それでも言葉を拾い集めたオトヒメが、てのひらを握り締める。血の気が引くほどに、強く。強張った表情で、真っ直ぐにを見据えて問う。
「……人間を怖れるのが、魚人の正しい在り方だとおっしゃるの?」
「ふふ」
微笑ましい、と。
いっそ慈愛すら含ませて、が笑う。
「恨むこと、憎むこと、呪うこと。すべて、あなた達の正当な権利でしょ?」
オトヒメが息を呑んだ。
え、と。誰かが声を漏らす。
「“魚人”は“人”だと認められて。
それでも未だ、あなた達は罪科無く奴隷に落とす事が許されていて。
この国さえ、海賊から守っているのは“白ひげ”の海賊旗で――海賊の行き来が多い場所なのに、海軍の駐屯地なんて何処にも無くて。無法を働くものから、自分達で身を守るしかなくて」
唄うように、謳うように。
溶けて蕩けた青磁色の双眸に、オトヒメを捉えたまま。
底無しの泥濘へ。彼女の魂、その信念まですべてを呑み込もうとするかの如く。
哀れむように、悼むように。の言葉が、聴衆の思考を絡め取る。
「不思議ね。ただ、そう決められているだけなの。
守る必要のないものだって。世界が。政府が。天竜人が決めただけなの。
大切なものが失われても、守ってくれるのは仲間だけで。
大事な人が奪われても、取り戻す事を許されなくて。
伸ばした手が踏み躙られる事を、不条理を世界が肯定していて。
……あなたが手を差し伸べているものはね、オトヒメ。あなた達を貶め、追い立てるモノよ?」
「ッそんな事は無い!」
聞くに堪えないと言わんばかりに、人垣から悲鳴染みた否定が上がる。
縋るように海兵支給の銃を抱え込んで、泣きそうな顔で転がり出てきたのはまだ年若い海兵だ。
ぎりぎりと歯を食い縛ったその顔は、嗚咽を堪えているようでもあり、怒りの形相のようでもある。
「――」
の唇が歪む。
一瞬。オトヒメから逸れた眼差しが、どろりと澱む。
「海軍は、俺達は“正義”のために戦っている!!!
罪無き人々を! 民間人を守るために! そのために海軍はあるんだ!!
不当な扱いを受ける人を見捨てるような真似、するはずがない!!」
「そう」
海兵にすら、返す言葉は柔らかい。
不自然なまでに穏やかな。柔らかな声音が、睦言の甘さを含んで囁く。
「でも。天竜人の非道は、見逃すのでしょう?」
沈黙が落ちる。
ヒュ、と海兵が息を呑んだ。
誰も、二の句が告げない。否定できない。
海兵が、頭を抱えて膝を折る。罪から逃げようとするように。神に懺悔する囚人のように。
だってつい先程だ。が来る前。彼等は天竜人の非道を許した。見過ごした。しかたのないことだと、諦めた。諦めて見捨てた。何の罪もない魚人を!
は瞼を伏せる。悲しむように。蔑むように。
嫣然と孤を描いた唇が、やさしくやさしくオトヒメに、人々に告げる。悪意を煽る。
憎め。恨め。呪え。それこそがあるべき姿なのだと、報復こそ正しいのだと。あまやかに毒を注ぐ。
「か弱い誰かを守るために。虐げられる人達を守るために。
……ほら、ね? みんな口先だけ。だぁれも、助けてくれないのよ」
オトヒメの表情が、憂いに翳る。
きゅう、と引き結ばれる唇。
頭を垂れて俯いたオトヒメの姿に、の口元が三日月に歪んで。
「――……それでも。私は、手を差し伸べたいと思います」
祈るように。
誓うように。
オトヒメが、静かに顔を上げる。
先程まであった憂いなど一欠けらも無い。
真摯に真剣に、ただ誠実に。
強い決意を秘めた瞳が、星のように輝く。
「逃げて、隠れて、諦めて。それで一体、何が変わるというのでしょう。
勇気を出すのは難しい事です。大きな力の前で、屈する事もあるでしょう。
差し伸べた手が、払いのけられる事もあるでしょう。
でも、それでも……なにもしなければ、何も変わらないのです!!
変えようと! 変わろうと望むのならば……欲しいものがあるから!! 子ども達に、みんなに! もっと広い世界を見せてあげたいから! タイヨウの下で生きる未来をあげたいから!! もっともらしい理由をつけて、自分を納得させて諦めるなんてしたくない!!!!」
傷口から血が滲む。
未だ、オトヒメの肩を貫通したままの剣。
痛くないはずもあるまいに、オトヒメは叫ぶ。
頬を上気させ、息を弾ませて。希望に満ちた理想を叫ぶ。
「私は……! 人間達と共に生きる未来を、諦めたくない!!」
の顔から笑みが消える。
すとん、と綺麗に感情が抜け落ちる。
甘く。毒を滴らせて蕩けた双眸が、ぐちゃぐちゃに塗り潰されて闇に染まる。
異形の腕が歓喜に啼く。
「――じゃあ、その妄想を抱いて死ね」
無機質な宣告。
悲痛な絶叫が、破壊された港に響いた。
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